還暦を手前にして、初めてフリマ(フリーマーケット)なるものに、お付き合いさせてもらった。
参加してみて知ったのだが、どうやらフリマ参加者の多くは、自分が不必要になったモノを破格値で売ってしまうシステムのようである。
事実、妻が買った男物の大きな白いコートは、デザインもすこぶるよくて私好みで、なんと値段が150円也というから価格破壊の本家本元、デフレーションの震源地とみた。くだんのコート、妻には当然ながら大きすぎて『たぁくらたぁ』編集長の野池元基が着たら、着るというよりむしろ着られていた。結果、やはり隣に出店していた古着屋の若旦那から買った黒のフェルト帽(前から探していたので千載一遇とはこのこと)とともに私が着ている。
その野池編集長は、やはり150円のブレザーを買った。どうやらブランド品のようであるが、無論、彼には似合う道理もないのだが、本人はけっこう気に入ったりしている。私には古着を着せられた山田の中の一本足の案山子にしか見えない。まあ、馬子にも衣装ということもあるか。
この界隈に路地が経巡っているというわけでもないが、話がだいぶ横道にそれた。わがフリマ初体験、事の次第は以下のとおりである。
処は信州。善光寺は東町に「bonnecura ボンクラ。」なる、けったいな空間がお披露目されることになった。廃屋寸前の元ビーニール傘工場(鰻の寝床が裏の路地まで突き抜けていて、中には立派な蔵やら不思議なスペースが継ぎ足されている)を、地元の建築家やデザイナー、フリー編集者らによる7人の侍ならぬ、7人の酔狂陣によって甦った「bonnecura ボンクラ。」は、さながら日本版パサージュ。
パサージュ(passages)とは,「通過」や「通り抜け」或いは「小径」を意味するフランス語。彼の地には、ガラスのアーケードのついた商店街がある。ここにヒント得て『パサージュ論』を著したのがドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミン……。
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◎ぼんくら入り口。高い瓦屋根がいい。ここから始まる夢空間。
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◎キャッチボールも出来る鰻の寝床。
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◎ぼんくらの客間。ガラス越しの光が床に深い影を落としていた。
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◎裏口は、またもう一つの路地への入り口。
……と、またしても横道にそれてしまったので「ぼんくら」に舞い戻ることにする。
その「bonnecura ボンクラ。」さんから、一声かけられたのが「たぁくらたぁ」の粗忽堂。といっても出店しているわけではなく、ネット上で緑町は古書の山崎書店をオープンしているに過ぎないのである。
果たして、ぼんくらに、たぁくらたぁが声掛けられたを誉れとするかはさておき、予てより古本屋のオヤジ、もしくは風呂屋の番台のオヤジにこよなく憧れていた私としては、これを断る由もない。
昨今長野市では、またぞろコンクリート中毒者や文化芸術コップレックスの輩たちが、市役所の立替やら1000人規模の市民会館を建てようなどという夜郎自大なことを画策しているのを聞くにつけ「使い続ける文化」に挑戦している「有限責任事業組合 bonnecura ボンクラ。」に大いなる敬意を表し、粗忽堂としては、初のフリマ、興味津々と参加させてもらった次第。

さて、わが粗忽堂である。主に古書、従に新刊を、たった2メートルの所場で商おうっていうのは、古書店というより、フーテンの寅。店主の「独断と偏見で選んだ本だけ」「立ち読み心ゆくまで」「読みたくない本は売らない」をモットーに、軒先ならぬ鰻の寝床の中ほどをお借りしての、たった一日の商いを十分に堪能した次第。
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◎粗忽堂の開店。独断と偏見で選んだ200冊!!
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特筆すべきは、子どもによる子どものための自然発生的「読み聞かせ」を目の当たりにしたことである。
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写真右端のいちばん小さい娘が、オフィスエムの社員鴨林くんとデザイナーの長針さん夫妻の一粒種、円(まどか)ちゃん(2歳)。円ちゃんの橫と後ろにいる娘さん二人は、デザイナー庄村さんとこの娘。こころちゃん(10歳)と、もえぎちゃん(5歳)。
もえぎちゃん、円ちゃんをソファに座らせると、やおら並み居る絵本の中から選んだのが、小社の新刊絵本『おおまきの唄が聞こえる』というのだから、この子は実に賢いのである。この子の行く末が楽しみ。
もえぎちゃん、時折お姉ちゃんに間違いを指摘されつつも、隣の円ちゃんに、揚々として読み聞かせを始めるではないか。これには周囲の大人たちも、ついつい3人の読み聞かせに耳目が奪われてしまう。
本作りを生業として、やがて30年。これほどに本の在処、本の有り様が輝いている姿を目の当たりにしたのは初めてである。単に一編集者の感慨を超えて、1冊の本がかくも至福な時間と空間に包まれていることに感銘を受けたのである。
それは、取りも直さず「ぼんくら」という場所があってこその僥倖であった。いうまでもなく、スクラップ・アンド・ビルドによる無機質なスペースからは、これほどに頬笑ましい物語は生まれることは決してない。
よって「ぼんくら」は、パサージュであり、路地であり、広場にほかならない。
往来で人々の袖が触れあう。風が人の気配を運んでくるのである。
使い続けることの向こう側に、様々な物語が立ちのぼってくる。そこに新たな記憶がうまれていく。