たあくらたあ


先月末、『たぁくらたぁ23号』が出来上がり、今月から発売を開始しました。
実は、今号は東日本大震災を受け、特集を大幅に変更。震災と原発問題を急遽取り上げたため、予定よりも半月以上遅れての発刊となりました。

今回の震災では、3月11日に起きた地震と津波で受けた東北の惨状が取り上げられていますが、長野県栄村も翌12日未明に起きた地震で、大きな被害を受けました。

栄村のような僻地で突如起きた震災。このとき人々はどのように対処すればよいのか?村のコミュニティーは ?これからの栄村は?現地の声を取り上げました。
そして、今なお収束の見込みの立たない、福島原発事故。われわれは一度暴走を始めた原子力発電がいかに恐ろしく、そして歯止めの利かないものか思い知らされました。今後、原発とどのように向き合うのか?
限られた紙面ではありますが、問いかけます。

今回は力の入れ方が違います!!

さて、『たぁくらたぁ』は年4回の発刊を一区切りとして定期購読を募集しています。
本当は送料をサービスしたいのですが、ギリギリの予算なので心苦しくも送料をそのつどいただいています。
本の価格が400円に送料100円、それを年4回で2,000円が定期購読料として頂戴しています。

おかげさまで、定期購読をしていただいている方も多く、『たぁくらたぁ』を発刊するごとに心を込めて送らせていただいてます。
中には、今号で定期購読が終わるの方もいらっしゃるので、そういう方には定期購読継続のお願いと2,000円の振込用紙をお付けしてお送りします。

ゴールデンウイークも終わった今週辺りから、定期購読を継続される方からの振込みが殺到し始めました。
大変ありがたいことです。

そんな中、広島県のご高齢な定期購読の方から、わざわざ封書で、継続のお申込をいただきました。
その中には、お金と一緒に、手紙も添えられました。

ルーズリーフに大きく

ヒロシマは
生命の底より
血を吐いて
叫ぶ

核と戦争と共存できぬ

……
……

決して達筆とはいえない文字。そして短い文章。
それだけに私はこの方の魂の叫びを 感じるのです。

想像を逞しくするならば、年齢とお住まいの場所から、あの60年前のヒロシマの惨状を目の辺りにされたのかも知れない。
そして、今回の震災で、町がまるごと破壊されてしまった惨状から、ヒロシマを連想されたのかも知れない。
そして、核。
核はいつまで、われわれ人間を苦しめるのか。そしてそれを今まで進めてきた人類に対し、相当な怒りをお持ちなのではないか。

そして、その思いを私たちに伝えたくてわざわざ、封書で送られて来たのではないかと思うのです。
出版社にとって、読者の心の叫びを聞くことは本当にありがたいことです。

今回の震災では、それぞれのお立場で、それぞれ考えるところがあるのではないかと思います。
私たちもそういう思いに届くような本をお届けしたいと考えています。

今回の原発事故を受けて、オフィスエムでは緊急出版を決定しました。
題名は『聞いてください』。
原発推進の世論だった1970年代。一介の主婦である坂田静子さん(故人)が行った反原発運動とその活動の記録です。
坂田さんは、自分で調べた原発の恐ろしさをまとめ、『聞いてください』というガリ版刷の新聞にして駅前で配っていたそうです。
その内容は、決して古くない。いま現在、福島で起きつつある事が予見でもしたかのようにそのまま書いてあります。それが、チェルノブイリもスリーマイルも起きる以前に書かれていることに衝撃すら覚えるのです。
いまだからこそ、読んでいただきたい。そこには何故どのように原発が進められ、建設されていくのか。当事者の目線で書かれている貴重な資料でもあります。
オフィスエムでは、社員一同手分けして、『聞いてください』を文字起こししています。
もう少し、お待ち下さい。


jisyou

新刊の『たぁくらたぁ15号』。
今号の特集は「戦争はいつ終わるのか?」。
その中で、飯田地方の満蒙開拓団の聞き取りについて触れられています。
この冒頭には飯田地方は全国一、開拓民を送った地域であることが述べられています。
ちなみに、全国では27万人。そのうち長野県は3万3千人。飯田地域が8400人と言うことです。

全国で一番、開拓民を送った飯田地方。中国残留孤児の調査に一民間人でありながら尽力し、「残留孤児の父」と言われた山本慈昭さんがこの地方の人だったというのは決して偶然ではなかったということです。

山本慈昭さん(1902~1990)は下伊那郡阿智村の長岳寺の住職でした。ちなみに長岳寺は武田信玄が亡くなった寺、もしくは荼毘にふした寺として知られています。
その山本さんが阿智村の開拓団と共に渡満したのは終戦間近の昭和20年5月のことでした。開拓団の人たちから子どもたちの教師になってほしいと請われ、断りきれず奥さんと幼い娘さんを連れて一家での移住でした。

渡満して3ヶ月の8月9日。突如のソビエト軍の侵攻。阿智村の開拓団はソ連国境に近い奥地の地域にいたため、日本に帰る船が出る港まで遠く、地獄のような逃避行でした。その際に、ある者力尽き、または絶望のあまり一家で自決し、またある者は子どもだけでも助かるようにと現地の中国人に預けたりしました。これが中国残留日本人孤児の始まりでした。

山本さん一家も8月30日にソビエト軍に捕まり、山本さんはシベリアに送られ一家は離散。帰国後、妻は離散後、収容所でまもなく死亡したことを知ります。しかし一緒に死んだと聞かされた娘は本当は中国人に預けられているらしいと知ったのは帰国後20年たった後でした。それから山本さんの執念ともいえる残留孤児探しが始まりました。

昭和47年。念願の日中国交回復。山本さんはすぐさま東京の外務省、厚生省、法務省を訪れ、残留孤児の調査を依頼して回りますが、役所の対応は冷ややかなものでした。というのも国交樹立したといっても中国国内は文化大革命の真っ最中。その中で日本政府が孤児を探すことなどできない状態でした。
それでも、山本さんは何度も役所を回り、訴え続け、霞ヶ関では「満州帰りの変人坊主」とうわさされました。

昭和48年 、山本さんの活動を知り運動に参加する人が増えるようになりました。そのほとんどが肉親に残留孤児がいる人たちでした。
「国が動けないのならわれわれ民間でやり遂げよう」「中国残留孤児を探そう。そして生き別れた者たちを引き合わせよう」こうして『日中友好手をつなぐ会』が発足しました。

しかし、その前に立ちふさがる国境の壁、複雑な政治状況。ようやく 『日中友好手をつなぐ会』が現地に渡り孤児本人から聞き取り調査を行うことができたのは昭和55年。しかもこのとき聞き取れたのは300人程であり数千人いるといわれている孤児の数を考えるとボランティアの活動では限界に来ていました。

このとき奇跡的に日中の当局に理解者がいて、ついに国を動かし、昭和56年に初めて、残留孤児が来日して本格的な調査が行うことができました。しかし、終戦から36年という年月はあまりに重く、長い年月であり、すでに肉親が亡くなっていたり、様々な事情から名乗り出ることができない人もいて、この時肉親に会うことができない孤児は23人いました。この23人の前で山本さんは、抱き合って励まします。
「今日から私がみなさんの父親になります。いつでも日本に来て下さい。私の家に来て下さい。待っています」。

昭和56年5月。山本さんは実の娘、啓江さんと中国で再会を果たします。日本での調査から帰った残留孤児たちが山本さんに何か恩返しにならないかと、自分たちで調べ、見つけてくれたからです。このときの山本さんの気持ちを考えると察するに余りあるものがあり、また啓江さんの消息を調べた孤児の皆さんの人間愛に心打たれるものがあります。

山本さんは娘との再会を果たしても、孤児の調査をやめませんでした。
「私にとって、すべての孤児が、自分の娘のようなものなのです。だからこそ、100人の孤児がいるなら100人全員の親子の対面をさせてあげたい。それは1000人でも1万人でも同じことです。孤児全員が幸せになるまで私の戦後は終わらない。そんな気持ちで、この問題に取り組んでいる」。

山本さんが亡くなったのは平成2年。その前年まで訪中調査を行い、厚生省に情報を提供し続けました。
葬儀には多くの孤児たちが参列したそうです。

日本の余剰農民を送り出して満州を食料庫にしようとした国策から作られた「満蒙開拓団」。そして戦争という国策。2つの国策の失敗が多くの国民を犠牲にし、孤児を作った。その中で、なんとか1人でも孤児を親に会わせたいと一生を捧げた人がいたということに、深い感動を覚えます。と共に、結果的にとは言え、国民を不幸のどん底に叩き落した国策とは一体何なのか考えざるを得ません。

今号『たぁくらたぁ』の「語り継ぐ満蒙開拓」の最後の部分に泰阜村の松島村長の言葉が載っています。
「国策を信じた泰阜村は多くの犠牲者を出した。その教訓がある泰阜村は国の方針だからと町村合併はしない」。
日本で多くの移民を出した飯田地方。その中で特に多くの移民を送り出した泰阜村。その村長の言葉は大変重く響いてきます。


冒頭は阿智村長岳寺にある山本慈昭さんの像


043.JPG先日9月13日、長野市のトイーゴ「合併しないという小川村の選択から考える地方自治」と題したシンポジウムが行われました。主催は『たぁくらたぁ』編集室、みどりネット信州新しい信濃の国です。

コーディネーターに酪農学園大学の河合博司先生。パネラーは高橋彦芳栄村前村長をはじめ小川村から大西輝昭氏、小川和子氏、丸田勉氏でした。
このシンポジウムにご参加いただいた方々はおよそ80人あまり。大変な盛況でした。

ひとまず、落ち着いたと思われる「平成の大合併」。しかしあの大合併は一体何だったのでしょうか?地域は合併によってどのように変わったのか?はたして住みよくなったのか?大合併騒ぎがひとまず落ち着いた今こそ考えてみる必要があると思います。

合併を選択した自治体、自立を選択した自治体、それぞれに理由があります。しかしここで考えたいのはいずれを選ぶにしろ、地域に住む人が真剣にこの問題を考えたのであろうかということです。

小川村では、自立という選択をするにあたり村長選挙や住民投票など数回にわたり選挙、投票を行ってきました。
最後の住民投票では、わずか100票差の僅差で自立が決まったそうです。
その間、合併か自立で揺れた村は、住民それぞれが、それぞれの立場から小川村のこれからのありかたについて考えたことと思います。
長年の合併論議が、この後も住民の中にしこりとなって残るとは思うのですが、村のこれからを村民が真剣に考えたことは、この村にとって大きな財産になったはずです。

考えてみると平成の大合併は国の主導で行われ、それぞれの市町村の合併論議も大多数が合併ありきで行われたのが実状です。

「国策だからしょうがない」
「金もないし人もいない。ないないづくしだもん仕方がない」
「今のうちなら特例債が出るし、得だ」
真剣な論議もなく、なんとなく合併。その後に訪れたのは地域の崩壊。
10年後、20年後の日本は地域の活力を失い、都市部と農村部の格差はさらに加速するのではないか。そのように危惧してなりません。

私は、合併を必ずしも悪いことばかりとは考えません。合併するには合併するだけの理由がその地域、地域にはあり軽々に部外者が口を出すことではないと思うからです。
しかし、最初に合併ありきの議論では意味がない。
自分が住む場所のことは、政治家や役人が決めるのではなく自分が決める。
本当に合併しかないのか?なにか自立できる方法はないのか?そもそもなぜ合併しなくてはならないのか?ほんとうの地域の振興とは何なのか?
自分たちの耳や目で情報を集め、考え、議論して、決める。これが本当の地方自治だと思うのです。

地域のあり方を決めるのは、国でもない、県でもない、政治家でもなければ役人でもありません。またそれらの人たちは地域を最後まで助けてはくれません。地域のあり方を決め、地域を助けるのはそこに住む住民しかいないのです。

「天は自ら助くる者を助く」
自助論の一節が想起されます。
地方自治の根本はこの自助論の言葉にあるのではないか。
今回のシンポジウムを傍聴してそのように思いました。

しかし、これは言うは易く行うは難しだなあ~