2012 年 4 月 16 日
『古井由吉自選作品』 (全8巻)の刊行(河出書房新社)が先月から始まった。すでに単行本の刊行時に読んだ作品が主であっても、「自選」という一言にそそられた。
「入手困難な作品も収録したファン垂涎の全8巻!」などという版元の仕掛に、いとも容易く堕ちてしまうのであるから、古井ファンにとっては、文字通り垂涎の的と言うべきであろうか。
第1巻は「杳子」「妻隠」「行隠れ」「聖」という古井小説の原点とでもいうべき初期作品が収録されている。加えて巻末の解説が朝吹真理子とあれば、やんぬる哉、といったところであろう。
オビには「感覚と知覚の揺らぎ、過剰と欠如、重く鋭利な文体、エロティシズムとユーモア、愛の可能と不可能……常に新しい読みを促す、古井文学の原点!」という、心憎いまでの惹句が躍っている。
〝常に新しい読みを促す〟ことは、優れた小説の必須の条件であることは言うまでもなく、常に読み手側の主体性が強いられてこそ、古井小説の醍醐味というものであろう。
まして菊地信義の格調高い装幀とあれば、文句のつけようもない。昨今の本の内容とは無関係なこけおどし的華美な装幀が頻発するなかで、モノトーンの重厚な装幀は流石と言わねばならない。

タイポグラフィをここまで美しく表現した装幀家は、菊地信義を置いてほかにいない。
古井由吉の小説を初めて読んだのは、おそらく『円陣を組む女たち』(中央公論社/1970年)だったと記憶しているから、すでに40年以上も同時代の一作家を読み続けていることになるのだが、浅学の身にとって古井小説の妙味をひと言で語ることは、容易なことではない。
例えば「杳子」という作品の何を語ることによって、古井小説を語ったことになるのであろうか、思案に余るのである。
何ものかを語ろうとする先から、己の言葉が齟齬をきたすのである。何かを掴んだつもりでいても、たちまちそれらは掌からすり抜けてしまう。
実は、このすり抜けたモノこそが古井文学の真諦に他ならないのであるが、そこを的確に指摘したのが「死霊」の作者、埴谷雄高である。
──ここには事物の襞を緻密に見る観察のデティルがある。また生活の全体を眺めようとする知的な操作がある。/この作者が本来もっている憂鬱と倦怠は、それらの知的な分析力によって、なんらかの拘束と孤独のなかに生きている現代人の構図にまで高められ、昇華させられて、私たちはここに、まぎれもない〈閉ざされた現代〉のひとつのかたちを見るのである。(『円陣を組む女たち』のオビより)
これは「円陣を組む〜」だけに限ったことではない。「杳子」もまた、そんな憂鬱と倦怠の閉ざされた現代(70年代)を描いた作品である。事物の襞、あるいは男と女(杳子)の襞を描くことにおいて、古井由吉の文体が際立ってくるのである。
また、「杳子」という小説を装幀という立場から読み解いたのが、司修である。
──『杳子・妻隠』の装幀に、ぼくは、一本の木としてやせ細った女を描いた。枝である両腕は垂れ下がり、顔はうなだれている。生気のない木に見えるが、樹木として成長していて、根はがっしりと大地を掴んでいる。そうすることで動くことを拒んでしまわなければならないけれど。『杳子』 には樹木化した女などどこにも出てこない。(中略)女の木は、小説を何度も読んで掴んだのではなく、読み終わるとすぐに銅板を針でひっかいていた。はっきりしたものはないのに、銅板に傷がついていくと、女は木になっていた。(『本の魔法』司修/白水社)
動くことを拒んだ、曰く言い難い〝杳子〟を樹木化させたことが、司修ならではである。
〝杳子〟との出会いは、還暦過ぎの今回で3度目になる。初めての出会ったのは、10代最後の年だった。2度目の出会いは小説ではなかった。
それは1988年──30代後半の春だった。
当時はまだ村だった鬼無里の木彫家、高橋敬造氏の工房へ時折遊びに行かせてもらっていた。
暫くぶりに彼の工房へ顔を出したとき、これまでの敬造さんの一見無骨で荒削りな作風とは明らかに違う作品が忽然と目の前に出現したのである。
一見して、「杳子だ……」と独りごちていた。 「へぇーっ、分かったの、流石だなあ」とすかさず敬造さん。
敬造さんも決して多いとは思えない〝杳子〟ファンの一人であった。とりわけ司修の銅版画の杳子に敬造さんは魅せられたのである。
銅版画〝杳子〟が木彫の〝杳子像〟になっていた。
彼の工房へ行く度に、杳子像を 愛でていたのだが、ある日、とうとう杳子を略奪するという実力行使に打って出た。
爾来、杳子像は相変わらず首をうな垂れたまま、わが家の居間に居てくれているのだが、杳子のことである、何時また忽然と姿を消してしまうことになるかもしれない。
10代後半、30代後半、そして60代前半に出会った3人の杳子──。
けだし、読書の世界は深く、〝杳子〟は摩訶不思議な存在と言わねばならない。
〈閉ざされた現代〉であればこそ、古井由吉を読むことによってかろうじてうな垂れてしまいそうな何ものかを、支えられているのかもしれない。
先に引用した『本の魔法』もまた、本読みにとっては、まさに垂涎の一冊である。希代の装幀家、司修の目を通して読書が深くなることを付記しておきたい。






