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山と建築Vol.2『里山の再生とその未来』


里山の再生とその未来

山と建築シリーズ第2弾

本体価格1,000円(税込価格1,080円)

豪雪地帯に息づく暮らしとその建築から、荒廃した日本の里山の再生の可能性を探る

豪雪地帯の暮らしと独特の住宅建築を紹介!

 


2010年6月発行
ISBN 978-4-904570-119-7 C0052
A4判70ページ
監修 土本俊和
信州大学山岳科学総合研究所 編
ISBN978-4-904570-19-7 C0052

里山シンポジウム2009柄山 より

■本書は2009年9月11日~12日の2日間に渡って開かれた「里山シンポジウム2009 柄山ー里山の再生とその未来」をもとに編集いたしました。

主な内容

●柄山熊野神社のケヤキをめぐって

信州大学人文学部人間情報学科教授 笹本正治

■「神の依る木」が教えてくれる、人と人、いのちのつながり

●イメージの中の里地・里山とエコロジカルな気候景観の評価

信州大学農学部森林科学科助教 上原三知

■地域に残る伝統的な気候景観の重要な意味とは?

●ブナとうまくつき合う方法

信州大学教育学部付属志賀自然教育研究施設 准教授 井田秀行

■森と人との持ちつ持たれつの関係を知ろう

●文化的景観とCultural landscape
-世界遺産の取り組みから

東京文化財研究所特別研究員 秋枝ユミイザベル

■世界遺産に見る里山の文化的価値とは?

●柄山の民家と里山
●大川のタテノボセをもつ建物

信州大学工学部 土本研究室

■ブナを使った雪国ならではの貴重な民家建築を探る

長野県飯山市柄山(からやま)は日本でも有数な豪雪地帯。この地域ではブナを使った豪雪地帯特有の特殊な家屋構造が見られ、古くから里山と人間との互いに利用しあう関係が育まれてきた。

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序 われわれはどこに行くのか?

信州大学工学部教授 土本俊和

荒野、森林、耕地、未開墾地は、人類が受け入れた分かつことのできない統一体として、人類の記憶にかかわる。この統一体は、自然のままの姿と人の手が加えられた姿の双方から
成る、人類の故郷である(A. Rossi, 1966)。
この故郷への記憶を人類は太古からもっている、と説かれる場合がある。はたして、そうか。もし、そうならば、人類はどのようにそれを承け継いできたのか。逆に、人類はそれをもっ
ておらず、それが話題にあがるとしたら、その話題は現代人による太古へむかう想像のみによるのか。

他方で、幼年期や少年期や青年期といった多感なときに過ごした景観が人それぞれにそれぞれの原風景となる、と説かれる場合がある。この景観は、人それぞれの成長に応じて、
個々の人の記憶として貯蔵される。幼年期からの記憶を、程度の差はあれ、人それぞれが保っているから、この説に疑問をはさむ余地はすくない。

とはいえ、『文学における原風景』で奥野健男(1926-1997)が説いたような、幼年期や少年期や青年期に過ごした故郷を縄文的世界に関連させて、故郷と縄文的世界の双方を原風景とする論点は、実証的な観点からみて、どの程度、妥当なのか。

このことを、われわれ日本人は考察せずにはいられない現実に直面してきた。というのも、分かつことのできない統一体が人の記憶になる前に、荒野、森林、耕地、未開墾地がはげしく変化してきたからである。高度成長期にみられた変化は、縄文から弥生への変化やその後の劇的な変化に比して、もっともはげしい。この時期、いたるところが開発され、景観が激変し、多種多様の機器が普及し、生活スタイルが激変した。日本人の平均身長がのびたのも、この時期であった。太古から現在までの巨視的な時の流れの中で、最大の節目となったのは、この20世紀後半であった。

縄文時代から高度成長期以前までにみられた共通点は、生まれるところが家であったことにある。病院は近代の産物である。人の生まれるところが病院の中になった結果、多くの人が病院で生まれる時代が到来した。
このほかにあげることができる共通点は、死ぬところが家であったことにある。家の中で死ななくても、家の近くで死ぬのが普通であった。家の中(たとえば畳の上)、あるいは家の近く(たとえば故郷や日本)で死ぬことがかないそうにない状況がもしあるとしたら、それは焦燥感や絶望感をともなった。一般に、なきがらの多くは、家の近くで葬られ、土葬であれ、火葬であれ、墓は家の近くにあり、火葬の場合、焼き場も家の近くにあった。亡者の霊は盆と正月に家の中にもどってくる、と信じられてきた。生まれること、そして、死にゆくことが、家の中、あるいは家の近くで、連綿と展開していた。生まれてから死ぬまで、水や木や土や陽の光や火の炎から恵みを、人は家の周囲から得ていた。この家の周囲は里山と一体をなす統一体であった。以上が、おおきくみて、縄文時代から高度成長期以前までの共通点であった。

上水道が普及する以前、里山から流れてきている水を生活に使っていた。その水をつい最近まで飲み水にも用いていたところや、その水で豆腐をつくって売っていたところもあった。石油が普及する以前、燃料は里山から得られる木であり、薪ないし炭にして家の中でもやしていた。船やトラックが建材を遠くから運んでくる以前、建材は里山から得られる大樹であり、家の近くで長い時間をかけて自然の中で乾燥させた後に柱や梁として使っていた。
家の周りでは、空からふった雨が流れ落ち、草木がのび、陽の光がひたたり落ちていた。家の中では、薪が煙となり、柱や梁をいぶしていた。その煙は、尾根にたなびく雲のように、屋根にたなびいていた。
このように想定される、縄文時代から高度成長期以前までの姿は、おおきく変貌した。この変貌と並行するかのように、生と死も再検討されるようになった。死についていえば、火葬のみを採用することにした現代日本では、骨の処をさだめようとしない散骨を人々が検討するようになった。現在、散骨を禁止する自治体(たとえば一部の北海道)もあれば、散骨を歓迎する地域(たとえば隠岐)もある。

われわれはどこから来たか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか。近代フランスの画家ゴーギャン(1848-1903)は、南仏アルルでのゴッホ(1853-1890)との共同生活に別れをつげた後、タヒチにむかった。ゴーギャンがこの問いをあつかったのが、ブルターニュでの喧嘩で負った踝の傷をひきずって再び訪れたタヒチであった。
われわれ日本人は、このような問いをもったなら、里山について考えるのがよい。
***

国破れて山河あり。そのとき、里山は、どうだったのか。

敗戦直後の1946年、桑原武夫(1904-1988)は「第二芸術.現代俳句について.」を雑誌『世界』に提出した。これを含めた一連の文化論は、今日、桑原による第二芸術論として位置づけられている。日本の伝統的な定型の短詩型である俳句の根底をゆるがしたのが桑原「第二芸術」であった。この桑原が敗戦後のまもないころに十数年ぶりに再読、激賞した詩集がある。それが、伊東静雄(1906-1953)の『わがひとに与ふる哀歌』(1935年)であった。

後に編まれた『伊東静雄詩集』は、この『わがひとに与ふる哀歌』からはじまる。手にとりやすい文庫本でみたとき、新潮文庫の桑原武夫・富士正晴編『伊東静雄詩集』(初版1957年)と岩波文庫の杉本秀太郎編『伊東静雄詩集』(初版1989年)の間にあきらかな差異がある。それは、『わがひとに与ふる哀歌』の中の挿絵の有無にある。挿絵を、前者は割愛し、後者は割愛しない。ジョバンニ・セガンティーニの絵画五点をのせるのは、岩波文庫である。岩波文庫『わがひとに与ふる哀歌』は、編者である杉本秀太郎(1931-)により、もとの詩集の体裁がそのまま踏襲された。
杉本は、挿絵のことについて「解説」で、「伊東静雄は二十四歳のとき、ジョバンニ・セガンティーニ(1858-1899)の画集を手に入れ、愛蔵していた」と記し、「この画集がなかったら、『わがひとに与ふる哀歌』という詩集は実現しなかったにちがいない」と記す。そして、この詩集の中の「曠野の歌」について、「セガンティーニはアルプス山上に小屋を造って住み、山岳画あるいは高地の山村風景画、牧羊の老若男女の風俗画に一新境地を拓いたが、「曠野の歌」は、そういうセガンティーニの画面から多くを盗みとったうえで作られている」と記す。

他方、桑原武夫は、今西錦司(1902-1992)や西堀栄三郎(1903-1989)とともに京都大学山岳部出身の登山家であり、1958年には京都大学学士山岳会の隊長としてパキスタンのチョゴリザへの初登頂をこころみ、成功にみちびいている。
以上をふまえるなら、『わがひとに与ふる哀歌』は桑原に評価されたのであり、その中の一部はセガンティーニからみちびかれた、といえる。ジョバンニ・セガンティーニも桑原武夫も、ともに山に関わりのふかい人物であった。この意味で、『わがひとに与ふる哀歌』は、その一部が、山の人から導かれ、山の人に評価された、といえる。
では、「曠野の歌」の前に、「鶯」をみたい。
***
鶯  (一老人の詩)
(私の魂)といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう
.幼かつた遠い昔 私の友が
或る深い山の縁へりに住んでゐた
私は稀にその家を訪うた
すると 彼は山懐に向つて
奇妙に鋭い口笛を吹き鳴らし
きつと一羽の鶯を誘つた
そして忘れ難いその美しい鳴き声で
私をもてなすのが常であつた
然し まもなく彼は医学校に入るために
市(まち)に行き
山の家は見捨てられた
それからずつと.半世紀もの後に
私共は半白の人になつて
今は町医者の彼の診療所で
再会した
私はなほも覚えてゐた
あの鶯のことを彼に問うた
彼は微笑しながら
特別にはそれを思ひ出せないと答へた
それは多分
遠く消え去つた彼の幼時が
もつと多くの七面鳥や 蛇や 雀や
地虫や いろんな種類の家畜や
数へ切れない植物・気候のなかに
過ぎたからであつた
そしてあの鶯もまた
他のすべてと同じ程度に
多分 彼の日日であつたのだらう
しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた
***

「或る深い山の縁(へり)」に彼が住んでいた「山の家」は、その後、見捨てられたものの、そのまわりには、様々な動植物や多様な気候がみられただろう。そこに、いまの日本人がいう里山がみえるし、いまの日本人がいう民家がみえる。「曠野の歌」は、近景に里山と民家を暗示するばかりでなく、そのむこうの弔われるところを、さらにむこうの山岳稜線を、えがく。
***
曠野の歌
わが死せむ美しき日のために
連嶺の夢想よ! 汝(な)が白雪を
消さずあれ
息ぐるしい稀薄のこれの曠野に
ひと知れぬ泉をすぎ
非時(ときじく)の木の実熟るる
隠れたる場しよを過ぎ
われの播種く花のしるし
近づく日わが屍骸を曳かむ馬を
この道標はいざなひ還さむ
あゝかくてわが永久の帰郷を
高貴なる汝(な)が白き光見送り
木の実照り 泉はわらひ……
わが痛き夢よこの時ぞ遂に
休らはむもの!
***
「永久の帰郷」が「屍骸」のゆく方向をさししめす。「永久の帰郷」は死であり、死からはじまり、死でおわらない。しかし、いまの日本人の多くにとって、死はかならずしも「永久の帰郷」にむかわない。
『わがひとに与ふる哀歌』がコギト発行所から刊行されたのは、昭和10年(1935)であった。
敗戦直後の昭和21年(1946)に現代俳句の芸術性を桑原が問うたとき、そもそも里山という言葉がなかった。いま、里山という言葉がある。かつて、里山と了解される大地は日本のいたるところにあった。この大地がつちかわれなくなりはじめたのは、およそ昭和35年(1960)ころからであった。この大地へ、「曠野の歌」がえがいたように、自己の死をこえた永久が、山岳稜線とともに、想い込まれていた。われ死して里山あり。

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山と建築シリーズ

厳しい気候に建つ山岳建築。
その風土と共存した建築をスイスと日本を例に挙げて紹介する

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