大河ドラマの「篤姫」もいよいよ終盤にさしかかりました。
ドラマを見ていると、実際の徳川将軍家はどういう方々だったのか?興味が湧いてきます。

実は、一部の徳川将軍の遺体は、昭和33年の東京芝にある増上寺の改修に伴って発掘され、学術調査されています。

徳川家の菩提寺は、上野の寛永寺と芝の増上寺と2つあり、徳川将軍たちはそれぞれのお寺に分かれて葬られました。ですから、増上寺に葬られた将軍は学術的な調査ができた訳です。

今回、ドラマに登場した将軍のうち、12代家慶、14代将軍家茂、その正室である和宮が増上寺に葬られていましたから、詳しく調査されています。

12代将軍家慶は身長154センチ。頭が異様に大きく、おでこが張り出し、あごは長くとがっていました。その特徴は肖像画にも描かれています。
ペリー来航時の将軍で、初めて外憂が押し寄せた時の将軍でした。
開国か攘夷か。国論は2つに割れてまとまらず、次期将軍の息子の家定も虚弱ときては心労の重なる日々であったことでしょう。
死因はよくわかりませんが、死の直前、暑気あたりで倒れていることから熱中症による心不全のようです。

14代将軍家茂は遺体から156.6センチ。顔はかなり細長く、鼻もかなり高かったようです。こちらの特徴も肖像画はよく捉えています。
紀州から将軍家に養子に入った家茂は、皇女和宮を正室に迎え公武合体を進めた将軍でした。長州征伐では大坂城まで出陣しましたが、そこで病没しました。徳川将軍15人のうち唯一、陣没した将軍でもあります。
死因は脚気からくる急性心不全(当時の言葉では脚気衝心)のようです。当時、脚気は原因不明の病気であり、日露戦争後にその原因がビタミンB1の欠乏にあると分かるまで治すのに難しい国民病でした。
遺骨には虫歯が実に30本もありました。家茂は甘い物に目がなく、病中お見舞いとして届けられた甘味の糖分がビタミンB1の消費を促し、脚気をますます重くしたようです。
本人がいくら好きだからと言っても、お見舞いの品には気をつけましょう!

家茂の隣に葬られたのは妻の和宮。和宮本人の遺言だそうです。
身長は143.4センチ。当時でもかなり背の低いほうです。
この調査のとき左手の手首からさきの骨が発見されなかったことから、小説家の有吉佐和子さんは和宮替え玉説の根拠の一つとし、『和宮様御留』を書きましたが、私には替え玉説には無理があるような気がします。
遺体と一緒に、長袴の直垂に立烏帽子をかぶった若い男性が写った湿板写真が発掘されましたが、翌日改めて調査しようとしたら映像は消えてしまいただのガラス板になってしまいました。この写真に写っていた人物こそ夫である家茂と考えられ、家茂の唯一の写真映像と思われることから、実に残念であるとしか言いようがありません。
ただ、隣に葬ってほしいと遺言したことや、夫の写真を遺体と一緒に収めたことなど考えると、家茂と和宮は仲のいい、微笑ましい夫婦だったのかなと思います。

ドラマを見ていると、幕末ってかなり昔のような気がしますが、遺体から健康状態や、夫婦仲まで垣間見ることができる、たかだか百数十年前のお話なのです。そう考えるとなにか親近感が湧いてきます。

参考文献:『徳川将軍家十五代のカルテ』 篠田達明 新潮新書