日本史


昨年は大逆事件から100年でした。

大逆事件は明治44年(1911)、明治天皇の爆殺を図ったと言われている事件。
当時の大逆罪が適用されて、首謀者と言われる幸徳秋水やその内縁の妻・管野スガなど12名が死刑になった事件。
実際に爆殺を図ったのは5名ほどとされていますが、この機会をとらえて政府当局が当時流行を始めていた社会主義や無政府主義の弾圧を図り、今日では国家ぐるみの大冤罪事件であるとされています。

国家が都合よく反対派を弾圧したりするのはこの当時に限りません。
例えば、原発の問題にしても、国が恣意的に情報操作をして、最近まで原発を進め、原発事故が起きた今でも進めようとしているではありませんか。

また、格差社会の問題、そして格差をさらに推し進める恐れのあるTPPに国の舵を切ろうとしている…。
なにやら大逆事件が起きた明治後期に世相が似ているような気がします。

さて、大逆事件の実行犯(未遂)と言われている新村忠雄は長野県屋代町(現・千曲市)の出身です。
このたび、『百年後の友へ』という大逆事件と新村忠雄についての講演会が開かれることになりました。

昨年、新村忠雄について書かれた小説『百年後の友へ』の出版を記念して、著者の崎村裕氏をお招きしての講演です。

屋代町は私の出身の隣町。歩いて数分のところです。しかし、新村忠雄についてまったく知りませんでした。
それほど地元でな忘れられた人物。いや、天皇爆殺を企てた大罪人としてタブー視された人物なんですね。

ちょうど事件から100年の昨年は日本人にとって東日本大震災、そして原発事故と忘れてはいけない大きな節目になった年でした。
そしてそこから現代社会の闇や様々な矛盾=例えば巨大な利権を抱える原子力ムラの存在や既得権益にあぐらをかく大手マスコミ、力のない政治家と対応力のない官僚組織の問題点などが人々の前にさらけはじめました。

こういう時に大逆事件について考えるのは決して無意味ではないと思います。
私も考えてみたい。そのように思っています。

講演『百年後の友へ』
場所:屋代公民館(長野県千曲市屋代)
日時:1月29日(日)13:30~15:00
参加費:500円

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まもなく訪れる12月8日。この日は「太平洋戦争」開戦の日であります。今年でちょうど70年前の事です。
もう70年も経つのかという思いと、70年しか経っていないのかという思いが錯綜して少し複雑な気持ちであります。

もちろん、私自身、戦争経験者ではありません。戦後から20年以上後に生まれたので、知識として知ってはいても実感などあるはずもありません。でも戦争についてはちゃんと知っておかなければいけないという思いは持っています。特にアメリカ相手の無謀な戦いになぜ突入してしまったのか…、これはキッチリと把握しておく必要があります。

考えてみれば、太平洋戦争の開戦まで、日本は長期にわたる日中戦争で国力が疲弊していました。
その上、新たに強敵アメリカを相手の全面戦争。しかも戦争に必要な資源はほとんどアメリカからの輸入に頼る始末。これでどうやって戦争をするのか?今の我々にはちょっと想像がつきません。

この流れをどのように考えるのか、人によって様々議論の別れるところですが、結局は長年の中国政策のツケを、アメリカとの戦争という形で払わされた。 そのように見ざるを得ないと思います。

長引く、日中戦争。解決の道すら見つからないまま、孤独化をおそれ結んだ日独伊三国同盟。
それが米英の警戒を生み、対立が激化。最後には中国での権益を放棄するように迫られ(ハルノート)、追い詰められるように開戦。まあおおよそ、こういう流れです。

当時の記録を見ると、政府も、軍もアメリカと戦って完全に勝てるという見通しなどまったくありませんでした。
でも、追い詰められたから戦わざるを得ない。そもそも戦う前に外交で敗れています。古来、外交で敗れた戦いを戦争で勝つなどありえません。しかも国民にも中国から撤退しますと説明することもできない。ここから言えるのは政治が不在であるという事なのです。どこかの国と同じですね。

さて、戦争に追い込まれる中で軍部も対米戦のシミュレーションをいたしました。
資源は確保できるのか?輸送船舶の損耗は?国民生活はどのぐらい圧迫されるのか?等。
結果は「長期戦はムリ」という事だったらしい。でもそれでは戦争ができないので、もう一度算定させて、早期に資源地帯を確保すれば戦争は継続できるという、ご都合主義的な結論をひねり出しました。

実際の戦局は、当初のシュミレーション通りでした。資源は確保しても、それを運ぶ船は沈められる。もともと資源が無いから船や飛行機の生産は覚束ない。そして戦争経済は破綻。国民生活は大いに圧迫。
そしてその国民を守ることなく敗戦。
全ては結論ありきの開戦が招いた結果でした。

ところで、この図式は何かに似ていると思ったら、原子力の推進も同じ「結論ありき」の図式でした。

そもそも、狭い国土に事故が起きたら収拾できない原発を作るのがムリであるのにも関らず、何とかつくろうとする。そうすれば、結局「原発は絶対事故は起きない。絶対安全だ」と言い続ける。絶対安全であるということなどありえないのに関らず…。

しかし、「絶対安全」って言い続けていると、今度は当局者の手枷・足枷になる。と言うのも、安全基準を見直す機会が何度もあったのにも関らず、基準の見直しを行なうことは、今まで「絶対安全」と言い続けた事がウソになる。だからしない。 もう最後は自分たちが言い続けた「原発は絶対安全」という言葉を信じるしかない。まるで戦時中、日本人が「日本は神国だから負けるはずがない」と言い続けたように。

私たちは70年前の日本の決断を、「軽率だった」とか「無責任だ」とわらったり、責めたりすることはできません。なぜならば、同じような失敗を犯しているのですから。

現在、事故による放射能汚染は広い範囲で報告されてきました。
汚染が進んでどうにもならなくなる前に、せめて早く手をうって欲しいと祈るばかりです。


今、戦国時代がブームなのだそうです。
それも若い女性に。

今までも、何度か戦国時代が注目されましたが、そのブームを支えてきたのは、ほとんどがビジネスマンか歴史オタク。
歴史オタクの私は歴史の記事を読みたさに高校の頃に「プレジデント」とかたまに読んでいました。今考えるとオッサンくさい高校生です。
今回のように若い女性が、普通の会話の中で「政宗様が…」とか「三成がね…」という言葉がミーハーのノリでポンポン出てくるブームというのはあまりなかったのではないでしょうか。(ネットの世界では数年前からあったようですが…)

神田の小川町にある時代小説専門の書店・時代屋さん。1階は本を販売していますが、2階は戦国グッズを所狭しと扱っています。休日ともなると1階は本を求めるオジサンたちが、2階はグッズを求める女性客で繁盛するらしい。

そもそも、この戦国ブームはゲームから火がついたらしいのですが、その背景には女性たちが今の男に飽き足りなく思っているからではないかと、ブームを報道していたテレビ番組は分析していました。

戦国の武将にあこがれや幻想を抱くのは大変結構な事だと思います。それが興味の取っ掛りになるから。
でもちょっと、武将ってホントはどういう人たちだったのか。その人物像をちょっと考えてみようかというのが今回のお話です。
さしあたって身近な金銭についてどのように見ていたのか。そこから武将たちの実像が垣間見ることができます。

naoe.JPG伊達政宗とは犬猿の仲

今年、大河ドラマの主役になって一躍注目されている直江兼続。彼にはお金にまつわる有名な話があります。

秀吉の大坂城に主君の上杉景勝の代わりに諸侯の詰め所に伺候していた時のこと。同じ部屋にいた伊達政宗が自分の領地で産出した金で大判を鋳造したと言って、その大判を諸侯に見せる。諸侯は大判を手に取り口々にその見事さを褒める。やがてその大判は兼続のもとに回ってくる。兼続は大判を手に取らず、扇子を広げてその上で大判を宙に跳ね上げてそれを見ている。
兼続の奇矯なふるまいに政宗は「直江は陪臣(家来の家来)だから遠慮して手に取らないのだろう」と思い、兼続に「城州(直江兼続の官称=山城守)。手にとっても苦しからず」と声をかけた。しかし、兼続は「それがしの手は謙信以来の上杉の采配を預かるもの。不浄な金を触っては上杉の采配が穢れる」と言ってポンっと大判を政宗に扇子で返したという。

これと似たような話が、武勇で大名を渡り歩き、それぞれの家から重臣として招かれ(現在でいえばヘッドハンディングですね)、茶人としても有名な上田宗固にもあります。
宗固は一生の間に金銀を手に取ったことがないと公言し、それを自慢もしていましたが、晩年多くの人が集まった席で金銀をしみじみ見ながら「なるほどこれは麗しいものだ。たしかに人の心を蕩かすものだな」とまるで初めてみたような感嘆の声をあげ「しかし、わしには縁がない」と言いました。しかし、これを聞いた徳川幕府の重臣、酒井忠勝は「宗固は拵えてなす奴(キザたらしい奴)」と評しました。
金銀に疎くて一国の政治を預かるどころか、戦陣の費用の勘定すらできず、それで家老職など務まるはずがないではないかと言うのがその理由。たしかに正論です。
この論理でいえば「金は不浄だ」と言った直江兼続も「拵えてなす奴」ということになります。
(兼続の場合は隣国にして上杉のライバルだった伊達政宗に対してのあてつけのような気がしますが)

兼続より一世代前の上杉謙信や武田信玄は金銀にも大変関心を持っていたようです。
あれほど合戦に明け暮れた上杉謙信が遺産として残した金の量は2千枚以上という膨大なもの。
一方の信玄は金山の開発に努めたのは有名な話で、甲斐を中心にして信玄が開発した金山跡はいたるところにあります。信玄は採掘した金を碁石ほどの大きさにして軍資金とし、それを戦陣に運び込んで、敵の調略に使用したり、合戦に手柄を立てた家来にその場で手づかみで与えました。金に触ると手が穢れるどころの話ではありません。
ikkiuti.JPG川中島で合戦を繰り広げることができたのも膨大な軍資金を捻出できたればこそ。

おおよそ、戦国の武将たちは普段はつつましい生活を送りながら、蓄財に努めていたようです。
たとえば、前田利家。
利家と言えば、武勇に優れた武将として有名ですが、蓄財にも普段から心がけていました。あまりに心がけるあまり、本来召抱えなければならない家来の数を減らしてまで、蓄財に励んだようです。
隣国の佐々成政が前田の前線を急襲した時のこと。普段、蓄財に熱心のあまり、家来を石高に見合う数を召抱えていなかったので、すぐには兵が集まらず利家は狼狽。その有様を見た妻のまつは、蓄財にあまりに熱心な夫を普段から苦々しく思っていたので「家来より大事に集めた金に鎧を着せて敵に当たれば良いではないですか」と皮肉を言ったと言われています。
2005_0815kasinn0008.JPG「金に鎧は着せられぬ」

ケチで有名なのは徳川家康。
彼のケチぶりを示す話は多く伝わっています。あまりのケチに蒲生氏郷は「徳川殿は吝嗇なので、天下は取れない」と評するほど。しかし、その努力も実って相当ため込んだようです。
ある大名が、急に大金が必要になって家康に借金を申し込む。家康は「お安いことでござる」と快諾して家来に具足櫃を持ってこさせる。具足櫃の中には彼のヘソクリが貯め込んであり、その中からお金を貸したという。
具足櫃の中には紙に包んだ金が大量にあり、紙に書かれた年を見ると、家康がまだ三河の小領主の頃のものもあったということです。ここまで来ると彼のヘソクリには凄味があります。
ieyasu1.jpgヘソクリ続けてウン十年

ケチの東の横綱が家康とすると、西の横綱は黒田如水でしょうか。
黒田如水は秀吉の参謀。秀吉の天下取りに大きく貢献した人物と言われていますが、ケチぶりは徹底したもの。
「野菜の皮は厚く剝いて、皮を漬物にするように」と細かく指導。何もないときはそれを副食物に充てたとか。
家来に草履のような身の回りのものを下賜する時も必ず何がしかの代金を要求したといわれています。
このように、まるで爪に火をともすように貯めた金銀は膨大なものだったようです。
関ヶ原の合戦の際、居城の豊後中津で兵を挙げた如水は、急いで九州を切り従えるべく大量に兵を募集。九州を切り従えた後、一気に上京し、あわよくば天下を取るつもりだった如水は、いままで貯めた全財産を座敷に山積みにし、募兵に応じた者に惜しげもなく分け与えました。中には2重に取ろうとした不心得者もいたらしいのですが、一向に如水は頓着せず、却って勢いがついて良いと許したようです。
気勢があがる黒田軍は瞬く間に九州の大部分を統一しました。もし、関ヶ原の合戦が長引き東軍、西軍がこう着状態に入れば、如水の九州勢力が天下取りの第三極となっていたことでしょう。

普段は慎ましく、時にはケチと罵られながらもひたすら貯める。そしてイザというときは惜しげもなく使い果たす。それが戦国人のお金の使い方のようです。
私のようなコモノにはちょっとマネができません。そういう意味では我々よりはるかにスケールが大きい。

武士たちが「金は賤しい」という考えを持つようになったのは、戦国時代が終わり、太平になった江戸時代。商業や金銀を賤しいものとする儒教(特に朱子学)の観念が武士階級に広まった後のことです。戦国の武士たちは「金は必要なもの」と現実を直視して金と付き合っていたようです。

銅像写真(上から)
新潟県長岡市与板 直江兼続像
長野県長野市川中島古戦場 武田信玄・上杉謙信像
石川県金沢市尾山神社 前田利家像
静岡県静岡市駿府公園 徳川家康像


大河ドラマの「篤姫」もいよいよ終盤にさしかかりました。
ドラマを見ていると、実際の徳川将軍家はどういう方々だったのか?興味が湧いてきます。

実は、一部の徳川将軍の遺体は、昭和33年の東京芝にある増上寺の改修に伴って発掘され、学術調査されています。

徳川家の菩提寺は、上野の寛永寺と芝の増上寺と2つあり、徳川将軍たちはそれぞれのお寺に分かれて葬られました。ですから、増上寺に葬られた将軍は学術的な調査ができた訳です。

今回、ドラマに登場した将軍のうち、12代家慶、14代将軍家茂、その正室である和宮が増上寺に葬られていましたから、詳しく調査されています。

12代将軍家慶は身長154センチ。頭が異様に大きく、おでこが張り出し、あごは長くとがっていました。その特徴は肖像画にも描かれています。
ペリー来航時の将軍で、初めて外憂が押し寄せた時の将軍でした。
開国か攘夷か。国論は2つに割れてまとまらず、次期将軍の息子の家定も虚弱ときては心労の重なる日々であったことでしょう。
死因はよくわかりませんが、死の直前、暑気あたりで倒れていることから熱中症による心不全のようです。

14代将軍家茂は遺体から156.6センチ。顔はかなり細長く、鼻もかなり高かったようです。こちらの特徴も肖像画はよく捉えています。
紀州から将軍家に養子に入った家茂は、皇女和宮を正室に迎え公武合体を進めた将軍でした。長州征伐では大坂城まで出陣しましたが、そこで病没しました。徳川将軍15人のうち唯一、陣没した将軍でもあります。
死因は脚気からくる急性心不全(当時の言葉では脚気衝心)のようです。当時、脚気は原因不明の病気であり、日露戦争後にその原因がビタミンB1の欠乏にあると分かるまで治すのに難しい国民病でした。
遺骨には虫歯が実に30本もありました。家茂は甘い物に目がなく、病中お見舞いとして届けられた甘味の糖分がビタミンB1の消費を促し、脚気をますます重くしたようです。
本人がいくら好きだからと言っても、お見舞いの品には気をつけましょう!

家茂の隣に葬られたのは妻の和宮。和宮本人の遺言だそうです。
身長は143.4センチ。当時でもかなり背の低いほうです。
この調査のとき左手の手首からさきの骨が発見されなかったことから、小説家の有吉佐和子さんは和宮替え玉説の根拠の一つとし、『和宮様御留』を書きましたが、私には替え玉説には無理があるような気がします。
遺体と一緒に、長袴の直垂に立烏帽子をかぶった若い男性が写った湿板写真が発掘されましたが、翌日改めて調査しようとしたら映像は消えてしまいただのガラス板になってしまいました。この写真に写っていた人物こそ夫である家茂と考えられ、家茂の唯一の写真映像と思われることから、実に残念であるとしか言いようがありません。
ただ、隣に葬ってほしいと遺言したことや、夫の写真を遺体と一緒に収めたことなど考えると、家茂と和宮は仲のいい、微笑ましい夫婦だったのかなと思います。

ドラマを見ていると、幕末ってかなり昔のような気がしますが、遺体から健康状態や、夫婦仲まで垣間見ることができる、たかだか百数十年前のお話なのです。そう考えるとなにか親近感が湧いてきます。

参考文献:『徳川将軍家十五代のカルテ』 篠田達明 新潮新書


iitairou.JPG 昨日(8月10日)の大河ドラマ『篤姫』で中村梅雀さん扮する井伊直弼が桜田門外で暗殺されました。
梅雀さんの井伊直弼。いい感じでしたね。

ドラマの中では確執があった篤姫と直弼がお互いを理解し始めたところで直弼が暗殺されるという展開でしたが、お互いが和解したというのはまあフィクションでしょうね。

ところで、井伊直弼のことを考えていたら小泉純一郎元首相と重なるところが多いことに気がつきました。

井伊大老は幕府の権力の回復を、小泉首相は行政の改革をめざし、そのためには政敵の追い落としを厭わなかったこと。それだけに、目的にもブレがなく、妥協もなかった(少なかった)。
また、権力を握るまで、井伊は部屋住み、小泉氏は反主流派で冷や飯食いでお互い不遇だったこと。ひとたび権力を握った後の思い切った政策の断行はその不遇時代の鬱積を晴らそうとしたのではないかとすら思えます。

現在にいたるまで井伊直弼の評価は2つに分かれていますが、小泉氏の評価も改革者として評価されるか、国民生活に負担を強い、対中外交に軋轢を残した人物としてマイナス評価するか両極端に分かれることでしょう。

ただ、直弼の場合、内憂外患の国難にあたっての大老就任であったため、万が一について覚悟をしていたようで、大老就任時に自分の戒名を考えていました。とても畳の上では死ねないと考えていたのでしょう。その悲壮感には心打たれる物があります。

冒頭の銅像は横浜市の掃部山公園にある井伊大老像。直弼は横浜開港の恩人として評価されています。

003.JPG 世田谷区豪徳寺にある井伊直弼の墓。彼の墓の裏には桜田門外の変で命を落とした彦根藩士の墓もあります。