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2019年4月8日号「2月25・26日福島行③」

 小高区大富に、大井千加子さんを訪ねました。
大井さんは大富の自宅から避難して、福島市に1年、その後は原町の借り上げ住宅で4年過ごし、一昨年7月に大富の自宅に戻りました。
そして株式会社彩葉(いろは)を立ち上げ、老人介護の仕事を始めたのです。
自宅に隣接して要介護の人を対象にした「デイサービス いろは」と、そのすぐ近くに介護予防施設として「お元気デイサービス 彩りの丘」、「居宅介護支援事業 いろは」の
3つを統括運営しています。
 被災前には74軒が暮らしていた大富地区ですが、現在は15軒しか戻っていません。
戻ったのはほとんど高齢者たちとはいえ、こうした施設が成り立つのだろうか、ここで老人介護の事業を立ち上げるには、相当の覚悟が必要だったのではないかと思うのです。
 原発から20km圏内で山側に位置する大富ですから放射線量が高い場所もあります。帰還した人も少ないのに、ここで施設を作っても利用者がいないという心配はなかったのかと、私にはそれが大きな疑問でしたから、まずその点をお聞きしました。
この日は「お元気デイサービス 彩りの丘」でお話を伺いましたが、千加子さんは問いに答えて言いました。
●「デイサービスいろは」
 鶏が先か卵が先か、です。
帰りたいけど、施設がないから帰れないということもあります。
私の中には、やらなければダメだという思いがありました。
銀行とのやりとりも何とかなったので、やると踏み切ったのです。
 2017年7月に、私たち夫婦と夫の両親の4人で大富に戻りました。
息子夫婦と二人の孫は、いわき市に避難しています。
義父母は住み慣れた大富に戻りたいと強く願っていました。
避難生活では、心身ともに本当に疲れてしまったのでしょう。
年寄りだけを戻すわけにはいかないと考えて、私たちも一緒に戻りました。
私自身は、家族みんなで一緒に暮らしたかったので別の場所でもいいと思っていましたが、義父母の願いも大事でした。
孫もいますから息子たちをここに戻すわけには行かず、息子家族は避難したままです。
 義父は認知症もある半寝たきり状態で、義母はリウマチを病んでいました。
夫は建築関係の仕事で毎日勤めに出ています。
ずっと私が家に居るのでは嫁として結構大変で、それでは私も心身ともに参ってしまうと思いました。
大富に帰ったら近所にも人がいるだろうと思ったのに、近所には誰もいませんでした。
それなのに私が外に勤めに出たら近くに見守る目もなく、リウマチで体が不自由な義母が認知症の義父の世話をしながら年寄り2人だけで日中を過ごすことになります。
ここを始める前は他のデイサービスに2人を預けていましたが、私がこの仕事を始めたら、ここで面倒を見ていけると思いました。
 自宅の隣は家の畑だったので、そこに介護施設を作ることにしたのです。
私もそこで働きながら、義父母を施設で世話できると思ったのです。
自分でやる施設に家族を入れるのはどうなのかと思われるかもしれないのですが、他の選択肢はありませんでした。
地区に戻ってきたのも高齢者ばかりでしたから、介護施設は必要だと思っていました。
それで、やろうと思って役所に相談に行きました。
●役所との交渉
 施設を建てようと思った場所は畑地でしたから、農地転用の手続きが必要でした。
介護施設を始めたいと役所の介護保険係に申請に行くと、担当者は知人でした。
農業委員会で農地転用手続きをするときには、委員会の人に「本当にやるんですか?」と言われましたが、役所の人が「大井さんがやるのだから良いじゃないですか。きっとやるから、農地転用しても大丈夫ですよ」と保証してくれて、転用が許可されました。
 宅地だったら農地転用手続きは必要なくすぐにできたのですが、まずこの手続きをしました。
その手続きまでも、また大変でした。
除染済みの証明書が必要だったのですが、除染してあったはずなのに、除染済みの資料が無かったのです。
国からは「除染しました」と通知はあったのに、証拠となる資料が無いというのです。
環境省に問い合わせたら、除染業者はコロコロ変わるので前の業者から資料を受け取っていないので、すぐに出せる資料は無いから、もう一度除染しましょうということになったのです。
そして除染にかかり、その写真を撮ったデータを貰い、除染が終わったということで農地転用の手続きをして許可が出て、それからスタートでした。
 20km圏内で賠償金が出ましたが、その賠償金を使わずに貯めていたので建築費にはそれを使って銀行の融資を受けました。
●「彩りの丘」
 「デイサービスいろは」は自宅の隣で畑だったところに作りましたが、こちらの「彩りの丘」は組内で隣の友達の家だったところです。
震災前から親しくしていた人で、小さい子どもがいるので避難先から戻らないと言っています。
友人にこの家を貸して欲しいというと、快く「使っていいよ」と言ってくれました。
この建物は震災の2年前に建てられた新築の家で、3世代同居の家族でしたからバリアフリーで廊下も広く、また男性が多い家族だったので男子トイレが別にある建物です。
 デイサービスを始めるにはそれなりの施設設備が必要なので、それらを備えた建物を作ることが前提でしたから、ここを使うことは始めから考えていませんでした。
でも「いろは」の研修で打ち合わせにこの建物を使っているうちに、「ここも使えそう。要介護の人の施設はそれなりの設備が必要だけど、介護予防なら普通の家でできるから、ここを介護予防施設に使ったらいいのではないか」と考えました。
 介護予防は、大事だと言われる割には重視されていないと思います。
実際に南相馬の人たちを見ていると、介護予防の施設は足りていないと思います。
要介護にならないようにということを重視しているなら、本腰を入れて介護予防に取り組み、その予算を組むべきだと思うのです。
たとえば国が10円しか出さないなら、県や市はもっと本気になってあと5円上乗せするとかしないと、本当に採算が取れません。
国が基準としているギリギリのところで私はやっていますが、その基準では採算は取れません。
国の基準で儲かっているところがあるなら、教えてほしいと思います。
けれども実際には、利用者さんにとって介護予防施設は本当に必要だと思います。
 心療内科の先生にお聞きしましたが、人と話すということが認知症の一番の予防で、また生活の質を上げるのにも大事だと言われました。
週に1回でもここに来て、初めて会った人とも話したり笑ったりして、帰るときに「また1週間後に」と言って帰る人を見ていると、本当に必要とされている場所だと思います。
 採算が取れないのを知って、「え〜、やっていけるの?」という人はたくさんいるし、これをやろうと思う人もいないけれど、介護予防は絶対に必要だと思うから、やれるだけやっていこうと思っています。
 利用者は、自分から「行きたい」という人はほとんど居ません。
デイサービスというと「子どもじみたことをやってる」とか「自分のやりたいことが出来ないで、みんなと同じことをやらされる」といったイメージが植えつけられてしまっているようです。
私たちが目指しているのは、できるだけその人のこれまでの生活に添っていこうということだし、笑ったり泣いたり、当たり前の事に触れていけたらいいなと思っています。
その人がこれまでに培ってきたことを、発揮できるようにしてあげたいと思っています。
 ここに来て「あら、こんなところが在った」と口コミで広がり、社協やケアマネージャー、包括支援センターからの紹介もあります。
だからその人たちとのバトンも大事ですが、利用者たちが「良いよ」と言ってくれる口コミが、とても大事だと思っています。
●イノシシが減りました
 介護予防施設の「お元気デイサービス 彩りの丘」は2017年11月に開所し、介護施設「デイサービス いろは」は2018年2月に、「居宅介護支援事業所 いろは」は、2018年11月に開所しました。
 この仕事を20数年やってきているので、以前一緒にやっていた人が「やるの?」と言って助けてくれたりで、正規職員は4人ですがパートを入れて20人がスタッフです。
他に地域のおじちゃんが送迎の運転手をしてくれたり、おばちゃんが食事を作ってくれたりと地域の人たちがボランティアで手伝ってくれています。
 「ここでやる」と思った時に、地域を巻き込みたいと思ったのです。
またここで働く若い人たちも、仕事としてではなく地域の人とお互いに支え合ってやっていくことを学んで欲しいと思ったのです。
一番若いスタッフは28歳、一番年長は76歳の近所のボランティアのおじちゃんです。
幅広い年齢層がいて、それが家族だと思うのです。
時々は若いスタッフの子どもが遊びにきたりして、とても良い感じです。
 介護の仕事というと建物の中で完結してしまうイメージがありますが、そうではなくて、いろんな人と関わり合って、いろんな環境と関わり合っていってほしいのです。
利用者さんの人生って色々だと思うし、だからスタッフもいろんなノウハウがある人が居てほしいです。
 シフトを組むのは、みんなの話し合いでやっています。
20数年介護の現場に居て、トップダウンみたいなやり方が多かったですが、それは間違いではないけれど現場の人が一番よく知っているのだから、現場の人たちが話し合っていかないといけない。
ここは介護者たちが、一生懸命に考えてやってくれています。
 ここを始めてから、イノシシが減りました。
減ったのではないかもしれませんが、日中出てこなくなりました。
人の出入りがあるから、イノシシも出てこれないのでしょうね。
地域の人との関わりも増えて、地域でもいろんなことでみんなが関わってくれています。
この地域では、57歳の私が一番若いのです。
住んでくれる人が増えたら良いなぁと思っています。
 曜日によって利用者数は違いますが、「デイサービス いろは」は、月曜日が15人、他の日はそれよりいくらか少なく、「彩りの丘」は1日10人前後です。
去年の10月くらいまで小高の人はほとんど居ない状態でしたが、今は増えてきました。
ようやく小高も水道が使えるようになったので高齢者たちも戻ってくるようになりましたが、それまでは小高では生活ができなかったのです。
ここは原町からは遠く、浪江が近いので浪江の人も受けています。
地域密着型というデイサービスの縛りがあって、役所からは地域の人優先と言われますが、市と掛け合ってやっています。
 利用者さんは、家族が連れてくることも稀にありますが、ほとんど送迎しています。

 私が大富の梅田照雄さんを訪ねたのは、つい一月前でした。
その日梅田さんから、「近くに大井さんという人がいて紹介しようと思っていたら、昨日お母さんが亡くなって、今日がお通夜なのです。彼女はデイサービスを立ち上げてやっているのです」と聞いたのです。
 そしてその一ヶ月後のこの日に私はまた大富に行き、リウマチを病んでいた義母を亡くし夫と義父と3人の暮らしになった千加子さんにお会いしたのでした。
初対面の千加子さんにお会いした私は、一目見るなり強く惹かれるものを感じました。
千加子さんは爽やかな笑顔で、介護施設の立ち上げまでを語ってくれましたが、ここに至るまでには、壮絶な体験がありました。

●あの日、千加子さんが見たもの
 2011年3月11日14時46分、大地震発生。
南相馬の老人保健施設ヨッシーランド介護長だった千加子さんは、施設利用者と職員の全員が無事であることを確認し、寒い日だったので防寒対策をとって建物の外へ避難誘導しました。
「地震から津波までの40分くらいの間、やれるだけのことはやっていたつもりでした。
これまで度々避難訓練を行ってきましたが、その時に消防士さんからは、海から2kmも離れているので津波が来てもせいぜい床上くらいでしょうと言われてきました。
 揺れから40分の間に県道まで逃げていたら助かったでしょうが、防災無線は鳴らず、けれども続く余震に、これは危ないのではないか思って避難を決断し、津波がくる10分か15分前に「逃げましょう」と伝えて避難を始めたのです。
避難を始めていた時に、松林に覆いかぶさる波を私は見たのです。
津波の早さに勝てるわけはないですが、できるだけのことはしました。
でも津波は屋根を覆ってしまった。
後で知れば、80人くらいは逃げて助かっていますが、40人くらいは助からなかった」
 千加子さん自身も波に叩きつけられ、また猛烈な勢いの引き波から辛くも逃れ、泥に埋まった人を引き上げ、引き上げ……、無我夢中で救護にあたりレスキュー隊を待ち、救護した人の顔や体を拭き、救急車に同乗してなんども連携病院へ走ったのでした。
また受け入れ可能な施設へ手当たり次第に連絡を取り5ヶ所の移動先を確保しました。
 12日午後一旦自宅へ戻ると、市から体育館への避難指示があって家族は全員避難していました。
家族は千加子さんの生存を諦めかけていたそうです。
無事を確認しあうと千加子さんは汚れた服を着替えて、またすぐに本部に引き返したのです。
 「ブルーシートの上の遺体の顔の泥を拭いながら、ご家族への謝罪の思いで胸が詰まりました。
遺体安置所への収容を依頼して、消防団と施設の車で遺体安置所へ移送しました。
 3月12日15時36分、福島第一原発1号機水素爆発。
半径20キロ圏内避難指示。
受け入れ施設に職員が来ない、無断で緊急避難を始める職員、電話は不通、連絡手段もない、迎えに行くにも燃料もない!そんな中で24時間以上勤務する職員もいたといいます。
 3月13日。
水がまだ出ない、食料・薬・物流が止まる、更なる燃料の危機、交代の職員が来ない、連絡が取れない…状況が続きました。
 3月14日11時1分、3号機水素爆発。
避難を希望する職員と交代し千加子さんは施設に行き、夜間に本部に戻って仮眠していました。
その深夜、日付は15日になっていましたが、息子から緊急メールが届きました。
「自衛隊が原発から50km圏外に走っている。今すぐ逃げろ!」
千加子さんから息子への返信は、「置いてはいけない。どうしようもないから、まずはみんな助かってね」
 3月15日6時14分、2号機爆発、建屋損傷。9時38分4号機で出火。30km圏内屋内退避指示。
 物流が止まり食事は汁のみで2食との放送があり、自販機の野菜ジュースを買い占めて利用者の栄養補給にしましたが、食事も薬もオムツにも終わりが見え、先が不安の中を午後になって連携病院へ移動しました。
 受け入れ施設は2ヶ所のみになり、その一つの施設から夜に、「職員が誰も来ていない」と連絡が入り、とうとう動けるのは千加子さんだけになってしまいました。
千加子さんがその施設に行くと友人が迎えてくれて、「今夜はこちらの職員に任せてゆっくり休んで」と言ってくれたのでした。
千加子さんはその夜、あの日から初めてお風呂に入り、初めて布団で休んだのでした。
 3月16日、朝。
夫と息子が着替えを届けに来てくれて、家族はみんな避難所で無事にいること、孫が寂しがっていることを伝え、大変だろうが頑張れと励ましてくれました。
この日、千加子さんは1ユニット15人の利用者を任されましたが、避難を希望する職員もいて、理事長は「避難希望者は避難していい。再開時には来てくれ」と決断して希望者は避難していきました。
 この時千加子さんは、避難する職員に問われました。
「なぜ、大井さんは逃げないの?」
問われて自問した千加子さんは、自身に答えたのでした。
「私には孫がいて、命が、ちゃんと継ながっている。もしものことがあっても、私の生きていた証はある」
 職員が避難し、残った数名の職員でヨッシーからの避難者と施設の利用者と共に過ごすことになりました。
ここで避難者の一人が施設職員に「私の薬はないのでしょうか?」と問うた時に、施設職員が答えたのです。
「もう、薬は手に入りません。これからは、一人ずつ看取ることになるでしょう…。
それが、これからの私たちの仕事です…」
それは、30km圏内屋内退避となって物流が途絶えた中での言葉でした。
千加子さんは、「あの津波の中から助かった命をこんなことで亡くしたくない!そんなのは絶対に嫌だ!」心で叫びました。
 その夜、施設長から「明日、福島市へ避難できるかもしれない。理事長が交渉中で、ヨッシーランドの避難者全員が1ヶ所の施設に行けるように調整中」だと伝えられ、その言葉に「助かる!これで助かる」と思った千加子さんでした。
 3月17日、朝から移動準備を開始し、夕方に移動が決定しました。
ヨッシーランドからの避難者13名全員、施設入居者17名の計30名、引率者1名、大井千加子と決定されました。
16時、観光バスで介護タクシーの運転手と補助1名とで60km先の福島市へ移動開始したのでした。
19時頃、光る街灯と待っていた職員のみなさんの笑顔の挨拶に迎えられて、福島市なごみの郷へ到着したのでした。
 「私たちは助かった。もう、死と向き合うことはない。生きる…」安堵した千加子さんでした。
●心的外傷後ストレス
 ヨッシーランドから避難した人たちのデータは、津波で全て失っていました。
利用者たちの家族もどこかに避難して連絡がつかないままでした。
受け入れてくれた福島市なごみの郷では、職員たちが懸命に情報収集に努めました。
寄り添ってくれる職員もいました。
お風呂に入ることもでき、三度の食事ができることをしみじみ幸せに感じ、ゆっくりできて心身ともに落ち着いたはずでした。
 けれども4日目に、両手が突然震えて止まらないのです。
寝れば毎日同じヨッシーランドの夢、真っ黒なものが動く夢を見て夢の中で金縛りにあっていました。
1年くらいそんな夢ばかり見ていて、千加子さんは、「私は生きていて良いのか」という思いに苛まされていました。
そんな夢を見なくなってからも、寝ても4時間も眠られないまま目が覚めてしまう日が1年以上続きました。
 取材を受けたり講演を頼まれたりして、千加子さんは皆さんのためになるならとできる限りを受けてきましたが、あの日のことを話すと、両手に泥まみれの利用者の重さが蘇って、体が震えました。
突然涙が止まらなくなったりもするのです。
時間が経ってもあの日を伝える文字や映像、言葉に、体も心も反応してしまうのです。
 3年ほど経って、ようやく体が反応しなくなりましたが、一人で過ごす休日が怖かったと言います。
街で、亡くなった利用者さんの家族に会うのが辛く、震災後の慰霊祭でも顔を合わせられませんでした。
被害者であると同時に、加害者でもあると思えてならなかったのです。
助けることができなかった悔いが残って苦しかったし、苦悩は続き、またフラッシュバックで生きている意味がわからず、それで休日も仕事をしていようと思ったのでした。
 2011年6月にヨッシーランドで慰霊祭をしましたが、千加子さんはその場にいて体が張り裂けそうでした。
「80人は助かったじゃない」と言ってくれる人もいましたが、亡くなった人の家族は「なぜうちのばあちゃんは助からなかったの」と思うだろうし、口に出さなくても、そう考えるのではないかと思えてならない千加子さんでした。
そんな思いをずっと抱えているので、8年経った今も、ご家族にちゃんと会える自信がない、顔を合わせられないと、辛く思っているのです。
 私は2011年夏から南相馬に通い始めました。
原町のビジネスホテルに宿を取り、宿の主人の大留さんから被災地を案内してももらい、そのときに被災の爪痕を残すヨッシーランドにも行きました。
大留さんは、「あの日の夜、うちのお客さんが泥だらけで帰ってきたの。どうしたのと聞いたら、ヨッシーランドのお年寄りを救援してたんだって。
ほら見てごらん敷地からこの道路まで、ほんの1mか1,5mでしょう。ここを上れた人は助かったんだろうが、一人じゃ動けない人もいたんだろうな」と言いました。
建物内部は津波の爪痕がそのまま残り、玄関ホールだったところには献花台がおかれていました。
 千加子さんの言葉に、あの日に見たヨッシーランドの情景を思い起こしました。
そして泥にまみれながら懸命に利用者たちを救い出そうとする千加子さんたちの姿を想い浮かべました。
そしてまた千加子さんのように、多くの人がPTSDを抱えていることを思いました。
 「亡くなった人の家族に顔を合わせられない。辛いです」という千加子さんに、私はお聞きしました。
「でも逆に、今こういうお仕事をしていなければ、もっと辛いですね」
千加子さんは答えて言いました。
●私にできることは、これしかない
 「動けるから元気に見えるし、喋れるから大丈夫に見えていたかもしれない。
でも、そんな5年間でした。
これからどうするの?という時に、これを立ち上げました。
 20数年介護の仕事に携わってきて、ヨッシーランドにいて津波で腰まで浸かりながら生きて、今があります。
亡くなった方たちに私は、すごく良くしてもらっていました。
その人たちにどう向き合うか考えると、いま生きている方たちに恩返しするしかないと思って、それは自己満足かもしれませんが、亡くなった方が応援してくれるなら、いま生きている方たちに恩返しするしかないと思ったのです。
原発事故があって自宅にも戻れず、また心身の不調もあって、私は5年間は動けませんでした。
でも、私にできることはこれしかないと思いました。
 たくさんの人に支えられました。
皆さんが来てくれて、少しでも興味を持ってくれて少しずつでも広げていけたらと思っています。
小高に、住んでくれる人が増えたらいいなぁと思っています。
 2012年4月に避難指示解除になって昼間は小高に入れるようになった日に、初めて蛯沢の実家に行ってみました。(注:蛯沢は海側の地域で干拓地)
津波の被害を見て、ショックでした。
友人の家や思い出の沢山あるところだったのに、家も畑も何も無くなって海に戻ってしまっていました。
 けれども「いろは」を始めようと思ったときにちょうど良いタイミングで、昔お世話になった人たちに会うことができて、それもまた私の背を押してくれました。
「やるべきじゃないか!」と思えたのです。
 長野県の御代田の人たちが、ボランティアでずっと来てくれています。
はじめは家の片付けや掃除をしてくれて、5年間も開けていなかった冷蔵庫をすっかりきれいにしてくれたり、5年間も住んでいなかった家を泊まれるようにしてくれました。
そして今、私たちはその家に住んでいます。
 そうやって片付けや掃除をしてくれる中で、蕎麦の種の話が出たのです。
蕎麦の種をあげるから、蒔いてみないかと言うのです。
それを区長さんと梅田さんに話すと梅田さんが動いてくれて、大富に蕎麦畑ができて花が咲いて、とってもきれいでした。
夢を見ているようでした。
来年はもっと増やしたいねと言って、去年は最初の年よりも増やしました。
そんなことをやっていると楽しいし、楽しいことをもっとやっていきたいです。
 いわきにアパートを借りて住んでいる息子たちも、イベントの時には家族で来て嫁も泊まっていってくれるし、蕎麦のイベントにも来てくれました。
息子は、子どもが大きくなったらオレは戻ってくるよと言ってくれています。」

●施設見学
 もう利用者さんたちはとうに帰った夜7時でしたが、「デイサービス いろは」を見学させてもらいました。
管理栄養士さん、介護士さん2人がまだ残っていて明日の準備をしていました。
バリアフリーの板張りの床で、テーブルや椅子など家具類は木製で、室内は家庭のように温かな雰囲気で、聞けば千加子さんが「できるだけお家らしく」と言って、そのように設えたと言います。
トイレは車椅子の人も使えるトイレが2ヶ所、風呂場もまた車椅子の人も風呂の椅子にかけ直して、椅子ごと持ち上げて浴槽に入れるような最新装置が供えてありました。
そこにいたスタッフの方たちも気持ちの良い人たちで、そこで働くことが楽しく誇らしいと感じているようで、笑顔で対応してくださったのでした。
またいつかきっと、利用者さんたちがいる昼間に訪ねてみたいと思いました。
 帰りに頂いてきた「彩葉だより」第5号は、色刷りの通信でした。
「一人一人が活躍する場所がある」と見出しのページには、お年寄りが擂鉢と擂り粉木で、何かを擂っている姿や植木の手入れや花を生けている様子、食卓の配膳をし、縫い物をする姿などの写真があり、別のページはイベントの時の楽しい写真や職員の紹介などが載っていて、「いろは」と「彩りの丘」の日常が伺えました。

 千加子さんに会えて良かった!と、しみじみ思いました・
「いろは」が、「彩りの丘」が滞りなく運営できていけるよう、行政はしっかり予算を下ろしてほしいと願ってやみません。
この事業の代表者として、千加子さんにはきっとたくさんのご苦労があることでしょう。
どうか体をお大事に、過ごしてほしいと祈ります。

 そしてまた、考えます。
事故後に30km圏内の物流が途絶えてしまった時のことを。
食料も薬も水も、生きるに必要な品の入手が出来なくなった時のことを。
国や経済界はそういう場合のシミュレーションもなしに、原発を再稼働し、さらに再稼働させようとしているのではないか。
そのような動きは、断じて許せません。
前々便でお伝えした瀧澤昇司さんも大井千加子さんも、自身の活動を通してその思いを体現しているのだと思います。                      

いちえ


2019年4月6日号「2月25・26日福島行②」

◎大規模酪農場建設計画
 1月に訪ねた南相馬で、2人の方から大規模酪農場が建設されるらしいという話を聞きました。
 小高区大富のUさんからは、地区の仲間たちと蕎麦、菜種、陸稲の栽培をやっているが近くに大規模酪農場が建設されるので、これからは耕作放棄地を借りて牧草栽培もやっていきたいと聞きました。
それを聞いた時には、「ああ、そうやって放っておかれた畑地が蘇り、また地元の人にとっても収入に繋がっていくのは嬉しいことだなぁ」と思ったのでした。
 ところが次に訪ねた原町区片倉ではY子さんは、地図を広げて建設予定地と住民たちの住居との位置関係を示しながら、地下水を飲料水にしている住民たちは上方に牧場が建設されることに反対をしていると聞いたのでした。
なるほどY子さんの家を出て先に向かう道の路肩には、「牧場建設反対」の幟旗で住民たちの意思表示がされていたのでした。
 そんなこともあったので2月の南相馬訪問では、その牧場についてもう少し情報を得たいと思い、片倉行政区の区長、牛渡美知夫さんを訪ねました。
●原発事故後の牛渡さん
 牛渡さんは、「嫁いで川口市にいる娘が臨月で里帰りしていた時で、地震が起きた後で余震も続いたので家内と一緒に娘を川口に戻し、家内を付き添いに置いて、自分だけ自宅に戻った」そうです。
牛渡さんは鹿島区で食品加工の会社を経営しているのに、「みんなぶん投げたままで、従業員もどこさ行ってるか判んないし、中には金がないと困るから口座に入れてくれって言う従業員もいるし」ということで、5月初旬には奥さんを呼び戻しました。
 片倉は原発から半径20kmのちょうど境目になるような地域で、放射線量も低くはない地域ですから住民たちはほとんど避難して、残ったのは牛渡さんの他に2軒だったそうです。
そんなわけで残っている人は少ないし田畑は草が茂ってきていたので、奥さんが戻ってきた翌日に、牛渡さんは草刈りをしました。
「私は草刈り機を持って土手の草を刈り始めたら、もの凄いんです。
涙が止まらない。
鼻水も。
テレビではマスクをして出かけろと言ってたけど、ゴーグルしろとは言わなかった。
だけど、ダメだね。
目も涙がボロボロ出て、マスクは鼻水でダラダラなんだから。
どうしてこんなになるのかなとそのころは思ったけど、後から考えるとヨウ素だな。
 事故の後降った放射能が水に溶けて植物が吸ったのを、オレ刈ってたんだよ。
目には見えないけど刈った時に、フワーッて放射能が舞ったんじゃないの。
6月には、もうそういう症状は出なくなった。
5月はそんな風だったな。
線量計で測っても単位面積当たりの線量は一緒のわけで、吸い上げられたとこに濃縮しているヨウ素だったんだなぁ。
ゴムも凄かった、タイヤがね。
ゴムは吸うんでしょうかねぇ。
ボロボロになったよ。
あのころはなんか金属臭もしてたよ。
 オレが避難したのは一晩だけ。
2回目の爆発の時、津島通って郡山まで行って戻ってきて、草刈りしたのはそれから後の話だ」
 そう聞いて私は、その後体調に障りはないか、ホールボディカウンターを受けたかを尋ねましたが、具合の悪いところはないし検査結果も良好だったと答えが返りました。
●牧場の話
 以下、牛渡さんから聞いた話の概要です。
 「大規模牧場建設は自己資金だけでは無理で国からの助成金が必要だが、復興予算からの助成は32年度までに終わっていないと下りない。
しかしこの地区に大規模牧場要地の話がもたらされたのは、3ヶ月ほど前で昨年の11月頃のことだった。
福島県酪農組合から持ってこられた話だ。
大規模牧場建設要地として、最初は小高区川房が俎上に上がったらしいがそこは放射線量が高い地域なのですぐに候補から外れ、替わって小高の大田和に話を持っていった。
ところが大田和では、地元の反対にあって進められず、このままでは助成金の面でタイムアウトになると後が迫っていて急遽こちらに話が回ってきた。
 だがここは、この話が持ち上がるよりもっと以前にボーリング調査をしたことがあるのだが、水が出ないといわれている場所だ。
水の問題が不明なのに、後ろが限られているのでお尻に火がついたみたいに、降って沸いたように話が持ち込まれた。
フラワーランドという場所に21町歩くらいの畑地があり、そこを買収して復興牧場を作りたいというのだ。
そこで成牛1000頭(牛渡さんはそういったがY子さんのところで聞いた時には子牛を入れると3500頭)の牧場。
 3月中にボーリング調査をするような話だが、ボーリングも1本掘るのに300万円位かかるから、そう何ヶ所もやれないだろう。
ボーリングの許可は地権者がすることだから、私には判らない。
もしかして水が出てなんとかしようとなれば、バタバタと話は進むだろう。
候補地にあたる場所の地権者全員の承諾がないと作れないが、地権者の中にはここに住んでいない人もいる。
また地権者の内の多分1名は、承諾しないだろう。
しかしその人の所有地を避けて建設することは難しいだろうから、どこか代替地を出して承諾してもらうことになるのだろう。
 建てることになったら法律に則って、周りの行政区長も含めて農事組合や住民に対してきっちり納得いくようにやっていくことになるだろうけど、小高で作って貰えば良かったんだけどなぁ。
小高でうまくいかなかったのは、マァマァの人もいたのだが強硬に反対する人もいて、
それはあの地域には養豚場があるのだがそこの環境対策が杜撰らしく、それであんなものはダメだとなったらしい。
 事業の詳細を頂いてないので判らないが、糞尿の処理をどうするかという問題もある。
糞尿処理について言葉では聞いているが、実際にどうするのか見に行ったことがある。
『新聞紙やおが屑を70%くらい落として発酵させると熱が出てきて、だんだん激しく発酵してくるから水分が取れる。
最終的には、水分の少ない発酵堆肥として畑に撒くという循環型でできる。
一ヶ所に集めて発酵させるとそのガスで発電もできる』と聞いている。
 仮にここで大規模牧場が建設されるなら、気をつけないと話だけ進んでいってしまうので我々も注意してみていくより他ない。
間違いなくそういう処理ができるという保証が必要だし、排水の問題もある。
発酵して燃やしたら匂いは消えるだろうが、残渣の問題がある。
水分を分離して浄化して放流となるだろうが、どこまでちゃんとできるのかということだ。
かなり規模がでかい牧場だが、福島県の基準では1日30tまでの放流はさほどうるさくないが、30tを超えると管轄の振興局が直接管理するようになり、基準がより厳しくなる。
 いずれにしろ大規模牧場建設計画の事業主体は県酪農組合で、ここでは水が出るか出ないかにかかっている。
ボーリング調査の結果ですから、今はどうなるのか私には判らない」

 他所では既に復興牧場として、大規模な牧場が運営されているところもありますが、経営は外国企業だと聞きました。
南相馬での大規模牧場計画のこれから、よく見ていきたいと思います。

◎羽根田ヨシさん
●過ぎた日々を語るヨシさん
 久しぶりに羽根田ヨシさんを訪ねました。
訪問の約束はしていなかったのですが月曜日だから、ヨシさんはデイサービスには行かない日だと思って訪ねたのです。
ヨシさんは畑から戻ったところでした。
突然の訪問を詫びながら、一緒に行った今野さんを「津島の人ですよ」と紹介しました。
ヨシさんは津島の出身なので、初対面の今野さんが訪ねたことをとても喜びました。
 昨年米寿を迎えたヨシさんと50代半ばの今野さんですが、ヨシさんは津島の友人や知人の名を挙げて今野さんにその人たちの消息を尋ね、今野さんが知る限りの事を丁寧に答えていきました。
その様子はまるで伯母さんが、訪ねてきた甥と故郷の人たちのことを語り合ってるように見えて、私にも嬉しいことでした。
 新制農業高校を卒業して20歳で嫁入りしたヨシさんは、津島の実家から馬場のこの家までの道中のことも話してくれました。
ふろしき包みを抱えて津島を出るとバスで昼曽根まで行き、昼曽根の茶屋で持ってきた着物に着替え、山を二つ越えて馬場に来たことを。
その道は2000年に原浪トンネルができたので、今は山越えせずに道は通じています。
原浪トンネルの浪江側の口が昼曽根です。
原発事故後に昼曽根から先の浪江津島は、帰還困難区域になってしまいました。
 ヨシさんには避難生活中から何度か話をお聞きしてきましたが、この日の今野さんとの会話では初めて聞く話も多く、それも興味深いことでした。
そして二人の会話からまた私は、かつての津島の暮らしに想いを馳せました。
地域の人々の繋がりや、季節ごとに催された行事などをも。
 ちょうど、ヨシさんのことが書かれた本(『羽根田ヨシさんの震災・原発・ほめ日記』馬場マコト著、潮新書刊)が出版されたばかりで、私もそれを読んでいました。
その本には六角支援隊が提供した畑と、畑を利用するようになったヨシさんの思いも書かれていました。
ヨシさんに「いいご本ができましたね」と言うとヨシさんは、「ええ、本を読んだ人が手紙をくれたり訪ねてくれたりして、嬉しいですよ」と答えるヨシさんでした。
●原浪トンネル
 別れ際にヨシさんは、「渡辺さん、今日は津島の人と一緒に来てくれてありがとうございました。津島の話ができて嬉しかった」と、晴れやかな笑顔でした。
ヨシさんにお暇して、車中から羽根田カンボス彗星を発見した羽根田利夫さんの天文台跡を見ながら次の訪問先へ向かいました。
 次の訪問先との約束の時間には、まだ少し間がありました。
馬場のヨシさんの家からヨシさんの輿入れした道を逆に辿って、昼曽根まで行きました。でもヨシさんが越えた「山二つ」は越えることなく、原浪トンネルをくぐってのことですが。
昼曽根で国道114号線を右に行けば、ヨシさんがバスに揺られて来た浪江津島へ至ります。
ヨシさんの故郷、津島はあの日から人の姿が消えました。
懐かしくても、帰れぬ故郷になりました。
 小高の大富に訪問を約束した人がいたので、昼曽根の分岐で私たちは道を左にとって小高に向かいました。                         

いちえ


2019年4月6日号「2月25・26日福島行①」

大変遅れた報告になってしまいました。
もう一ヶ月以上も前の福島行の報告です。
明日はトークの会「福島の声を聞こう!vol.31」ですが、その前の村田弘さんにお話いただいた回の報告も、滞っています。
村田さんの言葉はぜひお読みいただきたく、まとめているところです。
今少しお待ちください。
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◎南相馬市・瀧澤昇司さん
*南相馬原町区の馬場に、ひときわ脚の高いソーラーパネルが設置されている畑地が何ヶ所かあります。
友人で写真家の大石芳野さんから聞いていた、酪農家の瀧澤昇司さんの牧草畑です。
「希望の牧場」の吉沢正巳さんからも、瀧澤さんのことは聞いていました。
吉沢さんの話では、「瀧澤さんとこでは、売乳より売電の方が儲かっているみたいだよ」というのです。
ご本人の瀧澤さんから話をお聞きしたいと願っていながら、お忙しい様子でなかなか叶わずにいましたが、ようやくスケジュールが合って、瀧澤さんに会いに行ってきました。
単刀直入に、吉沢さんが言ったことは本当ですかとお聞きすると、「農業以外での収入を得るとなると、総売り上げの半分までだからね。農業の方が若干多いよ」と、答えが返りました。
 そして瀧澤さんは、あの日からのことを話してくれました。
●あの日から
 瀧澤さんの住まいのある南相馬市原町区馬場は原発から21キロで、原発事故が起きた時には屋内退避または自主避難という曖昧な指示が政府から出された地域です。
瀧澤さんはその当時、50頭ほどの乳牛を飼っていました。
事故後に政府は、「直ちに影響はない」と言いましたが、福島県産の原乳から厚労省が定めた暫定基準を上回る放射能が検出されたとの発表があり、3月21日には原乳の出荷制限が指示されました。
子どもたちを避難させて牛と共に留まった瀧澤さんですが、検査もせずに出荷はダメという県の指示には納得がいきませんでした。
もちろん、汚染されたものは絶対に出荷したくなかったし、だからこそ自分の原乳はどれくらいヨウ素やセシウムが出ているのか知りたいと思いました。
国も学者も信用できず自分で勉強するしかなかったと、その頃を振り返って瀧澤さんは言います。
 知り合いの大阪の会社から測定費用の支援があり、測ってみると1回目に検査した4月6日にはセシウムもヨウ素も出ましたが、2回目の4月26日の検査では検出されなかったので、やはり検査してみなければ判らないのだと思いました。
 その後、区域再編成があって瀧澤さんの住む馬場地区は、屋内退避区域から緊急時避難準備区域となりました。
そして5月中旬には、南相馬市の原乳のモニタリングが実施されるようになり、ようやく6月10日から原乳の出荷が再開されました。
以前は1日2回搾乳していたのですが集荷停止期間中は1日1回にし、搾った乳は畑に捨てる毎日でした。
 6月に出荷停止が解除されてホッとしたのも束の間、今度は牧草が使用禁止になって閉まったのです。
牧草は、買うよりほかはなくなりました。
けれども1キロ70円の牧草を買っていたのでは採算が合わず、事故前のように十分に与えることができず、栄養不足で弱った10数頭を処分せざるを得ませんでした。
一体何のために仕事をするのかと悩み、どうすれば良いのかを考えあぐねる日々の中で、いかにして草を使えるようにするかが、一つの目標になっていきました。
 震災前は畑で燕麦やイタリアンライグラスなどの牧草を育て、その畑には牛の糞尿から作る堆肥を施し、完全に循環型の酪農を行っていたのですが、以前のその形に戻さなければここで酪農は続けられないと改めて思い至った瀧澤さんでした。
機械メーカーなどが研究した除染の方法新聞で公表されたりすると、隈なくそれらに目を通し、また自分でもいろいろ考えて試してみました。
例えば、天地返しのように土を攪拌したら汚染を薄められるのではないかとやってみた結果、国の基準の半分程度に低い数値の牧草が採れるようになりました。
 飼料に使えるようになりこれでやっていけると思ったその3ヶ月後に、今度は酪農団体が独自の基準を出しました。
県の畜産と酪農の組合、全農福島と農協という人たちの集まりである酪農協議会で作った基準ですが、それは国よりも厳しい基準でした。
キロあたり30ベクレル以下なら食べさせても良いが、ただし自由採食させる場合は20ベクレル以下でなければいけないとしたのです。
20〜30ベクレルの間は調整が必要で、0ベクレルの牧草と混ぜて食べさせないといけないことになったのです。
そうしないと、牛乳から1ベクレル以上の数値が出てしまうからです。
その結果、現在出荷している原乳は1ベクレル以下です。
●EM菌との出会い
 瀧澤さんは、根本的には土壌中の放射性物質を減らさないと先に進まないと考え、土壌の微生物でなんとかできないかと考えました。
放射能は原子ですから分解できませんが、ネットで調べたら放射能をエネルギー源とする光合成細菌という微生物がいることがわかりました。
それを培養してうまく使えば放射能を減らすことはできるのではないかと考えていたところ「EM研究機構」の人たちに出会い、EMの中にも光合成細菌が入っているというので、試してみようと思いました。
EMというのは乳酸菌、酵母菌、光合成細菌など、人の暮らしに有用な微生物群のことです。
 そこでまずは、牛にEM菌を食べさせてみることにしました。
一番初めに刈った草は50ベクレルで使用禁止になっていましたが、禁止になるまでの間の数ヶ月、瀧澤さんは1頭にだけその草を食べさせて牛乳からどれくらい出るかを試験的に測っていたのです。
国の定めた100ベクレルという基準値以下ではありましたが、その牛の乳からは毎回10ベクレル程度は出ていました。
その牛に、EM菌を毎日食べさせたのです。
きっと数値は下がるだろうと思っていたのに、逆に高く出るようになってしまいました。
けれどもある一定期間は高い数値が検出されていたのですが、2ヶ月ほど過ぎるとスパッと落ちて5ベクレルほどになったのです。
 これはおそらく内部被曝で蓄積していた放射能が、EMによって低減したのではないかと考えられました。
2ヶ月間ほど高い数値が出ていたのは、その間に筋肉に溜まっていた放射性物質がEM菌の力で排出されたためで、排出が進んである程度体内から消えたことによって、その後には乳から検出される放射能数値が下がったのです。
瀧澤さんは、それをデータとして取ることができたのでした。
 広島・長崎の原爆被災者で、味噌を食べた人たちは放射能の影響が比較的少なかったと言われますが、発酵食品は味噌でも納豆でも、麹でも、発酵する時に酵素が出るので、酵素を摂っていれば排出は早くなるのです。
これは決して無駄ではないと判り、「これでやっていく」と決意を新たにしたのでした。
 それからは自分のところで培養したEMを、1頭辺り1日に300ccくらいを毎日餌にかけて、全頭に食べさせています。
牛が排泄した糞の中にも、EM菌はちゃんと残っています。
それが堆肥になり堆肥は畑や田んぼに還元することによって、長い間にはセシウムの量を減らす速度を早めていけるのではないか、半減期を短縮できるのではないかと考えています。
EMを食べさせた牛の糞を堆肥にして積んで置くのですが、堆肥から滲み出てくる水分を溜めて汲み、それを液肥として使っています。
その液肥自体が、EMの発酵液肥になるのです。
 それを一ヶ所の圃場にだけ散布して、毎年、土壌と牧草の数値を検査しています。
これも実験です。
瀧澤さんの原発事故後の生業への向かい方は、考察と実証実験、そして得た答えから前に進むという日々でした。
そして去年やっと、その圃場の牧草がNGとなりました。

*私が瀧澤さんの名前を知ったのは、大石芳野さんに教えられてのことでした。
瀧澤さんは大石さんとの出会いを、そして大石さんと出会ったことで瀧澤さんの今が在ることを話してくれました。
●大石芳野さんとの出会い
 2011年5月のある日、瀧澤さんの息子さんが学生だった時の担任が一人の女性写真家を案内して訪ねてきたのです。
その女性が、大石芳野さんでした。
その担任は3•11後に心身に不調をきたして休職し、大学時代の恩師を訪ねて相談に行ったそうです。
その大学の教授は大石さんの知人でした。
大石さんは教授に、南相馬の酪農家を取材したいので、案内してくれる人を探していることを伝えていました。
教授は大石さんに自分の教え子だった南相馬の彼を紹介し、彼が瀧澤さんのところへ大石さんを案内したのでした。
 2011年5月、その頃の瀧澤さんは乳を搾っては畑に捨てる毎日でした。
少し前にオーストラリアから支援物資として20日分ほどの牧草が送られてきましたがそれも尽き、輸入した牧草を与えながら「オレは何をやってんだ」と虚しさを募らせながらも、なんとかしたいと喘ぐような毎日でした。
瀧澤さんが大石さんに出会ったのはそんな時期でしたから、取材を受け、苦境に心寄せて貰えたことで励まされもしたことと思います。
 夏に再訪した大石さんに原乳が集荷できるようになったことを伝え、「ちょっと安心だね」と会話を交わした時に「放射能も、そのうちなんとかなるだろうから」と瀧澤さんが言うと、大石さんには「何を言ってるの!この先、何十年と向き合っていかなければいけないんだよ!」言われました。
そう言われても最初は、ピンとこなかった瀧澤さんでした。
でもそれから色々調べていくと畑の土壌は3,800ベクレルと高い数値で、ここで放射能と向き合っていかなければならない現実に、ハンマーで頭をガツンと殴られたような思いがしたのでした。
 大学卒業後は帰ってきてここで農業をやるという息子に、生計を立てていく筋道をつけて置きたいと思うものの、ここでは農作物を作っても収入は上がらないとしたら、その分を補うには太陽光発電が一番手っ取り早いのではと考えた瀧澤さんは、牛舎の屋根にパネルを載せるとしたらいくらかかるか見積もりを取ってみました。
23Kwで800万円と言われ、それだけの投資をして回収できなかったらどうするか、逡巡し踏み切ることができずにいました。
 その一方で瀧澤さんは、牧草が使えるようにするにはどうすれば良いか試行錯誤の日々を過ごしながら2012年の5月にEM研究機構に出会い、EMの試験協力農家になったのでした。
●世界平和アピール7人委員会
 大石さんは、その後も季節が変わるごとに訪ねてくれていました。
そして2012年の夏には秋に開かれる講演会の知らせを持って来て、瀧澤さんもそれに参加するようにと誘われたのです。
 2012年11月10日、サンライフ南相馬で「世界平和アピール7人委員会 2012年講演会」が開かれました。
この7人委員会というのは、1955年に当時平凡社社長だった下中弥三郎氏が平和問題に関して知識人として意見表明していこうと提唱して結成された会です。
メンバーの条件は、「*政治家でないこと*自由人で民主主義陣営の人*世界的に平和運動を行いうる人」の3点で、年月とともに物故者もでて新たな人が加わって、常に7人で構成されてきました。
現在のメンバーは、武者小路公秀さん、小沼通二さん、池内了さん、高村薫さん、池辺晋一郎さん、島薗進さん、大石芳野さんの7人です。
 講演会の前にも大石さんは瀧澤さんを訪ねて講演会へ誘い、また瀧澤さんにも発言をするようにと言いました。
そう言われても瀧澤さんは、その時は話すべき何も心に浮かんでいませんでした。
7人の人たちが何を話すのか、じっくり聴いて考えようと思って講演会に参加したのでした。
 この日の講演会のプログラムは、下記です。
*講演1:辻井 喬「中央集権の時代から地方自治の重視へ」
*講演2:大石芳野「福島の人びとを撮りつづけて、思う」
*講演3:小沼通二「原発と核兵器の時代を超えて」
*パネルディスカッション「あらためて原発を考える」
 パネラー:武者小路公秀、辻井喬、池内了、小沼通二、大石芳野、桜井勝延
 登壇した7人委員会の人たちの発言は、脱原発についての話でした。
なぜ原発がダメなのか、なぜ放射能がダメなのか、使用済み核燃料の処理には20万年も管理していかなければならないことなどが話されました。
 大石さんが、放射能は人類と共存できないと語るのを聞きながら、なぜか想いが溢れて涙がこみ上げてくる瀧澤さんでした。
パネルディスカッションが終盤となり大石さんは、マイクを瀧澤さんに向けたのです。
思わず「発電は電力会社を頼らずに得たい」と、瀧澤さんは発言したのでした。
7人委員会の人たちの話を聞きながら瀧澤さんは、「原発は止めなければいけない、太陽光や風力があるではないか、800万円かかっても屋根にパネルを載せよう、原発の電気は要らない、原発に頼らなくてもこういうやり方があると、ここから発信しよう」と、逡巡していた気持ちを前へ進める踏ん切りがついたのでした。
●太陽光発電へ踏み出した
 屋根の上のソーラーパネルから売電するようになって2、3ヶ月が経ちました。
売電で得た収入を計算すると、10年で元が取れる額でした。
売電は20年間の固定買取価格でしたから、20年で減価償却していけば利益が出ます。
それなら太陽光発電で収入を得ていくことができるではないか、パネル設置できる場所は全部利用しようと思い、夢が膨らんでいきました。
たくさんある農地を使って売電をと思い、いざ進めようとしたら第一種農地なので農地転用はできないことが判り、膨らんだ夢が消えました。
ところが夢が消えてガックリと気落ちしていたある日、新聞に営農型発電設備を許可することにしたという記事を見つけたのです。
早速業者に話したのですが、その業者は情報が入ってこないからまだよく判らないと言うのでした。
 そんなこんなで話が進まずに1年ほどくすぶっていたのですが、ある時東京から営農型発電設備を考案して実用新案登録を出したという人が訪ねてきました。
特許申請をしている人で、「ソーラーパネルの下でシャインマスカットを作るといいですよ」と営業に来たのでした。
それは高さ2m50の設計でしたから、トラクターは入れません。
瀧澤さんは、もとよりマスカットを作る気などなく、下で牧草が作れるならいいなと思いました。
牧草刈りのトラクターの高さは、2m80です。
そこで瀧澤さんは、高さ3m50で支柱間が6mで作れるかどうか考えてくれと、業者に言ったのです。
それだけの高さと幅はかなり特殊な注文だったでしょうが、業者はその注文に対してできると答えました。
 答えを聞いて瀧澤さんは営農型発電機として山の上に第1号機を作りましたが、農業委員会への申請が実に面倒でした。
農業委員会へ申請すると、書類はそこから合同庁舎の改良普及部企画課へ送られます。
そこではパネルの下で作る作物が、同じ作物の地域平均の80%以上の収量が見込めるかどうかを判断します。
決定権は県の農林水産部担い手課にあるのですが、さらに県の農業会議にかけて意見を求めて可となると、今度は逆のルートで下がっていって農業委員会からオーケーの返事を貰うのです。
途中で何か質問が一つでも出れば、またこのルートを手繰って行くという具合でとても時間がかかるのです。
もう諦めようかと思うくらい面倒でしたが、ここまできたら意地でも通してやろうと思いました。
 10ヶ所の農地に設置したいと思いましたが、高さも幅も特別仕様なので基礎と支柱に余分に費用が嵩みます。
国産にこだわらずに中国産を使えば費用は3分の1に抑えられることが判り、中国産を使うことにしました
自分の家の農地10ヶ所で太陽光発電を始めてもうじき1年になりますが、出力750Kwくらいになっています。
 瀧澤さんは、言いました。
「太陽光発電は原発をストップさせるために、敢えてやらせて貰っている!」
●次代に継ぐ
 北海道の酪農大学で学んだ息子は、この春卒業です。
我が家の酪農を継ぐと言った息子に「ちゃんと継げよ」と言って、瀧澤さんは継げる段取りはつけてやりました。
そして息子の卒業後は、家に戻る前に徳島の酪農家のところで1年間修業させようと思っています。
酪農コンサルタントの先生に毎月指導を受けている瀧澤さんですが、もう10数年もその先生の指導でやっている酪農家が徳島県には何人かいるのです。
瀧澤さんも以前に徳島でそうした酪農経営を見てきて、目からウロコが落ちるような体験をしました。
その時に「こんな経営ができるならオレもやってみたい」と思い、勉強するようになったのです。
だから息子も1年くらい、そこで勉強させようと思ったのです。
 EMと太陽光発電で、息子がここで酪農を継いでいくための基盤はできました。
放射能は思ったほど下がっていませんが、何もせずにいるよりは早く減らしていける技術はできました。
●地域のこれから
 太陽光発電は利潤のためだけでやっているのではないと、瀧澤さんはこれからのプランを話してくれました。
「この地域は原発事故の影響からばかりでなく自然の在り方として、人口が、特に若い人が減っている。
もともと原発事故以前から、若い人たちは出て行って帰って来ないので年寄りばかりだったが、事故後はそれに輪をかけた感じで、構造的に若い人が少ないところだ。
それで耕作放棄地もあるので、そこを借りて営農型太陽光発電で再生させていくという目的もある。
この地で農業をやっても食べ物はまず敬遠され、消費者は福島県産より県外産を選ぶし、福島産なら南相馬より相馬の物の方が良いというのが人の心情だ。
ここで農作物を作って食っていこうとしたら、全量を農協や国で買い上げてくれると保障された物に手を出さない限りは、自力で販売していこうというのは荊の道を進むようなものでリスクが高い。
それで耕作放棄地が増えている。
 そうした人様の土地を耕作と発電とセットで貸してくれるかと頼むと、大体はよろしく頼むと言ってくれる。
 パネルの下で渋柿と榊を作ったらどうかと思っている。
甘柿は日照がないと甘みが出ないからダメだが、渋柿ならパネルの下で大丈夫だ。
実を採って、干し柿用に出荷する。
 榊は温暖地のものだが、うちの間取りだとパネルの下に5m40のビニールハウスが作れる。
元々榊は日陰の植物だからパネルの下で良いし、ハウスの中で作ればもっと遮光できてちゃんとした本榊ができる。
実ものではないから、出荷時期を選ばない。
 渋柿も榊も、はさみ1丁で年寄りでも収穫できる。
大した金にならなくても太陽光で稼げば、その下は手間賃が払えればそれでいい。
昔は浜通りの浪江やこの辺りは榊の産地だったが、震災の影響でダメになり激減して、中国産の安いのが入ってきている。
でもそれは品質が良くないので、需要は国産に戻ってきているというから、やってみようかと思っている。
 若い人が居ねぇ、若者が居ねぇって言うが、若い人は居なくても年寄りがいる。
年寄りの仕事に良いんじゃねぇかと思ってる。
もちろん、若い人がやったって良い。
潤沢な収入が得られるくらいの面積を確保できれば、やっていけると思う。
榊は枝切って挿し木で増やせるし、花木は放射能の影響受けないから。
 渋柿はもう植えていて、出荷契約は取っている」
そう話してくれた瀧澤さんでした。
●昔日を振り返れば
 現在52歳になる瀧澤さんですが、酪農は祖父の代からです。
歴史を紐解けば日本では6世紀頃から、酪(ヨーグルト)、蘇(チーズ)、醍醐(バター)などの乳製品は薬として利用され、江戸時代末期には搾乳した牛乳が飲まれるようにもなったようです。
ただ一般の庶民に普及するのは、もっと時代が下ってからのことです。
 戦後、酪農振興法ができて酪農が奨励されるようになったのは昭和30年代で、瀧澤さんの祖父の代の頃のことです。
どこの農家にも牛が1頭か2頭いて、牛が1頭いれば子どもを一人大学に行かせられると言われていました。
瀧澤さんのおばさんも、「私は牛で大学行かせてもらった」と言っていたそうです。
その頃は1頭、2頭が5頭に増えてくると、そこで酪農を止めて勤めに出るか、それとももっと頑張って増やして酪農で生計を立てていくかという時代でした。
稲作の他に葉タバコや養蚕もやっていましたし、牛の飼葉は鎌で刈り乳搾りも手で絞っていた時代です。
搾乳も牧草刈りも機械化された今とは違って、1頭、2頭なら他の作物と兼業できても頭数が増えたら難しく、虻蜂取らずになってしまう時代でした。
 震災前の南相馬には酪農家が9軒ありましたが、今は3軒です。
瀧澤さんの他に片倉の杉和昌さんと深野の柚原友加津さんです。
杉さんは、私も以前に3度訪ねてお話を聞いてきました。
初めて訪ねたのは2011年の秋でしたが、その頃は和昌さんのお父さんも健在で、お父さんからはこんな話も聞きました。
 やはり昭和30年代のことですが、アメリカへの農業実習性の募集があったそうです。
福島からも数人が応募して、杉さんのお父さんもその一人でした。
アメリカの酪農家の家で1年間過ごし、帰国して酪農を始めたと言っていました。
 私が瀧澤さんに以前に杉さんを訪ねたことを話すと、瀧澤さんは「杉さんとは親戚です。杉さんのばあちゃんは、ウチから出ているんです」と言いました。
また、先月私が訪ねたH・Y子さんの娘さんの嫁ぎ先が杉和昌さんなのです。
 このように地域の人同士が、何かしらの縁続きというのが珍しくない地方の暮らしなのでしょう。
●「ウチの米、食べてってください」
 原発事故後のここで農業をやるにはリスクが高いと言った瀧澤さんは、「米をやるなら飼料米のほうが無難だ」と言いました。
「ウチでも殆ど飼料米にした。若干自分のとこで食う米は作ってっけどな。
長いこと自分の米を食ってきたから、他所の米食っても納得いかない。
自分とこのコシヒカリ食ってきたから、どこの米食っても味が違う。
『これ違う。俺の食いたい米じゃ無い』って。
会津の米買って食ったけど、美味いんですよ。
粒も大きくて明らかにウチの米より食感がいいんだけど、でも味が違う。
ベコの堆肥の入った米は美味しいね、これだけは言える。
だから、どうしても自分の米食いてぇから農地除染やって終わったら、まずまず自分の米食いてぇからって試験田作付けやって、ベクレル問題無いってなったから、じゃぁ元に戻しましょうって徐々に戻してやってきた。
だけど、前は米のお客さんも居たんだけど震災後に失って、米の販売はもうやってない。
自分とこで食う分と、『ウチの米だから食べてください』って親戚に配るのと、そこの“田舎食堂”に出すのとだけだ。
“田舎食堂”、昼やってますから、行ってウチの米食べてみてください、美味いですよ」
 私は馬場に来てこの道を通る時にはいつも、田舎食堂の前に立つのぼり旗を目にしています。
交通量も少ないところですから、商売が成り立つのかしらと思いながら見て過ぎていました。
この日、瀧澤さんの家を出たのはちょうどお昼時でもあったので、田舎食堂で昼食をと思ったのですが、生憎定休日だったのか店は閉まっていました。
今度馬場に行く時には、寄ってみようかと思いました。
 瀧澤さんは、別れ際にこう言いました。
「いろんな人が家に来てくれましたが、みんな何かしら置いていってくれたなぁと思う。
良いものを置いていってくれたなぁ、と。
それに導かれてきたような感じですね。
感謝するしかないねぇ」
 諦めずに挑戦する瀧澤さんの声には、張りがありました。
徳島へ酪農修行に行く息子さんが戻った頃にまたここの、「T・アグリプロダクト株式会社」の瀧澤さんを訪ねようと思いました。              

いちえ


2019年3月26日号「裁判傍聴2件」

◎福島原発刑事訴訟
 3月12日、東京地裁で第37回公判が開かれました。
●被告人側の最終弁論
 勝俣恒久、武黒一郎、武藤栄の3被告の弁護人による弁論はいずれも、長期評価を取り入れるかどうか土木学会の審議を待つことが妥当であり、そう判断した東電側には罪はないというもので、また山下調書は信頼が置けないという弁論でした。
なぜ土木学会の審議を待つことが妥当なのかの説明はなく、また山下調書については言葉尻を捉えての批判ばかりでした。
例えば調書で山下氏が「…と思う」と言ったりしている点を、「だ」とか「である」と言い切らずに「思う」などと言うのは、確かではないことを自分の印象で述べているだけに過ぎないなどと言うのでした。
 これらの最終弁論を武藤栄被告人の宮村啓太弁護士は、パワーポイントを使いながら滔々と読み上げました。
 武黒一郎被告人の政木道夫弁護士の声は小さくとても早口で言葉が聞き取れず、傍聴席から「聞こえません」の声が上がりました。
すると驚いたことに、これまででしたら裁判長は「傍聴席は発言してはいけません。発言したら出て行ってもらいます」などと居丈高に言い、衛士が発言者に詰め寄ったりしたものですが、この日はまるで違いました。
傍聴席には何も注意せず、政木弁護士にマイクを使ってもう少しゆっくり話すように言ったのです。
本来それが当たり前の裁判官の姿勢だと思いますが、これまでがこれまでだったので驚きました。
 勝俣恒久被告人の岸秀光弁護士と加島康宏弁護士は、2人で相次いで最終弁論を読み上げました。
●被告人3人の意見陳述
 永渕健一裁判長が3人の被告に、「これで裁判は終わりますが、最後に意見があれば述べてください」と言い、3人は順に証言台に立ちました。
勝俣被告人は「申し上げることはお話ししました。付け加えることはございません」と言い、武黒被告は「特に付け加えることはありません」。武藤被告は「この法廷でお話ししたことに、特に付け加えることはありません」と、3人とも木で鼻をくくったようなそっけなさで、一言の謝罪もありませんでした。
 裁判長は判決を9月19日に言い渡すと述べて、閉廷しました。
3人の被告が法廷から出るときには傍聴席から「恥を知理なさい」「勝俣、責任を取れ」
と怒号が飛びました。
「人非人」とは、彼らをこそ言うのでしょう。
裁判官の公正な判断を強く望みます。

◎「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」第17回口頭弁論
 3月15日、福島地裁郡山支部で津島訴訟の原告本人尋問、証人尋問が行われました。
原告の三瓶春江さん、三瓶早弓さん、証人の関礼子さん(立教大学教授、社会学者)の3人が意見陳述をしました。
私はこの日は夕方東京で用事があったので、午前中の春江さんの本人尋問しか傍聴できませんでした.
原告本人尋問は原告代理人弁護士からの質問に原告が答えて、それが終わると次に被告代理人弁護士が質問して原告が答え、最後に裁判官の質問に答えというように進みますが、ここでは春江さんの答えをまとめた形でお伝えします。
 午後の原告本人(三瓶早弓さん、春江さんの次女)尋問、証人尋問は傍聴できませんでしたが、頂いた資料で関先生の論旨を知ることができました。
●三瓶春江さん、原告本人尋問
⑴原告代理人弁護士の質問に答えて
*7人きょうだい9人家族
 1960年6月25日、津島で渡辺家の6番目の子供として生まれ、下に弟が生まれたので9人家族だった。
両親は満州からの帰国者で開拓者として津島に入植し、炭焼きと農業の兼業で暮らしを支え、農閑期には父は出稼ぎに行った。
長兄は家族一の働き頭で、中学卒業後は高校へ行かずに東京へ出稼ぎに行き家族へ仕送りをしてくれていた。
*長兄の死
 兄が25歳で埼玉県の大宮市で交通事故で亡くなったが、それは春江さんが11歳の時のことだった。
兄のお葬式は津島で執り行った。
その頃の津島は土葬だったが、ご遺体を大宮から津島まで運んで土葬した。
母が兄の亡骸に会うまではその死を信じられず、そのまま津島に連れて来てと望んだからだった。
夕方になって兄の遺体が津島に戻ると、隣組の人たちみんなで廊下から部屋に上げた。
隣組は13、4軒あったが、夜になっても7、8人は残ってくれ、通夜も葬式も隣組でやっていただいた。
それが津島のやり方だった。
*結の力
 式を仕切り、葬儀委員長を務めるのは組長さんだった。
各家庭から男女ともに手伝いに出て、男性は棺を作ったり、五色旗、ろうそく立てなどお墓に持って行くものを全て用意し、女性は料理を作るおまかないに当たった。
お墓は家から2kmくらいの赤于木の部落にあり、棺はリヤカーに屋根をつけて運んだ。
紙製の花輪も作り、それは大人が一人で運べるもので、組の人たちが行列を作ってお墓まで運んだ。
 最近は土葬でなく火葬になったが、葬式はそのように組でやり、それでもいつもスムーズに行えたのは、何100年も前からそのやり方でしてきたので、判らないことがあっても長老に聞けば教えて貰えた。
 お葬式だけではなく、農業や日々の暮らしも隣組の結の力でやってきた。
田植え、稲刈り、脱穀など、結で助け合ってやっていた。
*仲の良いきょうだいだった
 兄が亡くなってきょうだいは6人になったが、きょうだい仲が良かった。
母はいつも、「親はいつかは死ぬが、きょうだいで助け合って生きていってほしい」と言っていた。
母は周囲の人から「渡辺さん家は、きょうだい仲いいね」と言われることに誇りを感じていた。
 被災まで渡辺家の家族は、既に亡くなっていた父と長兄の他はみな津島に暮らしていた。
母が常々言っていたように、きょうだいは仲良く、ケンカをしたことはなかった。
*春江さんの結婚
 春江さんは1984年、津島の三瓶ノリミチさんと結婚した。
婚家ではノリミチさんの両親、妹と暮らし、賑やかで楽しい家庭だった。
義父のリクさんは開拓農業組合から浪江町役場に勤める公務員だった。
津島を愛した人で、開拓者に畜産業や田畑の作り方や仕事を教え、津島の薬草や山菜なども教えてあげていた。
渡辺家も開拓者だったので、リクさんの世話になっていた。
またリクさんは津島の芸能保存会の役員をしたり、診療所の先生を囲む会、寺の檀家総代など、あらゆる団体の世話役をして、困っている人を見たら黙って見過ごせない人で、津島の人たちはリクさんを「生き字引」と呼び、大学の先生などから津島に関して何か問い合わせがあれば、リクさんが紹介された。
そんなリクさんだったから訪問客もとても多く、週に3、4日は誰かしらが訪ねてきていたし、津島の人たちも頻繁に訪ねてきた。
 三瓶家だけではなく津島では、人を見かければ必ずと言っていいくらい茶や食事を振る舞ったし、人が集えば酒を飲まないで終わることはなかった。
津島では山菜やキノコ、川魚など保存食として塩漬けや冷凍・冷蔵庫に保管してあったので、突然の訪問者でも酒の肴には困らなかった。
また家の周囲では山菜が採れたし、水がきれいだったのでクレソンやわさびも育てていたし、川魚も獲れた。
畑にも山にも食べ物は豊富にあったし、それらはとても美味しかった。
リクさんは歴史の話をするのがとても好きで、津島のことやこれからのことなどをみんなと話しているときはとても楽しそうで、一緒にいて春江さんも楽しかった。
 春江さん夫妻も子どもが生まれ、家族は増えていった。
被災前には義父母、春江さん夫婦、長女夫婦と二人の孫、次女と9人家族で賑やかに暮らしていたが、こうした日々も、原発事故で一変してしまった。
自衛隊に勤務していた長男も3月12日に退官して自宅に戻る予定だったが、そのまま避難となった。
*初めてのきょうだい喧嘩
 次兄と三男の兄は結婚しておらず、実家で母と暮らしていた。
震災当時、次兄は肝硬変から肝がんになって原町病院に入院中だった。
被災後、次兄は退院(被災によって入院患者の多くは退院させられた)して3月13日に小塚の姉の家に母やきょうだいが集まり、これからどうするか話し合った。
防護服を着た人やパトカーも頻繁に通り、また多数の避難者がやってきたから、これはただ事ではない、原発は大丈夫か?と不安を感じていた春江さんが避難しようと言うと、原発の下請けで働いていた三男の兄は「国が影響ないと言っているし、国が俺たちを見捨てる筈はない。逃げるならお前だけで行けばいい」と言った。
それが初めてのきょうだい喧嘩だった。
 3歳、5歳の孫と20歳になったばかりの娘もいる春江さんは、兄の言葉に納得できず、20代の子どもたちがいるのにここにとどまっていいのか不安でならず、二本松東和の叔母(母の妹)に避難させて欲しいと打診すると、叔母は「今すぐにでも、みんなで来い」と言ってくれた。
2時間近く話し合ったが意見はまとまらず、母は黙って下を向いていた。
姉の家には親族ばかりでなく避難してきた他人もいたので、母だけでも叔母の家に連れて行くと兄に伝え、兄も「わかった」と言って、14日午前中に母を二本松に送った。
その道中、母に「なんで兄さんは、子どもたちを避難させたいのを判ってくれないんだろう」と言うと母は「ごめんね。春江の気持ちはすごく判るよ。本当にごめんね」と泣いた。
*避難
 母を送って津島に戻りお茶を入れた瞬間にテレビで3号機爆発を見て、孫や子を守るのは自分しかいないと思い、文京区に住む夫の妹に避難させて欲しいと電話し「いいよ」と返事を聞いて春江さんは孫や子どもたちを連れてすぐに東京へ避難した。
15日には津島地区全員に避難指示が出て、渡辺家の者もみな二本松に避難した。
二本松の叔母の家は渡辺家の親族で、母の他に病気の次兄が世話になるので三瓶家の春江さんは東京に避難したのだが、もし母を二本松に避難させた時に避難指示が判っていたら、大変でも一緒に避難して、はるばる東京まで行かずにみんなと一緒に二本松に行きたかったという春江さんだった。
 東京に避難したことについて、16日に姪からメールが来た。
そこには「春江さんは東京に逃げてよかったね。ばあちゃんやヨシオさん(病気の次兄)や私たちを置いて、東京に逃げてよかったね」と書かれていた。
春江さんは母や次兄の世話をしたかったけれどそれができなかった後ろめたさもあって、姪のいうのも当然だと思うものの、それを読んでとても辛かった。
*母の死
 2011年6月24日、次兄が亡くなり、翌年6月25日に母が亡くなった。
兄と仲直りできなかったことが心にかかっていた春江さんは、母が亡くなる少し前に母の手を握って「かあさん、何か言いたいことある?」と声をかけたが返事がなかった。それで春江さんが、「にいちゃんのことだよね。大丈夫だよ。きょうだいで面倒みるから安心して」と言うと、意識がないと思っていた母が春江さんの肩に触れて強く肩を握った。
長男も次男も亡くなっていたから渡辺家を継ぐのは3男の兄だが、独身なのでその兄のことが母の一番の心配ごとだと思っていたから、春江さんはそう言ったのだった。
当の兄もそこに居て、泣いていた。
 母が亡くなって6年経つが、兄とは仲違いする前のような付き合い方をしているし、姪とも普通に付き合っている。
残されたきょうだいが仲良く暮らすことが、母への供養だと思っている。
*家族バラバラの避難生活
 家族9人が一緒に避難できる場所はなく、バラバラになっての避難生活だった。
義父母も2人で福島市八木田に避難したが、津島にいた時にはいつも客人が絶えなかったのに、避難先に客が訪ねてくるのは年に1、2度になってしまった。
津島の人たちも、誰がどこにいるのか判らない状況だった。
リクさんは外出することもなくなり、毎日新聞とテレビを見るだけの日々になっていた。
春江さんが訪ねるととても喜こび、「寂しいね。いつになったら帰れるのかなぁ。俺が死んだら津島に埋めてくれ」と言うリクさんだった。
 家族みんなで暮らせる家を探していたのだが、2016年に福島市内に中古住宅が見つかりリフォームして引っ越し、また9人で暮らせるようになった。
長男家族も近くにアパートを借りて住んでいる。
*義父リクさんの死
 リクさんには肝がん、肺がんがあり、2018年9月13日に入院した時には普通に会話をしていたのだが、15日に春江さんが見舞いに行くと「帰りたい、帰りたい」と春江さんの手を握って興奮して叫ぶように言うリクさんだった。
春江さんがその手を握り返して、「おじいちゃん、大丈夫だよ。帰れるんだからね」と繰り返し言うのを聞くうちにリクさんは落ち着いてきたので、春江さんは「おじいちゃん、興奮して疲れたろうから少し眠ろうね」というと、安心したのか落ち着いて眠った。
それが最後の会話だった。
9月17日に、リクさんは亡くなった。
 リクさんの葬儀は業者に頼んだ。
組の人たちがどこに避難しているかも判らなかったからだが、葬式には300人ほどの人が来てくれ、そのほとんどが津島の人たちだった。
「もっと早く知っていたら、なくなる前にリクさんに会いたかった」という人たちもいて、津島にいたなら亡くなる前にみんな来てくれただろうし、葬儀にももっと大勢が来てくれたことだろう。
 リクさんの墓をどこにするか、まだ決めていない。
津島に帰れるように除染されたなら津島に埋めたいが、除染されない場所に埋めたらお墓まいりもできない。
お墓のことで悩んでいる人は、他にも大勢いるだろう。
*孫たちのこと
 今の家で家族で一緒に暮らすようになってから、もう一人孫が生まれた。
避難した時に3歳と5歳だった孫は中学生と小学5年生になって、学校に通っている。
だがここでは、春江さんたちは津島から来たことを言わずに隠している。
孫たちの学校はマンモス校で、彼らが津島から来たことが知れたらいじめられるのではないかと不安を持っている。
津島に居たなら住民たちから守られて、よその家の子どもでも自分のうちの子どものように見守られていたから、安心して過ごせただろう。
⑵被告代理人、東電の棚村弁護士の質問に答えて
 春江さんは質問に答えて、両親が津島へ入植した1960年に津島で生まれ津島小学校へ入学し中学校卒業後は静岡へ就職したが、その後津島へ戻ったこと、そこで結婚し3人の子どもを持ったこと、また聞かれることに答えて家族のことを話した。
 2002年に勤めを辞めて石材業を始めた夫は、原発事故後の避難で続けられなくなっていたが、宮城県角田の同業の知人に手伝いを頼まれて行くようになり、2012年5月には自身の作業場も角田に移して一人で住みながら営業を再開した。
津波で墓石が流されたり、地震で墓石が倒壊したという避難者も多く、ほぼ毎日津島に通った。
約2年そこで営業していたが、その後福島市内に石材店を移して営業を続けている。
 自衛隊に勤務し寮生活だった長男は、2年間の勤務を終えて退官し2011年3月12日に津島の自宅に荷物を送る予定でいたが、その前日に大震災が起きた。
しかし荷物は、実際に津島の自宅に運び込まれた。
退官後は三春町の専門学校に入学し、卒業後は学んだことを生かして就職した。
 長女は2004年に、福島第二原発の空調設備の仕事をしている男性と結婚した。
その娘婿は原発事故後も連絡があれば何度か仕事に行ったが、事故を契機に退職した。
その後三春町で建築の仕事に就き、現在は夫の石材店の後継者として働いている。
 春江さんは家事や孫の世話など大家族の主婦としての仕事の他、夫の店の経理、義母の介護などで忙しく、津島の友人と連絡を取り合うことも滅多にない。
そんな時間的余裕がなく、市内に津島からの避難者が何世帯あるのかも判らずにいる。
夫婦で年に5、6回は津島の自宅へ行き、家の中や周囲を調べ墓参もしてくる。
 春江さんの兄(避難のことで喧嘩し、その後和解した)は、東和の叔母のところへ避難した後で市内の復興住宅に入居した。
兄は原発事故後の下請け作業員だったが辞めて現在は無職で、津島訴訟の原告にもなっている。
*被告東電の代理人である棚村弁護士の質問に上記のように答えた春江さんでしたが、
態は人柄を表すのではないでしょうか。
この棚村弁護士に私は、人を見下したような意地悪い目つきや質問の仕方のいやらしさを感じました。
例えば「平成16年に長女が結婚しましたね」などと質問し、春江さんが咄嗟に言われた年が正しいかどうか答えられずに詰まると、ねちっこく「あなたは調書に○○と書いてある」などと畳み掛けるのです。
また夫が角田で営業を再開した時のことを問うにも、「夫が角田に引っ越して」などと言い、春江さんに「引っ越したのではありません」と訂正されるなど、およそ被災者の実情を判っていないし理解しようともしていないのです。
 前回の口頭弁論で棚橋弁護士は原告に対して、「あなた方は『ふるさと喪失』と言うが、津島に家も土地もあるではないか。ふるさとはそこにあるではないか。ダムなどで村ごと湖底に沈んで無くなってしまった場合は『ふるさと喪失』と言えるが、原告は家も土地もあるのだから、『ふるさと喪失』とは言えない」と言った人です。
盗人猛々しい言葉です。
⑶被告国代理人弁護士の質問に答えて
 質問は、現在の家に住むようになってから近所の人とのトラブルがあったことが陳述書に書かれているが、近所の他の人たちとの関係についてだった。
春江さんは住居の組に加入して最低限の付き合いはしているがそれ以上の付き合いはしていないので特にトラブルになる関係はない。
津島の友人たちとは電話番号の交換はしているが、特に連絡を取り合ったりしていない。距離的なこともあり遊びに来てと誘うこともできず、互いに気を使って誘えない。
⑷裁判長からの質問に答えて
 あの時のままで津島は終わっていて、周囲だけが変わっていっている。
津島は忘れられ置き去りにされているという危機感を持っている。

●証人尋問で意見陳述する関礼子さんの意見書要旨
 関さんはこの訴訟を原告らの「ふるさと喪失」という争点から論じています。

 原告らの「ふるさと津島」の喪失というのは、東京電力福島第一発電所事故による「ふるさと剥奪」なのだ。
 例えばダムの場合は予め建設計画がもたらされた時に、対象地域の住民は建設者側と意見を交わし交渉するなど時間的な経過があるので、いちどきに失うことではない。
喪失は大事なものを一部失うが、剥奪は全てをいちどきに奪い取られる、自分の体をもぎ取られる感覚がある。
 「喪失」という言葉は曖昧で、「ふるさと喪失」と言えば主観的な問題だと矮小化しがちだが、津島原発訴訟での「ふるさと喪失」は、原告が津島の土地から切り離されてしまった事実を問題にしている。
 「ふるさと津島」という時には、土地に根ざして生きることを意味している。
山間地の厳しい自然ではあるが、その自然からの恵みもまた豊かにあった土地で、自然とのつながりの中で生きてきた。
山菜やキノコ採り、狩猟や釣り、日本ミツバチの養蜂など、それらは生業ではないが、季節性のある土地に根ざした津島の暮らしそのものだった。
 厳しい自然の中での生活だからこそ人と人との交流が豊かに深く強く、「結」の精神が育まれて暮らしていた。
交流は持続し、継続して世代を超えて子孫に受け継がれ繋がっていた。
田植えなどの農作業、葬式、祭りなど相互扶助で、共同・協同・協働の精神で生きてきて、いわば「一つの家族」となってつくりあげてきたかけがえのない地域だった。
出勤途中に通学バスに乗り遅れた子どもを見かけたら、子どもを乗せて学校まで送っていくことや、行政関係に詳しい人が地域の人の相談に乗ることや、祭りや行事の世話をするなど、人との関係が「ふるさと津島」でもあった。
 同じ姓が多いということから名前で「〜ちゃん」「〜さん」と呼び合ったり、あるいは「あんにゃ」と呼び合う人間関係は、個人を尊重し世代を超えたつながりを意味していたし、また家を呼ぶにも地名で、例えば本家を「東」と呼びその西側にある家は「西」、その隣は「西脇」などと土地に家が刻まれていたから、「東の家の子だ」などと言えば親の世代やその上の世代まで遡ってつながりが確認できた。
 「ふるさと津島」は、「人間の生きることの意義」そのものを表す言葉だ。
共同・協同・協働の社会風土、個人として尊重されながら「一つの家族」として生きてきた自治感覚は、津島地区の日常的な生活実践の積み重ねによって培われてきた社会的秩序である。
 その「ふるさと津島」は、原発事故によって大きな打撃を受けた。
関わってきた自然は汚染され、繋がってきた人々はバラバラになり、「ふるさと津島」は見る影もなく荒れ果てた。
人が住まず生活の匂いがなくなった家屋には野生動物が入り込み、廃屋同然になってしまった家、田畑には雑草や雑木が生い茂り、山は荒れて、以前の風景を想像することも難しくなった。
 原発事故は津島地区の自然を高濃度の放射能で汚染し、人と自然(山や田畑)との関わりや、人と人との繋がりを断ち切った。
原告らが希求する「ふるさとを元どおりにして返せ」というのは、土地と共に生活し、文化、伝統や歴史を未来につなぐ可能性、津島地区のエートス(精神)を未来につなぐことを可能にせよという訴えなのだ。
 土地に根ざして生きる津島の人々を、丸ごと土地から引き剥がしたのが原発事故による放射能汚染だった。
原発事故がもたらす加害の特徴は、土地に根ざして生きる権利の侵害にある。
人と自然との関わりが作り上げてきた環境を奪われ(環境権侵害)、人と人との日々の繋がりが断ち切られ(社会関係資本の損傷)、地域の中で穏やかに生活する日常を奪われ(平穏生活権侵害)、出身地の誇りを傷つけられ(人格権侵害)、津島地区の歴史を未来につなげていくことができない状況(地域の伝統文化や無形文化財の消失の危機)など、原発事故避難における「ふるさと喪失」は、全人的な被害の表現であり、人権の束が侵害されていることの告発である。
それは、近代化の過程で徐々に進んでた「加害なき喪失」とは全く異なる。
原発事故によって存在の足元を掬われ、環境難民化し、「よるべなき精神の放浪」に追い立てられた人々の、被害の訴えである。
それは「ふるさと喪失」というよりはむしろ、「ふるさと剥奪」である。
津島原発訴訟での「ふるさとを元どおりに返せ」の訴えは、剥奪されたままの「ふるさと」を完全に失ってしまうことへの抗いの声である。
 もちろん「ふるさと」を取り戻したとしても、そこに原発事故以前の「ふるさと」はない。
一から育て上げなければならない。
それでも、精神の拠り所として津島地区の文化や歴史をつないでいきたいという願いが、津島原発訴訟には込められている。
 ふるさとのエートスをつなぐということ、それは切り倒された大木の根を台木にして若木を接いでいくように、「ふるさと」をつないでいくイメージに近いだろう。
台木は時間が経てば接ぎ木は困難になる。
原告らは、そのギリギリのタイムリミットを10年として除染による原状回復を求め、それが困難な際には、台木である「ふるさと」に対する慰謝料を求めているのである。

*「津島原発訴訟第17回口頭弁論」の傍聴報告、長文を最後までお読みくださってありがとうございました。
次回のトークの回「福島の声を聞こう!」のゲストスピーカーは、この裁判の原告団副団長の佐々木茂さんです。
佐々木さんの言葉を、ぜひお聞きいただきたくご参加をお待ちしています。 

いちえ

vol31-(1)


2019年3月4日号「お知らせ」

 ​第1回目となるトークの会のお知らせです。
「トークの会 福島の声を聞こう!vol.31」
ゲストスピーカーは、浪江町津島から避難して二本松の復興住宅で暮らす佐々木茂さんです。
津島訴訟の原告団副団長をされています。

日 時:4月7日(日)14:00〜16:00
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158 2F)
参加費:1,500円(被災地への基金とさせていただきます)
主 催:セッションハウス企画室 tel:03-3266-0461 mail@session-house.net
申し込み受け付けは、3月18日(月)11:00〜です。

みなさまのご参加をお待ちしています。             

いちえ

vol31-(1)


2019年2月22日号「お知らせ」

『たぁくらたぁ』47号が発刊されました。
B5版で76ページという小雑誌ですが、読み応えある記事満載です。
ぜひお手に取ってみてください。
特集「福島第一原発事故から8年 新たな『安全神話』づくりの現実」
他の記事も読んで欲しい記事ばかり。
我が友、ゲニェン・テンジンの「チベット難民の長い旅はつづく」新たな連載も始まりました。
私も裁判傍聴記、書いてます。
お近くの書店、またはオフィスエムにご注文ください。
オフィスエムは電話:026−219−2470 メール:order@o-emu.net
HPもご覧ください。http://o-emu.net/

いちえ

9784866230276


2019年2月20日号「1月27~29日福島行③」

◎南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟原告H・Y子さん
1月18日に第14回口頭弁論が行われましたが、私はこの裁判は2、3回傍聴できなかったことがありますが、可能な限りは傍聴してきました。
開廷前の集会や閉廷後の報告集会、また裁判中の原告の方たちの意見陳述を聞いてきて、ぜひ一度ゆっくりお話をお聞きしたいと思っていた人がいます。
1月28日に、そのH・Y子さんをお訪ねしてきました。
●「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」とは
年20ミリシーベルトを基準とした特定避難勧奨地点の解除は違法だとして、南相馬の住民206世帯808人が国を相手取り、解除の取り消しを求めて2015年に東京地裁に提訴した裁判です。
特定避難勧奨地点というのは警戒区域や計画的避難区域外(つまり20キロ圏外)で、事故発生後の1年間の積算線量が20ミリシーベルトを超えると推定される世帯を、原子力災害対策本部が指定しました。
一律的な避難指示や産業活動の規制はせず、放射線の影響を受けやすい妊婦や子どものいる家庭に対して特に避難を促す対応が取られたのです。
南相馬市・伊達市・川内村の一部世帯が対象になり、毎時3,0〜3,2マイクロシーベルトが基準になりました。
南相馬市では2011年7月、8月、11月に指定され152世帯が対象になり、そのほとんどが妊婦や子どものいる世帯でした。
2014年12月28日、年間20ミリシーベルト以下になったということで、国は指定を解除したのです。
解除の3ヶ月後には賠償も打ち切られ、また医療保険の一部免除、介護保険・障害福祉サービスの優遇など様々な支援も打ち切られました。
けれども、そもそも年20ミリシーベルトは高すぎる値です。
ICRP(国際放射線防護委員会)の勧告や日本の国内法令である原子炉等規制法による公衆の年間線量限度は1ミリシーベルトなのです。
避難指示・勧奨の解除にあたっては住民から多くの疑問や反対の声が上がりましたが、
国はそれを押し切りました。
それに対して南相馬では、指定されていた152世帯と、その近隣の住民も合わせて206世帯808人が提訴したのです。
そして2015年9月28日、第1回口頭弁論が開かれたのでした。

●Y子さんに会いたかったわけ
 Y子さんは裁判原告団のお一人ですが、集会ではことさら饒舌なわけではありません。
けれども彼女の発する言葉を聞く私たちに、原発による被害をありありと晒します。
第3回口頭弁論でY子さんの意見陳述を聞いたとき私は、あたかも私自身が汚染されたその場に立っているように感じたのでした。
 他の原告たちは、若者や子どもの姿が消えたこと、病院や介護施設は医師や看護師・介護士が不足して機能せず、バスも通らないので交通の手段が無く、地域のコミュニティーも崩壊したことを切々と訴えました。
その訴えを聞いたとき私は、人の姿のない、声も聞こえない街が脳裏に浮かび、そこに戻って暮らすようにと進める政策に憤りを覚え、またそこに戻らざるを得ない暮らしを思うと涙がこぼれましたが、怖さを感じることはありませんでした。
 2016年3月28日の第3回口頭弁論の日に、東京地裁103号法廷でY子さんは訴えました。
「私は、原発事故の当初から地表面の放射線量の高さに不安を持っていたのですが、国は空間線量しか発表してこなかったのです。
本当のことを知るためには自分で動くしかないという思いから、『ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト』(注:南相馬市を中心に空間線量及び土壌汚染を測定し、数値を地図上にメッシュで可視化するボランティアグループの活動。汚染地帯での活動のためメンバーは60歳以上を原則とする)に参加しました。
私たちが住んでいるところの正確な状況を伝えるため、そのときのデータをしっかりと残さないといけないと考えて、モニタリングを継続しています」
 そう話し始めたY子さんは、国は家の中の空間線量率について家の外の空間線量率に0,4の遮蔽係数をかけて計算しているのは不当であると、次のように言いました。
「私の家は、平均屋外線量が1時間当たり0,19マイクロシーベルト、平均屋内線量が1時間当たり0,18マイクロシーベルトになります。
家の中と外の空間線量率はほとんど変わりません。
そのため家の中でも、被ばくが少ないとは言えないのです」と具体例を挙げ、原告の中にはY子さんの家のように家の内外で線量がほとんど変わらない世帯や逆に内の方が高い世帯があることを訴えました。
そして屋内と屋外の両方を測定した120世帯の遮蔽係数を平均すると、0,81になることを示しました。
 Y子さんの家のように屋内と屋外の空間線量率が変わらなくなっているのは、事故からの時間の経過を考えれば当然で、窓を開けたり家への出入りで空気中に漂う放射性微粒子がチリや埃と共に家の中に入り込み、洗濯物や布団を外に干せば、それに付着して放射性微粒子は持ち込まれること、裏山やイグネ(屋敷林)、屋根などに付着した放射性微粒子が屋内の空間線量率を高くしていると考えられると言いました。
こうした実情を無視して0,4の遮蔽係数を用いている、国の誤りを指摘したのです。
 またY子さんは、南相馬市の各行政区の空間線量率を色別に塗り分けたメッシュ地図にして、地域の空間線量率が高いことを目に見える形で示しました。
 Y子さんの言葉に私は、じわりじわりと身の内に放射性物質が入り込んでくるような怖さを覚えました。
 その後も口頭弁論は重ねられ、昨年10月3日には第13回口頭弁論が開かれました。
原告らの内部被ばく検査のために、「ちくりん舎(市民放射能監視センター)」が原告らの尿検査を続けてきていますが、第13回口頭弁論ではY子さんの尿検査結果が準備書面として提出され、Y子さんが法廷で発言しました。
Y子さんは長期保養として2ヶ月間、南相馬を離れて島根県で過ごしてきたのですが、
保養の前後の尿中セシウムを比較することで、そこから保養期間中は内部被ばくが低減することが明らかにされました。
 今年1月18日の第14回口頭弁論の報告集会で、原告団の団長や副団長たち何人か男性たちが、医療機関や介護施設、スーパーなどが無くて日常生活が非常に不便であることや若者や子どもが戻らないことなどを発言した後で、Y子さんが言いました。
「あのね、うちの主人がね、庭に青じその芽がたくさん出たのを丁寧に、畑に植え替えたんです。どうせ食べられないのは判っていながら、何もせずにはいられなくて植えていました」
 Y子さんの言葉からはまた、男性たちの言葉以上にありありと現状が伝わってきたのでした。
Y子さんの言葉はいつも、大きな主語ではなく小さな主語で語られます。
小さな主語で、核心に迫る大事なことを言葉にします。
こんな風に語るY子さんのことをもっと知りたく、また、もっとY子さんの話を聞きたく、お宅をお訪ねしたのでした。
●Y子さんの家で
 Y子さんの家は、以前に私が六角支援隊(注:南相馬市大甕のビジネスホテル六角を拠点に活動していたボランティア)で何度か訪ねたことのある酪農家の杉さんの家の近くでした。
 この日私は、Y子さんに読んでいただこうと『たぁくらたぁ』を持って行きました。
そこに私は福島原発刑事裁判の傍聴記を寄稿しています。
Y子さんは刑事裁判で罪を問われている東電元幹部の3被告について、こう言いました。
「可哀想な人達だと思う。言いたくても言えない立場で死んでいかなきゃいけない。
一人の人間として見たとき、言いたくても言えないことを持って死んでいく罪深さ、罪の重さを、どうとらえているのかな?
責任逃れなんか絶対できないのに、それを喋らせないようにしているのは政府。
 みんな嘘をついてる。
嘘がばれたとき、この人達はどうするんだろう?
 早野論文(注:東大名誉教授の早野龍五氏による論文で個人データを不正に使用し、被ばくを過小評価している)を政府が鵜呑みにしていて、この状態でしょう。私らは、どうすればいいの?」
 そして言葉を続けました。
「自民党議員から20ミリシーベルト撤回を降ろせと、圧力がかかっている。
でもこの裁判もこの年末か来年1月に結審と聞いている。
除染して1ミリシーベルトに近づけますなんて曖昧なこと言って、その間に私らは被ばくする。
20ミリなんてとんでもない。
原告団の仲間も、もっと勉強してほしい。
『あれが無い、これが無い、あれが欲しい、これも欲しい』ではなくて、自分がいま置かれている環境の現状を話し、7年も8年も経っているのに被災者はまだこんな状態でいることを伝えなければ。
当事者が学ばないで、誰が守ってくれますか?」
そう言ってY子さんは1枚の表を見せてくれたのです。
それは、12月にOさんのお宅で見せて頂いたのと同じ表でした。
●原告団の尿検査結果表
 これについては年末にお送りした「一枝通信 12月20・21日福島行」に記しましたが、原告団の方たちの尿中セシウムの検査結果を表にしたものです。
Oさんのお宅で表を見た時に、その中で飛び抜けて数値の高いご夫婦はきっとキノコを食べたのだろうと想像していました。
この日Y子さんが示した表を仔細に見ると、他にも数値の高い人達が散見できました。
Y子さんは言います。
「Eさんがキノコ採って、みんなに配ったんだって。
Kさんね、『俺、一ヶ月食った』って言うの。
Kさんの奥さんの数値は低いから聞いたら、『俺の母ちゃんは食べなかった』って」
 数値が高い他の人達もEさんに貰ったキノコを食べていた人達でした。
それを聞いて私が「切ないですね」と言うと、Y子さんは答えました。
「切ないでしょう?
私がこんなに頑張ってやってたって、みんな危機を感じているのだろうか?って思う。
『塩水で茹でれば半分になる』なんて言ってキノコを塩漬けにして、茹でて半分になるなんて言って、食べてる。
イノシシも食べてるって。
 私この表見ながら、水俣の胎児性水俣病を想い起こしてた。
結局いまの人達は、見えるものしか信じないからね。
でも自分の子孫に影響が出たら、自分が何をしてきたか、自分が恨まれるような立場になるって。
自分たちでできることは、やらなきゃならないんじゃないかなって思う。
周りはそれをやらなくても、見過ごすわけにはいかないから、データを取り、それを記録にして残しておけば、後の人達は昔こんなことがあったって解るでしょう」
●被ばくを顧みず
 Y子さんは「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」のメンバーと共に、線量の高いところを測定に歩きます。
ある時、足の指が痛くて痛くて、くるぶしから下が鉛色になったことがあったそうです。
その頃は顔も鉛色で艶もなく、病人そのもののようだったと言います。
米国の原子力研究家アーニー・ガンダーセン氏が来日しての調査時、南相馬に来た時にはY子さんも同行したそうです。
Y子さんの足は「ベータ線焼け」だったそうです。
その後Y子さんは、ふと気がついたら足の痛みも消えていて、鉛色だった足先も肌色に戻っていたそうです。
Y子さんは、「被ばくだったね。本当に放射能は怖い。
ここにこうして居るだけで、内部被ばくと外部被ばくの両方やられるんだよ」と。
●応援する人達がいて
 モニタリングポストで計測しているのは空間線量ですが、Y子さんは空間と土壌と、どちらも検査しています。
なぜ両方やるかといえば、そこには放射性物質があるからです。
放射性物質があるところで暮らしていれば、内部被ばくの危険性があります。
内部被ばくは、そこに住んでいる自分たちでしかできないことだから、尿検査をするのです。
「ちくりん舎」に依頼して、検査してもらうのです。
前回の検査の時(第13回口頭弁論でY子さんが意見陳述した時)は、原告5人が検体を提出しただけでしたが、今度は他の原告らも参加して、ペットボトルに検体を入れて名前を書いて送ります。
ペットボトルが必要ですが、水を買わないと検体を入れる容器のペットボトルがないので大変です。
そうやって集めても原告となった8行政区の住民のデータだけでは、比較対象できないので証拠となりえません。
九州のグリーンコーポさんが応援と協力を申し出てくれて、九州からも検体が送られてくるそうです。
裁判で闘うには、こうした客観的事実を示していくことがとても大事なことでしょう。
●20ミリシーベルト裁判の意味
 この裁判では、賠償金を要求していません。
ある時Y子さんは、弁護士に聞いたそうです。
「20ミリシーベルト裁判って、何なの?」
弁護士は答えました。
「みなさんは、法律のない裁判をやっているんです。
普通は法律があって、その法律に対する裁判なんですが、みなさんは法律のない裁判をやって法律を作ろうとしているのです。
だから、すごい裁判なんですよ」
 福島原発事故後の日本は、現在まだ「緊急事態発令中」なのです。
それなのに福島県だけ20ミリシーベルトで、避難指示解除をしたのです。
しかも1ミリシーベルトに近づけると言いながら、全く近づいていません。事故は継続中なのです。
事故前にはチェルノブイリ事故で5ミリシーベルトとなっても、それでも5ミリシーベルトは高すぎると、ICRPが0,5〜1と決め、それが基準になって日本もそれに則っているのです。
●ぶれずに、あきらめずに
 Y子さんは、「私が初めからぶれずに言っていることは、『元に戻してほしい。戻せないなら移住の権利と補償。そのために必要なデータは、どんなことをしても集める』ということで、モニタリングプロジェクトのメンバーとは、それがきっかけで繋がったし、今も繋がってやっている。
『ちくりん舎』との繋がりも。
 Y子さんは被災の少し前から傾聴ボランティアの講習を受けていて、その時の仲間で被災後のY子さんを励まし支えてくれた人がいます。
今もその人との交流は続き、Y子さんは時にはその友人に気持ちを吐露します。
「知れば知るほど怖い放射能にもかかわらず、地元の人は何もなかったかのように元の暮らしに戻っています。
食べてはダメなイノシシの肉やキノコ、山菜など、なんでも食べています。
なんのために私たちが命がけでモニタリングや裁判、国に危険を訴えたり声を上げて頑張ってきたのか、私も限界を感じます。
被災者も喉元過ぎれば、なのかな。
家の周りの田を大きくする工事のため(注:圃場整備、基盤整備。耕地区画や用排水路、農道を整備し、生産性向上を図るためとして耕地の集団化を実施する。農水省や都道府県の公共事業)、朝から数台の重機が我が物顔で土を削り景色が変わる様子に心が痛み、涙が止まりませんでした。
これも復興事業です。
復興の名を借り、必要のない事業に税金を湯水のごとく使う政府、出来上がればあとは野となれ山となれなのか、世も末ですね。
8年関わっての感想です。
しかし、未来に残すべきデータは諦めずに頑張ります。
放射能は怖いです。
じわりじわりと体を蝕んで、辛いのは年のせいと自分に言い訳をして、何もなかったことにする自分が怖いです。
先ほどもニュースで初期のデータのデタラメ(早野龍五論文)が暴かれていました。
知らぬが仏と現状を受け入れ暮らすしかないのか。
国は国民を、福島県を無視していますね」
 Y子さんから話をお聞きし孤高の人のご苦労を思いながら、目の前にキノコや山菜の山を見て暮らす「特定避難勧奨地点」の生活を想いました。
そしてY子さんが身を賭して集め、記録しているデータを無にするような判決にさせ
ては決してならないとも思いました。
●作られる分断
 Y子さんのお宅からそろそろお暇しようと思った時でした。
隣接する地域に大規模の酪農場の建設計画があがっていると、Y子さんが言いました。
Y子さんは建設計画の地図を出して、説明してくれました。
1000頭もの乳牛を飼う施設だというのです。
それだけの頭数だと相当量の水が消費されるでしょうし、屎尿の処理はどうなるのでしょう。
地元では反対の声をあげているそうです。
 これは前日に小高区大富の梅田さんから聞いた話だと、すぐに合致しました。
梅田さんから聞いた時には、大富の人たちが飼料作物を作ることで生計を立てていけるようになると思ったのでした。(注:前便「一枝通信 1月27〜29日福島行②」)
Y子さんから、大規模酪農場建設が予定されている現地の状況を聞いて、これはとんでもない話だったと思い返したのでした。
Y子さんの家を出て夕暮れの道を行くと、路肩のそこここに「酪農場建設反対」の旗がはためいていました。
 ここにはいない誰かの利益のために地元の人たちが、こうして分断させられていくのだと、心の底から怒りが湧きました。
原発立地もそうだった、事故後に沸き起こった大規模再生エネルギー建設も、沖縄の基地問題も…。
 国家や大資本などの大きな力に向き合わされている私たちですが、言い古された言葉かもしれませんが「無力であっても非力ではない」と、改めて心奮い立たせたのでした。

いちえ

 


2019年2月12日号「2月27日〜29日福島行②」

◎サルの群れ
 雪の飯舘村でした。
佐須への道ではサルの群れに会いました。
人が消えた地域ではサルやイノシシなど野生の生き物に出会うことは珍しくないのですが、この日に見たのは30匹ほどの大きな群れでした。
これまでも数匹の群れは何度も目にしてきましたが、こんなに大きな群れでいるのは餌を探す行動と関係しているのかしら?などと思いました。
この雪の中で、彼らはどんなものを食べて冬を越すのでしょう?
何日か前の新聞に電線を伝って移動するサルの群れの記事が載っていましたが、この日見たサルの何匹かは、電線を伝って移動していました。
雪山の斜面を登る時に滑り落ちて、登り直している子ザルもいましたから、雪上を歩くよりはその方が効率が良いのかもしれません。
電線を伝っていたのは、体も大きな大人のサルたちでした。

◎梅田照雄さんを訪ねて
●居住制限区域だった大富
 27日は飯舘村の榮子さんの家を失礼した後、大富の梅田照雄さんを訪ねました。
梅田さんには昨年11月に長谷川健一さんのお宅で、初めてお会いしたのです。
その日梅田さんは長谷川さんの蕎麦工房で蕎麦の脱穀と製粉を頼みに来られていたのですが、その時に月末に長野県の支援者が大富に来て蕎麦打ちを一緒にして交流会をすると聞いていたのです。
交流会がどんな様子だったかを知りたくて、この日お訪ねしたのでした。
 大富の梅田さんの地区は被災前には70軒ほどが住んでいたそうですが、現在戻っているのは13軒だそうです。
その内の10軒ほどの人たちで、蕎麦、菜種、陸稲の栽培、ミツバチ飼育に取り組んでいるそうです。
大富は小高区の山側の地域で、原発事故後は居住制限区域に指定されていましたが、2016年7月12日に避難指示解除になりました。
避難指示解除になったとはいえ決して安全とは言えない居住域で、若い人たちは戻っていません。
●なぜ蕎麦作りを?
 被災前は土木業の会社に勤めていた梅田さんですが、避難先から戻って、地区の仲間たちと蕎麦を栽培するようになった経緯を伺いました。
2016年に長野県の御代田町から南相馬市に、蕎麦の種が10kg送られてきました。
市が栽培したい人を募り、大富行政区では区長さんが「やってみよう」と住民に呼びかけ、そこから始まったそうです。
種を蒔く時には御代田町からも指導に来てくれ、その時から御代田町との交流が始まりました。
昨年もばら撒きで2反5畝の種を蒔きましたが、収穫前に溢れてしまった種もあり、予想よりも少なかったですが30kgの収穫がありました。
昨年長谷川さんのところでお会いした時、梅田さんはその玄蕎麦を持ってこられ、長谷川さんの工房で脱穀製粉をして帰られたのでした。
●2011年春のこと
 3月11日、梅田さんが海岸でブロックを積む作業をしていた時に地震が起きた。
津波が来ることは判らなかったが自宅にいる高齢の母親が心配で、家に戻った。
道路は段差や亀裂が入り、途中の村上(注:海岸に沿った地域で津波で壊滅した)の浜街道で、いわきナンバーの車が橋の段差で動けず「どうしたらいいべ」と往生していたのに会い、梅田さんは迂回して山の方へ行けと指示した。
一緒に会社を出た運転手は置いてきたクレーンが心配だからと会社に戻り、津波に流されてしまった
 家に戻ると母親は無事で、家の被害もなかったが灯油のタンクが倒れていた。
その日は寒かったので灯油を買いに小高迄行ったが店は閉まっていて、浪江に行ったら店は開いていたが売ってもらえなかった。
防災無線で布団の寄付を募っていたので、津波被災者のためだと思い、家に在った布団を10組ほど提出した。
 翌12日、会社は休みだったので様子を見に外を散歩していたらパトカーが来て、「原発が危ないからすぐ北へ逃げろ」と言われ、またその日の夕方3時頃、区長さんが来て避難するように言われて、妻と母と3人で原町の石神小学校体育館に避難した。
15日の夕、体育館に避難している人を集めて、この避難所は閉鎖するので自分で避難できる人は各自で、そうでない人は明朝7時過ぎのバスで避難すると言われ、行き場のない人は残ってと言われた。
年寄りを抱えたりで動けず、残っている人は大勢いた。
 梅田さんは「ばあちゃんのオムツも売ってないし、寒くてしょうがないから」飯坂の奥の親戚に避難したが、3日くらいそこに居て原町の妹の家に戻った。
自分の娘の家なので母は落ち着かせられたが、梅田さんはバリケードをくぐって度々家に戻った。
そうこうしているうちに原町に借り上げ住宅が見つかり、3人でそこに移った。
●避難先で母は死んだ
 避難してからの母の口からは、「いつ家に帰れる?」とばかり聞かれたが先の見通しも判らず答えられなかった。
母は体は弱っていても頭はしっかりしていたから、「いつ帰れる?」と聞かれても嘘はつけなかった。
食事が喉を通らなくなった母を入院させたが、入院した翌日に医師から「いつ退院しますか?」と退院日の相談をされ、昨日入院したばかりなのに医者も看護師も少なく手がないのだと思った。
入院して1ヶ月で、家に帰ることがないまま母は亡くなった。
 当初はすぐに戻れると思って何も持たずに避難して、こんなに長くなるとは思わなかった。
避難指示解除になってこれからの生活を家族みなで相談して、今がある。
子どもは2人いるが、息子は小高に中古の家を買って、孫は郡山の専門学校にいる。
娘は原町だが娘婿は市立病院の看護師をしている。
 小さい子どもがいる人はみな避難して行った。
早く行った人は正解だったと思うが、でも誰かが残ってここを守っていかなければ申し訳がないと思う。
●親が開拓した土地を守りたい
 梅田さんは、1943年に東京の蒲田で生まれた。
大工だった父親は仕事の関係で韓国の済州島で暮らしていた時に、同じく親の仕事の関係で済州島にいた母親と知り合い結婚した。
二人は関東大震災の後に、東京に行けば仕事があるからと東京に出た。
やがて東京も空襲が激しくなり1945年の東京大空襲の少し前に、父親の本家のある福島県相馬郡小高に疎開した。
だが小高でも空襲があり、梅田さんは竹やぶに逃げ込んだことを覚えている。
恐ろしかったその体験は、2歳の照雄少年に強烈な印象を残したのだろう。
その時の機銃掃射の爆音は、夕焼けの空の色と共に忘れられない。
 戦争が終わり、農地改革で本家の土地が分けられ両親は開拓を始めた。
両親は東京からこっちへ来て随分苦労しただろうが、本家があったから助けてもらえた。
梅田さんが子どもの頃は学校の給食はなかったから、弁当を持ってこられない子どももクラスの半分くらい居た。
親たちのそんな苦労を知っているから、ここを守りたいと思う。
 あの頃は生活の苦しみはあったが、今回の原発事故被害の苦しみは、それとは全く違う苦しみだ。
戦後の貧しさや飢えの苦しみを知っているからそれなら我慢できるが、この空気が汚されてしまい、いつ帰れるか、入れるのかどうか判らない、先が見えない今は、とても苦しく不安だ。
 一番かわいそうなのは子どもだ、孫たちだ。
震災の時に6年生だった孫は仮設住宅に入り、中学校はプレハブ校舎だった。
子どもは文句を言わないが、大人には責任があると思う。
●大富の仲間たち
 8,000ベクレル以下の汚染土を常磐道の復旧工事に使うという話題から、梅田さんの言葉はこの地域の暮らしや仲間へと繋がっていった。
ここで梅田さんと一緒に蕎麦栽培をしている仲間は、以前は酪農家だった人が多い。
前述したように梅田さんの両親のように戦後の農地改革で自分の田畠を持ち、農家として生活してきたが、その後の減反政策で稲作から酪農に切り替えていった人たちだ。
 2011年3月12日、原発から20キロ圏内のこの地区は、避難指示区域に指定され、住民たちは取るものもとりあえず避難したため、家畜を置き去りにせざるを得なかった人も居る。
「汚染土を高速道路の下に埋めるって言うけど、死んだ牛を埋めてたのをこの前掘り返しただけんど、あれは燃すのかな?燃してから灰を埋めんだべか。
あん時、殺処分だ何て言われたけど、誰も殺処分する人なんかいなかった。
できねぇよ。
でも避難しなきゃなんねかったから、牛舎でミイラになった牛もいた。
逃げた牛もいたけど捕まったりして、殺された。
あの頃の牛は、線量ある牛は捕まってどっか持ってってみんな処分されたんだべな。
それ見てっから、もうみんな、牛はもう飼いたくねぇって。
可哀想でって。
酪農家がグループ立ち上げてたが、事故後はみんなやめたよ」
 私も2012年に、ミイラになった牛たちが倒れている牛舎をこの目にしていた。
その光景と、その時に牛舎の主はどんな思いでいるだろうかと胸が痛くなったことを、ありありと思い起こした。
その時案内してくれた希望の牧場の吉沢正巳さんの、「僕は残って牛を飼い続けているけれど、それだけが正解じゃない。逃げた人も正しかった。牛を逃した人もいるけど、その人たちも正しかった。みんなそれぞれ考え抜いた末の判断だった。誰が正しくて誰が間違ってるなんて言えない」の言葉も思い起こした。
 そうした地区の仲間たちとで、2017年から蕎麦、菜種、陸稲の栽培と、ミツバチ飼育に取り組んでいるのだ。
「蕎麦は難しいな。育てんのには手がかからなくて楽なんだけど、蕎麦打ちが難しい。
御代田の人たちは来らんなくなって俺たちだけでやったんだけど、いやぁむずかしいわ。
原町に教えてくれる人がいて、そこで習ってやったけどな。
つなぎ入れねぇで10割蕎麦っちゃ、難しいわ。
繋がらんのよ、だけど風味はあって美味かったよ!
 昔はこの地区にもバンカリ(注:ししおどしの原理で水力を利用して穀物をこなに挽く作業場)があったのよ。
今はバンカリ無ぇけど、石臼持ってる家があっから、今度はそれで撞いてみっかなんて言ってんの。
 田んぼはやらねぇ。田んぼ作る意力はねぇ。
イノシシ、サルでダメだ。
電柵してもダメだ。
イノシシは下に転がってぬた場(注:ぬかるんだ場所)で転げんのな。
体の虫取りすんだな。
 野菜も作って、線量はいつも測ってて、ちゃんと低い数値まで計測できる機械のあるとこへ持ってって測ってもらって、2年くらいやって今はようやく大丈夫になった。
ゼオライトとカリ入れたが、入れすぎたらダメなんだな。
 山菜はダメだ。
たらの芽はまだ少しいいが、コシアブラはダメだな。
●これから
 この先どうするか、高齢者ばかりになった大富地区だ。
76歳の梅田さんが中間くらいで、80代、90代の人も居る。
若い人でも、既に70代だ。
地区の住民は少なくなったが厳しい現実を前にして、以前よりも住民の気持ちはまとまってきたという。
蕎麦や陸稲、菜種の栽培や養蜂などと、今までにないことをまとまって始めたことが住民の気持ちを結束させていったのではないだろうか。
ミツバチは伝染病などがあって難しいし、菜の花は天候に左右されるが、つい先日もボランティアの大学生や原町の他の地区の人も招いて、収穫した陸稲で餅を撞いてみんなで食べたり、その前には蕎麦打ちをして食べたりしたという。
地区の仲間が同じ顔ぶれで集まって一緒に食べることで、また気持ちがまとまるのではないかと梅田さん夫婦は言う。
「何と言っても食べることは基本なのだから」と。
 また、ここより少し北の馬事公苑の方に大規模酪農場の建設計画があるので、それができればこの辺りでは飼料作物を作ることになるだろうというのを聞いた時に私は、「ああ、それでこの地区の人たちが生計を立てていけるようになればいいな」と思った。
(*:ところが、この点に関しては後日深く考えさせられる事実を知りました。この件に関しては次の「一枝通信」に記したいと思います。)

 梅田さんのお宅を出て、薄暮れの小高区を抜けて原町に戻りました。

追伸

 先ほど送信した「一枝通信 1月27日〜29日福島行②」で、​大切なことを書き落としていました。
小高区大富の梅田さんのお宅で、聞いたことです。この地区の半径2キロ範囲ほどのところで、自死した人が3人と聞きました。それは遺族の方たちばかりか、地区の人たちにとってもどれほど辛く無念なことだったでしょう。
 今度は雪のない時に、大富を訪ねようと思います。
 そしてその地域を歩いて、かつての暮らしに想いを馳せようと思います。    

いちえ


2019年2月8日号「1月27日〜29日福島行」

1月25日にトークの会「福島の声を聞こう!vol.30」を終え、27日から29日まで福島に行ってきました。
トークの会の報告と後先になってしまいますが、福島行の報告です。
今回もまた今野寿美雄さんにお世話になって、飯舘村、南相馬を回りました。
出かける前日に鹿島区のヨシ子さんに電話すると、「雪が降ったよ。20センチくらい積もってるから気をつけて」と言われました。
寒い日々でもありましたから、普段は着ない防寒用の下着を着込んでコートはダウンに毛糸の帽子、防寒ブーツで出かけました。
◎飯舘村
 昨年12月27日に帰村した菅野榮子さん、芳子さんに会いに行きました。
仮設住宅に隣同士で住んでいた芳子さんの自宅の建て直しが済んで、芳子さんが自宅へ引っ越すときに合わせて、榮子さんも仮設住宅を退去したのです。
事故前に飯舘村で暮らしていたときから、お隣同志の仲良しの二人でした。
 雪の道を飯舘村に向かいました。
榮子さんの家は以前の家屋は取り壊されて、平屋建ての瀟洒な造りに生まれ変わっていました。
お訪ねした時にはちょうど、娘婿さんの馬場隆一さんと馬場さんのお母さんがみえていました。
初対面のお二人にご挨拶をすると、馬場さんは浪江町の「なみえ創成小学校」の校長と判り、浪江町出身の今野さんとお二人は、共通の知人のことや町内にあった店の話題でひとしきり盛り上がりました。
●緊急時の避難
 なみえ創成小・中学校の在校生は昨年12月までは10人いたのですが、工事関係者のお子さんが3人、保護者の仕事先が変わって楢葉に転校して、現在は7人だそうです。
でも今春には隣接する「子ども園」から上がってくる子どもや、避難していたけれど戻ってくる人もいて、16、7人になる予定だそうです。
馬場さんは、昨年度は請戸小学校の校長だったそうです。
津波の被害を受けた請戸小学校は休校中ですが、現存する建物の管理などのために校長職を置いていました。
そこで馬場さんは、請戸小の避難記録を後世に残して伝えていこうと、丹念に調べたそうです。
あの日、海べりに建つ請戸小学校の生徒は全員無事に避難したことは語り継がれていますが、そこには幾つかの偶然(それは幸運と言っていいかもしれませんが)が積み重なってのことだったと言います。
例えば生徒を引率しての避難途中で迎えに来た保護者に出会ったそうですが、保護者には「今は、まず避難」と言って児童を引き渡しせずに避難行を続けたそうです。
もしその時に保護者に引き渡し、1人返し、2人返しして彼らが自宅に戻っていたら、みな津波の犠牲になっていたでしょう。
一人も犠牲者を出さなかったことはとても喜ばしいことですが、それを言えば犠牲者が出てしまった他校への批判を生むことになると案じ、今は公言せずに文書で残して申し送り事項で伝え、語り継ごうとされています。
 津波でも原発事故でも、何にせよ緊急事態が生じた時に避難をどうするか、避難経路だけではなく状況に応じての対応についても十二分に検討し、共通の理解にしておかなければならないことでしょう。
それなのに避難経路や方法の検討も蔑ろにして、原発再稼働を進めようとしている政府と電力会社、経済界に強い憤りを覚えます。
 話している間に芳子さんが来て、馬場さんのお母さんと「ヤァ、しばらく」と互いに挨拶を交わしていました。
このあと小高に行く用事がある馬場さんはお母さんに「かか様、行くぞ」と声をかけ、お二人は帰って行きました。
●榮子さんと芳子さん
 榮子さんがおにぎりと味噌汁、漬物などお昼を用意してくれて、芳子さんがそれを見て「わぁ、こんなに大きいの食わんねぇよ」と悲鳴をあげて言いました。
「いや、ほんとに一人だとご飯も食べねぇことなぁ。
1合に炊いてもなぁ、こんでは(身体動かして)働かねぇとなぁ。
米の減らねぇの。
やっぱりご飯はある程度いっぱい炊かねぇと、美味しくないねぇ。
ちょびっと炊いたんでは、うまくねぇ。
たいした鍋買ってもらったんだけんど、やっぱり2合、3合ぐらい炊かねぇと美味しくねぇんだな。
米の減らねぇの見ると、たまげっちゃ」
 芳子さんがいうのを聞きながら榮子さんは「かぼちゃも食べて」と言ってかぼちゃを出しながら言いました。
「うちも、よっちゃんが近くに居っから来てくんろって言って来てもらったり行ったりしてな。
 かぼちゃ小さく切って冷凍しとくの。
1回食う分、小分けしておくの、緑黄色野菜だからな。
私ら健康管理しないと、戦になんねぇよ。これから戦だから」
 そう言って榮子さんは言葉を続けました。
●榮子さん語録
*榮子さんは仮説住宅にいるときから、帰村したらそこが自分の戦場になると言っていました。
帰村してからが本当の闘いになるのだ、と。
緑黄色野菜のかぼちゃで健康管理から、また話がそこへ繋がりました。
榮子さん語録その①
「私らここさ帰ってきたって、これから戦争だから。
どこに行っても戦争だけんじょ、これからが本戦だから戦場だ。
今までは予備隊でいたけど、今度は本当の戦場だ。
 でも、おかげさまで色々勉強させていただいた。
買っておいた本引っ張り出して今読むと、前に一回読んだんだけどな、またここさ来たなら来たで、違う感じで奥の深さが判った。
 字、読めるようにして貰ったんだから、ありがてぇ。親に感謝してる」

*デンマークなどヨーロッパに研修に行った人の講演を聞いた感想から、こんな風に言いました。
語録その②
「ここで生まれて、故郷がこんな村いやだって思ったって出てみれば、ここが一番良くて、生活の目処が何も立たなくたって、ここの土になるんだって帰ってくるわけだから、その人たちが帰ってきて良かったなぁって思って死んでいける環境を整えるのが村の役割だ。
 私らも努力はするよ。
自分で自立するうちはできることは自立して、何でもかんでもやってくれろっては言わねぇ。
自分でやることやりもしねぇで、相手が悪い、何があったから悪いってばっか言ってたんではな。
やっぱり自分もやることやって、ちゃんとその土地で安心して死んで行かれる場所が必要だって、私は思う。
これからは、そういう社会でないとちゃんとした人生送らんねぇって、私は思った。
 そういう社会を目指してヨーロッパあたりの福祉国家は、働くときはじゃんじゃん税金いっぱい出さなきゃなんねぇけど、老後は安心して死んでいかれる体制がちゃんとできてんだわ。
日本でだって、出来ねぇ筈はあんめぇ。
だから、そういうことは言ってかなきゃなんめぇ。
 デンマークは昔、大きな戦争したのな。
そん時に負けてドイツや隣の国に良い土地取られて残されたのは草も生えねえようなとこを残さっちゃったみたいだな。
そこんとこで食うもの作らなきゃなんねぇから、そこんとこで這い上がった国だから、社会主義の国とも資本主義の国ともまた違うんだな。
だから河合先生の『日本と原発』の映画見ると、デンマークなんか凄いべしさ、規模が違うし風力発電なんかわぁっと作らって、そこの下で牛がのびのびと草喰ってたべし。
そういう国なんだな。
 そんだから働いて赤ちゃんできて、子ども育てんには金がかからない国なんだな。
義務教育までは国費で行けんだってな。
義務教育終わったら、その人その人で大工さんに向く人は大工さん、看護婦に向く人は看護婦って、自分で分けて専門学校さ行くんだってな。
専門学校は職業訓練所だから、出たら職種によって国に配属されるんだべ。
そこで適齢期が来て結婚して子どもが生まれれば、また子どもは国費で育てて、だから働いてお金いっぱい取れっ時は、税金がうんと高いんだって。
だけど、今度死ぬ時はお金かかんないんだって。
施設さ入って、自分が生活してたとこでここの土地で一生終わりたいって意志の人は24時間体制で在宅介護が充実されてんだって。
 この間、社協の人が来たから言ったのな。
『私らここさ帰ってきたら、後は行くとこ決まってんだから、辿り着いて行くとこは決まってんだから、上手に殺してくんろ』っち。
笑ってたよ。
『また来てもいいですか』っていうから『来らっし』って言ったの。
上手に殺してもらわねば、こんなに無理して長生きして植物人間になってっことないからな。
上手に殺してもらいてぇなって思ってる。
できるだけ迷惑かけねぇように最大努力して生きっから。
その努力、一生懸命よっちゃんと一緒にしなきゃなんねぇなって話してる」
*榮子さんがそう言うと芳子さんは「榮子さん居っから」と言い、榮子さんもまた「よっちゃん居っから私は良いよ」と言い、ここでは白菜やネギなど野菜などの作物は作らないで今度は花を植えようというのでした。

語録その③
 今度は花の苗でも作って、どこさでもただ植えんでなくて、綺麗に植えてくかなって思ってる。
綺麗に川の流れが活きるように、山の緑が映えるように、そう言う作り方してって、花の命がちゃんと守れるようにして生きたいなぁって思ってる。
そういう自然があっから出来るんだよ。
色も考えて、同系色でやったり反対色を次々に咲かせたりってな」
*榮子さんがそう言うと、芳子さんも「楽しみだな」と相槌を打ちました。
「今度、雑木山がな、立ち枯れんなってる。
放射性物質か病気か判んねぇども、山津見神社の大木あったべしさ、あれなんかも立ち枯れって言ってたよ。
飯館では家の周りばかり除染したって山の雑木林がな。
植林したとこは植えて70年くらいだからな、今んとこは立ち枯れにはなんねぇよ。
だけんじょもナラの木だの雑木林が立ち枯れになったとこを、いま除染すっか手入れしないとな。
 20年とか30年だったらナラの木も切って、またそうしたのが芽を出して山の木を作るっていう循環なんだよな。
大木になったとこからは五葉は出ねぇもん。
だから私ら子どもの頃は、営林署なんかが払い下げして地域の人たちに炭焼きさせたんだよな。
五葉が出てきて、こん位に五葉が育った時ゴンボッパが出てきて、ゴンボッパだのセンブリだのクマイチゴ出てきて、山さ行って私らそういうの採って喰ったんだよな。
そうして大木になったら日陰になっから、そういうのは出ねくなっちゃうんだよ。
自然はうまくできてんだよなぁ」

*話しながら、思いは避難したばかりの頃に返っていきました。
語録その④
「(伊達の仮設住宅に)7月31日に行ったのな。
あそこさ移って、あの夏は畑さ何にもしねえで、後ろさ向いて、北の方さ向いて、裁ち板1枚並べて毎日着物縫ってた。
いつ着っか判んねぇ着物ぶっこして、縫ってた。(注:この頃、松川の仮設住宅では着物をほどいて作務衣のような上っ張りに縫い直して、販売するようにしていました。榮子さんはそのグループと一緒ではなかったでしょうが、針を持って手を動かすことでやりきれない気持ちをかろうじて沈めていたのではないでしょうか)
『ああ、おらいつ死んだらいいかなぁ』って思ったったど。
『こんな村いやだ』って踊り踊ったけど、『こんな国いやだ』ってなっちゃったの。
原発のいろいろ知ったらな、こういう形で原発が作らっちきたんだ、こういう形でエネルギーが使われっちきたんだ、なんのためにこうだったんだといろいろ判ってきたら、おら、こんな国いやんなっちゃったの。
いつ死ぬべぇって思ってたよ。
そうやってるうち、よっちゃんが来ることになって、11月によっちゃんが来たから。
 よっちゃんいたからやってこれたなぁ。
そうして7年も8年も過ぎて帰ってきてみたら、山だの庭の木は変わんねぇ、置いてった石だのは変わんねぇけんじょも、もう全てが様変わりしたよなぁ」

芳子さんも「んだなぁ。変わってるなぁ。新しい家さ入っても変わってなぁ。なんだか、ハァ、夜んなっと違うんだなぁ」と相槌を打ちました。
語録その⑤
「夜は悪いな。
夏は夜が短いけど、今は夜が長くて持て余す。
目覚めたら、眠らんなくなる。
認知症がいつ入ったっておかしくねぇ歳だから。
私らの年代の人たちが、次から次みんな認知症だからな。
よっちゃんと近いから、毎日1回はどっちか行くかして喋ってっけど、夜は一緒じゃないからな。
武田さんって人が言ってたけど、飯舘では集合住宅建てるべきだって言ってたけど、せめて冬だけでも集合住宅は必要だって思ったな。
 これからは避難でなくても、いずれ夫婦だって子ども育ててるうちはいいけど、いずれどっちか片一方は一人になるんだから、共に生きていく人は作っておかなきゃな。
7人も8人も要らねぇ、1人でいい、なんでも言える人な。
 佐須は帰ってきてる人何人かいるけど、誰でもいいわけではねぇからな。
子どもさ言わんねぇことだって、よっちゃんには言ってるの。
よっちゃん居っから、いいけどなぁ。
 でも帰ってきたから、仏さんも喜んでんべぇ。
ばあちゃんは1月19日が命日だったから、雪だべしさ。
んだからいつも、命日には来らんなかったのな。
お墓参りに来らんなかったの。
でも今度は雪降ったけどちょうど溶け出して、御墓参り行ったら、自分の心がせいせいした。
せいせいしたけんじょも、もんもん、もんもんって勝手が違うし、家新しくなったのは良いけんじょも、やっぱり違うよ」
芳子さん「落ち着かないよ」
*榮子さんの思いを即座に掬って、思い遣る芳子さんの言葉でした。

*以前に美術大学の学生たちが来て、アートでここら辺の地域を活性化するということで聞き取り調査をしていったそうです。
彼らは田んぼで稲を育てて、稲で絵を描くということを考えているようです。
榮子さんや芳子さんの家の前方に伊達の仮設住宅を移設して、宿泊施設にする計画もあるようなので、榮子さんは1年間みっちりと四季折々の山の変化や地域の自然や色々を見て、それに対応するアートを考えて欲しいと言ったそうです。
語録その⑥
「ほしたらやっぱり、観光に見に来る人もいるだろうし、ここに来て心を癒してまた都会に行って頑張るということもできるでしょ。
これからは、そういう時代でないの。
企業の戦士で優等生で頑張ってる組だって、精一杯働いてんだから、あの人たちだって寿命縮めるくらい働いてんだ。
企業戦士は企業戦士で、企業で生きてく人は私らと違ってるけど『まぁ』と思って見てる、『かわいそうだ』なんて言わねぇけど、そうでなきゃ生きてけねぇんだから、しょうがねぇって思って『頑張れ』って言ってっけど。
まぁ、そういう中でがんじがらめになって生きていく、そういう人生もあんだから。
そういう人たちがこういう所さ入ってきて、ここの空気吸って、美術大学の人たちがちょっと手を加えた自然の中に来ればな。
 群馬か長野に、星空が綺麗で村起こししたとこがあんだな」
(注:長野県の阿智村のことでしょう。2006年に環境省は、星空が綺麗な村と認定しました。飯田・下伊那地方からは戦争中に多数の満蒙開拓団が送出されたのですが、その史実を伝えていこうと、阿智村には2013年に「満蒙開拓平和記念館」が開館されました)

*榮子さんが「一枝さんに聴きたいことがあんだけど」と言って、話題は原発事故の刑事裁判のことになりました。
榮子さん「あの裁判の記事は、新聞全部くまなく読んでるよ。
原発はどういう状況から事故起こしたかって、今度は勉強してるから知ってるよ。
どうなったから事故になったかって知ってるよ。
だけんじょ、法廷で3人とも『聞いてません』『知りません』『判りません』で通すんだからね。
それで給料もらってんだもんね。
国策でやってきたことにだって、大きな問題があるんじゃないの。」
今野さん「一番は国なんだよ。国は東電のせいにしてるけどさ、原発を民営でなんて、アメリカは別だけど他の国は国営でやってるのよ。要はそれだけ危ないものを、国が管理しなきゃいけないものなのに民間に任せてることに問題があるんですよ。民間がやればコストが優先だから」
榮子さん語録その⑦
「家さ帰ったら、読まんなんめぇって本が、あんまり見つからないんだわ。
事故起きたばっかりの頃など『読まんなんめぇ』『こいつ読みてぇ』って本、書いた人が誰であろうがタイトルで読んでみっかって、本を漁って読んだよ。
ほいでまぁ、ここにきたら読みてぇって本が、あんまり無えんだな。
百姓すっぺったって、はぁ、ただのような所さ帰って、百姓もできねぇわけだべぇ。
ほんでもって体も追いついていかねぇ。
ほいでもって前に買っておいた本引っ張り出して、これも読んだな、この本も読んだなぁって引っ張り出して見てんの。
読み返してみて『ああ、こういうものに手ぇ出したんだから大変なことだなって。
そういうことを真剣に考えねぇんだか、日本人は。
つくづく、そう思うね。
 あの人たち、東電の人たちだって、金、金、金って金にさえなりゃいいのかな。
アレクシェービチさんが福島のこと言った時、日本はものが言える自由な国だけど抵抗の文化が無えって言ったのな。
私もあの人の本読んだけど、あの人の文章は鋭いから。
表現がすごいな、心に残るもの。
あの本読んだ時は、毎日泣いてたよ。
 こういう大きな事故起こしたって『知りませんでした』って、鮒の口揃えるみてえによ、大の男がだよ。
そこら辺のオタマジャクシみてえの、おらみてえのが言うのとは違うよ。
オタマジャクシは腹ばっかりでかくして口揃えて『あっぱっぱ』って、存じませんでしたって言うのとは違うと思うよ。
私、つくづくそう思うよ。
一枝さん傍聴してっから聞いてみようと思ったけどな、傍聴席さ入ってから野次言えねえしな。
なんぼ腹の中にぶったぎれること思ったって、黙ってなきゃなんねえもんな。
 日本の国は民主主義だって、三権分立だって、おらは学校で習ったよ。
三権分立はこういうことだって覚えてきたけんじょも、疑うことはいっぱいあるな。
いろいろな裁判の判決見てな、今ちっと三権分立でしっかり分立してたら、もうちっと司法の覇があっぺ。
だけんじょも、権力には勝てないんだかな。
 朝日新聞社の『プロメテウスの罠』って、原発を作るっていう時から取材してきた記事を集めて、その経緯をずっと書いてきた本があんのよ。
メディアは常に中立で、報道の自由は自由だけど、ちゃんとしたものを出さねばなんねえ役割があっぺしな。
その流れの中でいろいろ変わってきたことを書いてんの。
そういうのを読んでくると、始めは反対だってちゃんと線持ってたって、いつの間にか賛成さいってんだな。
絶対ダメだって頑張ってたって、いつの間にか賛成にいってんだって。
 日本人は根性悪いってか、そんな遺伝子持ってんだべぇ。
こういう中で生きてかなきゃなんねえから、大変だ。
死んだほうが楽だって思う時あるけど、ここまで生きてきたんだから、自分の生き様の足跡残さなきゃいらんねえって、私は思ってる。
 日本のこういう仕組みの中で生きるっつうのは大変なことだよなぁ。
ハイハイって言って生きてりゃ波風立てないでお金もらって生きられっけども、だけんじょも、ほんでは本当の人間の幸せはねえべ。
だから私は貧しくとも自分の好きなことして、お金無えだって、したいことして、言いたいこと言いてえって、つくづく思った。
 東電のあのお偉いさんたちの裁判に、なんで検察はこれだけの事故起こしたあの人たちを、自分の仕事として起訴できなかったんだべ。
三権分立でいるんだよ。
ほんで弁護士さんたちが、いろいろ資料集めて強制起訴に持ってたんだべ。
ほしたら2回も起訴を却下した裁判官だっているんだからな。
そこで今度は弁護士が一生懸命苦労して諸々の現実を調べていって書類作って強制起訴にもっていったら、今度は起訴を引き受けた裁判長だっているわけだ。
だってみんな、裁判官の資格は持ってんだべ。
 人の心は一番ありがたくて、一番おっかねえな。
私はそう思った。
金一つで、どっちにでも転ぶんだもんな。
なぁ、おっかねえな。

語録その⑧
「やっぱり、こうでなきゃなんねえんだって仲間をいっぱい作っていかねえとダメなんだな。
ほいでなきゃ世の中、変わんねえ。
世の中変えるっていうのは、やっぱり本当の人間の幸せを探求しながら、それに近い人たちをいっぱい作っていかねえと、世の中変わんないとね。
人間は一番最後に死ぬ時、どうやって死んでいくかって。
働いて足腰きかなくなったら、余計思うな。
足腰きかねくたって、口ばっか喋るようになったんだから、今ちっと違う生き方もあったのかなって思う。
けど、精一杯そん時はそん時で、お金無くたって、何無くたって、自分でしたいことして生きてきたから今があんだなぁって半分感謝もしてっけど、結構楽しみながらこんな山ん中に居る。
雪降った時だって、外でてこそ働かねんけじょ、やっぱり考えてっと生きてんもんな。
して春んなれば、考える余裕も無くて、もう働いたもんな。
 ほうやってみんな先祖代々、冬雪に埋もれてる時は『ああ、春がきたら』っていう考えで、生きてきたんだよな。
春んなったらこういう仕事から始まって、こうやってこうやってって、その繰り返しで来たんだ。
 だから私らつくづく思ったけど、ビニールの普及が無くて、お天道さま本当に自然の中でしか百姓ができなかった時代があったべ。
そん時は、雨降ったら家さ入って休んでる他ねえわな。
そういう生活してきた。
このビニールが普及してきて、ビニールハウス作るようになったべ。
雨降ったって、働かれるようになったべ。
そうしたら暇ねくなったな。
雨降ったってハウスの中で働かれるわけだから、考えてる暇ねくなったな。
 いやぁ、百姓ってのはこういうものだって、そん時思ったもの。
子どもの頃で働いてる時は、『あー雨降ったから、今日はゆっくりできるな』って、ホッとした気持ちがあったもの。
 今度は仕事の段取りだって、雨降ったらハウスの中のこの仕事、降んねえ時は外の仕事するって、仕事進めていかねえと仕事がはかどらねえってなったもの。
 ほういう時代だもの、都会の人なんて24時間体制で目開いて働いてんだもの。
企業戦士でよ、大企業の課長だなんだって、大きな会社のなんだかっていうけんじょもな、反面『ああ、大変だべな』って思うよ。
会社なんか24時間体制で年中動いてんだもの。
日本の国だけじゃ足りなくていろんなとこ行って、日産の会社なんかあんな大きな騒動してるべ。
はぁ?って思う。
今ちっと、怠けねえでのんびりして生きる方法はねえもんだかなぁって、一人になると考える」

 大変長文になってしまいました。
お読みくださって、ありがとうございます。
昨年末に飯舘村に帰った榮子さんと芳子さんですが、老後を安心して暮らすと言うにはあまりにも状況がと整えられないままの帰村政策であったと、改めて思います。
榮子さんは、もっとたくさんを話してくださいました。
例えば小泉進次郎氏が「第一次産業を大事にしたい」と言ったことに対しても、自民党の政策はその言葉と真逆ではないかと、鋭く批判していました。
「こんな国嫌んなっちゃった」は、榮子さんの心の底からの叫びでしょう。 

いちえ


2019年1月21日号「1月18日裁判傍聴」

 1月18日は東京地裁での「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」、福島地裁郡山支部での「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の2件の裁判が開かれました。
私は東京地裁で裁判を傍聴しました。
◎「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」第14回口頭弁論
●この裁判は
 この裁判は、国が用いた年間20ミリシーベルトという基準による避難解除の是非を問う裁判です。
2014年12月に政府は、南相馬の特定避難勧奨地点について、年間積算被ばく量が20ミリシーベルトを下回ることが確実になったとして避難解除し、その後支援策や賠償を打ち切りました。
これに対して地点に指定されていた世帯や近隣の世帯合計808名が、解除の取り消しを求めて国(原子力災害対策現地本部長)を相手取って提訴したものです。
 原告は、次の3点から違法性を主張し、撤回を求めています。
①公衆の被ばく限度が年間1ミリシーベルトを超えないことを確保すべき国の義務に反する。
②政府が放射線防護の基準として採用している国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に反する。(ICRPは、平常時は1ミリシーベルト以下、緊急時は20〜100ミリシーベルト、原発事故後の復旧時に住民が住み続ける場合には1〜20ミリシーベルトで長期的には1ミリシーベルト以下を目指すことと、政府に勧告している)
③政府は、新たな防護措置の実施計画の策定や住民の意思決定への関与体勢の確保など、事前に定めた解除の手続きを経ないまま解除を強行した。
●これまでの経過
 私は途中の2回ほど傍聴できない日がありましたが、傍聴を続けています。
このは裁判当初、被告・国は特定避難勧奨地点指定及び解除は法的根拠も効果もない事実の通知に過ぎず、指定及び解除の違法性を争う「処分性」は認められないと主張し、裁判で争うべきかどうかが論争され、裁判所は第2回口頭弁論以降の原告の意見陳述を認めないと通告してきました。
これに対して原告団はもちろんですが支援者も抗議の声をあげ、署名を集め裁判所に提出しました。
そして第2回口頭弁論期日では裁判長が、「この裁判は重要。原告の意見に耳を傾けていきたい。それなしには判断しない」と言い、裁判は続いています。
 原告は放射能汚染に対して不安を抱えていること、解除により帰還を強要されていること、意思決定における過程で住民が参加する機会がなくその声を無視して解除が強行されたことなど意見陳述してきました。
併せて「ふくいちモニタリングプロジェクト」が行った当該地域の土壌汚染についての報告と主張、本件地域に居住する住民の保養前後の尿中セシウム量を示して現地に居住することによる内部被曝の危険を訴えてきました。
 途中の第11回口頭弁論から裁判官が変更しましたが、弁論更新で再度原告らは意見陳述をしてきました。
●第14回口頭弁論
 今回の第14回口頭弁論では原告代理人弁護団長の福田弁護士から、解除の違法性についての国の反論に対しての再反論と、本件解除とこれに引き続く住宅支援打ち切りにより、多くの避難者は放射能汚染が続く本件地域へ帰還か、あるいは経済的苦境の中での避難生活の継続が強いられていることを主張しました。
 この日の口頭弁論では福田弁護士の意見陳述は10分弱でしたが、裁判長から「次回は原告に対して被告が反論しますね」と確認があり、被告は「はい」と答えて終わり、ごく短時間に終わりました。
●次回
 次回の口頭弁論は4月10日(水)午後2時から、東京地裁103号法廷です。
原告の健康影響に関する主張及び意見に対して、被告が反論を行う予定です。
現実や事実に目を向けず、書類しか見ていない国の代理人が何を言うのか、聞いてみたいものです。
どうぞ、皆さんも傍聴に駆けつけてください。

◎もう一つの裁判
 この日は福島地裁郡山支部で「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の第16回口頭弁論が行われました。
この日の法廷の様子を「民の声新聞」の鈴木博喜さんが伝えています。
それを読んで、被告代理人のなんと酷い言葉かと憤りに震え、法廷でそれを聞いていた原告の胸の内を想い涙がこぼれました。
 以下抜粋です。
**********************************
 被告東電の代理人である棚村友博弁護士による反対尋問も終盤に差し掛かった頃、ついに“加害企業”である東電の本音が飛び出した。
「現在の状況としては、下津島のご自宅で生活ができない。それと、それに伴って原発事故前に行っていたような地域での、下津島での活動もできない。ということだと思うんですが、この点を除けば、あなたの行動や活動自体には特に制約はありません。例えば『ふるさとを失う』と言う場合、村が丸ごとダムの底に沈んでしまうという『公用収用』がある。この場合は、物理的に水面の下になってしまう。立ち入りすら出来ない。
こういうケースが世の中では現実に起こっています。物理的に村がなくなってしまうという事。仮にこういうケースと比較した場合、津島地区は帰還や居住は制限されているわけですが、立ち入りは出来ている。接点が全く無くなってしまったわけでは無い…」
*****引用ここまで********************
 まさに盗人猛々しいとは、こんな人を言うのではないでしょうか。
 鈴木さんの記事を抜粋しましたが、ぜひ「民の声新聞」をお読み下さるよう願っています。(https://wwwfaceook.com/taminokoe/)

◎お知らせ
 トークの会「福島の声を聞こう!vol.30」は、今週の金曜日25日です。
ゲストスピーカーは、村田弘さんです。
元朝日新聞記者で、定年退職後、帰郷して南相馬市小高区で暮らしていましたが、原発事故後3月末に横浜市に避難しました。
「福島原発かながわ訴訟原告団」団長を務めていらっしゃいます。
 村田さんの声を、多くの方にお聞きいただきたいと願っています。
どうぞ、ご参集ください。
日 時:1月25日(金)午後7時〜9時(開場は6時半)
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区神楽坂158 2F)
参加費:1,500円(被災地へのカンパとします)
お申し込みは03−3266−0461 または mail@session-house.net     

いちえ

vol30new-(7)


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