『田村隆一全詩集』
 

腐刻画
ドイツの腐刻画でみた或る風景が いま彼の眼前にあ
る それは黄昏から夜に入ってゆく古代都市の俯瞰図の
ようでもあり あるいは深夜から未明に導かれてゆく近
代の懸崖を模した写実画のごとくにも想われた

この男 つまり私が語りはじめた彼は 若年にして父
を殺した その秋、母親は美しく発狂した

東京、新宿紀伊国屋書店の詩歌の書棚。黄色の函に納まった詩集『腐敗性物質』(立風書房)は、田舎の書店では到底お目にかかることのできない、たくさんの詩集の中に混じっていた。田村隆一────未知の詩人であった。『腐敗性物質』は、冷めた熱性を────一種の恐怖を孕んで────放ち、たちまちにぼくの前に────まるでその詩集自体が生き物であるかのように────自己を主張して立ちつくしていた。
いまだ淡い感傷を捨てきれない少年期の残滓とあらゆるものに、猜疑と反抗の精神が内包しつつあった青年期のとば口にあった、ぼくの魂に「腐敗性物質」ということばだけが、ある怖れをともなって、胸深くに落ちた。とりわけ、巻頭詩「腐刻画」においては、その硬質なことばの構築に────ことばが言葉として屹立している────セクシュアルなまでの眩暈を覚えた。
時は1970年、19歳の春であった。詩集『腐敗性物質』における、「近代的自我」を全身で受け止めるには、ぼくは若すぎた。それから、30年余、ぼくは田村隆一を読み続けてきた。
2000年夏、『田村隆一全詩集』(思想社)が発刊された。28冊の既刊全詩集と未刊詩篇102篇を収録した、A5判、1500頁におよぶ、詩人の全仕事である。『広辞苑』とほぼ同じ厚さで、枕頭の書として、文字通りいま、ぼくの枕元にある。
田村隆一は、一貫として、崇高なまでに「死」を書き続けてきた詩人である。

一遍の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるたったひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない(「四千の日と夜」)

野のなかに小鳥の死骸があるように わたしの頭のなか
は死でいっぱいだ/わたしの頭のなかに死があるように
世界中の窓という/窓には誰もいない(「幻を見る人」)

わたしの屍体に手を触れるな
おまえたちの手は
「死」にふれることができない
わたしの屍体は
群衆のなかにまじえて
雨にうたせよ(「立棺」)

そこには死が満ちている。詩人にとって、「死」は同時に「詩」でもある。だからこそ、田村隆一は一貫として「死=詩」を書き続けてきた。科学文明が、その頂点に達した20世紀は、また、戦争と革命の時代でもあった。戦争と革命は、おびただしい死亡証明書の山を築いた。20世紀末、わが国の自殺者数が3万人迫るという。自殺者も、また戦死者同様に文明に殺された理不尽そのものにほかならない。理不尽な死に、報いはない。残された人間にも、また報いはない。よって詩が成立する。死者を甦らせ、私自身を甦らすために、一遍の詩が存在する。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる(「帰途」)

おれは小屋にはかえらない
ウィスキーを水でわるように
言葉を意味でわるわけにはいかない(「言葉のない世界」)

戦後、われわれがもっとも喪ったものは、死者の数にも匹敵する、「ことば」である。という、妄想に取り憑かれて久しい。田村隆一の詩を読んでいると、そのことを痛切する。ウィスキーを水で割るように、私たちのことば(いのち)も薄められている。
1998年、詩人は最後の詩集『1999』(集英社)を刊行した。

さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの
人間の世紀末
1999(「蟻」)

田村隆一は、21世紀などまっぴらご免とばかりに、1998年8月、食道癌のため亡くなった。享年75。
「死よ、おごる勿」が、詩人の絶筆となった。「死」がまた、「詩」であることは言うまでもない。

(『僧伽』2001年1月1日)