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2018年10月18日号「お知らせ」

①ブックレットが出来ました!
『東電刑事裁判で明らかになったこと 予見・回避可能だった原発事故はなぜ起きたか』
海渡雄一:編著
福島原発刑事訴訟支援団・福島原発告訴団:監修
彩流社:発行  定価:1000円+税
多くの皆様にお読みいただきたいです。
この裁判を注視していただきたいです。
原発事故の責任を問う裁判の記録です。

②トークの会「福島の声を聞こう!vol.29」
日 時:11月27日(火)19:00〜21:00(開場は18:30
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158 2F)
ゲストスピーカーは浪江町から茨城県に避難した関場健治さんです。
チラシを添付します。
皆様のご参加をお待ちしています。
当日、会場で上記のブックレット販売いたします。        

いちえ

watanabeichie-vol29


2018年10月14日号「10月6日~8日②」

 7日は朝食を済ませた後で、むさしのスマイルのみなさんは東京へ戻ります。
私は皆さんと別れて日立市へ向かいました。
浪江・津島から避難して日立市で暮らす関場健治さん・和代さん夫妻を訪問です。
浪江から避難して飯坂で暮らす今野寿美雄さんに同行をお願いしました。
関場さんと今野さんは親戚なのです。

●可愛いボーイフレンドに会ってから
 喜久屋旅館で皆さんと別れてから、今野さんの車で昨夜けんか祭りが行われた八幡神社へ行きました。
祭りの法被を着た人たちが、片付けをしていました。
けんかでぶつけ合った山車は解体されて、その部品の一つ一つを丁寧に洗って拭き、またロープを巻き取り、と丁寧に作業が進められていました。
長老たちは袴姿で社殿に上がって行きましたから、そちらはそちらでまた大事な後の始末の話し合いでしょうか。
昨夜の興奮と熱気は消えた神社の境内は静かで、法被姿の人たちはちょっぴり祭りの余韻を引きながら語らいながら、片付け作業をしています。
私は、この様子に接することができた幸せを思いました。
こうして今年の祭りを終えて、また次の年を待つ…、なんだかしみじみとする光景でした。
 そこに洋美さんも居ると思い行ったのですが姿がなかったので、お宅を訪ねました。
洋美さんは今野さんの友人で以前に紹介されて、お人柄に魅せられていました。
お宅を訪ねるとすぐに洋美さんが顔を出し、続いて次男坊の凌介くんが弾けそうな笑顔で飛び出してきました
凌介くんはいつもこうして大歓迎してくれる、可愛い私のボーイフレンドなのです。
4人のお子たち、みんなすくすく成長していて、初めて会った時にはまだ歩けなくて洋美さんの膝の上にいた未子の恵那ちゃんは、ピョンと跳ねて見せてくれたり、そんな姿に会えるのもまた嬉しいことでした。

◎関場健治さん・和代さん
●浪江町・津島
 健治さん、和代さんには白馬の「深山の雪」や他の場所で何度かお会いしてお話しを聞かせて頂いていましたし、2年前の7月には「たぁくらたぁ」編集長の野池さんと一緒に津島のご自宅に連れて行って頂きました。
 津島は帰還困難区域ですから、住民一時立入車両通行許可証を持った住民と一緒でなければ入れません。
区域内に住民登録がある関場さんが予約時に、同行者としての私たちの名前も申請して許可を受けるのです。
スクリーニング場で受け取ったビニール袋には、白い不織布の上着とズボン、キャップ、木綿の白手袋とその上につけるビニール手袋、不織布のマスク、首からかける積算線量計が入っていました。
行き交う車もなく山の中を行き、ダム湖を過ぎトンネルを抜けると「熊の森山入口」と書いた立て札があって、川を渡る小さな橋がかかっていました。
橋の向こうに鬱蒼と茂る草藪が、ガードレールのない橋にも覆いかぶさっていました。
関場さんの家は、その橋を渡った向こうなのです。
運転する健治さんに、和代さんは「側溝に気をつけて!側溝に入らないで!」と何度も声をかけていました。
健治さんは体に染み込ませるように通いなれた道幅の感覚を覚えているのでしょう、前方に顔を向けたまま車を進め、程なく着いたところが関場さんの家でした。
 家の前に着きましたが丈高い雑草の只中で、どうやって車から降りればいいのかと思っていると、先に降りた健治さんが草刈機で車の周囲の草を手早く刈りました。
車から降りてスクリーニング場で受け取った防護服(実際には放射線を防護できるものではないので、この呼び名は変なのですが)靴カバー、マスク、キャップ手袋をつけて線量計を首からかけました。
 「どうぞ、靴のままで入ってください」と促されて母屋に入りましたが、足の踏み場もないメチャクチャと言えるほどの酷い惨状でした。
布団は部屋中に広がり蓋の空いた広口瓶がそこここに転がっていて、障子紙は引き裂かれてボロボロで、棚の上にあったものがみんな下に転がり落ちていました。
すべて、野獣の仕業です。
ネズミ、サル、イノシシ、タヌキ、アライグマ、アナグマ、ハクビシン、キツネ…。
サルは広口瓶の蓋を開けて砂糖漬けの梅は食べ尽くし、塩漬けは食べずにこぼし散らしてありました。
 3月11日、地震の後で大勢が避難してきたので押入れから何組も布団を出して休んだのでした。
すぐまた使うからと押入れにしまわずに部屋の隅に積んで置いたのですが、そのまま避難することになってしまったのでした。
和代さんは「お姑さんが綺麗好きな人だったから、私も家の中はいつも片付けてきれいにお掃除していたのに、こんなになっちゃって…。来るたびに酷くなってる」と、ため息をつきました。
 見るも無残なその部屋の東の窓の外は請戸川の支流で、関場さんの家は支流が本流に流れ込む角に在り、二方が川という所に位置していました。
モリアオガエルが棲み、夏には無数のホタルが飛び交い、頭上には天の川や数多の星が輝いていたと言います。
健治さんは渓流釣りが好きでヤマメ釣りを楽しみ、和代さんも健治さんも春には山菜、秋には茸採りと、豊かな自然の中での安寧な毎日でした。
庭には小さな池もあり、健治さんが釣ってきたヤマメをその日のうちに食べきれなければ池に放していたそうですが、その池も今は草に埋もれていて「そこに池が」と指さされても見分けられませんでした。
「お金はなかったけど、ここの暮らしは本当に心は豊かだった」と、つぶやくように言う和代さんでした。
「定年後に、津島でやりたいことがいっぱいあった」という健治さんでした。

●避難先の日立市を訪ねて
 健治さん、和代さんに津島に連れて行っていただいた時から、2年以上の月日が過ぎていました。
その間、健治さんには「深山の雪」のイベントや裁判でお会いしていましたが、和代さんには、あれ以来会っていませんでした。
それまではいつもお二人で参加されていたのですが、健治さんが一人で参加された時に「和代さんは?」とお聞きしたら、「猫が死んでペットロス症候群みたいで」と言われたので案じていました。
この夏の「深山の雪」のイベントにも、健治さんが一人で参加でしたが、和代さんは元気に過ごされているとお聞きしました。
 数日後に和代さんと電話で話をした時に訪問の約束をして、日立市の家を訪ねたのでした。
飯坂から今野さんの車で日立に向かう道中、今野さんは「兄貴は絶対にシェフの腕をふるって待ってるよ」と言うのでした。
津島にいた頃遊びに行くと、健治さんは釣ったヤマメを塩焼きにして食べさせてくれたことを懐かしそうに今野さんは話しました。
また「兄貴が向こうからナナハンに乗って来るの、格好よかったなぁ!後ろに乗せてもらって飛ばすのよ。ヒャーッと風切って行くんだよな」とも。
そんな話を聞きながら私は、津島の風景を思い起こしていました。
日立市に入ってカーナビを頼りに行きましたが、瓦屋根の大きな門構えの家々の旧市街地を抜けて緩い傾斜を登って行きました。
あたりは小高い丘陵地で道路の片側は芝生に木々が植えられた公園で、それは造られた自然という感じがしました。
道路のこちら側には庭付きの建売住宅が何区画も並んで、小高い丘陵地一帯を造成して新興住宅地として開発された地域のようでした。
関場さんの家は、丘の上方の一角にありました。
渓流のせせらぎ、山菜やキノコの山、居ながらにしてモリアオガエルやホタルを目にする自然と一体になったような津島とは、大きく違った辺りの環境です。

●新しい暮らし
 ワンちゃんの鳴き声に迎えられて、関場さんのお宅へお邪魔しました。
久しぶりにお会いした和代さんも、すっかりお元気な様子でした。
来る時の車中で今野さんが言っていた通り、テーブルには山の幸のご馳走がいっぱい並んで「どうぞ、どうぞ」と勧められます。
来る途中で昼食にお蕎麦を食べてから間がないので、そうお断りをして、まずはお話を聞かせてもらいました。
 2011年3月12日の3時頃、東電に息子が勤めている友人から「原発が危ないから、すぐ逃げるように」と知らされて、津島の家に避難して来て居た子どもたちの家族共々18人で息子の嫁の実家がある会津美里に避難しました。
以前連れて行っていただいた津島の御宅の状況を目に浮かべながら、大わらわで津島を後にした様子を想いました。
大勢で居候もできず、14日に会津東山温泉の旅館に避難しましたが、やがてその旅館が大熊町の人たちの避難所として受け入れ先になると、関場さんたちには1泊5000円の宿泊料が請求されるようになりました。
この間4月2日から9日まで和代さんは一人で、飼っていた猫の救出に津島に戻って自宅で過ごしています。
 フォトジャーナリストの豊田直己さん、野田雅也さんの映画、『遺言 原発さえなければ』をご覧になった方もいらっしゃると思います。
2013年に公開されたドキュメンタリー映画ですが、その冒頭に出てくるのがこの時の和代さんです。
 東山で1泊5000円と言われてそこには居られないと、柳津に中古の家を入手してそこで暮らすことにしました。
 和代さんと健治さんが話している間も、健治さんと今野さんは冷酒を飲み交わしていました
 関場さんには娘が二人いますが、娘たち家族はそれぞれ日立市に避難して暮らし始めていました。
息子は高萩市にいました。
子どもたちが3人とも茨城県に居るので家族が集まりやすいようにと、関場さんたちも柳津から4年前にこちらに移ってきたのでした。
「柳津からこっちに来て良かった。娘二人はそれぞれ近くに住んでて、娘たちの所と息子の所とちょうど中間辺がここだから、集まりやすいの。家族が近くにいるのがいいですね」と、和代さんが言いました。
 和代さんは1年ほど前に、何かにつけて不安感が心を占領するようになり、眠れない、食べ物が喉を通らない日が続いて1ヶ月で16kgも体重が減ってしまったことがあったそうです。
昨年暮れに友人に紹介された心療内科を受診して鬱と診断され、診断されたら心が軽くなり不安感が消えて、処方された入眠剤で眠れるようになり、食べ物も喉を通るようになって、体重も戻ったと言います。
今は薬を飲まなくても眠れると言っていました。

●賑やかな酒宴
 話しながら、話を聞きながらテーブルのご馳走をいただいていました。
小さなヤマメの唐揚げ、ユリ根、舞茸、カボチャ、サツマイモのてんぷら、ヤマメの塩焼き、ゼンマイの炊いたの、キュウリの塩漬け、どれもこれも美味しくて箸が進みます。
 ちょうどそんな話をしていた所へ、次女のサオリさんと孫のカレンちゃん(小学2年生)がやってきました。
今野さんは「あれ、サオリじゃないか。元気か?マコトはどうしてる?」と聞きました。
サオリさんの夫のマコトさんは、かつて今野さんが原発技術者として働いていた時に別の会社でしたが新入社員として働いていて、今野さんが色々と教えたり助けてあげていたのだそうです。
 健治さんと今野さんは2人でとうとう1升瓶を空にしてしまい、そんな所へ話題のマコトさんもやってきました。
すっかり出来上がった健治さんはソファの方で横になり、今度は今野さんとマコトさんがビールと焼酎で酌み交わし、仕事上の先輩後輩として付き合っていた頃の話に花が咲きました。
 ソファに横になっている健治さんのそばにカレンちゃんが行くと、健治さんは寝たふりをしながら手や足でカレンちゃんにちょっかいを出しています。
カレンちゃんは「じっち(爺じ)は私の事かまってないで、お客さんの相手をしなさい」などとおませな口をきくのです。
和代さんと私も共通の知人の事を話したり、サオリさんも一緒に世間話や今野さん達の話題に加わったり、賑やかな夜が過ぎて行きました。
 やがてマコトさん、サオリさん、カレンちゃんは帰り、健治さんはソファから床に降りてそのまま眠ってしまったようです。
和代さんは「大丈夫です。ちゃんと上に毛布かけますから、あそこに寝かせておきましょう」と。
 カレンちゃんは一人娘だけれど、長女のところも息子のところも子どもは2人いるので、孫は5人。
和代さんはカレンちゃんにはきょうだいが居ないから、かわいそうだし一人っ子だと心配だと言います。
でも次女のサオリさんと長女の家は近くて学区域も同じで、カレンちゃんと長女のところの孫娘のイロハちゃんは、同い年で幼稚園も一緒、小学校も一緒で双子のように仲が良いと言います。
小学校の1年の時は同じクラスでしたが、仲が良すぎて二人だけでくっついているので2年生になった時に別クラスにされたそうです。

●記録をする事
 翌日は津島・赤字木の記録作りに心血を注いでいる方を追ったドキュメンタリー映像や、NHK仙台が製作した赤字木のドキュメンタリーを見せていただき、またかつての津島での暮らしをお聞きしました。
そして今回、今野さんに同行をお願いした事で、関場さん夫妻と今野さんの会話から津島での暮らしが、私にも生き生きと思い浮かべる事ができて、幸いでした。
 健治さんは今、近くに畑を借りて野菜を栽培し、子どもや孫に食べさせたり近所の直売所で販売したりしているそうです。
月に一度は浪江の町役場前で、帰還した人たちに即売会もしています。
町の人たちとの繋がりを大切に保ちながら、新しい場所での暮らしも確かに築いていってます。
津島訴訟の原告として、闘っていくためにも記録はとても大事だと言って、前述したようなDVDも全て大切に保存しています。
 たくさんの事を聞かせていただいて、おいとましたのでした。

●次回のトークの会
 次回のトークの会「福島の声を聞こう!vol.29」は、11月27日(火)です。
関場健治さんに、お話していただきます。
時間は19:00〜21:00(開場18:30)、場所は神楽坂セッションハウス・ガーデンです。
健治さんの話を、ぜひ直接お聞きください。
皆様のご参加を、お待ちしています。                     

いちえ


2018年10月10日号「10月6日〜9日①」

 福島原発刑事訴訟の傍聴報告が第24回公判までしかお送りできていないのですが、来週からはいよいよ被告人尋問が始まるので、25〜29回までの裁判の様子もできるだけ早くにご報告したいと思っています。
メモ書きからまとめるのが滞っていて、迅速なご報告ができずにいます。
直近の事柄から先にお伝えします。

◎6日は飯坂温泉へ
●宿泊交流会in飯坂温泉
 6日は、むさしのスマイル主催の「宿泊交流会in飯坂温泉」に参加しました。
避難者&支援者の交流会を定期的に持っている「むさしのスマイル」が企画した、避難者と福島在住者・帰還者との意見交換・交流会です。
 支援者の山根さんno
「地元の人たちの不安や不満には、どんなことがありますか?」の言葉に、一時は長野に避難して‘12年に戻った帰還者のMさんが言いました。
*Mさんの発言
 「学校や、教育に対してすごく不信感がある。。
中学生だった息子が宿題で、福島産の食品に対する不安を書いたらみんなの前で先生に『今までで一番最低の答え』と言われた。
クラスメートからは『福島に住んでて福島の悪口を言うのか』と、いじめられた。
先生がそう思うのは先生の考えだけど、でもみんなの前でそんな風に断じるのではなく、なぜそう思うのかと聞いてみんなでその問題を考えるようにして欲しかった」
 聞いていた参加者は先生の対応に呆れ、Mさんの言葉に大いに頷いたのでした。
Mさんの発言をきっかけにして在住者の皆さんからは、地元では原発や放射能について話題にできないという声が上がりました。
*在住者のKさんの発言
 「放射能や汚染などについて深く考えることはなかったが、当時地元では戸外活動がいろいろ制限されていたので、中学生だった息子を保養に出した。
帰ってきた息子から保養先での生活を聞いて、保養の意義を理解するようになった。
息子はその後もFoE Japanの保養に行き、大学生の今はスタッフとして参加している」
*Kさんの息子のS君
 「初めて保養に参加した時は、最初はなかなか馴染めなかったがスタッフの大人たちがめっちゃ良い人たちで、大学生の人たちと一緒に過ごすうちに自分もこんな風にして小さい子どもたちを遊んであげられるようになりたい、泥んこになって子どもと遊べる保育士になりたいと思った。
将来は福島の子どものための保育園、子ども園を作りたいと思うようになった。
それで今は大学の保育科に通っている」
 ね、素晴らしい話でしょう?元保育士だった私は、それを聞いてウルウルでした。
この日はS君の友人2人も参加していましたが、その2人もS君と同じく保育士を目指して学んでいる男子たちでした。
この3人のおかげで交流会参加者の子どもたちは、大人たちが話し合いの時間も楽しく遊んでもらえたのでした。
*在住者のSさんの発言
 「地元では原発のことや放射能のことは話題にしないし、話題にできない。
食べ物の話などもできず、TVドラマやタレントのことなど当たり障りのない話ばっかりで、ストレスがたまる」
 Sさんの言葉から、子どもだけではなく大人たちにも保養が必要なのではないかと強く思いました。
保養という言葉を使わず交流会でも良いから、大人たちが心置きなく不安を吐き出せる場を作っていく必要を思いました。
*葛尾村から東京に避難しているKさん
 「村は帰村したけれど、帰還した人は少なくほとんどが高齢者だ。
学校も再開したが生徒は中学生7人、小学生7人、幼稚園5人で、複式学級でやっているが、子どもよりも職員の方が人数が多い。
運動会も学校だけでは成り立たず、村の運動会として行った。
自宅は山の中だから線量が高くて戻れないし、住宅支援も無くなるから郡山に転居先を決めた。
葛尾にいた時は夏休みなど子どもたちが孫連れて集まって、賑やかに楽しかった。
春は山菜、秋はキノコや木の実、そんなんで料理すれば孫たちも、ばあちゃんの作ったの美味しいって喜んで食べた。
またそうやってみんなが集まれるように、郡山に家を作った。
孫7人、曾孫2人いるが、1歳の誕生日を迎えた時には餅を背負わせるんだけど、この間1歳になった曾孫にも、餅を背負わせたの。
面白かったよ、こんなしてあっちに転けたりこっちに転けたりして泣いてんの。
可愛いなぁ。
孫7人、曾孫2人、みんな私が餅背負わせたの」
 故郷を奪われることは、暮らしを刻んできた歴史の形跡をも奪われること。
Kさんは福島に原発が誘致された頃から、お連れ合い共々反対の声をあげてきた人です。
 お連れ合いの小島力さんの詩集『わが涙滂々』から一編を。
     火災
1985年8月31日午前6時42分
東京電力福島第一原子力発電所
1号機タービン建屋で火災発生
中央操作室の地絡警報機が作動
火災報知器がけたたましく鳴動
当直員がただちに現場へ急行した
   その時刻
   町役場も
   広域消防所も
   朝の眠りの底に沈んでいた
   東京電力からは何の連絡も
   発せられなかった
午前7時10分
駆けつけた職員3名が消火活動を開始
受電盤が焼き切れ
タービン建屋と事務本館が停電
火は更に電源ケーブルを伝って燃え広がり
ほぼ1時間を経過して
尚衰えを見せなかった
煙はタービン建屋に充満し
ケーブルダクトから外へ噴き出した
   その時刻
   農面道路に通じる畦道を
   六号国道交差点の歩道橋を
   登校の子供らが
   一列に並んで歩いていた
午前8時7分 119番通報
午前8時10分 県庁に通報
火災発生から約1時間半後であった
浪江・富岡両消防署から
消防車15台が出動し
一号機周辺を固めたが
放射線管理区域立ち入りができず
外部からダクトをはずして注水
午前8時50分
出火から約2時間後ようやく鎮火した
   55年3月15日 発生火災
    消防署通報〜なし
   56年5月21日 発生火災
    消防署通報〜なし
   57年4月2日 二号機タービン建屋火災
    消防署通報〜5月12日
   60年3月15日 5号機タービン建屋火災
    消防署通報〜4月2日(重火傷1名)
   双葉広域消防本部は東京電力に対し
   厳重に申し入れを行うと表明した
9月2日
県 双葉・大熊両町などの
関係機関立ち入り調査が実施された
しかしあまりにも体質化した事故隠しが
通報遅延の根本要因である事実は
決して暴かれはしなかった
しかも出火原因は
依然として不明のままである
   そこで俺は
   中古のバイクにまたがって
   カンカン照りの野良道を往ったり来たり
   「住民は耳も目もふさがれている
    事故が起きたって知らされるアテなんかねぇ」
   と説いてまわる
   樹陰にたむろして笑いこける
   道路工事のオバちゃんたちに
   車の下から無愛想な仰向け顏で
   這い出してくる修理工の若者に……
「火災が起きたって通報は1時間半も後だ
原因だってまだ公表されちゃいない」
牧草畑の真ん中で乾草集めに大わらわの
トラクターの親父さんに
俺はしきりと憤懣をぶちまける
すると汗まみれの髭面をニヤリと崩して
日曜百姓の親父は言ってのける
「火事の原因だぁ?
アハハ そんなものぁおめえ
火だぁべぇ?」
かくして又
原発は故なくも安全である         (1986年作)

長い詩を引用しましたが、2011年の過酷事故はこの延長線上にあるのです。
 この交流会は時間にすれば短いものでしたが、とても有意義な時間でした。

●飯坂けんか祭り
 6日は日本3大けんか祭りの一つ、飯坂けんか祭りの本祭りの宵でした。
新幹線福島駅に展示されているこの祭りの写真を目にする度に、いつかこのお祭りをみたいと願っていました。
勇壮で心が昂ぶる祭りでした。
願いが叶って、嬉しい宵でした。

◎お知らせ
 上記しましたが、福島原発刑事裁判の第25〜29回公判の傍聴記録は、追って「一枝通信」でお伝えするつもりです。
でもその前に、このお知らせを。
海渡雄一弁護士編著、福島原発刑事訴訟支援団・福島原発告訴団監修のブックレットが緊急出版されます。
『東電刑事裁判で明らかになったこと 予見・回避可能だった原発事故はなぜ起きたか』
彩流社刊、定価1000円+税 (9月の公判までの最新版)
http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-2535-5.html
10月16日発売開始!
16日の被告人尋問の日が発売日です。
この裁判を知っていただく為の必読書です。
どうぞ、お手に取っていただきたく願っています。       

いちえ


2018年9月27日号「9月24日駆け足南相馬」

●寺内塚合仮設住宅
 8月は訪ねることができず、24日ようやく出かけてきました。
寺内塚合に行く前に黒沢さんの家に寄り、ぶさ子ちゃんの代金をお渡ししました。
久しぶりに会った黒沢さんは、とても元気そうでした。
暑い夏でしたから案じていましたが、体調崩すこともなく過ごしていたと聞いて嬉しいことでした。
 寺内塚合の談話室には天野さん、菅野さん、紺野さん夫妻とが集まっていました。
菅野さんは鹿島に長女家族が建てた家に住んでいますが、昼間はいつも娘婿さんが送ってくれて、談話室で過ごしています。
紺野さんは2015年暮れに小高の自宅に戻ったのですが、時々こうして談話室に遊びに来るのです。
 みんな、仮設住宅に入居してからの日々、談話室でおしゃべりしながら手芸品を作ってきた仲間です。
今も仮設住宅に住むのは天野さんだけですが、そんな天野さんを気にかけて、紺野さんはたまに訪ねてくれるのです。
また菅野さんは、日中は家族がみんな仕事に出てしまうので、家に一人でいるより友達と過ごせるようにと娘婿が送ってきてくれるのです。
6月までは山田さんもいたのですが、山田さんも小高の自宅に戻りました。
井口さんは息子家族と一緒に住んでいますが、6月にお連れ合いが亡くなったそうですから、どうしているのでしょうか。
 久しぶりに会うミッちゃん(紺野さん妻)と安重(夫)は、変わりなく元気でした。
ミッちゃんが栗ご飯を炊いてきてくれて、みんなで頂きながら賑やかにおしゃべりの花が咲きます。
そんな時に、安重さんから聞いた話です。
「猿と競争よ。猿も軍団作ってんのな。猿軍団よ。それが一つじゃねぇんだ。こっちに軍団一つ居っと、あっちにも別の軍団居るんだな。そっちにまた別の軍団がいて、そんな時は急いで車ん中に逃げるよ」
「柿でも栗でも猿が落として地面にあるのを、イノシシが狙って来んだ。イノシシ、昼間だって出て来んよ。」
「米は稲が柔らかいうちはスズメが食うけど、しっかり実ってくる頃になっと、イノシシにやられる。アライグマも多いよ。この前20頭ばかりも獲らえられたってよ」
 避難指示解除になって住民も何割かは戻りましたが、そこは半ば野生の王国化しているようです。
●カリタス南相馬
 仮設住宅を退去した人たちに、集いの場を提供している教会があると聞いていました。
また教会併設の幼稚園は、2011年被災後も園を閉じずに希望する園児を受け入れていたとも聞いていました。
前もって連絡もせずに突然でしたが、お訪ねしました。
休日だったので幼稚園はお休みでしたが、教会の集会室には大勢の人が集っていました。
ちょうどこの日は、音楽を学んでいる学生さんたちがボランティアで演奏会を開いていました。
また改めてゆっくりお話をお聞きしに再訪の御願いをして、帰りました。

 今回は日帰りで、駆け足の南相馬行でした。
なかなかゆっくり訪問する時間が取れずにいる最近です。
 仮設住宅を退去した人たちが多くなり、住まいが離れているので訪ねにくくもなっています。
けれど仮設にいた頃よりも自宅に戻られてからの方が、大変な人も多いのではないかと案じているのです。
近くに話し相手もいず、昼間はテレビを見るしかない人も多いのです。  

いちえ


2018年9月10日号トークの会「福島の声を聞こう!vol.28」報告②

●東京訴訟
原発事故に関して闘われている裁判は全国で30件ほどあると思いますが、私は東京訴訟の原告です。
今年3月に判決が出て、低線量被曝が健康にどのような害を及ぼすかについて裁判所は、低線量でも害がある、そのような中で避難することは合理性があると認めました。
しかし、合理性があるのは2011年12月までだとしています。
なぜかといえば、その時期に福島の原発は冷温停止状態になったと発表されているからです。
それ以降は放射線の飛散は少なくなったので、避難の合理性があるのは、そこまでだと言います。
ただし、妊婦と子どもは翌年の8月まで合理性があると言いますが、私は納得がいきません。
裁判所の言う「翌年の8月」には、私のところは除染が始まっていませんでした。
それで私は控訴しています。
まだ控訴審は始まっていませんが、いま弁護士と控訴理由書を出すために検討しています。

◎特別ゲスト
*一枝:今日は避難の協同センター事務局長の瀬戸さんもご参加いただいているので、瀬戸さんからもぜひ一言お願いします。
●瀬戸大作さん
2016年7月に避難の協同センターを立ち上げました。
2016年5月に避難者に対して、来年3月いっぱいで住宅支援を打ち切るから出て行って欲しいと、各地域で避難している人たちに対しての戸別訪問が始まりました。
都営団地で説明会があって、そこに小学生の子どもがいる母子世帯のお母さんが居た。
その説明会のあった日から10日後に、そのあるお母さんが、中央線の駅から電話をしてきました。
死のうと思って子どもを連れて出たのでしょう。
そういうことがあって、その夜はホテルに泊まってもらって対応しましたが、そういうところから避難の協同センター立ち上げに入って行きました。
僕は東京で「さようなら原発」とか、脱原発運動などをやってきていましたが、避難している人たちがこのように苦しんでいるということを、それまで実感として持っていなかったんです。
このままではまずいなと思って、相談窓口となる携帯電話を作って、そのチラシを持って新宿の百人町住宅を回りました。
すると都営住宅に入っている人たちが、本当にひどいいじめにあっていることを話してくれました。「そのネックレスは賠償金で買ったのか」などと言われたり、4人くらいのお母さんたちと話しました。
そういうことがあって、その1ヶ月半ほど経ったときに、かなり無理矢理に避難の協同センターを立ち上げたのです。
僕が実感しているのは原発避難の問題だが、日本のいまの社会で例えば貧困問題でいうと、底が抜けている。
二つの例を挙げますが、一つは7月の終わりくらいに郡山の友人から電話があった。
会津から除染作業で来た人が除染作業に入ったが、障害があることがわかって契約を切られ、作業員宿舎から出されて郡山で路上生活をしている、という電話だった。
その人は生活保護の申請に行ったのですが、却下されています。
この人は会津から来て、家もない、お金もないのだが、そういう場合東京ならシェルターがあるが、福島県にはシェルターが一つもない。
除染作業で連れてこられたのだが、どこか屋根があり布団がある場所に入れてもらえないかと郡山市に交渉したが、受け付けないと言った。
これは原発問題と、もう一方で弱者に対しての対応ができていないことです。
もう一つの例は、いまも継続中の話だ。
山梨県に避難した母子世帯で、避難後に生活保護を受けるようになった。
今年の暑さはどうしても堪えきれないからエアコンをつけたいと、お母さんは役所に連絡したら、「エアコンの補助については、あなたは受けられません」と言われた。
原発災害で避難している人たちが、いろいろ支援を切られています。
そもそも国の原発事故で避難者が生じているのに、この国自体が貧困状態とか色々な状態で厳しい立場に置かれている人たちに対して、何の支援も手当てもない。
この間ずっと、熊本さんたちと一緒に政府や福島県と交渉していますが、その時に感じるのは、自分たちの加害の責任について全く感じられない。
それと、オリンピックですよ。
2020年までに避難者はゼロにするということにみんな気が向いていて、避難者は追跡しない。
本当にいま、民間賃貸の家賃支援が切られていて大変な状態になっていて、大抵の人たちが避難前よりも月の収入が何万円も少なくなっていて支出が増えている。
母子避難の人たちは東京に来て正規の仕事なんか無く、最低賃金の970円とかで働いていて月の収入は15・6万円です。
それで家賃を7万、8万出して、それでもいいなら避難生活を継続しろというようになっています。
国家公務員住宅は来年3月いっぱいで退去勧告されているので、ぜひ一緒に頑張っていきたいと思っています。
●熊本美彌子さん
災害救助法はものすごく古い法律だとお話ししましたが、これはイタリアの避難所です。(注:と言って週刊誌『週刊金曜日』の表紙を掲げて示す)
ここに並んでいる青いのはテントですが、家族で一つのテントに入れます。
日本では避難所は体育館で、そこでおにぎりが配られますが、それを得るために並ばなければならない。
イタリアは避難所の食事もワインがなければ食事ではないそうです。
私たちは“豊かな日本”に居て、災害になった時に何故こんな状態にならなきゃいけないのか。
私たちは、災害の時にどうあるべきかについて、もっと普段から気をつけて意見を言っていかねばならないのではないか。
東京だって直下型地震が、30年間に70%と高く警告されています。
私たちも原発事故以前は全くそういうことを考えずにきていましたが、実際に災害に遭い、しかも天災ではなく原発事故という人災に対して災害救助法の枠だけで対応されている。
原子力災害についての法律が無い中で、子ども被災者支援法も理念は立派ですが骨抜きにされてきちんとした対応が取られていない現実を、よく知って頂きたいと思います。
災害救助法が1947年に作られたままだということに納得がいかないし、トランプの言っている武器を買わなければ、きちんと対応はできると思います。
先日の国会で水道の民営化が衆議院で可決されましたが、それは古い水道管を補修していく財源が無いから民営化するという、おかしな話ではないですか。
命の水なのに、その補修をきちんとできないのはおかしいです。
それらのことに対してみんながおかしいと声を上げていかなければ、日本は変わらないと思います。
経済が縮小していく中で私たちがどうしなければならないか、今までのように暮らしていていいのかということを、考えていかなければいけないと思います。
*一枝:
瀬戸さんから母子避難の方のお話が出ました。
区域外避難者の多くは、母子避難です。

子どもを守りたい一心で避難するお母さんに対して、夫や義父母からの非難の声が上がることもあります。
「不安に思うのは気のせいだ」などと、避難したお母さんが責められたりしています。
私はお母さんたちの不安はもっともだと思うし、それを責めるのは違うと思うのですが、「安全安心だから避難は自分勝手」という人たちに対して、説得できる言葉が見つからずにいました。
でも昨年、お母さんたちの不安は真っ当な反応なのだと、心にストンと響く本を読みました。
『復興ストレス』という本です。
今日はその本の著者の伊藤浩志さんも参加されていますので、伊藤さんからも一言いただきたいと思います。
伊藤さんは、その後また『「不安」は悪いことじゃない』という本を出されましたが、これもとてもわかりやすく書かれていました。
(『復興ストレス 失われゆく被災の言葉』伊藤浩志著:彩流社刊、『「不安」は悪いことじゃない 脳科学と人文学が教える「こころの処方箋」』島薗進・伊藤浩志共著:イースト・プレス刊)
●伊藤浩志さん
福島市の渡利から来ました。
出身は静岡県ですが、震災当時は名古屋の近くの大府の国立長寿医療研究センターにいました。
アルツハイマーや認知症の研究をしているところで、研究員をしていました。
ネズミを使って脳のメカニズム、認知症のメカニズムの関連などをやっていて、震災1年後に任期が切れて福島県立医大に赴任することになって渡利に住むようになりました。
研究者になる以前は10年間新聞記者をしていて、脳死移植や遺伝子組み換え植物、最近流行っている遺伝子診断問題などを主題にしていました。
そして科学に興味を持って、新聞社を辞めて大学院に入り理系の脳科学を10年間やって、今は福島県立医大も辞めて、フリーで本を書いたりしています。
ジャーナリスティックな観点から見て、ちゃんと裏付けをとって科学的にどうなのかということで、他の人がやっていないようなことができるのではないかと思いやっています。
「文系の人には理系の教養がない」「理系の人には文系の教養がない」などと互いにお題目のように言い合っているような、垣根みたいなものができています。
ドイツの社会学者のフレデリック・ウルリヒベックの『危険社会』というリスク社会のことを書いたベストセラーがありますが、その中に「危険とは分野と分野の間にある」と書かれていますが、役所でも「あっちに行きなさい、こっちに行きなさい」とタライ回しにされて誰もやってくれない、などがあります。
自分の担当となると一生懸命やるが誰の担当かわからない境界線上になると、相手への遠慮などもあって、なかなかやらない。
僕は文系と理系を跨いで、ジャーナリズムとアカデミズムを跨いでやろうと思って、本を書きました。
一言で言うと、「世の中理屈じゃない」ということを、理屈で証明したくてということですが、はっきり脳科学で証明できています。
2冊目の本の『「不安」は悪いことじゃない』に書きましたが「感情的になると理性が働かなくなる」と言われますが、感情が無くなってしまった人は、理性的に頭ではいろいろ判っていても行動はめちゃくちゃになります。
感情が無くなると理性が働かなくなるのです。
理性と感情の考え方、原発事故で「安全性と不安感は別々です」と言いますが、別々じゃないのです。
不安感というのは警報装置が鳴っているわけで、心の問題ではなく、危ないものが迫っているから不安を感じるのです。
心の問題ではないのです。
それをどうやってとらえるかを、理屈で説明しています。

◎休憩後の質疑応答
Q:実家が南相馬の小高で避難指示解除になって戻った人もいるが、避難先に生活拠点を移した人もいる。
そこで暮らすことに不安もありながら生活している人たちもいる一方で、新たに移住して来る人もいたり、私たちは大きな矛盾を抱えているような気がして…。
A:(熊本さん):
私のところを除染業者が除染した後のデータを見ると、地上1cmより1mの方が数値が高いところがある。
山の中で林があるので、林は除染しませんからそこからガンマー線が流れてくるのでしょう。
一昨年の冬は、玄関から3mの場所の土は平米あたり8万ベクレルで、これは放射線管理区域の2倍の数値です。
二本松のキャベツ農家で有機農法でキャベツを作っていた男性が、原発事故後自死されましたが、今はその息子さんが後を継いで農業をやっています。
その方は出荷制限基準値以下だったから野菜を出荷したけれど、出荷しないと賠償金が出ないから出荷した。
「食べて応援」と言ってくれる消費者の方はありがたいけれど、自分が消費者だったら福島産は買わない、食べないと言います。
葛藤を抱えながら暮らしたことを忘れたくないと言っています。
私の畑は除染されて砂を入れられましたから、雑草が伸び放題に生えています。
そこに戻って農業ができるかといったら、土を全部入れ替えなきゃならない。
とても大変な作業になる。
始めた時は夫と二人だったけれど、事故から7年経って私も75歳です。
それでも頑張って元に戻そうとして思ってやり、そこで採れた野菜を親戚や友達にあげたとして、喜んでもらえるでしょうか?
福島に新たに来てくださった人たちが、一生懸命やっているのをどう考えたらいいのか…。
私は戻れないと思っているし、戻っても生きがいを感じられないと思うので戻らず、今ある問題についてきちんと解決するように頑張ろうと思っています。
みんな葛藤を抱えながら、一生懸命生きています。
私たちは、巧まずして分断させられましたが、互いに思っていることを十分に話し合うことが大事だと思っています。
A:(一枝)
以前にこのトークの会にゲストスピーカーできてくださった菅野瑞穂さんは、二本松の農業者さんで若いお嬢さんです。
お父さんが有機農法でやっていて、彼女が体育大学を卒業する年に震災が起き原発事故が起きました。
彼女は卒業後はお父さんの農業を継いで一緒にやっていこうと思っていた矢先の事故でしたから、とてもとても悩み、でも彼女は初志を貫くことを選びました。
お父さんは畑にゼオライトを撒いたり、いろいろ研究して放射性核種が作物に移行しないやり方を工夫して、彼女もそれに習いながらやってそこで採れる作物は全て放射能を検出せずで安全なのです。
そこで「希望のたねカンパニー」を立ち上げて頑張っている彼女を私は応援していますし、野菜や加工品を美味しくいただきます。
でも、若い彼女がそこで農業をすることに心配な思いを抱いています。
防塵マスクをして農作業をするわけではありませんし、周囲には林や森もあります。
また、その畑で採れたものを私は美味しく食べても、孫たちに食べさせるにはちょっと躊躇してしまう。
そんな矛盾を抱えながら、葛藤を抱えながら生きていかなければいけない時代なんだと思います。
だからと言って熊本さんが言われているように、そこでやっている人を批難したりパッシングしたりするのではなく、その人の考えでやっていることを尊重しながらやっていきたいけれど、どうしても譲れないのは、「絶対安心だよ、なんにも心配はないんだよ」と能天気にいう人と、そういうことを推し進めて何が何でもオリンピックのような形で一部の人たちだけが潤うような施策をしていく人たちには断固としてNO!と言っていきたいです。
葛藤を抱えながらも、その一線では絶対に譲らずにやっていきたいし、きっとみなさんも同じだと思います。
A:(瀬戸さん)
僕の仕事は生協ですが、甲状腺の検診などをいろいろな地域生協でやっています。
それは福島県でやっているのではなく、東京でやったり神奈川県でやったりしています。
大学のゼミで呼ばれて講義したりすることがあるのですが、本当にまずいなと思っているのは、いまの大学生が原発問題に対してほとんど意見がない。
賛成も反対もない。
だからその時に僕が気をつけてやるのは、福島原発事故だけど、「福島」にしないことです。
例えば千葉の流山に住んでいる子がいたら、流山は汚染重点地区じゃないですか。
そうした時にこれは福島原発事故で自分は福島に住んでいないけれど、これは福島県の被災者の問題ではなく自分の問題として捉えられる。
だから僕は話をしに行く時は、福島県のデータだけではなくその周辺の都道府県のデータを持って行って話をする。
福島の問題ではなく自分ごととして捉えられるようにすることが大事だと思う。

大変長くなりましたが、8月17日のトークの会「福島の声を聞こう!vol.28」の報告を終えます。
長文をお読みくださって、ありがとうございました。
●次回のトークの会「福島の声を聞こう!vol.29」は、11月27日(火)19:00〜です。
ゲストスピーカーは浪江町津島から茨城県日立市に避難した関場健治さんです。
近くになりましたら改めておしらせしますが、ご予定に組んでおいていただけたら幸いです。

いちえ

 


2018年9月10日号トークの会「福島の声を聞こう!vol.28」報告①

 大変遅くなりましたが、8月17日に催しました28回目のトークの会「福島の声を聞こう!」の報告です。
ゲストスピーカーは、熊本美彌子さんでした。
●熊本美彌子さんプロフィール
 昭和18(1943)年生まれ。
 60歳まで東京で働き、田舎暮らしがしたいと福島県田村市に夫婦で移住し、原野を夫婦で鍬で開墾し、200坪の畑にして、無農薬有機栽培を行う。
原発事故で東京に避難し、被災者として東電・国の加害責任を求めて裁判中。

◎熊本美彌子さんのお話
●退職後は田舎で暮らしたい
 60歳まで消費者センターの相談員として働いていました。
夫は定年後は田舎暮らしをしたいと言い、それより5年前に福島に移っていましたから、私も退職後に夫に合流して移住しました。
移住先は福島県の中通り地方で合併によって現在は田村市ですが、その頃は田村郡常葉(ときわ)町でした。
常葉町山根地区雨乞平というところで、常に葉がある山の麓で、時々は雨乞いなどもするという地名のところでした。
 夫は秋田、私は埼玉で、どちらも農家の出身ではありませんが、東京でのサラリーマン生活の後で田舎での暮らしを求めたのです。
会社勤めをしながら退職後の暮らしの場を求めて、あちこちを見て回りました。
方々を見て歩きましたが、その時に判ったことは、田舎の人は土地を手放すというのはとても抵抗があるということで、先祖代々伝わった土地を手放すというのは何かしら理由があってのことです。
親代々の土地を売って、そのお金で借金を清算して息子のところへ行くというような例が多く、見ているだけで気が滅入るような暗い雰囲気のところが多かったです。
●夫婦で開墾
 そうやって方々見て回っている時に、1年前に土器が出たので売ることができずにいたけれど発掘調査の結果大したものが出なかったために売却可能となった土地に、ちょうどいきあたり、そこを買いました。
原野ということでしたが、9,000平米、2,700坪という広い土地で、中に小さな川が流れていました。
サラリーマンが9,000平米の土地を買うなど都会では考えられないことですが、私たちはそこを手に入れて喜び、一生懸命開墾しました。
機械がなかったので夫婦二人で鍬での手作業でしたが、そこはもともと営林署の苗畑だったところなので、少し鍬を入れるとスポッと入ってしまうような柔らかい土地でしたから、すぐに畑ができました。
 畑ではいろいろな野菜を作りましたが、今の季節だとたくさんの茄子が採れました。
賀茂茄子や白茄子、山形では漬物にする小茄子などで、小茄子は塩漬けにするとヘタの部分がとても美味しいのです。
種類の違う茄子だけでもいっぱい採れたし、他にもキュウリや大豆、花豆、隠元豆など豆類もと、たくさんの野菜を作り収穫できました。
果物ではキウィやブルーベリーも作り、ブルーベリーは畑に25本植えた苗から、最盛期には30kgくらい収穫できました。
 畑はそんな風でしたが、林も残してあって林の中では椎茸、なめこ、舞茸などを栽培しました。
舞茸は一株がこれくらい(注:30cmほどの円を手で描く)大きくて、それを発泡スチロールの箱に入れて送ると、とても喜ばれました。
大きいだけではなく、売っているものとは香りも全然違うのです。
●一人になってからも
 そんな風にして夫婦でやっていましたが2007年に、夫が亡くなりました。
息子たちはそれぞれ東京で暮らしていましたから、私はその後も一人で田舎暮らしを続けていました。
一人になってからは春先に畑を耕すのが一番大変でしたが、それさえキチンとやれば後は普通の農作業で、ちょっと鍬を振るって苗を植えてという状態でした。
野菜はすべて種から育てていたので、ビニールハウスを作ってハウスの中で苗を育てる作業をしました。
 畑は化学肥料を全く使わず、林の落ち葉と、近所に牛を飼っている人がいたのでそこから牛糞と敷き藁をもらって、それらを合わせて積んでおくと良い堆肥になるのです。
その堆肥を畑に播いていましたから、土がとても豊かになって、買った肥料を使わずとも本当に美味しい野菜が採れる状態でした。
 夫が亡くなって一番大変だったのは、草刈りでした。
刈り払い機のエンジンをかけるには紐を引っ張るのですが、なかなか一度でかからないのです。
何度も引っ張ってようやくエンジンがかかったら、燃料がなくなるまで2時間ほど一生懸命にパァーッとやるのですが、一度は熱中症のようになって倒れたりしました。
でも刈り払い機のエンジンをかけるのもだんだん上手になって、1回でエンジンがかかるようになったのですが、コツを掴んだのですね。
夫が亡くなってからも、そんな風にして一人で暮らしていました。
●『原発事故 その時、あなたは』
 2011年3月11日は、寒い日でした。
地震が発生した時、私はちょうど犬の散歩中でした。
東京ではガタガタ揺れて「あ、地震だ」と思いますが、福島の山の中での地震は揺れる前にゴォーと地鳴りがして、「あっ、これは!」と思う内に揺れ出すのです。
立っていられないくらいの激しい揺れで、その場にへたり込んだ犬と一緒に私も座り込みました。
山裾の道でしたが、上の方にあった家の人が「屋根瓦が落ちた!」と叫びながら下りてきました。
 少し揺れが収まって家に入ってみると色々な物が散乱していて、また余震もありましたから作業場に布団を持ち込んで、そこで過ごしていました。
 夫の存命中に買って二人で読んでいた本で、『原発事故 その時、あなたは』という本があり、事故後にそれを読み返して「あ、やっぱり事故が起きると情報は隠されるのだな」と思いました。
その本には、原発事故が起きた時には情報は必ず隠されるから、よくよく注意しているようにと書いてあったのです。
1995年に出版された本で原発事故が起きてから再販されたようですが、京都大学の原子炉実験所で仕事をされていた瀬尾健さんという方が書かれたものですが、瀬尾さんは本が出版される前に亡くなっています。
亡くなった後で原子炉実験所の仕事仲間の小出裕章さんが、瀬尾さんの名前でこの本を出したのです。
どれくらいの距離を逃げれば大丈夫とか、風向きによってどういう状態になるかとか詳しく分析してある本で、コンピューターが普及する前に書かれたものですから、大変なお仕事だったと思います。
 その本には、事故が起きたらとにかく早く遠ざかりなさい、逃げる時には風向きと90度の方角に逃げなさいと書いてありました。実際に事故が起きた時にスピーディの情報は隠されていて、風の向く方へ逃げてしまった人達も多かったのですが、山の中は都会と違って四方八方に道があるわけではありません。
道がある方へ行くしかないわけで、そういう事態が起きてしまったわけですが、皆がそういう情報を知っていれば、放射能の雲がかかっているような方向へ逃げなくても済んだかもしれないと思います。(注:『原発事故 その時、あなたは』瀬尾健/風媒社)
●「よく逃げてきたね」
 地震の後電話が通じなくなっていて固定電話の回線でコンピューターを繋いでいましたから、コンピューターも使えませんでした。
14日に電話が通じるようになり、福島空港に電話をして臨時便があるか問い合わせたところ、臨時便は出ているが航空券を入手してから来るようにと言われました。
それでコンピューターの前に座り込んで、その時に初めて、コンピューターを通じて買い物をしたのですが、翌日の羽田行き臨時便のチケットを入手できました。
福島空港に行ってみて「チケットを入手してから来るように」と言われた訳がわかったのですが、空港は人でいっぱいでした。
 そうして15日に私は犬と一緒に東京に着き、息子の家に世話になりました。
その時に京都に住んでいる元警察官の叔父から、「よく逃げてきたね」と言われましたが、やっぱり逃げるというのはとても決断がいることです。
叔父に「よく逃げてきたね」と褒められて、ああ私はやっぱり良い決断をしたのだと思いました。
●都営住宅へ
 その後、東京都が避難者向けに都営住宅の入居者を募集したので応募して、今も都営住宅に住んでいます。
福島で私が住んでいたのは原発から30,5kmなので、区域外避難者ということになりますが、一時は同じ山根地区の一部が30km圏内だったので緊急時避難準備区域で、田村市が対象になっていたので応募できたのです。
ところが去年の3月で、区域外避難者の住宅提供は打ち切りになりました。
 私はそのやり方に納得がいかなかったので、今も都営住宅に住んでいます。
だって放射能は、線引きされた外側には降らないという訳ではないのですから。
 今日もまたJKK(東京都住宅供給公社)と都の都市整備局から配達証明が届きました。
その配達証明も私がいない時に届いたので、再配達の手続きをしたのです。
去年の4月から今まで、同様の配達証明が何度か届きました。
そこには「住宅から出て行きなさい。出ていかなければ使用料を請求します」と書いてあるのですが、請求書も入っていないし、振込用紙も入っていない。
請求額がいくらなのかもわからない状態で、今のところまだ明け渡せという要求はないので、住み続けています。
●「災害救助法」と現実に合わない適用
 なぜこういう事態になったかということですが、災害救助法という法律があります。
大雨などで災害が起きて皆さんが避難することになった時には避難所が開設され、被災者はその避難所に一時的に入ります。
避難所を出た時に災害救助法の適用によって、住宅が提供されることになっています。
これは当初は自然災害による災害救助法でしたが、東海村で事故が起きた時に、初めて原子力災害も災害救助法の対象にされました。
 災害救助法は昭和22(1947)年に出来た古い法律で、台風、津波など天災による災害対象だったのが、東海村の事故で、初めて原子力災害もその対象になったのです。
でも東海村の事故は、福島の事故よりも放射性質物質の飛散は狭い範囲だったし、避難した人たちも広域避難はあまりありませんでした。
災害救助法が福島の原発事故のように広範囲な事故に対して適用されるのは初めての例になりますが、私どもが災害救助法で与えられた住宅は、一番最初は16万人もが避難をし、10万人が県外に逃れた状態で、避難先の自治体が住宅を提供したという形になったのです。
 ところが去年の3月で、区域外避難者(避難指示がなく避難した人たち)に対して提供されていた住宅の提供が打ち切られましたが、それを決めたのは福島県の内堀県知事なのです。
2015年6月15日に、福島県知事が「区域外避難者への住宅提供は打ち切る」と言ったのです。
しかし私たちが入居しているのは、例えば私は都営住宅ですが、都営住宅というのは東京都が提供しているわけです。
 けれども避難先の自治体が意見をいう仕組みにはなっておらず、2013年に国が「見なし仮設の継続を決めるのは福島県知事だ」として、避難元の県知事が決めるという仕組みを作ったのです。
それによって県知事が提供を打ち切ると言ったのですが、それは県議会にも謀られずそこで決議もされたわけでもなく、国会で審議、決議されたわけでもありません。
●「子ども被災者支援法」
 原発事故による避難者に対しては「子ども被災者支援法」という法律があります。
これは国会議員が提出をして議員全員が賛成し、全会一致で成立した法律で、正式には「東京電力原子力事故により被災した子どもをはじめとする住民等の生活を支えるための被災者の生活支援に関する施策の推進に関する法律」という長い名前なので、略して「子ども被災者支援法」と呼んでいます。
 この法律は、「東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故(以下「東京電力原子力事故」という。)により放出された放射性物質が広く拡散されていること、当該放射性物質による放射線が人の健康に及ぼす危険について科学的に十分に解明されていないこと等のため、一定の基準以上の放射線量が計測される地域に居住し、また居住していた者及び政府による避難に係る指示により避難を余儀なくされている者並びにこれらの者に準ずる者(以下「被災者」という。)が、健康上の不安を抱え、生活上の負担を強いられており、その支援の必要性が生じていること及び当該支援に関し特に子どもへの配慮が求められていることに鑑み、子どもに特に配慮して行う被災者の生活支援等に関する施策(以下「被災者生活支援等施策」という。)の基本となる事項を定めることにより、被災者の生活を守り支えるための被災者生活支援等施策(以下略)」を目的にしています。
 この目的の中で一番大事な点だと私が思うのは、「人の健康に及ぼす影響について科学的に十分に解明されていないこと等のため」に、そこに留まる人、避難する人、いったん避難した後で帰った人、それらすべての人に対して、科学的に十分に解明されていないことを考えた上でそれぞれが自分で判断して行動できるように支援しなさいという法律だと思うのです。
 特にこの法律の第9条は「支援対象地域外で生活する被災者への支援」を挙げ、避難した人たちへどのような支援をするかについて、「国は」という言葉から始めて施策について語られています。
国が何をしなければいけないかということが、挙げられています。
子どもが学校や教育を受ける権利、被災者が仕事ができるように配慮することや避難先の自治体でいろいろなサービスを受けることができるようにすることや、一番大きなことは、国が避難者に対しての住宅を確保しなさいということを言っています。
 ところが民主党政権の時に、自民党、公明党、共産党などみんなが賛成して全会一致で可決したこの法律ですが、その後民主党が選挙で大敗しました。
2回の選挙で自民党が勝利を収めた状況の中で、法律の基本方針を政府が作ることになっていたのですが、自公政府はそれを無視して基本方針が全く骨抜きにされてしまったのです。
そのために私たち避難者の住宅は国の施策ではなくて「災害救助法」の適用でしか充当されなかったということです。
●「災害救助法」適用の矛盾
 去年3月で区域外避難者の住宅提供が打ち切られた理由は、「災害救助法」の応急救助の時期が過ぎたからというのが、福島県の説明です。
しかし放射性セシウム137の半減期は30年ですし、大人、子どもに限らず放射線の健康に対する影響は、「子ども被災者支援法」の目的でも「十分解明されていない」と書かれているように、その状態は今も続いているのです。
まだはっきりしたことは言えない状態の中で、たった6年や7年で放射性物質は消えるのか、放射線セシウムが消えるのか、そんなことはあり得ないです。
科学の常識の原理によっているので、人間が放射線を消すことはできないのです。
●住宅提供が打ち切られてからの状況は
 区域外避難者の住宅提供が打ち切られた時どういう事態が生じたかというと、都の場合、都が提供していたのは都営住宅と国家公務員宿舎、それと民間の借り上げ住宅があり、その他に福島県が提供していた雇用促進住宅があります。
雇用促進住宅というのは、炭鉱が閉鎖されたときに炭鉱労働者が炭住(炭鉱の社宅)を出て新たな仕事を探さなければならなくなり、そのために全国に建てたのが雇用促進住宅です。
ですからどこも建物はとても古く、年数が経っています。
でも、そこでも家賃の3倍の収入がなければ、入れないし、そのままそこに居られないのです。
 川崎の雇用促進住宅に入っていた、まだ40代ですが体が悪くて働けない状態の男性が、「出ろ、出ろ」と言われて仕方なく去年の3月に雇用促進住宅を出ました。
出たのですが行き場がなくて、「避難の協同センター(☆)」に助けを求めてきました。
避難の協同センター事務局長は、住居の確保をしなければと関係各所に連絡を取って動き、もう一度その男性に連絡をしようとしたら男性は、自分でなんとかすると言って連絡を絶ってしまいました。
避難の協同センターでは皆、その人はどうしただろうと心配していたのですが、今年の3月にまた、その人から連絡がありました。
所持金が50円しかないと言い、今度はちゃんとその人と会えましたが、着の身着のままという状態でした。
「出ろ、出ろ」言って追い出しても、その後の手当てが何も考えられていない実情です。
☆避難の恊働センター
 東京電力・福島第一発電所の事故により避難を余儀なくされた人たちの「健康に生きる権利」を共助の力で実現しつつ、国や自治体に対して、避難先での住宅補償や就労、教育等も含めた生活支援など総合的な支援の実現を求めて、2016年7月に設立された団体。ゲストスピーカーの熊本美彌子さんは世話人の一人。
●入居のための要件
 都営住宅は、一昨年7月・8月に区域外避難者に対して300戸の募集をかけたのですが、世帯要件、収入要件が合わないと応募できませんでした。
実際に入居できたのは142世帯しかありませんでした。
①世帯要件
世帯要件というのは例えば、ひとり親世帯では子どもが20歳未満でないといけない、20歳を超えていたら、世帯分離しなければいけないといいます。
 また子どもが3人以上の多子世帯も応募条件にありますが、その場合は18歳未満の子どもが3人以上であること、とされています。
子どもが小さい人も応募できますが、小学校入学前の子どもが2人以上とされています。
少子化時代で子どもが大勢いる人も少ないですが、こうした世帯要件のために結局応募できなかったら、一体どうすればいいのでしょう。
②収入要件
 緊急避難した私たちは、それまでの生業を全て捨てて、捨てざるを得ずにそうしてきたわけです。
それで避難先で就職しようとしても就職先はなかなか見つからず、非常に不安定な状態で収入が少ないです。
そういう人たちは家賃の問題で民間賃貸に入れない状況ですから、福島県は独自に、民間賃貸住宅に対して最初の年は上限で3万円、次の年は2万円の補助をしてきましたが、でも、それにも収入要件の枠があって、少しでもそれを超えると補助が受けられません。その2年目が来年3月で終わるのですが、やっとの思いで民間の賃貸住宅に移って補助を受けて生活している人たちが、来年4月以降にどういう暮らしになっていくのかとても心配です。
福島県は自立のために2年間の猶予を設けたと言いますが、今の世の中で2年間で給料が2万円、3万円と昇給するでしょうか?
 こうした状況の中でどうすればいいのか、大きな問題です。
●振り分けられた避難先の住居
 避難者の入居先は、自分で選んだのではありません。
例えば赤坂プリンスホテルが避難所だった人たちは、「国家公務員宿舎が空いているから、そこに入ってください」「都営住宅に入ったらどうですか」というような形で、入居先が振り分けられました。
自分で選んだのではないのに、入居した住宅の種類によって、様々な困難にぶつかっています。
 振り分けられて入った住宅によって、住宅提供打ち切り後の条件が変わるのです。
都内で避難者を入れている国家公務員宿舎は3ヶ所あります。
一つは東雲のタワーマンションの新しい建物と、それから九段下にもあります。
もう一つは東久留米ですが、そこは取り壊す予定になっている建物で、殆どが空室で国家公務員は、もう住んでいません。
けれどもそこに振り分けられた避難者が4世帯居るのですが、とても古い建物で殆ど手入れもされていませんから、大雨が降るとトイレの壁が濡れてきてトイレットペーパーが湿ってしまうような状態です。
今年の春にはトイレの壁が崩れてきています。
●国家公務員宿舎
 福島県は補助打ち切り後も2年間に限って国家公務員宿舎に入っていて良いが、ただし国家公務員と同額の使用料を払うようにといいます。
 国家公務員宿舎は国有財産ですから、「国有財産使用許可書」に基づいて県知事が、理財局から使用許可を受けるという形をとっています。
理財局が県知事に下した「国有財産使用許可書」には、「使用を許可する期間は平成30年4月1日から平成31年3月31日まで。ただし、使用許可の更新を受けようとするときは、使用を許可された者は、使用を許可された期間の満了2月前までに所定の様式により許可者に申請」のことと書かれています。
 県は被災者への応急仮設住宅として国家公務員宿舎を充てるに当たって「国家公務員宿舎セーフティネット使用貸付に関する要項」を作りました。
そこにも「セーフティネットの貸付期間」として、「1年以内かつ年度内とする。なおセーフティネット使用要件を満たす場合、平成31年3月末まで継続可能とする。
被災者は、前項の貸付期間の延長を希望するときは、貸付期間満了の2ヶ月前までに書面を持って知事に申請」のことと記されています。
 けれどもこの「期間延長を希望する場合は、期間満了の2ヶ月前までに申請」ということが、入居者たちには全く知らされていなかったのです。
これを、どう考えたらいいのか……。
 国家公務員宿舎への入居者たちは去年、県との間に「国家公務員宿舎セーフティネット使用貸付契約書」という契約を結びました。
「国家公務員宿舎セーフティネット使用貸付契約書」には、「貸付物件の損壊被害の補償義務」の項目に、こんなことが書かれているのです。
「第12条 乙は、貸付物件が天災その他の事由により損壊し、第三者に損害を与えた場合は、その賠償の責を負うものとし、甲が代わってその責を果たしたときは、甲は乙に求償することができるものとする。」(注:「甲」は福島県、「乙」は入居者)
どういうことかというと、先日大阪で地震によって小学校のプールの塀が倒れて小学生がなくなりましたが、もし避難者が入居している住宅の外壁が天災で倒壊して誰かに被害があった場合は、避難者が弁償しなければならないというのです。
これは、すごくおかしいと入居者たちは昨年から指摘していますが、福島県はそれを認めずにいて、やっと今年5月に訂正しました。
●騙しのテクニックではないか?
 避難の協同センターでは7月に、福島県でヒアリングを行いました。
そのときに川俣町山木屋地区の人から聞いた話です。
山木屋地区は1年前に避難指示解除になっていますが、被災前には1,200人が住んでいた地区で、帰った人は310人だそうです。
皆、75歳以上の後期高齢者で、働き手がいないそうです。
そこで除染の書類を受領しましたという書類に署名捺印を求められているのですが、その書類の下の方に「この書面の受領後(注:「除染後」ということ)は、地権者が管理をお願いします」と書いてあるのです。
つまり、そこで書面を受け取ったと署名捺印すると、「その後の除染はそれぞれが自己責任でやりなさい」ということを認めたことになってしまうのです。
 私は以前に、消費生活相談員をしていたことをはじめにお話ししましたが、このやり方は騙しのテクニックだと思います。
なぜ、こんな騙しのような手口を使うのか。
先にお話した国家公務員宿舎の件でも、どういう手続きをしなさいということも決めているのに、避難者に渡す契約書には必要な手続きを伝えていない。
来年3月までに出ていかなければ、2倍の使用料を払えなどと書く。
なぜ、そういうことをするのか!
私たちは民主主義の国に生きていると思うのですが、こうした騙しのような手口を使って物事を進めていくことが許されるのでしょうか。
 20ミリシーベルトを下回ったから「帰れ、帰れ」と言われますが、20ミリシーベルト以下なら健康に害がないと証明されたわけではありません。
これは非常に政治的な判断だと思いますが、その場合そのように決めることによって利害が生じるすべての人に対して、きちんと情報提供して、その人たちの意見を聞くということをしないで、ただ「説明しました」で済ませてしまうやり方には、非常に納得がいきません。    ​続く


2018年9月9日号「福島原発刑事訴訟公判傍聴記」

◎第24回公判
 9月5日10:00〜17:00、第24回公判が開かれました。
●証人尋問
 この日の証人は東電社員で、原子力設備管理部の建築グループにいた西村功さんでした。
地震の揺れの想定と津波高の想定とを、どう調整して対策に取り入れるかが、西村さんの仕事でした。
東通原発では推本の長期評価を地震対策に取り入れて、津波高7.7mよりも高い想定値で対策をしていましたが、自分の専門は地震の分野の方なので津波のことはよく判らなかったと証言しました。
●調書読み上げ
 検察官役の指定弁護士が、元東電幹部の供述調書を読み上げました。
地震対策センター部長だった山下和彦さんが検察に供述していた内容ですが、当初は山下さん本人の証人尋問が行われる予定でした。
けれど体調不良ということなのか理由は明かされませんでしたが、永淵健一裁判長は山下さんの現状は法廷で証言できる状態ではないとして、調書を採用したのです。
 渋村弁護士が淡々と2時間近くにわたって読み上げた供述調書4通の全文からは、驚くような事実が浮かんできました。
そしてこれらは証拠として採用されるのです。
 2002年に地震調査研究推進本部(地震本部・推本)が発表した「長期評価」では、福島沖でも7.7mを超える津波が起きることが想定され、それに対して東電でも対策が考慮されていました。
2008年2月に開かれた勝俣氏、武藤氏、武黒氏らが出席する“御前会議”で、山下氏は長期評価を取り入れた対策を取り入れる必要を報告し、それは了承されました。
そしてまた、翌3月の常務会でもそれは認められました。
 それを受けて東電の津波対策部署は長期評価に基づく津波高を計算して、15.7mという結果を6月10日に武藤氏に報告しました。
その会合終了時点でも、津波対策を取り込む方針は維持されていたと、山下氏は証言しています。
そして7月の会議で武藤氏は“ちゃぶ台返し”をして、津波対策を先送りにしました。
 この流れはこれまでにも明らかにされていましたが、今回の調書によって2月の御前会議でも3月の常務会でも長期評価を取り入れることが了承されていたことがはっきり判りました。
 武藤氏のちゃぶ台返し発言によって津波対策が先送りになった理由について、山下氏は証言しています。
防潮堤建設には数百億円の費用がかかることと、対策工事が済むまで数年間原発を停止しなければならないことを危惧したと、次のように証言しています。
「当時は柏崎刈羽が全機停止中で火力発電で対応していたので収支が悪かった。福島第一まで停止したらさらに収支は悪化する。福一の停止は何としても避けたかった」
 また山下氏は「15.7mではなく10mを超えない数値だったら、対策を講じる方針は維持されただろう」と証言しています。
そして武藤氏から、土木学会の研究者への根回しが指示されたことも証言されました。
 検察官が、「津波は10mを超える可能性があったので防潮堤を作らないとしても、なんらかの暫定的な対策を考えなかったのか」という質問に、「2007年の中越沖地震で想定を上回る津波を経験していたので、同じように想定を上回る津波が、また起こるとは思わなかった」と答えた山下氏の証言が読み上げられると、傍聴席がざわめきました。
 だって、一度起きたことは繰り返すかもしれないと考えて対策を取るのが、常識ではないでしょうか?
*この日の傍聴を終えて
これまでの23回の公判でも、東電元幹部の勝俣、武藤、武黒の3被告に責任があったことははっきりしていますが、けれどもこれまでの証言の中では、長期評価を取り入れて津波対策を考慮するのが東電の社としての方針であったことは証言されていなかったのです。
土木学会の報告として出した時に、ちゃぶ台返しをされたというように証言されていたのです。
それが“御前会議”で了承され、常務会でも認められていたことがはっきり証言され、社としての方針となっていたのに、経営上からのちゃぶ台返しだったことが明らかになったのです。
 この日の山下センター長の調書が読み上げられた時、大いに疑問が湧きました。
検察はこれだけの調書を取っていながら、なぜ3人を不起訴にしたのか(それも2回も)ということです。
検察審査会で強制起訴にならなければ、罪を問われることもなかったというのでは納得がいきません。
これは検察のもみ消し工作だったのではないのでしょうか?

◎第25回公判
 9月7日、第25回公判が開かれました。
●証人尋問①講義
 この日は被告弁護側からの証人で、東北大学大学院の地震学教授の松澤暢さん(地震本部委員の一人)でした。
松澤さんは宣誓書を読み上げたあと、通常は証言台の椅子に着席して証言するのですが「大学では立って講義をしているので、立ったままでいいでしょうか」と裁判官に問い了解を得て、立って話しました。
 パソコンでスクリーンに映し出される画面を見ながら、法廷内にいる私たちはお昼の休廷時間を挟んで約3時間、どっぷりと松澤教授の地震学の講義を受けました。
と、言いたいほど「皆さんが考える地震と、われわれ地震学者が考える地震はこのような点が違っています」ということから始まっての地震についての話でした。
 松澤さんの“講義”で、印象深かったのは2011年3月9日に宮城沖でマグニチュード7.3の地震が起きた時に河北新報から取材を受け、「連動型地震の危険性は低下している」というコメントを出してそれが10日の紙面に載ったが、翌11日に東日本大震災が起き、スクリーンに河北新報のその記事を映し、最大の誤報だったことを悔やんでいると発言したことです。
 また「歴史上、戦に負けた武将の3つの敗因」として、「・情報不足・思い込み・慢心」を挙げ、自分もそれに当たっていたことを話しました。
●証人尋問②尋問
 午後の“講義”が終わって、被告側弁護士の宮村さんが尋問したのは東北地方太平洋沖の地震についてでしたが、松澤さんは地震学上の地震を説明しました。
「皆さんが『地震だ』と思うのは地面が揺れた時で、それは地震の結果であって、地震波が発生して、発生した地震波が伝播した結果地面が揺れる」などと説明し、マグニチュードと震度の違いを言いました。
ただし気象庁の震度とマグニチュードは大体同じであることも付け加えて。
 宮村さんが推本の「長期評価」という言葉の意味を問い「予知ではなく長期評価とした理由」を尋ねると「過去に起きたことは未来にも起きるだろう」とのことからだと思うと答えました。
 検察官役の指定弁護士、久保内さんの質問に対しては、歴史地震の研究はあまりしていないと答え、自分の専門は近代的観測からの地震学でこの100年くらいのことだが、それが重
要だと答えました。
また久保内さんの「地震、津波、活断層など様々な人が地震本部に関わっているが、そこで出された長期評価の知見をどう考えるか」との質問には、「理学的な知見は大事だから関わっていこうと思った」ことや、「防災は得意分野ではないので逃げ出したいと思った」とも答えました。
また、久保内さんの質問に対して自分は近代の地震を専門としていて歴史地震のことはよく判らないが、自分には判らないので歴史地震の研究者の知見は尊重していると答えました。
 右陪席の今井さん、左陪席の柏戸さん、永淵裁判長からも質問があり答えましたが、目新しいことはありませんでした。
●報告会
*海渡弁護士の話
 この日の証人の松澤さんは各地で起きている国が国家賠償で訴えられている裁判で、国を擁護するような意見書を書いている人ですが、だから東電の味方をしてくれるだろうと思って証人として出したのでしょうが、今日は大学の講義のようでした。
そして尋問の中では、宮村さんが苦戦していました。
東電に有利な証言を引き出そうとするのですが、一応は認めるのですが、でもなんとかかんとか言いながら東電が言わせたいようには言わないぞというような感じを、ちょっと受けました。
*甫守弁護士
 松澤さんは3・11後に、どうして我々は予見できなかったかという報告を出したりしていて反省しているように思えていたので、こういう理学者然とした人が国に有利になるような意見書を出すのを見て、国はそこまでたぶらかして取り込んでいくのかなと思っていたが、長期評価は津波対策に入れなくて良かったような知見ではないのだと、松澤さん自身が比較的はっきり証言したのではないか。
 松澤さん自身、地震のメカニズムはよく判らないことがあるが、よく判らない中で理学者としての見解を示す必要があるだろうと、地震評価部会に参加して長期評価をしていたと発言していた。
東電に必ずしも都合の良い証言ではなかったのではないか。
*大川弁護士
 こちらにとって有利ではないかもしれないが、不利な証言ではなかった。
宮村さんはどの証人にも同じように一生懸命言わせようとしているのは、「どこでも発生を積極的に根拠づける知見は?」という質問だが、松澤さんは「私の知る限りなかった」と答えたが、積極的に根拠づけることしか採択しなくて良いということではない。積極的でなくても「ない」ということを根拠づけることがあるならしなくても良いかもしれないが、そうでない限りは一般の長期評価でも対策を立てなくてはならないと、松澤証人も考えていて、「福島沖で起きないかもしれないが、起きないと言える根拠がなかったので考慮した」と言っている。
*武藤類子さん
 次回は9月18日(火)です。
前日の17日には「さようなら原発」の集会があり、佐藤和良団長も話しますから、みなさんご参加ください。
「週刊金曜日」1198号(8月31日発売)に、この裁判の記事が載っていますから、ぜひお読みください。
本日(9月7日)発売の『世界』では特集を組んで「安全神話、ふたたび」で原発事故とこの裁判を取り上げています。こちらもぜひお読みください。
 今日はありがとうございました。

●「東電刑事裁判報告会」 チラシを添付します。
この裁判の報告会が開かれます。
日時:9月30日(日)14:00〜16:30(開場13:30)
場所:専修大学神田キャンパス7号館(大学院棟)3階731教室
入場:無料
内容:弁護団からの報告 福島からのアピール 歌
ぜひ多くの方に参加していただきたく思います。              

いちえ


2018年9月4日号「9月3日国会前」

 昨日は3日、「アベ政治を許さない」スタンディングの日でした。
12時30分より少し前に国会正門前のいつもの場所に行くと、すでに数人の仲間たちの姿がありました。
台風の影響で空模様が怪しかったのですが、そのうちにパラパラと降ってきました。
持参したレインコートを着て雨傘さして「アベ政治を許さない」プラカードを掲げて立っていましたが、澤地さんが到着する頃には雨は止みました。
さすが「晴れ女」と折り紙付きの澤地さん、なんと薄日が差してきました。
 1時きっかりに時報のチャイムが聞こえてきて、みんなでプラカードを掲げました。
参加者80名ほどです。
向かいの国会正門から見学を終えた人たちが出てきます。
一般の人たちが出てきた後で、修学旅行できたらしい制服姿の学生さんたちが出てきました。
門を出て向かいの道路を行きながら、手を振っている子どもたちの姿もありました。
どうやらひとクラスごとにまとまって出てくるのですが、手を振る子どもたちのいるクラス、こちらが手を振っても全く応えないクラスもありました。
 その一団が去って、また今度は別の学校の子どもたちの姿が門の内に見えました。
彼らは、クラスごとに国会議事堂を背景にして記念写真を撮ってから出てきました。
するとどうでしょう!
この学校の子どもたちは、多くがこちらを見て手を振ったのです。
もちろん私たちも皆、プラカードを掲げながら手を振りました。
7クラスか、8クラスあったでしょうか。
どのクラスの子どもたちもみな、笑顔で手を振ってくれました。
私たちの中から「どこから来たのぉ!」と声が上がり、すると「秋田から‼︎」と答が返りました。
「私も秋田よ!」と声を上げて、信号が青になると子どもたちの列に駆け寄っていった人がいました。
彼女は秋田出身だったのです。
その姿に、「故郷の訛り懐かし停車場の人ごみの中そを聴きに行く」を想いました。
 全部のクラスが去った後で彼女は戻ってきて「秋田の大曲中学の子どもたちだった。私はその隣町」と。
子どもたちに手を振りながら、また彼女の言葉を聞いて、涙がこぼれた私でした。
あの子たちが戦争への道を歩かねばならない明日は、決して開かせない!!
熱く強く思いました。
 最後に澤地さんが挨拶されました。
「アベさんほどひどい政治家はこれまでに見なかった。沖縄を沖縄の人たちの取り戻さなければ、もう日本はダメだと思います。政治を私たちの手に取り戻すまで、頑張りましょう」
 この日は澤地さんの、88歳のお誕生日でした。
スタンディングの常連で澤地さんとも親しい竹内さんが用意された花束を、私がお渡ししました。
可愛らしいデザインの黒いワンピース姿の澤地さんに、ひまわりの黄色い花束がとてもお似合いでした。                          

いちえ


2018年8月7日号「お知らせ」

トークの会「福島の声を聞こう!vol.28」
お申し込み受付が始まりました。
ゲストスピーカー熊本美彌子さんのお話を、ぜひ多くの方にお聞き頂きたいと願っています。
皆様のご参加をお待ちしています。           

いちえ

vol28new-3


2018年8月7日号「福島原発刑事訴訟第21回〜第23回公判傍聴記」

 福島原発刑事訴訟の公判は7月24日に第21回公判、25日に第22回公判、27日に第23回公判が開かれました。
●第21回公判(7月24日)
 証人は東電設計の安中正(あんなかただし)氏で、検察官役の石田省三郎弁護士が質問していきました。
安中氏は地震の専門家で、土木学会の津波評価部会では幹事役として土木学会の実務を取り仕切ってきた人です。
石田弁護士は安中氏に、福島第一原発は「確率論的津波ハザード解析」ではどのように評価されているのかを質問していきました。
 土木学会の津波ハザード解析の研究成果によって東電設計が2004年にまとめた報告書では、1万年に1回くらいの確率で津波高が7〜8mになることがわかりました。
土木学会はその後も研究を続け、東電設計はそれをもとに2009年に再度津波ハザード解析を実施、そして新たに貞観地震を考慮に入れて1万年に1回レベルの津波高は、11,5mとなることが判り2010年5月に東電に報告されました。
この結果を聞いた東電の高尾氏は安中氏に、「一桁程度低くならないか」と発言したことが明らかにされました。
 地震本部の長期評価について土木学会は津波ハザード解析の基礎資料として、2004年度と2008年度に専門家にアンケートをとりました。
2004年度のアンケートは、①「過去に発生例がある三陸沖と房総沖で津波地震が活動的で、他の領域は活動的でない」②「三陸沖から房総沖までのどこでも津波地震が発生するという地震本部と同様の見解」で聞いたところ、地震本部の見解を支持する回答が上回っていました。
2008年度は①「三陸沖と房総沖のみで発生」②「津波地震はどこでも発生するが、北部に比べ南部は津波が小さい」③「津波地震はどこでも発生し、北部と南部も同程度の津波地震が発生する」の設問でしたが、「津波地震はどこでも発生する」という②と③
への回答が過半数でした。
安中氏は2004年度には①の「三陸沖と房総沖で」に回答しましたが、2008年度には「どこでも津波が起きる」と考えが変わりました。
その理由として2004年のスマトラ沖地震や貞観地震の調査などから地震本部の長期評価を否定できないと思うようになったようです。
 津波ハザードについては最も詳しいと思われる安中氏の尋問からは、ハザード解析をすれば敷地高さを超える綱海を想定しておくべきだという結論が出ていたことが、明らかになりました。

●第22回公判(7月25日)
 22回公判の証人は電力中央研究所の松山昌史氏で、検察官役の神山啓史弁護士が質問しました。
 松山氏は1999年の土木学会津波評価部会の立ち上げ時から、幹事として関わっていました。
土木学会津波評価部会は2002年に津波想定の方法をまとめた「原子力発電所の津波評価技術」を策定しましたが、コストも人手もかかるから改定は10年に一度くらいにしようという同意があったことを証言しました。
これに対して神山弁護士が、新しい知見が出てきたらどうすべきだったかを問うと、新しい知見は毎年出てくるので、そうした色々な評価を検討材料にしてチェックは必要だと答えました。
 以前の裁判傍聴報告でも記しましたが、津波対策を練ってその報告をした2008年7月31日の会議で武藤氏の「ちゃぶ台返し」発言によって、対策は先送りされたのです。
武藤氏の、「研究を続け第三者の研究に任せよう」という言葉で対策がとられずに先送りされたのですが、この時に提案された「第三者」というのが土木学会でした。
 土木学会のメンバー委員、幹事30人の内、13人は電力会社社員、3人が電力中央研究所員、1人が東電設計で、過半数が電力関係者です。
こうしたメンバーを見れば、土木学会が第三者だとは思えません。

●現場検証を求める意見陳述
 22日の公判期日では、証人尋問の後で検察官役の久保内浩嗣弁護士が裁判官に対して「事故現地の現場検証を行うよう求める意見陳述が行われました。
 本件の争点の一つは被告人らに「事故を予見することができたかどうか。予見できたとしたら結果を回避できたかどうか」です。
この争点の判断には、事故発生の経過を具体的、現実的に理解することが不可欠です。
そのためには、同発電所を直接見聞して、どのような地盤に設置されているのか。地盤上にはどのような設備があるのか、津波はどこまで襲来しどんな痕跡を残しているのか、それらを裁判官の五感で検証する必要があります。
 現場に臨めば本件原子力発電所が、いかに海面に接した場所に設置されているか、津波の襲来に対する十分な対策が必要であったかが一目でわかります。
本件について正しい判断をするには、本件原子力発電所の検証が必要不可欠です。

●第23回公判(7月27日)
 証人は安保秀範氏で検察官役の久保内浩嗣弁護士が質問しました。
安保氏は東電入社後日本原電(日本原子力発電)に出向し、2007年10月〜2009年3月まで原電の土木グループのグループマネージャーとして、東海第二の耐震バックチェックに関する業務を担当していました。
 安保氏は、東電の高尾氏が東北大の今村教授から「福島県海溝沿いで大地震発生は否定できないので波源として考慮すべき」という意見を聞いたという報告を受けて、東電が地震本部の長期評価を受け入れて対策を練ることを理解しました。
2008年3月の日本原電の常務会では、バックチェックにおいて津波地震の予測については福島県海溝沿いで発生の場合の評価結果を求められる可能性が高いことが報告されました。
津波対策を考慮する東電の判断に倣って日本原電は、防潮壁を設置した場合の敷地浸水をシミュレーションするなど、対策に動き始めていました。
ところが東電では、2008年7月31日に会議で武藤氏の「ちゃぶ台返し」によって、対策は先送りという方針変換となったのです。
 東電の先延ばしの判断を聞いて日本原電の取締役開発計画室長は、「こんな先延ばしでいいのか」「なんでこんな判断するのだ」と、発言したそうです。
検察の聴取に安保氏は、東電の酒井氏に方針が変わった理由を尋ねると、酒井氏は「柏崎刈羽も止まっているのに、これに福島も止まったら、経営的にどうなのかって話でね」と答えたと話しています。
 この点について検察官役の久保内氏が質問すると安保氏は、その時の酒井氏の発言について「今の記憶ではない」「その時はそういう風に思ったということだ」と言い、明確に認めませんでした。
 この日の尋問で明らかになったのは、原電の次のような施策です。
・東電が対策を先送りした2008年8月の段階で、地震本部の津波地震による津波については引き続き検討を続ける。
・バックチェックは茨城県津波でやる。
・津波対策については耐力に余裕があるとは言えず、バックチェックの提出時点で対策工事が完了していることが望ましい。
茨城県の波源についての対策は、先行して実施する。
 こうして津波影響のあるすべての管理区域の建屋外壁にて止水する方針で工事をし、工事で不要になった泥を使って海沿いの土地を盛り土しました。
盛り土を防潮堤の代わりにして、津波の遡上を低減させるためです。
それでも浸水は防げないので建屋の入り口を防水扉やシャッターに取り替えたり、防潮堰を設ける対策を施しました。
 東日本大震災で東海第二を襲った津波は、対策工事前のポンプ室側壁を40cm上まわっていました。
外部電源は2系統とも止まったので、もし対策をしていなければ非常用ディーゼル発電も止まり電源喪失につながる事態にもなりえたのです。
これについて安保氏は、「側壁のかさ上げが効いていた」と答えました。

★東海第二は対策をとって電源喪失を免れたのですが、東電は「経営的にどうなのかって話でね」ということで対策を先延ばしにした結果、あの事故が起きたのです。
刑事訴訟の裁判傍聴記をお伝えしていますが、私の拙い報告よりも、もっとわかりやすく弁護団の先生方が報告してくださる報告会が開かれます。
*9月2日(日)14:00〜16:30@郡山市ビッグアイ7F大会議室
*9月30日(日)14:00〜16:30@専修大学神田キャンパス7号館大学院棟3F731室
チラシを添付します。
ぜひご参加ください。                        

いちえ

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