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2017年4月20日号「4月14日、傍聴報告2件」

 

◎安保法制違憲 差止め訴訟
 4月14日午前10時半から、東京地方裁判所103号法廷で、安保法制違憲 差止め請求事件の第3回口頭弁論が行われました。
原告代理人の福田護弁護士と古川(こがわ)健三弁護士、原告本人のH・Kさん、T・Tさん、Y・Hさんが意見陳述をしました。(注:みなさんは「です。ます調」で話されましたが、「だ。である調」で記します)

●原告代理人 弁護士:福田護さん
*厚木基地判決と差止めの訴えの正当性
①厚木基地行政訴訟最高裁判決と本件の処分性
 本件の最大の争点は、差止め対象行為の処分性にある。
原告らは集団的自衛権の行使等は国民の平和的生存権を侵害し、それを受忍させるものだとして、国民に対する公権力の行使、すなわち処分であると主張し、その差止めを請求している。
 しかし被告は集団的自衛権の行使等は行政事件訴訟法3条2項の「処分」に当たらないからと、請求内容の審理に入ることなく却下すべきだと主張している。
 最高裁は昨年12月8日、厚木基地における自衛隊機の運行差止めを行政訴訟で求めた事件では、差止めの結論は否定したが、自衛隊機の運行を行政事件訴訟法の「処分」として、差止めの訴えを起こすことができることは明確にした。
防衛大臣の権限に基づく自衛隊機の運行が基地周辺住民に対する力関係で、騒音等の被害受忍を義務付ける公権力の行使に当たるとするもので、それは本件で原告らの主張と法的構成としてパラレルな関係にある。
従って本件のような「処分」の捉え方と差止めの訴えという訴訟類型を採ることが、最高裁判例として肯定されたということだ。
 被告は厚木基地訴訟は「自衛隊機の運行に必然的に伴う騒音等が、周辺住民の法的地位に直接的影響を及ぼす事案」であるのに対し、本件の集団的自衛権の行使等は「原告らの権利義務になんら直接的な影響を及ぼさない」から事案を異にすると主張している。
 しかし、厚木基地判決で公権力性を示すものとされる「受忍義務」も、周辺住民になんらの作為・不作為を求めるものでなく、最高裁調査官の判例解説でも、住民は「運行に伴う不利益な結果を受忍すべき一般的拘束を受けている」と解説されている。
それは公権力の行使により不利益な結果を受ける状態に置かれることに他ならず、「法的な権利義務関係に直接的影響を及ぼさない」点では、本件と厚木基地航空機騒音のケースとに違いはない。
②横浜地裁での被告答弁は処分性を受忍していること
 安保法制違憲訴訟は横浜地方裁判所にも民事訴訟で提起され、原告らは集団的自衛権行使等の差止めを、平和的生存権・人格権等による妨害排除請求権という私法上の権利に基づいて求めている。
 これに対し被告は、集団的自衛権の行使等は「私法上の行為ではなく行政権の行使そのものであるから、本件各差止め請求は、必然的に内閣総理大臣、防衛大臣またはその委任を受けた者の行政上の権限の行使の取消変更又はその発動を求める請求を包含するものである」から、民事訴訟による請求は不適法だと主張して却下を求め、その根拠として、運輸大臣や防衛庁長官の権限の行使を「公権力の行使」だとした大阪国際空港最高裁判決と厚木基地第1次訴訟最高裁判決を援用している。
したがって被告は、集団的自衛権の行使等について横浜地裁では公権力の行使(処分)だと主張し、本件東京地裁では公権力の行使(処分)ではないと主張していることになる。
 これはまさに自己矛盾・自己撞着であり、ご都合主義に他ならない。
そしてそれは本件請求について被告が却下を求める拠り所を,自ら否定することに他ならない。
 よって被告は,双方の主張の関係について明らかにするとともに,速やかに処分性否定の答弁を撤回し、本件本案について正面から議論することを強く求める。

●原告代理人 弁護士:古川健三さん
*原告らの権利侵害と事前救済の必要性
 新安保法制法の制定は、「立法行為」のかたちによる憲法破壊行為だった。
立法の内容が憲法の一義的な文言に反しているにもかかわらず、あえて立法行為が行われた場合に立法行為が国家賠償法上違法とされる場合があることは、昭和60年11月21日の最高裁判決が認めている。
さらに平成17年9月14日の最高裁大法廷判決(在外邦人選挙権制限違憲訴訟上告審判決)は、「立法の内容又は立法不作為が国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合」には、国会議員の立法行為又は立法不作為は国家賠償法1条1項の適用上違法と判示した。
 立法行為の違法性の判断は立法内容の違法性とは区別されるが、本件において歴代の政府見解として示され規範として定着していた憲法9条の解釈、すなわち集団的自衛権の行使を認めず、非戦闘地域以外での後方支援活動は認めないとしてきたこれまでの憲法解釈を覆し、大多数の憲法学者、元内閣法制局長官や元最高裁判所判事による違憲との指摘を無視して強行採決の結果新安保法制法が成立した。
これにより戦争被害者をはじめとする原告らの平和的生存権、人格権、憲法改正・決定権を侵害しており、立法行為の違法性が認められる例外的な事案である。
 新安保法制法の制定は憲法改正手続きを経ずに、確立された憲法規範を変更したものであり、憲法改正手続きの潜脱である。
 このことは、2017年2月8日の衆院予算委員会で、防衛大臣が、南スーダンの情勢について殺傷行為などはあったが法的意味での戦闘行為ではない、憲法9条上問題になるので「武力衝突」という言葉を用いていると強弁したことがよく示している。
これは、新安保法制法に基づく新任務を付与しての南スーダンへの自衛隊派遣は、憲法9条に違反するものであることを政府自らが自白したものである。
 憲法改正・決定権が国民に在ることは、国民主権及び民主主義原理の根幹であり、それは抽象的なものではなく、憲法改正手続きに参加し意思を表明することは、個別の国民の具体的な権利である。
これを侵して憲法を蹂躙し破壊することは、国民の主権を奪うことであり立憲主義に対する重大な挑戦行為であって、決して許されてはならない。
 ましてや、今後集団的自衛権の行使としての自衛隊出動などが行われることになれば、憲法違反の状態が固定化し、現状への回復は極めて困難であるから、事前の差止めを行う必要性は極めて高い。
 準備書面6では原告らのうち15名の具体的な陳述をもとにして、その被害の内容を述べている。
戦争体験者の空襲体験、原爆による被爆体験は、いずれも想像を絶するものがある。
新安保法制法の成立は彼らにトラウマを呼び起こし、新たな精神的苦痛をもたらしている。
海外の紛争地を取材するジャーナリストは、深刻な身体・生命の危険を感じるに至っている。
特別永住権を持つ在日コリアン2世の原告は、もしも朝鮮半島で有事ということになれば、自分は「敵国人」とみなされるのではないか、太平洋戦争当時に在米日本人が強制収容されたのと同じ事態が起きるのではないかと危惧している。
原発技術者、運輸労働者などもテロの危険を感じ。又新安保法制法の下で戦争に協力させられることになる。
 新安保法制法が強行採決され施行されてから1年、今国会では共謀罪の審議が始まっている。
宗教家、社会科学者たちに対する治安維持法による思想弾圧、宗教弾圧はもはや過去のものではなく、近い将来に必ず再び繰り返されると予想せざるを得ない。
立法府と行政府が著しく劣化して腐敗が激しい今日、この流れを司法が押しとどめなければならない。
この法廷には日本の未来がかかっていると言っても過言ではない。
 裁判所には、是非、原告一人一人の陳述書に込められた心からの訴えを真剣に受け止めて慎重に後審理いただきたい。

●原告本人:H・Kさん(女性)
 私の家族は両親と私の3人だが、3人とも障害者手帳を持っている。
父(67歳)は脳性小児麻痺の後遺症による歩行障害、母(73歳)はポリオの後遺症による歩行障害で、二人とも車椅子を使っており、年金暮らしだ。
 母は、洋裁の技能士として知事表彰を受けるなど、身体が不自由ながらも身につけた技能を如何なく発揮し、地域社会において生活を確立してきたが、加齢と共に障害の程度が進み、今ではて指の自由を失い、ハサミや針を扱うことができない。
 父は、以前はタクシー会社で配車の仕事をしていたが長年の無理がたたって歩行の困難度が増し、痛みに耐えながら生活している。
 私は痙性対麻痺という病気で子どもの時から歩行障害がある。
進行性の障害ではないが、緩やかにではあるが確実に運動の範囲が狭められていくのを感じながら、今は車椅子や杖を使って歩行している。
 私は大学を卒業後、大学院を経て、自立して働いてきたが、現在は少しでも両親の力になりたいと地元に戻り、実家の近くで暮らしている。
介護サービスを利用し、仕事との両立を工夫しながら両親の生活を支えている。
県の職員として働いてきたが、昨年4月からは休職し、労働組合の専従役員として職場の問題解決に務めている。
 今回の安保法制で、私や両親が受けた衝撃は大変大きかった。
両親は戦中・戦後の混乱の中、障害者として困難な人生を歩んできた。
 母は、障害を持つ私が社会的に自立できるようにと支援をしてくれた。
母の時代、障害者は公立高校に入ることが許されておらず、必要な教育を受けることができなかったという。
そこで私にはできるだけの教育を受けさせ、自分の仕事で食べていけるようにと配慮してくれた。
そのおかげで私は、現在県の職員として地域住民のために働いている。
 けれども私のこの生活も、安保法制の現実化の下で、維持できないのではないかという強い不安と言い知れぬ恐怖を感じている。
戦争中にこの国で、障害者がどう扱われてきたかという歴史から思うことだ、
戦時中の学童疎開では、障害児は対象外だったというが障害者は生きるに値しない存在と国家にみなされてきたわけだ。
ナチスによる障害者虐殺の事実もある。
 安保法制は人を殺すことを認める法律で、軍事への莫大な支出を重ねる一方、医療・福祉への予算は削られていく。
それにより障害者は、「お荷物」で役に立たない、疎ましい存在だという空気が、社会に蔓延していくことが恐ろしい。
 戦後、世界では障害者が健常者と同じように暮らせる社会を目指して動いてきた。
21世紀になり障害者権利条約が国連総会で採択された後は、日本も国内法の整備を進め、やっと批准にこぎつけた。
現実には障害者として日々の生活に困難を抱える者にとって、障害者を健常者と同じ価値を持つ存在として認め、その差別解消を目指す動きは、私には社会が少しずつ明るくなっていくような動きで、希望そのものだった。
 ところが安保法制によって、社会を取り巻く空気が私たち障害者にとって一変した。
昨日今日、社会は変わっていないように見えても、すでに舵は切られた
抗いきれない大きな力によって、暗闇に向かってゆっくり引きずり込まれるような、そんな恐怖と不安に押しつぶされそうになっている。

●原告本人:T・Tさん(男性)
①亡父の戦争体験
 私の亡父は大正9年(1920年)宮城県の田舎町に生まれ、尋常高等小学校卒業後上京し、旋盤工をしながら日大の理工学部の夜間部に通ったが戦局の悪化に伴い昭和18年に繰り上げ卒業となり、関東軍銃砲部隊に配属された。
 父が配置されたのはソ連国境の東寧という巨大な要塞だった。
1945年8月9日未明、ソ連軍の突然の砲撃が始まり東寧要塞も集中砲撃を受けたが、分厚いコンクリートで造られた要塞は持ち堪え、直ちに反撃の砲撃戦となった。
口径20cmを超える重砲も何発も立て続けに撃ち続けると砲身が真っ赤に焼け付き、初年兵が外に出て砲身にバケツの水を浴びせて冷ます作業をするが、周囲をソ連軍に包囲された中、機関銃弾を浴びせられ何人も死んでいった。
父は、入隊したばかりの10代の若者たちが次々に戦死する有様に「戦争の怖さ」を初めて知ったという。
 やがて、要塞の外周から次々に突破され、中隊長から砲台を自壊して脱出するように命令され、重砲中隊の残存者たちは森林の中に逃げ込んだ。
 玉音放送から5日後の8月20日、日本軍の格好をした3人の兵隊を発見し誰何したところ、動員された朝鮮兵とわかり、中隊長は「敵前逃亡」と決めつけて3人の斬首を命じた。
命じられたのは父と軍曹の二人で、父も一人の朝鮮人青年の首を切り落とした。
父はその瞬間の、軍刀の刃先が頚椎に食い込んだ瞬間の感覚が忘れられず、死ぬまで「恐ろしいことをしてしまった」と悔やんでいた。
夜中にうなされることが、死ぬまで続いた。
②史学科を選択し、地域医療に
 父や、東京大空襲で被災した伯父たちの悲惨な戦争体験を小さな頃から聴いて育った私は、「なぜ戦争が起きるのか?」を理解しようと大学の文学部西洋史専攻に入学し、戦争史を中心に学んだ。
そして戦争は自然現象ではなく、戦争をしようとする勢力がいてはじめて勃発するというごく当たり前の結論に至った。
 現在私は、小さな診療所の事務長として、命を守る仕事に尽くしている。
③集団的自衛権・安保法制は憲法違反であり、私には耐えられない!
 2014年7月1日、政府は「集団的自衛権」を閣議決定し、2015年9月19日に安保法制が強行採決され、私の怒りと不安は最大限に募った。
私の一人息子や同年代の若者たちが、戦地に駆り出され銃火にさらされる時代が始まってしまった。
いま歯止めをかけなければ父が経験したような、いやそれよりももっと悲惨な日々がやってくるだろう。
 憲法前文と九条が明確に禁じている戦争を、絶対に認めるわけにはいかない。
 前の大戦で、2000万を超えるアジアの人々が犠牲となり、日本兵も海外で240万人が犠牲になった。
厚労省の公表資料でも、117万人の戦死者の遺骨が今も遺族に還されていない。
 私は2013年2月に、厚労省のボランティアとして、約2週間、「玉砕」の島=硫黄島に行き、地下壕を掘りご遺骨を回収してきた。
硫黄島では有毒ガスが流出しているので、陸上自衛隊の不発弾処理班と化学防護斑の隊員たちが随伴してくれた。
2週間の間、互いの出身地や家族のこと、なぜ自衛隊へ入隊したのか?などを聞く中で、彼らへの尊敬と愛情が湧いてきた。
 2015年11月20日、陸自部隊が「駆けつけ警護」「共同宿営地防御」の任務を付与されて南スーダンに派遣されてしまった。
私は硫黄島で一緒だった彼らも派遣されるのかと思うと、身が削られるような深い悲しみに陥った。
安保法制がある限り、危険な地域への自衛隊の派遣は行われるだろう。
 また「武力攻撃事態法」では「存立危機事態」を総理大臣が宣言すれば、私たち医療従事者も動員され、私や私の同僚も戦争に協力させられる。
 72年前の戦争の後始末さえできない国が、「集団的自衛権」の名の下に再び戦争ができるようになることなど、断じて許せない!
 シベリアから奇跡的に生還した父も墓石の下で「戦争だけはしちゃいかん!」と叫んでいるだろう。
「玉砕」した硫黄島の将兵も約半分の1万1千人が未だ未帰還だが、彼らも土砂で埋まった地下壕の奥から「戦争しちゃいかん!」と叫んでいる声が私には聞こえる。
 平和に生きる権利を守るため、私は政府の違法性を訴え、安保法制の即時廃止を訴える。

●原告本人:Y・Hさん(男性)
 私は1972年にパイロットとして日本航空に入社し、1991年からの19年間は、機長として主にヨーロッパを中心に乗務してきた。
 飛行機の運航は。気候や地震・火山などに影響されるが、特に国際線は、世界各地の政情や治安の状況に大きく影響されている。
 民間航空は平和であってこそ存在できる産業だから、航空労働者は民間航空が戦争に巻き込まれることには一貫して反対してきた。
しかし、1995年5月の周辺事態法を契機に、自衛隊の民間機利用が目立つなど取り巻く環境が悪化してきた。
 国際民間航空条約は、民間機を使った軍需輸送を禁じている。
条約は例外的に2国間の軍需輸送を認めているが、日本の航空法に日本国籍機の軍需輸送の規定はない。
それは憲法9条があり、軍需品の輸送を想定していないからだ。
 ところが政府は、周辺事態法以後「安全基準を満たせば危険品輸送として可能」「民間機による武器・弾薬の輸送も排除されない」と、それまでの航空法の解釈を変えた。
 2000年8月2は、アメリカ国防省から当時の防衛施設庁を通して国内航空各社に対して米軍の輸送資格を取得するよう申し入れがあった。
これには労働組合の強い反対もあり航空会社は受け入れていないが、要請は現在も続いている。
 2003年のイラク戦争では「戦争反対」の声が高まり、自衛隊派遣では日本の民間機を使用しなかった。
しかし2006年のイラクからの撤退、2009年のジプチへのPKO「派遣」では、日本航空は民生支援を理由に、自衛隊輸送を受け入れた。
 昨年11月30日、日航機がチャーターされ南スーダンへ119名の自衛隊員が輸送されたが、これは「集団的自衛権行使」を容認する安保法制の成立後の閣議決定で、「駆けつけ警護」などの任務が付与され、武力行使も前提とした自衛隊員の輸送だった。
 今日まで、日本の民間機は「報復テロ」の標的にはされなかったが、しかし安保法制の成立で、他国の戦争の助太刀をする自衛隊の輸送は、これまでの輸送とは根本的に異なる。
輸送そのものが相手国から敵視され攻撃されるだけでなく、報復テロの対象が日本国民・国内へと広がるからだ。
 かつて世界一の航空会社だったパンアメリカン航空は、80年代にパレスチナやリビアなどのテロ集団から相次いで攻撃され、多くの犠牲者を出した結果、信頼を失い旅客が離れ、倒産に追い込まれた。
パンナムがテロの標的とされた理由は、軍需輸送を行っていただけではない。
「戦争する国・アメリカ」の象徴だったからだ。
 今年1月、アメリカでトランプ政権が誕生した。
安倍首相は世界に先駆けてトランプ大統領と会談氏「日米の価値観が100%一致した」として日米同盟の更なる深化を評価している。
アメリカが、これまで以上に日本に軍事協力を求めてくることは明らかだ。
安保法制は、日本政府がアメリカの求める際限のない軍事的な協力を断る理由としていた憲法9条の歯止めを取り払った。

 安倍政権は、安保法制の制定で日本を「戦争のできる国」に変貌させた。
これによって、日本の民間機がテロ集団の標的にされる可能性は極度に高まった。
飛行機の旅客や乗務する仲間、後輩が犠牲となることが現実味を帯びている。
私は憲法を蹂躙し、国民の命を軽んじる政権に対していたたまれない気持ちでいると同時に、止めることのできない口惜しさと憤りを感じている。
 裁判所には、大統領令を違憲と判断したアメリカ連邦裁判所のように、法の番人として、三権分立の範を示す判断を下されますよう切望します。

●次回口頭弁論期日について
 これで第3回口頭弁論期日での、原告側の意見陳述は終わりました。
 原告代理人の弁護士さんたちの意見陳述は、法廷用語あるいは法廷での言葉遣いや論法なのでしょうか、発せられた言葉を頭の中で何度も反芻しないと理解できないのですが、原告本人の方たちの意見陳述は、本当に胸に迫る言葉ばかりです。
 原告本人T・Tさんが意見陳述していた時に、傍聴席から拍手が起きました。
前回の口頭弁論の時にも拍手が起き、裁判長は静止しませんでした。
続いてY・Hさんの時にも拍手が起きたのですが、さすがにこう何度もになると裁判長も「傍聴席は静かにしてください」と言いました。
 次回は原告側は、人格権、違憲審査権、PKO駆けつけ警護訴訟として、学者の意見書を提出の予定です。
違憲性そのものについて訴えを深め、次々回でひとまずまとめる予定です。
 被告は原告が一通り主張されたということで処分性について反論予定です。
次回第4回口頭弁論は、7月24日(月)10:30〜、103号法廷です。

◎参議院予算委員会傍聴
 この日午後は、参議院会館で安保法制違憲訴訟の報告会がありましたが、同時刻に参議院予算委員会が開かれたので、報告会には参加せずに予算委員会の傍聴に参加しました。
国会内の迷路を衛士さんの誘導で、予算委員会の行われる部屋に入りました。
各党議員が今村復興相、他の関係者への質問をしました。
その全てを報告すると大変長くなりますから、民進党の増子輝彦さんと自由党の山本太郎さんの質問のほんの一部のみを記します。
復興相が記者会見での発言を撤回するといったこと、住宅支援策について答えた点のみの報告です。

*増子輝彦議員(民進党):原発事故によって区域外避難者は14,000人いるが彼らがなぜ避難したと思うか?
*今村復興相:原発事故に伴って、生活、健康などに不安を感じてだろう。
*増子:原発事故ですね。その責任はだれにあるか?
*今村:国と東電にある。
*増子:そうですね。エネルギー政策を進めてきた国責任があるのは間違いない。
それで避難生活を強いられている人たちがいるが、先日の記者会見での「自己責任」
発言について、改めてこの自己責任発言の気持ちを聞かせて欲しい。
*今村:原発事故が避難の原因であることは認識している。あの時の発言は帰還するかどうかはそれぞれの責任で、自己判断でというつもりの発言だったが、自己責任と受け止められた。
*増子:戻る、戻らないは自己判断でだが、自己判断と自己責任は違う。この発言を撤回して欲しい。
*今村:一度言ったことは戻らないが、お詫びしたい。
*増子:他の大臣も問題発言して撤回している。復興相は、明確に撤回して欲しい。
*今村:撤回します。

*山本太郎議員(自由党):記者会見の今村復興相の言葉に、被災者は大変心を痛めているが、あの言葉は安倍政権の心情だと思うから驚かないが、それが今村復興相から発せられたから驚いている。
復興大臣という立場で、非常にふさわしくない言葉だが、今村大臣はこれまでの他の同じ立場だった方たちと違って、自主避難者の母親たちの言葉に耳を傾けてくれたことがあり、今までの大臣より寄り添う気持ちがある人だと感じていた。
だから驚いた。
母親たちは、あれは大臣の本心ではないと思っているだろう。
その母親たちはいま、避難先から追い出しに遭っている。
避難者の意に反する追い出しは行わないといって欲しい。
*今村:誰にも負けない、被災者に寄り添う気持ちを持っている。
追い出しはさせない。
*山本:強引に追い出すことはさせないという言葉を聞いて、母親たちはホッとしていると思う。

各党議員が質問をし、また鋭く問題を指摘していましたが、政権側からの答えを引き出すことの重要性を思いました。
国会内に入ったのは初めて、傍聴も初めての経験でしたが、これからも機会があれば傍聴したいと思いました。                      

いちえ


2017年4月12日号「お知らせ②」

2番目のお知らせは、チベット映画のお知らせです。
チベット人のソンタルジャ監督の作品『草原の河』が、4月29日から岩波ホールで公開されます。
チベットアムド地方の半農半牧で暮らす家族の姿を、ドキュメンタリータッチで描いた作品です。
是非多くの方に見ていただきたいと思います。
政治的に厳しいチベットの状況は、外部には見えにくい形で一層厳しさが増してきています。
メディアは伝えませんが、先月18日に、また焼身抗議がありました。
146人目の焼身抗議です。
この問題に真正面から向き合った映画、池谷薫監督の『ルンタ』もまた、多くの人にご覧いただきたいと思います。
こうした状況下ですが、いえだからこそ、チベット人は自分たちの文化や生活を自らの言葉で発信し始めています。
最近はチベット人作家が書いたチベット現代文学が、東京外語大学アジア・アフリカ文化研究所に拠点を置く「チベット文学研究会」の研究者たちによって、次々に翻訳出版されています。
また文学ばかりでなくチベット人監督による映画製作も盛んです。
これらの文学や映画は、声高に政治的な主張をしてはいませんが、チベット人の暮らしを伝え、彼らが大事にしようとしている伝統や文化、思想を伝えます。
今回公開されるソンタルジャ監督の『草原の河』は、チベット人が撮ったチベット映画として日本で初めて一般公開される作品です。
東京映画祭やフィルメックスでは、これまでにもチベット人監督によるチベット映画は何本か上映されて、いずれも好評を得てきましたが、一般公開される映画としては『草原の河』が初めてです。
4月29日〜6月9日まで岩波ホールで上映されますから、是非お出かけください。

*ソンタルジャ監督と私の対談が、「クロワッサン」4月25日号に載っています。
文中、私の発言として本意でない部分が一ヶ所ありますが、ゲラが届いてから戻すまでの時間がごく短かったし訂正するにはスペースも足りず、映画紹介のページなのでこだわらなくても「まぁ、いいか」とそのままにしました。
監督が私を、「前世はチベット人だったのでは?」と言った事に対して、文中では私が「そう思っています」と答えていますが、その時はすぐに違う話題になったので私はそれには何も答えなかったのです。
昨日の事も忘れてしまう私ですから、前世の事など覚えていません。
ただ、もし来世があるならチベット人として生まれたいと願ってはいます。
これまでも色々な人から同じように問われ、そう答えてきました。
どうか、来世のチベットが安寧な地でありますように!           

いちえ

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2017年4月12日号「お知らせ①」

お知らせが2件ありますが、添付のチラシ容量が重いようですから2回に分けてお知らせします。
初めのお知らせは、福島、2番目のお知らせはチベットです。
昨夜は東京YMCA東陽町センターで、チベットの話をさせていただきました。
チベットに通い福島に通う私ですが、そこに暮らす人たちが置かれている状況に、通底するものを感じています。
一言で言えば、経済至上主義の他者によって、そこに生きる人たちの尊厳が踏みにじられていく構図です。
けれども私はチベットで、福島で学ぶことが多々あり、勇気付けられても来ています。
これからも通い続けたいと思っている、福島そしてチベットです。
お知らせ①は、トークの会「福島の声を聞こう!voi.23」です。
ゲストスピーカーは長谷川健一さんです。
「一枝通信 4月4日」で長谷川さんのお話をお伝えしましたが、是非直接、長谷川さんの口から語られる言葉をお聞きください。
長谷川さんは事故直後から、ビデオカメラで村の状況を記録し続けています。
その映像を見せていただきながらのトークの会です。

いちえ

vol23


2017年4月12日号「4月5日浪江町」

◎小高
 4日は小高双葉屋旅館泊でしたから、朝食後に旅館の小林さん夫妻に現在の小高の様子をお聞きしました。
 昨年7月に避難指示解除になった小高は、当初は戻った人は900人(人口12000人)でしたが、今は1400人ほどが戻っているようです。
でもやはり若い人は少なく高齢者がほとんどですが、戻った人たちも買い物や医療関係など不便をかこつています。
●町再生のアイディアを出すのに
 旅館女将の友子さんは、高齢者がゆっくり寛げる場、高校生たちが集える場、小さなこども達がのびのび遊べて親も安心していられる場を作れないかと、仲間達とアイディアを出し合い行政に提案していっても、実を結ばないことを憂いていました。
新たに箱物を作らなくても、例えば日時を限ってでもいいから駅前道路を歩行者天国にするとか、既存のふれあい広場を活用するなど、どれも運用方法を柔軟に考えれば実現可能なことばかりに思えるのですが、行政や復興庁の壁はなかなか厚いようです。
 小高は帰還困難区域があり山側の川房地区など高線量地域ですが、駅周辺や海よりの地域は東京と変わらない数値です。
ところが海辺の線量が低い場所がフレコンバックの仮置き場になり、放射性廃棄物焼却施設が建設され、線量の低い地域に汚染物や汚染土壌が運び込まれているのです。
かといって、線量の高い地域(山側の地域)に汚染物を運べば、雨で下に流れてきますし沢水に流れ込めば流域に汚染が広がります。
放射性廃棄物はどんな場所にも置けない、つまり原発を稼働させてはいけない、作ってはいけないということです。
 友子さんは、「ここは線量も低いしとってもいい場所だから、ここを次の世代、そのまた後の世代に残していきたいのよ」と、先代から受け継いだ旅館を拠点に小高の再生に心砕いていますが、上記したような矛盾を抱えて葛藤しながらの毎日なのです。
●あの人たちがいるから、頑張ろうと思う
 ボランティアに通ううちに住み着いた若い世代が、何人もいます。
私の知り合いにもそういう人がいて、今回も私は彼らを見かけました。
友子さんは、ボランティアからIターンとして住み着いた人たちを指して、「あの人たちがいるから私も彼らと一緒に頑張っていこうと思う」と言いました。
●同情はいらない、現実を知ってほしい!
 前夜に小林さんから見せてもらったハガキについて、友子さんにお聞きしました。
それは絵手紙で差出人の住所も氏名もなく、ペンネームで「長崎のうさぎのぴょん」と書かれていました。
ハガキの表に絵が描かれ文字がぎっしり、裏面下半分にも表に書ききれなかった文章が書かれていました。
 その内容は、「小高の双葉屋旅館ということだけ知って住所が判らず、郵便が届くか案じている。届いたら読んでほしい。自分は被災地を訪ねたことはないが、原発の被害を受けた人たちを気の毒に思っている。体に気をつけて頑張ってほしい」と丁寧な言葉使いと同情心にあふれた文章で綴られていました。
 「こんなのが届いたよ」と言って小林さんから渡された絵手紙を読んで、私はちょっと違和感を感じました。それで、友子さんに聞いてみたのです。
友子さんは言いました。「小高のこと、福島のことを心配してくれているんでしょうが、同情はいらないのよ。そうじゃなくて知ってほしいのよ。今はこんなですって知らせたくても、これじゃ返事も書けないじゃない?なんで自分の住所や名前を書いてよこさないのって思うわ」
 友子さんの言葉がそのまま、私が感じた違和感でした。
同情心は、裏返せばいじめに繋がります。
これは「引揚者・父なし子・転校生」だった子どもの私が、体験から学んだことです。
“気の毒。かわいそう“という同情は、高みの見物の言葉ではないだろうか、現状を知れば、我が身のこととして考えられるのではないだろうか、そんなふうに思いました。

●2020年までに再開
 双葉屋旅館の宿泊客は、私達の他はJRの工事関係者でした。
前にもここで一度会ったことのある、工事責任者のTさんもいました。
Tさんに今はどこの工事をしているのか尋ねると、「富岡、7月までには完成予定」と答えが返りました。
常磐線は現在、上野=竜田間、浪江=仙台間は再開していますから、富岡が再開すればあとは原発立地地域の、「夜ノ森、大野、双葉」です。
その地域の工事にかかるのはことしの9月か10月から、何が何でも2020年までに再開できるようにと命が下っているようです。
工事は昼夜分かたず行われていて、朝出勤した人と交代で夜勤明けで戻ってくる人もいました。
放射線量の高い地域の工事ですから、防護装備をしっかり着用しての工事です。
これから夏に向かい、工事関係者は大変なご苦労だと思います。
以前ここでJR復旧工事の人に会ったのは秋のことでしたが、下着は絞れるほどの汗になると言っていました

◎浪江町
 久しぶりに、希望の牧場を訪ねました。
大留さんから「吉沢さんのところ除染してきれいになったよ。ほら、牛の糞でぐちゃぐちゃだったじゃない。あそこ除染して客土してきれいになったよ」と聞いていたのです。
除染(注:吉沢さんは「除糞」と言って笑っていましたが)した汚染土を入れた黒いフレコンバックがズラ〜と敷き並べてありました。
 糞なので水分を含み重いために、段重ねにすると破れる恐れがあるからでしょうか、重ねず並べて置かれていました。
 吉沢さんは相変わらず元気で“吉沢節”を語ってくれました。
●吉沢さんの話
 3月31日避難指示解除になり常磐線浪江駅も再開したが、政府はオリンピックに向けて原発事故は終わった、終わって復興だということにしたいのだろう。
フレコンバック積んで「復興、復興」と言って、高校生にフクイチの廃炉作業見学(注:双葉未来学園の高校生たちの昨年のバスツァー)させるなど子どもを人質にして、復興作戦だ。
2020東京オリンピック万歳じゃなく、2020東京オリンピック返上だってあるだろに。
 この地図を見て(汚染濃度によって色分け表示された地図)みんなは、浪江はもう帰れない町だと思い、他所に新しい生活の根っこをどう張るかに苦労して、今まで6年かかってやってきた。
戻るという人は高齢者ばかりで、彼らは放射能と折り合いをつけて戻っても、若い人や子供たちは戻れない。
 7000世帯中の2000軒が解体(注:現時点で700軒解体済み。残りはこれからの予定)で、除染、避難指示解除、更地の町「さよなら、浪江町」だ。
浪江町のこの厳しい状況を、みんな正しく理解する必要がある。
どんなことしたって、元には戻らないんだ。
 あの時殺処分を言われたが逆らって僕はここに残り、それなりに被爆したが、ここに居ながら原発はもう終わりにするんだと、再稼働したい国の流れに徹底的に抵抗していきたい。
ここに居たが故に「さよなら浪江町」ときつく表現していけるし、言わなければと思う。
 福島原発事故を見て台湾は、原発を止めることを本気で意識して闘い、原発を止めた。
じゃぁ日本はどうか、原発を止めるという意識に向かっていない。
東京や福島以外の人は、「あれは東北の福島の話だろう、俺たちには関係ない」と切り捨てる。
そうじゃないだろう?
東京直下大地震、東海トラフ大津波、そうして原発事故が起きたら東京はパァだよ。
あの美しい富士山は、死火山じゃない、溶岩と火山灰でできてる休火山なんだ。
熊本地震が起きたってよそ事、他人事に思ってる。
 去年はインドに行ったけど(注:ふくしま地球市民発伝所主催で「原発災害語り部行脚」として、菅野瑞穂さん、山本宗輔さんらと同行)、今年はフランスへ行く。
フランスは原発大国だけど、チェルノブイリがあってから原発事故は、よそ事他人事ではなくなっている。
チェルノブイリ事故によってヨーロッパは、農畜産物などへの影響は今も出ているからだが、福島事故では放射能は海へ流れた。
隣の国への影響は、島国だからセーフになった。
 日本人は熱しやすく冷めやすいっていうけど、忘れやすく騙されやすいんだ。
騙された後どうするか?「まぁいいか」になる。
「まぁいいか」はそのうち「どうでもいいか」になるんだよ。
戦争と原発への逆戻りの道を進もうとしているアベ政治に、僕は残り人生のテーマとして闘い続ける。
全共闘世代の生き残りとして、最先端の矢面に立って闘っていく覚悟だ。

*吉沢さんの話は、「マイク持って語り続ければ、臨界状態が続く」などと冗談を言いながら、まだまだ続きました。

●更地の駅前
 希望の牧場をお暇して、浪江の駅周辺を少し見て回りました。
吉沢さんの言葉通り、駅前の家々は取り壊されて全く更地になっていました。
周辺には取り壊し中の家もありましたが、何より目を奪われたのは2011年3月11日午後2時46分の地震の被害が6年後の今も、そのままに残っていたことです。
商店の棚から崩れ落ちた品々が床にそのまま散らばり、ガラス戸は割れたまま。
かろうじて崩れ落ちずに保っているものの、壁や柱は歪み、へしゃげて室内も足の踏み場もない状態の家々が、そこかしこに残っていました。
 あの時から時間は全く止まったままの光景でした。
原発事故がなければとうに片付けられていたのでしょうに、6年間まったく手付かずだったのです。
吉沢さんの言った「さよなら、浪江町」が、リアルな姿でここにありました。
オリンピック後を、吉沢さんはこうも言っていました。
「人口減少した町村は合併されるだろう。浪江・大熊・双葉」は合併されて新しい名前は“双葉未来市”になるだろう」
そのネーミングは吉沢さんが思いつきで言ったでしょうが、あながち違うだろうとは思えません。
双葉未来学園の例がありますから。
 誰の言葉だったでしょう?
「東北は、福島は、“原発植民地”」
胸に刺さる言葉です。

◎武ちゃん食堂
 浪江を出て6合線で南下し、もう2時近くなっていましたが楢葉町でお昼にしました。
役所の前に仮設商店と食堂があって、その一軒の「武ちゃん食堂」に入りました。
入り口には、「材料がなくなり次第閉店させていただきます」の張り紙がありました。
食材入手も、容易くはないのでしょう。
 店の壁にサイン入りの色紙が何枚も飾られていたのですが、中の1枚は額入りで「安倍晋三」のサインです。
注文したラーメンを運んできた女将さんに、「アベさんが来たのですか?」と聞くと「ええ」と答えたのですが、なんだか嫌そうな顔つきに見えたのです。
食べ終えて支払いをする時に、どんな気持ちだったかお聞きしました。
 楢葉町が避難指示解除されたのは2015年9月5日ですが、解除後に役場前に仮設商店が出来た時にアベ一行が来たそうです。
予め来店は知らされていて、言いたいことがあったら手短に(2分ほど)伝えても良いと言われていたそうです。
「握手した時は温かい手だったので話を聞いてもらえそうかと思いましたが、話していても目は違う方向いて、あまり聞いてもらえてない気がしました」
そう答えが返りました。

◎情報操作ということ
 今村復興相の「自主避難は自己責任」発言があったのは、飯舘村を取材していた日のことでした。
「自主避難」という言葉は誰が言い出した言葉だったでしょう?
「自主避難者」ではなく「区域外避難者」です。
「共謀罪」を「テロ等準備罪」と言ったり、「戦闘」を「武力衝突」と言ったり、あるいは「焼却」を「減容化」と言ったり、数えればきりがありません。
 こうした言葉による情報操作、あるいは感覚誘導と言ったらいいのでしょうか、これはフレコンバックを覆うシートの色にもあると思います。
除染廃棄物を入れた黒いフレキシブルコンテナバックを覆う緑のシートよりも、汚染土を入れたフレコンバックを覆う深緑のシートの方が目立たない色合いです。
これは中間貯蔵施設へ運ぶ予定のものですから、今置いてある「仮置き場」からいつ消えるのか全く先の見通しがありません。
 これを覆うシートの色がピンクや紫や、赤だったらどうでしょう!
もしそうだったら、たとえ一瞬でも見たくない、見たら気分が悪くなる光景でしょう。
深緑のシートの色は、「諦め」を誘導させる色に思えてなりません。
思いすごしでしょうか?

*長い報告になってしまいましたが、今回の福島行の報告はこれで終わります。
お読みくださって、ありがとうございました。
なお、次回のトークの会のゲストスピーカーは長谷川健一さんです。
お知らせは改めて「一枝通信 お知らせ」でお伝えします。     

いちえ


2017年4月9日号「4月4日飯舘村〜南相馬③」

◎村内の様子②
長谷川さんの家を辞して、長谷川さんに話の中で見せていただいた「学校エリア」「スポーツ公園エリア」地区や、状況変化の大きい地区など村内の何ヶ所かを案内していただきました。
その間にもまた、いろいろ話を聞かせていただきました。

●二つ並んで設置されたモニタリングポスト
「年間1ミリより下がった地区はあるのでしょうか?」そう尋ねると、「除染しても下がっていない。二枚橋のモニタリングポストの辺だけが、年間1ミリより低いだろう」と、返事が返りました。
モニタリングポストが設置されてる場所はどこも、二つ並んで設置されていて、そのうちの片方は「測定停止中」の張り紙がしてあります。
これは以前に長泥の杉下さんに案内していただいて回った時にも、見ていたことでした。
停止中のモニタリングポストは、注文を受けた受注会社が設置後に、測定数値が低く表示されるよう設計変更を依頼され、そのために納期が間に合わず契約破棄されました。
そして、別会社に発注し直したのです。
そこが設置したモニタリングポストが、現在稼動中のものです。

●山が消えた
村役場の近辺に、長谷川さんのお宅で見せていただいた青写真施設が集中しています。
認定こども園を併設して小中一貫校になる飯舘中学校の工事は、まだ始まっていませんでした。
スポーツ公園エリアも既存の陸上競技場があるのみで、工事はこれからです。
飯舘クリニックは、窓に「火・木午前中診療中」の張り紙が。
特養は建物補修でしょうか、それとも除染のためでしょうか、外壁に足場が組まれていました。
これらの位置する西側は山だったのですが、除染後の客土を採るために森林伐採して土を削り、山は消えていました。

●メガソーラーとフレコンバック
行政区の一つ、松塚地区は、村内で一番今後どうなるだろうかと思える地域。
地区の半分の地域の広大な範囲に、ソーラーパネルが敷き詰められています。
10アールあたり年間6万円で、東京の会社に貸したそうです。
売電先は東北電力です。
地区では草刈りなどの維持管理を、産業としてやっていこうとしています。
地区のメガソーラーではないもう半分で、花卉栽培と和牛の水田放牧をするそうです。
ソーラーパネルの耐用年数は20年といいます。
耐用年数を終えた後の始末は、どうなるでしょう。
以前に作られた製品なら、耐用年数を信頼できたでしょうが原発事故後俄かに太陽光発電がもてはやされるようになって、パネルも海外で粗製乱雑に作られた製品が出回っているとも聞きます。
またもともと農地だったところにソーラーパネルを設置していますから、土地種目は農業用地から外して雑種地に転換しています。
農地転換した後には、固定資産税の税率が変わってとんでもなく高くなります。
業者は契約時にはそういう話はせず20年間儲かっていいでしょうが、貸した農家には、亡くなった後ではとんでもない高額な相続税かかってくるのです。
業者ばかりが儲かり、農家は利用されることになるのです。

●テトラポットの型枠が!
山のように積まれた赤く錆びた鉄の物体が置かれた場所を、2ヶ所ほど見ました。
赤錆の物体は、テトラポットの型枠です。
テトラポットの型枠を洗浄する会社の作業場だったところです。
こんな山の中で!と思いましたが、長谷川さんは「3Kの仕事はここまで来ないとできないからだろう。いい迷惑だが、誰も文句言う人いなかったから」と言いました。
きつい、汚い、危険が3Kですが、原発事故前にはそれでもここで作業されていたのでしょうが、事故後は単に3Kどころか、いくつもの乗数を重ねた3Kになってしまい、放置された型枠が赤錆の物体の山になっていたのでした。

●切り株と思ったら猿だった
事故前の前田地区では19ヘクタールの遊休農地を活用しようと、長谷川さんの発案で観光蕨園が作られました。
そこに木の切り株がたくさん並んでいると思ったら、猿の群れでした。
座り込んで、何かを食べているのでした。
長谷川さんの自宅で聞いた「全部パァになった」の言葉が、耳に蘇ります。

●ふれ愛館の「嫌味借景」
長谷川さんと別れて、野池さんと南相馬へ向かいます。
途中で、ふれ愛館に寄りました。
冒頭でお伝えしたふれ愛館の内部の様子は、この時に見たものです。
多目的ホールには舞台天井から日の丸と飯舘村旗が並んで掲げられていました。
その後ろは全面ガラス張りで、白い紗のカーテンが引かれていました。
カーテンに遮られて朧に透けて見えるのは、深緑色のシートがかけられたフレコンバックの山です。
長谷川さん曰く「嫌味借景」でした。
飯舘村を出る時には例の看板線量計「行ってらっしゃい 必ず帰ってきてね」の言葉に送られて出たのでした。

◎南相馬へ
●寺内塚合仮設住宅
この日の宿は小高の双葉屋旅館ですが、途中で寺内塚合仮設住宅と小池第3仮設住宅に寄りました。
寺内塚合には天野さん、菅野さん、山田さん、紺野さんの4人が居ました。
天井から飾り下げてあった折り紙の薬玉は、全て外されて段ボール箱に入れてありました。
こうして少しずつ少しずつ、ここを引き払う準備をしているのです。
とはいえ山田さんと天野さんは、出る予定が立たずにいます。
山田さんは小高の自宅を直して息子家族と戻る予定ですが、改築を頼んでいる大工さんが忙しく、また材料も不足しているとかで、まだ仕事に全く手がつけられていません。
天野さんは娘家族と一緒に原町に住むことになりそうですが、住居がどうなるのかまだはっきりしていません。
一時は天井いっぱいに飾られていた薬玉がすっかり片付けられ、壁にも所狭しと飾られていた人形たちがなくなってガランとした談話室。
テーブルを囲む天野さんたち4人は笑顔でお喋りしてはいても、なんだか「とりあえず生きている」と言っているように思えました。

●小池第3仮設住宅
集会所にはヨシ子さんとハルイさんの二人。
ここはハルイさんが賑やかしの人なので、笑いが絶えません。
ヨシ子さんの他人への気遣いと、ハルイさんの朗らかさで、この仮設の人たちはどれだけ救われてきたことかと思います。
自宅に戻ったり復興住宅に入居したり、家を建てて引っ越したりで、抜けた人が増えて寂しくなりましたが、二人がいれば笑いが絶えません。
先に抜けた数ちゃんや三瓶さん、星見さんたちと一緒に月末に日帰り旅行に出かけるそうです。
被災後ここに入居してから互いに知り合った人たちですが、ここで過ごして日々にかけがえのない繋がりを築いていったのでしょう。
ヨシ子さんとハルイさんには、彼女たちが作ったぶさ子ちゃん人形や鶏ぬいぐるみなどの売上金をお渡しして辞しました。        

いちえ


2017年4月9日号「4月4日飯舘村〜南相馬②」

●これから
牛舎だった跡地は、ソバの選別、乾燥、製粉などの施設にしようと思って、建物を含めて申請している。
「原子力被災12市町村農業者支援事業」と「再生復興交付金」とでできるように、村の農政課に一任している。
機械だけだと28年度でできるが、建物は29年度事業の一番最初の優先事業になるようだ。
自分の農地は自分で管理できるが、前田地区40町歩をどうするのか、そこを荒廃させないようにするから事業として認めるようにと言っている。
自分のところだけなら自分でするが、地区を荒廃させたくない。
この間部落の総会やって、勉強会と称してキノコや野菜、山菜の写真を見せて、それらに線量がどれくらいあるかを知らせた。
食べるなら、それらを頭に埋め込んで、食べる、食べないは自分で判断しなければダメだ。
それから杉の木は、樹皮と芯に放射能が出る。
自分とこの杉を切って木材にして家を建てたら、24時間被曝することになる。
俺のところも俺が生まれた年くらいに親父が植林した杉も、全部切って裏の軒下に置いてあったが、諦めて森林組合に処分を頼んで持って行ってもらった。

●今だけでなく流れを見て欲しい
避難指示解除になったら、住んでいなくても村内の自宅の光熱費など全て払うことになるから、現住地と二重払いになる。
解除によって国も東電も補償しなくても良い金額が出てくるから、賠償金も無くなるし、村に200億円出したなんていっても痛くも痒くもない。
2014年にADR を立ち上げた時、村の重大ニュースにこれが載らなかった。
人口6000人の村で、3000人が参加したのに50位まであるニュースに入らなかった。
村長の情報操作だな。
ADRは、大掛かりになり過ぎたかもしれない。
原告3000人、弁護士92人だが、東電はいろいろな書類をあれも持ってこい、これも必要だというが、そういう情報は全部東電は持ってるんだよ。
だからそれはあなた方が持っているでしょうと言っても、個人情報なので出せませんなんて言う。
だから時間がかかって、3000人もだから、すごい時間がかかってしまうんだ。
解除になって戻らない人たちは農地・宅地は在るから固定資産税は払わなければならないが、村民税は払わないから村の税収は減る。
村長は1割の600人は戻るだろうと踏んでいるようだ。
戻る人は行政区によってバラつきがあり、蕨平はゼロだろう。
草野、深谷といった町と言われたところは、農地がないから帰還率が悪い。
前田地区は5班あり班により帰還率はバラつきがあるが、ここ4班は戻る人は多い。
一軒しか戻らない班もあり、どこでも戻るのは高齢者ばかりだ。
戻らない人の事情はよく言われるが、戻る人のそれぞれの事情は伏せられている。
みんな事情があるのにな。
川内、葛尾、都路など帰還率が高くなっているが、算定の仕方が問題だ。
週に一日帰れば帰還したことにすれば、率は上がる。
これも情報操作だ。
こうしたことを県内の人は解っていても、県外の人には情報が正確に報道されず、「あ、帰還したのだな」と受け止められる。
俺が戻ってソバ作るのも、そういう受け止め方の取材は一切受けない。
豊田さんたち(注:映画『遺言』の監督でフォトジャーナリストの豊田直巳さんさんと野田雅也さんのこと)は別だ。
俺も「追っかけろよ」と、彼らに約束した。
彼らは視点が違う。
牛を手放す時から仮設に入ってからも、流れをずっと追って見てきているわけで、「飯舘に戻ってソバを作るぞ」ということだけを見ているのではない。
荒廃しないようにということを含めて「追っかけろよ」と言っているのだから。テレビや新聞は流れを追わないで、今だけだから、「やっぱり家はいいな」なんてことだけしか報道しない。
そんな報道に利用されるメンバーは、だいたい決まっている。

●これから気になること
解除になって一番気になるのは、医療と介護の問題だ。
医療体制や病院については、メディアの帰還ニュースでは取り上げていない。
いいたてクリニックは一週間に火・木の午前中だけの診療で、医療のバスも一切無いし、これからの後期高齢者の介護は大きな問題になる。
買い物の問題もある。
ハンズというスーパーが移動販売車を出すというが、各行政区の集会所に週に一度回るということで、前田地区は毎週月曜日4時に来ることになる。
そこまでみんな、どうやって行く?
車で行く人は、そこへ行くなら川俣町のスーパーへ行くだろう。
歩いて行くのは近くの人だが、集会所の周囲で戻る人はあまりいない。
事故前にも移動販売車は来たが、一軒一軒回っていた。
だから村と業者がタイアップして情報交換して、帰っている人の名簿を渡して販売車も1台では足りないから軽トラでいいから3、4台動かして、密着型にしていけば安否確認にもなる。
そうでなければダメだ、までいなやりかたをしなければ。
あとは、それが一番大事なことだが、生業だ。
戻った人がどうやって生活するかだ。
昨年作ったソバからは、26ベクレル出た。
北海道のソバは0だ。
消費者がどっちを買うかといえば、0の北海道産だ。
だからこれは実害だ。
26という数値がある実害なのだ。
飯舘産も0、北海道産も0で、飯舘産が売れないなら風評被害だが、それも生産者にとっては実害だ。
こうした因果関係が見られる限り、東電に対しては賠償を求めなければならないし、東電も賠償の責務がある。
ところが26出たといっても、国の基準値以下なら国は関知しない。
米も福島産と書いてあるだけで、たとえ値段を下げても売れない。
消費者は新潟産、福島産というブランドで選ぶから、たとえ数値が0になっても風評被害は続く。
逆ブランドが作られてしまったのだから。
だが国や行政は売れるように自助努力せよと勧める。
とんでもない話だ。
国は基準を作って安全を保障しているのだから、それで売れないのは売り方が下手だという。
基準という逃げ道を作っている。
何一つとして簡単に進めない。

●事故から6年
今は酪農家ではなく「元酪農家」だが、事故当初は県酪農業組合理事としてピリピリしていた。
牛乳とほうれん草は放射能に敏感だから、牧草から牛乳に移行して、もし牛乳から検出されてしまったら、福島の酪農が全部ダメになる。
役員をやってたから、本当にピリピリしていた。
壊したあの牛舎は築40年で、まだまだ使えるものだった。
それで子どもたち3人育てあげて、家も建てた。
それが一瞬にしてパァになった。
牛舎も取り壊してなぁ。
この間一緒に来た時、女房が「牛の匂いも何もしないなぁ」とぽつりと言った。
息子は5人の仲間と福島市で酪農再開したが、俺はもう口出しはできない。
ここでやっていれば手伝ったり、アドバイスもできただろう。
フレコンバックが目の前にズラ〜ッと並んで、俺が生きている内は、これはそのまま放置されるのだろう。
目の前の景色は、すっかり変わってしまった。
(注:自宅で家族が囲む食卓の長谷川さんの定位置からは、今は取り壊された牛舎、その向こうに広がる水田だった農地にフレコンバックの山がある。
フレコンバックの向こう側に小高い丘が見える。
フレコンバックを覆っているシートは緑と深緑の2種類に色分けされ、緑の下はフレコンバック3段重ね、こちらは焼却施設に運ばれる放射性廃棄物で、運ばれれば減っていく。
深緑のシートの下は5段重ねで、こちらは中間貯蔵施設へ搬入予定の汚染土だが、中間貯蔵施設の目処は立っていない)
 原発事故を訴える先頭に立ってきた長谷川さんだが、6年経って、小学生なら入学から卒業という長い時間が経って、この6年で変わったこと変わらなかったこと、6年間の重さをどう受け止めているか?
俺にとって一番良い6年間を奪われたという思いだ。
原発事故は57歳の時に起きた。
子ども達は育ち孫もでき、息子に経営移譲して俺は別のことをしようとしていたその矢先だった。
それが全部ダメ、一番良い時の6年間を奪われた。
それによってここでは二度と元の暮らしができない。
ここでの40年間は何だったのか?
農地造成も、40年かけて俺たちがここまでやってきたのだが…、最後はここに戻って土と共に生きるのかと思う。

*仮設住宅から、長谷川さんのお父さんが一人でやって来ました。
お父さん:今日は暖かいから故郷を思い出して帰ってきました。
向こうじゃ生活がやることが無いから、そうすると病気が出るようになっちゃうのね。
今日はアヤメを植える場所をどこにしようか、どこかいいとこ無いかなと考えに来ました。
暖かくなってきたから、俄かに忙しくなりますよ。
道路の側にするか、側溝の脇にするか…
イヤァ、大きくなっちまったなぁ!向こうの景色。(注:フレコンバックの山を指して)

農家は何かせずにはいられないんだ。
だから家のじいさんみたいに、「あそこにアヤメ植えっかなぁ」と来るわけだ。
仮設にいたら何もできないが、ここに来ればそうやって何かしようという気持ちにもなる。

●30年後はどうなるのか?
30年後の飯舘村がどうなるのかを知りたくて、チェルノブイリにも行った。
事故当時の子どもが大人になって その子どもができて、その子に影響が出ている。
エイトス、日本財団。幸福実現党などが「安全だ。大丈夫」なんて言っていることに国も県も乗っているが、果たしてそれでいいのか?
今の村長も25年後の飯舘村は解らないだろう。
リスクには予防の原則が伴うと思う。
それをおいては考えられない。
村ではリスクを、当初から撥ね退け離脱してきたが、村長は全くの無知ではなかった。
家族を避難させたのだから、そういうリスクが頭にあったから避難させたのだろう。
それで「2年で帰れる」と言ったが「2年で帰れると思いましたが、6年になりました」と、言うことがコロコロと変わる。
今まで言ってきた、やって来たことを、申し訳ないなんて一言も言わない。
チェルノブイリという前例があるのだから、過度になる必要はないが、予防の原則はある。
甲状腺ガンが184人と発表されたが、これは当時4歳〜18歳までの子どもに検出された数で、それ以外の年齢の人はカウントされていない。
ICRPと県立医大で協定を結んでいて、医大や県はICRPの許可なく勝手に発表できない。
なぜICRPという推進派なのか?
なぜWHO、世界保健機構でないのか?
これでは事故影響は抑えに抑えて、最後はチョイ出しチョイ出しで隠しきれなくなって認めざるを得なくなるのでは、と思っている。
だがその頃には隠した当事者はもう誰もいなくなって、被害を受けた人たちだけが被害を背負っていかなければならなくなる。

*この項もう一編続きます。長くてすみませんが続きもお読みください。      

いちえ


2017年4月9日号「4月4日飯舘村〜南相馬①」

4日は飯舘村の長谷川健一さんの自宅を訪問しました。

◎村内の様子①
●誰に言ってるの???
川俣から南相馬へ通じる道路の村の出入口に新たに“看板線量計”が設置されました。
村へ入る側の看板表示は「お帰りなさい 首を長~くして待ってたよ」出る側には「行ってらっしゃい 必ず帰ってきてね」の文字と親子のシルエットが描かれています。
また同じく国道出入口の路肩には「おかげさまで」「避難指示解除です」と,緑の布地に黒い文字の幟旗が、「おかげさまで」「おかげさまで」「おかげさまで」と10m間隔で25本並び「避難指示解除です」もまた10m間隔で25本立てられています。
「おかげさまで」って誰が誰に言っているのでしょう?
●ふれ愛館
同じくこの道路に面して建てられた「飯舘村交流センターふれ愛館」は、昨年8月に開所して、福島駅から南相馬へのバス停留所にもなっていますが、私はこれまで車窓に見て過ぎるだけで入ったことはありませんでした。
この日に初めて入ってみました。
多目的ホール、視聴覚室や研修室、キッチンスタジオや和室などを備え、木材をふんだんに使った凝った造りの建物で、回廊には木彫のオブジエが何点も飾られ、美術館かと見紛うようです。

◎長谷川健一さんの話
●避難指示解除となった今の気持ち
3月31日に避難指示解除になって、式典が行われた。
村長は「おめでとうございます」と挨拶したが、何がめでたいのか?
看板線量計の「行ってらっしゃい 必ず帰ってきてね」の言葉を、村長に返してやりたい。
村長の子どもは他県に避難して帰ってこないが、村長はNHKテレビの取材に「私の子供ではありません」と答え、それが放映された。
2011年にも、同じ現象が起きていた。
御用学者の山下俊一や高村昇の講演会を開いて、村民が子どもを連れて出て行かないよう止めた時、自分の子どもは逃した。
それについて村長は、「私が知らないうちに子どもたちは孫を連れて出て行った」と本に書いている。
そして今度は「私の子どもではありません」と言う。
村長は見方が甘いのだろうが、普通は言葉を濁すだろうに、公共放送で言った。
2月の時点では、4月からの小学生は104人だったがその内の半数以上が転校し、4月の小学生の数は51人に減った。
今年4月の新入生は、2人だった。
これは避難指示解除という節目で、こうなったのだろう。
来年4月には村内に学校を戻すから第2回目の節目を迎え、さらに子どもの数は減るだろう。
我が家でも長男の子どもは福島市の学校に入ったし、娘の子どもはこれまでは飯坂の学校に通っていたが、今は住所も移し転校した。
それも仕方ないことだ。
「一人でも多くの村民に戻って欲しい」なら、手本を示せと言いたい。
そういう意味で、村長のところの嫁さんは可哀想だ。
村長は息子になぜ戻らないかを聞くべきだ。
飯舘村の若い親たちは皆、村長の息子と同じ考えだろう。
それも判っていながら、「それぞれの判断で」と言う。
じゃぁ村長の子どもたちは戻るのか?と聞くと「それぞれの判断で」と言う。
それでいて「一人でも多くの村民に戻ってもらいたい」は、おかしいだろう。
これまでは、戻る人、戻らない人、戻れない人、それぞれみんな村民だから、同じ様に支援すると言ってきたが、今は変わった。
戻らない人は村民ではない、住所を移すのだから村民ではないと、切り捨てる様になった。
今回の新年度予算編成では、戻らない人への支援策はゼロというのが村議会での村側の資料にある。

●「までいでねぇぞ!」
村の計画では現在の飯舘中学校を63億円の予算で小中一貫校にし、認定こども園も併設すると青写真がある。
これが学校エリアで、隣接してスポーツ公園エリアを建設する計画だ。
屋内運動場、プール、全天候型テニスコート、陸上競技場などで、当初予算212億円だ。
これは福島県本宮市の予算と同額になる。
年寄りしか戻らない村に、こんな施設が必要か?
「私は200億円を超える予算を国からとった」と言うのはいいが、使い途に問題がある。
村に戻らない人への支援はゼロ、農業再生予算額20億円を費やそうとしている。
ふれ愛館のオブジエに2000万円、建設中の道の駅にも2000万円のオブジエを設置予定、「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」の線量計に1600万円、地方紙を含めすべての全国紙に掲載した一面広告「避難解除です」に2000万円、「おかげさまで」「避難解除です」の幟旗は、JV(注:建設業の共同企業体)からの寄贈だ。
金銭感覚がなくなっている。
国も飯舘村は全国的に注目の的だから要求されればどんどん出したが、使い方が問題だ。
国は「一生懸命尽くしている」、村も「こんなに復興した」の、イメージ作りだ。
年寄りしか帰らないのだから、グランドゴルフやパークゴルフの施設なら解るが、不必要なものを作るのは単に復興のイメージ作りでしかない。
だが作ったら維持費はどうするのか、年寄りしか戻らないのに維持管理費の負担はどうするのか。
第二の夕張ではないか。
村民はみんな「までいでねぇぞ!」と言っている。
「までい」という言葉は、普段の一般的な会話で使ってきた言葉だ。
農作業の草刈りなど「あの人は、までいに仕事するなぁ」とか、いつも片付けてきれいに暮らしている家を「までいに暮らしてるな」、農機具をしまう時も「までいにしなきゃだめだぞ」と言えば長持ちさせるように丁寧にしろと言うように、日常語だった。
体育館も陸上競技場も道の駅も既存のものがあるのだから、何10億円もかけないでも再生できる。
現存するものをまでいに使うという「までい」な気持ちが消えてしまった。
新しい道の駅にコンビニを作るというが、コンビニも在るのにそれを有効活用しないで新しく作るという。
この道の駅が建設されているのは飯舘村の中でも一番良い場所で、中心的な地であり農地としても一等地だ。
そこの田んぼを全部潰して道の駅にし、その裏側は村営住宅、道路の反対側は広大な花畑にするという。
一等地の農地を潰して道の駅や花畑が、復興になるのか?
我々が求めているのは、これから何をして生活していくかが問題なのに、一等地を花畑にしてそこから収入が上がるのか?

●宇宙人みたいなこと言っててはダメだ
特養(注:特別養護老人ホーム)が懸念される。
現在34、5人しか入居していないが入居待機者が40人いて、ベッド数は140在るが、なぜ有効活用しないのか?
特養をきちんと運営しなければいけない村として、かなりのテコ入れをして運用していく必要がある。
34、5人より増やせないのは、介護職員が居ないからだという。
職員が集まらないのは給料が安いからで、根本的にテコ入れするにはそれを解決しなければダメだ。
現在開店しているセブンイレブンは村でテコ入れしているが、そこではパートの時給が1250円で別途通勤費がつく。
それに比べて特養のパートは時給800円、これは論外の賃金だ。
 飯舘でなく条件の良い土地でも、介護の仕事は大変な労働だから人が集まりにくいのに、時給800円で飯舘にわざわざ来るかという話だ。
人が集まってくるシステムを作らないで、箱物ばっかり作っていてはダメだ。
「あとはお互いの思いやりで」(注:前日に榮子さんに見せてもらった新聞にあった村長の言葉)なんて、宇宙人みたいなことを言ってないで現実を見なければダメだ。
うちの母親も介護4で認知症だ。
川俣の施設にお世話になっているがそこは特養ではないので、3ヶ月3ヶ月の短期入所だが、介護4だから継続してお世話してもらっている。
明日また行って、今後の相談をしなければならない。
飯舘にはあんなに立派な施設があるのに、なぜ活用しないのか。
川俣にも特養はあるが、川俣の人でなければ入所できない。
「そういうことを踏まえて、村では近隣の特養に声かけしています」と言うが、どこの特養も手いっぱいだ。
自分のスペースをガラガラにしておいて他所にお願いしますは、おかしいではないか。
不似合いな箱物を作るのではなく、こうしたソフトの部分をきちんとしていかなければとんでもないことになる。
母はもう自宅には戻ってこれない。
日向ぼっこするようにと座って、母が好きな向こうの景色を眺めていられるような庭石を作ったのに、避難のストレスからだろう、最初は介護1だったのが一気に4になってしまった。

●ここでソバを作るわけ
俺はここでソバを栽培しようとしているが、国に対しては「何だ!」とガンガン抗議している。
国に反発しても国は何もしてくれないから、農地は荒れていく一方になる。
先祖伝来の農地を荒廃させられないから、農地を耕して綺麗にしていくのは、我々の義務みたいなものだ。
だがそうなると国の思い通りになるわけだ。
国に反発しても農地は荒廃するばかり、耕せば国の思い通り、その辺りの絡みが非常に難しい。
現実は国の思惑でなく、そこを荒らしたくない気持ちでも、外の“運動”から見れば国の言いなりと、実際そう言う人もいる。
野池:大事なことはそこに住む人がどうしたいかであって、その矛盾は被災者の長谷川さんの責任ではなく、責任は国にある。
被災者はこういう選択しかなくて、だからそうやっている。(以下赤字は野池さんの発言)
すると国は「こうして復興しました」と言うが、「そうじゃないんだ」と俺は言うんだ。
「長谷川さん、先頭切って再開するなんてとんでもない」と言う人も、結構いるよ。
だけど「じゃぁ荒れさせていいの?先祖から継いだ農地を荒らしていっていいのか?」と言いたい。
 都会で運動だけやっていると、どうしても対決だけになって、そこで当事者がどういう思いで、どういう生活をしようとしているかが見えなくなって、そんなことをしたら国の言いなり、思い通りだということになる。
そこが難しい。
外から見れば同じでも、思いは全く違う。
理屈だけ通して、荒れさせていくのか、だ。
そんな難しい選択を迫るのも原発事故の特徴、放射能災害の特徴だろう。
長谷川さんの健康が心配だから戻るなと言うなら判るが、国の思う壺だから戻るなというのは違う。
健康面で言えば、仮設に居るよりここに来ていた方が俺にはいい。
ここに来れば全て自分のものだ。
仮設にいては、どうにもならない。
けれどそれもまた村長の言い分で、「それぞれの選択で」にされてしまう。
「それぞれの選択で彼は戻ってきた」と言うだろう。
それでマスコミもそうした見方になるが、俺はそういう取材は一切受けない。
利用されるような取材は受けない。
長谷川さんがやろうとしていることは、「までい」な暮らしだが、村長はそこから気持ちが離れてしまって、「までいな村」は看板だけになってしまった。

*長くなるので一旦区切りますが、この項続きます。
どうぞ、次もお読みいただけますようお願いいたします。             

いちえ


2017年4月7日号「4月3日飯舘村」

3日は「アベ政治を許さない!」一斉行動日でしたが、私は福島への取材行で国会前には行けませんでした。
帆布に「アベ政治を許さない!」をプリントした手提げ袋を肩に、歩きました。
今回は「たぁくらたぁ」編集長の野池さんとの、同行取材です。

◎菅野哲さんの作業場
 福島駅で長野から来る野池さんと待ち合わせ、飯舘村の菅野哲(ヒロシ)さんの新居を訪ねようと福島市荒井に向かいました。
1時頃にお訪ねしますと約束していて、ちょうど時間頃に哲さんの家に着いたのですが留守でした。
 自宅の向かいに作られた作業場は戸口の鍵は閉まっていなかったので、ちょっぴり開けて覗かせて頂きました。
広い室内の入り口の籠には、2、30足ほどのスリッパが入っていました。
(注:この後で菅野英子さんを訪ねて、前日にここでみんなで味噌作りをしたのだったと知りました)
村を離れても、飯舘村の食文化を絶やすまいと活動を続ける哲さんの作業場でした。
村民有志が集まって作業出来るようにと、これだけの広さなのでしょう。
 携帯電話も何度か掛けましたが繋がらないので、哲さんに会うのは次に
して伊達市の仮設住宅に住む、飯舘村の菅野榮子さんを訪ねました。
 仮設住宅に着いて榮子さんの家を探していたら、ばったりと古居みずえさんに会いました。
古居さんも榮子さんの家に行くところだったので、3人で榮子さんの家を訪問したのでした。
 榮子さんに「避難指示解除になって」の心境をお聞きしました。

◎菅野榮子さんの話
●「お帰りなさい」の看板
 避難して3年目くらいの時に、「今は避難民だが、次は難民になって、その後は棄民になる」と言ったことがあるが、3年前に言った言葉が今は現実になった。
村の入り口に「おかえりなさい」なんて看板が立ったが「お帰りなさい」の言葉は両手に孫の手を引いて後ろに息子が立っていてこそ「おかえりなさい」だ。
高齢者の福祉施設もないのに年寄りが一人で立って、そう言うところに「お帰りなさい」と言われたって、両手を上げて「ただいま。これからお世話になります」なんて言えない。
 原発事故の後始末の進行がどう進められるのかに興味があるから、それに関する新聞記事は丁寧に読む。
だからこういう記事にはカチンとくる。(と言って3月9日付の「福島民報」の切り抜きを見せてくれました。そこには村長弁として「これからはお互いの助け合いでやっていって欲しい」ということが書かれていました。)
年寄りばっかり帰っていくのに、何を言ってるんだと思う。
 原発事故の特例法を堂々と使っていいのだから、公民館や道の駅のような箱モノを作るのでなく、人が生きるために必要なものに使うのが首長の指導力だし、国との駆け引きだろう。(注:「ふれ愛館」名称の公民館は既に建設済みで開所している。道の駅は建設中。だが、どちらも避難前からの既存の施設はあるのに、既存の施設は閉所のまま、それらとは別に新築)
 外観ばっかり目に入ることばかりして、復興したと思われては困る。
そこに居る村民は涙を隠して笑っている人間になりたくない。
そんな環境づくりは村長も、政治家たちも“人間”を意識していないからだ。

●年寄りの話は聞いておくべきだ
 作物でも何でも、ものを作るには難しい。
野菜一つ作るのも、その年その年で気候などが違うし、土地柄もある。
長い経験がものを言うから、年よりの話はよく聞いておかなければ。
大学の先生ばかりが先生じゃないよ。
 伊達のこの辺りには蔵がある家が多く、飯舘村では蔵があるのはお大尽の家だったから、ここはみんな裕福なのかと思ったが、果樹農家が多く果物の保管のために外気温と違わないように床もコンクリートではなく土間で、蔵に保管するのだと知った。
哲(注:菅野哲さんは榮子さんの親戚で姉弟のような間柄なので、榮子さんはこう呼んでいます)の住む荒井は、昔はこんにゃくを作ってた土地で、こんにゃく玉を保存するのにムロがある。
飯舘村に居た時はキムチを漬けるのに、年内のまだ白菜がしっかりしている時期に漬けていた。
荒井では2月になってから漬けても大丈夫だった。
白菜をムロで保存しておけば新鮮さが保てるし、漬けたキムチの樽をムロに入れておくとそこで熟成されて美味しくなる。
その土地その土地で育まれた知恵がある。

●放射能の降った世界で生きるとは
 

目に見えない放射能の中で生きるには、その被害を受けないように生きる任務があると思うから、情報を聞いたり、勉強していかなければならないと思う。
原発事故が起きる前は放射能のことなど知らなかったから、事故後に大学の先生に「放射能が地上に降りたということは、どういうことになるのか」と尋ねたら、先生は「世界が変わる」と、一言ポツリと言った。
アレクシェーヴィチさんや広河隆一さんの言葉にも同じようにあった。
アレクシェーヴィチさんは、「福島の生活は未来の物語だ」と言った。
原発の事故は、今をどうするということではなく未来の物語になるのだなぁと、その言葉が頭に残った。
自分でも情報を集めた中で考えれば、これからどうなるのだろうと思う。
だがそうなっても人はいろいろで、それでも原発推進派も居る。
私らがこんな思いをさせられて居ても、規制基準さえ守っていれば原発再稼働はされるし、国も科学者もそのように基準値を決めてやっていく。
この世の中、どうなっていくのだろう?

●復興ではなく再生だ
事故後の警戒区域が再編成されたのが12年7月で、‘13年3月に催された東大の弥生講堂でのシンポジウム(注:飯舘村放射能エコロジー研究会主催)に私も哲と一緒に参加した。
糸長先生と鬼頭先生に促されて、私も発言した。(注:糸長浩司氏*日本大学生物資源学部教授、鬼頭秀一氏:環境倫理学者、星槎大学副学長)
「100年後、200年後に誰かが住むようになるかもしれないが、今は住めない。
飯舘村で育ててきた特産品の食の文化が幾ばくかの遺伝子を持ちながら、100年後、200年後に誰かがそれを携えて帰って来るような体制をとっておくのが、私たちの今の夢であり楽しみだろう」と話した。
シンポジウムは毎年催されているが、4年後の同じシンポジウムで大学の先生が同様のことを言っていた。
復興と言うが、復興なんて出来る訳がない。
放射能とともに生きる気など無いが、その中で生きるには「再生」に取り組まねばと思う。
村長や国は、再生などという言葉は使いたくない。
自分の非を認めたくなくて、原発事故は津波と自然が犯した想定外の爪痕が犯したことにしたい。

●火山列島に住む者として
火山列島の上に生きているのだから、万全を期して人の命を守る体制をとっていくのが国の在り方であり、そこに住む人の努めだ。
放射能を飛び出させるなんて、最大の罪悪だ。
私らは火山の上に住む何も持たざる者だが、生きることについては真剣に考えているし、ちゃんと生きていきたい。
叫んでも、満足のいく答は返ってこない。
これだけ言ってるのだからなんぼか変わっても良いと思うのだが、変わらない。
金さえ出せばいいというものではないだろうに、二言目には賠償金を出したでしょう?と答えが返る。
 福島選出の自民党議員が当選御礼の挨拶に来た時に、自民党は何10年もかけて原発推進をしてきたのだから、事故が起きた時の民主党政権の対応が悪いなどと批判ばかりを言ってないで、政権交代で自民党の舞台になったのだから、しっかりやって欲しいと伝えた。
それには答えないで、自民党には推進派も居るが反対派も居るなどと濁した。

●年金暮らしが家賃2万円では暮らせない
夫婦で帰る人はなんとか生きていけるまではやっていこうと思うだろうが、デイサービスもない中で認知症の人や年寄りの一人暮らしはどうするだろう?
認知症の予備軍の私らが帰る決心を迫られてるんだから、深刻だ。
隣の家が何100mも離れていれば、回覧板を回すのだって軽トラックで行かなければ出来ないのに。
だからここに居られる間は、ここに居るつもりだが、別の地に家を新築した子どもに呼ばれて同居に踏み切った人も居るし、これからそうする人も出てくる。
だけど知り合いが居ない土地に行くのでは、年寄りは大変だ。
 一人で出来ないことは隣の人にゆだねて生きてきた、助け合って生きてきたのが飯舘村の年寄りの姿なのだ。
既存の村営住宅をリフォームして提供すると言っているが、家賃は一律2万円だと言う。
その他に光熱費など維持費もかかる。
畑で野菜も作れず、山の山菜もキノコも食べられないのに、2万円の家賃は年金暮らしではやってはいけない。
他所の地域からの人たちも入居する復興住宅は、家賃は収入によって5000円からだが、80歳過ぎてからの年寄りはコミュニティがないところではやっていけないだろう。
そんなことは村の職員も県も国も判っている筈だが、そんな風にすすめている。
ヘルパーを2人くらい雇って20〜30人くらいの年寄りを世話できる住宅を造るよう要望したが、通らない。

●女は命を考える
科学者は罪作りだ。
科学者も政治家も、人間の幸せのための仕事をしていない。
ダイナマイトを発明した人が、殺人兵器を発明した人が、罪悪寒からなのかどうかノーベル賞を作るというように、科学者は罪作りだ。
放射能は怖くない人も居る。
爺ちゃんがイノハナ(注:キノコの一種で、好む人が多い)採ってきて食べ、婆ちゃんにも「旨いから食え」と言ったが婆ちゃんは食べず、爺ちゃんは残ったイノハナを干しておいた。
いい香りがしていたが、いつの間にか干しておいたイノハナが無くなっていた。
爺ちゃんは「婆ちゃんが、こっそり捨てちまったみたいだ」と言っていたから私は、「爺ちゃん、旨いから食うのはいいが、死ぬ時酷い目に遭うからな」と言ってやったが、そのとき思ったよ。
女は命を生むから、科学的なことは判らなくても本能的に命を考えるんだなって、思ったよ。
いろいろなことを勉強させてもらったが、原発事故は人類の生き方のたたき台を作る機会だと思った。

●飯舘村が生きる土台を作ってきた
飯舘村は東北の北海道と言っていいほど、気候が厳しいところだ。
その厳しさが“飯舘村”を作ってきた。
昨日も哲の作業場で、90kgの大豆で340kgの味噌を作った。
ボランティアの「味噌の里親」(注:榮子さんに自宅のある佐須では被災前から集落のかあちゃんたちで味噌を作り“佐須の味噌”のブランドで販売もしていた。原発事故後榮子さんの味噌蔵似合った味噌が奇跡的に被曝を免れていたので、それを種味噌として引き継いでいこうと立ち上げられたのが「味噌の里親プロジェクト」)の人たちが来てくれるが、その人たちと一緒に作業して、みんなが帰る時には仕込み終わるようにしたいから、頭の中でシミレーションして、3時に起きて哲のところに4時について、哲がふやかしておいた大豆を煮た。
哲が起きてきた時にはもう大豆は煮てあったので、哲は驚きながら感謝してくれたが、そうやって用意しておいたからボランティアの人たちが来た時には一緒に仕込んで、すべてを仕込み終えることが出来た。
支援してくれた人たちに達成感を持って喜んでもらいたいし、支援してもらう私たちもそういう達成感がないとやっていけない。
私が味噌作りから「足を洗えない」と言うと「暴力団みたいだな」って言われてみんなで笑ったけど、味噌だって買ってきたのでは人は繋がらない。
「一人では出来ないんだよ。隣近所の助け合がないと生きられないんだよ」と、小さい時から言いつけられて育ってきた。

●までいな暮らしに気づいた
バブルが弾け、資本主義の行き詰まりになったとき、みんな真剣に考えた。これからは有るものを大事にして、「までい」にしていかねばと気づいた。
あの時期は、飯舘村は「までいな村」としてやっていくという区切りとなった。
あの時に踏ん張ってきたから、今のこの厳しい時にも頑張りができる。
長野県や岩手県も山間の厳しい自然条件の中で生きる人が多いが、そうした同じような条件下で生きる人との出会いがあると、ホッとする。
共通するものを感じるからだ。
都会で育ってマンションに暮らしていると、山間地での暮らしを想い描けないだろう。

●爺ちゃんに育てられた
嫁いだ時には菅野家には明治17年生まれの爺ちゃんが居た。
爺ちゃんは息子より孫が可愛いように、孫嫁の私も爺ちゃんに可愛がられた。
山仕事が好きな爺ちゃんで、頭痛がする時でも山に入れば清々して帰って来るような爺ちゃんだった。
地下足袋が破れてパッカーンと口開いてても、藤蔓でくくって履いて「こうすれば大丈夫」と言って山に行くような爺ちゃんだった。
「頭痛ぇから、山さ行って来る」と言うから「爺ちゃん山行くなら弁当持ってくか?」と聞くと持ってくって言うから握り飯作って、おかずは何にしようと思っていると爺ちゃんは、弁当の隅に味噌入れてくれればいいと言う。
弁当を空にして帰ってきた爺ちゃんに、「爺ちゃんおかずも無ぇで、全部食べられたの?」と言うと爺ちゃんは、「山に入れば食うもんはいっぱいある。ウドやシドケがあれば採って味噌つければおかずになる」と言った。
春には春の秋には秋の、山の恵みがあるって。
私たちの子ども、爺ちゃんには曾孫が生まれたら、その子が学校行く時に役立つようにと言って、爺ちゃんは味噌弁当持って杉の植林をした。
70年経って、それがパァだ。原発事故で杉はだめだ、
「爺ちゃん、ごめんね。ごめんね」って、泣いたよ。
話好きな爺ちゃんに、私は育てられたんだな。
話が上手で人を惹きつける話し方をする人だったから、山の中や畑の草取りしながら爺ちゃんの話を聞いて、私は教えられた。
話が順序になって繋がって、物語のようになる。
わぁ、この人は大学など行ったわけでもねぇのに、山の中で生まれてそれなりの教育はしてもらっただけど、立派な人だなぁと思ったよ。
話す順序や言葉の使い方を、爺ちゃんの話に教えられたよ。
人の心を信じる爺ちゃんだった。

●子ども達に良い財産を残したい
人は一生勉強だ。
いろんな人に会ってきたが、そこでどんな人に出会うかで自分の考えも変わる。
良い人に出会った時は、その人の話を真剣に聞く。
大変な世の中になるが、その人その人の感じ方で、幸せかどうか感じ方が違うが、生まれてきてよかったと思える社会であってほしいな。
いろいろあるけど、子どもには癒されるな。
ここは学校が近いから、子どもたちがランドセル背負って通るんだ。
畑仕事してる時に子どもたちが通るんだが、この子たちは何も知らないで学校行ってるわけだ。
勉強したなかで、どう変わっていくかが世の中なんだから、この子たちに良い財産を残さなきゃなんねぇなって。
世の中の在り方が、子供達の財産になるんでないの。
子ども達のランドセルの後ろ姿見て、そう思ってるよ。

●没頭するものがないと生きられない
事故後は何かに没頭してないといられなくなった。
私もなんでこんなに畑に夢中になるのかと自問自答することがあるが、放射能から気持ちの間隔をおいて生活する必要があるからだ。
没頭するものがないと、生きられない。
でもそれを見て「なんだ、笑っているじゃないか」とか、「元気に仕事してるじゃないか」と外の人は言う。
条件は違うがみんな悩んでやってきた。
没頭できるうちは良いし、やりたい仕事が見つかったら良いね。
この震災で飯舘村の人も変わったし、世界も変わった。

*榮子さんの話は、まだまだ続きました。
凍み餅作りで交流のある長野県小海町のことや、小海町の母ちゃんたちのこと。
また、これも爺ちゃんから教えられたと言いながら、嫁ぎ先の菅野家の祖先のことや山津見神社との関係などを話してくれました。

榮子さんの家を辞したのは夕方で、霊山から川俣町を抜けて南相馬のいつもの宿に着いた時にはもうすっかり暮れていました。                     

いちえ


2017年3月20日号

東日本大震災から7回忌を迎えた11日には行けなかったので、16、17日の一泊2日で南相馬へ行ってきました。

◎中筋 純さん写真展『流転 福島 チェルノブイリ』
 今回の南相馬行の目的の一つは、15日から福島テルサで開かれている中筋 純さんの写真展「流転 福島 チェルノブイリ」を拝見することでした。
中筋さんは、2007年に訪問したチェルノブイリ原発とその周辺の光景に衝撃を受け、以降ライフワークとして現地に通い記録し、また3.11以降は福島にも通い続けています。
 中筋さんがチェルノブイリと福島で、定点観測のように季節を違えて記録してきた写真が、見入る私に語りかけてきます。
場所を違え、時を違えているにもかかわらず、チェルノブイリの、そして福島の風景は同じように私に語りかけてくるのです。
私が写真を見ているのではなく、私がそれらの風景に見据えられているような感覚を覚えます。
 入口のすぐ近くの一枚は、チェルノブイリの森に生えた小さなキノコの写真。
林床の草々に朝露が光り、その緑の草の中に一本スックと立つ細く小さな茶色いキノコ。
写真の前に立ち、見ている内に思わず涙がこぼれました。

 私は3.11後のあの夏から、毎月福島に通い始めました。
人が消えた里山に春に桜が咲き、夏には緑が溢れ、秋に木々が紅葉し、そして冬には雪が覆う。
それらを見ながら「きれい!」と思う私がいて、「いいや、そんな風に思ってはいけない。放射能に色が付いていたらと想像してみよ!」と思う私がいました。

 中筋さんがファインダー越しに切り取り、フィルムに収めた足元の風景。
放射能で汚染された森、ガイガーカウンターが叫び声を上げるような森の中の一本の小さなキノコ、きれいでした。
とても、きれいでした。
細く小さな一本に、いのちが溢れて見えました。
その美しさに、私は涙がこぼれました。
この意味を、私は自分に問い続けていこうと思います。

 中筋さんの写真、多くの人に見て欲しいです。
福島テルサでの写真展は今日20日の17時で終わりました。
帰宅してすぐにでも「一枝通信」でお知らせしたかったのですが、遅くなってしまいました。
でも、これから東京、静岡、金沢で巡回展が開かれます。
どうぞ、多くの方に見て欲しいと願っています。
●東京/目黒:5月31日(水)〜6月4日(日)目黒区美術館区民ギャラリー
●東京/練馬:7月5日(水)〜7月9日(日)練馬区美術館企画展示室
●静岡/富士:8月11日〜15日ロゼシアター展示室
●石川/金沢:10月31日〜11月5日金沢21世紀美術館
*お問い合わせ:090−8849−6864  2016ruten@gmail.com
https://www.facebook.com/2016Fukushima.Chernobyl/

◎小池第3仮設住宅
 前もって訪問を伝えずに行ったのですが、集会所にはハルイさんとヨシ子さんが居ました。
突然の訪問だったので驚かれましたが、お二人からは震災前の小高での暮らしを聞かせていただきました。
 これまで福島にはまったく縁のなかった私ですが、震災後に通い始めて、それまで知らずにきたこの地の歴史や文化、暮らしを少しずつ知ってきました。
今は、もっともっと知りたいと思っています。
今発売中の『たぁくらたぁ』に「聞き書き南相馬」を寄稿していますが、この地の人々の暮らしを書き留めていこうと思っています。
 ハルイさんもヨシ子さんも、かつての暮らしを語った後で「今は自分のために好きなように1日を過ごしているから、今が一番幸せ」と言います。
津波で家族を亡くし家を流された二人ですが、その悲しみを抱きながらの思いです。
 つい先月、「仮設の人たちに役立ててください」と手紙と共に、私宛に大量のピンクの軍手が送られてきました。
もうすでに退去者が多く出て、仮設住宅に残っている人は少なくなっているので、これを使って何かを作る講習会を集会所で開くこともできないと困っていたのです。
 でも、5足ほどヨシ子さんに送ってみたのです。
すると、なんとまぁ、楽しい作品ができていました!
写真は、87歳の吉田とも子さんが作りました。
集会所で、みんなでお茶飲みしながら作ったのでしょうか。
今も仮設住宅に残っているのは、ハルイさんやヨシ子さんよりも年長の高齢者がほとんどです。
ピンクの軍手が、こんなタオルかけに変身していたのでした!
いえ、掛けるものはタオルでなくてもネクタイでもスカーフでも。
 これらは次回のトークの会*でお披露目します。
*次回「トークの会 福島の声を聞こう!vol.23」は、5月27日(土)14:00〜16:00です。以前に5月12日(金)19:00〜とお伝えしましたが、変更します。
ゲストスピーカーは飯舘村の長谷川健一さんです。

◎寺内塚合仮設住宅
 談話室には“社長”の菅野さん、“営業部長”の天野さん、そして山田さんと村井さんが居ました。
井口さんと紺野さんは、休みでいませんでした。
 誰からともなく「6年経ってしまったね」と声が出て、私が「この6年で一番良かったことは何だろう?一番嫌だったこと、悔しかったことは何だろう?」と問いかけると。4人共まるで声を合わせたように言ったのです。
「良かったことなんか何にもない!」「悔しいのは原発だ!」
みんな小高に家が在って、帰るに帰れない家が在って、6年近い日々を仮設住宅で過ごしてきたのです。
 天野さんは自宅を解体しました。
被災前に同居していた娘の家族が原町に建てる新居に同居するかどうか、天野さんはまだ揺れています。
この談話室でみんなが作った小さなフクロウのぬいぐるみを数体、小さなカゴや箱に一緒に入れて「家族揃って暮らしたい」とメッセージカードを添えたのは、天野さんのアイディアでした。
 3世代、4世代が一つ屋根の下で暮らしていた被災前の生活は、核災害によって分断されてしまったのです。
孫の姿も声もなく、老夫婦で、あるいは連れ合いに先立たれていれば自分一人で、食卓に座る仮設暮らし。
「家族揃って暮らしたい」は、胸底からの叫びであったのです。
 けれども3年経ち、4年目を迎える頃に、天野さんが言いました。
「『家族揃って暮らしたい』は、間違いだった。離れている間に子供も孫も自分の暮らしができてくるものね。前みたいに一緒に住むのは、難しい」
これは天野さんだけではなく、多くの人が感じてもいることです。
 山田さんは自宅を修復し戻るつもりでいるのですが、大工さんが忙しくてなかなか工事に来てくれず、いつになったら戻れるのか見当がつきません。
 村井さんの自宅はほとんど直さずに済むので、月末までには仮設を出て、自宅へ戻るつもりで準備を進めています。
 菅野さんは、すでに息子たちが鹿島区に建てた新居に一緒に住んでいますが、
昼間は息子夫婦も孫も仕事や学校に出かけ、近所に知り合いもない家の中に菅野さん一人が残されます。
それでは寂しいので、週に一度のデイサービスの日以外はいつも、家族に送迎してもらって “古巣”の仮設住宅談話室に来て過ごしています。
 菅野さんの自宅は今月24日に自宅を解体するそうですが、その日、息子家族と一緒に現場に行き解体後の更地に塩を撒いてくると言うので、私は行かない方がいいと助言しました。
以前、菅野さんと一緒にその自宅を見に行ったことがありました。
地震でサッシがゆがみ、きちんと閉じなくなっていましたが、丁寧に暮らしてきた跡が見える家でした。
庭にはすでに枯れてしまった盆栽が幾鉢も並び、サンシュユ、山茶花、椿が咲き、オモトが赤い実をつけていました。
子供達を育て、孫の成長を見てきた思い出の詰まった家が、重機でガラガラと崩されるのを見ては、心が萎えると思ったからです。
 米寿を迎えた菅野さんが自宅の解体を見届けなくとも、それは息子たちに任せたらいいと思ったのです。
余計なお世話かもしれませんが「行かない方がいいですよ」と私は言い、同行してくれていた今野さんもやはり「行かない方がいい」と言い、菅野さんは同意しました。

◎ここを出たら、みんなバラバラになってしまう。
 先に寄ってきた小池第3仮設住宅も、また他の仮設住宅もそうですが、被災前には見知らぬ人同士だった仲です。
仮設住宅に入居してもしばらくは、殆どの人が互いに心を閉ざしていました。
集会所で催されるイベントに顔を出し、また集会所で一緒にお茶を飲んだりするうちに、互いに打ち解けて、同じように苦難を乗り越えてきたもの同士、それは同志とも言えるような、心通じるかけがえのない仲間になってきたのです。
互いに離れがたい仲間となったのでした。
 被災によって地縁のコミュニティが崩壊し、仮設住宅退去で再度コミュニティが壊されてしまうのです。
避難所から次の住居は「仮設住宅」ではなく、ずっとそこで暮らしていける住宅を提供するべきだったのです。
阪神淡路大震災や、またその後の災害時の教訓が全く生かされず、被災者たちは、しかもこの核災害では高齢者たちが、より手酷いダメージを受けることになりました。
「良かったことは、何もない!」「悔しいのは原発だ!」
心からの叫びです。

◎ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト
 今回の目的の一つは、「南相馬・避難勧奨地域の会」事務局長の小澤洋一さんに会うことでした。
小澤さんは「南相馬20ミリシーベルト基準撤回訴訟」で、いつも放射線汚染のメッシュマップや映像を使って、汚染状況を示してくれています。
この訴訟の原告団の一人でもあります。
私は、いつも法廷やその報告会で小澤さんが話されることを聞いてはいましたが、直接話を交わしたことがなかったのです。
 小澤さんに会うべくお訪ねしたのは、「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」の作業場でした。
パソコンを前にして作業をしている男性たちは皆、20ミリシーベルト撤回訴訟やその報告会、あるいは原発関係の集会などで顔なじみの方たちでした。
小澤さんや他の皆さんにご挨拶し、作業の様子を短時間見学をして辞しました。
 政府はこの3月で帰還困難区域を除き避難指示解除をしますが、その根拠は空間線量が20ミリシーベルトを下回ったからと言います。
土壌の線量は無視していますが、このプロジェクトでは土壌を採取して線量を測り、地図に落とし込んで汚染状況を可視化しているのです。
別の部屋には測定器が設置されていました。
このプロジェクトが果たす役割は、とても大きいと思いました。
 また日を改めて、小澤さんからゆっくりお話を伺うつもりです。

◎菊池和子さん写真展
 椏久里珈琲店で開催された菊池和子さんのスライドトーク「フクシマ漂流はつづく」に参加してから帰宅しました。
菊池さんは2014年から福島に通い続け、被災者の声を聞き写真を撮り続けています。
写真集『フクシマ無念』『フクシマ漂流』(どちらも遊行社)、ぜひご覧ください。
被災者に寄り添った目で、彼らの日常を捉えています。

長文、お読みくださってありがとうございました。

いちえ

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2017年3月7日号報告2件(3月3日「安保法制違憲訴訟」、3月4日「脱被ばく実現ネット」集会とデモ)

報告1
3月3日、東京地裁103号法廷で「安保法制違憲・国家賠償請求訴訟」第3回口頭弁論が開かれました。
裁判所前での広報活動の後で傍聴券の抽選に並び、傍聴券を手にして入廷しました。
法廷では、原告代理人弁護士3名と原告本人3名の方達が、意見陳述をしました。

◎原告代理人弁護士の意見陳述
代理人弁護士の伊藤真さんは、「立法不法行為と新安保法制法制定過程の違憲性」について話しました。
代理人弁護士の橋本佳子さんは、「憲法改正・決定権の侵害」について、同じく弁護士の杉浦ひとみさんは原告らの「被害論」について話しました。
(皆さん「です。ます」調で話されましたが、「だ。である」調で記します)
●伊藤真さん(過去の判例を例に出しながら話しました)
 ①立方不法行為の判断枠組みについて
 国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行う場合には、国家賠償法の適用上、違法と認められる。
こうした立法行為によって原告の「権利または法律上保護される利益」が侵害されたなら,国家賠償法上の違法性が認められる。
 さらに国務大臣は,重大な違憲の疑いがあるような法案を国会に提出する閣議決定に同意してはならないし,国会議員は,そうした違憲の疑いを払拭するべく審議を重ね,国民の多くが違憲の疑いを持たない程度に法案の修正などによって対応するべき職務義務がある。
 ②新安保法制法の制定過程は,国会議員として国民に誠実な態度で立法行為を行ったとは、とても思えないものだった。
米軍支援法という本質を持った新安保法制法を強引に成立させた行為は,明らかに国会議員として遵守すべき行為規範に違反し,国会議員として負う職務義務違反である。
 新安保法制法の立法行為は,国家賠償法上,違反の評価を免れることはできない。
以上から新安保法制制定行為には、国家賠償法上の違法である。
 ③安全保障政策に関する国民の意思は多様であり,具体的な安全保障政策の実現や外交交渉の内容などは政治部門の判断に委ねられるとしても,内閣,国会が最低限遵守しなければならない大きな枠組は,憲法で規定されている。
司法の役割は、政策の当不当の判断ではなく,こうした大きな枠組みを逸脱した立法か否かの判断である。
 アメリカではトランプ大統領のイスラム7カ国市民の入国を一時禁止した大統領令に対して,連邦地方裁判所が、その執行停止の判断を下し,司法が人権,憲法,民主主義の擁護者としての職務を果たしている。
アメリカ憲法を範として導入された日本の違憲審査制においても,司法が権力分立を維持し,政治部門の目に余る暴走を止めるためにその権限を正当に行使しなければならない。今が,その時である。
 裁判所が,今回の新安保法制法の違憲性についての判断を避け,自らその存在意義を否定するようなことがあってはならない。
●橋本佳子さん
 ①、原告らは国民主権および民主主義の担い手として、憲法を最終的に決定する権利として憲法改正・決定権を有すると主張している。
新安保法制法の制定が、96条の憲法改正手続き経ずに、解釈で憲法9条を実質的に改変してしまったことによって、原告ら国民各人の憲法改正・決定権を侵害されたと主張している。
 ②、憲法制定権は、改正手続きを経て憲法を改正する最終決定権を含み、これが憲法改正・決定権だ。
憲法改正手続き法が制定され、96条の国民投票権について具体的に定められている。
国民各自が96条の手続きに従って最終的な意思決定をする権利である憲法改正・決定権は、明らかに具体的な権利として保障されている。
 重要な憲法改正問題が起きていない時には「憲法改正・決定権」は潜在しているに過ぎないが、重要な憲法改正問題が起きて、確立した憲法規範が変更されようとしている場合には、国民にとって「自分たちの国民投票なしに憲法改正が行われることがあってはならない」という「憲法改正・決定権」が浮上する。
 ③、明文改憲だけでなく、すでに解釈として確立した憲法規範の内容を変更することも憲法の改正だ。
長年にわたる政府解釈が有権解釈として定着し、機能しているなら明確性と安定性を備えた不文の憲法規範になって、憲法として行政府・立法府の権力行使を制約し、立憲主義を支えてきたのだ。
 従って、内閣及び国会が、解釈で憲法規範を変更することは96条に定める憲法改正手続きによって個々の国民の最終的意思確認の手続きを経ないものであり、許されない。
 ④、憲法9条に関しては、「憲法上、個別的自衛権は認められるが集団的自衛権は認められない」が、長年にわたって内閣法制局や歴代内閣によって表明され、政府解釈として定着し、不文の憲法規範として確立していた。
その解釈を変更し、集団的自衛権の行使を容認することは、憲法規範を変更することであり、96条の改正手続きなしに行うことは許されない。
 ところが政府は、この歴代解釈を変更して集団的自衛権の行使及び自衛隊の海外出動を容認する閣議決定を行い、新安保法制法を成立・施行した。
こうして重要な憲法問題として浮上したのだから、閣議決定の時点で96条の憲法改正手続きなしに進めることはできないはずであり、原告ら国民各人の「憲法改正・決定権」が具体化したのである。
 実際に圧倒的多数の憲法学者、歴代法制局長官、元最高裁長官らが9条違反との意見を表明し、多くの国民の反対表明が国会前を中心に全国各地で繰り広げられる歴史上稀に見る状況にあった。
それにもかかわらず96条の改正手続きを経ずに9条の実質的改変を行い、原告ら国民の憲法改正・決定権を侵害した。
 ⑤原告らは「9条があるから日本の平和が守られている」と思い、自らが最も誇りとする平和憲法の下で、二度と戦争をしてはならない9条を守り通さねばならないと強く決意し、これまでの人生を送ってきた。
そのため多くの原告らは、違憲の閣議決定直後から、国会前集会や地域の集会やデモなど、あらゆる場面で反対の声をあげてきた。
 しかし違憲の新安保法制の強行採決よって、戦争のできる憲法に実質的に改変されてしまい、南スーダンには隠蔽されていた日報で明らかになった戦闘地域に自衛隊が派遣されている。
しかも稲田防衛大臣は、憲法違反になるから「衝突」という言葉を使ったと憲法違反を自白している。
 こうして原告らは、96条の改正手続きを通じて自ら意見表明する機会を一切与えられないまま、意に反する受忍状態を強いられることになった。
これほど理不尽なことはない。
憲法改正に関わる個人としての価値を根底から否定され、怒り、絶望感、さらには悲愴感などにさいなまされ、原告らの精神的苦痛は図り知れない。
●杉浦ひとみさん
 ①原告らは、新安保法制法の成立により平和的生存権、人格権、憲法改正・決定権を侵害されたことを訴えている。
多くの市民国民は「裁判所は人権の砦」「司法は違憲立法審査権がある」ということを小学校の頃から信頼してこの国で暮らしてきた。
あれほど多くの学者が憲法違反だといった新安保法制法が成立させられたが、裁判所がこのような事態を形式的な理由で早期打ち切り、知らぬ存ぜぬとするのは許されないだろうというのが、原告らの主張の根底にある。
 原告らが新安保法制法によってどんな被害を受けたのか、代理人の私たちは原告らの声に真摯に耳を傾けてきた。
これまでの2回の口頭弁論で原告らが陳述し、代理人が法的に主張してきたように、その被害は法制度成立当時には思いもよらない程の大きな被害を受けていることがわかってきた。
 ②戦争被害を受けた中で、長崎の原爆被害者が負っている被害を準備書面では何人か記載した。
1歳半で被爆した原告は、通った小学校に「原爆学級」があり、被爆した子供たちは実験材料にされたことを子ども心に気づいていたし、友人を白血病で失った。
他の原告は皮膚のめくれた被害者が湯剥きトマトのようだったと、今もトマトを見ることが苦痛になっている。
また赤ちゃんを抱いたまま黒焦げになっている女性の死骸、馬が半分は黒焦げ半分は形を残している様子など、心の中には忘れることのできない映像が、今も生々しくあり、戦争や人を殺しあうというこの法制は、こうした記憶と分かち難く結びついている。
 障がい児への教育に生涯を捧げてきた女性は、障がいのある子どもたちにこそ、この社会の中での光を教えられているという。
そんな子どもたちが、人を殺し殺されることを許す社会では真っ先にその命を奪われること、そうであっていいという意識が社会の中にすでに巻き起こってことを過去の歴史の事実に照らして感じ、心を痛めている。
 ある宗教家の原告は、信仰による心の平穏は社会の平和と一致しなければ意味はないと気づき、50歳で牧師になったが、今の国の動きは、まさに彼の信仰的心情を引き裂くものであり、人格を打ちのめすものだ。
 基地周辺の住民である原告は、その爆音や大きな機体、空母の存在の威圧感を知っているので、基地が狙われ巻き込まれることへの恐怖を現実的に感じている。
 また今回の準備書面では、国を挙げて戦った先の戦争中には、子どもたちがどれほどゆがんだ価値観を押し付けられ、考える自由も、考える意欲も力も奪われた状態にあったか、また人格を形成する段階で大きな侵害を与えられた事実を語る人が複数いた。
新安保法制法の成立で、この心の侵害が始まっていることから過去に被害を受けた原告らはその頃の喪失感、絶望感を蘇らせている。
 ③裁判所には、この安保法制法及びこの法ができたこの社会が、国民にすでに与えている人権侵害と、今後人権侵害が起きているかさえも自覚できないような暗黒の社会になることを防ぐために、司法権を担う立場であることを自覚していただきという思いが、各原告の主張に込められていることを読み取っていただきたい。

◎原告本人意見陳述(やはり「です。ます」調を「だ。である」調で記します)
●原告本人 T.Tさん(男性)
 1945年夏に、私の生涯は終わってしまった。
たかだか12歳の少年に、そんなことがあるものかと思われるかもしれないが、私にとってはまぎれもない真実だ。
 それ以前の私には明確な生きる目的があった。
それは「大東亜戦争」に勝利することであり、「大日本帝国」を自称し「東洋平和」のためという大義名分で戦争を始めた国家の目的が、そっくりそのまま私の生きる目的であり生きる支えになっていた。
それが一挙に失われてしまった。
そればかりではない。
「大東亜戦争」の目的そのものが正義に反するものであり、その不正な目的のためにこの国家は、3,000万人ものアジアの人々を殺し、300万人物自国民をも殺したという事実を、認めざるを得なくなった。
 この「大日本帝国」の植民地で敗戦を迎えた私は、国家の保護を一挙に失っただけでなく、この帝国に抑圧されてきた民族からの報復をも受けなければならなかった。
なぜ私までこんな目に合わなければならないのか、全くわからなかったが、やがて少しずつその理由を理解していった。
戦後の私の生涯は、なぜ私がこのような愛国少年に作り上げられてしまったのか、その原因を探り、私自身がその在りようを克服して人間として真っ当な在り方を取り戻していく営みに捧げられてきた。
 戦前戦中の私には、自分の頭で考え自分で判断して自発的・自主的に行動するなど思いもよらないことだった。
あの当時は、大人たちも含めて誰もが、国家が望むように考え国家が望むように感じることを直接的にも間接的にも強制されていた。
和の尊重。一億一心。これに同調できない者は非国民として、国家が排除する。
みんなが同じように、みんなと同じことを、みんなと一緒にやらなければならなかった。
そうした「期待される人間像」へと、私は国家によって純粋培養されたのだった。
 そこから全生涯をかけて脱却し、自己変革を遂げてきた今のこの私にとっては、自分の頭で考え、自分で判断し、自発的・自主的に行動できるということ、言い換えれば、みんなと同じようなことをみんなと同じように、みんなと一緒にやりなさいと言われた時に「いやです」と拒否できることが、生きていく上で欠くことのできない条件になっている。
 これまではこの条件を、日本国憲法が私に保障してくれていた。
それが今、安保法制の施行によって脅かされようとしている。
日本国民はかくあるべしと、国家が、具体的には安倍政権が、規定し、この規定に従えない、あるいは同調できない者は異分子、非国民として国家が、実質的には安倍政権が排除するといった状況が杞憂ではなくなった。
 私が私として生きることを、日本国という国家の独裁的支配圏を握った安倍政権が、いまや不可能にしてしまった。
少なくとも極めて困難にしてしまった。
安保法制は日本国憲法に違反し、とりわけその根本理念である基本的人権を侵害していると私が考えるのは、以上の理由による。
●原告本人 I.Yさん(男性)
 去年5月までNHKで報道記者として働き、チーフプロデューサーの肩書でニュース制作の現場の管理職を務めていた。
ニュース番組の制作、編集責任者も務め、最後は「首都圏放送センター」のニュース制作に関わった。
一昨年、安倍内閣が集団的自衛権を容認し、安保法制の成立を強行したことが、私の運命を変えた。
 私の父母は共に昭和9年生まれで、父は東京大空襲に遭い家を失い、母は戦時中山形市内に疎開するなど、戦争の被害を受けた。
異なる地で敗戦を迎えた両親だが、2人が共通して体験したのは教科書の墨塗りだった。
昨日まで「天皇陛下は神様だ」「最後は日本軍に神風が吹く」と教えていた教師が、何の謝罪も釈明もせず「昨日まで教えていたことは誤りだった」と言って教科書の記述を次々と墨で潰させたという。
軍国主義に染められた子どもたちは、それまでの価値観を全面的に否定され、天皇陛下、教師に至るまでの大人たちに対する不信感を抱かざるを得ない衝撃的な体験だったとなんども聞かされた。
 そんな両親にとって「民主主義」は新鮮で理想的な価値観であり、日本国憲法の「平和主義」の理念は戦争体験者として、とても腑に落ちるものだっただろう。
親からは「民主主義」や「平和主義」の大切さを教えられ、かけがえのない価値観として吸収して私は成長した。
大学の法学部に学ぶ中で、自分自身でこの価値観を見直す機会があったが、この理念はますます私の揺るぎない確信となった。
 やがてNHKに記者として就職したが、「憲法の精神が行政・立法・司法の場でどのように実現されているのか、何より国民が憲法の恩恵を享受しているのか、すべてこの目で見てやろう!」というのが、大きな動機だった。
また、おかしいと感じたことを指摘するのがジャーナリストの使命であり、権力には屈しないというのが仕事上の信条だった。
しかし、私の人生に予期せぬ事態をもたらしたのが、安保法制関連法だった。
 そもそも公共放送たるNHKの報道は、不偏不党・公正中立の立場を守り、情報の送り手の主観的な判断を交えず客観報道に徹することが原則だ。
余計な論評を一切しないのは、“行政府も立法府も民主主義が貫かれている”からであり、ありのままを客観的に伝えることこそ重要だと考えるからだ。
 しかし安保法制関連法の成立は、あれほど憲法違反だという指摘を受けながら、審議も尽くされず数の横暴による「多数決」で成立させられ、他方、ジャーナリズムに対して政府・与党からのあからさまな圧力が相次いだ。
テレビ朝日のコメンテーターへの批判、TBSの放送内容に対する非難、沖縄の地方紙に対する暴言、さらには電波管理法に基づくテレビ局の免許更新をちらつかせ、政府批判の報道の自粛を迫るかのような大臣発言。
NHK前会長が就任記者会見で「政府が右というものを左とは言えない」発言も、その流れを象徴していた。
 徹頭徹尾、民主主義と平和主義を生かしたいと選んだ仕事が、この安保法制法の成立という決定的な出来事でその存在基盤を失い、私はこれ以上今の報道体制に従事していくことはできなくなった。
 私が思い描いていた穏やかな人生の流れは、安保法制という大きな波により流れを変えられた。
民主主義の危機を目の当たりにして、家庭にいても職場にいてもまるで大波に飲み込まれて息が詰まるような毎日が始まった。
そして昨年5月に依頼退職を余儀なくされた。
 もはや「政府を信じ、国会を信じ、この国の民主主義を信じよう」と無責任に口にすることができなくなったからだ。
戦後日本に構築された民主主義が目の前で破壊されている時に、この破壊行為に疑問を呈することすら「不偏不党」の大義名分の下では慎重に検討せざるを得ない職場では、できることは限られている。
 私は、残り数年の安泰なサラリーマン人生と、自分の信念を曲げてまで仕事を続けることの苦しい選択だったが、答えは明瞭だった。
この社会の中で私自身はとても小さな存在に過ぎないが、この濁流から孤独でも一人で抜け出さなければ、自分の信念を貫き通すことはできないと思った。
NHKという職場を失い職場の仲間の連帯を捨てても、妻子を背負って一人で立ち上がらなければならないと決心した。
それは、私の50年培ってきた自らの価値観と、これからの子どもたちの未来のために、傷つけられたままではいられないからだ。
 民主主義の時計の針を後戻りさせるのではなく、前に進める司法の判断を切に希望します。
●原告本人 O.Tさん(男性)
 1950年に東京で生まれ、66際になる私の人生に大きな影響を与えたのは、中学2年生の時に読んだ島崎藤村の『破壊』だった。
「被差別部落」という存在を初めて知り、それが社会構造の中で権力の側が作った制度による差別だと知り、激しい怒りを覚えた。
 さらにそれが権力の手による差別にとどまらず、同じ庶民の間での差別として根付く時、人の尊厳はあっけなく失われることを知り、強者が弱者を抑圧する構図に対して反発する気持ちが強くなり、やがてはそうした正義感が私の最も重要な価値観となり、その後の行き方に据えられたと思う。
 1980年代後半から、レバノンのパレスチナ難民キャンプの子どもたちを支援する里親運動に参加している。
欧米列強国がそれぞれの思惑から、パレスチナの地にイスラエルを建国させ、一方的に祖国を分割させられたパレスチナ人は、その後も今に至るまでイスラエルの圧倒的な軍事力により家族や親族を虐殺され祖国から追い出される悲惨な歴史は、私の正義感に火をつけたのだった。
 そして、いたいけな子どもたちが空爆や虐殺などの暴力に怯え、本来享受しなければならない教育や遊びから置き去りにされた現状に、じっとしてはいられなかった。
私たちの里親運動は、現地の子どもたちに対して16歳までの生活や学資の援助をしているほか、幼稚園や図書館の建設援助や教材支援、歯科検診、シリアからの避難民に対する緊急支援なども行っている。
 パレスチナの人々は総じて、日本人や日本という国に特別の親しみを寄せ、信頼を抱いている。
欧米諸国も同様の支援をしているが、特に彼らの日本人に対して寄せる親愛の度は明らかに強い。
 それは日本が唯一の被爆国として悲惨な形で敗戦を経験しながらも、見事に立ち直り発展したことに対する尊敬と、何よりもその敗戦から今日まで「非戦」を誓い、平和外交を貫いているからだ。
 他の大国が中東諸国に軍事介入する中で、憲法9条のもと武器を持たず平和外交やNGOによる人道支援を続けてきた日本に対しては、パレスチナに限らず中東諸国の多くの人々は、絶大な信頼を寄せてくれた。
これは中東諸国で人道支援や取材活動を続けてきた日本人なら、誰もが感じている。
 ところが安倍内閣が誕生して以来、彼らの日本に対して抱く信頼は徐々に薄れてきた。
如実に変わったのは、2015年1月に安倍首相が中東諸国を歴訪して以降だ。
なかでも1月18日にイスラエルを訪問し、サイバーテロや軍用無人機などの安全保障関連分野での提携を深める演説は、中東諸国に対して挑発的な言葉となり、私はそのニュースに全身に戦慄が走ったのを、忘れることができない。
 昨年7月1日にバングラデシュのダッカで武装集団によるレストラン襲撃事件があった。
この事件で私が最もショックを受けたのは、人質の一人の日本人が銃を突きつけた犯人に向かって「I am Japanese」と言って殺されたことだ。
かつては私たちの身を守る言葉だった「I am Japanese」が、今やなんの力もないこと、むしろ日本人が攻撃の対象に変わってしまったことに、深い悲しみを感じた。
 安倍政権が成立させた安全保障関連法は、中東諸国の人々の日本に対する不信感をさらに決定付けた。
日本国憲法を蹂躙し強行採決によって成立されたこの法律は、彼らにかつてない衝撃を与え、これまでの日本のイメージを大きく塗り替えさせてしまった。
 この法律が成立するや、私は中東の多くの友人から「安倍は正気なのか?」「日本は戦争をするのか?」「いつから日本は好戦国になったんだ?」といったメールを受け取った。
安倍政権による安全保障関連法の制定は、“非戦”を誓った日本への世界の信頼を壊してしまった。
 私や私の仲間がこれまで積み上げてきた中東の人々との信頼に基づいた取り組みを、中東の子どもたちへの支援を、大きく侵害されたことを強く訴えたい。

★「安保法制違憲訴訟」第3回口頭弁論の法廷での報告は以上ですが、原告本人の I.Yさんの意見陳述の際に、傍聴席から図らずも拍手が湧きました。
それに対して裁判長は静止しませんでした。
またその後の原告本人O.Tさんの意見陳述の際にもまた、拍手が湧いたのです。
やはり裁判長は、静止しませんでした。
これはとても異例の、特筆すべきことだと思います。
裁判官が原告の声にしっかり耳を傾け、言葉を聞き、傍聴席の私たちと同じく受け止めていたからではないのかと思いました。

◎報告集会
午後からは参議院議員会館行動で報告集会が持たれました。
始めに、代理人弁護士の寺井一弘さんの挨拶がありました。
●寺井一弘さんの挨拶
 安倍政権の強行採決に非常に怒り、安倍政権に鉄槌を打たねばと提訴を思い立ち、昨年4月26日に提訴の決起集会をここで行った。
今日の原告の方達の発言を聞いて、提訴してよかったと思った。
市民が何を感じて原告として立ち上がったかを、より一層理解した。
 人間の尊厳を守ることがいかに大事か、それに対する安倍の反発がいかに強いかを、この提訴で感じている。
まだ長い時間がかかるだろうが、共に闘っていきたい。
安倍政権は少しヨタヨタしてきて森友学園、天下り事件など、問題が続いている。
稲田大臣の「9条があるから戦闘と言えない、武力衝突と言う」の発言は許せないが、これが安倍政権の本質なのだ。
 彼らは市民はやがて諦めるだろう、忘れるだろうと我々を侮っているが、だからこれは忘却との闘いでもある。
 裁判官は判決を急いでいるようにも見受けられるが、国側からのなんらかのプレッシャーがかかっているのではないかということも感じられる。

 この後法廷で意見陳述した代理人弁護士の伊藤真さん、橋本佳子、杉浦ひとみさんの3人と、原告本人の3人から補足や感想が話され、最後に代理人弁護士の福田護さんから、国家賠償訴訟の現状が報告されました。
 現在15の地方裁判所で19件の訴訟が起きていることが報告されました。

●次回の「安保法制違憲訴訟」口頭弁論期日
*第3回差し止め請求訴訟
 日時:4月14日(金)10:30〜 @103号法廷
*第4回国家賠償訴訟
 日時:6月2日(金)10:30〜 @103号法廷

また3月8日には、さいたま地裁・広島地裁で、3月14日に福岡地裁で国家賠償訴訟、3月22日は岡山地裁、4月12日福岡地裁で差し止め請求訴訟,4月26日福島地裁いわき支部でと、口頭弁論期日が決まっています。
どうぞ傍聴に詰め掛けてください。

★この日は定例の,午後1時きっかりに「アベ政治を許さない!」プラカードを掲げる日でした。
私は裁判傍聴に出ていたので国会前には立てませんでしたが、澤地久枝さんはじめ仲間たちが大勢「アベ政治を許さない!」を掲げました。

報告2
 3月4日は「脱被ばく実現ネット」主催の第8回新宿デモでした。
 アルタ前で1時から集会を開き,2時から新宿駅周辺をぐるりと巡るデモでした。
福島原発事故から6年。6年前に原発事故が起きて「原子力緊急事態宣言」が発令されましたが、「原子力緊急事態宣言」は解除されないままの現在なのです。
 事故の収束は程遠く,各地の土壌汚染は依然として高いまま,小児甲状腺がん患者は183名に達し,その他様々な健康被害が出ています。
 この3月末には「帰還困難区域」を除いて避難指示解除され、放射能被害から必死に逃れた人たちへの帰還圧力が強まっています。
自主避難した人たちへの住宅支援打ち切りが迫っていますが、これは被災者たちにとって死活問題です。
東京都知事に宛てて、自主避難者に対する支援をお願いするハガキを添付します。
埼玉、神奈川、千葉、京都、長野、兵庫などなど各地に避難者はいます。
このハガキを参考に、どうぞあなたのお住まいの地域の知事宛に支援を要請してください。

いちえ

hagaki


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