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『南アルプスの未来にリニアはいらない』信濃毎日新聞書評欄で紹介

11月11日付信濃毎日新聞の朝刊書評欄で近刊『南アルプスの未来にリニアはいらない』(著・宗像 充/発行・大鹿村の十年先を変える会)が紹介されました。著者が2027年に東京~名古屋間を開通を目指すリニア中央新幹線の工事を計画当初から追いかけ、雑誌「山と渓谷」に連載していたコーナーが1冊にまとめられた本書。
本の内容はこちらです→https://goo.gl/euuVf2

南アルプスの未来


2018年9月27日「9月26日裁判傍聴」

◎2件の裁判の傍聴をしました。
●DHC、長谷川幸洋(元ニュース女子司会・元東京新聞論説副主幹)裁判
 これはTOKYO MXの「ニュース女子」での人権侵害について、辛淑玉さんがDHCと長谷川氏を名誉毀損で提訴した裁判です。
第1回口頭弁論が東京地裁703号法廷で開かれました。
この日は裁判長からこれまで双方から提出された書面についての確認と、今後の進行について日程のすり合わせが行われました。
次回は11月12日(月)13:30、709号法廷です。
傍聴席56席ですが、報道者席は用意されていず、報道関係者も一般傍聴席になっていました。
毎日新聞記者が一人来ていましたが、他にはいないようでした。
傍聴席は空席が一つか二つありました。
次回はいっぱいにしたいと思いました。
●警視庁機動隊の沖縄派遣は違憲 住民訴訟
 件名訴訟の第9会口頭弁論がありました。
前回は福島刑事裁判と重なって傍聴できず、今回も上記のDHC・長谷川幸洋裁判と重なっていて無理かと思っていたのですが、上記裁判が早く終わったので、こちらも傍聴できました。
東京地裁103号法廷で傍聴席は98席ですが、希望者100人を少し超えていて抽選になりました。
幸い当たって入れましたが、後で聞いたところでは全員入れたそうです。
多分原告席に予定されていた人の中に、抽選に並んでいた人がいたもようでした。
 原告代理人弁護団長の高木弁護士が、証人として採用を希望するのは、原告たちの抗議行動に対して機動隊が暴力的な排除をしたことを証言する人たちであることを説明したのですが、高木弁護士の意見陳述ではとても印象的な言葉が繰り返されました
「呆れるほど平和的な抗議活動」に対しての、暴力的な排除だったという言葉です。
採用を希望している証人は現地住民や報道関係者、地元弁護士など抗議行動側の人たちの他に元沖縄警察警備部長の重久氏も入っています。
重久氏を含めて原告側で希望した7人全員の採用が認められました。
証人採用の旨が伝えられると、原告席、傍聴席の空気は一気にわぁ〜っと緩み安堵の笑みが広がりました。
 裁判長は被告代理人に被告側も重久氏を証人とするか、あるいは他にふさわしい人がいるなら提起するように言いました。
被告代理人は暴力を振るった側の立場である重久氏が証人採用されたことに困ったのでしょう、沖縄県警と東京の警視庁の人とどちらを証人とした方が良いかなどと裁判長に伺いました。
裁判長は「できれば両方」と答え、それを聞いて原告席、傍聴席はなお一層空気が緩みました。
派遣した側、派遣を要請した側、双方の言い分を聞かないと一方からだけだと不確かでしょうというわけです。
この裁判長は、しっかり原告の言い分を受け止めていると感じられたからです。
 そして、次回以降の裁判日程が出されました。
11月12日に通常審理の後、証人尋問を3回期日で行うことになりました。
2月27日(水)、3月20日(水)、4月24日(水)いずれも14:00〜16:30、103号法廷です。
証人尋問、ぜひ傍聴席をいっぱいにしたいと思います。
どうぞ、皆さんも来年の予定表にこの口頭弁論期日を書き込んでおいて下さるよう、お願いいたします。
 閉廷後の報告会では弁護団長から、もし証人が一人も採用されなかったら裁判官忌避をしようと思っていたことが報告されました。
7人全員の証人採用が決まったことを喜び合いながら、「ただひとつ心配は、裁判所は3月が人事異動の時期なので、裁判官が変わらないことを願っています」の報告に、裁判は甘くないことを改めて思い起こしました。            

いちえ


2017年11月12日号「11月8日 被災地見学ツァー①」

 「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」の活動を一緒にしている友人たちを誘って“被災地ツァー”をしてきました。
友人たちは、2012年3月に郡山の開成山球場で催された脱原発集会に参加して以来の福島行だと言います。
その時は集会参加だけだったと言いますから、被災地を巡るのは今回が初めてです。
そこで浪江町の今野寿美雄さんに、ご案内をお願いしました。
1泊2日で浪江町、南相馬、飯舘村を回る計画です。
今野さんには福島駅で出迎えていただきましたが、この日は福島駅から朝日新聞の女性記者さんも浪江町取材で同行しました。

◎川俣町山木屋
 福島駅から114号線(富岡街道)を通って川俣町山木屋を抜けて浪江町津島へ入りました。
いつも一人で来る時に利用するバス路線は、川俣町から12号線に入るので山木屋は通らずに飯舘村を抜けて南相馬に入ります。
この日のコースは誰かに乗せてもらわなければ辿れないコースですし、山木屋は今年の3月31日に避難指示解除されるまでは通行証を持っている住民が一緒でないと入れませんでしたから、私には初めての道でした。
 福島に来る時にはいつも線量計を持参していますが、震災から2年過ぎた頃から荷物の中に入れたままでスイッチを入れて測ることも滅多にありませんでした。
今回は測定できるように手持ちのバックに入れてあります。
 広い駐車スペースの奥に木造平屋の大きな建物が見えてきて、そこは「道の駅とんやの郷」でした。
山木屋にも道の駅が造られていたのでした。
「帰還した住民の買い物や交流など復興拠点として」建設され、今年7月に開店したようです。
戻った人、あるいは戻ろうとしている人は、何人くらいいるのでしょうか?
 福島に限らず地方に出かけた時には、私も「道の駅」があれば必ず入店してその地方の特産品などを知り買ったりもします。
商品として並んでいるのは地元で産する生鮮食品やそれらを使った加工食品、そして食品以外の品々もまた地元の特産品や地元の人たちが作ったものです。
地元の人にとっては、その土地や自分たちの暮らしを紹介し、また何がしかの現金収入にもなっているのでしょう。
 でも原発被災地の「道の駅」は、どうなのでしょう?
戻ってきた人たちが出品したものが並べばいいですが、そうなるでしょうか?
帰還した住民の買い物や交流の場はなくてはならないと思いますが、復興交付金の使い方として「道の駅」建設よりも優先すべき何かがあるのではないか?などと、私は考えてしまうのです。
「復興」とはなんだろう?と、これからも考え続けていきたいです。

◎浪江町
●今野さんの家で
 2011年3月の原発事故後にウクライナ製のガイガーカウンターを入手して、福島に通いだした時からいつも持参してきました。
最初の頃は手荷物に入れて使っていましたが、海に近い地域での線量が低く安定してきていることを知った頃から、浪江や小高の高線量地域や飯舘村などに行く時以外はキャリーバックに入れっぱなしでした。
今回はいつでも取り出せるように、手荷物に入れてきたのです。
0.3ミリシーベルト以上で警戒音がなりだす線量計ですが、山木屋通過中は断続的に警戒音がなりました。
ところが山木屋の帰還困難区域を通過する頃から連続してピーピー鳴りっぱなしで、浪江町津島の高線量地域を抜ける間はずっと、連続して鳴っていました。
 今野さんの自宅は川添上ノ原です。
東日本大震災が起きたのは、今野さんがここに家を建てて9年目のことでした。
今野さんは冗談めかして「ここは浪江のビバリーヒルズ」と言いますが、小高い場所に立っているお隣もお向かいも、またそのお隣の家も、瀟洒で個性のある築後まださほど経っていない建物です。
この辺りに一番先に建てたのが今野さんだったそうですから、どの家々も、そこに暮らして10年満たぬ間に避難を余儀なくされたのです。
建てて1年しか経たないお宅もあったといいます。
 今野さんが「これを見て」と言って示した庭木は、楕円の葉をした常緑樹でした。
でもそれはヒイラギだと今野さんは言いました。
仔細に見れば幹の下の方には10枚ほどヒイラギ特有の鋸歯の葉をつけた枝もありましたが、鋸歯の葉は他には数枚しか見当たらず99,9パーセントは鋸歯のない楕円の葉でした。
植えた時にはこんなではなく、どの1枚も鋸歯の葉だったと言います。
またお隣の松の葉が、黒くなっています。
2年前に今野さんに連れて来ていただいた時には気づきませんでしたが、その後の変化なのでしょうか、それにしても放射能の影響だと思えてなりません。
 お家の中も地震の跡をそっくり残したまま、リビングには当時幼稚園児だった息子さんが遊んでいたおもちゃが床いっぱいに広がり、台所の食器棚の引き出しも扉も開いて転がり落ちた食器が壊れて床にありました。
地震の後片付けをする時もなく原発事故での避難となり、既に6年8ヶ月が過ぎたのですが、帰ることのできない家です。
家を建てる時にはその時期ばかりでなく、成長していく子どものことや自分たちが老いたこれからの時をも考慮に入れて設計していきます。
そうした将来の時間も含めた暮らしの全てが、原発事故で奪われてしまったのです。
 今野さんの家の斜向いの御宅のガレージに車があるのを見て、今野さんがドアをノックしました。
ドアを開けて出てきた女性に、今野さんが「車があったから誰か帰っているのかなと思って」と言うと、「うん、家の中を片付けにきたの」と答えたのは彼女もまたそのお連れ合いも今野さんの同級生だという方でした。
その岩野優子さんと今野さんは、避難してから初めて会ったそうですが、3月11日には今野さんは仕事で女川に行っていましたから、互いに元気に顔を合わせられたことがどんなにか心強かったことでしょう。
 優子さんは被災時には、楢葉の介護施設で介護士として働いていました。
地震後、優子さんはで施設の入居者をいわきに避難させるために自宅に戻れず、いわきで3月12日を迎えました。
岩野さん夫婦には子どもはいませんが、東北電力に勤める夫とも、また他の家族とも連絡が取れず数日が過ぎ、ようやく義父やきょうだいは郡山にいることが判り、夫の無事も判りました。
勤務先の介護施設は施設ごと平田の施設に受け入れてもらえることになり、優子さんは離職して郡山で家族と合流したのです。
その後ずっと郡山で過ごしています。
夫婦二人の暮らしなので、浪江のこの家に戻ってもいいかなとも思い、でも原発事故は未だ収束していないのでまた何かあって避難することになると嫌だし、心は揺れながら、それでも家の片付けをすると少し落ち着けるのだと言います。
片付けをすると少し落ち着けるという優子さんの、胸の内を思いました。
原発事故が起きたのは、優子さん夫婦がここに家を建てて6年目のことでした。
新築の家で過ごした時間よりも長い時間が、避難先で流れているのです。

●いつも東京地裁でお目にかかっています
 浪江の役場の隣のマルシェの食堂で、お昼にしました。
浪江焼きそばの店に入ると、見知った顔がありました。
東京地裁での「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回裁判」で、いつも被告席に座っている復興庁の役人です。
空席は何席かありましたが、ちょうどその人の前も空いていたので、私はその前に座りました。
彼が箸を少し休めた時に私は、「こんにちは。いつも地裁でお目にかかっています。今日はお仕事ですか?」と挨拶しました。
「ええ復興庁の仕事で浪江が担当ですから」と返事が返りました。
先に食べ終えた彼は「済みませんが、それではこれで失礼します」と、いかにも、いかにも役人らしく腰低く慇懃無礼な挨拶を残して席を立ちました。
私は「はい、また地裁でお会いしましょう」と、挨拶を返しました。

●請戸へ
 認定こども園は既に出来上がっていますが、まだ開園はしていないようです。
小中一貫校の建設現場に行きました。
住民が減少したからには財政的には、各地域に学校を再開するよりも小中一貫校にした方が様々な点でいいのでしょうか。
そうかもしれないと思いはしますが、広い敷地の建設の様子を見ていると、果たしてそうなのかなぁ?と大いなる疑問も湧いてきます。
まだ上手く言葉にできないのですが、なんだか順序が違うような気がしているのです。
国の災害復興交付金で工事が進められているようです。
 町営の災害復興公営住宅は既に出来ていて、また町が分譲する住宅も建築中でした。
ほとんど更地になった駅周辺を見てから、請戸漁港へ行きました。
以前に請戸漁港にも何度か来ていましたが、広範囲に防潮堤の工事が行われていて、そのために工事車両も多く行き交い、港への入り口もとても判りにくくなっていました。
漁港には何隻かの漁船が停泊していて漁師さんが乗って作業をしている船もありましたし、護岸にも数人の漁師さんの姿がありました。
その足元のバケツには種類の違う水揚げされたばかりの魚が数匹いて、中には尾を跳ねている魚もありました。
「試験操業ですか?」と聞くと「そうだ。だけどまだまだだな。市場ができなきゃダメだな」と答えが返りました。
「どこから来たの?」と聞かれ東京からと答えると、「請戸を見に来たの?」とまた聞かれ、請戸にはこれまでも何度か来ていることやこうして船が戻って試験操業でも漁が再開できてきたのを見ることができて嬉しいというと、「まだまだだ。まだまだこれからだ」と、50代くらいのその漁師さんは言いました。
 津波で流された家々の礎石などはもうすっかり片付けられていましたが、苕野(くさの)神社の跡はそのまま残っていました。
石の鳥居の円柱も枯れ草の上に並んでいて、その脇には畳んだ豆絞りの手ぬぐいが落ちていました。
手ぬぐいは、どうやら最近そこに誰かが落としていったもののようですが、被災前にはここで奉納の踊りなども舞われたのではないかと、そんな様子を思い浮かべたのでした。
流された御神体の一部は請戸小学校の裏手に置かれ、持ち出したり触ったりしないように注意書きがされていました。

◎南相馬へ
●双葉・大熊・富岡
 この日の宿は南相馬の私の定宿ビジネスホテル六角を予約してありましたが、今野さんは浪江からまっすぐ南相馬へ向かわずに、逆方向の双葉の方へハンドルを切りました。
6号線で双葉、大熊、富岡を通り、夜ノ森駅の桜並木を抜けて大熊町でのことです。
 東電社員の宿舎の前を通った時には東電の社員でしょうか、道を歩く制服姿の男性が2人いました。
大熊町で道を歩く人の姿を私が目にしたのは、初めてのことでした。
大熊給食センターの辺りは復興拠点にするそうで、幾つかの建物が建設されていました。
 またその先では、畑で何かの苗を植えているのを10人ほどの人たちが見守っていてその頭上にはドローンが飛んでいた場所に出会いました。
何を植えているのか尋ねると、玉ねぎの試験栽培だそうです。
大熊町もこうして様子が変わってきているのでした。
 富岡のインターチェンジから常磐自動車道で、南相馬へ向かいました。
●南相馬
 ビジネスホテル六角で,被災地を初めて訪ねた3人に、大留さんから3月11日からのことや,産業廃棄物処理場建設反対運動のことなどを話してもらいました。
まだ次の日がもう一日ありますが,“被災地ツァー”を実行して,本当に良かったと思いました。
やはり「百聞は一見に如かず」友人たちは人の姿が消えた町の様子や,避難指示解除されても家のすぐ隣にフレコンバックの山がある様子などに非常に驚いていました。
私も「トークの会」で当事者のお話を直接聞く機会を作ったり,福島行の後では必ず「一枝通信」で見聞してきたことをお伝えしているつもりでしたが、言葉だけでは伝わらないことが多々あることを感じました。
これからも機会があればまた“被災地ツァー”を計画したいと思いました。 いちえ



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