今、戦国時代がブームなのだそうです。
それも若い女性に。
今までも、何度か戦国時代が注目されましたが、そのブームを支えてきたのは、ほとんどがビジネスマンか歴史オタク。
歴史オタクの私は歴史の記事を読みたさに高校の頃に「プレジデント」とかたまに読んでいました。今考えるとオッサンくさい高校生です。
今回のように若い女性が、普通の会話の中で「政宗様が…」とか「三成がね…」という言葉がミーハーのノリでポンポン出てくるブームというのはあまりなかったのではないでしょうか。(ネットの世界では数年前からあったようですが…)
神田の小川町にある時代小説専門の書店・時代屋さん。1階は本を販売していますが、2階は戦国グッズを所狭しと扱っています。休日ともなると1階は本を求めるオジサンたちが、2階はグッズを求める女性客で繁盛するらしい。
そもそも、この戦国ブームはゲームから火がついたらしいのですが、その背景には女性たちが今の男に飽き足りなく思っているからではないかと、ブームを報道していたテレビ番組は分析していました。
戦国の武将にあこがれや幻想を抱くのは大変結構な事だと思います。それが興味の取っ掛りになるから。
でもちょっと、武将ってホントはどういう人たちだったのか。その人物像をちょっと考えてみようかというのが今回のお話です。
さしあたって身近な金銭についてどのように見ていたのか。そこから武将たちの実像が垣間見ることができます。
←伊達政宗とは犬猿の仲
今年、大河ドラマの主役になって一躍注目されている直江兼続。彼にはお金にまつわる有名な話があります。
秀吉の大坂城に主君の上杉景勝の代わりに諸侯の詰め所に伺候していた時のこと。同じ部屋にいた伊達政宗が自分の領地で産出した金で大判を鋳造したと言って、その大判を諸侯に見せる。諸侯は大判を手に取り口々にその見事さを褒める。やがてその大判は兼続のもとに回ってくる。兼続は大判を手に取らず、扇子を広げてその上で大判を宙に跳ね上げてそれを見ている。
兼続の奇矯なふるまいに政宗は「直江は陪臣(家来の家来)だから遠慮して手に取らないのだろう」と思い、兼続に「城州(直江兼続の官称=山城守)。手にとっても苦しからず」と声をかけた。しかし、兼続は「それがしの手は謙信以来の上杉の采配を預かるもの。不浄な金を触っては上杉の采配が穢れる」と言ってポンっと大判を政宗に扇子で返したという。
これと似たような話が、武勇で大名を渡り歩き、それぞれの家から重臣として招かれ(現在でいえばヘッドハンディングですね)、茶人としても有名な上田宗固にもあります。
宗固は一生の間に金銀を手に取ったことがないと公言し、それを自慢もしていましたが、晩年多くの人が集まった席で金銀をしみじみ見ながら「なるほどこれは麗しいものだ。たしかに人の心を蕩かすものだな」とまるで初めてみたような感嘆の声をあげ「しかし、わしには縁がない」と言いました。しかし、これを聞いた徳川幕府の重臣、酒井忠勝は「宗固は拵えてなす奴(キザたらしい奴)」と評しました。
金銀に疎くて一国の政治を預かるどころか、戦陣の費用の勘定すらできず、それで家老職など務まるはずがないではないかと言うのがその理由。たしかに正論です。
この論理でいえば「金は不浄だ」と言った直江兼続も「拵えてなす奴」ということになります。
(兼続の場合は隣国にして上杉のライバルだった伊達政宗に対してのあてつけのような気がしますが)
兼続より一世代前の上杉謙信や武田信玄は金銀にも大変関心を持っていたようです。
あれほど合戦に明け暮れた上杉謙信が遺産として残した金の量は2千枚以上という膨大なもの。
一方の信玄は金山の開発に努めたのは有名な話で、甲斐を中心にして信玄が開発した金山跡はいたるところにあります。信玄は採掘した金を碁石ほどの大きさにして軍資金とし、それを戦陣に運び込んで、敵の調略に使用したり、合戦に手柄を立てた家来にその場で手づかみで与えました。金に触ると手が穢れるどころの話ではありません。
←川中島で合戦を繰り広げることができたのも膨大な軍資金を捻出できたればこそ。
おおよそ、戦国の武将たちは普段はつつましい生活を送りながら、蓄財に努めていたようです。
たとえば、前田利家。
利家と言えば、武勇に優れた武将として有名ですが、蓄財にも普段から心がけていました。あまりに心がけるあまり、本来召抱えなければならない家来の数を減らしてまで、蓄財に励んだようです。
隣国の佐々成政が前田の前線を急襲した時のこと。普段、蓄財に熱心のあまり、家来を石高に見合う数を召抱えていなかったので、すぐには兵が集まらず利家は狼狽。その有様を見た妻のまつは、蓄財にあまりに熱心な夫を普段から苦々しく思っていたので「家来より大事に集めた金に鎧を着せて敵に当たれば良いではないですか」と皮肉を言ったと言われています。
←「金に鎧は着せられぬ」
ケチで有名なのは徳川家康。
彼のケチぶりを示す話は多く伝わっています。あまりのケチに蒲生氏郷は「徳川殿は吝嗇なので、天下は取れない」と評するほど。しかし、その努力も実って相当ため込んだようです。
ある大名が、急に大金が必要になって家康に借金を申し込む。家康は「お安いことでござる」と快諾して家来に具足櫃を持ってこさせる。具足櫃の中には彼のヘソクリが貯め込んであり、その中からお金を貸したという。
具足櫃の中には紙に包んだ金が大量にあり、紙に書かれた年を見ると、家康がまだ三河の小領主の頃のものもあったということです。ここまで来ると彼のヘソクリには凄味があります。
←ヘソクリ続けてウン十年
ケチの東の横綱が家康とすると、西の横綱は黒田如水でしょうか。
黒田如水は秀吉の参謀。秀吉の天下取りに大きく貢献した人物と言われていますが、ケチぶりは徹底したもの。
「野菜の皮は厚く剝いて、皮を漬物にするように」と細かく指導。何もないときはそれを副食物に充てたとか。
家来に草履のような身の回りのものを下賜する時も必ず何がしかの代金を要求したといわれています。
このように、まるで爪に火をともすように貯めた金銀は膨大なものだったようです。
関ヶ原の合戦の際、居城の豊後中津で兵を挙げた如水は、急いで九州を切り従えるべく大量に兵を募集。九州を切り従えた後、一気に上京し、あわよくば天下を取るつもりだった如水は、いままで貯めた全財産を座敷に山積みにし、募兵に応じた者に惜しげもなく分け与えました。中には2重に取ろうとした不心得者もいたらしいのですが、一向に如水は頓着せず、却って勢いがついて良いと許したようです。
気勢があがる黒田軍は瞬く間に九州の大部分を統一しました。もし、関ヶ原の合戦が長引き東軍、西軍がこう着状態に入れば、如水の九州勢力が天下取りの第三極となっていたことでしょう。
普段は慎ましく、時にはケチと罵られながらもひたすら貯める。そしてイザというときは惜しげもなく使い果たす。それが戦国人のお金の使い方のようです。
私のようなコモノにはちょっとマネができません。そういう意味では我々よりはるかにスケールが大きい。
武士たちが「金は賤しい」という考えを持つようになったのは、戦国時代が終わり、太平になった江戸時代。商業や金銀を賤しいものとする儒教(特に朱子学)の観念が武士階級に広まった後のことです。戦国の武士たちは「金は必要なもの」と現実を直視して金と付き合っていたようです。
銅像写真(上から)
新潟県長岡市与板 直江兼続像
長野県長野市川中島古戦場 武田信玄・上杉謙信像
石川県金沢市尾山神社 前田利家像
静岡県静岡市駿府公園 徳川家康像