きょうで沖縄が〝日本〟に〝返還〟されて40年目(1972年返還)になるのだそうだ。「核抜き本土並み」などという空々しい言葉が、当時の新聞紙上に躍っていたことを思うと、茫々たる時間の流れに隔世の感を禁じ得ない。

返還時、「沖縄は行くも地獄、留まるも地獄」と評したのは、先日亡くなった吉本隆明であった。孤高の思想家の言葉の通り、沖縄は未だにアメリカと日本の狭間で「地獄」を生きている。その吉本にして核=原発には極めて脇が甘かった。
フクシマはいま、行くも地獄、留まるも地獄の状況にある。吉本には、せめてあと数年生きてフクシマを見届けて欲しかった。
「吉本さん、それでもあなたは原発を容認しますか?」と問うてみたかった。吉本隆明はそれを聞くに値する人でもあった。

先月、長い間わたしの仕事を手伝ってくれていたKが、夫の仕事の都合で那覇へ移住した。長野を去ることに一抹の淋しさを感じていた彼女に「望んだってこんな機会はやってこないのだから、しっかりと沖縄を見てきたら」と、私なりに彼女の背中を押してやった。
そのKが、那覇市内でマンションを探していた時、どこのマンションも本土からの放射能避難の人たちでいっぱいになっていたと話してくれた。
フクシマがオキナワと繋がっていくのも、皮肉な歴史の必然であるのかもしれない。

90年代半に、松本市浅間温泉で沖縄の残波大獅子太鼓の公演を企画した。その際、読谷村の知花昌一さんにも来ていただき、沖縄戦や基地の街オキナワの話を聞くことができた。
彼は、読谷村の〝
象の檻〟(楚辺通信所)の地主として、また1987年の沖縄国体のソフトボール会場で、球場に掲揚されていた日章旗(国旗になったのは1999年)を焼き捨てたことで名を馳せていたが、先日、久しぶりに朝日新聞の「ひと」欄で頭をまるめて僧侶になった知花さんを見たばかりであった。

当時、知花さんのたっての希望から、松代の大本営跡へ案内することになった。
その際、残波大獅子太鼓の公演の実行委員の一人でもあった浅間温泉鷹乃湯専務の鈴木さんと私は、当時、右翼に狙われていた知花さんのボディガードとは名ばかりの玉避け役をさせられていた。何故、そんな役回りになったのか、定かではない。さしずめ、他に適任者がいなかったのであろう。

深夜、三人で夜食のラーメンを食べて、そのまま温泉に身体を沈めた。
その時、知花さんが「天皇をかくまうための大本営地下壕を松代に造っている時に、沖縄のガマ(自然洞窟)では、住民が米兵に焼き殺されたり、天皇の兵隊によって集団自決を強要されていたんだね……。これで繋がった……。沖縄と信州が穴で繋がったね」と誰に話すともなく話されていたことが、昨日のことのように覚えている。

玉避け仲間の一人だった鈴木さんも既に鬼籍の人となった。いつも温和で優しくて、頼り甲斐のある兄貴的存在だった。それからしばらくして、画家いわさきちひろとも浅からぬ縁があった当の鷹乃湯もまた、その歴史に幕を閉じた。

「返還40年」という節目の年に沖縄を再考するならば、1872年(琉球藩設置)に始まり79年の沖縄県設置の「琉球処分」に至る歴史を顧みなくてはならない。そうしなければ、沖縄、否、琉球は見えてこない。

いつの時代にあっても国家は、絶望の淵に追いやられる一部の人々の犠牲によって成り立っている。国家はそれを〝繁栄〟 と称している。沖縄に反映の象徴たる原発が無いのは、米軍基地があるからである。

目を懲らして見るがいい──。
そこには、琉球から140年目のフクシマが見えてくるはずだ──。


前回のブログでは、『古井由吉自選集』(河出書房新社)の発行に際し、ゆくりなくとも、わが古井由吉遍歴を懐旧の思いとととも開陳してしまったのであるが、飜って一昨日のことである……。

某書店では、新刊の販売がメインではあっても、近年、古書も扱うようになっていた。そのことは、この業界の状況を見渡してみるに無理からぬこともあるし、かく言う小社でも、インターネット(ネット横丁 http://o-emu.net/netyoko/yamazaki/)で古書も扱っている。
いい本なら無論、自社ばかりでなく、当然、新刊ばかりでなく古書も推薦提供できたらという思いからのことである。読者にとって1冊の本は、常に新しい出会いなのだから。

 件の書店では、先ず古書コーナーから見始めることにしている。出版されて2週間もしないうちに、店頭から消え去ってしまうことが少なくない本との思わぬ出会いが叶うと「おお、ここに居たのか……」などと、思わず本を手にして独りごちてみることだってある。
いわば、時流から外れたが故に〝いい本〟との出会いが待っていることも往々にしてある。と同時に、自分が編集した本を古書店で目撃したりすると、それもまた本の運命と知りつつも、編集者ならではの悲哀を感じないこともない。それでも、もう一度、違う読者との出会いがあってくれと願うのは、生みの親の心境に近いものがある。

だが、一昨日はわが目を疑った。出版されたばかりの『古井由吉自選集』の第1回と第2回配本の新刊がすでに古書コーナーに並べられていたのである。決して安価な本ではない。
その隣には、なんと辺見庸の最新刊『死と滅亡のパンセ』(毎日新聞社)、さらに水村美苗『母の遺産 新聞小説』(中央公論新社)と、自分がごく最近購入したばかりの本が並んでいることに茫然、愕然としたのである。

因みに、『古井由吉自選集 一』(第1回配本)は3月、『古井由吉自選集 六』(第2回配本)は4月、『死と滅亡のパンセ』は4月、『母の遺産 新聞小説』は、3月と、何れも2012年の新刊であり、ほぼ定価より1000円ほど安値になっているか、半値が付けられていた。

昨今ではこの位のスパンで古書店に回ってくることも珍しくはない。事実、1973年の大江健三郎の新刊『洪水はわが魂に及び』(2巻)の発売日に、同書が古書店(都内)でも販売されていたことがある。
穿ってみるに、買ってはみたものの一読に値しない本として、古書店に売ったとうこともあろう。

ただ仕事柄、一度も目を通されていない、つまり一回も開かれたことがない本であることは一目瞭然。そのことは探ってみる必要がある。
真新しい新刊が古書となって販売されている。さらに同書は、新刊コーナーで正規の価格でも販売されているのである。同じ書店の店頭に、同じ発行日の
価格の異なる新刊が同時に販売されているのである。これは、読者にとってもフェアではないし、書店の信用度にも関わる。

書籍にはすべてバーコードが付されている。販売の際だけではなく、入荷の際にもチェックできていたら、こういう事態は防げたのではないであろうか、ま た、せめて書店員の心得として、自分の店頭で売られてる新刊くらいには意識が行き届いて欲しかった、というのは無理難題を強いることになるのであろか。

先日、カード会社から、何時ものようにカードの利用額の中間報告のメールが届いた。その金額を見て驚いた。35万円! に及んでいるではないか。全く身に覚えはない。

早速、カード会社に問い合わせみたところ、Aamazonで購入した本代金が、実際の100倍の請求額になっていた。
1週間から10日間くらいの期間に30万円の本を購入できるほどに私は裕福ではない。

Aamazonにも問い合わせたところ、「決済代行会社の一時的なシステム不具合により、カード会社へのご請求金額に誤った金額が反映されるという事象が発生しました」という官僚的な返答が戻ってきた。このことは、夕方のニュースでも報道されていたのでご存知の方も多いはず。

そんなこんなのゴールデンウィークの事の次第である。
ますますもって、本は何処へ行ってしまうのであろうか、と感慨も一入である。

本来ならば、連休中に訪れたフクシマの取材記を書こうと思ったのであるが、心ならずもこのような不愉快な話になってしまった。それは、また、日を改めて別の機会に。



『古井由吉自選作品』 (全8巻)の刊行(河出書房新社)が先月から始まった。すでに単行本の刊行時に読んだ作品が主であっても、「自選」という一言にそそられた。
「入手困難な作品も収録したファン垂涎の全8巻!」などという版元の仕掛に、いとも容易く堕ちてしまうのであるから、古井ファンにとっては、文字通り垂涎の的と言うべきであろうか。

第1巻は「杳子」「妻隠」「行隠れ」「聖」という古井小説の原点とでもいうべき初期作品が収録されている。加えて巻末の解説が朝吹真理子とあれば、やんぬる哉、といったところであろう。

オビには「感覚と知覚の揺らぎ、過剰と欠如、重く鋭利な文体、エロティシズムとユーモア、愛の可能と不可能……常に新しい読みを促す、古井文学の原点!」という、心憎いまでの惹句が躍っている。
常に新しい読みを促す〟ことは、優れた小説の必須の条件であることは言うまでもなく、常に読み手側の主体性が強いられてこそ、古井小説の醍醐味というものであろう。

まして菊地信義の格調高い装幀とあれば、文句のつけようもない。昨今の本の内容とは無関係なこけおどし的華美な装幀が頻発するなかで、モノトーンの重厚な装幀は流石と言わねばならない。
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タイポグラフィをここまで美しく表現した装幀家は、菊地信義を置いてほかにいない。

古井由吉の小説を初めて読んだのは、おそらく『円陣を組む女たち』(中央公論社/1970年)だったと記憶しているから、すでに40年以上も同時代の一作家を読み続けていることになるのだが、浅学の身にとって古井小説の妙味をひと言で語ることは、容易なことではない。

例えば「杳子」という作品の何を語ることによって、古井小説を語ったことになるのであろうか、思案に余るのである。
何ものかを語ろうとする先から、己の言葉が齟齬をきたすのである。何かを掴んだつもりでいても、たちまちそれらは掌からすり抜けてしまう。
実は、このすり抜けたモノこそが古井文学の真諦に他ならないのであるが、そこを的確に指摘したのが「死霊」の作者、埴谷雄高である。

──ここには事物の襞を緻密に見る観察のデティルがある。また生活の全体を眺めようとする知的な操作がある。/この作者が本来もっている憂鬱と倦怠は、それらの知的な分析力によって、なんらかの拘束と孤独のなかに生きている現代人の構図にまで高められ、昇華させられて、私たちはここに、まぎれもない〈閉ざされた現代〉のひとつのかたちを見るのである。(『円陣を組む女たち』のオビより

これは「円陣を組む〜」だけに限ったことではない。「杳子」もまた、そんな憂鬱と倦怠の閉ざされた現代(70年代)を描いた作品である。事物の襞、あるいは男と女(杳子)の襞を描くことにおいて、古井由吉の文体が際立ってくるのである。

また、「杳子」という小説を装幀という立場から読み解いたのが、司修である。

──『杳子・妻隠』の装幀に、ぼくは、一本の木としてやせ細った女を描いた。枝である両腕は垂れ下がり、顔はうなだれている。生気のない木に見えるが、樹木として成長していて、根はがっしりと大地を掴んでいる。そうすることで動くことを拒んでしまわなければならないけれど。『杳子』 には樹木化した女などどこにも出てこない。(中略)女の木は、小説を何度も読んで掴んだのではなく、読み終わるとすぐに銅板を針でひっかいていた。はっきりしたものはないのに、銅板に傷がついていくと、女は木になっていた。(『本の魔法』司修/白水社)
動くことを拒んだ、曰く言い難い〝
杳子〟を樹木化させたことが、司修ならではである。

杳子〟との出会いは、還暦過ぎの今回で3度目になる。初めての出会ったのは、10代最後の年だった。2度目の出会いは小説ではなかった。
それは1988年──30代後半の春だった。
当時はまだ村だった鬼無里の木彫家、高橋敬造氏の工房へ時折遊びに行かせてもらっていた。
暫くぶりに彼の工房へ顔を出したとき、これまでの敬造さんの
一見無骨で荒削りな作風とは明らかに違う作品が忽然と目の前に出現したのである。

一見して、「杳子だ……」と独りごちていた。 「へぇーっ、分かったの、流石だなあ」とすかさず敬造さん。
敬造さんも決して多いとは思えない〝杳子〟ファンの一人であった。とりわけ司修の銅版画の杳子に敬造さんは魅せられたのである。
銅版画〝杳子〟が木彫の〝杳子像〟になっていた。

彼の工房へ行く度に、杳子像を 愛でていたのだが、ある日、とうとう杳子を略奪するという実力行使に打って出た。
爾来、杳子像は相変わらず首をうな垂れたまま、わが家の居間に居てくれているのだが、杳子のことである、何時また忽然と姿を消してしまうことになるかもしれない。

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司修◎銅版画の杳子〉と〈高橋敬造◎木彫の杳子像

10代後半、30代後半、そして60代前半に出会った3人の杳子──。
けだし、読書の世界は深く、〝
杳子〟は摩訶不思議な存在と言わねばならない。
〈閉ざされた現代〉であればこそ、古井由吉を読むことによってかろうじてうな垂れてしまいそうな何ものかを、支えられているのかもしれない。

先に引用した『本の魔法』もまた、本読みにとっては、まさに垂涎の一冊である。希代の装幀家、司修の目を通して読書が深くなることを付記しておきたい。


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