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2019年8月11日号「お知らせ」

 先日の「一枝通信」で、安保法制違憲訴訟・国家賠償請求事件の裁判の様子をお伝えしました。
通信に書きましたように、いよいよ11月7日に判決が下ります。
 4年前の2015年9月19日、言語同断なやり方で強行採決されてしまった安保法制です。
国民の声には全く耳を貸さずに傍若無人にやりたい放題の行政府と、それに牛耳られてしまった立法府は、審議を尽くすどころか「人間かまくら」と言われるような恥ずべきやり方で、力ずくで委員会採決を経て、成立させてしまったのです。
多くの憲法学者が、憲法違反だと指摘している安保法制です。
そしてまた、その成立過程も、到底許せるやり方ではありません。
私たちは2016年4月26日に、安保法制は違憲であるとして国家賠償請求を東京地裁に提訴しました。
行政府も立法府も信が置けない今、頼りにしたいのは司法です。
三権分立が、機能していると信じたいです。
 みなさんのお力を、お借りしたいのです。
東京地方裁判所へ、「安保法制は違憲」の判決を要請していただきたいのです。
どうぞ、署名にご協力ください。
添付の署名養子でも、ネット署名でも結構です。
http://chng.it/JFp4vTCg6q
拡散をお願いいたします。
第1次提出は9月2日
第2次提出は10月1日
安保東京国賠署名用紙_20190807-1


2019年8月9日号「トーク会のお知らせ」

 暑い毎日が続いていますが、お元気にお過ごしでしょうか?
トークの会「福島の声を聞こう!vol.32」のお知らせです。
 私が初めて南相馬へ行った日から、8年が過ぎました。
そして、その翌年3月から始めたトークの会です。
決して「アンダーコントロール」されていない福島の現状を、被災者の現実を、多くの人に知ってほしいです。
どうぞ、お出かけください。

●2011年3月
 2011年3月11日の午後、それまでに体験したことのなかったような大きな揺れに恐怖を感じて、夫と共に外へ出ました。
外にはやはり私と同じように、不安げに空や建物を見上げている人たちの姿がありました。
向かいのアパートから出てきた若い女性は、恐怖で泣きだしていました。
 近くには息子家族が住んでいるのですが息子は仙台に出張中で、息子の妻と3人の孫は我が家に避難してきました。
息子から連絡があり、その朝に仙台空港から次の出張地の熊本へ向かったと言うことだったので胸をなでおろしたのですが、東京でもまだ余震が続き、揺れるたびに孫たちはテーブルの下に潜り込んだのでした。
 釘付けになって見ていたテレビから原発事故が報じられ、孫たちを連れて避難を考えました。
息子たちはその2年前にサンフランシスコから帰国したばかりで、上の孫二人は米国住民のパスポートがあります。
それで最初は、家族でサンフランシスコに戻ることを考えましたが、ニューヨークに住む娘からは、原発事故によって米国人の中には日本人に対しての差別が生じていると連絡があり、アメリカへの避難は止めました。
 沖縄にいる夫の友人の勧めがあって沖縄に行くことにし、息子はまだ熊本出張から戻っていなかったので、私たち夫婦も付き添って一緒に沖縄に行きました。
沖縄について2日目に出張仕事を終えた息子と合流し、とっさの時にすぐ国外に出られるようにと、パスポートを持っていない一番下の孫の入手手続きをしました。
 私たち夫婦は3月末に帰宅したのですが、息子たち家族はもうしばらく留まって、学校や幼稚園などが始まる前に戻ってきました。
 沖縄にいる間も、戻ってからも、テレビや新聞、ネットからの情報を集めながら、私自身は居ても立ってもいられぬ思いで過ごしていました。
福島へ行きたい!と強く思っていました。
「福島の人たちはどうしているのか?みんな避難できたわけではないだろうに、どうしているだろう?」と、とにかく状況を知りたかったのです。
でも、どうすれば福島に行けるかも判らず、またたとえ行けたところで、私などが行っても、現地の人には迷惑だろうしボランティアの人たちの邪魔にもなるばかりだろうと思っていました。
●2011年7月
 たまたま7月に、岩手県の花巻市でチベットに関したイベントがあり、チベット関係の友人たちと行くことになっていました。
友人たちに「岩手に行くのだから、イベントが終わったら被災地でボランティアをしてから帰ろう」と誘って、友人たちの快諾を得て遠野まごころネットに登録をしたのです。
 遠野まごころネットからバスで向かったのは気仙町でした。
津波をかぶった家の中の瓦礫の片付けをしました。
作業をしているとこの家の主人がやってきて、お礼を言いながら清涼飲料水を置いていってくれました。
私たちも聞きませんでしたし、その方も話しませんでしたが、ご家族を津波で亡くされた方でした。
その方が名乗られた苗字に、津波犠牲者として報道されていたと私には記憶があったのです。
 私でも、被災地でできることがあった、私でも役に立てることがあるとわかって、福島に行きたい思いは募りました。
でも、広い福島のどこに行けばいいのか何も判らずに、ただ行きたいと思うだけでした。
 それから2週間ほど後に長野市でイベントがありました。
映画監督の坂田雅子さん、同じく映画監督の纐纈あやさん、そして私の3人で「女たちの3・11」と題したパネルディスカッションと、雑誌『たぁくらたぁ』編集委員の野池元基さんと環境学者の関口鉄夫さんの講演でした。
お二人のどちらの講演の時だったか、スクリーンに何枚かの画像が映され、中の1枚に「南相馬ビジネスホテル六角」と看板を立てた建物がありました。
それを見て「あ、福島に行くならここに宿を取ればいいんだ」と思った私は、看板にあった電話番号をメモしました。
 イベントを終えて帰宅してから、ビジネスホテル六角に電話して8月9〜11日の宿泊を予約して、また南相馬市社協に電話してボランティア登録をしたのでした。
それが南相馬に通うきっかけになったのです。
●初めての南相馬
 ビジネスホテル六角に着くと、オーナーの大留さんは私の頭の先からつま先までを上からじ〜っと眺め渡しながら「3泊4日ね。何しに来たの?」というのです。
「ボランティアに来ました」と答えると、まるで「こんなばあさんが、何しに来たんだか」と言った感じで「ふ〜ん」と言われました。
そして「これから行くの?」と言うので、「今日はもう受付が終っている時間なので、明日からです」と答えると、「そう。僕たちはこれから仮設住宅に物資を配りに行くから、一緒に行くかい?」と誘ってくれたのでした。
知らずに行ったのですが、そこは地元の市民ボランティアの拠点の一つだったのです。
ボランティアたちは皆地元の人たちで、自らも津波で家を失ったり20キロ圏内の自宅に住めずに、市内に借りたアパートや仮設住宅に住んでいる人たちでした。
 その日の昼過ぎに岐阜からの支援物資が届くのを待って、すでに届いて仕分けしてある物資と共に数台の車に積み込んで、数台の車に分乗して鹿島区の仮設住宅に向かいました。
岐阜から届いた支援物資は、豆腐でした。
これはウルグアイに移民で渡った日本人たちが畑で作った大豆を支援物資として岐阜に送り、それを岐阜の業者が豆腐にして送ってくれているのです。
だから豆腐のパッケージを詰めた段ボール箱には、「ウルグアイの豆腐」と印刷されてありました。
何ヶ所かの仮設住宅を回って物資を配り終えての帰り道、大留さんは津波の爪痕が生々しく残る地域を案内して回ってくれました。
 翌日から社協のボラセンに行く時には、大留さんが車で送ってくれ「帰りも電話くれたら迎えに行ってあげるよ」と言ってくれ、ボラセンに通った2日間送り迎えをしてくれました。

●ボランティアセンターで
 ボラセンで私がしたのは写真の洗浄作業でした。
男性たちは瓦礫撤去作業に関わる人たちが多く、写真洗浄は数名の女性と男性も1、2名いました。
以前からこの作業に関わっているリーダー格の女性から、汚れた写真をウェットティッシュで拭って、汚れを取るように指示されました。
擦り方を強くすると、写真そのものがダメになってしまいます。
男性の一人はキャノンを定年退職した人で、ウェットティッシュで拭うよりもそっと水で洗った方が良いと洗浄の仕方をアドバイスしたのですが、リーダーのやり方は社協からの指示のようで、その指示通りにしないとならないということでした。
でも男性と他に何人かは、こっそり男性のアドバイスに従いました。(もちろん私も)
 お仕着せの決まり通りにやることが、大きな矛盾をはらんでいる。
こんなことは他でも経験していたことです。
私は遠野まごころネットには7月以降も何度か通って、様々なボランティア作業に関わりましたが、ある時こんなことがありました。
支援物資で送られてきた蚊取りベープマットを仮設住宅に配りに行ったのです。
ボラセンを出る時に、係りの女性(日赤の看護師さんでした)が「お配りしながら、被災者のご要望やご意見を聞いてきてください」と言われました。
 86歳で一人住まいの女性に物資を渡しながら「何かお困りのことは?」と尋ねると、彼女は言いました。
「もうじきお盆だけど、私が墓の草取りや掃除をしていたのだけれど、今年はそれができません。掃除をお願いできないでしょうか」
 夕方ボラセンに戻るとそれぞれ係りの人にその日の報告をするのですが、私が86歳の老女からの要望を伝えると、係りの女性はキッとした顔で「墓掃除がボランティアの仕事ですか?」と言いました。
被災者のいうことをなんでも聞けば良いとは思いませんが、でも、その時の係りの態度に私は、「ボランティアって何様?」と反感を持ちました。
●六角支援隊
 そんなこともあって南相馬社協のボランティアには翌月も行きましたが、10月になってからは大留さんたちの「六角支援隊」の活動のみに関わるようになり、いろいろなことをしてきました。
私が関わってきたのは、冬用の下着購入や衣類集め、ビニールハウスや畑作り、試験田での田植えと稲刈り、床屋とネイルサロン、落語会、ぬいぐるみ講習会、伝統食の「べんけい」「柿餅」作りなどなどです。
 皆さんのお話を聞く中で、たくさんのことを学びました。
もともと私はボランティアがしたくて通い始めたのではなく、「知りたかった」のです。
福島の人たちはどうしているだろう?みんな避難できたわけではないだろうに、どうしているだろう?それが知りたかったのです。
大留さんたちと一緒に支援物資を配りながら、被災者の皆さんからお話を聞かせていただいてきました。
聞けば聞くほど、私はなんと、ものを知らないまま馬齢を重ねてきたのだろうと、思うばかりでした。
 お一人、お一人の来し方の中に、日本の歴史が詰まっているようでした。
知らずに過ぎてきた“東北”の、福島の歴史が詰まっているようでした。
大留さんはじめ、皆さんの生き方から学ぶことも多々ありました。
六角支援隊に関わることができて、幸いでした。
●六角支援隊の活動を閉じて、それから
 六角支援隊は、仮設住宅を撤去する人たちが増えてきた2016年に活動を閉じました。
それからもまだ仮設住宅に残っている人たちが居ましたし、私は通い続けていました。
南相馬の仮設住宅は鹿島区、原町区に20数ヶ所ありましたが、私はそれらのすべてに通ったわけではありません。
通ってきた仮設住宅から知り合いが居なくなるたびにそこには通わなくなり、仮設を出てからの移動先に訪ねたりしています。
 今年の5月の連休で、最後まで通っていた寺内塚合仮設住宅も住む人はいなくなりました。
六角支援隊の大留さんも、歳を重ねて少し元気が無くなっています。
一昨年の1月に訪ねたのは、ちょうど私の誕生日でした。
私が「今日は誕生日です」というと「幾つになったの?」と聞かれ「72歳」と答えると、「そうか。あの年(2011年)僕は一枝さんの歳だったんだよなぁ」としみじみと言いました。
 六角支援隊は、もともと南相馬に産業廃棄物処理場建設計画が明るみに出た時、それに反対する人たちが立ち上げた産廃反対運動のメンバーだった人たちです。
 反対運動の会長が大留さん、事務局長が元市長の桜井さん、宣伝部長が希望の牧場の吉澤さんでした。
 これまでよりは私の南相馬通いは間遠になるでしょうが、大留さんや他にも会いたい人たちが何人もいますから、通い続けようと思っています。
月末に、また行くつもりです。
●トークの会「福島の声を聞こう!」
 私自身が被災地に通ってみて、多くの人に現地を踏んでほしいと思うようになりました。
私自身が被災者の方達から話を聞かせてもらう中で、多くの人にこの話を聞いてほしいと思うようになりました。
でも、たまたま私は現地に通うことができる状況にあるけれど、誰もがそうではないことは、よく判っていました。
それなら、現地の方を東京にお呼びして話をしてもらおうと思ったのです。
当事者が直接自分の声と言葉で語るのを、聞いて欲しかったのです。
 懇意にしているセッションハウスの伊藤さんに相談すると、快く会場を無料で提供してくださり、主催「セッションハウス企画室」としてやっていただけることになったのです。
こうして、トークの会が始まったのでした。

 トークの会「福島の声を聞こう!vol.32」
日 時:9月27日(金)19:00〜21:00(開場は18:30)
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158 2F)
参加費:1,500円(参加費は被災地への寄付とさせていただきます)
主催・お問い合わせはセッションハウス企画室へ 03−3266−0461
   mail:session-house.net www.session-house.net
 今回のゲストスピーカーは、原発事故後に間をおかずに福島市から東京へ母子避難した岡田めぐみさんです。
知人もいない東京へ避難してきましたから、当初は孤立無援で大変でしたが支援団体や地域のママたちに助けられて、2012年夏には被災当事者地支援者をつなぐ「むさしのスマイル」を立ち上げて、今も被災者と支援者、また福島から各地へ避難した人と福島に在留している、あるいは一旦避難して帰還した人とを結ぶ活動をしています。
避難の恊同センター世話人でもあります。
 メグちゃんの話を、多くの人に聞いていただきたいです。
皆様のご参加をお待ちしています。              

いちえ

vol32-5


2019年8月8日安保法制違憲訴訟・国家賠償請求事件 傍聴記③

 第11回口頭弁論傍聴記、③で終わりです。
7月25日、この日で結審しました。
判決は11月7日(木)東京地裁103号法廷で、15:00です。

●第5章 本件と司法判断のあり方:伊藤 真弁護士
①立法不作為の違法性
 原告らの主張は、判例の違法性判断枠組みに従ったものである。
これまでの判例は、公権力の主体がその行為に際して遵守すべき規範または職務義務に違反したかどうかが判断の基準になる。
この基準を前提にすれば、国会議員による新安保法制法の立法行為が遵守すべき規範または原告らに対して負う職務義務に対して違反したかどうかによる。
 この点、一見明白に憲法に違反する制定行為であったと考えざるを得ない。
元最高裁長官をはじめとし歴代内閣法制局長官、元裁判官、日弁連、憲法関係者のほとんどが、新安保法制制定過程の政府、国会の行為が違憲であり立憲主義に反すると指摘していた。
国民が納得するような十分な審議もなされず、新安保法制法を強引に成立させた行為は、明らかに国会議員として遵守すべき行為規範に違反し、憲法尊重擁護義務を負う国会議員の職務義務違反である。
各国会議員の安保法制法の立法過程における行為の違法性は顕著であり、明白である。
②国賠法上保護される権利・利益
 被告は、「原告らが主張する権利は国賠法上保護された権利ないし法的利益と認められない」、「原告らが『人格権』侵害の内容として述べるところは、……漠然とした不安感を抱いたという域を超えるものではない」などと、特に根拠、説明を示すこともなく断じ、原告らの主張自体失当であるとして、請求の棄却を求めている。
 しかし、何らの基準や根拠もなく、これまで第3章、第4章で論証してきたような原告らの主張する権利・利益を法的保護から安易に除外することは到底認められない。
 本件原告らの受けている新安保法制法による前述のような個別具体的な不安・恐怖、平穏な生活の喪失、生涯をかけた活動・使命に対する妨害等は、個人の尊厳としての人格権の侵害そのものであり、これに対する賠償請求は、まさに個人の尊厳を求めるための訴えに他ならない。
 特に人格権に基づく損害賠償請求に対し、安易に「法律上保護されるべき利益」を否定することは、不法行為法が果たすべき機能に照らし、許されない。
 被告は、「原告らが『人格権』の侵害と述べるのは、我が国が戦争やテロ行為の当事者になれば、国民は何らかの犠牲を強いられ危険にさらされるのではないかといった漠然としたものに過ぎず、かかる程度の内容では具体的権利性が認められない」と主張するが、では、具体的にどこまで切迫した段階で「漠然とした不安感」が「具体的権利性の認められる不安感」に転ずるというのか。
 新安保法制法が施行されている現在、原告らの不安感は十分に現実味のある不安感であり、すでに平穏な生活利益が侵害されているのである。
原告らは専門家証人により立証を企図したが、裁判所は証人申請を却下した。
証人の供述を踏まえなくても裁判所が判断できるというなら、裁判所には、現在及び将来の危険性を緻密かつ的確に判断することが求められている。
 原告らは、新安保法制法の制定による法的体制の変容、そこでの自衛隊による武力行使の機会及び危険の大幅な拡大、自衛隊・米軍の存在・活動を含む客観的な国際情勢・軍事勢力の下で、それぞれの戦争体験その他の経験や各人が置かれた社会的立場等に応じて、日本が戦争やテロに関与し巻き込まれていく危険、その場合に自分自身に生ずる生命・身体、日常生活、精神面での被害や危険を実感している。
これらは被告の主張するように、なんの根拠も基準もなく、法的に保護される権利ないし利益ではないとして切り捨てられるようなものではない。
③本件における裁判所の職責
 安全保障政策に関する国民の意思は、多様である。
その国民意思を統合して国家意思決定を行うことが、国会には期待されている。
安全保障政策の実現や外交交渉の内容などは政治部門の判断に委ねられているが、その際に内閣、国会が最低限遵守すべき大きな枠組みは憲法で規定されている。
こうした憲法による統制が立憲主義である。
政策の当不当の判断ではなく、こうした大きな枠組みを逸脱する立法か否かの判断こそが、司法に期待されている本来的な役割である。
本件訴訟は、新安保法制法の安全政策上の当否の判断を、裁判所に求めているのではなく、あくまでも、新安保法制法が、憲法が許容している枠組みを逸脱しているか否かの判断を求めているのである。
 そして、国賠法上の違法性の判断ないし原告らの損害の有無の判断に先行して憲法判断をすることは、問題がないどころか必要な場合があるのである。
裁判所には、憲法判断を避けることが許されない場合があるというに留まらず、憲法判断に踏み込まなければならない場合があることも明らかで、本件訴訟がそのような場合であることを原告らは主張している。
 アメリカ、フランス、ドイツにおける各違憲審査性を概観してみると、違憲審査権の行使を躊躇することをせず、それは民主主義と整合するのであり、人権保障と憲法保障に積極的であるがゆえに国民の信頼を得ていることがわかる。
どの国も過去において暗い歴史を持ち、司法もそれと無縁ではなかったが、今日ではそうした過去を克服し政治部門から独立した裁判所として、あるべき姿を確立し、権力分立が実質的に機能するようにその職責を果たしている。
これらの近代立憲主義国家と価値観を共有する日本の裁判所だけが、ひとり政治部門に追随し、実質的な独立性を失い、国民から信頼を失って良いわけがない。
 日本においても、大日本帝国憲法下の裁判所は司法省の監督下にあり真の独立はなく、違憲審査権も認められていなかった。
しかし日本国憲法の下では司法権の独立が認められ、違憲審査権が規定されている。
 いうまでもなく、戦争は最大かつ最悪の人権侵害であり、国家が戦争に近づくのを阻止することは、最大の人権侵害を未然に防ぐことを意味する。
だからこそ、人権保障のためには、憲法9条や前文の平和主義が要請する平和国家としての憲法秩序の維持が必要であり、そのために裁判所が「憲法保障機関」としての役割を果たすことが期待されているのである。
 これまで憲法秩序は、内閣法制局による事前審査によって相当程度確保されてきた。
しかし、内閣法制局長官が首相の配下となり、その意思を忖度し追随するだけの機関に堕落してしまった今、内閣法制局に期待できない。
こうした事態に陥ってしまっている以上、政治部門の外にある裁判所が、内閣の意向に忖度することなく立憲主義の擁護者とし、その役割を積極的に果たす以外に、日本における立憲主義を維持貫徹する方途はないのである。
 特定秘密保護法、新安保法制法、組織的犯罪処罰法等十分な議論と検討が必要な法律が、数の力で押し切られて成立してしまった。
昨今の官僚、政治家の不祥事、不適切な発言、公文書の廃棄、隠蔽、改ざんをあげるまでもなく、議会制民主主義の根幹が揺らいでいる。
これまでにないほど立憲主義、平和主義、民主主義といった憲法価値観が危機に直面している。
こうした時だからこそ、果たさなければならない司法の役割、裁判官の使命があるはずである。
 今日のような憲法の危機に際して、裁判所がその役割を果たさずして、日本の未来はあるのであろうか。
政治的な問題には司法が口を挟まないという態度が、国の方向を誤らせるのではないか。
後世から見れば、あの時が重要な分岐点だったと言われる時に、今私達はいる。
 6月13日に前橋地裁における安保法制違憲訴訟の証人として、宮崎礼壹元内閣法制局長官が、集団的自衛権の行使は違憲であるというのは、この国の憲法実践、国家実践であったと毅然と証言された。
まさに国家権力の中枢で憲法価値を堅持してきた法務官僚としての誇りが感じられる証言であった。
 当裁判所の裁判官にも、法律家としての誇り、プライドを見せて欲しいと思う。
④最後に
 裁判官は特別な権限と地位を与えられた職業である。
「憲法の番人」「人権保障の最後の砦」と言われる任務を担っている。
憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定する。
裁判官としての良心に基づく自らの意思で憲法を蘇らせることが出来るし、目の前で苦しんでいる原告に希望の光を与えることもできる。
これは裁判官にしかできないことである。
そして、裁判官には何も畏れるものがない。
仮にあるとすれば自らの良心だけである。
従うべきものも自らの良心と憲法だけである。
 本件訴訟の原告ら及び代理人も、つい裁判所に「勇気と決断」を求めてしまう。
しかし、「勇気と決断」がなければ憲法に従った判断はできないと決めてかかるのは、裁判所に対して礼を失するだろう。
裁判官が事故の良心に従って法律のプロフェッショナルとして、憲法と法律に則って淡々と職責を果たすのは、むしろ当然のことである。
原告と代理人は、裁判所に良心を持って本件訴訟の事案の本質を洞察し、司法に負託された当然の職責を果たしてもらいたいと期待するだけである。
司法に課せられた憲法保障機能と人権保障機能を全うし、法の支配の実効性を高め、立憲主義の崩壊を防ぐため、政治部門に対し強く気高く聳え立っていてほしい。
このことを弁論を終えるに際して改めて切に願う。

終章 日本はどこへ行くのか:杉浦ひとみ弁護士
 2014年7月1日の安保法制についての閣議決定から5年、「平和国家」日本は大きく変わった。
1、この歴史の変節は、政権が集団的自衛権容認への道程の第一歩として、内閣法制局の人事に手を付けたことから始まった。
 2013年8月8日、安倍首相は、山本庸幸内閣法制局長官を退任させ、集団的自衛権容認論者の小松一郎氏を、従来の慣例を覆して外部から長官に任命した。
 内閣法制局は、内閣における「法の番人」として権威を持ち、憲法の解釈、とりわけ戦後70年にわたり絶えず論争となった憲法9条について政府の解釈を確定する大きな役割を果たしてきた。
内閣法制局の憲法解釈があることで、事後の司法判断を待つことなく法の意味を確定し、これを尊重する事実上の力を持ってきた。
 ところが安倍首相のこの小松長官人事は、政治家による恣意的な法解釈が統制されない構造になったことを意味し、内閣法制局の権威は地に堕ちた。
このあと、国民は行政府の憲法解釈・法解釈を信頼し、尊重することができなくなってしまった。
これまで国を支えてきた内閣法制局の存在価値を、大きく棄損してしまった。
2、安保法制懇報告を受けた安倍首相の記者会見
 翌2014年5月15日首相の私的諮問機関である「安保法制懇」が、「必要最小限度の自衛のための措置」として、集団的自衛権の行使も認められるべきとの報告書を提出し、安倍首相はこれを受けて記者会見を行い、この安保法制懇の趣旨を、政府の「基本的方向性」とする旨発表した。
子供を抱いた母親が紛争地域から待避するために乗船する公海上の米軍艦隊を描いたパネルを掲げ、安倍首相が熱弁を振るったのはこのときだ。
しかし、このような事態が起こり得ないことは間もなく明らかになった。
3、新ガイドライン締結と安倍首相の米議会演説
 2015年4月27日、日米安全保障協議委員会で新安保法制法を先取りして新ガイドラインに合意し、その2日後、安倍首相は米議会上下院合同会議において、新安保法制法が法案として国会に提出もされていないうちに、アメリカに対して「夏までに法案を成立させる」と、公言してしまった。
国内のすべての手続きを完全に無視した、国外でのフライングだった。
4、5,14閣議決定と安倍首相の記者会見
 私的諮問機関からの報告を受けて2015年5月14日、新安保法制法が閣議決定され、同日安倍首相は記者会見で、
「日本が攻撃を受ければ、米軍は日本のために力を尽くしてくれます。(中略)私たちのためその任務に当たる米軍が攻撃を受けても、私たちは何もしない。これがこれまでの立場でした。日本近海において米軍が攻撃される、そういった状況では、私たちにも危険が及びかねない。人ごとではなく、まさに私たち自身の危機であります。」「戦争法案などといった無責任なレッテル貼りは全くの誤りであります。あくまで日本人の命と平和な暮らしを守るため、そのためにあらゆる事態を想定し、切れ目のない備えを行うのが今回の法案です。海外派兵が一般に許されないという従来からの原則も変わりません。自衛隊がかつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、今後とも決してない。そのことも明確にしておきたいと思います」と発言した。
集団的自衛権を認めて海外で武力を行使できるようにするという法案を提出しながら、従来通り海外派兵はしないという矛盾した答弁は、この後、国会審議を通しても貫かれた。
5、最高裁砂川判決による集団的自衛権の正当化
 新安保法制法審議中の2015年6月4日衆議院憲法審査会において与野党推薦の参考人の3人の憲法学者が全員、集団的自衛権の行使容認は憲法違反であると述べたことは国民に大きな衝撃を与え、学問的・理論的正義には逆らえないのではないかと、議論の正常化が期待された。
ところがここで持ち出されたのが、「砂川事件判決は集団的自衛権も認めている」という詭弁だった。
砂川判決が集団的自衛権について何も触れていない、判断していないのは、ここにいる裁判官、弁護士らも含め法曹界にとって当たり前のことだった。
6、参議院保安委員会での暴力的な強行採決
 参議院の保安委員会では、同年9月17日、委員長不信任案が否決され、委員長が席に戻るや、他の委員会の与党議員がなだれ込んで委員長を取り囲み、「人間カマクラ」を作って防護し、強行採決させまいとする野党議員を暴力で跳ね返した光景は、今なおありありと浮かぶ。
速記には「議場騒然、聴取不能」と記録されるような状況の中で、「採決」が行われた。
なんら報告もされていない横浜地方公聴会の速記録も議事録には添付されていた。
 どれほどの議会軽視、民主主義軽視でこの重要な法案が扱われたのか、これを正規に成立した法律と考えてよいのか。
7、南スーダンPKOと無謀な新任務付与
 このようにして成立したとされる新安保法制法の最初の適用は、2016年11月の南スーダンでの「駆け付け警護の新任務付与」だった。
 南スーダンでは戦闘が繰り返され、同年7月8日から11日の首都ジュバにおける戦闘では、300人以上が死亡し、自衛隊の宿営地の頭越しに両派の銃撃戦・砲撃戦が展開され、そこには停戦合意など存在せず、PKO5原則など到底満たされる状況ではなかった。
 自衛隊作成の日報に「戦闘」「銃撃戦」等の言葉があるほか国連などの報告書でも戦闘であったことは明らかだった。
にもかかわらず、防衛大臣は「戦闘」ではなく「衝突」とごまかし、同年11月15日、現地に向かう第11次隊に対して駆けつけ警護の新任務を付与した。
これは、自衛隊員をまさに戦闘の危険にさらすことにほかならず、また自他の殺傷に及ぶ危険にさらすことにほかならない。
 加えて後日、日報隠蔽問題が発覚した。
自衛隊の生命と安全を軽視したものであったことは明らかで、原告らが、この法制に多大の危惧や不安を覚えたことは、根拠のあるものだった。
8 武器等防護とミサイル防衛による北朝鮮との軍事的対立における当事者化
 この法制の適用第2弾は、2017年5月の武器等防護の実施だった。
 当時極度の緊張関係にあった米朝の対立関係の中で、アメリカ側の軍事的対立当事者として、同月1日、日本最大のヘリ空母型護衛艦「いずも」がアメリカの貨物弾薬補給艦を房総沖から警護を始め、翌日には途中から護衛艦「さざなみ」も加わって、北朝鮮に圧力を加えるために日本海に展開しているカールビンソン空母艦隊の補給に向かうとみられる同補給艦を、奄美大島付近まで警護し、なんらかの侵害行為が米艦になされた時には、自衛隊(形式的には自衛官)が武器等を用いて防護するというものだった。
 この武器等防護の実施に対し、北朝鮮は、「日本が真っ先に放射能の雲で覆われる」などと反応した。が、米朝の緊張関係は、外交努力で緩和されうるものであることも知れた。
9 日米同盟の下で戦う自衛隊への変貌の危険
 新安保法制の下で自衛隊は、地理的限界なく、自らの海外での武力行使や、武力行使をする外国軍隊に近接した場所での後方支援を行うなど、危険性の高い任務、行動、権限を大きく拡大し、それに対応できる編成、装備等を拡充し。かつ、攻撃的な機能を具備してきた。
2018年12月の新防衛大綱及び新中期防に置いて、これらが集大成されてオスプレイ17機の購入、長距離巡航ミサイルの導入、ステルス機F35戦闘機の大量導入(合計147機)、ヘリ空母型の護衛艦「いずも」や「かが」の改修など、配備が進められてきた。
 これらは中国に対する大綱措置としての性格が中心に据えられ、アメリカと一体になって戦える自衛隊の体制が構築されつつある。
実際には自衛隊は限りなく米軍のシステムの中に呑み混まれるが、そのとき、憲法9条の歯止めも失った日本が、日米関係の中でいかなる危険な立場に置かれることになるのか、私たちは冷静に見極めなければならないところに来ている。
10 不穏なイラン情勢
 まさに今、アメリカはイランとの関係でホルムズ海峡での航行の自由を確保するための有志連合の結成を目指す方針を明らかにし、日本に対しても参加を呼びかけている。
 しかし、安保法制により、アメリカの要請を法的に断る根拠を失っている。
11 宮崎礼壹元内閣法制局長官の証言〜歴史の岐路に立つ司法の役割
 6月13日、前橋地裁における安保法制違憲訴訟の証人尋問で、2006年9月から2010年1月の退官まで内閣法制局長官を勤めた宮崎氏は、その経験を基に、1972年(昭和47年)10月14日政府から参議院決算委員会に提出された「集団的自衛権と憲法との関係」という書面の作成経過を説明した。
政府は昭和47年見解以前からも一貫して憲法9条の下で集団的自衛権の行使は許されないとの解釈をとり、国会の中で繰り返し答弁され、積み重ねられてきたものであり、それを改めようとするのであれば憲法改正の手続きを踏むべきだと明らかにした。
 そして、「集団的自衛権の行使は違憲だというのは、単にある解釈にとどまるものではなく、国会もそれに従い予算を承認し、法律を制定してきた。政府も国会も一緒になって、日本として、憲法9条の下では集団的自衛権の行使はできないという道を実践してきた。憲法実践、国会実践として集団的自衛権の否定ということをしてきた」と証言した。
 この国は戦後70年間、日本国憲法の下、自らの国の歴史、国の姿を作ってきた。
集団的自衛権を巡る都度の議論と政府の回答は、単に回答が何回も出されたというに留まらず、その論争・回答の積み重ねによって国の方向性が明示され、それは政治の世界にとどまらず、これらを通じてこの国の人々は、「戦争に子どもをやらなくてもいいという安心」や「人殺しをしない国に所属すること」などの意識を形成し、それが日本社会の土壌を形成し、世界からの信頼を獲得し、そういった目に見えないものが地層のように積み重なってこの国の歴史を作ってきた。
集団的自衛権の禁止とそれによる平和の保障というのも、こうした歴史の積み重ねによって形成されてきた。
 この政権の独自の考えで、これまで作ってきたこの国の歴史を作り変えることは許されないことであり、裁判所がそれを見過ごしたり、あるいは積極的に追認することは憲法への違背であるだけでなく、歴史に対する冒涜である。
 今日の状態を招いている行政と国会に対し、その責任と権限において、これを改めさせるべく毅然とした判断をされることを期待してやみません。

★第11回口頭弁論は、裁判長の「これで結審とします。判決は11月7日午後3時、この103号法廷で行います」の言い渡しで閉廷しました。
 裁判官はポーカーフェイスが得意だと言われますが、今回は傍聴していて「おや?」と思うことがありました。
開廷してすぐの頃に、まず初めに裁判長が進行についてなどを原告側、被告側両代理人に確認するのですが、その時に裁判長の声が傍聴席まで届きませんでした。
傍聴席から「マイクを使ってください」の声が上がったのですが、これまでだと「傍聴席は発言しないように」などと言われたのですが、この日は違いました。
裁判長はマイクを使っていなかったことに気づいて「あ、済みません」とすぐに謝り、それからマイク越しによく通るように発言するようになったのでした。
 また原告代理人弁護士の方たちの意見陳述に、しっかり耳傾けて聴き入っているように見受けられました。
 古川弁護士は、原告らの陳述書からを読み上げたのですが、その声が時折詰まってしまうほどに原告の体験は胸に痛く響くものでした。
3人の裁判官はじっと聴き入りながら、特に右陪審は思いが溢れたように目を伏せることもしばしばでした。
 とはいえ、原告から提出されていた証人尋問申請を棄却したのは、この裁判官たちですから、楽観はできません。
原告代理人弁護士の方たちみなが言っていたように、膨大な準備書面を真摯に読み込んで、政権に忖度しない司法の良心に従った判決を導くことを、心から願います。
 またこの日は司法修習生が4人、被告側代理人の斜め後方にいて傍聴していましたが、伊藤弁護士は意見陳述の途中でそのことに触れ、「今日は4人の司法修習生が眠い目をこらえながら聞いていたようですが、あなたたちは難関を超えて今ここにいていずれは検察官あるいは裁判官になるのでしょうが、法律家として憲法を遵守する立場にあることを、この裁判傍聴を通して、しっかりと肝に銘じて進んでいってほしい」と、彼らに語りかけました。
 いよいよ11月7日が判決です。
全国25ヶ所で提訴されている安保法制違憲訴訟ですが、この東京地裁の国家賠償請求裁判が一番初めに判決を迎えます。
その結果は他の裁判に大きく影響しますから、判決のその日、多くの傍聴希望者で地裁を取り囲みたいです。
 どうぞ、傍聴に詰め掛けてください。                

いちえ


2019年8月5日号「安保法制違憲訴訟・国家賠償請求事件 傍聴記㈪」

 前便に続いて、原告代理人弁護士の意見陳述です。
●第3章 新安保法制法により侵害された権利:角田由紀子弁護士
原告らは、平和的生存権、人格権、憲法改正・決定権が侵害されたと主張してきた。
被告は、原告らの述べることは国家賠償法の対象にならず、漠たる不安に過ぎないと切り捨ててきた。
しかし原告らは、さまざまな人生の歴史と経験から、具体的に被害・損害を被ってきており、現実の苦痛を受けていることを、侵害された3つの権利に従って、その苦痛と恐怖を実態的に述べている。
原告らは新安保法制法が着々と実施に移されている日々の中に身を置き、それぞれの身に降りかかった被害が積み重なる事実に、言葉を失う。
㈰まず、平和的生存権について述べる。
被告は、平和的生存権はもとより、「平和」概念そのものが抽象的で不明確であると主張し続ける。
平和は、アジア・太平洋戦争の惨禍と多大な人的・物的被害を経験させられた国民・市民にとって現実的な意味を持つものであり、被告の主張は受け入れがたい。
平和は、国家にとっても国民・市民にとっても、その存立、生存に関わる非常に重要な価値であり、多様な理解の仕方があり、平和概念そのものが不明確であるとは言えない。
例えば、自衛隊法3条1項の「我が国の平和と独立を守り」の文言が「平和」という概念が不明確だから自衛隊は任務につけないと主張したら、国はどう対処するのだろう。
憲法をはじめ、この国の法体系の下では、「平和」も「平和的生存権」も、日常語としてはもちろん、法律用語としても自明のものとして使用されてきている。
平和的生存権は基本的人権の一つであり、憲法前文、9条および13条をはじめとする憲法3章の諸条項が複合して保障している人権の基底的権利であり、自由権、参政権等の複合的な権利である。
それは人権として国との関係で機能するものであり、具体的には国が憲法9条に違反する行為を行い、個人の生命、自由および幸福追求権が侵害されまたは侵害の危機に晒され、恐怖を含む精神的苦痛を被った場合は、損害賠償請求を認める根拠となる。
㈪次に人格権について述べる。
人格権は、「人間が人間であることからその存在を全うするために認められた権利である」との共通理解が、憲法および民法の分野で認められる基本的原理である。
すべての権利は、社会と人間との関係により生成発展するものであり、人格権も、また同様であり、人格権は社会の変化から人々が人間らしく生きることを保障する働きを担うものとなる。
本裁判に提出された憲法学者の志田意見書および民法学者の木村意見書から明らかになったことは、原告らが新安保法制法によって侵害されたと訴えていることは、被告の言うように「漠然とした不安」ではなく、原告らそれぞれの戦争の実体験や社会的知見、歴史への理解などから「ある結果を恐れるにつき相当の根拠が存在する、故に法的保護を要する具体的な被害である」というべきであり、これについて裁判所が立ち入った審理を行う必要があるということだ。
志田意見書が指摘するように、原告らが訴える苦痛や恐怖は、過去の経験の回想によるものではなく、それら記憶の底で沈静化させられていたものが新安保法制法によって再び蘇り再体験によって、いま改めて苦痛に苛まれているのだ。
これを「漠たる不安」と切り捨てるのは事実を見誤っているのであり、国がいま行うべきことは現実に向かい合い被害の実態を見つめることだ。
㈫最後に憲法改正・決定権について。
憲法改正に対する意見表明や運動の機会さらには国民投票権の行使の機会を奪われ、これらの憲法改正手続きが取られずに、違憲である閣議決定がされ新安保法制法が強行採決されたという極めて具体的な権利侵害がなされた。
それらは多くの国民の目の前で行われた消し難い衝撃的な事実だ。
この衝撃的な事実により多くの国民は、自らの権利侵害をされた。
原告らは、自ら戦争を体験し、あるいは両親や祖父母から戦争の地獄の体験を語り継がれ、日本の侵略戦争の痛切な反省の上に立って、戦争を放棄し、戦力を持たないと世界に宣言する平和憲法を何よりも誇りにし、二度と戦争をしないためには憲法9条を守り通さねばならないと強く決意し、その核心に支えられてこれまでの人生を送ってきた。
原告らは新安保法制法が国会に上程されて以降は、国会前の集会に参加し、国会議員に要請するなど、可能な限りのあらゆることを行ってきた。
これらの行動は原告らにとって自らの行き方を貫くために不可欠のもので、それぞれの生活の中で様々に意思表示をしてきた。
原告らの安保法制問題への関わり方は様々であっても、憲法9条の実質的な改変に対して、主権者としての自己決定権を行使したい、しなければならないという思いは共通だ。
それを立法と行政に阻まれたことで原告たちは、怒り、憤り、焦燥感、絶望等を訴えているのだ。
原告の中には、そのため、身体的な不調や苦痛を味合わされて人もいる。
「日本が戦争のできる国に改変されてしまう」という最も恐れ否定していた事態を目の当たりにして、原告らが受けた主権者個人個人としての精神的苦痛は、何としても救済されなければならない。

●第4章 原告らの被害と損害の深刻性:古川(こがわ)健三弁護士
㈰はじめに
第4章では、原告の生の声を類型ごとに示した。
原告らの個別の経験、立場や職業など様々な個別の事情に即して、原告らが感じている現実の危険、恐怖、苦悩,深刻な喪失感が、多くの声から浮かび上がる。
これらは決して「漠たる不安」でもなければ、「法的保護に値しない単なる焦燥感」などではない。
原告らの人生をかけた、魂の叫びなのだ。
憲法研究者の青井未帆教授は、「原告らの主張には、純粋に私的な利益にとどまらない、自己の経験・体験に裏打ちされた高度の公的な利益に関する主張が含まれています」と指摘するように、多数の各界各層の人々が各々の立場、経験に基づいて広く声を上げていることからも理解される。
裁判所には、是非とも多数の陳述書の原文に直接当たっていただき、その行間に込められた原告一人一人の思いに接していただくことを切に望む。
㈪個別の原告らの陳述書から
本日は戦争体験者の家族の陳述内容に触れたい。
戦後74年目を迎える今日、直接の戦争体験者は少なくなりつつあるが、私たちは決して戦争と無縁ではない。
父や母が先の戦争で、体と心に深い傷を負ったという間接的な体験は、原告ら自身の直接的体験と重なり合い原告の人格を形成している。
特に戦争での被害と加害を言葉少なく語る父母や祖父母の姿は、原告らの人格形成に強烈な影響を及ぼしている。
ある原告の父は、兵士として旧満州に行っていたが、帰国後、夜中に大声を出して目覚める日々が続いていた。
父は中国人を縛って寒風の中に晒し、それを見張っていたと告白したそうだが、それ以上、殺戮に加担したなどと語ることはなかったが、子供達には伝えられないようなこともあったのだろうと、原告は思わざるを得ない。
そんな父を身近に見てきた原告にとって、父のような人間を作り出すことになる安保法制の成立は非常な苦痛だ。
ある原告の父もやはり旧満州に出兵し、戦闘で負傷して帰国し、終戦を新潟の陸軍病院で迎えた。
父は戦地で負った傷により外傷性てんかんとなり、夜中に痙攣の発作を起こすと仕事ができない体になった。
原告の父は満州でどんな体験をしたか語ることはなかったが、口癖のように「戦争はダメだ」「二度と行きたくない」と繰り返していた。
原告は、父のような苦痛を後の世代に受けさせてはならないと、新安保法制の制定に強い危惧を覚え、苦痛を受けている。
ある原告の父は、戦時中に教師として作文教育をしたことを咎められて、3年半も投獄されていた。
新安保法制の成立に、自由が奪われることに黙っていられないと陳述書を提出した。
ある原告の父は、ガダルカナルの激戦地から奇跡の生還を遂げた。
しかし出征前には優しかった父は、帰国後ひどい酒乱となり、家族が反抗すると「戦争に行きゃあ分からあ」と叫び散らす日々だった。
原告の母は幼い原告を抱きしめて家から逃げ出しては「川に飛び込んでもいいか」と原告に聞いたという。
戦争は父の人格を破壊し、家族をも崩壊させた。
自分が戦争に行っていないとしても原告もまた戦争により大きな被害を受けており、そのような立場からも新安保法制は絶対に容認することができない。
ある原告の両親は、旧満州開拓団の農民だった。
国策によって旧満州に入植した農民たちは、1945年8月9日のソ連参戦、8月15日の敗戦により広大な極寒の地に置き去りにされ難民となった。
飢えと寒さと病気により多くの人が倒れ、集団自決した人々も少なくない。
原告の両親たちも手榴弾を用意して自決しようとしたが、その時、当時生後数ヶ月だった原告の姉の笑顔がかろうじてそれを思いとどまらせた。
「弾とれば 腕のみどりご 息冴ゆる 命の限り生き延びよとや」
これは当時原告の父が詠んだ短歌だ。
しかし、生きるも地獄の極限状態に、原告の姉と二人の兄は次々と病に倒れ、日本に帰ることはできなかった。
原告の両親たちは、次々と無くなっていく子供達や老人たちを弔う線香が足りず、1本の線香を何本にも折って弔ったそうだ。
原告が母の胎内に宿ったのは、そんな時だった。
原告は姉の微笑みがなければ、この世に存在していなかった。
原告の命はこのように大きな犠牲の上になんとか繋がれてきた。
新安保法制は制定された今、この命を後の世代につないでいくことができるのか、原告は大きな不安に苛まれている。

他にも多くの原告の魂からの声が多数寄せられている。
もう一度繰り返すが、是非とも原告の陳述書そのものを手にとって読んでいただき、原告の痛みに思いを致していただきたい。
㈬新安保法制が破壊したもの、原告から奪ったものは何か
新安保法制は、原告らの生命、身体、財産の侵害とその危険性をもたらせた。
「集団的自衛権の行使」の名の下に、日本が再び戦争ができる国へと変容させたが、戦争は究極の暴力であり、個人の生命、身体、財産に対する最大の侵害行為だ。
戦争体験者は、自らの戦争体験を通じて、戦争は最大の暴力であり人権侵害であることを鋭く告発している。
原告らは決して過去の歴史的事実として戦争体験を語っているのではない。
原告らは「政府の行為によって二度と戦争の惨禍が起こることのないやうに決意し」そのために「不断の努力」をしているのだが、新安保法制を制定した政府の行為は、憲法前文そして9条に真っ向から反するものだ。
新安保法制の制定は、暴力を容認し弱者を容赦なく切り捨てる社会の到来を告げるもので、暴力を手段として敵に打ち勝つことを目標とするのが戦争だ。
2016年7月、相模原市で起きた障がい者らの刺殺事件は、社会を震撼させた。
これに言及して恐怖感を述べる原告は複数ある。
それは新安保法制の根底にある、武力を持って紛争を解決しようとする思想が、「障がい者なんていなくなってしまえ」と無差別に殺戮した殺人者の思想と通じ、ひいてはナチスドイツや戦前日本の恐怖社会を想起させたからだ。
自らや家族が障がいを抱えて生きている原告は、誰よりも早く恐怖社会の到来を察知して警告している。
新安保法制の制定は、個人の権利と自由が大幅に制約される監視社会の到来を告げるものでもある。
新安保法制と前後して特定秘密保護法やいわゆる共謀罪など、個人の権利と自由の侵害を容易にする法律が次々と強行採決された。
このことは特に言論活動に関わるジャーナリストや教育研究者に大きな脅威をもたらし、また宗教者らも大きな危惧を覚えている。
新安保法制の制定過程には議会制民主主義と立憲主義を根底から揺さぶるような重大な瑕疵があった。
原告らは日本国憲法の下、日本は議会制民主主義と立憲主義の下で法的安定性を持つ成熟した市民社会であると信じて生きてきた。
ところが2015年9月、国権の中心であるべきはずの国会で繰り広げられた光景は、日本の立憲主義と法の支配を信じて疑わなかった原告らにとって、足元から地面が崩れ落ちていくような衝撃の場面だった。
この訴訟には複数の元検察官、元裁判官も原告として参加している。
法の支配の実現を職業的使命として生きてきた法曹にとって、法の支配の機能しない社会、立法事実がなくても言った者勝ち、権力を取った者勝ち、都合の悪い事実には蓋をする、記録は残さない、廃棄、改ざんなんでもありの社会は、到底容認することはできずこの訴訟の原告として立った。

★裁判傍聴記、続きます。

いちえ


2019年8月5日号「安保法制違憲訴訟・国家賠償請求事件 傍聴記㈰」

 7月25日(木)は、安保法制の国賠訴訟第11回口頭弁論期日でした。
結審のこの日、原告代理人の7弁護士が、意見陳述を行いました。
意見陳述は「です。ます。」調で述べられましたが、その要約を「だ。である。」調で記します。
◎意見陳述
●序章 私たちはなぜ安保法制意見訴訟を提起したか:寺井一弘弁護士
 既に最終準備書面650ページを超えるものを提出しているが、それでも少ないと考えている。
本訴訟は、我が国の平和憲法と国柄が根本的に問われている事件であり、書面に盛られている内容は国民市民の魂を込めた切実な訴えと願いが込められているからである。
 あなた方裁判官は、原告と代理人が申請していた証人8名の採用をすべて拒否し、本日結審し近い時期に判決を下そうとしている。
この準備書面を時間を惜しむことなく真摯に熟読するよう、あなた方に強く要請させていただく。
 意見陳述の冒頭にあたり、なにゆえに「安保法制違憲訴訟」を提起せざるを得なかったかを述べる。
 立憲史上例がない憲法破壊を強行した安倍政権による「改憲」は、決して認めることはできず、また国家権力の暴走を止め、立憲主義、民主主義の危機について自己復元力を発揮するのは、三権分立の一翼を担う司法こそが行いうる立場にあるからだ。
明白な違憲立法を司法が看過するなら民主主義国家の自殺を意味し、民主国家における司法とは呼べないと確信するからだ。
 長崎違憲訴訟の原告代表を務めた谷口稜嘩さんは「戦後、日本は再び戦争はしない、武器は持たないと世界に公約した『憲法』が制定されました。しかし、今集団的自衛権の行使容認を押しつけ、憲法改正を押し進め、戦争中の時代に逆戻りしようとしています。政府が進めようとしている戦争につながる安保法制は、被爆者をはじめ平和を願う多くの人が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもので、許すことはできません」と述べている。
 東京地裁原告で被爆者の平原ヨシ子さんは「原爆投下は爆心地の浦上で受けて、友人の黒田さんは亡くなりました。自分は喪失感の中で戦後を生きてきましたが、最近はだんだん昔の臭いがしてきています。ああ、これは日本がひょっとしたら、戦争に巻き込まれて行く時が来るのかもしれない、絶対に戦争だけはしてはいけないと思っています」と、法廷で陳述した。
 戦争こそ大量の殺戮、暴力や差別、言論弾圧を必然的に生み出す最大の人権侵害である。日本国民が戦後70年以上にわたり憲法9条のもとで、「一人も殺さない、一人も殺されない」という国柄を堅持して戦争への道を食い止めてきたことを決して忘れてはならず、私たちの提起した安保法制違憲訴訟は、谷口さん、平原さんら新安保法制によって筆舌に尽くしがたい被害を受けた多くの人々の命を賭けた思いと闘いを肝に銘じて展開されてきた。
 東京大学の石川健治教授は「安倍政権のクーデターを完結するのは最高裁判所の合憲判決である」と指摘した。しかし、私たちはこのクーデターを絶対に許さない決意でいる。
 日本国憲法は司法権の独立を明記し、司法に違憲立法審査権を与えた。
人権を保障していくためには政治部門から独立した裁判所による公平な裁判が不可欠との考えから、裁判所に「憲法の番人」としての役割を与えた。
 しかし、戦後70年、日本国憲法のもとで司法の独立はなんども危機に瀕してきた。平和憲法を突き崩すには政治が裁判所を抱き込むことが必要不可欠とされてきたからで、とりわけ2015年に安保法制が強行裁決されて国会成立して以来、この傾向は、ますます強まっている。青井未帆学習院大学教授は沖縄の辺野古訴訟・福岡高裁判決に対して「政権への忖度と言うよりも積極的に憲法を壊すことに加担したと評価せれても仕方ない」と論じ、「裁判所が本件安保法制違憲訴訟において司法に望まれる公正中立の立場を踏まえ、憲法破壊に加担することなく、法の支配の原則に則って判断されることを強く望みたい」と述べた。
 私たちは全国各地で25の「安保法制違憲訴訟」を提起してきたが、その中で前橋地裁では安倍第一次政権で内閣法制局長官を務めた宮崎礼壹氏ら3名を証人として採用し、先月13日に宮崎元長官は「集団的自衛権の行使は憲法が容認する自衛の措置を超えるため憲法違反である」と断じた。
政権の中枢におられた宮崎氏が安保法制の違憲性を明白に指摘したことは極めて重いと考える。
証人尋問は前橋に続いて横浜地裁、東京地裁民事10部の「女の会」の違憲訴訟でも実現されることになっている。
 憲法を蹂躙して行政と立法が暴走する時、それを抑止するのは司法をおいて他になく、今こそ司法が、三権分立の本命的使命を発揮して、この国の岐路を転轍する役割を果たすべきと考える。
司法は、我が国に法の支配と立憲主義、そして平和主義を回復させる負託に応えなければならない責務があることを心から訴えて、私の意見陳述とさせていただく。

●第1章 新安保法制の内容とその違憲性:棚橋桂介弁護士
1、集団的自衛権容認・行使の違憲性
 従来の政府の憲法9条解釈の基本は、㈰自衛隊は、外国から武力攻撃を受けた場合に、これを排除して国民を守るための必要最小限度の実力組織であるから、9条2項で持たないとされている「戦力」にはあたらない、㈪従って、自衛隊が実力を行使できるのは、我が国が武力攻撃を受けた場合に限られ、集団的自衛権などに基づいて海外で武力の行使をすることは許されない、この2点に集約されていた。
 これを前提として、政府は、自衛隊の武力行使が許されるのは、自衛権発動の3要件(㈰我が国に対する急迫不正の侵害があること、すなわち武力攻撃が発生したこと、㈪これを排除するために他の適当な手段がないこと、㈫必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと)を満たす場合に限られるとしてきた。
これらの要件のうち最も重要で、実力行使の歯止めとなるのは、要件㈰だった。
要件㈫により、自衛行動の限界が画され、自衛隊の実力行使は、常に相手方からの我が国に対する武力攻撃を受けて開始される受動的なものであり、かつ、その行動範囲が基本的には我が国の領域内に止まらなければならないとされ、このことが、専守防衛とか、海外派兵は禁止と言う言葉で表現されてきた。
 集団的自衛権は、ある国と密接な関係にある他国が武力攻撃を別の国から受けた時に、自分自身は直接攻撃されていないが、その他国に加えられた攻撃を武力を持って排除するという、国際法上認められた地位・権利と解される。
つまり、他国からの攻撃に対し自国を防衛する権利ではなく、他国を防衛する権利だ。
 集団的自衛権については、政府は一貫して憲法9条の下では、集団的自衛権の行使は許されないとしてきた。
1972(昭和47)年の政府見解に端的に示されているが、憲法9条の下で例外的に容認される武力行使は、外部からの武力行使によって国民の生命が危険にさらされた場合に、これを排除するために限られる。
我が国の(個別的)自衛権の行使は、武力攻撃から我が国や国民を守るための措置であり、我が国以外の第三国に別の国から武力攻撃が加えられても、これによって我が国の国民全体の生命に危険が及ぶことはあり得ないから、集団的自衛権は憲法上許されないと言うのが歴代政府によって繰り返し表明され、国会で積み上げられてきた解釈だった。
 ところが政府は、2014年7月1日の閣議決定で、昭和47年の政府見解の論理を踏襲するとしつつ、結論部分を180度変更して、集団的自衛権の行使を容認した。(横畠祐介・内閣法制局長官は「昭和47年政府見解による『外国の武力攻撃』という部分は、必ずしも我が国に対するものに限定されない」との答弁)
これについて宮崎礼壹証言は、「どうしてそういう答弁をしたのか、極めて不可解だ。
昭和47年見解の全体的趣旨なり結論を見ても、集団的自衛権というのは他国防衛なのだから9条の下では無理という結論が書いてある。私は証人として、そういうような理解を法制局なりかつての政府はしたことがないと申し上げます」と言っている。
 政府は、憲法9条の明文規定に反し、永年の政府解釈あるいは国会議論で積み重ねてきた憲法実践、国家実践に反して、集団的自衛権の行使を容認した。
この政府の新たな解釈により、これまで「自衛権発動の3要件」とされていたものが「武力行使の3要件」(新3要件)に置き換えられることになった。
その内容は「㈰我が国に対する武力攻撃が発生したこと、または我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること、㈪これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと、㈫必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」としている。
 2014年7月の外務大臣答弁も、「日米同盟に基づく米軍の存在及び活動、これが我が国の平和と安全を維持する上で死活的に重要である……その米国に対する武力攻撃は、これは当然、我が国の国民の命や暮らしを守るための活動に対する攻撃になるわけで、これは三原則に当てはまる可能性が高い」と言い、これは新3要件の無限定性を端的に表している。
 さらに、そもそも武力攻撃が発生したかどうかも微妙な問題であり、我が国と密接な関係にある他国に対する急迫不正の武力攻撃が発生したという判断を、我が国が主体的にできるのか、他に適当な手段がないかどうか、実力行使が必要最少限度にとどまっているかそれを超えたかどうかという判断も、我が国が主体的にできるのか。
 このように新3要件は極めて曖昧で歯止めとしての役割を果たし得ず、憲法9条の求めているものに反するため、集団的自衛権の行使を容認した新安保法制法は、憲法9条に一見して明白に違反するものである。
2、後方支援活動等の違憲性
 後方支援活動等は、武力の行使をしている米軍等外国軍隊に対する支援活動であり、自衛隊による物品・役務の提供が中心をなすが、後方支援活動が外国軍隊の武力行使と一体化しないか、自衛隊員が武力行使の当事者になる危険がないかが問題の核心だ。
 新安保法制下における重要影響事態法及び国際平和支援法では、後方支援活動等の対象範囲及び活動内容が大きく拡大し、外国軍隊が武力行使をしている戦闘現場のごく近くであっても、現にそこで戦闘行為が行われていなければ、弾薬の提供や攻撃に飛び立とうとする戦闘機・爆撃機の整備や給油までできることになった。
それは外国軍隊の武力行使に役立ち、武力行使に密接な行為となるため、自衛隊員は非常に危険な場所、立場で行為を行うことになる。
 戦争下では補給路を断つことが相手の戦力を削ぐ最も効果的な手段であり、兵站のうちの弾薬の提供や発進準備中の航空機に対する給油・整備活動は戦闘行為の一環である。
武力行使に当たる後方支援活動等は、武力の行使を禁じる憲法9条1項に反し、違憲というほかはない。
3、PKOの新任務及び武器使用拡大とその違憲性
 改正PKO協力法では、㈰自衛隊の部隊等は、「国際連合平和維持活動」のみならず、国連が統括しない有志連合による「国際連携平和維持活動」への参加も可能となり、㈪かつ、そのいずれの活動においても、これまで憲法9条の解釈上「武力の行使」に当たる危険があるものとして認めてこなかった「安全確保業務」や「駆け付け警護」等を、実施対象としての国際平和協力業務として認め、㈫さらに、任務遂行のための武器の使用等を可能にするなど武器使用権限を大きく拡大している。
 安全確保業務は住民保護等の目的を達成するためには、敵対勢力の妨害を排除してこれらの任務を遂行するために強力な武器使用が不可欠だ。
また、駆け付け警護は、PKO活動関係者の生命または身体に対する不測の侵害・危害を排除し、武装勢力等からの保護・救出等を行うので、武装勢力等の抵抗を克服するだけの強力な武器使用権限を伴わなければ任務の遂行はできない。
 宿営地共同防護のための武器使用については、自己保存のための武器使用と位置付けられているが、実際には複数の国の部隊が共にする宿営地に攻撃があった場合に、共同して反撃することを認めるものだ。
その宿営地の防護活動は、国連PKOの統一的な指揮下に行われ他国の部隊(軍隊)は武力行使を行うのに、共同して行う自衛隊だけが武力の行使でなく自己保存のための武器使用だなどという区別は、そもそも不可能だ。
 これらは武力の使用を禁じる憲法9条1項に明らかに違反するものである。
4、米軍等の武器等防護とその違憲性
 新安保法制法によって新設された自衛隊法95条の2は、自衛隊の武器等防護のために自衛官に武器使用権限を定めた同法95条の適用場面を拡張し自衛隊と連携して我が国の防衛に資する活動に現に従事している米軍等の部隊の武器等を防護するため、平時から自衛官に武器の使用を認めるものだ。
 従来自衛隊法95条で規定されていた自衛隊自身の武器等防護は、我が国の防衛力を構成する重要な物的手段を破壊や奪取から防護するための極めて受動的・限定的な必要最小限のものとして例外的に認められてきたもので、適用範囲は狭く捉えられ「事前回避義務」「事後追撃禁止」など、極めて受動的かつ限定的な必要最小限の使用のみが許されるとされてきた。
 ところが自衛隊法95条の2は、米軍等の武器等が我が国の防衛力を構成する重要な物的手段との評価を前提としており、このような評価には重大な疑問があり、自衛隊、自衛官による防護は容易に違憲の武力行使に至る恐れがある。
自衛隊法95条の2が憲法9条1項に違反することは明白である。

 以上の通り、新安保法制法が憲法9条に明白に違反することについては、疑義を入れる余地はまったくない。
裁判所においては、個々の原告の損害を検討するにあたって、新安保法制法は明白に違憲であるという厳然たる事実を直視し、この事実を踏まえてご判断いただくことを切に願います。

●第2章 新安保法制法の制定・適用の現実的危険性:福田 護弁護士
 新安保法制法の下で、日本が集団的自衛権の行使その他の部力の行使に至る危険、そして日本国及び日本人がテロの攻撃を受ける危険の客観的現実性について述べる。
それらは本件において、原告らが訴える戦争やテロの危険、それに対する脅威・不安などの精神的苦痛の客観的妥当根拠を示すものにほかならない。
1、新防衛計画大綱の攻撃的性格と空母の保有
 昨年12月18日、政府は、新たな防衛計画の大綱(新防衛大綱)と中期防衛力整備計画(新中期防)を決定し、同時にF35戦闘機105機を追加購入して合計147機を導入すること、そのうち42機は短距離離陸・垂直着陸が可能なF35Bとすることを決定した。
 この新防衛計画等によって、日本最大のヘリ空母型護衛艦「いずも」や「かが」を改修してF35Bの離着陸ができるようにすること、すなわち事実上の戦闘機空母を保有することが決定された。
これは「攻撃型空母を保有することは許されない」という従来の政府の憲法解釈を逸脱し、明らかに「専守防衛」原則に反するものだ。
 同時に新防衛大綱・新中期防では相手方からの脅威圏の外から対処可能な長距離ミサイルの導入が決定された。
しかもこの長距離巡航ミサイルをステルス機能具備の戦闘機F35に搭載すれば、敵のレーダーに捕捉されずに、さらに奥地まで攻撃できることになる。
 これにより日本は、改修した「いずも」や「かが」に長距離巡航ミサイルを装備したF35Bを搭載して東シナ海・南シナ海はもとより中近東の海域にまで。戦闘攻撃機部隊を展開することができることになる。
 さらに、本件で証人尋問の申請をしたが採用に至らなかった半田滋氏(東京新聞編集兼論説委員)は、防衛省による「いずも」型護衛艦の能力向上に関する調査研究では、米軍のF35Bを搭載して運用する方法が模索されていることを指摘している。
そして同氏は、6月13日の前橋地裁における安保法制違憲訴訟では、証人として、改修された「いずも」が中東などへのアメリカの遠征打撃群の一員として投入され、戦地へ向かう米軍のF35Bのプラットホームとして使われることまで想定されていることを証言した。
また同様のことが、新安保法制法の後方支援活動等の物品・役務の提供として「戦闘作戦行動のための発進準備中の航空機に対する整備・給油」としてできるようになると指摘した。
2、アメリカの戦争への参加を拒否する拠り所の喪失
 現在、イランをめぐって極めて不穏な国際情勢があり、日本もアメリカが主導する有志連合への参加を求められている。
 以前なら日本は、憲法9条に基づいて集団的自衛権は行使できない、海外派兵はできないと断る根拠があった。
 日本はこれまで、第二次大戦後も世界のどこかで絶えず戦争をし続けてきたアメリカの戦争に、当事者として参加したことはなかった。
一人の国民も、また自衛隊員も、戦闘行為での犠牲になることはなかった。
 憲法9条が、他国のために戦争することを禁じてきたからで、アメリカから自衛隊派遣の強い要求を受けても、湾岸戦争でもアフガン戦争でも、イラク戦争でも、日本は戦争の当事国になることをかろうじて回避してきた。
 ところが新安保法制法の下で、これらの安全弁が取り払われてしまい、アメリカの戦争に自衛隊が参加や支援を求められた時に断る法的根拠がなくなってしまった。
海外での武力行使に、直面する危険にさらされることになる。
3、新安保法制法のこれまでの適用と危険な現実
 新安保法制法の適用が始まって3年、既に日本はアメリカと一体となって他国との軍事的対立関係に入り、自衛隊員が戦闘行為の危険にさらされる事態が、現に生じている。
 南スーダンPKOでは、2016年7月当時、大統領派と反大統領派との戦闘が繰り返されていて首都ジュバでは数日間に300人以上の死者が発生する状況で、そこではPKO5原則の「停戦合意」という条件は失われていた。
自衛他宿営地の頭越しに銃撃戦・砲撃戦が繰り広げられていた。
そんな場所に「戦闘」ではなく「衝突」だと、言葉を取り繕って自衛隊を送り込んだのは、あまりにも危険な法適用であった。
 また、核開発とミサイル発射を巡って極度に緊張が高まった米朝関係の最中の2017年5月に、日本海に展開するアメリカの空母艦隊の補給に向かおうとする米軍補給艦を自衛艦「いずも」等が警護して、日本は米朝の軍事対立の当事者としての立場に組み込まれた。
先述の半田滋証人は、「いずも」は対潜水艦に最も強い護衛艦であり、北朝鮮の攻撃を潜水艦によるものと想定し、米艦艇を守るという具体的、現実的な選択であったことを指摘している。
4、米軍と自衛隊の一体化の危険
㈰新安保法制法に先立ち2015年4月27日に合意された日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)は、日米の軍事的緊密化・共同かを強力に進めようとするものだ。
平時から緊急事態までの「同盟調整メカニズム」を設置し、「共同計画策定メカニズム」を設置する等して、新安保法制法に対応して、平時ないしグレーゾーン、重要影響事態、存立危機事態、国際平和共同対処事態等に対する日米共同の対処を定めた。
また、在日米軍基地および自衛隊基地の共同使用の推進等も掲げている。
 そして、新ガイドラインと新安保法制法の下で、日米の軍事・防衛協力体制を具体的に策定するものとして、新防衛大綱と新中期防は位置付けられる。
2018年10月に発表されたアーミテージレポートの第4弾では、日本にある基地全体の日米共同化や日米の統合任務部隊の創設等までが提唱されている。
㈪この間、実際に米軍と自衛隊の緊密な連携、共同訓練の強化・拡大など、その共同化・一体化が現実に進んでいる。
 アメリカの南シナ海における「航行の自由作戦」時に海上自衛隊が南シナ海で対潜水艦戦訓練を実施したり、尖閣諸島侵攻を念頭に置いた日米の対中国共同作戦計画の策定が進められるなど、アメリカと一体となって戦える自衛隊の体制が構築されつつある。
 米軍と自衛隊と比べれば、アメリカの軍事力は圧倒的だが、その組織上、運用上の一体化が進めば、自衛隊は限りなく米軍のシステムの中に呑み込まれ、その一構成部分にすぎない存在になる。
その時、憲法9条の歯止めも失った日本が、日米同盟関係の中で、いかなる危険な立場に置かれることになるか、私たちは今。立ち止まって冷静に見極めなければならない。
5、アメリカへの追随とテロの危険
 現在に中東には、アルカイダやタリバン、ISのようなテロ組織が跋扈している。
これらの多くは、反米抵抗運動の中から生まれて拡大してきたものだ。
1990年代以降のアメリカの戦争が引き起こしたものであり、とりわけイラク戦争は民間人に膨大な犠牲者を生み、イスラム社会全体に反米感情が広がり、テロの温床となっている。
近時は、OECD諸国に対するテロが顕著に増大しており、日本が国際軍事情勢の中でアメリカと共同・一体化を進めれば進めるほど、日本と日本人もテロ攻撃の対象とされることになる。
 2015年1月にパリで起きたシャルリー・エブド事件、同年11月のパリの同時多発テロ、その後のアメリカ・フロリダ州オーランドのナイトクラブ乱射事件、ニースのトラック暴走事件、マンチェスターのコンサート会場自爆事件など、悲惨なテロが相次いでいる。
2016年7月のバングラデシュ・ダッカのレストラン襲撃事件では、日本人もテロの対象とされていることが明らかになった。
 この間、米軍などはイラクやシリアのIS拠点を武力制圧し、2018年12月にはトランプ大統領がISとの戦いに勝利宣言したが、その後もISやその影響を受けた勢力によるテロは後を絶たない。
 新安保法制法の制定・施行によって、日本がアメリカの軍事戦略に追随し、また軍事的な共同・一体化が進められることを通じて、日本と日本人に対するテロの危険が増大してきていることは明らかだ。
6、不穏なイラン情勢
 2018年5月トランプ大統領は、「イラン核合意」からの離脱を表明し、イランに対する経済制裁等を発動するに至り、イランの核開発を巡る緊張が一気に高まっている。
そしてさる6月13日、安倍首相がイランを訪れ大統領らと会談を重ねていた時に、オマーン湾でノルウェーと日本のタンカーが何者かによる攻撃を受けた。
アメリカは直ちにこれをイランの犯行だと断定して関係が緊張していたところ、6月20日イランによる米軍の無人機襲撃事件が発生した。
これに対しトランプ大統領は、一旦イランの軍事施設などに報復攻撃を開始することを決定したが、攻撃開始の10分前に攻撃を撤回したと報じられている。
その後アメリカは、ホルムズ海峡等の航行の自由を確保するために有志連合の結成を目指す方針を明らかにし、日本に対しても参加を呼びかけている。
アメリカの要請を法的に断る根拠を失っている日本は、大きな試練に直面している。
7、結び
 アメリカの存在と米軍のプレゼンスは日本にとって死活的であるとする政権下で、アメリカが攻撃を受ければ日本の存立危機事態に該当しうるとされている。
また日本の海運会社所有のタンカーへの攻撃は、「我が国の平和と安全を脅かす重大な出来事」だと官邸から表明されている。
 新安保法制法の下では、国際的な武力紛争は、日本にとっての存立危機事態、重要影響事態だとして、あるいは国際平和共同対処事態、武器等防護を発動する事態だとして自衛隊の派遣とその武力行使の危険に直結しかねない。
そして出動した自衛隊員に一度死傷者が生じ、あるいは自衛隊員が相手を殺傷するような事態が生じた場合、この国は後戻りのできない地点へと脚を踏み入れる危険を思わざるを得ない。
 日本国憲法の下、司法は、新安保法制法の適用の危険からこの国と国民・市民を守らなければならない責務を負っていると考える。

★裁判傍聴記、続きます。                    

いちえ


2019年7月31日号「7月12日 津島訴訟・第21回裁判㈪」

 7月12日午後は須藤カノさんの原告本人尋問に続いて、証人関礼子さんの反対尋問が行われました。
原告代理人からの主尋問は今年の3月に為されて、今回は被告代理人からの反対尋問でした。
◎証人:関礼子さん
 関礼子さんは立教大学社会学部の教授で、環境社会学・地域社会論の専門家で、原告が主張している原状回復請求の必要性と、「ふるさと喪失」に関わる社会学的評価を明らかにするために証人をされています。
●関さんの論旨の要点
1、「ふるさと喪失」が持つ被害の重大性
2、「ふるさと」は次の3つを構成要素とする
  ㈰、人と自然との関わり
  ㈪、人と人とのつながり
  ㈫、㈰の関わりと㈪のつながりの持続性・永続性
3、原発事故および放射能汚染が「ふるさと津島」という自然との関わり・人とのつながりという磁場を奪い、これにより「ふるさと」という磁場を持続的・永続的に将来につなげることが著しく困難になっていること及びそれが原告らのアイデンティティーを傷つけていること
4、原告らの主張する「ふるさとを返せ」とは、津島地区の文化・伝統・歴史を未来に繋ぐことを可能にせよという訴えであり、そのためには津島地区の除染(原状回復)が必要不可欠であること。

●関礼子さんの意見書から(3月の主尋問の際に提出されたものから抜粋)
 原告がこの裁判に託しているのは、土地に根ざして生きる権利、すなわち土地の文化や歴史を受け継ぎながら人生を全うするという、ささやかな根源的な幸福を奪われた不公正と不正義を正すには、もはや裁判しかないという切なる願いである。

 浪江町には山間集落である津島地区、平地農村と市街地、漁村集落がある。ヒラバ(平場)、マチバ(町場)と呼ばれた平野部や市街地と、ヤマ(山)とかサンチ(山地)と呼ばれてきた津島地区には、かつて、明らかな地域格差、経済格差があった。山間地の厳しい風土の中で生き抜くために育まれてきたのが“結い”の精神である。
津島地区では田植えなどの農作業の共同作業だけではなく、助け合うこと(相互扶助)、みんなで楽しみながら一つのことを成し遂げること(共同・協同・協働)も“結い”である。
同じ津島地区に住む人がともに(共同)、心と力を合わせて協力しながら(協同)、それぞれが得意分野を活かして何かを成し遂げる(協働)という“結い”の精神は、「私は私」という個人主義的な風潮があるヒラバやマチバとは対照的な気性である。

 津島に開拓に入った人々は食うや食わずの苦労をした。だが、津島地区の自然の恵みは開拓者が開拓地に選ぶだけの優位性があった。豊富な水と豊かな山、食糧になる動植物や燃料となる薪が豊富な土地が、自給自足の生活に適していたからである。
 開拓に入った当時は、開拓に入った家と、元から津島地区に住んでいた「旧農家」との間には微妙な距離があったが、もはや「あいつ開拓者だ、なんて言わなくなった」、「開拓者の家には嫁に行かせないという話は聞いたことがない」、そして津島地区の中に「格差はない」。隔たりを超えて「津島はひとつの家族」になったのである。
以上のように、各行政区の歴史や芸能、自治を継ぎながら、有機的、一体的に形成されてきたのが「ふるさと津島」である。
そこは旧農家にとっては、先祖代々住み続けてきたという歴史的蓄積のある場所であり、戦後開拓に入った開墾の家にとっては、辛苦して根を下ろしてきた場所である。
そして、両者が「ひとつの家族」となって作り上げてきた、かけがえのない地域である。

「ふるさと」そのものであった人びとが、原発事故で土地を追われて「ふるさとを元どおりに返せ」と訴えることになったのである。
 それでは、原告にとっての「ふるさと」とは何か。避難を余儀なくされてからは、涙なくして歌えなかったという唱歌「ふるさと」は、「ふるさと」の3つの構成要素を端的に示す。
第一は人と自然の関わり(「兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川」)である。
第二に、人と人とのつながり(「如何にいます父母、恙無しや友がき」)である。第三に、愛着のある「ふるさと」の自然に対する信頼、いつまでも変わることなく存在する自然の永続性への願い(「山は青き故郷、水は清き故郷」)である。
 ここに象徴されるように、「ふるさと」とは、関わりとつながりが生活や文化、歴史や伝統として編み込まれた空間であり、人びとが、関わりとつながりを編み足しながら生活や文化、歴史や伝統を継いでいく空間である。
そこは住民たちの権限が及ぶ「領分」「縄張り」(territory)として認知される空間でもある。

 山菜採りのような活動は「マイナー・サブシステンス」活動として特徴付けられる。
マイナー・サブシステンスは、主たる生業や副次的な生業ですらない生業活動を指す。経済的にはさほど重要ではないが、季節性があり、自然に分け入って自然と密着して、動植物を捕獲採取する活動である。
創意工夫して自然と駆け引きするマイナー・サブシステンスは「楽しみ」であり、「名人」という社会的名声を得ることのできる活動でもある。
そしてまた、マイナー・サブシステンス活動の空間は、人々が繰り返し働きかけることで、親和性のあるトポス(場)になる。
 マイナー・サブシステンス活動の中で大きな位置を占めていたのは、山菜やキノコの採取である。
山菜は、フキ、ワラビ、ミズナ、タラノメなどであり、食卓になくてはならないもので、フキやワラビは大きな樽に塩漬けにして一年中食べた。
山菜採りという自然に関わる行為は、自給自足に資するだけではなく、人と人をつなぐ“結い”のアイテム(道具)を獲得することでもあった。
山菜採りに行けない人に分けたり、祭りやイベント、診療所の医師や学校の先生との交流の場で振舞ったりした。
近隣縁者への分配分を含めて採取・保存加工するのが当たり前だったし、かつてはフキを採って売り、学校の資金造成を行ったこともあった。
つしま活性化センターが出来てからは、地域の活性化に資する商品としてセンターで販売する人もあった。

 自給自足的な生活は、1世帯、1地域の中で完結するのではない。
世帯と世帯、地域の内外で必要な資源が分配され、均等化することで成立する。
例えば野菜や菌類を栽培する時には、あらかじめ「分ける」ことを見越して自家消費用をはるかに上回る量をつくる。
屋敷に竹林がある家では、タケノコの季節になると「採りに来い」と声をかける。山菜・キノコ採りにも、「採る楽しみ、わける楽しみ」があった。
 さまざまな資源を「わけ合う」ことで、作物の栽培の有無や、作物の出来・不出来は平準化される。
自然に働きかけて得た資源が再分配されて、必要なものが必要なだけゆきわたる状況が生まれる。
「わけ合う」のは有形の物だけではなく、物の代わりに、個々が持つ情報や提供しうるサービスも、物に代わって分配された。
 例えば、出勤途中に通学バスに乗り遅れた子どもを見かけたら、車に乗せて学校まで送っていく、町の大きな病院に通院するお年寄りから、「出勤する時に(ついでに)乗せて行って欲しい」と電話がある。
あるいは医療関係者が地域の患者さんの様子を気にかけて、自宅まで様子を見に行く。行政関係に詳しい人が地域の人の相談に乗る。地域の祭りや行事の世話をする。
 そうすると、自分の家で米や野菜を作っていなくても、「あのとき世話になったから」と、米や野菜、山菜などがどっさりと届けられる。
高齢化によって、一方が分配・贈与する資源を持ち得なくなった場合でも、こうした関係は当たり前に継続されていく。
世代を超えて「あのときに(先代に)世話になったから」と、互酬関係が受け継がれる。
 このような関係は“結い”の一類系として認識されている。
有形、無形の資源が日常的に分配され、分配が連鎖することによって、人間関係が密に結びつき、社会関係資本が持続的なものになった。
「本当に辛くなったら周囲が助けてくれる」という信頼と安心感があり、実際に、津島地区の緊密な人間関係はいざという時のセイフティネットとして機能した。
 例えば使う分の血液を用意しなければ輸血してもらえなかった時代、大事故で大量の輸血が必要になったときに、津島地区の人たちがこぞって献血してくれ、命を助けてもらったという人がいる。
ハンディキャップを持つ子を、「地域の一員」「津島の子」として、ともに愛しみ、その成長をともに見守ってくれていたと語る人がいる。
 人間関係を密にする日常の営みは、ごく自然に社会関係資本を維持するように機能していた。
津島地域が地域活性化に取り組む際にも、それぞれの得意分野を活かして事業が展開された。「かぼちゃまんじゅう」を作る名人に教わって、「かぼちゃまんじゅう」の特産品化をはかり、ニホンミツバチの養蜂をしている人に、蜂蜜を商品に出してもらった。
教師や医師など、外部からやってくる重要な職種の人々を迎える際には、津島地区の一員として気持ちよく暮らしてほしいと、引越しの手伝いや歓送迎会はもちろん、日々の活動への協力に手間を惜しまなかった。
「津島はいいところだと思ってほしい」という純粋な気持ちからであるが、それは「津島は来て良いところだ」という評判につながる。そうした評判は、津島地区の人々にとって嬉しいことであるだけでなく、その後に赴任する人のモチベーションを上げることになった。

●反対尋問:国側代理人
Q:経歴についてお聞きします。専門は環境社会学というが、どのような学問か?
A:自然社会学にも環境社会学はあるが、1990年代に自然保護運動の文脈から社会問題化した環境社会学という分野で携わってきている。
社会学は実証的なもので、環境社会学は発生当初から「現場を見よう」「被害は現場にある」として、現場に出ることを大事にしている。
Q:本件の意見書の作成は現場での実証からか?
A:現場に直接入ることのみでなく、被害者に聞くことも大事だ。
原発事故は公害問題と捉えている。
Q:意見書は弁護団から依頼があってのことか?
A:そうだ。だが、意見書は原告らの実被害について述べている。
「ふるさと喪失」という言葉も、原告の言葉から出ている。
Q:津島地区の住民中、あなたが話を聞いたのは5パーセントに満たない人数ではないか?いささか少なすぎるのではないか?
A:調査方法は住民から直接聞く他に、新聞記事、原告団調書も全て時系列で調べ読んでいるが、言葉で語られていることの他に、語られないこともある。
それらの分析にブレはない。
Q:マイナー・サブシステンスは、津島独自ではなく、人間社会一般に見られるのではないか?
A:人間社会にあることだが、津島地区にも特徴的にある。
Q:帰還困難区域になった津島でなくても、都会でも人が住まずに朽ち果てていく家がある。それは胸が痛むことではないか?
津島の住民だけでなく、都会の人でも自分の持っているものが朽ちていけば胸が痛いのではないか?
A:それは、被害と加害を考えない理屈だ。津島の住民は原発事故の被害を受けて住めなくなっている。
Q:原告にはヒアリング以外、例えば食事を共にするなどで会ったことはあるか?
A:一緒に食事をするために会うことはないが、例えば裁判期日の昼食時に一緒にお弁当を食べたりはする。
●反対尋問・東電代理人
Q:「ふるさと」で暮らす価値は、人によって違うか?
A:原告らは自分たちを「ふるさとの人」とは思っていず、「地元の人」と思っていた。
Q:「ふるさと」に対する思いは、個々人で違うか?
A:思いの強度の違いは若干はあるだろうが、「ふるさと」への思いは同じだ。
損害賠償金の支払いに相違があることは承知しているが、その妥当性についてはペンディング。
一人一人の損害は個別に見ざるを得ない事情はあるが、「ふるさと剥奪」の被害は同じようにある。その場に住めなくなった人は「ふるさと剥奪」の被害に遭っている。
Q:津島地区を「ふるさと」と捉えた根拠を知りたい。
A:津島はもともと自然村6つが合わさって、人と自然との関わり、人と人とのつながりが育まれ、一つの津島になっていった。

★十分にメモしきれず、何か“しり切れとんぼ”のような報告ですが、津島訴訟第21回裁判報告を終えます。
次回期日は、9月19・20日の両日です。
 なお、9月19日は福島原発刑事訴訟の判決です。
勝俣、武黒、武藤の3被告に、責任を取らせる判決をと、強く望みます。


2019年7月29日号「7月12日 津島訴訟第21回裁判①」

 11日に続いて12日にも、原告本人尋問が行われました。
午前中に、石井絹枝さんと今野千代さん、そして午後には須藤カノさんと3人の原告がが証言しました。
午後は須藤さんの後で専門家証人尋問があり、関礼子さんが証言しました。

◎原告・石井絹枝さん
●主尋問に答えて
 昭和45年から浪江町の公務員として住民戸籍等の窓口で勤め、平成11年に産業振興課に配属を望んで、そちらで働いていました。
 18歳で公務員になったのは、津島のみんなのために働きたかったからです。
戸籍係のような職種のことを一般業務と呼んでいましたが、平成11年に移った先は事業課と呼んでいました。
一般業務から産業振興課に移りたかったのは、直接住民の役に立つ仕事をしたかったからです。
 津島は山が多いので、自然相手に少しでも自然の恵みを活かして、春は山菜、秋にはキノコを現金収入に繋げたいと思ってやってきました。
働き方の提案などもしてきました。
津島は宝の山で、自然環境が良く、水も澄んでいました。
春の山菜・秋のキノコなど地元の年寄りは良く知っていて、加工技術なども持っていました。
 地元の人はなかなか気づかないことでしたが、津島は標高350〜450mの高地なので昼夜の温度差が大きいので植物の色が鮮やかに出ますから、色の出るブルーベリー、りんごなどの果実やリンドウなどの花卉栽培を作物としてどうかと提案して、町に助成を交渉しました。
そしてブルーベリーを50本以上栽培する人を8部落対象に募集して、36世帯が作るようになりました。
 またシソ科のエゴマは種まきから収穫までが短期間で現金収入につながるので、推奨しました。
平成11年前には油を絞ることは考えていませんでしたが、みんなでエゴマを作って油を絞ろうと提案して、搾油機を予算300万円で購入して貰い、搾油するようになりました。
搾油するようになる前は、擂り潰して“じゅうねん餅“などにして食べていました。
エゴマを食べていると10年長生きするということから“じゅうねん”と呼ばれる健康食品で、それまでは各家庭で自由に消費していましたが、大規模に現金収入につながるようにしたのです。
 平成12年には、「信用組合津島」という法人を作り、組合活動として「ほのぼの市」を始めました。
活性化センターに機械を設置して、専任オペレーターを2人採用しました。
浪江町だけではなく近隣からも搾油を依頼され、エゴマ油生産化に県・町・農家が一体となって頑張り、大成功でした。
直売場の「ほのぼの市」では、エゴマ油を始めとして浪江町の物産の販売をしましたが、朝早くから開店し、みな自分の商品に自信を持って販売していました。
組合には73人が集まり、一人一口10,000円の出資金を当初の資金として始めました。
売り子は会員内で交代であたりました。
「ほのぼの市」は公務員活動ではなく私的な取り組みでしたが、「100円の商品を作ろう」を合言葉にしましたが、それでは人件費まで出すのは難しかったです。
出品者が自分で値段を決め、同じ商品なら値段は一律にしました。
エゴマ油、かぼちゃまんじゅう、餅、また餅にキムチを入れたキムチ餅など各自自慢の商品が並び、山菜やキノコ、松茸も並び、お客さんの中にはクーラーボックスを持って買い付けに来る業者もいたりで、春秋は大混乱でした。
山菜やキノコを出品した人の中には、50万円の収入になった人もいました。
売り上げの15パーセントは組合へ、85パーセントは出品者の口座へ送りました。
朝7時に開店し、夏場は17時まで冬場は16時まで開店していました。
業者や料理人が買い付けに来るのは、出品者のやりがいとなり、自慢の加工品を持ち寄り、横のつながりもできて、みなで「良いものを作ろう」と、それぞれ頑張りました。
 「ほのぼの市」の他にも東北物産展や東京のアンテナショップ、郡山のデパートにも出品していて、もっともっと発展していく筈でしたが、2011年の原発事故が起きて、無に帰してしまいました。
 夫は酪農をしていましたが、避難時に「おれは牛を守るから、お前は自分の命は自分で守れ」と言い、二本松へ避難しました。
35頭の牛は殺処分しました。
夫は「殺処分したことはお前に言いたくない」と語ろうとしませんでしたが、牛を失い酪農を再開できなかったことを夫の証言から22ページの紙芝居にして、その読み聞かせ活動をしています。
牛の目線で作った紙芝居で、牛になった気持ちで読んでいます。
 「ほのぼの市」は解散し、もう再開は出来ません。
 家族は4ヶ所にバラバラになり、夫は最後まで5頭の牛を守っていましたが、仮設住宅に入居してからうつ病になりました。
 夫と話し合って新たに土地を用意して、「石井農園」を始めました。
津島に帰れる日まで、福島で農園をやろうと思っています。
 津島に戻りたい!帰りたいです。
浪江町の公務員だった時からいつも、町民に恩返しをしたいと思ってやってきました。
浪江町の自然豊かな暮らしが断ち切られたことが、苦しくて悲しいです。
きちんと措置をしておけば、原発事故は防げたのではないかと思っています。
 裁判官の皆様には、浪江町に、津島に帰りたいのにそれができない悔しさを、どうか理解していただきたいです。
●東電代理人から反対尋問
Q:事故当時、赤宇木の自宅は敷地内に2棟の建物があり、1棟に石井さん夫婦が、別棟に両親と長男家族が住んでいましたね?
A:はい。
Q:2棟の建物の名義は夫のタカヒロさんと、あなたでしたね?
東電の賠償金は、このお二人に払われていましたね?
A:はい。
Q:平成25年3月に浪江町職員を退職されましたが、それ以降は何をしていましたか?
A:平成25年4月以降は、「かあちゃんの力プロジェクト」で弁当を作って仮設住宅に配っていましたが、浪江町からは3人が加わって1年9ヶ月続けました。
(*注:「かあちゃんの力プロジェクト」は、東日本大震災と原発事故で農地も加工所も失ったあぶくま地域の女性農業者たちが、“福興”に願いをかけたプロジェクト)
 平成25年6月に福島市に自宅を購入し夫と住んでいますが、家族みんなで住みたくてそこを購入しました。
購入費用は私の貯金と夫への賠償金からで、8人で暮らせるような家にしました。
 三浦さんと私とでエゴマ油を中心に加工品を作って、福島観光物産展やコラッセなどで販売しています。
私が有機農法で作付け、収穫をし、飯坂に加工所を作って、三浦さんが搾油所を作りエゴマ油を、私は加工品をやっています。
 石井農園として、平成27年から農地を4ヶ所買い求めました。
エゴマを中心に、ブルーベリー、桑、柿などを栽培しています。
Q:ご長男は原町区のエンジニアでしたね?
平成23年3月に原町区の仕事が再開されましたが、平成23年4月20日に退職されましたね。そして二本松に転居後、郡山に勤めていますね?(などと問うのですが、その眼差しのの冷たいこと!)
A:はい。
Q:これは東電からの賠償金を記したものですが、間違いないですね、ご確認ください。
A:はい、間違いないです。
●国代理人から反対尋問
Q:紙芝居活動はどのようにしているのですか?
A:4人で、依頼を受けて全国を回っています。
●原告代理人から
 津島にいた時の物産販売では、自分たちで作付けして加工したものを販売していたので、仲間との繋がりは広く強いものだった。

◎原告・今野千代さん
(*今野千代さんも沢山のことを話されたのですが、耳の悪い私にはよく聞き取れず、メモ書きできなかったのですが、聞き取れたことのみを記します。)
 今野さんは、看護師として津島診療所に勤務していました。
所長の関根医師は、津島診療所に赴任して20年以上になりますが、専門が外科医なので緊急の時には手術にも対応してくれました。
診療所隣の宿舎に寝泊まりして、時間外でも対応してくれました。
津島診療所と関根医師は地域の人たちにとって、なくてはならない大切なところでした。
津島の人たちは診療所を支えるために「診療所を守る会」を作って懇親会などを開き親睦を図っていましたが、その中心になっていたのが今野さんでした。
関根医師に移動の話が持ち上がった時には反対署名を集め、移動を防げました。
 診療所の待合室にはこたつも置き、地域の親睦の場でもありました。
半分以上が高齢者なので、今野さんは歩き方などもよく観察して体調を察していました。
 今野さんは2011年3月11日には、診療所に残って仕事をしていました。
事故前は日に35〜40人ほどの受診者でしたが、震災後は一気に、350人ほどに膨れ上がりました。
浪江町中心部から、避難者が殺到してきたのです。
普段の何倍もの患者が押し寄せて、みるみるうちに在庫の薬がなくなっていきました。
 15日、突然に役場職員から津島から避難するようにと告げられ、東和町に避難しました。
避難所になった東和町の体育館では、寒いところに避難者がゴロゴロ寝ていました。
その様子を見て今野さんは、「大変なことになった、このままでは死んでしまう」と、診療所に残してきた薬があることを思い出して関根医師と上司に相談しました。
その結果、浪江町は仮設の診療所を立ち上げました。
 2013年3月に、今野さんは定年を迎えて退職しました。
(*以上が、原告代理人尋問への今野さんの答えの要旨です。最後に原告代理人が「裁判官に伝えたいことがあったら、お話しください」と促すと、今野さんは応えました)
●今野千代さんが裁判官に伝えたこと
 裁判官の皆様が現地に来てくださることを聞いて(*注:昨年9月27、28の両日、現地調査が行われました)、とても嬉しく思いました。
もし皆様が具合が悪くなったら、私が診なければいけないと思い血圧計を持って行きました。
悪天候の中を来てくださって、本当にありがとうございました。
 何よりも現状を見てくださって、ありがとうございました。
●東電代理人から反対尋問に答えて、今野さんが話したこと
 私自身の体調が悪くて月に一度診療所に通うが、行くと関根先生や以前の患者さんに会うことがある。
兄、母が亡くなり、守る者が亡くなってから入眠剤がないと眠れなくなった。
津島の行事には年に5、6回参加している。
Q:これは東電からの賠償金支払いの明細です。
精神的損害その他の賠償金額ですが、間違いないですね?受け取っていますね?
Q:土地・建物の購入代金は、東電の賠償金からですか?
A:はい。

◎原告・須藤カノさん
 生まれは飯舘村だが、北海道の酪農の様子を見て酪農の仕事に惹かれて、20歳で津島の酪農家に嫁いだ。
結婚してみたら朝から晩まで牛の世話で、楽しいことは一つもなかった。
子どもは3人生まれたが夫は暴力をふるう人だったから、子どもらが4歳、6歳、小学1年の時に離婚して子どもを引取り育ててきたが、夫からの援助はなかった。
生活のために仕事を掛け持ちして、1日15時間くらい働き、毎日夜10時か11時頃まで働いた。
近所の人から、米、味噌、野菜など頂き、助けられてきた。
また、子どもらは「暗くなったから家に入りなさい」とか「これ(おにぎり)食べて、お母さんが帰るまで待ってなさい」などと近所の人が世話もしてくれた。
 長女のエリは結婚後も、津島で一緒に暮らしていた。
カノさんが勤めていた会社の社長の家族が倒れ、会社で米など食材を出すのでカノさんに給食を作ることが依頼されて引き受けるようになった。
 職場でクラッシャーのベルトコンベアーに挟まれて怪我をして、手が使えずにいた3ヶ月間、山崎さん(同僚?近所の人?)に助けられた。
 原発事故後3月25日までは、津島の自宅にいた。
なぜかというと、会社の社長には大変世話になって恩義を感じていたが、社長の母が倒れて避難できずにいるのを見てカノさんは世話をしたいと思ったし、家の中にいれば安全だと言われていたからだった。
だが、3月25日に警察と消防が来て「ここにいては危ないから避難するように」と言われて避難した。
孫は4歳、小1、小2と小さかったが、「ばあちゃんが出ないから孫が出ないんだ」と役場や警察、消防に言われて、「オレ(*方言で女性もオレと自称する)が一番悪かった」と思って孫たちを連れて避難した。
避難する前に社長が線量を測ったら、線量計はピーピー鳴ったが、匂いもしないし危険だなんて判らなかった。
 東和体育館へ行ったら、川俣公民館で線量を測って来いと言われて行ったらそこではなく川俣高校へ行けと言われ、川俣高校で測った。
避難所の体育館に着いたのは遅い時間で、夕食にパンとカップラーメンをもらったが、夜だったし封を開けるときにとガサガサ音がするので、みんなを起こしてしまうと思い、食べなかった。
体育館にダンボールと毛布を敷いて、毛布を被って寝た。
 4月5日に、避難場所は移って土湯温泉に避難した。
その後仮設住宅に入居し、息子たちは3DKに、オレは4畳半一間の仮設に入居した。
息子夫婦は避難のストレスから離婚し、孫の世話をオレがするようになったので、オレの部屋では狭くて大変だった。
仮設住宅では(請戸の人に)、「請戸の人は家が無くなったが、山の者は家があるだろう!」と言われた。
 孫の世話は大変だった。
学用品をどう用意すれば良いのかわからなかったし、仮設住宅での生活は辛かった。
孫から「体育着で雑巾がけされた」「ばい菌が付いてると言われた」と聞いて、オレは学校に行き先生に言ったら、校長と教頭から「いじめはない」と言われた。
また孫はレイと言う名前だが、クラスでは「キン」と呼ばれていると聞いたとき、オレはまさか「菌」だとは思わず「金」のことかと思い、「いい名前つけてもらって良かったね」と言ったら、孫は「ばあちゃんもオレのこといじめる」と泣き出し、話もしなくなり、ご飯も食べなくなり「死にたい、死にたい」と言うようになってしまった。
それで、ばい菌扱いされて、いじめられてることがわかった。
この子に死なれたら一番困るのはオレだから、「ばあちゃん悪かった。ごめんよ。金のことかと思ったんだよ。お前が大好きなかぼちゃ饅頭作ってやっからな。泣くな」と言って、かぼちゃ饅頭を作ってやったが、孫はトイレに篭って出てこなかった。
校長先生に相談すると、津島小学校に転校させるようにとアドバイスを受け、平成26年に津島小に転校させたら、もう「死にたい」と言わなくなった。
中学校に入った時には、「浪江から来たと言うのは良いが、津島からとは絶対言わないように」と言い聞かせた。
 孫は、避難前から祭りなど地域の伝統行事などに積極的に参加していて、三匹踊り(三匹獅子舞)が好きだった。
孫は「津島に帰りたい」と言っているし、三匹踊りを踊りたいと言っています。
●反対尋問・東電代理人
Q:昭和26年に飯舘で生まれて北海道で酪農をして、20歳で酪農家の津島の人と結婚し3人の子どもが生まれ、30歳で離婚しましたね?
A:はい。
Q:長男は浪江高校津島分校を卒業し、長女は津島分校卒業後東京に就職。次女は高卒後地元で就職した後、東京へ行ったのですね?
A:はい。
Q:長男は平成16年に結婚し、津島の町営住宅に住んでいましたね?
A:はい。町営住宅の3DKに7名で生活していましたが、狭くなったので家を建てようと計画していたところでした。
Q:避難するまで2週間津島にいて、それから二本松の体育館に避難し、4月6日に土湯温泉に避難したのですね?
A:はい、息子の妻の両親もここにいました。孫は4人でしたが、嫁の両親が孫を叩いたりするようになり、息子夫婦は離婚しました。孫はパパと一緒に行くと言って、息子が孫たちを引き取りました。
Q:その後、仮設住宅に入居してから須藤さんが引きこもるようになりましたね?
A:はい。1ヶ月くらい引きこもっていました。仮設には、津島の人もいました。でも仮設の人の中には、酔っ払ってドアをドンドン叩いたり「孫の世話もできないのか」と嫌がらせを言う人もいて、外に出るのが怖くて引き篭もっていたら、隣に住んでいた自治会長さんが「談話室に集まって嫌なことを話し合おう」と誘ってくれて、毎日談話室に行くようになりました。
Q:津島では家庭菜園をしていましたが、仮設住宅では?
A:畑を借りて、野菜を作っていました。
Q:今はどうですか?
A:自宅を購入した今も家庭菜園をして、家族で食べたり人にあげたりしています。
家は5DKで、駐車場は軽が10台入ります。
畑は駐車場くらいの広さがあります。
津島の人とは月に2、3回電話で連絡を取りあっています。
 孫2人は、二本松の津島の高校に通うようになりました。
Q:東電からこれだけの賠償を受けていますね?(と、言って書類を見せる)
A:はい。
●反対尋問・国側代理人
Q:仮設を出て福島市に自宅を購入しましたが、福島市を選んだ理由は?
A:世話をしてくれる人がいて、佐々木さんの家も近かったので。
Q:甲状腺検査はしましたか?
A:孫は、再検査の連絡を受けたので心配しています。
Q:近所とのトラブルは?
A:ないです。
Q:現在の住居は、あなたと息子さん、お孫さん4人で6人ですが、狭いと感じますか?
A:いいえ。

*12日は石井さんと今野さんの原告本人が午前中、須藤さんは午後でした。
そして午後は須藤さんの後で、証人(関礼子さん)尋問がありました。
関礼子さんの証人尋問の様子は、別稿で続けます。        

いちえ


2019年7月26日号「7月11日津島訴訟 第20回裁判」

 7月11日、福島地裁郡山支所で津島訴訟の第20回裁判があり、原告本人尋問が行われました。
 この日、証言台に立ったのは、今野幸四郎さんと武藤茂さんです。
まず原告代理人が原告本人に質問し、原告が答える形で進められますが、ここでは原告の答のみを記します。
次に被告側からの反対尋問については、被告代理人の質問とそれに対する原告の答えとを記します。
◎原告・今野幸四郎さん
●主尋問
*私が酪農を始めた
 私は82歳になりますが、今野家が津島で生活を始めてから私で5代目です。
山林と農業をしていましたが、昭和36年、私の代から酪農を始めました。
津島は高冷地で5年に一度は冷害があり、安定した生活のためには酪農しかないと思ったからです。
 始めの頃はタバコ栽培と林業もしていましたが、酪農は2頭の牛から始めました。
8ヶ月の子牛を北海道から買いましたが、2頭で5万円でした。
今野牧場として酪農一本に切り替えたのは、昭和46年からです。
そのきっかけは、タバコや農業だと毎月の収入が不確かなことと、昭和46年から減反政策が始まったからです。
乳は毎日の搾乳量はほぼ一定しているので、収入が安定しているので、農地も飼料作物に変えました。
 長男は高卒後に県の試験場に見習いに行き、北海道、カナダで研修をして昭和57年に戻ってきてから、今野牧場で一緒にやってきました。
*酪農家の暮らしと誇り
 双葉郡のホルスタイン共進会で、賞はかなりたくさん貰い、県知事賞も25枚貰いました。
春はホルスタイン賞、秋は県の共進会で牛の品評会がありました。
事故直前には70頭、飼育していました。
 毎朝6時には起床して、牛舎の清掃・消毒後に搾乳にかかり8時に搾乳を終えます。
搾乳は毎日、朝夕2回です。
牛舎は2棟と牧草地があり、水は山から引いているので、その水の管理があります。
 酪農家として特に辛いことは、牛の病気、難産です。
搾乳は365日、1日も休めず年中無休ですが、仕事として辛いと思ったことはなく、毎日励みになっていました。
体力的には厳しい仕事で、牛も人間も毎日忙しいです。
 牛は家族であり、社員で、働き手です。
ですから、牛を大切に愛情を持って育ててきました。
やりがいは毎日の乳量と、生まれた子牛が育っていくことです。
津島の牛乳の成分は優秀だということで、大阪からグリコが訪ねてきて、この牛乳でアイスクリームを作りたいというのです。
作ったアイスクリームは、TVコマーシャルに乗って全国デビューしました。
私も角川撮影所で、石原さとみと1日撮影にかかってコマーシャルに出ました。
そのコマーシャルは全国に流れて、「見たよ」と遠くの親戚や友人からも言われました。
グリコ津島の牛乳の成分の高さは、誇りでした。
 津島の酪農家はみな、震災当日から郡山工場がラインが閉鎖されたので出荷できなくなりました。
今は、お中元やお歳暮の付き合いは続いていますが、取引はなくなりました。
グリコのCMは2008年からでしたが、今は「最近はお前の顔を見ないな」と、遠くの親戚や友人に言われます。
*仲間との助け合いでやってきた
 牛の出産の時には仲間が駆けつけてくれたり、日常的に仲間との付き合いはありました。
共進会等の反省会や「牛魂碑の集い」など、日常的に付き合っていました。
年中無休の仕事ですが、冠婚葬祭や旅行などでは、互いに手伝いをやりくりしていました。
そしてその際にはお礼のお金のやり取りなどせず、「お互い様」の気持ちでやりくりしていました。
その後ヘルパー制度ができましたが、それ以前は互いに助け合っていたのです。
 また農家との付き合いは、耕畜連携で、農家からは寝ワラにする為にワラを頂き、こちらからは堆肥をあげていました。
この際にも、金銭のやり取りはありませんでした。
互いに不要物をあげあっての、有効活用でした。
 津島では地域での年中行事、1年に一度毎年11月10日の牛魂祭、地区内新年会、忘年会など、地域ぐるみで仲が良く、家族同士遠慮なく仲が良く、後継者育成にも力を入れてきました。
*人間が逃げるのが精一杯だった
 事故後、乳牛移動は5月いっぱいと言われ移動先が見つからず組合に探してもらって本宮の酪農家を借りて、息子と娘がメインでやっていますが、今野牧場の名前は消えました。
 津島の酪農仲間はほとんど廃業して、やっているのは私だけです。
津島全体で260頭の牛が犠牲になりました。(と、涙声で)
私の家の牛以外はみな、場所も見つからず、人間が逃げるのが精一杯でした。
私の場合は、珍しいケースです。
でも私も全ては連れて行けず、連れて行けたのは30頭のみで、40頭は連れて行けませんでした。
娘夫婦も津島で酪農をやっていましたが、娘夫婦の牛と合わせて60頭を本宮で子どもらがやっています。
 連れて行けなかった40頭は、殺処分でした。(と涙声)
親友の三瓶さんのトラックにつけようとした時に、なかなかトラックに乗らず、ようやく乗せましたが、牛には判っていたのです。
その時の牛の顔を今も覚えていて、今でも思い出せば涙が出ます。
*牛も故郷を奪われた
 本宮では最初は60頭で始めましたが、堆肥が満杯になって処分に困るからと言われて、25頭に減らしました。
本宮では耕地がないので、堆肥をあげられず、また本宮はコンバインで収穫するので稲ワラがもらえず、稲ワラは酪農組合から輸入品を購入しています。
 津島では全て自家生産でしたし、水も山からの引き水でした。
牛たちも存分に、水を飲めました。
本宮では水道水とボウリングの水なので、料金がかかるようになりました。
 今年の3月までは東電から補償されていた本宮の牧場の賃料は、4月からは補償打ち切りとなり自己負担になりました。
牛は寒さに強く暑さに弱いので、海抜450mの津島は牛にとっては良い環境でしたが、本宮は牛には生き辛いです。
食欲も落ち、乳も出にくくなりました。
津島では糞尿の匂いもなかったですが、本宮では周囲から「環境に気をつけて!」と言われ、隣近所に牛の声や匂いで気を使います。
これまで、地域社会に喜ばれる酪農をしたいと思ってやってきましたが、それは本宮では難しいです。
周囲の人との信頼関係など、中元・歳暮を贈ったりして気を使ってますが人間関係は難しい。
本宮では、助け合いや物々交換はできません。
地域の人と生活パターンが違うので、難しいです。
 息子のところも経営は、容易でありません。
孫が小学校5年生の時に「じいちゃん、おれも酪農やるわ」と言ってましたが、高校1年になった今は、酪農をしたいと思ってるかどうかわかりません。
経営は不安定で、飼料は全て購入していますし、牧場の賃料は非常に重くのしかかってます。
頭数も少なくなりました。
もし今も津島でやっていたとすれば、3代で仕事ができ、経営も楽だったろうし、牛にとってもはるかに良かったと思います。
牛も、原発事故で故郷を奪われたのです。
*牛魂碑
 ホルスタイン協会の役員だった時に県内各地の酪農家を回り、その時に、ある個人の家で牛魂碑を見たのです。
感銘を受けて津島でも地区として牛魂碑を作りたいと思い、昭和52年11月10日に建立しました。
114号線の県酪農協津島事務所の所ですが、後に津島の塩浸(シオビテ)の我が家にも建てました。
 以前は、毎年11月10日には役場や隣村からも人が来て盛大に牛魂祭をしていましたが、震災後はみんなチリジリバラバラになってできなくなりました。
津島では12世帯が酪農をしていました。
酪農を続けられない仲間の、無念を思います。
*朝に晩に我が家に向かって
 今は朝起きてすぐに、晩も寝る前の9時には必ず、祈る思いで我が家の方を見て過ごしています。
津島の風景、我が家の庭、毎日夢に見ます。
酪農を後世に残したい気持ちがあります。
避難後20数回、自宅に戻りましたが、ガードマンに柵を開けてもらい、また閉めてもらいます。
イノシシが檻に嵌ったのと同じようです。
イノシシが凄くて、道路の真ん中にいて逃げません。
国と東電に対して言いたいことは、1日も早く自由に我が家に入ることができたら良いと思っています。
*元の津島に帰りたい!
 82歳ですから、いつあの世に行くか判らないので、津島の畑をきれいにしておこうと思って、菜の花を蒔きました。
今年の春は一面の菜の花で、それは見事でした。
きれいな環境の津島に帰りたい!
今では田畑は柳が伸び放題で、同じ国民として情けないです。
一日も早く、元の津島に帰りたい!
これまで地域の安心、安全に尽くしてきました。
それが今は、帰れない故郷です。
●東電代理人から反対尋問(色々聞きましたが、全てを記録できていません)
Q:あなたは東電からの賠償金をもらいましたか?
A:貰ったが、あれほど大切に育てた庭木や盆栽などについては、一切賠償されなかった。
イチジク、ブルーベリー、柿なども植えて楽しんでいた。
Q:検査を受けたことはありますか?
A:受けたことはある。2年後に受けたが、問題ないと言われ、その後は行ってない。
Q:あなたと奥様に精神的損害としてあなたにお支払いしているものですが、財産的損害など支払いを受けているということで良いですか?
A:39人で24町歩の共有地が放牧場だったが、そこは放射線量が17あった。
2年目でも低くならず、荒れてしまった。
●国代理人から反対尋問
 代理人が官僚口調で話し始めると今野さんは大きな声ではっきりと、「標準語でなく福島の言葉で聞いてくれたら、そしたら答えられる」と言いました。
でも代理人は意に介せず、質問しました。
Q:本宮に家を建てられましたね?家を建てたりした時の資金は?」
 もちろん東電からお金を貰わなければできなかった。
毎晩外に出て、津島の方を見てから寝る。
帰れるものなら帰りたい。
もし明日ゲートが開いたら、真っ先に帰りたい。
オレは、故郷が恋しい。
 本宮から津島に帰るのに、川俣、葛尾、田村、山木屋を通って行く。
道が封鎖されているからで、これも原発事故のせいだなと自分に言い聞かせても納得できない。
天王山を通れば近道なのに、津島を通れないから1057mの天王山を、登って行けない。
 津島の土を踏まれない。
それは東電のせいだ。
こんな不平等は無くして欲しい、国は平等の扱いをして欲しい。
言いたいことは山ほどあるが、この辺で止めます。
◎原告・武藤茂さん
●主尋問
 南津島の佐藤畑に、妻と義母、娘とペットのミニチュアダックスフンドの「メル」と住んでいました。
私は犬を飼うのには反対でしたが、事故の3年前に娘が「孫だと思って可愛がってください」と言って連れてきました。
以来、孫のように可愛がって、避難先にも連れてきました。
 南津島は武藤姓が9軒あるのですが7軒が親戚で、みな屋号で呼ばれていました。
私は「佐藤畑」と呼ばれていました。
 生業は農業ですが、私は大工をしていました。
小高で生まれ、佐藤畑の長女リツコと昭和52年に結婚し、義父母と養子縁組をして南津島に住み、半農半大工で暮らしていました。
 リツコは電気部品店に勤め、私は小高の工務店でしたから、平成6年に妻の会社が閉鎖されるまで、朝の出勤時は私の車で妻を送りながら私は小高に通い、帰宅時も妻を迎えて一緒に帰っていました。
帰宅後に田の畔や道路脇、家の周囲の草刈りをし、農繁期には大工の仕事を休んで機械を操作して、田おこしや稲刈り脱穀をしていました。
農繁期には親類に来てもらって10人くらいで短時間で農作業をしたのですが、それらの人が泊まれるくらい、広い家でした。
 平成4年に老朽化していた自宅を建て直し、自分で自分の家を建てるという長年の夢を実現しました。
自宅の保有林から義父が材木を切り出して、それらを使って建てたました。
樹齢100年くらいの松や7、80年の杉、檜です。
柱には40cmほどの太い材を使い、すべて自宅の保有林から切り出した材木で建てたのです。
自分で設計し、基礎は知り合いの左官屋に頼み、大工仲間に手伝ってもらって建てたのです。
建坪78㎡の平屋建てで、薪を燃料にする風呂とトイレは母屋とは30mほど離れた別棟にしました。
 部屋は8部屋ですがどの部屋も広くして、圧迫感のない自分のイメージ通りの広々とした家でした。
特別の愛着があり、常に綺麗に心がけて、こまめに掃除をしていました。
平成4年に建てて、19年目で原発事故でした。
事故がなければ80年は手直しせずに持つ家でした。
 事故直後の3月に夫婦で自宅に戻った時に屋根瓦が落ちていたのを直したのですが、その時に怪我をしました。
立ち入り許可を取って津島の自宅に戻るたびに、毎回掃除をして家を見回り、窓を開けて風を通していました。
窓を開けて風を通さないと、家はダメになってしまうのです。
綺麗にしておきたいので、今も立ち入りのたびにそうしています。
いつ戻れるか判らないのですが、望みとして明日にでも戻りたい気持ちがあるからです。
 汚染の実感はないのですが、最初に戻った2011年9月13日には、玄関外が4,78マイクロシーベルト、玄関内が3,358、2階は6,9、茶の間は1mの空間で3,6、玄関外の地表は9,99まで測れる線量計が振り切れて測定不能でした。
恐怖を感じましたが、その後も現在まで自宅の線量測定は続けています。
 今年5月には玄関外が1,18、玄関内で0,56と、自宅内はずいぶん下がってきましたが、常に掃除をしてきたことが除染に繋がったのではないかと思っています。
ただ台所の流しは6,7あり、西側の窓辺は高いです。
毎回窓を開けて外の風を入れていますが、風とともに放射能も入ってくるからではないかと思います。
 老後は農業をしながら自給自足で暮らしたいと思っていましたが、それが叶わないことがとても残念です。
一刻も早く、除染をして欲しいです。
●被告側東電代理人反対尋問と答え
Q:津島の自宅は義父の名義ですね。
 その後、宝来町に本人名義で自宅を購入していますが、購入に際して自給自足生活を
 考えましたか?
A:考えませんでした。宝来町は自分で設計して、建築は業者に依頼しました。
Q:毎日どういうことをして過ごしていますか?
A:家族の用事をして過ごしています。
 津島に帰れれば農業をしたいが、今は仮住まいで、農業をしたい気持ちは起きない。
 少しだが庭があるので、庭いじりはしていて、きゅうり、トマト、花を育てている。
 野菜はほとんど近所にあげている。
  引っ越した翌年から、地域自治会の副会長で活動をして、その後も町内会の催し物、
 芋煮会、運動会などに参加している。
 野菜をあげる相手は、妻が地域との交流があるので、その人たちにあげている。
 話をしていないと寂しいので、日々交流はしている。
  避難者同士の集まりもあるが、2年前に浪江の人が近所に越してきたので、その人と
 は親しく付き合って、自宅に招いたりもしている。
  義母はやることがなくて、衰えが早くなった。
 デイサービスには週3回行っているが、地域との交流はない。
  津島に帰るたびに線量測定しているが、まだまだ高くて危険だと感じている。
Q:IAEAは年間20ミリシーベルトを基準にしていることを、ご存知ですか?
(*この質問には傍聴席から「え〜」と、それを言うか!というような呆れた声が上がったが、裁判長はこれに対して「傍聴席は発言を控えて」と制した)
A:知っている。
Q:甲状腺検査を受けたことはありますか?
A:避難してから、ホールボディカウンターを3回受けた。
 異常なしという結果だった。
Q:津島地区には、東電として色々な賠償をしていることはご存知ですか?
(*と言って、賠償額を記した書類を見せて確認を取る)
●被告国代理人反対尋問と答え
Q:いつ避難しましたか?
A:避難しなければいけない情報を、消防団につながりがある人から知らされて避難した。Q:度々立ち入り、帰宅していますね?
A:これまで70回以上立ち入り、被ばくを気にせずにいることはありません。
Q:高いことを気にしていますか?
A:はい。
Q:地域の交流についてお尋ねしますが、浪江・津島の人が訪ねてくることはありますか?
A:はい、あります。津島の人との交流は、年1回新年会などの時か、葬式の時です。
●原告代理人弁護士から
 話をしないと寂しすぎると武藤さんは言いましたが、佐藤畑では、毎日のように訪ねあってお喋りをしていたのです。

*第20回裁判は終わり、翌12日に第21回裁判が開かれました。
追って報告いたします。                       

いちえ


2019年7月23日号「7月9日福島地裁・裁判傍聴へ②」

◎市民会館での集会(①からの続き)
●署名集計報告
 原告団代表の今野寿美雄さんから、「子ども脱被ばく裁判支援」署名の集計報告がありました。
前回集計から今回までに、4,546筆。累計で73,959筆になりました。
今回も開廷前に、裁判所に届けられました。
●今回の裁判について
 弁護団長の井戸謙一弁護士から、今回の裁判ではどのような事が行われるのか説明されました。
 原告からは準備書面73を提出しました。
前回、被告国からは準備書面12、13が出されましたが、原告準備書面73は、それに対する反論です。
準備書面12は低線量被ばくについて、準備書面13は内部被曝について、いずれもリスクはないと主張しているのでそれに対しての反論ですが、中身については法廷で、弁護士が入れ替わり立ち替わり自分の得意とする分野で反論を主張します。
今までは一つの準備書面については、そのテーマが得意な弁護士が一人で説明していましたが、今回の準備書面は弁護団みんなの合作ですので、入れ替わり立ち替わり説明することになります。
 国からは14、15という準備書面が出ています。
14は、前回我々が出したプルトニウムについての反論です。
福島原発事故由来のプルトニウムは確かに検出されているが、とそれは認めているのですが、非常に微量なのでリスクはないという内容の書面です。
 15は、前回こちらから、放射線に対する子どもの感受性は高いのかどうかに対する国の考えについて求釈明を提出していたのですが、それに対する答えで、以下のように言ってます。
 放射線防護については、子どもの感受性は大人より高いという考え方に依拠して、防護対策をしている。
感受性が本当に高いのかどうか、低線量被ばくについての子どもの感受性が高いかどうかは、それを高いという科学的根拠はない。
根拠はないが、防護対策としては高いという前提を取っている。
 科学的根拠はないが対策は取っていると、非常に矛盾したことを言ってます。
 そして今回原告側からは、証人申請をしています。
今日は、証人について何人かの採否が決まるはずです。
申請した証人は、河野益近さん、郷地秀夫医師、西尾正道医師、崎山比早子さん、井戸川克隆さん、山下俊一氏、鈴木眞一氏の7名です。
 河野さんと郷地医師には放射線微粒子の健康リスクの問題について、西尾医師には内部被曝一般の問題について、崎山さんには低線量被曝について証言をいただこうと思っています。
井戸川克隆さんには事故直後の放射線防護対策の無為無策について、双葉町長として直接色々な経験をされているので、その経験をお話しいただく。
山下俊一氏は彼の発言内容自体が、この裁判の請求の根拠になっています。
鈴木眞一氏については、初期の無為無策の原因としていま甲状腺がんの被害が出てきているのではないか、これが過剰診断であり被ばくとの因果関係はないむしろ必要がない手術をしているという意見が出ているので、実際に執刀した鈴木眞一氏に必要がない手術だったのかどうかを証言してもらおうと思っています。
 原告側としては更に6人程度の原告本人の方に証言して頂く予定ですが、申請書はまだ出していません。
次回以降5回の期日で、それぞれ尋問が行われことになると思います。
 被告側からも申請があってもおかしくないのですが、現時点では被告側からは申請が届いていません。
県は、県からも山下俊一氏を証人申請すると、口頭で言っておりました。
国からは放射線微粒子の問題について健康リスクはないのだと準備書面を出していますから、それについて専門家の申請があるかと思っていましたが、現在のところ申請書は届いていません。
 そういうような状況で、今日それらの申請についての採否が決定されることになるかと思います。

◎福島地裁
●原告代理人意見陳述
*被告国側が提出した準備書面12に対する反論
①はじめに
②「LNTモデルの仮説が科学的に実証されていないこと」について
③「各種論文に基づいた原告らの主張が誤りであること」について
④「第4 福島県県民健康調査の結果に係る原告らの主張に理由がないこと」について
⑤「第5 子どもの感受性について原告らの主張に理由がないこと」について
*被告国側が提出した準備書面13に対する反論
①はじめに
②被告の「第2 内部被ばくの健康リスクの考え方及びセシウム含有不溶性微粒子摂取の健康リスクについて」に対して
③「請求原因⑴、⑶、⑷及び損害に係る内部被ばくに関する原告らの主張は、独自の見解であり、失当であること等」について
④「セシウム含有不溶性放射性微粒子」摂取の危険性を述べる原告らの主張は理由がなく、同主張を前提としても、原告らが本訴で主張する「年1mSv以下の被ばくであっても、無用な被ばくによる健康被害を心配しないで生活する利益」なるものが国賠法の救済が得られる具体的権利ないし法的利益であるとはいえないこと」について
*原告準備書面67に関する書証の追加と求釈明

 上記について、午前中の集会で井戸弁護士が説明されたように、原告代理人の光前弁護士、古川弁護士、崔弁護士、井戸弁護士らが代わる代わる意見を述べました。
●原告本人意見陳述 N・Kさん
 二本松市内の自宅で、夫、二人の子ども、夫の母の5人で生活しています。
上の子どもは既に成人していますが、下の子は現在9歳で福島原発事故当時は誕生日前の乳児でした。
夫はサラリーマンであり、私は主婦として家庭にいます。
 2011年3月11日の大地震で自宅建物は少しヒビが入りましたが、私たちはそのまま住み続けていました。
その後、福島第一原発時爆発が続きましたが、自宅は原発とは距離があったし、行政から何の指示もなかったので危機意識を持つこともなく、それまでと変わらぬ暮らしを続け、幼い二男を連れて買い物等に外出もしていました。
その後知人から被ばくの怖さを聞いたり、講演会に出かけたりする中で、被ばくによる健康リスクについて徐々に知識を持つようになったのです。
 幼い二男の健康が心配になり、条件が許せば避難したいと思いましたが、夫には仕事があるし母子だけの避難には踏み切れませんでした。
その代わり、数日間福島を離れるというプチ避難を何度もし、春・夏・冬には沖縄や北海道の市民団体を頼って、必ず二男を保養に連れ出していました。
 夫は当初、「国が大丈夫と言ってるのだから、大丈夫だろう」という考えでしたから、プチ避難や保養に関しては夫婦間で何度も揉めました。
その後、夫にも講演会に参加してもらったりする中で、夫も少しずつ理解するようになりました。
 二男は、甲状腺に小さな嚢胞の存在を指摘されたことがありました。
また、原発事故から2〜3年経過した頃から、絶えず鼻水を出すようになり病院で診察を受け「蓄膿症」と診断され、一時期投薬治療を受けましたが、湿疹が出たこともあって現在は投薬を止めています。
症状は改善されず、二男が蓄膿症になった原因はわかりませんが、被ばくも原因ではないかという思いを捨て去ることができません。
また、二男には外遊びをあまりさせなかったので、二男自身も外に出たがらないようになってしまい、その点でも不憫でなりません。
 今でも自宅付近では、0,2マイクロシーベルト程度の線量があり、安心できる数値ではありません。
地元の食材は使わない、洗濯物を外に干さない等の配慮は今でも続けていますが、近所の人や知人と、被ばく問題については話しづらい雰囲気になってしまいました。
 福島原発事故前、私は被ばく問題について、全く知識がありませんでした。
原発事故が怒った後も、当初の1ヶ月くらいはほとんど警戒心を持っておらず、何の防護対策もしていませんでした。
安定ヨウ素剤のことも知りませんでした。
私が自宅周辺の空間線量の数値を初めて知ったのは、2011年5月か6月になって、市の広報を見た時だったと思います。
しかし、マイクロシーベルトの数値を見ても、当時は、その意味がわからず危険か安全かの判断もできませんでした。
 私は、事故当初の約1ヶ月の間に、二男に無用な被ばくをさせてしまったのではないかと心配しています。
この頃は買い物等に二男を連れ出していました。
二男はまだ母乳を飲んでいたので母体が栄養を取らねばいけないと思い、出荷停止になっていた牛乳を貰って毎日のように飲んでいました。
当時の私は、牛乳が出荷停止になった意味さえ判っていなかったのです。
母乳に放射能が含まれていたのではないかとの、不安は尽きません。
将来、二男に被ばくによる健康被害が生じたら、悔やんでも悔やみきれません。
 私は今でも長期の休みには、二男を保養に行かせています。
子ども達にはまだまだ保養が必要だと思いますが、行政が保養について全く協力してくれないので、保養に関する情報が若いお母さんたちに拡がらないのが残念です。
 私は、行政が「安全、安心」というのではなく、事故直後から、線量とその数字が持つ意味を住民に正しく伝え、住民一人一人が被ばくを避けるための援助をすべきだったと思います。
そして、せめて自宅の除染が終わるまでの間、行政の責任で避難させて欲しかったと思います。
 私は、自分が裁判の原告になるなど、思ってもみませんでした。
できれば裁判などには、関わりたくありません。
しかし、自分の子どもだけでなく、子どもたち皆を大切に守っていく社会になってもらうためには、声を上げることができる親が声をあげないといけないと思いました。
裁判官の皆様には、子どもたちの健康を守るという大切な義務を怠った国や福島県の責任を、はっきりと認めていただきますようお願いいたします。

◎市民会館で
 閉廷後に、また市民会館でこの日の裁判についての記者会見と、今後についての意見交換会がありました。
●記者会見
*意見陳述をした原告本人のN・Kさんへの質疑応答
Q:白石 草さん(Our Planet−TV)
 事故直後1ヶ月ほどの間、情報も無くシーベルトの意味も知らなかった混乱の中で、行政の責任に対してどう考えているかということと、この裁判でどのような責任を取って欲しいと考えているかお聞かせください。
A:考えてもいなかったことが起きて、ニュースで爆発を見ても遠くのことと思っていました。
直後から避難していたら、被ばくを避けられたかと思っています。
線量がとても高かった時期に1週間でも2週間でも、被ばくから子どもを守れなかったことを、強く後悔しています。
 今後については、自分のこどもだけではなくすべての子どもたちに、保養が平等に与えられるような国になって欲しいので、それを実行して欲しいと強く思っています。
Q:藍原寛子さん(フリーランス・ジャーナリスト)
 多くの母親が、公の場で実名を出したり顔を出して話せないと言われていますが、Nさんは実名で証言され、今日は写真撮影にも応じて下さりありがとうございます。
 裁判でこういう証言をするのは、ご自身にとって高いハードルだったでしょうか。
すごく勇気がいることだったでしょうか。
また、そもそも裁判で原告になるということには、どういうきっかけがあったのでしょうか。
A:自分が原告になるとは、考えてもいないことでした。
事故がなければこんなことはなかっただろうと思いますが、それ以上に子どもを守るということで弁護士の先生方を始め、また、子どもを守るために一生懸命やって下さっている方々がいて、それを声にしないでどうするのかという思いが自分にもあって、やっぱり私もそれを伝えていくことで、これから先の子どもたちのためにもなるのかと考え、話をしようと思いました。
Q:ご自分の子どもだけではなく、すべての子どもたちのためにもということですね。A:はい、そうです。
Q:やっぱり勇気がいったことですか?
A:はい。
●弁護団団長の井戸弁護士から今日の裁判について
 開廷時刻が大変遅れましたが、それは事前協議で証人尋問について誰を採用してどの期日で聞くのか、議論が熱していたからです。
 原告側からは証人を河野益近氏、郷地秀夫医師、西尾正道医師、崎山比早子さん、井戸川克隆さん、山下俊一氏、鈴木眞一氏の7名を申請していましたが、被告国側は河野、郷地、崎山、西尾、井戸川の5名については必要ないと言いました。
しかし裁判所は、もう事前に決めていたようで原告側の意見を聞くまでもなく、河野、郷地の両氏については採用する、西尾、井戸川両氏は、まだ陳述書・意見書が出せていないので、それを見た上で判断するということで、とりあえず保留となりました。
 山下俊一氏、鈴木眞一氏の2名は採用すると。(会場から「ホゥ!」と声が上がる)
崎山さんは近々、福岡地裁で尋問が予定されており、また、京都地裁で詳細な尋問をしていてその調書は既にでています。
その後の世界の研究経過を証言してもらおうと思って申請しましたが、福岡地裁でそういうことを証言するでしょうから、それが出れば十分で、改めて福島でやる必要がないのではないかということで、まだ正式決定ではないのですが不採用になるかと思います。
井戸川さんと西尾さんは留保なので、採用させる方向で、今後押していきたいです。
 事前の進行協議ではいつ誰に聞くかで、揉めました。
主尋問と反対尋問を同じ日にするか、主尋問で原告側が聞いて、そのすぐ後で被告側の反対尋問にするのか、別の日にするのかということです。
主尋問をすれば調書ができますから、その調書を見て相手方はそれを検討して反対尋問をするとなれば、期日を別の日にしなければいけない。
国は反対尋問のために時間が欲しいから別の期日にして欲しいと主張し、これは裁判所も同じ意向で、裁判所側も専門家についてはきっちりと質問したいということで、別の期日でやる方向になりました。
 証人それぞれの都合もあって、次回の10月1日は午前中は郷地さんの主尋問、午後は河野さんの主尋問で、まだ少し時間がありますからその後原告1名の主尋問をします。
11月13日の午前中は、郷地さんの主尋問で、この日の午後と12月19日、1月13日は、誰をどういう順でやるかについてはまだ決まらず、9月5日の進行協議で決まります。
 山下俊一氏の尋問は来年3月4日に主尋問、反対尋問を同一期日でします。
山下氏は5回の期日のうち、3月4日しか都合がつかないとのことで、そうなりました。
 次回10月1日の郷地、河野両氏の専門家には、始めにパワポでプレゼンテーションをしてもらい、その後原告代理人から一問一答形式で主尋問に入ります。
反対尋問は、プレゼンテーションを基にすることが決まりました。
 国は鈴木眞一氏の採用を嫌がっているようですが、裁判所は鈴木氏の尋問をしたいと思っているようです。
●傍聴した原告らの声
*今野寿美雄さん(原告団団長)
 いよいよ山下俊一を引っ張り出せることが、とても嬉しいです。
鈴木眞一氏については不要な手術をしていない、やらなきゃいけない手術をしたと言っているので、きちんと証言を取りたいです。
河野益近氏は専門家としてセシウムボールのサンプルを採って、今までになかった新しい知見を法廷で話してもらうことは大きな意味を持つと思っています。
*横田麻美さん
 いま団長が言ったのと同じ思いですが、専門家が出てきて証言してくれることで、今までモヤモヤしていたものが前に進む気がします。
*会場から
 やっとこの時が来たという思いと、長くかかったなという思いとで、複雑な思いです。
意見陳述した原告のNさんと私も同じ思いで、裁判に関わるとは自分で思っていませんでした。
二人の息子の鼻血や、私自身シングルマザーなので、子どもだけを保養に出す辛さで胸がいっぱいで、本当にここが安全なら、区の人がここに住んで欲しいという思います。
子どもたちを無用な被ばくから守るには、国が保養をきちんとして欲しい思いを、新たに強く思いました。
 2014年8月29日に福島地裁に、子ども脱被ばく裁判を提訴した日に私の息子は当時小2でしたが、「ママ、僕も言いたいことがある」と言いました。
現在中1ですが、自律神経の病気になっています。
私には病気の原因は何か判りませんが、でも、あの時によぎりました。
もしかしたらこの子も、将来なんらかの病気になるかもしれないとよぎったことが、いま現実になっています。
 ですからこの裁判は、本当に負けるわけにはいかない思いで、今日も参加しました。

★この裁判は
 以前にもお伝えしましたが、再度繰り返します。
この裁判は「子どもたちに被ばくの心配のない環境で教育を受ける権利が保障されていることの確認」としての「子ども人権裁判」、「原発事故後、子どもたちに被ばくを避ける措置を怠り、無用な被ばくをさせた責任」「親子裁判」、これらの権利と責任について、国と県を訴えた二つの裁判を併せて「子ども脱被ばく裁判」として闘っているものです。
 長々と第20回期日の報告をいたしました。
原告団長の今野さんも言っていましたが、いよいよあの山下俊一を証言台に立たせます。
また他にも証人を呼びますから、裁判費用がこれから、まだまだかかります。
原告団は裁判費用100万円カンパを呼びかけています。
 どうぞ、皆様のご協力をお願いいたします。

いちえ


2019年7月19日号「7月9日裁判傍聴報告①」

 7月9日は、「子ども脱被ばく裁判」の第20回口頭弁論期日でした。
裁判は福島地裁で14:30〜ですが、それ以前に福島市民会館で集会が持たれました。
◎当日プログラム
11:00 開会挨拶・署名報告
11:10 報告⑴ ヨーロッパ巡回講演報告:横田麻美さん
11:50 報告⑵モニタリングポスト継続配置を求める活動報告:片岡輝美さん
12:30 昼食と休憩
13:15 地裁へ移動開始
13:45 地裁前集会
14:00 傍聴券配布
14:30 開廷・意見陳述
16:00 記者会見
16:15 本日の裁判と今後について意見交換
16:45 閉会の挨拶
●駅頭のビラ撒き
 脱被ばく実現ネットの仲間たちと東京駅発8:08の新幹線で、9:46福島駅着。
仲間たちと一緒に、東口の駅頭で裁判支援のビラ撒きをしました。
前回の裁判のときの集会で「私は初めて参加しましたが、駅前でこのビラを頂いて『あ、私はこれに行かなければ!』と思って参加させていただきました。孫が健康調査で甲状腺に嚢胞が見つかりました。……」と発言した女性がいました。
その言葉に励まされた思いを抱いたのでした。
この日も、その言葉を思い起こしながらビラ撒きをしましたが、やはり嬉しいことがありました。
 「おはようございます。どうぞ読んでください」と声をかけながらビラを渡すと「これから行きますよ。ご苦労様です」と答えて受け取ってくださった方が一人、また「ありがとうございます。市民会館に行く“ももりん(市内循環バス)”の乗り場はどこですか」と尋ねてくださった方も一人いらっしゃいました。
お二人にはその後で会場の市民会館でまたお会いし、会釈を交わしました。
お二人とも仙台からの参加者でした。

◎市民会館で
 「子ども脱被ばく裁判」代表の水戸喜世子さんの司会で、集会は進められました。
「横浜で園児が二人、白血病で亡くなったという記事が出ました。
フレコンバックが埋めっ放しになっている所が何十ヶ所もあると聞きました。
子どもをめぐる状況が、本当に日々厳しくなっている中での私たちのこの裁判は、放射能だけをテーマにして、子どもたちを本気で守ろうという私たちの裁判です。
実質審議が終わって、次からは尋問に入ります。
そのためには10人くらい証人を呼ぶために、お金と滞在費が必要です。
計算すると100万円くらいになりますが、私たちの財政ではとても出しきれないので大々的に100万円カンパとして募金集めをやろうと思っています。
どうぞ、お友達にも呼びかけてご協力をお願いします。
 早速、集会を進めます。
報告者の横田さんと片岡さんをご紹介します。
 横田さんの息子さんは、事故直後は中学2年生でした。
この年齢は多感で感受性が強い頃ですが、その息子さんが震災直後に苦労して保養に行ったりしながら2年経って、母親と別れて単身北海道へ避難して、落ち着かれたのだと思います。
その2年間の期間がフランスで本になって、その本はフランスで必読図書のようになっています。
 この春には横田さんがフランスに行って講演をしてきました。
その報告をしていただきます。
 引き続いてご紹介しますが、片岡さんです。
皆さんもご存知と思いますがモニタリングポストを福島から撤去するという話が出て、本当に私たちは驚きました。
撤去反対に最初に動き始めたのは会津だと思いますが、反対運動は福島全土に広がり、市民の力で撤去させず存続させることになりました。
その中心になって頑張ってきたお一人が片岡さんです。
片岡さんからは、モニタリングポスト撤去反対運動の経過をお聞きしたいと思います。

●横田麻美さんの報告
①ここまでの経緯
 このような機会を頂いて、ありがとうございます。
3月11日に絡んで、3月10日から約1ヶ月間フランスとイギリスを回ってきました。
講演の数は小学校から大学まで、また市民団体など含めて1日に三講演などハードな日もありましたが、25講演をしてきました。
 水戸さんから今お話にあったように、息子は2013年、中学校を卒業した後に単独避難しました。
それをフランス在住の杉田くるみさんに話したらとても興味を持って下さって、普通にキオスクなどで売られている「TOPO」という雑誌ですが、社会問題などがとても優しく解るように書かれていて学校などで指定図書のように描かれている漫画の本になりました。(フランスの雑誌の実物を、見せてくださいました)
 「TOPO」が今年の1月に発売され、漫画を通して次世代の子どもたちに原発事故のこと、福島のこと、また息子のように自分で判断して決断することの大切さを伝えるということで、お話してきました。
息子だけを避難させ自身は福島に残った私と、大阪に母子避難したお母さんである森松明希子さんとのクロス証言と言う形での講演行脚でした。
 震災のこと、原発事故が起きてからのこと、生活のこと、息子の単独避難のこと、この裁判のことなど、8年が過ぎての周りの暮らしの状況のことなどを話してきました。
次の世代の子どもたちには実際に息子の経緯を話し、自分で判断し決断する大切さを伝えたいと思いました。
②各地での講演と質問
 横田さんはスクリーンで講演先での写真を写しながら、各地での講演の様子を話してくれました。
自分が話したことばかりでなく、どんな質問があったかをも伝えてくれました。
「放射能は移るのか?」というごく初歩的なものや、「放射線量が低い場所のすぐ近くに高線量の高いホットスポットがあるのは何故か?」「なぜ避難するのにペットを連れていけないのか?」などなどで、これらの質問には横田さんと森松さんが分担して答えたそうです。
 フランスは原発を是として進めている国ですから、やはり「安心・安全」の刷り込みはあるようで、中には「日本は地震があるから事故が起きたが、フランスは地震がないから大丈夫」という意見もあったそうです。
またリヨンに行く途中で、ビュジェ原発から19Kmの村で話した時には、「ビュジェで事故が起きたら500万人近い人を避難させないといけないが、どう思うか?」という難しい質問もあったと言います。
 リヨンへは電車で移動したそうですが、車窓から見えたビュジェ原発の写真を映しながら話してくれました。
真青な空、緑の畑、勢い良く白煙を吹き上げる原発、胸が痛い風景でした。
③ブルーノさんの話
 クリセットという街の市民測定所を訪ね、ブルーノさんから話を聞きました。
ブルーノさんは2011年5月下旬に福島に入り、取材・測定をしてきたことを話してくれました。
「事故後2ヶ月の福島で、子ども達が普通に通学している様子を見て非常に悲しい思いがし、また、とても残念だった。
飯舘では100万単位のベクレルが観測された。
 事故から2週間後の3月28日には、フランスでも福島原発事故由来の放射性物質が観測された。
このクリケット測定所の屋根の上の測定器で、ヨード131が観測された。
フランスではあの事故後にも食品検査をしていたが、その際に出荷停止にはならなかったが、牛よりも羊の方が高い濃度が検出された。
牛はこの季節は前年の枯れ草を飼料にしているが、羊は放牧して外の草を食べていたので、その点からも福島原発由来の放射性物資がわずか10日くらいでフランスにも飛来していたと考えられる。
 日本の見識の甘さを、非常に残念に思う。
子ども達に健康被害が出てくるだろうということにとても心が痛む。(と、何度も繰り返したそうです)」
④立場の違いを感じたこと
 一緒に行った森松さんとは面識があり、これまでにも何度か話を交わしたこともありましたが、避難した人と現地に留まった自分との意識の違いに気がつきました。
これについては互いに「違うな」ということを、これまでも気にしてはいたのですが、これまでの経緯を互いに話さずに過ぎていて、今回ずっと一緒に旅をする中で話ができました。
 そして最初の講演をした夜に、論争になりました。
それは言葉の使い方についてですが、事故後「汚染水を飲まされた」と、彼女は言いますが、水道水が汚染されたことは知っていたそうなので、無理やり飲まされてのではなく知っていて飲んだのではないかと思い、その言葉にひっかかりました。
また、帰還施策について「強制送還」という言葉を使っていたことにも私は疑問を持ちました。
不本意ながら帰還する人もいますが、その場合にも「強制送還」という言葉で良いのかについて私は、なんとも言い表せない思いを抱き、何か納得できませんでした。
決して森松さんを非難するつもりではありませんが、今も現地に住み続けている者の立場からは、「ハッ?」という感じがするのです。

 原発事故がらみの講演は、活動していたり興味ある人を対象にすることが多いのですが、今回は学校訪問など興味の有る無しに関わらず、多くの人に知ってもらえたのは画期的なことだと思いました。
 原発のある国フランスに行ったので、フランスの人たちの思いも聞ければよかったですが、その時間はなく伝えるばかりだったのが残念でした。
日本でも、被ばく回避のために母子避難など家族離散のことなど、衝撃の大きいそのような話が語られることが多いと思いますが、福島に留まって生活をしている者として話をし、知ってもらえたことはよかったと思いました。
福島に住んでいる人の方が多いので、福島居住の多くの母親達の声を、放射能や被ばくに対して気にしながら暮らしているこのような人たちの声を届けることも大事だと思いました。
同時に、福島と同じような事故が他所で起きたら、どうすれば良いかが伝えられたらよかったと思いました。
顔を合わせて話をすることで、他人事を自分事として考えられる時間を持てたらと思います。
 今回、最後に講演をした図書館で、公演後に図書館の人が言った言葉が強く心に残りました。
それは、「原発事故を予防するには、原発を止めること!」という言葉でした。

●片岡輝美さんの報告
 リアルタイム線量測定システムを私たちはモニタリングポストと呼んでいますが、これは、原発事故、これを私は核事故と呼んでいますが、事故の後に文科省が、子ども達の環境数値を確認する為に設置したのが最初の目的でした。
その後、原子力規制委員会ができて、事業主はそちらに移りました。
 県で起きていることの特徴の一つが、核事故被害の「見えない化」「見せない化」が、ありとあらゆるところで進んでいて、モニタリングポスト撤去もその一つです。
2018年3月20日に原子力規制委員会が、リアルタイム線量測定システムの配置見直しという方針を出しました。
実はその前から少しずつ撤去は始まっていました。
会津若松でもたまたま1台在ったのを、住民が撤去しないで欲しいと止めた経過がありました。
幼稚園・保育園が閉園された場合や、閉校された学校の前にあるものなど、いろんな理由で撤去は進んでいましたが、3月20日の後に大量撤去の方針が判りました。
 最初に会津で1台が撤去されようとした時にそれを止めましたが、その時には「強制避難区域が解除されてそこに人々が戻っていくには、より安全を確認する必要があるからそこに移設する」といういかにも住民の心をくすぐるような説明がされました。
3月20日の方針発表の時にも、移設という理由でした。
2400台を撤去してほぼ浜通りに移設するなら、浜通りのありとあらゆる所がモニタリングポストだらけになるので、これはおかしいぞと思って規制委員会に情報開示を求めたら、そのような案はなく予算も付いていず、ただその方針があるというだけの話だと判りました。
規制委員会の発表が3月20日で、2020年までに3600台撤去するという理由は、除染が済んで既に放射線数値が低くなっているということでした。
 けれども住民説明会の交渉で、本当の理由が判ってきました。
復興庁が2020年末で終わるので、それに合わせて予算も終わるからというのです。
要するに、予算の終わりがモニタリングポスト撤去で、1次年間6億円の予算が無くなるからという理由でした。
 「モニタリングポスの継続配置を求める市民の会」を3月末に立ち上げて、私が共同代表の一人です。
浜通り、中通り、会津地方から1人ずつ代表を出して3人の代表で、住民の中から撤去はおかしいと意識を持って声をあげる人が集まっています。
女性たちで、実質活動は10人くらいがメンバーになっています。
 「誰でもいつでも日々の数値を目視できる唯一の情報が、モニタリングポストにあるのだ」ということを話し、つまり私たちには「知る権利」があるということです。
モニタリングポストの数値に関して問題はありましたが、子どもの安全を確保するためには、せめてそこにモニタリングポストが存在していることが大切だと考えました。
また、撤去か継続かの判断は、私たちにあるということです。
当事者抜きで話をするな、ということです。
無用な被ばくを強いられながら県内に住み続けている人間にとって、それを継続するか撤去するかの決定権は、私たちにあるということを訴えています。
 原子力規制庁との最初の交渉は4月16日で、国との交渉だけでなく、各自治体の住民たち特に母親たちが自分たちの首長の所へ訴えに行きました。
赤ちゃんを連れたり、子連れで申し入れに行き、このように住民の動きが大きくなったので、メディアも継続配置を求める市民の声ということで動くようになりました。
「可視化されることが安心に繋がった」「福島には在って当然」という意見が出され、メディアでは県民世論調査が始まりました。
昨年7月2日の「福島民報」では、撤去反対が45、9%との記事を載せ、その12日後の民報はまた一面で取り上げました。
そこには県内59市町村中、25市町村が撤去に反対とあり、同じ紙面で市町村だけではなく反対している議会もあり、11の市町村議会が意見書を出したとありました。
このように住民の声が上がる中で、住民の声が後押しした形で規制庁も動かざるを得なくなり、8月24日には2019年度も同額の維持費を要求を出しました。
その後NHKの取材がまとめたところでは、撤去に賛成は2つの村だけとなり、更に冬になった時には県の市議会議長会でも継続の声を上げました。
12月7日の第3回規制庁交渉では、皆さんから寄せられた35,000筆の署名も併せて届けました。
 2018年の6月から11月までの間に住民説明会は18回(いわき市と福島市では複数回)行われた中で、ほとんどが撤去反対の住民の声でした。
その結果、規制庁は住民説明会の目的を達成できませんでした。
規制庁のそもそもの目的は撤去を納得してもらうことでしたが、途中からその目的を住民の声を聞くという方向に変更せざるを得なくなりました。
第3回の交渉時に、「当初の目的を達成できましたか」と聞くと「できませんでした」と答えたので、「どのように変更したのですか」と尋ねたら、「住民の声を聞くというように変更しました」と認めたのです。
 2019年2月28日の朝日新聞では、撤去に反対が56%の数字が上がっていました。
この紙面では、浜通り56%、中通り58%、会津51%とあり、県民が一様にこの問題を意識していることが判ります。
 住民説明会は、原発から一番遠い只見町から始まりました。
遠いところから攻めてくるな、と私たちは思いました。
規制庁は、そこなら撤去しても良いという声が上がると思ったのでしょう。
ところが只見での住民説明会では、「私たちは柏崎刈羽原発から半径60〜80km圏内に居て、そこで何かあった時には自分たちがどういう行動をとるべきかはモニタリングポストにかかっている」という声が上がったのです。
 私はそれを聞いて、本当に申し訳なく思いました。
それまでは自分の感覚中心に考えていましたが、そうではなくてモニタリングポストは県民全体に必要であることを改めて気づかされ、また、それなら全国各地に原発があるのだから、モニタリングポストは全国に必要なものだと、改めて知りました。
 昨年7月20日の第2回交渉はクローズドで行われ、私たちは5名、あちらは3名でした。
私たちは、「次に何かあった時にはモニタリングポストを見て自分たちで判断して行動を決めたい。その為にモニタリングポストは必要なのだ」と、改めて伝えました。
そして「不測の事態が起きるかもしれないということは、あり得ますよね?」と問うと、「あり得ます。原発はまだ落ち着いていない。廃炉作業もまだ途中だから」と、答えが返ったのです。
だからモニタリングポストは必要なのだと繰り返し伝えると、それに対しての答えは「次の緊急時には勝手に避難しないでください」というのです。
その答えに呆れて「なぜか?」と問うと、「いま福島県とは前回のことを教訓として正しい情報が出せるように情報網を構築している最中です。だから勝手にモニタリングポストを見に行かれると、その時点で無用な被ばくをすることになるので屋内退避をしていただきたい」と言うのです。
 それを聞いた時にはショックで返す言葉もなかったのですが、後からジワジワと怒りが湧いてきました。
原発事故が起きた時には、安定ヨウ素剤を飲んで一刻も早く避難しなければならないことは判っている筈なのに、それしか予防措置がないことは判っている筈なのに、住民たちにこんなことを言うのか!と信じられなかったです。
 7月27日の住民説明会では、思い切り爆発して住民から声が上がりましたが、それを聞いて担当官の一人は泣き出してしまいました。
規制庁側が泣いてしまったのですが、でもやはり向こうの言ってることが変なので私は思わず「泣くな!」と言ったのですが、すると「はい」と答えました。(会場から笑)
泣くのはずるいです。
 東海第二原発の再稼動を発表した時点で、「原発事故が起きても住民を安全に避難させることは到底無理」、つまり「できないことはしなくても良い」というように掏り替えが始まっていると思いました。
 その後規制委員長の更田氏は、「原発事故後1週間、100ミリシーベルト以下であれば避難は不要」と言いました。
いくつも重ねて、避難は必要ないということを言い始めたのです。
つまり、避難は不可能だから避難は不要と掏り替えるのです。
国民に避難をさせないし、国民を被ばくから守らないのです。
福島原発・核事故を経験していながら、彼らは何も学んでいないことが判りました。
 今年5月29日の第10回規制委員会で、モニタリングポストは当面存続すると発表しました。
最悪な結果を予想していたので、これを聞いた時は気が抜けて実感が沸きませんでしたが、翌日の福島民報、河北新報には、「市民の声が国を動かした」と、大きく報道されました。
何が国を動かしたかというと、普通の母親たちが立ち上がった、市長の顔も知らないお母さんたちが市長に会いに行き申し入れをするという、このことが規制委員会・規制庁にいくつもの声として届いていったことが事実です。
 6月12日には復興大臣が2020年以降も放射線の監視は必要だと言いました。
メディアには「(維持費に)6億円もかかっているなら、要らないんじゃないか」という声も上がっていたし、ある母親は「前は気にしていたけど、最近は気にしていなかった。でも、やっぱり必要だと思う」という声が挙がっていました。
 けれども一番賢かったのは、子どもたちです。
「みんなで考えたほうが良いと思う」と言いました。
 モニタリングポストは一応、当面の存続は決まりましたが住民たちにそれをフィードバックしていた時に、中学1年生の男の子が訪ねてきて言いました。
「僕はなんでモニタリングポストが無くなるのだろうと思っていました。僕は毎日見ていたんです。でも皆さんが頑張ってくれたので、撤去されないで済んだのですね。ありがとうございました」と言って、ぺこりと頭を下げたのです。
それを聞いて私は、涙が出ました。
当事者である子どもたちが危険を感じているのに、それをなかなか声に出せないでいる。
でも、こういうことをきっかけにして、私たちが意思疎通をしたり情報交換ができるようにしたいと思いました。
中学生の母親が、こう言いました。
「モニタリングポストは大人の知る権利を保障するだけでなく、子どもに知る権利も保障している。自分たちで確認することが、どれほど大切なことかと思った」
 その後も私たちは規制庁との交渉を予定していて、これは当面の存続とは関係なく、選挙前の6月17日には確実に押していこうと思っていました。
ところが存続となって大きく出だしが変わったのに、交渉にあたってみるとやっぱり相手との違いがいくつも挙がってきました。
 「モニタリングポストの配属の適正化」という言葉が出てきました。
それに対して「適正化ということは台数を減らすということではなく、住民の要望に応えた所に配属をし直すということですね」と問うと、竹山課長は「はい、その通りです」と答えたので、私たちはてっきり足りない場所に移設するのだと思ったら高山課長は、「いや、そんなことは答えていません。適正化というのはあくまでも企業主である規制委員会が、この範囲でだぶ(だぶってと言いかけて慌てて言葉を呑んで)、これだけのモニタリングポストが不要だと思ったら、自分たちは撤去できると考えています」と言いました。
“だぶって“と言いかけたのを見て、だぶついていたら撤去できると考えていることが判りました。
このことから、やっぱり住民の思いとは食い違っていることが判りました。
存続が決まった時に「私たちの声は届くんですね」と、何人ものお母さんたちが感激して、そのお母さんたちはその時の成功体験から“国に物申す”ことが始まったのはとても貴重な体験でしたが、やっぱり住民の思いと国側の考えとの違いはあります。
その他にも課長は、「みなさんは福島に住むことを選んでいるのですから」と言い、本当にいつも、私たちの心を逆なでするような言葉が出ています。
 更田委員長の発言に「心の問題」という言葉がありました。
「私たちの心に問題があるという意味か」と問うと、「そうではない」と取り繕いましたが、この問題がなぜ始まったかといえば、当事者である私たちを抜きにして規制庁が勝手に撤去しようとしたことから始まったのです。
つまりこれは、私たちの権利が犯されているということと、国が責任をとっていないことが問題なのです。
この件に関して、あの産経新聞でさえ、私たちに称賛の記事を書いてくれました。
「撤去方針を撤回せざるを得なかった規制委員会の誤りは、住民の心を想像できなかったこと」と。
 選挙が近いので私たちはいま、候補者たちに「あなたはモニタリングポストは、いつまで必要だと考えますか」「議員になったら、モニタリングポストの解消を変えるために尽力しますか」という質問を、答えは「ハイ」か「イイエ」しかありませんが、そんなアンケートをとっています。
 私たちは、科学者の言うことを信用しない市民というレッテルを貼られてきました。
それは安心安全キャンペーンによったのですが、それに裏打ちされていたのはパターナリズムだと思います。
パターナリズムというのは、強い立場の者が弱い立場の者の利益のためだと言って、本人の意思に関わらず支援することを言います。
福島県で起きているあらゆることが、パターナリズムだと思います。
 私たちは原発・核事故の被害の可視化をしていくこと、権利の回復を求めていくことが大切だと思います。
 命に真正面から向き合って、命を選び取ることがモニタリングポストを存続させて欲しいという運動の一つであるし、この「子ども脱被ばく裁判」だと思います。

★長文をお読みくださって、ありがとうございました。
 この後、井戸弁護士からこの日の裁判の進行についての説明がありましたが、その報告は裁判傍聴報告と合わせて次に続けます。

いちえ


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