編集余話


あの日(2011年3月11日)から、1年───。
目眩を覚えるほどのとてつもなく重く長い時間が流れたようにも思えるし、あれ以降「時間」というものが意識にのぼってこなかったような気もする。

昨日の政府主催による東日本大震災犠牲者の追悼式の会場が、被災地に背を向けた東京(国立劇場)だったように、おそらくは来年以降も「終戦記念日」と同様に中央(東京)による中央のためのイベントとなることは必定。

加えて野田総理大臣の文字通り掴み所のないニッポンを象徴したかのような空虚な式辞と、その舌の根の乾かぬうちの原発再稼働のためには「政府を挙げて説明し、理解を得る。私も先頭に立たなければならない」とコメントしたことは、あまりにも思慮を欠いた無神経な言動と言わねばならない。

明日、飯舘村の酪農家・長谷川健一さんの新刊『証言◎奪われた故郷 あの日、飯舘村に何が起こったのか』(http://o-emu.net/archives/10707.html)が発刊される。書店配本は14日から15日の予定である。

本書は、2011年12月10日、長野市生涯学習センター大学習室において、『たぁくらたぁ』編集部とオフィスエム共催による長谷川健一講演会「福島第一原発事故、全村避難、そして今──」を採録編集したものである。

本書の一番の特徴は、講演時の長谷川さんの東北(福島)訛を、できるだけそのまま表記した。長谷川さんの言葉を中央の標準語に置き換えてしまっては、文字通り長谷川さんの「ふるさと」を奪ってしまうからである。
従って講演時の臨場感───長谷川さんの福島訛から発する怒り、悲しみ、苦悩を活字化することを心掛けた。

2012年1月11日───。
長谷川さんの自宅のある飯舘村を訪れた。当日、長谷川さんは避難先の伊達市の仮設住宅から駆けつけてくれた。

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取り立てて 変わっところもない田舎風景に過ぎなかったのだが、こちら側の先入観からか、人の気配を覚えない風景には田舎独特の「温もり」を感じることはできなかった。

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殺伐たる牛舎を見せてもらった後、長谷川家の居間にお邪魔させてもらい、話を聞かせてもらった。
カレンダーは2011年3月のままであった。長谷川家の時間はあれから止まったままなのだ。ただ、あの日と違うのは、炬燵の上に線量計が置かれていたことである。

長谷川さんをカメラのフレームに収めた時、柱時計が「2時46分」を指していた。その偶然を告げると、長谷川さんは「フッフッ……」と照れ笑ともつかない笑を片頬に浮かべた。

「前の日まで、その廊下を孫が走り回ってたんだよ。俺はなんもいらねぇ。時間を3月10 日に戻して欲しいんだ。それだけだ……」
奪われた「故郷」とその「時間」を取り戻すことが不可能であることを、長谷川さん自身がいちばん分かっている。それだけに、虚しさと同時に怒りがふつふつと長谷川さんの全身を貫いていくのが知れた。

明日───、紙の礫第3弾『証言◎奪われた故郷 あの日、飯舘村に何が起こったのか』が発刊される。

そして本日、早朝───『たぁくらたぁ』の編集委員たちはフクシマ取材に出掛けて行った。編集長の野池元基は「どうであれ、『たぁくらたぁ』はしつこくいきます」と言い残して……。

 


去る7月24日、オフィスエムと雑誌『たぁくらたぁ』共催による、【脱原発ナガノ・2011フォーラム 「3・11フクシマ」から「脱原発」へ!!が『女たちの3・11』と銘打ってブックレットとして、ようやく来週(10月12日)発刊の運びとなった。
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『女たちの3・11』

(A5判/112頁/定価840円<税込>)

「女たち」とは、フォーラム第1部出席者の坂田雅子、纐纈あやの両監督、渡辺一枝(作家)、寺島純子(オフィスエム代表=司 会)、さらにブックレット制作スタッフの寺島仁美(編集)、庄村友里(レイアウト)、石坂淳子(装幀)、田之上尚子(表紙画)、平松マキ(撮影)さん女性たちによる見事なコラボレーションへの企画者からのオマージュでもある。

何故、「女たち」なのかは、フォーラムの折にも、ブックレットでも言及した。
福島第一原発事故は、科学の敗北であり、戦後の破綻でもあった。それは取りも直さず、「男社会」の 終焉を告げていた。と、私は考えている。

権力とカネへの飽くなき欲望(権威主義と市場原理主義)、自責の微塵もなく男々(めめ)しい嫉妬と足の引っ張り合い(「世間」という群れ社会)、い わゆる上から目線と無知と偏見(差別講造)……。
かくのごとき「男社会」が「原発」を形成してきたからである。まさにフクシマは、その象徴的な存在 であった。

無論、 何事にも例外はある。
今回のブックレットの2部では、関口鉄夫氏による環境科学の立場から言及した「変わらなきゃ、ニッポン! 廃棄物問題から見えてきた福島第一原発事故」が加わったことにより、本書はさらに深く本質的に「フクシマ」に迫っているいると、企画者としては、いささかの自負を抱いている。

さて、7月24日、長野市内でのフォーラムには、告知から当日までが短期間にも関わらず、100人以上の市民に足を運んでもらった。

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 (7月24日長野市ふれあい福祉センター )

当フォーラムのきっかけは、坂田静子著『聞いてください 脱原発への道しるべ』 を出版したことにある。
加えて著者の次女坂田雅子監督がベトナム戦争における米軍の枯葉剤散布をテーマとした新作ドキュメンタリー『沈黙の春を生きて』の公開が間近にあったこと、また若き友人でもある纐纈あや監督が、上関原発建設に揺れる祝島を舞台にしたドキュメンタリー『祝の島』が長野市で上映中であったこと。さらに、
『たぁくらたぁ』にチベット問題を、より本質的な問題提起を寄稿していただいた作家・渡辺一枝さんの3人から、「3・11」を、どうとらえたのか、「3・11」以後を、どう生きていこうとされているのかを、直接、お聞きしたかったからである。

3人の女性たちが、顔をそろえたことは、決して偶然ではない。この窮状にあって、明らかに三者それぞれの意識が必然的に邂逅したからである。それは、ブックレット『女たちの3・11』を一読いただけたなら瞭然であろう。

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纐纈あやさん(左)と坂田雅子さん

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渡辺一枝さん(左)と司会の寺島純子

渡辺一枝さんが講演の際、「……原発事故が起こった時に思った『どこかよそに行って暮らしたい』という思いとうらはらに、瓦礫の被災地を見て『ここで生きていこう』と、ここが私の『くに』だと、腹を括ったわけです。でも、なぜそう思ったのかの「なぜ」は判然とはしないのですが、「なぜ」を考えながらというのも含めて、このくにで生きていこうと思っています」に、呼応するかのように、他の3人の著者と私自身も相前後して、またある時は共に被災地入りをしていたことによって、ブックレット化に思いのほか時間を要してしまった。

なお、坂田監督のベトナム戦争のダイオキシンをテーマにした映画『沈黙の春を生きて』は、現在、岩波ホールで上映中(10月20日まで)である。
前作『花はどこへいった』同様に、否、それ以上に
『沈黙の春を生きて』は、観る側に過酷な現実を強いてくる。
枯葉剤(ダイオキシン)も放射能も、まぎれもなく私たち人類の原罪にほかならない。そこから目を離して生きていくことは、もしかすると容易なことかもしれない。だが、歴史がその不作為を許さないであろうことは想像に難くない。
「3・11」は、そのことを証明しているのである。

であるとするならば、人類もどこかで腹を括るしかないであろう。『祝の島』も『沈黙の春を生きて』の作者も、その現実から目を背けてはいないのだから……。
10月12日は、その坂田 VS 纐纈両監督によるトークが同ホールで再現される。
同日、ブックレット『女たちの3・11』も発刊される。

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『女たちの3・11』は、2011年3月11日の難事をどう受け止め、ふたたび命を繋いでいくのかを真正面から対峙して、腹をくくった女性たちによる明日へ向けた宣言である。


緊急出版『聞いてください 脱原発への道しるべ』が発刊にこぎ着けることができた。
これは多くの人々の心温まる支援の賜物である。発刊前後から、思いも掛けない出会いや新たな関係が生まれている。
友人たちが自分の本のように、さらにその向こうの読者に届けてくれている。その献身的な行為に、ただ頭が下がる。

出版とは、「瓦版(かわらばん)の如くあれ」が、私のささやかな出版理念である。
30余年前、坂田静子さんは、自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の耳で 聞いて、自分で原稿を書いて、自らが街頭に立って目の前の人に、新聞を手渡していた。メディア(媒体)とは、かくのごとき存在でありたいと思う。

『ヨハネ伝』にあるように、坂田静子さんによって蒔かれた〝一粒の麦〟が今〝〟を結びつつあるのだと思う……。

一方、坂田さんが本書の中で警鐘を鳴らし続けた大惨事は、いっこうに収束する気配を見せない。
昨日、計画的避難区域に指定された、
福島県飯舘村の役場機能が福島市に移転することになり、村における業務を終えた……。

本書の編集が始まって間もなく(5月24日〜26日) 、坂田雅子さんと信越放送の野沢喜代さんと私の3人は、宮城県の津波による被災地と原発事故の被災地である福島県飯舘村を中心に駆け足で巡ってきただけに、その記憶もまだまだ生々しい……。

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人気のなくなった飯舘中学校を撮影する坂田雅子さん。校舎に子どもの声が聞こえない、丘の上の保育園にも子どもの影すら見当たらない……。
SF的な光景の上空には抜けるような青空広がり、一層の虚しさを覚える。p1020875.jpg
産まれたばかりの飯舘村の子牛が、突然の訪問者である私たちを見つめていた……。子牛の瞳には、愚かすぎるニンゲンたちがどう映っているのだろうか。

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放射能被災地飯舘村の牛農家で、ソーラーパネルによる囲を使用していることのパラドックスは、不条理の極としか言えない……。

そして、とうとう恐れていたことが起こってしまった。
6月14日、相馬市で酪農を営む50代の男性が、「原発さえなければ」などと厩舎の板壁に書き置きをして自殺した。
もはやこれは人災ではない。これは国家的犯罪である。

飯舘村の垰に車を停めると、眼下に桃源郷のような風景が広がっていた。無論、無味無臭の放射能の気配など感じるはずもない。
その風景を眺めているうちに、私は「3.11」直後に書いた(雑誌『たぁくらたぁ』)「昭和──記憶の端っこで。」を思い出していた……。

「Надежда(ナジェージダ)=希 望」或いは本橋成一私論

                  [写真]本橋成一 [文]村石 保

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1986年4月26日、チェルノブイリ原発事故の風下にあったベラルーシ共和国の村々は、高濃度放射能汚染地帯に指定された。人はそこを「悲しみの大地」と呼んだ。
ある日、「STOP」ボーダーによって、大地はあちら側とこちら側に二分された。人はあちら側を「風下の村」と呼んだ。
強制移住を余儀なくされた村が、まるごと焼き払われ埋め尽くされ地図の上から消えていった。人はそこを「埋葬の村」と呼んだ。
それでも、大地を慈しみ、そこで命をまっとうしたいと願った人々は、ふたたびボーダーを越えて生まれ故郷の村へ帰っていった。人は彼らを「サマショーロ=我がままな人々」と呼んだ。

あれから25年……。ある日、この国にも「想定外」だった原発事故によって「レベル7」に指定された「悲しみの大地」が忽然と出現した。四半世紀をかけてようやく知り得たことは、世界中の原子力発電所によって堅牢な「グローバル世界」が構築されたアイロニーだけである。
もはや、われわれには脱出のための方舟も、約束の地も存在しない……。
それでも、本橋成一の「Надежда(ナジェージダ)=希望」の目差しと一枚の写真によって、われわれの魂は、かろうじて支えられていることを知る。

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〝ライフライン〟と化したコンビニエンスストアの入り口の「休業いたします」の貼り紙が象徴するように、「あちら側」と「こちら側」との間に
ボーダーが引かれたようにも思えたが、単に昨日まで「こちら側」であったFUKUSHIMAが、チェルノブイリという「あちら側」に置き換えられただけに過ぎない。
リフレッシュオープン「未定」の安定性を欠いた黒い文字が、事の次第を一層精緻なものとした。もはやボーダーなど何の意味も為さないことが、改めて知れただけである。
私たちは、「3.11」以後の〝ことば〟を自らの内に打ち立てなくてはならないだろう。だが、その困難を生きる術を私たちは、いまだ知らない。

にも関わらず、美しすぎて過酷なる6月〟が私の中を通り過ぎてゆく……。


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