2012 年 2 月 4 日
昼下がりのこと。
それまでの強風は、いつの間にかやんでいた。リビングの吹抜から仰ぐ2階のガラス戸越しに、青空がスコンと広がって、雪に晒したような雲が浮かんでいた。
その〝青〟に誘われるようにして散歩に出かけた。 足もとには、突風に飛ばされた小枝と枯葉が散逸していた。そして、陽はまだじゅうぶんに高かった。
頭上には完璧な青が広がっていた。
「まっ黒な予兆をはらんだ青空の下……」。
ジョルジュ・バタイユの『青空』とバルセロナの〝黒みがかった蒼天〟を思い出していた。フッとため息がもれた。


登山道入口の鳥居も腰のあたりまで雪に埋もれていて、雪を被った両脇の狛犬が向き合って合掌していた。

川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』(講談社)のなかで、主人公から「どうして空は青いのですか」と聞かれた恋人の物理学教師は答える。
「波長の短いものほど散乱するんですね。青い光は短いから散乱しやすくて、だからあんなふうに空全体がおおきくみえるんですよ(中略)色っていうのは波長の違いも関係しているんです。波長が短くなるにつれて青っぽくみえて、逆に長くなれば赤っぽくみえるんです。太陽から届く光の色んな部分のなかで、青いところだけが散乱しやすいんですね。だからそれがどんどん広がって、空全体がおおきくみえるんです。(中略)……そして夕暮れになると、青い光はもっともっと散乱してゆくので、散乱しにくい赤い光が強調されて、いわゆる夕焼けという感じの空になるというわけです」(『群像』2011年9月号より)
「真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う」という本作の冒頭の1行目に戦慄した。その弛まざる小説的戦慄は「〜光が去って、明日の朝また、光がここを訪れるまでの短いあいだ、わたしはしずかに目を閉じた」という最終行まで継続していた。
決して凡庸な物語に収斂することなく、書くことの、すなわち読むことへの真摯で静かな小説的パースペクティブに驚きを禁じ得ず、改めて小説(言葉)のもつ力を知ることになった。
『すべて真夜中の恋人たち』は、2011年というもっとも過酷な年に読んだもっとも傑出した小説であった。
因みに川上未映子は、『乳と卵(ちちとらん)』 で芥川龍之介賞を受賞(2008年)しているのだが、先日、同賞の選考委員である石原槙太郎が、第146回芥川賞選考後の記者会見で「全然刺激にならない」「いつか若い連中が出てきて足をすくわれる、そういう戦慄を期待したが、全然刺激にならないから」と選考委員を辞任した。
笑止千万。ずっと以前から小説の戦慄からも、その刺激からも不感症に罹っていて、足をすくわれる価値などとうに失せてしまった石原には、とうてい『すべて真夜中の恋人たち』を読みこなす力など持ち合わせてはいないであろうし、まして、新い才能に嫉妬する特権からも見放されてしまっている。
ファッショ的で、かつ卑屈でコンプレックスがそのまま保守主義の権化となった石原の駄弁などで、日本の若い小説は毫も揺るぎはしない。田中愼也の弁ではないが、新党結成にでも勤しんでいるがいい。まして、〝文学〟など金輪際口にすべきではない。
散歩は思いも寄らぬところで、横道にそれてしまった。だからこそ、散歩は楽しいのであるが。



