11 月 2008


jisyou

新刊の『たぁくらたぁ15号』。
今号の特集は「戦争はいつ終わるのか?」。
その中で、飯田地方の満蒙開拓団の聞き取りについて触れられています。
この冒頭には飯田地方は全国一、開拓民を送った地域であることが述べられています。
ちなみに、全国では27万人。そのうち長野県は3万3千人。飯田地域が8400人と言うことです。

全国で一番、開拓民を送った飯田地方。中国残留孤児の調査に一民間人でありながら尽力し、「残留孤児の父」と言われた山本慈昭さんがこの地方の人だったというのは決して偶然ではなかったということです。

山本慈昭さん(1902~1990)は下伊那郡阿智村の長岳寺の住職でした。ちなみに長岳寺は武田信玄が亡くなった寺、もしくは荼毘にふした寺として知られています。
その山本さんが阿智村の開拓団と共に渡満したのは終戦間近の昭和20年5月のことでした。開拓団の人たちから子どもたちの教師になってほしいと請われ、断りきれず奥さんと幼い娘さんを連れて一家での移住でした。

渡満して3ヶ月の8月9日。突如のソビエト軍の侵攻。阿智村の開拓団はソ連国境に近い奥地の地域にいたため、日本に帰る船が出る港まで遠く、地獄のような逃避行でした。その際に、ある者力尽き、または絶望のあまり一家で自決し、またある者は子どもだけでも助かるようにと現地の中国人に預けたりしました。これが中国残留日本人孤児の始まりでした。

山本さん一家も8月30日にソビエト軍に捕まり、山本さんはシベリアに送られ一家は離散。帰国後、妻は離散後、収容所でまもなく死亡したことを知ります。しかし一緒に死んだと聞かされた娘は本当は中国人に預けられているらしいと知ったのは帰国後20年たった後でした。それから山本さんの執念ともいえる残留孤児探しが始まりました。

昭和47年。念願の日中国交回復。山本さんはすぐさま東京の外務省、厚生省、法務省を訪れ、残留孤児の調査を依頼して回りますが、役所の対応は冷ややかなものでした。というのも国交樹立したといっても中国国内は文化大革命の真っ最中。その中で日本政府が孤児を探すことなどできない状態でした。
それでも、山本さんは何度も役所を回り、訴え続け、霞ヶ関では「満州帰りの変人坊主」とうわさされました。

昭和48年 、山本さんの活動を知り運動に参加する人が増えるようになりました。そのほとんどが肉親に残留孤児がいる人たちでした。
「国が動けないのならわれわれ民間でやり遂げよう」「中国残留孤児を探そう。そして生き別れた者たちを引き合わせよう」こうして『日中友好手をつなぐ会』が発足しました。

しかし、その前に立ちふさがる国境の壁、複雑な政治状況。ようやく 『日中友好手をつなぐ会』が現地に渡り孤児本人から聞き取り調査を行うことができたのは昭和55年。しかもこのとき聞き取れたのは300人程であり数千人いるといわれている孤児の数を考えるとボランティアの活動では限界に来ていました。

このとき奇跡的に日中の当局に理解者がいて、ついに国を動かし、昭和56年に初めて、残留孤児が来日して本格的な調査が行うことができました。しかし、終戦から36年という年月はあまりに重く、長い年月であり、すでに肉親が亡くなっていたり、様々な事情から名乗り出ることができない人もいて、この時肉親に会うことができない孤児は23人いました。この23人の前で山本さんは、抱き合って励まします。
「今日から私がみなさんの父親になります。いつでも日本に来て下さい。私の家に来て下さい。待っています」。

昭和56年5月。山本さんは実の娘、啓江さんと中国で再会を果たします。日本での調査から帰った残留孤児たちが山本さんに何か恩返しにならないかと、自分たちで調べ、見つけてくれたからです。このときの山本さんの気持ちを考えると察するに余りあるものがあり、また啓江さんの消息を調べた孤児の皆さんの人間愛に心打たれるものがあります。

山本さんは娘との再会を果たしても、孤児の調査をやめませんでした。
「私にとって、すべての孤児が、自分の娘のようなものなのです。だからこそ、100人の孤児がいるなら100人全員の親子の対面をさせてあげたい。それは1000人でも1万人でも同じことです。孤児全員が幸せになるまで私の戦後は終わらない。そんな気持ちで、この問題に取り組んでいる」。

山本さんが亡くなったのは平成2年。その前年まで訪中調査を行い、厚生省に情報を提供し続けました。
葬儀には多くの孤児たちが参列したそうです。

日本の余剰農民を送り出して満州を食料庫にしようとした国策から作られた「満蒙開拓団」。そして戦争という国策。2つの国策の失敗が多くの国民を犠牲にし、孤児を作った。その中で、なんとか1人でも孤児を親に会わせたいと一生を捧げた人がいたということに、深い感動を覚えます。と共に、結果的にとは言え、国民を不幸のどん底に叩き落した国策とは一体何なのか考えざるを得ません。

今号『たぁくらたぁ』の「語り継ぐ満蒙開拓」の最後の部分に泰阜村の松島村長の言葉が載っています。
「国策を信じた泰阜村は多くの犠牲者を出した。その教訓がある泰阜村は国の方針だからと町村合併はしない」。
日本で多くの移民を出した飯田地方。その中で特に多くの移民を送り出した泰阜村。その村長の言葉は大変重く響いてきます。


冒頭は阿智村長岳寺にある山本慈昭さんの像


新刊「太一と夜泣き松」の配本のため、本日も長野県内の書店に本を配ってきました。

南北に長い長野県。県内縦断のドライブです。そんなドライブの目を和ませてくれるのが、山々の紅葉。その美しいことは、まさに「錦秋」という言葉がふさわしい。

しかし、「錦秋」というと秋ですが、今年は11月7日が立冬。そう、すでに暦の上では「冬」なのです。やっと紅葉が見ごろになったのに…。いくら暦の上とは言え、冬と言うのはいくらなんでも早いんじゃないか。と思うのです。

そもそも「立冬」は24節季の1つ。24節季は旧暦に作られたものですから、旧暦の11月の初めは現在の11月の後半か12月の始め。それならば「冬」と言っても十分通ります。

季節感が希薄と言われる現在ですが、折にふれて24節季の意味と本来の時期とのギャップを一度考えてみるのもいいかもしれません。