4 月 2009
Monthly Archive
2009 年 4 月 29 日
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長野県東御市。その祢津地区に江戸時代に建てられた歌舞伎舞台が2つも残っています。
毎年その歌舞伎舞台を使って地域の人たちが歌舞伎を演じています。いわゆる地歌舞伎、村歌舞伎というものです。さっそく見物に出かけました。
見物に伺ったのは東町と呼ばれる地域に残る歌舞伎舞台。この舞台は廻り舞台を備えた、なかなか立派なものです。だいたいこの手の舞台は神社の境内にあることが多く、この東町の舞台も神社の境内にあります。おそらく神社の祭礼に併せて歌舞伎を上演し、神と人が一体になって楽しむという日本古来の考えを継承したためでしょう。
演目は地元小学生歌舞伎クラブが演じる『勧進帳』。歌舞伎保存会が演じる『菅原伝授手習鑑 寺子屋の場』。

開演前から大勢の観衆が訪れています。
最初は小学生の『勧進帳』から

弁慶、義経、富樫など主要な配役はこの3月まで小学生だった中学1年生(1年間のクラブの成果をこの舞台で発表するため6年生は中学進学の後になります)が演じます。
衣装もなかなか本格的で、所作が決まるごとに客席からおひねりが飛ぶ。中でも弁慶は女の子が演じており、どうしてどうして堂々とした弁慶でした。
弁慶が白紙の巻物で物怖じせず「勧進帳」を読み上げ、一行に不審を抱く富樫が弁慶の読み上げる巻物をのぞきこもうとする。それを眼で制す弁慶。思わず「弁慶!」「よっ!富樫!」と声援を送りたくなるような熱演ぶりでしたよ。
そのあとは保存会の皆さんで演じる『菅原伝授手習鑑 寺子屋の場』。
役者はもとより、義太夫、三味線も地元の方々が演じる本格的なものです。


こちらは回り舞台を使った本格的なもの。保存会の皆さんの熱演が随所に光りました。
こうして子供から、大人まで歌舞伎に親しむ。決して安い経費でできるものではないと思いますが、それを地域みんなで理解して支える。こういうところが伝統を引き継ぐ力、ひいては地域の底力なのではないかと思います。本当にいいものを見させていただきました。
また、来年も見に来たいな。他の村歌舞伎も見てみたいな。ついでに本物の歌舞伎も見たいな。その時はやっぱり播磨屋さん(中村吉右衛門)がいいな。そんなことをちょっぴり考えています。
2009 年 4 月 13 日
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毎朝わたしが通勤する千曲川の土手。その桜並木も満開となりました。
この時期の信州は桜だけでなく、アンズに桃など色とりどりの花盛り。土手からはその木々が見えるため通勤途中のちょっとした楽しみになっています。
でもそんな快適な通勤も長野市内に入るといつもと車の流れがちがう。
そう、今年は7年に1度の御開帳。平日にも関わらず観光バスが狭い長野市内に押し寄せるためちょっとした渋滞になるのです。平日でさえこれなのだから休日はどうなるのか?ましてやゴールデンウイークは?う~ん考えただけでブルブル。
ジモティーからアドバイスさせていただくと、善光寺とその周辺は道が狭く、駐車場もそれほど多くありません。郊外の駐車場に車を止めてシャトルバスでお出かけいただくか、電車でお出かけいただくことをお薦めします。そのほうが急がば回れで、駐車場探しに手間取ることなく比較的スムーズに参詣できます。
現在、観光ツアーのバスは善光寺の本堂の裏にある駐車場に止まります 。ですからツアーのお客さんはお寺の裏からお参りすることになります。これはまさに裏口参詣。でもこれっておもしろい?目的地にただ運ばれて来たというだけ話です。
旅の面白さって、町をブラブラ歩いたり、ちょっと食べ歩いたり、新しい発見があるから面白い。目的地からの目的地のドア・トゥ・ドアではただ行ってきましたというだけで、あまり印象に残りません。
長野はやっぱり善光寺の門前町。古い建物もあるし、美味しいものもある。 見て歩くところもいっぱいあります。寺も町も歩いて楽しむ。それが善光寺参りの一番の楽しみ方です。
「そんなこと言うけど善光寺は初めていくからわかんない~」とおっしゃるあなた。いい本がありますよ。
ほら『善光寺散策案内』。

これならくわしく善光寺と門前町の見どころをもバッチリ。消費税も入れてちょうど1000円ポッキリだよ~。
(この番組の提供はオフィスエムでございます)
2009 年 4 月 12 日
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4月4日から19日まで御代田町の浅間縄文ミュージアムで行われている『森貘郎板画展・老農関口江畔と山頭火』。その中で「フォーラム老農・関口江畔と山頭火を語る」を12日に行われました。このたび小社からも関口江畔『老農詩集』を発刊いたしましたので早速行ってきました。

パネラーは森貘郎氏、浅間縄文ミュージアムの学芸員の堤隆氏。そして江畔の孫にあたる関口不二人氏の3人です。
←左・森貘郎氏 右・堤隆氏 森さんが江畔の詩を朗読
関口江畔は慶応元年、農家に生まれました。この時期は幕府の長州征伐が失敗に終わり、時代は明治へ向かう激動の時代でした。幼名は毛佐松(けさまつ)。
明治8年、江畔7歳。このとき母をコレラで亡くし、幼い江畔は母の遺骸を荼毘に付しました。この当時コレラ患者の遺骸はコレラの感染を防ぐため身内で人里から離れて荼毘に付していました。幼い江畔にとって母を荼毘に付すということは大きな衝撃だったのではないかと思います。
更には父とも生別し、祖母に育てられました。
明治18年。岩村田の町に出て商売を始めました。主に米穀、肥料、薪炭を扱い、特に鉄平石の切り出しと販売でかなり繁盛したようです。
大正12年には若山牧水に師事。短歌を習います。このとき58歳。 まさに50の手習いでした。
しかし、このころから大きな転機が訪れます。
第一次世界大戦後の不況により商売が思わしくないところに、長男が病死。ここで心機一転して店を長女夫婦に譲り、三男・父草と共に農業の道に戻りました。
このことについて孫の不二人氏は、当時店があった場所は花街の前にあり、花街で働く女性たちを身近で見るにつけ、その女性たちを働かせる店に物を収める自分の商売に常に疑問を感じていたのではないかと言われていました。
←孫から見た江畔を語る関口不二人氏
更に大正15年には仏道を志し、父草とともに禅の修業に 励みます。
仏道を志した背景には、農民として大地と共に生きていくことや、母や長男を失ったことの死生観があったのかも知れません。
昭和4年。自由律俳句の『層雲』に遭い荻原井泉水に師事。句作と詩作に励み、このころから文人墨客とも多く交わったようです。
昭和11年には種田山頭火が江畔宅に滞在。江畔宅を中心に佐久地方を歩き回ったようです。
山頭火は大変、江畔宅が居心地が良かったようで、別れに際して「さよなら、さよなら、ほんたうに関口一家は親切な方々ばかりであった。羨ましい家庭であった」と書き残しています。
山頭火の世話をした父草の奥さんは「山頭火さんほど大変純粋な方はいなかった」と言っていたようです。
不二人氏によると江畔の人となりは毎朝お経をあげてから朝食。
食事は玄米と野菜。そして食べる前には必ず物を食すということについて説話があったとのことです。禅では食事も修行のひとつと捉えていますが、その点ではやはり在家でありながら禅僧としての一面を覗かせます。
禅を修行しながら、農民として生きた関口江畔。まさに地に足をつけた言葉から作られた詩は現在を生きる我々の心にも大変響いてきます。

→浅間縄文ミュージアムホームページ