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2019年9月27日号「9月19・20日③」

◎ふるさとを返せ 津島原発訴訟 第23回口頭弁論
●原告:佐野久美子さん本人尋問
*佐野さんは中学卒業後に津島を離れましたが、30歳でまた戻って震災当時も津島で生活していました。
主尋問は原告代理人弁護士の質問に本人が答える形で進められますが、ここでは本人の独白のように構成して記します。(以下、他の人も同様です)
⒈津島は私の原点
 津島で生まれ15歳まで、ずっと津島で生活していました。
津島は私にとって、私自身の原点であり、いつも心にある故郷、自然の美しさ、山菜、川の水、夜空の星…、それらが私の原点なのです。
それは避難していろいろ転々としてストレスを感じる中で、そう思うようになりました。
 津島は、自然の恵みが豊かなところです。
春にはフキノトウ、タラの芽、ゼンマイ、タケノコなどいろいろな山菜、梅雨の頃には山の崖のところで、“豆ダンゴ”が採れました。
 “豆ダンゴ“はキノコの一種で、盛り上がった土の下に出る小さくて白いダンゴのようなキノコです。
ジャガイモを探り掘りして、収穫にはまだ早い未熟なジャガイモを掘り出します。
探り掘りした未熟なジャガイモと豆ダンゴを一緒に入れた味噌汁は、出汁がとても美味しいのです。
その味は忘れられません。
豆ダンゴ、私も食べてみたい!土の中に出るキノコなんてトリュフ見たい!調べて見たらツチグリの幼菌でした。
 梅雨が明ける頃には、桑の木に実がいっぱいなっています。
口の中が紫色になる程、桑の実を食べました。
秋にはアケビ、キノコ、美しい紅葉で山が染まりました。
 小さい頃から祖母と一緒に山を歩き、祖母に教えてもらいながらキノコ採りをしましたから、キノコ採りは大好きでした。
キノコ採りの時期は稲刈りの頃と重なっていましたが、それでも田んぼに行く前に朝早起きしてキノコ採りに行くときはワクワクして出ました。
⒉国分商店
 中学を卒業して県外に就職し、その後栃木県で結婚し長男をもうけましたが、30歳のときに離婚して津島へ戻りました。
戻ってから津島の国分商店に勤めました。
国分商店は日用品や食料品、雑貨、酒など日常使う品は、およそ何でも扱っている店で、この店で作っている「国分羊羹」は有名でした。
そのほかに「喜楽亭」という店も持ち、そこでは宴会業を営んでいて、私はそこで配膳や掃除の仕事をしていました。
 国分商店では、買い物に来た人を車で自宅まで送ってあげるので、多くの人がそれを前提にして、国分商店に買い物に来ました。
お年寄りなど、助かっていたと思います。
送って行く先は津島のほとんど全域で、車の運転はいつも私がしていました。
⒊結婚
 平成3年に、佐野健一と結婚しました。
夫は津島の自宅から勤務先の双葉砕石工業まで、車で通っていました。
健一の実家は乳牛を飼っていて、畑では自家用の野菜を作っていました。
私も二人目が生まれるまでは、乳牛の仕事をしていました。
⒋リンドウ栽培
 畑では自家用野菜だけではなく、出荷用にインゲン、カボチャ、キュウリを作っていましたし、2003年からはリンドウも出荷していました。
津島地区には「ほのぼの市」という直売場があり、私はそこを手伝っていました。
野菜やリンドウは、ほのぼの市で売りました。
 津島は高冷地で昼夜の温度差が大きいので、花の色が鮮やかになります。
それで津島地区では私を含めて8、9軒が、リンドウの栽培を始めたのです。
リンドウの栽培は、1年目に苗を植えて、2年目には苗の株を大きくし、3年目でようやく出荷できるようになります。
 減反した田んぼや牧草地にした田んぼを、うないこんで、そこで栽培しますが、根瘤という病気になって4枚ほどの田んぼをダメにしてしまいました。
私も実家の田んぼを父から許可をもらって、そこで育てていました。
震災の前年、少し高い苗を長野から購入して植えたのが花咲いて、とても綺麗な色でした。
震災直前まで栽培をしていて、その苗が育って花咲くのを楽しみにしていました。
⒌避難後の生活
 13日に私たち夫婦と義母のフヨで親戚の家に避難し、14日に津島に戻って一泊して、15日に二本松に避難しました。
その後、4月5日から岳温泉に避難しました。
岳温泉に避難してから義母の様子がおかしくなり、知人が訪ねてきても名前を思い出しませんでした。
避難する前は認知に問題は無かったし健康にも異常はありませんでしたが、岳温泉に行ってから、きょうだいの名前も津島の住所も思い出せなくなりました。
 その後認知症は進み、体調も悪くなっていき、今は私たち夫婦のことも、きょうだいのこともわからなくなりました。
⒍大玉村
 平成24年4月に大玉村に中古の家を買いました。
岳温泉に避難した後で二本松の借り上げ住宅に移りましたが、そこでは隣近所に気を使って家の中での家族の会話もヒソヒソ小声で話すような状態でストレスを感じていました。
帰れるのかどうか津島の状況もはっきり判らない時期でしたから、いま家を買うのは早いのではないかと躊躇しました。
まだ東電からの補償もあまり無かった時期でしたし、夫は59歳で定年より1年前でしたが退職して、その退職金で購入しました。
 そこは家の前が牧草地で、田んぼ、山があり、安達太良山が見え、津島と似ている風景でした。
夫は一旦退職した後でまた前の職場に戻り、毎朝3時頃起きて朝食を食べて5時頃出かけます。
帰宅すると、夕食後は疲れて寝てしまいます。
⒎大玉村の暮らし
 大玉村に来てからはリンドウではなく、ハウスでトルコキキョウを栽培して販売しています。
近所の人にトルコキキョウを譲ったりしますが、隣組の人と良い関係を作り、一生懸命働いて、一生懸命仕事を頑張っていることを理解して欲しくてのことです。
大玉村でも積極的に隣組に関わっています。
 津島に似ていると思って大玉村に住むようになりましたが、津島と同じような生活は全然できません。
山菜が食べられないし、キノコ採りもできません。
⒏いま津島の家は
 津島の自宅はイノシシ、ハクビシンが入ってメチャクチャになってしまいました。
それを見ると虚しくて、原発事故のせいでこんな風になってしまったと、悔しさでいっぱいです。
津島が除染されたら、夫はすぐにも戻りたいと思っているでしょうが、私は戻れません。
リウマチを病んで通院していますし、義母が介護施設にいるのでそこにも通いたい、また原発事故後に上津島から大玉村に移った実家の両親の面倒も見たいからです。
⒐私がこの訴訟に参加した理由
 私は何も悪いことをしていないのに、津島から追い出されてしまいました。
健康だった義母が避難後認知症になり、この8年で酷くなってしまいました。
震災後8年半になりますが、私たちは津島を捨ててきたのではなく、追い出されたのです。
お金では自然は戻りません。元の状態に戻してほしいです。
除染には何十年もかかると言われますが、そこに住まなくても、津島は大事なふるさとです。はやく元に戻して欲しいです。
 長女には結婚しようという人ができましたが、娘は相手の人に原発事故の被害者であることをなかなかいい出せませんでした。
●東電代理人反対尋問
 ここでもまた、支払われた賠償金学を記した表を見せて「これだけ貰っていますね」と確かめようとしたのですが、やはりまた「字が小さくて読めません」と返されました。

●原告:今野斉さん本人尋問
⒈今野家のこと
 津島の赤宇木で生まれ、中学卒業後は福島と東京の自動車修理工場で5年間働き、その後津島に戻って暮らしてきました。
父の菊雄が、戦後満州から引き揚げて入植してから津島での生活が始まりました。
男ばかり5人兄弟で、私は4男です。
4男の私が今野家を継いでいます。
家業は、農業と自動車修理工場との兼業でした。
長男は東京で自動車修理工場をしていて、次男は満州で行方不明になっています。
⒉コシヒカリ栽培
 平成20年に兄の憲昌(*3男か?)が亡くなり、自動車修理工場は止めました。
 農業では米と野菜を作り、乳牛を飼っていましたが、その後乳牛を和牛に替えました。
米は山間地用のヤマテニシキという銘柄を作っていましたが、食味が良くなかったので、コシヒカリを栽培するようになりました。
山間高冷地ではコシヒカリの栽培は難しいのですが、昭和59年、30歳の時にマキタ研究所からモニターとして選ばれて、試験的に種もみを栽培することから始めました。
 米つくりは、通常はコンバインで刈り取りボイラー乾燥が普通ですが、私は手で刈り取り稲架かけで天日干しにして、食味を向上させました。
稲架かけで天日に干すと、ボイラー乾燥とは違って湿気が戻らず食味が全く違うのです。
⒊ほのぼの市
 コシヒカリの他に野菜、リンドウを作って、ほのぼの市で販売していました。
ほのぼの市は石井絹枝さんの呼びかけで始まりましたが、「企業組合つしま」という法人組織の運営で、私も出資金を出して組合員になりました。
組合員は70名くらいいました。
 リンドウは2002年頃からでしたが、栽培には水の管理、除草、春先の気温の変化がある時期の温度管理など、苦労はありました。
リンドウの他に、ビニールハウス内でトマト、ズッキーニを作り、ブルーベリーも100本ありました。
それらの収穫物を、ほのぼの市で販売しました。
 妻の厚子は農作業の他に、平成8年頃からヤクルト販売を始めました。
母のノリ子は、リンドウの草取りなどを主体的にやっていました。
⒋避難生活
 平成23年3月15日に隣組の組長から「全町避難となったので二本松体育館に避難するように」と言われて、家族5人で二本松の体育館に行きましたが混んでいて入れず、山形市に避難しました。
その後3月24日に、川崎市の妻の実家に避難しました。
山形では2ヶ所に行きましたが、毎日毎日雪が降り、母と長女が風邪をひいたり血尿が出て体力が落ちてしまいましたが、病院が近くになかったのです。
それで川崎に避難し、二人をすぐに近くの病院に運びました。
長女の血尿は山形避難時から今もまだ続き、甲状腺検査B判定を受けています。
 川崎は妻の実家で妻が相続しています。
当時、母は88歳、長女は浪江高校3年でいわき市の短大に入学が決まっていました。
次女は浪江高校2年生、長男は平成20年から東京の専門学校に川崎の妻の実家から通っていました。
 川崎は大都会でコンクリートに囲まれた工業地帯で人家が密集していて、津島とは環境が全く違い、騒音で眠れなくなりました。
またアルバイトでダンプの運転手をしましたが、同僚から「原発事故で金を貰っているだろう」と言われるのが辛かったです。
津島でチャレンジしてきた梨、リンゴ、ブルーベリーなどの栽培もできなくなったのが辛かったです。
⒌母の最期の言葉
 環境の変化から母の具合が悪くなり、「チリジリ(野菜などを作る畑仕事のこと)がしたい」と言うので、千葉の市原に家を購入しました。
津島にいた時に母は家事をしていてボヤを出したことがあるので、それ以来家事はさせていませんでした。
川崎では何もすることがないので、このままでは呆けてしまうと思ったのです。
市原の家の庭を畑に変えて、母は野菜を作るようになりました。
川崎は庭がなくプランターやガーデニングもできる状態ではありません。
 私は月の半分は母をつれて市原で過ごすようになりましたから定職につけず、アルバイトをしていたのです。
川崎で畑ができるところを探しましたが、東電の賠償ではまかなえる場所がありませんでした。
市原の家は、平成30年に母が95歳で亡くなった後も、持っています。
 母は、避難生活に入ってからいつもは「帰りたい」とは言いませんでしたが、亡くなる前の言葉は「津島に帰りたい」でした。
最期の言葉が「津島に帰りたい」と聞き、日頃は決して言わなかったのにその心を抱いていたことを思うと私は胸がいっぱいです。
⒍家族の健康状態
 妻は川崎に避難後パートタイムの仕事をしていましたが、平成25年に会社が埼玉に移ったため、辞めました。
その後も仕事を探しましたが、60歳近くなっての再就職はできませんでした。
平成27年4月に乳がんが診断され、12月に手術を受け抗がん剤治療も終わりましたが、後遺症が出て家事全般ができなくなり、治療は現在も続いています。
 私は避難後に顔面神経痛になり、今年の2月に胃がんが見つかり手術をしました。
経過観察中です。
 事故当時18歳だった長女の健康が、とても心配です。
平成25年に大森の指定病院で甲状腺B判定を受け、問題ないと言われましたが、心配は晴れません。
⒎今後は
 平成23年3月25日に早々と浪江町から川崎市に住民票を移しましたが、当時高2だった次女が転校するのに、川崎市の教育委員会もまた転校先の学校も、川崎市の住民票がないとダメだと言いました。
やむなく住民票を移しましたが、もう津島には帰らないという気持ちからではありません。
戻れるものなら、戻りたい!
親たちが汗水垂らして作った田畑を、守りたい。

★最期に裁判官に聞いてほしい
 中学卒業後に一時実家を離れましたが、56歳まで津島で暮らしました。
親たちが満州から引き揚げて、夜なべして田畑を作ってきました。
私は、それを守りたい!
少しでも希望があるなら、戻りたい!
孫や子も私の気持ちを察してくれています。
 除染をして1日も早く戻れるようにして欲しいです。
●反対尋問
 しょうもない東電弁護士は、賠償金の票を示して確認するように求めましたが、やっぱり「字が小さくて読めません」と言われていました!

●原告:高橋美雄さん本人尋問
 高橋美雄さんの項、⒈は原告代理人からの質問とそれへの答えの形式で記します。
質問する原告代理人弁護士は、白井劍弁護士です。
2以降は、前のお二人のようにご本人の口述の形で記します。
⒈津島での心を豊かにしてくれる生活
Q::陳述書の最後のページで、あなたはこう述べています。「もしも今何か一つ願いが叶うとすれば、私は津島の山菜が食べたいと願うと思います」。
陳述書ではそう述べたことを覚えていますか?
A:はい、覚えています。
Q:津島では様々な山菜が採れたようですが、あなたが一番好きだった山菜は何でしたか?
A:タラの芽です。
Q:タラの芽はどういう場所で採っていたのですか?
A:自宅の敷地内で自由に採れました。
Q:都会でもスーパーマーケットに行けば山菜は手に入りますね?
A:スーパーでも売っていますが、味、香り、歯ごたえ、大きさが全然違います。
自分で採ってくるのは大きさもいろいろで、大きさによって調理法を変えます。
売っているのは規格品で、新鮮さが全く違うし、歯ごたえや味が違います。
Q:自分で採った山菜が食卓にのるときの気持ちは、どんな風ですか?
A:一日で最高の満足な気持ちです。
Q:都会では味わうことのできない、お金では買うことのできない、豊かな生活が津島にはあったのですね?
A:はい。何にも代えられない豊かな生活でした。
⒉居住歴
 昭和26(1951)年に津島の農家の長男として生まれました。
昭和45年3月、小高農業高校津島分校(現在の浪江高校津島校)を卒業し、すぐに就職して昭和48年まで郡山に住みました。
 郡山から津島に戻って、農業に従事したくてJA浪江に就職しました。
JAに勤務しながら、土・日・休日、平日の朝は農業に従事しました。
昭和56年に嘱託職員になり、春と秋に一ヶ月の休みを貰えるようになりました。
父から全てを引き継いだのは、この時期です。
高齢のために農業ができなくなった人から委託されての田畑を含めて、1,6ヘクタールの畑(東京ドーム4個分の広さ)、0,8ヘクタールの水田をほぼ一人で耕作していました。
⒊行政区長として
 浪江町津島地区には、羽附、津島、下津島、南津島上、南津島下、赤宇木、手七郎、大昼の8つの行政区があり、私の属する津島は8行政区の中で最も大きくて、120世帯くらいでした。
原発事故後は、分離世帯が増えたために、世帯数が増えました。
 私は1999年、48歳のときから20年にわたって行政区長をしていますが、区長の他に副区長、庶務会計、理事が11名、組長が11名で、25名の役員で仕切っていました。
行政区の中には11の「組」があり、少ない組は6戸、多い組は15戸からなっていました。
組では道路の草刈りや地域の親睦をはかり、組内で亡くなった人がいれば葬儀は組主体で行いました。
 区長の仕事は、地区からの要望を町に伝えること、これは例えば道路の補修とか野生動物の被害などですが、その他には部落の行事と津島全体の行事、運動会や盆踊りなどで親睦をはかってきました。
津島行政区では、こうした行事のたびに25名の役員が集まって相談し、準備をしてきました。
⒋原発事故後の区長会長と行政区長
 津島の8行政区長は区長会を持ち、私は2004年、53歳のときから2018年まで区長会長を努めていました。
 2011年3月12日に福島原発で水素爆発が起き、津島地区外から大勢の人が津島に避難してきました。
この時区長会では、どの行政区にどれだけの人数を配置するか、どこにどれだけの人を避難させるかの手配をしました。
浪江役場も津島支所に移ってきて、津島支所での災害対策本部会議には各行政区の区長は、初めは参加できませんでしたが、途中から参加できるようになりました。
津島の線量が高いということは、情報がありませんでしたし、東電からの情報もなく事故の大きさについても情報はありませんでした。
 3月15日、対策本部会議で住民を津島から避難させることになり、会議が終わった後、行政区に戻り120世帯と避難してきた人たちの居る避難所に行って、二本松に避難するよう伝えました。
でも私は、避難しない人が10軒くらい残っていましたから、この日には避難しませんでした。
私も20日には二本松の避難所に移りましたが、それまでの間は区内を見回り、夜に電気がついている家があれば昼に行って、避難するように伝えました。
 原発事故後、行政区長として一番苦労したのは、120戸の安否確認でした。
誰がどこに避難したか町では情報を把握していないので、人づてに情報を集めました。
一人一人の情報を把握するのは大変で、判るのに約2年かかりました。
 住民の避難先を把握して2014年から、「かわら版・津島」の発行を始めました。
また行政区内の住民の協力を得ながら、2011年8月から毎月、津島行政区内の全ての家の入り口の線量を毎月測定し、現在も測定を続けています。
線量測定は津島行政区で始まって、その後他の行政区でも同様に毎月行うようになりました。
線量測定は毎月行って、住民に送ったかわら版には測定表を印刷していました。
⒌様変わりした津島と現在の思い
 夜中によく目を覚ますことがあります。
二本松の借り上げ住宅で一人寝ている時、どうしてこんなところにいるのか不思議で、なかなか眠れなくなります。
津島の自宅には自由に帰れず、その都度、事前に立ち入り許可を得ないと自宅に帰ることさえできません。
帰る時にも、自宅に向かう道路にはバリケードが設置されていますから事前に連絡して、いちいち開けてもらわねばなりません。
 田んぼに生えた柳は電柱の高さになり雑木林のようで、とても悲しいです。
自宅の庭も荒れ果てて、許可を得て帰っても、虚しさ、寂しさが溢れ、誰がこんな状況を作ったのか。
住民に落ち度は一つもなく、国と東電がこの状況を作ったのです。
私たちの過去・現在・未来すべてを奪われました。
これは天災ではありません、人災です。
 東電は直接賠償でお金を支払ったと言いますが、お金で済むことではありません。
私たちの過去についても、未来についても、賠償すべきです。
お金の問題ではありません。
津島に帰りたい、諦められません。
いち早く除染して、私の大好きな津島に戻りたい!
●反対尋問:東電代理人弁護士
Q:「かわら版・津島」は、区長としての仕事ですか?
A:違います。
Q:二本松でお仕事をしていましたね?
A:町の臨時職員としてスクールバスの運転手をして、二本松全域を回っていました。
Q:平成28年7月にいわき市に新居を購入されましたね?
A:はい。そこでは農業に従事していません。
畑の土地がないので、自家消費用の野菜を自宅の庭で作っています。
現在二本松には1週間に2日住み、それ以外はいわき市です。
平成31年4月以前は、二本松にずっと住んでいましたが、スクールバスの運転手をやめた時点で、いわき市に居ます。
Q:平成28年7月にいわき市に新居を購入されたのはなぜですか?なぜ二本松ではなかったのですか?
A:息子がいわき市に居たからです。
70坪のところに2世帯住宅を建て、私ども夫婦と母、次男夫婦で住んでいます。
Q:みんなで住むために、いわき市に新居を求めたのですね?
A:「みんなで住む」ためではありません。原告の思いが溢れた言葉です!
津島の自宅にみんなで集まれなくなったからです。
●反対尋問:国代理人
Q:いわき市では何をされているのですか?
A:何もしていません。
妻は自家用野菜を作っています。
★最後に言いたいことは
 虚しい、悔しい思いは日頃から抱いていますが、虚しい、わびしい、悔しい思いはなお強くなっています。
津島に戻りたいです!

 「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」第23回口頭弁論は、4人の原告本人尋問でした。
原告代理人の弁護士の方たちは、丁寧に原告の思いに沿って聞き取っていかれましたが、被告代理人弁護士の、なんとまぁ威丈高で的を得ない、そればかりか神経を逆なでするような質問とその態度には、ほとほと呆れ、憤りを覚えます。
毎度のことながら、強くそう思います。
 そしてまた今回も強く感じたのは、原告のみなさんにとってふるさと津島への思いの強さです。
それは一言で言えば「ふるさと津島」という言葉に表されていますが、川の水、星空、山菜やキノコ、自然、人の繋がり、そして生まれ育ってそこで過ごしてきた時間……、
私が私であるためにどれ一つも、ただの1秒も欠かせない、それが「ふるさと」なのでしょう。
ふるさとを持たない私は裁判傍聴を通して「ふるさと」を知り、それを我が事として感じます。
 そして、改めて先日の福島原発刑事訴訟の酷い判決に憤りを覚えます。
繰り返しますが、どうぞ、下記署名をよろしくお願いいたします。    いちえ

●緊急のお願い
 不当判決に対して、このままではいられません。
検事役を務めてくださった指定弁護士の皆さんに、控訴のお願いをしてください。
控訴期限は2週間だそうです。
10月3日まで、短期決戦です。
どうぞ、SNSでの拡散、MLでの拡散をお願いします。
下記、緊急署名ページです。
お願いいたします!!  

http://chng.it/7gHfXnFkK7                

紙ベースの署名用紙(pdf)もできました。
印刷して集めてください。

いちえ

ACFrOgBsUNPyJ6IQTIkOAsLE-ZvKQ9klVXrnP7HS48zJHSLjUP69Uy74RJDshQw5Dm5Pf2669YOk4vl2RkJEaFzWUH3CMrwsJDCpiRWIyS_-XbvRv1RZouvBtOCAWSo=


2019年2月25日号「9月19・20日②」

 先ほどの裁判傍聴報告の続きです。
前便は原告代理人弁護士からの主尋問でしたが、今度は被告東電・国側代理人弁護士からの反対尋問です。
 主尋問は質問と答えの形で記しませんでしたが、反対尋問は、発言をできる限り聞いた通りに記しました。
質問のいやらしさを、感じていただけたらと思います。
殊に、東電弁護士は、「慇懃無礼」が人の姿をしてそこに居るようでした。
 最後の方に緑文字の部分がありますが、私の独り言です。
◎反対尋問
●東電側弁護士
Q:当時はあなた方ご夫婦とご長男、ご次女、お父さま、お母さまと6人で生活していたのですね。
ご長女とご三女はどこにいましたか?
A:長女は南相馬の原町、三女は仙台に。
Q:奥さまは津島で生まれ育った人で、1979年に結婚しましたね?
A:はい
Q:お母さまも津島の人ですか?
A:いいえ。飯舘村出身です。
Q:平成26年に大玉村にご自宅を新築して、ご夫婦とお母さま、ご長男夫婦の5人で暮らしていますね。
大玉村にご自宅を作ろうとお考えになった理由と、背景は何ですか?
A:10数カ所を探しましたが、たまたまこの場所が購入できたからです。
手七郎の人で大玉に住んでいる人がいますが、それが理由ではありません。
立地条件、周辺の環境、交通の便などを考えました。
Q:ご自宅購入に際して、東電から賠償金を受けていますね。
A:はい。
Q:昭和31年生まれのあなたは昭和52年、21際で石材業を創業したのですね。
土地を見つけて石を採掘氏、石を加工して売り出すのですね。
津島以外から石を掘り出していましたか?
A:いません
Q:栃木県の国有地に行っていますが、国有地からの採掘は?
A:していません。
管轄の営林署が前橋にあり、前橋からの払い下げがありましたが採掘していません。
もっぱら津島の中での採掘でした。
採掘には重機を使い、また運ぶのにトラックも必要です。
石材業は津島の重要産業でしたが、事故当時はかなり売上が下がっていました。
中国から安いものが入って来て、衰退してきていました。
 事故直前から息子も携わるようになり、息子と二人でやっていました。
Q:避難後、再開していますか?
A:平成26年7月に大玉村で再開しました。
自宅を作った翌年です。
相馬税務署が管轄で、平成27年に事業を再開するために本格的に登記しましたが空白の3年間は売上はありませんでした。
その間は、震災で倒れた墓石の修復をしていました。
Q:加工のための機械類は持ち出したのですね?
A:持ち出せませんでした。
大玉村に持ち出せたのは、ハンドカッターなど手で持てるものだけです。
ダイアモンドカッターは持ち出せませんでした。
現在はすべて外注で、石を引き受けて施工するだけです。
加工はしていません。
これまでのつながりで注文を受けているのです。
Q:奥さまは事故前には、ご自宅の石材業の事務をしていましたね。
事故後は鈴木石材店の事務をなさっているのですね。
ご長男は石材店で一緒に営業、施工をしていらっしゃいますね。
将来あなたの後を継いで石材業をするのでしょうか?
A:本人でないのでわかりません。
Q:津島で石材業を始めてから自家消費用の稲作は、どなたがやっていましたか?
A:母です。
Q:現在大玉村のご自宅の庭では、野菜を作っていますか?
A:はい、エゴマ、大根、白菜などを作っています。
Q:事故後も手七郎の行政区長をなさっていますね。
イベントの実施などをするのでしょうか?
A:避難後、みんなバラバラなのでイベントの機会はなく、年に1回、地区の総会があり顔を合わせる程度です。
Q:同級生と避難後にお会になることはありますか?
A:ありませんが、避難後も年1回の旅行はしています。
Q:大玉村では地域の隣組に入っていますか?
A:入っています。葬式の手伝いがこれまで4、5件あり、他にゴミ拾いなど地区行事には参加しています。
Q:奥さまは津島のご友人と、連絡を取って会うことなどありますか?
A:ありません。
Q:お母さまはどうですか?
A:母は足腰が不自由で、週に1度デイサービスに行く他は、私がどこかへ連れ出しています。
Q:ご長男はどうですか?
A:若い人は津島の友人と連絡を取りあって、会ったりしているようです。
Q:ご家族の皆さんは、被ばくに関する健康検査はしましたか?
A:家族皆、検査結果は異常なしでした。
ホールボディカウンターを受けたのは、4、5年前です。
Q:書類を示して東電から原告になっている4名の方に払った賠償金額がここに記されています。上は個人へ、下は石材店への賠償金額ですが、間違いないですね?
A:字が小さくて読めません。
●国側弁護士から反対尋問
Q:大玉村のご自宅は1戸建て新築で良いですか?
A:はい。
Q:間取りは?
A:間取りはすぐに言えませんが、全部で65坪くらいです。
Q:お母さんは二本松の岳温泉に避難されていたのですね?
A:はい、津島では犬を飼っていて、犬を連れて避難できるのがそこでした。
Q:大玉村には津島地区から40世帯、手七郎からは2世帯が避難していますね?
A:はい。
Q:あなたは手七郎の自宅には、何回くらい戻りましたか?
A:年に、4、5回は戻っています。区長なので自宅だけではなく地区全体を車で回って状況を見ています。
見回った結果については、住民に伝えています。
Q:3月15日に、二本松方面へ避難したのですね?
A:震災後、手七郎には海側から37名が避難してきていました。
15日に役場から、津島も線量が高いから二本松方面へ避難するようにと連絡があって、避難してきた人たちを二本松方面へ避難させた後、自分たち家族も二本松方面へ避難しましたが、地区内でも、酪農をしている人たちは避難しなかったです。
原町にいた長女と仙台にいた三女は、3月13日に心配して自宅に来ました。
電気は通じていたのでTVを見ていて、12月に生まれた孫(次女の子ども)がいたので、燃料をかき集めて青森の三沢に避難させました。
長女は埼玉方面へ逃がしました。
Q:あなたは杉林も所有していましたね。どれくらいあったのですか?
A:石材業を始めた頃に杉林も7,000〜8,000平米ほど持ちましたが、杉の生育を考えると30年から40年が建築材として主流です。
ですから、杉はまだ売れる状態ではありませんでした。
Q:青葉御影の産地は飯舘村と相馬郡の村境のあたりだと仰いましたね?
被告代理人がこの質問をした時、裁判長は両肘をついて顔を覆っていたので、私は居眠りをしているのかと思ったのです。
山菜は、どんなものを採っていたのですか?
あの辺りは国有林だと思いますが、入林許可は取っていましたか?
裁判長が顔から手を離した時には、微かに笑っていました。
それで私は、さっき裁判長が顔を覆ったわけに合点がいきました。
裁判長の笑い方は、被告代理人に対して、なんと馬鹿げた質問をするのだろうというような笑いに思えたのです。
A:取っていますが、それがなくても黙認しているのではないでしょうか。
鳥獣は許可が必要でしょうが、山菜は売ったりしない限りは黙認だと思います。
Q:あくまでも自家消費が目的ですか?
A:はい。

★反対尋問ではいつも感じるのですが、被害者に対して加害者側が質問しているのに、質問者はまるでその意識がないということです。
特に東電の弁護士は、ほんとやな感じ!なのです。
 裁判官は3人ともしっかり原告の話を聞いていますが、特に裁判長は心を寄せて聞いているように思えます。
裁判官はポーカーフェイスと言いますから予断は禁物でしょうが、でも人柄は自ずと外見に現れるように思うのです。
刑事裁判の永渕健一裁判長は、見るからに悪相でした。         

いちえ


2019年9月24日号「9月19・20日①」

◎東電原発事故刑事裁判の不当判決
 ご存知のように東京地方裁判所は19日、歴史に大きな汚点を残しました。
日本の司法が政府に牛耳られた忖度司法であることを、世界に示したのです。
 この裁判は104号法廷で開かれ、傍聴席は96か98ありますが、この日は報道席を多数設定のために、一般傍聴席は45席でした。
832名が抽選に並び、抽選に漏れた私は1時15分の開廷を地裁前で待ちました。
 開廷時刻の1時15分になったと思ったら直ぐに、「記者の方から全員無罪の報告がありました」とアナウンスが流れ、刑事裁判原告団・支援団の大賀あや子さんと宇野朗子さんが「全員無罪 不当裁判」の紙を掲げて立ちました。
地裁前に集まった数百人から「嘘っ!」「ふざけるな!」の怒号が上がりました。
私も、悔しさと憤りでいっぱいです。
 法廷内では「全員無罪」と主文が読み上げられた後、延々と判決要旨が述べられたのでした。
 曰く。
「当時の社会通念では絶対安全を前提とせず、長期評価は信頼性が低い。
3人は大津波襲来の予測は認識していたが、予測津波高の数字は確かだとは思わなかった。
予見可能性について信頼性、具体性があったとは認められない」と。
つまり、「知っていたけど信じていなかった」から無罪だというのです。
こんな馬鹿なことって、あっていいわけがありません。
断じて許せません。
 後日に得た情報では、19日9:35〜9:50、大谷直人最高裁長官が首相官邸を訪ねていたことが記されていました。
そこで何が話し合われたのでしょう。
大きな疑問を感じています。
●緊急のお願い
 不当判決に対して、このままではいられません。
検事役を務めてくださった指定弁護士の皆さんに、控訴のお願いをしてください。
控訴期限は2週間、10月2日までの短期決戦です。
緊急署名ページができました。
どうぞ、署名をお願いいたします。
http://chng.it/7gHfXnFkK7
そしてまたどうぞ、SNSでの拡散、MLでの拡散をお願いします。
紙ベースの署名用紙(pdf)もできました。
印刷して集めてください。
https://nam02.safelinks.protection.outlook.com/?url=https%3A%2F%2Fdrive.google.com%2Ffile%2Fd%2F1GMlD2ricw
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◎ふるさとを返せ 津島原発訴訟
 19日は福島地裁郡山市所で、津島訴訟の第22回公判が開かれていました。
関場賢治さん他2名の原告尋問でしたが私は東京地裁に行ったので、こちらには行けませんでした。
翌20日、第23回公判の傍聴に行きました。
この日も原告本人尋問で、10時〜12時は原告の末永一郎さん、1時15分〜4時半まで佐野久美子さん、今野斉さん、高橋美雄さんと4人の原告尋問がありました。
 原告代理人からの主尋問に本人が答えた後、被告代理人の東電側弁護士、国側弁護士からの反対尋問で進められますが、主尋問は本人の答えを「だ。である」調で記します。
●末永一郎さん
⒈末永家と津島地区
 戦後、祖父の代から津島・手七郎地区に住むようになった。
震災時に一郎さんが住んでいたのは、祖父の家から700mくらいの所にあった家で、祖父の家にはよく訪ねていた。
 手七郎地区では誰が何をしたか、何が起きたかなどは、みんな知っていた。
地域の祭りや集まる機会があれば情報は耳に入るし、日常の茶飲み話でも話題になった。
例えば、◯◯の長男がどこでどんな仕事をしているか、◯◯の家族が何をしているかなど、みんな知っているし、入院したとか手術したなども、みんな耳に入る。
病気で入院したのを知ったときには、見舞いに行くし差し入れをしたりする。
 隣近所に野菜や山菜など採れた物をお裾分けするなども、よくやっていた。
地域の中での仲間意識が強かった。
津島の子どもは「自分たち」の子どもという意識があり、悪いことをすれば他人の子でも叱ったり、良いことをすれば褒めた。
私の子どもも4人、そうやって地域で育てられた。
⒉石材業
 昭和52(1977)年に石材業を始め、2年後の昭和54年には自宅の横に加工場を作った。
石材業を始める前は稲作と葉タバコを栽培し、酪農で乳牛は6、7頭飼っていたが、農業と酪農では、避難前に住んでいたあの自宅は建てられなかった。
 子どもの頃は、農閑期には父が出稼ぎに行く暮らしが20年ほど続いた。
中学3年の時に父が事故で指を切断して仕事ができなくなり、それで高校進学を諦めた。
昭和48年頃には2年間ほど、農閑期ではなく通年で私自身も出稼ぎに出た。
 戻ってからだが、近くの石屋さんから声をかけてもらって石屋を始めた。
始めた頃は専門的な知識も技術もないので、苦労が多かった。
石を一つ割るにも技術が必要で、火薬を用いて大割りし、注文に応じて小割りするのだが、知識と技術がないとできない。
狙った土地から良質の石が出なければ、きちんと後始末をして帰る。
山はそのまま掘りっ放しにはせず、保全工事をしてから閉山した。
理想としては何10年も継続を願っても1、2年で閉鎖することが多いが、良質な石が出て、ずっと継続した場所もある。
 昭和60年頃から重機を複数台揃えて大規模にやるようになっていった。
重機を揃えるには、かなりの投資をした。
 良質な石の条件は、光沢があり強固で吸水率が少なく、風化しにくいものが良い。
津島で採れる石は御影石で、御影石の中でも良質なものが多い。
採掘した石を「青葉御影石」とブランディングして売りだしたこともある。
津島で採れる御影石は高級だが、津島の石が有名になってきたのは昭和40〜50年代にかけてのことだ。
その中でも青葉御影石はより高級で、自宅から相馬、伊達にまたがる範囲、自宅から北西方面で採れる。
昭和天皇崩御の際には陵墓として使われ、また日航ジャンボ機が墜落した御巣鷹山の慰霊碑にも使われた。
 地区内では石材業に携わる人が増え、そのほかにも機材や工具、備品を売る人など関連する産業に従事する営業者たちが集まってきた。
仙台や東京などから来ていたが、仙台からのダイヤモンド鉱業という業者は特殊な工具を扱っていた。
 当時は石材産業が津島の代表産業で、私が石材組合の事務局をやっていた20年ほど前には年間の売上高が20億円で、石材に携わる人が家族を含めて170〜180名ほどいた。
当時、ほかの産業では稲作が津島全域で1億を突破したということで農協では記念式典をやった記憶があるから、石材が抜きん出ていた。
 現在、自宅や工場の周辺に山から切り出した石がそのまま、あの場所から持ち出せずに置いてある。
汚染されているので、外に出せない。
しかし、それらの石は除染もできず、賠償の対象にもなっていない。
線量の高い手七郎の自宅近くでの除染作業はできないし、もし線量の低い所へ運ぶとしたら、10トン積みの大型トラックが100台以上必要だろう。
石の単位は特殊な単位を使い「切(才)」と言い、1切(才)は27,000立方センチメートルになり、自宅周辺に置いてあるのは7,000〜8,000切で、比重にすると約1,000トンほどだ。
仮に石を持ち出すとすれば、それだけの石を運び出せば、かなり広い場所が必要になる。
持ち出した後で水をかけて除染するのだろうが、膨大な水が必要だろうし、除染後の水を垂れ流しにはできない。
 土地の問題、運搬費用や水に関する費用から考えると実際に除染作業は考えられない。
除染しなければ搬出できず、その一方では除染しなければ価値がないから賠償は受けられないという板挟み状態にある。
自分が切り出した石が使えず、草に覆われ埋もれてしまっているのを見て、とても虚しく、悔しい。
⒊津島での暮らしとその変容
 手七郎は津島の他地区と比べて山で奥地にあり、家と山の距離が近い。
33世帯があるが、隣の家との距離は場所によっては50〜100mほどであったり、1km離れていることもあり、バラバラに点在している。
それでも、お裾分けなどよくやっていたし、日常的に世間話しなどよくしていた。
 山が近いので山菜やキノコをよく採りに行った。
採りに行く場所はそれぞれ人によってその人特定の収穫場所があり、そんな場所を“城”と言っているが、私は南相馬の方まで自分の城を持っていた。
城の場所は、仲が良い友人にも自分の家族にも絶対に教えず、自分だけの宝物、秘密の場所だ。
そんな風に自分の城を持っている人は、津島にはたくさんいた。
石材業をやるようになってからも、自宅のそばの畑では野菜を作っていたし、季節になれば城に行き、山菜やキノコを採った。
採れたものは自宅で食べるのはもちろんだが、お裾分けしたり逆に貰ったりで、食卓に上がる食材は、ほとんどが津島で採れた新鮮なものだった。
 現在の住まいの大玉村に移ってからは、直売所で買わなければ新鮮なものは手に入らない。
津島では飲料水は井戸水だったし、洗い物には湧水を使っていたから水道は引いていなかった、引かずにも済んでいた。
津島の水はきれいな水だったが、それは花崗岩の産地であることが関係している。
花崗岩はゆっくり地上に出てきたものだが、濾過材となる。
花崗岩を通して濾過されてゆっくりでてきた水なので、きれいでおいしい。
水質が良いところでしか生息できないヤマメ、イワナ、サンショウウオがいた。
 津島には同級生が30人くらいいて、手七郎にもいた。
震災前には、同級生たちと2ヶ月に一度ほど定期的に会って酒や茶を飲んで歓談したり、年に一度旅行にも行っていた。
震災後は、皆避難先がバラバラになって、会うことができなくなった。
大玉村では近隣同士の会話でも、同級生と話すときのような冗談は言えず気を使う。
津島の自宅では、襖を取っ払って大勢で飲み会をすることもあったが、大玉村に購入した現在の住まいは、スペースもないし、そんな飲み会はできない。
大玉での生活と津島での生活は、全然違っている。
津島での生活を思い出すたびに、違いを感じている。
これから先、大玉村での暮らしが長くなっても、津島との違いは感じ続けるだろうし、大玉での生活が長くなっても、津島に帰って元の生活に戻りたい思いは消えない。
戻れるものなら戻りたい、この思いは消えない。
⒋避難生活と父の死
 震災前は、ほぼ毎日家族皆一緒に時間を合わせて食事をしていた。
避難してから大玉に移る前は、避難所を4ヶ所転々としたし家族が一堂に集まることはできなかった。
仮設住宅に移ってからも、仮設は狭くて集まれなかった。
大玉に来てようやく家族が集まれるようになったが、だが父は、大玉に移る前に亡くなった。
 父は、亡くなる前から入退院を繰り返していた。
避難開始当初は元気だった父が、避難してから元気がだんだん無くなっていった。
最初の避難先が体育館で200名くらいの人がいて、以前からいろいろ考えこむ人だったが、そこにいて眠れなくなっていった。
いろいろ声かけをしたり、体育館から二次避難をした。
津島に帰れば元気を取り戻せるのに、津島に戻してあげられないことが虚しくて残念でならなかった。
 父は入院先で亡くなったが、遺体は仮設は狭くて引き取れず、体育館の一室を借りて3日間そこに安置し、家族が全員で見守るわけにはいかないので交代で泊まった。
津島にいれば昔からのしきたりで遺体は病院から自宅に戻り、そこで津島の人たちとお別れの時間を持って、そして自宅から送り出してあげられたのに、それができなかった。
 お骨になってから菩提寺に2年ほど預けたが、大玉村にお墓を作った。
父はふるさと津島に眠らせてあげたかったし、父もそう望んでいただろうが、今も線量が高いので、それはできなかった。
 避難後に亡くなった人は手七郎だけでも16名いるが、津島全体ではもっと多い。
その家族は皆、私と同じように自宅に連れて帰りたかったと思っているだろう。
⒌葛藤
 父のお墓を大玉村に作った今も、手七郎に作ってあげたかったという思いは強いし、大玉村で家を買うこと自体、大きな決断だった。
津島に帰ることを諦めたから、大玉に家を購入したわけではない。
津島には帰りたい、だがいつ帰れるかわからないので、苦渋の決断だった。
 大玉村で新しい生活基盤を作ることになったが、それは津島に戻りたい気持ちにけりをつけたわけでは決してない。
 大玉村で墓石を作って欲しいという依頼を受けるが、先祖代々津島で暮らしてきた人たちがいる。
その人たちも、大玉村にお墓を移すのに積極的な気持ちで頼んでくるのではない。
大玉村で新しい生活の基盤を作ったが、津島に墓参に行くにも帰還困難区域には18歳未満は入れない。
苦渋の決断で、丸ごと他の地域に移した家族が6件ある。
★最後に裁判官に聞いて欲しい
 先祖伝来の暮らしを投げ打って、知らない土地で生活しなければならない葛藤、苦渋の決断を、どうか理解していただきたい。
8年半になるが、国も東電も、「未曾有の天災」「想定外」と言って逃げているが、想定外を想定しろよ!
 23万人が避難し、双葉郡では86,000人が避難。
今もそれが続いている。
暴走したらコントロールできないものを作らないようにするよう、裁判官の皆さんにお願いしたい。


2019年9月21日号「緊急のお願い」

◎2019年9月19日
 みなさんは既にご存知でしょうが、昨19日、原発事故刑事裁判の判決がでました。
東京地裁前に私が着いたのは11時半頃でしたが、もう既に大勢の人が抽選券を得て並んでいました。
最終的に832名が並びましたが、この日の一般傍聴席は45席でした。
抽選が終わり張り出された当選番号に、私が貰った586はありませんでした。
●13:15
 「不当判決 全員無罪」
こんな馬鹿なことって、あっていいのでしょうか!
許せない!
法廷からもたらされた情報に、地裁前に詰め掛けた大勢の人々から怒りの声が沸き起こりました。
 30分ほど地裁前で抗議の声を上げた後、報告集会の会場に設定されていた弁護士会館へ移動しました。
●弁護士会館
 「報告集会」は、急遽「抗議集会」に変更となりました。
集会の様子はユープランさんが、ユーチューブにアップしてくださいました。
ぜひご覧いただきたいです。
YOUTUBE.COM 20190919 UPLAN 東電刑事裁判判決(東京地裁)&報告会

●緊急のお願い
 不当判決に対して、このままではいられません。
検事役を務めてくださった指定弁護士の皆さんに、控訴のお願いをしてください。
控訴期限は2週間だそうです。
10月3日まで、短期決戦です。
どうぞ、SNSでの拡散、MLでの拡散をお願いします。
下記、緊急署名ページです。
お願いいたします!!
http://chng.it/7gHfXnFkK7                

いちえ


2019年9月11日号「8月25日@南相馬③」

 「福島原発刑事裁判 有罪判決を求める!福島県内連続集会in南相馬」報告の続きです。
休憩後は、市内で活動している5つの団体からの報告です。

●「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟原告団」:菅野秀一さん(原告団長)
 私どもの裁判に対して、皆様から色々応援していただいていることに感謝しています。
裁判は15回が終わって、3日後の28日が第16回ですが、できれば傍聴に来ていただきたいと願っています。
 南相馬市には特定避難勧奨地点がある行政区が8つありますが、それが平成26年12月31日で全て解除になって、その後の半年の間に訴訟に踏み切りました。
27年4月に交渉して、原告を再募集し、6月に原告808人、204世帯で始めました。
 国は20ミリシーベルトを下回ったからと言いますが、ICRP(国際放射線防護委員会)の規定が1〜20ミリシーベルトというので20ミリシーベルトを基準にしていますが、行政の責任として、危険なものは値が一番下を基準にするのが常識です。
20で安全だということは、原発作業員と同じ数字です。
これはおかしい、黙ってはいられないから撤回させようということです。
 ただ、撤回は強烈ですから、国は撤回しないだろうと私は判断しています。
でもその中で、「なんとか皆さんに沿うような検討、協議をしましょう」ということで最終的に判断していくのでしょう。
  私は今も行政区の区長をしていますが、若い人はみんな出て行ったまま一人も帰ってこない。
帰ってきたのは60過ぎた人ばかりで平均年齢70幾つかで、あっという間に限界集落です。
それと、農業をやる人は一人もいない。
農家は後継者が誰もいない。
 仕方がなく岩手県の幾つかの部落に、牧草地として一括して貸しました。
そうでないと耕作放置で荒れてしまいますから、タダでもいいからと貸しました。
しかし現実的には、2000円いただいています。
草刈りも平らなところは酪農組合が大型機械でやりますが、袖の方は行政の方である程度お金をもらってやれば結構収入になるし、そんな形でやってます。
 路線バスがなくなりました。
幼稚園も無くなった。
産婦人科、小児科も廃業・閉鎖。
すべてそういう現実を、国は判っていない。
 山菜、キノコ、全部ダメで、当初よりも今の方が数値が上がっています。
最初は樹皮に出るナメコが数値が高かったですが、今は逆に松茸やイノハナなど土から出るものが、ものすごい数値が上がっていて、下がらない。
自然に木の葉が腐って土に還って、それで上がってる。
放射能は移動しないって、嘘です。
現実的には移動している。
 いま溜池除染をしていますが、大自然が崩壊している。
家族が崩壊している。
若い人はみんな出て行った。
若い人たちが作った家に年寄りが行ったが、みんなほとんどうまくいかないで帰ってきた。
ノイローゼというか、精神的におかしくなっている人が多い。
 家族の崩壊、家庭の崩壊、あらゆる団体、青年団・婦人会・若妻会・芸能保存会などの崩壊、地域の崩壊。
あらゆるものが崩壊している姿を、現実として国はどう考えているのか。
経済優先で、人の命よりも経済優先でオリンピックをやりたいのか。
完全に収束した、安全だと言ってオリンピックをやりたいのか。
我々から見れば、人の命が大事だからオリンピックどころではない。
オリンピックは原発事故が完全に収束して、国民みな同じく安心して暮らせるようになって、初めてやればいいことだ。
ところが政府はどうしても、こういうことで原発を再稼働したい。
あまりにも、人の命を軽視していると思います。
 原発事故によって地域の崩壊、家族の崩壊が起きるわけですから、これが日本全国、九州から北海道まで50数基も原発があるのだから、もし事故が起きたら、我々と同じような境遇になります。
そのためにも私たちの責任として、いまピシッと国に対して20ミリシーベルト撤回を、このように強い形で要求していくことが大事だと思っています。
いまからの若い人たちに「あんたたちは何をやってたんだ」と言われることのないようにしたいので、なんとかやっていきたいです。
 裁判官が、また代わってしまったんです。
なんでこんなに代わるのか、向こうは弁護士も代わる。
そうしたことも、どうもおかしいと思っています。
 そんなこともあるので、その現実をどうか、裁判を傍聴して見ていただきたい。
私たちも負けるわけにはいかないし、最終的にはうまく政府の姿勢を変えさせるように、最終的には持っていきたい。
皆様のご協力をお願いします。

●「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」:中村順さん
 私たちのグループは60歳以上を原則と決めていて、南相馬市の住民、葛尾村の住民、ほかは主に東電から受電している関東の住民で、いま活動しているのは大体10名前後ですが、2012年10月から原町区の押釜を皮切りに測定を開始しました。
 なぜ測定をやろうと思ったかと言うと、国や東電あるいは自治体も、原発事故の影響を小さく見せようとしているのではないかと言う疑問を持ち、それなら自分たちで測ってみようという事でモニタリングを始めました。
当初は主に南相馬市の山側の特定避難勧奨地点に指定された行政区を中心に行ってきました。
 2015年に九州の生協さんから食品放射能分析器を寄贈いただき、それを用いて土壌の分析も始めました。
南相馬市の原町区と鹿島区の山側の行政区、2016年からは小高の主に常磐線の西側の山側と葛尾村を、2017年には避難指示解除になった浪江町、富岡町、川俣町の山木屋を、測定して回ってきました。
 測定結果は表にして、可視化して皆様に見ていただいています。
自治体、役場や消防、お世話になっている行政区の区長さんにはお届けして、みなさんに見ていただこうと考えています。
 今後は常磐線が来春には全線開通ということで、3つくらいの駅の周辺が復興拠点として避難指示解除になるので、そういうところへ普通の人たちみんなが入って行ける場所になった時にはそれらのところも測定しに行きます。
ただしそういう場所は徹底的に除染をしていると思うので、土の採取はできないかなという思いはありますが、測定はやっていきたい。
 我々が2012年10月から測定してきて感じたことは、チェルノブイリの強制避難の基準や避難の権利の発生する基準と比べると、とても、とても人が住んで良い環境ではないという思いを強くしています。
 この裁判は、そのような原因を作った東電の首脳陣の裁判ですから、その判決を厳しい目で見つめていきたいと考えています。
ただし9月のモニタリングを、9月15日からの1週間と設定したので19日は、我々は福島の地から判決を厳しい目で見つめていこうと考えています。

●「除染土壌の再利用実証事業に反対する市民の会」:栗村文夫さん
 除染土壌の再利用実証事業に反対する市民の会の栗村ですが、昨年12月から南相馬市議をしております。
 昨年の12月議会で環境省が政策協議会として、小高での常磐道4車線化に伴う除去土壌、つまり汚染土を道路下に埋めるという計画を議員全員に説明をしたわけです。
12月中旬に説明があり、予定表を見ると1月以降に地元住民に説明、工事開始が3月からとありました。
こんなスケジュールは、普通の工事でもあり得ないと思っています。
さらに最後のページの一番最後に、今後の予定として「地元の皆様に丁寧に説明していく」とあり、これが締めの言葉でした。
誰が見ても、あり得ない流れでした。
 去年の夏に環境省から南相馬市に対して、工事に関して協力をしてくれという要請文がありました。
こういう要請文があったということを説明して、これは何かしなければいけないということで、つながりのある方たちを中心に私たちの会が立ち上がったのです。
2月から署名を集め、最終的に5000筆を超える署名を、提出しています。
さらに複数回の学習会を持ち、最初の学習会では、同様の事業が二本松市でも計画されていたのですが、それに反対していた団体の方を招いて話を聞きました。
その方の話では、やはり南相馬と同様に一部の住民にしか説明がされていなかった。
それはおかしい、全住民に説明すべきと環境省に申し入れたといいます。
 にもかかわらずこの南相馬でも、一部の住民にしか知らされていない。
ほとんどの人が全く知らないでいたのですが3月上旬にTVニュースで、小高の行政区に環境省が説明したと放送されたのを見て、初めて知ったという市民の方が多いです。
 汚染土を道路に埋めるということは、何十年、何百年と問題が続いていくかもしれない大きな問題なので、当然、南相馬市民全員が知るべき問題です。
それなのに環境省は市民に説明会を開く予定もない。
 そういうことを踏まえて、私は6月の議会での一般質問で取り上げて、市長に質問しました。
現状の事業進行は、市としても3月に地元説明を行った以降の動きは全く判らない。
市には何の連絡も進展も届いていない。
そういう状態なので私は、市としては一部の住民への説明だけで良いのか。
全住民への説明をすべきではないのか、と質問すると市長の答弁は、「私個人としては積極的にこれを進めようとは思っていません。ですが、環境省の事業を否定するものではありません。推移を見守りながら、市としても丁寧に判断していきたいと思います」と、あやふやな答弁でした。
 このままでは環境省に押しつけられてしまうので、私たち市民ひとりひとりがしっかりと、いまどういう状態になっているか、今後どうしたら良いのか、みなさんと連携して考えながら、何としても工事撤回させようと思っています。
 2週間前に東京へ行く用事があって、新宿アルタ前で行われた「脱被ばく実現ネット」のアピール行動に参加しました。
私もチラシ配りを手伝ったりしましたが、もう本当に驚きました。
全く、誰も受け取ってくれないのです。
腰を低くして「どうぞ、読んでください」と、一生懸命配ろうとしても、受け取ってくれるのは一人か二人で、ほとんどの人が見向きもしない。
全く関心がない、それがいまの東京の現状です。
原発事故があった年であれば、まだみんな関心を示したと思います。
 本当に、心が折れそうなくらい、驚くほど誰も受け取らない。
何事もなかったというのが、いまの東京のほとんどの人の感じ方でしょう。
私たち自身が、地域の人たちがしっかりと声をあげて継続していかないと、ますます忘れ去られることが進んでいくと思うので、かなり危機感を持って行かないといけないと思います。
3人の有罪に向けて連携していきたいと思っています。

●「原発いらない 放射能から市民を守る会」:木幡忠幸さん
 私どもの会は原発事故後から活動を続けていて、事務局長の木幡です。
私は昨日水戸に行って、南相馬の現状、汚染土再利用に関わる活動などを含めて、話してきました。
東海原発を抱えている水戸の人たちは、原発事故被災現地の生の声を聞きたいということで、毎年呼ばれて行きますが、今日も昼に戻ってきたところです。
 この組織、運動を進めるにあたり討議を積み重ねて、小出裕章さんにご講演いただき、桜井市長の時には、市長に脱原発都市宣言をということを提言し、2年後に復興計画を作ったということを受けて、「脱原発都市宣言」が南相馬市役所入口に掲げられました。
 では本当に脱原発、原発は許さないぞということで、行政が私どもの願いに添っているかというと、市長も門馬市長に代わった今、現状を考えると、宣言をしたものの魂が入っているかどうか、率直に言って疑問を感じています。
あるいは私どもの闘いを、もっと強める課題があると思えてなりません。
 そんなことを含めて、汚染土再利用事業反対の部分、小高に帰還だと戻って生活再建、農業再建という状況の矢先に、小高を縦断する常磐道に汚染土壌3000ベクレル以下を利用するなどというとんでもない計画を環境省が出した。
最終的に私どもは署名活動に入り、5745筆の署名を市長にぶつけたわけです。
なんとか市議会でも反対が過半数にならないかと努力をしましたが、至らない状況です。
従って市長には、「認可するのではないぞ」という要請文を添えて提出した現状です。
これからも署名活動は継続しますが、あるいは同時に運動の山を作ってあの二本松のように反対していきたい。
二本松は本当にまともな議会だと思います。
 南相馬の場合は、放射能に対する議会や市長の見方・考え方が、市民の不安を取り除く方向で行政の中で生かされているかと思った時に、やっぱり議会でなんとか過半数を取る状況に持っていかなければと思うのです。
そんなわけで議会に請願は出しませんでした。
請願を出して再度否決をされると、それが市民の声だと市長に判断される状況になるということで、請願を出しませんでした。
 一方で特に市の高齢者の問題、今の市立病院は市民の命と健康を守る状況になっていないのが現状です。
市立総合病院は年間6億円の赤字があり、あるいは小高の診療所は年間7千万の赤字がある。
それでも京都から小高病院に来ていただいた藤井先生は、帰還された人たちのために一生懸命取り組み、在宅医療に回って丁寧に対応されていたことを私は聞いています。
こんな状況を含めて、自分の職を辞しても在宅医療を守ろうとしたけれど、市長が議会に「慰留した」などとうその答弁をする状況を含めて、ちゃんと調査すべきだという百条委員会設置も否決されてしまう現状です。(注:小高病院は被災後休診していたが、2014年に内科・外科の外来に限り再開。2016年4月に京都から来た藤井宏二医師が常勤医として院長の管理職を兼ねて赴任し、IT機器を使った在宅医療に力を入れていた。有床化の意向を持つ門馬市長と意見が対立氏、辞職された。2019年7月を持って小高病院は休診。その後南相馬市立総合病院付属小高診療所として、離れた場所で再開)
 私は、市民の命や健康は一番重要だと思えてならない。
そうしたことを含めて、放射能から市民を守る闘いが必要だ。
 小高の小・中・高と学校はみんな除染をやったというが、調査すると校庭で30万ベクレルあるようなところもある。
こんなところに私の孫やひ孫たちをやれない。
除染すると言ったって、それほどデタラメなんです。
環境省やチェックをした者の全くデタラメな現状を許せないです。
 汚染度の問題とともに、今年10月には小高の学校調査をして、しっかり再除染をと市長にぶつけたい。
 それと5つの災害復興住宅が市内にあるが、次々と孤独死が起きている。
社協も一生懸命やってはいるが現実に40名も亡くなっているのに、社協で把握しているのは10名だ。
小高、浪江、双葉、大熊と復興住宅に入っていても、そういう状況に置かれている。
最近はその人たちの中には鬱で体調がおかしくなっている現状がある。
行政のあり方として、この人たちを守っていく姿勢が大事だと思う。
 菅野さんたちの「20ミリシーベルト」や他の団体と連携して、市民を守っていくことをやっていこうと思っています。

●「原発事故被害者相双の会」:國分富夫さん
 私どもの会は、当初は避難先の会津で結成しましたが私は小高ですから「小高会」を作ったのです。
しかし会津で小高会といっても会津小高会では、どうもはっきりしないので「相双の会」と名称を変えて活動を続けています。
 おかげさまで、会報ももう87号を出しました。
その内容は、被害者の実態ということでやっています。
印刷は5000部刷っていますし、その他メールで送っていますが、メールの送信先は400〜500件ほどになります。
全国では色々な原発反対運動がありますから、メールを受け取った人たちが印刷してそこで配布するというような形で、福島の実態を訴えています。
こうして伝わることを、非常にありがたく思っています。
財政的には大変なのですが、みなさまからのご協力をいただいて、これからも粘り強くなんとかやっていきたいと思っています。
 なぜこれだけやるのかというと、それは私どものためだけではなく、これからの子ども達のために子孫のために、こういうことがあってはならないということ、運動の火を消してはならないという、運動の基本的な考え方からです。
 さらには裁判闘争もやっています。
裁判は、特に強制避難指示を受けた方々が中心で原告になって、闘っています。
地方裁判所の裁判は、どんどん高裁へ回っていますね。
高裁はスピードが速く、来年からは高裁の方も判決に入っていきます。
高裁では1日に何人も尋問したり、あるいは2日間続けて尋問をしたりなどのやり方ですから、それだけどんどん速く進んでいくわけです。
私どもの裁判も、来年3月に判決になるという日程が入っています。
 ですから私どもの裁判も今は最終段階に入っていて、先月29日には私の尋問もありました。
反対尋問では東電側の弁護士が、こういう言い方をするのです。
「あなたは賠償金で家を建てましたね」、そういう言い方をする。
私は、こう来るなと思っていましたから、「それは当たり前でしょう。全て無くなったんですよ。あそこで生活できますか?何ができますか?それでいて『賠償金で家を建てましたね』という言い方はないでしょう」と、裁判所で言ってきました。
 私の娘は、南相馬市の職員でした。
3・11後の状況の中で、あの頃は夜の10時に帰って体育館のダンボールの陰で寝かされて、休みなしで朝の4時5時になるとみなさんに弁当配りをしなけりゃならない。
そんな状況の中で鬱になってしまった。
娘の同僚も同様で、娘も友人も鬱になって仕事が続けられずに辞めました。
 東電の弁護士は反対尋問で「娘さんは再就職したんですか?」と言いましたが、その前の主尋問で私は娘が再就職をしたことを話していましたから、それを聞いていて確認の反対尋問でした。
何のために再就職まで責められなければならないのか、原発事故がなければそんなことには、ならなかったんですよ。
病気が悪くなることもなかったんですよ。
あなた方はそんなこともきちっと把握しないで、こんなことを聞いてくるのかと、私はこの裁判で、裁判長の前で言ってきました。
 すると東電側は今度は、お孫さんがどうのこうのと言うわけです。
私はそこまでプライバシーまでいろいろ言われたくないと言って、それには答えませんでした。
しかし東電はどんどん責めて言ってきて、私は答えませんでしたが最後に裁判長が「答えなさい」と言うんです。
「答えなさい」と言うんですが、私は「答える必要がないことには答える必要はありません」と言いました。
そして東電側の弁護士は、そこで反対尋問をおりました。
 それから私は、この際だからしっかり言わなきゃならないと思いました。
自然界にも放射能はあるし医療関係にもあるでしょう。
私たちはそれから逃れて生きることはできないでしょうが、しかし原発事故はその上に自然界にない放射能を加えたんですよ。
それも自然界のものではなく人間が作り出したものです。
被ばくするよりそれを避けるのが当たり前なのに、自然界にない放射能を加えてしまうなんて、被ばくをするように仕向けるなんて、逆じゃないですか。
小高区役所前にモニタリングポストがあって、0,07を示してますが、それは除染してきちっと舗装した所に設置してあって、それを示して「これだけじゃないか」と言う。
冗談じゃない。
一番きれいにして一番上がらない所に置いて、それで安全だというのか!
そこまで裁判で言いました。
 いま会報88号を作成しているので、どうか皆さんに読んでいただきたい。
こういう国の中で、私たちはこれからも子孫のためにもっとやっていかなきゃならない。
今のままでは、どんどん追い詰められる。
先ほど話されたように、汚染土壌だって全国の公共事業に使うと言ってるじゃないですか。
あるいは5000ベクレル以下は、農地に使うと言ってるじゃないですか。
こんなのありですか?
食品だって、最初は500ベクレルで良いって言ってたじゃないですか。
でも国民が騒いだから、100にしたじゃないですか。
100だって、本来なら0,1あるいは0なんです。
100って言ったらその1000倍ですよ。
それで安心ですか?
 そのことをみんなで共有しながら、闘っていかなければならないと思います。
私も生きてる限りしかと頑張っていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いし
ます。

★「9・19東電刑事裁判 有罪判決を求める!福島県内連続集会in南相馬」の報告は、これで終わりです。
長文をお読みくださって、ありがとうございました。
県内連続集会の後、支援団は福島からキャラバンをして8日には東京で大きな集会を持ちました。
私は6日の都内各地でのアピールにも8日の集会にも参加できませんでしたが、集会には多くの方が参加し、アピールも道行く人たちにしっかりと届いたと聞きました。
 いよいよ来週の木曜日19日に、判決となります。
    11:00〜12:00 地裁前行動
    13:15 開廷
    閉廷後、報告会@弁護士会館2F講堂クレオBC
 どうぞ、おいでください。そして東京地裁を二重三重に人の輪で囲みましょう。
永淵裁判長がどんな判決を出すか、何れにしても地裁だけでは終わりません。
高裁、そして最高裁にまでいく裁判です。
原発を是とするのか否とするのか、子どもたちにどんな未来を残していくのかが決まる裁判です。
未来に、負の遺産を残したくありません。
共に手を携えましょう。                     

いちえ


2019年9月8日号「8月25日@南相馬㈪」

◎「9・19東電刑事裁判 有罪判決を求める!」福島県内連続集会in南相馬
 榮子さんたちにお暇してから、南相馬に向かいました。
野辺にはススキの穂が風に揺れ、トンボが群れ飛んでいました。
気温はまだまだ高いのですが、草も虫も秋を運んできているのでした。
南相馬に入ってから途中でお昼を食べて、「9・19東電刑事裁判 有罪判決を求める!」集会の会場のサンライフ原町集会室に行きました。
そこは初めて南相馬を訪ねた私が、社協募集のボタンティアとして通った場所でした。
 開場時刻よりも早くに着いたので、福島原発刑事訴訟支援団のみなさんと一緒に集会で配布する資料の折込をしながら開場を待ちました。
 集会は支援団の大河原さきさんの司会(青字で表記)で進められました。
●集会開会
 お暑い中を大勢の皆さんがお集まりくださって、ありがとうございます。
 本日の流れをご説明します。
集会の前半は、刑事裁判の経過報告と短編映画『東電刑事裁判 動かぬ証拠と原発事故』の上映、休憩を挟んで後半は南相馬で活躍している各団体、「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟原告団」「フクイチ周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」「除染土壌再生利用の実証事業に反対する市民の会」「原発いらない 放射線から身を守る会」「原発事故被害者相双の会」のみなさんからの報告です。
この集会開催にあたって、これら5つの団体には多大のご協力をいただきました。
感謝申し上げます。
 それでは福島原発刑事訴訟支援団団長の佐藤和良より、ご挨拶申し上げます。
●開会挨拶と報告:佐藤和良さん
 みなさんこんにちは。
今日は暑い中をお集まりくださって、ありがとうございます。
また集会に際して5つの団体の皆さんには多大なご協力をいただきました。重ね重ね御礼を申し上げます。
 私はいわき市に住んでいて南相馬に来るには帰還困難区域をかすめなければ来れませんが、その帰還困難区域である福島第一原発の北側と南側では、それぞれ大きな放射線被ばくの被害に遭い、そしてまた、長期的な低線量被ばくに直面して暮らさなければなりません。
 私たちは2011年3月11日以来、極めて困難な時を生きざるを得ない状況に、一方的に落とし込められたと思っています。
 私はこの原発事故以前から30年ほどにわたって、東京電力と毎月1回東電交渉をやっていて、原発事故・過酷事故だけはなんとか防ぎたいという一心で、様々な交渉を重ねてきました。
 特に、地震と原発、津波と原発はずうっと大きな課題になっていて、阪神淡路大震災があってから、耐震基準の見直しが大きな課題になっていました。
当時、今のままで原発は地震に耐えうるのかということで、専門家の会議をずっと開いてきた中で、やはり当時の基準ではダメだということで。設計基準を変えなければならないのではないかと、いろんな問題が出てきました。
 津波の問題についても国も東電も勉強会を開いて、津波が炉心に押し寄せたらどうするかということで津波対策をやらなければならないということが出ていて、2002年に文部科学省が国の機関として地震本部を設置して、三陸沖から房総沖の日本海溝沿いで津波地震が40年で20%の確率で起きる可能性があるとの長期評価を出し、このことについて東電や東北電力など太平洋岸沿いに原発を設置している事業者は、それに対応することが不可欠だという調書が2002年に出されていました。
 2004年にスマトラ沖地震があって大変大きな津波がインドまで押し寄せ、その時マドラス原発が津波で浸水して事故につながることがあり、保安院と事業者で一水会という勉強会を作って、そこで地震対策に対する耐震設計基準の見直しが出てきました。
地震に付随した津波にも対応しなければならないということで、私などずっと交渉してくる中で、表には出なかったが実際に事業者の中では研究し検討したことがあったというのが、この裁判を通して判りました。
 全国で30件の民事訴訟、12,000人が原告団として頑張っていますが、民事では長期評価に従うべきだというところまでは出ますが、実際に東電がこの時に内部でどういう検討をしてどう対策を取ろうとしたかは、民事では明らかにできません。
それは相手がたの証拠書類が出てこなければ明らかにできないからです。
私たちとしては民事でずっとやってきたが行政訴訟では、なかなか難しいことが続いてきたので、これは政治的に告訴・告発をして刑事責任を問うべきではないかということで、原発事故が起きた翌年の2012年3月16日にいわき市で告訴団を結成して、最初は1,324人の福島県人だけで告訴しました。
これを拡大して全国に呼びかけ、その年の秋には14,716人の告訴・告発人で刑事告訴をしたのが始まりです。
 私たちがなぜ本店所在地である東京地方検察庁に告訴せずに福島地検に告訴したかといえば、これは同じく汚染された地で、そして被ばくをせざるを得ない所で仕事をしている検察官に、被ばくをしているという立場で調べて欲しくて福島検察庁に告訴・告発したのです。
ところがオリンピックが東京に決まるという国際オリンピック委員会の総会の2日前に、福島地検から東京地検にこの事件は移送されてしまい、東京地検から起訴が出ました。
 私たちは、東電はもとより保安院、山下俊一氏など33人を告訴・告発しました。
山下氏は「100ミリまでは安全。笑って暮らせば放射能は怖くない」と、あの年の3月20日いわき市で初めてそう言い、それからずっと全県歩いて100ミリ安全論を撒き散らした人です。
33人を告訴・告発しましたが、結果として強制起訴は3人となりました。
 しかし考えてみれば、2回不起訴となり、最初に不起訴となった時に私たちは東京の検察審査会に申し立てをしました。
都の有権者から11人を選ぶ検察審査会ですが、そのうち8人以上が起訴相当としないと強制起訴になりません。
起訴相当になると、自動的に東京地検がもう一度捜査しなければならない。
もう一度捜査したら、再び不起訴となった。
そうすると自動的に、もう1回検察審査会で審査することになっている。
そこで8人以上が起訴相当を出し、2回起訴相当が出ると強制起訴となります。
 2012年に告訴・告発して、ようやく2016年2月28日に強制起訴になりました。
強制起訴になると今度は、検察官の役をやるのは指定弁護士ということになり、東京地方裁判所が指定した弁護士が検察官役をやります。
強制起訴はなかなか有罪判決が出にくく、明石市の花火大会の時に歩道橋に上がった大勢の人が亡くなり、刑事責任・管理責任を問われて警察署の方が強制起訴になりましたが、なかなか有罪になっていません。
強制起訴で有罪にというのはなかなか大変なのですが、私どもの裁判では5人の方が指定弁護士になって、その方々は皆、刑事裁判の弁護士では日本で最良の弁護士さんたちです。
 2017年6月30日に第1回公判があり、論点整理で結局、津波が予測できていたのか、津波を予測して対策をすれば結果を回避できたのかという二つの点が争点であると整理されました。
予測可能性と結果回避可能性の2点です。
2018年1月の第2回公判から第36回公判まで開かれ、今年3月12日の第37会公判で結審となりました。
 昨年12月26日の指定弁護士の論告求刑では、起訴事実として東京電力は子会社である東電設計に津波高の予測を発注して15,7mの結果を受け取り、それを回避する為にはどういう対策をとったら良いかを部内で検討していて機器類の水密化、非常用電源の水密化と防潮堤を作るなど、こういう対策を細かく検討して実施するとすれば400億円かかるという事業費まで算出していました。
これは東電の中で、これから上映する映画の中にも出てきますが、「御前会議」、普通は御前会議というのは天皇陛下の前でやる会議でしょうが、東電では会長の勝俣氏が午前様と呼ばれていて、その人が出ている会議を、そう呼んでいたのです。
 2007年に中越沖地震で柏崎刈羽の原発が停止して火災事故も起こしたというので、この柏崎刈羽原発に対応する会議が開かれた。
中越沖地震に対応して福島の第一、第二原発でどういう対応をするかを検討して対策を決めていた。
その御前会議で15,7mの津波高が報告されて、対策として防潮堤や水密化が検討されて、それでやりましょうと、御前会議で決めた後、常務会でも決めていたのが途中でひっくり返されて先送りされた。
先送りしたことによって、この事故を引き起こしてしまった経過が明らかになった。
 これは、裁判をしなければこうした経過は全く闇に葬られてしまっていたことです。
だから私どもの弁護団団長の河合弁護士は、「ここまで来るだけで非常に有意義であった。原発事故がなぜ起きて、なぜ防げなかったかが明らかになったからだ」と仰ってる。
それがどのように証明されてきたかは映画で詳しくみなさんに見ていただきますが、結局は。普通は検察が強制捜査をやると会社にみんなが段ボール箱を持ってぞろぞろ入っていく映像が流れますが、強制捜査の場合はあのようなことがあるのですが、今回はそういうことはなかった。
 任意捜査で、ずうっと、東電や関連会社の様々な人に聞いている。
その書類が一つの会議室にいっぱいになるくらいに検察は持っていた。
そこにはいろんな会議のやりとり、御前会議や常務会のやりとり、東北電力や日本原電、太平洋側に面した各電力とやりとりをしたメールがCDロムに焼き付けてあった物を、半年かけて指定弁護士の静村さんが全て解読して、時系列的なメールや御前会議で出した資料や、それらが全て明らかになった。
 そこで初めて東電の会議の中で、この津波対策が決められて3人の被告が有罪になる動かぬ物的証拠が明らかになった。
極めて重要な書類が映画に出てくるので、ぜひご覧いただいて、その後また話を捕捉します。
●「東電刑事裁判 動かぬ証拠と原発事故」上映
 上映された映画は、YouTubeで見ることができます。
ぜひご覧ください。
この裁判の経過が、26分11秒の中にわかりやすく収められています。
●質疑応答
 質問の手が上がらず、司会者から指名されて私が感想を述べました。
 この裁判を、ずっと傍聴してきました。
この裁判だけではなく、「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」や「津島訴訟」、「子ども裁判」など何件かの原発関連の裁判傍聴を続けています。
この裁判は刑事裁判ですが、私が傍聴している他の裁判はみな民事訴訟です。
東京地裁のこの刑事裁判では傍聴席に入るための手続きがとても威圧的で厳しく、もしかしたら裁判官が国や東電に忖度してそのような態度なのかとさえ思います。
 裁判官に国に忖度させずに真っ当な判決をさせるためには、私たちの声が、世論がとても大事で大きな力をもつと思います。
世論を高めましょう。3人の有罪判決を勝ち取りたいと思います。
 その後、質問の手が上がりました。
Q1:文藝春秋8月号に、原発事故の原因は津波ではなく、地震でジェットポンプ配管が破損されたことが原因だったと元東電社員の炉心専門家の記事が載りました。
こうなると、裁判に関わると思いますが?
A:(佐藤和良さん)そういう意見は以前にもありました。
事故後に国会事故調の中では、事故を起こした第一原発の1号機内部を調べさせて欲しいと田中三彦さんが原発事故長の専門委員として何度も言いましたが、完全に調査される状況に至らなかったこともあり、鶏が先か卵が先かというような状況です。
 私どもは公害罪も考えましたが公害罪では犯罪の特定実証は難しく、業務上過失致死罪だと、業務上予見でき、対策を取れたかを実証できるかがポイントなので、業務上過失致死で告訴・告発をしました。
 津波対応で業務上過失が立証できて判決が出ようというときになって、津波ではなく地震が原因という論を「文藝春秋」が取り上げたということに、なんらかの意味があるのではないかという人もいます。
また、裁判長の永渕健一氏は司法修習生の教官なども務め、最高裁から覚えめでたい人なので、この裁判の担当として司法と行政の流れの中で忖度した判決を書くのでこういう記事を文春で出したのではないか、という人もいます。
 私たちとしてはこれまで積み上げてきた、皆さんも先ほど映画でご覧になったような、
立証できた証拠があれだけ積み上がっている。
彼らが予測していながら、その結果を回避できるにもかかわらず先送りしてわずか4日前に保安院に津波高を報告して、結果的にみすみす事故を引き起こしたということを立証してきたので、私たちとしては事実を積み上げてきていると思っています。
 指定弁護士も、業務上過失致死では禁固は最上限の刑で、たった5年の禁固ですが禁固5年は最上限なのです。
それを指定弁護士が求刑したことは、相当重いのではないか。
被告の彼らは「聞いていない」とか色々言って自己防衛に走っているが、それはやはり、これだけの危険を伴う原子力事業の最高責任者としては、取るべき態度ではないと、検察官役は論告でもはっきりと言っている。
 知る機会はあった、様々な機会に提案され報告されて、報告を聞いていながら「知らなかった」「聞いていない」というのは通じないと指定弁護士は言っています。
 だからその辺をどういう風に忖度して逃げる判決を書けるのか、と思います。
書くとしたら、そんなことを許してしまう世論、鈍な世論がダメなのだと思います。
私たちは37回の公判をわかりやすく世論に訴える映画をと、河合弁護士にお願いして海渡弁護士のご協力も得ながら、30分以内でわかりやすい映画を作っていただいた。
文春が今、別の見方を出してきたのは先に話したような伏線でもあろうかという意見が出ているのも、有力な意見だと思う。
でも、それを許さぬためには、積み上げてきた動かぬ証拠を裁判官がどう反論できるのかということだと思います。
Q2:亡くなった吉田昌郎所長は大変なご苦労をされたとは思いますが、英雄視できないという声を時々聞きます。
この映画を見ると、対策を先送りしたことについてもう少し詳しくお聞かせください。
A:亡くなった方を責めるわけではありませんが、吉田所長は原子力管理部長ということで、津波対策・地震対策を直接指揮していた人でキーパーソンの一人です。
爆発する前に、それを防ぐための現場責任者が吉田昌郎さんです。
だから原子力本部の当時の武藤副社長、武黒副社長、勝俣会長は最高経営者ですが、結局自分であそこに出てきたのは、2017年秋には、津波対策を取るために津波高を出すように発注し、発注の責任の判をを押したのが吉田さんです。
 現場では土木グループが津波対策をやった人たちで、係長・課長・部長という構造の中で地震・津波対策の担当責任者が吉田さんだった。
だからあの時、どういう対策をしなければならなかったかということが、3月11日に彼の中に蘇ったのではないでしょうか。
あそこでやっておけば良かったという後悔の念を、彼は生きていれば証言したのではないかと思います。
だから後の段階で「14,7mの津波もあるという人もいてね」という会話の中で話が出てきたが、吉田さんは津波対策をするグループの直接の現場の管理長でした。
それを経営の方に判断を求め、武藤氏に話をして対策をどうするか2008年6月に話して指示し、それが7月に「研究しよう」に変わって、土木学会に委ねると先送りしてしまった。
だから2008年6月から7月の間に、なんらかの政策変更があった。
吉田さんは非常に忸怩たる思いで、当時の現場にいたのではないでしょうか。
 余談で言えば『Fukushima 50』が英雄になり、その映画が来年3月に封切られますが、それが刷り込みになるのは怖いです。
私の感覚でいうと美化される福島50に対して、こうやってそれぞれの生まれ故郷で地べたで苦労している私たちの思いを打ち出せる映画を作りたいという思いで、この映画を作りました。
『Fukushima 50』に対してカウンターとなる映画を、と。
 吉田さんは功罪を一心に体現していた方だと思います。

★第一部はここまでで、この後15分の休憩後、5団体の方からの報告に移りました。
休憩後の様子は、通信㈫でお伝えします。          

いちえ


2019年9月8日号「8月25日@南相馬㈰」

 久しぶりの南相馬行です。
 7月は子ども裁判や津島訴訟の傍聴に福島地裁や地裁の郡山支所に通いましたが、南相馬まで足を運べずに過ぎていました。
南相馬は福島からバスで1時間50分、東京から福島までよりも時間がかかります。
それに運転ができない私の南相馬行は、人に頼らねば用が足せません。
今回も今野寿美雄さんに同行をお願いして、福島駅でピックアップしていただきました。
もうお一人、テムジンの中川あゆみさんが今野さんの取材として、同行されました。
 今回は8月25日に南相馬のサンライフ原町で「9・19東電刑事裁判 有罪判決を求める!」集会があるので、集会に参加がてらの南相馬行でした。
 集会報告は通信㈪でお伝えします。
まずはこの日にお会いした方たちの近況報告から。

●菅野榮子さん
 集会は午後からなので時間にゆとりはあります。
久しぶりに榮子さんにも会いたくて、まずは飯舘村佐須の榮子さんの家に向かいました。
在宅を確かめないまま訪ねましたが、榮子さんの家に着くと榮子さんの他に芳子さん、年子さんと、“佐須の3人姉さ”が揃っていたばかりか二本松から榮子さんの妹さんも見えていて、みなさんでお茶飲み話の真っ最中でした。
 山津見神社でつい先日行われた奉納の催しのことが話題になっていて、どこか外国の人のダンス奉納だったそうですが、それはたいそう感動的だったようです。
榮子さんが「ダンスなんて、何やんだベェ?と思って見に行ったけど、ありゃ良かったな」と言えば、芳子さんも「んだ、良かったな」と言い、年子さんも「んだなぁ」と頷いていました。
 年子さんに会えたのは、本当に久しぶりのことでした。
避難先の伊達市から、ご夫婦で早々と飯舘村の自宅に戻っていたので、榮子さんに会いに伊達の仮設住宅に行っても、芳子さんには会えても年子さんには会えなかったのです。
久しぶりに会った年子さんに、「榮子さんと芳子さんが帰ってきて良かったですね」と言うと「んだな。ほんと良かったよ。寂しかったもん」と、笑顔が返りました。
 かつての暮らしでは、山津見神社の祭礼時には年子さんが煮た小豆を餡にして榮子さんと芳子さんが饅頭を作って出店するとそれが飛ぶように売れたこと、また年子さんは高菜漬けが得意で、それもよく売れたのだと、過ぎた日々の思い出話に花が咲きました。
 買い物はどうしているのか尋ねると、1週間に一度生協が回ってくるそうです。
榮子さんは運転免許証返上を、そろそろ考えているようでした。
前に会った時には佐須を花いっぱいにしたいから花の種を植えると言っていましたが、なかなかそれもできずにいるようでした。
今は芳子さんや年子さんも一緒に、パッチワークを作るのを楽しみにしているようです。おかめ・ひょっとこのパッチワーク暖簾が部屋の一隅にかかっていました。
「布の大きさや柄や考えながら頭の体操になるし、針を動かすから手を使うし、認知症予防にいいんだよ」と言いながら榮子さんは、自分が作った同じ図柄のおかめ・ひょっとこ暖簾の写真を何枚も見せてくれました。
一枚一枚、使っている布も、また大きさの違う布のはぎ合わせ方も違っているのを見れば、なるほど榮子さんの言う通り、これは「頭の体操」です。
 木綿布であまり小さくない端切れがありましたら、どうぞ私宛にお送りください。
集めて榮子さんに届けようと思います。

●羽根田ヨシさん
 サンライフ原町での集会終了後、 原町馬場の羽根田ヨシさんの家に向かいました。
大抵いつもはあらかじめ訪問のお約束をしてから訪ねるのですが、この日は前もっての連絡をせずに突然の訪問でした。
『たぁくらたぁ』48号で私はヨシさんのことを書いたので、掲載誌を届けたかったのです。
もしヨシさんがお留守でも、雑誌だけでもお届けできるからと思っての訪問でしたが、
幸いヨシさんはご在宅でした。
 突然の訪問を驚いていましたがとても喜んでくださり、「さぁさぁ上がってください」と促されて、お邪魔しました。
ヨシさんは今野さんを忘れていたようで、「津島の今野ですよ」と今野さんが言うと「あら、津島のどこ」と問い、今野さんが「こあくと」と答えると一挙に思い出したようで「ああ、前に来てくださったわね」とお顔がほころびました。
今野さんの言ったのは地名で、「小阿久登」と書くのですが、今野さんが言うと「小悪党」みたいで、おかしくて笑えます。
 ヨシさんはこの夏の猛暑も恙無く乗り越えられて、とてもお元気そうでした。
『たぁくらたぁ』のヨシさんを書いたページ「聞き書き南相馬㈭ 天文観測家の叔父さんと、ヨシさんと」を開いてお見せすると、「あらまぁ、こんなして立派に書いていただいて」と笑顔がこぼれ、話が弾みました。
 話しながらヨシさんは、毎日書いている日記帳を見せてくれました。
私が初めてヨシさんに会ったのは、原発事故翌年の2012年の夏でした。
私が関わっていた六角支援隊が仮設住宅の近くにビニールハウスと畑を用意したのですが、その畑でのことでした。
ヨシさんは近くのグリーンコーポというアパートから、畑に通っていました。
ヨシさんは息子夫婦と3人で馬場の自宅から避難して、みなし仮設住宅としてのグリーンコーポに住んでいたのです。
 ヨシさんが避難先のグリーンコーポにいた時にも何度か訪ねていましたが、その時にも毎日日記帳を書いていることは聞いていました。
ヨシさんは読むのも書くのも好きで、新聞へもしばしば投稿して、時折はその投稿が掲載されてもいました。
 以前グリーンコーポにいた時に見せてもらった日記帳は、普通のノートでしたが、この日に見せてくれた日記帳は、なんと私が使っているのと同じ「3年日記帳」でした。
でもまた、なんと使い方に私とは大きな差があること!
私はただその日に出かけた用事があったら用件と時間を雑に鉛筆でメモ書きしているだけ、特に用事がなかった日は何も書かずに白いままなのに、ヨシさんはこまかくきれいな文字で毎日のことを黒のボールペンで書き、さらに末尾に自分自身を褒めたかったことを赤字で書いているのです。
これはヨシさんの「3年日記」であり、「ヨシさんのほめ日記」なのです。
 ヨシさんは雑誌『家の光』を購読しているのですが、ある時その雑誌に「ほめ日記」の勧めが載っていたのです。
どんな些細なことでも、自分自身をほめてやる言葉を、たとえ1行でも日記に書くことを勧めていたのです。
これは気持ちよく日々を過ごすためにとても大事なことだと思うのですが、ヨシさんはそれを実践していたのです。
 初めて会った頃よりも腰が曲がって体も一回り小柄になったように思えますが、見習いたいことがたくさんある89歳のヨシさんです。
ヨシさんが今挑戦していることの一つが、自分史を書くことです。
是非是非、書き上げて欲しいです。
 この日『たぁくらたぁ』を10冊送ってと欲しいと頼まれて、帰宅後に送りました。
程なくヨシさんから毛筆で書かれた礼状が届きました。
丁寧に筆で文字を書く、これもまた私には見習いたいことの一つです。

●大留隆雄さん
 言うまでもなくビジネスホテル六角の主人で、地元ボランティアグループ「六角支援隊」の隊長だった大留さんですが、2015年に六角支援隊を解散し、ホテル経営も息子さんに譲りました。
数ヶ月ほど前から以前の元気な勢いがなくなって、なんだかショボンとしているように思えてなりません。
今頃になって、震災と原発事故のストレスが出てきたのではないかと案じられます。
 被災直後からずっと、支援活動を夢中で引っ張ってきていたのです。
3・11後の夏から南相馬に通い始めた私ですが、通い始めた時の宿がビジネスホテル六角でなかったら、そしてここで大留さんに出会わなかったら、こんなにも通い続けなかっただろうと思います。
 地域に産業廃棄物処理場建設計画が持ち上がった時、建設反対の狼煙を上げて運動を起こし団長となって闘ってきた大留さんですが、2011年3月11日の津波はその仲間たち多くの命を奪いました。
私が南相馬に通うようになってから数年経ったある日、ボソッと大留さんが言ったことがありました。
「一緒にやってきた仲間たち、100人近くが死んじゃったんだよ。最近になって、それが身にこたえるよ」
 それまでは毎日のようにビジネスホテル六角に届く支援物資を仕分けして仮設住宅や借り上げ住宅にいる被災者に配り、また狭い仮設住宅ですることもなく過ごす人たちを心配して畑やビニールハウスを作ったり、各地からやってくる支援者に被災地の案内をしたりしてきた大留さんには、私自身もたくさん世話になってきました。
ほとんどの被災者たちが仮設住宅を退去し、みんなバラバラになって、通う場所や支援の手を差し伸べるべき人も見えず、大留さんは燃え尽き症候群みたいな感じを受けます。
また、自身の体調も芳しくなく、よく眠れないようなのです。
 大留さんには、元気でいて欲しいです。
そして大留さんにも「大留隆雄一代記」を書いて欲しいです。
大留さんから聞かされた来し方には、その体験から出てくる哲学に唸り、旅の話は何度聞いてもお腹の皮が捩れるほど笑ったり、産廃反対運動や、この震災や原発事故についても耳傾けたい話がたくさんあるのです。
 この日はこの後小高に行ったので、ビジネスホテル六角には宿泊せずにお暇しました。
食堂から出てきて私たちの車をずっと見送ってくれる夕暮れの空の下の大留さんは、なんだかとても頼りなげにみえました。

●小高 双葉屋旅館で
 双葉屋さんに到着後まずお風呂に入って汗を流し、食事時間になって食堂へ行ったら、なんとまぁびっくり!
友人で写真家の、菊池和子さんとばったり会ったのです。
「わぁ、久しぶり!」と手を取り合っての挨拶を交わし合いました。
 菊池さんは3・11後被災地に通い続け、小高の自宅から鹿島区の仮設住宅に避難していた藤島昌治さんの詩と菊池さんの写真で『福島無念』『福島漂流』の写真集を出版、写真展も各地で度々開いてきました。
また先ごろは写真集『芸能の灯消さず 震災を生きる人々』が出版され、東京はもちろんですが丸木美術館でもこの写真展が開かれました。
 菊池さんと話していたら双葉屋旅館女将の友子さんから、「一枝さん、そこに高橋美加子さんが」と声がかかりました。
以前から会いたいと思いながら、会うこと叶わずにいた人の名前を聞いて振り向くと、小柄な女性が立っていました。
「美加子さん!会いたかった」と私が言うのと同時に美加子さんもまた、「一枝さん!会いたかった」と。
美加子さんのことは友人で小高から飯坂に避難している知伊子さんと、知伊子さんに紹介していただいた境野米子さんのお二人から聞いていて、原町でクリーニング店をしていることも聞いていたので、いつかきっと会いに行こうと思っていながら果たせずにいたのでした。
その美加子さんにここでばったりとは、また嬉しいことでした。
美加子さんは私の最初の本から読んでくださっていた読者で、私が度々南相馬に来ることを人づてに聞いて会いたく思ってくださっていたのでした。
本当に嬉しい夜でした。
 この日の宿泊を大留さんの六角ではなく小高の双葉屋さんにしたのは、毎日ここに顔を出すすぎた和人さんに会いたいと思っていたからですが、
そのすぎたさんもやって来て、今野さんに「佐渡の保養は、お疲れ様でした」と言いました。
以前にやはり今野さんと一緒に小高に来た時に、私がすぎたさんと今野さんをお引き合わせして以来、二人は友達です
 今野さんから佐渡での保養活動の様子を聞きながら、私はふと思いついて、すぎたさんに「こんど今野さんと一緒に保養に行って、子ども達に絵を描かせてあげたらどうかしら」というと、今野さんも「いいね」と相槌を打ち、すぎたさんも「あ、やってみたいですね」と言い、それが叶うといいなと思いました。
すぎたさんは、素敵な絵を描くアーティストなのです。
 私は思いがけずに菊池さんに会い、美加子さんに会うことが叶い、また今野さんとすぎたさんらも賑やかに話しが弾んだことでした。

 通信次号で「福島原発刑事裁判 有罪判決を!」集会@南相馬の様子をご報告します。  

いちえ


2019年9月2日号「お知らせ3件」

◎お知らせ①
 世界中を震撼させた福島第一原発事故は終わっていません。
責任を問うて、全国の1万5千人が告訴・告発を行い、検察庁が不起訴としましたが、市民からなる検察審査会が強制起訴を決め、東京地方裁判所において刑事裁判が進められてきました。
2017年6月30日に初公判が行われたこの裁判は、37回にわたる公判をもって結審し、来る9月19日に判決が言い渡されます。
  ———真実は隠せない–———
 有罪判決を求める 東電刑事裁判判決前大集会
どうぞ、ご参集ください!
日時:9月8日
場所:文京区民センター 3A会議室(文京区本郷4−15−14)
プログラム
 13:30 開場
 14:00 開会
     団長あいさつ
     短編映画『東電刑事裁判 動かぬ証拠と原発事故』上映
     弁護団からの話
 15:20 傍聴を続けたジャーナリストからの話
 15:50 福島の想い リレートーク
 16:10 歌「真実は隠せない」
 16:30 終了

◎お知らせ②
 「一枝通信」の前便で、クレヨンハウス「朝の教室」のことをお伝えしました。
9月の朝の教室、講師はノーマ・フィールドさん(シカゴ大学名誉教授)です。
「〈逆さまの全体主義〉に抗う」のタイトルでお話くださいます。
お申し込みは、ミズ・クレヨンハウスへ電話かメールで。

日 時:9月14日(土)9:00〜11:00(開場8:30)
場 所:クレヨンハウスB1​
電 話:03−3406−6465(11:00〜19:00)
メール:josei@crayonhouse.co.jp
参加費:1000円
 私も参加します。
ノーマさんのお話、とても楽しみです。

◎お知らせ③
 トークの会「福島の声を聞こう!vol.32」
 2011年3月の原発事故から8年半の月日が流れました。
被害の実相は報道されないまま、2020年夏の東京オリンピック・パラリンピックに向けての情報や告知は、ますます盛んになっています。
私たちは、こんな国を望んでいるのでしょうか?
 32回目を迎えるトークの会では、“避難指示区域外(これもおかしな言葉です)”から母子で東京へ避難している岡田めぐみさんに話していただきます。
岡田さんは避難者と支援者を,また在留者と避難者をつなげる活動に積極的に取り組んでいます。
政府方針が分断を進めるのに対して,岡田さんは被災当事者の立場から,毅然と分断に立ち向かっています。
 ぜひ、岡田さんの話を聞いていただきたいです。
日 時:9月27日(金)19:00〜21:00(開場18:30)
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158 2F)

参加費:1500円(被災地への寄付とさせていただきます)
主 催:セッションハウス企画室
申し込み受付:9月9日(月)11:00〜セッションハウス企画室へ。
電話:03−3266−0461
mail:session-house.net     
http://www.session-house.net


2019年8月27日号「8月24日@クレヨンハウス」

◎クレヨンハウス「原発とエネルギーを学ぶ朝の教室」
 原発事故から2ヶ月後の2011年5月から、落合恵子さんのクレヨンハウスでは毎月「原発とエネルギーを学ぶ朝の教室」を開いています。
私はクレヨンハウス朝の教室には、他の予定と重ならない限りは参加してきましたが、
24日(土)は109回目の朝の教室で、講師は鵜飼 晢さん(一橋大学大学院言語社会研究科教授)でした。
今回も参加して鵜飼さんのお話をお聞きすることができて、本当に良かったです。
●なぜオリンピックに反対するのか?
 鵜飼さんの今日のお話のテーマは「なぜオリンピックに反対するのか?」でした。
鵜飼さんは「『オリンピック災害』おことわり連絡会」でも活動されていて、この連絡会では7月に「2020東京五輪に反対する18の理由 東京オリンピックガイドBOOK」を出しています。
私自身、「2020東京五輪」に反対ですし、それだけではなくオリンピックそのものに賛成できない思いを抱いていました。
鵜飼さんのお話がスルスルと腑に落ちて、また私の中で、なんとなくそう思うけれど曖昧模糊としていてきちんと言語化できずにいたことがハッキリと明示されて、そしてまたオリンピックについて知らないままでいたことを教えられもして、とても有意義な2時間でした。
(以下、黒字は鵜飼さんが話された内容、青字はいわきのママの会の声明、緑字は私の独り言です。)

●「なぜオリンピックに反対するのか?」
⒈ 変わる都市風景の背後で起きていること
※新国立競技場について
①地域住民の生活破壊(都営霞ケ丘アパート10棟、230人)や、野宿者の排除。
2016年リオ・オリンピックは「排除の祭典」と称されたが、リオだけではなく日本でも、いや、他のどこの国でも同様に排除が行われる。(1964年の前回日本でも)
(北京大会も酷かった!伝統的な四合院の建物もどんどん取り壊されていった。私が訪ねたことのある家も)
②突貫工事について
 国策事業として工事を急ぎ、人柱のように労災死を生む。
2017年4月、若い現場監督が200時間超の残業の末、過労自殺。
2018年春も選手村建設でも複数の労災死。
これもまた、1964年には300人以上の工事関係者が亡くなっているが、そのことは忘れ去られている。
③違法木材使用
 熱帯雨林の違法伐採、現地住民の人権侵害(レインフォレスト・アクション・ネットワークの告発)
※晴海選手村について
①公有地払い下げ(東京都は地権者・認可者・施工者の三役を兼ね、三井不動産、住友不動産他11社に近隣地価の10分の1で売却)(え〜っ!なんと悪どいこと!)
②五輪後は高級マンション街に。
※五輪パートナーシップ
①ザ・オリンピック・パートナーはIOCに100億円を。世界で13社の内、日本はトヨタ自動車のみだが、見返りにオリパラのロゴをつける資格獲得。五輪タクシーは都から1台60万円の助成。(山高帽みたいなタクシーが増えたのはこんな訳だったのか)
②ゴールド・パートナーは日本企業15社で組織員会に150億円。
③オフィシャル・パートナー 契約金60億以上 全国紙=TVネットワーク、JR東日本、JAL等
④オフィシャル・サポーター 14社、地方紙
⑤これら企業群の五輪協力体制を統括する広告代理店=電通(出た!悪名高き名が)

⒉ 2020年東京大会の決定過程「あなたたちの喜び」と「わたしたちの悲しみ」
①首都再開発構想
②福島原発事故隠蔽工作
a、安倍首相の「アンダーコントロール」発言(絶対に許せない!)
この頃は、市民はまだ「オリンピックどころではない」が常識だったが、招致が決まると「原発事故はたいしたことはない」と意識が変容していき、コントロールされていたのは市民の意識だった。
b、総会前夜の晩餐会に高松宮妃久子さんが参加しIOC委員たちに自ら話しかけ積極的に交流。これで流れが変わった。IOC委員は王室やセレブが多い「五輪貴族」。(貴族の祭典だった!)
c、招致5日後の2013年9月13日には、「いわきの初期被ばくを追求するママの会」が声明を出した。
 「このクレイジーな事態がわたしたちに与えるショックの大きさは、言葉にできるものではありません。
 世界の同情を引くために、原発事故の被害を受けてしまった福島の子どもたちを利用した、安倍首相の最悪のプレゼンは忘れられない内容です。
 福島の子どもたちが青空のもとで元気にサッカーをしている。福島の子どもたちに夢を…原発事故を知ってか知らずしてか、東京での開催を求めたみなさんの声が、福島の子どもたちの未来をさらに奪うことに繋がったという罪深さを、私たちは重大なものとして受け止めています。
 あなたたちの喜びは、わたしたちの悲しみです。
あなたたちの犯した罪の重さを、私たちは問い続けます。
福島の問題を封じ込めようとする動きに、あなたが加担していることを自覚してください。私たちの子どもは未だに救済されないまま、あなた方の幸せの犠牲になっているという事実に向き合ってください。
 たとえどんなに声が小さくても、私たちは福島から叫び続けます。
 原発事故の被害を受けた子どもたちの未来を、真剣に考えてください。
社会全体として、救済する流れを早急に作ることに力を貸してください。
過ちを正しましょうと、一緒に叫んでください。
 誰かの犠牲のもとになりたつ幸せは、幻です。その栄光もまた、幻にすぎません。
人生の輝かしいはずの栄光が、誰かの犠牲のもとにある、罪深いものであるということに気付いてください。
なにかを極めるということは、ほかのことなどどうでもいいということではないはずです。せっかくの積み上げてきた努力の舞台が、原発事故を闇に葬るための、国上げての大芝居の舞台であったと気付いた時、アスリートのみなさんの喜びは罪悪感に変わることでしょう。
 人生をかけて努力を積み上げてきたアスリートのみなさんの栄光を、そのようなものにしてしまうこともまた、とても残酷なことだと感じます。
 7年後に東京で開催されるオリンピックは、私たちの問題を揉み消すための、最悪のオリンピックだということを、十分に理解して頂きたいと思います。」
 福島の風景の変化は作業員の被ばく労働時間と等価。
 聖火リレーはJヴィレッジを出発、帰還困難区域を通過。
表面的な復興の「イメージ」だけを世界に発信し、事故で瓦解した技術大国の「イメージ」復活。
 五輪アスリートに福島産の作物を食べさせる。(その前段階で県内の学校給食で県産の食材を使い「子どもたちが美味しそうに食べている=安全」を大々的にPR。これにもまた電通が絡んでいる。子どもをダシに使っていること、全く許せない!)
「除染だけでも延べ人数3000万人と言われる膨大な作業員を被ばくさせてしまった。
事故後に開通した常磐自動車道も、高濃度汚染地帯で建設工事を担った作業員は全員被ばくしてしまったのだ。
そしていま、オリンピック聖火リレーに間に合わせるかのように復旧工事が進められる国道6号線やJR常磐線の現場でも作業員たちは、日々、被ばく労働に従事している」(豊田直巳「変わる風景、変わらない放射能汚染」第3回『月刊むすぶ』2019年8月)
(1964年の時はこれに間に合わせるように新幹線開通。やはり突貫工事だった。2020年は、原発事故収束を装い常磐線再開)
③改憲に向けた国威発揚、国民統合
a、1964年大会は、どんなタイミングだったかというと‘59年明仁皇太子結婚/オリンピック/’68年明治100年。日本(人)の自己像の転換期
では、2020年大会は、‘18年明治150年/’19年天皇代替わり/オリンピック。
絵に描いたような「民族の祭典」、また明治神宮も創建100年となる。
 オリンピックに原発問題、日韓問題など全てが凝縮されていく。
b、新教育基本法下での愛国心教育
 他国に例のないオリンピック教育の義務化(年間35時間程度)
ボランティアマインド/障害者理解/スポーツ志向/日本人としての自覚と誇り/豊かな国際感覚←全教科の「道徳化」
聖火リレー声援、(予選の観客席を埋める)競技観戦への子どもたちの動員。
 パラリンピック教育が道徳の中心になり、子どもたちは障害者といえば「親切にしなければならない」対象か、「健常者のくせに怠けている」自分たちの尻を叩くような“パラリンピアン”になっていく。
道徳教育によって育まれるステレオタイプの「障害者」像が一人歩きし、そこからはみ出た「障害者」は存在しないものとみなされていく。

3、2つのブラックホール 国際オリンピック委員会(IOC)とクーベルタン男爵
a、IOCはスイスのローザンヌに本部があり、スイス法に保護された財政状況は闇の中で、公的な会計報告を全く行わない非民主的な閉鎖性を持つ。
b、オリンピックの商業化以後はとめどない汚職の温床となっている。
贈賄疑惑の竹田恒和前JOC会長( 明治天皇の曽孫)はIOCのトカゲの尻尾として余儀無く辞任。
c、私設団体なのに国連でオブザーバーの立場を享受。(へぇ〜、知らなかった!)
開催期間中は開催国の主権を超えて入国者管理の決定権を持つ。
d、出身国フランスでもほとんど知られていないピエール・ド・クーベルタンの思想
「スポーツは近代的軍隊への入隊に先立つ素晴らしい身体的予備調教」
「スポーツは植民地化日的かつ効果的な役割を果たしうる。スポーツは規律化の道具であり、衛生、清潔、秩序、自己管理等、あらゆる種類の優良な社会的性質を生み出す。原住民もこれらの性質を身につけた法が扱いやすくなるのではないだろうか」
「懸垂ができない男子は男子ではない。懸垂は男らしさのパスポートだ。女子は放っておかなければならない。懸垂は彼女たちの領域ではない」
「近代オリンピックの第一の本質的特徴は、それが宗教だということだ。彫刻家が像を
彫琢するように自分の身体を訓練によって彫琢することで、古代のアスリートたちは神々を崇めていたのであり、近代のアスリートたちは、彼の祖国、彼の人種、彼の国旗を称揚するのである。
近代オリンピックの第二の特徴は、貴族性であり選良だということだ。
もちろん起源は全く平等な貴族性で、個人の身体的な優越性とある程度までは意思的な訓練によって向上させうる筋肉の可能性によってのみ規定される貴族性だ」
(クーベルタン男爵って、こんな思想の持ち主だった!全く知らなかった。オリンピックを復活させた偉大な人と、子どもの頃に習ったと思う。)
 オリンピック復興理念は古代ギリシャで「人間」が「発見」されたという19世紀西洋知識人界の通念から生まれ、人種差別、女子差別、植民地主義、優生思想と絡み合っている。
このような人物を崇拝し続けるオリンピック運動は旧時代の遺物であり、21世紀の人類にオリンピックは不要、どこにもいらない。

●質疑応答
 招致が決まってからずっと疑問に思っていた事を、私は質問しました。
Q:オリンピック招致が決まった、ちょうどその頃からのことですが新聞ではほとんど毎日のように、障害者スポーツのことが記事に上がっていました。
本当に毎日、障害者スポーツの記事が上がっていました。
私は、これでオリンピック反対の声が挙げにくくされていくと感じて、このような報道の在り方に大きな疑問をもちました。
一種の情報操作だと思えたのです。
この裏には、やはり電通の働きがあるのでしょうか?
A:電通もあるでしょうが、日本財団です。
日本財団がパラリンピックサポートを行っています。
笹川良一氏が競艇の収益金をもとに興した「日本船舶振興会」が前身で、2011年3月31日に「日本財団」と名称変更し、パラリンピックサポートセンターを立ち上げました。
笹川良一氏没後2代目会長は曽野綾子氏、現在は笹川氏の息子の笹川陽平氏です。
 つい先日、敬愛する本橋成一さんからご著書の『世界はたくさん、人類はみな他人』を頂戴したばかりだけど、さすが本橋さん。なんて素敵なタイトルだろうと思った。読み進めていったら、笹川良一の「世界はひとつ、人類はみな兄弟」へのアンチテーゼである事が記されていた。ますます本橋さんが好きになりました!

 講演はここまでですが、鵜飼 哲さんが紹介してくださった本を下記します。
『反東京オリンピックガイド』(「オリンピック災害」おことわり連絡会、2019)
『で、オリンピックやめませんか?』(天野恵一・鵜飼哲編、亜紀書房、2019)
『反東京オリンピック宣言』(小笠原博毅・山本敦久編、航思社、2016)
また鵜飼さんご紹介ではありませんが、つい先日、下記の本が出版されました。
『東京五輪がもたらす危険』(「東京五輪の危険を訴える市民の会」編著、渡辺悦司編集。緑風出版)
 オリンピック関係の本ではありませんが私は、鵜飼さんの『主権のかなたで』を買って帰りました。
難しそうだけど、勉強しようと思います。                

いちえ


2019年8月11日号「お知らせ」

 先日の「一枝通信」で、安保法制違憲訴訟・国家賠償請求事件の裁判の様子をお伝えしました。
通信に書きましたように、いよいよ11月7日に判決が下ります。
 4年前の2015年9月19日、言語同断なやり方で強行採決されてしまった安保法制です。
国民の声には全く耳を貸さずに傍若無人にやりたい放題の行政府と、それに牛耳られてしまった立法府は、審議を尽くすどころか「人間かまくら」と言われるような恥ずべきやり方で、力ずくで委員会採決を経て、成立させてしまったのです。
多くの憲法学者が、憲法違反だと指摘している安保法制です。
そしてまた、その成立過程も、到底許せるやり方ではありません。
私たちは2016年4月26日に、安保法制は違憲であるとして国家賠償請求を東京地裁に提訴しました。
行政府も立法府も信が置けない今、頼りにしたいのは司法です。
三権分立が、機能していると信じたいです。
 みなさんのお力を、お借りしたいのです。
東京地方裁判所へ、「安保法制は違憲」の判決を要請していただきたいのです。
どうぞ、署名にご協力ください。
添付の署名養子でも、ネット署名でも結構です。
http://chng.it/JFp4vTCg6q
拡散をお願いいたします。
第1次提出は9月2日
第2次提出は10月1日
安保東京国賠署名用紙_20190807-1


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