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2017年2月14日号「お知らせ2件」

◎お知らせ①
【信州発】産直泥つきマガジン『たぁくらたぁ』41号が発刊されました。
特集「関口鉄夫の仕事」です。
●関口鉄夫さん
環境科学者の関口さんは『たぁくらたぁ』初代編集長でもありました。
2013年夏に多発性骨髄腫を診断され、闘病生活を送りながらも、放射性廃棄物処分場や焼却施設の現場に通い、また全国各地の産廃処理場問題に取り組んでいましたが、昨年8月31日逝去されました。
福島に通うようになった私が放射能汚染や環境問題を考える時に、関口さんから教えられることが多々ありました。
何度か一緒に福島へも行き、南相馬の仮設住宅で住民の方たちに「わかりやすい放射能の話」をして貰ったこともありました。
私もそうですが、福島原発事故以前には「ベクレル」も「シーベルト」も聞いたこともなかった被災者たちに、こんな風に話し始めたのでした。
仮設住宅の集会所の前には、コスモスが咲いていました。
関口さんはそこから数本の花を手折り、その花を持って会場に入ったのです。
集会所で話を聞こうと待っていたのは高齢者たち、ほとんどがおばあちゃんたちでおじいちゃんはチラホラでした。
関口さんは開口一番、「みなさん若い時にやったことあるでしょう?スキ、キライ、スキ、キライって花占い」と言ったのです。
そして「今でもやっている人いるんじゃないですか?私じゃなくていいですから、誰かいい人を思い浮かべてやってみてください」と軽口を言ってみんなを笑わせて、持っていたコスモスを目の前のおばあちゃんたちに1本ずつ渡しました。
少ししておばあちゃんたちに「どうでした?」と問うと「キライ」になった人も「スキ」になった人もいたのです。
関口さんはおばあちゃんたちに、「スキで始めましたか?キライで始めましたか?」と問うと、誰もが「スキ」から始めたと答えました。
関口さんは、話し始めました。
「一重のコスモスは花弁が8枚、偶数なのです。だから花占いでスキが出るように望むなら、キライから始めなければならないのです。大抵みんなスキから始めるのでキライの結果が出てしまいます。でも、今日はスキで始めてスキで終わった人がいましたね。花弁が奇数だったのです。これを変異と言いますが、今日は私が集会所の前の畑でどれこれと選ばずに無造作に手折ってきたコスモスでもそうでしたが、原発事故後に花や木などの植物や、虫や鳥など動物にも、こうした変異がたくさん出ています」
こんな風に話し始めた関口さんの話は、仮設住宅での日々の暮らしや、また自宅に戻った時にどんな点に注意したらよいかなどを具体的に伝えて、タイトル通り高齢者たちにも「わかりやすい放射能の話」でした。
「関口鉄夫さん」その人と、関口さんの仕事を、多くの人に知ってほしいです。

●他にも読み応え溢れる記事満載
*巻頭言:「馬齢の尽きるその日まで」関口邦平(鉄夫さんのお父さん)
*巻頭インタビュー:「平和とは何か」中村尚司
*特集:関口鉄夫の仕事
 ゴミポチが亡くなった:田島征三
 ゴミ問題の現場を駆ける:梶山正三
 地方議員と住民自治:森山木の実
 3・11後の福島へ:野池元基
 関口鉄夫の著作より
 二つの詩=関口鉄夫のメールより
*ノ パサラン No pasaran やつらを通すな!第6回
        プロテスター(抗議する者):浅井大希
*人間の生き方」と「太陽光発電」問題を考える:米田佐代子
*白馬の森発 原発避難者の明日 第11回
 汐凪発見に思うこれから:木村紀夫
*戦時体験の二つ逸話
 731部隊 障がい者を受け入れたホテル:清水まなぶ

などなど、ぜひお読みいただきたい記事満載です。
ご購入はお近くの書店、またはオフィスエムへ。
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◎お知らせ②
トークの会「福島の声を聞こう!vol.22」参加申し込みの受付は始まっています。
今回のゲストスピーカーは二本松の有機農業者、菅野瑞穂さんです。
東京の大学卒業後に実家の有機農家に戻り就農した翌年、東日本大震災・原発事故が起き、放射能災害に向き合うことになった若い女性農業者の話を、多くの方に聞いていただきたく思います。
どうぞ、お出かけください。

いちえ

トークの会vol.22


2017年2月12日号「安保法制違憲訴訟・女の会」

前便で、傍聴できなかったとお伝えした「安保法制違憲訴訟・女の会」第1回口頭弁論の報告集会プログラムが届きましたので添付します↓


安保法制違憲訴訟・女の会 国家賠償請求事件(平成28年(ワ)第27258号)

第1回口頭弁論 報告集会プログラム

参議院議員会館B104号室
17:00~18:00

1.第1回口頭弁論の報告       弁護団より

2.陳述した代理人から        中野麻美さん、角田由紀子さん
陳述した原告から         池田恵理子さん
                高里鈴代さん

3.全国の訴訟の取組から       杉浦ひとみさん

4.質問&今後について意見交換

    次回期日:  6月16日15時(103号法廷)

意見陳述

原告ら代理人 弁護士 中野麻美

「平和なくして男女平等なし」「男女平等なくして平和なし」
これは、女性の参政権と地位向上に尽力した市川房枝が先の戦争から得た教訓です。
日本国憲法は、個人の尊厳のうえに差別のない社会を実現することを国家の使命とし、軍隊をもたず戦争を放棄することを誓いました。この憲法をもったことは、原告らの誇りであり、粉骨砕身、差別や暴力のなかから人生を切り開き、行動する支えになってきたものでした。

 戦争は人間を目的化・道具化・序列化します。個人こそ社会の主人公であって、自由にして平等であるという基本原理にたったときには、戦争は放棄されるべきです。また、戦争と軍隊は、女性の性を道具として支配の対象にしてきました。憲法が男女平等の本質的かつ普遍的な権利を保障する以上、戦争放棄条項も永久普遍の原理として守られるべきものです。

 私たちがこの訴訟で問題にしている安全保障法制は、その制定過程から重大な憲法違反を重ねるものでした。
憲法学者のほとんど全員が憲法違反だというのに、政府は、これまでの解釈をクーデタのように変えてこの法律を国会に上程し、武力による紛争解決を法的に承認してしまいました。
世論が注目する国会などの場面では、何度も「女性と子どもを護る」というフリップを用いて武力行使の必要性を説明し、家父長制と戦争の正当性を繰り返し人々にイメージさせました。
世界各地で、女性に対する性暴力・性虐待が戦争の手段にされたくさんの人たちを傷つけています。日本軍性奴隷制や米軍による性暴力がいまだに女性たちを傷つけていて、戦争は終わっていないのです。そして、戦争の正当化が日常の生活における女性に対する暴力や差別を強化することが告発されてきました。
安全保障法制は、生活のあらゆる場面において女性の権利を脅かします。
それなのに、これらのことは何一つとして議論・検討されないまま、この法律は強行採決されました。いったい、どうしてそれが「積極的安全保障」に資するもので、「国民の人権を守る」ことになるのか、国際紛争への軍事介入や日本の軍事化は女性たちの人権を侵害するものではないのか、私たちはきちんとした説明を受けていないのです。
にもかかわらず数を頼んでこの法律を強行採決するのは、デモクラシーの理念の否定であると同時に、女性たちの政治的権利を否定するものです。

 立法やその制定過程が憲法に違反し、正当性もなく、民主的代表制を完全に無視して制定されたとき、そのような法律は廃止されるべきであり、この国と社会の主人公としてその効力を認めるわけにはいきません。立法府と異なる立場からそれを判断するのが裁判所に与えられた使命です。裁判の公開の原則のもとに立法過程をすべて明らかにし、検証しなければならず、私たちにはそれを求める権利があります。
被告国は、私たちの主張は、単なる不安や危惧を抽象的に述べるにとどまるものであるから国賠法上の要件を満たさないといっています。そして、安保法制の違法性を裏付ける重要な事実について、「認否に値しない」として回答を拒否しています。このような姿勢は、国民から信託を受けた政府の対応としても、訴訟当事者としても許されるべきではありません。

原告ら各人の権利侵害はそれぞれ多様です。そして、政府や国会議員の違法行為は、既に原告らそれぞれの権利利益を現実に侵害しています。被告国には、このような訴訟態度を直ちに撤回してきちんと認否反論して証拠を提出するよう求めます。また裁判所には、違憲審査権を行使するにふさわしく、訴訟指揮権を行使されるよう強く求めるものです。
以上

原告 池田恵理子
私は1950年、大空襲で多数の犠牲者を出した東京・江東区に生まれ育ち、高校時代にはベトナム戦争での惨たらしい戦場報道に接して戦争は絶対嫌だと思ってきました。中国に出征した父に戦争体験を聞いても、住民虐殺や強かんには沈黙するだけだったので、「加害兵士の娘である私」を自覚するようにもなりました。1973年にNHKのディレクターになってからは、大空襲や原爆、中国残留孤児など、戦争体験を語り継ぐ番組を数多く作りました。「慰安婦」の番組も1991年から96年までに8本は作りましたが、97年以降は企画が全く通らなくなり、一市民として「慰安婦」被害者や元兵士の証言を記録する活動を始めました。「慰安婦」制度を裁いた2000年の女性国際戦犯法廷には主催団体の一員として取り組み、2010年にNHKを定年退職した後は、日本で唯一の「慰安婦」資料館、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の館長となって今に至っています。
 こうした経験から、憲法改正をライフワークと公言する安倍晋三首相が、日本を「普通に戦争ができる国」にしようと強行した安保法制の制定・施行を許すことができません。首相はこの20年余り、「慰安婦」の記録と記憶を抹殺しようと躍起になってきました。これは、戦争と性暴力をなくすために勇気をふるって凄惨な被害体験を語ってくれた女性たちを再び傷つけるものです。

●日本軍は戦争中、アジア各地に慰安所を作りましたが、そのきっかけは日本兵の強かんが頻発した南京大虐殺でした。慰安所は強かん防止と性病予防のため中国各地に設置され、戦域が東南アジアに広がると、現地女性を拉致・監禁・輪かんする「強かん所」も増え続けました。しかし厳しい報道規制によって慰安所の存在は国民には知らされず、敗戦直前には戦犯裁判を恐れた軍上層部が関連文書を焼却させました。兵士たちは「慰安婦」を“戦場の売春婦”と思い込まされ、加害の意識はありませんでした。
「慰安婦」制度が性奴隷制であり、女性への人権侵害で重大な戦争犯罪だと知られるようになったのは、1991年に韓国の金学順さんが名乗り出てからです。彼女は日本政府が「慰安婦は民間業者が連れ歩いた」と答弁したことに憤り、立ちあがりました。それを機に、韓国、フィリピン、中国、台湾、オランダなど各国の女性が名乗り出て、日本政府に謝罪と賠償を求める裁判を起こしました。これら10件の裁判は最高裁で原告敗訴となりましたが、8件の裁判では事実認定がされています。また審理過程で綿密な聞き取りや資料発掘が行われ、「慰安婦」制度の実態と全貌がわかってきました。
この事実は国際社会に大きな衝撃を与えます。旧ユーゴやルワンダでの集団強かんが問題となった時代です。1993年の国連の世界人権会議は「女性に対する暴力は人権侵害」と決議し、国連総会では「女性への暴力撤廃宣言」を採択しました。
対応を迫られた日本政府は「慰安婦」調査を行い、93年には河野官房長官が「慰安婦」の強制を認めてお詫びと反省を発表しました。しかし政府は「法的責任はない」と「賠償」は行わず、国民からの募金で「女性のためのアジア平和国民基金」を推進したので、被害女性からは批判や受け取り拒否が起こりました。

●こうした国内外の動きに危機感をつのらせたのが、歴史修正主義の政治家やメディアでした。彼らは「慰安婦」を“戦場の売春婦”として、90年代後半から激しいバッシングに乗り出します。1997年度版の中学歴史教科書の全てに「慰安婦」が記述されたために教科書会社への攻撃が始まり、やがて教科書から「慰安婦」は削除され、2012年度版では遂にゼロになってしまいました。
報道現場でも、90年代後半から「慰安婦」報道を抑える動きが強まりました。2000年の「女性法廷」を取り上げたNHKの番組が政治介入による改竄が暴露されて、その一端が明るみに出ました。「女性法廷」は右翼の猛攻撃を受けながら開催されましたが、各国から被害女性64人が参加し、海外メディアは95社、200名が取材に訪れて世界中に報じ、今では現代史に残る出来事となっています。ところが国内での報道は低調で、とりわけNHKが放送した「女性法廷」の番組は異常でした。法廷の起訴状も判決も主催団体もカットされ、出演者のコメントは脈絡なく編集され、「女性法廷」を否定するトーンになっていたのです。あまりのことに主催団体はNHKや制作会社を提訴したところ、その審理中にNHK職員の内部告発によって、安倍晋三官房副長官(当時)ら自民党の政治家たちの介入で、放送直前に番組が改竄されたことが明らかになりました。東京高裁では政治による番組改竄を認めて原告は勝訴、被告NHKらに200万円の賠償支払いを命じました。この事件は報道への政治介入が克明に暴かれた、放送史上稀にみる事件になりました。

●ここまで徹底して「慰安婦」がなきものにされるのは何故か。安倍首相は1993年に国会議員になってから一貫して、あの戦争は「アジア解放の正しい戦争」だったと言っています。しかし女性たちを性奴隷にした「慰安婦」制度は明らかな戦争犯罪であり、「正しい戦争」とは相いれません。そこで「慰安婦」は民間業者が連れ歩いたもので、日本軍に責任はなかったことにしたい…つまり日本軍が犯した加害事実に向き合う勇気がないのです。
安倍首相は第1次安倍政権の時から「慰安婦の強制の証拠はない」と主張し続け、メディアは政権に同調して「慰安婦」を否定するか、報道を自粛してタブー扱いしてきました。2015年12月末に日韓両政府が「慰安婦」問題は「最終的・不可逆的解決」に達したとする日韓「合意」を発表し、日本のメディアの多くが「一件落着」と報じ、大方の世論もそう受け止めました。ところが、韓国の被害女性も世論も日本とは真逆で、日韓両政府への批判を強めており、この落差は大きくなるばかりです。このような日本国内の世論形成は、安倍首相たちが20年余りかけて「慰安婦」の報道と教育を管理・統制してきた結果だと言えましょう。
昨年5月末には日本を含むアジア8ヵ国の民間団体がユネスコの世界記憶遺産に「日本軍『慰安婦』の声」の登録を共同申請しました。右派のメディアや日本政府はこの登録を阻止しようと、官「民」一体で取り組んでいます。日本の登録団体の中心にいるwamへの攻撃は激化し、爆破予告の脅迫状まで送られてきました。こうした不穏な動きは、安保法制下での出来事です。「慰安婦」問題を訴える輩は”敵“として攻撃してもいいのだ…と思う者たちがうごめき出したのです。

●安保法案をめぐる国会審議では、「慰安婦」制度に関する国連の勧告も、南スーダンやアフガニスタン、イラクなど紛争下での戦時性暴力についても、何ひとつ取り上げませんでした。私に参考人として意見を述べたり、公聴会で発言する機会を与えてほしかったと痛切に思います。国会審議で戦争遂行の装置だった「慰安婦」問題を議論できず、法案を廃案にできなかったことは、日本人としての戦後責任を果たせなかったという点で、慚愧の念に堪えません。「慰安婦」問題の真の解決を目指してきた被害女性や国内外の女たちの努力を無にすることだからです。
私はジャーナリストとしての仕事も、「慰安婦」支援や資料館の運営に取り組んできたこれまでの人生も全て否定されたような衝撃と苦痛に襲われています。安保法制は、加害国だった日本がやってはならないことなのです。戦争と性暴力のない世界を築くためにも、違憲である安保法制を何としても廃止しなければなりません。
以上

原告 高里鈴代
1 5歳で終戦を迎え、台湾から宮古島へ、そして那覇へ
私は、現在76歳です。1940年に台湾で生まれました。父は東京農大卒業と同時に、台湾総督府農林省に勤務しました。私の家族は、米軍の爆撃を避けて防空壕で終戦を迎え、終戦の混乱の中をかいくぐって郷里の沖縄・宮古島に引き揚げてきました。そのとき私は5歳でした。
私が小学校4年生の2学期に父の転職で那覇市に移りました。家庭の経済は、宮古島でそうであったように、那覇でも厳しく、母親の着物は下駄の鼻緒となって売られました。

2 フィリッピン留学が私の人生を決めた
私は沖縄の短大卒業後、フィリッピン・マニラにあるハリス・メモリアル・大学へ留学しました。そこでの2年間が私の生き方を方向づけました。
 第1は、アジア・太平洋戦争で日本軍がフィリッピンの人々への残忍な戦争行為をした事実とそれが犠牲者に深い痛みをもたらしていたことを、現地の人々の口から繰り返し聞いて知ったことでした。
もう1つは、クリスマス休暇で訪ねた友人の住んでいる町が、実は米軍基地の町であったことの衝撃でした。友人の町は、沖縄のコザに来ているのかと錯覚するほど、沖縄の基地の街そのものの姿でした。その街は、アジア最大の米海軍スービック基地のオロンガポ市でした。沖縄に基地があるのではなく、基地の一部に沖縄があると強く実感しました。

3 売春防止法の制定が遅れた背景
本土では、1956年に売春防止法が制定されていたのですが、沖縄にはありませんでした。1967年に、本土で売防法制定のために奔走していた矯風会の高橋喜久江さんが、沖縄での売防法成立の遅れを調査するために、来沖されました。私は高橋さんに同行し、沖縄の現状を学びました。立法院議会へ再三の立法要請がなされても、法律が成立しなかったのには2つ理由がありました。
第1は、もし、売防法が成立したら、米軍兵士たちの暴力のはけ口は、かつてのようにまた地域社会に戻って来るのではないかという恐れが、議員たち及び地域社会の中に強くあったということでした。軍事支配を背景に、そこでは圧倒的なむき出しの暴力が日常的に存在していたのです。日本の敗戦により、沖縄の女性の身体は米軍兵士たちに文字通り踏み荒らされ続けてきたのです。米兵の容赦ない暴力から一般の人が逃れるために、沖縄に集娼地区が作られたのです。これが廃止されると、それ以前のように米兵が民家に踏み込んだり、歩いている女性を掴まえたりして手当たり次第に強姦をするようになるという心配でした。
もう一つは、売防法が成立すると、女性たちが米兵から日々稼ぐドルはどこへ行ってしまうのかという心配でした。当時の沖縄の女性たちは、厳しい強制管理売春の中で生きて、沖縄経済を支えるドルをかせいでいたのです。私は、この女性の状況と彼女たちの心身をむさぼりつくすとでもいうしかない売買春の実態に触れて、女性の人権侵害であると強く思いました。

4 ベトナムの狂気は基地の街で
 そのような状況の中で、施行は2年後の復帰時として、1970年には売防法が成立しましたが、その同じ日にもうひとつの決議があります。それは当時前原高校3年の女子生徒がレイプの被害から逃れるために抵抗し体中をナイフで切られ重傷を負う事件を受けてのものです。沖縄は米兵からの暴力を防ぐための集娼地帯のはずだったのですが、実際はそういうものを越えて暴力が起こり続けていたわけです。70年の売防法制定日には、この女子高校生の被害に対する抗議声明が出されたのです。
ベトナム戦争中、米兵は沖縄から出撃し、休暇になれば沖縄に戻ってきました。ベトナムに送られれば命の保障はないことを米兵たちは知っていましたし、殺戮の現場から戻ってきた兵隊は荒れており、売春女性たちが彼らの不安や怒りなどの受け皿とされていました。
私は高橋さんに同行しての見聞で、沖縄の女性の問題に深く関わりたいと考え、その後は、まず、売春に関する新聞資料の収集を始め、売防法の問題に関心を持つようになっていきました。
5 婦人相談員に
私は、婦人相談員の仕事を知って勉強をし直して、1977年4月、東京都婦人相談センターの電話相談員第一号に採用され、女性が女性であるが故に受ける暴力、理不尽な差別扱いなどの相談に携わるようになりました。1981年4月に沖縄へ帰り、1年間、うるま婦人寮(婦人保護施設)でボランティアの後、那覇市の婦人相談員として1982年から7年間働きました。

    6 那覇市議会での活動
私は、1989年、那覇市議会議員へ立候補し当選しました。以後、市議会議員を4期務めました。婦人相談員としての仕事は、女性を人権の回復へ支援する意義ある仕事だと思っていましたが、婦人相談員の仕事と司法の限界を思い知らされ、社会の性差別意識を変えたいという思いから選挙に出ることを決意し、女性たちと共に当選を勝ち取ったのです。

7 北京女性会議へ
 日本への復帰後も米軍の削減はなく、米軍の演習による事故・事件は続き、女性に対する暴力も後を絶ちませんでした。1995年、国連の世界女性会議(北京会議)への参加準備の中で、沖縄は直接の紛争状態の中にあるのではないけれども、戦後から50年にわたり、大規模の米軍が駐留し、人権侵害、生命の危機、暴力が起こり続けており、「長期軍隊駐留下における性暴力」を戦争犯罪として捉えるべきではないかと、「軍隊・その構造的暴力と女性」のワークショップを北京会議の一角で開きました。

8 北京会議の最中に3米兵による少女強姦事件が起こった
北京会議のさなか、1995年9月に起こった3米兵による少女強姦事件は、復帰後の米軍人の特徴を現した事件です。事件に抗議する県民大会には、沖縄の人々の積年の怒り、痛み、そしてこれ以上の人権侵害を許さないと8万5千人の県民が結集しました。
この県民大会の会場で、私は、女性たちと一緒に立ち上げた「強姦救援センター・沖縄、REICO」を10月25日に開設するとのチラシを配り続けていました。性暴力相談活動は、今も継続しています。
同時にその県民大会直後に結成されたのが、女性たちによる「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」です。早速に政府に対して、日米地位協定を北京行動綱領(日本政府は署名しています)の精神に則して改正することを求めました。

9 私が原告になった理由・私の被害
 私は、沖縄で米兵による女性の人権侵害をつぶさに近距離でみてきました。沖縄は71年間軍隊の支配下にあります。
婦人相談員として、あるいは那覇市の市議会議員として、常に女性たちの苦しい現実に寄り添い、解決に力を尽くしてきました。沖縄ではいまも毎日軍隊との共存を強いられているのです。軍隊が女性にとってどのようなものであるかを身に沁みて知りました。
軍隊の本質は、家父長制に基づく力による支配を強行する組織です。沖縄では特に、米軍人の女性に対するレイプ、絞殺事件は、9ケ月の乳児から5歳の幼児を含めあらゆる年齢に及んでおり、ベトナム戦当時には、年間2~4人の女性が絞殺されました。
沖縄の戦後71年を軍隊の女性への性暴力、殺害などを通して振り返る中で、その人権侵害性を声を大にして訴えます。軍隊の駐留によってもたらされる暴力、それによって傷つき、苦しむ女性たちの存在、その回復支援に取り組んできた者として、訴えます。
私は、少しでも性差別のない、暴力のない社会を作ろうと働いてきました。沈黙を強いられている女性たちと共に、暴力の元凶である米軍の撤退、削減を求め、声を上げてきました。しかし、安保法制法は、その全く真逆なところにあり、私の、私たちの声を完全にかき消すものです。戦後71年経って、再び振り出しに押し戻されたような屈辱感と怒りを強く感じます。私は、安保法制法の撤回を求めます。
以上

原告ら代理人 弁護士 角田由紀子
1 戦争被害の現在性
 日本において、戦争が一般の人々に与えた被害の悲惨な事実は、アジア・太平洋戦争の時期を通じて、多くの人々の体験の中に刻印されています。女性や子どもはその被害の中心にありましたが、今日に至るも被害は癒されることなく、人々の心身の深いところで存在し続けております。今回の安全保障法制は、それらの深い傷を呼び起し、再体験を迫るものです。安全保障法制の制定過程そのものが、女性の存在を無視し、女性の声に一度たりとも耳を傾けることなく、文字通り、暴力的なものでした。その内容と制定過程に直面して、原告たちは、深い苦痛と不安に曝されています。その苦痛や不安は、漠たるものではなく、現実に女性たちの心身に深い打撃を与えるものです。

2 戦争と女性の性的被害について
 戦争がその本質において、女性への性的加害行為を伴うものであることは、過去世界中の様々な戦争で、十二分に証明されております。そのことは、沖縄では戦争中に始まり敗戦後から今日まで、常に現在進行形であり、どれだけ多くの女性が命を奪われ、人としての尊厳を奪われたかを、特に注目しなければなりません。この事実は、私たちに戦争と女性の関係の本質をはっきりと示すものです。
日本軍「性奴隷制」の問題の真摯な解決を置き去りにした政権による安全保障法制に、原告たちは「安全保障」という言葉とは裏腹に極めて大きな危険を感じております。安全保障法制は、次の戦争を確実に準備するものとして、目に見える形であるいは見えない形で、既に女性たちの生活の安全を脅かしております。原告たちの多くは、女性への性暴力を含む暴力と闘ってきております。この社会を女性や子どもなど権力を持たない人々にとってできるだけ安全なものにしたいと、日々努力をしてきました。それが、戦争という究極の暴力を肯定する法制がとられたことで、これまでの努力が根こそぎ否定されてしまいました。それは、そのことに力を尽くしてきた原告たちの生き方そのものの否定であります。原告たちの努力を支えてきた根幹にあるのは、日本国憲法です。憲法の平和主義、個人の尊重などを明確に否定する今回の法制は、原告たちから将来への希望を奪い、打ちのめしました。言うまでもないことですが、女性への暴力の加害者の多くは、男性であり、男性のそのような暴力にいわば「お墨付き」を与えるのが、今回の法制です。その法制は、昨年3月29日に施行され、昨年11月から南スーダンに派遣されている自衛隊には、武力行使を容認する新任務が与えられました。南スーダンでは、性暴力が頻繁に起きていることは、新聞等で報道されており、国民の多くが知っております。このことは、国内での女性の安全に大きく悪影響を与えるものといわざるを得ません。
 いかに近代化された戦争であっても、戦争はそれに従事する人間を必要とします。かつての戦争の時代に国を挙げて「産めよ増やせよ」がとなえられ、その実現が強要されました。病弱な女性が子どもを産むことに耐えられず、堕胎をした例がありましたが、その女性は堕胎罪で逮捕されました。堕胎罪は、今でも刑法に規定されており、戦争に向かう社会が、女性の性にどのように敵対的であるかの例です。少子化対策という言葉でさまざまに行われている政策は、「産めよ増やせよ」政策と無関係ではありません。

3 個人としての女性の否定
 戦争とそれに伴う戦時性暴力の基盤になっているのは、日常生活の隅々までを支配している家父長制です。今日では「家父長制」という言葉が使われることは少なくなりましたが、社会の仕組みとしてのそれは生き続けております。
家父長制の仕組みがむき出しであった社会において、憲法は女性に人間解放をもたらしました。戦争肯定社会は、憲法が女性にもたらした個人としての権利を否定するものです。多くの原告たちは、憲法13条、14条及び24条等によって保障された人権をしっかりと手にして戦後の人生を築いてきました。戦前には閉ざされていた多くの場所で女性たちは、羽ばたいてきたのです。もちろん、彼女たちの生き方の骨格は憲法です。しかし、安全保障法制は、それらを否定するものです。原告たちが体験させられた苦痛や恐怖や不安は、彼女たちが生きることの根幹にかかわるものです。
 ある原告は、教育者や研究者として、憲法に導かれて新しい社会を作ることに尽力してきました。ある原告は、政治家として国会等で奮闘してきましたが、安保法制法は、女性政治家からその本来の活動の場を奪い、大きな被害を与えました。ジャーナリストや公務員等の原告たちも、その自由な活動を制約されたり、不本意な活動を強制される危機に瀕しており、これらの原告たちが具体的に受けた苦痛に対して、被告が損害賠償をするべきであります。原告たちが現に被っている被害及び損害が正当に償われるべきです。そのために、司法が憲法によって付与されている責務を果たさねばなりません。
 私は原告の女性たちが、既に被っている被害について、その一部を指摘しました。詳細は、今後原告本人尋問等で立証する予定です。
以上


また記者会見と報告集会の様子が、youtube でご覧になれます。
https://www.youtube.com/watch?v=HOmLGbvym_0

報告集会プログラムを読み、またyoutubeを見て、その場にいられなかったことが残念であるとともに、参加できなくてもこうして読み、そして見ることで理解することができることを嬉しく思いました。
次回もまた、傍聴券を求めて並ぼうと思います。
第2回口頭弁論期日は6月16日(金)15:00〜です。

いちえ


2017年2月10日号「2月10日東京地裁」

今日は東京地裁で「安保法制違憲訴訟・女の会」第1回口頭弁論期日でした。
私も傍聴券を求めて並びましたが、残念ながら抽選に外れて傍聴できませんでした。
傍聴席は96席ですが、180人以上の人が抽選に並んでいました。
15:00開廷で、閉廷後17:00〜の報告集会があったのですが、私は都合がつかずに参加できませんでした。
女性の立場からの違憲陳述を、ぜひぜひ聞きたかったのですが残念です。
戦時性暴力など、女性に関わる問題はとても大きくあると思います。
戦争は、女性たちに特別な影響と被害をもたらすと思っています。
今日の法廷での陳述内容が判ったら、またお伝えしたいと思います。

「安保法制違憲訴訟」は、全国に広がっています。
東京地裁での国家賠償請求訴訟、第3回期日は3月3日10:30開廷です。
差止請求訴訟は4月14日です。
大阪地裁は2月22日。広島3月8日。さいたま地裁も同じく3月8日。
福岡地裁での国家賠償訴訟は3月14日、差し止め訴訟は4月12日。
福島地裁いわき支部は4月26日に開かれます。
お近くの方、どうぞ傍聴に行ってください。                 

いちえ


2014年2月7日号「お知らせとお願い」

◎お知らせ①
ご承知のことと思いますが、沖縄が本当に酷い状況になっています。
こんなことが許されていいものか!と憤りで身が張り裂けそうです。
以前の「一枝通信」で、地元沖縄の人たちが取り組んでいる「山城博治さんたちの早期釈放を求める署名」にご協力をお願いしました。
現地から、その報告が届きました。
添付します。

山城博治さんたちの早期釈放を求める署名活動へのお礼と報告

◎お願い①
また同会では抗議の手紙・ハガキ行動を呼びかけています。
下記が宛先です。

*那覇地方裁判所
〒900-0022 沖縄県那覇市樋川1−14−1 所長:阿部正幸
*那覇地方検察庁
〒900-0022 沖縄県那覇市樋川1−15−15 検事正:林秀行

上記2名宛に抗議の手紙・ハガキを送ってください。

◎お願い②
救援カンパのお願いです。
下記に支援金をお寄せください。

ゆうちょ銀行
記 号:17050
番 号:18292851
口座名:オスプレイ・ヘリパッド建設阻止高江現地実行委員会
              現地実行委員会実行委員長:大城悟 090−1085−1232

◎お願い③
拘束されている博治さんたちに激励の手紙・ハガキを!
〒900-0022 沖縄県那覇市樋川1−14−2
山城博治/稲葉博

地方裁判所所長と検察庁検事に抗議を、山城さんと稲葉さんに激励を、どうぞお願いいたします。

◎お知らせ②
関西方面の方へのお知らせです。
映画監督池谷薫さんの4作品が一挙上映されます。
池谷さんは「延安の娘」「蟻の兵隊」「先祖になる」「ルンタ」と、一貫して”人間の尊厳”を深く見つめた作品を送り出してきました。
沖縄でも、福島でも、自衛隊駆けつけ警護の問題も、人間の尊厳が著しく傷つけられ踏みにじられていると思えてなりません。
共謀罪が浮き彫りになってきている今、戦争への道をヒタヒタと進んでいるような不安と恐怖を覚えています。
「戦争」には勝者も敗者もありません。
あるのは「尊厳の破壊」のみだと思います。
関西方面の方、ぜひ池谷監督の4作品、ご覧ください。

いちえ

上映場所:神戸県立美術館ミュージアムホール
プログラム:4月7日(金)10:30〜「延安の娘」、14:00〜「蟻の兵隊」
      4月8日(土)10:30〜「先祖になる」、14:00〜「ルンタ」
各作品上映後に監督のトークあり
料金:1回券=1,000円、2回券=1,600円、4回券=3,000円


2017年2月4日号「集会報告」

1月29日(日)に、玉川区民会館で「福島原発刑事訴訟支援団」の結成1周年集会が開かれました。
◎これまでの経過
2011年3月野東京電力福島第一発電所の事故から3ヶ月後の6月に福島原発告訴団が結成され、避難者を含む福島県民が東電幹部らを刑事告訴しました。
追加告訴を合わせると14,716人による集団告訴です。
2013年9月、検察庁は刑事告訴について容疑者全員を不起訴処分としました。
翌10月、告訴団はこの不起訴処分を不服として、検察審査会に審査を申し立てました。
2014年7月、東京第5検察審査会が、勝俣恒久元会長、武藤栄元副社長、武黒一郎元副社長野3名を、起訴相当としました。
ところが2015年1月に検察庁は、東電元幹部3名について再度不起訴としたのです。
2015年7月、東京第5検察審査会は東電元幹部3名を起訴すべきとする2度目の議決をし、強制起訴が決まりました。
2015年8月に東京地方裁判所は検察官役の弁護士3名を指定、さらに9月には検察官役の弁護士2名を追加指定し、強制起訴事件では最多の5人体制となりました。
そして2016年1月30日に、福島原発刑事訴訟支援団が結成されました。
2016年2月29日、指定弁護士が裁判所に起訴状を提出•公判請求しました。
20016年3月14日には指定弁護士が証拠約4,000点の一覧を被告人の弁護士に交付、請求されれば原則開示する事を通知した旨発表し、東京地裁に早期に裁判を開くよう要請しました。
同年4月27日、東京地裁は初公判前に争点や証拠を絞る公判前整理手続きを行うと決定したのです。

起訴状が提出されて11ヶ月、「1日も早く裁判を!」と、開かれた支援団結成1周年集会でした。

◎「一日も早く裁判を!支援団結成1周年集会」〜福島原発事故の真実を明らかに〜
●団長挨拶:佐藤和良さん
2011年3月11日から丸6年が経とうとしている。
福島県内では様々な分断の中で帰還政策が進められ、この3月末に避難指示解除準備区域の指定を解除する。
政府は50ミリシーベルト以上を帰還困難区域、20〜50ミリシーベルトは居住制限区域、20ミリ以下は避難指示解除準備区域として、20ミリ以下ならどんどん帰るようにとして、早期帰還政策・強制帰還政策を採ってきた。
ところが今年の3月末日をもって50ミリシーベルトの居住制限区域まで帰るようにという、とんでもない話が進められている。
同時に、放射能被害と子どもの健康を案じて、避難指示区域外から全国に自主避難している区域外避難者たちの住宅支援を3月末で打ち切る話が、国と県で進められている。
つまり2020年の東京オリンピックまでに、「避難者は居ない、福島原発事故は終息、汚染水は漏れていない」という話にしようという魂胆が見え透いている。
福島県内では「物言えば唇寒し」で、原発災害、放射能汚染、被ばくの問題について話すのは非常に厳しい状況になっている。
区域外避難者の子どもたちがいじめにあうことがようやく顕在化してきたが、その一方では、避難しているからいじめにあうのだと言われる現状がある。
この6年間いじめの問題はずっとあったにもかかわらず、今になって顕在化しているのは、この帰還政策と期を一にしているものがあるのではないか。
2011年に原発事故が起き、2012年に福島原発告訴団が告訴した裁判は2度不起訴になったが、ようやく2015年強制起訴にこぎつけ、東電元幹部3名が強制起訴になった。
2016年2月29日5人の指定弁護士によって、勝俣、武藤、武黒の3名は公訴された。
それからもう1年になろうとするが裁判はまだ開かれず、その間棚ざらしにされていたわけではないのだろうが、東電側が非常に抵抗してここまで引き延ばされている。
一刻も早く公判を開けという声を大きくしていかなければいけない。
このままでは全国の原発再稼動という、安倍内閣の勢いが止まることを知らない。
被害者が地獄の苦しみを味わっているのに加害者が天国という状態に、一刻も早く終止符を打ち脱原発の道に向かうには、あの福島原発の事故はなぜ起きたのか、その責任者は誰なのかということをはっきりさせることが一番大事だ。
この刑事裁判を全国に知らしめて傍聴席を満席にして、裁判の状況と現実を全国・全世界に発信していく、そのためにこの福島原発刑事訴訟支援団が昨年発足した。
今日も大勢の皆さんにおいでいただいたが、更に団結をして、何としてもあの3名を有罪にするよう裁判を勝ち取っていきたいので、これからもどうぞ宜しくお願い致します

●弁護団からの報告:河合弘之弁護士
「刑事訴訟で期待すること」
私たちの闘いは、総力戦だ。
一番大事なのは、日本中から原発をなくす「脱原発」の闘い。
それと同等に大事なのは、福島原発事故についての刑事責任の追及だ。
もう一つ大事なのが、福島原発事故被害者の救済だ。
この3つは相互に関連しあって、互いにそれ抜きでは考えていけないという闘いだ。
敵は非常に強大な原子力村だが、敵の力量を過大評価してはいけない、相手は張り子の虎だ。
私たちが追及しまくっていけば、プスッと破けてしまう張り子なのだ。
私たちの闘いは着々と進んでいると自信を持って確信していいと思う。
私たちの闘いは彼らに重圧をかけ、彼らの自壊を招き寄せている。
彼らがなぜ再稼働したいかというと、目の前の、今だけ、金だけ、自分だけの気持ちで必死に縋り付いているだけだ。
世界の潮流は原発を止めて、自然エネルギーに移行する大きな流れになっている。
世界銀行は、原発には融資も出資もしないと言っている。
私たちの脱原発の闘いは、世界の大きな潮流に乗った闘いである。
脱原発は究極の闘いであり正義の闘いを最後まで闘って、日本中の原発を全部なくして、福島原発事故の刑事責任をきっちりと取らせて、放射能被害に苦しむ人、故郷を追われた人たちを最後の一人まで救いきる闘いをこれからも続けていこうではありませんか。
●弁護団からの報告:海渡雄一弁護士
「東電役員の刑事責任追及の現段階と今後の課題」
最近色々な取材を受けるが、経済関係のメディアの記者から聞くのは電力会社が再稼働を止めたがっているという情報で、原発がないと困ると思っているのは関西電力と九州電力だけではないかということだ。
東芝の問題からは、誰が見ても原子力はダメだとわかるから、潮目が変わったと言える。
裁判所でも必死になって準備をして数かぎりない打ち合わせを重ね、証拠なども選定されている。
それに対して東電が認否を徹底的にサボろうとしている。
そのために期日が決められていない。
とにかく東電はこの裁判を恐れているのだろう。
検察が起訴したのは、勝俣、武藤、武黒の3人。
起訴の議決は政府事故調と政府検察に流れてきた構図を一変させたという事、これがポイントだ。
2007年12月に東電は推本(地震調査研究推進本部)の長期計画を取り入れ、福島沖で津波・地震が起きるということを前提に対処することにした。
2008年7月の武藤さんの指示で津波対策はやらないとした。
これは迷った末にやらないことにしたのではなくて、一旦決まってやると決めた方針を覆したことだ。
そこがポイント。
95年の阪神淡路震災の直後に大きな地震・津波が襲うのではないかということで各省庁がきちんと議論してかなりいい想定指示が出ていた。
2000年の段階で福島の第1原発が津波に非常に弱いことが示されている。
2002年の7月31日に推本の地震調査委員会から長期構想が発表されて福島沖合でマグニチュード8,2という想定が出された。
2002年に当時役員であった被告らは、10mを超える津波が襲う危険性を、この時点で予測できた。
当時土木学会の津波評価技術は福島沖合で大津波は起きない前提だったが、土木学会に参加している地震学者の中でも推本の長期評価の方針に大きく頷いている人もいて、2004年にスマトラ沖地震でマグニチュード9,4だったが日本近海でもそれくらいの地震が起きるのではないかということは、言われていた。
津波対策の先送りの背景には耐震バックチェックの大幅先送りが隠されている。
2006年9月、地震に対する最新設計の見直しが行われた。
極めて稀だが発生する可能性もあると想定し、大きな地震は1000年に一度はあるとされた。
耐震バックチェックは既設の原発の運転を認めながら、新指針への移行を認めている仕組みで、これが非常に良くなかったが、しかし保安院は2006年の新指針ができた段階では津波対策を重視していた。
津波対策をきちんと実施させないと、保安院自体の責任になるかもしれないという緊張感を持っていた。
2009年には耐震バックチェックは完了の予定だった。
これがキチンとされていたら、今回の津波による事故は避けられた可能性はある。
2007年には中越沖地震が起き、それがバックチェックの引き伸ばしの材料になった。
新潟県の柏崎刈羽は止めたが、他は止めずに動かしながらバックチェックを進めていた。
2007年12月には東電も耐震チェックでバックチェックを取り入れる方針で、3月18日に東電設計から試算が納品された。
この試算の意味は実際に対策を採るときに防潮堤の高さをどうしたらいいかとかを決めるために行われた、まさに対策の総体を示している。
2008年3月東電の地震対策の打ち合わせ、中間報告書の提出に伴うプレス発表の想定問答報告で、推本の想定で津波15,7mになることを予測し、原子炉建屋を津波から守るために敷地上に防潮堤を設置する場合は、10mの敷地上に10mの防潮堤を設置する必要があるとした。
おそらくこのときに、予算等も出された。
ところがその一ヶ月後に、武藤さんは何もしないことを決めてしまう。
2008年9月10日、対策先送りした2ヶ月後のメモがでてきて、耐震バックチェック説明会のメモだが、ここには津波に対する検討情報は極秘情報のため資料は回収し資料には記載しないとされた。
ただし現場の土木学会では、地震・津波に対する学識経験者のこれまでの見解、および推本の知見を完全に否定することは難しいとある。
対策は役員会で否定されたが、現場の土木学会では否定できないことの内部告発だ。
東電設計にどの程度の防潮堤を作らせるか、土木調査グループはかなりの決意をもって会議に望んでいた。
事故の原因が隠された最大の隠蔽事件で、これは検察審査会、株主総会で明らかにされてきた。
2011年の夏までには検察庁の努力で政府事故調と検察庁で共有していたにもかかわらず、今日迄巧妙に隠されていた。
政府事故調の一部は出されていたが、他は隠されてパッチワークの絵のようだった。
が、これらの重要な証拠となる事実が、ようやく我々の努力で発掘された。
3月中には第1回期日が決まるだろう。

●原発事故被害者スピーチ:大賀あや子さん(大熊町から新潟に避難)
家、仕事、馴染んだ生活、人のつながり、ほとんどすべてを失った。
原発事故から5年10ヶ月、避難先7ヶ所を経て現在は新潟の借家にいる。
毎月11日には弔いに行けなかった津波被災地の友人知人達やこれまでに故郷に帰れずに亡くなったすべての方々、被ばくを受けたすべての方々を思い、終わらない被害を考える。
今でも余震が続くたびに、身構えてしまう。
日常生活の振動や騒音も不安になったまま、心身の不安生活を抱えてきた。
賠償金などによる格差が生じていることがとても辛く、放射能や被ばくを話題にできない福島のみんなが心配。
帰還困難区域の自宅には、一度も立ち入りしていない。
会津若松に3年間暮らしていた時、もう嫌だ、大熊に帰って野たれ死にしたいと思ったが、その時これは危ない、折れてしまうと思って新潟に再避難した。
避難指示解除で空間線量だけが話題になり、土壌汚染は無視されている。
●うのさえこさん(福島市から京都に避難)
原発事故が起き命の危険が迫っていても、私たちが命を守るために必要な情報は手に入れることが困難なまま、原発事故は続いているし、事故の責任も原因究明も進んでいないままに再稼動が進められていることに深い憤りを感じている。
会津を通り新潟を通り新潟に行く途中で1号機の爆発を知り、実家のある山口県に避難、九州に避難、2013年に京都に避難した。
この6年の間にたくさんの避難者に会ってきた。
家族を壊されたり、生まれた子供に病気があったり、大変な悲しみと喪失感と不安を感じながら、それぞれの人がどれだけ大変な思いをしながらきたか…、お互いに支え合っていきたい。
この刑事裁判が未来の人たちにとって、これからの希望ある命を守る社会に向けての財産となるものを残せるようにと願っています。
共謀罪が成立するとこうした集会も困難になっていくかもしれないが、どんな困難があっても、大事なことを淡々と続けていきましょう。
●千葉親子さん(会津坂下町)
原発から西へ110kmの会津は白銀の世界で、地吹雪が舞う。
6年前、温暖な浜通りから避難してきた人たちは、どんなに不安な思いだったかと思う。あれから6度目の冬を迎えた。
この間原発を取り巻く状況は時間の経過と共に複雑多岐にわたり、汚染水の問題や放射性廃棄物の問題、被ばく労働の問題、甲状腺癌の問題など深刻な状態が続いている。
国は復興の名の下に居住できる放射線量の値を20ミリシーベルトといって、この3月に避難指示を解除しようとしている。
一般許容被ばく線量は年1ミリシーベルトなのに、なぜ福島県民だけが20ミリシーベルトの線量が可となるのか。
政府は避難指示を20ミリシーベルトで決めたから、20ミリシーベルト以下になったら解除すると説明する
安倍首相は原発の汚染水はアンダーコントロールと言って、全世界に嘘をついてオリンピックを招致した。
過酷な事故を起こしても福島県はもう避難地域はなくなり、普通に暮らしている、世界の皆さん、公衆衛生被ばくは20ミリシーベルトでも大丈夫と、オリンピックを利用して世界の基準を変えてしまう大きな力が蠢いている気配を感じる。
福島の20ミリシーベルトが容認されれば、再稼動も事故時の避難や補償も大きく変わってくるだろう。
被ばく線量を20倍も高くすることは、福島だけの問題ではない。
東日本大震災の関連自殺が、被災3県の中で福島県は全体の81,6パーセントとその割合は増え続けている。
原発事故による避難の長期化によって生活の基盤が定まらない曖昧な日々の中で、生きる喜び、感動が一つずつ奪われ続けているのだ。
自動車事故でも医療事故でも事故を起こした者は責任を問われ、事故の原因を徹底して調査するのに、原発事故は未だにその責任の所在も原因も明確にされていない。
この曖昧さの中にあることが、被災者を疲弊させてきている。
曖昧な中で苦しんでいるのは、甲状腺ガンの当事者や家族の方も同じだ。
183人がガン、または悪性腫瘍と発表された。
2011年から始まった県民健康調査の1巡目で甲状腺ガンまたはガンの疑いと診断された子どもは115人、2014年からの2巡目では59人が新たに診断され、増加傾向に歯止めがかからない状況だ。
県民健康調査検討委員会で星座長は、被ばく線量はチェルノブイリより少ない、被ばくから発ガンまでの期間が1年から4年と短く、地域別に差がないので放射能の影響からとは考えにくいと説明を繰り返している。
福島県ではこれらの意見を裏付けに、検査室長や検査規定などが提案されている。
甲状腺ガンと診断され手術を余儀なくされた患者や親は、再発や転移が心配だと不安を抱えている。
また、親たちは、うちの子は県民健康調査で見つけてもらったので手遅れにならずに済んだ、検査の縮小などすべきではない、検査の拡大と期間の延長が大事だと思うと言っている。
ガンの発症が過剰診断というのなら、過剰診断されたのは誰なのかはっきり調べて欲しい。我が子であれば、もう甲状腺は取られたし元には戻らないと訴えている。
子どもがガンを発症すると生命保険に加入できなくなったり、進学や就職など社会的な弊害を受けることになり、大人のガンと違うのは治療の期間が長くなり病気と向き合いながら成長するということだ。
昨年9月に「3・11甲状腺癌子ども基金手のひらサポート」が設立された。
福島原発事故以降、甲状腺ガンと診断された方と家族への経済的支援を目的としている。一人100,000円を支給する。
転移や再転移などでアイソトープ治療が必要な人には、100,000円追加支給となる。
1都14県を対象にし、12月に第1回支給があり福島県内で26名県外9名の35名に支給が決まったが、そのうち再転移の重症患者でアイソトープの治療が必要な方が3名、そのいずれも県外者だ。
福島県のように公的に幅広い甲状腺ガン検査が行われていない地域では、自覚症状が出てから病院に行く方がほとんどで、進行した段階で発見されているからではないかと推測する。
ガン治療の基本は早期発見、早期治療が不可欠だ。
この現象を見ただけで、福島県の検査縮小などあってはならないし、県外の検査も拡大していく重要性を実感する。
12月23日、福島県立医科大学付属病院みらい棟に9床のアイソトープ治療施設が新設された。
福島県には他に厚生病院に1床があり、県内10床となり日本で最大級のアイソトープ施設を備えた県になる。
アイソトープ治療とは、高濃度の放射性ヨウ素を含んだカプセルを服用させ、あえて内部被曝をさせ、器官やリンパに転移しているガンを内部から破壊させる治療だ。
服用したヨウ素が体から排出する5日から1週間は、隔離個室で誰とも接触することができず、食べ物の残渣や排泄物も放射性廃棄物として処理される。
10代、20代の子どもが放射性ヨウ素の被曝にじっと耐えて、隔離病室で治療している姿を想像した時とても悲しく切ない気持ちになった。
誰が一体こんな目にあわせているのか!子ども達の心と体に癒しがたい傷を負わせた責任は誰が!と叫びたい気持ちだ。
子ども甲状腺ガンの治療で、県立医科大と協定を結んでいない医療機関で治療を受けている人は県のサポート事業の助成もなく、ガンの発症人数にもカウントされていない。
こんな理不尽なことが行われていいのか!
隠れ患者がどれだけいるのか、表に出ない患者数に大きな警戒心を持っている。
農林水産への精神的苦痛の賠償問題は、すべて行き着くところは健康被害があるからだ。
自然災害にはない放射能という健康に関わる問題が根幹になっていることを、忘れてはならない。
現場検証もなく、人災として処罰対象の東京電力福島第一原発事故を、想定外、自然災害と逃げ切ることは許されない。
司法で真相を明らかにし、被告人の罪が鎚に打たれ、事故責任を明確にすることで被災者は、今ある苦しみから一歩進むことができる。
しっかりと原発事故の刑事責任を問う裁判を支援していきたいと思う。
●賛同人スピーチ:鎌仲ひとみさん
いかにこれ以上子ども達に被ばくをさせないで守っていくのか。
被ばくがあるからこそ原発の問題がある。
福島原発事故の被害がどれほどなのか、しっかりと理解されていないのではないか。
『小さき声のカノン』に出てくる福島のお母さん達は、自分や子どもが被ばくすることがあるということを一切想像したこともなかったし、被ばくのことも判らないままに被ばくしてしまった。
この映画でベラルーシを取材した。
チェルノブイリ原発事故から30年、未だに5万人の子ども達を保養させている。
国内で5万人、それ以外に5万人が海外に出て保養する。
では日本はというと、「もう福島は大丈夫でしょう。なんで今さら福島から避難しているの?」と言い、まして、なぜ子ども達を保養させないといけないかを判っていない。
これまで日本中で200くらいの市民グループが、自分たちの自前や寄付を募って保養活動をしてきたが、保養できた子どもの数は8,000人くらいと言われている。
福島県内だけでも36万人の子どもがいて、汚染は県境を越えて北関東や宮城県にも及んでいる。
甲状腺ガンが転移した子どもは県外の子どもたちで、福島県内ですら甲状腺ガンの検査を縮小していこうとしているが、こうした中で二つのことを強く懸念している。
これからどんどん子供達の甲状腺ガンが増えていくだろうが、見つかった段階で既に転移している状態になっているのではないか、だから検査を縮小してはいけないし拡大していかなければいけないということが、一つ大きな課題としてある。
もう一つは、子どもたちが保養しないで現地に留まるとすると、多様な病気が出てくる。
それはチェルノブイリを見れば明らかで、しかもそれが放射能のせいとは認めてもらえないという二次被害。
原発事故の多様で大きな被害の広がりの中で事故の過小評価が行われ、ずるずると誰も責任を取らないで流れていく日本の社会の中で、この訴訟は本当に大事だと思っている。
きちんと個人を呼び出して、そこで責任を取らせるということがなければ、誰も責任を取らず、責任を取らなくてもいいというモラルの破壊が、そこから始まっている。
この訴訟は、日本の社会の中で崩れてしまったモラルを取り戻す、非常に重要な取り組みだと思っている。
マスコミが伝えるべきことを伝えない現状の中で、被ばく問題を非常に重要な原発の問題として考えていってほしい。

●賛同人スピーチ:神田香織さん
本来なら「講釈師、見てきたような嘘をつき」というが、嘘をつくのは嘘つきの安倍さんの特許になった。
本当に恥ずかしいが、私たちは「デンデン」と「ミゾウユウ」の人たちにこの国を任せてしまったわけだ。
『福島の祈り』という講談の中で、「歴史というものは人々の経験の伝承である。それは物語とも言える。物語には始まりがあり、そして終わりがある。これが伝えられて歴史となる。福島で起こった事件は3・11から始まったわけではなく、それ以前から原因がありました。どこまで遡ればいいのだろうか、果てしない歴史へのまなざし…」というようなことを語っている。
「どこまで遡ったらいいのだろうか」がテーマとなって、勉強を始めた。
行き着いたところが明治維新だ。
最近『明治維新という過ち』という本が売れているが、買って読んだ。
福島原発事故のことも怒りを持って書いている。
ぜひ読んで欲しい。
*香織さんの語りは、こんな風に文字にしては伝わらないのですが、「とにかく声を大にして、怒りをバネにして、こんな状況を変えていきましょう」と結びました。

●閉会の挨拶:支援団副団長 武藤類子さん
お忙しい中を参加下さって、ありがとうございました。
原発事故から6年、つい先日福島市内の復興住宅で原発事故被災者が孤独死をしているのが見つかった。
つい昨年の暮れ、高校生が第1原発の収束作業を見学に行った。
18歳以下は働けない場所だ。
事故の被害は時間とともに新たな悲劇を生んでいく。
福島県の自殺者は急激に増加の一途をたどっている。
被害者の切り捨てが始まっている。
原発が一度事故をこしたら何百年もの間、土や海や山の木々は汚染され、人々の人権は奪われる。
危険と諦めと分断を強要され、生きる尊厳を傷つけられる。
こんな悲惨な事故は福島で終わりにしなければならない。
この原発社会を反省し、新しいいのちの時代を作らなければならない。
春の訪れと共にきっと、私たちの待ち望んだ原発事故の責任を問う裁判が始まると思う。皆さんと次にお会いするときは、東京地検の初公判の日かもしれません。
みんなでしっかりとこの裁判を見届け、力を合わせ頑張りましょう。
今、この支援団は3,300人の方がお名前を連ねてくださっています。
発足から1年経って、今年は新たな会費をお願いする時期がやってきたので、よろしくお願いします。
お友達やご家族に、この支援団を進めてください。
どうかよろしくお願い致します。
今日は本当にありがとうございました。
まだ寒いですから、どうぞ風邪をひかれないようお気をつけください。
そしてこの裁判を最後まで見届けていけるように、皆さん生き延びていきましょう。

*こうして「福島原発刑事訴訟支援団」結成1周年集会は終えました。
類子さんの最後の挨拶にもありましたが、どうぞ支援団に加わってください。
そしてこの裁判で原発事故の責任を明らかにさせていくよう、世論を大きくしていきましょう。
支援団入会申込書を添付します。

moushikomi

◎毎月3日、「アベ政治を許さない!」
2月3日節分の日、国会前には60名ほどが集まりました。
澤地久枝さん、そしていつもお馴染みの仲間たち。
木内みどりさんも駆けつけました。
「アベ政治を許さない!」「アベは外!」
スローガンを掲げました。                   

いちえ


2017年1月28日号「お知らせ」

◎お知らせ(と言うよりも、ご協力のお願いです)
友人で写真家の宇井眞紀子さんが、アイヌ100組のポートレートの写真集を出版します。
出版費用捻出のために readyfor で協力を呼びかけ基金を募り、出版の運びとなったのです。
私も募金で応援しました。
アイヌのもとに20年以上にわたって通い続け、その暮らしや文化に畏敬の念をもって接してきた宇井さんのこれまでの写真集に惹かれてきたので、今度の出版も心待ちにしていたからです。
今度の写真集は100人のアイヌがそれぞれに撮影場所や服装など条件を宇井さんに提示して被写体になったと言います。
そして撮影後に宇井さんは、100人から「いま一番言いたいこと」を聞き、写真集にはその言葉も載ります。
宇井さんはさらに次のステップとして、取材に応じてくれたアイヌの人たちに 写真集を届けたいと願っています。
宇井さんの願いに私も共感します。
そのための費用を readyfor で募っています。
どうぞ、皆さんのご支援をお願いいたします。
下記をご覧ください。
https://readyfor.jp(「宇井眞紀子」か「日本全国100箇所で撮影したアイヌ100組のポートレートを写真集に」で検索してください)

いちえ


2017年1月28日号「1月25、26日 南相馬〜浪江〜三春〜二本松」

24日は小高の双葉屋旅館に泊まり、25日は浪江、双葉、大熊、都路、船引と国道288号線で三春へ行き、武藤類子さんと待ち合わせたお蕎麦屋さんで一緒にお昼を食べた後で類子さんの「燦(きらら)」を訪ねました。
小高から三春へ行くには288号線(通称「ニイパッパ」よりも114号線から川房で地方道に入って行くほうが近いのですが、このルートは途中に帰還困難区域があるために通行が禁じられているのです。
類子さんとは集会でしばしば顔を合わせ、近況のやりとりなど短い会話を交わすことはあっても、ゆっくり話す時間がなかなか取れずにいました。
昨年5月には南相馬の仮設住宅を一緒に訪ねたこともありましたが、この日はそれ以来の久しぶりのことでした。
美味しいコーヒーをいただきながら暫しの歓談と情報交換後、二本松の東和の「遊雲の里」(次回トークの会ゲストスピーカー菅野(スゲノ)瑞穂さん家族のやっている民宿)へ向かいました。

◎浪江町
小高の双葉屋旅館では、前夜の宿泊客は3組。
私達の他はJRの作業員の方達5人と、NPO関係らしい一組でした。
以前も双葉屋旅館でJRの作業員の方達と同宿になったことがありましたが、その時は小高駅=浪江駅間の作業従事者でした。
この区間はもうあらかた済んだのでしょうか、今回の方達はさらに先の区間の作業に当たっているようでした。

浪江では、今野さんの自宅を訪ねました。
今野さんの家は、街の外縁に位置する上ノ原での住宅地の高台にありました。
「どうぞ」と促されて入った部屋の中はあの日、2011年3月11日で時間は止まってしまったままでした。
一階の居間の床には3月10日の新聞が読みさしたまま置かれ、掛け時計の針は2時46分で止まっていました。
坊やのおもちゃも、遊んでいた時のそのままの状態でありました。
坊やがマジックペンでダンボールに書いていたのは、くねった二本の線で、それは道を描いていたのでしょう、傍にはミニカーもありました。
そこで断ち切られてしまった時間が悔しくて無念で、涙をこらえながら私は、見たものを胸にしっかりと収めておこうと思いました。
新しい春が来れば6年生になる坊やが、健やかにのびのびと育って欲しいと、ひたすらに祈ります。
2階の窓からは太平洋が望め、目の下には小さな林と、今は表土を剥いで砂利を被せてある辺りは湿地でカエルもいたといいます。
お隣の家にも近隣の家にも同年代の子どもがいて、子どもたちも大人たちも親しく付き合っていたことを聞けば、悔しさはなお増します。
芽吹きを、若葉青葉を、花が咲くのを楽しみに植えた庭木もみんな除染のために切られ、砂利が敷き詰められた庭の片隅で、アカメガシの苗木が1本ひょっこりと顔を出していました。
生垣だったアカメガシは伐採されて切り株だけが並んでいるのですが、刈られた幹の根方に枝芽が付いていたのでしょうか。
また、同じ根から出た何本かの枝がそれぞれ気ままな方向に地を這うように延びているのはしっかりとトゲをつけたバラの枝でした。
“いのち“を繋ぐことへ、想いを馳せました。

◎凍らない“いのち”
「ここは○○さんの家。この焼き鳥屋はとても繁盛していた店。先輩の家はここでそっちは同級生がいたところ」などなどと、今野さんから「神隠しにあった」街並みを説明されながら行く途中に、小さな池を見ました。
凍った池でした。
「なぜ池の中にあんな風に石を置いてあるのだろう?」と眺めながら過ぎたのです。
同じ大きさの石が10個ばかり、池の中ほどに付かず離れず無造作に置いてあったのです。
そして請戸に入りました。
請戸は防潮堤建設工事が進められていて港には近づけませんでしたが、海寄りの道を行くと、小さな池に白鳥が2羽いたのです。
2羽のオオハクチョウは、池が凍って動けずにまるで置物のようにいたのです。
可哀想にと驚いて見ていると、1羽が長い首を回したので生きていることを知ってホッとしました。
そして思い当たったのでした。
さっきの池で見たのは石ではなくて、鴨だったのです。
白鳥も鴨も暖かい羽毛をまとっているし、お日様が当たって氷の表面が溶けたら、きっと抜け出せるでしょう。
いのちの根源は、人の営みよりもはるかに大きな智慧を秘めているのではないだろうかとも思いました。

◎三春の滝桜
類子さんとの待ち合わせ場所は、三春の蕎麦屋「門前」。
ほんの数分の時間差で互いに店に着きました。
美味しくお蕎麦を食べながらの会話の中で、私には三春は初めての場所と知って類子さんと今野さんは、滝桜も見に行こうと勧めてくれました。
もちろん異論はありません。
ずっと前から是非、一目見たい桜樹でした。
花の季節でないことは百も承知、でも樹齢を重ねた古木の、その立ち姿を見てみたい!
もしかしたら枝垂れた枝々が雪を被っているかもしれないと、淡い期待もありました。

滝桜は雪を載せてはいませんでしたが、芽吹きの前の枝を大きく傘に広げて枯れた姿で、雪野の中に在りました。
幾本もの添え木に守られながら、太くゴツゴツの幹は威厳ある姿で立っていました。
太い幹の一部が洞のように抉れて、そこにスズメバチの巣が一つ、古木の顔のようにありました。
花の季節は人がいっぱいで花見だか人見だか…となるそうですが、この日は私たち3人だけのための「樹齢1,000年の古木貸切り鑑賞日」でした。
類子さんが言いました。
「今は樹齢1,000年って言われているけれど、私の母が三春に嫁に来た時は樹齢700年って言われていたそうなの」
「それじゃぁ類子さんのお母さん、200歳以上になっちゃう」と、笑いあったのでした。
そんな冗談を言いながらも、往にし方を生きた古木の姿に、やはり“いのち”の尊厳を思うのでした。

◎コミュタン福島
類子さんの家に行く途中で、「コミュタン福島」を見て行きました。
ここは「福島県環境創造センター交流館」という施設です。
「放射線や環境問題を身近な視点から理解し、環境の回復と創造への意識を高めていただくための施設」ということで、入館無料です。
時間がないので外観を見ただけでしたが、なんともバカでかい建物でした。
建設費や維持費に一体どれくらいかかっているのだろう?と、まず思ったのでした。
家族が離散して母子避難の人も少なくない現状ですが、それらの人たちや仮設住宅退去後の暮らしを思い悩む高齢者たちへの支援がなおざりにされたまま、こうした施設を多額の費用で作リ運営していくことに、大いに疑問を覚えます。
児童・生徒たちの校外学習の場としても活用されているようですが、例えば「放射線学習」として「自然界には昔から放射線が存在していて身の回りには放射線を出しているものが幾つもある。お茶とかコーヒーなど、身近なものの放射線を測ってみよう」とか「放射線が通った跡を見てみよう」などが内容になっていて、IAEAとの協力機関だそうです。
類子さんにここに連れて来てもらうまで私は、こんな施設ができていたことも、子どもたちが放射能に関してそんな学び方をしているなどということも、全く知らずにいました。
「放射線の学習」というのなら、「原発が事故を起こして、自然界には存在しない放射能が拡散したらどうなるか」や「放射能を兵器にする危険性」などの学習内容がないのは、全く解せないことです。

◎「燦」
原発事故後、幾度となく開かれてきた脱・反原発集会で、折々に類子さんの発言を聞いてきました。
そのたびに大きく胸を揺すぶられ、敬意と賛意を抱いてきました。
類子さんが書いた『どんぐりの森から〜原発のない世界を求めて〜』は、出版後すぐに求めて読んでいました。
そしてなお一層、生き方と思想に惹かれてきました。
「燦」は、類子さんが自らの手で雑木山を開墾し、小さな家が建つだけの平地を造成して家を建て、そこで始めた里山のカフェです。
類子さんは持ち山で拾ったどんぐりの皮をむきアク出しをして、どんぐりを食品に変え、どんぐりカレーやどんぐり味噌、どんぐり豆腐などを作り、客人に供してもいたのでしょう。
今、私もそこに座っています。
すると放射能が降った日を境に、ここでの暮らしが大きく変わってしまったことが、我が事として感じられるのでした。
福島原発告訴団の団長として、また脱・反原発の旗手としての活動に、日夜忙しく過ごされていることだろうと想いながら、フッと心を遊ばせて寛げる時が類子さんにたくさんありますようにと思ったのでした。

◎二本松東和「遊雲の里ファーム」
次回トークの会のゲストスピーカー、菅野瑞穂さんを訪ねました。
瑞穂さん、お父さんの正寿(せいじ)さん、お母さんのまゆみさんには東京でお会いしたことがありましたし、瑞穂さんの話、正寿さんの話を聞いたことも一度ならずありました。
お二人の話からも、また正寿さんや有機農業の仲間たちが書き、正寿さんが編集した本『放射能に克つ農の営み ふくしまから希望の復興へ』(菅野正寿・長谷川浩:編著/コモンズ刊)も読んで、東和は有機農業の里だと知ってはいました。
でも行くのは初めてでした。
山や川の緩やかな湾曲に沿うように続く道、雑木の山と山の間には段々になったいずれも小さな田や畑。
雪をかぶったその景色は自然の懐に包まれた世界のようで、直線を描いてひたすら上に伸びるビルディングと、広くまっすぐな道路ばかりを見慣れている目には、優しく懐かしい風景でした。

この日は次回のトークの会の打ち合わせに行ったのですが、瑞穂さんから話を聞きながら、これを多くの人に聞いて欲しい!と改めて思いました。
菅野さんや、有機農法のお仲間たちの畑で採れた野菜、自然食のお仲間たちの
作った加工食品、美味しい夕食をいただきながらも、また食後にも瑞穂さんや
正寿さん、まゆみさんとの話は尽きませんでした。
食堂の入り口近くの書棚には、私にはとても興味深い本が何冊も並でいました。
正寿さんはそこから1冊を取り出してきて、「この本知っていますか?」と私に見せました。
『村の女は眠れない』草野比佐男さんの詩集です。
「はい、知っています。持っていて読んでいます」と答えた私に、正寿さんは言いました。
「原発事故で福島は大きな犠牲を背負ってしまいましたが、原発事故だけじゃないです。
福島や東北からの出稼ぎで東京は道路やビルが出来、東京オリンピックも開かれた。
大勢の人口を抱えた都会に食料も供給して、都会の発展を支えてきたし、特に福島は電力も送ってきた。
東京の、日本の発展は福島の、東北の犠牲の上に成り立っているんです」
本当に正寿さんの言う通りだと思います。
2011年から繁く福島に通うようになって私は、そのことを頭ではなく足元から感じるようになりました。

◎「鬼になります」
26日東京へ戻る前に、今野さんが鬼婆伝説の安達ヶ原に連れて行ってくれました。
「行ったことがありますか?」と聞かれ、ないと答えると案内してくれたのでした。
馬場あき子さんの『鬼の研究』を興味深く読んでいましたし、東北には鬼の伝説が多々あることは知ってはいました。
そして、いや、だからこそ2011年9月に明治公園で開かれた「さよなら原発」集会での武藤類子さんのスピーチ「私たちは静かに怒りを燃やす、東北の鬼です」に、大きな衝撃と感動を覚えました。
その言葉は、真っ直ぐに強くグサリと私を射抜き、胸に住み着いています。
類子さんは、もちろん比喩として「鬼」を用いたのでしょうし、安達ヶ原の伝説と類子さんの言葉を繋ぐ要素はないのです。
にも関わらず私は、ここに来て類子さんの言った「私たちは静かに怒りを燃やす、東北の鬼です」が、これまでよりも更に更に更に胸に強く響く言葉になりました。
原発を許さない!再稼動を許さない!命を守れ!
私も、鬼になります。                        

いちえ


2017年1月25日号「1月24日南相馬」

今朝発って、南相馬・鹿島の仮設住宅を回って、今夜は小高の双葉旅館さんに宿泊です。
今回は福島駅で今野寿美雄さんにピックアップして頂き、今野さんと一緒に動いています。
昨年10月にトークの会「福島の声を聞こう!」で、今野さんにお話しいただきました。
トークの会の参加費は毎回ゲストスピーカーの方へ、福島への寄金としてお渡ししています。
今野さんは、そのお金で飯坂小学校の児童たち全員に文房具を買われたのです。
子どもたちにその文房具を渡すのに私を誘って下さって、昨年11月に飯坂小学校へ私もご一緒したのでした。
その時に私は、やはり子どもたち全員に渡るようにと、南相馬の仮設住宅の方達が作った手芸品をお届けしたのでした。
昨年末に飯坂小学校の石川逸子校長先生から私宛に、子どもたちからのお礼の手紙が届きました。
また教頭先生から今野さんに、仮設住宅の方達への子どもたちのお礼の手紙が託されたのでした。
そして今野さんとご一緒にその手紙を届けに仮設住宅を訪問するのも、目的の一つだったのです。

◎寺内塚合仮設住宅
談話室を訪ねると、菅野さん、天野さん、山田さんが待っていてくれて、今日は菅野さんはデイサービスの日なのに、そちらを休んで待っていてくれたのでした。
テーブルの上にはおにぎり、「アンコウの肝和え」と野菜の炒め煮、漬け物が会って、お昼を用意して待っていてくれたのでした。
「アンコウの肝和え、食べたことある?」と聞かれました。
話に聞いたことはありましたが、私はアンコウそのものを食べたことさえありません。
東京に居ては魚屋さんでもアンコウは売っていない食材で、お料理屋さんにでも行かない限り食べられないものです。
切り干し大根が入っていて、とても美味しく頂きました。
「美味しい、美味しい」と言って頂きながら私が「アンコウは東京では売っていないし、私が知っているのはアンコウという魚はまな板に乗せて切ることは出来ず、吊るして着るということを話に聞いてしっているだけ」と言うと、菅野さんは身ぶり手振りを交えて「吊るし切りって言ってな」と話してくれました。
こうした食べものからもまた私は、ここに生きてきた人たちを知るのでした。
そのうちに紺野さんと井口さんも来て、また賑やかになりました。

飯坂小学校の子どもたち全員集合の写真子どもたちからの手紙を、みんなじっくり眺め読みして言いました。
「みんな時が上手だねぇ」「ストラップを喜んでくれたの?嬉しいねぇ」
2年生の一人の女の子の手紙の書き出しには「浜の人たちへ」とありました。
福島県は太平洋岸の浜通り、阿武隈山地の中通り、そして会津と呼び分けされていますが、中通りの飯坂の子どもから、浜通のおばあちゃんたちへの手紙でした。
仮設のみなさん、孫はもう高校生や社会人になっている高齢者です。
小学生たちの写真や手紙は、とても嬉しい贈り物だったと思います。

菅野さんは息子が鹿島に家を建てて、既にそこで一緒に暮らしています。
山田さんは小高の飯崎の自宅を直してそこに戻る予定ですが、大工さんが忙しくていつ直してもらえるかまだ判らないと言います。
天野さんは娘が原町に建てる家に一緒に暮らすことになるのですが、以前からすんなりそうと自分を納得させられず、気持ちが揺れているのです。
天野さんに「踏ん切りはついたの?」と聞くと「いんにゃ、踏ん切りはつかねぇ」と。
家族間に諍いがあった訳ではなくとも、離れた暮らしていた間に齟齬は生じることはあるのです。
離れていた時間が長くなるほど、些細な齟齬が大きくなってもいくのです。
こんな事って、本当に悔しいです。
「原発さえなければ」と、また私は思います。

◎小池第3
ヨシ子さん、ハルイさん、ゆりちゃん、星見さんが居て、賑やかに迎えてくれました。
そのうちに佐藤さんや志賀さんも来て、ますます賑やか。
でも実際ここは、もうだいぶ人が抜けています。
だからなおのこと、こうして集会所に集まるのでしょう。
ヨシ子さんはすぐ近くの集団移転地に建てた家で息子の家族と暮らしていますが、朝になるとここに通って来るのです。
仮設住宅のヨシ子さんの棟はもう他の人は誰も居ず、夜は一人では怖くて物騒だし寂しいし、家族と一緒の自宅が安心、安全です。
ハルイさんも原町に子どもたちと同居の家を新築しお正月はそこで過ごしたのですが、新しい家はなんだか落ち着かず頭が痛いと言って、まだ仮設に住まっています。
そしてやっぱりここでもみんなが言うのは、「自宅に戻っても新築した家や復興住宅に入っても、周りに知った人はいないし、寂しいねぇ。ここでお喋りしているのがいいねぇ」でした。
ハルイさんは「自宅は床暖房で暖かだけど、ここは寒いねぇ」と言いながらも、やっぱり周りに知った人がいない原町の新居よりも、仲間がいる仮設がいいのです。
6年という歳月を、また思います。
「仮設住宅」という仮住まいならば2年が限度でしょうに、その間にもっとみんなが一緒に暮らせる集団移住環境を整えられればよかったでしょうに、政府の無策が被災者になお辛い目を合わせているのだと思います。

ここでも子どもたちの写真と手紙をみなさんに渡しました。
写真の中には「ぶさこちゃん」を抱いている子どももいて、それを見たゆりちゃんやヨシ子さんは「ああ、こうして貰ってくれる人がいるんなら、まだ作っててもいいんですね」と言うのでした。
ハルイさんとヨシ子さんは鶏の縫いぐるみをたくさん作っていて、それを私はまた預かったのでした。
次回のトークの会でご披露します。
とっても愛嬌のある元気な鶏たちです。

◎次回トークの会
次回のトークの会は2月24日(金)ですが、前回お知らせした時のチラシには24日(火)と間違って記載していました。
改めてチラシを添付します。
どうぞ、みなさんのご参加をお待ちしています。

いちえ

トークの会vol.22


2017年1月21日号 1月19日「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」報告

1月19日、東京地裁で「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」の第6回口頭弁論が開廷されました。
いつもは地裁の前でアピール行動後に入廷して、口頭弁論終了後に報告集会となっていましたが、今回は開廷時刻が15:30だったので、閉廷後の報告集会ではなく開廷前に事前集会が持たれました。
南相馬から来る原告団は、バスで5時間近くかけて来ています。
原告団の方達の帰宅時間を鑑みてのことでした。
事前集会も、法廷でも、発言者はみなさん「です。ます調」で話されましたが、ここでは「だ。である調」で記します。

◎事前集会
●開会挨拶(支援の会代表:坂本建さん)
政府は20ミリシーベルを下回ったとして、強行的に避難指示解除をしている。
それを既成事実として作られてしまうと、後々全国・国民全体に広がっていく可能性が懸念される。
それに対して南相馬の方達は、未来にわたる子どもたちを守れと訴訟を提起している。
また居住地だけでなく、放射性物質が8,000ベクレルを下回ったものは建設資材として日本全国にばらまかれようとしている。
国は20ミリシーベルト根拠で避難指示解除をしているだけでなく、また自主避難者の住宅支援が3月で打ち切られる問題もある。
一企業、国の責任によって被ばくをさせられる状況から、子どもたちを守ろうと自主避難している人たちの住宅支援を打ち切ろうとしているが、これに対して、請願・陳情という形で支援者・避難者は共に行動しながら、それを撤回させようと動いている。
環境省は国民の生活を守るのをサボタージュしているし、学校では避難者へのいじめが起きているなど教育委員会も問題だ。
あちこちでこうした理不尽な事が起きているが、それら一つ一つに向き合ってそうした理不尽をなくしていく努力をしていきたい。
●原告団挨拶(菅野秀一さん:原告団長)
お集まりの支援者の方たち、そして今日の会場を確保してくれた福島瑞穂議員に、厚く御礼を申し上げます。
平成26年12月26日に区長会に説明会があり、12月31日に解除すると言われたが、説明会以前にNHKニュースで報道されていた。
解除にはまだ早いという我々に対して、「ここは協議の場ではなく、説明しに来たのだ」と言い、一方的な説明だった。
だが現在各市町村では、住民と話し合いながら進めているようで、これは我々がこの問題で強く抗議してきた事によるのではないかと考えられる。
原発事故から6年過ぎ、解除から2年ちょっと経ったが、若い人は戻らず若い世帯は出て行った。
家庭は崩壊し、家族も崩壊した。
老人会、婦人会、青年団、すべて崩壊した。
避難指示するときには、18歳未満の子どもが居る家庭は2ミリ、子どもがいなかったり、18歳未満がいない家庭は3,2ミリシーベルト以上と指定しながら、解除は20ミリとは、どういう事なのか?
説明できない事ではないか。
若者も居ずコミュニティは崩壊、路線バス閉鎖されたまま、幼稚園も閉鎖、小児科・産婦人科閉鎖。
市立病院・総合病院は若い人が帰ってこない、看護師も帰ってこないで半分閉鎖、老人福祉センターはガラ空きだ。
そうした中で、20ミリシーベルトを下回ったから避難指示解除は妥当なのか?
また、空間線量のみで土壌を測らないという測定の仕方もおかしい。
その空間線量も、庭先一ヶ所しか測らない。
国に対して質問しても納得いく返答はない。
子孫に禍根を残さないように、安心して暮らせるように、きちんとした国の政策を作らせていくために、我々もこの裁判で負ける訳にはいかないので、これからも皆さんのご支援をお願いし、頑張っていこうと思う。
●福島瑞穂さん挨拶
これから裁判を控えているので、弁護団の皆さんも原告のみなさんも緊張する状況ではないだろうか。
この裁判に、しっかり取り組んでいる皆さんに敬意を表します。
しつこく正論を言い続けていかないと、とんでもない事になると思うので、裁判を提起してしっかり戦っている皆さんを心から応援します。
(国際放射線防護委員会:ICRPの年間線量である)1ミリシーベルトは変わらないのに、なぜ20ミリシーベルトでいいのか?土壌はとても線量が高いのになぜ空間線量でいいのか?どうして子どもが20ミリシーベルトのところで暮らしていけるのか?本当におかしいと思っている。
被曝労働者の骨髄での労災基準は5ミリシーベルト以下なのに、なぜそれよりもはるかに高い20ミリシーベルトなのかと思う。
1ミリシーベルトを崩すのは本当に問題で、裁判が人の命や健康を守る。
そしてやっぱりこのような状況を引き起こした原発はどこにも要らないという事を、私は政治の場面でしっかりと取り組んでいきます。
自主避難者への住宅支援打ち切りに対しても、各地でみんながあらゆる取り組みでやっています。
あらゆる事をしっかりやっていきましょう。
●本日の裁判のポイント(弁護団弁護士:福田健治さん)
福島さんが言われたように裁判前は、今日の裁判の流れを考える事で頭がいっぱいだが、今までどんな流れで裁判が行われてきたか、また今日はどんな書面を準備しているかという事を、弁護団から説明したい。
原告から、現地がどのように汚染されているか、それによって現地に住んでいる人たちがどのような苦しい思いをしているかという立証、主張を弁護団は積み重ねてきた。
現地の空間線量をメッシュの地図にして提出したり、原告の住居の状況を放射線量、除染状況等について裁判所に提出している。
さらに原告からの聴き取りに基づいて作成した陳述書に基づいて、住民がどのような被害を受け、いま解除されるとなぜ困るのか、なぜ権利侵害なのかについての主張・立証を積み重ねている。
*そして、原告から今回提出されている3通の準備書面についての説明がありました。
これについては、後述する法廷で野原告の意見陳述をお読みください。
●特別報告(原告:小澤洋一さん)
小澤さんからはガラスバッジの問題点について、また政府発表の測定と実際の測定値に大きな差がある事、モニタリングポストの高止まりについてなど重要な報告が図を使って幾つか出されました。
ごめんなさい。ここで報告するには、私の能力が足りません。
また山本太郎議員が2016年11月18日に「東日本大震災復興特別委員会」に於いて行った質問と政府答弁についての動画が流されました。
これは「2016.11.18 東日本大震災復興特別委員会 You Tube」または「2016.11.18東日本大震災復興特別委員会(山本太郎の仕事)」Dolfini Workshop さんのブログでご覧になれますが、是非、是非ご覧いただきたい動画です。
●住宅供与の打ち切りに関して(支援の会事務局長:満田夏花さん)
福島県の調査では、今年の4月以降の避難先が決まっていない人が、7割以上となっている。
避難先の自治体によって様々な支援策が打ち出されてはいるが、自治体によりばらつきがあるし、避難者の実情に沿わない対応も少なくない。
読売新聞の調査では自主的避難者26,000人と報道され、実際にはもっと多いと思われるが、自主的避難者は子どもたちを守りたい一念で避難して母子避難者も多く、社会的に非常に辛い立場に置かれている場合が多い。
賠償も貰っていない人が多く、社会の不寛容な視線に晒されてもいる。
是非みなさんのお住まいの自治体議員に呼びかけて、この状況を変えていくようにしましょう。

◎「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」第6回口頭弁論
始めに裁判長から原告、被告双方の代理人に対して、この日の書面の確認がありました。
原告からは、①準備書面8、②準備書面9、③求釈明に対する回答の3通です。
被告は①第3準備書面、②第4準備書面の2通で、他に証拠書類は次回の期日前の準備打ち合わせに提出すると返答がありました。
●「原告準備書面8」の説明(原告本人:末永伊津夫さん)
土壌汚染密度の測定結果を基に作成したメッシュマップが、裁判官と被告に向けて提示されました。
「準備書面8」は、「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」が、事故当時に原告らの住所があった地域で行った調査の結果、1平方メートルあたり何ベクレルあるかという地域土壌メッシュマップについて考察するものだ。
プロジェクト立ち上げ当時、「将来のために今データを残すことが大切」と代表に言われ、当時行政区長だった私は責任の重さを感じて2012年10月の第1回放射線モニタリングから参加し、プロジェクトが行う土壌測定など身近で見ている。
 調査では地図上の地域の8行政区を南北に500m、東西に375mのブロックに分割し、各ブロックの中心に近い地点で、専用の採土器で5cm深さの土壌を採取した。
採取した土壌は持ち帰り、専用の測定器にセットして1kgあたりの土壌濃度を計測した。
これを1平方メートルあたりの土壌濃度に換算氏、数値ごとに色分けして、住宅地図に重ね合わせたものが、甲105号証の土壌メッシュマップだ。
土壌の採取と測定は、2015年12月から2016年⒐月にかけて行い、土壌密度の測定値は、放射性セシウム137と同134の合計で示している。
 土壌メッシュマップでは、放射性管理区域での放射性セシウムの基準とされる1平方メートルあたり4万ベクレルの表面汚染密度を下回る地点を青で示している。
また、「放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律施行規則1条13号」で、放射線施設内の人が常時立ち入る場所において人が触れる物の汚染の限度とされる「表面密度限度」である1平方メートルあたり40万ベクレル以上の地点は、赤と黒で表示されている。
ご覧のように、放射線管理区域相当を下回る青い地点は、全196地点のうち、たった2地点、つまりこの地域の99パーセントが放射線管理区域に該当する状況だ。
さらに、メッシュ地図上の赤と黒の地域は50地点で、全体の4分の1が管理区域内での汚染限度を超えているということだ。
 放射線管理区域に該当する場所は、飲食や睡眠、10時間以上の滞在が禁止されたり、肌の露出を防ぐ防具装備の着用が義務付けられたり、立ち入りにあたっては放射線障害の防止に関する教育や、健康診断が行われるなど、日常生活では考えられない厳しい制限が課されている。
国による特定避難勧奨地点の解除は、この地域の約99パーセントに放射線管理区域に相当する汚染が存在し、さらにそのうちの25パーセントには触れないようにと規制されるレベルの汚染が存在するような状況で強行された。
 放射線障害防止のため、放射線業務従事者の放射線防護では、シーベルトで表される線量とベクレルで表される汚染密度や汚染濃度が用いられている。
しかし、特定避難勧奨地点の指定や解除にあたっては、汚染密度は全く考慮されず空間線量だけで指定の有無が決められている。
なぜ、国は土壌の汚染密度を無視するのか?無視しても大丈夫という科学的根拠を示せるのか?
家の周りの除染だけで解決済みとするのだろうか?居住地の庭に汚染土壌が無くとも、生活圏は放射線管理区域相当だ。
放射線管理区域での滞在は1日10時間が限度とされるのは、それ以上の滞在が身体に悪影響を与えるからではないのか?
私たちは本当にこの地域で暮らしていけるのか、今でも不安な日々を過ごしている。
●「原告準備書面9」の説明(原告本人:藤原保正さん)
 準備書面9は原告45名の陳述書をもとに、特定避難勧奨地点の解除が手続き上の要件を欠いたまま行われたこと、指定されていない原告から見ても違法な解除であること、解除に対する私たちの想いを伝えるものだ。
 平成26年4月1日から大谷行政区の区長となり、特定避難勧奨地点の解除に抗議してきた。チェルノブイリ事故の影響なども勉強してきた。
1ミリシーベルトだった被ばく限度が、突然20ミリシーベルトになった。
原発作業員でも、これだけの被ばくをする人は事故前まではほとんどなかったし、健康管理もされている。
私たちはモルモットにされているのではないかと疑いを持っているし、私たちが安心して安全な生活をする権利が奪われている。
 他の行政区長と連携して、解除に反対する要望書を2回提出し福島県や南相馬市にも要望を行った。
当初は平成27年7月に解除と言われていたが、年度の途中で切るのはおかしいと申し入れ、市や議会からも要望書を出してもらえた。
国は文書での回答すらせず、東京まで抗議に行ってもろくに回答もできない若い職員しか対応しなかった。
10月の説明会もメディアは入れず公開しないというので、公開しないならボイコットすると言って、ようやくメディア取材が可能になった。
10月の説明会では、線量が高いのに解除はおかしいと申し入れたが、はっきりした回答は得られず、病気なってからでは遅いではないかと言うと、健康へのフォローをすると答えたので、具体的にどのようなフォローをするのか聞いたが、回答はなかった。
回答がないのは、都合の悪い証拠は残さないためではないか?役人が自分の身を守るためではないかと考えてしまう。
国の対応は、あまりにもいい加減だ。
12月の説明会の日の朝のニュースでは、すでに解除が決まったかのような報道がされ、私たちは「これでは説明会ではなく、報告会ではないか」と解除を撤回するよう怒りの声を上げた。
 このような国の対応では、原子力委員会の意見が要求している住民との協議が行われたとは到底言えないし、住民が納得する説明もしていない。
特定避難勧奨地点の解除には、説明会などの手続きに違法があることは明らかだ。
 次に、特定避難勧奨地点に指定された原告と、同じ地域に住む特定避難勧奨地点に指定されなかった原告を区別する理由がないことについて説明する。
 そもそも私たちが原発事故時に住んでいた地域は広く面的に汚染されたので、指定は地域ごとに行うべきだった。
原発事故前には、夏にはバーベキュー、秋には芋煮会など仲良く生活していた地域住民が、世帯ごとに分断され、子供や妊婦がいるかどうかで差別され、壁を一つ隔てているだけの隣の家との間にも差が出た。
指定されなかった世帯も、「自分のところも指定されるべき危険な場所ではないか」と考え、指定された世帯と同じように、放射能について不安を持っているから、指定されたかどうかで区別する理由はない。
 原告を代表して45名の陳述書から、特定避難勧奨地点の解除に対する原告の想いの一部を伝えたい。
「指定が解除されても、私の家の敷地は線量が高いままです。線量の高い敷地に暮らしていれば、どのような健康の影響があるかわかりません。これから長い人生のある息子の健康のためにも、今の状況で自宅に戻って生活することはできません。」
「きちっとしたデータを掴んで本当に大丈夫だということを検証して示してほしい。政府は20ミリシーベルトで安全だと言っていますが、今生まれた子どもが30年後どうなるかなんてわからないのだから、しっかり検証して確実に安全だと言える数字を出してほしい。これまで起こってきた公害問題のように、何か起こってから、安全ではなかったといっても遅い。」
 このように私たちが陳述書に書いた懸念や不安は、放射線の専門家ではない私たちにとって、ごく自然なものだ。
こうした懸念や不安を解消するために、国は私たちに対して十分な説明をするべきだったのではないか。
それにもかかわらず、反対する私たちの声を聞かず、解除が強行された。
それによって私たちが受けた精神的苦痛は、たいへん大きい。
 裁判官の皆さんには陳述書で私たちが述べた想いを十分にくみ取って頂き、特定避難勧奨地点の違法な解除を取り消して頂きたいと強く思う。
●求釈明に対する回答(原告代理人弁護士:福田健治さん)
*これは、被告(国)が原告に対して釈明を求めたことに対する回答です。
これまで原告は、避難指示解除が違法であることの根拠として原子力委員会の意見を挙げてきました。
これに対して被告は、なぜ原子力委員会による意見が解除の要件になるのかの説明を原告に求めていたのです。
 また被告は、改正前原災法(原子力災害対策特別措置法)を根拠とする理由についても説明を求めていました。
原子力委員会は、専門技術的な知見を持ち、緊急事態応急対策調査委員が置かれている。
そのような原子力委員会が、専門的な助言を行うことによって、専門的な知見のない原子力対策本部が適切な緊急事態応急対応を行うという仕組みになっているのであり、解除においても原子力委員会による意見を考慮すべきである。
原災本部長が意見を求め、原子力委員会が回答したことに基づいている。
 改正前に確立した原子力委員会による意見を考慮すべきという考え方は、改正後も変わらない。

●被告弁論
原告の陳述が終わって被告の陳述になったのですが、ボソボソと低い声だったのではっきりと聞き取れなかったのですが、「提出した準備書面3、準備書面4に書いた通りであり、弁論はしません」というようなことを言いました。

*裁判長が被告に
「手続きに関する主張は、それぞれがそれぞれの立場であるでしょう。被告第3提出書面は用語の定義がないので、よくわからないからはっきりと説明してください」
*被告
「書面で回答します」(傍聴席からは声には出さないまま「呆れた!」というような失笑がザワザワと起こりました)
*裁判長が被告に
「原告に対する認否をはっきりと。解除手続きの事実関係と認否をはっきりと回答してください」
*被告ボソボソと「書面で提出します」(この時もまた傍聴席ザワザワと)
*裁判長が原告に「次回までに住民の健康に関しての書面を出してください」と言い、原告・被告・傍聴席に向かって「次回は5月18日、木曜日午後2時からとします」
そして閉廷しました。

上記しましたが、次回の口頭弁論期日は5月18日です。
傍聴席をいっぱいにして裁判の行方を、監視していきましょう。
この日は傍聴券の抽選はないまま、かろうじて傍聴席は埋まりました。
傍聴席に空きが出てくると、被告はのさばり裁判所も原告に耳を傾けなくなるでしょう。
5月18日、どうぞご一緒に傍聴を。                 

いちえ


2017年1月17日号「お知らせ」

◎お知らせ
昨日送信したものは添付チラシの容量が大きくて、配信不能で戻ってきました。
再送しますが、すでに受け取られている方には二重配信になってしまい申し訳有りません。
悪しからずご容赦を。
トークの会「福島の声を聞こう!vo.22」のお知らせです。
22回目を迎える今回のゲストスピーカーには、二本松の若い女性農業者の菅野瑞穂さんをお迎えします。
日 時:2月24日(金)19:00〜21:00(開場18:30)
場 所:セッションハウス・ガーデン
参加費:1,500円(参加費は被災地への寄金とさせていただきます)
瑞穂さんに初めてお会いしたのは、4年前だったでしょうか、あるいはもう5年経っているのか…。
私はその時からずっと、いつかきっと瑞穂さんにお話しして頂こうと思い続けてきました。
思い続けてきたことを、ようやく果たせます。
ぜひ多くの方に瑞穂さんのお話しをお聞きいただきたく、皆様のご参加をお待ちしています。  

いちえ

 


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