2012 年 5 月 15 日
きょうで沖縄が〝日本〟に〝返還〟されて40年目(1972年返還)になるのだそうだ。「核抜き本土並み」などという空々しい言葉が、当時の新聞紙上に躍っていたことを思うと、茫々たる時間の流れに隔世の感を禁じ得ない。
返還時、「沖縄は行くも地獄、留まるも地獄」と評したのは、先日亡くなった吉本隆明であった。孤高の思想家の言葉の通り、沖縄は未だにアメリカと日本の狭間で「地獄」を生きている。その吉本にして核=原発には極めて脇が甘かった。
フクシマはいま、行くも地獄、留まるも地獄の状況にある。吉本には、せめてあと数年生きてフクシマを見届けて欲しかった。
「吉本さん、それでもあなたは原発を容認しますか?」と問うてみたかった。吉本隆明はそれを聞くに値する人でもあった。
先月、長い間わたしの仕事を手伝ってくれていたKが、夫の仕事の都合で那覇へ移住した。長野を去ることに一抹の淋しさを感じていた彼女に「望んだってこんな機会はやってこないのだから、しっかりと沖縄を見てきたら」と、私なりに彼女の背中を押してやった。
そのKが、那覇市内でマンションを探していた時、どこのマンションも本土からの放射能避難の人たちでいっぱいになっていたと話してくれた。
フクシマがオキナワと繋がっていくのも、皮肉な歴史の必然であるのかもしれない。
90年代半に、松本市浅間温泉で沖縄の残波大獅子太鼓の公演を企画した。その際、読谷村の知花昌一さんにも来ていただき、沖縄戦や基地の街オキナワの話を聞くことができた。
彼は、読谷村の〝象の檻〟(楚辺通信所)の地主として、また1987年の沖縄国体のソフトボール会場で、球場に掲揚されていた日章旗(国旗になったのは1999年)を焼き捨てたことで名を馳せていたが、先日、久しぶりに朝日新聞の「ひと」欄で頭をまるめて僧侶になった知花さんを見たばかりであった。
当時、知花さんのたっての希望から、松代の大本営跡へ案内することになった。
その際、残波大獅子太鼓の公演の実行委員の一人でもあった浅間温泉鷹乃湯専務の鈴木さんと私は、当時、右翼に狙われていた知花さんのボディガードとは名ばかりの玉避け役をさせられていた。何故、そんな役回りになったのか、定かではない。さしずめ、他に適任者がいなかったのであろう。
深夜、三人で夜食のラーメンを食べて、そのまま温泉に身体を沈めた。
その時、知花さんが「天皇をかくまうための大本営地下壕を松代に造っている時に、沖縄のガマ(自然洞窟)では、住民が米兵に焼き殺されたり、天皇の兵隊によって集団自決を強要されていたんだね……。これで繋がった……。沖縄と信州が穴で繋がったね」と誰に話すともなく話されていたことが、昨日のことのように覚えている。
玉避け仲間の一人だった鈴木さんも既に鬼籍の人となった。いつも温和で優しくて、頼り甲斐のある兄貴的存在だった。それからしばらくして、画家いわさきちひろとも浅からぬ縁があった当の鷹乃湯もまた、その歴史に幕を閉じた。
「返還40年」という節目の年に沖縄を再考するならば、1872年(琉球藩設置)に始まり79年の沖縄県設置の「琉球処分」に至る歴史を顧みなくてはならない。そうしなければ、沖縄、否、琉球は見えてこない。
いつの時代にあっても国家は、絶望の淵に追いやられる一部の人々の犠牲によって成り立っている。国家はそれを〝繁栄〟 と称している。沖縄に反映の象徴たる原発が無いのは、米軍基地があるからである。
目を懲らして見るがいい──。
そこには、琉球から140年目のフクシマが見えてくるはずだ──。

