2011 年 11 月 25 日
日課になっている、午後の森へ散歩に出かけた。
広葉樹が落葉して剥き出しにされた枝が、つるべ落としの西日を浴びて異形なシルエットを地表に落としている。
それでも、O・ヘンリー的に踏み留まっている〝最後の一枚の葉〟を見かけると、いささかながら感銘を覚えたりもする。
早春の芽吹に始まり、葉裏を閃かせた夏の日を足早に見送り、やがて紅葉落葉して、鱗片でおおわれた冬芽を抱えて長い眠りにつき、ふたたびの春を待つ……。
自然とは実にこの繰り返しである。ひたすら何年も何十年も、あるいは千年もの間を、繰り返し繰り返し、流るるごとし歳月を送っているにすぎない。
いのちの有り様とは、かくもシンプルな繰り返しにすぎない……。人間とてしょせんは同じなのだろうが、自然から逸脱してしまった人類は、その日常的な繰り返しや摂理に抗ってみたり、支配しようと策略をめぐらせたりする。
だから、時折、自然から大きなしっぺ返しをされる。
毎年、秋になるとお騒がせのスズメバチは、山暮らしをする上で最も気をつけなくてはならない、怖い存在である。
そのスズメバチもこの時季になると、様相を一変する。ベランダの前のクヌギの樹に数匹のスズメバチが集まってきていた。飛び方も弱々しく、攻撃性も感じられず、堅い樹皮に穴を空けて無心に樹液を吸っている。
その姿は自ら〝末期の水〟を求めているようでもある。
かくして、その2日後、スズメバチを見かけることはなくなった。
長野市大岡で放射能に脅えながらも、有機農業「農楽里ファーム」を営んでいる友人夫妻がいる(http://www.norari-farm.com/)。
有機農業は、放射能(原発)の対極に位置していて、彼らはいま、福島の子どもたちに安全な食料を送る運動を支えている。
日々の営みのなかで、むきだしのいのちに直面しているからこそ、断絶ではなく、他者とつながる有機農業の本質を見るのである。
翻ってテレビジョンでは、ゲームのCMが盛に流されている。スマートフォンの畑で野菜を育てたり、果物を実らせたりするらしい。家人に聞いたところによると、モバゲーと称するものなのだそうだ。
「たまごっち」を思い出した。それが流行っていたのは1996年だというから、すでに15年も前のことになる。
スマートフォンによる疑似畑で疑似野菜を育てるモバゲー も、「たまごっち」も所詮は、ボタンひとつで〝いのち〟を自由に操る「いのち擬(もど)き」の虚構にすぎない。
自分の都合で水をやり、育てる。飽きたら栽培拒否。生かすも殺すも、気分次第の一方向的な〝ごっこ〟でしかない。そこには、一枚の葉っぱの生命力も、スズメバチの摂理や有機農業の繋がるいのちのリアリズムも、見ることはできないのだ。
遊んでいるつもりが、いつの間にやら〝いのち擬き〟に弄ばれているパラドックス社会が誕生した……。
そこには、関係性というリスクを拒む現代日本社会が抱えるパトロジー(病理)が浮かび上がってくる。
この国にとって「3・11」とは、いったい何であったのか。
戦後日本の既存の価値観が根底から問い直されたはずではなかったのか。
あれだけの夥しい、いのちの犠牲の代償が〝いのち擬き〟であったとは。
他者との関係のリスクを拒んだ社会が〝他人事のフクシマ〟を生んだのである。
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3・11 とは、何であったのか、3・11を総括的に問い直してみたいと考え、12月10 日(土)福島県飯舘村の酪農家・長谷川健一さんの講演会(http://o-emu.net/tarkuratar/)を、『たぁくらたぁ』編集部とオフィスエムが共同企画した。
長谷川さんは語る……。
「私たちが離村を余儀なくされるまでに味わった苦しみや仕打ちをビデオに収めました。福島県では想像を絶することが起きている。テレビや新聞の報道が伝えないことを、私の口から、私の声で話したいのです……」と。
長谷川健一さんの講演会は、
会場:長野市生涯学習センター大学習室3(トイーゴビル4F)
開場:午後1時30分 開演:1時40分
入場無料
主催:『たぁくらたぁ』編集部+オフィスエム
連絡先:026-237-8100(オフィスエム)

