3 月 2015


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 『たぁくらたぁ』34号、35号と沖縄発の記事を寄稿してくださっている浅井大希さんから「屈指の企業のカネヒデグループの社員3名がゲート前の集会に来てくれました」という新しいメールが届いたので紹介しよう。日本は46都道府県と沖縄からなっているのだとうことが伝わってくる。 野池元基


社員A
「現在カネヒデでは社員をゲート前に続々と送り出しておりまして、自分は本社の方から来ましたが、このあとも5000名の社員が交代で駆けつけることになっています。じっさいに浜で目の前にすると印象が違います。これは立ち上がらなければいけないのかなと、また帰って写真等をアップしてカネヒデグループのなかで啓蒙していきたいと思ってます」

社員B
「大変申し訳ないんですが研修として参加させられるという形で来ました。自分にとっては率直にいって、テレビで見る世界で、先程浜の方にいって色々話を聴きまして、実感が湧いてきました。研修の名のもとに来てはいますが、私の役目としてはいろんな人たちにここのことを伝えてどんどん参加したい。沖縄にこれ以上の基地を作ってはいけないと、去年の選挙運動からいろいろ携わってきて、ほんとにいい機会でこういう形で参加していることに自分でもびっくりしています。カネヒデグループは県民に寄り添ってやっていく企業体でありますので、今後も一緒にがんばっていきましょう」

社員C
「こちらの方にくるまでは、例えばインターネットなどですね、いろんなことを内地の方が言っているのを、誹謗中傷を、哀しくみていました。でもここに来て、皆さんとっても明るく、違うんだよということで、感激しました。皆さんがこれだけ頑張ってくれているんだから、私なりに皆さんのことをバックアップしていきたいと思っています。どうかよろしくお願いいたします」

山城博治
「しかし皆さん、カネヒデの会長の決意はこの間の集会でも伺いましたが、凄まじいですよね。5000名の従業員を抱える県内トップの企業の会長が、こういう大衆運動の場面に出てきて、個人で決意を表明される、私たちはそれだけで感涙するものでありますが、経常利益の1%を闘いに回すと言われた。また、何よりここに来てご挨拶いただいたときびっくりしたのは、『カネヒデはこれから基地建設の工事は一切受けません』という話をした玉城県議のスピーチを受けて、『いや、します、基地の解体作業だけはやらせてもらいます』、こう言ったわけですよ、皆さん。やっぱりさすがだ。翁長知事は、腹は固めたとこの間述べていましたが、カネヒデの会長がこのようにおっしゃたことが県知事選挙の揺るぎない団結に繋がったと思ってます。このように沖縄中が団結する素地を作ってくれた経済界の重鎮に心から感謝をしています」

金秀グループ(かねひでグループ)は、創業からの鉄工業をはじめ、総合建設業・小売業・保険代理業・携帯電話販売代理業・リゾート施設の運営など事業を展開。グループ12社の一昨年の売上高は962億7500万円。経常利益は10億1500万円。グループ全体で従業員数5000人を越える沖縄を代表する企業です。会長の呉屋守将氏は翁長知事の選挙対策本部長をつとめ、オール沖縄の体制を支えた沖縄経済界の重鎮の1人。


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福島第一原発事故によって工事が中断していた常磐道の最後の区間14.3㎞が3月1日に開通した。この区間のほとんどが帰還困難区域内である。
 全線開通を祝う金色のくす玉が二つも用意された式典に安倍首相が出席した。さらに政府からは国土交通相、復興相、環境相、また福島県知事や近隣の市町村長も出席した。官邸主導の一大セレモニーだった。
 翌日の福島県の地元2紙はこれを大々的に報じた。写真を見ての通りだ。テープカット後に整列した首相ら写真を両紙とも同じように載せている。この式典が行われた地点は帰還困難区域からわずか数100メートルだが(居住制限区域で人は住めない)、全員そろってごく普通の服装である。放射能汚染地帯であることなどまったく感じさせない。
 要は、3・11から5年目を迎える節目を前にして行った国の「安全宣言」である。また、健康被害を心配している人たちに対してはもう気にするなという「脅し」になっている。
 原発事故をアンダーコントロール(統御―思いどおりに扱うこと)できない安倍首相は、マスコミのアンダーコントロールはたやすいとほくそ笑んでいるに違いない。ちなみに、地元2紙の社長も式典に参加している(地元のテレビは見ていないし、各局の社長が参加したかどうか調べていないので分からない)。
 ところで、本来ならば、首相や大臣たちは放射能による健康被害の危険性を率先して伝えために、せめてマスクぐらいはすべきはずだから(彼らを心配しているわけではない)、「なぜそうしなかったのか」と首相官邸と環境省に問い合わせてみた。官邸は「ご意見としてうかがう」、環境省は1週後にまた電話をくださいということだった。昨日、環境省に再び電話をかけると、「避難指示区域で守るルール等の担当は内閣府原子力被害者生活支援チームなので、そちらに電話をしてください」と、たったこれだけ。環境省としての考えも気概もないようだ。では、内閣府の返答は……。「マスクの着用は義務ではありません。(内部被曝が)気になるようでしたらマスクを着用してください、ということです。ことさら安全をアピールしているわけではありません」。

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ついでながら、マスコミ報道についていえば、たとえば長野県のオピニオンリーダーを担う地元紙がリニア計画についての記事には「リニア新時代」というタイトルをつけている。これが新聞社としてのメッセージである。もしリニアが開通する日があるとすれば(ぼくは信じていないが)、その時は福島の2紙に負けない紙面をつくるのではないかと想像する。「原子力明るい未来のエネルギー」と「リニア新時代」の発想の根っこは同じ。
 先日、リニアのボーリング調査が始まっている大鹿村へ行ってきた。『たぁくらたぁ』では大鹿村発でリニア問題の連載を次号からスタートさせる予定だ。

野池元基


 「ゲンパツ」って何が問題なのでしょうか。福島第一原発事故が私に教えてくれたことは以下の通りです。

ⅰ 断層や津波より、地下水を避ける必要があること、

ⅱ 逃げ道の確保が絶対必要であること、

ⅲ 問題解決を、けっして、「有識者」などと呼ばれるいかがわしい権威者に委ねてはならないこと、

でした。


廃棄物の最終処分場について、私は「廃棄物が保持する有害物質が地層中にゆっくり漏れ出し、拡散しながら土壌粒子に吸着され、結果として、地層中に有害物質を希釈する施設」と定義づけるようにしている。施設が壊れても、ベントナイトやロームなど粘土質の分厚い地層があれば、有害物質を抱いてくれ、人が起こした「事故」がただちに「被害」になることは少ない。人間の技術の未熟さを自然に抱いてもらうのだ。

この考え方は、「指定廃棄物最終処分地」についても、高レベルの除染廃棄物の「中間処理施設」についても当てはまると私は思っている。

ベントナイトやロームであっても汚染水を遮断するわけではない。緩やかに浸透するからこそ有害物質や放射性物質を抱くことができる。そして、汚染水が地層全体に浸透した後は、安定した流れを持つようになる。だから、その土地の地質の緩衝量が埋立施設の規模を決める。

最終処分場が有害物質の緩衝装置であるとすれば、その立地は、第一義的に水源涵養域、水源の上流域、地下水の流れている土地を除外すべきである。おそらく、日本の国土の99%は最終処分場の立地不適地である。


3月7日に封切りになった2本のドキュメンタリー映画、坂田雅子監督の『わたしの、終わらない旅』と鎌仲ひとみ監督の『小さき声のカノン ―選択する人々』を観た。ともに日本社会をぐらぐらと揺るがした(はずの)福島第一原発事故に向き合って作られた映画だ。坂田さんの作品は東京のポレポレザ東中野で、鎌仲さんの作品は渋谷のシアター・イメージフォーラムで上映されている。

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『わたしの、終わらない旅』(公式サイトhttp://www.cine.co.jp/owaranai_tabi/story.html)の作品紹介にはこうある。

福島第一原発の事故がもたらした現実に心震えながら、今は亡き母が数十年前から続けていた反原発運動の意味に、改めて気づいた坂田。彼女は、母親と自身の2世代にわたる想いを胸に、兵器と原発という二面性を持つ核エネルギーの歴史を辿る旅に出る。フランスの核再処理施設の対岸の島に暮らす姉を訪ね、大規模な核実験が繰り返し行われたマーシャル諸島で故郷を追われた島の人々に出会い、そしてカザフスタンでは旧ソ連による核実験で汚染された大地で生きる人々をみつめる。

『小さき声のカノン ――選択する人々』(公式サイトhttp://kamanaka.com/canon/)の舞台の中心は福島で、一見、原発事故などなかったかのように普通に町が動いている、そんな地域でのお母さんたちの行動、それを支える人たちの取り組みが描かれる。チェルノブイリ事故を経験しているベラルーシの「保養」の成果も紹介している。鎌仲さんは作品の意図を次のように語っている。

『小さき声のカノン』をどうしても作らなくてはならない、と私を突き動かしたもの。それは「子どもたちを被ばくから守ることができる」ことを伝えたい、という抜き差しならない思いです。
被ばくや汚染を認めたくない、差別されたくない人々の心理が利用され、当事者たちが自ら安全を主張する。東電も政府も責任から逃れ続ける。よじれた現実のただ中で子どもたちを心底守ろうとする母なるものの存在に私は未来をかけたい。
原発事故後の世界を生きる母たちのしなやかさ、強さ、その揺らぎや弱さまで含めて、映画から感じていただきたいと願っています。

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ポレポレ東中野で3月10日、坂田さんと鎌仲さんの対談があった。坂田さんが『わたしの、終わらない旅』について、鎌仲さんに感想を聞くところから始まった。その一部を要約して、お伝えする。

鎌仲さん 目の前にいろんなショッキングなことが起きているけれど、全体を見渡す視線が広く、まなざしが深い。そのまなざしがこの作品を1本貫いているので、ぶれなく見切ることができる。抑制されたストイックな映画だからこそ、そこに立ち上がってくる事実がくっきりと見えてくる。素晴らしい映画だと思った。
坂田さん 福島第一原発事故を題材に作ろうとして福島へ何度も何度も行ったが、16万人の避難民がいれば16万個の悲劇がある。たくさんの映像を撮っても、それを一つのストーリーにまとめるのは難しい。福島をもっと広い視点から見てみようと思って、ビキニやカザフスタンに行った。
鎌仲さん 私はこの4年間、福島をぐーっと見つめて撮ってきた。福島の人たち、日本の人たちにいま福島で何が起きて何が問題になのか、ということを伝えたいと思ってきた。『わたしの、終わらない旅』の中に出てくる一つひとつの事実が、その問題に投げかけられた答え、というふうにも思えた。自分の身に起きていることよりも、他者に起きていることの方がよく見える。そういう意味で、この映画に出てくるマーシャルやセミパラチンスク、ラ・アーグで起きている、そこの現場の人たちが語ることが、そのまま福島に重ね合わせられていく。これらの海外のシーンの向こうに、私たちは映画には映っていない福島を見る。

この2本の映画は福島へのアプローチの仕方が対極的ともいえるが、呼応する。マスコミからは大事な事実がなかなか伝わってこない中で、この2本の映画をとおして事実に近づけるのは大変ありがたいことである。ぜひ2作品ともに観ていただきたい。

なお、『たぁくらたぁ』次号(36号)にはお二人の監督にご寄稿していただく予定です。

野池元基


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相馬市松川浦のホテルみなとやに宿泊した。木村紀夫さんの「大熊町への一時帰宅同行ツアー」(前記事)での宿泊先だった。

松川浦は細長い湾になっている潟湖(せきこ)である。泊まった4階の部屋からはこの潟湖が眼下に見える。2011年3月11日は、潟湖と太平洋を隔てる砂州(さす)を乗り越えて10メートルの津波が押し寄せた。みなとやは1階の天井まで水につかった。

みとなやの前は漁港である。1隻曳きの底引き網漁船が整列して行儀よく並んで停泊していた。人影はない。海鳥の鳴き声も少ない。この漁港には漁協の直売センターがあって賑わっていたというが、今は更地になっている。

ホテルの朝食を早めにとって漁港を歩いていると、1台の軽トラックが止まり、エンジンをかけたままで、一人の人が船に乗っていった。しばらくして船のエンジンが響きだした。煙突から黒煙が上がり、ディーゼルエンジンの煤けた臭いが漂ってくる。なぜ車のエンジンをかけたままなのだろうか? 人はすぐに降りてくるだろうと思い、話を聞いてみようとしばらく待った。ほどなく若い男性が船から降りてきた。

彼の話はこうだ。37歳で、彼の父親が船主。他に乗り子が3人いて沖合漁をする。しかし、福島第一原発事故の影響で、日常的な操業ができない。1週間に1度の試験操業が認められていて、沖合まで2時間半から3時間かけて出ていく。決められた魚を100キロだけ獲ることができる。獲り過ぎた魚は海にかえす。1週間に1度出航しただけはエンジンがダメになるから、燃料代はかかるが、週に2くらい、停泊したままで1時間ほどエンジンをかけ放しにするのだという。

試験操業とは、福島県によるモニタリングの結果で安全とされた魚種に限定し(2月9日現在で58種類)、小規模な操業と販売を試験的に行いながら、漁業再開に向けた基礎情報を得るための漁である。なお、モニタリング調査の結果をみると、魚種によって今も放射能が検出されつづけている(以下のHP参照)。http://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/37380a/gyokai-monitoring.html

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(対になっている茶色の板は海に投下して網口を広げるためのもの。オッターボードという)

彼に本操業の見通しについて聞くと、「また流れたから、しばらくダメだっぺ」と言う。「また流れた」というのは、東電が高濃度の放射性物質を含む汚染水を外洋に垂れ流し続けていたころが発覚した(2月24日)ことを指しているのだ。

津波の話もしてくれた。潮が引いて、船底がつきそうになっていたが、父親といっしょに船を出した。3分遅かったら助からなかった。後から逃げた小さな漁船は津波にのまれた。波を4回乗り越えて沖に出たという。

写真を撮ってもいいかと尋ねると、「髪を整えていなからダメだ。まだ後から人が来るよ」と言って、船のエンジンをかけたまま用事を足しに軽トラに乗って去った。

しばらくして、彼の言葉どおり別の船主がやってきた。彼は58歳。ほとんど同じような説明をしてくれた。原発事故の前は、「休みがないぐらいに漁に出ていた」と言う。「それなら、試験操業をしていない時は何をしているのですか」と質問すると、「乗り子の人たちは除染さ行ったりしている」という答えだった。これは前の漁師も同様だった。除染作業の場所は南相馬市の原町や小高だそうである。それなりに補償金があるので生活はできるが、「暇だから、何もしないわけにいかねえから、仕方なく除染に行ってんだ」と笑った。原発事故から4年が経っても本操業の目処の立たない中で、あきらめなのからくる笑いなのだろうか。「そりゃ、漁の方がいいさ」とも言う。また、自分は沖合での漁だからまだいいが、小さい船で沿岸漁をしている人たちは「出られないからなあ」と笑いなく語った。

松川浦辺りには観光ホテルや地場産の魚を食べさせる食堂などが目立ち、震災前は福島県でも有数の観光名所だったようだ。この日、常磐道が全面開通し、それを伝える翌日の地元紙には「観光振興の起爆剤なる」という関係者の言葉を紹介してあったが、ここには無縁のように思えた。沈黙する漁港で、出港しない船のエンジン音がしていた。

なお、福島県で除染作業に従事している人数は3月6日現在、旧警戒区域(福島第一原発から20km圏内)と飯舘村など旧計画的避難区域で約9400人、その他の市町村で概ね1万人にのぼっている。

野池元基


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2011年3月11日に大地震が起こり、津波がきて、家族3人が流された。家族を捜し始めたが福島第一原発が事故を起こし、翌朝、長女を守るために避難を余儀なくされ、誰も見つけられないうちに大熊町から離れざるを得なかった。自衛隊の捜索が入ったのは津波から2カ月以上経った後だった。父と妻は後に発見されたが二女は今も見つからない。高線量のために帰還困難区域に指定され、事故から4年が過ぎるのに、一時帰宅は年15回だけ、午後4時にはこの区域の外へ出なければならない。

瓦礫の下に二女がいるかもしれない。だが、一人で瓦礫をどかせながら捜すことは困難を極める。Team汐笑を結成して仲間が力を貸してくれ、1年半前から上野敬幸さんと仲間たちがつくる福興浜団が力を合わせてくれるようになった。まだ二女は見つからないけれど、家族の遺品が少しずつ掘り起こされてきた。

しかし、除染廃棄物などを集積する中間貯蔵施設を大熊町と双葉町にまたがって建設する計画を国がたて、自宅はその敷地内となっている。中間貯蔵施設が造られれば、もうここに立ち入れなくなるかもしれない。瓦礫の山はまだそこかしこにある。国が進めてきた原子力政策の中で原発事故は起き、そのせいで手足を縛られた捜索しかできずにきたのではないか。国に対しての憤りがあり、同時に国の立入制限を無視してでも二女を捜してあげられなかった自責の念もある。国にどうして土地を売ることができようか。貸す気にだってなれない。

問いかける遺品

木村紀夫さんが企画して行った2月28日の「大熊町への一時帰宅同行ツアー」に参加した。その最後に立ち寄った、木村さんの自宅近くにある遍照寺の一室に並べられていた数々の遺品を見ながら、こんなふうに木村さんの思いを想像していた。遺品はどれも洗うことはせず、瓦礫から見つかったそのままの状態で置いてある。

このお寺も帰還困難区域内にある。原則立入禁止の場所だから、ここに遺品を陳列してあっても、普段は誰の目にも触れることはない。それでも、こうして遺品をきちんと飾ってある。放射能で汚れているから持ち出さないのではない。それならば洗浄をすれば済む。なぜなのだろうか。一時帰宅に同行した人たちに「見てもらい、考えてほしい」と木村さんは言う。

遍照寺も中間貯蔵施設の予定地に入っている。住職はこの寺を残しておきたいと考えている。寺が無くなれば、「何もなかったことになってしまう」からだ。木村さんの思いもいっしょだろう。ここにあるからこそ、遺品は訴えかけ、問い続けるに違いない。

このツアーの翌日3月1日、大熊町の帰還困難区域も通過していく常磐自動車道が全面開通した。オープニングセレモニーで安倍首相が挨拶した。得意満面だったそうである。

野池元基

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(写真は、瓦礫の近くで話をする上野さん(左)と木村さん(右)。なお、『たぁくらたぁ』35号のお二人の対談記事「津波を捜索と、原発事故」も併せて読んでいただければ幸いです)