この国に真の歴史が成り立たちにくいのは、過去をことごとく形骸化してしまうという、この国特有の重篤な病に起因している。そこには歴史から学ぶべきものが見えてこない。

例えば「敗戦」を「終戦」と置き換えて、8月15日に国家的セレモニーをすることで「8月15日」を形骸化してしまったことにも顕著である。


今朝、渡辺一枝さんの「一枝通信」を拝読した。そこには72年間、真摯に歴史に向き合ってきた人間の姿を目撃した。

この「一枝通信」を読みながら涙が溢れた。以下にその全文を引用させてもらう。


  8月15日朝、いつものように朝食の支度を済ませ、購読紙の東京新聞を開きました。

一面の「平和の俳句」が目に入った途端、涙が溢れました。

満州〟が胸に満ち、溢れ出たように思いました。

「八月に母國という語を抱きしめたい」

その句は、英文学者の小田島雄志さんが投稿された句でした。

小田島さんは敗戦の1年後、15歳の時に満州から引き揚げて来た方です。

私は小田島さんより15歳年下で、母の背に負われて引き揚げてきたのは1歳半の時でした。

ですから小田島さんが体験した満州も引き揚げ時の光景も、私の記憶には全くありません。

それなのになぜでしょう。

「母國という語を抱きしめたい」と読んだ時に、〝私の中の満州〟が一気に胸にせりあげてきたのでした。

 

 子供の時から私は、自分のことで泣いたことがありません。

4つの時に、倒れた墓石の上に転んで大腿骨を骨折したその時も、骨折院に入院して痛い治療をされた時も、「先生のバカァ!」と喚いても泣かなかったそうです。

 引揚者で母子家庭は、差別か同情の対象でした。

差別的な言動に遇えば、言い返すか手足で相手を攻撃しました。

同情に遇えば、ふくれっ面をしてそっぽを向きました。

差別や同情に晒されるのは我慢ができないことでした。

涙は差別する相手や憐れむ相手の思い通りの私になってしまうということは、幼い私が直感的に感じていたことでした。

だからそんな時には、怒りを相手にぶつけたのでした。

母や叔母達には「強情っぱりな子だ」と言われていました。

 

 母が死んだ後で幾度となく訪ねたハルピン、そこから通った旧満州各地で会った残留邦人の方たち。

母國を恋ながら、かの地で亡くなった方たち。

「落葉帰根」の思いを抱き続け、戦後数十年経ってようやく帰国したものの十分な生活保障もないまま、母國に抱きしめられぬまま故人となった方たち。

お一人お一人の顔が浮かんできたのでした。

 哈尓濱外僑養老院で亡くなった亀井さん、林さん、玉田さん、鳥越さん、上田さん。

朝鮮人の伊さん、白さん、安さん、アメリカ人のマグリー・フラー、ロシア人のコーリャン、ポポフ、マリナ……。

黒河や斉斉哈尓、牡丹江、長春、海拉尓で会った残留孤児の劉さん、王さん、李さん、丹さん、楊さん、張さん……。

哈尓濱や孫呉で幾度となく会い、帰国されてからも埼玉の帰国者定着促進センターで、また故郷の山梨に帰郷されてからも会い、そこで亡くなった岩間典夫さん。

方正で会った松田ちゑさん、大友愛子さん篠田君子さん、方正は何度か訪ねたのに皆さんが帰国されてからは、とうとう会えずじまいのまま鬼籍に入られた。

そして方正に稲作指導に通っていらした藤原長作さん。

長春で、そして哈尓濱でも会った松永緑さんは故郷の佐賀県に帰国されてから、何度も遊びにいらっしゃいと誘ってくれましたが、とうとう再会できぬまま旅立たれました。

 「八月は母國という語を抱きしめたい」小田島さんの句に“満州”で会った人たちのお顔が走馬灯のように思い浮かび、だのに、そこには父の顔はありませんでした。

 2017年8月15日、私が自分に涙を流した朝でした。            いちえ


マッチ擦るつかの間海に霧深く身捨つるほどの祖国はありや


と歌ったのは寺山修司である。果たしてわれわれには、心の底から日本を抱きしめるときはやって来るのだろうか。

 


昨夜、一人で夕食をしている最中、驟雨とともに雷鳴が轟いたと思ったら忽ち停電になってしまった。どうやら近くに落雷したようである。

たまには蝋燭の灯りで食事をするのも悪くない。それにしても、昔の人はよくこんな灯りで暮らしていたものだと思う。

ヨーロッパへ行くとことのほか室内が暗いことに気がつく。ほぼ黒目の日本人と色素の薄い欧米人では光量の感じ方が違うのだそうだ。彼らがサングラスを手放せないのはそのせいだとも聞いたことがある。無論、「色」の捉え方も日本人と欧米人では違っている。例えば、ファションにしても、日本では絶対にお目に掛からない色調を眼にする。逆に日本の古代色は類希な色調である。アジアの飛びきり煌びやかなネオンサインと欧米の抑え目なネオンサインの違いも色調が影響しているのだろか。

身近に点る蝋燭の火をめぐる夢想……そういえばガストン・バシュラールに「蝋燭の焔」という一書があったことを思い出した。「蛍雪の功」という言葉もあるが、試しに蝋燭の灯りで読書を始めてみたのだが、ほどなくして、蝋燭の明るさ(暗さ)と食後の睡魔に抗うこともできず、いつの間にかソファに寝入っていた。

気がつくと、かれこれ2時間以上も停電したままである。隣近所に電話してみたところ、どうやら停電はわが家だけのようである。口の悪い隣人からは「電気料金滞納してませんか?」と揶揄される。「毎月、容赦なく銀行口座から引き落とされているさ!」と返す言葉も空しい……。

それから中電に電話して、あれやこれや試みること20分ほどして、やっと電気は回復した。それなりに蝋燭を堪能していたはずなのに、家中に電気の明かりが戻ってくるとホッとしている現金な現代人がいるのである。

結局、停電の理由は不明のままなのだが、電灯が無いと家中の音まで消えてしまったよう気がするから不思議である。その代わりに、何やら〝気配〟や〝物の怪〟のようなものを感じたのである。はてさて狐ならぬ雷小僧にでも謀かられたか……。

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長野高校文芸班の女生徒さんが、初めて訪ねてくれたのは、昨年の10月だったと記憶している。彼女たちによると文芸班が発行している雑誌『紫苑』の編集に行き詰まりを感じているとのこと、そもそもスタッフ的にも少数化は免れず相談できる先輩もいなかったとのことだった。

これは長野高校だけの問題ではないだろう。随分前から〝文芸(班)〟は死語になりつつある。出版社が発行している文芸誌にしても年々、瀬戸際まで追い詰められているのも事実である。

その時は、既刊号をパラパラと捲りながら、二、三の感想を述べたに過ぎなかったが、昨日、最新号の『SHION』(vol.19)をわざわざ持参してくれたのである。なんと編集後記にはぼくへの謝辞まであってかえって恐縮してしまった。

無論、指摘する箇所は枚挙にいとまがないのだが、それを差し引いても、よくぞここまで纏めたものだと感心する。ページとページのすき間から彼女たちの〝熱意〟が伝わってくる。文芸への微かな希望も読み取れた。こういうところから真の編集リテラシーが生まれてくるはずである。

雑誌ばかりではない、彼女たち自身、話す時も相手の顔を見ながら実に真摯に話す。いわゆる〝今時の若者〟の口調ではなく、自分の言葉で自身の考え方をしっかり述べる。そこに改めて文芸の力を見た思いがする。

『紫苑(SHION)』は次号で20号を迎える。1年に2号ずつ発行しているというから、次号は10年目の節目にもなる記念号である。どんな記念号になるのか今から楽しみである。

そして、長野高校文芸班に心からエールを贈りたい。

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