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2018年12月1日号「11月21・22日福島行②」

◎22日
●鹿島区寺内へ
 1週間ほど前に黒沢さんと天野さんに電話をして、22日に訪ねることを伝えてありました。
21日に伊達東仮設住宅から浪江に向かう途中で、天野さんから電話が入りました。
「いつ来るの?」と問う天野さんに、「明日10時頃行きますよ」と答えました。
そして22日、8時少し前に天野さんから電話があり、「一枝さん、いつ来るの?」と言うので、また「10頃行きますよ」と答えると「あ、そうなの。もう来るかと思って待ってたんだ」と言う天野さんでした。
このところそんな風に少し話が噛み合わなくなってきている天野さんの様子が、気になっています。

 天野さんのいる寺内塚合仮設住宅に行く前に、すぐ近くに転居した“ぶさ子ちゃん”作者のヨシ子さんを訪ねました。
ポレポレ東中野で捌いて下さった、ぶさ子ちゃんの代金をお渡ししたかったのです。
ヨシ子さんに会うのも久しぶりです。
ヨシ子さんの家の庭の畑には、白菜、大根、ネギが立派に育っていました。
ダリアや菊が咲き、もう盛りの時期は過ぎているのに赤いカンナも咲いていました。
 自宅があった小高の井田川で農業をしていたヨシ子さんは、仮設住宅にいるときも六角支援隊が用意した畑やビニールハウスで、上手に野菜を育てていました。
自室で独り過ごす眠れない夜に、ぶさ子ちゃんを作ることで気持ちが紛れていたのです。
針を持つ手を動かしながら、「こんな着物も可愛いね。お腹すいたらご飯作ってやっから、待ってろ」などと、自分が作っているぶさ子ちゃん人形に話しかけていたのです。
津波で亡くなった娘さんを、想う夜でもあったことでしょう。
 玄関ドアが開いて顔を見せたヨシ子さんは、元気そうでありました。
代金をお渡しして、しばしの立ち話。
ヨシ子さんが居た小池第3仮設住宅からは、もうハルイさんも退去して新居に引っ越して行ったそうです。
私がそこで出会った人たちは皆、それぞれ新たな暮らしに漕ぎ出しました。
高齢者が、自ら望んだのではない変化に、立ち向かうことになったのでした。
みなさん、お元気でいて欲しいです。
そして生を全うして欲しいです。
 畑の野菜を褒めると、ヨシ子さんは「白菜持って行って」と言って一株根元を切って持たせてくれました。
この家を建てたときに、庭は畑にしたいからと腐葉土を入れてもらったヨシ子さんです。
庭の畑ですから小さくはありますが、春には春の、夏には夏の野菜が、元気に育っているのを、寺内の仮設に行くときにいつも目にしていました。
丹精の瑞々しい白菜を、嬉しくいただいて帰りました。

 天野さんの居る寺内塚合仮設住宅は、ヨシ子さんの家のすぐ先です。
談話室には天野さん一人で、菅野さんの姿がありません。
デイサービスで泊りがけの湯浴みに行っているそうです。
菅野さんは既に仮設住宅から退去して右田の新居で家族と一緒に住んでいるのですが、仮設住宅に残った天野さんを案じて、談話室に通って来るのです。
足腰が不自由になってきた菅野さんですが、自宅から仮設住宅まではいつも一緒に住んでいる娘婿が送迎してくれるのです。
その菅野さんから、天野さんの様子が少しおかしいと聞いたのはこの春のことでした。
財布や鍵、携帯など、どこへ置いたか忘れていつも何か探しているというのです。
また、夜中に誰かが家のドアを叩くと言ったり、外に干した洗濯物を誰かが盗んだと言ったりするそうなのです。
面と向かって話をしている分には、何もおかしなところは感じないのですが、いつも一緒にいる菅野さんは、そんな天野さんの様子に異変を感じて案じているのです。
 天野さんには娘が二人いて、二人ともそれぞれ家庭を持っていて孫もいます。
長女家族は仙台で、次女家族は被災後は原町でアパートを借りて暮らしていますが、原町に新居を建てて天野さんもそこで一緒に暮らすことになっているそうなのですが、大工さんの手が空かず家がまだ出来ていないのです。
来年の3月までに出来るのかどうかも判らないようなのです。
天野さん自身の様子もですが、このこともまた大いに案じられるのです。

●飯舘村へ
 手打ちうどんの「えびす庵」で、お昼を食べました。
飯舘村で食事ができるのは「道の駅」か、ここだけです。
私は「えびす庵」の名前だけは聞いていましたが、入るのは初めてでした。
12時よりほんの少し前でしたが、かろうじて空席がありました。
先客はほとんどが作業員の人たちで向かいの席の人たちの上着には、「仮置場点検」の腕章が付いていました。
他には一組だけ祖母と孫息子らしい2人連れもあり、食べ終えて席を立つと高齢の祖母を労って手を取る成人の孫の姿は、まぶしかったです。
帰還して村で暮らしているのかしら? それとも今も避難先で暮らしていて、おばあちゃんが村に帰りたいと言ったから、孫が慰みに連れてきてあげたのかしら? などと、いろいろと想像した私です。
 注文した「野菜たっぷりうどん」は、本当に野菜がたっぷりでコシのある麺もつゆも美味しくいただきました。
食べ終える頃にはまた団体客が入ってきて、東京からバスで来た被災地ツアーの人たちでした。
 えびす庵から、前田の長谷川健一さんの家へ向かいました。

●長谷川健一さんのお宅で
 長谷川さんはちょうど食事をしている時で、花子さんの姿は見えません。
花子さんは仮設住宅の管理人をしているので、仮設にまだ住民が残っているので毎日お役目で通っているそうです。
昨日仮設住宅に榮子さんたちを訪ねたことを話し、いま仮設住宅に残っているのは何人かお聞きすると、ほとんど退去して数軒が残っているそうです。
その内、榮子さんたちのように行き先が決まっている人もいるが、どうにも行き場がない人が1、2件あるというのです。
働き盛りの年齢の息子がいるのだが引きこもりのようで、不便な村には帰りたくないと言っているそうです。
自宅に戻ったとしても、高齢の親は自分が死んだ後の息子のことを案じてのことなのでしょうか。
今野さんは、そのような人の場合は復興公営住宅に入ればいいのにと言います。
復興公営住宅は収入に応じて家賃が異なり、生活保護世帯は相当低額で(とはいえ当事者にとっては大変な支出ではありましょうが)入居できるし、復興公営住宅は空きがあるのだから申し込めば良いのにと言い、そこへの入居資格や家賃などについても説明してくれました。
長谷川さんも私も、家賃は年収に拠るのでその年ごとに金額が変わることなどを知ったのでした。
 長谷川さんは帰村後に、自分の農地ばかりでなく村からの委託も受けて、全部で12町歩ほどの畑で去年から蕎麦を栽培しています。
栽培ばかりでなく収穫後の製粉までできるように加工場も建て、トラクターやコンバインなど大型農耕車も備えました。
けれど長谷川さんが蕎麦を作るのは、売って商売にするためではないのです。
放射線量はもちろん測りますが、たとえ数値が基準値以下あるいは検出せずだったとしても、飯舘村産では買う人はいないだろうと思っています。
広大な農地を原野に戻したくない、農地として子孫に残していきたいという思いからなのです。
作物を栽培して手入れを続けていけば、汚染された大地も時を経てやがて蘇るだろうと願いを込めてのことなのです。
だから、長谷川さんは言います。
「俺は、蕎麦作りを宣伝に利用させないよ。“飯舘村は農業再開できるようになりました”なんて目論む取材は全てお断りだ」
 去年は“信州大そば”という品種を蒔きましたが福島県の蕎麦ではないので、今年はそれに加えて“会津のかおり”も作りました。
ただ今年は天候のせいでどこでも蕎麦は収穫が少なく、北海道では例年の7割減だったそうです。
「百姓は大変だ。天気に左右されっからな」
雨降りの日が多かったので長谷川さんの畑も収穫量が少なく、今年は蕎麦焼酎を作ってみようと思っていたのに、それも叶いませんでした。
酒好きの長谷川さんらしく、「40度とか50度のを作ろうと思っていたのに、収穫がなくてできなかった」と笑う長谷川さんでした。
 加工場の機械類は全てリースですが、その維持経費は電気量だけでも月に4万円近くかかります。
それを捻出しなければならないので、あちこちから依頼されての蕎麦の刈り取り作業もしているそうです。
いずれは20ヘクタール位にする予定ですが、野生動物、イノシシとの戦いだといいます。
「イノシシも人馴れしていて怖がらないし、イノシシはどんどん増えていくから大変な
んだ。全部電牧(電気牧柵)にしても、そのうち奴らも頭いいから電牧慣れしてぴょんと飛び越えていくからな。
いや、でもいいんだ。やるだけやってダメなら仕方ねぇんだから」
 今野さんが、長谷川さんに聞きました。
「長谷川さん、買い物はどこへ行ってるの?」
村へ戻っても、日常の暮らしはとても大変です。
長谷川さんのところでは今はまだ花子さんが伊達の仮設に通っていますから、その帰りに済ませてきます。
そうでなければ川俣まで行くそうです。
霊山への新しい道もできたし、前日に通った山木屋でも新道路建設は進められています。
ゼネコンにより道路や箱物は作られても、買い物や病院など日常の暮らしの不自由は解消されません。
飯舘村も立派な道の駅はできましたが、そこには定休日があるのです。
村内にある店はこの道の駅と2軒のコンビニだけで、他に商店はありません。
 長谷川さんは言います。
「毎年、こんなして過ごしていくんだろうなって思うな。
だって全然、こういう現実が報道されないんだから。
今年だってキノコが最大で45,000ベクレル。
キノコは食べられるようになるまでは300年だ。
300年って、何世代になる?
チェルノブイリに行ったときにお土産にもらってきたキノコが、30年前に事故があった土地のだからな。それが1,280ベクレルだからな。
村だって県だって、そんな話には触れねぇから。
そんなのに野焼きをするって言うんだから。
放射能ってことには、一言も触れねぇんだから。
(草が伸び放題でも)ずうっと刈り取りなどやってねぇから、野焼きするんだって。
『山火事が危ないって』、これで通してんだから。
放射能が灰になって拡散するなんて、一言も無い。
もっとも村長が、『これくらいの放射能では人的被害は無い』なんて断言してんだから、話になんねぇ。
いろいろ言ってると、悪者にされちまう。
 今でも俺は飯舘の認定農業者協議会の会長だけど、村の会議に俺は一切呼ばれない。
農業の復興のための会議など、一切呼ばれない、徹底してっから。
だから俺は認定農業者協議会の会長の役は、絶対外さない(辞めない。降りない)。
意地でもやってく。
残念だなぁ」
 長谷川さんは少し咳き込み、この頃喉の調子が悪いと言います。
それを聞いた今野さんは即座に、「いや、それはちゃんと検査したほうがいい。甲状腺、大人も多いんだよ。甲状腺、最初は喉の調子が悪くなるんだって。早く診てもらったほうが良い」と、検査してもらうことを勧め、長谷川さんも「そうだな」と答えました。

●小高からの訪問客
 そんな話をしているところへ、訪問客がやってきました。
南相馬・小高からやって来たご夫婦は、長谷川さんの加工場で玄蕎麦を製粉してもらいに来たのでした。
小高大富の人で、地域に戻っている何人かで、蕎麦栽培を始めたそうです。
大富は山場に近い地域です。
畑地の除染と新たな土の搬入など営農再開も、きっとご苦労が多いと思います。
長野県で支援してくれる人たちがいて、蕎麦の種を送ってくれたり交流があるそうです。
明日、その支援者たちが長野から来て交流会を開くそうで、収穫した蕎麦を振舞いたくて製粉を頼みに来たのでした。
 私たちも長谷川さんと一緒に加工場へ行き、蕎麦の粒が粉になるまでを見学しました。
まず持ち込まれた玄蕎麦の重さを測ると、17kgありました。
脱穀する機械に入れてスイッチをオン、機械は唸りを上げて動き出しました。
2度に分けて全量を脱穀しました。
脱穀された蕎麦粒は想像していたより殻の色が残っていて、白くないのが意外でした。
機械の脇の太いパイプからは蕎麦殻が吐き出され、これを詰めたら蕎麦殻枕ができるのだと思いました。
脱穀した蕎麦粒を、窪みのある小さくて平たいスケールにいれると、表面に13と言う数字が現れました。
何かと思って長谷川さんに尋ねると、水分を測ったのだと答えが返りました。
私は蕎麦を打ったことがないので知らなかったのですが、蕎麦打ちには、水の量がとても大事なのだそうです。
水分が多い蕎麦粉の時には捏ねる水の量を少なくし、水気の少ない蕎麦粉なら水の量を多くしないとうまく打てないのだそうです。
「13%は、少し多いな。今年は雨がよく降ったからな」と、長谷川さんは言いました。
 次に製粉機にかけました。
また機械音が周り、長谷川さんは「40分にセットしたから、少しあっちで休んでましょう」と言い、別棟の集会室に行きました。
一枚板の大きなテーブルがあるこの部屋は、原発事故後、村の酪農組合の仲間たちが集まって、今後のことを話し合った場所です。
そこに座って壁に貼ってある地図や、傍に置いてあるたくさんの湯のみ茶碗など見ながら、その日の飯舘村を、ここに集まった人たちを、想いました。
 外に出てみると庭先に繋がれている柴犬のゴン太君が、千切れんばかりに尻尾を振ってこちらを見ています。
ゴン太君はまだコロコロした子犬だった5月に、長谷川家の一員になったのです。
人懐こくてやんちゃなゴン太君は、嬉しくてたまらないといった風に尻尾を振り、前足で私の手にからまりついてくるのでした。
人気のない村に戻って暮らす長谷川さんや家族にとって、ゴン太君の存在は大きな位置を占めているだろうと思います。

 加工場に戻るとまた機械は稼働していて、製粉された粉が吐き出し口からボックスに流れ出てきています。
山になって積み上がっていく蕎麦粉は白く、山になった表面の粉だけはうっすら灰色でした。
粒の表皮の部分は軽いので吐き出しパイプの外側に吹き出されて、それで粉の山の上側
がそんな色になるのでしょうか。
機械が止まると長谷川さんは粉の山から白い粉を掬って「これは実の内層と中層が粉になったとこで、こっちが(と言って、白い粉を山に戻し表面の灰色の部分の粉を掬って)表層粉です」と説明すると、ボックスにいっぱい溜まった粉の白い部分と灰色の部分がスッカリ混ざるように、何度もなんども手ですくっては混ぜ合わせていました。
お蕎麦やさんの品書きにある「御前蕎麦」は、内層粉で打った白い蕎麦です。
 17kgの蕎麦は、製粉したら13kgになりました。
ご夫婦は粉になった蕎麦を車に積んで、お礼を言って帰って行きました。
きっと翌日、小高で開かれる交流会では香り高い新そばを食べながら、賑やかに話しが弾むことでしょう。
 二人を見送って、加工場の壁の幾本もの配線を見上げながら元電力会社の作業員だった今野さんは、「こういうのを見ると懐かしくなるんですよ。こういう仕事してたから」
その言葉を聞いて、裁判や集会で脱原発の声をあげる今野さんの胸の内に、改めて思いを馳せました。
また今野さんだけではなく、原発事故によって生業を奪われた人たちをも思いました。

 長谷川さんの家の居間に戻ると、ちょうど花子さんが帰ってきました。
花子さんに「一枝さん、昨日仮設に来てたでしょう?帰るときにちらっと榮子さんち覗いたら、一枝さんの姿見えたから」と言われ、「あらら、花子さんが集会所にいるの知らなかったから、集会所に寄らなかった」と答えると、「うん、今日家に来るの判ってたから」という花子さんでした。
花子さんに「花子さん今も仮設に通っていて、帰ってきてからご飯の支度するのでしょう?」と聞くと、「そう。朝起きてご飯作って食べさせて茶碗洗って、仕事に行って帰ってきてご飯作って食べさせて茶碗洗って、風呂掃除して風呂入れて、ってやってんの」と言うので、「長谷川さんは、お米くらい研いでおかないの?」と聞くと長谷川さんが「やんねぇ。なんもやんねぇ」と答えました。
「長谷川さん、お米くらい研いでおきなさいよ。お風呂の掃除くらいしてあげなさいよ」と言うと花子さんは、「そうだよねぇ」と力強く言い、苦笑いする長谷川さんでした。そんな二人の様子を見て、いいご夫婦だなぁと思いました。      

いちえ


2018年11月29日号「11月21・22日福島行①」

 21日、22日で南相馬に行く予定でしたが、2日前に大留さんから同行できなくなったと電話が入りました。
〝ぶさ子ちゃん〟の代金を黒沢さんに届けたかったし、寺内の仮設住宅に居る天野さんの様子も心配だったので、急遽、今野さんに同行をお願いしました。
 私は「人生を悔やむ」ということがないのですが、運転免許を取らなかったことだけは悔やんでいます。
急でしたが、今野さんが快く引き受けてくださったので嬉しかったです。
南相馬を回る予定でいましたが、今野さんと一緒なので南相馬は寺内に行くだけにして浪江、小高、飯舘を回りました。

◎21日
●伊達東仮設住宅
 菅野榮子さん、芳子さんを訪ねて、伊達東仮設住宅へ行きました。
榮子さんも芳子さんも、きっともう飯舘村に戻っているかと思って電話をしたら、まだ仮設住宅にいるとのことだったのです。
伊達の仮設住宅に着くと、榮子さんと芳子さんは陽だまりに止めた軽トラックの荷台に居ました。
2人は荷台の上で、大きくて先の尖った柿の皮剥きをしているのでした。
干し柿にするのです。
流れ作業で、榮子さんが包丁でヘタの周りを円く剥き、芳子さんがピーラーで残った皮を剥いていきます
 包丁を持つ手を止めて榮子さんは、「お茶用意してるから、家においでよ」と言って軽トラの荷台から降りて、自室へ戻りました。
芳子さんも荷台から降りましたが、脱いだ靴を載せてあった台を指して「榮子さんはこんなのなくても上がれるし、下りれんだよ」と言うのです。
芳子さんが荷台に上がり下りするのには、ビールケースを逆さに置いたその台が必要なのです。
軽トラの荷台は榮子さんの膝よりも少し高いのですが、さすがの榮子さんです!

 数日前に二本松で催された上映会に行ってきたと、榮子さんが言いました。
原発事故後の福島を取材したドキュメンタリー、『春よこい〜熊と蜂蜜とアオキさん〜』『飯舘村の母ちゃんたち』の2本が上映されたのです。
『春よこい』を私はまだ見ていないのですが、これはぜひ観たい映画です。
榮子さんに映画の感想を聞きました。
「良かったよ。『春よこい』も会津であんなして暮らしている人がいるんだってことが判ったし。
原発事故で福島県人は特別待遇だな。(これは榮子さんの皮肉で、汚染された地域に帰還して住むように仕向ける政府を皮肉って言っている。)」
 榮子さんと芳子さんの話題は『飯舘村の母ちゃんたち』で、図らずも自分たちが映画の主人公になってしまったことに移っていきました。
「よっちゃんと一緒に畑やってたら女の人(古居みずえさん)に写真撮らせてくださいって言われて、いいですよって言っても、それが映画になるなんて思わなかったしな。
こんな真っ黒い顔してて、映画に出るなんて知ってたら恥ずかしかったな。
同級生に会ったりすっと『オメェ、なんて顔黒いだ』って言われっけど『太陽と仲良いから黒いんだ』って言ってやるの。
けど孫や曾孫が物心つかないうちに発生した原発事故を、この子たちに伝えていかなければいけないと思って(映画になることを)OKしたんだ。
自分だって涙ボロボロで、古居さんにどこかカットしたい所あったら言ってくださいって言われても、何も判らなかったな」
 涙ボロボロというのはきっと、原発事故後の毎日を榮子さんも芳子さんも無我夢中で過ごしていて、その自分たちの姿を映像で客観視したときに、また万感迫ってのことだったのでしょう。
 「私は百姓で、女で良かった。
出世なんか関係なく、ボンボラ、ボンボラ言いたい事言えっから、百姓で女で良かった。
誰に遠慮する事なんかない、ボンボラ言う」
そう言いながら榮子さんは傍に置いた本を指して、「あの本(『までぇな食づくり』伊達市在住の栄養士の籏野梨恵子さんが、飯舘村の母ちゃんたちに学ぶ遺したい食と暮らしをレシピ付きで編んだ本)だって、私はあんな格好して写真に写ってて、『あれ、私なに着てんだ』って思ってよく見たら、お父さんが(夫のこと)ぶん投げてった(遺していった)カーデガン着てた。
お父さんがぶん投げてったのだけど、大きくて楽だし、あったかいんだよね」
それを聞いて芳子さんは「お父さんのだったから、までいに取っておいたんでしょう。
お父さんのだったから」と、いうのでした。
「までい」、美しい言葉だと、改めて思いました。
 榮子さん語録はまだ続きます。
「原発危ないと言いながら、日本中原発だらけ。
私ら戦争体験してるのに、9条に自衛隊書くなんてとんでもない。
世界を見ても同一民族同士が殺しあってるなんて…、そんなこと考えると涙が出る。
涙の種は尽きないよ、な。
 じいちゃんは孫嫁の私に昔の話をよく語ってくれたけど、野馬追にもサンチュウゴウで出陣してたって。(現在は北郷、中ノ郷、小高郷、標葉郷の4郷が出ていますが、かつては宇多郷も出ていたようですから榮子さんが言ったのは宇多郷のことかもしれませんが、私にはサンチュウゴウと聞こえました。あるいは山中の郷という意味だったかもしれません)だから先祖は京都の方から来た侍だったって、じいちゃん言ってた。
 そのことをね、国会の図書館で調べてコピーを持ってきて教えてくれた人がいたんだよ。それ読んで、アレェ、じいちゃんから聞いたと同じことが書いてあるって思った。
先祖は京都から流れてきて山の中に住み着いたってのは、それなりの理由があったんだべさ。
その人の許嫁のお姫様が山伏の姿に変身して訪ねてきて、それで夫婦になって子孫も増えてったって。
 飯舘で初めて学校ができたのも佐須だし、佐須は進取の気があるとこなんだな。
べこのケツばっか追ってて(かつて榮子さんは夫婦で酪農をしていた)、そんなこと考えたことなかったけどな。
 原発のおかげ、とは言いたくないけど、こんなして避難して時間があって、いろんな人に知り合って教えられたり知ることもあって、同じくらいの年の人で死んだ人もいるのに、私は原発の本読んで怒ってられるから幸せだ。
 原発は津波とは違う。
原発事故があって、引きこもりになった人もいる。
支え合わなければ生きていけない社会だけど、コミュニティ壊れてしまったしな。
動物や植物の世代に生まれた方が幸せな時代になった。
困った世の中だ。
死ぬわけにいかねぇから、生きてかなきゃなんねぇべ?
 この間小学校で味噌作りやったの。
今年で4回目だけど、米麹で美味しくできたの。
私らも村へ戻るからここで子どもたちに味噌作り教えて一緒に作るのも最後だなって、卒業式みたいで、涙が出たよ」
 飯舘村の芳子さんの新居完成の引き渡し予定日は、12月24日だといいます。
芳子さんの家が出来上がったら、芳子さんは今年中に引っ越すつもりです。
榮子さんは芳子さんを一人、仮設住宅に残したくなくて仮設に残っていましたが、芳子さんの家が完成するのを待って、榮子さんも一緒に飯舘村の自宅へ戻ります。
 榮子さん、芳子さんに、「年が明けたら、飯舘村のお家を訪ねますね」と言って、2人にお別れしました。
●山木屋を抜けて浪江へ
 新しく造成された道路で、橋を渡ったりトンネルをくぐったりして進みました。
従来の道のカーブを減らし、緩やかに延びる道路にと造成された道でした。
とはいえそれも短い区間だけのことで、運転席の今野さんはやはり右に左にハンドルをさばいて進むのでした。
 浪江の津島は、すっかり原野に還っていました。
今野さんの実家も関西訴訟原告の菅野みずえさんの家も、枯れ草に埋もれた廃屋のようでありました。
枯れ色の中で柿の木だけが、たわわな枝先に朱の色を鮮やかに見せているのでした。
今回のトークの会ゲストスピーカーの関場健治さんの自宅入り口、「熊の森山入り口」も、生い茂った草に塞がれてしまっていました。
 町中に入り真新しい園舎の「こども園」、在園児は13名と聞きました。
お隣の、やはり真新しい小中学合併校は小中合わせて10名在籍と。
子どもたちは、どこから通ってくるのだろう?自宅は浪江に戻っているのだろうか?それとも避難先からだろうか?何れにしても悲しい現実を思いました。
緑鮮やかな人工芝の校庭では、数人のお年寄りがゲートボールをしていました。
 請戸漁港は去年来た時よりも防潮堤・防潮林工事は進み、水産加工場や市場の建設は、なお進んでいました。
見晴台の壁には請戸港や請戸の集落の被災前と被災後の写真、また“復興”工事完成予定図が掲げられていました。
私は津波の被害がまだすっかり残ったままの、打ち上げられた船やテトラポットがそこここにあった頃から、何度か訪ねてきていますが、その頃は被災前の請戸を思い浮かべられずにいました。
ここで被災前の写真を見て、最初に請戸を訪ねた頃の、草地にゴロンと転がる漁船や礎石だけになった住居跡や生活用品が散乱していた様子を思い出しました。
そして今、目の前に広がる着々と工事が進められている“復興”への現状と、掲げられた工事完成予想図に、居心地の悪い落ち着かない思いが湧くのでした。
住居跡がきれいに整地されて市場や水産加工場が完成しても、トリチウム水の放出など囁かれる汚染された海で獲れたものを、買う人はいるだろうか?
あるいは、安く買い叩いて自分の儲けに使おうとする人はいるかもしれない。
そんな風に思えることが、居心地の悪さを覚えさせるのでした。
 浪江町立野地区には、「オリーブ栽培実証試験圃」が何ヶ所かできていて、オリーブの苗木が植えられていました。
種類ごとに圃場を分けて植えているようでした。
被災地のこうした試みが、少しでも報いられることを祈ります。
●希望の牧場
 西の空が逢魔が時を迎えようとする頃、希望の牧場で吉沢さんに会いました。
この日、少し前に訪ねたら吉沢さんはどこかへ用足しに行って留守だったので、夕暮れ時になって再訪したのです。
用足しから戻っていた吉沢さんに、話を聞きました。
 この夏の町長選のことから話し始めて、街宣、講演活動まで吉沢さんの熱い毎日を聞かせていただきました。
中学校や高校からの講演依頼があって、それは先生が企画してのことですが、子どもたちが熱心に耳を傾けて聞くそうで、それは嬉しいことでした。
吉沢さんは、子どもたちに「動かなければダメだ。動かなけりゃ、何も変わらない。動いて現状を変えなければダメだ」と話すそうです。
すると吉沢さんの講演後のある学校では、生徒会長を決める際に数人の生徒が立候補したそうです。
その学校では以前は立候補するような生徒など居なかったので、仕方なく先生が指名していたそうです。
おざなりではなく自身の体験に根ざした話を熱く語る人の言葉には、若者たちはしっかりと応えるのだと思いました。

 吉沢さんの事務所を辞して希望の牧場から出ようとした時に、暗くなった場内に何か動物の姿がありました。
イノシシ?
いえ、夜目で姿は見届けられませんでしたが、ピョンピョンと弾むように走り去った後姿のお尻が白かったので、あれはきっと鹿だったでしょう。      

いちえ


2018年10月31日号「福島原発刑事裁判第33回公判」

◎入廷前の集会その他
●開廷前の集会
 昨日(10月30日)、東京地裁第104号法廷で、件名の裁判が開廷されました
この日は勝俣恒久・元東電会長の被告人質問です。
16日、17日の武藤栄・元副社長、19日の武黒一郎・元副社長の被告人質問に続いての被告人質問です。
 抽選券配布が始まるまで、いつものように地裁前では告訴団・支援団の集会が持たれました。
佐藤和良団長から、事故を起こした者にきちんと責任を求める判決を下す裁判でなければならないとアピールがありました。
●傍聴券
 傍聴券抽選には350名を超える人が並びました。
傍聴席は、報道者席を除く一般傍聴者席は58席です。
ここでおかしいと思うのは、検察官役指定弁護士のサポートをする役の人たちも傍聴券を得て一般傍聴者の席に座ることです。
この人たちは仕事として(裁判中に使う大量のバインダーノートを運ぶ。被害者遺族の入廷を助けるなど)の職務で入廷しているのですから、一般傍聴者とは違うのです。
パイプ椅子などで別枠を用意すれば、一般傍聴者が一人でも多く入れるのです。
なぜこんなことになるのかというと、この人たちも傍聴券を持っていないと法廷に入廷できないからだそうです。
そうした職務の人たちには傍聴券ではなく別の通行証などを出して、固定椅子の傍聴席ではなく衛士達のようにパイプ椅子を用意すれば良いのにと思います。
でもこれもまた、裁判長の意向なのです。

◎報告会から知る今日の法廷
 私は傍聴できませんでしたが、報告会で知ることができた法廷の様子をお伝えします。
●武黒被告への質問
 前回の期日で原告代理人からの武黒被告への質問は、時間切れで今回に持ち越されました。
バックチェックに津波対策を含めることになっていたのに、いつの間にか津波対策がなくなっていたのはなぜか?ということが、原告代理人弁護士からも、また裁判官からも質問されました。
武黒被告は原子力立地本部長という立場でありながら、何を問われても知らぬ存ぜぬを通したそうです。
●勝俣被告の“謝罪”
 「亡くなられた方々、地域の皆様、広く社会の方々に大変申し訳なく、深くお詫び申し上げます」と、冒頭に頭を下げたが、これもまた武藤被告、武黒被告と同様に裁判長に向かって頭を下げたのであって、しかも前の二人よりもなお一層気持ちが込められていないように感じられるものだった。
(これは原告代理人弁護士の方々と傍聴席で傍聴した何人もの方達、つまり勝俣被告の謝罪を聞いた方達全員が、異口同音に話した感想でした。
全く悪いと思っていない感じで、聞いていて本当に気分が悪くなったと何人もが言いました。)
●被告人質問
*はじめに弁護側からの質問です。
 ここでは定款や職務規定について質問されたことに被告が答えたが、それは「いかに会長に権限がないか」をアピールする質問と答えばかりで、聞く方も答える方も滑舌が悪く、書いてあることをただ読んでいるように思えた。
 社長は権限があるが会長には権限がない。
常務会メンバーでも決定権はない。
会長は対外的な仕事がメインで、代表取締役と書いてあるのは、その方が対外的に受けが良いからで対外的な付き合いのためだけだ。(終始このようなQ&Aだったそうです)
*指定弁護士からの質問に対しての返答と、そこから判ったこと(赤字は被告の言)
Q&Aは、もっときちんとした会話でなされたと思いますが、ここではごく簡略に記します。
 中越沖地震の対応打ち合わせは勝俣被告が社長時代のことで、この打ち合わせに被告は2回目からずっと出席している。
それは、柏崎刈羽の復旧が、非常に大きな関心だったからだろう。
 2回目から出ているが、出ても技術的な内容でよく判らない。
パワーポイントでの説明で、よく判らない。
資料が配られても、1枚1枚見てもよく判らない。
この間入院していた期間があり、全くわからない。
目を通していない。
説明されていない。
見て説明されていれば突っ込んで質問したはずだが、その記憶がない。
 勝俣被告は、津波には全く関心がなかったと言える。
 (平成21年2月21日の中越沖地震対応打ち合わせの時に)吉田から聞いた覚えがあるが、吉田は懐疑的だった。
吉田調書によれば、これは吉田所長が15,7m津波高を覚悟して欲しいと、勝俣のために書いて伝えたものだが、被告は、他は記憶にないとか見ていない、聞いていないと言う一方で、なぜかここだけは吉田は懐疑的だったと、はっきりと記憶している???
 津波対策については、対策は金がかかる場合もあるし、プラント停止リスクについて、事務局は神経質になっていた。
東電として一生懸命やっていることが地元に伝わっていれば、停止リスクはない。
吉田から聞いて設備管理で、適切にやるだろう。
原子力立地部門でやれば、報告があるだろう。
そういうことはなかったし、津波に関心はなかった。
原子力部門はちゃんとやる筈だし、だから原子力部門を監視する必要は全くなかった。
Q:検察官役の弁護士から質問
 「深くお詫びしますと言ったが、何に対してのお詫びか?
A:一般的な意味で、道義的な責任はあると思ってのお詫びだ。
Q:軽くないか?
A:軽くない。
Q:最高責任者なのではないか?
A:いや、最高責任者は原子力立地本部長だ。
長期評価については、事故後に事故調書を読んで初めて知った。
それまでは知らなかった。
Q:吉田所長から14m超の津波と聞いているだろう?反省はしないのか?
A:それは私が反省するよりも、原子力立地本部が社長にあげることをどう考えるかということだ。
原子力立地本部が、あげてこない。
御前会議と言われても、自分は“御前”ではない。
山下の供述調書は、山下の勘違いだ。
バックチェックの中間報告は読んでいない。
入院中だから集中できないし、20年6月に退院してしてからは会長で、議案権は会長にはない。
Q:職務規定には会長にも議案権があると書かれているが?(と、書類を示す)
A:これを見る限りはそうだ。
Q:バックチェックのスケジュールがなぜ延びたのか?
21年2月の御前会議で14m超の津波が報告されたのではないか?
A:(なぜ延びたか)判らない。記憶にない。
 つまり勝俣被告は津波について情報を得なければという発想は無く、何かあれば報告があるだろうと思っていただけで、津波には関心がなかったと言える。
Q:どうすれば事故は防げたか?
長期にこういう対策を採っていれば、ということは考えるか?
A:こういう対策をとるべきだったという話題が出ているが、その時にそういう対策が採れたのかという話だ。
Q:あなたは全く責任を感じていないということか?
A:そういうことではなくて、どんな対策を採れば良いか判らなかったということだ。
 勝俣被告が社長だった平成16年に福島原発1号機の検査データ改ざんが発覚して、1年間運転停止を命令されている。
その関係で東電はすべての原発を点検しなければならなくなって、福島第1、福島第2、柏崎刈羽が一時期全部止まったことがある。
そのことは社長だった勝俣被告が知らないわけはないのに、「知らない」と。
Q:それは武黒さんから聞く話ではないですか?
A:記憶にない。
Q:中越沖対応打ち合わせについて、ざっとでも資料を見ていないのか?
A:ほとんど見ていない、知らない。
原子力についての知識は、ほとんどないと理解して欲しい。
 しかし勝俣は、東電会長退任後は日本原電の取締役になっている。
それ以前にも、日本原電の会長役をやっていた。
原子力しかやっていない会社が、原子力についてほとんど知らない人を取締役に据えるなんて、日本原電ってどうなの?
 原発に関して想定を超える津波が来たらどうなるか、誰でも分かる程度のことは判っている筈だ。
それで想定を超える可能性があるという資料が上がってきているのに、それを見ていなかったとか、記憶になかったとか、明らかに嘘だと思う。
それなのに、とにかく「知らぬ、存ぜぬ」ばかりで通した。
●現地検証却下
 以前から指定弁護士が申し入れていた現地実地検証は、裁判官から却下された。
これに対して久保内弁護士が異議を申し立てた。
裁判所のこのような決定は99,9パーセント覆えせないが、申し立てた異議がきちんと記録に取られたことは良かった。
 現場検証却下は、世界史上チェルノブイリと並ぶこのような大災害、大公害を起こしていながら現場を見ないことは、非常に酷いことだ。
有罪判決を書くにしても、無罪判決を書くにしても、現場を見ないで書くなど、本当に酷いことだ。
●原告代理人の河合弁護士、海渡弁護士から
 裁判長から質問で「御前会議で部下が報告書を出して説明して、そこで特に議決を取ら無くても異議がなければ、部下はそれが通ったと思うのではないか?」とあったが、それに対して被告は3人とも「部下のやったことは聞いていない、知らない。信用できない」と言い、また長期評価の報告書を書いた「推本は信用できない」と言った。
推本は政府の機関で一流の学者が集まって議論して長期評価を出しているし、また優秀な部下たちが一生懸命作成した報告書をろくに見もしないで信用できないと言う。
土木学会は、専門家集団ではなく電力会社の集まりなのに、それを信用すると言う。
 彼らの証言は嘘で固められている。
福島のバックチェックで津波はとても重要な問題だったが、それを全部否定した。
2008年9月の福島原発最終バックチェックで資料を配っておきながら、それを回収し決済しないということまでした。
東電は組織ぐるみでそのバックチェック資料を隠したかった。
 山下調書には客観的な証拠が揃っていて、被告人質問で彼らが出した答えには客観的証拠となる根拠がない。
 これで次回11月14日は被害者遺族の心情意見陳述で審議はほぼ終わり、あとは論告弁論となる。
裁判で出てきた証言と客観的証拠を、より詳しく出していくように、重要な証拠と書面準備をしていきたい。
●支援団・告訴団団長佐藤和良さん
 みなさんお疲れ様でした。
とうとう勝俣を証言台に引きずり出しました。
宿敵勝俣を証言台に引きずり出したのは画期的でしたが、どれだけ多くの方が亡くなり、どれだけ多くが離婚し、どれだけ多くが自死の境を彷徨っているか。
 どうでしょう?
あの勝俣の態度、許せなかった!‼
海渡さんの質問に、薄ら笑いで茶化しているようだった。
許せない!
 国会喚問で「秘書が、秘書が」「妻が、妻が」と言った議員も酷いが、そんな議員よりもっと酷かった。
職務権限が無いと言いながら、職務規定を見せられて「あ、そうですね」などと言う。
 日本最大の公害事件で現場を見なくてもいいのか?
それでも永淵裁判長は、現場検証却と。
それも許せない。
 が、ともかく11月14日は被害者参加制度で、遺族の方の心情陳述があります。
どうぞみなさんまた多くの方が傍聴されて、被害者に心添わせてこの裁判を最後まで見守くださるよう、お願いいたします。

☆10月30日裁判報告は以上です。
以前にもお伝えしましたが、海渡雄一弁護士編著のブックレット、増刷になりました。『東電刑事裁判で明らかになったこと 予見・回避可能だった原発事故はなぜ起きたか』
彩流社ブックレット、1000円+税
第27回公判までの詳しい記録が載っています。
ぜひお読みいただきたく思います。                 

いちえ


2018年10月25日号「福島原発刑事訴訟第25回〜29回公判」

 被告人質問以前の公判の傍聴記を、遡ってお伝えします。
第24回公判まではすでにお伝えしていますから、第25回〜29回までを。
◎第25回公判(9月7日)
●104号法廷で
 証人は東北大学大学院の地震学教授で、地震本部委員の一人でもある松澤暢さんでした。
証人は通常は証言台の椅子に着席して証言しますが松澤さんは、宣誓書を読み上げた後で「大学では立って講義をしているので、立ったままでいいでしょうか」と裁判官に問い、了解を得て立って話しました。
パソコンでスクリーンに映し出される画像を見ながら、法廷内にいる私たちはお昼の休憩を挟んでたっぷりと、松澤教授の地震学の講義を受けました。
私たちが考える地震と松澤さんら地震学者の考える地震とは観点が異なるということを話しました。
 また、「歴史上、戦に負けた武将の3つの敗因」ということを話し出しました。
2011年3月9日に宮城県沖でマグニチュード7.3の地震が起き、河北新報から取材を受けた松澤さんは「連動型地震の危険性は低下している」とコメントを出し、それが10日の紙面に載ったのです。
翌11日に東日本大震災でした。
松澤さんはスクリーンに自分のコメントが載った河北新報を映し出し、最大の誤報だったと悔やんでいると話しました。
歴史上、戦に負けた武将の3つの敗因は、①情報不足②思い込み③慢心だと話し、「自分にもその3つが当てはまっていた。驕りがあったと思う」と言いました。
 松澤さんは被告弁護側からの証人なので、質問は被告人側の宮村弁護士から始められました。
宮村弁護士から東北地方太平洋沖の地震について質問されると、「皆さんが『地震だ』と思うのは地面が揺れた時で、それは地震の結果であり、地震波が発生して、発生した地震波が伝播した結果地面が揺れるのだ」と説明し、マグニチュードと震度の違いを言いました。
宮村弁護士が、地震本部はその報告を、予知ではなく長期評価とした理由を質問すると、「過去に起きたことは未来も起きるだろう」ということから「長期評価」としたのだと思うと答えました。
また、「三陸沖から房総沖までどこでも津波が発生するということを積極的に根拠づける知見は?」と尋ねられて、「積極的に根拠づけることしか採用しなくて良いというのは違う。積極的でなくても『ない』ことを根拠づけられるなら採用しなくても良いかもしれないが、そうでない限りは長期評価で対策を考えなければいけない
「福島沖で起きないかもしれないが、起きないと言える根拠がなかったから長期評価に採用した」と答えました。
 検察官役の久保内弁護士の質問に対して「自分の専門は近代的観測からの地震学で、歴史地震の研究はあまりしていない。この100年くらいのことだが、それが重要だ。歴史地震のことは自分にはよく判らないので、歴史地震の研究者の知見は尊重している」と答えました。
また久保内弁護士の「地震本部には地震、津波、活断層など様々な人が関わっているが、そこで出された長期評価の知見をどう考えるか」の質問に対しては「理学的な知見は大事だ」と答えました。
●報告会
 閉廷後の報告会では、海渡弁護士が次のように話しました。
「松澤さんは各地で起きている原発事故国家賠償裁判で、国を擁護するような意見書を書いている人だから東電の見方をしてくれるだろうと思って被告側は証人として出したのだろう。
宮村弁護士の東電に有利な証言を引き出そうという質問に対して、一応は認めたが、でもなんとかかんとか言いながら東電の言わせたいようには言わないぞ、という感じをちょっと受けました」
松澤さんの証言は東電にとって必ずしも都合の良い証言ではなかったでしょう。

◎第26回公判(9月18日)
 この日は自衛隊や県職員の供述調書の読み上げと、病院関係者の証人尋問が行われました。
44人の被害者は「双葉病院」(原発から4km)入院患者と、系列の老人保健施設「ドーヴィル双葉」の入所者です。
3月11日には病院には338人が入院、ドーヴィル双葉には98人が入所していました。
12日、原発から10km圏内に避難指示が出され、比較的症状の軽い入院患者209名と医師、看護師など50人がバスで避難を始めましたが、多くの入院患者が取り残されました。
残された人たちの受け入れ先確保は困難を極めました。
●県職員(災害対策本部)の供述調書読み上げ
 県内の病院に片っ端から電話をしたが、どこも患者がいっぱいで医師が足りないと言われた。官邸からはすぐに避難させるように言われたが、どこもいっぱいで受け入れ先確保は困難を極めた。
●自衛官の供述調書
 14日に双葉病院で患者の搬送をしていたが、ドンと突き上げる爆発音がして、原発から白煙が上がっていた。
バスが1台も戻ってこないので衛星電話を使わせてもらおうと思い病院から700m離れたオフサイトセンターに向かったが、オフサイトセンターに入れてもらえなかった。
付近の放射線量は1時間当たり1mSvと高かったから、放射性物質が建物内に入るのを防ぐために、出入り口や窓はテープで目張りされていた。
「患者90名、職員6名が取り残されている」と書いたメモを玄関ガラスに貼って伝えた。
病院からの搬送作業中、線量計は鳴りっぱなしで、すぐに積算3mSvに達し、医師免許を持つ自衛官が「もうダメだ!逃げろ」と叫び、すぐに病院を出発するよう指示し、一時活動が中断した。
 別の自衛官の供述調書では、15日に病院に到着して7人を救助、院内を見回った部下からの報告でもう患者はいないと聞いて二本松に向かった。
その後、別棟に35人が残されていると知り、再び病院に向かった。
●病院関係者の証言
 双葉病院の副看護部長を務めていた鴨川一恵さんが証人台に立ち、証言しました。
鴨川さんは3月12日に双葉病院から最初に避難した209人の患者と一緒に避難を始め、いわき市内の別の病院に入院させ、電気、ガス、水道が止まった中で寝る間もなく、点滴の交換やたんの吸引にあたっていました。
そして14日の夜、後から避難した患者ら130人が乗ったバスを、いわき市の光洋高校体育館で迎えましたが、このバスは病院を出発したものの受け入れ先が見つからず、南相馬市、福島市を経由していわき市で患者を降ろす作業が始まるまでに11時間以上かかって、避難先の高校体育館に着いたのでした。
バスが到着した時の状況について、鴨川さんは証言しました。
「バスのドアを開けると、中は異臭が酷くて、座ったまま顔面蒼白で明らかに亡くなっている人がいました。
座席の下に丸まって落ちている人もいて、とても衝撃的でした」
 バスの中で3人が亡くなっているのを確認、2日後の16日には体育館で11人が亡くなっているのを、医師と共に確認しました。
「スクリーンで仕切られた場所に11人が並んで横たわっていて、何もしてもらえずに亡くなったんだなと感じました」
●指定弁護士に質問されて
 最後に指定弁護士に「地震と津波だけなら、患者は助かったと思いますか?」と質問されて、鴨川さんは答えました。
「病院が壊れて大変な状況でも、病院には医療器具も薬もありましたから、助けられました」
 また双葉病院の医師の供述調書も読み上げられましたが、その医師も「避難の過程で亡くなった人たちには、すぐに亡くなるような人はいなかった。今回の原発事故での避難がなければ、もっと長く生きられたと思う」と言っていました。

◎第27回公判(9月19日)
 この日も、遺族や東電関係者の供述書が指定弁護士によって読み上げられました。
そしてまた、当時病院に勤務していた医師と、ドーヴィル双葉のケアマネージャーだった男性の証言がありました。
●消防隊所属の東電関係者の供述調書
 「視界がもうもうと蜃気楼のようになって、青白い炎が見えた。
爆風が襲いかかってきて瓦礫が宙を飛び、鉄骨が消防車の窓ガラスを突き破って腕に直撃し、疼痛を感じた。
 コンクリートの瓦礫が煙のように流れ込んできて、周囲を見ることもできなくなった。
タンクローリーの陰に隠れたが、タンクに瓦礫が当たって爆発したらと思って怖かった。
このまま死にたくないと思った。
一刻も早く逃げないと被曝すると思い、歩いて免震重要棟に向かった。
 よくも誰も死ななかったと思う」
●被害者遺族(ドーヴィル双葉入所者の妻)の供述調書
 「夫のことは『父ちゃん』と呼んでいた。
2015年にドーヴィル双葉に入って、2週間に1回、土曜日に会いに行ってた。
3月17日に電話で、遺体を確認してくださいと言われた。
棺に入った父ちゃんと面会した時、棺の窓を開けて頬を撫でようとしたら『放射能がついているから窓を開けないでください』と県職員に言われて、涙が溢れて止まらなかった。
辛くて辛くてたまらなかった。
どうして父ちゃんを迎えに行かなかったのかと、後悔している。
すぐに避難と言われて、迎えに行けなかった。
国も東電も原発は地震や津波が来ても大丈夫と言っていたのに、事故が起きた時どうするか、何も考えていなかったように思えて仕方ない。
東電や国で責任がある人は、責任を取ってほしい」
●被害者遺族の供述調書(両親を亡くした女性)
 「認知症の父を母が温かく見守る夫婦だった。
原発事故さえなければ、2人とももっと長く生きられた。
棺に入った2人は、眠っているように安らかな表情だった。
その2人を見て、悲しみよりも原発事故さえなければもっと生きられたのにと悔しく思った。
なぜ、無事に避難させてもらえなかったのか。
こんな事故を起こしたのに、未だに誰も法的責任を取っていないのはおかしいと思う」
●被害者遺族供述調書
 「体育館で、シーツに包まれただけで遺体が置かれていた。
ベッドで家族や親戚に看取られ、安らかに最期を迎えさせてやりたかった。
避難している最中で亡くなったと思うとやりきれない」
●病院医師の証言
 原発事故当時、双葉病院に勤務していた医師が証言しました。
検察官役の渋村弁護士の「事故による避難がなければ、すぐに命を落とす状態ではなかったのですね」と質問に、「はい」と答えて証言しました。
「自力で痰を出せない人は、長時間の移動で水分の補給が十分受けられない中では痰の粘着度が増してくるので、痰を吸引するケアが受けられないと呼吸不全を起こす。
寝たきりの人も100人位居たが、病院では2時間おきに体位交換をする。
そうしたケアが受けられないと、静脈血栓ができて肺梗塞を起こして、致命的な状況になる」
●ドーヴィル双葉ケアマネージャーの証言
 3月14日に98人の入所者をバスに乗せて送り出したドーヴィル双葉のケアマネージャーだった男性は、涙ぐみながら証言しました。
「全員をバスに乗せた時は、入所者を助けられたと思いホッとしましたが、その後次々に亡くなる人が出てショックでした。
原発事故がなければ、そのまま施設で生活できていたと思います。
自分の無力さも感じました」

 この日も法廷には亡くなった被害者の遺族の姿がありました。
遺族の供述調書が読み上げられた時には、傍聴席から嗚咽が漏れました。
被告人席の3人は表情も変えず顔を前に向けたまま視線だけを落としていました。

◎第28回公判(10月2日)
 第15回公判(6月12日)で証人に立った今村文彦氏(東北大教授)が、再度、証言に立ちました。
今村氏は前回の公判では、福島第一原発の敷地内の海側全体に高さ10mの防潮壁を設置すれば、東日本大震災の津波もかなり防げただろうと証言しています。
 今回は、前回の証言に基づく海抜10mの敷地海側に10m高さの防潮壁を建てた場合、15、7mの津波が襲来したら、どの程度の浸水があるか、検察官役指定弁護士が依頼した津波シミュレーションを確かめるのが目的でした。
指定弁護士の質問に今村氏は、この防潮壁があれば50cm以下程度の浸水で、施設に大きな影響はなく、事故は防げたと証言しました。
 一方で弁護側からの質問には、海側に長い防潮壁を作るのは合理的でないとも証言し、前回の証言を覆しました。
海側全面にではなく、南側と北側など一部だけに設置すれば良いと証言したのです。
 今村氏の証言はこのように変わり、なんだか割り切れない思いが残る公判でした。

◎第29回公判(10月3日)
 東電側の証人として現役の原子力規制庁職員の名倉茂樹氏が証人に立ちました。
最初に東電側の弁護士の質問に応えて名倉氏は、「三陸沖から房総沖のどこでも津波地震は起きるとした地震本部の長期評価は、成熟度が低かった。土木学会の津波評価技術が優れた手法だ」と、繰り返しました。
 検察側と名倉氏の間でのやりとりでは、次のようなことが明らかになりました。
2004年のスマトラ沖地震でインドの原発が津波で被害を受けたことをきっかけに、保安院は津波に危機感を強め、名倉氏の上司の小野氏は対策をとらせようと電力会社と激しく議論していたと名倉氏は陳述しました。
 2006年に保安院と原子力安全基盤機構(JNES)は「溢水勉強会」を立ち上げ、電事連と各電気事業者がオブザーバーとして参加し、勉強会を重ねていました。
保安院は2006年頃には、土木学会手法による津波高さの1、5倍程度を想定した溢水勉強会の検討をもとに、必要な対策を2010年度までに実施する予定をまとめていました。
ところが津波への対策を進めるはずだったのが、これを耐震バックチェックに取り込んで対応することになり、津波対策を遅らせてしまったのです。
 2006年のバックチェック開始当時、保安院は「バックチェックの工程が長すぎる。地質調査を含め全体として2年、長くて3年である」と、電力会社に伝えていました。
東電は福島第一のバックチェックを当初は2009年6月までに終える予定でしたが、2007年7月の中越沖地震で柏崎刈羽原発が想定外の震度7に襲われたことから、まずは中間報告を2008年3月に提出することにしました。
 しかし東電は福島第一のバックチェックをズルズルと延ばしにし、事故当時には最終報告提出を2016年まで先延ばしするつもりでした。
被告人の武藤栄氏の指示でバックチェックを先延ばしするため、東電の高尾氏らは保安院でバックチェックを審議する委員の専門家を個別に訪問して根回しをしたのです
審議会の委員に根回しをすれば保安院としては文句をつけてこないと、東電は豊富な資金力と人手で専門家の根回しを進め、津波対策の方針が公開の審議会で検討される前に思い通りに変えてしまったのです。
名倉氏の上司だった小野氏が電力会社と激しくやり合っていた頃の保安院では、なくなっていました。
電力会社に対策を迫っていた小野氏の姿勢について指定弁護士に問われて名倉氏は、「バックチェックルールとの関係から、基準津波を超えるものに対する確認は難しい」と、冷ややかな評価をしました。
スマトラ沖地震をきっかけに津波に危機感を高めていた保安院でしたが、その危機感は事故前には薄れてしまって、対策はとられないままでいたのです。

 報告の順序が逆になってしまい、第30回〜第32回の被告人質問より前の公判の報告より後になりましたが、第25回〜第29回までの公判傍聴記です。
30日、31日はいよいよ勝俣恒久被告の証人質問となります。
どうぞ、最後までこの裁判を注視してください。             

いちえ


2018年10月23日号「福島原発刑事裁判10月16、17、19日傍聴記」

 福島原発刑事裁判は、16日の第30回公判からいよいよ被告人質問に入っています。
第25回公判の時から傍聴記録の報告が滞っていて後先になりますが、16日から始まった被告人質問の様子を、まずお伝えします。
●第30回公判(10月16日)
 16日、17日の2日間は武藤栄元東電副社長に対して、被告人質問が行われました。
東京地裁前にはいつもの倍以上の350人以上の人が、傍聴券を求めて並びました。
初めて見かける人たちの多くは、ダークスーツに身を包んだ人たちでした。
彼らはおそらく東電社員など関係者たちだったのではないかと、想像しています。
一般傍聴席はこれまでよりも少ない54席で、それは報道関係者に多く割り当てられたたからです。
16日、私は抽選に漏れましたが、譲っていただいて午後の傍聴に入ることができました。
午前中の様子を聞くと、武藤氏はまず「事故により亡くなられた方々とご遺族、怪我をした方々、それまで通りの生活を送れなくなった方々に言葉では表せないご迷惑をおかけしました。深くお詫び申し上げます」と、裁判長に向かって深々とお辞儀をしたそうです。
90度に腰を折って数10秒間その姿勢を崩さなかったそうですが、その様子を話してくれた人は、頭をさげる相手を間違っていると憤り、私もまた彼女の憤りに思いを重ねます。
被害者の遺族たちが居る傍聴席にお尻を向けての謝罪など、無礼千万、頭を下げるべきは傍聴席に向けてです。
謝罪の言葉も裁判長に向けた深いお辞儀も、単なるパフォーマンスに過ぎないと思えます。
 そして「ISQOを常に心がけてきた」と強調したそうです。
Integrity(誠実さ、正直さ)、Safety(安全)、Quality(品質)、Output(成果)の頭文字をつなげたのが「ISQO」で、何をさておいてもIntegrityが一番最初でOutputは最後なのだと強調したそうです。
眉に唾をつけて聞きたい話です。
 午後は傍聴券を譲っていただいて、傍聴できました。
武藤被告はこれまでの公判で明らかにされてきた東電社員の証言や議事録など、ことごとく「私は聞いていません」「メールは届いていません」「指示していません」などと、すべて強い口調で全否定しました。
あまりにも我武者羅な否定の態度に、かえって必死に嘘を繕っている態度が表れていました。
 午後の傍聴は20席ほどが空席で、これはとても不自然なことでした。
おそらく午前の傍聴をした東電関係者が法廷を出る際に午後も傍聴すると言って傍聴券を受け取り、午後は傍聴に現れず故意に傍聴券を無にしたのではないかと思われます。
勘ぐってはいけないかもしれませんが、私にはそう感じられました。
●第31回公判(10月17日)
 この日も前日に続いて、武藤栄被告人に対しての証人質問でした。
「御前会議」で報告され、常務会でも確認されていた地震本部による「長期評価」を取り入れた対策が、武藤被告の一言「研究を続けよう」で先送りされたことについて、「先送りと言われるのは心外だ」と強い口調で反論しました。
これまでの公判では、平成20年2月の御前会議で地震本部の長期評価に基づいて新たな津波対策が必要になることが報告され了承されたという証言が得られていますが、武藤被告は、6月10日の会議で初めて報告を受け、7月31日に対策留保の方針を部下に伝えたが、それを先送りと言われるのは心外だと証言したのです。
武藤被告の言では、地震本部の長期評価は波源が定かではなく根拠がないので、土木学会に検討してもらうとしたのは当然のことだというのです。
 地震本部は地震調査研究推進本部が正式名称ですが、地震、活断層、津波に関する研究の第一人者たちからなる文科省の特別機関です。
土木学会は工学系の学会の公益法人です。
武藤被告は土木学会のまとめた津波想定方法で安全性を確認してきたし、安全性は社会通念上保たれていたと言いますが、その根拠は定かではありません。
土木学会の津波想定手法と地震本部の長期評価は、どちらも2002年に発表されましたが、土木学会は福島沖では津波は起きないと想定し、地震本部は福島沖でも発生しうるとしていました。
武藤被告は地震本部の長期評価は信頼できないとしましたが、土木学会がアンケートしたら、地震本部の考え方を支持する専門家の方が多かったそうです。
 こうしたことから考えても、武藤被告の言い分は理が通らないと思います。
2日目の証人質問も、最初から最後まで武藤被告は一切非を認めない強弁をくり返しました。
これまでの証人の証言を否定すればするほど、被告は嘘に嘘を重ねるようで哀れでさえありました。
傍聴した支援団の仲間からは、こんな声が聞かれました。
「あまりにもひどい答えで気分が悪くなった。原発事故の二次被害で裁判傍聴で体調を崩してしまいそうだ」
その声が、もっともなものと思える法廷内でした。
 そしてこの日もまた、午後は傍聴席に空席がありました。
前の日に裁判所職員に、傍聴希望者は外にいるので空席があるなら入れて欲しいと交渉したのですが、職員の判断でできることではなく「裁判長に伝えます」と返事が返ったのです。
法廷内では裁判長の権限が絶対なのです。
●第32回公判(10月17日)
 この日の証人は武黒一郎元副社長でした。
武黒被告も武藤被告と同様に、まずお詫びの言葉を述べました。
「この度の原発事故により亡くなられた方々、怪我を負われた方々、避難を余儀なくされた方々に心からのお詫びを申し上げます。
また原発の責任ある立場にあった者として、皆様にお詫び申し上げます」と言って立ち上がり、やはり90度のお辞儀をして「誠に申し訳ありません」と詫びるのですが、裁判長に向かって深々と頭を下げても言葉は空で、白々しく思えてなりません。
90度のお辞儀は、「謝罪マニュアル」に沿ってのパフォーマンスにしか思えません。
 御前会議について武黒被告は、中越沖地震の後で、当時柏崎刈羽原発に勤務していた武黒被告が本店の状況を確認するために月1回開くよう要請して始められた会議で、それが「御前会議」と称されたと言い、これは意思決定の場ではなく社内の正式な会議でもないし、ここで反対意見がなければ決定されたということはあり得ないと部下の証言を否定し、また武藤被告が16日に「6月10日に報告を受け7月31日に対策保留の方針を部下に伝えたということを武黒被告に報告した」と証言したことに対しては、「具体的な記憶はない。巨大津波の想定について初めて知ったのは平成21年の4月か5月で、福島第一原発の吉田所長から聞いたと証言しました。
吉田所長は「長期評価はあてにならないし、わからないことが多い」と言っていたから・武藤被告の対策を保留し専門家に検討を依頼するという方針は当然だと思うと証言しました。
 第30回、31回公判で証言した武藤栄被告のような駄々っ子が頑なに否定する態度とは違い、物腰も言葉使いも軟らかいものの、全てをのらりくらりとかわして否定した武黒被告でした。
 最後に指定弁護士から「事故はどうすれば防げたと思うか」と問われて、答えました。
「なかなか答えることができない質問です。
なかなかわからないこと、不確実なことが多い。
事故そのものを防ぐということだけを考えて、最終的な解になるのか?
不確実で曖昧なことに答えるのは難しい。
当時わかっていたこととわからないことが幾つかある」
などと何が言いたいのかわからないことをグチャグチャ答え、さらに指定弁護士から「だから自分には責任がないと思いますか?」と問われ、「私としては懸命に任務を果たしていました」と述べました。
「懸命に任務を果たす」などというのは当たり前のことです。
その時に「原発の責任ある立場にあった者として」何が一番大事なことなのかを認識していたかどうかが問われているのです。
●次回公判は30日
 この日は原告代理人の弁護士からの質問時間が取れず、30日に持ち越されました。
30日は最初に、武黒被告へ原告代理人弁護士からの証人質問が行われます。
その後、勝俣恒久被告の証人質問となり、31日も続きます。
指定弁護士から要請されている裁判官の現地調査が行われるかどうかについても、言及されると思います。
ぜひ現地調査をして欲しいと思います。              

いちえ


2018年10月18日号「お知らせ」

①ブックレットが出来ました!
『東電刑事裁判で明らかになったこと 予見・回避可能だった原発事故はなぜ起きたか』
海渡雄一:編著
福島原発刑事訴訟支援団・福島原発告訴団:監修
彩流社:発行  定価:1000円+税
多くの皆様にお読みいただきたいです。
この裁判を注視していただきたいです。
原発事故の責任を問う裁判の記録です。

②トークの会「福島の声を聞こう!vol.29」
日 時:11月27日(火)19:00〜21:00(開場は18:30
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158 2F)
ゲストスピーカーは浪江町から茨城県に避難した関場健治さんです。
チラシを添付します。
皆様のご参加をお待ちしています。
当日、会場で上記のブックレット販売いたします。        

いちえ

watanabeichie-vol29


2018年10月14日号「10月6日~8日②」

 7日は朝食を済ませた後で、むさしのスマイルのみなさんは東京へ戻ります。
私は皆さんと別れて日立市へ向かいました。
浪江・津島から避難して日立市で暮らす関場健治さん・和代さん夫妻を訪問です。
浪江から避難して飯坂で暮らす今野寿美雄さんに同行をお願いしました。
関場さんと今野さんは親戚なのです。

●可愛いボーイフレンドに会ってから
 喜久屋旅館で皆さんと別れてから、今野さんの車で昨夜けんか祭りが行われた八幡神社へ行きました。
祭りの法被を着た人たちが、片付けをしていました。
けんかでぶつけ合った山車は解体されて、その部品の一つ一つを丁寧に洗って拭き、またロープを巻き取り、と丁寧に作業が進められていました。
長老たちは袴姿で社殿に上がって行きましたから、そちらはそちらでまた大事な後の始末の話し合いでしょうか。
昨夜の興奮と熱気は消えた神社の境内は静かで、法被姿の人たちはちょっぴり祭りの余韻を引きながら語らいながら、片付け作業をしています。
私は、この様子に接することができた幸せを思いました。
こうして今年の祭りを終えて、また次の年を待つ…、なんだかしみじみとする光景でした。
 そこに洋美さんも居ると思い行ったのですが姿がなかったので、お宅を訪ねました。
洋美さんは今野さんの友人で以前に紹介されて、お人柄に魅せられていました。
お宅を訪ねるとすぐに洋美さんが顔を出し、続いて次男坊の凌介くんが弾けそうな笑顔で飛び出してきました
凌介くんはいつもこうして大歓迎してくれる、可愛い私のボーイフレンドなのです。
4人のお子たち、みんなすくすく成長していて、初めて会った時にはまだ歩けなくて洋美さんの膝の上にいた未子の恵那ちゃんは、ピョンと跳ねて見せてくれたり、そんな姿に会えるのもまた嬉しいことでした。

◎関場健治さん・和代さん
●浪江町・津島
 健治さん、和代さんには白馬の「深山の雪」や他の場所で何度かお会いしてお話しを聞かせて頂いていましたし、2年前の7月には「たぁくらたぁ」編集長の野池さんと一緒に津島のご自宅に連れて行って頂きました。
 津島は帰還困難区域ですから、住民一時立入車両通行許可証を持った住民と一緒でなければ入れません。
区域内に住民登録がある関場さんが予約時に、同行者としての私たちの名前も申請して許可を受けるのです。
スクリーニング場で受け取ったビニール袋には、白い不織布の上着とズボン、キャップ、木綿の白手袋とその上につけるビニール手袋、不織布のマスク、首からかける積算線量計が入っていました。
行き交う車もなく山の中を行き、ダム湖を過ぎトンネルを抜けると「熊の森山入口」と書いた立て札があって、川を渡る小さな橋がかかっていました。
橋の向こうに鬱蒼と茂る草藪が、ガードレールのない橋にも覆いかぶさっていました。
関場さんの家は、その橋を渡った向こうなのです。
運転する健治さんに、和代さんは「側溝に気をつけて!側溝に入らないで!」と何度も声をかけていました。
健治さんは体に染み込ませるように通いなれた道幅の感覚を覚えているのでしょう、前方に顔を向けたまま車を進め、程なく着いたところが関場さんの家でした。
 家の前に着きましたが丈高い雑草の只中で、どうやって車から降りればいいのかと思っていると、先に降りた健治さんが草刈機で車の周囲の草を手早く刈りました。
車から降りてスクリーニング場で受け取った防護服(実際には放射線を防護できるものではないので、この呼び名は変なのですが)靴カバー、マスク、キャップ手袋をつけて線量計を首からかけました。
 「どうぞ、靴のままで入ってください」と促されて母屋に入りましたが、足の踏み場もないメチャクチャと言えるほどの酷い惨状でした。
布団は部屋中に広がり蓋の空いた広口瓶がそこここに転がっていて、障子紙は引き裂かれてボロボロで、棚の上にあったものがみんな下に転がり落ちていました。
すべて、野獣の仕業です。
ネズミ、サル、イノシシ、タヌキ、アライグマ、アナグマ、ハクビシン、キツネ…。
サルは広口瓶の蓋を開けて砂糖漬けの梅は食べ尽くし、塩漬けは食べずにこぼし散らしてありました。
 3月11日、地震の後で大勢が避難してきたので押入れから何組も布団を出して休んだのでした。
すぐまた使うからと押入れにしまわずに部屋の隅に積んで置いたのですが、そのまま避難することになってしまったのでした。
和代さんは「お姑さんが綺麗好きな人だったから、私も家の中はいつも片付けてきれいにお掃除していたのに、こんなになっちゃって…。来るたびに酷くなってる」と、ため息をつきました。
 見るも無残なその部屋の東の窓の外は請戸川の支流で、関場さんの家は支流が本流に流れ込む角に在り、二方が川という所に位置していました。
モリアオガエルが棲み、夏には無数のホタルが飛び交い、頭上には天の川や数多の星が輝いていたと言います。
健治さんは渓流釣りが好きでヤマメ釣りを楽しみ、和代さんも健治さんも春には山菜、秋には茸採りと、豊かな自然の中での安寧な毎日でした。
庭には小さな池もあり、健治さんが釣ってきたヤマメをその日のうちに食べきれなければ池に放していたそうですが、その池も今は草に埋もれていて「そこに池が」と指さされても見分けられませんでした。
「お金はなかったけど、ここの暮らしは本当に心は豊かだった」と、つぶやくように言う和代さんでした。
「定年後に、津島でやりたいことがいっぱいあった」という健治さんでした。

●避難先の日立市を訪ねて
 健治さん、和代さんに津島に連れて行っていただいた時から、2年以上の月日が過ぎていました。
その間、健治さんには「深山の雪」のイベントや裁判でお会いしていましたが、和代さんには、あれ以来会っていませんでした。
それまではいつもお二人で参加されていたのですが、健治さんが一人で参加された時に「和代さんは?」とお聞きしたら、「猫が死んでペットロス症候群みたいで」と言われたので案じていました。
この夏の「深山の雪」のイベントにも、健治さんが一人で参加でしたが、和代さんは元気に過ごされているとお聞きしました。
 数日後に和代さんと電話で話をした時に訪問の約束をして、日立市の家を訪ねたのでした。
飯坂から今野さんの車で日立に向かう道中、今野さんは「兄貴は絶対にシェフの腕をふるって待ってるよ」と言うのでした。
津島にいた頃遊びに行くと、健治さんは釣ったヤマメを塩焼きにして食べさせてくれたことを懐かしそうに今野さんは話しました。
また「兄貴が向こうからナナハンに乗って来るの、格好よかったなぁ!後ろに乗せてもらって飛ばすのよ。ヒャーッと風切って行くんだよな」とも。
そんな話を聞きながら私は、津島の風景を思い起こしていました。
日立市に入ってカーナビを頼りに行きましたが、瓦屋根の大きな門構えの家々の旧市街地を抜けて緩い傾斜を登って行きました。
あたりは小高い丘陵地で道路の片側は芝生に木々が植えられた公園で、それは造られた自然という感じがしました。
道路のこちら側には庭付きの建売住宅が何区画も並んで、小高い丘陵地一帯を造成して新興住宅地として開発された地域のようでした。
関場さんの家は、丘の上方の一角にありました。
渓流のせせらぎ、山菜やキノコの山、居ながらにしてモリアオガエルやホタルを目にする自然と一体になったような津島とは、大きく違った辺りの環境です。

●新しい暮らし
 ワンちゃんの鳴き声に迎えられて、関場さんのお宅へお邪魔しました。
久しぶりにお会いした和代さんも、すっかりお元気な様子でした。
来る時の車中で今野さんが言っていた通り、テーブルには山の幸のご馳走がいっぱい並んで「どうぞ、どうぞ」と勧められます。
来る途中で昼食にお蕎麦を食べてから間がないので、そうお断りをして、まずはお話を聞かせてもらいました。
 2011年3月12日の3時頃、東電に息子が勤めている友人から「原発が危ないから、すぐ逃げるように」と知らされて、津島の家に避難して来て居た子どもたちの家族共々18人で息子の嫁の実家がある会津美里に避難しました。
以前連れて行っていただいた津島の御宅の状況を目に浮かべながら、大わらわで津島を後にした様子を想いました。
大勢で居候もできず、14日に会津東山温泉の旅館に避難しましたが、やがてその旅館が大熊町の人たちの避難所として受け入れ先になると、関場さんたちには1泊5000円の宿泊料が請求されるようになりました。
この間4月2日から9日まで和代さんは一人で、飼っていた猫の救出に津島に戻って自宅で過ごしています。
 フォトジャーナリストの豊田直己さん、野田雅也さんの映画、『遺言 原発さえなければ』をご覧になった方もいらっしゃると思います。
2013年に公開されたドキュメンタリー映画ですが、その冒頭に出てくるのがこの時の和代さんです。
 東山で1泊5000円と言われてそこには居られないと、柳津に中古の家を入手してそこで暮らすことにしました。
 和代さんと健治さんが話している間も、健治さんと今野さんは冷酒を飲み交わしていました
 関場さんには娘が二人いますが、娘たち家族はそれぞれ日立市に避難して暮らし始めていました。
息子は高萩市にいました。
子どもたちが3人とも茨城県に居るので家族が集まりやすいようにと、関場さんたちも柳津から4年前にこちらに移ってきたのでした。
「柳津からこっちに来て良かった。娘二人はそれぞれ近くに住んでて、娘たちの所と息子の所とちょうど中間辺がここだから、集まりやすいの。家族が近くにいるのがいいですね」と、和代さんが言いました。
 和代さんは1年ほど前に、何かにつけて不安感が心を占領するようになり、眠れない、食べ物が喉を通らない日が続いて1ヶ月で16kgも体重が減ってしまったことがあったそうです。
昨年暮れに友人に紹介された心療内科を受診して鬱と診断され、診断されたら心が軽くなり不安感が消えて、処方された入眠剤で眠れるようになり、食べ物も喉を通るようになって、体重も戻ったと言います。
今は薬を飲まなくても眠れると言っていました。

●賑やかな酒宴
 話しながら、話を聞きながらテーブルのご馳走をいただいていました。
小さなヤマメの唐揚げ、ユリ根、舞茸、カボチャ、サツマイモのてんぷら、ヤマメの塩焼き、ゼンマイの炊いたの、キュウリの塩漬け、どれもこれも美味しくて箸が進みます。
 ちょうどそんな話をしていた所へ、次女のサオリさんと孫のカレンちゃん(小学2年生)がやってきました。
今野さんは「あれ、サオリじゃないか。元気か?マコトはどうしてる?」と聞きました。
サオリさんの夫のマコトさんは、かつて今野さんが原発技術者として働いていた時に別の会社でしたが新入社員として働いていて、今野さんが色々と教えたり助けてあげていたのだそうです。
 健治さんと今野さんは2人でとうとう1升瓶を空にしてしまい、そんな所へ話題のマコトさんもやってきました。
すっかり出来上がった健治さんはソファの方で横になり、今度は今野さんとマコトさんがビールと焼酎で酌み交わし、仕事上の先輩後輩として付き合っていた頃の話に花が咲きました。
 ソファに横になっている健治さんのそばにカレンちゃんが行くと、健治さんは寝たふりをしながら手や足でカレンちゃんにちょっかいを出しています。
カレンちゃんは「じっち(爺じ)は私の事かまってないで、お客さんの相手をしなさい」などとおませな口をきくのです。
和代さんと私も共通の知人の事を話したり、サオリさんも一緒に世間話や今野さん達の話題に加わったり、賑やかな夜が過ぎて行きました。
 やがてマコトさん、サオリさん、カレンちゃんは帰り、健治さんはソファから床に降りてそのまま眠ってしまったようです。
和代さんは「大丈夫です。ちゃんと上に毛布かけますから、あそこに寝かせておきましょう」と。
 カレンちゃんは一人娘だけれど、長女のところも息子のところも子どもは2人いるので、孫は5人。
和代さんはカレンちゃんにはきょうだいが居ないから、かわいそうだし一人っ子だと心配だと言います。
でも次女のサオリさんと長女の家は近くて学区域も同じで、カレンちゃんと長女のところの孫娘のイロハちゃんは、同い年で幼稚園も一緒、小学校も一緒で双子のように仲が良いと言います。
小学校の1年の時は同じクラスでしたが、仲が良すぎて二人だけでくっついているので2年生になった時に別クラスにされたそうです。

●記録をする事
 翌日は津島・赤字木の記録作りに心血を注いでいる方を追ったドキュメンタリー映像や、NHK仙台が製作した赤字木のドキュメンタリーを見せていただき、またかつての津島での暮らしをお聞きしました。
そして今回、今野さんに同行をお願いした事で、関場さん夫妻と今野さんの会話から津島での暮らしが、私にも生き生きと思い浮かべる事ができて、幸いでした。
 健治さんは今、近くに畑を借りて野菜を栽培し、子どもや孫に食べさせたり近所の直売所で販売したりしているそうです。
月に一度は浪江の町役場前で、帰還した人たちに即売会もしています。
町の人たちとの繋がりを大切に保ちながら、新しい場所での暮らしも確かに築いていってます。
津島訴訟の原告として、闘っていくためにも記録はとても大事だと言って、前述したようなDVDも全て大切に保存しています。
 たくさんの事を聞かせていただいて、おいとましたのでした。

●次回のトークの会
 次回のトークの会「福島の声を聞こう!vol.29」は、11月27日(火)です。
関場健治さんに、お話していただきます。
時間は19:00〜21:00(開場18:30)、場所は神楽坂セッションハウス・ガーデンです。
健治さんの話を、ぜひ直接お聞きください。
皆様のご参加を、お待ちしています。                     

いちえ


2018年10月10日号「10月6日〜9日①」

 福島原発刑事訴訟の傍聴報告が第24回公判までしかお送りできていないのですが、来週からはいよいよ被告人尋問が始まるので、25〜29回までの裁判の様子もできるだけ早くにご報告したいと思っています。
メモ書きからまとめるのが滞っていて、迅速なご報告ができずにいます。
直近の事柄から先にお伝えします。

◎6日は飯坂温泉へ
●宿泊交流会in飯坂温泉
 6日は、むさしのスマイル主催の「宿泊交流会in飯坂温泉」に参加しました。
避難者&支援者の交流会を定期的に持っている「むさしのスマイル」が企画した、避難者と福島在住者・帰還者との意見交換・交流会です。
 支援者の山根さんno
「地元の人たちの不安や不満には、どんなことがありますか?」の言葉に、一時は長野に避難して‘12年に戻った帰還者のMさんが言いました。
*Mさんの発言
 「学校や、教育に対してすごく不信感がある。。
中学生だった息子が宿題で、福島産の食品に対する不安を書いたらみんなの前で先生に『今までで一番最低の答え』と言われた。
クラスメートからは『福島に住んでて福島の悪口を言うのか』と、いじめられた。
先生がそう思うのは先生の考えだけど、でもみんなの前でそんな風に断じるのではなく、なぜそう思うのかと聞いてみんなでその問題を考えるようにして欲しかった」
 聞いていた参加者は先生の対応に呆れ、Mさんの言葉に大いに頷いたのでした。
Mさんの発言をきっかけにして在住者の皆さんからは、地元では原発や放射能について話題にできないという声が上がりました。
*在住者のKさんの発言
 「放射能や汚染などについて深く考えることはなかったが、当時地元では戸外活動がいろいろ制限されていたので、中学生だった息子を保養に出した。
帰ってきた息子から保養先での生活を聞いて、保養の意義を理解するようになった。
息子はその後もFoE Japanの保養に行き、大学生の今はスタッフとして参加している」
*Kさんの息子のS君
 「初めて保養に参加した時は、最初はなかなか馴染めなかったがスタッフの大人たちがめっちゃ良い人たちで、大学生の人たちと一緒に過ごすうちに自分もこんな風にして小さい子どもたちを遊んであげられるようになりたい、泥んこになって子どもと遊べる保育士になりたいと思った。
将来は福島の子どものための保育園、子ども園を作りたいと思うようになった。
それで今は大学の保育科に通っている」
 ね、素晴らしい話でしょう?元保育士だった私は、それを聞いてウルウルでした。
この日はS君の友人2人も参加していましたが、その2人もS君と同じく保育士を目指して学んでいる男子たちでした。
この3人のおかげで交流会参加者の子どもたちは、大人たちが話し合いの時間も楽しく遊んでもらえたのでした。
*在住者のSさんの発言
 「地元では原発のことや放射能のことは話題にしないし、話題にできない。
食べ物の話などもできず、TVドラマやタレントのことなど当たり障りのない話ばっかりで、ストレスがたまる」
 Sさんの言葉から、子どもだけではなく大人たちにも保養が必要なのではないかと強く思いました。
保養という言葉を使わず交流会でも良いから、大人たちが心置きなく不安を吐き出せる場を作っていく必要を思いました。
*葛尾村から東京に避難しているKさん
 「村は帰村したけれど、帰還した人は少なくほとんどが高齢者だ。
学校も再開したが生徒は中学生7人、小学生7人、幼稚園5人で、複式学級でやっているが、子どもよりも職員の方が人数が多い。
運動会も学校だけでは成り立たず、村の運動会として行った。
自宅は山の中だから線量が高くて戻れないし、住宅支援も無くなるから郡山に転居先を決めた。
葛尾にいた時は夏休みなど子どもたちが孫連れて集まって、賑やかに楽しかった。
春は山菜、秋はキノコや木の実、そんなんで料理すれば孫たちも、ばあちゃんの作ったの美味しいって喜んで食べた。
またそうやってみんなが集まれるように、郡山に家を作った。
孫7人、曾孫2人いるが、1歳の誕生日を迎えた時には餅を背負わせるんだけど、この間1歳になった曾孫にも、餅を背負わせたの。
面白かったよ、こんなしてあっちに転けたりこっちに転けたりして泣いてんの。
可愛いなぁ。
孫7人、曾孫2人、みんな私が餅背負わせたの」
 故郷を奪われることは、暮らしを刻んできた歴史の形跡をも奪われること。
Kさんは福島に原発が誘致された頃から、お連れ合い共々反対の声をあげてきた人です。
 お連れ合いの小島力さんの詩集『わが涙滂々』から一編を。
     火災
1985年8月31日午前6時42分
東京電力福島第一原子力発電所
1号機タービン建屋で火災発生
中央操作室の地絡警報機が作動
火災報知器がけたたましく鳴動
当直員がただちに現場へ急行した
   その時刻
   町役場も
   広域消防所も
   朝の眠りの底に沈んでいた
   東京電力からは何の連絡も
   発せられなかった
午前7時10分
駆けつけた職員3名が消火活動を開始
受電盤が焼き切れ
タービン建屋と事務本館が停電
火は更に電源ケーブルを伝って燃え広がり
ほぼ1時間を経過して
尚衰えを見せなかった
煙はタービン建屋に充満し
ケーブルダクトから外へ噴き出した
   その時刻
   農面道路に通じる畦道を
   六号国道交差点の歩道橋を
   登校の子供らが
   一列に並んで歩いていた
午前8時7分 119番通報
午前8時10分 県庁に通報
火災発生から約1時間半後であった
浪江・富岡両消防署から
消防車15台が出動し
一号機周辺を固めたが
放射線管理区域立ち入りができず
外部からダクトをはずして注水
午前8時50分
出火から約2時間後ようやく鎮火した
   55年3月15日 発生火災
    消防署通報〜なし
   56年5月21日 発生火災
    消防署通報〜なし
   57年4月2日 二号機タービン建屋火災
    消防署通報〜5月12日
   60年3月15日 5号機タービン建屋火災
    消防署通報〜4月2日(重火傷1名)
   双葉広域消防本部は東京電力に対し
   厳重に申し入れを行うと表明した
9月2日
県 双葉・大熊両町などの
関係機関立ち入り調査が実施された
しかしあまりにも体質化した事故隠しが
通報遅延の根本要因である事実は
決して暴かれはしなかった
しかも出火原因は
依然として不明のままである
   そこで俺は
   中古のバイクにまたがって
   カンカン照りの野良道を往ったり来たり
   「住民は耳も目もふさがれている
    事故が起きたって知らされるアテなんかねぇ」
   と説いてまわる
   樹陰にたむろして笑いこける
   道路工事のオバちゃんたちに
   車の下から無愛想な仰向け顏で
   這い出してくる修理工の若者に……
「火災が起きたって通報は1時間半も後だ
原因だってまだ公表されちゃいない」
牧草畑の真ん中で乾草集めに大わらわの
トラクターの親父さんに
俺はしきりと憤懣をぶちまける
すると汗まみれの髭面をニヤリと崩して
日曜百姓の親父は言ってのける
「火事の原因だぁ?
アハハ そんなものぁおめえ
火だぁべぇ?」
かくして又
原発は故なくも安全である         (1986年作)

長い詩を引用しましたが、2011年の過酷事故はこの延長線上にあるのです。
 この交流会は時間にすれば短いものでしたが、とても有意義な時間でした。

●飯坂けんか祭り
 6日は日本3大けんか祭りの一つ、飯坂けんか祭りの本祭りの宵でした。
新幹線福島駅に展示されているこの祭りの写真を目にする度に、いつかこのお祭りをみたいと願っていました。
勇壮で心が昂ぶる祭りでした。
願いが叶って、嬉しい宵でした。

◎お知らせ
 上記しましたが、福島原発刑事裁判の第25〜29回公判の傍聴記録は、追って「一枝通信」でお伝えするつもりです。
でもその前に、このお知らせを。
海渡雄一弁護士編著、福島原発刑事訴訟支援団・福島原発告訴団監修のブックレットが緊急出版されます。
『東電刑事裁判で明らかになったこと 予見・回避可能だった原発事故はなぜ起きたか』
彩流社刊、定価1000円+税 (9月の公判までの最新版)
http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-2535-5.html
10月16日発売開始!
16日の被告人尋問の日が発売日です。
この裁判を知っていただく為の必読書です。
どうぞ、お手に取っていただきたく願っています。       

いちえ


2018年9月27日号「9月24日駆け足南相馬」

●寺内塚合仮設住宅
 8月は訪ねることができず、24日ようやく出かけてきました。
寺内塚合に行く前に黒沢さんの家に寄り、ぶさ子ちゃんの代金をお渡ししました。
久しぶりに会った黒沢さんは、とても元気そうでした。
暑い夏でしたから案じていましたが、体調崩すこともなく過ごしていたと聞いて嬉しいことでした。
 寺内塚合の談話室には天野さん、菅野さん、紺野さん夫妻とが集まっていました。
菅野さんは鹿島に長女家族が建てた家に住んでいますが、昼間はいつも娘婿さんが送ってくれて、談話室で過ごしています。
紺野さんは2015年暮れに小高の自宅に戻ったのですが、時々こうして談話室に遊びに来るのです。
 みんな、仮設住宅に入居してからの日々、談話室でおしゃべりしながら手芸品を作ってきた仲間です。
今も仮設住宅に住むのは天野さんだけですが、そんな天野さんを気にかけて、紺野さんはたまに訪ねてくれるのです。
また菅野さんは、日中は家族がみんな仕事に出てしまうので、家に一人でいるより友達と過ごせるようにと娘婿が送ってきてくれるのです。
6月までは山田さんもいたのですが、山田さんも小高の自宅に戻りました。
井口さんは息子家族と一緒に住んでいますが、6月にお連れ合いが亡くなったそうですから、どうしているのでしょうか。
 久しぶりに会うミッちゃん(紺野さん妻)と安重(夫)は、変わりなく元気でした。
ミッちゃんが栗ご飯を炊いてきてくれて、みんなで頂きながら賑やかにおしゃべりの花が咲きます。
そんな時に、安重さんから聞いた話です。
「猿と競争よ。猿も軍団作ってんのな。猿軍団よ。それが一つじゃねぇんだ。こっちに軍団一つ居っと、あっちにも別の軍団居るんだな。そっちにまた別の軍団がいて、そんな時は急いで車ん中に逃げるよ」
「柿でも栗でも猿が落として地面にあるのを、イノシシが狙って来んだ。イノシシ、昼間だって出て来んよ。」
「米は稲が柔らかいうちはスズメが食うけど、しっかり実ってくる頃になっと、イノシシにやられる。アライグマも多いよ。この前20頭ばかりも獲らえられたってよ」
 避難指示解除になって住民も何割かは戻りましたが、そこは半ば野生の王国化しているようです。
●カリタス南相馬
 仮設住宅を退去した人たちに、集いの場を提供している教会があると聞いていました。
また教会併設の幼稚園は、2011年被災後も園を閉じずに希望する園児を受け入れていたとも聞いていました。
前もって連絡もせずに突然でしたが、お訪ねしました。
休日だったので幼稚園はお休みでしたが、教会の集会室には大勢の人が集っていました。
ちょうどこの日は、音楽を学んでいる学生さんたちがボランティアで演奏会を開いていました。
また改めてゆっくりお話をお聞きしに再訪の御願いをして、帰りました。

 今回は日帰りで、駆け足の南相馬行でした。
なかなかゆっくり訪問する時間が取れずにいる最近です。
 仮設住宅を退去した人たちが多くなり、住まいが離れているので訪ねにくくもなっています。
けれど仮設にいた頃よりも自宅に戻られてからの方が、大変な人も多いのではないかと案じているのです。
近くに話し相手もいず、昼間はテレビを見るしかない人も多いのです。  

いちえ


2018年9月10日号トークの会「福島の声を聞こう!vol.28」報告②

●東京訴訟
原発事故に関して闘われている裁判は全国で30件ほどあると思いますが、私は東京訴訟の原告です。
今年3月に判決が出て、低線量被曝が健康にどのような害を及ぼすかについて裁判所は、低線量でも害がある、そのような中で避難することは合理性があると認めました。
しかし、合理性があるのは2011年12月までだとしています。
なぜかといえば、その時期に福島の原発は冷温停止状態になったと発表されているからです。
それ以降は放射線の飛散は少なくなったので、避難の合理性があるのは、そこまでだと言います。
ただし、妊婦と子どもは翌年の8月まで合理性があると言いますが、私は納得がいきません。
裁判所の言う「翌年の8月」には、私のところは除染が始まっていませんでした。
それで私は控訴しています。
まだ控訴審は始まっていませんが、いま弁護士と控訴理由書を出すために検討しています。

◎特別ゲスト
*一枝:今日は避難の協同センター事務局長の瀬戸さんもご参加いただいているので、瀬戸さんからもぜひ一言お願いします。
●瀬戸大作さん
2016年7月に避難の協同センターを立ち上げました。
2016年5月に避難者に対して、来年3月いっぱいで住宅支援を打ち切るから出て行って欲しいと、各地域で避難している人たちに対しての戸別訪問が始まりました。
都営団地で説明会があって、そこに小学生の子どもがいる母子世帯のお母さんが居た。
その説明会のあった日から10日後に、そのあるお母さんが、中央線の駅から電話をしてきました。
死のうと思って子どもを連れて出たのでしょう。
そういうことがあって、その夜はホテルに泊まってもらって対応しましたが、そういうところから避難の協同センター立ち上げに入って行きました。
僕は東京で「さようなら原発」とか、脱原発運動などをやってきていましたが、避難している人たちがこのように苦しんでいるということを、それまで実感として持っていなかったんです。
このままではまずいなと思って、相談窓口となる携帯電話を作って、そのチラシを持って新宿の百人町住宅を回りました。
すると都営住宅に入っている人たちが、本当にひどいいじめにあっていることを話してくれました。「そのネックレスは賠償金で買ったのか」などと言われたり、4人くらいのお母さんたちと話しました。
そういうことがあって、その1ヶ月半ほど経ったときに、かなり無理矢理に避難の協同センターを立ち上げたのです。
僕が実感しているのは原発避難の問題だが、日本のいまの社会で例えば貧困問題でいうと、底が抜けている。
二つの例を挙げますが、一つは7月の終わりくらいに郡山の友人から電話があった。
会津から除染作業で来た人が除染作業に入ったが、障害があることがわかって契約を切られ、作業員宿舎から出されて郡山で路上生活をしている、という電話だった。
その人は生活保護の申請に行ったのですが、却下されています。
この人は会津から来て、家もない、お金もないのだが、そういう場合東京ならシェルターがあるが、福島県にはシェルターが一つもない。
除染作業で連れてこられたのだが、どこか屋根があり布団がある場所に入れてもらえないかと郡山市に交渉したが、受け付けないと言った。
これは原発問題と、もう一方で弱者に対しての対応ができていないことです。
もう一つの例は、いまも継続中の話だ。
山梨県に避難した母子世帯で、避難後に生活保護を受けるようになった。
今年の暑さはどうしても堪えきれないからエアコンをつけたいと、お母さんは役所に連絡したら、「エアコンの補助については、あなたは受けられません」と言われた。
原発災害で避難している人たちが、いろいろ支援を切られています。
そもそも国の原発事故で避難者が生じているのに、この国自体が貧困状態とか色々な状態で厳しい立場に置かれている人たちに対して、何の支援も手当てもない。
この間ずっと、熊本さんたちと一緒に政府や福島県と交渉していますが、その時に感じるのは、自分たちの加害の責任について全く感じられない。
それと、オリンピックですよ。
2020年までに避難者はゼロにするということにみんな気が向いていて、避難者は追跡しない。
本当にいま、民間賃貸の家賃支援が切られていて大変な状態になっていて、大抵の人たちが避難前よりも月の収入が何万円も少なくなっていて支出が増えている。
母子避難の人たちは東京に来て正規の仕事なんか無く、最低賃金の970円とかで働いていて月の収入は15・6万円です。
それで家賃を7万、8万出して、それでもいいなら避難生活を継続しろというようになっています。
国家公務員住宅は来年3月いっぱいで退去勧告されているので、ぜひ一緒に頑張っていきたいと思っています。
●熊本美彌子さん
災害救助法はものすごく古い法律だとお話ししましたが、これはイタリアの避難所です。(注:と言って週刊誌『週刊金曜日』の表紙を掲げて示す)
ここに並んでいる青いのはテントですが、家族で一つのテントに入れます。
日本では避難所は体育館で、そこでおにぎりが配られますが、それを得るために並ばなければならない。
イタリアは避難所の食事もワインがなければ食事ではないそうです。
私たちは“豊かな日本”に居て、災害になった時に何故こんな状態にならなきゃいけないのか。
私たちは、災害の時にどうあるべきかについて、もっと普段から気をつけて意見を言っていかねばならないのではないか。
東京だって直下型地震が、30年間に70%と高く警告されています。
私たちも原発事故以前は全くそういうことを考えずにきていましたが、実際に災害に遭い、しかも天災ではなく原発事故という人災に対して災害救助法の枠だけで対応されている。
原子力災害についての法律が無い中で、子ども被災者支援法も理念は立派ですが骨抜きにされてきちんとした対応が取られていない現実を、よく知って頂きたいと思います。
災害救助法が1947年に作られたままだということに納得がいかないし、トランプの言っている武器を買わなければ、きちんと対応はできると思います。
先日の国会で水道の民営化が衆議院で可決されましたが、それは古い水道管を補修していく財源が無いから民営化するという、おかしな話ではないですか。
命の水なのに、その補修をきちんとできないのはおかしいです。
それらのことに対してみんながおかしいと声を上げていかなければ、日本は変わらないと思います。
経済が縮小していく中で私たちがどうしなければならないか、今までのように暮らしていていいのかということを、考えていかなければいけないと思います。
*一枝:
瀬戸さんから母子避難の方のお話が出ました。
区域外避難者の多くは、母子避難です。

子どもを守りたい一心で避難するお母さんに対して、夫や義父母からの非難の声が上がることもあります。
「不安に思うのは気のせいだ」などと、避難したお母さんが責められたりしています。
私はお母さんたちの不安はもっともだと思うし、それを責めるのは違うと思うのですが、「安全安心だから避難は自分勝手」という人たちに対して、説得できる言葉が見つからずにいました。
でも昨年、お母さんたちの不安は真っ当な反応なのだと、心にストンと響く本を読みました。
『復興ストレス』という本です。
今日はその本の著者の伊藤浩志さんも参加されていますので、伊藤さんからも一言いただきたいと思います。
伊藤さんは、その後また『「不安」は悪いことじゃない』という本を出されましたが、これもとてもわかりやすく書かれていました。
(『復興ストレス 失われゆく被災の言葉』伊藤浩志著:彩流社刊、『「不安」は悪いことじゃない 脳科学と人文学が教える「こころの処方箋」』島薗進・伊藤浩志共著:イースト・プレス刊)
●伊藤浩志さん
福島市の渡利から来ました。
出身は静岡県ですが、震災当時は名古屋の近くの大府の国立長寿医療研究センターにいました。
アルツハイマーや認知症の研究をしているところで、研究員をしていました。
ネズミを使って脳のメカニズム、認知症のメカニズムの関連などをやっていて、震災1年後に任期が切れて福島県立医大に赴任することになって渡利に住むようになりました。
研究者になる以前は10年間新聞記者をしていて、脳死移植や遺伝子組み換え植物、最近流行っている遺伝子診断問題などを主題にしていました。
そして科学に興味を持って、新聞社を辞めて大学院に入り理系の脳科学を10年間やって、今は福島県立医大も辞めて、フリーで本を書いたりしています。
ジャーナリスティックな観点から見て、ちゃんと裏付けをとって科学的にどうなのかということで、他の人がやっていないようなことができるのではないかと思いやっています。
「文系の人には理系の教養がない」「理系の人には文系の教養がない」などと互いにお題目のように言い合っているような、垣根みたいなものができています。
ドイツの社会学者のフレデリック・ウルリヒベックの『危険社会』というリスク社会のことを書いたベストセラーがありますが、その中に「危険とは分野と分野の間にある」と書かれていますが、役所でも「あっちに行きなさい、こっちに行きなさい」とタライ回しにされて誰もやってくれない、などがあります。
自分の担当となると一生懸命やるが誰の担当かわからない境界線上になると、相手への遠慮などもあって、なかなかやらない。
僕は文系と理系を跨いで、ジャーナリズムとアカデミズムを跨いでやろうと思って、本を書きました。
一言で言うと、「世の中理屈じゃない」ということを、理屈で証明したくてということですが、はっきり脳科学で証明できています。
2冊目の本の『「不安」は悪いことじゃない』に書きましたが「感情的になると理性が働かなくなる」と言われますが、感情が無くなってしまった人は、理性的に頭ではいろいろ判っていても行動はめちゃくちゃになります。
感情が無くなると理性が働かなくなるのです。
理性と感情の考え方、原発事故で「安全性と不安感は別々です」と言いますが、別々じゃないのです。
不安感というのは警報装置が鳴っているわけで、心の問題ではなく、危ないものが迫っているから不安を感じるのです。
心の問題ではないのです。
それをどうやってとらえるかを、理屈で説明しています。

◎休憩後の質疑応答
Q:実家が南相馬の小高で避難指示解除になって戻った人もいるが、避難先に生活拠点を移した人もいる。
そこで暮らすことに不安もありながら生活している人たちもいる一方で、新たに移住して来る人もいたり、私たちは大きな矛盾を抱えているような気がして…。
A:(熊本さん):
私のところを除染業者が除染した後のデータを見ると、地上1cmより1mの方が数値が高いところがある。
山の中で林があるので、林は除染しませんからそこからガンマー線が流れてくるのでしょう。
一昨年の冬は、玄関から3mの場所の土は平米あたり8万ベクレルで、これは放射線管理区域の2倍の数値です。
二本松のキャベツ農家で有機農法でキャベツを作っていた男性が、原発事故後自死されましたが、今はその息子さんが後を継いで農業をやっています。
その方は出荷制限基準値以下だったから野菜を出荷したけれど、出荷しないと賠償金が出ないから出荷した。
「食べて応援」と言ってくれる消費者の方はありがたいけれど、自分が消費者だったら福島産は買わない、食べないと言います。
葛藤を抱えながら暮らしたことを忘れたくないと言っています。
私の畑は除染されて砂を入れられましたから、雑草が伸び放題に生えています。
そこに戻って農業ができるかといったら、土を全部入れ替えなきゃならない。
とても大変な作業になる。
始めた時は夫と二人だったけれど、事故から7年経って私も75歳です。
それでも頑張って元に戻そうとして思ってやり、そこで採れた野菜を親戚や友達にあげたとして、喜んでもらえるでしょうか?
福島に新たに来てくださった人たちが、一生懸命やっているのをどう考えたらいいのか…。
私は戻れないと思っているし、戻っても生きがいを感じられないと思うので戻らず、今ある問題についてきちんと解決するように頑張ろうと思っています。
みんな葛藤を抱えながら、一生懸命生きています。
私たちは、巧まずして分断させられましたが、互いに思っていることを十分に話し合うことが大事だと思っています。
A:(一枝)
以前にこのトークの会にゲストスピーカーできてくださった菅野瑞穂さんは、二本松の農業者さんで若いお嬢さんです。
お父さんが有機農法でやっていて、彼女が体育大学を卒業する年に震災が起き原発事故が起きました。
彼女は卒業後はお父さんの農業を継いで一緒にやっていこうと思っていた矢先の事故でしたから、とてもとても悩み、でも彼女は初志を貫くことを選びました。
お父さんは畑にゼオライトを撒いたり、いろいろ研究して放射性核種が作物に移行しないやり方を工夫して、彼女もそれに習いながらやってそこで採れる作物は全て放射能を検出せずで安全なのです。
そこで「希望のたねカンパニー」を立ち上げて頑張っている彼女を私は応援していますし、野菜や加工品を美味しくいただきます。
でも、若い彼女がそこで農業をすることに心配な思いを抱いています。
防塵マスクをして農作業をするわけではありませんし、周囲には林や森もあります。
また、その畑で採れたものを私は美味しく食べても、孫たちに食べさせるにはちょっと躊躇してしまう。
そんな矛盾を抱えながら、葛藤を抱えながら生きていかなければいけない時代なんだと思います。
だからと言って熊本さんが言われているように、そこでやっている人を批難したりパッシングしたりするのではなく、その人の考えでやっていることを尊重しながらやっていきたいけれど、どうしても譲れないのは、「絶対安心だよ、なんにも心配はないんだよ」と能天気にいう人と、そういうことを推し進めて何が何でもオリンピックのような形で一部の人たちだけが潤うような施策をしていく人たちには断固としてNO!と言っていきたいです。
葛藤を抱えながらも、その一線では絶対に譲らずにやっていきたいし、きっとみなさんも同じだと思います。
A:(瀬戸さん)
僕の仕事は生協ですが、甲状腺の検診などをいろいろな地域生協でやっています。
それは福島県でやっているのではなく、東京でやったり神奈川県でやったりしています。
大学のゼミで呼ばれて講義したりすることがあるのですが、本当にまずいなと思っているのは、いまの大学生が原発問題に対してほとんど意見がない。
賛成も反対もない。
だからその時に僕が気をつけてやるのは、福島原発事故だけど、「福島」にしないことです。
例えば千葉の流山に住んでいる子がいたら、流山は汚染重点地区じゃないですか。
そうした時にこれは福島原発事故で自分は福島に住んでいないけれど、これは福島県の被災者の問題ではなく自分の問題として捉えられる。
だから僕は話をしに行く時は、福島県のデータだけではなくその周辺の都道府県のデータを持って行って話をする。
福島の問題ではなく自分ごととして捉えられるようにすることが大事だと思う。

大変長くなりましたが、8月17日のトークの会「福島の声を聞こう!vol.28」の報告を終えます。
長文をお読みくださって、ありがとうございました。
●次回のトークの会「福島の声を聞こう!vol.29」は、11月27日(火)19:00〜です。
ゲストスピーカーは浪江町津島から茨城県日立市に避難した関場健治さんです。
近くになりましたら改めておしらせしますが、ご予定に組んでおいていただけたら幸いです。

いちえ

 


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