長野市民新聞に書いたコラムを掲載します。取り上げたのは、池澤夏樹訳の『古事記』と自民党の「日本国憲法改正草案」についてです。

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古事記と憲法改正

古事記は面白い。神々がよく恋をする。「因幡の白兎」の大国主命(オオクニヌシノミコト)は、ある美女に歌いかける。綺麗な乙女がいると聞いて、妻にしたいと思い、いても立ってもいられずに家まで来てしまったのだ、と。美女は板戸を開かぬまま、ずいぶん艶っぽい歌を返す。そうむやみに恋い焦がれませぬように、と。

天皇の時代になっても、恋にまつわる話は多い。天皇が美女を呼び寄せようと使者に息子を送ったら、息子が横取りをした、など。ただ断っておくと、神も人も誰もが自分の使命には真っ直ぐなのである。今時のお騒がせ国会議員のチャラい話とは違って(比較のレベルが低すぎるかな)。

古事記は、神々の誕生から第33代天皇に至るまでの物語だ。天皇制を賛美する国家の歴史書である、という先入観があって、これまで手にする気もしなかった。けれど、池澤夏樹の口語訳が出版され、これを機に読んでみたら、ぐいぐい引き込まれたのだった。

この本は天皇の命令で書かれたのだから、明らかに政治的である。しかし、格式ばっていないのだ。絶対的な力をもった万能神はいない。萬の神たちも存在する。ヤマトタケルは勇者として各地を平定していくが、過信により神の怒りを招き、力を弱らせる。古事記は、勝者を単純に美化しないで、勝者の弱さも描き、敗者や異端者も公平に扱う。宿命がもつ悲しみに心を寄せるのだ。それは物語ゆえかもしれないが、世の中が強者の論理だけでは動いていなかった時代の、おおらかさの反映ではないだろうか。

古事記を読んでいると、それとは対照的に強者として中央集権化を一気に推し進めようとする安倍政権、その自民党憲法改正草案を思った。この草案の性格を端的に表すのは、前文の冒頭のひと言目である。現行憲法では「日本国民は、」と始まるのを「日本国は、」とする。主語から「民」を削除したのだ。つまり、国家のための憲法に変わる。

第1条以下の条項の改変の内容はすべて、これに貫かれている。「公の秩序」などという言葉を持ち出して、個人も家族も、言論などもそれに従わせる。基本的人権を保障する条項は消された。その先のあるのは、国家の枠に閉じ込められ、締めつけられた、生きづらい社会ではないのか。そうではなく、自分の意思を持って、おおらかに生きられる社会であり続けてほしいのだ。

img_1417-001.JPGフランス語版『古事記』から

自民党の改憲草案の前文の冒頭の文書はこう。

「 日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」

皇国史観を復活させたいというきな臭さがプンプンしてくる。『古事記』が再び悪用されるなんてことがないとは言い切れない。しかし、読んでおけば、「それは違うでしょ」ときっと言えるはず。でも、先ずは読みやすいし、面白いというのが何よりなのだ。

次号の『たぁくらたぁ』では、参院選(衆院選も同日?)前の特集で、自民党の改憲草案を取り上げるつもり。発行は5月末を予定。