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2018年4月23日号「沖縄行①」

 4月15日〜18日の3泊4日で沖縄に行ってきました。
今回の沖縄訪問のきっかけは、那覇でブックカフェ&ホール「ゆかるひ」を運営している友人の道子さんからのお誘いでした。
道子さんは「ゆかるひ」のホールで「Women’s Voice リレートーク」を主催していますが、そこでチベットと福島のことを話して欲しいと声をかけて下さったのです。
私はチベットに通いながら、沖縄に想いを馳せることがしばしばありました。
チベットと沖縄が抱えている問題は、通底していると思えてならないのです。
そして3.11後に福島に通いだしてからは、福島と沖縄もまた、問題は同根だと思えるのです。
私の中では、チベット、福島、沖縄はひと繋がりに感じられてなりません。
だから道子さんからの声かけに、嬉しく乗っての今回の沖縄行でした。

◎15日「ゆかるひ」でチベットと福島を語る
●「ゆかるひ」のこと
 道子さんが嫁ぎ先の長野から、生まれ故郷の那覇へ戻ったのは3年前。
沖縄の民意を踏みにじって新基地建設が強引に進められていく状況にいたたまれなくなった道子さんは、かつて自身が営んでいた児童書店「夢空間」の跡地にみんなが繋がれる場所を作りたいと考えてのことでした。
道子さんの思いを家族も受け止め、道子さんはいわば単身赴任のような形で那覇へ戻ったのです。
そして作ったのが「ゆかるひ」です。
 私は2年前の5月に長野の友人たちと沖縄に行き、道子さんを訪ねました。
その時はまだそこはがらんどうの空間で、道子さんがその空間をどのようにブックカフェとホールに作っていくのか、構想を聞かせてもらったのでした。
その時の道子さんが言った「名前は『ゆかるひ』。沖縄の言葉で良き日という意味なの」に、私たちは皆「ああ、いい名前ね」と頷いたのでした。
それからの道子さんのFBには、「ゆかるひ」がブックカフェ&ホールとして出来上がっていく様子が折々に投稿されていきました。
そして空間としての「ゆかるひ」が出来上がると、そこでの活動の様子がFBに乗るようになりました。
定期的に持たれている芭蕉布の糸紡ぎから高機で布を織る講習会、ホールでの様々な催しは目白押しにあります。
それは例えば、ベージックインカムの勉強会、ライブ、映画上映会、型染め作家の展示会、ファシリテーションの腕と心をあげるワークショップ、講演会などなどです。
カフェで出す食べ物のメニューには沖縄と長野の伝統食などもあり、FBを読みながら「ゆかるひ」が近くにあったら足繁く通いたいと思う私でした。
 道子さんから「ゆかるひ」で話して欲しいと依頼を受けたのは、今年のお正月のことでした。
年末年始を長野の家族たちと過ごした道子さんが、また沖縄へ戻っていく日でした。
道子さんから電話を受けて東京駅構内のカフェで会い、話が決まったのでした。
 そして4月15日、日曜日。
那覇空港からリニアに乗り県庁前で降りて、ほんの数分の那覇市久茂地3−4−10YAKAビルの3階が「ゆかるひ」です。
エレベーターを降りると左がブックカフェの入り口、右がホールの入り口です。
ちょうどこの日はブックカフェでは芭蕉布織りの講習会と、その奥では数学教室が開かれていました。
カフェの壁際には白木で組んだ書棚があり片側の壁は絵本や児童書が、反対側の壁には小説やノンフィクションなどの本が並べてありました。
 トークの開始時間にはまだ少し早く、私は奥のテーブルでランチをいただきながら
店内の雰囲気に浸っていました。
テーブルや椅子などの調度品や天井の照明も、また随所にさりげなく飾られたインテリアの小物なども、決して贅を凝らしていないのですがとても心地良かったのです。
 ホールは広くはありませんが30〜40人ほどがゆっくりと座れるスペースがあり、背もたれのある椅子や丸いスツールが置かれていて、温かみのある雰囲気です。
舞台は木製で床より少し高く後ろは白壁ですから、そのままスクリーンにもなります。
 道子さんの思いを込めた「ゆかるひ」は、そういう空間でした。
●チベット、そして福島の話を
 チベットのことを話しだせば、3日3晩話続けてもまだまだ語り尽くせない私です。
でもこの日は沖縄の置かれている状況に絡めて、チベットと福島を話さなければなりません。
まず「なぜチベットか」私の生い立ちから話し、初めてのチベット行から30年通い続けていること、半年かけての騎馬行のこと、チベット人の暮らしと彼らの思いなどを駆け足で話しました。
 3.11後の7月、岩手県の花巻で催したチベット関係のイベントを終えた後で被災地でのボランティア活動に参加し、大槌町で瓦礫の片付けをしたことで、これなら私も福島でも何かできることがあると思え、8月に南相馬へ行き、それから毎月南相馬へ通い現地の市民ボランティア「六角支援隊」と共に活動を続け、2015年の六角支援隊解散後も、毎月福島へ通っていることを話しました。
 そうした前段の話からチベットの現状、牧畜を生業にしていた人たちが定住化や生態移民などの政策によって、牧畜業が続けられなくなっていることや、チベット語ではなく漢語での教育が推し進められている教育政策、少数民族として人権をないがしろにされている実情と、そうした現状の中で暮らすチベット人の姿を話しました。
 福島については、避難指示解除されてからの飯舘村や浪江町、南相馬小高区のことを話しました。
帰還した人たちはほとんど高齢者ばかりで帰還率も低いこと、そこで生活していくにはさまざまな問題点があることを話しました。
例えば飯舘村では病院は週に2日、午前中のみの診療で、薬はそこでは処方されないので隣の町や市まで取りに行かねばならないことや、就学前から小中一貫校が新設されたけれど、通学する子供たちは損害で避難生活をしているので通学バスで片道1時間もかけて通うことを話すと、会場からは、ため息が聞こえてきました。
●アフター「ゆかるひ」
 トークの後のサイン会では、初めての著書『自転車いっぱい花かごにして』の読者だったという方や、保育士時代のことを書いた『時計のない保育園』を愛読していたという方もおいでになり、嬉しいことでした。
私の沖縄訪問はこの日が4回目ですが、初めて会う方達にも何か懐かしい思いを感じたのでした。
 終会後、「ゆかるひ」のカフェで何人かの方たちと歓談し、それでもまだ話が尽きなかった5人で、夕食を共にしようと近くの雑穀料理のお店へ繰り出しました。
メンバーは道子さん、受付や記録を担当してくださったユウコさん、絵本作家のホンワカさん、屋久島から参加してくださったメイビーさん、そして私で、期せずしての女子会です。
初対面でも本音で語り合えて意気投合の、心豊かな時間を持ちました。
私はきっとまたどこかで彼女たちに会いたいと思い、そして会いに行くだろうと思いました。
こんなつながりを生み出してくれる場が「ゆかるひ」なのだと、思いを新たにしたのでした。
 みなさん、もし沖縄に行かれることがありましたら、ぜひ「ゆかるひ」をお訪ねください。(火・水は定休日です)
*ブックカフェ&ホール「ゆかるひ」
 那覇市久地3−4−10 久茂地YAKAビル3階 電話098−860−3270
フェイスブックは「BOOK Café&hall ゆかるひ」です。
次回のWomen’s Voice リレートークは5月19日(土)に三上智恵さんがお話しします。
他にも企画されているイベント、いろいろです。            

いちえ


2018年4月21日「お知らせ」

トークの会「福島の声を聞こう!vol.27」のお知らせです。
日 時:5月26日(土)14:00〜16:00(開場13:30)
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158 2F)
参加費:1,500円(参加費は被災者への寄付とさせていただきます)
主 催:セッションハウス企画室(03−3266−0461 mail@session-house.net)

*申込受付は、5月14日(月)午前11時〜上記のセッションハウス企画室へ。

27回目を迎えるトークの会「ふくしまのこえをきこう!」です。
ゲストスピーカーは、浪江町津島から福島市に避難している三瓶春江さんです。
三瓶さんは津島訴訟の原告として活動中ですが、トークの会の前日の25日はこの裁判の公判日です。
家族分散しての避難生活から、福島市で暮らすようになった今、そして裁判闘争のことをお話くださるでしょう。
多くの方に、春江さんの話をぜひお聞きいただきたいと思います。

*お願い
この日、受付、物販などスタッフが足りません。
お手伝いいただける方、おいででしたらご連絡ください。
お願いいたします。                       

渡辺一枝

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2018年4月14日号「裁判傍聴」

◎福島原発刑事訴訟 第5回・第6回公判
 4月10日と11日、東京地裁で福島原発刑事訴訟の第5回、第6回公判が連日で開かれました。
この裁判は、東京電力福島第一発電所の元会長の勝俣恒久、元副社長の武黒一郎、元副社長の武藤栄の3人の被告に対して、事故の責任を問う裁判です。
2日間、傍聴しました。
●入廷まで
 この裁判の前回の傍聴記でもお伝えしましたが、傍聴人に対する入廷前の安全検査は、やはり異常なほどの入念さで行われました。
その有様を、もう一度記します。
 傍聴は希望者が多数なので抽選が行われ当たった人が、当たり番号が記された抽選券を持って、裁判所に入館します。
手荷物をX線探知機に通し、本人も金属探知機のゲートを潜ります。
これは空港での搭乗時の安全検査と同じです。
 手荷物を受け取って、104号法廷に向かいます。
法廷入口手前の廊下で待機している係官に当選番号の記載された抽選券を渡し、傍聴券を受け取ります。
 今度はそこで傍聴券を見せて手荷物を預け、預かり証の札を受け取ります。
入廷の際に持ち込めるのは筆記用具、財布、ちり紙、ハンカチだけですから、手荷物を預ける際には、それらを鞄から出して手に持ちます。
そして安全検査を受けるのです。
 さてこの安全検査が酷いのです。
手に持った筆記用具などを係官が差し出したトレーに入れると、別の係官が金属探知機で体の前面と背面を検査し、腕時計は文字盤の側と留め具の側と両面を確かめます。
金属探知機での検査は通り一遍ではなく、頭上から足元まで、開いた両手の肩から指先まで、“バカ”丁寧にあたります。
次に女性は女性係官の、男性は男性係官の前に進み係官が両手の平で体に触って(もちろん衣服の上からではありますが)チェックするのです。
首筋に触られ首から胸腹部、背中側も触り胴回りも手でぐるりと触り腕も肩から手首まで、両足も腿から足首までを手で触れての検査です。
 こうした検査を受けるのもこの裁判を傍聴するようになってからのことで、もうこれまで何度か受けていますが、最初の時よりも更に時間をかけて念入りな検査になっているように思えます。
一言で言えば非常に心地悪い、不愉快な検査です。
最初の時に係官に「いつもこうですか?」と尋ねたら、「裁判官からのお達しです」と返事がありました。
女性係官の制服は紺色で、同じ紺色のケピ帽(円筒形の胴に平らな天辺、水平の庇がついた帽子)をかぶっています。
男性係官は帽子は被らず、制服は国防色(古い言葉ですが、なぜかここではカーキ色とか濃緑色と呼ぶよりも、こういう呼び名が思い浮かびます)で、それもとても気持ちが悪いです。
こんな色の制服を着た、がたいの大きな男たちが10人ほど立っているところで入廷まで待つだけでも、気持ちが悪いのです。
彼らは裁判所の職員なのでしょうか?
女性と男性では制服の色も形も違うので、所属も違うのかもしれません。
 国防色の制服の一人に「ずいぶん念入りな検査ですが、やり方にマニュアルがあるのですか?」と問うと、「はい、あります。その通りに実行しています」と得意満面で答えました。
 この日はこうした検査法に、抗議の声もずいぶん上がっていました。
弁護士や検事経験のある議員に、この様子を見てもらったらいいのではないかという声も上がりました。
民主主義国家とは思えない、異常な安全検査です。

●10日、第5回公判
 第5回公判の証人尋問では、東電の現役社員の高尾誠さんが証言台に立ちました。
高尾さんは東京電力本店の土木部門で、津波や活断層の調査を担当していた人です。
検察官役の指定弁護士、神山啓史弁護士の質問に高尾さんが答えていきました。
*高尾さんの話
 推本(地震調査研究推進本部)が2002年7月に発表した長期評価では、福島沖の日本海溝沿いでマグニチュード8級の津波地震が起きうると予測し、津波高は15,7mと計算していたが、高尾さんたち東電本社の土木調査グループは2007年11月以降、津波対策(福島沖M8級地震への対策)をとろうと考えていた。
2007年7月の中越沖地震で東電柏崎刈羽原発で火災が発生し、東電が批判にさらされたが、この時の記者会見に高尾さんも臨んでいた。
 推本の長期評価は地震学者のアンケートでも過半数が支持をしていたことなどから、東電土木グループも長期評価を取り入れて、確率論で研究を進めていた。
推本の長期評価を他の電力会社も検討しており、東通原発の設置許可申請でも長期評価を取り入れていた。
 2008年2月の社内「御前会議」で、津波対策について長期評価の報告をした。
(注:神山弁護士の「なぜ御前会議と呼ぶのですか?」の質問に高尾さんは「勝俣社長が出席する会議だからです」と答えた)
その場で決まらずに、15,7m津波高について土木部会に4つの宿題が出された。
そのことから、上層部も対策を前提に進めていると高尾さんは考えていた。
ところが2008年7月に開かれた前回出されていた宿題について話す会議は、僅か50分という短さで、そこでは質問もせずにただ聞いていただけだった武藤副社長が、最後の数分で「研究を実施しよう」と、津波対策の先送りを告げた。
それまでの状況から当然津波対策を進めると予想していたのに、このような結論になって、頭が真っ白になり力が抜けた。
 上司の酒井俊朗さんは他の電力会社に。推本の長期評価を取り入れるには時期尚早と考えると伝えた。

☆10時から5時まで、途中昼休みと午後に1回の休憩を挟んで長帳場の法廷でしたが、
東電の土木グループ技術者は、津波対策を検討しその旨上層部に報告したにも関わらず、それが反故にされたことが明らかになった法廷でした。
 昼休みや午後の休憩を終えて再度入廷する際には、上記したような安全検査を再度受けるのです。

●11日、第6回公判
 11日もまた高尾誠さんの証人尋問でした。
午前中、そして午後の前半は検事役の神山弁護士が質問しました。
午後の後半は、被告弁護側の宮村啓太弁護士が質問しました。
*神山弁護士の質問への高尾さんの話
 2010年8月に東電社内に「福島地点津波対策ワーキング」という組織が作られた。
これは本店の吉田昌郎部長(原子力設備管理部)のもとに、土木調査グループ(高尾さん所属)、機械耐震技術グループ、建築耐震グループなど津波対策に関わる部署が参加して立ち上げられた組織だ。
 これは高尾さんが2009年に一度提案したが上層部の拒否にあい断念していたが、改めて立ち上げた組織だ。
2008年から検討されていた津波対策は、各部署がバラバラにそれぞれ自分の部署に関わる仕事内容で検討していたのを、高尾さんは全体が判る人がキャップになって有機的に結びつけて検討する必要があると考えて上司に進言したのだが、それは不要だと拒否されて甘受するしかなかった。
 2010年に高尾さんはグループマネージャーになり、直属の上司らも交代していたので、再び高尾さんはワーキングを提案し、受け入れられて発足した。
 平安時代に起きた貞観地震(マグニチュード8,4)の津波堆積物を解析した佐竹論文は、貞観地震は福島県沖で起きたと推定していた。
この論文を入手した東電は、この地震による福島第一への津波高は9m前後になると計算した。
高さ10mの敷地にある原子炉建屋までは津波は遡上しないが、海岸沿いにある非常用海水ポンプは水没して機能しなくなることが判った。
 東電は「まだ研究途上で、どこで地震が起きたか確定していない」として、津波想定に取り入れないことを決め、東北電力など近くに原発がある電力会社に伝えた。
女川原発の津波想定に、佐竹論文を取り入れることを決めていた東北電力は、報告書にこれを取り入れるのは不都合だろうかと東電に問い合わせた。
東電は「同一歩調が望ましい。女川では貞観津波を想定するというのなら『参考』として提示できないか」と東北電力に伝えた。
 東北電力は東電の言う通り、貞観津波については「参考」とした。
東電は他社の津波想定を自分たちの水準まで引き下げようとし、他社もまたそれに従ってしまった。
*宮村弁護士による反対尋問
 2002年の推本による長期評価での津波地震の津波よりも東日本大震災時の津波の方が大きいから、長期評価に備えた対策では事故は防げなかったと言う被告の主張に沿った尋問で、また津波も南側からしか寄せないと主張するもので、これらの質問からは新たな事実は示されなかった。

●次回第7回公判は4月17日です。
第7回の証人尋問も、高尾誠さんが証人台に立ちます。
次回の公判で、更に明らかにされていくと思います。
 私は15〜18日と沖縄に行くので17日の傍聴はできないのですが、福島原発刑事訴訟支援団FBで、公判の様子を理解しようと思います。
 沖縄行は那覇のブックカフェ「ゆかるひ」オーナーの友人に、チベットと福島のことを話しての依頼を受けて行くのですが、チベットと福島そして沖縄は、私の中ではその根は分かち難く一つのものと思えてなりません。
トークの会に参加した方たちと、また思いを一つにできたらと願っています。
●明日14日は国会前へ!
 *14時から「総がかり行動実行委員会」集会
 *その後「未来のための公共・元SEALDS」による集会
 *18時から「アベ政治を許さない」キャンドル・デモ
国会前でお会いしましょう!!                

いちえ

 


2018年4月9日号「4月6日・7日のこと」

 前便で31日に飯坂温泉で会った青年、樹(イツキ)君のことを書きました。
多くの方から、お返事をいただきました。
私自身が、“今時の若者”の考え方と言うか、在り方あるいは生き方にとても衝撃を受けたのですが、先週末に参加した催しで、また新たに感じることがありました。
そのことを記したいと思います。
◎「アラヤシキに水車をまわすプロジェクト」報告会
 6日(金)の夕、ポレポレ坐で件名の催しが開かれ、参加しました。
●このプロジェクトについて
 本橋成一監督の映画『アラヤシキの住人たち』を、ご覧になりましたか?
その映画は、長野県小谷(オタリ)村の真木共働学舎の暮らしを描いたドキュメンタリーです。
 住民が離村して茅葺屋根の民家が点在した真木の集落に、故宮嶋真一郎さんが「競争社会よりも協力社会を」と始めた共働学舎では、障害がある人も社会に適合しにくい人も共に助け合って自給自足の暮らしをしています。
彼らの生活拠点は茅葺屋根の古民家ですが、そのうちの1棟が2014年の地震と翌年の大雪で倒壊し、調べると他の古民家も修繕が必要なことがわかりました。
 周囲には植林された杉など木はありますが、丸太のままでは使えないので製材する必要があります。
真木は車では行けず、峠を二つ越え1時間半かけて徒歩でしか行けない地域です。
製材機は高価なうえに運搬も不可能で、そこで思いついたのが沢水で水車を回して行う製材法でした。
それがこのプロジェクトの始まりです。
 伝統的な木造建築に携わる大工さん、左官屋さんなどの助けや指導を仰ぎながら、真木の住民たちは自分たちの手で水車を完成させました。
そしてこの日にポレポレ坐で、その報告会が開かれたのです。
●報告会で
 真木には若い家族もいて子どももいますが、そこには学校はありません。
学校教育は子どもの成長にとって絶対的に必要なことだろうか、それよりも真木の暮らしの中でこそ大切なことをたくさん学べるのではないかという発言を、もうじき就学年齢を迎える子どものいるアラヤシキの住人に、このプロジェクトで棟梁として関わってきた人が投げかけたのです。
 アラヤシキの人たち、水車づくりに関わった人たちの報告を聞いた後で、参加者から感想や質問が出ました。
私の胸に深く残った発言がありました。
 参加者は50人ほどいたでしょうか、始めに進行役のアラヤシキの伊藤さんが「共働学舎を知らない方は?」と参加者に問いかけた時に、一人だけ手を挙げた人がいましたが、私の胸に残ったのは、その人の発言です。
「共働学舎を知らないとたった一人手を挙げた僕ですが、今日はアラヤシキに行ったことがある友人に誘われて来ました。
僕は学校に行ったことがありません。
いま39歳ですが、学校に行かなくてもちゃんと大人になれます。
ちゃんと働いているし、普通に生活しています。
 僕の親は団塊世代で、僕は団塊ジュニアです。
団塊世代が日本の経済発展を担ってきたけれど、僕たちジュニア世代は違う形でこれからを担っていくだろうと思っているし、実際にいま各地で起きている再生可能な暮らしなどの取り組みも、その世代が先駆けているのではないだろうか」
言葉は違ったかもしれませんが、彼はそのような発言をしたのでした。

◎「OKINAWA1965」上映&トーク
 7日(土)、平和と労働センター・全労連会館で、件名の催しがあり参加しました。
●ドキュメンタリー映画「OKINAWA1965」上映
 この映画は、1982年生まれの双子の兄弟、都鳥(トドリ)拓也・伸也さんが、企画・製作・撮影・監督した作品で、「米軍占領下で、戦争も基地もない沖縄を目指した人々の想いをいま、見つめなおすー」映画です。
 映画の冒頭に1965年4月20日に写真家の嬉野京子さんが撮影した1枚の写真が出てきます。
小さな女の子が米軍のトラックに轢き殺されたときに撮影された写真です。
嬉野さんは、祖国復帰行進団と共に本島最北端の辺戸岬を目指している時に事件に遭遇し、米兵に隠れて撮影したのですが、後にこの写真が沖縄の現状を日本全土に広く伝えるようになりました。
 “沖縄のガンジー”として知られる阿波根昌鴻さん、元海兵隊員のアレン・ネルソンさんをはじめとして、沖縄の人々の想いを記録しています。
沖縄の戦後はまだ終わっていない。
求めるものは辺野古新基地建設断念、すべての基地の廃止。
そして平和な未来—。
 声高に叫ばないけれど、静かに深く訴えてくる映画でした。
6月末から渋谷のアップリンクで公開上映されるそうですから、ぜひご覧いただきたいと思います。
自主上映も進めているようですから、ぜひ上映会も企画なさってください。
公式サイトは http://lonngrun.main.jp/okinawa1965/ です。
●上映後のトーク
 嬉野京子さん、都鳥拓也さん、伸也さんの3人が、この映画について、沖縄について語り、また参加者からの質問に答えました。
嬉野さんの発言も胸に刻みたいことばかりでしたが、ここでは若いお二人の言葉の中からお伝えします。
 都鳥兄弟が沖縄に関心を持ったきっかけは、ウルトラマンだったそうです。
子どもの頃に大好きだったウルトラマンの企画者の金城哲夫が沖縄出身だったこと、修学旅行で沖縄に行ったことから沖縄に関心はありましたが、復帰運動や反基地闘争などについてはほとんど予備知識はなかったそうです。
映画の製作を通して、人と出会い、言葉を記録していきながら沖縄の未来やこれからの日本を深く考えていくようになったと言います。
 参加者からの「問題に無関心な若者に、どう関心を向けさせたら良いのか」という質問に、彼らは答えました。
「自論を振りかざさず、相手の興味があることや好きなことなど、間口を広くして伝えていけるのではないか。
音楽が好きなら音楽の話からなどのように。
この映画もナレーターは小林タカ鹿さんがやっているが、彼のファンはたくさんいて、岩手で上映会をやった時(都鳥兄弟は岩手出身)、関西から来たタカ鹿ファンが居た。
平和運動の裾野を広げるには、基地問題を知らなかったり何が問題か判らないでいるフラットな立場の人たちも関心を持ってくれるような働きかけが大事ではないか」

*ポレポレ坐での39歳の男性の言葉、都鳥兄弟の言葉、これらは先日の美しい瞳の青年との会話を思いおこす時に、示唆に富む言葉だと思えました。
なおこれからも私は、若者たちへ語りかける言葉について考え続けていきたいと思います。           

いちえ  


2018年4月9日号「4月1日長野」

◎「福島第一原発事故から7年 被災地・避難者・元原発労働者の今」
 長野市のふれあい福祉センターで、件名の講演会が開かれました。
主催は「フクシマを忘れない!市民集会実行委員会」で、ここに「たぁくらたぁ」も関わっています。
講師は今野寿美雄さんで、私はゲストでした。
●今野寿美雄さん講演
*避難者支援
 2011年3月11日は、出張で女川原発に居た。
地震が起きたのは仕事が終わって構内から引き上げ準備中で、その時に津波が来るのを見た。
ようやく宿舎に戻り、地震と津波の惨状の中で被災者の支援に当たった。
東北電力は被災者を発電所の体育館施設に避難させた。
女川原発は非常用電源が損傷を受けなかったので軽油で稼働させ、電気はあるし水もある、食料の備蓄もあるので、東北電力はそれらを避難者へ支給した。
ヘリで支援物資が運ばれて来ると、帰りのヘリには病人を乗せた。
その頃、余震はしょっちゅう起きていた。
米空母ロナルド・レーガンからも、トモダチ作戦での支援物資が届いた。
携帯もつながらず家族の安否も確かめられないまま、14日まで女川で支援活動を続けていた。
また道路も復旧していなかったので、浪江町の自宅に戻ることもできなかった。
*ようやく女川脱出
 15日朝に、仮設の道路が復旧したので帰宅の希望を所長に伝えると、原発事故で女川の線量もかなり高く危険だから外へ出るなと言われたが、家族が心配だからと言って、ようやく女川を脱出できた。
同僚たちと会社の車で出たが、途中で家族は茨城の古河の親戚の家に避難していて無事だということが判った。
浪江の自宅によって自分の車に乗り換えたかったのだが、4号機の爆発で浪江に入ることはできず、そのまま同僚と郡山まで行き、そこでみんなと別れた。
この朝から、新幹線は那須塩原までは通じるようになっていたのだが、郡山から那須塩原までどうやって行こうかと案じたが幸い郡山の駅前にタクシーがあり、それで那須塩原まで行った。
那須塩原について発車寸前の新幹線に飛び乗って、途中で在来線に乗換えて古河に着いた。
*「パパ生きてる。足がついてる」
 古河の駅には家族が迎えに来ていて、息子は顔を見るなり「パパ生きてる。パパ足がついてる」と言った。(この話を聞くと、私はいつも胸が詰まります。この日もまた)
そのときの格好は作業服のままで、ヒゲも伸び放題、復員兵みたいな姿だった。
家族たちは親戚宅で世話になっていたが、その家も一度に大勢が居候で大変だった。
こちらも気を使って居づらかった。
そこにいては浪江の情報もわからないので、役場が避難している二本松の東和に毎日通って友人知人の安否確認をしたり、避難所の情報を得たりした。
*男たちは親戚宅を出て
 古河から東和には4日間通い、その間に一度浪江の自宅に自家用車を取りに行った。
妻子と義母は親戚宅に4月初旬まで居させてくれるよう頼み、男たちは二本松に行き避難所の炊き出しと、避難者支援に携わった。
支援物資で支給されたのはカレーヌードルとピーナツバターパン、メロンクリームパンで、カレーヌードルは始めのうちは熱いお湯が注がれるから良いが、後の方になるとお湯も温くなっているし、パンも飽きて今でもそれらは見るのも嫌なくらいだ。
 二本松にいる間、夜は自分の車でシートをリクライニングにして、車内泊をしていた。
これが後になって体調の異変を生んだ。
 半年後、飯坂温泉に避難してからのことだが、鼻血が出るようになった。
目覚めて顔を洗おうと洗面所に行くと、突然ドバッと鼻血が出ることが1ヶ月に二回くらいあって、それが2年ほども続いた。
二本松の避難所で車中泊をしていたとき、朝起きると車のフロントが杉の花粉で真っ黄色になっている日が続いていたが、その時期の杉花粉には放射性物質がたっぷり付着していたわけだから、車で寝ている間にその放射性物質を吸い込んでいたのだろう。
*猪苗代町へ避難
 県内各地の温泉が避難所になったので、1ヶ月で二本松の避難所を出て古河の親戚にいた家族も共に、猪苗代町の旅館に避難した。
そこで出された白飯と味噌汁の美味しかったこと!!
8月いっぱい猪苗代町に居た後で、飯坂温泉に移った。
旅館の従業員宿舎を借り上げ住宅として、そこに入った。
 鼻血が出るようになったのは飯坂温泉に避難してからだが、その頃から息子の体調にも変化が起きていた。
しょっちゅう風邪をひくようになった。
毎月2回も風邪をひくような状況が2年も続いた。
3月12日原発事故後、浪江の人たちは山間部の津島地区へ避難し息子も皆と一緒にそこへ避難していたが、そこでは外で遊んだり降り積もった雪を食べたりしたと言う。
甲状腺に異常はなかったが、免疫力が低下していたのだろう。
*全てが隠される
 避難した子どもはまだ良い。
避難しなかった中通りの子どもたちに、甲状腺ガンが多く出ている。
県が公表したのは194人という数だが、実際には大人も子どもも合わせて3,000人以上の甲状腺ガンが出ている。
この194人という数もカラクリがあって、県は2年に一度しか検査をしないが、はじめの検査で経過観察となった子どもは、カウントの対象にならずその後の結果が公表されない。
7割くらいが転移して、1割くらいが再発をしているのに。
 国も東電も県も、情報はすべて隠す。
県民健康調査課、避難支援課などあるが、浪江町の役場には県職員が出向してきている。
県が県民を守ろうとしない。
元厚生省の医療官僚が県民健康調査をしている。
*低線量被ばくの影響
 成長期にあるので、子どもの甲状腺ガンは転移しやすい。
チェルノブイリでは、あれからもう32年経つが、現在もまだ健康への影響が出ている。
 福島でも脳疾患、心疾患、糖尿病、白内障などが増えているし、突然死が増えている。私の同級生も3人が、突然死した。
3人ともまだ50代だ。
 また原発で働いていた会社の先輩3人も、一人は脳疾患、もう一人はガン、もう一人は原因不明だが、3人とも定年前に亡くなった。
 そしてまた友人の一人は60歳でガンで亡くなり、奥さんは52歳か53歳だったが、夫が亡くなってすぐ白血病で亡くなり、中学生の女の子が一人残された。
その子は親戚に引き取られた。
 本当に亡くなっていく人が増えている。
被ばくの影響で病気になったと証明できないのが現状だが、低線量被ばくはジワジワと体を蝕んでいく。
 政府は年間被ばく許容量を1ミリシーベルトとしているが、福島だけは20ミリシーベルトにしている。
原発労働者は手帳を持っていて年間の被ばく量を管理されているが、私は最大で年間12ミリシーベルトの被ばくをしたことがあった。
各メーカーや事業者は年間15ミリシーベルトを基準にしているのに、国はそれより高い20ミリシーベルトにしている。
原発で働く労働者よりも高い数値を基準にして、そこに子どもたちを帰還させている。
とんでもないことですよ!
*被ばくの恐ろしさ
 崎山比早子さんというDNA研究の第一人者に教わったが、被ばくがなぜ危険かというと、DNAを損傷するからだ。(今野さんは白板に図を描きながら説明しました)
細胞内で遺伝子情報を持つDNAは螺旋状に連なっていて、そこにはG=C、T=Aと4つの塩基がそれぞれ互いの相手と結びついて突起になっている。
細胞内を放射線が通過するときに、この塩基の鎖が一つ切れたら塩基はまた繋がるべき相手の塩基と結びついて修復されやすいが、鎖が二つ切断されたら繋がるべき相手の塩基を誤ってしまい、それがDNAに異変を起こしガンを発症する。
*子ども脱被ばく裁判
 崎山さんは「子ども脱被ばく裁判」の闘争を支えてくれている、良心的な研究者だ。
この裁判の原告は200人以上、60世帯以上で、私の息子も原告で、私は原告団長になっている。
子どもが原告席にずらっと座る、こんな裁判は他にないですよ!
子どもたちが意見陳述するんですよ!
これは「子ども人権裁判」と「親子裁判」の二つを合わせた裁判で、懲罰的裁判だ。
被告は、東電ではなく行政で、10万円の賠償をせよと争っている。
*真逆の研究者
 現在福島大学農学部は、汚染地でどういう作物ができるかを研究している。
県立医大では献体バンクで、研究のためという名目で献体の売買をしている。
甲状腺切除すると、患者が求めても切除した甲状腺を戻そうとしない。
医大はデータが欲しいからだ。
出産期医療では妊娠何周目かで、染色体に以上があると言われ、堕胎させられている。
あの“ダマシタ(山下俊一のこと)”は、「福島は世界最大の実験地だ」と言っている。
県内の道路はドンドン直し、新しい道路も作っているが、それは汚染土を搬出するためだ。

 今野さんの講演の後で休憩を挟んで、今野寿美雄さん×渡辺一枝のトークと質疑応答で集会を終えました。
会場には70人を超える方が参加して、今野さんの話に熱心に聞き入っていました。
また、信濃毎日新聞社が取材に来ていて、翌朝の紙面に今野さんの講演の様子が掲載されました。
新聞記事を添付します。                   

いちえ

信濃毎日新聞18.4


2018年4月8日号「14日は国会前へ」

 4月3日は「アベ政治を許さない」スタンディングの日でした。
この日は汗ばむほどの陽気でした。
集まった仲間たちは、あまりに酷いアベ政治に心に怒りを燃やして立ちました。
この日、澤地さんから14日のキャンドル・デモが提案されました。
14日は午後2時からは「総がかり行動実行委員会」による集会、その後に「未来のための公共・元SEALDS」による集会が予定されています。
私たち「アベ政治を許さない」キャンドル・デモは、それに続く集会です。
どうぞご参集ください。                    

いちえ

 アベ政治の暴走を止めるのは私たちの義務であり、権利でもあります。
国会議事堂前、そして各地の「アベ政治を許さない」キャンドル・デモにご参加ください。         

澤地久枝

キャンドルデモ 8日 ちいさな ちらし  docx

 


2018年4月8日号「美しい瞳の青年に会いました」

 31日の晩のことでした。
夕食のために入ったのは、「寿司・居酒屋」と看板に掲げた店でした。
カウンターの隣席に一人の青年が座りました。
青年はメニューを見て、ビールといく品かのつまみを注文し、「お寿司屋さんだけど、白いご飯を頼めますか?」と主人に尋ねていました。
「ご飯が食べたいの?いいよ」と答えを聞いて青年は、チゲ鍋とご飯を追加しました。
主人が青年に「どこから来たの?おと酔いで来たの?」と尋ねると、目を輝かせて「はい」と答える青年でした。
 この日は飯坂温泉では、「ミュージックフェスティバル おと酔いウォーク2018」という催しが開かれていたのでした。
青年は、贔屓にしているバンドがこのイベントに出演するので、東京から来たそうです。そのバンドを追いかけているそうですが、バンドが飯坂の「おと酔い」に出演するのは初めてで、だから青年も飯坂に来たのは初めてだと言いました。
 注文の品と共に、大きな丼に盛られたホカホカの白飯が青年の前に置かれました。
美味しそうに食べながら青年は、今野さんと私が明日の長野での講演のことや、東電や政治のことなどを話しているのを興味深げに聞き入っていました。
ご飯を食べ終えて、ビールを飲む青年を交えての会話になりました。
 彼は静岡の出身で学芸大学の3年生、卒業後は郷里の静岡に帰って、特別支援学級の先生になりたいのだと言います。
なぜ特別支援学級の先生になりたいのか尋ねると、小学生の時にクラスにそういう友達がいたことや、その時の担任の接し方に感銘を受けて自分もそんな先生になりたいと思ったのだと言います。
キラキラと輝く瞳で、夢を語る青年でした。
 彼の名前は樹(いつき)君、「いい名前ね」と言うと「ありがとうございます。母がつけてくれました」と、輝く瞳で答えるのでした。
けれども、あまりにも彼は世の中のことを知らないのです。
元文科省の事務次官前川さんのことも知らず、連日報道されている森友問題のことも、まるで知らないようなのです。
原発事故は彼が中学生の時で、事故が起きたことは知ってはいても、それは一過性の出来事で、もう「終わった」と思っているのです。
 話しているうちにお腹が空いたのか彼はまたメニューを見て、ちらし寿司を注文しました。
店の主人も今野さんも私も、ひょろりと痩せている彼がそんなに食べられるかと驚きましたが、でも彼は注文のちらし寿司をおいしそうに気持ち良く平らげたのでした。
主人も今野さんも私も、その食べっぷりの良さに感心し、「美味しそうに食べるねぇ」と今野さんは言い、主人は「さっきご飯も食べたよねぇ」と言い、私は「育ち盛りなのね」と言い、樹君は悪びれずに「僕、ご飯が大好きなんです」と答えたのでした。
でも彼があまりにも世間知らずというか、世の中の動きに疎すぎることに、私は不安を覚えました。

 数年前に白馬村の木村紀夫さんの「深山の雪」のイベントで、信州大学の学生たちと話した時のことを思い出しました。
数人の男女学生は、ボランティアで木村さんの活動に関わっていたのです。
夕食の後でなんの話からだったか、「たぁくらたぁ」の野池さんが彼らに聞きました。
「どんな本を読んでいるの?」
彼らが異口同音のように言ったのは、本は読まないということでした。
「暇つぶしは他にたくさんあるので、本は読みません」と言う言葉を聞いて、「たぁくらたぁ」関係のおじさん、おばさんは驚いてのけぞりました。
「たぁくらたぁ」の村石さんが「ガールフレンドやボーイフレンドとは、どんなところでデートするの?」と聞くと、「映画に行くことが多いです」と答えが返りました。
でもその理由に、おじさん、おばさんたちはまたビックリです。
「映画館に行けば2時間なり1時間半なり、一緒にいても話をしないで済みますから」
今時の若者たち、これで大丈夫なのか?と、本当に驚きました。

 好きなバンドを追っかけて、交通費がかからないように在来線を乗り継いで東京から飯坂まで来て、一人で居酒屋の暖簾をくぐった樹(いつき)君の心意気や良し!
でも彼には、数年前の信州大学の学生たちに感じたような不安を覚えます。
ガールフレンドはいるの?と聞くと居ない答え、「両親を見ていて一緒に暮らせる人がいるのはいいなと思うからガールフレンドがいたらいいかなとは思うけど、気が合う人がいるかどうかわからないし…一人でも別にどうということないし…」と言う樹くんでした。
 今野さんは原発事故がもたらした被害や、被災者たちが起こしている裁判のことなどを話し聞かせ「新聞をよんで、世の中のことを知ろうとしなきゃだめだよ」と言い、私は「イツキ。お母さんがつけてくれたいい名前ね。大木にならなくてもいいから折れない木になって欲しいな」と言って、別れました。
 今時の若者たち、と一言で言ってはいけないかもしれません。
けれども樹君のような、素直だけれど、外の世界に関わろうとせず、従って世の中に対して怒りも憂いもなく、自分の趣味の世界だけに心を向けている若者が多いことが気がかりです。                            

いちえ


2018年4月7日号「3月31日南相馬」

 南相馬鹿島区の寺内塚合仮設住宅に行きました。
今野寿美雄さんに、同行をお願いしました。
●天気晴朗なれども…
 前もって天野さんと相談をして、天気が良ければお花見に行きましょうと話し合っていたのです。
天気は上々、絶好の花見日和です。
小高神社や飯崎の垂れ桜、小高川土手の桜も咲いたことでしょうと心は弾んで欲しいのですが、なんだかこのところ頭の回転が“超”鈍くて、この朝は“超”の前に“ど”がつくほどのボンヤリといった状態でした。
新幹線の車中で天野さんから「いまどこ?お昼食べないで来るでしょ?ここでみんなで食べていこうね。おにぎり買って待ってるからね」と電話が入りました。
その声に気合を入れて、仮設住宅に向かったのでした。
●通り一遍の記事の掲載
 土曜日はデイサービスがない日なので、“社長“の菅野さん”営業部長“の天野さん、それに山田さんと、いつもの3人が揃っていました。
12日の新聞に菅野さんの写真入りでインタビュー記事が載っていたので、菅野さんにそれを伝えると「え〜、新聞でたの?」と言うのです。
そう聞いて私の方が「えっ?新聞送ってこなかったの?」と驚き、聞き返したのでした。
取材を受けた時の写真は送られてきたそうですが、掲載紙は送られてこなかったというのです。
11日は東日本大震災から7年目ということで各紙が被災地に取材に入り、翌朝の紙面には、それらの記事が載っていました。
菅野さんの写真が載ったのは、そうした記事の一つでした。
私はそれを読んで、11日は日曜日だから談話室には誰も居ない筈なのにと、少し違和感を感じたのですが掲載紙が送られてこないことを聞いて、この取材者の態度に疑問を抱きました。
 土曜日にはみんな談話室に集いますから、前日10日にはみんなここに居ました。
そこへ若い女性記者が来たそうです。
「初めて来たのですがどこにも誰もいなくて困っていたのですが、ここに人がいるのが見えたので」と言い、7年目となる翌11日に改めて取材をさせて欲しいと頼まれたのだそうです。
それで11日の日曜日午後に、わざわざみんな、ここに来たのです。
あの日地震が起きた時刻、2時46分にはサイレンが鳴ります。
みんなはサイレンが聞こえると合掌しましたが、記者はそこを写真に撮って記事に載せたのでした。
菅野さんが合掌した写真には「この日が来るといつも思い出して悲しくなると言って涙を流した」とキャプションが付けられていました。
 私はあの年の夏からここに通い、天野さんが涙を流す場面はしばしば見ていましたが、菅野さんが泣くのは見たことがありません。
それも記事を見て私が違和感を覚えたことの一つでした。
私が「新聞には菅野さんが泣いたと書いてあったよ」と言うと、菅野さんは「泣かないよ。サイレン鳴ってこうやって手合わせたから、泣いてると思ったかな」と言い、天野さんも山田さんも「菅野さんは泣かないわよ」「んだな、泣かない人だわ」と。
 2日続けて取材したのなら、7年経ってもまだ仮設住宅に人がいることや、菅野さんのように新居で暮らしていても友人たちのいる仮設住宅へ通ってくる理由など、被災者が抱える“今”を記事にして欲しかったです。
そうした視点を忘れて、7年前のあの日を振り返るだけの通り一遍の記事では、被災地・被災者の今は伝わらないと思いました。
●見頃の桜
 お昼ご飯を済ませて、出かけました。
飯崎のしだれ桜も、小高神社の桜も、ちょうど見頃でした。
4年前にも天野さんたちを、こうしてお花見に誘ったことがありました。
友人たちを案内して仮設住宅を訪ね、レンタカーを2台で動いていたので座席が十分でしたから、急遽お花見に行こうと出かけたのでした。
まだみんな今よりも元気で、仮設住宅を出てからすぐの所にある石屋さんの前を通ったときには、菅野さんや天野さん、山田さんもそれぞれ自分の家の墓石のことを話し始めて「これからお花見に行くのにお墓の話なんかして」と言って大いに笑ったのでした。
 でも今日は菅野さんは花見行の車に乗らず、談話室に残りました。
ちょっと動いても腰が痛くて辛いというのです。
数日からのことだそうですが、痛み止めの内服薬・湿布薬を処方してもらい、それでも辛くて痛み止めの注射をしてもらっているそうですがそれも効き目は2時間ほどだそうです。
行って帰ってくるまで効き目がもたないだろうと、途中で痛みが出たら困るからと、一緒に出かけられませんでした。
4年の歳月は、確実に体調に現れています。
飯崎の見事なしだれ桜も、山田さんも天野さんも車の中から眺めるだけで降りようとはしませんでした。
小高神社では車から降りましたが、山田さんは少し高い石に腰掛けたまま桜を眺めていました。
天野さんは神殿の周囲の小さなお社の一つ一つに、二礼二拍手でお祈りをして回りました。
小高川の土手の桜は冷たい川風が当たるからでしょうか、まだ開花していませんでした。
●ミッちゃんの家
 天野さんが「昨日ミッちゃんから電話が来たから、明日は一枝さんと小高に行くよって言ったら、それじゃぁ一緒に家に来てって言ったから、ミッちゃんの家に寄りたい」と言いました。
ミッちゃんというのは、4年前まで談話室で一緒に過ごしてきた仲間の紺野光子さんのことです。
ミッちゃんが仮設を退去してから、私はずっと会っていなかったのですが、2月に来た時に、たまたまミッちゃんも夫婦で談話室を訪ねていて、久しぶりに顔を合わせたのでした。
談話室の6人衆の中で一番若く私と2歳しか違わないミッちゃんですが、久しぶりに会った彼女は杖にすがって歩いていたので驚きました。
その時に自宅での暮らしを少し聞いていたので、家を訪ねるのを嬉しく思いました。
 小高神社を出てから天野さんは、今野さんにミッちゃんの家がある場所を教えました。
「この橋を過ぎるともう一つ橋があるから、そこを右に曲がって左に行ったとこ」という教え方でも、土地勘のある今野さんなら迷わずその方向へ進んだのです。
ところがもう一つの橋のところを右に曲がった道で、どこを左に行けばいいのかが判らなくなりました。
天野さんが言います。
「あれ、どこだったかなぁ?ここじゃないし、全然様子が変わっちゃったから、わかんなくなっちゃった」
何度か同じ道を行き来しても判りません。
諦めて帰りかけた時でした。
ミッちゃんから電話があって、それで場所がわかって無事に辿り着けたのでした。
 天野さんに限らず誰もが自分の地元の様子がすっかり変わってしまっているのに戸惑い、よく知っていた筈の地で迷子になったりしている被災地の“復興“した姿です。
この前も大留さんが、以前何度も入っていた場所なのにしばらくぶりで行った時には迷子になっていました。
“復興”はもちろん復元ではありませんが、それにしても辺りの様子をすっかり変えててしまうのが復興なんだろうか?と思います。
 辿り着いたミッちゃんの家では、ミッちゃんと連れ合いの安重さんが門口から道路まで出て、手招きしてくれていました。
●手入れの行き届いた庭
 被災後、門扉を外して納屋は作り直したそうですが、自宅は建具や壁紙を変えただけで他は被災前のままだそうです。
庭石を配した前庭はたくさんのイワヒバの間に福寿草が咲きツツジなどの小潅木が植えられ、斜面になっている裏庭には何十株もの水仙が花を咲かせ、ツツジ、紫陽花がそこかしこに植えられていました。
よく手入れされたお庭です。
原発事故後、小高区が立ち入り禁止の警戒区域になり、2012年4月16日から一時帰宅が認められるようになりました。
安重さんはその頃から、ちょくちょく帰宅して庭の手入れをしてきたそうです。
避難指示解除後にいち早く自宅に戻ったミッちゃん夫婦ですから、私はこの庭を見て安重さんが帰宅を急いたのかと思いましたが、そうではありませんでした。
●「おまかね、やってんの?」
 安重さんの話を聞いていた時に、食卓の向かいでは天野さんや山田さんがミッちゃんと話し、今野さんも女性たちの話を聞いていました。
安重さんが話す声に被さって、天野さんの声がふと、私の耳に入ってきました。
「“おまかね”やってくれんの?」
私の耳がピンと立って「“おまかね”ってなんですか?」と尋ねると、すかさず今野さんが「“まかない”のこと。食事の支度をまかないって言うでしょう。丁寧に“お”をつけて“おまかない”が方言に鈍って“おまかね”」と教えてくれました。
ミッちゃんは天野さんの問いかけに、「やんねぇ。1週間に2回くらい朝だけはやっけど、他はやんねぇ。私がやってる」と答えました。
 そしてこの時に私は初めて、ミッちゃん夫婦がいち早く仮設を退去して自宅に戻ったわけを知ったのでした。
 ミッちゃん夫婦には息子が二人います。
ミッちゃんたちが自宅に戻ったのは、次男が強く望んだからだったのです。
長男は結婚していて、もう成人している息子が2人います。
次男は脳性麻痺で体が不自由ですが知的な障害はなく、コンピューターを使っての仕事に従事しています。
彼が就学年齢に達した頃に小高には適切な学校がなく、親元を離れて福島市の施設に入所してそこで学校教育を受け、卒業後もコンピューター技術を習い身につけてきました。
その彼が望んだのは「お兄ちゃんはずっと両親の元で暮らしてきたけど、僕はお父さんやお母さんと離れて福島で過ごしてきた。」と言って両親と共に暮らすことを強く願ったからでした。
 長男家族と次男、そしてミッちゃん夫婦と7人家族で女手は長男の嫁とミッちゃんの二人、後の5人は男ばかりです。
天野さんがミッちゃんに「おまかねやってくれんの?」と聞いたのは、お嫁さんが食事の支度をしてくれているかと尋ねたのでした。
 この日はそれ以上の話は出ませんでしたし、家族の間にはいろいろ事情があることだろうと思います。
でも私にとってショックだったのは、談話室からミッちゃんの姿が消えてから4年も経ってから、早々の帰宅の理由を初めて知ったことでした。
狭い仮設住宅に居るよりも住み慣れた自宅に戻れば、体も元気で車の運転もできるから買い物や通院にも困らないし、昼間は畑の仕事もできるし、だから早く帰りたかったのだろうと思いこんでいたのです。
知ろうとしなかった自分を、恥じました。
●小高の一休さん
 私はこの日初めて、安重さんとゆっくり話をしたのでした。
お二人が仮設にいた時には、ミッちゃんとは仮設を訪ねる度に会っていましたが安重さが集会所や談話室に顔を出すのは何かイベントの時だけでしたから、話をする機会もありませんでした。
 地震でお隣との境の石垣が崩れたのを片付けるようにと市役所から言われたそうですが、安重さんは「石は確かに我が家のものだが土は市のものだから、土を市役所が片付けてくれ」と言って片付けさせたそうです。
そう聞いて私は、頓知の一休さんの問答を思い起こしました。
安重さんは他にもまだまだ話したいことが山ほどあって、私もまた今度ゆっくりお話を聞かせてくださいとお願いして、紺野家を辞しました。

 菅野さんは脚・腰がだいぶ弱っている、山田さんも歩くのはだいぶ大儀そう、ミッちゃんは杖が必要になった……、七年の間に、みんな確実に歳を取っています。
当たり前のことではあるのですが、そのことを強く感じた今回の訪問でした。


2018年3月18日号「警視庁機動隊沖縄への派遣は違憲 住民訴訟」

 3月14日、件名の訴訟第6回口頭弁論が、東京地裁第103号法廷で開かれました。
地裁前での事前の集会で原告代理人の高木一彦弁護士の挨拶が心に残りました。
「闘ってこそ明日がある」と言い、闘っても勝てるとは限らず負けることもあるが、闘うことで自分らの主張を広く訴えることができるのだと。
2日前の山城さんたち3人の裁判は不当な判決が出ましたが、山城さんや沖縄の人たちに連帯して、この裁判を闘うことを話されました。
 この日も傍聴希望者全員が入廷できました。
抽選券は配られましたが、ギリギリいっぱいで空席を出さずに済みました。
◎東京地裁第103号法廷
 裁判長から「今日は準備書面3」について陳述しますね」と確認された後で、原告代理人の弁護士が意見陳述しました。
●原告代理人弁護士意見陳述
 提出された「準備書面3」は46ページと長いものです。
ヘリパッド建設工事と、なぜ高江の住民が建設に反対するのか、反対住民らの行動の経緯を述べ、機動隊派遣の違法性を述べました。
派遣決定は手続き上からも違法であり、また派遣の目的であるヘリパッド建設工事そのものも違法であることを陳述しました。
ヘリパッド建設によって地元住民が深刻な被害を受けていること、沖縄本島北部の森林地帯「やんばる」の自然破壊についても述べました。
 警察官の権限行使の基本原則を示し、本件での警察活動がどのようなものであったかを述べ住民らに対して行われた暴行の違法性を陳述しました。
また取材の妨害や違法な道路封鎖についても陳述しました。
●原告本人:K・Mさん
 編集者として沖縄の絵本に関わったことから、住民の願いを無視した基地建設のことを知りました。
沖縄に行き地元の人と共に座り込み、機動隊員空暴力的な排除を受けて小指を骨折した体験を陳述しました。
このような自身の体験から自分が納めている都税が、違法に機動隊派遣に使われていることを看過するのは、自身が沖縄の基地建設に加担し機動隊員の暴力に加担することだと考え、原告になったことを訴えました。

*裁判長も左右の陪審も陳述する原告代理人、原告本人に顔を向け、また手元の準備書面に目をやりながら聞いていました。
 被告指定代理人、前列の3人は机上の書類に目を向けたままでしたが、後ろの席の2人は陳述する原告代理人に目を向けてしっかりと聞き入っているように見えました。
●被告指定代理人意見陳述
 訴えそのものを却下する。請求を棄却する。
原告らの求釈明(機動隊員らの超過勤務手当及び特殊勤務手当について、原告から釈明を求められている)について認否せず、金額を明らかにする必要も認めない。
●裁判長
 被告代理人に対して裁判長は、提出された準備書面に対して認否反論にとどまらず、事実関係をちゃんと書面で出すようにと言いました。
そして次回7回目の口頭弁論は5月23日、次々回は7月23日と言い渡しました。

◎閉会後の報告集会
●長尾弁護士
 話したことは、大きく分けて3つ。
一つはなぜ高江の人たちはヘリパッド建設に反対し、どうやって座り込んできたのか。
そして警視庁機動隊の派遣自体の違法性、環境破壊や住民の意思に反するなどを話し、また原則として沖縄県から要請されていくのが原則のところを、警察庁が前日に派遣を言ってそれに応じて行ったその手続きがおかしいと述べた。
基本的には自治体の警察であり、国の警察ではないのだからその原則を守るべきだと話した。
最後に高江で機動隊がやったことがおかしく、それについても主張・立証をしたいと話した。
●宮里弁護士
 今日の裁判員は最後に非常に重要な発言をしました。
機動隊派遣の必要性、相当性を明らかにしなさいと言いました。
さらに必要性、相当性があると考えた事実認識、我々は住民の正当な反対運動を抑圧するために機動隊が派遣されていると主張して、機動隊にこのような違法行為があったということを主張している。
一方で都の方は機動隊派遣に際してどのような認識を持っていたのか、現地の住民が誠に違法、不当な活動をしている不逞な輩だから抑圧するために派遣したとは、まさか言わないと思うが、それならどういう理由でわざわざ東京から機動隊を派遣したのか、都はその必要性、相当性を言わなければいけなくなった。
都は多分これは予想していなかった裁判所の反応ではないか。
我々は機動隊派遣の必要性、相当性はなかったとしているのに、都は必要性、相当性があるから派遣したと言わざるを得ない。
すると必要性、相当性とは何かという中身の論争が可能になってくるということで、この裁判にとって重要な展開があったのではないかと思います。
●青龍弁護士
 いま宮里先生の発言にあったように、この裁判の裁判長は最初から派遣の違法性について中身の事実関係を詳しく知りたい、判断したいという姿勢がうかがわれるような気がします。
 昨日、辺野古の基地差し止め訴訟では県が請求していた判決が、本案に入らずに門前払い、訴訟要件無しということで却下したという判決が出たので大変がっかりしているところだが、東京のこの裁判で基地建設の中身まで判断しようという姿勢が伺えて、あまり過度な期待はできないがこちらの主張を聞く耳を持っているので、これからもさらに主張、立証していきたいと思っています。
●高木弁護士
 もともと私たちが東京都の監査委員会に監査請求を出していたのに却下、調べる必要もない、住民監査請求に値しないから却下、これは昨日の那覇地裁と同じだ。
私たちがこの裁判を起こしているのは、「問答無用聞く必要ないとは、あんまりだ。事実調べをさせる」ということで論争を重ねた結果、基本的には前々回の裁判所の指揮で却下はしない、調べることを前提として前へ進もうとなった。
そして前回は具体的にどのような違法があるから給与の支払いが違法になるのかなど、これまでも蓄積していたことを説明しなさいとなった。
それで我々弁護士6人は総力を振り絞って、40数ページの準備書面を出した。
1週間前に出したので、それについて裁判官がなんらかのアクションをしたわけではないけれど、これについて被告に対してはちゃんと反論しなさい、木で鼻をくくったような態度ではダメです、あなたたちはなぜ派遣が違法ではないと考えるのか、その理由についてちゃんと説明しなさいと踏み込んだ。
門前払いではなく、中身について聞きましょうという裁判所の姿勢であることは間違いない。
 そこで次の課題は、いったい裁判所は何人の証人を採用するのかが次の山になる。
私たちは2人の元警視総監を含めて9人の証人を申請しています。
そういう人たちを全部調べてもらわないと、我々がなぜ今回の派遣が違法で、そういうものに給料を払うのは許されないというのか全部調べて欲しいとしている。
5月の期日に、今回私たちが出した40数ページへの反論が向こうから出て、裁判所はそれを読み比べながら、何人の証人を決めるかが7月なのかな?とすると証人調べがその次から始まるということで、9月以降に証人調べを始めるのではないかなと期待をさせる状況です。
 名護の市長選挙に続いて今回の那覇地裁の判決と、沖縄の人たちは本当に苦しい闘いを続けていらっしゃることと思い私たちは胸のつぶれるような思いでいますが、私たちは私たちの持ち場でできることを精一杯やっていくことが沖縄に対する連帯というだけでなく、日本の民主主義や平和の為に必要なことだと考えています。
ぜひまたお力添えください。
●意見陳述したK・Mさん
 短い文章でどれだけ話せるかと思いましたが、これに向き合う時、自分が加害者側にいることを忘れてはいけないと思いました。
だからこそ自分は自分なりに、自分の尊厳をかけて原告として闘っていることを伝えたくて陳述したつもりです。
聞いていただいてありがとうございました。
●前回の質疑応答について
 前回の報告会での質疑応答時に「機動隊はどういう風に機動隊になるのか」という質問が出ましたが、それについて解ったことをお知らせします。
 警視庁に就職する全員が、警察学校に入学する。
卒業後それぞれの警察署の地域課に配属され、交番勤務を1〜2年する。これはすべての警察官がここまではやることになっている。
その後、本人の希望などで配属される。
機動隊もその配属先の一つで、刑事場、訓練や総務課、鑑識などいろいろなところへ配属されるのが基本的なシステム。
いま東京都の警視庁の警察職員が43,566人で内、機動隊員が3,040人ということです。
神奈川県警は大体の規定がHPでアップされるのですが、警視庁は目的のところしかなく具体的なところは全部読めない。
神奈川の規定に沿って考えてみると、条例とか規則そのものには機動隊というのは出てこないけれど、警備部課で、警備第1課に機動隊は所属することははっきりしていて東京の場合は特殊車両機動隊というのがあるけれど、それ以外の機動隊が都内に9ヶ所ある。
神奈川県警の規定によると、「機動隊は警備実施の中核部隊として治安警備及び災害警備に当たるものとし、必要に応じて部隊活動にあたり雑踏警備、警護活動にあたるものとする。
機動隊員の成員の基準として幹部は人格識見に優れ、かつ特に指揮能力に優れた巡査部長以上の階級にある警察官、その他の隊員は勤務成績良好な巡査の内、身体強健な30歳未満の独身者で1年以上の実務経験を有し、柔道もしくは剣道に優れ又は通信・自動車の運転等に関する技能を有する者が挙げられる。原則として隊舎に合宿する」と書いてあります。
●高木弁護士
 今回具体的に警視庁の機動隊が高江で何をしたのかということを、いろいろ調べたり資料を取り寄せたりしました。
みなさんご存知かと思いますが、朝日新聞出版から出された沖縄タイムス記者の阿部岳さんが書いた『国家の暴力』は、この今回の高江における機動隊が何をしたのかということを中心に取材したことを書いた本で、これは私たちにとっても虎の巻のように大事な本です。
3人の裁判官にも提供し、被告にも提供しました。
ぜひ皆さんもお読みいただければと思います。
 さらにこれは前回の裁判の直前に、那覇地裁で三宅俊司弁護士に対して警視庁機動隊が車道を封鎖しビデオを撮りまくったことは違法であるという判決を出しました。
これも現地で機動隊がやっていることが違法であると沖縄の裁判所も判決を出しているので、これも大きな裏付けにもなりました。
いろんな形で闘い続ければいろんなところで資料も発掘できるし、いろんな材料も手に入るので、やっぱり闘い続けることが大事だろうと思います。

*次回の裁判期日は5月23日(水)11:30開廷です。
「警視庁機動隊沖縄への派遣中止を求める住民監査請求実行委員会」はサポーター募集中です。
これまでの裁判の経過はブログ、FBをご覧ください。
ブログ:https://juminkansaseikyu.wordpress.com
FB:「警視庁機動隊の沖縄への派遣は違憲 住民訴訟」
連絡先:juminkansaseikyu@gmail.com

5月23日の第7回口頭弁論も傍聴席が埋まるよう、私もまた傍聴に行こうと思っています。                           

いちえ


2018年3月16日号「7年目の3月11日」

7年目の3月11日、南相馬に行ってきました。

◎春には1年生に
 あの年に生まれたお子たちは、4月には小学校入学です。
●高田康生ちゃん
 2011年8月から南相馬に通ってきましたが、10月に訪ねた仮設住宅で出会った坊やがいます。
9月4日生まれの康生(こうせい)ちゃんです。
お母さんに抱かれた康生ちゃんの写真を撮らせてもらいました。
翌日にもう一度訪ねて、支援物資として届いていた乳児用の缶入り粉ミルクを届けました。
その後はお母さんも産休が明けて職場に復帰し、康生ちゃんも昼間は保育園でしたから会うこともなく過ぎ、やがて一家は仮設住宅を退去して、原町区の自宅へ戻ったことを聞きました。
 7年目の3月11日、あの時の写真を届けに康生ちゃんの家を訪ねました。
康生ちゃんは二人の弟のお兄ちゃんになっていました。
お父さん、お母さんからあれからの日々をお聞きしている傍で、下の弟の大誠(たいせい)ちゃんは、私が持って行った六つ切り写真の康生ちゃんを指差してまだよく回らない舌で何か言っています。
お母さんが、その赤ちゃん語を通訳して「うん、赤ちゃんいるね。かわいい?」と言うと、大誠ちゃんは頷きました。
生後1ヶ月の時のお兄ちゃんの写真は、1歳8ヶ月の大誠ちゃんから見ればかわいい赤ちゃんに思えたのでしょう。
 3歳の琉清(りゅうせい)ちゃんは、パズルを出してきて組み合わせようとするのですが、うまくいきません。
康生ちゃんが「違うよ、ここに入れるんだよ」と教えながら一緒に遊んでいました。
お子たちが、つつがなく健やかに育っていってほしい!とねがいました。

●上野倖吏生ちゃん
 雫(しどけ。原町区の行政地区名)の康生ちゃんの家から、萱浜の上野さんの家までは10分ほどの距離です。
海岸の防潮堤や道路の造成工事が進行中で、あたりの風景はすっかり変わっていました。
 上野さんのお宅では、まずお仏壇にお線香をあげさせていただきました。
上野さんは言います。
「7年目だからって、3月11日だからって、テレビでも新聞でもいろいろ言ってるけど、あの時の教訓を何も生かそうとしてないじゃない?
追悼とか、大変でしたとか、頑張ってきましたとか言っても、もう繰り返さないように避難計画をしっかり立てて周知する日にしようなんて言わないじゃない?
原発も再稼働して、輸出もするなんて、何考えてんだって!
亡くなった人が心配したり不安になったりしないで、笑っていられるようにしたいよね」
 多くの犠牲者を出した萱浜地区ですから、上野さんは両親の喜久蔵さん、順子さんや長女の永吏可(りか)ちゃん、長男の倖太郎(こうたろう)くんだけではなく地区で亡くなった友人知人たちすべてが、残された自分たちの姿を見たときに、安心して笑ってもらえるようにしたいのだと言います。
地区の田畑が荒廃しないように耕す、安全な作物を作る、もし風評被害が出るなら別の作物で挑戦する、そうすれば亡くなった人たちも「頑張っているな」と笑って見ていてくれるだろうと言います。
 土日は「福興浜団」の活動があるので、平日に土日の分まで畑仕事をするので、朝早くから夕方遅くまで畑に出ていると言います。
 そんな話をお聞きしていると、2階から倖吏生(さりい)ちゃんが下りてきました。
9月16日生まれの倖吏生ちゃんも、4月から1年生です。
康生ちゃんと同じ大甕(おおみか)小学校に通います。
大甕小学校の来年度の1年生は15人。
お母さんの貴保子さんは「15人だと先生は楽かもしれないけど、もう少し子どもが多いといいですけどね」と言いました。
 子どもたちの少なくなった南相馬です。
どの子も元気に健やかに育ってほしいと、心の底から願います。

◎12日、南相馬—浪江—川俣
●小林恵さんと
 11日夕刻に上野さんのお宅を辞してビジネスホテル六角に戻ると、友人で写真家の小林恵さんに会いました。
小林さんは2日前に先輩写真家の江成常夫さんをご案内して飯舘村や希望の牧場を回り、少し前に江成さんは山元町に向かったそうです。
そして小林さんは翌日取材をしながら帰宅されると聞き、翌朝のバスで福島へ戻るつもりだった私は、途中まで小林さんに乗せて下さるようお願いしました。
●ドーバー海峡?
 12日6時半に六角を出てコンビニに寄って朝食を買って、小浜の海を見下ろす低い崖の上で朝日を眺めながらの朝食。
小林さんがこちらの方への取材時に、いつも朝ごはんを食べる場所です。
以前ご一緒した時も同じ場所で朝ごはんでしたが、この場所は向こうへ回り込めば六角支援隊の荒川さんの家があった辺りです。
荒川さんは2014年に仙台に移住し、津波で半壊した小浜の家は解体されて今はもうありません。
 小高と浪江の境界の海岸は元の道路が波ですっかり抉れたように侵食されて、小林さん曰くところの「小高=浪江のドーバー海峡」です。
その道路は震災よりもっと以前から使われなくなっていた道路ですが、それにしても海べりのこんなところに、よくぞ道路を作ったものだと恐ろしく感じました。
私が立っていたのはアスファルトの敷かれた道路で、その先が崩れてなくなっていた場所ですが、もしかしたらオーバーハングではないかとそっと下を覗き見ると、まさにそうで、慌てて後ずさりしたのでした。
ここは東北電力の浪江・小高原発建設予定地だったところですが、原発建設計画は地域住民の反対で頓挫し、3・11後はイノベーション・コーストの一環として航空機ドローンの滑走路にするようです。
●壁にぶら下がった測定器
 浪江・小高原発建設反対運動の拠点だった棚塩地区の集会所に行ってみました。
7年前の津波の跡がそのままで、壁に取り付けてあったナノグレイの放射線量測定器が、衝撃で壁から外れてぶら下がっていました。
この測定器設置は、もしも原発が建設されたら使うつもりだったのか、それとも東電福一稼働の影響を調べるためだったのか判りませんが、自然の力の前では人の営みなど小さなものだと思わされました。
2階に上がって見れば網入りガラスが窓枠に鋭い鋭角でギザギザに残り、突き破られたガラスは小さな小豆粒状になって床一面に溢れていました。
請戸は港も整備されて津波の爪痕も見えにくくなってきていますが、ここは7年前のあの日のまま時間が止まった場所でした。
 棚塩から先の道では反対車線上にタヌキかアライグマか動物の死骸を見ましたが、車に轢かれたのでしょう。
そのもっと先では、路上でカラスがカラスの死骸を啄んでいました。
カラスが車に轢かれることなど滅多にないと思うのですが、以前に南相馬の大原で住民の谷さんから「うちの前の道路では、ちょくちょくカラスが轢かれているよ」と聞いたことがあります。
こんなことを見たり聞いたりするとつい、放射能がカラスに何らかの影響を与えているのでは?などと思ってしまう私です。
●なんと、今野さんの家の前!
 小林さんは「昨日写真を撮ったところにもう一度行きたいのでけど、どこだったか…」と言いながらハンドルを握っていましたが、私にはあたりの風景は見覚えがあるところでした。
「その先を右に入ってください」と私が言って、停車したのは今野寿美雄さんの家の前でした。
そして今野さんのお庭の柊の木を、小林さんに説明したのでした。
幹から直接出てきている下の方にある葉は柊特有の鋸歯の葉ですが、枝から出ている葉はどれも縁に鋸歯がなく丸い葉なのです。
 こんな風にひょいと今野さんの家の前にきてしまったので、そこから今野さんに電話をしてみました。
今野さんも驚いて「僕も2日前に家の写真撮りに行ってきたところです。解体申し込みの申請に必要だからね」と言いました。
さりげない口調の奥に、どれほどの悔しさを抱えているかと思います。
丸葉の柊も、崩れたウッドデッキも、地震で飛び出したままの引き出しや、棚からこぼれ落ちた食器類、床に広がった坊やのおもちゃ、家具や衣装などをそっくり抱えたこの家の佇まいが、私には原発への憤り、抗議の姿だと感じられました。
●山木屋道の駅
 114号線の大柿は、多分この道路上では放射線量が一番高い地点ではないかと思いますが、この日も設置されたモニタリングポストは4,427μを示していました。
猿の群れが走り去って行きました。
津島で長泥への道を右に見て過ぎ、山木屋の道の駅に出ました。
前回ここを通ったのは、この道の駅が開店を数日後に控えている時でした。
中を覗いてみると客は誰もいず、商品も少なく寂しい限りでした。
木造の建物は綺麗だしトイレもとても立派ですが、どれほどの人が利用するのか…。
 川俣の街中に入り役場前で福島行きのバスの時刻表を見ると、ちょうどあと5分後にバスが来ます。
そこで小林さんにお礼を言って、お別れしました。
●「ふるさと飯舘!!新かわら版」
 飯舘村二枚橋に向かう小林さんから、別れ際に「ふるさと飯館!!新かわら版」飯舘村の広報紙をいただきました。
江成さんをご案内して行った時にもらったものだそうです。
新かわら版の発行日付は2018年3月11日。
それによれば帰村者は、村内20行政区のうち帰還困難区域の長泥を除く19地区で254軒、491人だということです。
被災前には6,000人がいた村でした。
 就園・就学人数は被災がなかった場合の就園(0歳〜5歳)の児童数158名に対し、30年度の就園希望者は23名。
小学校は289名に対して31名が希望、中学校は193名に対して43名が希望しています。
この4月から就学前から小・中までの一貫校が開校し、コシノヒロコブランドの制服が無償で支給されるそうです。

◎新刊書紹介
 朝日新聞記者の青木美希さんが、被災地を丁寧に取材した本を書きました。
講談社現代新書『地図から消される街 3.11後の「言ってはいけない真実」』
私も読み始めていますが、多くの人に知ってほしい語られない真実が書かれています。
どうぞ、お手にとってお読みください。 

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いちえ


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