4 月 2016


  「 No pasarán!(ノ パサラン) やつらを通すな!」を『たぁくらたぁ』に連載中の浅井大希さんからの、久しぶりの現地報告です。

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ご存知の通り3月4日に国と沖縄県の和解により、辺野古の新基地工事中断が発表されました。
その日、沖縄はサンシンの日で、ゲート前でも早朝から集まった県民の有志でサンシンを演奏、舞いも披露されました。そこに工事車両を通過させるため機動隊が投入されました。あと5分で演奏も終わるという時に機動隊が強制排除。沖縄の文化を暴力で潰すのかとみなの怒りはすさまじく、いつも以上に身体を張っての抵抗となりました。

自分はこの早朝行動のあとゲート前を離れたのですが、その日の正午過ぎです。この日2度目のサンシン演奏の後に、和解成立のニュースが飛び込んできたのは。自分は知人が撮影した動画でその様子をみたのですが、みな半信半疑ぼーぜんとしたまま、歓声があげています。山城ヒロジさん始め涙止まらぬ人々も。自分もその場にいたかった、と本当に思います。

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工事中断後は少しは落ち着くかと思ったのですが、米兵による観光客の女性へのレイプ事件、その抗議する男性への基地警備員による不当逮捕。
また、工事中断といいながら、滑走路予定地で米軍兵舍の解体工事をすすめる防衛局。その監視と抗議に向かった芥川賞作家の目取眞さんが、米軍に拘束されるという事件もおきました。海上保安庁に身柄を送られた目取眞さんを取り返すため、沖縄市にある海上保安本部に多くの県民が駆けつけ、敷地の中に座り込みました。
翌日の夜、処分保留で釈放されましたが、辺野古の闘いは、米軍との直接対決にステージが映ってきています。
また昨年の夏、好評だった。ゲート前で行われる連続講義の辺野古総合大学もスタートしました。
(浅井大希)

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杉下さんの家から再び県道に出ると、この道沿い、比曽川に沿って農地が広がる。荒れている。自然の遷移が進み、ヤナギが一面を覆い尽した田んぼがある。アカマツの幼木も目につく。一方で、草を刈ってあるところもある。そこが杉下さんの田で、屋敷まわりと同じく、ここもきれいにしているのだ。

「なんぼ住めなくても、自分の家の周りくらいは手入れをしていく。先祖様に申し訳ないから、元気なうちだけでもな。俺はな」

長泥へ入って2時間くらいが経過していた。あとは真っ直ぐに帰るだけだ。車に乗って運転を始めると、助手席の杉下さんが、こんなふうに問うた。

「自分のすべてのものを失った人の気持ちは少しは分かってくれたか?」

なんて答えてよいのか、戸惑った。「はい、分かりました」という言葉がすんなりとは出てこなかった。当事者の思いは計り知れないと思うからだった。

「3年経ち、4年経ち、でも線量が思ったほど下がねんよ。データを取るために試験除染した結果、帰れるような線量にならないことがはっきり分かってきたわけよ。これじゃ、だめよ。30年かかるんだよ。30年待っていられるか。ふるさとをあきらめるしかないっぺ」

「山ん中だけどね、住めば都で、つながりも深い。74軒あれば74軒の付き合いたあったからね。街に行けばそうはいかねもんな。いくら付き合っても隣近所3、4軒だものな。あいさつしねもの。5軒、10軒先の人は、こちらで頭を下げても頭下げねもの。頭下げるくらいは簡単なのにな」

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そんな話をしながら、長泥展望台まで戻ってきた時だ。イノシシの親子が桜の木の下にいた。杉下さんは車から出て、手を叩いて声を出してイノシシを追い払った。ウリボウ2匹はすぐに逃げたが、親2匹は動じない。「大きいべえ。これだもの。逃げねんだ」

イノシシはもう放っておき、車を発進させた。そして、情報を閉ざし、帰還を断ち切っているゲートの外へ出た。長泥での重い2時間だった。

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ゲートから外に出ても、そこに平常があるわけではない。

飯舘村役場のすぐ近くまでも戻って来た時、大型ダンプが頻繁に出入りしている現場があった。そこには、木が伐採されて半分近く崩されている山があった。「表土用だ。すごい高い山だったんだから」と杉下さんが言った。農地の除染は、表土を剥ぎ取ってフレコンバッグへ詰めるが、次にそこには客土をする。その新しい表土用として山を崩して土を取っているのだ。無残な光景だ。

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長泥地区へ行った翌々日、飯舘村前田地区の区長で元酪農家の長谷川健一さんに案内をしていてだき蕨平地区へ行った。蕨平は長泥の隣の地区で、帰還困難区域ではないが、それに準ずるほどに線量は高い。住民は避難指示解除になっても帰還しないことを決めている。

この地区には、飯舘村と近隣5市町の除染廃棄物を焼却する仮設焼却場ができ、今年なってから稼働しはじめている。その施設を見に行ったのだ。

この焼却炉は、杉下さんの家から4キロほどだろうか。焼却炉からは放射性物質を含んだ煙が出続け、長泥にも風にのって流れてくる。今年1月に長野県小海町で杉下さんに話をうかがった時に、この焼却炉の問題を強く訴えていた。

なお、これについては、「放射能ゴミ焼却を考えるふくしま連絡会」のHPが詳しいので参考にしてほしい。http://gomif.blog.fc2.com/(カテゴリ 飯舘村)

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飯舘村。そこには帰還困難区域があり、除染廃棄物を詰めたフレコンバッグが積まれた仮仮置き場があちこちにあり、山が表土になって消えてゆき、大規模な仮設焼却場はこれからが本格的に稼働する。これでは、まるで「明日」が見えない。

長谷川さんは言う。「原発再稼働に向けて、避難計画をどうするかという議論はされても、避難した後にどうなるんだ、という話がまったくされない」。こう語った時、長谷川さんの悔しさがにじみ出ていた。原発事故は避難して終わりではない。飯舘村を見ろ、飯舘村を忘れるな。そうも聞こえた。それは、杉下さんの声にも重なる。


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杉下初男さんは、福島第一原発事故の前まで、飯舘村特産である白御影石の加工場を経営していた。御影石の加工は、飯舘村の主力産業のひとつだった。村役場庁舎の外壁や敷地の石畳をはじめ、村の案内板やら至るところでこの石が使われている。現在、原石の採掘は完全にストップしている。また、飯舘村は開拓農家が多いが、杉下さんの家は昔からの農家である。

ぼくらは長泥地区と蕨平地区の境界近くまで行ってから、Uターンした。比曽川に沿う県道を1キロあまり戻ったところに線量計が設置されている。ここで車を止めた。この奥が杉下さんの自宅である。

線量計は2.890マイクロシーベルト/時を示していた。杉下さんは言う。「これは環境省が設置した。1メートルの高さの線量だからね。ちょっと除染した状態で設置しているから、周りはもっと高い。これが正確なデータだと思ってもらうと困る。「低いんでないか」とみんな言うけれど、とでもない。実際は1.5倍くらいあるからね。この状態では生活できない」

もしここで暮らせば、年間20ミリシーベルトは被曝するだろう。

杉下さんのご自宅に移動した。原発事故が起きた当時は新築したばかりだった。5年余り経った今も真新しいし、敷地内はちゃんと手をかけてあるのできれいだ。しかし、人の暮らしの温かみが消えているから、まるで場違いなところに建てた見本住宅のように見える。庭先には御影石でできた犬の置物が1対。その近にはイノシシの掘り跡があった。

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家の中に通していただいた。「毎日掃除をしているみたいに、きれいですね」と言うと、杉下さんは「これ造ったまま。掃除なんかしない。震度6強の揺れに耐えたんですよ。被害はほとんどゼロ。ここの宮大工さんに頼んで造ったものですから。どこも修理していない。茶碗コップ1個も落ちなかった。落ちたのは、この仏壇の灰と鐘だけ」と教えてくれて、少し白くなった畳の箇所を示した。

ここに住めないんですよ。言葉では簡単ですけど、自分たちが築いてきた建物や資産、そういう思い入れのあるものをすべて失うんだ。生易しい気持ちではない。苦しいのよ。しかし、毎日それを表に出したんでは、自分がまいってしまう。分かっぺ。苦しい苦しいと言っていたら、自分で自分の体を追い詰めるから、できるだけ言わないようにしている。その苦しさ。(菅野)哲さんが、テレビでは俺たちが話すことの100分の1も出さないと言うけど、ここに来て現実をみれば、俺たちの心底の気持ちが分かるっぺ。すべてのものを失うんだよ。少しくらい賠償金をもらったって、お金の問題ではないんだということ。辛いです……。辛いですよ。

土地や家を諦めざるを得ない人が辛い思いで生活しているんだということを分かる範囲で伝えてもらえればいい。辛い辛いと言っていられないから、おらほの言葉では「大丈夫だ。そんなに心配すことねえっから」と言う。小海町へ凍み餅をつくりに行ったって、本当の気持ちは話さないですよ。

仮住宅ができたら、この仏壇も持って行くんだ。向こうはアパートだから持って行く場所がない。いま、造ってから。

杉下さんは現在、伊達市の借り上げ住宅に住んでいるが、同市内に小さな家を新築中だ。「じゃ、帰りましょう」。杉下さんが言った。

(続く)

p3303670-001.JPG 杉下さんのご自宅

p3303673.JPG シャッターの奥には農機具が

p3303658.JPG 自宅横の畑。草刈りをしてある


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写真は、長泥地区の中心地。地区のコミュニティーセンターがあり、庭先には原子力規制委員会のモニタリングポストが設置してある。その線量の値が低すぎるという問題はずっと指摘されているが(『たぁくらたぁ』でも取り上げた)、福島県の新聞には日々掲載されている。これについては改めて書こう。杉下初男さんは、事実が伝わらないことに怒っていた。

復興がすごく進んでいるように報道しているっぺ。それは沿岸部。堤防を造って、「復興していますよ」と見せるだけ。高い放射性物質で汚染された地域は、復興なんて夢の夢。おいてけぼり。報道と現実はまったく違うんだ。道半ばではなくて、全然進んでいない。原発事故当時のままなんだよ。

原発事故のアンダーコントロールはできていない。国がコントロールしているのは言論の自由。実像を公表していない。帰還困難区域の状態を国民に正確に伝えていない。テレビや新聞にも出ない。我々が地方へ行って「復興はまったく進んでいないんだよ」と言っても、みんなピンとこないのよ。

チェルノブイリ原発事故で町ごと消えてしまったという事実は、誰でも知っていますね。しかし、福島で集落が消えてしまうとことを知らされていない。日本国民の9割が知らない状態で過ごしている。何時間も何日もかけてテレビ取材して、映像で流すのは支障がないことだけ。住めない状態がいま続いています、くらいでお終いでしょ。そういう報道が我慢できねえんだ、俺は。

だから、誰かが声を大きくして言わないといけない。だーれもいない集落が5年間、まだ放置されたままだよ、ということを。人の声も聞こえない。車の音もしない。物音もしない。汚染されたままの状態がそのまま残っている。

「原発再稼働反対、反対」と言っている人たちも、こういう現実を知らないでいれば意味をなさないんだ。実際に来て目の当たりにして、放射能で汚染されればこんなおそまつな集落になってしまうんだ、という現実を知って、住民の気持ちを正確に伝えなくてはだめなんですよ。

消えゆく集落の住民の生の声を聞いてもらいてえ。

この話を聞きながら思い出していたのは、福島第一原発の事故から1年が経とうしている頃、飯舘村民の菅野哲さんの「メディアは、笑顔や泣き顔を伝えても、怒りを報道しない」という訴えだった。結局、5年間、それは変わっていない。杉下さんの中に蓄積してきたもどかしさを受けとめて、伊波さんが「コミュニティセンターのこの庭に村の人を集めて、テレビの同時中継をやればいいんだ」と言った。

国で拒否しますから。やっと福島や茨城の農産物が海外で買ってもらえるようになったのに、マイナスイメージを報道したら農産物がまた売れなくなっからと、絶対に出さないんだ。そういう問題ではない思うんだよな。現実を伝えるべきだよな。原発で汚染された地域の話題は、できるだけ抑えよう抑えようとしている。オリンピックもあるのだから。まだ現実は厳しいんだよなんていうと、日本のイメージが悪くなるっぺ。

復興に水を差す、風評被害を煽ると、政府や各方面から徹底的に批判を浴びせられた「美味しんぼ」の騒動は2年前だった。

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長泥の隣の集落である蕨平へ続く道路はゲートと閉ざされている(写真奥)。警備員はおらず、ここからは出られない。 この道路標識から浪江町に向かう道路はバリケードで封鎖されている(下の写真)。この先はさらに放射線量が上がる。

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植木に手が入らず、上の方は伸び放題になっている。ぼくらは地区内をざっと回った後で、杉下さんのお宅にお邪魔を した。(続く)


 p3303602-001.JPG  (長泥展望台から福島第一原発方向)

東京電力福島第一原発の大事故から5年目の3月が過ぎた。飯舘村のなかで唯一、帰還困難区域に指定されていて、地区住民と許可者以外は立ち入りができない長泥地区へ行った。『たぁくらたぁ』38号の記事「消滅する集落」で今の思い(主に憤りだ)を語ってくださった長泥住民の杉下初男さんに同行をお願いした。3月30日午後、2時間あまりの間、そこでは車1台、誰一人とも出会うことはなかった。「復興なんて、夢の夢。この集落は消えてしまうんだ」と、杉下さんは語気を強めて言った。

長泥集落は飯舘村の一番南に位置している。福島第一原発から北西へと舌状に延びる非常に高いレベルの放射線量地帯に重なって帰還困難区域は続くが、その舌先に当たるのがこの地区である。杉下さんとは飯舘村役場で待ち合わせをし、ぼくら(長野から3人で行った)の車に同乗していただき、杉下さんの立入許可証をフロントガラスの手前に置いて、国道399号を長泥へ向かった。

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山道を登っていくと開閉式ゲートがあり、その前で停車をすると、1畳ほどのプレハブ小屋で待機いている警備員が出てきて、許可証を確かめた上でゲートを開ける。ここから先が長泥地区だ。杉下さんが警備員に「ガラスバッジ(積算線量計)はつけているんだべ?」と聞くと、「伊達市の家の中にぶら下げたままになっている家族の線量計に比べると11倍くらいかな」と言い、「(被曝量を)計算すると年間6ミリシーベルトくらいだな」と笑った。ここはもう3年になるそうだ。

p3303608-001.JPG(左が杉下さん、右は信州沖縄塾の塾長伊波敏男さん)

ゲートを抜けるとすぐに坂を登り切って長泥展望台となり、視界が一気に開ける。ここで車を降りた。村一番の桜の名所でもある。杉下さんは「ここは我々(長泥住民)が40年間手入れしている桜並木」、そして桜に近寄って「蕾が大きくなってきた」と言った。ぼくらも桜並木に近づくと、そこにはイノシシの掘り跡。「やり放題。誰もいないから。これまで、こんなことはなかった」。そう言ってから杉下さんは、目の前に広がる風景を指しながら原発事故による汚染について説明した。

一番奥の稜線、左側からずーっと続いてストンと落ちますね。右からも山並みがずーっときてストンと落ちますね。朝、あそこに太平洋が見えるんです。そこは大熊町の海。ここから原発まで40キロ。海が見えるということは、障害物がないということです。

2011年3月15日は太平洋低気圧が通り、普段なら西から東(海)に吹く風が、北西に向かって吹きました。そして、雪と雨になった。そのせいで、メルトダウンした2号機から漏れだした高い線量の放射性物質が真っ直ぐにこちらに流れてきて、ここに大量に降ったんです。当時は線量計がないので、誰もそれが分からなかった。「なんだか顔がヒリヒリするよな」と言う人も何人もいたし、その頃は180~200マイクロシーベルト/時あったらしい。ものすごい大量の放射性物質を浴びたことになる。木の枝も葉っぱも、すべて汚染された。

ここから見える山と山の間にはいろんな集落がいっぱいあるんですよ。向こうにも、向こうにも。でも、そこには今、だーれも住んでいない。見える限りは、人っこ一人いないんだよ。

ここから先、太平洋に向かっての地域が、幅で15キロくらいが線量の高いところ。なぜ帯状になって汚染されたか、ここに登ってくれば分かる。地形に沿ってきたんです。

杉下さんの話を聞きながら、この日は海に向かって吹いている冷たい風を肌で確かめた。

飯舘村の避難指示区域の再編にともなって、長泥地区が帰還困難区域に指定されたのは2012年7月17日である。その前に何度かここへは来ている。同年の5月2日に来た時はちょうど桜が満開だった(下の写真)。その時の放射線量は、地上10センチで10~12マイクロシーベルト/時あった。今回は線量計を携帯しなかったので線量は測らなかったが、当時よりはだいぶ下がったことは間違いない。しかし、車外へ出ての説明を終える度に、杉下さんが「線量が高いから、もう行きましょう」とぼくらを促すその言葉によって、汚染の恐さをむしろ強く感じた。

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ぼくらは車に戻って、国道399号を南に下った。長泥、浪江町から川内村へと、阿武隈山地の中腹を通っているこの国道は「あぶくまロマンチック街道」と呼ばれていた。

坂道を下り終わって少し行くと、道路の片側は数年前に試験除染が行われた畑が広がり、もう片側は放置されたままの畑である場所に出た。車から降り、振り返って写真(下)を撮った。正面の山に長泥展望台がある。

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ここらか長泥集落の中心地まではもうすぐだ。そう、ぼくがずっと車を運転していたのだが、曲がる度にウィンカーを点滅させていた。「車がいないのに」と指摘されて、「癖だから」と言い訳をした。外では当たり前のことが、ここでは当たり前ではなくなっている。これ自体はささいなことだけれど。(続く)