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2019年6月17日号「6月14日裁判傍聴報告」

◎「安保法制違憲訴訟・女の会 国家賠償請求事件」傍聴
 6月14日(金)は上記裁判の第8回口頭弁論期日でした。
14時からの傍聴抽選に行きましたが、この日は抽選なく希望者全員が入廷できました。
入れるのは嬉しいことながら、空席が出ることが残念でした。
 裁判長から提出書類についての確認が何件かあった後で、原告のY・F子さんの意見陳述がありました。
●原告意見陳述

 1949年生まれで戦争を体験していないが、小さい時から戦争の話はよく聞いていた。
憲法9条により平和が保たれているが戦争ができる社会になれば、暴力や殺害が平然と行われ、大量に殺した人が英雄になるという歴史を、様々な形で学んだ。
10代からベトナム反戦運動や70年安保闘争に参加してきた。
京都の大学を出て家族を持ち、働きながら子供を育てる中で人権と平和をジビウンの手でつかむための叡智や力を身につけてきたと思う。
 1981年に大阪ガス関連会社のガス配管工事会社の(株)京ガスに入社した。
正社員とはいえ年収150万円の低賃金だった。
入社当時こどもは1歳と4歳だったが、‘83年にシングルマザーになり、3歳と6歳のこどもを育てながら働いた。
‘84年2月、入社3年目で不当な指名解雇を受けた(女性と嘱託職員を先に解雇)。
この時から、「男社会」が総掛かりで襲いかかる力に抗う生活が始まった。
悔しくて悲しくて、夜も眠れない日が続いたが、屈したら私の人間性の全てを奪われてしまう、だから諦めないと、何度も自分を立て直して生きてきた。
 そして、最初の指名解雇を撤回させてから23年、2007年に会社倒産により全員解雇になるまで、京ガス社員として働き続けた。

 会社が、女性を差別的賃金においたり、真っ先に首を切るのは男性社員の生活を守るためだった。
仕事では人一倍貢献しているのに、異議を唱えると。労働組合・社員総掛かりで私を排除するため、あらゆる形態の暴力と差別を加えてきた。
「女は黙ってろ!」と思考も行動も凍りつかせてしまう衝撃的暴言から始まり、言葉にできない嫌がらせや暴力を加えられた。
解雇撤回のビラまきをしていた最中の、突風が吹く2月のある日、通勤に使っていた赤いファミリアに卵が投げつけられてオレンジ色になっていたことが心に突き刺さり、今でも赤い車を見ると正常ではいられない。
何十個物卵が突風でこびりついたため、一生懸命にフロントガラスだけ拭き取って帰宅し、徒歩でこどもを保育園に迎えに行った。
 指名解雇を撤回させると、会社から2年にわたって仕事を干され、その後、強制配転させられた。
私が組合の委員長になる‘92年まで、毎日、車の車輪の周りに釘を撒かれ、磁石で釘を拾う日々が続いた。
バイクで行けば、タイヤの脇に釘が刺さっていたこともあった。
 今は「集団リンチ」と言えるが、当時は口にしたら壊れてしまいそうで自分の中に飲み込み、誰にも話すことができなかった。
男女賃金産別是正を求めて、1987年に結成した「おんな労働組合(関西)」で団交を申し入れると、何度も密室に閉じ込められ、数人の男に取り囲まれて「あんたの存在が迷惑なんじゃ」「職員組合をやめてしまえ!」と怒鳴られ、脱退を強要された。
さらに「Yの処遇について」と私の処遇についてのテーマで緊急組合大会が開催され、組合員全員の前で脱退を迫られた。

 企業の門の前で、憲法は立ちすくむ。
自分の権利を守り、職場の差別を改善しようとすると、異質な物を排除する集団主義と、自分の意見を言う女性に対する差別的排除に向けた力が結集し、その場にはいられなくなるような嫌悪の烙印が押されてしまう。
 私が経験したことは、戦争だったと思う。
モノを考えないことによって痛みを感じないようにし、痛みを感じないから異質なモノをリンチで排除できる。
戦争に突入していった軍国主義がリアルな姿で、私の前に立ちはだかったのだと思った。
違っていたのは、集団主義や女性を従属させるような家父長制による暴力と差別を認めないという憲法が私にはあったことだ。
 集団リンチに耐えて自分を貫いた人は、他にも少なからずいる。
労働現場における差別と暴力から解放されることが正義であり、それを実現できるという可能性が、自分を貫く誇りを支えた。
 戦争は人間を序列化して支配し、道具にしていく。
私がずっと求めてきた男女平等賃金は、そのような差別と暴力の温床への挑戦だった。
国際基準の職務評価を実践し、ペイ・エクイティ西多賀って賠償金を支払わせることに長い年月をかけたのも、差別をなくすことができるという希望を持ち続けたからだった。この活動は今でも、ペイエクイエティ・コンサルティング・オフィスを通じて継続している。

 解釈改憲をした閣議決定と安保法制の国会審議・暴力的強行採決は、あらゆる意味で、私が経験した暴力を再体験させるものだった。
それを見せ付けられる毎日が苦痛で、不安と緊張を強いられた。
憲法を支えに差別と暴力に抗い、少しでも時代を切り開いてきた誇りが瓦解させられるような喪失感に襲われた。
 私たちの社会は、このような暴力が「国権の最高機関」で許されることを、目の当たりにさせられた。
しかも暴力の象徴としての武力行使を、正当化してしまったのだ。
暴力の本質は、暴力を向ける相手を無力化し、行動や精神の自由を制約することにある。
暴力の形を問わず、それが社会的な力関係を背景とする時には、暴力の矛先になった人間を、そうしてもかまわない相手であるという暗黙の了解を成立させてしまう。
被害者はこれに抵抗しようにも、また異議を唱えようにも、身動きすることができなくなってしまう。
私が経験した集団リンチは、そうした構造を痛感させるものだった。
戦争はその連鎖による究極の形だがこの法制によって正当化された「軍事化」は、戦争になる前にすでに、私たちをそうした暴力の連鎖に投げ込んでいることについて、訴えたい。

●次回期日
 原告代理人の中野麻美弁護士から証人尋問を求める意見陳述があり、裁判官3人は協議のために中座しました。
13日に群馬県前橋地裁で開かれた安保法制違憲訴訟では証人尋問があり、元内閣法制局長官の宮崎礼壹氏が「集団的自衛権の行使は、憲法が容認する自衛の措置を超えるため違憲であるというのが、政府や国会の一貫した解釈だ」と証言しています。
この女の会の訴訟でも、ぜひ証人尋問をと願っての原告側からの意見陳述でした。
 中座から戻った裁判官は、証人と原告で何人の尋問を考えているのかと中野弁護士に尋ね、それによって尋問時間の割り振り方を説明しました。
7月にこの103号法廷ではなくもう少し小さな部屋で、その件に関しての法廷が開かれることになりました。
そしてその後の期日として、10月18日と言い渡されて閉廷しました。
 証人尋問は行われるようです。

◎『Voice 平和をつなぐ女たちの証言』出版記念集会
 安保法制違憲訴訟•女の会で編著した件名の本が出版されました。
目次
第1章:戦争とわたし
第2章:軍隊による暴力
第3章:女性に対する暴力を許さない
第4章:働きつづけていま
第5章:教育の軍事化
第6章:家父長制に抗って
第7章:アジアの中で生きる
第8章:わたしと平和憲法
の、8章からなる女たちの安保法制違憲訴訟原告121名の違憲陳述・証言と中野麻美弁護団長のこの訴訟について、証人の清末愛砂さん(室蘭工業大学大学院工学研究科准教授)の証人陳述書が載っています。
 原告たちの証言に、その苦悩とご苦労に共鳴し共感し、多くを教えられました。
ご注文はメールまたはファックスでお申し込みください。
e-mail:anpo4iken@gmail.com fax:03-3944-9647
1冊1500円+スマートレター180円です。

いちえ

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2019年6月8日号「報告とお知らせ」

​◎写真展終了
 写真展「ツァンパで朝食を」、無事終了しました。
連日多くの方においでいただき、嬉しいことでした。
お運びくださった皆様、ありがとうございました。
 会場には写真の他に、現地で入手した手織り布に入れたツァンパ、ラサから送ってもらったチーズやニュマ(蕪をミルクで煮て干した行動食、保存食)、牧童が家畜を追う時に使う投石具、手織りの袋多数、曼荼羅模様のブリキのポット、農作業のヤクの頭飾り、バター茶を作るドンモ、バンデン(女性のエプロン)の布地、フェルトの長靴などの実物も展示しました。
ギャラリートークでは、煎った青裸麦(これを粉に挽いたものがツァンパ)やチーズ、ニュマをご試食頂きました。
会場には低くチベッタンポップスを流していましたから、目で耳で、トークにご参加くださった方には舌でも、チベットを感じていただけたかと思います。
 チベットは政治問題や宗教で語られることが多いのですが、この写真展ではチベットの人たちの暮らしを知っていただきたかったのです。

 写真展は終わりましたが、なぜか6月はチベットに関する講演などが続きます。
◎関野吉晴さんと対談
 ​●​6月11日(火) 19:00〜21:00 武蔵野美術大学三鷹教室
 関野さんが続けてこられている「地球永住計画」講演会で、関野さんと対談します。​
「写真で見る極限の世界 チベットに吹く風」と題しての対談です。
 火星移住計画はもはやSFの世界の話ではなくなってきたようですが、しかし一方ではこの地球が命を育むのにいかに奇跡的な星なのかを再認識することでもあります。
だから、火星移住計画よりも「地球永住計画」
この奇跡の星に私たちが生き続けるためには、どうしたらいいのか。
自然や宇宙とのつながりを、みじかな環境の中に再認識するところから始めようというプロジェクトが「地球永住計画」です。
 SNSで発信されていますから「地球永住計画」または「関野吉晴」で検索してください。

◎チベリン1周年記念講演
 在日チベット人たちが、自分の子どもたちにチベット語やチベットの文化を伝えていこうと立ち上げた「チベリン」が1周年を迎えます。
チベリンは、子どもたちにチベットと文化を教えるばかりでなく、私たちにチベットの文化を伝えてくれる場でもあります。
●6月22日(土) 13:30〜 新宿・常圓寺 ​
「子育て、そしてこれからのチベット」と題して話します。
今という時代に、大人はどんな風に子どもたちに向き合えば良いのでしょう。
これからのチベットを考えることはまた、これからの私たちを考えることでもあると思うのです。
ご一緒に、考えてみたいと思います。

◎大鹿村で
 「大鹿の十年先を考える会」主催の学習会で「チベットから見たリニアと自治」と題して話します。
●6月30日(日) 13:00〜15:00 大鹿村・上蔵地区の集会所 参加費:1000円
 私はリニア建設には、ずっと反対の立場を取ってきました。
そんなことから大鹿村の方達が起こした「リニア説明会等のオープンな取材を求める共同声明」の呼びかけ人にもなっています。
そのご縁で呼ばれて、お話しします。
 大鹿村は以前から行ってみたい場所でしたから、お声掛けいただいて嬉しいことでした。
映画「大鹿村騒動記」の舞台、また内田ボブさんが住んでいらっしゃる地、訪ねるのが楽しみです。

他に報告すべきことが溜まっているのですが、滞ったままでいます。
4月の福島訪問(南相馬の酪農家、杉さん。南相馬寺内塚合仮設住宅。吾妻復興牧場)、「安保法制違憲国賠訴訟」傍聴、「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」傍聴。
5月の「子ども脱被ばく裁判」傍聴、福島訪問(寺内塚合仮設住宅、鹿島区の小林吉久さん)
 裁判傍聴は次回期日を傍聴してのちに報告させていただきます。
小高区から避難していた天野ハルさんは鹿島区寺内塚合の仮設住宅を退去して、原町区の新居に移りました。娘さん家族と同居です。
寺内塚合は、誰もいなくなりました。
それぞれが”仮住まい”から、仮ではない住まいに移っていきましたが、手放しで「良かったね」と言えない苦さが残ります。一枝


2019年5月27日号「4月7日トークの会報告③」

Ⅵもう一つの闘い
●財物ADR
 津島原告団では、財物(田畑と山林)のADRを行っています。
評価額は、国は畑、山林、雑木林など自然に生えて大きくなったものは、1ヘクタールで30万円、杉・松・ヒノキで植林したもので100万としています。
我々は1反歩植林するのに、50万円かかっています。
300坪には苗木1本150〜160円で300本植えて、10年ごとに間伐して60年か80年で材木が仕上がります。植林には手間がかかるのです。
300坪で10万円の賠償、単純に150円を300本なら45,000円です。
苗木代だけで。植林の費用や手間が除かれています。
 今は山林労働者の日当は15,000円から18,000円です。
5年間は下刈りしないと森は育たない。10年ごとに蔓が生えるので、その蔓を切る。
私たちは立木1本200円で請求しました。これは苗木1本の価格で、土地代は別です。
 太くても細くても、平均150本植わっているという考え方で出しましたが、東電の回答は0でした。
電力会社は電線、鉄塔にかかる支障木については、1本2,000〜10,000円で賠償していました。
私たちは裁判もやるけれど、今までに頂いた補償金ではとても納得できないから、ADRにかけました。
 震災前の公共事業の土地の取引額、民間の土地の取引額、山林の売買価格など、調べられるだけ調べました。
足りなければ隣村まで行って比較し、調べました。
そして平均単価を作って、東電にADRで請求しました。
2年半前にやったのだが、未だに結論が出ていません。
 なぜ結論が出ないのかと言うと、それは東電が去年8月に土地の鑑定をさせて欲しいと言い出したからです。
我々は震災前の鑑定書を使ってやっています。
東電から出されたのは、今年1月の鑑定結果の評価額です。
要するに、震災でダメになった山林、土地の評価額を出してきて、これを呑まなければ賠償しないという。
発災8年後の鑑定評価を持ち出す無神経さは、“天にツバする”と同じです。
 そんな馬鹿な話がありますか? こういうのを詐欺というのです。
内幸町にいる白い髭の生えたサギです。
 震災前の鑑定書が基準になるのではないですか?
既に土地の賠償はお金が払われました。
津島の山間部ではなく、里の方の田んぼで平米あたり1,200円から1,500円出ました。
1年に作られるお米は1反で8俵から10俵です。
我々の津島の田んぼでも、反あたり8〜10俵です。
そして里の田んぼの米より、津島の山の田んぼの米の方が美味しいのです。
なぜかと言うと、水が美味しいからです。
 なんで里の田んぼの評価額が高くて、山の方が安いのか。
不動産で、里の方が欲しがる人がいるからだという理屈を言います。
しかし、農家だから田畑がなければ商売にならないわけですから、田んぼも畑も売りません。
だったら同程度か、多少低いくらいの価値に見るのが普通だろうと思います。
こんなことさえ判らないのです。
●参議院文教委員会で
 私たちは、どうしても故郷に帰りたいという意欲があります。
しかし、国がそのロードマップを示さない。あまりにも線量が高いから示せない。
 政治家はマヌケで頓馬な人ばかりで、どうすることもできない。
情けない話です。
そして、選挙になると「任せてください。私に任せてください」などという。
選挙になるとそう言うが、中身は何にもない。
 だから私は昨年11月29日の参議院文教委員会で、あの発言をしたのです。
参考人4人の中でポツンと黒い顔をした津島の山猿が、招致された機会に言ったのです。
 原子力損害倍賞紛争審査会会長は私の大学の先輩で、その母校の総長をやっていた方ですが、彼に文科省が作った書類を見せてもらいました。
満田さんは大変勉強家で、熱意のある尊敬すべき女性でした
馬奈木先生も、弁護士として尊敬できる方です。
みなさん原稿を書かれていて、あらかじめ委員会の議員たちに渡してあったそうですが、私はノー原稿で、あの時に喋りました。
●誰のための原発か
 経団連の会長の中西というのは日立の会長ですが、彼は「会社としては原発の下に非常用電源を設置することは、海外の状況から見て非常識だと思った。しかし原発は必要だから、今度原発を作る時は非常用電源は上に上げる」と言った。
日立も東芝も、三菱重工も、非常用電源を下に作ることは、なんら問題がないと考えていた。
「津波が来たらどうするんですか」と聞いたら、「津波は来ません」と言ったんですよ。
 大きなプロジェクトをする時には必ず、環境アセスメントをやります。
これは常識です。
あの東京電力が目をつぶったのは、869年の貞観地震という三陸沖で大規模な地震が起こった時の津波の跡を、サンプリングしなかったことです。
 明治三陸沖地震や、大正三陸沖地震のサンプリングはやったが、貞観地震はやらなかった。
見逃したのではなくて、やらなかった。
昔の人が遺した記録を、調べなかった。
それ行けドンドンで進めてしまった。
 原子力損害賠償法は1961年に原発政策を推進するために成立しましたが、これは当時の政治家たちがこの原子力で金儲けしようと、それ行けドンドンで作った法律です。
平成24年の改正前は600億、当初は300億の話です。
昭和30年代の前半は日雇い労働者が1日働いて、日当が120〜150円の時代ですから、300億は、相当大きい金額でした。
 今回の改定では、前回に続き1,200億の措置(平成24年の改正額)があり、事故に見合った措置額を示しませんでした。政治の怠慢です。
措置額というのは、電力会社が払うお金ではありません。
保険会社が払うお金です。
今までで8兆6,000億円も使われました。
一般的には、廃炉までには22兆円くらいかかるだろうと言われています。
電力会社は、1,200億円くらい保険金を払えばいいのです。
 だけど措置額は保険会社が払うわけですから、保険会社は引き受けません。
だから私は、電力会社の保険金を100倍にしろ、20兆円くらいかけるようにしろと話したのです。
 ところが今回、国の方では「しょうがない、肩入れしましょう」というくらいの話で、それは全て税金です。
誰が、この税金を返済するのでしょうか。
それは、東京電力利用者の受益者負担とするべきです。
 この震災で、市町村を含めていろいろな対応で、福島県はいろいろお金がかかりましたから、その損害を東電に請求しました。
しかし、東電が認めたのは30パーセントです。
本来ならそんなお金は、全て福祉や教育に使われていたお金ではありませんか?
 そしてさらに、1100兆円といわれる国家の借金の山になっていますが、この原発1基で88億という数字が出てきました。
誰のための原発なのか、いま、太陽光や自然エネルギーを使って間に合ってるじゃないですか。
不思議な世の中になったものです。
 こうした世の中から私たちは、政治のあり方、国のあり方、行政のあり方、などを一緒に考えていきたいです。
ご静聴、ありがとうございました。

◎​報告送信が、混乱してしまって申し訳ありませんでした。
ゲストスピーカー、佐々木茂さんのお話はここまでです。
長文をお読みくださって、ありがとうございました。


2019年5月26日号「4月7日トークの会報告②」

Ⅳ放射能の怖さ
●どうすれば帰れるのか
私は去年も一昨年も、環境省に言いました。
東電にも復興庁にも言いました、町にも言いました。
帰還までのロードマップを示して欲しい、とお願いしているのです。
あと10年待ってなどと、ロードマップを示してくれたら、少しは気が楽になります。
今年65歳になりますが、まだ20年、30年は生きたいと思っていますが、こればかりは判らない。
しかし、帰れる時期を示す、どうすれば帰れるのかを示す責任は国や東電にあると思います。
震災時直後に、私の家は毎時700マイクロシーベルト、関場さん(注:津島原告団の一人で、前々回トークの会のスピーカー)のところは750〜800マイクロシーベルトありましたが、これは1時間の量であって1日ではありません。
ここに1ヶ月いたら、死んでしまいます。
放射能の怖さは、体に入っても1、2ヶ月は影響が現れなくても、細胞を切ってしまうのです。
それが遺伝子として残る可能性があり、ガンになる可能性がないとは言えないでしょう。
今の政府関係の学者はみんな嘘つきだから、彼らが安全のお墨付きを与える資格はないと思います。
福島医大も、放射能の影響はないと言ってますが信じられますか?
●子どもへの影響
個人的な話ですが弟が障害者なので、私はその子ども3人を預かって育てています。
長女は甲状腺ガン、次女は判定でA1ですが男の子はA1からA2になりました。
その子は高校に入ってからもう一度検査したら、A1に戻っていたので良かったと思いました。
しかし、今年大学に入った一番下の女の子は、昨年クッシング病になりました。
これは免疫不全が起こる病気で、脳下垂体に小さなイボがあって、放射能を浴びると甲状腺とかこういうところに出るそうです。
発症の原因は、原発事故が原因ではないかと思います。
下の子は震災の10日後、陸上自衛隊の除染部隊が来て県の男児共生センターに連れて行かれました。
放射線量700マイクロシーベルトと高いところにある家から来たので、二本松東和第一体育館でスクリーニングを受けたところ、高線量汚染ということで、男女共生センターに連れて行かれたのです。
服を全部脱がされて、そこに古着があるから好きなのを着てと言われて、一番下のその子は洗髪を2度しました。
雪が降っている、みぞれが降っている寒い日でしたが、2度の洗髪をお湯で洗ってくれるなら有難いが、かわいそうにあの寒い中で水で洗われました。
2度洗ったのに落ちなかった。
だから私は、彼女の病気はそこに原因があると思う。
当時は小学4年生で、私がその時が原因ではないかと言っても、県からは放射線の影響ではないと言われました。
県立医大は当時と違って、新しい建物がどんどん建ち、いろんな設備・機械も入って立派になっています。
文句を言わなければ、国からどんどんお金が下りてくるのです。
当時、男児共生センターに連れて行かれた人たちの名簿は、一切ありません。
誰が、どのような理由から隠したのでしょうか。
●国に忖度する大人たち
伊達の保原で医大出身の女性医師が、甲状腺検査を受けても医大は信用できないから受ける必要はない、受けて甲状腺の判定結果が出てもそれを隠してしまうと言って涙を流しましたが、医大はその女性医師を外しました。
福島医大は、そういうところです。
長崎医大から放射線の専門家が来て、初めは放射線の影響があるだろうと言っていたが、その後は放射能の話になるとどうも歯切れが悪い。
国からの研究のための補助金でも提示されたか、目の前に勲章がぶら下がったのではないかと思えます。
郡山に星総合病院がありますが、院長は県民健康調査委員会の座長を務めています。
この人は放射線の専門家ではありません。
それが座長をやっていて、放射線の影響はないという。
けれど、福島県で甲状腺の子供が何人いるか。
日本では甲状腺の疫学調査などやったことがないのです。
上の娘は震災後に東和町の中学校に転校しました。
私はその時に、PTAの総会に出ました。
校長は1時間に20マイクロシーベルトは大丈夫だと言ったので、私は誰がそう言ってるのかと質問しました。
校長は、「国際的な組織が1〜20は大丈夫と言ってるから良いじゃないですか」と、正々堂々と言ったから、私は「ふざけるな!」と机を蹴って出てきたら若い先生が、「あれは狂ってる」と言って、「放射能が心配だから子どもを避難させました」という若い先生が何人かいました。
年間1ミリシーベルトに達するには、毎時0,23マイクロシーベルトと言われています。
でも震災前には、0,01くらいしか、自然界からの放射能はありませんでした。
いま私たちは、3マイクロや10マイクロ浴びても、「こんなものか」と、慣れっこになってしまって平気な顔をしています。
「まぁ、生きていれば良いか」と。
東京では「0,2が出た。凄い数値だ」「0,1だって!怖いなぁ」というが、福島ではその中で子どもたちが遊んでいます。
いくら除染したと言っても、家の中で0,4〜0,7マイクロシーベルトある。
外では0,4〜2マイクロシーベルトある。
除染しても未だにそれだけある。
東北大学の女性講師が、家の中の除染をしないなら、安易に家に帰してはならないと言っていました。
この言葉を町にすぐ届けたが、誰が決めたんだと言われた。
職員は勉強不足で、どうにもならない。
町長にも言ったのですが、「そんなこと今頃言われても、もう『帰って来い』と言ってしまったしなぁ」と言われました。
違うんですよ、きちんと汚染すれば良いだけの話なんですよ。
原子力の行政そのものも、また、国もいい加減だけど、被災した町役場や市役所は、国に忖度しています。
国に文句を言った途端に予算を切られる、減らされる。
こういう状況にあるのが事実です。
議会もそう、お金を持って来させなければ、それ以上何もできない。
これ以上文句言っても仕方ない、という雰囲気がいっぱいです。
これではね、たまったもんじゃありません。
Ⅴ復興のまやかし
●拠点整備事業のこと
私はそういう中で、これから帰るためにはどうしたら良いか、本当は真剣に考えなきゃいけないと思っているのですが、同じ町の中で温度差ができてしまった。
町では町長も「頑張らなきゃ駄目だ」と言い、「いや、ごもっともだけどそれをやったら予算がこない」と言っている。
なぜそんなことが起こるのか?
それは国が悪いからだ、金にするから悪いのです。
中間貯蔵施設を、双葉町と大熊町に作っています。
そこに去年は汚染土を140万立米運び、今年は400万立米運ぶ予定だそうです。
私も以前は建設会社にいたから思いますが、これは建設業者のための事業であることに間違いありません。
この汚染土を中間貯蔵所に運ぶために、その土地の人たちは泣かされています。
しかし、泣かされたけど、その土を全量県外に運ぶことに法律では決まりました。
舌の根が乾かぬうちに、公共事業に使うことにしたのです。
まず初めは飯舘村の長泥地区に運んで、拠点整備事業として土を反転して農地として使えということで、行政区長は泣く泣く承知をしました。
それを受け入れないなら除染しないというのですから、涙を流して受け入れたのです。
次には二本松の道路工事の路盤材に使うということでしたが、二本松は断った。
すると今度は南相馬・小高区の高速道路の盛り土に使うように言う。
私たちは被害を受けた被害者で、国や東電になんの悪いこともしなかったが、それなのに8000ベクレル以下の汚染土を受け入れて使うようにと言ってくる。
津島でも拠点整備153㌶で、これは地区の約1,6パーセントにしか当たりませんが、やっと始まりました。
ところで、除染した結果、何人が戻るでしょう。
これが財務省の差し金だと、ある人から聞きました。
「国は、人が戻らないところに除染して金をかけて、どうするんだよ」という話が裏で囁かれている。
津島地区は全域が帰還困難区域に指定されているから、これを解除する理由として、国は津島の濃い汚染土壌を公共事業に使える。
飯舘村の長泥地区の、二の舞になりかねません。
つまり、田畑の土にすると言いだすのだろう。
そうでなければ、除染はやらないよという話が出てくるだろうと、私は想定しています。
私らは、トコトン闘うつもりですが、そうした話が飯舘村で出た、二本松で出た、南相馬で出た、となれば浪江町で出ない筈がない。
●ジャマリンピック
なんでこんなに除染が遅れたかというと、オリンピックのための復興って、やっていますよね。
オリンピックって復興のためのオリンピックでしょう?
宮城県の三陸道が、釜石まで開通しました。
その道路の下の、国道を通ってみてください。
未だに堤防を作り、高台の住宅地はできましたが、そこに家を建てる人は殆どいない。
不便だからです。
東京ではオリンピック景気と言われているように、どんどんビルが建ち、さらに施設も作られています。
私たち東北3県では、せっかく津波に耐える町づくりをしようといった作業員の半分以上が、東京の工事現場に流れてしまったから、公共施設や建物、学校がきれいになっただけで、本当の意味での復興や町づくりには向かっていない。
現場で働く労働者が少なくなり、復興オリンピックと囃されていても、これは東京のためのオリンピックです。
一昨年、石巻港で釣りをしていた時に挨拶を交わした釣り人は、建設労働者でした。
私も以前は建設の仕事をしていたことを話し会話が続きましたが、彼は「来月から東京に行くんだ。東京の方が手当てが高いし、東京の仕事がなくなったら、また戻って来る」と言いました。
私は彼に、「戻ってきたら、声をかけてな。いつも大体この辺で釣っているからな」と言って別れましたが、彼とはそれから会っていません。
復興オリンピックなんて言いますが、地元では「復興ジャマリンピック」と呼んでます。福島ではソフトと野球をやるそうですが、大体喜んでいるのは東京の人だけ、地元ではオリンピックなんて喜んでいません。
オリンピックなんかやらなくていい、そんなお金があるなら、我々が一日も早く帰れるような状況にしていただきたい、と思っています。
●汚染土は東京へ
2、3日前の新聞に、塩釜港の沖の防波堤が沈下したと報道されました。
大切な税金を使って国土強靭化というなら、しっかりと地盤を調査するなど当たり前で、
自然沈下で倒れるような堤防を作ってどうするのだということです。
国は震度6〜7の地震が90パーセント確実という記事を出しましたが、自然沈下で
倒れるような堤防だったら、津波が来たら、みんなバタッと倒れてしまう。
現に釜石では、あの消波堤が津波で全部倒れてしまったではないですか。
除染で出た土を中間貯蔵所に運ぶには手間も金もかかるから、道路の路盤材として、または堤防の資材として使ってくれというなら、私らの港に大型船を持ってきてポンプで除染土を船に積んで、それを東京で使ったらどうでしょうか。
東京湾で公共事業に使ったらどうなのか。
電力は、水や空気と同じように考えている国民が多いのじゃないですか。
それでも、やっぱり電気は必要だと言うなら、地方に移住してみて欲しいです。
地方でも生活できますから。
だけどみんな移住はできないんですよ、都会の暮らしに慣れていて、電気がなければエレベーターも使えない、電気がなければ何も使うことができないからです。
それなら、受益者負担を考えて欲しいです。
私らは東北電力の電気を使っています、東北電力に対しては、なんの文句もない。
もし東北電力が原発事故を起こしたら、ガンバレ、ガンバレと応援します。
それくらいの気持ちが、少しはあります。
●風評被害?
でも東京の人に中には、「風評被害だ」とか「福島産のものは食べない」などという人がたくさんいます。
未だに風評被害が続いているというのは、どういうことなのでしょうか。
米の値段はだいたい全国レベルになってきたといえど、米問屋は値段を叩いている。
牛肉も、福島は双葉牛、飯館牛などを総称して福島牛と呼んで、霜降りの良い牛肉の産地だった。
白河には農水省の家畜研究所があり、そこで日本を代表するような霜降りの雄牛をたくさん育てています。
宮崎県や鹿児島県が肉牛で有名ですが、実は山形県の米沢から松坂に持って行って、それが松坂牛となるのですが、そういうことは知られていない。
その松坂牛に勝るとも劣らないのが、岩手県の水沢牛です。
こういうことを判らないまま、皆さんが福島や東北産を敬遠するから、それが風評被害となって、なかなか我々の成果にならず、儲からないで叩かれます。
それをいいことにして貪り食っているのが、中間業者、販売業者です。
風評被害で売れないからと安く買い叩いて、混ぜて、どこの米かわからないようにして売っています。
牛もそうです。
福島の牛は100g当たり例えば1,000円だとしたら、600円か700円に叩かれる。
だけど皆さん、牛肉を食べて松坂牛だ神戸牛だと、判りますか?
混ぜてしまってるんです。
要するに風評被害を隠れ蓑にした中間業者が、いかに儲かっているかということです。
皆さん方消費者が、利用されているんですよ。
葛尾村でも飯舘村でも牛の飼育が始まり、皆さん一生懸命やっています。
そしてみんな、厳重に管理して放射能検査しています。
福島の子牛は不足しているから高いけど、子牛を生産する人たちは、親牛を外に放牧します。
外に放牧して自由に動き回らないと、足腰が鍛えられないし、足腰を鍛えさせないと良い子牛は生まれないのです。
だけど今は外で放牧できずに、牛舎で育てています。
また飼育して肉牛として売る人たちは、飼料は福島産の餌が使えないのです。
それで北海道や外国からの輸入飼料を食べさせています。
コストが高く付くから、儲かりません。
でも、牛が好きだ、この仕事が好きだからと、こうした生産に励んでいるのです。
東電からは賠償金をもらったと思いますが、家に換算して言えば、だいたい柱3本分ほどでしかないでしょう。
東電は減価償却を考えているが、我々は再調達価格ということで完全賠償を求めています。


2019年5月24日号「4月7日トークの会報告①」

大変遅くなりましたが、トークの会「福島の声を聞こう!vol.31」の報告です。
今回も大変長文になりました。3回に分けてお送りします。
PDF版ご希望の方はどうぞ、お知らせください。

●ゲストスピーカー
 この日のゲストスピーカーは、浪江町の佐々木茂さんでした。
私がみなさんに佐々木さんの話をお聞き頂きたいと思ったのは、参議院文教科学委員会を傍聴したことからでした。
 国会で原賠法(原子力損害賠償法)の見直し法案の審議がされていて、昨年11月29日には参考人を招致して参議院文教委員会が開かれ、私はその傍聴に行きました。
参考人は4人で、原子力損害賠償紛争審査会会長の鎌田薫さん、生業裁判の馬奈木嚴太郎弁護士、FoE Japanの満田夏花さん、そして津島訴訟原告団副団長の佐々木茂さんでした。
 どの議員がどんな質問をしたのか私の記憶から漏れてしまっていますが、佐々木さんは質問への答えの冒頭に「学者というのはバカで世間知らずだから」と言ってから意見を述べたのでした。
鎌田さんは元早稲田大学総長で、4人の内のただ一人、いわば“あちら側“の立場でしたから、佐々木さんの言葉は痛烈に鎌田さんの発言に異を唱えてのことだったのです。
 この日は馬奈木弁護士も満田さんも被災者の思いに沿った発言をされて、その言葉を議員たちは、どうかしっかりと受け止めてほしいと思ったのでした。
 私は佐々木さんの「学者というのは…」発言に大いに痺れて、次のトークの会では是非とも佐々木さんに話していただこうと思ったのでした。
●佐々木茂さんプロフィール
 1954年、浪江町昼曽根で生まれる。上に2人、下に2人と、きょうだいは5人。
早稲田大学社会科学部卒業後、竹中土木に勤務。
元浪江町議会議員1期を務め、また元(株)竹中土木福島営業所長として勤務。
現在は、津島被害者原告団の副団長をしている。
 2011年3月の被災時は、浪江町で家業の農業をしていた。
当時元気だった母親をその翌年に避難先で病気で亡くし、現在は障害者の弟とその子ども3人と共に二本松の復興住宅で暮らす。

◎佐々木さんの話
Ⅰ裁判のこと
●法廷では
 浪江町の佐々木茂です。
原告団680名で国と東電を断罪したいと、裁判(「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」)
をやっています。
 私たちの裁判は原発裁判の中でも後塵を拝して遅くに始まりましたが、約3年経って現在は第17回まで進んでいます。
 弁護士の先生たちが非常に熱心で2ヶ月に1度のペースで進んでいて、来年夏くらいには結審となり、再来年の3月には判決が出るでしょう。
これは裁判官が「そろそろ移動を希望したいが、その前に私たちに判決文を書かせるかどうか?」ということを言われ、私たちとの進行協議で「それなら急いでやろう。2ヶ月に1度を2日連続で進めていこう」となって、現在は個人尋問に入っています。
 個人尋問に入って、東電の弁護士は自分らに有利なことは何も言えていません。
前回の裁判で東電弁護士は、証言席に立つ原告の三瓶早弓(さゆみ)さんのところに賠償金額を記した書類を持って行き、「あなたはこれだけ貰っているだろう」と露骨なやり方で質問しました。
 原告の早弓さんは原発事故当時高校生でしたから、賠償金額など親に聞けるわけもありません。
「あんたはこれだけ貰っているんだよ。それなのに文句があるのか?」と、まるで頬を叩くような質問を続けました。
これは実に東電らしいやり方だと思った。
私が傍聴した群馬の裁判でも、これと同じようなことをしていました。
 原告団団長の今野秀則さんに対して、被告・国の代理人は、「ダムに沈んだ町には2度と戻れないが、あなたたちは書類を出せばいつでも帰れるではないか?」という質問をしましたが、これは大変失礼な話です。
●ヤクザのような国の代理人
 津島は面積が、およそ9550ヘクタールあります。
その中に、国直轄の大柿ダムという農業水利用ダムがあります。
私が住んでいるのは昼曽根、その下流が大柿で、それぞれ独立した村でした。
当時人口が80人くらいの小さな村ではありましたが、どちらも小学校の分校があり、中学校の分校もあり、農協も郵便局もありました。
それが、大柿ダムが出来て部落が半分消えてしまいました。
それで、大柿と昼曽根の二つの部落をつけて大昼地区という行政区にしたのです。
 大柿のダムに沈んだ家は町の方に引っ越したり、他所へ移住しました。
それは昭和45年以降の話ですが、それから何年経ったのか。
この間の私たちの苦しみを解ろうともしない国や東電の弁護士は、そうした歴史について全く勉強不足です。
歴史を勉強しなければいけない。
その土地土地に、どういう歴史があったのか勉強もしないで、ただ単に裁判に勝つか負けるかなど、そんなのはヤクザの商売と同じです。
こんなやり方で、私たちを攻めにかかっている。
 群馬の裁判では高裁の裁判を傍聴しましたが、国側の代理人は「私たちは正義のために闘います」と宣言しました。
国家公務員たる国の代理人が、国民に向かって「とことん闘います」。
どういう神経でそんなことを述べるのか、不思議でなりません。
誰が考えても、おかしな話です。
大切な税金、私たちが汗を流して働いた国家予算の税金でご飯を食べながら、おかしいですよね。
●弁護士費用はどこから?
 もう一つ、東電の弁護士のことで。
東電は弁護士に、たくさんお金を払っています。
私たちの弁護士はほとんどボランティアの状況で、それでもこの裁判は絶対に勝つぞという強い意識で応援してくれています。
私たちには少しの蓄えしかないのですが、それを出し合ってお願いしているからです。
 東電の弁護士は東電からガッポリ報酬を得ていますが、その原資は皆さんが東電に払っている電気料金からです。
じゃぁ東電に電気料を払っている皆さんは、福島の原発事故被害者に対して、どれほどのお気持ちを持っておられるのか?
「東電の弁護士、おかしいぞ!そんなことなら電気料を払わないぞ!」くらいの声を上げてくれてもいいではないかと思います。
Ⅱ私たちのふるさと
●金ではない
 私たちはこの裁判を通して、金銭的な目的は持っておりません。
一日も早く、故郷に返してもらいたいのです。
だから私たちのスローガンは、「ふるさとを返せ 津島原発訴訟団」なのです。
このタスキをかけてデモ行進をし、各地に出かける時もこのタスキをかけて、我々の意思表示をしています。
 なぜ金銭を目的にしていないのかというと、私たちはお金よりもふるさとが大事だからです。
そこはご先祖様が遺してくれた地で、そこで育った私たちが巣立って、東京や大阪、北海道などで暮らしているように、各地にたくさんの親戚たちがいます。
●ふるさと喪失
 事故前は、ふるさとを出たそれらの人たちが、夏休みや冬休みになると「じいちゃんやばあちゃんの居るふるさとに行こう」と言って帰ってきました。
豊かな自然溢れる津島に、大勢が移動してきました。
お盆になると、村の人口が倍以上になりました。
これは日本全国の村でもそうした情景があると思いますが、今は津島では、それら外へ出た人たちが帰ってくるふるさとが失くなりました。
 私たちの村でも夏になると、たくさんのお土産を抱えてお墓参りにみんなが帰ってきたものです。
津島には8行政区がありますが、それぞれが櫓を建てて盆踊りをやり、そこで景品を配ると子どもたちが、「来年も来るよ。来年はもっといい景品が出るといいな」などと言い、こっちは予算がないからハラハラしたりしますが、子どもたちのそうした声もまた楽しみでした。
そういう村の生活が続いていたのです。
 私たちのふるさとは人口が1400人で、戸数がだいたい450戸。
その半数は、満州などから引き揚げてきて、戦後に開拓者として入植した人たちです。
国有林を切り拓いたら3町歩くらいやるよ、何反歩なら分けてやるよと言われて、鍬やナタ、万能(マンノウ)という農機具を使って、食べ物もろくにない中で苦しみ抜いてやっと作り上げてきた土地なのです。
 それを、あっという間の出来事で、何が何だかわからないうちに出て行けと言われてしまいました。
私たちは国や東電に何一つ悪いことをしたわけではないし、また、何の恩恵を受けていません。
まぁ、一部にはそこで働いていた人もいたでしょうが、しかし、原発ができたおかげで潤った分も、マイナスになってしまったのが現実となりました。
 私の家は約300年くらい続いてきた村の中でも旧い家の一軒だと思いますが、しかし、営々となんとか生きてきた、しがみついて生きてきた、それが全部なくなってしまいました。
 私の家の前には川があります。
 子どもの頃から、春になったら魚を捕りに行きました。
そして夏なら、朝から川で遊んでいました。
川にはイワナやヤマメ、鮎が泳いでいて、それを捕るのが子どもたちの毎日の遊び、楽しみでした。
 私たちの村は「津島松」と呼ばれる真っ直ぐに伸びる良質の松の産地で、皇居の廊下は津島松ではないかと思います。
なぜそう思うかと言うと津島は相馬藩に属していて、関ヶ原の戦いでは応援に行かなかったのです。
そして藩政時代には、津島松は将軍家に献上されるようになりました。
皇居の一部を作るときに、良材である津島松があるぞということだったからです。
●奪われた暮らし
 松があるから松茸がある。
どの松山を見ても、松茸がある。
それぞれ個人が、松茸が生えるところを知っていて、そこを「城」と呼び、城の場所は親は子にも教えず、絶対に他人に教えない秘密の場所にしていました。
 猪の鼻(イノハナ)というキノコは香茸(コウタケ)とも言いますが、炊き込みご飯にすると大変美味しいキノコで、それは雑木林に生えています。
明るい場所では小さいのしか採れないが、笹薮と雑木が生えている場所では、大きい香茸が採れるところがありました。
 そうしたふるさと、キノコや山菜が採れるふるさとで、そんなに裕福な暮らしではないが、私たちは幸せに暮らしてきました。
Ⅲあの日から
●地震からの避難
 その生活を奪われて8年になります。
あの日、私たちはただ「今日は寒いなぁ」と思っていたら、ガタガタと地震がきた。
これまでの記憶にないような、大きな地震がきました。
私も含めてですが、みんな、まず周りの安否を考えました。
家の周りを見回せば、屋根の縁が落ちている、瓦が飛んでる、これはおかしいぞと、私はまず母親が住んでるアパートに安否を確認に行きました。
母は、町に住んでみたいと言って小さなアパートを借りて、一人で暮らしていたのです。
 母は無事で、更にその周囲には母の同級生がたくさんいたので、その人たちも訪ねて大丈夫かと確認しながら、何度も震度6とか7の余震が続いていましたから「おじさん、おばさん、ちょっと来なよ。そこの桜の木にしっかり捕まっていな」と、家が潰れちゃうような状態になっていたので外に出るように言いました。
 じいちゃん・ばあちゃんたちを木につかまらせてから、小学校へ行きました。
それは、小学校には弟の子どもたちが2人通っていたのです。
小学校の校舎の中では、机が飛んでいるような教室内に子どもたちが居ました。
 校長と教頭に「外に避難をしてくれ」と言うと、「あんたは何者だ」と言うのです。
「佐々木茂だ」と答えると「聞いたことのない名だ」と言うのですが、子どもたちはみんな、私を知っていました。
町長選を2回やり、町会議員を1期やってきたので誰でも知ってます。
校舎の中は机が飛んでいるのに、その中に子どもたちをそのままにしていたのです。
それで私は「ふざけるな!全員出なさい!」といきり立ったら、用務員さんが阻止してくれて、そして子どもたちを全員出そうと言って一緒に出してくれました。
それでも先生方はみんな、私の顔も見ず、「余計なことをしてくれるな」という顔をしていました。
 子どもたちを全員校庭に避難させたのは私ですが、でも誰も「ありがとう」でも何でもなく、「余計なことをした」という雰囲気で、これが私たちの町の実態かと、今も不思議に思っています。
 それから、兄の家が小高の海岸近くにあるので、津波が引いた後でしたが兄夫婦の安否を確かめに行き、二人は津波から逃げて無事だとわかりました。
●活かされない防災マップ
 私は昼曽根の自宅の他に町にも家があるので、次の日の早朝にその家を見回りに行きました。
そのニュータウンの自治会役員をしていたので、1軒1軒回って、避難するかどうかを聞き歩きました。
すると、どうして良いかが判らないと言う人が多かったのです。
町が防災マップの計画を作っていたにもかかわらず、運用できていなかったからです。
 たぶん、皆さんのところでも防災マップを作っているでしょうが、東京で大災害が起こったら、行政は実際には運用できないのではないかと思います。
 それはなぜなのか?
 私たちの町では、直接死が150人いました。
役場の職員には海辺の人も多く、家や家族が心配でならなかったのに、「家を見に行ってこい」という声がかからずに、業務業務で寝る間もなく働かされて、家に帰る人がいなかった、帰れなかった、帰してもらえなかった。
 避難計画があったにもかかわらず、そういうことの話し合いが町民の間でできていなかった。
常に話し合っていれば良いが、「計画ができました。はい、どうぞ」で終わってしまっては、その避難計画は絵に描いた餅でありました。
自宅で親が死んだのでは?子どもが死んだのは?と、心配で寝られない。
ほとんど現場の職員は、寝る暇がない状態にありました。
 この役場の職員の方々の心労は、今もまだ精神的に辛さを抱えている人が居て、私の親戚も、急に脳出血を起こして仕事を辞めました。
でも、そういう人がたくさんいることを公表はしていません。
●原発事故と関連死
 震災以降、私たちの町では震災関連死が431人います。
県内で直接死は1600人超、関連死4300人、将来を悲観して自死した人が100人近くいます。
 私の近くにも居ます。
 その人たちは何の情報も与えられず、放射能は目に見えず、何がどうなるかさっぱり判らないまま、そうした中で家を追い出されて、いつ帰れるかも判らない状況の中で、そんな死を迎えてしまった。
 私はそういう思いはしなかったが、未だにふるさとの時間は止まったままだ。
だから私は、家に帰るのが好きじゃない。
●変わり果てたふるさとの姿
 私たちの村は、今では田んぼは柳の林、畑は萱の原。
田んぼには肥やしがあるから柳が生える。
畑には、肥やしをあまり必要としない萱のような、イネ科の植物が生える。
 中通りの阿武隈川と、宮城県を流れる名取川という2本の川があるが、その川をカモシカが渡って来てしまった、クマが渡って来てしまった。
特にイノシシが増え、逆にイノシシは川を渡って会津へ行き、それから山伝いに青森まで行ってしまった。
それまでカモシカやクマはいなかったし、イノシシはいたが人目につくような数ではなかった。
 震災前には大小の養豚場があって、住民が避難した後で豚が豚舎から逃げて野良豚になった。
豚は年に2回子どもを産むが、逃げた豚とイノシシの間でイノブタができた。
イノシシは一度に5匹くらいしか産まないが、イノブタは10匹くらい産む。
福島だけで今、イノブタは45,000頭ほどになっている。
 猟師が獲ればいいと思うだろうが、放射能が降った土の上で放射能のついた木の実や他のものを食べた動物を、なぜ殺生しなければいけないのか。
 殺生したら駆除会員の人たちは、1頭につき25,000円の報奨金が出る。
尻尾を切って名前を書いて役場に届ければ、25,000円貰える。
一昨年の1シーズンで、駆除代として40万円貰った人がいる。
 私は一人猟師で駆除会員になっていないので、仮に尻尾を持って行って25,000円貰っても、殺生したイノシシの始末を自分でしなければいけない。
2万ベクレルとか3万ベクレルに汚染されたイノシシを、自分で山から出して、自分で埋却処分するか焼却施設に持って行くかしなければならないが、そこでそうしている間に自分も被ばくする。
 2月に赤旗の記者と自宅に行って線量を測ったが、空間線量は3〜4マイクロシーベルトだったが地面を測ったら30マイクロシーベルトあった。
若い記者だったが「私はこんな所にいていいんでしょうか」と、さすがにやばいと思ったのか、そう言った。
「良いも悪いも、あんたが取材に来たいというから連れてきたんだ。俺も被ばくしてるんだから、あんたも被ばくするのは同じだから良いっぺ」と言いました。
雨樋の下は70〜80マイクロシーベルトありました。
●土壌汚染
 国は私たちに嘘をついた。
空間線量は時間が経てば自然に薄くなる。
地面に落ちるからだ。
土を剥がない限り、除染をしない限り、地面の線量は絶対に低くならない。
 だから私は土壌の線量マップを作ってくれと、役場や国に申し入れている。
私たちの裁判は、ふるさとを返して欲しい、そのためには除染をして欲しい、できないなら帰れるまでの生活を補償して欲しいとお願いしている裁判です。
 ふるさとを返してもらえるなら、帰りたい。
土壌汚染がいかに高いか、このままでは決して帰れない。
 私の家は300年ほど続いた、世代で言えば15代ほどになるが、ワン・ジェネレーションは30年ほどだから、大体30年で世代交代してきただろう。
代々大切に守られてきたふるさとに、できることなら帰りたいのだ。
 私たちは希望を失っていない。
だからそのためには早く除染をして欲しいから、土壌の線量マップを早く作ってくれとお願いし続けざるを得ない。
 しかし私は、なぜ被害者の私たちがお願いをしなければならないのか、未だにさっぱり理解できない。
国は土壌汚染を知られるのが、一番怖いのだろう。
 除染をしたから帰って来いと促し、子どもたちにも帰って来いと帰還を勧めるが、帰って来いという場所の土壌は汚染されている。
 常磐道ができて、浪江インターチェンジもあります。
インターから東側の地域は、避難指示が解除されました。
土壌の線量マップを見れば分かりますが、300万ベクレル以上のホットスポットがあります。
 5年前にNHKが、大堀の小丸地区で牛を飼っている私の友人を取材した番組をやっていました。
取材を受けた友人は、「オレは放射能を受けてもいいんだ、牛が大事だから」と言っていましたが、それは岩手大、北里大、弘前大の農学部の先生たちと牛を解体して放射能がどれほど入っているかを現地で調査した番組です。
そこの土壌は1億3千万ベクレルありました。
津島の赤宇木地区では、試験的に除染したらどれくらい下がるかと除染してみたら、3千500万ベクレルになったところです。
 セシウム134は、2、3年で半減しますが、137は半減に30年かかります。
放射能はすぐには無くならないのです。
 復興拠点整備事業が去年から始まりましたが、津島の9550㌶の割合はほとんど山林です。
8割の山林の内7割が国有林で、だから農水省は除染をしようなどとは、一言も言っていないのが現状です。
線量が高くて、国も手がつけられないのでしょう。


2019年5月9日号「1月25日トークの会報告③」

※質疑応答
Q:災害が起きた時に寄付を募ったりしますが、寄付は役に立っているのか?
また寄付するなら、どこへすれば良いのか?
A:日赤から最初に義援金で頂いたのは、まだ賠償などなかった時でしたから本当に助かりました。
被災者にとっては助かってありがたいことですが、日本では寄付の習慣がまだ根付いていないようです。
寄付金がちゃんと被災者に届くような仕組みを作っていただければ良いと思いますが、それがまだちゃんとできていないようなのが残念です。
Q:復興と避難が対立する関係にあるようだが、避難せずに住み続けている人と避難先から帰還した人、県外に避難している人が対立にならずに話し会える機会がもっとあったら良いと思う。
 給食には県内産の食材を使うといって100ベクレル以下のものを使っているが、1品目が100ベクレル以下でも食材全て合わせたら100を超えないかと問うたら、その時には食材を減らすということだった。
A:被害者同士を対立させない、それが本当にこれからの課題だと思います。
僕は、お互いはそんなに心の底は対立していないと思いますが、なぜ対立しているように見えるかというと、内堀県政に象徴されるように、復興を見せたがる、外に向けて復興をアピールするというような政治的な事が、一つの大きな原因になっていると思います。
 もう一つは公害の歴史などでも同じですが、御用学者たちのそこで名を上げたいという野心が利用されて、上から作られたそういう雰囲気が、普通の人たちのお互いの理解を妨げていると思います。
 政治的な判断で一方的に線引きをされて、それに賠償が絡んで、最初から分断が持ち込まれている事も大きい。
 それは僕も判りますよ、線引きされてこっちは月額10万円の賠償貰ってるのに、道路の反対側は何も貰っていないとなって、その感情の対立が消えない傷になってしまっている。
 更に今度は、解除の順番に時差を設けて支援を無くしていったりして、またそこで別の亀裂を作るなど、作られた壁のようなものが、心の通じるところを阻害していると思います。
 健康被害だって給食のベクレル数だって、みんな本当にそれで安心しているわけじゃないと思いますよ。
 ただそれを一緒に食べないと、またそこで「あいつは」と刃を入れられる。だからみんなそれが辛いから「大丈夫」「大丈夫だべと思うしかねぇな」と、心配を我慢している人たちの方が、本当は心理的にしんどい状態に置かれているのだと思います。
 県外に避難している人に対して、「住んでいる人たちがいるのに、なぜ戻らないのか」などと言う人もいますが、そうした政治的な意図を持った声に僕たちは振り回されてはいけないと思います。
 「そうじゃないよね、お互いにしんどいよね。放射能の問題についてはお互いに正面から向き合わないといけないよね」としていかなければいけないと思います。
 オリンピックの聖火リレーが通るといって6号線の清掃をさせられている子どもたちだって、喜んでやっていないですよ。
喜んだふうにさせられている、というのが一番の問題だと思います。
Q:東京に住んでいますが、出身は南相馬の原町で91歳になる父と83歳の母が原町にいるので、毎月介護に通っている。
 南相馬市は2006年に鹿島町と原町市、小高町が合併して南相馬市になったが、原発事故後、鹿島、原町、小高の分断をとても強く感じる。
小高はお金を貰ってるのに鹿島は何にも貰ってないなどとよく聞くし、この分断をどうしたらいいのかと思う。(注:鹿島区は、ほぼ30キロ圏外。原町区は、ほぼ20キロ圏外30キロ圏内、小高区は、ほぼ20キロ圏内)
A:お金で分断させられたことは、最初にバッサリ入れられた大きな傷で、これの修復には時間がかかると思います。
 「あの人は月10万円貰ってる、僕は貰ってない」となったら、それは気持ちを分断してしまうことは僕にもよく判ります。
 だけど逆に考えたら、「じゃぁ月10万円貰ったら、ふるさとを離れ知らない土地で生きたいか」と言ったら「それは嫌だ、できない」となります。
 だから僕らの裁判でも損害賠償で一番力を入れているのは、線引きではないだろう、受けた被害は生活を破壊されて元の生活に戻れないということで、この被害は線引きと関係がないということで、一律に損害賠償1,500万円請求ということでやっている。
 それに対して裁判所がどう答えるかが一つのポイントで、そうやってそこの部分の傷を少しでも塞げていけたら良いなと思っていますが、傷は大きくむずかしいですね。
 お金の話をするときには、受けている被害がどうなのかというところに戻って話したり考えたりしていかないと、目先の金額の差、貰えた貰えないということがいつまでも自分の中にトゲとなって刺さったままになってしまうのではないか。
 それを解かせるとしたら、僕らが裁判でやっているような被害に対する平等な賠償を
認めさせていくことだと思います。
 事故の被害に正面から向き合って傷を癒し、溝を埋めていくためには、共通の立場に立たないとならないと思います。
大変難しくて時間がかかりますが、やっていかなければならない、最大の目標だと思います。

◎「福島原発かながわ訴訟」判決
●判決
 原発事故で神奈川県に避難した60世帯175人が国と東電に総額54億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が、2月20日に横浜地裁でありました。
中平裁判長は、国と東電の賠償責任を認め、原告1522人に総額約4億2千万円を支払うよう命じました。
判決は2009年9月時点での東電の報告書で、福島第一原発の敷地高を超える津波の到来を予見できたとして、電源設備の移設をしていれば1号機の水素爆発は回避できたと指摘し、国の責任について、東電に規制権限を行使しなかったのは「著しく合理性を欠く」と違法であることを認めました。
 裁判のもう一つの焦点が、避難指示区域外からの自主避難者への賠償でした。
判決では原告が主張した被ばくによる健康影響には閾値がないとする「LNTモデル」について、「無被ばく者が、従前の被ばく量をわずかでも超える被ばくをすれば、ガン発症ほか健康上の影響を受けるということまで統計的に実証したものはない」と認めませんでした。
 また一方で、国が「100ミリシーベルト以下の被ばくでは影響が小さく、損害は生じていない」と主張したことについても認めず、「事態を受任して生活を続けることは精神的損害がある」と、中間指針が定める賠償額では不十分だとの認識を示し、自己決定権の侵害慰謝料として原則、1人30万円、子ども・妊婦は100万円の慰謝料を認めました。
 区域外避難者については、避難しないことで「将来ガンに罹患したとしても、それが放射線被ばくを原因とするものなのか」「判然としない事態を受任して生活を続けることにほかならない」と指摘し、区域外からの避難の合理性を認めました。
 請求を棄却されたのは23名で判決による賠償額がすでに支払われた賠償額を下回ることなどが理由でした。
●横浜地裁前
 判決が出ると弁護団が地裁前で「国の責任5度断罪」「賠償水準大きく前進」の垂れ幕を掲げました。
「法の庭八分咲きなり寒の梅」の墨書の垂れ幕も出ました。
原告団長の村田さんは「国の責任が明確に認められました。8年間、本当に辛い時間でした。国と東電は避難者いじめの政策をやめてほしい」と声を詰まらせました。
●判決を受けて原告団・弁護団の声明(要旨)
 「国や東電の加害責任が司法の場において5回も断罪された今、国や東電はこれまで進めてきた被害者に対する賠償、支援策の打ち切りという対応を根本から改め、被害者が原発事故以前の生活基盤を取り戻すための完全賠償とそのための諸政策を速やかに実施すべきである。
 合わせて福島復興再生特別措置法や福島原発事故子ども・被災者支援法の改正を始め、被害者の人権を回復し、生活再建を進めるための新たな立法の制定、施策を求める」と、声明を出しました。   ​

終わり​


2019年5月8日号「1月25日トークの会報告②」

​Ⅱ 罪深い原発事故
 原発事故は多くの人を巻き込んで、広く深く長く被害をもたらし続けますが、こうした被害は戦争以外にはないと思います。
●原発事故第一の罪
 子供の頃の疎開生活をしていた時は、食べ物もないような時代でした。
どこの家に行っても玄関脇に「戦没者遺族の家」という白い札が貼ってありました。
どうしてこんなものが貼ってあるのか子供の頃は判らなかったですが、原発事故に遭って、「ああ、あの戦争の被害と変わらないのが原発事故の被害ではないか」という実感を深めました。
 あの原発事故では、広島に投下された原爆の180倍くらいの放射能が出たと言われますが、それは事故直後のことであって、現実は今もまだ空気中にも放出され汚染水としても流れ続けています。
 放射能はどうやっても消せません。除染と言ってやっていますが、あれは「移染」です。除染してまとめても、セシウム137の半減には30年かかります。
 いま福島には9割ほどの人たちが事故前と同じようにそこに残って住み続けているではないか、と僕たち避難者は言われます。
 でも残って生活している人たちだって放射能に対する不安が無いわけではなく、心に蓋をして仕方ないと生活しているのです。
 事故を起こした原子炉は、溶け落ちてメルトダウンした燃料棒が、どこにあるのかも判らない。
もう一度大きな地震や津波が起きたら、またもや大きな事故が再現されるのです。
 原発事故による緊急事態宣言は、解除されずにまだ続いているのです。
 原発事故後に福島第一原発、福島第二原発は同時に緊急事態宣言が発令されました。
あの年の12月に第二原発が冷温停止状態になって、当時の野田首相が「原発事故は収束した」などと言って、第二原発の緊急事態宣言は解除されました。
けれども第一原発の緊急事態宣言はまだ続いているのです。
 原発事故は8年経っても、何も終わっていないのです。
 浜通りは自然環境に恵まれ気候も温暖で、海が近く魚が獲れ、山菜やキノコが採れ、台風などによる災害もほとんどなく、本当に気持ち良く過ごしたところでした。
それが原発事故によって日常が壊されてしまった。
事故前は戸外に出れば深呼吸をしたいところだったのに、事故後は「マスクをしましょう」となってしまった。
緑がいっぱいのところは命の源だったのに、放射能がいっぱいだから入ってはいけないところになってしまった。
自然が壊されてしまったのです。
 人間関係がバラバラにされ、地域がバラバラになってしまって元に戻る可能性はありません。
祭りなど、それまで続いてきた地域の文化も途絶えてしまった。
ありとあらゆるものが壊されたのが、この原発事故です。
 災害関連死や自死のように、失われなくても良かった命がたくさん失われました。
これらは他県に比べて、福島県がダントツに多いのです。
自然災害の場合は年を経ればこのような死因は減っていきますが、時間が経っても減らないのは原発事故の特徴的なことです。
 子供の甲状腺ガンも増えています。
健康被害に関して言えば、子供だけではなく高齢者の肺炎や心筋梗塞による死亡例も増えています。
 日常が壊され、故郷を奪われ、自然が破壊され、そして命まで奪われ、先が見えないから夢も希望も奪ってしまう、これが原発事故の第一の罪です。
●第二の罪
 刑事裁判は続いていますが、国と東電は原発事故の加害者として大きな罪があります。
 更に言いたいのは、事故後の対応による二次被害です。
 あれだけの被害を与えてのだからそれをしっかり見つめて、少しでも被害者の救済をしなければいけないのに、今の政権、国は被害者に対して全く真逆なことをやっている。
事故をなかったことにしよう、見えなくしようとしている。
 レベル7の事故だったのに、来年のオリンピックに向けて「主な処理は終わり復興している」と発信しようとする狂った方針で政治が進められ、被害者がそれに巻き込まれてきたのがこの8年です。
 被害にどう耐えるかとやってきた、耐えることさえできなかった8年の上に、もう一つ、被害はなかったことにしよう、蓋をしようという強烈な政治的圧力がかかっているのが、本当に被害者を追い詰めている元凶です。
 今それに直面しているのが住宅無償提供打ち切りです。
 一昨年3月に区域外避難者の住宅無償提供は打ち切られました。
放射能は30キロ圏内に止まっていないのに、政治的判断で被害地域と決めた範囲外から避難した人は「勝手に逃げた」という理屈を立て、「6年間もタダで住宅を提供したのだからもういいでしょう、もうこれ以上住宅提供できないよ」ということで、露骨に言えばそういうことで、区域外避難者の住宅提供を打ち切りました。
 さすがにそれではと、福島県が3万円、次年度には2万円を補助してきましたが、それも打ち切りました。
 これは帰還政策の一環で、住宅提供を打ち切ることで汚染地に帰そうとしているし、避難指示を出していた地域も次々に解除して去年の4月1日で帰還困難区域を除いて全てを解除しました。
 それによって避難指示区域からの避難者も区域外避難者と同じ扱いになり、今年3月限りで住宅提供が打ち切られました。
 避難指示解除で帰った人がどれくらいかというと、全体で言えば16%くらいです。
 なぜかというと、今は帰れる状況ではないことをみんな知っているからです。
 線量が下がっていない、フレコンバッグがいっぱいで、スーパーや病院なども身近になく、生活できる環境ではないからです。
 避難者の数は初めから曖昧でしたが、今でも7万人くらいはいるでしょう。
避難者の数はどこも責任を取ってまとめていません。
 住居の提供を止めて、それはまるで兵糧攻めのように「住居攻め」にしている。
 それだけでなく、浪江や飯舘などの帰還困難区域から避難している人に対しても住宅提供は来年の3月で打ち切り、「早く自立してもらう」と言っている。
 2020年オリンピックまでに、避難者をゼロにするというのが政府と福島県の目標なのです。
 安倍政権と福島県は、被害の実態や一人ひとりの生活とは全く無関係に、政治的な思惑だけで住宅提供を打ち切りました。
これは本当に深刻な事態を生んでいる、大きな罪です。
 借家でも、帰るところがあるから安心して生活できるのに、それを奪われる。
ましてや原発で避難をしていて、ことに区域外避難者の場合は賠償金もほとんどない中で、子供を連れて避難してしんどい思いをして8年。わずかに住宅が無償で提供されてきたから避難生活が続けられたのに、その命綱を断ち切ろうということが進んでいるのです。
 これが第一の罪にも劣らない第二の罪です。
●“我が美しき祖国”では
 裁判のときに意見陳述で話しましたが、チェルノブイリでレベル7の事故を起こしたソ連が、事故から6年経った1991年に、日本でいえば国会にあたる最高会議で「事故の被害に対する認識が足りなかった」という反省決議をしました。
それが元になってチェルノブイリ法ができました。
 それは事故に対する国の責任を正面から認めて、国の責任で一定の放射線量以上のところには住めないということで補償するという法です。直後にソ連という国家は無くなりましたが、チェルノブイリ法ができたおかげでベラルーシやウクライナ他で、今でもチェルノブイリ法が活きていて、国の責任において被害者を救済するということができているのです。
 ところが“我が美しき祖国”は、まるっきり逆のことをやっている。
国の責任については、被害者である僕らが裁判で争わなければならない事態になっているのです。

Ⅲ 生き残らされた者として
●蟷螂の意地
 生きてるだけでもしんどい被害者が、なんで裁判を起こさなければならないのか。
 それは、どこかでけじめをつけてもらわなければ、被害者の人間としての生き方が保証されない、人権が守られないと思うからです。
 問題は政府、行政がやるべきことをやらずに、真逆のことをしていることです。
 それと、また、立法府がもっとしっかりと政府に対して「それはおかしいぞ」と言えなければいけない。
「子ども被災者支援法」を作ったが、ただそれだけで、立法措置をするなど議会がもう一歩踏み込んでやってくれないといけないのに、全く無しで議会も政府も一体で嘘をついたりする状況だから、何も頼りにならない。
 唯一残っているのが司法なのです。それでみんな裁判を闘っている状況なのです。
 私たちのように損害賠償の集団訴訟でやっているのは全国で31か32あって、去年までで7つの判決が出ています。
 そこで争われているのは、①この事故の責任はどこにあるのかということです。
 こんなことを私たち被害者が裁判で争わなければならないということが、非常に逆立ちしていると思いますが、そこをはっきりさせないと次に進めない。それが第一の争点です。
 もう一つの争点は、私たち被害者は生きていかねばならないので、②事故に対する賠償をきっちりしろ、というのがもう一つの争点です。
●法廷での闘い
 今までに出た7つの判決について大きく言うと、第1の争点である国と東電の責任については、国の責任はありという判決が4つ出ています。
津波が来てあれだけの事故が起こることを予測できたにもかかわらず対策を怠った責任を問う、国家賠償法上の責任があるという判決が4つ出ています。
 今度のかながわ訴訟でも、そこをしっかり押さえていかないとならないですが、これは多分、揺るがない流れになるだろうと思います。
 問題なのはもう一つの争点である損害賠償です。
 これまでのところではもっとも高くて300万円、もっとも低いところで1万円などという賠償金判決が出ています。
これだけの被害を受けていることへの賠償金がこんなことでは、被害者はとても償われません。
 これは裁判官がこの事故の本当の大きさ、実態を掴みきれていないからです。
私たち原告の側の実証が足りないと言われるかもしれないが、できるだけのことを裁判で実証して、法廷に立って訴え続けてきました。
 まともな人間なら判る筈ですが、事故の大きさを判断してこれまでの判決にないようなしっかりした賠償の判決を出すような勇気を持った裁判官が、まだ現れていないです。
国が示している賠償の物差し(原陪審指針)に、裁判官がちょっとだけ上乗せしたような判決しかまだ出ていないのが現実です。
 かながわ訴訟では、被害の大元である放射線の被害についてしっかりと実証することに力を入れてきています。
 放射線の被害に対する認識がしっかりしていないと避難の正当性や、どれだけの賠償が正当かの判断が示せないと思うからです。
 これまでの判決は、「科学的に実証できない」という国や東電の反論の前に立ち止まってしまって、それで結果的に全てが中途半端な判決しか出されていません。
 かながわ訴訟では原告の被害者全部の自宅の空間線量、土壌線量を全て測って証拠として提出しています。
そして広島、長崎の原爆被爆者の調査で長年蓄積されてきた実績と合わせて、生涯における線量が50ミリシーベルトを超えることを実証しています。
 広島・長崎の追跡調査では、被ばく線量が50ミリを超えると200人に1人の割合でがんが発症すると実証的に指摘されているので、その辺を理解して判断してもらえるかどうか、それが重要な争点の一つだと考えています。
●「痛み」の連帯を
 裁判制度そのものが国家機関なので、あまり破天荒なことは期待できないし、現に目の前で進んでいる避難者を無くすという暴力的な政策への直接的な歯止めにはならないけれど、この事故に対する国と東電の責任をきっちりと認めさせていくことを基点にして、次の政策転換を迫っていくしかないと思っています。
 そう考えて裁判闘争をしていますが、辺野古の土砂投入の光景を見て僕らが感じているのは、僕ら原発事故被害者は、辺野古の海で窒息しかかっているサンゴと一緒だということです。
 でも沖縄の場合は県知事を先頭に県民が「これはおかしい」と一緒に立ち上がっているのに、福島は県知事を先頭にして安倍政権の先兵になっているという違いがあり、この点は沖縄と全く真逆です。
 そういうことはありますが、まだ被害もこの事故の現実も消えないから、必ずみんな黙って諦めることはないでしょう。
 僕はその一方で、少しでもこの事実の記録を残していくことが僕たちの責任だと思っています。 ​続く


2019年5月7日号「1月25日トークの会報告①」

 大変遅くなりましたが、1月25日に催したトークの会「福島の声を聞こう!vol.30 」の報告です。
ゲストスピーカーは、南相馬市小高区から横浜市に避難した村田弘(ヒロム)さん、「福島原発かながわ訴訟原告団」の団長です。
村田さんは当日のためにレジュメを作って配布してくださいました。
そのタイトルは「『破局の後』8年後の今を生きる」で、このレジュメに沿って話してくださいました。
 トークの会が終わった翌月2月20日に、裁判の判決がでました。
この件についても、報告の最後にお伝えします。

*今回も大変長い文章になりましたから、3回に分けてお送りします。
もしまとめてPDFでの送信をご希望の方がおいででしたら、そういたしますのでおしらせください。

◎トークの会「福島の声を聞こう!vol.30」村田弘さんの話
●まず始めに
 被害者の置かれている状況は、本当にしんどい。
今日はその辺を判って頂きたく、話します。
 2011年3月11日は原発から16kmの、小高区の町中にいました。
1号機が爆発した後、避難しろとの事で、横浜に子どもたちがいたので横浜に避難しました。
 避難直後は、何もかもがクシャクシャとしてどうなっているのかが判らない状態で、私自身も錯乱に近い混乱状態でした。
 自分でもどうして良いのか判らず困っていた時に、岩波書店の雑誌『世界』で「破局の時を生きる」という手記を募集していたのを見ました。
思いの丈を書いて応募したら、それが掲載されました。
ちょうどあの「破局の時」から8年経って、今日は「『破局の後』8年後の今を生きる」のタイトルでお話します。
 3・11の大津波、その後の原発事故は思いもかけない人生の転換点でした。
あの日を境にすっかり生活は変わりました。
Ⅰさまよう被害者
●あれまで
❶ドジョウ追いしかの川
 僕は昭和17(1942)年に、神奈川県の横須賀市で生まれましたが、父と母は今の南相馬市の出身です。
父は鹿島区の農家の次男、母は原町区萱浜のやはり農家の末っ子でした。
あの時代の農家は長男が後を継ぎ次男三男は外へ出ましたが、戦争の時代でしたから父は海軍に志願して職業軍人として横須賀にいて、僕はそこで生まれたのです。
戦争も末期に近くなると軍港の横須賀は爆撃されるかもしれないと案じて、母は子どもたちを連れて萱浜から3キロほど南の米々沢(めめざわ)と呼ばれている所に疎開しました。
そこで藁屋根の家を借りて暮らし、僕はそこで育ったのです。
 父は職業軍人でしたから戦争が終わったら仕事がなくなり、僕たちを育てるために浜で塩炊きを始めました。
子どもは6人で僕は真ん中です。
 塩炊きは海水から塩を抽出する仕事です。
父は母と二人で桶に海水を汲んできて砂浜に撒くのですが、すると水分が蒸発します。
また何度か海水をかけるのを繰り返して、濃縮させた砂を枠の中に入れます。
またそこに塩水をかけて水分を蒸発させ、と繰り返してある程度濃縮したら、それを大きな釜に入れて三日三晩かけて炊くのです。
下からどんどん火を炊いて、そうすると塩ができるのです。
できた塩を俵に入れてニガリを落として、それを背負って売りに行くような生活でした。
 その頃僕は4、5歳でしたが、父が海水を入れる樽を大八車に載せて海に行くのに一緒に乗っかって行って浜辺で遊んでいる、海で育ったような子どもでした。
 僕の家から学校まではずうっと広い田んぼで、子どもの頃は朝から晩まで田んぼの川でドジョウ獲ったり、うなぎやナマズを獲ったりしていました。
夕方になると母に「ヒロム、食うもん無いから、ドジョウ獲ってこい」などと言われて、そうやって育ったようなものですから、僕の骨の3分の1くらいはドジョウとナマズでできているって自慢するほどです。
あそこに行けばナマズがいるとか、どこで何が獲れるかなどを知っていました。
❷奪われた故郷
 米々沢の僕の育った家があったところが今は、除染物のフレコンバッグが置かれた広大な仮々置き場になってしまいました。
獲物が取れる場所を知っていた僕のテリトリーみたいだった所が、ほとんどフレコンバッグの下に埋まってしまった。
あの光景を見た時に僕は、この原発事故で本当に故郷を奪われてしまったなぁという気持ちになりました。
 そんな育ち方をして高校卒業後に会社(朝日新聞社)に勤めましたが、全国あっちこっちへ転勤がありました。
度々転勤がありいつも借家住まいでしたから、いずれは田舎に帰って土を耕したいなと、ずっと思っていました。
 両親は2人とも百姓家の出ですが、受け継いだ田畑は無かったので、親戚の家の田植えや刈り入れ時には手伝いに行ってたので、土を耕したいという憧れはなんとなく持っていたのです。
それで、定年になったら田舎に帰ってそういうことをしようと思っていたのです。
 妻の両親は戦争中大陸に行っていたのですが、戦後引き上げてきた時に、大きな百姓だった父方の祖父から小高の土地を分けてもらって、果樹園をやっていました。
 義父母は家の周りの土地を少しずつ買い求めて祖父に分けてもらった土地を増やしていき、畑が7反歩(2,000坪)ほどありリンゴやモモをつくっていました。
 その畑は義父父母が亡くなってから放って置かれて、ジャングルみたいになっていました。
 妻は3人きょうだいですが、誰もその土地の面倒を見ようと考える人はいなかった。
僕はそれを傍で見ていて、「義父母があれだけ苦労して買い集めて子どもたちを育てた土地を、誰もなんとも思わないのか」と偉そうなことを言った手前もあって、僕が定年になったらあそこへ行って綺麗にしてやると言ってたんです。
 妻は「二度とあそこへ帰りたく無い。あそこが嫌だったから出てきたのに」と言いましたが、説き伏せて、2002年12月に定年になった翌年小高へ帰りました。
●あのとき
❶まさかの坂
 それから茂った木を切って抜根したり、草を刈ったりして3年くらいかかりましたが少し綺麗になって、リンゴやモモの果樹を植えて、自分たちが食べる野菜なども作っていました。
 会社勤めは37年間でしたが転勤族で、その間引越しを13回くらいして全部借家生活でしたから、小高に戻って「さぁ、ここが自分の家だぞ」と思いました。
それまでは家賃を払うために働いているようにも感じて、妻と「ようやく家賃払わないで済むね」などと言い、これから残り少ない人生を真面目に物を考えていこうかと思っていた矢先の出来事でした。
 人生には山も平坦な道もいろいろあって「まさか」という坂があると言いますが、本当に「まさか!」でした。
❷津波の陰で始まった地獄
 あの時は津波が大変でした。
 南相馬だけで500人以上が亡くなっています。
 3月11日は親戚や実家が海の近くでしたから津波のことで頭がいっぱいで、津波の被害ばかりが気になっていました。
後になって気付いたら、原発が大変な状況になっていたのに、12日に1号機が爆発するまでは、原発のことは僕の頭には全くありませんでした。
 12日も母の実家に行って安否を確認したり、弟が住んでいた自分の実家(常磐線の磐城太田駅前)が地震で潰れたのを片付けたりして、3時過ぎに帰宅したら隣の奥さんが、「原発爆発したって言うから逃げるよ」と言ってきたのです。
でも僕は津波の被害のことで頭がいっぱいだったものだから、その日の夕方になって初めて原発が爆発して大変なことになっているんだなと気がついたのです。
 夕方6時半頃に、「20km圏内に避難指示」のテロップがテレビに流れて、菅直人首相が「念のために避難して下さい」とコメントを出しました。
 でも、避難せよと言ったってどこへ行けばいいのか、いずれ避難すべき先を伝えてくるだろうと思って、僕らは家にいました。
 ところが次の朝、外から帰って来た妻が「この辺誰も居ないみたい。シーンとしている」というので町まで下りて行ってみたら、町の中はもぬけの殻で銀行も郵便局も閉まっていました。
 役場に行ったら若い人が2人残っていたので、みんなどこへ避難したのか尋ねると、「随分のんびりしてますね。昨夜は大変でしたよ。みんな車で行ったから渋滞が酷かった。小高の人はみんな、原町の石神小学校と石神中学校が避難所になってます」と言われました。
●あれから
❶避難所へ
 それで毛布を2、3枚車に積んで避難所へ行ってみたら1,000人くらいの人が居て学校中いっぱいで。
体育館に行ったら、もうみんな毛布をビッシリ敷いていたけれど、知り合いの人がいたので「少しだけ空けてください」と言って入らせてもらいました。
 そこに13、14、15、16と4日間、床に毛布を敷いて雑魚寝の避難をしました。
 困ったのは全く情報がないことでした。
新聞はこないし、初めの頃はテレビもなくて、情報源はラジオしかありませんでした。
カーラジオを聞こうと思って1時間おきくらいに聞いていましたが、当時はほとんど津波被害のことばかりで、原発に関するニュースはほとんど無かったです。
電話も通じず、最初の2日間はそんな風に情報から切断されたような状態でした。
 14日になってテレビが1台入り、NHKのニュースで現場の状況が少し判るようになりましたが、学者の話も「大丈夫」というようなことばかりでした。
「爆発ではないでしょう。爆発的事象です」などと言われ、深刻さがまだ判りませんでした。
 ところが15日夜に初めて電話が通じて、大阪に住んでいる会社の先輩から電話がかかってきました。
先輩の第一声は「何してんだ!お前はまだそんなところにいるのか!早く逃げろ!」というもので、ようやくそんなにも深刻なことになっていたのだと気がつきました。
 そこからは急転直下。15日には2号機も爆発して南相馬市も避難所を閉鎖するとなりました。
❷避難に次ぐ避難
 16日夜10時頃になって市の職員が避難所に来て、「この避難所は明日の朝には閉鎖するので、次の3つから選んで行き先を決めてください」と言うのです。
⑴新潟県が受け入れてくれるから、集団で希望者をバスで送る。
⑵自力で避難できる人は、ガソリンを10リットル支給するので各自で避難を。
⑶どこにも行くすべがない人は、もう少しここに残っても良い
と、3つの選択肢が提示されて、明朝7時に避難所は閉鎖、と言われました。
 僕はサラリーマン時代に横浜で暮らしたこともあり、また子どもたちも横浜や川崎に住んでいて、彼らもこっちに来るようにと言ってくれたので横浜に行くことにしました。
 避難する時にはほんの2、3日で帰れると思っていたので、何も持って出ませんでしたから、横浜に行く前に自宅に寄ってからと思いました。
 ところが我が家は避難指示が出された20キロ圏内なので一般道路は封鎖されて通れないので、朝4時頃に避難所を出て山道を抜けて自宅に戻りました。
 我が家には仔猫がいましたがその猫を置いたまま避難していたので、もしその猫がいなかったら探している時間はないから置いていくしかないと思っていました。
 家に戻ると猫は、僕らを待っていたかのように玄関先で「ミャー」と鳴いていたのです。
 地震で本などが散乱したままの家から着替えやお金、それと僕の“埋蔵金” (何本ものフィルムケースに入れて貯めていた500円玉)を持って、猫を連れて出ました。
福島を経由して、2日かけて川崎の長女の家に避難しました。
 13日から17日まで5日間風呂に入らなかったし、温かい食べ物を食べていなかったので、川崎へ行く途中のインターチェンジの食堂で最初に食べた蕎麦が、美味かったですねぇ。温かい食べ物って美味いんだなぁと思って、今でもあの暖かさは忘れられないです。
 そうやって長女の家に避難した後、末の娘が住んでいた横浜市旭区の神奈川県住宅供給公社に1部屋空きがあるからと娘が手続きをしてくれて、エレベーターもない5階の団地で夫婦と猫1匹で暮らし始めました。
 小高の家では部屋中駆け回っていた猫ですが避難生活は判るのか、駆け回ったりせず大人しくしていました。
でも猫も狭いところで四六時中人間と一緒にいるとストレスが溜まるのか、洗濯機のホースが動くのを引っ掻き回して水漏れ騒ぎを2度も起こし、階下の人には賠償を請求されました。
 まだその頃は東電の賠償の話も進んでいない時期でしたから、フィルムケースに入れてきた“埋蔵金”などで弁償したのですが、猫と一緒に居られる家を探さなければと思い近くの民家を探しました。
 たまたま転勤で4年ほど家を空けるので貸してくれるという人がいて、そこを借りて入りました。
 公社の部屋に1年居ましたから、あと4年すれば事故から5年。
その頃になれば何とかなるだろうと思いながらそこに住み始めました。
しかし、4年経っても何も変化せずに全く帰れない状況だったので、仕方なく別の家を探して避難してから3回目の引越しをしました。
現在は、同じ横浜市旭区の借家に住んでいます。
❸頭をガツンと叩かれた
最初は原発事故の状況がよく判らないでいて、その頃はどちらかといえば精神的に安定していましたが判ってきたら、「えっ、こんなことが起きていたのか!」ということの連続でした。
 一番初めは4月3日か4日に海側のサブトレインの1号機か2号機から、ものすごい高濃度の汚染水が流れたというニュースがありました。
それを止めるのに新聞紙やペットのトイレ材を投入したが止められず、コンクリートを投入したなどという話が3日くらい続きました。
それを聞いたときには、これが今まで日本の科学の粋を集めて絶対安全だといってきた原発の実態なのかと、あれが一番のショックでした。
ガツンと頭を叩かれたような気がしました。
❹幽霊みたいに
 その後、白河の農家の方が自殺したり、南相馬では82歳のおばあさんが「私はお墓に避難します」と遺書を書いて自殺、飯舘村の長谷川健一さんの友人の酪農家が「原発さえなければ」と牛舎の壁に書いて自殺など、そういうことが次々に出てきました。
 僕の近所でも、お年寄りが避難先で次々に亡くなっていきました。
 原発事故は日常を奪い、ふるさとを、夢や希望を奪い、自然を破壊し、命までも奪っていきました。
 そんな頃に(自民党の)高市早苗が、「原発で死んだ人は一人もいない」などと言ったのです。
 そんなことが続いて僕の精神は錯乱状態のようになって、自分の足場がなくなって幽霊になったみたいな雰囲気を味わって、本当にしんどかったです。
❺集団提訴へ
 その後、「原発民衆法廷」みたいなことをやろうという方と一緒に1年半くらい全国を回ったりして、それで冷静さを取り戻してきました。
 ところがその頃になると被害者に対する国や東電の対応の仕方が、目に見えてどんどん悪くなってきました。
 賠償をしっかりさせなければと、1年半くらいしてから横浜弁護士会(現在は神奈川弁護士会)の弁護士さんの支援を得てADRの手続きをしました。
 それがまた、加害者の東電は凄まじく人を馬鹿にしたような対応で、避難によって生じた支出についてはレシートを持って来いというのです。
僕の家ではレシートは生活の歴史だからと、すべて捨てずにとっておいてあったのでそれを持っていくと、1枚1枚について何の用途で何に使ったのかなどと聞くのです。
 そんな馬鹿げた対応なので、これでは話にならん、ADRでは話がつかないとなって、東電が加害者なのにまるでこっちが加害者のように立場が逆みたいになったので、やっぱり裁判に持ち込まなければダメだとなって、2013年に集団で横浜地裁に提訴して裁判闘争を続けてきました。
 その過程で本当にいろいろなことを考えたし、考えさせられてきました。
 5年半かかりましたが、ようやく昨年7月に結審して2月20日、横浜地裁で判決が出ます。  

​続く​

 


2019年5月2日号「お知らせ」

 写真展「ツァンパで朝食を」
9年ぶりの写真展です。
同名の写真集発行に合わせて開催します。

会期:5月24日(金)〜6月2日(日)11:00〜20:00(最終日は17:00まで)
場所:セッションハウス・ギャラリー(新宿区矢来町158 2F)
入場無料
お問い合わせ:03−3266−0461
ギャラリートーク:①5月24日19:00〜20:30 ②6月1日16:00〜17:30

 初めてのチベット行から30余年が経ちました。
どんな人がどんな暮らしをしているのか何も知らなかった子どもの頃から、なぜか「チベット」という響きに惹かれて憧れていました。
 思いがけずに扉が開かれてチベットへ飛び出したのは1987年、42歳の時でした。
長年勤めた保育士をやめた翌日、出かけたのでした。
高野山のお坊さまたちと行を共にした、「チベットの仏教寺院を訪ねる旅」という旅行会社企画のツァーでした。
初めてのチベット行を前にして「行けばきっと、なぜそこに惹かれてきたのか判るに違いない」と、好きの理由を知りたいと思っていた私です。
行ってみたらお寺巡りにはまったく心踊らず、でもお寺にお参りに来たチベット人と笑みを交わし、農作業をするチベット人と一緒に鍬を振るったり、チベット人との触れ合いが深く心に刻まれました。
「彼らといるとなぜこんなに、穏やかな心地になるのだろう。言葉一つ通じないのに」と、その理由を知りたくて通い続けるようになりました。
 1995年には、チベットの西北部チャンタンをほぼ半年かけて馬で行きました。
初チベット行の後も毎年訪ねていたのに、この「50歳記念騎馬行」で私は、ようやくチベットの懐に飛び込めたと思えました。
 その後も広いチベットの各地を訪ね、また季節を違えて同じ地を繰り返し訪ねなどしてきました。
そのたびにいつも心に触れる出会いがあり、彼らの暮らしぶりが深く心に刻まれてきました。
けれども私が通い始めてからの、たった30余年の間に消えてしまった光景があります。
また、もはや風前の灯のような暮らしの風景もあります。
チベットは政治的に語られることや、宗教・信仰面で語られることが多いのですが、私は人々の日常を記憶に留めておきたいと思っています。

 今回の写真展タイトル「ツァンパで朝食を」のツァンパは、チベット人が常食する青裸麦(大麦の一種)の煎り挽き粉です。
はったい粉、麦こがしのことです。
 展示写真の他に、「西の家・東の家」「衣装百花繚乱」花の好きな方には花の写真も、手仕事や食べ物などとジャンル分けにした多数のアルバムもご覧いただけるように置きます。
どうぞ、ごゆっくりお出かけください。                 

いちえ

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2019年4月8日号「2月25・26日福島行③」

 小高区大富に、大井千加子さんを訪ねました。
大井さんは大富の自宅から避難して、福島市に1年、その後は原町の借り上げ住宅で4年過ごし、一昨年7月に大富の自宅に戻りました。
そして株式会社彩葉(いろは)を立ち上げ、老人介護の仕事を始めたのです。
自宅に隣接して要介護の人を対象にした「デイサービス いろは」と、そのすぐ近くに介護予防施設として「お元気デイサービス 彩りの丘」、「居宅介護支援事業 いろは」の
3つを統括運営しています。
 被災前には74軒が暮らしていた大富地区ですが、現在は15軒しか戻っていません。
戻ったのはほとんど高齢者たちとはいえ、こうした施設が成り立つのだろうか、ここで老人介護の事業を立ち上げるには、相当の覚悟が必要だったのではないかと思うのです。
 原発から20km圏内で山側に位置する大富ですから放射線量が高い場所もあります。帰還した人も少ないのに、ここで施設を作っても利用者がいないという心配はなかったのかと、私にはそれが大きな疑問でしたから、まずその点をお聞きしました。
この日は「お元気デイサービス 彩りの丘」でお話を伺いましたが、千加子さんは問いに答えて言いました。
●「デイサービスいろは」
 鶏が先か卵が先か、です。
帰りたいけど、施設がないから帰れないということもあります。
私の中には、やらなければダメだという思いがありました。
銀行とのやりとりも何とかなったので、やると踏み切ったのです。
 2017年7月に、私たち夫婦と夫の両親の4人で大富に戻りました。
息子夫婦と二人の孫は、いわき市に避難しています。
義父母は住み慣れた大富に戻りたいと強く願っていました。
避難生活では、心身ともに本当に疲れてしまったのでしょう。
年寄りだけを戻すわけにはいかないと考えて、私たちも一緒に戻りました。
私自身は、家族みんなで一緒に暮らしたかったので別の場所でもいいと思っていましたが、義父母の願いも大事でした。
孫もいますから息子たちをここに戻すわけには行かず、息子家族は避難したままです。
 義父は認知症もある半寝たきり状態で、義母はリウマチを病んでいました。
夫は建築関係の仕事で毎日勤めに出ています。
ずっと私が家に居るのでは嫁として結構大変で、それでは私も心身ともに参ってしまうと思いました。
大富に帰ったら近所にも人がいるだろうと思ったのに、近所には誰もいませんでした。
それなのに私が外に勤めに出たら近くに見守る目もなく、リウマチで体が不自由な義母が認知症の義父の世話をしながら年寄り2人だけで日中を過ごすことになります。
ここを始める前は他のデイサービスに2人を預けていましたが、私がこの仕事を始めたら、ここで面倒を見ていけると思いました。
 自宅の隣は家の畑だったので、そこに介護施設を作ることにしたのです。
私もそこで働きながら、義父母を施設で世話できると思ったのです。
自分でやる施設に家族を入れるのはどうなのかと思われるかもしれないのですが、他の選択肢はありませんでした。
地区に戻ってきたのも高齢者ばかりでしたから、介護施設は必要だと思っていました。
それで、やろうと思って役所に相談に行きました。
●役所との交渉
 施設を建てようと思った場所は畑地でしたから、農地転用の手続きが必要でした。
介護施設を始めたいと役所の介護保険係に申請に行くと、担当者は知人でした。
農業委員会で農地転用手続きをするときには、委員会の人に「本当にやるんですか?」と言われましたが、役所の人が「大井さんがやるのだから良いじゃないですか。きっとやるから、農地転用しても大丈夫ですよ」と保証してくれて、転用が許可されました。
 宅地だったら農地転用手続きは必要なくすぐにできたのですが、まずこの手続きをしました。
その手続きまでも、また大変でした。
除染済みの証明書が必要だったのですが、除染してあったはずなのに、除染済みの資料が無かったのです。
国からは「除染しました」と通知はあったのに、証拠となる資料が無いというのです。
環境省に問い合わせたら、除染業者はコロコロ変わるので前の業者から資料を受け取っていないので、すぐに出せる資料は無いから、もう一度除染しましょうということになったのです。
そして除染にかかり、その写真を撮ったデータを貰い、除染が終わったということで農地転用の手続きをして許可が出て、それからスタートでした。
 20km圏内で賠償金が出ましたが、その賠償金を使わずに貯めていたので建築費にはそれを使って銀行の融資を受けました。
●「彩りの丘」
 「デイサービスいろは」は自宅の隣で畑だったところに作りましたが、こちらの「彩りの丘」は組内で隣の友達の家だったところです。
震災前から親しくしていた人で、小さい子どもがいるので避難先から戻らないと言っています。
友人にこの家を貸して欲しいというと、快く「使っていいよ」と言ってくれました。
この建物は震災の2年前に建てられた新築の家で、3世代同居の家族でしたからバリアフリーで廊下も広く、また男性が多い家族だったので男子トイレが別にある建物です。
 デイサービスを始めるにはそれなりの施設設備が必要なので、それらを備えた建物を作ることが前提でしたから、ここを使うことは始めから考えていませんでした。
でも「いろは」の研修で打ち合わせにこの建物を使っているうちに、「ここも使えそう。要介護の人の施設はそれなりの設備が必要だけど、介護予防なら普通の家でできるから、ここを介護予防施設に使ったらいいのではないか」と考えました。
 介護予防は、大事だと言われる割には重視されていないと思います。
実際に南相馬の人たちを見ていると、介護予防の施設は足りていないと思います。
要介護にならないようにということを重視しているなら、本腰を入れて介護予防に取り組み、その予算を組むべきだと思うのです。
たとえば国が10円しか出さないなら、県や市はもっと本気になってあと5円上乗せするとかしないと、本当に採算が取れません。
国が基準としているギリギリのところで私はやっていますが、その基準では採算は取れません。
国の基準で儲かっているところがあるなら、教えてほしいと思います。
けれども実際には、利用者さんにとって介護予防施設は本当に必要だと思います。
 心療内科の先生にお聞きしましたが、人と話すということが認知症の一番の予防で、また生活の質を上げるのにも大事だと言われました。
週に1回でもここに来て、初めて会った人とも話したり笑ったりして、帰るときに「また1週間後に」と言って帰る人を見ていると、本当に必要とされている場所だと思います。
 採算が取れないのを知って、「え〜、やっていけるの?」という人はたくさんいるし、これをやろうと思う人もいないけれど、介護予防は絶対に必要だと思うから、やれるだけやっていこうと思っています。
 利用者は、自分から「行きたい」という人はほとんど居ません。
デイサービスというと「子どもじみたことをやってる」とか「自分のやりたいことが出来ないで、みんなと同じことをやらされる」といったイメージが植えつけられてしまっているようです。
私たちが目指しているのは、できるだけその人のこれまでの生活に添っていこうということだし、笑ったり泣いたり、当たり前の事に触れていけたらいいなと思っています。
その人がこれまでに培ってきたことを、発揮できるようにしてあげたいと思っています。
 ここに来て「あら、こんなところが在った」と口コミで広がり、社協やケアマネージャー、包括支援センターからの紹介もあります。
だからその人たちとのバトンも大事ですが、利用者たちが「良いよ」と言ってくれる口コミが、とても大事だと思っています。
●イノシシが減りました
 介護予防施設の「お元気デイサービス 彩りの丘」は2017年11月に開所し、介護施設「デイサービス いろは」は2018年2月に、「居宅介護支援事業所 いろは」は、2018年11月に開所しました。
 この仕事を20数年やってきているので、以前一緒にやっていた人が「やるの?」と言って助けてくれたりで、正規職員は4人ですがパートを入れて20人がスタッフです。
他に地域のおじちゃんが送迎の運転手をしてくれたり、おばちゃんが食事を作ってくれたりと地域の人たちがボランティアで手伝ってくれています。
 「ここでやる」と思った時に、地域を巻き込みたいと思ったのです。
またここで働く若い人たちも、仕事としてではなく地域の人とお互いに支え合ってやっていくことを学んで欲しいと思ったのです。
一番若いスタッフは28歳、一番年長は76歳の近所のボランティアのおじちゃんです。
幅広い年齢層がいて、それが家族だと思うのです。
時々は若いスタッフの子どもが遊びにきたりして、とても良い感じです。
 介護の仕事というと建物の中で完結してしまうイメージがありますが、そうではなくて、いろんな人と関わり合って、いろんな環境と関わり合っていってほしいのです。
利用者さんの人生って色々だと思うし、だからスタッフもいろんなノウハウがある人が居てほしいです。
 シフトを組むのは、みんなの話し合いでやっています。
20数年介護の現場に居て、トップダウンみたいなやり方が多かったですが、それは間違いではないけれど現場の人が一番よく知っているのだから、現場の人たちが話し合っていかないといけない。
ここは介護者たちが、一生懸命に考えてやってくれています。
 ここを始めてから、イノシシが減りました。
減ったのではないかもしれませんが、日中出てこなくなりました。
人の出入りがあるから、イノシシも出てこれないのでしょうね。
地域の人との関わりも増えて、地域でもいろんなことでみんなが関わってくれています。
この地域では、57歳の私が一番若いのです。
住んでくれる人が増えたら良いなぁと思っています。
 曜日によって利用者数は違いますが、「デイサービス いろは」は、月曜日が15人、他の日はそれよりいくらか少なく、「彩りの丘」は1日10人前後です。
去年の10月くらいまで小高の人はほとんど居ない状態でしたが、今は増えてきました。
ようやく小高も水道が使えるようになったので高齢者たちも戻ってくるようになりましたが、それまでは小高では生活ができなかったのです。
ここは原町からは遠く、浪江が近いので浪江の人も受けています。
地域密着型というデイサービスの縛りがあって、役所からは地域の人優先と言われますが、市と掛け合ってやっています。
 利用者さんは、家族が連れてくることも稀にありますが、ほとんど送迎しています。

 私が大富の梅田照雄さんを訪ねたのは、つい一月前でした。
その日梅田さんから、「近くに大井さんという人がいて紹介しようと思っていたら、昨日お母さんが亡くなって、今日がお通夜なのです。彼女はデイサービスを立ち上げてやっているのです」と聞いたのです。
 そしてその一ヶ月後のこの日に私はまた大富に行き、リウマチを病んでいた義母を亡くし夫と義父と3人の暮らしになった千加子さんにお会いしたのでした。
初対面の千加子さんにお会いした私は、一目見るなり強く惹かれるものを感じました。
千加子さんは爽やかな笑顔で、介護施設の立ち上げまでを語ってくれましたが、ここに至るまでには、壮絶な体験がありました。

●あの日、千加子さんが見たもの
 2011年3月11日14時46分、大地震発生。
南相馬の老人保健施設ヨッシーランド介護長だった千加子さんは、施設利用者と職員の全員が無事であることを確認し、寒い日だったので防寒対策をとって建物の外へ避難誘導しました。
「地震から津波までの40分くらいの間、やれるだけのことはやっていたつもりでした。
これまで度々避難訓練を行ってきましたが、その時に消防士さんからは、海から2kmも離れているので津波が来てもせいぜい床上くらいでしょうと言われてきました。
 揺れから40分の間に県道まで逃げていたら助かったでしょうが、防災無線は鳴らず、けれども続く余震に、これは危ないのではないか思って避難を決断し、津波がくる10分か15分前に「逃げましょう」と伝えて避難を始めたのです。
避難を始めていた時に、松林に覆いかぶさる波を私は見たのです。
津波の早さに勝てるわけはないですが、できるだけのことはしました。
でも津波は屋根を覆ってしまった。
後で知れば、80人くらいは逃げて助かっていますが、40人くらいは助からなかった」
 千加子さん自身も波に叩きつけられ、また猛烈な勢いの引き波から辛くも逃れ、泥に埋まった人を引き上げ、引き上げ……、無我夢中で救護にあたりレスキュー隊を待ち、救護した人の顔や体を拭き、救急車に同乗してなんども連携病院へ走ったのでした。
また受け入れ可能な施設へ手当たり次第に連絡を取り5ヶ所の移動先を確保しました。
 12日午後一旦自宅へ戻ると、市から体育館への避難指示があって家族は全員避難していました。
家族は千加子さんの生存を諦めかけていたそうです。
無事を確認しあうと千加子さんは汚れた服を着替えて、またすぐに本部に引き返したのです。
 「ブルーシートの上の遺体の顔の泥を拭いながら、ご家族への謝罪の思いで胸が詰まりました。
遺体安置所への収容を依頼して、消防団と施設の車で遺体安置所へ移送しました。
 3月12日15時36分、福島第一原発1号機水素爆発。
半径20キロ圏内避難指示。
受け入れ施設に職員が来ない、無断で緊急避難を始める職員、電話は不通、連絡手段もない、迎えに行くにも燃料もない!そんな中で24時間以上勤務する職員もいたといいます。
 3月13日。
水がまだ出ない、食料・薬・物流が止まる、更なる燃料の危機、交代の職員が来ない、連絡が取れない…状況が続きました。
 3月14日11時1分、3号機水素爆発。
避難を希望する職員と交代し千加子さんは施設に行き、夜間に本部に戻って仮眠していました。
その深夜、日付は15日になっていましたが、息子から緊急メールが届きました。
「自衛隊が原発から50km圏外に走っている。今すぐ逃げろ!」
千加子さんから息子への返信は、「置いてはいけない。どうしようもないから、まずはみんな助かってね」
 3月15日6時14分、2号機爆発、建屋損傷。9時38分4号機で出火。30km圏内屋内退避指示。
 物流が止まり食事は汁のみで2食との放送があり、自販機の野菜ジュースを買い占めて利用者の栄養補給にしましたが、食事も薬もオムツにも終わりが見え、先が不安の中を午後になって連携病院へ移動しました。
 受け入れ施設は2ヶ所のみになり、その一つの施設から夜に、「職員が誰も来ていない」と連絡が入り、とうとう動けるのは千加子さんだけになってしまいました。
千加子さんがその施設に行くと友人が迎えてくれて、「今夜はこちらの職員に任せてゆっくり休んで」と言ってくれたのでした。
千加子さんはその夜、あの日から初めてお風呂に入り、初めて布団で休んだのでした。
 3月16日、朝。
夫と息子が着替えを届けに来てくれて、家族はみんな避難所で無事にいること、孫が寂しがっていることを伝え、大変だろうが頑張れと励ましてくれました。
この日、千加子さんは1ユニット15人の利用者を任されましたが、避難を希望する職員もいて、理事長は「避難希望者は避難していい。再開時には来てくれ」と決断して希望者は避難していきました。
 この時千加子さんは、避難する職員に問われました。
「なぜ、大井さんは逃げないの?」
問われて自問した千加子さんは、自身に答えたのでした。
「私には孫がいて、命が、ちゃんと継ながっている。もしものことがあっても、私の生きていた証はある」
 職員が避難し、残った数名の職員でヨッシーからの避難者と施設の利用者と共に過ごすことになりました。
ここで避難者の一人が施設職員に「私の薬はないのでしょうか?」と問うた時に、施設職員が答えたのです。
「もう、薬は手に入りません。これからは、一人ずつ看取ることになるでしょう…。
それが、これからの私たちの仕事です…」
それは、30km圏内屋内退避となって物流が途絶えた中での言葉でした。
千加子さんは、「あの津波の中から助かった命をこんなことで亡くしたくない!そんなのは絶対に嫌だ!」心で叫びました。
 その夜、施設長から「明日、福島市へ避難できるかもしれない。理事長が交渉中で、ヨッシーランドの避難者全員が1ヶ所の施設に行けるように調整中」だと伝えられ、その言葉に「助かる!これで助かる」と思った千加子さんでした。
 3月17日、朝から移動準備を開始し、夕方に移動が決定しました。
ヨッシーランドからの避難者13名全員、施設入居者17名の計30名、引率者1名、大井千加子と決定されました。
16時、観光バスで介護タクシーの運転手と補助1名とで60km先の福島市へ移動開始したのでした。
19時頃、光る街灯と待っていた職員のみなさんの笑顔の挨拶に迎えられて、福島市なごみの郷へ到着したのでした。
 「私たちは助かった。もう、死と向き合うことはない。生きる…」安堵した千加子さんでした。
●心的外傷後ストレス
 ヨッシーランドから避難した人たちのデータは、津波で全て失っていました。
利用者たちの家族もどこかに避難して連絡がつかないままでした。
受け入れてくれた福島市なごみの郷では、職員たちが懸命に情報収集に努めました。
寄り添ってくれる職員もいました。
お風呂に入ることもでき、三度の食事ができることをしみじみ幸せに感じ、ゆっくりできて心身ともに落ち着いたはずでした。
 けれども4日目に、両手が突然震えて止まらないのです。
寝れば毎日同じヨッシーランドの夢、真っ黒なものが動く夢を見て夢の中で金縛りにあっていました。
1年くらいそんな夢ばかり見ていて、千加子さんは、「私は生きていて良いのか」という思いに苛まされていました。
そんな夢を見なくなってからも、寝ても4時間も眠られないまま目が覚めてしまう日が1年以上続きました。
 取材を受けたり講演を頼まれたりして、千加子さんは皆さんのためになるならとできる限りを受けてきましたが、あの日のことを話すと、両手に泥まみれの利用者の重さが蘇って、体が震えました。
突然涙が止まらなくなったりもするのです。
時間が経ってもあの日を伝える文字や映像、言葉に、体も心も反応してしまうのです。
 3年ほど経って、ようやく体が反応しなくなりましたが、一人で過ごす休日が怖かったと言います。
街で、亡くなった利用者さんの家族に会うのが辛く、震災後の慰霊祭でも顔を合わせられませんでした。
被害者であると同時に、加害者でもあると思えてならなかったのです。
助けることができなかった悔いが残って苦しかったし、苦悩は続き、またフラッシュバックで生きている意味がわからず、それで休日も仕事をしていようと思ったのでした。
 2011年6月にヨッシーランドで慰霊祭をしましたが、千加子さんはその場にいて体が張り裂けそうでした。
「80人は助かったじゃない」と言ってくれる人もいましたが、亡くなった人の家族は「なぜうちのばあちゃんは助からなかったの」と思うだろうし、口に出さなくても、そう考えるのではないかと思えてならない千加子さんでした。
そんな思いをずっと抱えているので、8年経った今も、ご家族にちゃんと会える自信がない、顔を合わせられないと、辛く思っているのです。
 私は2011年夏から南相馬に通い始めました。
原町のビジネスホテルに宿を取り、宿の主人の大留さんから被災地を案内してももらい、そのときに被災の爪痕を残すヨッシーランドにも行きました。
大留さんは、「あの日の夜、うちのお客さんが泥だらけで帰ってきたの。どうしたのと聞いたら、ヨッシーランドのお年寄りを救援してたんだって。
ほら見てごらん敷地からこの道路まで、ほんの1mか1,5mでしょう。ここを上れた人は助かったんだろうが、一人じゃ動けない人もいたんだろうな」と言いました。
建物内部は津波の爪痕がそのまま残り、玄関ホールだったところには献花台がおかれていました。
 千加子さんの言葉に、あの日に見たヨッシーランドの情景を思い起こしました。
そして泥にまみれながら懸命に利用者たちを救い出そうとする千加子さんたちの姿を想い浮かべました。
そしてまた千加子さんのように、多くの人がPTSDを抱えていることを思いました。
 「亡くなった人の家族に顔を合わせられない。辛いです」という千加子さんに、私はお聞きしました。
「でも逆に、今こういうお仕事をしていなければ、もっと辛いですね」
千加子さんは答えて言いました。
●私にできることは、これしかない
 「動けるから元気に見えるし、喋れるから大丈夫に見えていたかもしれない。
でも、そんな5年間でした。
これからどうするの?という時に、これを立ち上げました。
 20数年介護の仕事に携わってきて、ヨッシーランドにいて津波で腰まで浸かりながら生きて、今があります。
亡くなった方たちに私は、すごく良くしてもらっていました。
その人たちにどう向き合うか考えると、いま生きている方たちに恩返しするしかないと思って、それは自己満足かもしれませんが、亡くなった方が応援してくれるなら、いま生きている方たちに恩返しするしかないと思ったのです。
原発事故があって自宅にも戻れず、また心身の不調もあって、私は5年間は動けませんでした。
でも、私にできることはこれしかないと思いました。
 たくさんの人に支えられました。
皆さんが来てくれて、少しでも興味を持ってくれて少しずつでも広げていけたらと思っています。
小高に、住んでくれる人が増えたらいいなぁと思っています。
 2012年4月に避難指示解除になって昼間は小高に入れるようになった日に、初めて蛯沢の実家に行ってみました。(注:蛯沢は海側の地域で干拓地)
津波の被害を見て、ショックでした。
友人の家や思い出の沢山あるところだったのに、家も畑も何も無くなって海に戻ってしまっていました。
 けれども「いろは」を始めようと思ったときにちょうど良いタイミングで、昔お世話になった人たちに会うことができて、それもまた私の背を押してくれました。
「やるべきじゃないか!」と思えたのです。
 長野県の御代田の人たちが、ボランティアでずっと来てくれています。
はじめは家の片付けや掃除をしてくれて、5年間も開けていなかった冷蔵庫をすっかりきれいにしてくれたり、5年間も住んでいなかった家を泊まれるようにしてくれました。
そして今、私たちはその家に住んでいます。
 そうやって片付けや掃除をしてくれる中で、蕎麦の種の話が出たのです。
蕎麦の種をあげるから、蒔いてみないかと言うのです。
それを区長さんと梅田さんに話すと梅田さんが動いてくれて、大富に蕎麦畑ができて花が咲いて、とってもきれいでした。
夢を見ているようでした。
来年はもっと増やしたいねと言って、去年は最初の年よりも増やしました。
そんなことをやっていると楽しいし、楽しいことをもっとやっていきたいです。
 いわきにアパートを借りて住んでいる息子たちも、イベントの時には家族で来て嫁も泊まっていってくれるし、蕎麦のイベントにも来てくれました。
息子は、子どもが大きくなったらオレは戻ってくるよと言ってくれています。」

●施設見学
 もう利用者さんたちはとうに帰った夜7時でしたが、「デイサービス いろは」を見学させてもらいました。
管理栄養士さん、介護士さん2人がまだ残っていて明日の準備をしていました。
バリアフリーの板張りの床で、テーブルや椅子など家具類は木製で、室内は家庭のように温かな雰囲気で、聞けば千加子さんが「できるだけお家らしく」と言って、そのように設えたと言います。
トイレは車椅子の人も使えるトイレが2ヶ所、風呂場もまた車椅子の人も風呂の椅子にかけ直して、椅子ごと持ち上げて浴槽に入れるような最新装置が供えてありました。
そこにいたスタッフの方たちも気持ちの良い人たちで、そこで働くことが楽しく誇らしいと感じているようで、笑顔で対応してくださったのでした。
またいつかきっと、利用者さんたちがいる昼間に訪ねてみたいと思いました。
 帰りに頂いてきた「彩葉だより」第5号は、色刷りの通信でした。
「一人一人が活躍する場所がある」と見出しのページには、お年寄りが擂鉢と擂り粉木で、何かを擂っている姿や植木の手入れや花を生けている様子、食卓の配膳をし、縫い物をする姿などの写真があり、別のページはイベントの時の楽しい写真や職員の紹介などが載っていて、「いろは」と「彩りの丘」の日常が伺えました。

 千加子さんに会えて良かった!と、しみじみ思いました・
「いろは」が、「彩りの丘」が滞りなく運営できていけるよう、行政はしっかり予算を下ろしてほしいと願ってやみません。
この事業の代表者として、千加子さんにはきっとたくさんのご苦労があることでしょう。
どうか体をお大事に、過ごしてほしいと祈ります。

 そしてまた、考えます。
事故後に30km圏内の物流が途絶えてしまった時のことを。
食料も薬も水も、生きるに必要な品の入手が出来なくなった時のことを。
国や経済界はそういう場合のシミュレーションもなしに、原発を再稼働し、さらに再稼働させようとしているのではないか。
そのような動きは、断じて許せません。
前々便でお伝えした瀧澤昇司さんも大井千加子さんも、自身の活動を通してその思いを体現しているのだと思います。                      

いちえ


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