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千枝子先生の恋文


戦時下を駆け抜けた女教師の愛

岡部千枝子/著

装幀:酒井隆志

1996年11月30日発刊
四六判・272ページ
本体価格1,748円+税(税込1,835円)
ISBN4-900918-05-9 C0095



★著者プロフィール

44通の手紙に込められた戦時下の青春

本書は、岡部千枝子が、昭和16年から約1年間、婚約者である井出重蔵へ宛てた44通の手紙を再現したものである。

毎日出かける時には机の前に座って
お写真に御挨拶するのですけれど、
今朝はどうしてもお写真がすぐしまへないんです。
時間の遅れるのが気になりながら、
いつまでもいつまでもお写真を見て居りましたの。

唯、盲目的な従順が女の幸福を得る道であるならば、
又、お互の才能を相殺させてしまふ様な結婚であるならば、私はしたくない――。

序 同時代人として
小林登美枝

岡部千枝子さんの書簡集のことで、佐々木都さんからお電話をいただいたのは、八月初旬のことだった。
佐々木さんは電話のなかでたいへん熱心な口調で、岡部さんについて、さらにわたしが以前佐久でお目にかかったことのある丸山正俊さんが、岡部さんの教え子だったことなどを説明して、おふたりが書簡集上梓に尽力していることを話され、その上で書簡集への序文を乞われた。
岡部千枝子さんのお名前をはじめて耳にするわたしのような者が、その任にあらずとは思ったが、やがて送られてきた略年譜と書簡全文を机上に置いたとき、わたしは千枝子さんとの不思議な接点をおぼえたのである。
そのあと、丸山正俊さんから岡部一家の写真、千枝子さんと友人たち、井出重蔵さんの写真などが送られてきた。写真のなかにいるのは、まさにわたしと同時代の人びとである。
千枝子さんの着ている大柄の対の羽織と着物は銘仙ででもあろうか。一重瞼のなかに思いつめるかのような目なざし、結んだ口元に浮かぶ怜悧な表情は、千枝子さんという女性の資質をもの語っている。
こんなひたむきな聡明さを、けなげに包みこんだ少女像に、昔はときたま出逢ったものだった。大正七年生れの千枝子さんより二年早く生れたわたしは、彼女の写真の面影に旧知の友だちを見るような懐かしさをおぼえた。
小学校時代、「神童」といわれた明晰さとともに、やがて文学への関心をつよくもつようになった千枝子さんは、ゆたかな感受性の持主だったにちがいない。略年譜の中に、隣村出身の詩人三石勝五郎に傾倒し、師事していたとあり、それが上田実科高等女学校専攻科在学の十八歳のころであることを思えば、千枝子さんが当時の若い娘には見られない、積極性、行動力をそなえていたことが分かる。世間の目などに物おじせず、昂然とおもてを太陽に向けて進む気概をもっていた。かつての良妻賢母教育の型におさえこまれない、しなやかな文学少女の千枝子さんであった。
さらに千枝子さんは自己にきびしく、小学校の専科正教員の資格を得て勤務しながら、中等教員の資格が得られる文検パスを目ざす向上心の持主であった。
千枝子さんが井出重蔵さんと文通をはじめるのは、一九四一年の四月からのことで、翌一月までの間に実にひんぱんな手紙のやりとりが行われている。重蔵さんは家同士が親戚関係にあたる二歳年上の男性、外地満州で陸軍中尉として軍務についている。満州とは中国の東北区地方の俗称で、戦後「十五年戦争」の名によって呼ばれる、長い戦争期の発端となる「満州事変」の記憶は、わたしの女学生時代のことである。
日本が一路軍国主義の坂道をころげ落ち、ついに太平洋戦争へ突入してゆく一九四一年というきびしい時代背景のもとで、まだ見ぬ外地の婚約者である軍人に送った千枝子さんの手紙は、時代の貴重な証言である。さらにそこに見る岡部千枝子という女性の生活と意見は、今日の女性観から見ても古びてはいない。いやむしろ当時としては稀なほど柔軟で思慮深い資質の持主であったことが、文章のすべてに反映されている。
たとえば重蔵さんとの縁談への対処の仕方、さらに初めての重蔵さんへの返事の手紙など、まさに委曲を尽くして自分のこと、家のこと、夫となる相手の将来への希望などを謙虚なことばでしるしている。自分とともに相手をも客観視する冷静さは、まだ二十歳代半ばにも達しない若い女性としては、やや出来すぎている感じさえうける。
千枝子さんとは同時代だったわたしには、千枝子さんが自分の人生コースにはやくから目的意識をもってのぞみ、確固たる人生哲学を抱いていたことに、むしろおどろきの感を覚える。当時の世間普通の娘たちは、結婚の日を夢見ながら女ひと通りの稽古事にはげむ日を送っていたが、千枝子さんは「結婚などせずに一人立ちし、或程度の社会的地位を得たい」と考えていたという。考えるだけでなく小学教員となって実践した。
彼女は自分の結婚観をこんなふうに書き送る。
「いたずらに才あることのみが女の取得(柄)であるとのみは思って居りませんでしたけれど、唯盲目的な従順が女の幸福を得る道であるならば、又、お互の才能を相殺させてしまう様な結婚であるならば、私はしたくない、幸の道をも求めなくていいと思い、『真理は幸福への道ではない』などというルソーの言葉を考えつつ、生涯学徒でありたいと願って居りました」
そして、「家庭生活への理想が根本的に相違しているならやむを得ないと存じます。もっと外にお互の道があるでしょうか」と、激しい感情をこめたことばをも書き送っている。
往復書簡でないので両者のやりとりについて、推察に待たなければならない点があるが、二人の考え方になんらかの対立点があったのかもしれない。
婚約者間の手紙というものは、ふつう情緒的な内容で終始するものだが、千枝子さんの手紙には自分の時局認識が書かれてある。重蔵さんが国際情勢について解説したものへの感想もある。その解説がどのような内容のものか分からないが、一九四〇年九月に日独伊軍事同盟が結ばれ、新聞は「いまぞ成れり歴史の誓い」という見出しをかかげて平和の盟約が生まれたように宣伝したが、その後の国際政治の動きはいよいよ日本を追いつめ、やがて翌四一年十二月八日の日米開戦へ向ったことは歴史の示すとおりである。
こうした情勢下に学校教育は軍国主義化の一路を辿り、「高度国防国家建設」をめざす教育政策が行われている時代であった。千枝子さんは教師の立場から、それに批判を加える。教育本来の目的に悖るとして。
「極端な国防教育はかえって悲劇的な国民性を形成し……平和の意義も知らずして国防に極度の鞭をあてようとする教育に心細さを感じられる」と、醒めたことばを、軍人の婚約者に書き送る千枝子さんは、当時の戦争文学や戦地からの帰還者の話などにも積極的にふれている。アンドレ・モーロアの『フランス破れたり』を読んでいることが手紙の中に出てくる。この訳本は一九四〇年のベストセラーだが、千枝子さんはいちはやくそれを読んでいる。
「『フランス破れたり』を見て、つくづく国家的意志ということと、人間の本性を考えさせられました。一国の動静興亡も、又一人の人間にもたとえられる感情、意志、認識に基くとき、私達がお互の国々を何か傀儡師的に考えることは悲劇のような気がいたします。そして国民性の根本的相違と戦争という事実に対する一つの観点を得た気がいたします。」と、モーロアに触発されたような戦争観を書き送っている。
重蔵さんは婚約者に国際情勢の解説をしている。どのような内容だったか分からないが、千枝子さんの手紙に「お言葉の様に力はすべて美となる」という、おうむ返しのようなくだりがあるのをみると、枢軸国ドイツのヒトラーの戦時政策を中心にした解説であったのだろうか。
千枝子さんがドイツ国家の偉大さをみとめるのは、前大戦後の極度の困憊の中で、真理追求の殿堂を犠牲にしなかったことなど、未来を見詰める教育者らしい感想をしるしているが、この時代にどのていど「現代ドイツ史」の資料や情報が手元にあって、彼女がナチスドイツに言及しているかは不明である。
「いろいろの国際情勢を知りましても、私には事実を事実だけに見終らせることの出来ない、一つの偏った癖……戦争を戦略戦果だけに見ず、何か文化的な形態になおすか意義づけなければいられない癖です。この点……これからはたくさん時事問題などについて御指導いただき、段々あらためてゆきたい」と重蔵さんへボールを投げているが、重蔵さんも軍務に励みながらせっせと手紙を送っている。二人の文通は度び重なるなかで、まだ見ぬ相手へのボルテージを上げてゆく様子が、千枝子さんの手紙からうかがえる。
「あなたをお慕いすればするほど、その気持を転じてよく勉強することが、今の私にとってあなたへのまことであると考え」て、千枝子さんは年来の志望の文検受験に取りくむ。「先生をするからには高専科教員の資格まで取り、視学位にはなってみたい」というひたむきな千枝子さんの理想にたいして、重蔵さんの反応は思わしくなかった。野心的な勉強ではなく、おとなしくお料理やお花でも習った方がいいというような含みの手紙が返ってきたことに千枝子さんはショックをうける。
しかしそのあとの手紙のやりとりのなかで、その不協和音は影をひそめ、千枝子さんの手紙は日を追って恋人のそれより妻らしい心遣いの色合いを深めるものになっていった。
重蔵さんの前線出動令を報せる手紙をうけて、千枝子さんが胸いっぱいの思いをしるした手紙は、愛の手紙として一級品ということができる。この手紙のなかで示す愛の誓いは、甘い夢を追うようなものでなく、相手の家の事情を考えて、自分が手助けするために、入籍してほしいと言っている。前線への切迫した出動に際して重蔵さんは「若い未亡人をつくりたくない」という痛切な思いを書き送っている。それにたいして「もう決してそんな二人を離ればなれにするようなことをおっしゃってくださいますな」と、挙式前に「籍だけでも入れて」もらって、井出家の家族として尽したいという真心の表明である。
晴れて妻の立場で尽したいという千枝子さんの願いは、当時の農村社会での世間体の上からも、さもあろうかと思われる。「夫婦別姓」が法的、社会的に浮上している今日の時代とは違うのだ。千枝子さんの生きた戦前期に日本の女は旧民法のわく組みの中にすっぽり包みこまれていた。それを疑うこともしなかった女たちのなかで、さすがに千枝子さんは女性の民法上の無力についても、心にとめている。
「普通は式より先に籍など入れないでしょう。それはいけないんだそうですけれど、一般の風習としては、もし家風にあわなかったりした時に、すぐ離縁の手続きなど簡単に出来るからと、公民の時間にきいたことがありました。けれどその時、つくづく女ってかなしい運命で結婚などしたくないと思いました。」
かつての日本の女にとって、もっともつらく悩ましかった「家」の問題とも、千枝子さんは無縁ではなかった。
籍を入れること  つまり千枝子さんが重蔵さんの家へ嫁入りすることへの、千枝子さん側でのさまざまな困惑があったことが、手紙には率直にしるされてある。「家」のハードルは千枝子さんにとっても軽いものでなく、「家本位に考えるべきか、又は私達それぞれの生活を主にして自由の道を求めるべきか」の選択に苦しんでいた様子もうかがえる。
父親の勝平さんにとって千枝子さんは、どんなに大切な自慢の娘であったろうか。「千枝子をくれることは勿体ない」と勝平さんが洩らした思いは、岡部家一族のみんなの気持ちだったにちがいない。
実際に千枝子さんは、専門の家事教育についても栄養学については、国立栄養研究所の講習をいく度も受けて、準栄養士の資格ももつ努力家である。学校勤務、婚約者とのひんぱんな文通のさなかに、文検予備試験もみごとパスするという能力の持主。子どものころ「神童」といわれた面目は、変わることなくつづいている。
家庭をもつにあたっても、「家庭は最上の女の道場である」という信条のもとに、自分の専門の家事学についても、今までの教壇の家事学でなく、お勝手から生れた家事学をつくるという目標をかかげるというふうで、一点一画もおろそかにしない。
しかし千枝子さんの家は、母親の急死、弟の入営など苦境がつづくなかで、彼女は予定どおり文検本試験を東京で受けた。そのあと十二月八日太平洋戦争に日本は突入して、千枝子さんの村でも村民大会、戦勝祈願祭などひらき、新聞・ラジオのニュースに熱中する朝夕の国民生活となった。大本営発表の戦果発表ニュースは、まだ戦争の実感としてうけとめられはせず、国内銃後の生活は、 勝った、勝った! で湧いている時であった。その十二月十六日に千枝子さんと重蔵さんの酒入れ(結納)が行われる。
一九四二年(昭和十七)一月三日付の手紙に千枝子さんはこう記す。
「輝かしいマニラ陥落の報が唯今ラジオではいりました。私達でさえ眼を見張るような輝かしい戦果に胸を跳らせて居りますけれど、帷幄のうちにあり、又、一線に立たれるみなさまの御苦労はいかばかりかと拝察いたしております」
この手紙を書いたとき、重蔵さんが終戦のほぼ一か月前にフィリピンのレイテ島で戦死することなど、だれが予測したことだろう。いや、それよりなにより、当の千枝子さん自身、この手紙を書いた翌年の二月二十二日、重蔵さんの任地満州国で病死という悲痛な運命が待ちうけていたのだ。一日千秋の思いで待っていた結婚式を重蔵さんの家で行うことになったのは、この年の二月二十一日。熱い夢を描いていた新婚の家庭生活を送るべく、夫の任地へ共に希望いっぱいで渡満した。
ここにおさめられた千枝子さんの手紙は、重蔵さんの一時帰国(結婚式のための)前の一月末まででおわっているが、圧巻は一月二十二日付の千恵子さんの女性としての切実な職業観である。さらに重蔵さんへのきびしいまでの激励、突き上げである。
「今度のお便りで大変失望したしましたこと二つ……」と正面切っての意見をのべられて、重蔵さんはタジタジとならなかったろうか? 結婚にあたって千枝子さんは奉職している国民学校を退職する決意を固める。それにたいしての重蔵さんの反応への異議申し立て。「私が仕事を持って居りましたのは、趣味などというなまじっかな気持」ではなく、「女の仕事はあなたがお考え下さっている程単純なものでしょうか」と突っこみ、「自分の全力をあげて何かなしたい」という痛切な願いと心情を述べている。
そもそも千枝子さんとしては、結婚生活と職業生活の両立を願っていたことを、この手紙で明らかにしている。それというのも、重蔵さんの履歴では軍人としての前途、つまり昇進のための基礎に不安がある。その重蔵さんに過分な期待をすべきでないという現実的な将来への読みがあったことも明らかにしている。とはいっても、千枝子さんは単に立身出世を目ざしていたわけでない。
すでに重蔵さんとの文通のはじめに千枝子さんは、軍人として立つにしても、ぜひしっかりした基礎をもつなり、特殊な研究なりを持って自分を生かしてもらいたいと希望している。
「この点本当に一事に徹してこそ生活に意義が生ずると存じ、中途半端で終ったんでは過去も無為にし、将来をも廃棄することになって終う」と、重蔵さんを激励している。
重蔵さんが受ける試験についても、自分の文検受験時の苦しさを引合いにだして、「忙しいのはお互で、又、忙しいほどの仕事を果してこそ、伸びられる力が生れる」と書き送っている。賢夫人の面影が偲ばれてくる。
「家庭は最上の女の道場」というポリシーのもと、大きな期待をたくして重蔵さんと満州に渡った千枝子さんが、まだ新婚のほとぼりも消えない間に、病死の災厄にあうことになったのは、あまりにも無念であった。
千枝子さんの手紙を、大きな共感をもって読みおえたわたしは、いま、生身の千枝子さんにお会いできないことを、ほんとうに残念に思う。
千枝子さんと共に二人が生きた大正・昭和の女の風雪を、心ゆくまで語り合いたかったと思う。
女の人間としての個の確立、家の桎梏との抗い、家庭と職業の両立の困難、平和の問題など、手をとりあって語りあえたら、そしてまた、いっしょに肩を並べて、信州の山並を色どる夕茜の空を思い深く眺めるときを恵まれたらどんなに幸せだったろうかと、未知に終ったこの美しい女性への、惜別の思いが湧くのである。

一九九六年十月 霖雨の過ぎた日に

★著者プロフィール

岡部千枝子(おかべちえこ)

大 正7年(1918)、現・長野県佐久町に生まれ、早くから神童と注目を集める。上田実科高等女学校専攻科を卒業後、昭和16年(1941)4月、切原国民 学校へ訓導として赴任。昭和17(1942)、陸軍中尉・井出重蔵と結婚し満州へ渡るが、1年後の昭和18年(1943)、満州吉林省で病死。享年24 歳。

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