九度山・真田庵

大阪から南海電鉄に乗ること1時間余り。途中、橋本で乗り継ぎ、やって参りました紀州九度山。
関ヶ原の合戦で敗れ、失意の真田昌幸・幸村父子が10年以上蟄居生活を送った地であります。
上方のことばで、
「くど」
といえば、カマド、ヘッツイのことをいうのだが、なるほど紀ノ川の河原からこの丘を見あげると、カマドに似ていなくもない。
この丘にある九度山村は、ふるくから高野山の寺領であり、高野山への登り口であり、ふるくはここに高野山(金剛峰寺)の政所があった。それだけに村というより町といった方が似つかわしいほどに人家が密集し、人文的な歴史もふるい。(中略)
九度山における最大の寺院は、慈尊院という古刹である。次いで名のある寺として、
「善名称院」
という文字のふんいきのいい寺号をもつ寺がある。昌幸・幸村の父子が九度山にいたときは、この寺はなかった。じつはこの寺そのものが真田屋敷で、かれらが九度山を去ってからのちに土地の人々が寺にし、かれらの滞在時代の余風を慕った。土地の人々には評判のいい流人だったらしい。
(司馬遼太郎『城塞』(新潮文庫)より)
この九度山での目的地は、「文字のふんいきのいい寺号をもつ」善名称院。通称「真田庵」。
町はずれの丘にある九度山駅に降り立った、編集長とわたしの二人は、どうみても旅人としか思われない恰好をしているのもかかわらず、中学生から道を尋ねられ(こっちが道を尋ねたい)、途中、丹生川の清流に心を癒され、名物・柿の葉寿司の店を尻目に見ながら進むこと10分余り。町の中ほどに真田庵があります。
お寺というよりも古いお屋敷のような立派な建物。

さっそく、庵主様にご挨拶をし、長野から持参した栗羊羹をさし上げました。
「すみませんねえ。お客様が来る予定で手が離せなくて…」と庵主様。
いえいえ、お気になさらずに。こちらは適当に写真を撮影しますので。と、われわれは境内や宝物館内を撮影いたしました。
真田昌幸もこの地で没したため、境内には昌幸の墓もあります。大名とはいえ罪人だったためか、いささか小ぶりな石塔。
江戸時代の俳人・蕪村が訪れて詠んだ句
「炬燵して語れ真田が冬の陣」
「隠れ住んで花に真田が謡かな」
の碑もありました。
ひと通り取材を終え、庵主様にお礼を申し上げた我々ふたり。多少の雑談の後、庵主様は「ところで…」と前置きをして、われわれの成年月日を聞かれました。わたしが答えると、口の中でモゴモゴと計算して、
「あなたは、我慢強い性格で、裏取引もできる。酒も好き」
とおっしゃる。どうやら占星術=占いが好きな庵主様のようです。それにしても酒が好きというのは大いに合っている。あとの二つも当たっていなくもないような……。
編集長は「プライドが高く、純粋な人」とのこと。その辺は大いに納得であります。
「2人とも今年から来年にかけては気をつけて下さいよ」とアドバイスまでいただきました。
いままで、こういう占いってちょっと眉つばに思っていましたが、実際に聞いてみると妙に納得してしまいました。
真田鉱夫説
紀ノ川の撮影の後、旧街道を歩いて町の中を散策します。古い町並みや看板。どこか郷愁を誘います。さてその町中に通称「真田の抜け穴」と言われるものが。

案内板によると大阪城まで続いており、幸村はこの穴を利用したとのこと…。
オイオイオイ。ここから大阪城までって。半端じゃねえぞ。いったいそんな穴掘っても10年かけても掘れねえよ。第一、毎日穴を掘っていたら徳川の監視に怪しまれるって。
それに、昨日行った大阪の三光神社にも「真田の抜け穴」があったし、上田城にも抜け穴を持つ井戸がある。
どれだけ穴が好きなんだよ。真田。ひたすら穴を掘り続ける真田一族。ひょっとしてその正体は鉱夫か…。
現在も、赤城山の麓で徳川埋蔵金伝説を追って、三代に渡って穴を掘り続ける水野さんの一族がいるけれど、真田の穴掘りもその偉業に勝る勢いだ。
まあ、いわゆる「真田の抜け穴」は伝説であり(そんな事はわかっているよ)、三光神社や九度山の抜け穴も古墳の石室だと言われています。
でも、こういう伝説はロマン。そういうものに目くじら立てて否定するのは、大人げないというか、無味乾燥。野暮ってもんです。
歴史にはそういう荒唐無稽と知りつつも、ロマンを感じる心というのも大切だと思うのです。
そのロマンを追って本当に穴を掘り続ける水野さん……。もはやロマンを追うという次元をとっくに超えています。埋蔵金の有無は別にして、その執念には敬意を表したい。だれもマネはできませんが。
さて、われわれも再び南海電車に乗って終点、高野山を目指します。
高野山
九度山から再び南海電鉄に乗り、極楽橋の駅からロープウェイに乗り換えて高野山へ。
目指す、蓮華定院は高野山の入り口近くにあります。
蓮華定院は真田父子が高野山に配流されたとき、とりあえず落ち着いた場所。ここから妻子を呼び寄せ九度山に移り棲んだようです。
前もって取材の許可を頂いていたので、まず我々は奥の一室へ。ちょうどご住職は昼のお勤めの最中とのことで、その間奥様が我々の応対をしていただきました。
蓮華定院は宿坊にもなっていて、高校生と思しき若いお坊さんもきびきびと働いてらっしゃる。
奥様のお話では高野山高校の生徒を預かっているとか。
「皆さん実家がお寺の方ですか」と編集長。
「いや必ずしもそうではないんですよ」
奥様の話では、関西の方ではお寺と普通の人がかなり近い関係で、様々な悩みや問題をお坊さんに打ち明ける事が多いとか。その中で自分もお坊さんになりたいという若い人もかなりいるらしい。
なるほど。お寺とのそういうつながりってとっても良いですよね。本来お寺ってそういう存在だったはずなんですよね。
我々がお寺と深く関係する時はお葬式の時ぐらいしかない。こちらでのお寺との関係って率直にいいなと思いました。感心しきりでした。
その後、お勤めの終わったご住職からお寺を案内していただき、真田氏を始めとする信濃の武士たちと蓮華定院の関係、高野山の話など様々な興味深いお話を聞かせていただきました。
この場を借りて篤く御礼申し上げます。
8月22日、23日の土日に大阪方面へ取材に出かけました。今回はそのご報告です。
社長の寺島と鴨林は、出版が予定されているクリニクラウン協会の、編集長の村石と私は現在制作中の真田三代の取材であります。
22日の朝4時に会社に集合し、大阪に向けて出発いたしました。大阪に到着したのは10時頃。やはり大阪は遠い・・・。
大阪に到着後は、それぞれの取材に向けて行動します。われわれ、真田取材班は大阪城に向かいます。

大阪城ですよ。大阪城。やはりデカイ。
実は、お城好きな私。しかしながら大阪城へは来る機会が無く、初めてです。それだけに興奮気味。大変見事な石垣です。
ところで、ご存じの方も多いと思いますが、現在の大阪城は秀吉が築いた物の上にさらに盛り土して徳川幕府が築いたものです。ですから秀吉時代の遺構はほとんどが地下に埋まっているわけです。

太閤秀吉の銅像です。城内にある秀吉を祀る豊国神社にあります。最近作られたもののようです。

本丸に入ってすぐ眼を惹いたのが、天守閣ではなく、この近代的な建物。実は最近まで大阪市立博物館として使われていましたが、もともとは第4師団司令部。戦時中は中部軍管区司令部。軍都大阪を象徴する建物です。

大阪城天守閣です。この天守閣は戦前の昭和6年に建てられたもの。戦争中の空襲にも奇跡的に焼失を免れました。
広い場内を私たちは盛んに写真を撮り歩きましたが、ややお疲れ気味の編集長が「大阪城の本を作るわけじゃないんだからこのぐらいにしようや」という一言で、適度のところで切り上げました。
ところで、この日、目についたのは中国や韓国からの観光客が結構来ていたこと。
食堂のおばはんも「ニーハオ」なんていいながら注文を採っている。
太閤秀吉って中国や韓国の方々には人気がないはずなんだけど。その太閤ゆかりの大阪城に来るのってアリなのか。ちょっとよくわかりません。
炎天下の大阪。もう汗だくだく。おまけに荷物が肩に食い込んできます。次に向かうのは幸村が冬の陣で立てこもった真田丸の跡地です。広い大阪城の公園を横切って、森ノ宮駅へ。真田丸跡の玉造駅は電車でひと駅です。
玉造駅を降りたとき、荷物をロッカーに入れました。カメラ一つの軽装備に。しかし、これが後でとんでもないことになろうとは。

玉造の商店街には、いたるところに、真田の六文銭が。後で知ったことですが、この近所の真田山小学校の校章も六文銭をモチーフにしたものだそうです。幸村を誇りにしているんですねえ。
玉造駅から歩くこと数分。幸村が大坂冬の陣で砦を構えた真田丸の跡地(の一部)と言われている、三光神社に到着。
この神社には真田幸村の銅像と俗に「真田の抜け穴」と言われる穴があります。

幸村の銅像。なかなか立派です。
私と編集長でしきりに写真を撮っていると、2人の若い女性が来て、カメラや携帯で写真を撮り始めました。
今、流行の「歴女」の方々でしょうか?
しかし、あれですね。何をもって「歴女」って言うんですかね。なんかこの手のマスコミが流行らした言葉ってあんまり好きではありません。単なる歴史好きの女性なら昔からいましたし、そういう意味では、うちのおふくろは50年前から「歴女」だよ。
あんまり定義のはっきりしない言葉を作って、独り歩きさせるのはどんなものかと思いますよ。
とにもかくにも、我々おっさん2人と、女性2人組が幸村像を取り囲んで写真を撮りまくる。なんか変な光景ではあります。
さて、次に目指すのは茶臼山。天王寺公園の一角であります。
玉造駅から電車で行くこと10分余り。天王寺公園駅で降りました。駅の前は公園。しかし、山らしいものが見当たらない。地図を見ようにも荷物と一緒に置いてきてしまったため、よくわかりません。それでも、事前に大体の方角だけはつかんでおいたのでそちらに向かいます。自分一人なら多少無駄足をしても「まあ、いいか」ですみますが、編集長が疲れた足を引きずりながら歩いているので、実は内心気が気では無かった。それでも公園内の大阪市立美術館のガードマンに道を聞いたら親切に教えてくれました。
茶臼山は冬の陣では家康が本陣を構え、夏の陣では幸村が陣を構え最後の決戦を挑んだ場所。真田軍は旗も甲冑も赤一色に統一したいわば赤備え。その赤備えの軍団が陣を布いたのですから、茶臼山は一斉に赤いつつじが咲いたようだと当時の記録に残っています。
慶長20年5月7日。幸村は茶臼山の本陣を出撃。家康の首を目指して、東軍の越前松平勢と衝突します。
「幸村その日のいでたち見てあれば、緋縅の鎧に鹿の角の前立て、白熊つきのかぶと。河原毛の馬に六文銭の綾うったる金ぷくりんの鞍おいて♪パンパン(講談の張り扇を叩く音)」と『真田三代記』などでは大いに盛り上がるところであります。つまりこの辺りが夏の陣最大の激戦地です。

しかし、山と云うより、丘といったほうがふさわしい。それもそのはず。もともと茶臼山は古墳でした。
茶臼山から通天閣が間近に見えます。大阪らしい風景です。
さて、本日最後の目的地、幸村戦死の場所、安居神社に行かなくては行けません。
しかし、地図を玉造に置いてきたので安居神社の場所がわからない(泣)。
このあたりであることは間違いありません。そんなに離れた場所ではないことは確かです。しかし、肝心なことがよくわからない。
事もあろうに幸村戦死の場所の写真が無くては本にはなりません。幸いそこに公園事務所があったので、聞いてみました。
「すみません。安居神社に行きたいのですが」
「あ、安居神社ですね」と職員の方。親切に公園の地図を持ってきて教えてくれました。
「公園をこう抜けて、こちらに行ってください。そうすればすぐです」
「あ、どうもありがとうございます」
外で待っていた編集長はもう限界に近い様子。
「村石さん。もうすぐで終わりますからがんばりましょう」と言いながら、教えてもらった場所に歩いて行きます。
その職員さんが教えてくれた場所は公園の東隣。しかし、これがとんでもない事になろうとは…。
教えてもらった場所に近づくと神社とおぼしきものが。「あった。あれだあれだ」と言いながら近づくとどうもちがう。事前に調べた神社の写真とどうも様子がおかしい。神社の名前をみると「堀越神社」とありました。どうやら職員の方が間違えて教えたらしい。
しかし、普段がよくないので編集長は私が聞き間違えたと思っているようです。今でも。
道を行く数人の人に「安居神社はどこですか」と聞いてみましたが、「よくわからへん」とすげない答え。途方にくれていると段ボールを積んだリヤカーを自転車で曳いている廃品回収のおじさんが通りかかりました。廃品回収という商売上、地理に明るいに違いない。
「すみません。安居神社ってご存知ありませんか」
「この辺神社が多いよってよう知らんわ」
…安居神社って歴史マニアの間だけ有名で一般の人にとってあまり知らないのかな
「でも、この神社(堀越神社)の宮司さんなら知ってるやろ。わしが聞いてみるわ」
「え。この神社、宮司さんいるんですか?」
「おるよ。そこが社務所や」
神社の隅に確かに社務所がありました。おっちゃん、自転車をわざわざ止めて社務所まで一緒に来てくれました。
「そこから声かけてみ。おるはずやで」
「ありがとうございます!!」段ボールのおっちゃん。地獄に仏とはまさにこの事。大阪の人は親切だ!!
宮司さんも大変親切に教えてくれました。宮司さん本当にありがとうございます。
本当の安居神社は茶臼山の北隣でした。
かくして、炎天下、重い疲れた足を引きづりながら、最終目的地、安居神社に到着しました。
われわれがクタクタになりながら安居神社に入るのとすれ違いに、先ほど三光神社の幸村像の前で会った2人組の女性が出て来ました。どうやら我々より一足先に安居神社に来たようです。
茶臼山ならびに天王寺公園を管理している(であろう)大阪市に申し上げたい。
歴史好きが茶臼山に来れば次は安居神社に行くのは必然ではないのでしょうか?茶臼山と安居神社は幸村ファンにはワンセットですよ。
せめて周辺地図ぐらい公園に設置してほしい。今は女性だってわざわざ安居神社にくるんだから案内板だけでも出して欲しい。
ウソの道を教えられた腹いせにそのように思うのであります。
かくして、安居神社も取材が終わりました。
編集長は足が痛く、すでに限界に近い様子で痛々しい。それでも何だかんだと私に苦情を言いながらもキッチリと仕事をしていただきました。
どうにか、こうにか、我々の大阪「秋の陣」第1日目が終了いたしました。
ヘロヘロになりながら築港の旅館に入りました。もう汗だく。
明日は紀州・九度山と高野山の取材があります。こんな感じで大丈夫でしょうか?続きは次回。