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2017年8月22日号「8月19日信州白馬村」

19日(土)、白馬村の「深山の雪」に行ってきました。
大熊町から避難した木村紀夫さんが、長女の舞雪(まゆ)さんと暮らすところです。
木村さんは元ペンションだったこの住居に移り住んだ当初は、原発の電力に頼らない「持続可能な宿」として、ここを運営していこうかと考えていましたが、木村さんの「持続可能な」という思いに賛同する支援者たちが集まるようになり、その後は「持続可能な生活」を模索する場として「深山の雪」を主宰しています。
木村さんは行方不明になった二女の汐凪(ゆうな)さんを、あの日からずっと探し続けてきました。そして支援者たちと「team 汐笑(ゆうしょう)」を立ち上げて捜索活動とともに、大熊町の自宅周辺を菜の花畠にし、また桜の苗木を植えています。
汐凪さんの遺骨の一部が見つかったのは、あの日から5年9ヶ月過ぎた昨年末のことでした。

また、2014年からは「忘れないから始まる未来」として、持続可能な暮らしに向けてのイベントを催してきています。
この日に私が「深山の雪」を訪ねたのも、そのイベントに参加するためでした。

●「忘れないから始まる未来」
2014、2015年はトーク&ライブでしたが、昨年(2016年)は「原点回帰探検隊 はじめての火おこし編」として、自分たちで火を起こし、その火で料理をして食べ、語り歌いという会でした。
今年は【原点回帰探検隊 はじめての小屋づくり編 〜「火」から「灯」がともるまで】でした。
これまでのことを下に記します。
*大熊町で
 大熊町の菜の花畠は、「汐凪の花園」です。
昨年も汐凪の花園は、菜の花で一面の黄色になりました。
今年は一面の菜の花畠に汐凪さんの後ろ姿を、地上絵で描きました。
そして花が終わってからは菜種油を手作業で搾油したのです。
*白馬村で
「深山の雪」は持続可能な生活の場として、これまでも様々な活動をしてきました。
ロケットストーブ作り、鹿肉の解体、畑作り、薪割りなどなどです。
また、みんなが集まって催しをする際の舞台になるようなテラスも作りました。
もともとはボイラーで風呂を焚くようなペンションでしたが、ボイラーは木村さんの「持続可能な生活」の趣旨に合いません。
今年は五右衛門風呂を作ったのでした。
木村さんは以前からここに、汐笑庵(じゃくしょうあん)という小屋を作りたいと思っていました。
汐凪ちゃんを思う人たちみんなで、ここで笑っていられるようにとの願いを込めた命名です。

●原点回帰探検隊 はじめての小屋づくり編 〜「火」から「灯」がともるまで〜
今年のイベントは、「火おこし」が成功しないと始まらないイベントです。
汐笑庵の基礎石は大熊町の実家で使われていた、津波にも流されずに残っていた基礎石を使います。
この日は柱や梁を組み立てて棟木を上げるまでをやり、棟上げ後には餅投げです。
2017年の「忘れないから始まる未来」のテーマは「住」で、棒を擦って火をおこし、薪をたいてお風呂に入り、小屋を作って灯りを灯すまでという流れのイベントでした。
大熊町の汐凪の花園の菜種油に灯した火が、汐笑庵の灯りになるのです。
福島県大熊町と信州白馬村が、一繋がりに結ばれるのです。
私は予定していたバスに乗り遅れてしまい、深山の雪に着いたのは19日の1時すぎでした。
参加者は思い思いの持ち場で作業をしたり語らったり。
いつもここで会う懐かしい人や、はじめて会う人たち、子どもたちも大勢参加していました。
森の中には子どもたちが遊べるような滑り台も設置されていました。
小屋づくりの材木は、近くの真木共働学舎の村内廃屋の使える材木を譲り受けて使っていました。
棟梁は美術家の小池雅久さんです。
他に男衆が何人もで、鋸を引き、のみでほぞ穴を開け、汗を流しています。
こちらでは、棒を擦って火をおこし、薪で湯を沸かしもち米を蒸しす人がいます。
少し大きな子どもたちはビニールシートの上で、石臼を回しコーヒー豆を挽いていました。
つまり、何もかも動力を使わず手作業で、それも楽しみながらやっているのです。
もち米が蒸しあがって、木臼が用意されて餅つきが始まりました。
あらかたつき上がったところで、子どもたちの出番です。
誰もが「やりたい。やりたい」というので、順番にペッタンペッタンついて、みんなとても楽しそうで、得意そうでもありました。
つき上がった餅は、きな粉餅、エゴマ餅でふるまわれました。
エゴマは浪江町の関場さんが、避難先の日立市の畑で栽培したエゴマです。
ここでの大工仕事は動力を使わず手作業でしたから、当初考えていたよりも作業に手間取ったようです。
棟梁の小池さんは、「自分の中には電気の時間が流れていることを感じました」と言っていました。
どういうことかと言うと、4本の柱を立て、梁を渡しという一連の作業にかかる時間を見積もるのに、日頃の作業では電動ノコなど動力を利用することも多いですから、それから換算しての手作業での進行表を想定したのに、手作業がこんなにも時間を必要とするのだということに、あらためて気が付き、体の中には電気の時間が染み付いていると思ったというのです。
小池さんだけではなく大人たちの誰もが、ここでは日頃の暮らしを見つめ直し「持続可能な生活」に想いを至らせたのでした。
無事に棟上げができて、棟の上からあらかじめ用意されていた袋入りの餅や菓子が投げられ、子どもたちは目を輝かせて拾っていました。
「原点回帰探検隊」隊長の木村さんが、大熊町の現状や捜索の進捗、現在の生活について話されました。
最後に棟上げが済んだ汐笑庵をバックに全員で集合写真を撮影して、この日のイベントを終えました。
そのあと残れる人たちは後夜祭アフターイベントで、歌い語らい一夜を共にしたようですが、私は5時過ぎのバスで白馬をあとにしました。

●次回のトークの会「福島の声を聞こう!vol.25」
 次回は10月20日(金)19:00〜21:00です。
ゲストスピーカーは木村紀夫さんです。
木村さんには2012年12月の「トークの会福島の声を聞こう!vol.4」でお話いただきましたが、あれからのこと、汐凪さんが発見されてからのこと、これからの生活、持続可能な生活について思うことなどをお聞かせいただこうと思っています。
どうぞ、ご予定に組んでおいてくださいますよう、お願いいたします。   

いちえ


2017年8月17日号「8月5日トークの会②」

●避難の協同センター
病院勤務だったから治療しながらもしばらく勤めは続けたが、2015年に避難の協働センター立ち上げの話が持ち上がってきて、退職して共同代表世話人になった。
私は災害救助法で住宅提供を受けていたが、2015年に、2016年3月で災害救助法を打ち切るという話が政府から出てきた。
原発災害から避難して子育てしながら避難先でやっと地域との繋がりもできてきた時期に住宅提供を打ち切られたら困るということで、政府交渉や福島県と交渉するうちに、1年延びた。
その後、県は1年先の2017年3月で打ち切るとした。
私自身は夫の理解もあっての避難で、避難が原因で離婚などということもないが、若い人たちの中には「戻らなければ離婚」と言われて離婚した人がかなり多い。
夫からの援助もなく母子で避難している人たちが、高い家賃のために生活が困窮し貧困となっていくことを恐れて、支援者とともに方策を考えて構想を練っていた。
支援者の瀬戸さんに「今日、食べるものがない」とSOSの電話が入るようにもなっていた。
そして昨年7月12日に、避難者と支援者とで「避難の恊同センター」を立ち上げた。
今年3月31日に住宅提供が打ち切られてからは、思っている以上にたくさんのSOSの電話が来るようになった。
だが残念なことに救援が間に合わず、命を絶ってしまった人がいる。
娘と同年齢の子供を持つ母子避難の人で、2つの仕事を掛け持ちして働きながら頑張っていた人だった。
私が避難した神奈川県は民間賃貸住宅提供だったが、東京都は都営住宅・雇用促進住宅・国家公務員宿舎のどれかに割り振られた。
この場合、どこに入るかは自分で選べず、この人は雇用促進住宅に割り振られていた。
住宅提供打ち切り後の家賃は自己負担になるが、雇用促進住宅は他よりも自己負担金が高い。
彼女からのSOS連絡があって、世話人たちは彼女がそのまま雇用促進住宅に居られるようにと動いていたのだが、ゴールデンウィークに自らを絶ってしまった。
防ぎたいことが防げなかったことが、とても残念だ。
こういう問題が、今後も起きてくるだろうと案じている。
区域外避難者だけではなく避難指示区域内避難者も、避難指示が解除された今は自主避難者となったから、避難先の住宅費用は自己負担となる。
避難の協同センターには、これからもっと相談が多く寄せられるようになるだろう。

避難の恊同センター
原発事故避難者の相談を受け付け、必要な支援につないでいきます。
避難当事者と支援者が協同して、地域で支え合い・助け合い、
避難者が地域で孤立することなく生活出来る支援を行います。
避難された方のための相談電話→ 070-3185-0311

●機能していない「子ども・被災者支援法」
2012年民主党政権時に「子ども・被災者支援法」ができて、画期的な法ができた事が、とても嬉しかった。
避難した人も、留まった人も、避難して戻った人も、同じく原発事故で被害にあった人がいろいろな提供を受けられるのがすごくいいなぁと思い、これがきちんと機能すれば私も戻れると希望を持ったのだが、自公政権になってから法は骨抜きにされ、法があっても機能していない。
甲状腺ガンが中通りに増えているが、避難せずに留まっていた子に甲状腺ガンが増えている事を考えると、せっかく出来たあの法令がもう少し肉付けしてきちんと機能できていたら、避難の協同センターはなくても済んだのではないかと思う。
「子ども・被災者支援法」
「住居」「避難」「帰還」の選択を被災者が自らの意思で行うことができるよう、医療、移動、移動先の住宅確保、就業、保養を国が支援するという法。
国は、福島はもう復興に向かっているから2020年のオリンピックまでには避難者は居ないようにする事を掲げている。
避難者が居てくれては困るのだ。
避難の恊同センターでの私の活動について、私からは娘にあまり話さないが、娘はTVなどの報道で見て知っていて、あまり目立たないで欲しいと思っているようだ。
ただ私は、メディアが情報を出さなくてもネットでいろいろ情報が出ているのを見ると、当事者が自分たちで声を発していかなければいけないと思う。
声を出せずに、ひっそりと黙っている人たちもいる。
だから自分の経験した事を言わないと何も変わらないと思って動いているが、娘は呆れているかもしれない。

●声を出せば、支えてくれる人がいる
*イチエから問いかけ
徳子さんは、「私が」「私が」としゃしゃり出るのではなく、ただ止むに止まれずこうして活動しているが、その中で思いがけない繋がりも生まれ広がっているのでは?
*徳子さん答えて
人前で話すのは若い時から苦手だったが、去年「世界社会フォーラム」で日本からは原発事故の事を世界に訴えるのに、たまたま私に白羽の矢が当たり、モントリオールへ行った。
それがもっと私の目を開かせ、また背中を押してくれたように感じている。
そこにはアフリカや世界各地からの人たち、土地を奪われた先住民の人たちなど私よりもっと大変な状況の人たちが集まった。
そうした集まりの中で、私が今置かれている状況、住宅提供を奪われることも同じ問題、人権の問題ではないかと話した時に、外国の人たちは自分たちが大変な状況にありながら、福島の問題は自分の問題だと思ってくれた。
そこで私が学んだのは、まずは自分が前に立って言わなければダメなんだということ、「支援を受けると言うだけではなく当事者の君が立ち上がって声をあげれば、僕たちが後ろに居てあげるよ」と言われた時に、「あ、そうなんだ!」とストンと心に落ちた。
自分から言いたくなくても、伝えていかなければ、支援者も動けないことを学んだ。
去年カナダに行ったことが、今の私の行動を支えている。

●それでも迷いはある
避難している私がこういう話をすると、それが復興の妨げになると思われる。
県外に避難している私が福島はまだ危険だと言うと、福島に留まっている人は責められているように感じてしまうことがある。
私はそんなつもりで言っているのではなく、子どもたちのために国や行政がもっとやって欲しいことがあるから言うのだが、福島の人にそれが伝わらないことがある。
私は、自分がしゃべることが自分の故郷を非難することになるので、それが福島にとって良いことなのかと迷うことがある。
外国の人を含めいろいろな人から、「なぜ福島の人はもっと声を上げないのか」と、よく言われる。
実際に自分たちが置かれた立場、例えば農業者は土壌を汚され農業での暮らしが成り立たなくなるなど、失ったものはとても大きい。
「先祖代々やってきたものが全て失われ、着の身着のまま逃げなければならなかった人たちがたくさんいるのに、福島の人はもっと騒いでもいいのではないか」と言われる。
でも汚染は目に見えないから、自分で線量計を持って測ってみないと判らないし、判りたくない気持ちもあるかもしれない。
いま私が住んでいる川崎は郡山に比べたら便利な所だが、郡山の方が風は涼しくて日中は暑くても朝晩は過ごしやすい。
生活するには、福島は過ごしやすい所だ。
けれども線量を測ると、現実に戻される。
「そんなこと考えていたら福島では生活できないよ」という意見もある。
確かに言われる通りだし、先祖代々の墓もあるし福島の家はとても大きい家が多いから、都会の便利ではあっても暮らしにくい家よりも、住み慣れた故郷で暮らしたい人は多い。
だからいくら汚染されていると言っても、住み慣れた地に帰りたい人は多い。
矛盾しているかもしれないが、その思いはよく判る。
 けれども子どもや孫のことを考えると、被爆のリスクを避けたいので帰れない。

●子どもたちに、被爆をさせたくない!
福島の子どもだけではなく、子どもたちには被爆をさせたくない。
医療被爆も避けさせたいと思っている。
外国では、子どもたちの医療被爆も極力避けるようにさせているから、X線照射は使う限度がとても低いが、日本ではすぐにCTやレントゲンを撮ることが多い。
放射線被爆も少なければ少ない方が良いと思っている。
福島では農家さんたちが農作物になるべく吸着しないようにと、いろいろ勉強して栽培し、線量を測って100ベクレル以下のものを出していて、それで県では給食の食材には福島産のものを使っているが、私はそれには疑問を抱いている。
育ち盛りの子どもたちは私たち大人よりも食べる量も多いから、たとえ100ベクレル以下でも積算すれば心配だ。
給食では福島産の牛乳も毎日出るが、福島の牛乳からは今もセシウムが出ている。
これはNPOがやっている測定ページにデータが出ている。
福島の子どもだけでなく他の子どもたちにも、1ベクレルでも少ないものを与えたいと思うし、現在では0という数値はあり得ないかもしれないが、できるだけ低いものを飲ませ、食べさせなければいけないと思うのだが、現実にはそれができていない。
*イチエ
私は福島に通って現地の生産者さんに会い話を聞いてもいるが、国は100ベクレル以下なら出荷しても良いとしていても、話を聞かせてもらった生産者たちはみな、20以下なら出すが、20ではもう出せないと言っていた。
店頭に並んでいる福島産は、すべて測定して100ベクレルの基準値を超えないものだ。
けれども隣に別の産地のものがあれば消費者はそちらを買い、福島産は売れ残る。
線量を測らず出荷されている他県産の方が、実際には線量が高い場合もあるのに。
それなら福島産はすべて安全かと言うと、同じ生産者の作物でも畑の場所によっては数値が違ってくる場合がある。
政府は隠さずに誤魔化さずに情報を公表すべきだし、数値を表示することも必要だ。
また消費者は、その情報を自分で見極める責任があるのではないか。
*徳子さん
いま海外では福島産は輸入しない国もある。
農家は本当にいろいろ模索して、どうやったら汚染を吸着させないようにできるか努力している。
農業者も生活していかなければならないなかで、悩みながら努力をしている。
一枝さんが言うように行政は情報をきちんと公表して欲しいし、ホットスポットが各地にあるのだ。
福島のすべてが危険なのではなく、だが絶対に危険な地域があり、安全と言われている地域にもホットスポットがあるのだ。
そしてこれは福島だけの問題ではない。
フクイチは収束していないし、放射能は漏れ続けている。
東電は汚染水を海に流し、毎日すごい量の汚染水が流され続けている。

●これからの生活の見通し
フクイチは収束していないが、どうやってこれからの生活を見極めるか…
ある程度は、自分で自分に納得させないといけない時期かと思っている。
長女の子どもが生まれて、彼女らが東京に移住したので良かったと思っている。
東京の方が青果類などいろいろある中から選べるが、郡山ではすべて郡山や福島産のものばかりだ。
去年までは、これからどうしたら良いか足踏み状態だった。
自宅の庭には除染廃棄物を入れたフレコンバックが、置かれたままだったが、7月末に行政が引き取りに来た。
中間貯蔵施設が決まらないから、避難指示区域だった浪江や富岡ではフレコンバックが
野積みにされたまま放置されていて、まして区域外の郡山はいつまで放って置かれるかわからない状態だったが、福島市、郡山市の除染物は業者が浪江町に持っていくと言っていたという。
だが、そんな状態の郡山に孫が来ることは考えられないので、私たちもこちらでみんなで暮らそうかと考えている。
夫も、家族がバラバラではなく一緒に暮らすのが一番だと考えていて、みんなでこっちで暮らすことを考えている。
何がなくても家族がバラバラではなく一緒に居られることが一番だということを、この7年で強く感じた。

●いま一番言いたいこと!
恥ずかしい話だが事故が起きるまで日本に54基も原発があることを知らず、原発の危険性についても認識がなかった。
あれだけの事故を起こして、今はみんなが原発ではなく自然エネルギーにと思い始めている。
核のゴミの処理法もないのにまた再稼働と動き出し、日本は一体これからどう進んでいくのか?
政治家や議員に言いたい。
原発を止めて欲しい!
この島国にこれだけ原発を作り廃炉の見通しもデブリを取り出せるのかどうかもわからず、石棺も無理という状況で、これ以上原発を続けていたら福島以上の被害が出ると思う、そのことをよく考えてもらいたい。
六ヶ所村にも、核のゴミはもうかなりあると聞いている。
3・11後のあの頃、原発はすべて止まった。
あの頃東京ではエレベーターも4階以上しか使えなかったり2基あれば1基しか動かさなかったり、照明も落として暗くした。
計画停電ということも言われ、あれでみんな逆バージョンで精神コントロールされてしまったのではないか。
「原子力発電所が使えないと、こんなに暗くなる。やっぱり原発は必要だ」という具合に。
原発立地の人はよくわかると思うが、2キロ圏内は10分以内に逃げろと言われても、逃げるなど不可能だ。
福島から郡山に帰るさえもできなかった。
自然災害以上の被害をもたらす人災が起きないよう、原発は止めて欲しい!
もう一つ言いたい。
9条を守り抜いて欲しい!
義父から戦争中の話、満州に行き、引き揚げてきた話をよく聞かせてもらった。
戦争が終わって72年。
たった70年でまた同じことを繰り返すのかと思うと政治家にはもっとよく考えて欲しい。
戦争への道を繰り返さないで欲しい!

*トークの会「福島の声を聞こう!vol.24」の報告はこれで終わります。
長文をお読みくださって、ありがとうございました。
避難の恊同センターでは、賛助会員を募集しています。

個人・非営利団体:一口1,000円(2口以上)/生協・企業:一口10,000円(1口以上)

振込先①ゆうちょ銀行 記号10180 番号89294741 名義:ヒナンノキョウドウセンター
*他銀行より 店名:〇一八(ゼロイチハチ) 店番:(018) 種目:普通預金
振込先② 振込口座:00150−2−634892
  *他銀行より 019支店 当座:0634892 名義:ヒナンノキョウドウセンター

避難当事者とともに支え合う活動をご一緒にしませんか?        

いちえ


2017年8月17日号「8月5日トークの会①」

8月5日(土)14:00〜16:00、セッションハウス・ギャラリーで「トークの会 福島の声を聞こう!vol.24」を催しました。
ゲストスピーカーは、松本徳子さんでした。
長文になりますので、報告を2回に分けてお送りします。

●松本徳子さんプロフィール
2011年3月11日の東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所事故後、当時12歳の次女を連れて、郡山市(福一から60キロ)から神奈川県に母子避難。
現在「避難の協同センター共同代表世話人」をしている。

◎松本徳子さんの話(「です。ます」調で話されましたが、「だ。である」調で記します。
また今回は私から質問をしてそれに応えていただくという形で進めましたが、「一枝通信」の報告ではごく一部を除いて質問を省き、順も入れ替えて松本さんのお話としてまとめました。
●2011年3月11日、被災時のこと
原発から60キロ離れた郡山市で、夫と次女(当時12歳)と私の3人で暮らしていた。
当時私は福島市の百貨店に勤め、アパレルの仕事をしていた。
7階の休憩室で休んでいた14:46、突然の大きな揺れで、これまでに体験したことのない地震が起きた。
お客さんも従業員も一旦みな外に出たが店内にいた時のままの服装だったので、シャッターが閉まる前に再度店内に入ってコートと私物を持ち出した。
電車も止まっていて郡山に帰れず、市内の小学校体育館に避難した。
余震が酷く、その避難所も危険だとされて、高校の体育館に移動した。
 移動先の高校体育館は300人ほどの避難者でいっぱいで、私は家族の安否を確認しようとしたのだが携帯も通じず、公衆電話もなく、携帯の充電もできずに不安な時を過ごしていた。
その日の夜中に次女からのメールが入り、「友達のところにいる。とても怖くて不安だ」とあった。
また結婚して所帯を別に持っている長女からも夜中に、「郡山の自宅に戻っていて父親も妹も一緒にいる」とメールが入り、ようやく家族の安否が確認できた。
次女からのメールは、もっと前に送信したのだろうが遅れて届いたのだろう。
携帯を持っていたから安否確認できたが、携帯があるからといっても、すぐに連絡が取れなかったり充電できなかったりすることもある。
 なんとかして家に戻らねばと思い、翌日やっと帰宅できた。
家に戻ってみると建物の被害はなかったようだが室内は大変だったようで、でもそれも娘たちが片付けてくれてあり、大事なものは壊れてしまったが家族が無事なのでそれが何よりだった。

●原発事故後〜4月
小学6年生だった次女は卒業式を控えていたが、あの年の卒業式は3月31日となった。
当時は原発から2km、3km、5km、10km、20kmという具合に少しずつ警戒区域指示が広がっていったが、郡山は60kmなので避難指示は出ていなかった。
電気は通じていたが水が出なかったので、夫と私が交代で給水に並んだり食料を買いに出たりした。
娘はできるだけ家の中に置きたかったが、余震がひどい状況だったので家の中に一人で留守をさせるのも心配で、時々は私と一緒に外に出たこともある。
12日に1号機が爆発、14日に3号機が爆発した後でも行政は郡山に避難指示を出していなかったが、東京にいる私の妹が、「郡山は60km離れてはいるが下の娘だけでも避難させて方が良い」と連絡をよこした。
私自身当初は、水や食べ物を得ることなど日々をどう過ごすかに頭がいっぱいで、被曝のことに思いが回らずにいたが、妹からの連絡を受けて、“放射線初期被曝”に思いが至った。
私は、当時はアパレル関係の仕事で百貨店に勤務だったが、それ以前は看護師だったので、初期被曝を恐れたが、だが、避難させたくても新幹線は動いていずガソリンもないし高速道路も通れない状況だった。
ようやく3月23日に那須塩原と東京間を高速バスが通じるようになり、娘とそれに乗って大田区に住む妹に娘を託し、私は郡山へ戻った。
私の職場は震災直後は営業を閉じていて、従業員は業務再開するまで自宅待機だったが、24日から営業再開の連絡があって、24日から私はまた職場に通った。
その頃は一ヶ月以上東北本線は運休していたため、高速バスでの通勤だった。
3月31日は娘の卒業式だったが本人は東京にいて出られず、私が代わりに卒業証書を預かり受けた。
卒業式に出られなかった生徒は娘の他にも何人もいて、当時の子どもには“小学校卒業式“に対しての思い入れは大きいだろうと思う。
今考えても、当時妹から連絡が来なければ60キロ圏内は避難指示出さずの行政の言葉を信じて、危険性には思い至らなかっただろう。
電気は通じていても水は手に入らず、食料を得るにも大変だった時期だが、メディアも3月中の報道ではメルトダウンを起こしたら大変だがそれには至っていないと報道していた。
だから妹よりも私の方が危機感は薄かったかもしれない。
夫は私よりもチェルノブイリ事故の頃のことをよく覚えていて、当時は雨に濡れないようにとか、色々と注意が出されていたことを思い出して、なるべく遠くに避難させた方が良いという意見だったことも背中を押した。

●2011年4月〜8月
4月になって、郡山の中学校から11日に入学式を行うと連絡が入った。
行政の避難指示は結局出なかったし、中学校の制服は被災前にすでに注文してできていたし、入学式の連絡を受け取って、娘を東京から呼び戻した。
それは私の一番の判断ミスだったと、悔やんでいる。
娘は戻って11日の入学式に出たが、その日も余震が大きくて、入学式も途中で取りやめになった。
だから娘は小学校の卒業式も、中学入学式もちゃんと受けることができないままだ。
4月はそのまま中学校へ通っていたが、5月頃から周囲の状況が変わってきた。
郡山からも避難している人がたくさんいることが、ネットの情報でわかってきたし、自宅近くの娘が通っていた小学校とは別の小学校では120人の生徒が避難したことも知った。
そうした情報を知って、おかしいな?と思っているうちに職場のスタッフから子どもが鼻血を出すということを聞くようになり、ネットで調べているうちに今度は、娘が鼻血を出すようになった。
忘れもしない6月23日のことだ。
娘はそれまで健康優良児で病院にかかったこともなかったのだが、その日の朝登校しようとした時に大量の鼻血を出した。
それを見て「もしかしたら初期被曝か?」と思った。
ネットで情報を色々調べているうちに、災害救助法によって福島の被災者は罹災証明書を持っていれば民間賃貸借り上げ住宅を、神奈川県では貸し出すという情報を得た。
8月に申し込んで借りることができて、今に至っている。

●2011年夏に母子避難するも、娘とは離れての日々
娘の健康が心配で川崎の住宅に申し込んだが、借りられるようになるまでに3ヶ月かかってしまった。
娘の学校は入る先が決まっていないと転校手続きできないということだったので、妹の家の近くの中学校に転校させることにした。
私はアパレル会社の上司に避難することを告げて退職届を出そうとしたら、上司は辞める必要はない渋谷の支店への転勤の形をとってあげようと言ってくれた。
8月に川崎の借り上げ住宅に入居でき、私はそこから渋谷の店へ通うようになった。
娘は学校があるので、妹の家にそのまま世話になっていた。
アパレルの仕事は終業が遅いし、土日は休めないので娘と過ごす時間がなかなか取れなかった。
避難はしたがそんな生活になったので、これは正しい判断だったのかと、とても悩んだ。
行政は避難指示を出していないのに、こうして避難したことで家族がバラバラになっている、思春期の娘のそばにいられないということで、本当に悩んだ。

●娘と2人で暮らすようになって
娘と共に過ごせるためにと転職先を探していたが、ようやく2年目に、常勤で夜勤のない医療機関に就職先が見つかって転職した。
大田区の中学校に学区域外の川崎からの通学を認めてもらい、やっと娘と一緒に暮らせるようになったのは娘が中学3年生の夏休みからだった。
ちょうどもうその頃は、妹も娘も互いに世話をし、されることに気持ちはいっぱい、いっぱいになっていた頃で、娘は妹には話せないこともあっただろうし、妹もそんな娘を少し持て余して疲れてもいただろう。
娘は学校でいじめには合っていなかっただろうが、親しい友達もできず郡山の学校とは教育内容も違ったりしていたので成績も落ちたし、娘は娘で悩んでいたと思う。
だがそんな悩みを、妹にも打ち明けることもできずにいたのだろう。
私にもあまり話さない。
話すと私が悩むと思うからだろう。
娘も私も悩んだが、ただ私の場合は、夫も同じ考えで娘の健康を守ろうと母子避難を後押しくれたことことが幸いだった。
*イチエから質問
 避難したことについて娘さんと、お互いに気持ちを話し合うことは?
*徳子さん答えて
 話すことはある。
娘は自分が鼻血を出したので、避難は自分を守るためだったと判っている。
彼女は自分を守るために避難したことがよくわかっているので、友達とのトラブルや勉強のことなど悩んでいても、それを言うと私がなお苦しむだろうと思って一切言わない。
私も彼女のそんな気持ちが解るので、成績が酷く落ちた時に「慣れない生活で勉強にも苦労しているようだから、体のことは心配だけど郡山に戻ろうか?」と、一度聞いたことがある。
すると彼女は「そうじゃないんだ(戻ったほうが良いんじゃない。避難していたほうが良い)」と答えた時に、理解してくれているのがわかった。

●鼻血は風評ではない、事実だ
娘が鼻血を出さなければ避難していなかったかもしれない。
娘の学校の母親達との間では、鼻血の話題はなかった。
あの頃は余震も続いていたし、原発事故よりも日々の生活をどうしていくかに追われていた。
娘と小学校から一緒だった友達の親も中学校にはあまりいなかったし、原発は話題にはならなかった。
また、行政が言っていないことは、話題にしにくいのが現実だった。
鼻血問題も風評被害にされ、自分の子供が鼻血を出していないと信じられない人も多いようだった。
娘に聞くと、当時娘のクラスでも6、7人は鼻血を出したと言っていた。
だから子どもたち全員が鼻血を出さなくても、パーセンテージにしたら相当数が出していた。
*イチエから質問
湿疹はどうでした?
私が通っている南相馬の仮設住宅の高齢者は湿疹に悩まされていたし、また伊達市の大波地区の子どもさんは鼻血と湿疹で親御さんがとても心配をしていた。
皮膚科を受診したら、いずれも「アレルギーだろう」と診断されたが、80歳過ぎたお年寄りがアレルギーと言うのも頷けないが。
*徳子さん答えて
 湿疹もあった。
成長期だからニキビも考えられるが、背中に湿疹が出た李、下痢もした。
中学が始まって精神的なことも影響したかもしれないが、原発事故の影響も考えた。
放射能は目に見えないが、ガイガーカウンターで測ったら自宅の玄関先で2,7マイクロシーベルト、1階は0,4、寝室にしている2階では1,2マイクロシーベルトあった。
外の地表面は、高いところは20あった。
年間被曝量の上限は1ミリシーベルトだ。
測ってみて、ここはホットスポットで汚染地帯だと判った。
だから、これは被曝だと思う。
今も鼻血を出している子どもはいるし、漫画が話題になった時に風評と言われてが、決して風評ではなく実際に起きたことだ。
*イチエから質問
 徳子さんはアパレルの仕事に就く以前は看護師さんだったが、看護師としての経験や知識から、鼻血も湿疹も原発事故と関連して考えたのではないか?
*徳子さん答えて
 それはあるだろう。
被曝はよくないことは、看護師として十分知っていた。
たとえばレントゲン撮影が必要な被験者が子どもの場合など、看護師が助手としてレントゲン室に入ることがあるが、その場合には被曝を避けるためにプロテクターをつけて入る。
妊娠の可能性がある人は、レントゲンやCTは撮らないし、子どもの場合もレントゲンを撮ってそれを見て判断、処置しなければ命の危険性があるような場合でなければ、子どももレントゲンは撮らない。
みんなが鼻血を出しているのは被曝と関係があるのでは?と思うのも、医療に従事していたからだと思う。
湿疹はアレルギー体質の人は、空気の汚染などに敏感だから湿疹が出るだろう。
放射能は見えず臭わず、計測して数値が出て判るが、敏感な場合は体がキャッチして反応するのだろう。

●膠原病を発病
私は、夫からは精神的にもサポートを受け、また避難しても仕事を失わずに続けることができたのも、非常にラッキーだった。
ただ今よりもあの当時は、地に足が着いていない状態だった。
住む場所も仕事もあったのに、なんだかふわふわした感じだった。
そんなことも影響したのか、避難して2年目に膠原病を発症してしまった。
膠原病は自己免疫疾患の一種だが、原因も判らず病状もいろいろある。
2011年3月24日から福島市の百貨店の仕事が再開して通っていたが、中通りの郡山、福島市とも放射線量が低くなかったから、私も被曝はしているだろう。
発症は医療機関に転職してからのことだったが、自分の体調から膠原病ではないかと思って勤務先の医師に話し受診すると、やはり膠原病と診断された。
その時は、精神的にかなり落ち込んだ。
だがその先生から専門医を紹介してもらえたのはラッキーなことで、そこで薬の処方を受けたが、薬は一生飲み続けなければならないだろう。


2017年8月16日号「私の8月15日」

8月15日朝、いつものように朝食の支度を済ませ、購読紙の東京新聞を開きました。
一面の「平和の俳句」が目に入った途端、涙が溢れました。
“満州”が胸に満ち、溢れ出たように思いました。
「八月は母國という語を抱きしめる」
その句は、英文学者の小田島雄志さんが投稿された句でした。
小田島さんは敗戦の1年後、15歳の時に満州から引き揚げて来た方です。
私は小田島さんより15歳年下で、母の背に負われて引き揚げてきたのは1歳半の時でした。
ですから小田島さんが体験した“満州”も引き揚げ時の光景も、私の記憶には全くありません。
それなのになぜでしょう。
「母國という語を抱きしめる」と読んだ時に、“私の中の満州”が一気に胸にせりあげてきたのでした。

子供の時から私は、自分のことで泣いたことがありません。
4つの時に、倒れた墓石の上に転んで大腿骨を骨折したその時も、骨折院に入院して痛い治療をされた時も、「先生のバカァ!」と喚いても泣かなかったそうです。
引揚者で母子家庭は、差別か同情の対象でした。
差別的な言動に遇えば、言い返すか手足で相手を攻撃しました。
同情に遇えば、ふくれっ面をしてそっぽを向きました。
差別や同情に晒されるのは我慢ができないことでした。
涙は差別する相手や憐れむ相手の思い通りの私になってしまうということは、幼い私が直感的に感じていたことでした。
だからそんな時には、怒りを相手にぶつけたのでした。
母や叔母達には「強情っぱりな子だ」と言われていました。

母が死んだ後で幾度となく訪ねたハルピン、そこから通った旧満州各地で会った残留邦人の方たち。
母國を恋ながら、かの地で亡くなった方たち。
「落葉帰根」の思いを抱き続け、戦後数十年経ってようやく帰国したものの十分な生活保障もないまま、母國に抱きしめられぬまま故人となった方たち。
お一人お一人の顔が浮かんできたのでした。
哈尓濱外僑養老院で亡くなった亀井さん、林さん、玉田さん、鳥越さん、上田さん。
朝鮮人の伊さん、白さん、安さん、アメリカ人のマグリー・フラー、ロシア人のコーリャン、ポポフ、マリナ…
黒河や斉斉哈尓、牡丹江、長春、海拉尓で会った残留孤児の劉さん、王さん、李さん、丹さん、楊さん、張さん…
哈尓濱や孫呉で幾度となく会い、帰国されてからも埼玉の帰国者定着促進センターで、また故郷の山梨に帰郷されてからも会い、そこで亡くなった岩間典夫さん。
方正で会った松田ちゑさん、大友愛子さん篠田君子さん、方正は何度か訪ねたのに皆さんが帰国されてからは、とうとう会えずじまいのまま鬼籍に入られた。
そして方正に稲作指導に通っていらした藤原長作さん。
長春で、そして哈尓濱でも会った松永緑さんは故郷の佐賀県に帰国されてから、何度も遊びにいらっしゃいと誘ってくれましたが、とうとう再会できぬまま旅立たれました。

「八月は母國という語を抱きしめる」小田島さんの句に“満州”で会った人たちのお顔が走馬灯のように思い浮かび、だのに、そこには父の顔はありませんでした。
2017年8月15日、私が自分に涙を流した朝でした。          

いちえ


2017年8月2日号「お知らせ」

◎お知らせ①
早いものでもう8月。
今日はしのぎやすい一日で、ホッと一息つけました。
さて、明日は3日。
「アベ政治を許さない!」一斉行動日です。
明日の国会前は、澤地さんはご都合があっておいでになれませんが、「アベ政治を許さない!」声を緩めず上げていきましょう。
アベ政権支持率ガタ落ちで、「あ」の人も態度だけは下手に出ているように見せていますが、本質は全く変わらず下手に出た態度で、市民を欺こうとしていると思えます。
どうぞ、ご自分の場所で、メッセージを掲げましょう。

◎お知らせ②
トークの会「福島の声を聞こう!vol.24」は、今週末の5日です。
郡山から川崎へ母子避難の、松本徳子さんのお話をぜひお聞きください。
皆様のご参加をお待ちしています。                    

いちえ

vol24-2


2017年7月29日号「追記」

●衆議院第2議員会館前での真逆の主張
 7月20日は、東京地裁で「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」があり、閉廷後に、参議院議員会館で報告集会がありました。
そして、24日には同じく東京地裁で「安保法制違憲、差止請求訴訟」があり、そしてまた同じく参議院議員会館で報告集会がありました。
私はそのどちらにも参加したのですが、20日と24日、報告集会があった参議院議員会の隣、衆議院第2議員会館前で真逆の声に出会ったのです。
 20日、報告集会を終えて会場を出ると、衆議院第2議員会館前には日の丸の旗が林立していました。
「日本、負けるな!」「あべちゃん、まけるな!」「安倍首相、頑張れ」のプラカードを掲げた老若男女100名ほどいたでしょうか。
出会った光景とスピーカーを通した声と主張に、一瞬おぞましさを感じたのですが、ふと、その自分の感情は、もしかすると私がいつも参加する抗議集会やデモなどに遭遇した時のこの人たちが感じる感情なのかしら?と思ったのです。
 彼らと、まともに対話することは無理だろうし無駄かもしれないと思いながら、でも「なぜ彼らはそんな主張をするのだろう」と、彼らの考えを知りたいと思いました。
私が思い描く「彼らはこう考えているのだろう」ということで判断するのでなく、彼らの主張の基になっている考えを彼ら自身の口から聞きたいと思いました。
 24日は、12:00〜、衆議院第二議員会館前を中心に、「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動」がありました。
顔見知りの人が、そこにも、ここにもあっちにもいて、プラカードの文言もスピーカーの声も言葉も「そうだ、そうだ」と頷くばかりでした。
「アベは、止めろ!」「Abe is over!!」69の会の先導で、ビートの効いたコールが繰り返されていました。
20日に同じ場所で目にし、耳にしたとは真逆の声と言葉です。
報告集会が始まるので、仲間たちとともに私がそこで声をあげたのは束の間のことでしたが、その間にも数日前の同じ場所での集会を思っていました。
 「対話」は、不可能なのだろうか?
対話は、主張をすり合わせるためにだけあるものだろうか?
互いの主張をただ聞く、なぜそう考えるのかに耳を傾ける、そのためにだけでも対話することに意味はないのだろうか?
答えの見つからない問いを自身に問い掛けています。

トークの会「福島の声を聞こう!vol.24」は、来週に迫りました。
皆様のご参加をお待ちしています。                  

いちえ

vol24-2


2017年7月28日号「7月24日報告②」

◎第4回口頭弁論 報告集会@参議院議員会館
●あいさつ:寺井一弘弁護士
 東京は昨年の4月26日の提訴以来、国賠訴訟が4回、差止訴訟が今日で4回が終わり、8回の裁判が終わりました。
当初は簡単に棄却されるのではないかと噂されていましたが、みなさまとともに頑張ってまいり、なんとか大きな峠を越えて来年からは立証の段階に入っていける、つまり原告本人尋問とともに証人の方々、例えば国会議員、元最高裁の裁判官、内閣法制局長官の経験者の方々に、我々の側の証人として出ていただこうと交渉を続けています。
新しい段階に入っていきますので、今後ともよろしくお願い致します。
 閉会中の国会の予算委員会が今始まった頃だと思いますが、昨日の仙台の選挙で野党共闘の候補が当選しました。
先日の都知事選では自民党惨敗です。
安倍内閣の屋台骨もガタガタとしてきています。
しかし私が申し上げたいのは、この状況に決して安心してはならないということです。
都民ファーストの会は維新の会と同様で、憲法改悪反対の隊列に一緒に加わる勢力ではなく、小池さんが代表を譲った新しい代表の野田数さんは、第日本帝国憲法の復活論者です。
都民ファーストは護憲勢力に加わってこない、公明党は自民党と都民ファーストと二刀流を使っていますが、改憲勢力は混沌とする中で油断ができないことを認識しなければならないと思っています。
 8月3日の内閣改造が、改憲へのシフトだろうと言われています。
改憲を本気でやるなら、ここをスタートとして年内の早期に自民党内で草案をまとめて臨時国会で発議するだろう、それしか安倍さんの延命を図る道はないからです。
私どもは、もうアベ政治はいやだと都民ファーストに投票したような良心的な方々にも呼びかけながら、運動を強めていかなければいけないと思っています。
今年のこれから、夏場からと来年の春までが勝負です。
 私たちの裁判は当初の予想よりもはるかに皆様方のご支援ご協力を得て有利に展開していますが、力を緩めず心を一つにして頑張っていかなければならない。
歴史的な節目の段階に入っています。
みなさまと共に、これからも頑張ることを誓いまして、これからの闘いに備えたいと思います。

●伊藤 真弁護士
 今日も地下鉄で来ましたが、車内でも子どもたちの声がしていました。
夏休みに入り子どもたちが、おとうさんやおかあさんに連れられて、おじいちゃん、おばあちゃんたちと楽しい時を過ごす時期です。
その子どもたちを見ていて、この子どもたちに自由で平和な日本を残さないといけない、それが大人たちの大きな責務だと改めて感じました。
 私たちのこの裁判も全国20ヶ所の裁判所に広がっています。
6月23日、沖縄慰霊の日に、沖縄でもこの裁判が提訴されました。
全国で6,296人の原告の方、そして1,600人を超える原告代理人の弁護士が加わっています。
 この訴訟裁判の意義は、大きく3つあります。
一つは、安保法制ができたことで具体的に被害を受けた原告のみなさん方の救済。
こんなに辛い、酷い思いをしたと、人格権・平穏生存権、憲法改正・決定権の侵害ということから声をあげた原告の方たち、それを救済する。
 そうした司法の役割をしっかりと確立させていくことが、二つ目の意義です。
立憲主義の維持が司法の役割なのだということを、この裁判を通じて全国で訴えていきたい。
 3つ目の意義は運動をする人たちとの協力、共闘ということです。
今日の私の弁論は極めて法律的な中身ですから、国が違憲な法律を作った、その違憲の法律を作った国会議員のあの行為が違法だということを言っていますが、その違法行為によって法制度は変わってくるのだという理屈の話をしました。
市民の皆さんたちの運動との連携を、しっかりと取っていかないといけないと思っています。
まさに、今こうした時代だからこそ、私たち“こんな人たち”が、頑張るしかないと思うのです。
みなさまと一緒に闘っていけることを誇りに思っています。
 この裁判、一審が終わっても控訴審、最高裁とまだまだ続きますから、みなさまと一緒に頑張っていきたいと思います。

●角田由紀子弁護士
日本文学を専攻していた学生時代には、法律は面白くなさそうだと思っていましたが、いろいろなことがあって弁護士になり、仕事を始めてみると、クリエイティブな面のある面白い仕事であることを発見しました。
法律も、新しいことを切り開いていく上で役に立つと思うようになりました。
特に女性の権利分野で仕事をすることが多くなっていましたが、その分野は日本の司法の中では未開拓でした。
その理由は、法律家はほとんど男性ばかりで、女性の問題がテーマになりようがなかったからです。
70年代になって女性の法律家も増えてきて、それまで無視されてきた分野に女性弁護士を中心に目が向いてきました。
すると法律も、使いようによってはクリエイティブな仕事もできると思うようになりました。
 伊藤弁護士も言っていましたが、社会の市民の考え方の変化を裁判所も受け入れざるを得ないことから起きる変化によって、裁判所の判断も少しずつ変わってきています。
国賠訴訟でもこの差止訴訟でも人格権の問題を勉強すると、面白いテーマだと思います。
 普通の生活では、人格権という言葉が出ることはなく、新聞などを見ていても、人格権という言葉は出てこないです。
人格権は言葉を聞くだけでは難しくないようですが、では人格権って何?というと、ややこしくて判りにくいです。
 権利は、社会の進展の変化に合わせて進んできます。
人格権も、そこに含まれる権利はどんなものかなども、少しずつ広がってきています。
私たちの生活をよくする方法で広がってきていると思います。
 この裁判では、ここで起きている人格権侵害状況も、今までどこかで同じようなことがあったものではなく、この安保法制によって起きていることです。
その意味でも裁判所にとっても、新しい場面について考えろということになっていますが、ここにくるまでも、日本の法律家の草の根の理論、それと関連して裁判所でもいろいろ判決が出ていますが、そういうものを積み上げた延長線上に、いま私たちが問題にしている人格権侵害の問題があります。
この問題を、司法はきちんと肯定的にとらえて欲しいと考えています。

●古川健三弁護士
 差止は、裁判所では人格権に基づく差止として結構使われています。
暴力団の組事務所が近くにできたことに対して、使用差止請求とか、あるいは組長の内縁の妻の使用差止請求とかも、裁判所は認めています。
それになぞらえれば今回の訴訟は、ある意味では国ごと暴力団になってしまったような話で(会場から爆笑)、隣のトランプ親分がああ言えば、それならうちも船を出しましょうというような話になってしまって、「それはいかんよね、止めてください」ということは言えるのです。
ところが裁判所は杓子定規なところがあって、なかなかそうは行かずに苦労するところもあります。
 平穏生活権などでは、ごみ処理施設ができるのを反対する時、施設ができたら生活がどう変わるかは事前にははっきりわからないのですが、それでも差止を認めている例はあります。
安全な水が供給されない恐れがあるから人格権の侵害だとした判決例も出ています。
 自己決定権は、自分のことは自分で決めるということですから、この国をどうするかは国民が決めることだ、アベさんの勝手にしては困る、というのが自己決定権です。
これも判例では、輸血してはいけない宗教もあり、裁判所はそれを認めています。
憲法を変えるかどうかは、国民にとっては非常に重要なことですから、自己決定権にとって、最も大切なことです。
情報コントロール権を認めた判例があり、住基ネット差止判決などいくつかあります。
この件で最初に差し止めた判決は金沢地裁で、自己情報コントロール権を認めて住基ネットから削除とした井戸謙一判事です。
この判決は最高裁でひっくり返りましたが、大阪高裁も差止請求権があることを否定しませんでした。
 ある人は南スーダンに自衛隊が行くのを見ると、戦争中のことを思い出されます。
あるいは今日の原告の船員の方は、今までは9条があるから湾岸戦争時も、日の丸を描いた船は攻撃対象にならなかったけれど、日本はアメリカの一味になることになってしまった中で、原告が受けている苦痛は法的に救済すべきだということを述べました。
 我々弁護士も、先日は立命館大学の民法の先生を呼んで人格権の勉強会をしました。
民法学者の間でも人格権の議論は深まっています。
裁判所は、主観的な不安感に過ぎず法的保護に値しないと言いますが、たとえ主観的なものであっても法的保護はあるべきだろう、その上で違法かどうか踏み込んで判断すべきだと、立命館の若い先生は言っていました。
 民法学者が、そのように深いところを議論しているのは新鮮でした。
憲法がある意味で役に立たなくなってしまったことに、民法学者の危機感もあるのだろうと思います。
憲法を回復するということが、非常に大事だろうと思います。
「こんな人たち」と言われるのはありがたいことで、「お友達」と言われたら大変です。「こんな人たち」ということで頑張っていきたいと思います。

●原告本人:M・Yさん(女性)
 孫たちを守らなければならない
 1960年に埼玉県で生まれ、中学2年の時に練馬区に越し、22歳で結婚して以来中野区に住んでいます。
両親は2人とも大正生まれで、父は海軍出身ですが階級が低く辛い経験もあったようですが具体的なことは聞いていません。
母からは戦時中の食べ物がなく辛かった話を、母方の祖父からは関東大震災の時に朝鮮人と間違われて襲われそうになったことを聞いていました。
家族から戦争の話として聞いたのは、この程度のことでした。
 私が育った時代は、社会は高度経済成長に向けてひた走っていた時代で、憲法も既存のもので、小学校の頃から戦争放棄の9条は習っても、その意味を実感することもなく、戦争は遠い昔の話でした。
 現在私は介護ヘルパーの仕事をしているので、支援する高齢者の中には足を焼夷弾でやられた人もいますが、父や祖父の戦争中の話を聞いた時と同じに特に戦争について考えたことはなく、戦争を想像することもない、ごくごく普通の主婦でした。

 私たち夫婦には子供が2人おり、長男も長女も既に30歳過ぎて独立していますが、長男夫婦は自転車で数分の所に住み、現在、中2、小6、小3の3人の男の孫がいます。
長男の妻が病弱で出産後、床についていることが多かったので、私は長男宅に通ったり自宅に連れてきたりして、3人の孫たちを母親代わりのように育ててきました。
3人とも性格の良い、仲良しで病弱の母親思いの可愛い孫たちでした。
 私が初めて政治に関心を持つようになったのは3.11の東京電力の福島原発事故の時からです。
テレビに映し出される津波の情景や、原発の建屋からモクモク煙が出て、さらに爆発して建屋が破壊される様子を、毎日釘付けになって見ました。
放射能で、将来に関わるような健康被害が出ることを知りました。
私が生まれる前の戦争の被害は抽象的にしか想像できませんでしたが、同じ国に住む同時代の人が現実に、こんな悲惨な被害を受けることにショックを受けました。
 私は孫たちを守らなければいけないと思いました。
ネットで情報を見るようになり、原発の被害が、政府がテレビで繰り返す「直ちに健康に被害はない」は、全く違うことを知りました。
東電の幹部が会見で責任を回避するような回答をするのを見て、腹が立ちました。
 それまでの私は、原子力は安全であること、お上は決して国民を裏切らないと、政府や電力会社を心から信じていました。
しかし事故は起き、お上は国民を守らないことがわかりました。
 ネットを検索して原発批判を読み、多くの食品が汚染されていることを知り、また新聞をよく読みました。
そうして知識を身につけた私は、孫たちを守るために自分にできることはなんでもやろうと決意しました。
 孫たちに安全な食材を与えようと必死になり、私には初めてのデモでしたが、金曜日の国会前行動に参加しました。
初めてデモに参加するのは不安でしたが、行ってみると皆さんが熱心に声をあげ、新顔の私に打ち解けて対応してくれました。
私一人の力は弱くても、皆で力を合わせれば世論を動かせるのではないかと思いました。
 けれども原発は再稼動され。原発を海外に売りつけ、復興のための費用と労力をオリンピックに向けてしまう政府に、やはり政府は国民の命も生活も守らないことを繰り返し痛感しました。
 国会で、安全保障関連法案の審議が行われました。
戦争をする国になり、アメリカに追随して若者が海外に銃を持って出かけなければならなくなることがわかり、殺し殺される場に出されることになる恐怖が間近に迫っていることを感じました。
国は、国民を守らないことを身をもって体験していますから、孫たちは私が守らなければいけないと緊張感と焦燥感でいっぱいになりました。
 そんなある日、孫の家に食事作りに行った時、当時小6の孫が「安倍さんは何をしているのだろう。戦争はしたくないよ。戦争はしたくないから、そうなったらデモとかで反対する!」と言ったのです。
それを聞いて胸が痛むと同時に、大人としての責任を感じました。
私たちが安保法を止められなかった故に、孫たちにそんな思いを絶対にさせたくありません。
これから日本が戦争に巻き込まれた時に、戦場に送られるのは孫たちの世代なのです。若者たちが、戦争を知らない政治家たちによって戦いの場に連れ出されるのかと思うと、たまりません。
 私は、自分がこの手で育てた孫たちを殺し殺される場所に、行かせたくありません。
引き金が引かれたこの安保法制法をなんとか止めてください。

●原告本人:T・Mさん(男性、船員)
 「平和愛好国」日本のブランド
 私は外国航路や日本海沿岸航路に就航する船の船員です。
30年以上、世界20数カ国を回り、原油や鉄鉱石などを日本に運んできました。
その間に戦争に遭遇したことはありませんが、海賊には2度襲われました。
日本の船でも、船長と機関長の2人だけが日本人で、他の乗組員はフィリピンなど外国人です。
海賊に限らず、東南アジアやアフリカの港では、言語や宗教、国民感情の違いなどから、予期せぬトラブルが絶えず発生します。
積荷の量や質のクレーム、荷役の遅延、税関や検閲官の差し止め、窃盗の侵入や上陸した乗組員による官憲との諍い等々です。
 そうした時に大きな問題とならないよう、現地赴任の商社マンや代理人の人が駆けずり回って解決してくれますが、その時に役に立つのが「平和愛好国」という日本のブランドです。
日本は中立国でどの国とも戦争をしない国として知られ、とりわけイスラム地域において効力を発揮してきました。
 イランイラク戦争の真っ只中においても日本のタンカーや貨物船はペルシャ湾の奥深くまで入って、当事国から原油や貨物を積み出しました。
上空をミサイルが飛び交い、両国の軍隊から臨検を受ける中で、日本のブランドと政府の外交力を信じて甲板上と船腹に大きく日の丸を描いて進みました。
 世界各国で407隻が被弾し、333名の乗組員が死亡しましたが、日本船の被弾は12隻、死亡者2名と配船数の割に極端に少なくて済みました。
これは日本が両当事国ともに友好国であったことによります。
中立国・平和愛好国という日本のブランドは、長年にわたる政府の外交姿勢の賜物です。
敗戦後の再建・復興のため数十年かけて世界各国との友好・貿易促進を求めて配慮されてきた日本の外交姿勢、それを先端で担ったのが現地に赴任した大使館員や商社マン、企業の技術者・営業マンたちです。
私たち船員も僅かながらそれに寄与したと思っています。
 現在日本の海運会社が支配・運航する外航船舶は約2700隻、2000人に満たない日本人船員と6万人の外国人船員の手で運航されています。
日本は原油・石炭・鉄鉱石・ゴム・綿花・羊毛の100%、天然ガス98%、大豆93%、小麦88%、砂糖72%、木材70%を輸入に頼り、その運航のほとんどを外国人船員に委ねていますが、いざ日本が参戦すれば外国人船員はどうなるでしょうか。
船舶は真っ先に攻撃されるので、外国人船員の大量下船が始まることは目に見ています。
一家の大黒柱として日本に出稼ぎに来ている彼らは、笑顔で健康な体で故郷に帰ることが悲願です。
洋上で彼らと苦楽を共にしてきた私は、家族思いであると共に平和希求の強い彼らが、日本の戦争のために命を投げ出すことは考えられません。
 そうしたことから、外国人船員のほとんどが加入するITF(国際運輸労連)の労働協約書及び彼らの雇用契約書には、危険海域への就労拒否権(下船の自由。不利益扱いされない)が明記されています。
私たち海運産業で働く者の目から見れば、日本は戦争ができる国では決してないのです。
 昨年安保法制が施行されるに伴い、海上予備自衛官制度が発足しました。
2隻の民間大型フェリーが、防衛省が関与して新たに作られた特別目的会社に売却され、平時は通常の商業輸送を、訓練や有事の際には自衛隊の指揮命令下に入り、自衛隊や米軍の物資を運ぶことになりました。
新会社に移籍もしくは新採用される船員は、予備自衛官になることが前提とされています。
有事の際に就労を拒否すれば罰則が待っており、これは徴用以外の何ものでもありません。
 先の大戦では、船舶と船員に徴用令が発せられ、15,000隻(88%)の船と60,000人の船員が海の藻屑と消えました。
陸軍(20%)、海軍(16%)の死亡率に対して、船員の死亡率は43%に上りました。
 現在私は、フェリーや大型外航船に燃料を補給する重油タンカーに乗船しています。
毎年秋に行われる自衛隊の南西諸島奪還訓練の際にも、自衛隊を運ぶフェリーに燃料を補給しました。
日本が戦争当事国になれば、燃料補給は格好の餌食になることは疑いがありません。
 私は国民の豊かな生活を守るためにも、私自身の生命と職業を守るためにも、安保法制・集団的自衛権の発動に真っ向から反対します。
そのため、裁判所に具体的な差止措置を講じるよう求めるものです。
それこそが、真の国益であると信じます。

●O・Yさん(C学院大学法学部長・教授)
 国際法研究者、教育者、学部長として
 まず研究者の立場から申し上げます。
私は1987年に大学院に進学して以来、一貫して国際家族法の研究に携わってきました。
国際家族法とは、国際結婚など複数の国にまたがる家族の関係を扱う法律の分野です。
日本の国際家族法では、特別な事情がない限り、日本の法律に反するような外国の法律でも、日本の法律と同様に適用するという考え方を採用しています。
あらゆる国の社会や文化に対する尊重と、自国の価値観に必ずしも拘泥しない寛容さが国際家族法の基礎にあるからです。
これは家族法に限らず、価値観が多様化・複雑化している国際社会ではごく標準的な考え方です。
 そのような観点からすると、安全保障関連法には重大な欠陥があります。
集団的自衛権という言い訳のもとで特定国の国家戦略に巻き込まれて後方支援や武力行使を行うことにより、徒に敵を増やし、日本をめぐる国際関係を、相互の尊重や寛容とは正反対の方向に導いてしまう点です。
それは私にとって、自分の拠って立つ理念が否定されることを意味します。

 次に、教育者の立場から申し上げます。
私は1997年から千葉県にある千葉学院大学の専任教員をしていますが、学生指導に際して私が最も重視しているのは、人の言葉に無条件に従わず自分で調べ、自分で考えて、自分なりの結論を出せる能力を養ってほしいことです。
それは、市民一人ひとりが大切であり、学生を含む市民が国のあり方を決めるのだという信念に基づきます。
 ところが現政権は「天賦人権」や「民主主義」の考え方を否定して憚らない空気に満ちており、2012年の改憲草案では国民に憲法尊重義務を課したり、本来憲法レベルで議論すべき問題を閣議決定や立法で済ませてしまうなど、憲法が定めた国民と国の関係を根底から破壊しようとしているにしか見えません。
このような環境下で個人に寄り添う教育を進めようとする多くの教員が被る精神的圧力、精神的損害は計り知れず、私もその例外ではありません。

 最後に学部長の立場から申し上げます。
本学は地方公務員の養成に力を入れており、中でも地元の千葉県警には多くの卒業生が就職しています。
千葉県警の活動方針の一つは「思いやり」ですが、入試の面接で警官志望の受験生に聞くと住民のためになりたいという素朴な気持ちが伝わってきて、微笑ましい気持ちになるとともに、とても頼もしく思えます。
 ところが近年、沖縄に県外から動員された警察官は、住民の抗議活動を、時として暴力的に抑圧する業務を担わされています。
その中には本学の卒業生もいるかもしれません。
それが果たして「思いやり」のある警察の姿と言えるでしょうか。
私はこのような状況には耐えられませんし、本学はそんなことのために警察官を養成している訳ではありません。
そのような現状を生んでいる根源こそ、今の政権の政策、その政策の重要な要である安全保障関連法です。
 私は、多くの警察官を社会に送り出している法学部の責任者として、自分の大学が4年間かけて育てた人材がそのような不当な役割を押し付けられることに大いに抵抗を覚えますし、本学で学んだ教育と現実の落差に苦悩しているに違いない教え子たちを思うと、身を引き裂かれるような思いです。
 以上の理由により、私は安全保障関連法及びその施行により重大な精神的損害を被っていることを主張します。 

●福田弁護士
差止追加提訴について
 今日が差止訴訟第4回、先月2日は国賠訴訟第4回が終わって、全部で8回の口頭弁論を重ねてきました。
我々は今まで何をしてきたのか、そしてこれから何をしていくのかについてお話しします。
第4回までの間に「憲法改正・決定権」という新しい権利を主張し、「人格権」の具体的な主張をし,「平穏生存権」の主張をしてきました。
その関係で学者の先生方の協力をいただいて名古屋学院大学の飯島先生には安保法制違憲の全体像を、武蔵野美術大学の志田先生には人格権の意見書を書いていただいています。
川上先生には憲法違反について、沖縄の小林先生には平穏生存権、青井未帆先生には憲法違反審査権について書いていただいています
飯島先生に書いていただいた意見書はすでに提出していましたが、今日は他の4人の先生のそれぞれ専門的立場で書いていただいた意見書を提出しました。
 これから私たちは、いよいよ立証活動に入り、学者の先生方にも証人として出ていただく局面を迎えます。
次回第5回に向けて、今日私は裁判所に、私たちの基本的主張は第5回で完結としますと、宣言をしました。
次回は青井先生の意見を参考にしながら、違憲審査権の問題について準備書面を書きます。
具体的に安保法制はなぜ憲法違反なのか、訴状をさらに深めた形で具体的な主張をします。
言うべきことをきちんと言おうと努力してきましたし、これからも言うべきことをきちんと言っていこうと思います。
 裁判所は、原告本人の主張はそろそろなくてもいいのではないかと言ってきましたが、裁判官の姿勢は私たちの主張を受け止める姿勢だということに、私は疑いを持っていません。
そもそも行政訴訟では原告本人の陳述はなかなか認めず、認めても第1回だけということが多いのですが、この裁判では3回まで認めました。
国賠訴訟と差止請求訴訟で、正面から向き合ってもらい、原告本人尋問にかえっていくように最大限の力を尽くすつもりです。
 今日の期日前に私はPKO法と武器等防護差止を追加請求として加えたいことを、本裁判の裁判官に話しました。
裁判官は追加請求で一緒にやるのは無理だが、別件訴訟で出してもらえたら併合して考えようという姿勢を示してくれました。
 PKO法の駆けつけ警護、安全確保活動業務について、また武器等防護について、別件訴訟で提訴しますから、本件の原告の方達には新たな委任状をお願いします。
みんな揃って提訴しないと、裁判所の心証に影響しますから、委任状を書いて提出してください。
そうやって体制を整え、次回の第5回に向かって訴訟活動を皆さまとともに進めていき、来年に入ったら証人の方々や原告の方に、今度は5分10分法廷で話していただくのではなく、1時間単位で自分の思いをお話しいただきたいと思っています。
 それから、今日は傍聴席に空席が目立ちました。
抽選をしないでみんな入れてしまう、空席が目立つということは、この裁判にとっていけないと思いますから、次回は是非傍聴席を埋め尽くして法廷を見守っていただきたいです。

*安保法制違憲、差止請求訴訟第4回口頭弁論の報告はこれで終わります。
安保法制違憲・国家賠償訴訟の次回期日は9月28日(木)15:00〜、差止請求訴訟の次回期日は10月27日(金)10:30〜、東京地裁103号法廷で開かれます。
是非傍聴に参加してください。                         

いちえ


2017年7月28日号「7月24日報告①」

◎安保法制違憲・差止請求事件 第4回口頭弁論
 件名の裁判が、24日10:30〜東京地方裁判所で開廷されました。
林裁判長から原告、被告双方に提出の準備書面など書類についての確認後、原告からの意見陳述がありました。
今回は原告代理人の3名の弁護士による意見陳述で、原告本人からの陳述はありませんでした。(注:閉廷後に参議院議員会館での報告会では、原告3人の陳述書が配布され、また本人からの発言もありました)
●原告ら訴訟代理人陳述
❶弁護士:角田由紀子さん
 人格権の被侵害利益性と具体的被害について
 原告らはすでに提出した準備書面において、原告らの主張する人格権が差止請求の根拠となるべきことを詳しく論じ、これを否定する国の主張が間違っていることを論証している。
 今日では「人格権」と呼ばれる権利が存在し、これが何らかの意味で法的に保護されることは、我が国の判例・学説で疑問の余地なく認められている。
⑴学説について
 人格権についての議論は、日本でも戦前に始まり今日まで多くの議論が積み重ねられてきている。
 人格権を専門に研究しているある学者は、近年は、環境に関する権利・利益や情報・プライバシーに関する権利・利益などに関連して人格権に含まれる権利が新たに提唱されるなど、権利内容が多様化しており、その現代社会における重要性はさらに高まりつつあると述べている。
また別の学者は、人類はこれからも人格的価値を侵害する、思わぬ事態に遭遇するだろうが、その過程で人格権の新しい側面も見出されてくるだろうと述べている。
 多くの権利がそうであるように、人格権も未だ完成されたものではなく、社会の進展・変化に対応して新しい認識を重ねて、その権利に含まれるものを広げていくものだ。
新安保法制法のもとでの新しい人権侵害状況は、今までの学説及び判例によって築き上げられてきた人格権議論の蓄積の上に立って、さらに肯定的に考えられるべきものだ。
⑵判例について
 判例も、非常に重要な権利として人格権を認めており、その一部を紹介する。
国家賠償請求を含む損害賠償請求事件あるいは差止請求事件を認める根拠として、人格権を明確にしている。
 ①最高裁第二小法廷 平成3(1991)年12月21日判決(水俣病認定業務に関する熊本県知事の不作為違法に対する損害賠償請求事件上告審判決)では、最高裁として「内心の静謐の利益」を不法行為法上の保護法益として明確に認めた最初の判決だ。
本件原告らの人格権侵害という主張の理解に大いに参考になる。
 ②大阪高裁 昭和50(1975)年11月27日、大阪国際空港の夜間飛行禁止等請求事件判決は、「個人の生命。身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体を人格権ということができる」「人格権の内容をなす利益は人間として生存する以上当然に認められるべき本質的なものであって、これを権利として構成するのに何らの妨げはなく、実定法の規定をまたなくとも当然に承認されるべき基本的権利である」と述べた。
 ③福井地裁 平成26(2014)5月21日判決は、大飯原発3、4号機の運転差止を認めたもので、判決では、人格権は憲法上(13条、25条)の権利であり、人の生命を基礎とするものなので、わが国の法制下では、これを超える価値を見出すことができないとして、その重要性が強調されている。
 ④2017年3月17日の、福島・原発被害避難者による損害賠償請求事件での前橋地裁判決は、平穏生活権が自己決定権を中核とした人格権であり、放射線被ばくへの恐怖不安にさらされない利益や内心の静謐な感情を害されない利益を包摂する権利など多くの利益を包摂するものだと述べている。

 これらの指摘は、本件原告らの多くが、憲法のもとで築いてきた今までの人生を否定されたと感じ、戦争になるのではないかとの恐怖不安にさらされるなどしていることが、
人格権の深刻な侵害であると訴えていることが認められるべき論拠となるものだ。
 今、原告たちに残された救済の手段は司法しかない。
多くの人の期待が、今ほど司法に寄せられたことはなかったのではないだろうか。
ぜひ、憲法が司法に託した責務を果たしてくださるよう、改めて裁判所にお願いをする次第だ。

❷弁護士:古川(こがわ)健三さん
 本件で原告らが主張している人格権は⑴生命権、身体権及び精神に関する利益としての人格権、⑵平穏生活権、⑶主権者としてないがしろにされない権利(参政権的自己決定権)の3つだ。
 生命権、身体及び精神に関する利益は、人格の本質であり、これを超える価値を見出すことはできない。
 また原告らは、戦後憲法により築かれてきた平和な生活が、新安保法制法により否定され、破壊されることにより平穏生活権を侵害されている。
新安保法制法により日本は、軍事的対立の当事国となり得ることとなった。
2017年5月1日、新安保法制法により新設された自衛隊法95条の2に基づく「武器等防護」として海上自衛隊の艦船が米艦「カール・ビンソン」の防護に当たった。
これは新安保法制法の制定によって自衛隊と米軍の一体化が進み、原告らの平和な生活が現実に脅かされていることを明らかにした。
また米軍基地周辺や原発周辺、海外にいる日本人などの生命・安全は脅かされ、平穏生活権は明らかに侵害されている。
 人格権の本質は、自己決定権であると言われている。
自己決定権は、医療分野を中心に多くの判例が蓄積されている。
自己決定権のうちでも、参政権的自己決定権は最も重要なものであり、中でも憲法改正手続きに参加し、意思表明する機会を与えられる権利は、国民主権原理に由来する最も重要な権利として保障されなければならない。
ところが従来の政府見解を覆して憲法改正手続きを経ずに新安保法制法を制定したことは、原告らが主権者として憲法改正手続きに参加する機会を奪った。
原告らの参政権的自己決定権としての人格権は侵害され、さらなる侵害の危険に脅かされている。
 このような人格権の侵害の危険を除去し、さらなる侵害を予防するための差止請求は当然認められねばならない。
 さらに個別の原告らが受けている人格権侵害について、一部を説明する。
 戦争体験者は、戦争により生死の境を彷徨い、肉親を失い、戦後も戦災孤児となったり、戦争のトラウマにさいなまされるなど、過酷な生活を強いられた。
憲法9条は戦争体験者の原告らにとって、肉親の命と引き換えにようやく手中にした平和であり、不戦の誓いの中に原告らは生きる希望を見出した。
しかし新安保法制法は、戦争の現実の危険をもたらし、原告らのトラウマを呼び起こし、、戦時の過去の追体験を迫っている。
 基地周辺住民の原告や原発関係者である原告の人格権侵害も深刻で厚木基地周辺の原告は既に米軍機の爆音被害を受けているが、新安保法制法のもと、軍事対立の激化により一層大きな恐怖にさらされる。
 船員、航空労働者、鉄道関係者、医療従事者などの不安も甚大だ。
戦時中、船員は兵站を担うために徴用され、多くの命が失われた。
新安保法制法成立後、防衛省が民間フェリーとチャーター契約したことは原告らに大きな危機を抱かせた。
 子を持つ母、孫を持つ祖父母たちの平穏生活権も著しく侵害され、危険にさらされている。
 このような原告らの訴えはいずれも大きく胸を打つ。
裁判所には、是非とも原告らの訴えに耳を傾けていただき、この国の未来のために裁判所の職責を果たしていただきたい。

❸弁護士:伊藤 真さん
 準備書面8(立法不法行為における職務行為基準説と相関関係論)
⑴国賠法上の違法性の判断基準について
 原告らは、立法不法行為の違法性判断では、「職務行為基準説」を採り、侵害行為の態様・程度と被侵害利益の種類・内容との相関関係において違法性が判断されるとし、「平和的生存権」「人格権」「憲法改正・決定権」の具体的権利性を否定する被告の主張が不当であると反論する。
 まず、国賠法上の違法性は、厳密な行政法規違反に限定されるものではない。
被告主張のように、侵害行為の態様や被侵害利益の内容を考慮すべきでないと言えるのは、刑事手続上の検察官や裁判官の職務行為の違法性が問題となった事案についてであり、これと一般の行政処分についての「職務行為基準説」を混同してはならない。
 立法不法行為の場合はどうであろうか。
国会議員の職務義務違反、特に憲法の基本理念に抵触したり、国民各人の権利や法的利益を侵害したりする可能性のある法律を制定する場合には、相当慎重に立法内容を検討する注意義務があると言え、さらに、有識者から違憲とされるような法律を制定する際には、当該立法が憲法違反とならないことを国民に説得的に説明する法的義務が生じている。
⑵「『平和的生存権』派、国際法上保護される具体的権利ないし法的利益とは認められない」という被告の主張は正当ではないこと
 被告の立場は「平和的生存権は抽象的かつ不明確」であり、裁判上の救済の対象となる「具体的権利ないし法的利益と認められない」という論旨で一貫している。
被告のこうした主張は、戦争や武力行使の現実を直視しないことから生じるものである。
「平和的生存権」の権利性を正確に認識するためには、具体的事実例二真摯に向き合うことが必要だ。
 原告らが陳述書で述べ、法廷で主張している内容は、あくまでも原告らの現実である。
こうした現実に目を向けずに「抽象的かつ不明確」という主張を繰り返す被告の対応は、多くの国民・市民の苦しみに目を閉ざすものと言わざるを得ない。
 平和的生存権については、歴代政府が自衛隊の海外派兵を加速させることに対応して、憲法学会では、その内容も精緻化されてきたし、裁判所でも「平和的生存権」の具体的権利性を認める判決が生まれている。
このように「平和的生存権」の内実も確実に進化している。
こうした時代の変化や学説・判例の進歩を考慮せずに、従来通りの主張を繰り返すことは許されない。
被告は自ら、「わが国を取り巻く安全保障環境が厳しさを増している」と認めている。
そのような今日においても、平和的生存権という人権の進化を認める必要がないというのであろうか。
権利ないし法的保護利益は、侵害の具体的な危険性が増加すれば、それに伴って要保護性も増していくものである。
 付言するが、2016年12月16日、「平和への権利宣言」が国連総会で採択された。
平和を権利として認識することは、もはや国際標準である。
⑶「人格権は国賠法上保護される権利ないし法的利益とは言えない」という被告の主張は、「人格権」に関する不当な理解に基づくこと
 原告らの主張する人格権について、被告は、「漠然とした不安感を抱いたという域を出るものではなく、かかる内容をもって具体的権利性が認められると解する余地はない」などと述べているが、これが誤りであることは、準備書面⑺で詳細に主張する。
 新安保法制法の成立により、基地周辺や大都市、原発周辺の住民、自衛艦、海外にいる日本人、NGO関係者などの生命や安全が危険にさらされる状況は、まさに「人格権」の侵害だ。
⑷憲法改正・決定権は「『国家の主権者としての国民』という抽象的な位置づけ」にとどまるものではなく、具体的な権利であること
 被告も、国政選挙における選挙権は「国家賠償法上保護された権利」と認めるであろう。
そうだとすれば、憲法改正・決定権が問題となる投票の場合には、国政選挙以上に「国家賠償法上保護された権利が存在」すると考えざるを得ない。
憲法学説でも、憲法改正・決定権こそが主権者の意見表明であると考えているし、選挙という主権者の間接的な意見表明よりも国民投票という直接的な意見表明の法が、より強固で明確な意思表示といえる。
また、被告は「そもそも、平和安全法制関連2法派、憲法の条文自体を改正するものではない」ことを根拠に、憲法改正手続きに関する原告らの具体的、個別的な権利ないし法的利益になんら影響を及ぼさないと主張する(答弁書39頁)が、この主張は、ヒトラー・ナチスによる「授権法」成立により、ワイマール憲法が実質的に廃止されたように、法律の制定によっても憲法の意義が空洞化された歴史を忘れた危険な主張であり、日本国憲法の基本理念である「法の支配」や「立憲主義」の空洞化を正当化するものであり、決して許されるものではない。

*伊藤 真弁護士の陳述後、裁判長から原告、被告双方の代理人に次回に向けての書類提出などの確認があり、次回期日10月27日(金)が告げられて閉廷しました。
この後、参議院議員会館での報告会の模様は「一枝通信」②で、続けます。      

いちえ


2017年7月17日号「お知らせ」

vol24-2

◎お知らせ①
トークの会「福島の声を聞こう!vol.24」の、お申し込み受付が始まりました。
今回のゲストスピーカーは、郡山市から川崎市に母子避難をしている松本徳子さんです。
「避難の恊働センター共同代表世話人」として、他の避難者たちの思いを汲み上げて活動もしている松本さんです。
松本さんの話を、多くの方にお聞きいただきたいと思います。

日 時:8月5日(土)14:00〜16:00(開場は13:30)
場 所:セッションハウス・ガーデン
参加費:1,500円(参加費は被災地への寄金とさせていただきます)
主 催:セッションハウス企画室
電話:03−3266−0461 MAIL:mail@session-house.net
お名前、人数、連絡先をお伝えの上、お申し込みください。

◎お知らせ②
「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」の、第8回口頭弁論が開かれます。
7月20日(木)午後2時〜、東京地裁103号法廷です。
私もまた傍聴に行きますが、ご一緒に傍聴しませんか?
傍聴券配布締め切りは13:30ですから、その時刻までに地裁前にお並びください。
 閉廷後の15:20〜参議院議員会館で報告会があります。

◎南相馬からは14日に戻りました。
●小浜地区
14日の朝は久しぶりに小浜に行ってみましたが、海岸、そして太田川の堤防工事が進んでいました。
河口の橋は、橋桁が出来ていましたから橋が再建されるのも、もう間もなくのことでしょう。
小浜地区は家族全員が犠牲者となった家も多く、119名の方が津波で亡くなっています。
半壊だった荒川さんの家も、蒔田さんの家もすっかり取り壊されて更地になっていました。
●ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト
 南相馬から福島へのバスが大原を通り抜ける時、窓の外に「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」の皆さんの姿をお見かけしました。
ボランティアで空間および土壌線量を計測し、マップ化している方達です。
「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」(注:上記したお知らせ②)でも、このモニタリングプロジェクト作成のマップが、とても重要な証拠資料になっています。
暑い日差しの下での皆さんの姿に触れて、改めて尊敬の思いを抱きました。

●谷さんの家
 大原では2011年暮れに谷さんのお宅を訪ねて、話をお聞きしたことがありました。
谷さんの家は30キロ圏外ですが、あの日の風はこの山間の道を通り抜けて飯舘村の方向に吹きました。
だから大原も高線量の地域です。
翌年、谷さんの家を再訪しましたがどこかへ避難されたようで、人の気配はありませんでした。
2年後に立ち寄った時には、庭中イノシシが掘り返した跡があり、家の裏手には猿が群れていました。
14日の帰路のバスから谷さんの家を見ると軒先に洗濯物が下がり、庭に人の姿がありました。
この日はバスだったので降りて寄ることはできませんでしたから、今度また別の日に訪ねようと思いました。

●飯舘村
帰還して人が住んでいる家は洗濯物が日差しを浴び、庭には綺麗に花を咲かせていました。
コンビニには人の出入りも見え、道の駅ももうほぼ完成です。
こうして「復興」の幕で人々の思いや真実・事実が隠されていくのだと思いました。

いちえ


2017年7月14日号「7月13日南相馬」

南相馬に来ています。

◎小池第3仮設住宅
●仮設住宅退去後の住居問題
ヨシ子さんやハルイさんが作った手芸品の代金と、『たぁくらたぁ』の最新号を届けました。
『たぁくらたぁ』には、ヨシ子さんから話を聞かせて貰った子どもの頃の暮らしを書いたのです。
仮設住宅の住人は、前回訪ねた時よりもまた少なくなっているようでした。
ヨシ子さんも8月でここを引き払い、9月からは新居にすっかり移ると言います。
この仮設住宅のすぐ近くに、長男家族と住む家を造ったのです。
家はもうだいぶ前に出来ていて、ヨシ子さんはその自宅で朝ご飯を済ませると仮設住宅に来て、日中は集会所でハルイさんや他の友人たちと過ごしていたのです。
だから仮設住宅の自室にもまだ少し荷物を置いてあるのですが、そこを引き払うというのです。
お盆には7回忌を営む予定だそうで、今年はヨシ子さんにはひとつの区切りの年になるのでしょう。
ハルイさんも原町に息子家族たちと暮らす家が出来ているのですが、友達のいる仮設住宅の方が自分の勝手が効いて良いらしく自宅にはあまり帰らずにいます。
仮設住宅に居られる来年3月までは、きっと今のような過ごし方になるのでしょう。
ヨシ子さんもハルイさんも、「もっと近くに家を建てたら毎日会えるのになぁ」と言います。
ここで仲良くなった人たちが離れ離れになり、移った先で新たな繋がりを築いていくのは、高齢者には大変なことでしょう。
阪神大震災の時の住宅支援の問題点は、ここでも改善されなかったように思います。
住居は、ただ住まう住宅というハード面を考えればいいのではなく、近所との繋がりや病院、商店など環境面が、もっと考えられなければ行けないのではないかと思います。

●今が一番幸せ
前にも聞いた言葉ですが、ヨシ子さんもハルイさんも「今が一番幸せだ」と言います。
二人とも津波で家を流され家族を亡くしていますから、それは深い悲しみになって心にあります。
けれども以前の暮らしでは日々の生活に無我夢中で、今のように自分のために時間を過ごすことなどなかったことでしょう。
今は、一日の過ごし方も、何を食べなにをし、何をしないかも自分で決められる、そんな風に自分のために時間を使えること、それが「今が一番幸せ」という言葉になるのではないでしょうか。
これは少し言葉が違いましたが、飯舘村の菅野榮子さんからも聞いたことです。
これからの「家族」を考える時に、心に留めておくべき言葉だと思います。
纐纈あやさんの映画『祝の島』の一場面で、深く印象に残っている言葉があります。
名前は失念しましたが、高齢の女性が亡くなったお連れ合いの墓参りに行った時に言った言葉「後家楽、後家楽(ごけらく)」。
女たちの本音の言葉では?と思います。

●鍬1本が
ヨシ子さんが言いました。
「ここに来て2年くらいは、あんまり人とも話をしなかった。
数ちゃん(この仮設住宅に居た渡辺数子さん)が声かけてくれたから、あれで話をするようになったんだ。
私も暗い顔してたかもしれないけど、家族を亡くしてること知ってるから、みんなも話しかけにくかったんダベな。
数ちゃんが畑で作ったもの『ほれ、こんなん出来たぞ。やってみ』っち誘ってくれてからな。
六角支援隊たって、私はなんも知らんかったけど、畑やるたって鍬もないし、なしてやんべと思ってたら、鍬も用意されてな。
あの鍬で、助かったなぁ」
六角支援隊でビニールハウスと畑を作ったのは、2012年の春でした。
支援物資を渡すだけでは駄目だ、仮設住宅に住む人たちに生き甲斐をと、考えてのことでした。
種を播けば芽が出るのが楽しみに、芽が出れば育つのが楽しみに、育てば実るのが楽しみにと、被災前は農家だった人たちが多かったことから考えたことでした。
ビニールハウスを6棟、畑を9反5畝、仮設住宅近くの農家から土地を借りて、種や苗、農具も用意したのでした。
鍬は全部で60本ほど用意したでしょうか。
仮設住宅を出て行く人たちも増えて、畑の利用者も減ってきた2015年から徐々にビニールハウスと畑を閉じていき、今はもう全てを、貸してくれた農家さんに返しました。
ヨシ子さんは新居の庭に畑を作り、野菜を育てています。
「あの鍬な、貰って使ってんだ。畑用に土を入れてもらったら、その土がよかったんだなぁ。
うんと育つんだよ。トマトだってトウキビだって、キュウリもピーマンも、ジャガイモもな、うんと育つんだ。
ハルイさんがジャガイモないかって言うから、男爵じゃなくてメークイン育てたから、そのまだ小ちゃい芋をあげたんだ」
そんな話をしているところへ、ハルイさんがその子芋の味噌煮を持ってきてくれました。
ほかほかの湯気が立つようなジャガイモの味噌煮の、なんと美味しかったこと!
ヨシ子さんの「鍬1本」の話は、とても嬉しい話でした。
たぶん被災者支援というのは、物資の支給が始めは何より急がれても、次には自分で動き出す支えになる何かが必要なのでしょう。
1本の鍬が、その支えであったのでしょう。

◎寺内塚合仮設住宅
●いつもの3人
菅野さん、山田さん、天野さんの、いつもの3人が居ました。
井口さんも村井さんも、もうここを出ました。
菅野さんは近くに建てた家で娘婿家族と暮らしていますが、デイサービスのない日は、娘か娘婿が朝ここに送ってくれ、夕方迎えに来てくれます。
娘も婿も孫も、昼間は出かけてしまうので、仲間が居るここの方が菅野さんにも良いし家族も安心でしょう。
天野さんは娘たちと暮らすことになる家の完成を待っていますが、大工さんが忙しくてまだいつ建つのか判りません。
老人ホームを探していて申し込んだところもあったのですが、順番が旨く合わずにいるようです。
山田さんは息子たちと自宅に戻る予定ですが、地震で傷んだ自宅の修復が、やはり大工さんが忙しくてまだ直っていないのです。
3人は同じデイサービスを利用していて、菅野さんは週2日、天野さんと山田さんは週1日の利用です。
この間デイサービスで、童謡と戦中戦後の流行歌の歌集が配られて、みんなで歌ったと言います。
どんな歌を歌ったの?と聞くと「伊沢八郎の『ああ上野駅』とか…」というのです。
『ああ上野駅』タイトルは私も覚えていますが、どんな歌だったか記憶にありません。
「どんな歌だっけ?」と聞くと、3人は声を合わせて歌ってくれました。
♪どこかに故郷の 香りをのせて
入る列車の 懐かしさ
上野はおいらの 心の駅だ
くじけちゃならない 人生が
あの日ここから 始まった♪
歌った後で天野さんが言いました。
「あの頃は集団就職でね、みんな詰め襟やセーラー服のまんまで列車に乗って上野駅に着いたんだよね」と。
そんな時代を過ごしてきた人たちが、原発事故で故郷を追われてしまったのだと、改めて思ったのでした。

◎高橋宮子さん
宮ちゃんのところへ寄りました。
またまた、部屋いっぱいに「頭の体操、手のリハビリ」作品が並んでいました。
双六やカルタ、羽子板、たくさん出来ています。
「頭の体操、手のリハビリ」は宮ちゃんの造語ですが、どんなことならみんなが楽しめるかを考え、その為の道具を作ることを、宮ちゃんはこう言うのです。
こんな言葉にも宮ちゃんのセンスと機転を思います。
宮ちゃんがいま住んでいる災害復興住宅は、被災高齢者用住居ですが、同じ間取りでも年金の額に拠って家賃が異なります。
宮ちゃんは月に38000円の年金額で、家賃は5500円だそうです。
ここは借用年数が5年なので、期限は後2年です。
それ以降も希望者は住めますが、家賃が上がるそうです。
いくらになるかはまだ判らないそうです。
宮ちゃんは2年後をどうするか、思案中です。

◎福島原発事故刑事訴訟
大留さんが言います。
「この頃、ようやく山の木や緑を見て、『ああ、きれいだな。こんな季節になったんだな』と思えるようになった。
6年経って、7年目になってようやくだよ。
それまでは放射能しか思い浮かばなかった。
今だって気持ちの深いところには放射能への恐れはあるけれど、きれいだなと思ったり季節を感じられるようになった。
ボランティアで夢中になって忙しくしてた僕だって、7年目にしてようやくそういう心境になったんだから、他所へ避難した人たちなんかは、今だって福島なんか怖くてしょうがないだろうと思うよ。
そんな精神的なダメージに対して、何の補償もないんだよ。
それを東電のあの3人が自分たちに罪はないなんてふざけたことを言って、許せないよ。
罪がないなんて、どうしてそんなことが言えるのか、本当に腹が立つよ」
まったく私も同感です。
飯舘村の椏久里珈琲店の美由紀さんの言葉を思い出します。
あれは2012年の1月か2月でした。
雪の日でしたが、並木が雪化粧した様子を見て言ったのです。
「私はこんな景色も怖い。放射能が積もってるように思えて怖い」
こうした思いを、勝俣、武黒、武藤3被告は思い遣ることが出来るでしょうか?
原発事故によって感性も壊されてしまった、精神の深いところを傷つけられたその無念を、3人の無罪の主張は、傷口に塩を塗り付ける惨さで応えたのです。
この裁判をしっかりと監視していこうと思います。


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