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2017年5月19日号「5月17、18日」

◎南相馬15・16日 補足
南相馬小高区は昨年7月12日に、飯舘村は今年3月31日に避難指示解除(帰還困難区域を除く)になりました。
このことによってまた、新たな問題を抱えている人は少なくありません。

子育てを終えた年代の夫婦間に、気持ちの食い違いが生じてきているケースが出てきています。
夫婦のどちらかが「解除になったとはいえ、安全ではない。安心して暮らせないから戻らない」と考えているのに、お連れ合いは「安全ではないかもしれないけれど、解除になったのだから帰りたい」と言い出したりしているのです。
大抵は、妻の気持ちは「帰らない」選択をしていても、夫は「先祖の土地・故郷を守りたい」などから帰りたくなっているケースが多いようです。
原発事故当初、子どもの健康を考えて避難するという妻と、仕事や親のことを考えて残る夫というように、家族が別れての暮らしを選択した人たちはたくさんいました。
その頃は「止むを得ず」にその選択をした人たちが多かったと思います。
今生じているのは、あの頃とはまた少し違う感じなのです。
Hさんは「いま私の一番の課題は家族です。互いに一緒にいるのが嫌になってる訳じゃないのに、ここが譲れないと別居かな?とも思うし、私が折れなきゃいけないのかなと思うけれど、それって諦めだと思うし、家族の問題が一番難しい」と言います。
これはHさんだけではなく、言葉こそ違え他の何人かからも聞いています。
原発によって暮らしが汚されることさえなければ、起きなかった問題だと思います。

南相馬の仮設住宅では、こんな話が出ていました。
寺内塚合の菅野さんは、仮設住宅を出て新居で息子たちと一緒に暮らしています。
食事の支度や選択など家事は、お母さん(息子の嫁のことをこう呼んでいます)がしてくれます。
仕事や学校に行く息子や孫は、早い時刻に朝食を済ませて出かけますが、お母さんも彼らと一緒に食事をします。
菅野さんはその後で、ゆっくり一人で食べるのです。
食べ終わった食器も、お母さんが「ばっぱ(おばあさん)はやらんでいいよ」と言うので、テーブルにそのまま置いて、自室に戻ります。
仮設住宅にいた時には自分で食器も洗っていましたが、年齢とともに動作も鈍くなっているので、菅野さん自身も、茶碗を洗う手元がおぼつかなくて割ってはいけない、と思い、“お母さん”もそれを案じて「やらんでいいよ」なのでしょう。
食後はお母さんに送ってもらってデイサービスか仮設住宅の仲間のところへ行って夕方まで過ごします。
夕食は、みんなの帰りは時間がまちまちなので、お母さんが作って用意したものを自分で食器によそって一人で食べ食べます。
菅野さんは「だから、家族で団欒なんてないなぁ」と言います。
家族が冷たい訳ではなく、互いに気を使いあっているのですが、かつての暮らしぶりとは全く違ってきているのです。
元の家だったら食事後にもみんながそこに座ってテレビを見たり話しをしたりして、自ずと“団欒”に時間が生まれていたでしょう。
新居は家の造りがそうした時間を奪っているようです。
ばあちゃんにも孫にも個室があって、息子夫婦もやはり自分達の部屋があり、食事をする部屋も以前の広さが取れないからです。
これは菅野さんだけの問題ではなく、他の人たちからも同様の話を聞いています。
そしてまたこれは、震災や原発事故の被災者だけの問題ではなく今の私たちの社会が抱えている問題ではないかとも思います。
ただし被災者たちにとっては、これもまた原発事故がもたらした家族分離なのです。

2年ほど前だったでしょうか、菅野榮子さんが「これからは家族制度のあり方を変えていかなければならないと思う」と言っていたことがありました。
ほんとうに今、家族のありかたを見直す時代が来ているのだと思います。
これは震災や原発の被災者だけの問題ではなく広く私たちの社会が行き当たっていることなのだと思いますが、被災者の人たちにとっては喫緊の問題になっているのです。
寺内塚合第二仮設住宅の自治会長だった藤島昌治さんが提案した、シェアハウス構想も、こうした問題を見据えてのことでした。
構想は思うようには進まず、市はケアハウスの形で検討しようとはしているようですがまだ進んではいません。

◎参議院議員会館で
17日は午後から参議院議員会館で、辺野古新基地建設に関する集会があり、それに間に合うように帰京しました。
「〜辺野古新基地建設〜護岸工事の違法性を問う 防衛省交渉&院内集会」です。
主催はFoE Japan/美ら海にもやんばるにも基地はいらない市民の会でした。
集会はFoE Japan の阪上さんが辺野古の現況を話した後で、沖縄からの北上田 毅さん(沖縄平和市民連絡会/抗議船船長)が、違法性に関して丁寧に説明してくれました。
私はいつも北上田さんが発信されているブログ(チョイさんの沖縄日記)を読んでいるのですが、読んでいただけではしっかり理解できずにいたことが、説明を受けて理解できました。
 防衛省の担当者たちに対する交渉は、下記の流れで進められました。
1、K9護岸の施工について
2、「進入道路(パネル敷設)」について
3、サンゴ類の保全などの環境保全措置について
4、ボーリング調査について
5、事前協議及び設計変更承認申請について
 これらの質問書は、あらかじめ防衛省に提出されていたにもかかわらず、毎回な回答は何一つなく、そればかりか防衛省は自分たちが作成した工程表などについても把握していないなど、こんな人たちがゴリ押しで工事を強行し用としていることに改めて憤りを覚えました。
 例えば、住民が反対しているために建築資材を搬入するための道路建設ができずにいますが、するとパネルを敷いてその上を搬入車両が通るようにしたのです。
これ「道路ではないか?」と質問すると「一時的なパネルの敷設であって、道路ではない」と答えるのです。
 また「事業実施前にサンゴ類など移植・移築するとしているが、行ったのか?」という質問に対しては「護岸には総被度5パーセント以上で0,2ha以上の規模のサンゴ類が73,863群体あります」と答えるのみなのです。
北上田さんが、「サンゴは護岸にのみ生息するのでなく埋め立て予定の湾の中心部にも多数の群体があるのに、それはどうするのか?」と問うても、「護岸には総被度5パーセント…」云々の先ほどの返答を繰り返すばかりなのです。
 ここでも全く、ただただ強引に結果を作ってしまえば住民は諦めるだろうという政府の姿勢が明らかでした。
この日の防衛省交渉についても、「チョイさんの沖縄日記」(北上田さんのブログ)に載ることと思います。
 私はなかなか沖縄には行けずにいますが、現地からの情報を読み取りながら気持ちを繋げていくつもりです。

◎18日、東京地裁

福島原発刑事訴訟支援団集会が東京地裁前で開かれ。またこの日は「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」第7回口頭弁論期日でした。
地裁前での集会の最中に、スコールのような雨。
地裁の張り出し屋根の下で抽選を待ちましたが傍聴希望者が少なかった為、全員傍聴席に座れました。
開廷は14:00、いつもの103号法廷です。
裁判長が準備書面居着いて確認し、原告代理人福田弁護士が提出した準備書面の内容について陳述しました。
それは、被告の20ミリシーベルト基準は正しいという主張に対して、放射線が健康に与える影響を科学的見地から考えて誤りであると主張するもので、パワーポイントを使って、傍聴席にもよくわかる説明でした。
福田弁護士の口頭弁論の後、裁判長が被告側に弁論を促すと被告側代理人は、ボソボソとまるで聞こえない声と喋り方で、(反論は)書面で提出すると答えました。
裁判長から次回期日は7月20日、14:00〜、103号法廷でと告げられて閉廷しました。
今日の口頭弁論では、原告本人からの陳述はありませんでした。

●報告会
参議院議員会館で、報告会が持たれました。
福田弁護士から、これまではなんらかの形で原告本人が陳述するようにやってきたが、今日は内容的に代理人からがふさわしいと考え、本人陳述はなかったことが説明されました。
また、もしかすると裁判長が変わるかもしれないことも報告されましたが、これまでこの裁判長は原告の意見陳述にしっかり耳を傾けてくれているように思えましたから、裁判長が変わることへ大きな不安を感じます。
替わってくる裁判長が、原告の思いを聞き届ける人物であってほしいと願います。

●特別報告
①特別報告として小澤洋一さんから「浪江町の汚染状況」について報告がありました。
4月29日に発生した森林火災は5月10日に鎮火するまで12日間燃え続け、火災現場が帰還困難区域で除染されていない地域のため、粉塵で放射能が拡散されることが心配されました。
これについて福島県HPでは、周辺環境に影響が及んでいる事実は一切ないとしています。
しかし報告では、火災後には測定値が上がっていることが伝えられました。
②もう一件の特別報告は、安定ヨウ素剤配布についてでした。
国は「原子力災害対策指針」で PAZ(原発から5キロ圏内)には安定ヨウ素剤を事前配布、UPZ(30キロ圏内)は備蓄して事後配布としています。
ひたちなか市は一部地域が5キロ圏内ですが、大部分の地域は30キロ圏内です。
福島事故を見て、事故発生後の緊急避難時に安定ヨウ素剤を全ての市民に配布するのは困難であるとして、全市民に事前に配布の必要があると考えました。
政府は、ひたちなか市は事前配布の PAZ 地域ではないからと、そのために国費は出さない、市の予算で用意するよう言っていたのですが、政府交渉の結果ひたちなか市でも国費を用いた配布は問題ないことになりました。
原発再稼働された地域ではどうなのか気になります。

*17日の辺野古新基地建設に関する集会の時も、またこの日の報告会の時も、議員会館前には共謀罪反対の抗議の声が響いていました。
その列に加わりたい思いを抱えながら、帰路につきました。
共謀罪、絶対に許すわけにはいきません!               

いちえ 

関連:

2017年5月16日号「5月16日南相馬」

◎訂正
昨日の通信で廣畑さんの蝦沢の自宅は津波で流されたとお伝えしましたが、私の早とちりでした。
家は流されていません。
けれども家のすぐ近くに、焼却炉が2基建設されました。
大事なことを早とちりで、誤ってお伝えしてしまいました。
訂正いたします。

◎上野敬幸さん
●朝の道
朝6時20分にホテルを出て、上野敬幸さんの家を訪ねました。
ホテルから上野さんの家のある北萱浜(かやはま)までは、2キロほどでしょう。
昨日の空とは打って変わって気持ちよく晴れた空、路肩の草は勢いよく伸びて法面にはタケノコがビューンとまっすぐ天を突いています。
シマ商会の角を曲がって雫(しどけ)の集落の道は、新築の家が建ち並んでいます。
2011年は消防車や自家用車、テトラポットがゴロゴロと転がっていた辺りです。 雫も萱浜も津波の被害が甚大だった地域です。
雫の新築の家々が並ぶ辺りは集団移転地で、元はもっと海よりに家が在った方達もそこに新居を構えたのでしょう。
萱浜では家を新たに建てたのは上野さんともう一軒だけですが、津波被害が大きかった関係で、もしかすると建築制限がかかっている地域なのかも知れません。
けれども圃場整備が済んでいて、水路も造成され田圃にする準備も進んでいるようです。
朝早くに上野さんを訪ねるのは、上野さんも農作業が忙しく朝7時には家を出ると伺っていたからです。
道すがら、そこかしこで草の中からヒバリの声が聞こえました。
そしてまた、そこにもかしこにもナガミヒナゲシが咲いていました。

●菜の花迷路を終えて
上野さんは、今年もまた菜の花迷路を作りました。
自宅の前の菜の花畑だけを残して、他の部分は既に別の作物用にすべて刈り取られ片付けられていました。
お宅にお邪魔してお仏壇でお焼香した後、少しの時間お話を交わしました。
今年のゴールデンウィークに開いた菜の花迷路大会には、延べにして1万人がやってきたそうです。
「人に酔いました」と上野さんは言っていました。
「疲れたけれど、いい疲れだった」とも。
次は夏の花火大会です。
先祖が鍬を入れ、お父さんとお母さんが増やしてきた農地を、継いで守っていくのだと農業に取り組みながら、「福興浜団」としての活動も続けている上野さんです。
大熊町の木村紀夫さんの捜索活動も助け、また地域の子どもたちが笑顔で過ごせる活動をと、菜の花迷路、花火大会も続け、避難生活をしていた人の自宅の片付けや引っ越しを手伝ってもいるのです。

●「支援されることに甘えてちゃ駄目だ」
上野さんは、「東京や関東に避難している人たちは、支援されることに慣れてしまっているのではないか、また支援者は、本当の支援は被災者が自ら自分の足で立っていけるように支援すべきなのに、物質的な支援をすることで満足しているのではないか」という内容のことを話してくれました。
東京に避難していた浪江の高齢の女性が戻って来て、復興住宅に入居するので、その引っ越し手伝いをした時のことだそうです。
浪江のその復興住宅は、原町のスーパーフレスコが目の前にある場所に作られました。
都心と比べれば不足なことはあっても、そこは買い物には便利だし、町の中に病院もあるのに、その女性は東京ではこんな事もして貰った、あんなところが便利だったなどと、口を開けば不満を漏らしていたと言います。
避難せずに留まった自宅は買い物には車でないと遠いのだが、車の運転もできない高齢者は押し車を押して行くという生活をしている人もいるのだ、と上野さんは言うのです。
メモを取らずにいたので、上野さんの言葉を具体的に正確にお伝えできないのですが、昨日の廣畑さんの言葉と通じる点があると思いました。
考えさせられる点が多々ある話でした。

◎寺内塚合仮設住宅
今日は火曜日なのでデイサービスがない日ですから、社長の菅野さんも、営業部長の天野さんも、他のみんなも居る筈と思って訪ねました。
談話室に居たのは、菅野さん、天野さん、山田さんの3人でした。
「みんな出たんだ」と、天野さんが言いました。
井口さんは相馬に息子が建てた家に、村井さんとミッちゃんは小高の自宅に戻ったそうです。
談話室の天井にあった折り紙の薬玉は、全部外して天野さんが私宛に送ってくれました。
これは前に天野さんが「捨てる」と言ったので、私が頼んで送ってもらったのです。
そして南相馬へボランティアに来たことのあるバンド活動をしている人たちに話して、ライブの会場に飾ってもらったりしています。
その他の手芸品もみんな無くなって、部屋の中は先月よりもなおガランとしていました。
人も減り、部屋も片付き、なんだか寂しい光景ですが、3人は元気でした。
山田さんは小高の自宅の改修を頼んでいる大工さんが、まだ手が空かず家の改修ができていない、天野さんも末娘が新居を建てたら一緒に住むことになっているけれど家がまだできない、菅野さんは近くに娘家族が建てた家に同居だけれど昼間は一人になってしまうので娘婿に送って貰って昼間はここに居る。
という訳で、3人は今も談話室で過ごしています。
けれども水曜日は菅野さんがデイサービスの日なので、ここには天野さんと山田さんだけ、金曜日は天野さんと山田さんがデイサービスなので、菅野さんは自宅で過ごしているのです。
相馬に行った井口さんは、昼間は子どもや孫は出かけてしまいますが、お連れ合いが居るので老夫婦で過ごしているのでしょうか。
自宅に戻ったミッちゃんはやはり昼間は一人になりますが、畑をやっているかも知れません。
村井さんのところも昼は子どもも孫も居ないですが、お連れ合いも居るし畑もあるし、村井さんは車の運転もできるのです。
みんなどうしているかなぁと思います。
「塚合のばぁちゃん」たちを支えようと、松戸の千田優子さんが小さなフクロウの縫いぐるみを注文してくれるので、菅野さんと山田さんはお喋りしながら針を運び、出来上がった品を天野さんが袋に詰めているのです。
一日に一つでも作れたら、それでいいのです。
お喋りしながら手を動かして笑い合い、やったことの成果が目に見えていること、これが大事なのだと思います。
「手を動かしてると、惚けないって言うね」「お喋りしてると肺を使うから肺炎にならないそうだね」それでいいのです。

◎小林吉久さん
久しぶりに、本当に久しぶりに小林さんのお宅を訪ねました。
小林さんは鹿島区の篤農家で、元市会議員をしていた人です。
3・11後、仮設住宅建設のために土地を提供されたり、また六角支援隊が仮設住宅に居る人たちのためにビニールハウスや畑を作りたいと言った時にも、畑や土地を貸してくれた人です。
試験田をやった時にも、田圃の提供者を紹介してくれたのです。
仮設住宅にまだ多くの人たちが居て、みんなが畑やハウスをやっていた時には小林さんのお宅を何度も訪ねていました。
奥さんの秀子さんには、南相馬の伝統食「柿餅」の作り方を教えて頂きもしました。
仮設から出て行く人たちも増えてきて畑やハウスも閉じていった頃から、次第に足が遠くなっていたのです。
また秀子さんが癌で入院したということも聞いていて、お訪ねするのも憚っていたのでした。
1年ぶりか、それ以上経っていたかも知れません。
久しぶりにお会いした小林さんはお元気そうで、秀子さんは胆管切除したけれど肝臓に転移していて、その放射線治療で入院中。けれども顔色もいいし非常に元気で、放射線治療も土・日は無いので、金・土・日は自宅に戻って過ごしているそうです。
病院への送迎は、小林さんがなさっているとのこと、8月には80歳になる小林さんです。
久しぶりにお訪ねして良かったと思いました。
6月には秀子さんも退院されるそうですから、その頃にまたお訪ねしようと思います。

◎小池第3仮設住宅
ここもほとんどの人たちが出て、集会所にはヨシ子さんとハルイさんの二人だけでした。
二人は他の誰よりも気持ちの通じ合う同士なので、一緒に居るとお喋りと笑いが絶えません。
初めて私がヨシ子さんやハルイさんに会った頃(2012年春)は、他人行儀ではないものの、会話も標準語で改まった感じでしたし、私も土地の言葉はよく判らなかったのですが、今は自分では喋れませんが話されることは全部聞き取れて、それがとても楽しいのです。
「足が悪かったのはバッチなの?」などと訊ねることもできるようになりました。
バッチというのは末子のことなのです。
「言葉が判る」のは、垣根を飛び越えるようなものかしらとも思っています。
ヨシ子さんはこの仮設住宅のすぐ近くに長男が建てた新居に同居、ハルイさんは原町の新居で子どもたち家族と同居ですが、やはり昼間は一人になってしまうので、ヨシ子さんは夜には自宅で眠りますが、朝になると仮設集会所に“出勤”してきます。
ハルイさんは車の運転ができないので原町の家に居ると昼は一人で蟄居になってしまうので、仮設住宅に居られる間はここで過ごしたくて、原町の家に帰るのは時々のことです。
二人は今日も、作った手芸品をたくさん持ってきてくれて、それは量が多いので私は持ち帰らずに宅配してもらうことにしました。
トークの会「福島の声を聞こう!」でご披露します。

◎高橋宮子さん
大町の復興住宅に、宮ちゃんを訪ねて近況を聞いてきました。
中学の同級会を、ここで2回やったそうです。
この復興住宅は6畳が三部屋続きなので、大勢が集まるには都合がよく、また宮ちゃんの人柄もあって、みんなが集まりやすいのです。
78歳の同級生が10人も集まって、しかも宮ちゃん曰く「みんな後家」だそうですから、誰にも気兼ねなく気が向くまでのお喋りの時を過ごしたのでしょう。
遠くは横浜から、また、いわきや仙台からの人もいたそうです。
「またやろうね」と言って別れたそうです。
その時の写真を見せて貰いましたが、みなさんとても若々しく元気そうで、「またやろうね」は、きっと叶うと思いました。

*明日は朝1のバスで福島へ戻り、午前中に帰京するので今日一日でずいぶん詰めた行動でしたが、よい一日でした。          

いちえ


2017年5月16日号「5月15日南相馬」

南相馬に来ています。

◎車窓から
福島駅から南相馬へのバスの車窓から、雨に煙る5月の川俣、飯舘の風景を眺めていました。
山中に咲く桐、ヤマフジの紫の花、ウワミズザクラやホウの白い花、野辺にはナガミヒナゲシの原もありました。
アルジェリアの山中に一面に咲いていた、真っ赤なヒナゲシを思い出しました。
真っ赤なヒナゲシを見て私は、この国が独立を勝ち取ったのはほんの30年前なのだと思ったのでした。
ナガミヒナゲシはアルジェリアのケシの花よりも淡い赤ですが、一面に咲く様から“独立戦争”を想い起こした私でした。
ナガミヒナゲシの原を見たのが、もし飯舘村ではなく例えば伊豆のどこかだったら、あるいは千葉だったら、私はアルジェリアを思い出しただろうか?などということを考えもしたのでした。
飯舘村は汚染土を積んだフレコンバックの深緑のシートの山が連なり、住む人の気配はなく、道の駅の建設は進み、道の駅の建物に並んで大きなガラス張りの建造物も作られ、どうやら温室のようです。
道路を挟んで向い側は花畑になるそうですから、きっと温室なのでしょう。
原発事故…、これも戦争なのかもしれないと思ったのでした。

◎小高で
●廣畑裕子さんに会いたくて
福島からのバスで終点の原町駅前で降り、常磐線で小高に行きました。
「おだかぷらっとほーむ」の廣畑裕子さんに会いたくて、この日の面会をお願いしてあったのです。
これまで廣畑さんには鹿島の仮設住宅でも、また小高でも何度もお会いして言葉も交わしているのですが、ゆっくりお話をお聞きしたことがなかったのです。
以前からずっと、「この人の話を聞きたい」と思ってきたのです。

●「無知の知」
廣畑さんを初めて知ったのは、2014年にポレポレ東中野で見た「無知の知」(石田朝也監督)というドキュメンタリー映画を通してでした。
これは原発事故後、“それまで自分は原発について何も知らなかったということを知った”石田監督が知らずにきたことを知ろうと思い立ち、被災者や政府関係者、原発推進者、その他の人など、ニュートラルにさまざまな立場の人たちへインタビューを試みたドキュメンタリー映画です。
もっともっと評判になっても良い映画だったと思うのですが、残念ですが多くの人の目には触れなかったのではないかと思います。
ここに廣畑さんが出てきたのです。
石田監督がこれを撮ったのは2013年だったと思いますから、小高はまだ避難指示解除にならず、昼間だけ一時帰宅が許されていた時期です。
映画に出てきた女性は、明らかに怒っているのですが、でもまぶしい笑顔だったのです。
「え?この人怒っているのに、こんな風に笑っている。なぜ?どうしたらこんな笑顔で怒っていられるの?」
その女性にとても惹き付けられたのです。

●のらとも農園
映画を見てから少し経った頃、寺内塚合第2仮設住宅に藤島昌治さんを訪ねた時に、偶然その女性に行き会ったのでした。
思わず私は、「あ、無知の知の人ですね」とお声かけしたのでした。
思い返せばずいぶん失礼な言葉だったと思いますが、映画で見た笑顔そのままに「あはは、そうですよ」と、それが廣畑裕子さんでした。
それから何度も顔を合わせ、その度にいつかゆっくり話を聞きたいと思いなかなか果たせず、そして今日だったのです。
寺内塚合第2仮設住宅の脇の広い草地には、ヤギ小屋と花畑、ビニールハウスがありました。
ハウスの中は野菜ではなく、花や花の苗が育てられていました。
それは廣畑さんが仮設の仲間たちと始めた「のらとも農園」でした。
今日、話を聞けば被災前の廣畑さんは、パソコンのデータベースを作る仕事に従いてたそうです。
デスクワークをしていた廣畑さんがなぜ「のらとも農園」を始めたかを、廣畑さんはDVDに記録したもので見せてくれました。
「時間が経てば忘れてしまうことを、記録しておきたいと思った」と言います。
2011年あの日、大きな揺れに見舞われ職場の窓からようやく外へ逃れ、子どもたち(当時高校生)はどうしているだろう、無事だろうか、不安でいっぱいになりながら自宅に向かいました。
いつも使っていた浜側の道は渋滞で進めず、山の方の道もまた渋滞、普段は決して通らない畦道を通って自宅に向かおうとしましたがラジオの情報で津波情報を流れてきていました。
自宅は海側の地、蝦沢です。
家族はみな無事に、再会できました。
避難所を転々として仮設住宅に入居しましたが、誰もが不安でどうしていいのか判らずに居た日々でした。
できることをやろう、一歩でも踏み出そう、そうして種を蒔いたら、種を蒔いた姿に刺激されて育て方を教えてくれる人も居て、というように、互いにほんの少し一歩踏み出すことで刺激し合えて、少しずつ動き出せてきたのだということが見せてくれたDVDから伝わってきました。

●そしていま
もう1本のDVDは「震災から5年半 いま思うこと」。
昨年7月に避難指示解除になった小高(帰還困難区域を除く)ですが、やはりこれも「日々思うことは変わるし、時間が経てば前のことを忘れてしまうから」と記録してきたものです。
このDVDも、また先に見せて貰ったDVDにも折々の様子も写真で映されもするのですが、廣畑さんが忘れずに書き留めた言葉がずっと、文字で流れているので私は見ていながら、それらの言葉を書き留められなかったのがとても残念です。
でも、廣畑さんと会話を交わす中で、紙に書き留めるのではなくDVDの画面に次々に現れ流れていく言葉を読み取ることが、却って廣畑さんの思いに添って居るのかもしれないと感じられました。
廣畑さんの中に、「刻々、人の思いは移っていく」のだという意識が強くあるのではないかと感じたのです。
始めに見せて貰ったあの日からのことを記録したDVDはここに来ないと見ることはできないようですが、後に見せて貰ったものは「ひろゆう」で検索するとYouTubeで出てきます。
他にも何本も載せていると言いますから、私も後でいろいろ検索してみようと思います。

●「ゴミの出し方を教えてよ」
廣畑さんの自宅があった蝦沢には、焼却炉が建てられました。
現在は相馬の息子さんの家に“居候”をしていますと言う廣畑さんに、「これからはどうなさるおつもりでしょう?」と聞くと、「考えていません」との答え。
これもまた、その時の状況で人の思いは変わるけれど、その時々にできることを精一杯やっていく中で、自ずと道ができていくということなのでしょうか。
「帰還とか戻るとか言う言葉は違うと思う。戻れっこないんだから。避難指示解除になってから元の自宅に帰って住んでる人も、戻ったんじゃなくて元の家に住むことを選んだ、選択したんだから、戻ったってことじゃないのだ」
廣畑さんはそう言います。
私も同感です。
実際に自宅に戻って暮らしている人たちに会い話を聞けば、それは決して元の生活ではないのです。
6年間の空白があって、その空白は埋めようがないのです。
避難してあちこちを転々としていたとき、そこでのゴミの分別の仕方やゴミの出し方が判らず、コンビニのゴミ箱に捨てるしかなかった(コンビニのゴミ箱は入れ口が仕分けられている)と言う廣畑さんは、「戻りたいけど作業員が居るから危険だとか怖いとか言うのを聞くと、悲しくなる。私たちが避難している時に“福島だ、放射能がうつる”とか“こっちに来るな”とか言われたのと同じことを、今度は私たちが言っているのと同じではないか」と言います。
ゴミの出し方を教えてあげるように接することが大事ではないか、と言います。
だから、野馬追の通路の草取りをみんなで一緒にしようと呼びかけた、小高の人も作業で来ている人たちも、みんなで一緒にやろうと呼びかけて、やったのだと言います。
草取りなんか喜んでやりたがる人は居ないけれど、「いやいや、渋渋」でいいから出てきて一緒にやろうよと呼びかけたのだと。
みんな考えていることも違うし、好きとか嫌いとかではなく「みんな違って、みんないい」でやっていこうよと、廣畑さんは言うのです。

●悲しみの方が大きい
廣畑さんが再稼働に反対なのは、原発が止まって居れば良いと思うからではなく、止まっていても津波で事故が起きたのだから「原発止めろ」ではないと言います。
再稼働に反対なのは使用済み核燃料の処理ができないのだから、反対するのだし、だから原発を作ってはいけないのだと言います。
けれども実際にはこれだけ原発が“在る”ことに、廣畑さんは怒りよりも悲しみを感じると言います。
廣畑さんの思いに、私も同感です。
そして廣畑さんは、「繋がっていて下さい。訪ねてきて下さい」と言い、いま取り組んでいるプロジェクトについて教えてくれました。
「クラウドファンディング南相馬小高(廣畑裕子)」で検索して下さい。
私もこのことを聞くまで知らずに居て、廣畑さんと別れて宿のビジネスホテル六角に着いてから、このページを開いてみました。
廣畑さんの思いが溢れています。
ぜひ、みなさんにも応援して欲しいと思いました。
ページを開いて見て下さるだけでも、お願いしたいと思いました。

いちえ


2017年5月14日号「お知らせ」

①〈トークの会福島の声を聞こう!vol.23〉の受け付けは始まっています。
ゲストスピーカーは、飯舘村の長谷川健一さんです。
3月31日に避難指示解除されましたが、果たしてどんな現状でしょうか。
長谷川さんのお話を、多くの方に聞いていただきたいと思っています。
皆様のご参加を、お待ちしています。
vol23

②HIS田植えツァーのご案内です。
前回の「トークの会福島の声を聞こう!」のゲストスピーカー菅野瑞穂さんからご案内が届きました。
二本松東和の瑞穂さんの田んぼでの田植えなど農業体験を通して、福島の現状を知るとても良い機会だと思います。
第1回の日程が、ちょうど長谷川さんにお話いただくトークの会「福島の声を聞こう!」と重なってしまうのですが、福島を肌身で感じ、知るには良い機会になると思います。資料を添付します。

福島の今を知り 

③デモクラシータイムス
先日のこの通信で、5月4日の渋谷のロフト9で催された「山城博治さんと語ろう」のことをご報告しました。
この催しは4月23日にも新宿のロフトで開かれていたのですが、その様子が
デモクラシータイムスYouTubeで配信されています。

以上、お知らせ3件です。
私は明日からまた南相馬へ行ってきます。            

いちえ


2017年5月5日号「5月3日・4日報告」

◎3日@国会前
「アベ政治を許さない!」一斉行動日でした。
この日は有明臨海公園で大規模な憲法集会が開かれていたので、国会前に参集した仲間は澤地久枝さんはじめ30名ほどでした。
国会議事堂内が一般の人たちに開かれて見学日となっていたので、大勢がぞろぞろと正門から入り、また出てきて、“国会議事堂大にぎわい“でした。
そのためにいつもよりもずっと多くの機動隊の車が国会を取り巻き、また機動隊や警官の数も多く出ていました。
私たちはいつも通り国会の正門に向かって立ち、「アベ政治を許さない!」プラカードを掲げました。
国会見学者は私たちを見て会釈をしながらすぎる人、「何だろう?」といった顔つきで見てすぎる人たちはいましたが、露骨に嫌がらせを言う人は皆無でした。
右翼の街宣車が、「憲法を変えるなと、馬鹿なことを言う奴らがいる」などと、がなってすぎました。
澤地さんが、先月は京都の集会に呼ばれて行っていたので国会前に参加できなかったけれど、京都でも1時きっかりにみんなでプラカードを掲げたことを話されました。
そして全国でこうして意思表示を続けていくことが、とても大事と話されました。
諦めてはいけない、諦めずに声を上げ続けましょう、と。

この日アベは露骨に「9条」改変の姿勢を表しました。
9条の1項、2項はそのままで、そこに自衛隊を明記するというのは、魂胆は国防軍として位置付けようということですから、大きな矛盾です。
戦争への道を突き進もうとするアベ政治を、絶対に許さない!

◎4日@渋谷ロフト9
 「山城博治さんと語ろう」が開かれました。
大木晴子さんが仕掛けてくださった会です。
 第1部は大木さんの司会で、「標的の島 風かたか」監督の三上智恵さんの挨拶と三上さんが撮りためたフィルムから、山城さんを特化して編集した25分の映像が流されました。
 そして山城さんが登壇、大きな拍手で迎えられました。
山城さんは、三上さんの映像にあった入院治療を受けていた頃のことから話を始め、5ヶ月に及んだ勾留生活、これまでの反基地闘争の闘いをお話くださいました。
 悪性リンパ腫の治療で受けた抗がん剤の副作用では、頭髪が抜けるだけではなく眉毛、まつげ、鼻毛まで抜け、全く人相が変わってしまったこと、免許証更新のために提出する写真は、その変わり果てた人相の時に写したものなので、何かの必要で身分証明書を提示しなければならない時に免許証を見せても、証明書の役を果たさないのだと、「見えないかもしれないですけど」と免許証を出して見せながら話し、会場を笑わせました。
 笑わせながらも、病気に負けずに絶対にゲート前テントに戻るんだ、戻ってまた闘うんだと、そのことしか考えていなかったから闘病生活も苦しくはなかった、もちろん辛い治療ではあったけれど、辺野古移設を許さない、沖縄に基地はいらないという思いが闘病を支えてくれたと話されました。
 勾留中も新聞は毎日1紙読むことはできたが、自分に関する記事は全て切り抜かれていたので、切り抜き部分の多寡で外の状況を推測したことや、外にいる仲間たちの励ましの声も聞こえて、元気をもらえたと言います。
毎日起床時刻、消灯時刻、食事時間も一定で、食事は3食、粗食だけれど健康には良い食事が出ていたことや、体がなまらないように運動も続けていたことなど話されました。
拘置所にはどこにも時計がなかったので、時間が判らないことが辛かったことなどをユーモアを交えて話す博治さんに、会場の私たちは勇気付けられ連帯の思いを一層強くしたのでした。

 休憩を挟んで第2部は鈴木耕(マガジン9条)さんの司会で、三上智恵さん、山城博治さん、福島瑞穂さん。井筒高雄(元自衛官)さん、元山仁士郎(SEALs琉球)さんのクロストークでした。
この日の様子は後ほどきっと、YouTubeデモクラシータイムスで流れると思いますから、そちらをご覧ください。
 第2部の最後は会場参加者との質疑応答でしたが、その中には強く考えさせられた質問と返答が幾つかありました。
*質問者:「2004年以降なかなか沖縄に行けずにいるが、その頃は沖縄の人たちと防衛局の職員が相対して座り込んで話し合っている姿をよく見ました。沖縄の人たちのそういう闘い方に大きな刺激を受け学ぶことが大きかったです。今は変わったようですが、そのことについてコメントをいただきたい」
*山城:「2004年は小泉政権でしたが、確かにその頃はそうでした。訪ねてきた人がいたら、お客が来たら、とにかく“座れ座れ”といって座らせてお茶出して沖縄の歴史やら話したもんです。そうすると向こうも座って聞いて、不覚にも涙を流したり、“判りました。また明日来ます”となんて言って帰って行った。
小泉政権から正式に伝わってきたのは、“沖縄に寄り添う。強行はさせない“ということだった。それで2005年に予定されていた工事は強行されなかった。
 ところが今のアベ政権は、全く違う。2005年の轍は踏まないという姿勢できている。
今、目の前にいる警察や保安庁は非常に荒々しくて憎らしいが、裏にいるのはアベ内閣です。アベ内閣が海上保安庁の長官に向かって、“2005年のような失敗をしたら君たちの組織は無いものと思え。組織解体してやる”と脅迫しているんです。
そして海上保安庁の人間を、外部からの人事異動ではなくて生え抜きの奴をトップに据えて、海上保安庁の沖縄県民に対する態度を根本的に変えたんです。
 それは警察も同じように言われている。
2015年までは、映画にもあったように警察と私たちは冗談も言い合った。
私は警察に我々もムチャはしないから、君たちも逮捕はするなと言い、そういう話ができた。
ところが2015年11月に警視庁の機動隊が150人来た時から、変わった。話ができない。
沖縄の警察も後ろから睨まれているから、暴力一辺倒。
それまでは山城博治がハンドマイク持ってガァガァ話してても、触ろうともしなかったのが、年が明けた1月からはもっと酷い。
“こいつ持っていけ!”と、一番先に引っこ抜かれるようになった。
国家の権力は暴力だと思った」
*質問者:「沖縄の米軍基地は侵略の拠点として使われてきたが、そのことについてお話をいただきたい」
*山城:「そもそも沖縄の基地は、東京を空襲するために作られた。判りますね?普天間基地・嘉手納基地は、東京・大阪を空襲するために作られた。だから沖縄の住民が見ている目の前からB29が本土爆撃に飛んで行ったんです。
1950年から朝鮮に爆撃に行きました。
1965年からベトナムに爆撃に行きました。
そして今アフガン、イラクに行ってます。
沖縄の米軍基地は、いつもそうやって沖縄から爆撃機が飛んで行った。
 その痛みを忘れてる沖縄人はいません。
第2ゲートを封鎖したのは、弾薬庫だから。米軍の海外戦争を止める運動をすれば米軍も恐怖するだろうということで、第2ゲートに座ることにしたんです。
それがわかってるから、米軍基地に手を出したらただじゃおかないというのが、今のような逮捕されている状況じゃないでしょうか」
*質問者:「最近、基地引き取り運動を提唱している人たちが各地にいて、沖縄にばかり基地を押し付けないで、東京で、大阪で、本土で基地を引き受けようということを言う人たちがいますが、そのことについてどうかんがえますか?」
井筒:「基地の問題はシンプルで、少なくともに憲法・法律の下で日本の法治国家権で米兵をコントロールできるように仕組みを変えることが第一です。
 第二には、日本だけではなく世界の警察としてアメリカがあまりにもいろいろな国に基地を置きすぎです。
そういう問題をどうするかを、基地を抱えている国とアメリカで政府間交渉する必要があると思っています。
 軽率に基地を引き受けると言いますが、基地を引き受けるということは覚悟が必要です。
戦争にダイレクトに巻き込まれることです。
戦争に巻き込まれたその時には、米兵だけではなく日本の中でも情報保全化ということで、必ず監視活動が強化されます。賛成派、反対派ということで選別をつけます。
基地を引き受けることは戦争に加担することですから、差別を生みます。
敵を作るんです。良い人たち、殺していい人たちという選別をつけます。
基地を引き受けるというなら、そういうことを全て判かった上で、基地を引き受けるという覚悟を持って欲しいです。
 それからお金の流れ、税金の使い方が変わります。
若者が死んでもいい人たちになります。
将棋の歩の駒といっしょです。
戦場では白兵戦になった時に、戦力に支障をきたす人たちは殺しちゃいけない人たちと、殺しても死んでもいい人たち、撃てって言ったら弾を撃つ人たちだけでいい。
死んでもいい人たちはいくらでも代わりがあるからです。
いみじくも稲田さんが言ったように、これからはどんな隊役でもいいから女性隊員を行かせると言ったのは、簡単なことなんです。
弾を撃てと言われて撃つのは、女性も男性も関係ない、撃てればいいからです。
死んでも代わりはいるから、戦力に変わりはないです。
駒は誰か?と言ったら自衛隊に高卒から入って4年以内の人たちです。
自衛隊も公務員なので3年、4年だと退職金も少ない、応急手当も少ない、戦争しない自衛隊には事故死か病死しかないんです。
死んでもいい人たちは、コストが安いんです。
 そういう現実を知ってください。基地を引き受けるということは」

 他にも沖縄から基地がなくなったら基地で働いていた人たちが困るのではないか?沖縄の産業はどうなるか?などの質問が出ましたが、元山さんから基地撤去後の振興策は既に横浜ミルクプラントという実績があり、基地閉鎖後の雇用など日本政府や自治体としてやっている例があるから、同様にできると返答があり、山城さんからは今でも観光立地の沖縄には多くの観光客が訪れている。基地をなくして基地跡をもっと観光にふさわしい施設にすれば、さらに観光客は増え産業は充実していくと答えがありました。
 博治さんは今は行動に制約があって辺野古や高江の現場には行けないが、全国を回って沖縄の基地問題を訴えて歩こうと思っていると言いました。
また今回の仕掛け人の大木晴子さんは、今後もこうした企画をやっていくつもりで、HPの「明日も晴れ」に情報を載せていくそうです。
 前述しましたが、youtubeデモクラシータイムスで、この日の様子はいずれ流れると思います。                           

いちえ


2017年4月30日号「4月28日報告」

◎東京地方裁判所前
 4月28日、12:00〜13:00、東京地裁前で福島原発刑事訴訟支援団のアピール集会がありました。
これは、裁判所は一日も早く公判を開くようにとの要請行動です。
 原発事故を起こし被害を拡大させた責任者たち3名、勝俣恒久、武黒一郎、武藤栄は昨年2月に強制起訴され、検察官役の指定弁護士からは既に4000点余の証拠が開示されているのですが、まだ公判が開かれていないのです。
東京電力(そしてその背後には国が)の引き延ばし作戦で、未だに公判が開かれずにいるのです。
裁判では、証拠開示が行われないために公判が開けないことはあっても、証拠が揃っているのに公判が開かれないのは、極めて異例なことと言われます。
被疑者側の抵抗が、よくよく強いからだと思われます。
この日、裁判所内で第2回公判整理前手続きが行われるのに合わせて開かれた要請行動でした。
 始めに団長の佐藤和良さんの挨拶、そして広瀬隆さん、各地から参集した福島の被災者の方達、日本チェルノブイリ基金や他の方達から挨拶があり、最後に副団長の武藤類子さんの挨拶がありました。
その後、原告や支援者で100名ほどの参加者たちは地裁の建物に向かって、「私たちは、もう待てません!」「一日も早く公判を開いてください!」とシュプレヒコールをあげました。

 先日更迭されて復興相の座を降りた今村さんの言葉、あれを聞いた時私は、憤るよりも前に、たまらなく悲しかったです。
怒りは、「なにくそ!」というエネルギーを沸かせてくれますが、今村復興相の言葉を聞いたときには、悲しみに打ちのめされました。
あの言葉は一人、今村さんだけの心情ではなく、この日本の中に澱のように沈殿している“東北”蔑視を吐露したものではなかったかと思えてならなかったのです。
 なぜ東北というか?
九州、四国、中国、中部、関西、関東と言いながら、なぜそこは“東北”なのかと、腑に落ちない思いを抱えていました。
私がそう言うと仙台の友人は、「陸奥の国」「出羽国」を合わせた奥羽地方と呼ぶべきなのだと言い、また北東の方角は鬼門に当たるのだと言いました。
友人のその言葉から、そこは古くから蔑視され続けてきたのだということがまざまざと読み取れました。
「立場上、その言葉は許されないない」と、今村さんを攻めて首をすげ替えても、澱が消えずにある限り差別と蔑視は繰り返されるのではないでしょうか。
私の中に澱の因子はないだろうか、もし微塵でもあるなら、それを消すように努めるべきではないかと思っていたのです。
 今村発言を知った後、ずっとそんなことを考えていたのです。
そして昨日の東京地裁前での要請行動で、支援団団長の佐藤和良さんの挨拶を聞いたのでした。
佐藤さんの言葉は、胸に深く染みました。
佐藤さんは言いました。
「今村大臣の言葉は酷い、許せないという声も大きいですが、日本の政治の中に、原発を推進してくる政治状況の中に、あのような言葉を吐き出させる体質があるのではないでしょうか。
私たちは東北のまつろわぬ民として、誇りを持ってこの裁判を闘い抜きましょう」
「誇りを持って闘うまつろわぬ民」の側に、私も立とうと思います。
振り返れば2011年9月11日、明治公園での「さよなら原発集会」での、武藤類子さんの挨拶が胸に蘇ります。
「私たちは静かに怒りを燃やす、東北の鬼です」
今ネット上には、「#東北でよかった」が溢れています。
私も支援者の一人として原告と共に手をつなぐ鬼になって、一日も早く公判が開かれ、裁判官が被疑者に罪を下すよう見届けていきたいと思います。

◎参議院予算委員会傍聴
 東京地裁前での要請行動を終えて昼食を済ませてから、国会の参議院予算委員会の傍聴に行きました。
26日に今村復興大臣は「東北の方でよかった」発言で更迭され、後任の復興大臣は吉野正芳さんになりました。
吉野さんは閣僚経験がなかった人ですが、福島県出身ということから下された人事のようです。
この日の予算委員会は、吉野復興大臣への質問でした。
メモ用紙も持っていたのですがしっかり記録できず、最後に質問した議員の質問と吉野さんの答えだけは、メモせずとも頭にしかと刻み付けました。
「復興大臣としてやっていこうと思っていることは幾つかあるでしょうが、これだけは是非ということを一つだけ挙げてください」という質問でした。
吉野復興相は、こう答えたのでした。
 「帰還困難区域をなくすことです。除染して帰還困難区域をなくして、みんなが戻れるようにすることです」
吉野さんは各党議員の質問に答える際に、口を開けば「私は福島出身ですから」と繰り返し、だから被災者の気持ちはよく判るとばかりにそれを強調していましたが、「帰還困難区域をなくす」の一言で私は、この人はダメだなぁと思ってしまいました。
 帰還困難区域がどのような地形かも、除染にどれほどの効果があるのかも、除染した廃棄物をどう処理するのかも、何にも頭にはない人なのだと思ってしまいました。
 アベさんは、福島出身者に復興大臣の首をすげ替えれば、歴代の復興大臣の失態もなんとか乗り越えられると、浅はかな考えで及んだのでしょう。
そんな浅知恵で、被災者をたぶらかせるとでも思っているのでしょうか?
バカにするな!と言いたいです。

◎29日のことも
 29日には永山公民館ベルブホールで、「アイヌ民族との出会い、そして全国に暮らす人々のもとへ」というイベントがありました。
写真家の宇井眞紀子さんのスライドとトーク、上村英明さん(恵泉女学園大学教授、国際(人権)法、平和学、植民地論、NGO論)と宇井さんの対談でした。
主催は「多摩平和イベント実行委員会」で、18:45〜21:15という時間帯での会でしたが、参加者は私を含めて多摩市在住ではない人が半数近くいて、この問題に関心がある仲間が多い事、嬉しく思いました。
 宇井さんは長年にわたってアイヌの人たちを取材し続けてきて、これまでに発表されてきた写真集や、取材にあたっての姿勢に私は以前から惹かれていました。
宇井さんの新しい写真集『アイヌ、100人のいま』に関してのクラウドファンディングのご紹介は、以前に「一枝通信」でお伝えしましたが、刷り上ったばかりのその本も会場で販売されていました。
いま私たちの隣にいるアイヌの人たちを伝える、素晴らしい写真集ができました。
 上村さんのお話を聞くのは初めてでしたが、お二人の対談は、民族差別や排外主義が蔓延る現状のいま、とても意義ある対談でした。
上村さんのお話の中で、日本が近代国家の仲間入りをした明治時代以後に政治的・制度的に差別思想が固定化していったという点は、原発事故で鮮明になってきた「東北蔑視」
とも相まって、私は深く頷ける事でした。
会場で購入して帰った上村さんの著書『新・先住民族の近代史』、読むのが楽しみです。

 会の開会冒頭には、多摩市長の阿部裕行さんの挨拶がありました。
いま、平和集会や憲法集会などを持とうとするとき、主催者は会場確保にとても苦労します。
使用料が安い公共の施設は、国の姿勢を“忖度”してそうした意図を持つ集会には会場を貸さないようになってきているからです。
阿部さん自身がこの「多摩平和イベント実行委員会」初代代表だったそうですが、この日の挨拶の中でもハッキリと、アベ政権下の教育政策に対して異議を話されていました。
地方自治体の首長の姿勢が、そこに住む子供たちの未来に大きく影響して来る事を、改めて感じたのでした。                                 

いちえ


2017年4月28日号「お知らせ③」

お知らせ③−1
トークの会「福島の声を聞こう!vol.23」は、5月27日(土)です。
ゲストスピーカーは、飯舘村の長谷川健一さんです。
3月31日に避難指示が解除されましたが、除染後の線量も下がらず除染廃棄物を詰めたトン袋(1トン入るからと、そう呼ばれます。フレコンバックです)がそこら中に野積みにされたままなのです。
帰還するのは70代以上の人ばかりだそうです。
長谷川さんには第8回のトークの回でも話していただきましたが、その後起きたことや、行政機能が戻った村の暮らしをお話いただきます。
メディアの情報からは伝わらない実態を、映像とともにお話いただきます。
長谷川さんのお話をぜひお聞きください。

お知らせ③−2
これもまた、チベットをテーマにした映画です。
チベット亡命者の女性ラモツォと、その家族を6年追ったドキュメンタリーです。
ラモツォの夫のドゥンドゥップ・ワンチェンは、2008年の北京オリンピックに関しての映画を作ったことで「国家分裂扇動罪」で懲役6年の刑を受けました。
2014年の釈放後も政治的権利を剥奪されたまま監視下の中国で暮らし、家族の再会は果たされていません。
この6月5日に彼の政治的権利が戻ってくることになりました。
そのタイミングに合わせて、今秋公開予定の映画が一日限りで初公開されます。
当日は私もトークをします。
チベットの現状を知っていただきたく、皆様のおいでをお待ちしています。 

vol23    

ラモツォ表4_25            

いちえ


2017年4月27日号「お知らせ②」

集会のお知らせです。
「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」を立ち上げたのは2014年でした。
小泉政権が自衛隊をイラクへ派兵するのに反対して、女性たちで立ち上げたのです。
「平和を願う人、この指とまれ」のように賛同する仲間が増え、反戦平和・反貧困・脱原発・反差別・環境破壊許さないなどなど、立場を超えて手をつなぎあい訴えてきました。
あの頃よりもなお、なお酷い政治状況になっている現在、憤りで胸が裂けそうです。
アベ政権は私たちの願いとは真逆の方向に舵を取り、戦争をする国に突き進もうとしています。
私たちは、世界に紛争を広げることに加担せずに平和に暮らしたい!
「戦争への道は歩かない!」平和を願う人たち集い、声をさらに大きくしましょう。
6月3日(土)、皆様のご参加をお待ちしています。       

いちえ

vol.18_新チラシ表vol.18_新チラシ裏


2017年4月27日号「お知らせ①」

お知らせが4件あります。
チラシを添付しますが、容量の関係で一度に送信できないといけないので3便に分けてお送りします。
続投しますが、どうぞご寛容にお願いいたします。

まずはソンタルジャ監督の映画『草原の河』のお知らせです。
岩波ホールで今週末の29日から公開されます。
日本で初めて一般公開されるチベット人監督による映画です。
草原で暮らすチベット人の暮らし、幼い娘と父、祖父、三代の心情を描きながらチベット人の宗教観や、急激に変わりつつある生活様式の変化などを垣間見せてくれます。
監督は声高に政治的なことは言いませんし、この映画もそれが主題ではなく“家族”という普遍的なテーマを追っていますが、映画の冒頭の方でスクリーンに映るのは生態移民政策による画一的な住居群です。
そんなシーンに私は、草原から引き剥がされているチベット人の現状にも思いを馳せました。
主人公の少女は監督の親戚の子供で、牧畜民の娘です。
演技には素人ですが、「上海国際映画祭」で。史上最年少ながら最優秀女優賞を撮りました。
ぜひスクリーンで彼女に会ってください。
きっとハートを射抜かれることと思います。             

いちえ


2017年4月20日号「4月14日、傍聴報告2件」

 

◎安保法制違憲 差止め訴訟
 4月14日午前10時半から、東京地方裁判所103号法廷で、安保法制違憲 差止め請求事件の第3回口頭弁論が行われました。
原告代理人の福田護弁護士と古川(こがわ)健三弁護士、原告本人のH・Kさん、T・Tさん、Y・Hさんが意見陳述をしました。(注:みなさんは「です。ます調」で話されましたが、「だ。である調」で記します)

●原告代理人 弁護士:福田護さん
*厚木基地判決と差止めの訴えの正当性
①厚木基地行政訴訟最高裁判決と本件の処分性
 本件の最大の争点は、差止め対象行為の処分性にある。
原告らは集団的自衛権の行使等は国民の平和的生存権を侵害し、それを受忍させるものだとして、国民に対する公権力の行使、すなわち処分であると主張し、その差止めを請求している。
 しかし被告は集団的自衛権の行使等は行政事件訴訟法3条2項の「処分」に当たらないからと、請求内容の審理に入ることなく却下すべきだと主張している。
 最高裁は昨年12月8日、厚木基地における自衛隊機の運行差止めを行政訴訟で求めた事件では、差止めの結論は否定したが、自衛隊機の運行を行政事件訴訟法の「処分」として、差止めの訴えを起こすことができることは明確にした。
防衛大臣の権限に基づく自衛隊機の運行が基地周辺住民に対する力関係で、騒音等の被害受忍を義務付ける公権力の行使に当たるとするもので、それは本件で原告らの主張と法的構成としてパラレルな関係にある。
従って本件のような「処分」の捉え方と差止めの訴えという訴訟類型を採ることが、最高裁判例として肯定されたということだ。
 被告は厚木基地訴訟は「自衛隊機の運行に必然的に伴う騒音等が、周辺住民の法的地位に直接的影響を及ぼす事案」であるのに対し、本件の集団的自衛権の行使等は「原告らの権利義務になんら直接的な影響を及ぼさない」から事案を異にすると主張している。
 しかし、厚木基地判決で公権力性を示すものとされる「受忍義務」も、周辺住民になんらの作為・不作為を求めるものでなく、最高裁調査官の判例解説でも、住民は「運行に伴う不利益な結果を受忍すべき一般的拘束を受けている」と解説されている。
それは公権力の行使により不利益な結果を受ける状態に置かれることに他ならず、「法的な権利義務関係に直接的影響を及ぼさない」点では、本件と厚木基地航空機騒音のケースとに違いはない。
②横浜地裁での被告答弁は処分性を受忍していること
 安保法制違憲訴訟は横浜地方裁判所にも民事訴訟で提起され、原告らは集団的自衛権行使等の差止めを、平和的生存権・人格権等による妨害排除請求権という私法上の権利に基づいて求めている。
 これに対し被告は、集団的自衛権の行使等は「私法上の行為ではなく行政権の行使そのものであるから、本件各差止め請求は、必然的に内閣総理大臣、防衛大臣またはその委任を受けた者の行政上の権限の行使の取消変更又はその発動を求める請求を包含するものである」から、民事訴訟による請求は不適法だと主張して却下を求め、その根拠として、運輸大臣や防衛庁長官の権限の行使を「公権力の行使」だとした大阪国際空港最高裁判決と厚木基地第1次訴訟最高裁判決を援用している。
したがって被告は、集団的自衛権の行使等について横浜地裁では公権力の行使(処分)だと主張し、本件東京地裁では公権力の行使(処分)ではないと主張していることになる。
 これはまさに自己矛盾・自己撞着であり、ご都合主義に他ならない。
そしてそれは本件請求について被告が却下を求める拠り所を,自ら否定することに他ならない。
 よって被告は,双方の主張の関係について明らかにするとともに,速やかに処分性否定の答弁を撤回し、本件本案について正面から議論することを強く求める。

●原告代理人 弁護士:古川健三さん
*原告らの権利侵害と事前救済の必要性
 新安保法制法の制定は、「立法行為」のかたちによる憲法破壊行為だった。
立法の内容が憲法の一義的な文言に反しているにもかかわらず、あえて立法行為が行われた場合に立法行為が国家賠償法上違法とされる場合があることは、昭和60年11月21日の最高裁判決が認めている。
さらに平成17年9月14日の最高裁大法廷判決(在外邦人選挙権制限違憲訴訟上告審判決)は、「立法の内容又は立法不作為が国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合」には、国会議員の立法行為又は立法不作為は国家賠償法1条1項の適用上違法と判示した。
 立法行為の違法性の判断は立法内容の違法性とは区別されるが、本件において歴代の政府見解として示され規範として定着していた憲法9条の解釈、すなわち集団的自衛権の行使を認めず、非戦闘地域以外での後方支援活動は認めないとしてきたこれまでの憲法解釈を覆し、大多数の憲法学者、元内閣法制局長官や元最高裁判所判事による違憲との指摘を無視して強行採決の結果新安保法制法が成立した。
これにより戦争被害者をはじめとする原告らの平和的生存権、人格権、憲法改正・決定権を侵害しており、立法行為の違法性が認められる例外的な事案である。
 新安保法制法の制定は憲法改正手続きを経ずに、確立された憲法規範を変更したものであり、憲法改正手続きの潜脱である。
 このことは、2017年2月8日の衆院予算委員会で、防衛大臣が、南スーダンの情勢について殺傷行為などはあったが法的意味での戦闘行為ではない、憲法9条上問題になるので「武力衝突」という言葉を用いていると強弁したことがよく示している。
これは、新安保法制法に基づく新任務を付与しての南スーダンへの自衛隊派遣は、憲法9条に違反するものであることを政府自らが自白したものである。
 憲法改正・決定権が国民に在ることは、国民主権及び民主主義原理の根幹であり、それは抽象的なものではなく、憲法改正手続きに参加し意思を表明することは、個別の国民の具体的な権利である。
これを侵して憲法を蹂躙し破壊することは、国民の主権を奪うことであり立憲主義に対する重大な挑戦行為であって、決して許されてはならない。
 ましてや、今後集団的自衛権の行使としての自衛隊出動などが行われることになれば、憲法違反の状態が固定化し、現状への回復は極めて困難であるから、事前の差止めを行う必要性は極めて高い。
 準備書面6では原告らのうち15名の具体的な陳述をもとにして、その被害の内容を述べている。
戦争体験者の空襲体験、原爆による被爆体験は、いずれも想像を絶するものがある。
新安保法制法の成立は彼らにトラウマを呼び起こし、新たな精神的苦痛をもたらしている。
海外の紛争地を取材するジャーナリストは、深刻な身体・生命の危険を感じるに至っている。
特別永住権を持つ在日コリアン2世の原告は、もしも朝鮮半島で有事ということになれば、自分は「敵国人」とみなされるのではないか、太平洋戦争当時に在米日本人が強制収容されたのと同じ事態が起きるのではないかと危惧している。
原発技術者、運輸労働者などもテロの危険を感じ。又新安保法制法の下で戦争に協力させられることになる。
 新安保法制法が強行採決され施行されてから1年、今国会では共謀罪の審議が始まっている。
宗教家、社会科学者たちに対する治安維持法による思想弾圧、宗教弾圧はもはや過去のものではなく、近い将来に必ず再び繰り返されると予想せざるを得ない。
立法府と行政府が著しく劣化して腐敗が激しい今日、この流れを司法が押しとどめなければならない。
この法廷には日本の未来がかかっていると言っても過言ではない。
 裁判所には、是非、原告一人一人の陳述書に込められた心からの訴えを真剣に受け止めて慎重に後審理いただきたい。

●原告本人:H・Kさん(女性)
 私の家族は両親と私の3人だが、3人とも障害者手帳を持っている。
父(67歳)は脳性小児麻痺の後遺症による歩行障害、母(73歳)はポリオの後遺症による歩行障害で、二人とも車椅子を使っており、年金暮らしだ。
 母は、洋裁の技能士として知事表彰を受けるなど、身体が不自由ながらも身につけた技能を如何なく発揮し、地域社会において生活を確立してきたが、加齢と共に障害の程度が進み、今ではて指の自由を失い、ハサミや針を扱うことができない。
 父は、以前はタクシー会社で配車の仕事をしていたが長年の無理がたたって歩行の困難度が増し、痛みに耐えながら生活している。
 私は痙性対麻痺という病気で子どもの時から歩行障害がある。
進行性の障害ではないが、緩やかにではあるが確実に運動の範囲が狭められていくのを感じながら、今は車椅子や杖を使って歩行している。
 私は大学を卒業後、大学院を経て、自立して働いてきたが、現在は少しでも両親の力になりたいと地元に戻り、実家の近くで暮らしている。
介護サービスを利用し、仕事との両立を工夫しながら両親の生活を支えている。
県の職員として働いてきたが、昨年4月からは休職し、労働組合の専従役員として職場の問題解決に務めている。
 今回の安保法制で、私や両親が受けた衝撃は大変大きかった。
両親は戦中・戦後の混乱の中、障害者として困難な人生を歩んできた。
 母は、障害を持つ私が社会的に自立できるようにと支援をしてくれた。
母の時代、障害者は公立高校に入ることが許されておらず、必要な教育を受けることができなかったという。
そこで私にはできるだけの教育を受けさせ、自分の仕事で食べていけるようにと配慮してくれた。
そのおかげで私は、現在県の職員として地域住民のために働いている。
 けれども私のこの生活も、安保法制の現実化の下で、維持できないのではないかという強い不安と言い知れぬ恐怖を感じている。
戦争中にこの国で、障害者がどう扱われてきたかという歴史から思うことだ、
戦時中の学童疎開では、障害児は対象外だったというが障害者は生きるに値しない存在と国家にみなされてきたわけだ。
ナチスによる障害者虐殺の事実もある。
 安保法制は人を殺すことを認める法律で、軍事への莫大な支出を重ねる一方、医療・福祉への予算は削られていく。
それにより障害者は、「お荷物」で役に立たない、疎ましい存在だという空気が、社会に蔓延していくことが恐ろしい。
 戦後、世界では障害者が健常者と同じように暮らせる社会を目指して動いてきた。
21世紀になり障害者権利条約が国連総会で採択された後は、日本も国内法の整備を進め、やっと批准にこぎつけた。
現実には障害者として日々の生活に困難を抱える者にとって、障害者を健常者と同じ価値を持つ存在として認め、その差別解消を目指す動きは、私には社会が少しずつ明るくなっていくような動きで、希望そのものだった。
 ところが安保法制によって、社会を取り巻く空気が私たち障害者にとって一変した。
昨日今日、社会は変わっていないように見えても、すでに舵は切られた
抗いきれない大きな力によって、暗闇に向かってゆっくり引きずり込まれるような、そんな恐怖と不安に押しつぶされそうになっている。

●原告本人:T・Tさん(男性)
①亡父の戦争体験
 私の亡父は大正9年(1920年)宮城県の田舎町に生まれ、尋常高等小学校卒業後上京し、旋盤工をしながら日大の理工学部の夜間部に通ったが戦局の悪化に伴い昭和18年に繰り上げ卒業となり、関東軍銃砲部隊に配属された。
 父が配置されたのはソ連国境の東寧という巨大な要塞だった。
1945年8月9日未明、ソ連軍の突然の砲撃が始まり東寧要塞も集中砲撃を受けたが、分厚いコンクリートで造られた要塞は持ち堪え、直ちに反撃の砲撃戦となった。
口径20cmを超える重砲も何発も立て続けに撃ち続けると砲身が真っ赤に焼け付き、初年兵が外に出て砲身にバケツの水を浴びせて冷ます作業をするが、周囲をソ連軍に包囲された中、機関銃弾を浴びせられ何人も死んでいった。
父は、入隊したばかりの10代の若者たちが次々に戦死する有様に「戦争の怖さ」を初めて知ったという。
 やがて、要塞の外周から次々に突破され、中隊長から砲台を自壊して脱出するように命令され、重砲中隊の残存者たちは森林の中に逃げ込んだ。
 玉音放送から5日後の8月20日、日本軍の格好をした3人の兵隊を発見し誰何したところ、動員された朝鮮兵とわかり、中隊長は「敵前逃亡」と決めつけて3人の斬首を命じた。
命じられたのは父と軍曹の二人で、父も一人の朝鮮人青年の首を切り落とした。
父はその瞬間の、軍刀の刃先が頚椎に食い込んだ瞬間の感覚が忘れられず、死ぬまで「恐ろしいことをしてしまった」と悔やんでいた。
夜中にうなされることが、死ぬまで続いた。
②史学科を選択し、地域医療に
 父や、東京大空襲で被災した伯父たちの悲惨な戦争体験を小さな頃から聴いて育った私は、「なぜ戦争が起きるのか?」を理解しようと大学の文学部西洋史専攻に入学し、戦争史を中心に学んだ。
そして戦争は自然現象ではなく、戦争をしようとする勢力がいてはじめて勃発するというごく当たり前の結論に至った。
 現在私は、小さな診療所の事務長として、命を守る仕事に尽くしている。
③集団的自衛権・安保法制は憲法違反であり、私には耐えられない!
 2014年7月1日、政府は「集団的自衛権」を閣議決定し、2015年9月19日に安保法制が強行採決され、私の怒りと不安は最大限に募った。
私の一人息子や同年代の若者たちが、戦地に駆り出され銃火にさらされる時代が始まってしまった。
いま歯止めをかけなければ父が経験したような、いやそれよりももっと悲惨な日々がやってくるだろう。
 憲法前文と九条が明確に禁じている戦争を、絶対に認めるわけにはいかない。
 前の大戦で、2000万を超えるアジアの人々が犠牲となり、日本兵も海外で240万人が犠牲になった。
厚労省の公表資料でも、117万人の戦死者の遺骨が今も遺族に還されていない。
 私は2013年2月に、厚労省のボランティアとして、約2週間、「玉砕」の島=硫黄島に行き、地下壕を掘りご遺骨を回収してきた。
硫黄島では有毒ガスが流出しているので、陸上自衛隊の不発弾処理班と化学防護斑の隊員たちが随伴してくれた。
2週間の間、互いの出身地や家族のこと、なぜ自衛隊へ入隊したのか?などを聞く中で、彼らへの尊敬と愛情が湧いてきた。
 2015年11月20日、陸自部隊が「駆けつけ警護」「共同宿営地防御」の任務を付与されて南スーダンに派遣されてしまった。
私は硫黄島で一緒だった彼らも派遣されるのかと思うと、身が削られるような深い悲しみに陥った。
安保法制がある限り、危険な地域への自衛隊の派遣は行われるだろう。
 また「武力攻撃事態法」では「存立危機事態」を総理大臣が宣言すれば、私たち医療従事者も動員され、私や私の同僚も戦争に協力させられる。
 72年前の戦争の後始末さえできない国が、「集団的自衛権」の名の下に再び戦争ができるようになることなど、断じて許せない!
 シベリアから奇跡的に生還した父も墓石の下で「戦争だけはしちゃいかん!」と叫んでいるだろう。
「玉砕」した硫黄島の将兵も約半分の1万1千人が未だ未帰還だが、彼らも土砂で埋まった地下壕の奥から「戦争しちゃいかん!」と叫んでいる声が私には聞こえる。
 平和に生きる権利を守るため、私は政府の違法性を訴え、安保法制の即時廃止を訴える。

●原告本人:Y・Hさん(男性)
 私は1972年にパイロットとして日本航空に入社し、1991年からの19年間は、機長として主にヨーロッパを中心に乗務してきた。
 飛行機の運航は。気候や地震・火山などに影響されるが、特に国際線は、世界各地の政情や治安の状況に大きく影響されている。
 民間航空は平和であってこそ存在できる産業だから、航空労働者は民間航空が戦争に巻き込まれることには一貫して反対してきた。
しかし、1995年5月の周辺事態法を契機に、自衛隊の民間機利用が目立つなど取り巻く環境が悪化してきた。
 国際民間航空条約は、民間機を使った軍需輸送を禁じている。
条約は例外的に2国間の軍需輸送を認めているが、日本の航空法に日本国籍機の軍需輸送の規定はない。
それは憲法9条があり、軍需品の輸送を想定していないからだ。
 ところが政府は、周辺事態法以後「安全基準を満たせば危険品輸送として可能」「民間機による武器・弾薬の輸送も排除されない」と、それまでの航空法の解釈を変えた。
 2000年8月2は、アメリカ国防省から当時の防衛施設庁を通して国内航空各社に対して米軍の輸送資格を取得するよう申し入れがあった。
これには労働組合の強い反対もあり航空会社は受け入れていないが、要請は現在も続いている。
 2003年のイラク戦争では「戦争反対」の声が高まり、自衛隊派遣では日本の民間機を使用しなかった。
しかし2006年のイラクからの撤退、2009年のジプチへのPKO「派遣」では、日本航空は民生支援を理由に、自衛隊輸送を受け入れた。
 昨年11月30日、日航機がチャーターされ南スーダンへ119名の自衛隊員が輸送されたが、これは「集団的自衛権行使」を容認する安保法制の成立後の閣議決定で、「駆けつけ警護」などの任務が付与され、武力行使も前提とした自衛隊員の輸送だった。
 今日まで、日本の民間機は「報復テロ」の標的にはされなかったが、しかし安保法制の成立で、他国の戦争の助太刀をする自衛隊の輸送は、これまでの輸送とは根本的に異なる。
輸送そのものが相手国から敵視され攻撃されるだけでなく、報復テロの対象が日本国民・国内へと広がるからだ。
 かつて世界一の航空会社だったパンアメリカン航空は、80年代にパレスチナやリビアなどのテロ集団から相次いで攻撃され、多くの犠牲者を出した結果、信頼を失い旅客が離れ、倒産に追い込まれた。
パンナムがテロの標的とされた理由は、軍需輸送を行っていただけではない。
「戦争する国・アメリカ」の象徴だったからだ。
 今年1月、アメリカでトランプ政権が誕生した。
安倍首相は世界に先駆けてトランプ大統領と会談氏「日米の価値観が100%一致した」として日米同盟の更なる深化を評価している。
アメリカが、これまで以上に日本に軍事協力を求めてくることは明らかだ。
安保法制は、日本政府がアメリカの求める際限のない軍事的な協力を断る理由としていた憲法9条の歯止めを取り払った。

 安倍政権は、安保法制の制定で日本を「戦争のできる国」に変貌させた。
これによって、日本の民間機がテロ集団の標的にされる可能性は極度に高まった。
飛行機の旅客や乗務する仲間、後輩が犠牲となることが現実味を帯びている。
私は憲法を蹂躙し、国民の命を軽んじる政権に対していたたまれない気持ちでいると同時に、止めることのできない口惜しさと憤りを感じている。
 裁判所には、大統領令を違憲と判断したアメリカ連邦裁判所のように、法の番人として、三権分立の範を示す判断を下されますよう切望します。

●次回口頭弁論期日について
 これで第3回口頭弁論期日での、原告側の意見陳述は終わりました。
 原告代理人の弁護士さんたちの意見陳述は、法廷用語あるいは法廷での言葉遣いや論法なのでしょうか、発せられた言葉を頭の中で何度も反芻しないと理解できないのですが、原告本人の方たちの意見陳述は、本当に胸に迫る言葉ばかりです。
 原告本人T・Tさんが意見陳述していた時に、傍聴席から拍手が起きました。
前回の口頭弁論の時にも拍手が起き、裁判長は静止しませんでした。
続いてY・Hさんの時にも拍手が起きたのですが、さすがにこう何度もになると裁判長も「傍聴席は静かにしてください」と言いました。
 次回は原告側は、人格権、違憲審査権、PKO駆けつけ警護訴訟として、学者の意見書を提出の予定です。
違憲性そのものについて訴えを深め、次々回でひとまずまとめる予定です。
 被告は原告が一通り主張されたということで処分性について反論予定です。
次回第4回口頭弁論は、7月24日(月)10:30〜、103号法廷です。

◎参議院予算委員会傍聴
 この日午後は、参議院会館で安保法制違憲訴訟の報告会がありましたが、同時刻に参議院予算委員会が開かれたので、報告会には参加せずに予算委員会の傍聴に参加しました。
国会内の迷路を衛士さんの誘導で、予算委員会の行われる部屋に入りました。
各党議員が今村復興相、他の関係者への質問をしました。
その全てを報告すると大変長くなりますから、民進党の増子輝彦さんと自由党の山本太郎さんの質問のほんの一部のみを記します。
復興相が記者会見での発言を撤回するといったこと、住宅支援策について答えた点のみの報告です。

*増子輝彦議員(民進党):原発事故によって区域外避難者は14,000人いるが彼らがなぜ避難したと思うか?
*今村復興相:原発事故に伴って、生活、健康などに不安を感じてだろう。
*増子:原発事故ですね。その責任はだれにあるか?
*今村:国と東電にある。
*増子:そうですね。エネルギー政策を進めてきた国責任があるのは間違いない。
それで避難生活を強いられている人たちがいるが、先日の記者会見での「自己責任」
発言について、改めてこの自己責任発言の気持ちを聞かせて欲しい。
*今村:原発事故が避難の原因であることは認識している。あの時の発言は帰還するかどうかはそれぞれの責任で、自己判断でというつもりの発言だったが、自己責任と受け止められた。
*増子:戻る、戻らないは自己判断でだが、自己判断と自己責任は違う。この発言を撤回して欲しい。
*今村:一度言ったことは戻らないが、お詫びしたい。
*増子:他の大臣も問題発言して撤回している。復興相は、明確に撤回して欲しい。
*今村:撤回します。

*山本太郎議員(自由党):記者会見の今村復興相の言葉に、被災者は大変心を痛めているが、あの言葉は安倍政権の心情だと思うから驚かないが、それが今村復興相から発せられたから驚いている。
復興大臣という立場で、非常にふさわしくない言葉だが、今村大臣はこれまでの他の同じ立場だった方たちと違って、自主避難者の母親たちの言葉に耳を傾けてくれたことがあり、今までの大臣より寄り添う気持ちがある人だと感じていた。
だから驚いた。
母親たちは、あれは大臣の本心ではないと思っているだろう。
その母親たちはいま、避難先から追い出しに遭っている。
避難者の意に反する追い出しは行わないといって欲しい。
*今村:誰にも負けない、被災者に寄り添う気持ちを持っている。
追い出しはさせない。
*山本:強引に追い出すことはさせないという言葉を聞いて、母親たちはホッとしていると思う。

各党議員が質問をし、また鋭く問題を指摘していましたが、政権側からの答えを引き出すことの重要性を思いました。
国会内に入ったのは初めて、傍聴も初めての経験でしたが、これからも機会があれば傍聴したいと思いました。                      

いちえ


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