福島


この映画を観て、もらい涙に、もらい笑い。『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』(古居みずえ監督2016年/95分)は、仮設住宅で避難暮しをする菅野榮子さん(チラシの写真左)と菅野芳子さん(写真右)の日々を描いています。

3月31日、飯舘村は避難指示が解除されて、1地区を除いて村民は帰還できるようになりました。榮子さんや芳子さんは、どんな選択をしたのでしょうか。原発事故や帰村への思いなどについて、菅野榮子さんにお話していただきます。上映会へぜひご来場ください。

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日時 5月20日(土) ①10:00開場/10:30上映  ②13:00開場/13:30上映

          「菅野榮子さんのお話」 15:15~  

会場 長野市東部文化ホール(長野市小島804-5 ☎026-296-8540)

入場料 前売り1000円 /当日1200円  中学生以下無料 託児あり(有料)

主催 「飯舘村の母ちゃんたち」を上映する会

問い合わせ 090-7213-8006(竹内) 

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ついでながら、菅野榮子さんのことを長野市民新聞(4月4日)のコラムに書いたので、以下に記します。

飯舘村の母ちゃんたち

凍み餅を知ったのは福島第一原発の事故後、福島へ通うようになってからだった。これは飯舘村の伝統食で、もち米とうるち米の割合を半々にし、オヤマボクチ(俗称ヤマゴボウ)の葉をつなぎに入れてついた餅を、寒風にさらして乾燥させた保存食である。

原発事故によって全損避難となった飯舘村では、凍み餅づくりができなくなった。このままでは村の伝統食が途絶えてしまう。そこで、「食」に携わる村民グループが、気候が似ている小海町で住民同士の交流による凍み餅づくりを始めた。もう6年が経つ。

凍み餅の作り方を伝授するのは、80歳になる菅野榮子さん。榮子さんは伊達市の仮設住宅で一人暮らし。「土とともに生きてきたから、百姓をせずにはいられない」と言って、仮設住宅の近くに畑を借りて野菜を作っている。

昨年の凍み餅づくりの時、榮子さんたちは小海町の仲間に語りかけた。みなさんはもう自分たちだけで凍み餅づくりができる。いつの日か飯舘村の放射線量が下がって、村民が安心して帰還できる時が来たら、今度は小海から飯舘に凍み餅づくりを伝えてください、と。未来を見据えた言葉、村への深い愛着に胸をつかれた。

この3月31日、飯舘村は避難指示がほぼ全域で解除をされた。役所は「お帰りなさい」とお祝ムード演出らしい。しかし、村の放射線量はまだ高い。榮子さんは言う。「孫の手も引いて帰れないところに〝お帰りなさい″は失礼でしょ」と。

榮子さんはこうも言っていた。避難指示の解除は「私たちを侮蔑すること」。それを容認したくないから、「私は帰村しない」と。その考えにぶれはない。でも、心は揺れる。同じ仮設住宅に住む一人暮しの親友は帰村を望む。「いっしょに戻ってほしい」とお願いされたのだ。榮子さんは決断を迫られていた。

けれど、決断は先送りになった。仮設住宅の供与期間が1年延期となり、榮子さんたちは仲良く入居し続けることにしたのだ。とはいえ、1年で線量が格段に下るわけではない。若い人が安心して村で暮らせるようになるまでは、まだ何十年という時間を要するのだ。

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なお、上映会では、小海町での凍み餅づくりをしている飯舘村の村民グループの世話役であり、『たぁくらたぁ』にも何度か登場していただいている菅野哲さんにも来ていただき、 榮子さんといっしょにお話をしていただきます。

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4月4日、飯舘村に行ってきました。南相馬市との飯舘村の境界辺りに立てられた看板(上)と 、その手前にずらりと並ぶ「おかげさまで」の旗(下)。福島市側の村の入り口も同じような風景になっています。

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なお、飯舘村での話は一枝通信に詳しいので併せてお読みください。


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東京電力福島第一原発の事故によって、大熊町から白馬村へ長女とともに避難移住した木村紀夫さん。彼の次女の汐凪ちゃん(当時、小学1年生)は津波で行方不明でした。昨年暮れ、その汐凪ちゃんの遺骨が発見さて、地元紙は1面トップで取り上げ、全国ニュースにもなりました。

木村さんは、『たぁくらたぁ』最新号の連載記事に、遺骨発見の連絡を受けた時のこと書いています。

「喜ぶべきその瞬間に思い浮かんだのは、気づかれずに瓦礫と共にバラバラにされて運ばれる汐凪の姿だった。それはあまりにむごたらしい光景で苦しくなった。
(中略)
原発事故により捜索事態ができない状況になり、2カ月半近くたってやっと行われた自衛隊による捜索も瓦礫の片づけと共にたった2週間で打ち切られ、逆に発見を遅らせる原因にもなった。急ぐ復興の名のもとに、汐凪はそこに取り残されてしまったのだ。」

遺骨発見の報道を見聞きした方たちから、「よかったね」という感想を聞きました。でも、そうであっても、そうではない、のが現実です。木村さんのお話を聞いていただきたいのです。

日時 3月15日(水)午後7時~9時 

会場 トポス(小布施町大字小布施1004) 

お問い合わせ TEL 090-7213-8006 (竹内)

主催 「飯舘村の母ちゃんたち」を上映する会 

なお、主催者が「飯舘村の母ちゃんたち」を上映する会 となっていて、「変だなあ」とお思いになった方もいらっしゃるのでは。実は、5月20日(土)に『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』(古居みずえ監督 2016年作品)の自主上映会を開催するために集まったのが、「上映する会」なのです。福島についてちゃんと知っておきたい、という思いから、上映会の前に3月15日の会を持つことにしました。上映会については、また改めてお知らせいたします。


『たぁくらたぁ』に連載をしてもらっている木村紀夫さん(大熊町から白馬村に避難移住)と、福島でこれまで何度かお話をうかがってきたKさんんのお話を、長野市民新聞の連載コラムに書いたので、こちらにも掲載します。

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父の思い、母の思い

福島第一原発が立地する大熊町から白馬村に、原発避難で移住した木村紀夫さんを1月初めに訪ねた。津波で行方不明だった次女の遺骨が昨年12月、5年9カ月ぶりに発見され、家族のもとに帰ってきた。でも木村さんの気持ちは晴れない。

遺骨が発見されたのは自宅から200メートルほど離れた瓦礫の山の中だった。原発事故さえなければ、避難をせずに捜索ができ、服を着たままの次女に会えたかもしれない。「瓦礫といっしょにバラバラに運ばれたんだなあ」と、木村さんはまず思った。「出てきてよかったなんて実感はまったくない」。東電や国への怒り、やりきれない思いが、父をとらえている。

木村さんを訪ねた数日後、福島へ行き、小学校2年の長女と今年新入学の次女をもつ母親のKさんに会った。昨年12月、彼女のもとに、福島県が行っている甲状腺がん検査の、長女の結果が届いた。Kさんはそれにショックを受けていた。

検査を2年おきにこれまで2回受けた長女の判定は、いずれも「何もなし」だった。ところが今回、のう胞(液体の入った袋状のもの)が見つかった。判定を見れば、のう胞は最小値のもので、心配しなくてもよい段階だ。でも彼女は恐くなってしまった。それには理由がある。

Kさん家族が住んでいるのは、福島市内では放射線量がかなり高かった地域だ。長女は事故後の6月、鼻血を出した。同じ頃、通っていた保育園では、他の園児も鼻血が出て、お母さんたちの間で、「出たよね」「出たよね」という会話が交われた。その後、発疹が現れたこともある。

「誰かに相談した?」と尋ねた。職場のオーナーと母親に話しただけだと言う。「ママ友には?」と聞くと、この小学校には、原発近くの町村からの避難者が多く、検査結果が最初から悪い人たちもいるので、騒いでは申し訳ないから黙っているという。独りで不安と闘っているのだ。Kさん、辛いね。

マスコミでは「復興」の文字が踊る。しかし、福島県では甲状腺がんやその疑いのある子供たちが増えている。それは同時に、Kさんのような「不安」をさらに強めてもいるはず。その計り知れない重さを、東電や国は軽々しく扱っている。木村さんの思いに対しても同じ。これは責任放棄なのに、それがこの国は野放し状態になっている。この現実から目を逸らすならば、Kさんたちをいっそう孤立させてしまうことになる。 

いま、『たぁくらたぁ』41号の編集作業の真っ最中。その41号にて、木村さんには連載の中で自身の言葉で語っていただき、またKさんの話は筆者の記事でもう少し詳しく書くつもり。2月初めに発行予定。どうぞよろしくお願いいたします。


長野市民新聞に参院選の結果についてのコラムを書きましたので、このブログにも掲載します。コラムでは長野県(今回の選挙から1人区)の結果に触れていませんが、ここでも自民党候補は落選しました。では以下、ご笑覧ください。

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(浪江町赤宇木の関場さん宅。家の中は動物に荒らされている。2016.7.5)

参院選挙の結果について、マスコミ報道を見ていたら、まるでアベ自民党が大勝したかのようだった。でも、それは違う。自民党は6議席増やしただけで、2人の現職閣僚が落選している。

落選閣僚の1人は岩城光英法相で、選挙区は1人区の福島県である。3年前の参院選では、自民党が民主党(当時)にダブルスコアで圧勝したが、今回は負けた。東電福島第一原発の事故から5年半が過ぎ、アベ政権は「復興」を唱え続け、来年3月には避難指示区域の大半を解除する。しかし、福島に原発事故の影響は重くのしかかったままなのだ。

南相馬市の小高区は原発から20キロ圏内で、7月12日に一足先に避難指示が解除された。その1週間前に小高区へ行った。町はひっそりしていた。子供のいる家族や若い人たちは戻らないだろうという。帰還を決めた住民の方々にも会ったが、心の底からの笑顔はなかった。

 浪江町の赤宇木地区へも行った。ここは未だに高線量地帯で、帰還の目処は立たない。案内してくれた住民の方は言う。「原発事故で誰一人責任を取っていない。腹立たしい。再稼動など許せない。燃料棒も取り出せないのに、事故が収束したと思っているのか」。

 住民の不安や苦悩は拭い去れていない。アベ政治の掲げる「復興」は政治的カモフラージュに過ぎないのだ。それに対する不信や怒りが、福島で自民党を敗北させたのだろう。

もう1人の落選閣僚は沖縄県(1人区)の島尻安伊子沖縄北方担当相。前回の参院選でも自民党は負けたが、今回は10万票の差(前回の3倍)がついた。

この沖縄県民の審判に当てつけるかのように、アベ首相は投票日の翌日、島尻氏を閣僚として当面続投させる考えを明らかにした。

さらに同日、政府は東村高江のオスプレイ用のヘリコプター着陸帯の移設計画地内に、建設資材の搬入を強行した。抗議する住民らを排除しての搬入は連日行われている。そして全国から500人の機動隊を現地に派遣し、7月22日には工事を再開した。

アベ自民党は「経済的な繁栄」の幻想をばらまき、限られた一部の地方に犠牲を強い続け、そこから国民の目を逸らすことで、参院選の勝利をせしめた。実際にはその勝利が小さくとも、「次は改憲だ」とアベ首相の奢りは極まっていくだろう。しかし、「この道を。前へ」でよいはずはない。他人事はいつか自分に降りかかってくる。

(長野市民新聞 2016年7月26日)


火山噴火で、火山灰や火山礫と一緒に黒いスコリアと呼ぶ塊状の多孔質の噴出物が噴出することがある。玄武岩質のマグマから揮発成分が発泡してできたもので、火砕流として斜面を流れ下って火山体を形づくったりもする。

火砕流として斜面を流れ下った阿蘇山のスコリア層が、終息の気配すら見せぬ熊本地震の被災地で、斜面崩壊という深刻な災害を引き起こすことが怖れられている。多発する激しい地震は大地に無数のひび割れをつくり出し、大地のひびから浸透する雨水がスコリア層ごと斜面を流れ下る可能性が高いからだ。

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ところで、環境省は栃木県の指定廃棄物の処理施設の候補地として同県塩谷町寺島入地区を指定した。

かつて、町の指定廃棄物対策班の担当者から手渡された地形図を見て、私は、候補地全体の急峻な地形に比べ、国が候補地したエリアに向かって舌状の緩やかな斜面が形成されていることが気になった。舌状の地形は沢を押し曲げている。あらかじめ予想していたことではあったが、現地に立ってはっきりしたことがあった。この舌状の地形はスコリア質の火砕流がつくりだした地形だった。スコリア層の上には、直径数十センチの礫を含む土石流も乗っていた。

火砕流と土石流が沢を押し曲げている地形の末端が指定廃棄物処理施設の候補地なのだ。候補地は舌状の崩壊性の地盤の裾にある。裾を切れば上からスコリアが動き出す。

しかも、平成27年9月10日の降雨では沢の濁流が候補地に冠水した。こんな土地が指定廃棄物処理施設の安全な候補地であるはずはない。

熊本では大規模な斜面崩壊による災害が危惧されるスコリア層が、栃木では問題のない地質と評価されたのだ。

候補地と決定した栃木県の「有識者」とはどんな方たちなのだろう。候補地選定の理由より、私は彼らの生き方の方が気になって仕方がない。


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杉下さんの家から再び県道に出ると、この道沿い、比曽川に沿って農地が広がる。荒れている。自然の遷移が進み、ヤナギが一面を覆い尽した田んぼがある。アカマツの幼木も目につく。一方で、草を刈ってあるところもある。そこが杉下さんの田で、屋敷まわりと同じく、ここもきれいにしているのだ。

「なんぼ住めなくても、自分の家の周りくらいは手入れをしていく。先祖様に申し訳ないから、元気なうちだけでもな。俺はな」

長泥へ入って2時間くらいが経過していた。あとは真っ直ぐに帰るだけだ。車に乗って運転を始めると、助手席の杉下さんが、こんなふうに問うた。

「自分のすべてのものを失った人の気持ちは少しは分かってくれたか?」

なんて答えてよいのか、戸惑った。「はい、分かりました」という言葉がすんなりとは出てこなかった。当事者の思いは計り知れないと思うからだった。

「3年経ち、4年経ち、でも線量が思ったほど下がねんよ。データを取るために試験除染した結果、帰れるような線量にならないことがはっきり分かってきたわけよ。これじゃ、だめよ。30年かかるんだよ。30年待っていられるか。ふるさとをあきらめるしかないっぺ」

「山ん中だけどね、住めば都で、つながりも深い。74軒あれば74軒の付き合いたあったからね。街に行けばそうはいかねもんな。いくら付き合っても隣近所3、4軒だものな。あいさつしねもの。5軒、10軒先の人は、こちらで頭を下げても頭下げねもの。頭下げるくらいは簡単なのにな」

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そんな話をしながら、長泥展望台まで戻ってきた時だ。イノシシの親子が桜の木の下にいた。杉下さんは車から出て、手を叩いて声を出してイノシシを追い払った。ウリボウ2匹はすぐに逃げたが、親2匹は動じない。「大きいべえ。これだもの。逃げねんだ」

イノシシはもう放っておき、車を発進させた。そして、情報を閉ざし、帰還を断ち切っているゲートの外へ出た。長泥での重い2時間だった。

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ゲートから外に出ても、そこに平常があるわけではない。

飯舘村役場のすぐ近くまでも戻って来た時、大型ダンプが頻繁に出入りしている現場があった。そこには、木が伐採されて半分近く崩されている山があった。「表土用だ。すごい高い山だったんだから」と杉下さんが言った。農地の除染は、表土を剥ぎ取ってフレコンバッグへ詰めるが、次にそこには客土をする。その新しい表土用として山を崩して土を取っているのだ。無残な光景だ。

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長泥地区へ行った翌々日、飯舘村前田地区の区長で元酪農家の長谷川健一さんに案内をしていてだき蕨平地区へ行った。蕨平は長泥の隣の地区で、帰還困難区域ではないが、それに準ずるほどに線量は高い。住民は避難指示解除になっても帰還しないことを決めている。

この地区には、飯舘村と近隣5市町の除染廃棄物を焼却する仮設焼却場ができ、今年なってから稼働しはじめている。その施設を見に行ったのだ。

この焼却炉は、杉下さんの家から4キロほどだろうか。焼却炉からは放射性物質を含んだ煙が出続け、長泥にも風にのって流れてくる。今年1月に長野県小海町で杉下さんに話をうかがった時に、この焼却炉の問題を強く訴えていた。

なお、これについては、「放射能ゴミ焼却を考えるふくしま連絡会」のHPが詳しいので参考にしてほしい。http://gomif.blog.fc2.com/(カテゴリ 飯舘村)

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飯舘村。そこには帰還困難区域があり、除染廃棄物を詰めたフレコンバッグが積まれた仮仮置き場があちこちにあり、山が表土になって消えてゆき、大規模な仮設焼却場はこれからが本格的に稼働する。これでは、まるで「明日」が見えない。

長谷川さんは言う。「原発再稼働に向けて、避難計画をどうするかという議論はされても、避難した後にどうなるんだ、という話がまったくされない」。こう語った時、長谷川さんの悔しさがにじみ出ていた。原発事故は避難して終わりではない。飯舘村を見ろ、飯舘村を忘れるな。そうも聞こえた。それは、杉下さんの声にも重なる。


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杉下初男さんは、福島第一原発事故の前まで、飯舘村特産である白御影石の加工場を経営していた。御影石の加工は、飯舘村の主力産業のひとつだった。村役場庁舎の外壁や敷地の石畳をはじめ、村の案内板やら至るところでこの石が使われている。現在、原石の採掘は完全にストップしている。また、飯舘村は開拓農家が多いが、杉下さんの家は昔からの農家である。

ぼくらは長泥地区と蕨平地区の境界近くまで行ってから、Uターンした。比曽川に沿う県道を1キロあまり戻ったところに線量計が設置されている。ここで車を止めた。この奥が杉下さんの自宅である。

線量計は2.890マイクロシーベルト/時を示していた。杉下さんは言う。「これは環境省が設置した。1メートルの高さの線量だからね。ちょっと除染した状態で設置しているから、周りはもっと高い。これが正確なデータだと思ってもらうと困る。「低いんでないか」とみんな言うけれど、とでもない。実際は1.5倍くらいあるからね。この状態では生活できない」

もしここで暮らせば、年間20ミリシーベルトは被曝するだろう。

杉下さんのご自宅に移動した。原発事故が起きた当時は新築したばかりだった。5年余り経った今も真新しいし、敷地内はちゃんと手をかけてあるのできれいだ。しかし、人の暮らしの温かみが消えているから、まるで場違いなところに建てた見本住宅のように見える。庭先には御影石でできた犬の置物が1対。その近にはイノシシの掘り跡があった。

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家の中に通していただいた。「毎日掃除をしているみたいに、きれいですね」と言うと、杉下さんは「これ造ったまま。掃除なんかしない。震度6強の揺れに耐えたんですよ。被害はほとんどゼロ。ここの宮大工さんに頼んで造ったものですから。どこも修理していない。茶碗コップ1個も落ちなかった。落ちたのは、この仏壇の灰と鐘だけ」と教えてくれて、少し白くなった畳の箇所を示した。

ここに住めないんですよ。言葉では簡単ですけど、自分たちが築いてきた建物や資産、そういう思い入れのあるものをすべて失うんだ。生易しい気持ちではない。苦しいのよ。しかし、毎日それを表に出したんでは、自分がまいってしまう。分かっぺ。苦しい苦しいと言っていたら、自分で自分の体を追い詰めるから、できるだけ言わないようにしている。その苦しさ。(菅野)哲さんが、テレビでは俺たちが話すことの100分の1も出さないと言うけど、ここに来て現実をみれば、俺たちの心底の気持ちが分かるっぺ。すべてのものを失うんだよ。少しくらい賠償金をもらったって、お金の問題ではないんだということ。辛いです……。辛いですよ。

土地や家を諦めざるを得ない人が辛い思いで生活しているんだということを分かる範囲で伝えてもらえればいい。辛い辛いと言っていられないから、おらほの言葉では「大丈夫だ。そんなに心配すことねえっから」と言う。小海町へ凍み餅をつくりに行ったって、本当の気持ちは話さないですよ。

仮住宅ができたら、この仏壇も持って行くんだ。向こうはアパートだから持って行く場所がない。いま、造ってから。

杉下さんは現在、伊達市の借り上げ住宅に住んでいるが、同市内に小さな家を新築中だ。「じゃ、帰りましょう」。杉下さんが言った。

(続く)

p3303670-001.JPG 杉下さんのご自宅

p3303673.JPG シャッターの奥には農機具が

p3303658.JPG 自宅横の畑。草刈りをしてある


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写真は、長泥地区の中心地。地区のコミュニティーセンターがあり、庭先には原子力規制委員会のモニタリングポストが設置してある。その線量の値が低すぎるという問題はずっと指摘されているが(『たぁくらたぁ』でも取り上げた)、福島県の新聞には日々掲載されている。これについては改めて書こう。杉下初男さんは、事実が伝わらないことに怒っていた。

復興がすごく進んでいるように報道しているっぺ。それは沿岸部。堤防を造って、「復興していますよ」と見せるだけ。高い放射性物質で汚染された地域は、復興なんて夢の夢。おいてけぼり。報道と現実はまったく違うんだ。道半ばではなくて、全然進んでいない。原発事故当時のままなんだよ。

原発事故のアンダーコントロールはできていない。国がコントロールしているのは言論の自由。実像を公表していない。帰還困難区域の状態を国民に正確に伝えていない。テレビや新聞にも出ない。我々が地方へ行って「復興はまったく進んでいないんだよ」と言っても、みんなピンとこないのよ。

チェルノブイリ原発事故で町ごと消えてしまったという事実は、誰でも知っていますね。しかし、福島で集落が消えてしまうとことを知らされていない。日本国民の9割が知らない状態で過ごしている。何時間も何日もかけてテレビ取材して、映像で流すのは支障がないことだけ。住めない状態がいま続いています、くらいでお終いでしょ。そういう報道が我慢できねえんだ、俺は。

だから、誰かが声を大きくして言わないといけない。だーれもいない集落が5年間、まだ放置されたままだよ、ということを。人の声も聞こえない。車の音もしない。物音もしない。汚染されたままの状態がそのまま残っている。

「原発再稼働反対、反対」と言っている人たちも、こういう現実を知らないでいれば意味をなさないんだ。実際に来て目の当たりにして、放射能で汚染されればこんなおそまつな集落になってしまうんだ、という現実を知って、住民の気持ちを正確に伝えなくてはだめなんですよ。

消えゆく集落の住民の生の声を聞いてもらいてえ。

この話を聞きながら思い出していたのは、福島第一原発の事故から1年が経とうしている頃、飯舘村民の菅野哲さんの「メディアは、笑顔や泣き顔を伝えても、怒りを報道しない」という訴えだった。結局、5年間、それは変わっていない。杉下さんの中に蓄積してきたもどかしさを受けとめて、伊波さんが「コミュニティセンターのこの庭に村の人を集めて、テレビの同時中継をやればいいんだ」と言った。

国で拒否しますから。やっと福島や茨城の農産物が海外で買ってもらえるようになったのに、マイナスイメージを報道したら農産物がまた売れなくなっからと、絶対に出さないんだ。そういう問題ではない思うんだよな。現実を伝えるべきだよな。原発で汚染された地域の話題は、できるだけ抑えよう抑えようとしている。オリンピックもあるのだから。まだ現実は厳しいんだよなんていうと、日本のイメージが悪くなるっぺ。

復興に水を差す、風評被害を煽ると、政府や各方面から徹底的に批判を浴びせられた「美味しんぼ」の騒動は2年前だった。

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長泥の隣の集落である蕨平へ続く道路はゲートと閉ざされている(写真奥)。警備員はおらず、ここからは出られない。 この道路標識から浪江町に向かう道路はバリケードで封鎖されている(下の写真)。この先はさらに放射線量が上がる。

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植木に手が入らず、上の方は伸び放題になっている。ぼくらは地区内をざっと回った後で、杉下さんのお宅にお邪魔を した。(続く)


 p3303602-001.JPG  (長泥展望台から福島第一原発方向)

東京電力福島第一原発の大事故から5年目の3月が過ぎた。飯舘村のなかで唯一、帰還困難区域に指定されていて、地区住民と許可者以外は立ち入りができない長泥地区へ行った。『たぁくらたぁ』38号の記事「消滅する集落」で今の思い(主に憤りだ)を語ってくださった長泥住民の杉下初男さんに同行をお願いした。3月30日午後、2時間あまりの間、そこでは車1台、誰一人とも出会うことはなかった。「復興なんて、夢の夢。この集落は消えてしまうんだ」と、杉下さんは語気を強めて言った。

長泥集落は飯舘村の一番南に位置している。福島第一原発から北西へと舌状に延びる非常に高いレベルの放射線量地帯に重なって帰還困難区域は続くが、その舌先に当たるのがこの地区である。杉下さんとは飯舘村役場で待ち合わせをし、ぼくら(長野から3人で行った)の車に同乗していただき、杉下さんの立入許可証をフロントガラスの手前に置いて、国道399号を長泥へ向かった。

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山道を登っていくと開閉式ゲートがあり、その前で停車をすると、1畳ほどのプレハブ小屋で待機いている警備員が出てきて、許可証を確かめた上でゲートを開ける。ここから先が長泥地区だ。杉下さんが警備員に「ガラスバッジ(積算線量計)はつけているんだべ?」と聞くと、「伊達市の家の中にぶら下げたままになっている家族の線量計に比べると11倍くらいかな」と言い、「(被曝量を)計算すると年間6ミリシーベルトくらいだな」と笑った。ここはもう3年になるそうだ。

p3303608-001.JPG(左が杉下さん、右は信州沖縄塾の塾長伊波敏男さん)

ゲートを抜けるとすぐに坂を登り切って長泥展望台となり、視界が一気に開ける。ここで車を降りた。村一番の桜の名所でもある。杉下さんは「ここは我々(長泥住民)が40年間手入れしている桜並木」、そして桜に近寄って「蕾が大きくなってきた」と言った。ぼくらも桜並木に近づくと、そこにはイノシシの掘り跡。「やり放題。誰もいないから。これまで、こんなことはなかった」。そう言ってから杉下さんは、目の前に広がる風景を指しながら原発事故による汚染について説明した。

一番奥の稜線、左側からずーっと続いてストンと落ちますね。右からも山並みがずーっときてストンと落ちますね。朝、あそこに太平洋が見えるんです。そこは大熊町の海。ここから原発まで40キロ。海が見えるということは、障害物がないということです。

2011年3月15日は太平洋低気圧が通り、普段なら西から東(海)に吹く風が、北西に向かって吹きました。そして、雪と雨になった。そのせいで、メルトダウンした2号機から漏れだした高い線量の放射性物質が真っ直ぐにこちらに流れてきて、ここに大量に降ったんです。当時は線量計がないので、誰もそれが分からなかった。「なんだか顔がヒリヒリするよな」と言う人も何人もいたし、その頃は180~200マイクロシーベルト/時あったらしい。ものすごい大量の放射性物質を浴びたことになる。木の枝も葉っぱも、すべて汚染された。

ここから見える山と山の間にはいろんな集落がいっぱいあるんですよ。向こうにも、向こうにも。でも、そこには今、だーれも住んでいない。見える限りは、人っこ一人いないんだよ。

ここから先、太平洋に向かっての地域が、幅で15キロくらいが線量の高いところ。なぜ帯状になって汚染されたか、ここに登ってくれば分かる。地形に沿ってきたんです。

杉下さんの話を聞きながら、この日は海に向かって吹いている冷たい風を肌で確かめた。

飯舘村の避難指示区域の再編にともなって、長泥地区が帰還困難区域に指定されたのは2012年7月17日である。その前に何度かここへは来ている。同年の5月2日に来た時はちょうど桜が満開だった(下の写真)。その時の放射線量は、地上10センチで10~12マイクロシーベルト/時あった。今回は線量計を携帯しなかったので線量は測らなかったが、当時よりはだいぶ下がったことは間違いない。しかし、車外へ出ての説明を終える度に、杉下さんが「線量が高いから、もう行きましょう」とぼくらを促すその言葉によって、汚染の恐さをむしろ強く感じた。

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ぼくらは車に戻って、国道399号を南に下った。長泥、浪江町から川内村へと、阿武隈山地の中腹を通っているこの国道は「あぶくまロマンチック街道」と呼ばれていた。

坂道を下り終わって少し行くと、道路の片側は数年前に試験除染が行われた畑が広がり、もう片側は放置されたままの畑である場所に出た。車から降り、振り返って写真(下)を撮った。正面の山に長泥展望台がある。

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ここらか長泥集落の中心地まではもうすぐだ。そう、ぼくがずっと車を運転していたのだが、曲がる度にウィンカーを点滅させていた。「車がいないのに」と指摘されて、「癖だから」と言い訳をした。外では当たり前のことが、ここでは当たり前ではなくなっている。これ自体はささいなことだけれど。(続く)


 お知らせです。どうぞ、ご参加ください。

原発事故の時代を生きぬく

―「深山の雪」で、みんなで膝を交えて話そう―

メインゲスト 大留隆雄さん(南相馬市 元「六角支援隊」代表)

16年にわたる産廃処分場計画反対の住民運動によって計画を白紙に戻し、3・11の津波で多くの仲間を失いながらも、福島第一原発事故と津波のために仮設住宅生活を余儀なくなれた住民の支援活動を、産廃反対運動でのネットワークを活かして続けた「六角支援隊」。その運動の中心にいたのが大留隆雄さん(76歳)。日々、運動資金を自前で稼ぐために軽トラックで廃品回収もして回る。権力に抗いながらも、しなやかに生きる大留さんの宝のような体験談を聞こう。

会場の「深山の雪」は、原発事故によって大熊町から白馬村に避難した木村紀夫さんが、元ペンションを買い取り、エネルギー消費を減らした持続的な暮らしを目指している「場」。みんなでいっしょに考え、協力し合いながら、場づくりをしたいと、木村さんは考えている。

日時 2015年10月24日(土) 14時から

 1部   大留さんの話を聞こう       14時~15時

 2部   渡辺一枝さん他ゲストを交えて 15時30分~16時

夕食                     18時~

 3部   のんびり話をする交流会     20時~

【希望者は宿泊できます】

場所 深山の雪(白馬村北城14718-229)

参加費 なし 宿泊も含めてお志をお願いいたします。

主催 深山の雪、『たぁくらたぁ』編集室

●すべて予約が必要です。定員20人くらい

申し込み先 深山の雪(木村紀夫) 090-3644-8722

p3134897.JPG  大留隆雄さん

miyama.JPG   深山の雪、この夏のイベント。参加者で記念撮影


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