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2017年6月21日号「集会と安保法制違憲•女性たちの裁判 報告⑵」

前便の続きです。
前便の原告代理人弁護士の秦 雅子さんに続いて原告本人の意見陳述です。
戦争ができる国への道を開いてしまった安保法制によって、生まれた時が既に戦時中だったお二人がどれほど酷い被害を被っているかが痛いほど感じられました。
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●原告本人:S.Cさん
 1932年3月大阪で生まれた。
その前年9月に満州事変が勃発し、私たちの学年は「平和の日」を一日も知らずに育ち、軍国主義教育を叩き込まれた「少国民」世代だ。
 1945年8月、私は広島市の女学校2年生で、13歳だった。
炎天下での建物疎開作業の重労働の中心は(学徒勤労動員の)中学1、2年生の少年少女8000人だった。
6日、原爆が投下されたが、私はたまたま体調不良で欠席したので奇跡的に命が救われたが、作業をしていたクラスメートと担任は全滅した。
何人かの学友は学校に帰ってきたが、焼けただれ、膨れ上がり、焼け焦げた皮膚を引きずりながら逃げ惑う様は幽霊のようだった。
親が見ても自分の子供と信じられず、地獄の有様だった。
戦争の惨憺たる現実に震え上がった。
 敗戦後の学校は校舎もなく仮校舎だったが平和の日々で、文化やスポーツが復活し、とても楽しいものだった。
友達や先生の死という悲しみを抱えながらも、笑いが絶えなかった。
 「日本国憲法」誕生の時、「戦争放棄」の言葉を聞いた時は感激した。
憲法を学ぶにつれ、国の行き方が根本的に変わったことを知った。
私たちは臣民ではなく国民で、国民に主権があるのは、素晴らしいことだと思った。
私は学制の改革などで、実際に女性の「解放」を体感した世代で、男女共学を実践、「家」の枠から外れ、自分らしい生き方を自ら選ぶことができた。
 「戦後レジーム」は喜びであり、平和と民主主義こそ、私の新しい生き方だと思った。
幸い新聞記者になれたが、社会の中で働き続けたいという私の思いから選んだ道だ。
 1975年、戦後30年経っていたが、私はクラスメート全員の死を記録しようと調べ始めた。
それまでも原爆のことを語ってきたが、正確な記録を残すことがジャーナリストとしての私の役割だと思ったからだ。
 そこで驚いたのは、クラスメートがあまりにも軍国少女そのままの死に方をしていることだった。
ある友は「私は小さい兵隊じゃ。私が死んでも泣いてはいけん」と母に言い、ある友は、君が代と予科練の歌を歌いながら死んだ。
別の友は、日本はもうダメじゃと嘆く大人に、「天皇陛下がいらっしゃるから負けはしない」と叫んだという。
これは私のクラスメートだけではなく男子の中学生たちが、大やけどの体で軍人勅諭を唱えたことが記録されている。
 私はそんなことを遺族から聴きながらも、もし彼、彼女たちが生き残り戦後の世界を知ったら、やはり平和の世が言い、なぜ私たちは死んだのかと嘆いただろうと思った。
 なぜ彼女らは、自らを小さい兵隊と思い込んだのか? それは私たちの学年が満州事変の生まれであることが大きいと思う。
学校に入学するとどこの学校にも「満」の文字の付いた名前の子供がいた。
子供に「満」の名前をつけた親に戦後話を聞いたことがあるが、「だって、あの頃は、これからは満州だと、皆思ったから」と言われた。
満州事変が侵略戦争の始まりなどと、誰も思わなかった。
 支那事変が始まると、「シナが悪い、懲らしめなければ」という話ばかりだった。
私と同世代の友は、「中国人を一人でも多く殺したら世の中が良くなる」と信じていたと言った。
太平洋戦争期に入ると「鬼畜米英」で、「日本は神風が吹き勝つ」と思い込み、平和の大切さ、命は宝など考えもしない人間になっていった。
 私は、戦後、戦争のことを勉強し、戦争というものの最後は民衆の殺し合い、中でも犠牲は女性と子供に集中することを痛感した。
戦争の最大の犠牲者の一つが満蒙開拓民の悲劇だが、中でも「残留夫人」裁判を取材し、彼女らが当時13際以上だったため「自由意志で残留した」とみなされ、帰国もなかなかできなかったことを知った。
13歳。私も敗戦時に13歳だった。
私がもし満州にいたら、こんな仕打ちを国から受けたので、他人事とは思えない。

 私たち、戦争の時代を知るものの多くは、現在の状況を15年戦争の起こった頃と非常に似ていることを心配している。
15年戦争は日本の仕掛けた戦争だが、今度は「日米同盟」に巻き込まれ、米艦の警備など、戦争の道へ巻き込まれるのではないかという「恐れ」だ。
 現在我が国は、北朝鮮に対し危険視、警戒を続けている。
私は「力」の対決を誇示するような北朝鮮のやり方には反対だが、先日のミサイル発射に地下鉄を10分間止めた騒ぎには驚いた。
避難訓練をしているとこもあるというが、この時韓国では、平静だったと聞いている。
日本の騒ぎは、逆な意味で恐ろしく思える。
 恐怖感の強調に、満州事変勃発のことを思い出さずにいられない。
中国への敵対感の強調があった。
そんな時に柳条湖事件が起き、それは関東軍のやらせ事件だったが、誰もそうは思わず、けしからん中国をやっつけろ、満州・満鉄の権益を守れと、世論は燃え上がった。
 起こってしまえば、戦争は消し止められず、「満州国」のでっち上げとなり国際社会から孤立していった。
 北朝鮮の問題でも、危機感が煽られている。
こんな時に実際の発射でなくても、何か「事故」が起こったら、たちまち戦闘が起こるのではないか。
先制攻撃が好きなトランプのアメリカが、攻撃をするのではないか。
そしてそのまま戦争に突き進んでいくのではないか。
アメリカは戦後絶え間なく戦争をしてきた国だ。
 尖閣列島問題も恐ろしい。
ここで事故が起こったら、領土問題は国民の怒りを煽り立てる。
満州事変が手詰まり状態になった時、上海事変に飛び火したが、これは上海にいた僧侶が殺されたということで、「邦人」保護が言われたためだ。
北支事変のらちがあかなくなった時、上海にいる海軍軍人の死から第2次上海事変となり、北支事変は支那事変に、そして日中戦争となった。
邦人保護は、怖いと思う。
 日本国憲法を丸ごと残すことが子孫への財産であると思う。
その財産が危なくなり、戦争への「恐れ」が強まることはたまらないことだ。
私は「恐れ」から自由になりたい。

●原告本人:N.Yさん
 1935年に東京の芝(現在の港区)で生まれた。
既に満州事変、国際連盟脱退を経て軍部による強権と暴力の政治が日本を支配していた。
幼児の記憶に愛宕神社の羽子板市、増上寺境内のお閻魔様の縁日など楽しいハレの日の庶民の暮らしが残っているが、たちまちそれらの穏やかな暮らしは幼い日の宝物と一緒に空襲で焼け尽くされた。
 私が入学した小学校は1941年に国民学校と名を変え、子供達は少国民として神格化された天皇の臣民に位置付けられていた。
皇国史観は、先入観のない児童の頭に染み渡っていった。
紙芝居作りの課題で、天岩戸の挿話を採り上げたことが記憶に残っている。
「この日本の国は、遠い遠い神代の大昔から、神様が特別におつくり下さった国」だから「お国のために、一生懸命つとめ励まなければならない」と説かれた。
神様の国だから爆弾が落ちても、焼夷弾の火の雨が注いでも、神様が神風で助けてくれると、幼い頭は信じ込まされていった。
 儀式のたびに教育勅語が朗読され、大人たちが緊張して取り扱う恭しさの気配に、最後の「御名御璽」が出てくるまで、ひたすら頭を垂れ続けた。
奉安殿の観音開きの扉は、神様の世界が子供達の前に降りてくる扉だった。
 1945年3月10日の東京大空襲で焼き払われた後も、東京には切れ目なく空襲が続いた。
焼夷弾の炎に追われて自宅の防空壕から逃れたのは4月だが、一面の焼け野原が神風の嘘を教えてくれた。
当時の日常生活は昼夜ともなく、警戒警報・空襲警報のサイレンに仕切られていた。
 焼け出された後は神奈川県に避難し、たった4ヶ月の疎開生活だが、慣れない松脂採りや牧草刈りの奉仕作業に泣いた。
松脂は油の材料として、牧草は働き手のいなくなった農家の家畜用だった。
桑畑の野道を下校する途中、機銃掃射に遭ったが、それは偵察を終えた米軍機の操縦士がふざけ半分に子供を撃ったのかもしれない。
桑畑に飛び込んだ私の膝頭は、飛行機が去った後もガクガクと震え、爆弾が落ちる時の空気を切り裂く不気味な音と振動は、防空壕の湿った匂いとともに今でもまざまざと思い出す。
 1945年8月15日は、そんな日々からの解放だった。
サイレンに支配される生活が終わることを、心から喜んだ。
離れ離れの家族が同じ屋根の下で暮らせる、誰憚ることなく声を立てて笑える、黒い幕を外した明るい電灯の下で食事ができる、それが戦争の終結ということだった。
逃げなくても良い生活、安心して眠れる夜が続く、それが「平和」ということだった。
頻繁な停電も粗末な食事も、継だらけの衣服も苦にならず、空襲を受けてぺしゃんこに潰れて燃えかすの塊が黒々と残る防空壕の衝撃的な残像も、次第に薄れていった。
 その「平和」が国のあり方の基本となったと教えてくれたのが、日本国憲法」だった。
文部省の教科書『あたらしい憲法の話』は、私の宝物だ。
「これからは男女平等の世の中になる。戦争はもうしない」と先生に言われた時の湧き上がるような嬉しさは、いつも生々しく蘇る。
戦争の時代に生まれ育った少国民の私でも、戦争は、恐怖や震え、息苦しさと不自由から切り離すことはできなかった。
サーベルを下げた軍人も怖かったし、母や子供達に君臨する父親も怖かった。
大人の男は、どこか理不尽なものとして怖く見えた。
だから憲法に、国民の一人一人に大事な権利があることを決めていると書かれていることを喜んだ。
家族で囲んだ食卓で、何度も父に逆らい「男女平等なのに」と泣いて抗議したのも、憲法をわが身の拠り所としていたからだ。
 後に親となり、我が子を守ることは人が大切にされる社会を作ることだと実感した。
健康や食べ物、子供の環境への関心から仲間が生まれ、そのようなつながりから、政党の利害を超えた地域住民の視点による政治を信条とする市民派・無所属地方議員の活動につながった。
男性中心の固定観念を越えるために、区長選に出た経験も持った。
 憲法が地方自治を定めていても、国は「分権」という言葉を使い、自治体もまた国の意向に従う体質で、数の論理がはびこり、議論を尽くして意見をまとめることを避ける傾向が強かった。
建前として平等・対等と言いながらも、結果としての平等や実質的な対等を避けようとするのが日本の政治の特徴だと実感し、今も女性の人権を確立する活動をしている。
 安倍政権下で、これまでになく激しく、憚ることなく憲法の破壊が進行していることに不安でいたたまれず、戦争体制に関わる戦前の法律の動きをさらってみた。
そして、現在の動きとあまりにも重なる動きに愕然とした。
私が安保法制にいたたまれない恐怖を感じるのは、決して根拠のない危惧や不安でないことは歴史上の事実が教えてくれる。
 戦争に進む時、国は手段を選ばず、一度走り出した軍事国家は際限なく走り続けることを示していた。
そのために、保安条例、徴兵制、治安警察法、治安維持法、特高の設置等を進め、政府の都合次第でそれらの法律を改変・拡大解釈・御都合主義的利用に走り、国民を法律という名の暴力で押さえ込んだ。
同時に教育勅語で臣民の道を説き、頭と心を支配した。
私が入学した時の国民学校令は「皇国ノ道ニ則リテ初等教育ヲ施ス」ことを目的に、「国体に対する確固たる信念を有し、皇国の使命に対する自覚を有すること」などを掲げていた。
入学した時から、国家の方針に忠実に従うことに疑いを持たないよう洗脳されていた。
家族をはじめとする周囲の大人も、多かれ少なかれ洗脳されていった。
だからこそ、国家総動員法、在郷軍人会、国体の本義の徹底などで国民を総力戦に巻き込むことに成功し、国防婦人会や勤労動員、戦死の美化、贅沢は敵だ、など女性たちも銃後をしっかりと支えた。
産めよ増やせよが美徳とされたのも、戦力増強、兵士を作るためで、10人以上の健康な子供を産み育てた家庭は表彰された。
千人針や慰問袋作りには、子供たちも参加し、お国のために命を捧げる兵隊さんに感謝し、出征兵士や戦死者の紙が貼られた家の前では、皇居の脇を通る時と同様に頭を垂れるのが習慣になった。
言論も演劇も音楽も文学・美術などの文化的な営みも、全てが「報告会」を作って管理された。
方針に従わないと「非国民」とされた。

 安倍政権下で憲法改正の声は憚ることなく響き、国家安全保障局が発足し、武器輸出三原則も撤廃され、あろうことか集団的自衛権の閣議決定と強行採決が続き、とうとうPKO任務に駆けつけ警護が加わった。
誰の目にも戦争ができる国への道を突き進んでいる。
安保法制の乱暴な制定過程と同様の傍若無人を発揮して、共謀罪すら成立させた。
 約70年間、私は憲法の平和主義と基本的人権を守ることを国民の義務と考えて生きてきた。
長い活動を通じて、国民の義務を果たしてきた私が、なぜ今、失望と不安を国から突きつけられなければならないのか。絶望感すら覚える。
国が率先して憲法を軽んじる現状を無理やり飲み込もうとする苦痛は耐え難く、国の民主主意義をはき違えた政治を報じるニュースに接することは、生理的苦痛ですらある。
 今更のように1945年8月15日の解放と希望の日を。思い起こす。
平和がなければ、全ての人権も女性の解放もありえないことは、これまでの歴史と私の人生がはっきりと示している。

*長文を最後までお読みくださって、ありがとうございました。        

いちえ


2017年6月21日号「集会と安保j法制違憲•女性たちの裁判 報告⑴」

◎「共謀罪法案の強行採決を許さない市民の集い」
●「共謀罪廃止を求める市民の集い」へ
 6月15日、参議院議員会館で15時から、共謀罪廃止を求める市民集会が開かれました。
この会は当初は「共謀罪法案の強行採決を許さない市民の集い」として呼びかけられたのですが、この朝に違法な手段で強行採決されてしまったため、集会の件名はそのままでしたが実質「共謀罪廃止を求める市民の集い」でした。
●賛同団体に参加
 5月末にグリーンピース・ジャパンの米田さん、FoEJapanの満田さんらが呼びかけ団体となり、環境や人権、平和などの分野で活動してきたNGOや市民団体に呼びかけて謀罪法案に反対する声明への賛同団体を募りました。
私たちの「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」は、もちろん賛同団体に加わりました。
●ゲストスピーカーの話
 「自由人権協会」代表理事の芹沢 斉さんの開会挨拶に続いてゲストの方たちの挨拶がありました。

*海渡雄一さん(弁護士)
 昨日はだまし討ちにあった気分だ。
共謀罪は法律としても違憲の法であり、中間報告で強行採決は国会法にも違反している。
野党共闘で共謀罪廃止を一致点にして共謀罪廃止運動を起こし、悪法を避ける法案を作っていかなければならない。
 国会議事録の検証をして、成立過程の違法性を問うていかなければならない。
仮称だが“共謀罪対策弁護団”を組織して、実施されることに対しての予防措置も考え当ていかねばならないと思う。
 5月18日国連特別報告官のカナタッチ氏の書簡が発表され、6月9日にはスカイプシンポジウムが開かれた。
日本には公安に対する監視組織がなく、プライバシー権利が脅かされ、警察の捜査が行われるようになることが案じられる。
 昨年アベ総理がもっとも多数回会ったのは、内閣情報官の北村滋で、130回も会っている。
1年にこれほど頻繁に会っていたのだ。
これまで市民の側は、秘密情報機に対してコントロールしようという意識を持ってこなかったが、共謀罪が施行されたら、これはもっと難しくなる。
カナタッチ氏は、日本の共謀罪に関しての問題にはこれからもずっと関わっていくと言っている。
我々も暗くならないで、今まで通り萎縮せずに活動していこう。

*斉藤貴男さん(ジャーナリスト)
 政権を持つのは、国民を支配することが稼業になってしまった政治家たちだ。
国会は終わった!政府も終わった!メディアも終わった!これはもう、国じゃない!
ああなったら人間おしまいだ。
 魂を持った人間が人間であるために、逮捕されることを恐れてはならない。
 2019年に消費税は10%にするが、食品と新聞は軽減税率にすると言っている。
新聞を読まない層が増えているから、もし他のものと同様に税率10%になったら
ますます人々は新聞離れしていくだろう。
だからマスコミは新聞の軽減税率を取り消されることを恐れて、萎縮している。
 新聞は基本的に政府の言いなりで、逆らわなくなるだろうし、記事により世論は誘導
され、記事はますます政権側の広告になっていく。
だから、共謀罪反対運動も、さっさとやらなければならない。
メディアへの監視を強めていかなければならない。

●野党議員たちも駆けつけて発言
*藤野保史さん(共産党衆議院議員)
*逢坂誠二さん(民進党衆議院議員)
*山本太郎さん(自由党参議院議員)
*福島瑞穂さん(社民党参議院議員)
 各党議員たちも前夜は一睡もせずにおられたのでしょうが、憤りを隠せずに次々に発言されました。
 与党は追い詰められた結果の暴挙に出た。
本来は野党が議長の時に採用されるのが中間報告だが、与党は世論を恐れて逃げ込んだ今回の中間報告による強行採決だった。
憲法19条に違反する共謀罪だ。
 森友、加計問題では無いと言っていた文書があり、しかもさらにまた文書が出てきた。女性記者の追求で逃げ切れずに調査することになってのことだ。
 どの議員さんも皆怒りを込めて語り、このような暴挙を繰り返す政権を打倒するために野党は共闘することを強く言明しました。
「まずは来るべき都議会議員選挙で自民党を落とそう」ということも、発言されました。
*言葉だけではなく、真にそのように動いて欲しいと願います。

●賛同団体および参加者からの発言
*「オルタナティブな日本を求めて」代表
*環境問題に取り組む団体から
*自民党の地方議員でマイナーな立場の会派議員
*「野党と市民をつなぐ会」
*木村まきさん(横浜事件国家賠償請求訴訟原告)

●閉会の挨拶
 呼びかけ団体のグリーンピース・ジャパンの米田祐子さんが挨拶をしました。
 6月15日現在で17ヵ国、246団体が連盟し、共同声明「市民社会を抑圧する『共謀罪』に反対」を出しました。
今日の皆さんの発言から⑴屈しない、政府の思う壺に嵌らない、⑵前向きに、希望を持って、諦めずに、⑶横の連携が大切、⑷政策だけではなく政治そのものを変えていこう。
の4点が話されたと思います。
 今日をスタートとして、新たな闘いに入っていきます。
共に手を携えて、頑張っていきましょう。

*そして集会は閉会しました。
 14日夜は国会の外でも「未来のための公共」の呼びかけで、多くの人が抗議の声をあげていました。
私も夜8時過ぎから11時半まで、国会前の輪に加わっていました。
それでも強行採決されてしまうだろうと思うと、虚しくて、体の力が抜けてしまうような思いで、やっとのことに足を運んで帰宅したのでした。
家に帰っても嫌なことばかりが頭に浮かんで、暗い気持ちでした。
 ところが翌朝のニュースでこんなやり口での強行採決だったと知り、前夜の気落ちは大きな憤りに変わって、却って元気になりました。
アベ政治は、私の怒りの火に油を注ぎ、怒りの火はもっと大きく激しく燃え盛っています。
その思いを抱えてのこの日の集会でした。

◎安保法制違憲訴訟・女の会 国家賠償請求
 件名訴訟の第2回口頭弁論が、16日15時から東京地裁103号法廷で開かれました。
 裁判官も、また原告意見陳述も、被告も「です。ます調」で話しましたが「だ。である調」で記します。
●原告代理人意見陳述 弁護士:秦 雅子さん
 まず第1に被告の答弁が極めて不誠実であり、司法を冒涜するものであることについて述べる。
 被告の答弁書は、原告らの事実主張は「意見」に過ぎないと言い、肩すかしの内容だ。
それは条文の存否を言うだけの、形式的な回答でしかない。
 原告らが安保法制の違憲性とそれによる被害を問うていることに対し、国家には司法の場で明確に応える義務がある。
被告の対応は、市民の、女性からの問いかけに対して応える義務はないと言わんばかりの態度であり、それは原告に対してばかりでなく司法制度に対する冒涜でもある。
裁判所においては、被告に対して正面から認否反論をするよう強く指示して欲しい。
 第2に安保法制がいかに原告らの権利と安全を侵害しているかについて述べたい。
被告は原告らの主張を事実上無視した上で「立法だけでは原告らに何の被害も発生していない」から本訴訟では安保法制の違憲性について論じる必要性すらないと言うが、そうした論は本件の内容と効果から目を背けた議論だ。
 安保法制により日本は、自分の国土が攻撃されなくても武力行使が許される国になり、PKOに参加している自衛隊員に生命・身体に危険が及んでいなくても、他国に加勢して武力行使を行う国になった。
自国に攻撃が及んでいなくても武力行使を行う国は「戦争のできる国」であり、諸外国の市民に脅威を与え、戦争の危機を具体化し、その体制に組み込まれる私たちの人権を日々侵害している。
 本件安保法制は、集団的自衛権、駆けつけ警護等々の海外における自衛隊の武力行使を容認しただけでなく、「平時」からもその事前準備として自衛隊が米軍と組織的にも物的にも技術的にも一体となることを容認している。
「平時」から自衛隊は、米軍に対し弾薬等を含む物品と役務を提供し、米軍の武器等を防護・警備し、その最中に米軍が攻撃されれば自ら武力を行使し応戦する。
さらに武力紛争が起きれば、それが地球の裏側であっても「重要影響事態」として、自衛隊は米軍あるいは多国籍軍に対して武器・弾薬や食糧を提供・運搬し、給油を行うという完全な後方支援を行うことになった。
 自衛隊は「専守防衛」組織から、米軍と一体化した軍事組織へ質的に完全に変化した。
①防衛省の2017年度業務計画により、自衛隊は統合幕僚長をトップとする完全に一元化されたトップダウンの組織に改編された。
それまでは地域割拠・並列されていたものが、米軍と共同行動を行う統一の組織、まさに「軍隊」としての組織に変わった。
 象徴的なのは幕僚長の指揮の下に「日米共同部」が設置されたことだ。
これは、米軍と恒常的に一体化していることを示す。
また水陸機動団が新たに編成されるが、これは日本版海兵隊だ。
こうして米軍と一体となった共同軍事行動をとる体制が整備された。
②2017年4月14日、改定日米物品役務相互提供協定(ACSA)が承認された。
これは本件安保法制により、重要影響事態で米軍等に対して弾薬提供が可能となり、「後方支援」の幅が広がったことを受けてのものだ。
地球規模で兵站支援を自衛隊が行う体制が確立した。
③安保法制により、米軍との共同訓練の性質・危険性も激変した。
 昨年11月4日から9日まで、自衛隊は西太平洋の米自治領・北マリアナ諸島のテニアン島で、米軍との合同上陸訓練を実施し、テニアン島を日本国内の離島に見立てた本格的な上陸訓練が行われた。
自衛隊員1290名が参加。陸海空が一体となった統合訓練は、自衛隊史上初めて実施されたものといわれる。
④その上で行われたのが、米国原子力空母カール・ビンソンとの共同訓練だ。
 本年に入って自衛隊は、3月に2回日米共同巡航訓練を行っている。
「さみだれ」や「さざなみ」が参加している。
4月23日以降、北朝鮮に向けて北上するカール・ビンソンの写真が一斉に報道されたが、そのカール・ビンソントと共に自衛隊は、4月23日から29日にかけて、再度共同訓練をした。
 5月1日、日本の自衛艦「いずも」が、このカール・ビンソンを中心とする第1空母打撃軍の補給艦と並走する姿が報道されたことだ。
米海軍では、空母を中心として複数の護衛艦と潜水艦や補給艦で構成される戦闘部隊を「打撃軍」と呼ぶが、これは打撃軍の一端となっての行動だった。
 私が違憲性を主張している「武器等防護」の条文が早速こうして実現したことに、衝撃を受け慄然とした。
この武器等防護は、「米軍の要請を受けて」「防衛大臣が承認する」というだけの手続きで出動可能となるもので、国会に対する説明は事前にも事後にも一切なしだ。
それどころか防衛大臣は、「米軍の活動への影響、相手方との関係もある」として、正式にその命令の有無すら明らかにしていない。
 この時、「共同訓練」も行われたと政府は説明したが、どこまでが訓練で、どこからが「武器等防護」による警備活動なのか、いずれにせよ、安保法制で新たに設けられた「武器等防護」は、武器倉庫を警備して機関銃やライフルを守る程度のものではない。
武器というのは「空母」や「補給艦」、戦闘部隊そのものであり、武器等防護と称して自衛隊は、米軍の戦闘部隊の一部として一緒に行動するということだ。
そして米軍の軍艦が攻撃されたら,自衛隊が武器を使用して攻撃することを認めている。
 この光景は米軍と自衛隊の共同軍事行動そのものであり、多くの人が実際に戦争が始まるのではないかという危機を実感した。
 従前政府が守ってきた「専守防衛」の一線は破られ、米軍との共同行動に歯止めがなく、現に戦争の危機が高まっている。
本件安保法制の宣伝文句は「切れ目ない防衛体制」、あるいは「積極的平和主義」だったが、それは宣戦布告なく恒常的に武力による威嚇を行うという意味なのだ。
⑤さらに政府は、こうして武力による威嚇で危機を高めた上で、国民に対して危機感を煽る行動を盛んに行っている。
ミサイル攻撃は、発射後8分で落下すると言われているから、事前予告などおよそ無理にもかかわらず、政府は都道府県に対して住民避難訓練の実施を求める通達を出し、5月には東京メトロを10分間止めさせた。
こうしたことは市民を不安に陥れるものであり、国民はすでに、戦時体制下のような制約を現実に受けている。

 被告は、立法がなされただけでは、原告らの権利は侵害されていないというが、このように原告らは戦争状態に巻き込まれている。
 今回の安保法制は、自衛隊の活動範囲を飛躍的に拡大するものだ。
それは戦争を誘致し、女性を戦争の惨禍に巻き込み、戦争遂行の手段として利用し、戦争の被害者であると同時に加害者となることを強いる。
そして、それは武力による紛争解決をよしとする社会の到来をもたらす。
 原告らは日々、「戦争のできる国」になったことによる脅威に深い精神的苦痛を強いられている。
 裁判所においては本件安保法制がもたらした現実を直視し、原告らが受けている具体的な被害を一つ一つ審理し、判断していただきたい。


2017年6月15日号「自然エネルギーなら良いのか?②」

先日「自然エネルギーなら良いのか?」で、メガソーラー建設予定地で見聞したことをお伝えしました。
この通信はSNSではなく私が直接存じ上げている友人・知人や、その方達からご紹介いただいた方への個人メールとして発信しているものですが、「自然エネルギーなら良いのか?」は、送信直後から既に10数人の方から返信をいただいています。
いただいた返信の中には「転送してもいいですか?」や「拡散してもいいですか?」のお問い合わせもあり、多くの方がこの問題に強い関心を持たれていることを感じました。
そして問題はメガソーラーばかりでなく、1MW以下の太陽光発電も設置場所によっては周囲への影響が看過できない場合もあることなども、頂いた返信から知りました。
改めて、6日に村上さんからお聞きした「設置した方がいい場所>設置してもいい場所>設置しない方がいい場所>設置してはいけない場所」という言葉を思い起こします。

●ぜひご一読を!
 いただいた返信の中に「NPO法人太陽光発電所ネットワーク(PV-Net)」の都築 建さんからの「太陽光発電リスクを検証する」論文がありました。
ぜひ皆さんにもお読みいただきたいと思い、添付いたします。
「した方がいい>してもいい>しない方がいい>してはいけない」を考える上で、私は大いに示唆を与えられました。
そしてまたPV-Netに載っている情報からも、学ぶことが多々ありました。

SUN12201D

◎共謀罪
アベ政権の本当に姑息なやり方で、共謀罪は成立してしまいました。
でもここで黙ってしまったら、アベ政治に屈したということです。
アベ政治を許さない!
今だからなお一層大きな声で、抗い続けましょう。
一般人の私は、みなさんと共謀して声を上げ続けます。       

いちえ

関連:

2017年6月13日号「前便追伸」

◎追伸
「自然エネルギーなら良いのか?」には、送信した直後から返信メールが届いています。
この通信はSNSではなく私が直接知っている方やそのご友人などへお送りしている個人通信ですが、この問題に関して多くの方が関心を持っていらっしゃることをひしと感じました。
原発はNO! 絶対にNO!
その思いを共にしながら、ではこれから私たちはどういう道を選んでいくのか?
ご家族と、お友達と、職場で、仲間たちと、みんなで考えていくきっかけになったら嬉しいです。

いちえ


2017年6月12日号「自然エネルギーなら良いのか?」

◎6月6日、茅野へ行ってきました
 メガソーラー建設計画が浮上している地への、視察でした。
原発事故後、これからは再生可能エネルギーの時代だと言われ、また「電力は選ぶ時代」にもなってきました。
原発ではなく、また火力でもなく、再生可能な自然エネルギーを考えていくべきだと思いますが、一方でソーラーシステムや風力発電が一部の業者たちの利権になっていく構図も見られます。
そうしたことを含めて、エネルギー問題を考えていかなければならないと思っています。
 今回の視察は、後述の事情から叶った視察行でした。

●はじまりは
 雑誌『暮しの手帖』は、発行された最初の号から母が購読していて、母亡き後も私は続けて購読している愛読誌です。
その『暮しの手帖』2017年2・3月号(86)号の記事に、「電力は選ぶ時代」という特集がありました。
 原発事故後に私たちは、それまで当たり前のように使っていた電力について考えるようになりました。
そして電力自由化が始まり、いままでとは違う電力会社から電力を買えるようになったのですが、『暮しの手帖』のこの特集は、電気料金のしくみと新電力会社の幾つかを紹介するものでした。
 ところがそこで紹介されていた新電力会社の一つに、私は疑問を感じたのです。
1メガワット以上のメガソーラーを、全国的に展開している会社が紹介されていました。
 私は、山野や海岸、耕作放棄地に大々的にパネルが敷き詰められて行く様子を福島に通いながら見てきましたし、それより以前にはチベット通いの中で大規模風力発電所、大規模太陽光発電所を目にしていました。
 いくら自然エネルギーであっても、そうした大規模な施設に対して私は、きもちがざわつくような不安を感じていました。
 それはいわば「科学的ではない」「腹に感じる」ような、直感的な不安でした。
 一方で私が関わっている雑誌『たぁくらたぁ』では、2016年春(38)号の特集で「再生可能エネルギーならよいのか」を特集しましたが、それ以降も毎号この問題を取り上げています。
それらの記事から、私が「腹に感じる」不安も故ないことではないと考えるようになっていました。

 私は、暮しの手帖編集長に手紙を書きました。
特集記事で紹介されていたLooop社についての疑問と。メガソーラーに関しての疑念を書いたのです。
『たぁくらたぁ』の編集部や読者、また他の人たちからも、暮しの手帖社には抗議が届いたようでした。
 『暮しの手帖』編集長から返事が来ました。
そして次の4・5月(87)号の編集後記には、読者から「電力供給や料金の仕組みがわかった」という反応や、「自然エネルギーならよいのか?」という疑問も届いたことが書かれていました。
『たぁくらたぁ』編集人の野池さんから届いた手紙も、引用されていました。
それを読んで私は、再度『暮しの手帖』編集長に手紙を書きました。
「Looop社が長野県に建設を計画している予定地に、一緒に行ってみませんか」と、お誘いをしたのです。
暮しの手帖社がそれを受けてくれて、6月6日に諏訪市四賀ソーラー建設予定地への視察行が叶ったのでした。

●視察行
 暮しの手帖社からは編集長とライター2人、ノンフィクションライターで86号の記事の監修者さんを入れて4人、たぁくらたぁ編集部から2人、上田市と山梨県北杜市でソーラーシステム問題に関わっている方たち2人、現地の「太陽光発電問題連絡会」の方たち5人、そして私の計14人での視察行でした。
 現地の方たちがコーディネーター役をしてくださいました。
 東京組は茅野駅まで迎えに来てもらい、茅野市の北大塩公民館で全員集合しました。
出発前に、現地の方たちが用意してくださった建設予定地の地図や四賀ソーラー事業概要など資料が配られました。
 視察場所は、長野県諏訪市四賀の上桑原の山林と原野です。
 車で建設予定地の入り口まで行き、その先は配布された資料やお弁当などを持って山道を行きました。
 配布された地図を見ながら、要所要所で説明を受けました。
 建設予定地は、個人(250名)所有の山林、上桑原農業協同組合所有の山林、上桑原山林組合所有の原野という入会地です。
 広大な面積で、近くの諏訪湖の7分の1に当たる総面積188haの山です。
 188haと言っても想像できないかもしれませんが、これはほぼ、皇居(115,5ha)と明治神宮(70ha)を足した広さです。
 霧ヶ峰のすぐ下(南)にあたり、全く平地のない山林で、予定地内には一級河川の横河川が流れ、高層湿原が5ヶ所もある地域でした。
 降りしきるハルゼミの声を聞きながら行く道は、レンゲツツジが咲き、湿原にはサクラソウや九輪草が咲き、水苔が生えていました。

●呆れて物が言えない!
 建設計画では、この山林の樹木を伐採して95ha (全て傾斜地!)にソーラーパネルを31万枚立て、道路と防災設備に11ha、湿原保存エリア28ha、残置森林54ha、総面積188haの108haを伐採するというのです。
 防災設備と言うのは、調整池を作らなければなりませんから、その堰堤を指します。
 こんな計画は机上で平面図を見て計算して出すのでしょうが、実際にここを歩いてみれば、どんなに無謀な計画か「馬ッ鹿じゃない!」と、計画書を叩きつけたくなります。
 山一つをまるまる裸にしようというのです。
 計画地に流れる横河川は、長野県の「土石流危険渓流カルテ」に指定されているのです。
 諏訪・佐久地方は鉄平石の産地ですが、横河川流域も鉄平石地帯です。
 鉄平石は板状に剥がれやすく、また板状に重なる間を水が通りやすいのです。
 樹木を伐採し保水能力を失なった山からは、水が溢れ出てきます。
 そのために横河川に調整池を造ると言いますが、調整池とは言うものの実質的にはそれはダムで、その堰堤は森林伐採して道路を造った時に出る大量の残土で作るというのです。
 堰堤はコンクリートで造っても安全とは言い難いのに、トラック5万台分の残土が出るから、それを使って堰堤にするというのです。
 残土は外へ運び出すには運送費もかかるし、また外に運び出せば産業廃棄物扱いになりますから、それでは処理費用がかかる。
内部で“有効活用”すれば安上がりに済むというわけです。
 森林を伐採して抜根せずにパネルを敷くそうですから、パネルの下の草木が伸びてパネルを破損しないように除草剤など化学薬品が大量に撒かれることになるでしょう。
 横河川は茅野市の水源になっていますから、それもまた大きな問題を含んでいます。
 全く問題だらけのLooop社の事業概要です。
 以前に現地の太陽光発電問題連絡会と「たぁくらたぁ」編集者が、Looop社の責任者から現地で話を聞いたことがあったそうです。
 その時にLooopの人に「あなたの家の水はどこから来ていますか?」と質問したら、「水道局からです」と答えが返ったそうです。
 自分が飲む水の水源に思いが及ばない、そんな輩がこの山を丸坊主にして自然エネルギーを供給するのだなどとほざいているのです。
 呆れて物が言えません。

●憂さを忘れれば気持ちの良い山歩きなのに
 山中の湿原は谷地坊主がポコポコで、その少し上の乾いた斜面に腰を下ろして、お弁当を食べました。
 トンボ(シオカラトンボだったかしら?よく見定められませんでしたが)が湿地の水辺を飛んでいました。
 お弁当を食べ終えてまた来た道を戻り、途中には白骨化した鹿の頭蓋骨が転がっていたり、獣の糞が落ちているのも見ました。
 握りこぶしほどの黒い糞は、鹿の落とし物ではなさそうだし、クマかしら?
 この計画を頭から払えば、とても気持ちの良い山歩きでした。
 車を置いたところに戻り、今度は計画予定地の外周を車で回りました。
 途中、計画地の北端で車を止めて外に出れば、目の前に広がるのは霧ヶ峰の高原。
 緑濃い、池のくるみの湿原や、向こうの方には車山。
 しばし、やまんばだった青春時代の思い出に浸りました。
 近くの別荘地帯「ビバルデの丘」の奥にある既に稼働している日新のソーラーパネル群を見てから道を下り、湧水の大清水によって甘露の水で喉を浸し、集合地点の北大塩公民館に戻りました。

●意見交換
 公民館に戻ってごく短い時間でしたが、太陽光発電問題連絡会の小林さんと村上さんから説明を聞き、参加者から感想や意見を出し合いました。
 この計画が杜撰であり自然エネルギーどころか自然破壊であることは、誰の目にも明らかでした。
 長野県はここだけではなく県内各地にメガソーラーが建設され、あるいは建設計画があるようですが、県もこの問題には憂慮しているそうです。
 大規模な施設を環境アセスメントの対象に加えた条例改正や、市町村向けの「対応マニュアル」を発行、景観規制を改正して太陽光発電を届出の対象にする予定であり、県としては自然エネルギーを無条件に歓迎せず地域主導型を促進する方針だそうです。
 ただこうした計画が持ち上がってきた源には、幾つかの問題があるようです。
 土地の問題で言えば、個人地権者は高齢で山林の手入れもできず、税金ばかりかかるので手放したい。
 農業協同組合は、組合法の目的外使用になるので貸すことができず売却するしかない。
 牧野組合は入会権のある各部落に分割されたので、部落ごとに意見のまとまりを付けるのが難しいなどなどで、そんなことからLooop社に売り渡したようです。
 ですから今回参加したノンフィクションライターの高橋さんからは、「これはソーラーシステムの問題ではなく、現代日本が抱えている田舎の問題だ。手入れができない山林を放っておいてもいいのか?という問題がある」という意見も出ました。
 それはそれで考えていかねければいけない問題ですが、では、だからメガソーラーにするというのは問題の捉え方がずれていると思います。
 荒れていく山林や耕作放棄地の問題は、日本の農業や林業の問題として、しっかりと別に論議すべきことでしょう。
 また問題点としては原発と同様に、立地地域と、立地ではないがその影響を被る地域住民の意識の違いということもあります。
 計画地は茅野市と諏訪市にかかっていて、茅野市は横河川が水源になりますが、諏訪市の水源は別なのです。
 ですから茅野市では反対する住民運動もあるのですが、諏訪市の方は関心が薄いようで、そこにも難しさがあるようでした。
 この日に参加した誰もが、太陽光発電を否定しているのではないのです。
 連絡会の村上さんも佐久さんもたぁくらたぁの野池さんも岡本さんも、自宅の屋根にはソーラーパネルを載せています。
 むしろ、原発事故以前から積極的に自然エネルギーを取り入れ、自然エネルギーを推進してもきた人たちです。
 連絡会の村上さんは、こう言います。
 「自然エネルギーを考えるときに、僕は設置場所には4つの段階があると思います。
設置した方がいい場所>設置してもいい場所>設置しない方がいい場所>設置してはいけない場所、の4つです」
大いに肯ける言葉です。
 暮しの手帖社の方たちは皆、現場を見て、また現地の人たちから話を聞いて、視察できて良かったと言い、86号の特集の続編としてこの視察行を生かした記事を書くことを約束してくれました。
 私も現場を見て本当に良かったと思いました。
 現場に足を運ぶことは頭で考えるのではなく、身体中で感じ考えることにつながります。
 東京にいると、大地に足を下ろしていることをついつい忘れがちですが、だから水は水道局からきているなどと思ってしまうのでしょう。
 茅野駅に迎えに来てくれた佐久さんは、こんなことも言っていました。
 「国の固定価格買取制度が始まって、太陽光発電の電気の買い取り価格が1キロワット43円という高値に決まってから、都会の企業が安くて広い土地を求めて地方に進出してきた。発電事業に明るくない利益を求めるだけのベンチャー企業だ。
 こういった企業を結果的に後押ししているのが、都会に本部を置く環境団体の自然エネルギー推進派だったりする。太陽光発電の急激な普及の陰で、地方の自然が破壊されていることを知って欲しい」
 心に留めたい言葉です。
でも、ことは地方の自然の破壊だけではないのです。
地方の生活も破壊していくのです。
自然エネルギーを唱えるときに、よくよく心に留めていきたいと思います。
 最後に「たぁくらたぁ」の岡本さんの発言で締めくくった視察行でした。
 「私たちは水も空気も電気も、当たり前にあるものだと思っていないだろうか?
日本は人口も減少していて、これからはさらにその現象が進んでいくと思われる。そんな時に右肩上がりの経済を追い求めるのは、間違いではないか? 企業も個人も、もっと自ら電力消費を減らしていくようなことを考えていくべきではないか?」
 岡本さんの言葉にも、私は大きく賛同します。
 私たちの日々の暮らしの中で、考え改善していくべき点は多々あると思います。
 考えるべき視点をたくさん得て、視察行が叶って本当に良かったと思いました。

いちえ 


2017年6月11日号「6月3日集会報告②」

●山本宗補さん:トーク&映像(フォトジャーナリスト)
 山本さんは戦争体験者の聞き取りと、原発事故後には福島に通い続けています。
主著に『戦後はまだ〜刻まれた加害と被害の記憶』『鎮魂と抗い〜3・11後の人びと』などがあります。
前半で戦争体験者数名の肖像写真を映し加害と被害の体験を紹介し、後半ではピアノ弾き語りの沢知恵さんとのコラボによる動画で、戦争体験者の一部が紹介されました。
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 本格的に戦争体験者の取材をしなければいけないと思ったのは、第1次安倍政権が成立したときで、改憲勢力の台頭に非常に危機感を持った。
戦後60年のその頃から戦争体験者の取材を続けてきた。
 大正3年生まれの父は戦時中憲兵隊にいたが、東南アジアで取材していると父のことは言いにくい。
昭和天皇が亡くなったとき田舎に電話して父と話していたら、「お前はアカか!勘当だ」と言われた。
戦後40年経ちながら、父親は息子より天皇が大事だった。
父を恨む気持ちが続いたが、今はその父も犠牲者だったと思える。
 母は4年前に93歳で長野の実家で亡くなったが、大正生まれの人は青春時代が全て戦争だった。
これは田舎の我が家の墓の側だが(幾つかの墓石の写真)、ほとんどが戦死者です。
28歳 再召集、32歳 再召集、40歳 再召集…これから判るのはこの人たちには妻子があっただろうことです。
 これは(男性のポートレート)大正9年生まれの金子さんだが、召集されて中国戦線に配属され、敗戦後シベリアに送られて5年過ごした後で、中国撫順の戦犯管理所で6年過ごし帰国した方です。
金子さんは戦争中のことを家族にも話せない。
上官と一緒にある村に行ったとき若い女性を上官が強姦しようとしたら抵抗された。
金子さんは上官に命じられて、その女性を生きたまま井戸に投げ込んだ。
女性の子供の幼い男児は、母を追って井戸に飛び込んで二人とも死んだ。
また別のとき、物影に隠れていた16歳の少年を銃剣で刺し殺した。
若い女性たちは日本兵のレイプから逃れるために、排泄物を体に塗った。
撫順の戦犯管理所にいた6年の間、自分たちが犯した罪を告白し認識することで自分を取り戻し、中国政府の寛大な恩赦で釈放された。
 小山さん(別の男性ポートレート)も大正9年生まれで、金子さんと同じように敗戦後シベリア抑留5年、撫順戦犯管理所で6年過ごした。
戦闘部隊が先に行き、住民が逃げた後で家探しをして兵器や食糧、牛馬を没収する略奪部隊とその後で火をつけて焼く部隊で八路軍の影響下にある地区の殲滅をした。
焼く部隊だった小山さんは、家から出てきて命乞いをする老婆を家に戻し、火をつけた。
小山さんは「和解は、真の謝罪からだ。過去を忘れることはできないが、許すことはできる」と言う。
 湯浅さん(別の男性ポートレート)は陸軍軍医で山西省の陸軍病院にいた時に、捕虜の生体解剖をやった。
前線で日本兵が負傷した時に、命を助けるための練習としてやった。
最初は2人の捕虜を生きたまま解剖した。
一人は腸の縫合手術と気管手術で、気管を切開したら血が吹き出て失血死、もう一人は手足の切断手術で麻酔薬を注射して絶命した。
平常心でこういうことをしていた。
1回目には、やっとこれで自分も一人前になれると思い、2回目は平気になり、3回目には進んでやるようになった。
私のような愚かな人間を作らないように、と湯浅さんは言い残した。

 東南アジアには、被害の記憶を語る人がいる。
ナルシサ・クラベリアさん(女性のポートレート)はフィリピン・ルソン島生まれで、父親は村長だった。
村に日本兵が来て父は上半身を切り刻まれ、母は強姦された。
弟と妹は刺し殺され、ナルシサさんと2人の姉は日本軍駐屯地に連行監禁され性奴隷にされた。
 フィリピンだけではなく東南アジア各地、中国、朝鮮半島…日本軍が占領し植民地にしようとした地では住民の抵抗運動ゲリラ活動が生まれ、すると日本軍はさらに残虐な行為をしていく。
 韓国の従軍慰安婦問題も未解決のままだが、元慰安婦だったこの人(女性のポートレート)は、「生まれ変わったらまた女性になって良い男性と結婚して子供を産み、仲良く暮らしたい」と言っていたが、それは彼女が叶えられなかった夢だ。
 戦争は国民の命を切り捨て、軍人の命も切り捨てていく。
 昭和恐慌後、国策で東南アジアや中国へ移民が送り込まれていった。
佐藤さん(男性のポートレート)一家はテニアン島に入植し、サトウキビやパイナップル栽培をしたが、小学4年性頃からは塹壕堀に駆り出された。
1944年、テニアン島は陥落し米軍の爆撃拠点になった。
テニアン島から飛び立ったB29によって、本土空襲、広島・長崎への原爆投下された。
 1944年11月マリアナ諸島が陥落すると、長野県の松代に大本営建設が始められるが、
作業に当たったのは殆ど朝鮮から強制連行された人たちだった。
 満蒙開拓団として27万人が送り込まれ、8万人は現地で亡くなり、置き去りにされた残留邦人たちがいた。
 国に従って国に捨てられた人々を、再び生まないようにしよう。
*****山本さんの話はここまで。続いて山本さんの写真にかぶせて沢知恵さんのピアノ弾き語りによる動画が流されました。********************

●ハムケ歌う会&めだか大学:合唱
 李 和蓮(リ ファリョン)さんの作詞・作曲による「今をうたう」を、李さんの「ハムケ(共に)歌う会」と、岡田京子さん(作曲家)の「めだか大学」の方達での合同合唱でした。
 「ハムケうたう会」も「めだか大学」もどちらもステージで発表する合唱団ではなく、自分たちの暮らしの中でそれぞれの思いを曲にして、自分たちで歌い続けてきました。
「今をうたう」は沖縄の反基地の闘いを自分の問題としてどう向き合うかを歌ったものです。
 はじめに「ハムケうたう会」と「めだか大学」の皆さんが歌ってくれた後で、会場の参加者も李さんのリードで共に声を合わせて、舞台と会場がひとつになって歌声が流れました。

第2部 映画とトークの夕べ
 『X年後2』の上映と、映画の主人公の川口美砂さんと私のトークでした。
●映画『X年後2』
 故郷の高知県室戸市に帰省していた川口美砂さんは、帰京する直前にたまたま妹に誘われて、そこで自主上映された映画『放射線を浴びたX年後』を見ました。
それはビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で被爆したのは、第五福竜丸だけではない事実を追った南海放送制作のドキュメンタリー映画でした。
 映画を見た川口美砂さんは、元マグロ漁船の漁師だった父親の早過ぎる死に疑問を抱き始めました。
「酒の飲み過ぎで早死にした」と言われた父、本当にそうなのだろうか?
同郷の漫画家、和気一作さんもまた同様に父の死に疑問を抱きました。
 『放射線を浴びたX年後』の制作をした監督はその後も取材を続けていましたが、川口さんは監督に取材協力を申し出て、共に取材する中で川口さんが主人公になっていった今作品が生まれました。

 映画上映の後で川口さんから私が話をお聞きしましたが、川口さんの「知ることの大事を知る」という言葉が、深く胸に残りました。

 **********************************
 情報を隠し忘れさせ、無かったことにしていく。
これは政府や時の権力者たちが、今も繰り返していることです。
この第18回集会での木村まきさん、山本宗補さんのお話、『X年後2』は、記憶を風化させず隠されたことを明らかにして伝え続けることを、辻 仁美さん、猿田佐世さん、白石 草さんのお話は、これから私たちがどう行動していくべきかを示唆していたと思います。
そして黒坂黒太郎さん&矢口周美さん、「ハムケうたう会」と「めだか大学」の歌と演奏は、音楽がしなやかにしたたかに権力に抗う力になることを改めて感じさせてくれました。
 「いま、語り描き 写し歌い舞うとき」と様々な表現手段で、戦争への道は歩かない!声を上げ続けていこうと思います。                 

いちえ

関連:

2017年6月11日号「6月3日集会報告①」

◎集会報告
 6月3日、江東区総合区民センターレクホールで、「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」の集会を催しました。
第18回「いま 語り描き 歌い写し舞うとき」です。
 この会は、2004年春に自衛隊がイラクに派兵されることに反対して友人の女性たちと立ち上げた会です。
「平和を願う人、この指とまれ」のように賛同する仲間が増えてきました。
しかし政府は、その願いとは真逆の方向へ舵を取り、「特定秘密保護法」「新安保法制」を制定し、「集団的自衛権」を行使しました。
さらに政府は「共謀罪」を閣議決定し、沖縄ではまるで共謀罪の先取りのように、非暴力で反基地運動を進めている仲間たちを拘束し、日米政府の思惑のままに新基地建設を進めています。
 原発事故は収束せず、被災者たちを切り捨てにして、政府や経済界は再稼働、原発輸出を進め、また武器輸出をも進めています。
 私たちは、世界に紛争を広めることに加担せずに平和に暮らしたい!
 「戦争への道は歩かない!」声をさらに大きくしましょう。
そう呼びかけての第18回集会でした。

第1部 表現者はリレーする
●矢口周美さん&黒坂黒太郎さん:コカリナ演奏と歌
 お二人でこの会に出てくださるのは2回目、周美さんお一人で出演していただいたこともあります。
コカリナは木製の小さな楽器で、木で作ったオカリナと言ったらいいでしょうか。
**********
 黒太郎さんのコカリナの音色が、会場に流れました。
それは周美さんが歌う ♪死んだ男の残したものは♪ の前奏でした。
周美さんはオートハープを奏でながら、歌ってくれました。
谷川俊太郎さんの詩に武満徹さんが曲をつけたこの歌は、いつ聴いても心にしみますが、
とりわけこの日の私には、周美さんが私のために歌ってくれたようにも思え、聴きながら涙が溢れました。
前日の法廷で私は,「死んだ男」の一人である父を語った後だったからです。
     死んだ男の残したものは
     ひとりの妻とひとりの子ども
     他には何も残さなかった
     墓石ひとつ残さなかった
 2曲目は、つい先日長野芸術館で子どもから大人まで200名のコカリナ合奏団で発表した新曲 ♪世界中の友達へ平和を♪ を、黒太郎さんのギターと周美さんの歌で聞かせてくれました。
歌詞の中に「チョウが舞えば風が起き、風は地球をかけめぐる。君の言葉風に乗り平和を運ぶ」とありましたが、これはトランプ政権が誕生した時に、アメリカの社会学者イマニュエル博士が話した言葉を元に創ったそうです。
 3局目は ♪アメージンググレイス♪ のグレイスをピースに置き換えて周美さんが歌い、黒太郎さんは広い島の被爆樹で作ったコカリナで演奏しました。
 歌の力、音楽の力は人の心を動かし、平和への道に続くと確信します。

●辻 仁美さん:トーク(安保関連法に反対するママの会@埼玉)
 3.11の原発事故をきっかけに、政治に関心を持ち始めたという辻さんです。
政府は情報を隠し、また偽りの情報を出すことに気づき、原発・放射能、食の安全など自分で考えて行動しなければと思うようになって、子どもを護る市民活動に参加するようになりました。
***************
 住まいが近かったことから肥田俊太郎さんの講演活動のサポートをするようになり、戦争の悲惨さや原爆の実相を知り、平和への思いを心に刻みました。
そして「誰の子供も殺させない」を合言葉に、「安保関連法に反対するママの会@埼玉」を結成して、活動しています。
 政府は、国民の8割が時期尚早と言っていた安保法制を強行採決し、たった3時間の審議で平成の治安維持法とも言える共謀罪を衆議院で可決しました。
「テロ等準備罪」と言うが、国会前の抗議行動を「テロ」と言った政治家がいたように
共謀罪は抵抗する市民の弾圧が目的に他ならないでしょう。
メディアをコントロールし、国民の知る権利を侵害し、私たちの心の中を覗き見しようとするアベ政権こそ、テロリストです。
 声を上げることが罪になる息苦しい社会は、怖いです。
今の政治に対する不安や恐れを共に語り合える場をと、幅広い世代で年齢も性別も超えて、民主主義を発展させるためのプラットホームを目指す個人の集まりとして、今年3月に立ち上がった「未来のための公共」の活動があります。
 誰もが政治の当事者なのだから、誰もが声をあげないと変わりません。
今を生きる者の責任として、次世代に平和を残したい。
思いだけでは伝わらないですから、自分の地域で暮らしに根ざした身近な切り口でアプローチしての対話などから、人の輪を広げることが大事だと感じています。
決して諦めず、声をあげ続けたいと思います。
みなさまご一緒に頑張っていきましょう。

●木村まきさん:トーク(横浜事件国家賠償訴訟原告)
 横浜事件元被告の木村亨さんと結婚したまきさんは、亨さんの死後の1998年に横浜事件第3次再審請求人となりました。
これは2008年に最高裁で免訴判決が確定し、2010年に刑事補償が出て終結しました。
まきさんは新たに弁護団を結成して、2012年に国家賠償訴訟を提訴しました。
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 夫の木村亨は1942年富山県の温泉で友人らと集い、中庭で撮った集合写真を証拠物件として治安維持法違反容疑で逮捕されたのです。
特高による全くのでっち上げで、「共産党再建の準備会をしていた」とされたのです。
特高は網を広げて60数名が逮捕されたのですが、逮捕者は新聞記者やジャーナリスト
たちで戦争に反対の意識を持っていた人たちでした。
代用監獄に収監され激しい拷問を受けました。
取り調べとして、広い部屋を黒いカーテンで仕切った向こう側で拷問が行われたのです。
気を失えばバケツの水をかけられ、意識を取り戻せばまた拷問が繰り返され、拷問によって獄死した人もいます。
亨は「このままでは生きて帰れない」と思い、共産党再建準備会をしたという虚偽の自白をしました。
30数名が治安維持法違反で拘置所に移され、833日間拘束されました。
敗戦によって治安維持法が廃案になる直前のたった1日の駆けつけ裁判で、その虚偽の自白を唯一の証拠とされて、懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受けました。
 このまま泣き寝入りはできないと、拷問に関わった元特高警察官を告訴しました。
最高裁で元特高のうちの3名だけに有罪判決が下されましたが、サンフランシスコ講和条約の大赦によって、彼らは1日も獄舎に入らず免訴となりました。
裁判官、検察官にはなんの処分も下されませんでした。
 でっち上げ事件で逮捕された元被告人や他界した元被告人の遺族たちは再審請求を繰り返し、2005年に再審開始が確定しましたが、2008年に最高裁で罪の有無を判断せずに裁判を打ち切る免訴判決が出されました。
 元被告人らの意思を受け継いで再審請求してきたのは、無罪を認めさせることだけではなく、治安維持法がどんな法律であったのか、そのために多くの市民が被害を被ったかを明らかにして、司法の犯罪と日本の戦争責任を明らかにすべき裁判であることからでした。
2012年に新たに2名で弁護団を結成し、国家賠償請求を提訴し闘っています。
 共謀罪と治安維持法は全く同じではないにしろ、限りなくよく似ている法ですから、国が目をつけた人間を引っ張っていけるような恐ろしい時代の再来は、絶対に許すことはできないと思います。
みんなで声をあげて共謀罪を廃案にしていくように、みなさんと一緒に頑張っていきたいと思います。

●猿田佐世さん:トーク&映像(弁護士)
 猿田さんは2002年に日本で弁護士登録をした後、2009年にアメリカ・ニューヨーク州弁護士登録をし、2013年にシンクタンク「新外交イニシアティブ」を設立。
各外交・政治問題について米議会などで自らロビイングを行うほか、日本の国会議員や地方公共団体などの訪米行動を実施、2015年及び2017年2月の沖縄訪米団、2012年・14年の稲嶺進名護市長訪米行動の企画・運営を担当しました。
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 以前にもこの会でお話しさせていただきましたが(第3回集会)、その後私はワシントンという日米同盟や日本の軍事政策を決めているような町に行ってしまったので、この会がもう18回も続いて、多くの人が声をあげていることに感動しています。
私がやっているのは、草の根の声を聞かないような人たちのところに行って話を聞いてもらうことなので、今日のような草の根の声を発する人たちの温かい会で話せることがとても嬉しいです。
 日本の政策に対してアメリカがうるさく指示を出していると思われる方が多いのですが、日本に居て聞こえてくるアメリカの声は、日本側が作っている面もあります。
ワシントンを歩いているとアメリカの声は結構柔軟で、例えばアーミテージ報告書でも
沖縄がそんなに辺野古基地移設に反対しているなら別の案を考えた方がいいのでは、と言っているし、日本で民主党政権時に2030年までに原発廃止しようと決めた時にも、ワシントンの原発や核専門家たちの声は、原発を続けるかどうかは日本が決めればいいことだと言い、ただし六ヶ所村だけは核兵器原料になるから止めて欲しいと言っていた。
TPPに至っては、トランプはTPPを離脱したし、対抗馬だったヒラリー・クリントンも賛成していなかった。
日本国内で自民党議員にも反対派はいたのに、日本政府はアメリカがやるならと推進して加入した。
 私たちがアメリカの声だと思っていることは、実はアメリカの声ではない。
日本の新聞ではアメリカのことを書いていない日はなく、アメリカの声を大切にしてアメリカの影響を考えながら生活をしている。
 誰がどうやってアメリカの声にしているのか?
アメリカでは日本に対する関心はまったくと言っていいほど無いし、一般のアメリカ人も寿司に関心はあっても日本の政治には無関心で、非常に少ないごく一部の人だけが関心を持ち、そして影響を与えている。
日本でワシントンに繋がっているのは大使館、大企業で、それだけが日本の声を伝える。
そういうところが、日本にもっと関心を持ってくれるようにとごく一部の知日派アメリカ人に、ロビー活動をする。
アメリカでのロビイストは日本が一番多く、またお金も一番多く使っている。
日本政府が出している声を、それら知日派を通してアメリカの声のように出してくる。
アメリカのTPP議員連盟も日本政府がお金を出して委託したロビイストの働きかけで設立されたのだが、日本のメディアは「アメリカに議員連盟が出来た」ことは報じてもどういう経路でできたかは報じないから、日本人はそれがアメリカの積極的な声だと思ってしまう。
ワシントンでは、軍事的にでも沖縄の基地はいらないという声もある。
 沖縄米軍基地や原発、TPPなど政府が伝えない声をワシントンに伝え、政府と一部の大企業による従来の日米関係を変え、アジア・太平洋地域の平和的かつ建設的な外交関係構築の助けとなる活動をしていきたい。

●白石 草さん:トーク&映像(Our Planet-TV代表)
 テレビ局勤務を経て、2001年にインターネットを利用した非営利の独立メディアの「Our Planet-TV」を設立し、マスメディアが取り上げないテーマを中心に、番組を制作・配信しているほか、一般市民向けの映像ワークショップを展開している。
3・11以降は原発問題を多数取り上げ、放送ウーマン賞、JCI日本ジャーナリスト会議賞、松井やよりジャーナリスト大賞奨励賞、科学ジャーナリスト大賞などを受賞。
 白石さんは始めに、国連特別報告者のデービット・ケイ氏が前日に上智大学で行った記者会見の映像を流しました。
*****以下はデービッド・ケイ氏の記者会見映像から********
 「国連の人権活動は、国連人権理事会中心に展開されていて、世界各国の人権状況を調査する。
その委員は国連総会で選出され、選出される特別報告者は50人いる。
私は世界の人権状況を調査し監視する50人のうちの一人で、人権理事会に任命されて、日本だけではなく世界各国の言論・表現の自由を調査している。
 特別報告者として私は、主に3つの仕事をしている。
①表現の自由に懸念がある場合、その政府と直接意見交換する。
②昨年4月に日本訪問したように各国を直接訪問する。昨年3月にタジキスタン、11月にはトルコを訪問した。
③各地で調査したことを報告書にまとめる。
調査を実施した地域で表現の自由がどのように運用されているかを報告する。
 日本において何に焦点を当ててきたかを説明したい。
ジャーナリストやメディアの独立が保たれ、促進されているか。
日本はインターネットが非常に活用されているが、そうしたネット状況についても調べた。
 まず、二点申し上げたい。
 一つ目は報道の独自性だ。
日本には沢山の大手メディアがあり調査報道も行われているが、報道によって逮捕されたジャーナリストは一人もいない。
しかし今、メディアの独自性が危機にさらされている。
私の報告書では、メディアの独自性を確保するために、放送の規制機関を政府から切り離し、独立機関を創設するよう強調している。
 ご存知の方もいるかもしれないが、多くの人が知らない事実がある。
日本では戦後、政府から独立した放送規制機関(電波管理委員会)があった。
しかし日本が占領軍から主権を回復した後、日本政府はこの独立機関を廃止し今の総務省に管轄を移した。
世界常識に照らせば報道の規制機関は、政府直轄であってはならない。
報道内容によって放送中止や免許取り消しなどが行われないよう、放送の規制機関は政府から独立していなければならない。
 もう一つ私が感じたのは、ジャーナリストが連帯意識を共有していないことだ。
会社に対する忠誠心はあっても、仲間への連帯感は感じられなかった。
 非常に多くのジャーナリストと話したが、日々報道する中で、多くのジャーナリストが圧力を感じ、デリケートな内容や政府を批判する報道がしにくいと聞いた。
こうしたことと記者クラブ制度が結びつき、独立した報道を困難にさせていると感じた。

 この後どうなるかは、私には何の権限もない。
私ができるのは、人権理事会に報告することだけだ。
これ以降は、日本の人々がこの勧告を無意味だと考えるか、あるいは勧告を受け止めて何らかの改善をするかどうかだ。
日本の皆さんはこの勧告を無意味だと思っていないと思うし、日本政府に改善を求めていると思う。
 しかし、これはあくまでも勧告だ。
世界中の人権状況や表現の自由、報道規制などに関する私の分析に基づいた勧告だ。
日本と同じような民主国家における表現の自由やメディア規制制度と比較したものなので、日本の皆さんがこの勧告を生かして広く議論をしてほしい。
 そして日本政府には、この勧告を攻撃だとかいう受け取り方をせずに、世界の民主的な国として友好的な立場で捉えてほしい。
私は6月12日に、この報告を国連に提出する。
その後は、この報告をどう活用するか、それは皆さんにかかっている」
****デ−ビッド・ケイ氏の記者会見ここまで。この後は白石さんの話******
 表現の自由の分野で、日本は危機的状況にある。
デービッド・ケイ氏は秘密保護法成立を受けて昨年来日し検査報告書を国連に提出した。
日本の独立機関について話があったが、先ほどの木村まきさんの話を聞いて、サンフランシスコ講和条約後の日本は酷いということを、改めて思った。
いろいろなことを、戦後帳消しにしてしまった。
 戦時中の日本メディアは同盟通信の一極集中で、国民はラジオや新聞での大本営発表のプロパガンダに騙されていたし、疑問があっても口にできなかった。
そこで戦後GHQの指導で、放送規制の独立機関を創設した。
同盟通信は今で言えば共同通信と時事通信、電通が一緒になったものだが、戦時中はそこが宣伝活動をしていたが、戦後に解体された。
そして共同通信、時事通信の2つに分けられ、それは今も報道機関として継続している。
このとき電通とNHKは解体されずに継続したが、なぜだったのかまだ調査していない。
 ケイさんの話にもあったが、放送法については国の独占機関ではなく独立機関による規制にしなければいけない。
それで「電波管理委員会」が創設されたのだが、サンフランシスコ講和条約施行後、政府は強行採決によってそれを廃止し、当時の逓信省が直接電波を監理する戦前と同じようなシステムにしてしまった。
 その直後にテレビが普及し始め、始めのうちは細々とテレビが免許を取っていたが、田中角栄が郵政大臣になって、次々に免許を出していった。
政府が直接免許を出すという日本独特のやり方で、例えばアメリカのように、独立機関が公募して入札制度でやるような透明性の高いものではなかった。
田中角栄のやり方は、放送局をやりたいという者に声をかけ北海道、九州など都道府県でその地域の人たちで一社、会社を作るように進めた。
そして、それぞれの企業の持株利率を、角栄が決めた。
これにより一気に70社くらいの放送局が申請され、全て角栄のチェック、判断に通ったところが許可された。
角栄は総理大臣になってからの記者会見で、放送局のことはすべてを掴んでいるから、いざとなったら首を切れると言い、自民党や角栄の意向を忖度する企業に大きな株をもたせた。
 ‘59年、それぞれの系列を決め、日テレ=読売、TBS=毎日、テレ朝=朝日、フジ=産経と4つにした。
新聞社もこれからはテレビの時代と解っているので、新聞社から出向させるようになり、地方はなるべく早く免許を取るために政治部の記者が総務省、郵政省の大臣に有利なことを書くようになり、そのような記者が配置されていった。
4つの新聞社を抑えると、全国のテレビが抑えられる。
 ケイさんの警告にはこのようなやりかたをとっているのは、北朝鮮、中国、ベトナムといった独裁国家だけだが、それが日本にも残っていることを日本の市民は知らないと言っている。
民主党政権が独立機関による規制を掲げていたが、読売新聞が一面でそのような制度ができたら言論の自由がなくなるとキャンペーンを張り、これを潰してしまった。
この制度を進めるのは非常に高度なことだが、共謀罪や安保法制が出てきているときにメディアの独立が保たれなければ、戦前と同じになってしまう。


2017年6月7日号「5月27日トークの会報告②」

飯舘村の長谷川健一さんのお話しのつづきです。

●汚染状況
伐採した杉の丸太の写真、放射線量が目視できる写真などが映された。
キノコの写真も。
 杉の木を伐採して測ってみた。
たいていどの家も風除けなどにエグネ(屋敷林)が家の裏手などあるが、その杉を切った。
放射線量を測ってもらったが、樹皮の部分が一番高く、皮のすぐ下も高い、それから芯がとても高い。
事故当時に伐採したものも、今伐採したものも同じような状況で出ている。
 林野庁は「一切心配しないで、使って良い」と言っているので、飯舘村では自分のところの屋敷林の杉を切って、それで家を建てた人もいる。
「大丈夫」って言われたからな。
国では年間被ばく線量1ミリシーベルトを目指すといい、これは1日に屋外活動8時間・残りの16時間を家の中で過ごすと想定しての事だ。
だがこんな材木で家を作ったら、24時間被ばくしている事になる。
 キノコも放射線量は高く、経年経過を見ても上がったり下がったりしていて時間が経ったから低くなっているなどではない。
とても食べられない高線量だ。
国は100ベクレル以下ならOKというが、去年の松茸は3500〜14000ベクレルだったし、イノハナが3800〜10000ベクレル、干すとこの10倍の値になる。
イノハナは香りがとても良く、松茸より匂いも味もいいが、それが食べられない。

●村の予算
現在建設中の国道12号線沿いの道の駅、同じく12号線沿いの既にオープンしている交流センター、役場近くの学校エリアの建設構想を示した図、12号線の川俣との境、南相馬との境に設置した看板付き線量計の写真が映された。
 今年度の村の予算は212億円だが、これは本宮市の一般予算と同額だ。
事故前の飯舘村予算は、45億円だった。
アンケート調査で「戻りたい」という回答が33パーセントだったとされているが、回答者は年寄りばかりだ。
それを隠して数字だけを言うのはごまかしだ。
村民6000人の33パーセントではない、これには若い人は答えていない。
そのアンケートで一番多かったのが、医療に関しての不安だった。
避難指示解除に際して一番大事な事は、福祉・医療・介護だ。
 特養に対して、村としてきちんと対応しなければいけない。
今やっている事は近隣町村のホームにお願いをしているだけで、飯舘村には140床の特養施設があるのに有効活用されていない。
現在入所者は35人、待機者は40人いてベットは空いているのに入れずにいる。
なぜかといえば介護する職員がいないと言うが、それなら職員を増やせばいいのだ。
村内にコンビニが一軒あって、従業員がなかなか集まらなかったから村ではコンビニに助成して時給1250円+交通費を払っている。
特養の職員の時給は800円で、福島県の最低賃金770円よりほんの少しいいだけだ。
これじゃぁ、職員も集まらないだろう。
給料を上げろと言うと「一旦給料を上げると、後で下げられない」とか「ボーナスをたくさん出している」などと答えが返るがが、それじゃぁダメだ。
 その一方で復興拠点にすると言って「道の駅」を作っている。
道の駅が復興拠点になるか?トイレ休憩に利用されるだけではないか。
道の駅の隣には巨大なハウスを作り、予算は全体で11億円で、ハウスは東京の種苗会社が使う。
 交流センターを作って、その内部には木彫のオブジエが何体も置かれている。
建物に9億円、オブジエに2000万円かかっている。
センターの集会スペースは舞台の後ろはガラス張りで、そこはカーテンがかかっているが、カーテンを開ければ向こうはフレコンバックの山だ。
道の駅も交流センターも既存の施設があるのに、それは使わず新しいのを作っている。
 国道12号線の上下で入り口には、看板付きの線量計を設置した。
看板には入ってくるときは「お帰りなさい 首を長〜くして待ってたよ」出て行くときは「行ってらっしゃい 必ず帰ってきてね」と書いてあるが、それが1800万円。
 来年は学校も戻すが、既存の飯舘中学校周辺を学校エリアにするという。
幼稚園から小中一貫校に建て直し、全天候型テニスコートや陸上競技場、野球場、スポーツ広場などの構想があって、それが63億円。
じじばばしか戻らないのに、そんな場所が必要か?
 これらすべてが212億円の予算の中に入っている。
事故がなければ小学生は600人いたが、今年3月では105人、避難指示解除になった今現在は51人だ。
来年学校再開したら、またドーンと減るだろう。
今年のピカピカの1年生は2人だったが、そのうちの一人は保護者が「来年は学校を飯舘に戻す事が決まっているから、そのときには転校させる」と言っている。
 このままでは飯舘は第二の夕張になる。既存の施設も維持費がかかるのにそれを有効活用せずに、新たなハコモノを作ってどうするんだ?
 私は飯舘村認定農業者協議会会長だから農業の担い手のトップだが、村のこれからを考える会議には、いつも私を入れずに除外している。
どういう人達が集まっているかといえば「天の声」いわゆる学識経験者といわれる政府寄りの学者たちとイエスマン村民ばかりだ。
異議を唱えるものは排除する。

●チェルノブイリ
 飯舘村のこれからを考えるときに、チェルノブイリの今を見ておきたいと思って一昨年、行ってきた。
学校や病院、ピリピチャ、森や廃墟、30キロ圏内に暮らすサマショールと呼ばれる人達の家庭や風景写真が映された。
 広河隆一さんが関わっている施設で、学校・病院が整っている養護施設の子供たちだが、事故当時子供だった人が成人して生まれた子どもたちだった。
元気そうに見えるが、抵抗力がない・すぐ病気になる・子どもなのに高血圧。糖尿病・呼吸器系の疾患などを抱えている子どもが多い。
飯舘村の25年後はこうなるかもしれないと思った。
そのときに誰も責任を取らないのが、恐ろしい。
 サマショールと呼ばれる人達に非常に興味があったので、途中でツァーの人達と別れて独自で30キロ圏内に行った。
豊かな国ではないが、放射能に対してきちんと対応している様子が見えた。
要所要所に検問所があり、原発労働者の送迎バスは荷物を入れるトランク内まですべて検査して、汚染物質を絶対に外へ出さないように徹底して調べている。
 サマショールの人達に話を聞くと、最初はただただ避難せよということで理由も知らされず、みんな2、3日分の必要なものだけを持って避難した。
2、3ヶ月後に年寄りたちはだんだん戻ってきたが、若い人は戻らなかった。
30年経って、亡くなった人もいれば子どものところへ行ったりして、今ここに住む人は本当に少なくなった。
貧しい国だが、国ではきちんと対応していて電気・電話は通じていて週に一度は移動販売車が来る。
あとは自給自足で、避難する前にはなかったことだが狼対策として、木の塀を回してその中に鶏やウサギなどを放し飼いにしている。
 「死の橋」も見た。そこからは原発が見える。
チェルノブイリは平坦な地で、鉄道が一本通っていた。
事故当時、その鉄道の跨線橋に人々が上がって、原発から立ち上る黒い煙を見ていたという。
そこで眺めていた人達が死んだり病気になったりしたために「死の橋」と呼ばれている。
 飯舘村の蕨平地区には、巨大な減容化施設ができて稼働している。
そこは47戸の集落だが、すぐに戻りたいというのは2戸だけで、どちらも独居老人だ。
あとは戻らない。
蕨平の長老が「蕨平、終わったど」と言ったが、こうしてチェルノブイリになっていくのだと思った。
若い人がいないところに未来はない。

●これから
 昨年は前田地区の70アール(県の実証実験園)で蕎麦を蒔き、できた蕎麦は26ベクレルが検出された。
これは国基準の100ベクレルより低いが、北海道産の0ベクレルと私の26を並べたら、私のは誰も買わないだろう。
これは風評被害ではなく実害だ。
北海道産0、私のも0で、それでも私のが売れないのなら、これは風評被害だが、生産者としては実害だ。
 飯舘3000ヘクタールの農地をどうするか?
村でもこれからについて、いろいろ考えている人もいて。昼夜の温度差が大きいから花の色が鮮やかになるので花卉栽培をする人もいる。
だけど3000ヘクタール全部を花というわけにもいかないだろう。
 せめて前田地区だけでもなんとかしようと、仲間と考えてやっぱり蕎麦だとなった。一つ一つまでいにやっていては追いつかないから、1から10まで機械化して、土地利用型でやっていかないとダメだ。
一緒にやろうという仲間は5人だが、年取ってもトラクターに乗って畝ったり植え付けや刈り取りはできる。
今年は販売はせず、来年のための種取りだ。
蕎麦は水分が多いところはダメだから、田んぼだったところは蕎麦ではなく飼料米を考えている。
地区の実働部隊5人で、蕎麦と飼料米の2本立てでやっていこうと考えている。
 アンケートをとって、自分で農地の維持管理をやる人が半数弱、誰かやってくれる人があるなら頼みたいという人が半数強だった。
 県から10アールあたり35,000円の維持管理費が出るから、そういう事業を利用して農地を荒らさないようにしていくが、維持管理費もいずれは出なくなるだろう。
営農再開しても売れなければ止めていくだろうし、そうなれば畑地は荒れていく。
伊達の仮説から通ってやっているが、張り合いがねぇな。
だって、後ろ向いても続くものは誰も居ねぇ。

●展望の持てない未来
 放射能災害はすべてのものを壊す。
我々の体も、いつ壊れるか判らん。
夫婦も考え方の違いで離婚する人も出る。家族もバラバラになっていく。
俺と村長も、あれだけ仲良かったのに、ダメだ。
県も村も、バラバラ。
これが放射能災害の最大の欠点だ。
 宮城や岩手の津波の大災害地では、なんとか立ち上がろうという声が出ている。
だが飯舘村は、家はそっくり残っているのに、やりようがない。
環境省は希望者には無料で家を解体して更地にしていくようにしているが、国も廃墟になっていくのが判っているから、取り壊していくのだろう。
 甲状腺癌のこどもが184人出ているが、国は原発事故との因果関係はないという。そう言いながら、県立病院にはアイソトープ治療ができるすごく立派な小児病棟を作っている。
甲状腺癌の子どもが増えることが、わかっているのだろう。
 今コンビニは1件あるが、12号線沿いに別のコンビニが開店するという情報があるし、食堂も再開すると聞いている。
そうやって行け行けどんどんでやっても、いずれは共倒れになるのではないか?
老人しか戻らない村で、そういうものを開いて果たして大丈夫か?
現在開店中のコンビニも平日は作業員が客に来て賑わっているが、土・日は客がいない。
 フレコンバックを、いつまで野積みにしておくのか。
あれが山になっているところに戻って暮らせという。
今年度中に中間貯蔵施設に運び込む予定は50万個というが、県内には2200万個ある。
目の前から無くなるのに何十年かかるか、俺たちは生きてる内はフレコンバックと睨めっこしなきゃなんねぇかな。
子どもたちがいないところに未来はない。
 これが飯舘村のこれまでと、これからです。
ご静聴、ありがとうございました。
=======長谷川さんのお話は、ここまでです。==============

いちえ


2017年6月7日号「5月27日トークの会報告①」

大変遅くなりましたが、5月27日に催したトークの会「福島の声を聞こう!vol.23」の報告です。
ゲストスピーカーは、飯舘村の長谷川健一さんです。
長文なので2回に分けてお送りしますが、飯舘村の現状をぜひ知っていただきたく、どうぞ最後までお読みくださいますようお願いいたします。

23回目になるトークの会、ゲストスピーカーは長谷川健一さんでした。
長谷川さんは原発事故が起きてからの村の様子を、写真や動画、言葉や数字で記録を続けています。
この会で長谷川さんに話していただくのは2度目ですが、今回もまた写真や表などをパワーポイントを使ってスクリーンに写し出しながら話してくださいました。

●2011年3月
まずはじめにスクリーンに映し出されたのは、農地が一面のフレコンバックの山になってしまった飯舘村の現在の様子。
それから福島の地図、飯舘村の行政区割りも載った地図が映された。
 帰還困難区域の長泥地区が原発から30km、私の自宅のある前田地区が45kmの場所だが、そこでプルトニウム、ストロンチウムが検出された。
飯舘村は美しい村だが、まさか原発から40kmも離れたところでそんなものが検出されるなんてと思った。
ところが長泥を除いて、この3月31日に避難指示解除になった。
 村長は素晴らしいアイディアマンで、私と同じ酪農家で友達だった。
24年前に彼が村長選に出るときに共に闘い、共に村を作ってきたという自覚を私は持っている。
 しかし、原発事故をきっかけに気持ちが疎遠になってしまった。
彼は村を守ろうとし、私は村ではなく命が大事だと言った。
そのように、意見の対立が起きてしまった。
飯舘村に放射能がまともに流れたスピーディでの記録写真が映された。
 この情報が国によって隠され、県も隠蔽した。
行政は嘘をつく、隠す、隠し通す。
隠しきれなくなってチョイ出しをしてくることによって、我々の被曝につながる。
 3月15日、「不安のある方は避難してください」とバスが用意され350人が栃木県鹿沼市へ避難した。
みんな不安ではなかった。
放射能は見えないし匂いもしない、安全・安心と言われていた。
その後長崎大の山下俊一などが安全講話をした結果、鹿沼市へ避難した一部の人達も、また自主避難した人たちも、戻ってきてしまった。
 逆に京大の今中さんのように、危ないという人も出てきた。
今中さんは「恐ろしいことだ。こんなに線量が高いところに、人が住んでいることは信じられない」と、データを持って村長に会い「直ちに全村避難すべき」と言ったのだが、村長は拒否し、「そんなことはできない。この線量を浴びながら生活することはできないか?」と問うた。
今中さんは「それは無理だ。どうしても離れられないなら、厚いコンクリート壁の建物内で暮らすべきだ」と答えた。
 村を守ろうとする村長に私は「せめて子どもだけでも避難させろ」と言い、区長会でもそう言ったのだが、「子どもだけでも避難させろというのは解るが、子どもだけではやれない。子どもが行けば親もいくだろう。すると村は空になる」と言われた。
 葛尾村の松本村長は国が避難指示を出すより以前に、全村避難させた。
3月12日に東電の免震重要棟から東電社員が避難する情報を知り、すぐに対策本部を開き、夜中に村民全員を避難させたので、葛尾村の人は誰も被曝していない。
後に(2013年)、松本村長は国際的な環境団体から「グリーンスター賞」を受賞した。
大事故のときに村民を安全に避難させ、被曝をさせなかったことが評価された。

●2011年4月
 4月12日、計画的避難に国はようやく重い腰を上げた。
この時に村は、誘致した企業と特養を残すことを要請し、企業と特養は残った。
お年寄りが避難によって症状が悪化することもあるから、特養を残すのは解るが、企業を残したことで、若い従業員は避難先から飯舘村に通うことになった。
 この頃全国の自治体から、飯舘村民を受け入れる態勢があるからいらっしゃいと言われたが、村はそれら全てを断った。
住民は村から車で1時間以内の場所に避難させるというのが、その理由だ。
避難指示解除になったら直ちに戻って、村を再興させるためということだ。
長谷川さんが牛乳を穴に捨てている写真や、牛を屠畜場に送るために車に乗せる写真、畜舎で餓死した牛たちの姿が写っている写真が映される。
畜舎の壁にチョークで「原発さえなければ」と書き残された遺書の写真も。
 毎日乳を搾って捨てていた。人間は避難したが動物は移動制限され、屠畜処分しろと指示され、屠畜は賭場に運んでするようにと言われた。
これは交渉して、移動制限は解除された。
 この頃はいろいろなことが起こった。
相馬の酪農家は「原発さえなければ」と書いて、自殺した。
私の友人だった。
 隣の地区の102歳のおじいちゃんが、避難するのにワシがいては足手まといだろうと言って自殺した。102歳だよ。
南相馬では「私はお墓に避難します」と言って自殺したおばあちゃんがいた。
飯舘村のダムの橋の上から、飛び込んだ人もいる。
 牛が餓死した写真に写っているこれは、豚の足跡だ。
死んだ牛を、逃げた豚が食べてたんだ。
酪農家は一週間くらいで戻れると思って餌をたっぷり置いて出たんだが、その後入ることができなくなって、餌をやれずに牛は餓死していった。

●除染とモニタリングポスト
環境省が設置したモニタリングポストと、そのすぐ脇で長谷川さんが手にした線量計の写真。官製の方が低い数値を示している。
家の屋根瓦を作業員がペーパータオルでふき取り作業をしている様子、ビニールハウスを同様にペーパータオルでふき取る作業をしている写真が映された。
 モニタリングポストはたくさん設置されている。村内に約70基。全てが低く表示される。
私は2011年12月から毎月1回、前田地区の一戸一戸の玄関先で測定を続けているが、公表される数値のほぼ倍の値が出ている。
 原発事故は絶対に起きないということが前提にされてきていたから、除染の研究などしてこなかった。ところが事故が起きて、現実の除染はペーパータオルで屋根瓦を拭くとか、ビニールハウスをペーパータオルで拭いている。
そんなことで除染ができるのか?
 道路の法面は草を刈って、箒で掃くのが除染だという。
除染といっても「面的除染」で「線量除染」ではないから、面積をこなせばいいだけで、線量が下がらなくても構わない。
だから作業員が「除染したって下がらないよ」と言っている。
 宅地除染や農地除染は、表土を5cm剥いだ上に山から採ってきた土を盛り土して除染だと言うが、それは除染ではなくて遮蔽だろう。
そうして“除染”したものをフレコンバックに詰めて、飯舘村の中にはフレコンバックは235万個と言われている。
福島県内には2200万個と。
これが中間貯蔵施設に運ばれようとしているが、運ぶ順序があるだろう。
まずはじめには福島市や郡山市の宅地や学校が先になるだろうから、飯舘村など最後の最後だろう。
前田地区の除染の範囲を示した地図の写真。
これが前田地区の除染の範囲だが、道と宅地はするが山はやらない。
飯舘は75パーセントが山なのだ。
今中先生は放射能は山から水が流れるように、谷筋を通って下に流れていくと言っていた。
除染した場所、地上1cmで値が下がっても、1mでは上がる。空中に蔓延しているということだ。

●県民健康管理調査 外部線量推計結果
数字を書いた表で出されたのだが、それでは分かりにくかったのでグラフで表したという。そしてそのグラフの写真が映された。
 2011年3月11日から7月11日までの3ヶ月間どこで何をしていたかを記入し、その調査から体内被曝線量を推計してグラフに表したものだ。
飯舘村は突出して被曝量が多いが、周辺町村では被曝していないところもある。
早期に避難したところは被曝していない。
5ミリ以上被曝した人は福島県内で960人となっているが、その8割が飯舘村民だ。
これからどうなっていくのか、非常に心配だ。
 NHKのドキュメンタリーで、とてもいい番組があった。
「逃げるか留まるか。選択を迫られた村」という番組だったが、そこに長泥で子供を抱いた女性が「避難したいができない」と涙ながらに訴えている場面があった。
「全村避難になったら堂々と出ていけるが、そうでないのに私だけ避難すると職場の仲間に迷惑がかかるから出ていけない」と訴えていた。
 このDVDを借り出そうと思ってNHKに連絡したら、菅野村長からクレームがついたので貸し出しも再放送もできないと言われた。
逆にこのドキュメンタリーを見ると見た人たちはきっと、「あの村長、何やってるんだ!」と思うだろう。

●ADR申し立て
 周りを見ると飯舘村の村民はおとなしい。
浪江町では、町をあげてADRで訴えた。川俣町の山木屋も。
ADRのことを調べて区長の仲間に話をした。
狭い仮設住宅に押し込められ、家族はバラバラ、ふるさとは汚された、黙っていていいのか?と話し、ADRをやろうということになった。
村長は村としてはやらない、村民がやるなら村は関知しないと言った。
それですぐに行動に移した。
各区長に、区民に説明してもらい村民の半数強の3070人が声を上げ申し立てをした。
弁護団は、95人の弁護士が飯舘村に特化した弁護団を組織した。
「謝れ!償(まや)え!かえせふるさと 飯舘村」として声を上げた。
区長や弁護士たちを先頭に「謝れ!償え!かえせふるさと 飯舘村 原発被害糾弾 飯舘村民救済申し立て団」の横断幕を掲げてデモ行進の写真が映された。
 だが今になっても、何一つ結果が出ない。
メディアではADRは8割が解決したというが、これは件数でのことで、我々は3000人の申し立ても1件になる。
情報は全て東電が持っているので、東電にそれを出すように言っても個人情報だから出せないと言い、証拠が出せないでいる。
 区長会で村長にADRのことを話した時に村長は「関知しない」と言いながら、東電に緊急要望書で村民からのADRを認めないようにと要望を出していた。
認められると賠償に差が生じるから困るというのが理由だった。

●避難指示解除
 今年3月31日、長泥を除いて避難指示が解除された。
避難指示解除は、通常は国から自治体に何月何日に解除するように伝え、それに対して自治体は時期尚早とか条件をつけるとかいろいろ言って、協議の結果決まっていくのだが、飯舘村は村の方が国に2017年3月31日に解除指示をさせてくれ、これは村民の総意だと要望した。
 それについては無理もないとは思う。
6年も避難生活を続けてきたが、4年でもう我慢の限界を超えている。
それぞれの判断で「避難を続ける」「戻る」の選択はあるはずだ。
戻りたい人に対しては医療体制、インフラ、買い物など、戻って生活できる状況を作るのを先にしなければいけない。
だがこれらがなされないまま、解除が先になった。
だから戻らない人が多い、若い人は戻らない。
私は、いずれは戻ろうと思う。                   


2017年6月5日号「6月2日報告②」

◎安保法制違憲訴訟 国家賠償請求
 6月2日の口頭弁論報告の続きです。
原告3人の意見陳述です。
改めて思うのは、代理人弁護士の方たちの意見陳述は、原告の思いを汲み取って裁判所用語(と言っていいのでしょうか?)で伝えてくださっていることを感じました。
そしてきっと、被告代理人の官僚や弁護士たち(各省庁の官僚、弁護士だそうです)には、そうした硬い言葉(?、お役所用語?)の方が通じるのかもしれないとも思いました。

●原告本人:K・Mさん(教会牧師、男性)
 日本基督教団教会の牧師です。
会員の中には旧満州からの引き揚げ者も多く、いざ戦争となったら「在外邦人救出」どころか、軍隊が真っ先に逃亡し、放置された民間人の筆舌に尽くしがたい苦難の経験を高齢者から何度も伺ってきました。
 戦争中の教育が日本の軍国主義を支えたことも経験からの話として聞いてきました。
第1次安倍内閣で「教育基本法」が改悪され、内心の自由に関わる「日の丸・君が代強制」問題が起きた頃、子どもの親として、国が教育に不当に介入する恐れに心を痛め、折あるごとに杉並区教育委員会に申し入れを行ってきました。
「つくる会歴史教科書」採用、杉並区独自の教員採用と教員養成機関である「師範館」設立、「教育特区」の名を借りて無理やり採用された「全国初の民間人中学校校長」や「夜スペ」という私塾など、子どもたちが吸収する教育に大きな危惧を持ち、区内の教員、保護者たちと「教育懇談会」を立ち上げ、公教育を見守り、現場情報を発信する団体としての活動を、現在も行っています。
 また、1990年頃には、私は教会からアメリカミズーリ州のセントルイスのキリスト教神学校へ留学させてもらいました。
当時は丁度「湾岸戦争」が始まった時で、私が通っていた黒人教会では、軍の奨学金で大学に学んだ青年たちが次々と戦地へ送られ、「自爆テロで友人が目の前で亡くなった」、
「反射的に人を殺す道具に成り果ててしまった自分に嫌気がさす」など戦場からの生々しい手紙が礼拝の中で読み上げられるのを耳にしました
 戦争は露骨に容赦なく貧しい黒人青年たちを戦場へ送り込み、現地で「侵略者」の片棒を担がされ、死と隣り合わせの日々を強いられ、挙げ句の果てに帰還しても「後遺症」のトラウマに悩まされ麻薬に溺れていくのです。
家族に残されるのは祈ることしかないという理不尽さにやりきれない思いを感じていました。
 今回の「安保諸法」は、私がこれまで牧師として、あるいはひとりの人間として、戦争体験者の苦悩を受け止めようと努めてきた私自身が奈落に突き落とされるような衝撃を受けました。
 私は、長年讃美歌研究を続け、牧師を育成する神学校の教育現場にも立ってきましたが、讃美歌は単に美しいメロディーで歌うというだけでなく、歌詞の中に思想や思いを浸透させ、注入するような機能も持っているのです。
子どもたちの教育は讃美歌と同じです。
殺し殺される国の教育は子どもたちに害悪を浸透させます。
 またセントルイスの黒人教会で見たように社会的貧困層の青年たちから戦争への犠牲が強いられ、苦しみを負わされるような社会の仕組みが、必ず、私たちの国でも展開されていきます。
 加えて牧師である私は、第二次世界大戦時のキリスト教会の反省を片時も忘れることはありません。
教会やキリスト教信者たちが戦時体制下、単に時の政府の抑圧に抗しきれなかったというだけに留まらず、煮え湯を飲まされるような思いで、礼拝堂に日の丸を飾り、皇居に向かって遥拝し、戦闘機奉納に募金を集めアジアの特に朝鮮半島や中国大陸、台湾のキリスト者たちに神道は宗教ではなく「風俗儀礼」に過ぎないのだと言って「強制参拝を強いる」…といった、あってはならない行動の数々をもって、積極的に戦争のお先棒担ぎさえもしていったのです。
こうした先人たちの懺悔・反省を戦後に生きる私たちは自分のこととして十字架を背負ってきました。
しかし再びこのような世界に引きずりこまれ、同じ轍は踏むまいと誓って歩んでいる私たち戦後のキリスト者たちにとっては、これら「安保諸法」のすぐ先にある壮絶な未来を思う時に総毛立つような恐怖を感じています。

●原告本人:N・Yさん(フリージャーナリスト、女性)
 私は1949年生まれです。
 周囲には生々しい戦争の記憶を持つ人たちが大勢おり、その体験談を聞く機会が結構ありました。
小説を含めて戦争に関わる本なども読み、「戦争は人間を不幸にするだけだ」という、ごく当たり前の考えを自然に身につけて育ったと思います。
体験談と言えば亡くなった母の友人に、高等女子師範学校在学中、学徒勤労動員によって軍需工場で働いていた人がいました。
彼女は戦後になって自分たちがいわゆる「人間魚雷」の部品を造っていたと知り、知らぬうちに戦争に深く加担させられていたことに後ろめたく、かつ恨めしい思いを抱き続けたそうです。
戦争は人の命を奪うだけでなく、生き残った人の心にも深い傷を残すのだと戦慄を覚える話でした。
 また、私はいわゆる「戦後民主主義教育」を受けた世代にあたり、上の世代からしばしば「本当にいい時代に育って」という言葉を聞かされました。
すべての国民は「基本的人権を持ち」「個人として尊重され」「法の下に平等である」と定められた憲法に守られているのだと。……
とりわけ女性に男性と同様の権利が認められたことについて、何人もの大人の女性達から羨ましがられたものです。
とは言え、その「男女平等」がある意味で建前にすぎないことも、子ども心に何となく感じていました。
学校から一歩出れば「女の子のくせに」といった類の言葉があふれていましたから。
そして就職する頃から、ますますそれを痛感するようになりました。
当時は四大卒の女性の求人はきわめて少なく、限られた求人の中にも「片親の子は不可」など驚くべき差別がまかり通っていたのです。
何とか就職できても「ウチの女の子」と言われ、賃金差別や結婚退職制が存在する企業も少なくありませんでした。
 それでも、年月と共に「建前」が少しずつ「建前でなくなってきた」のも事実です。
他の様々な差別についても、同じことが言えます。
女性であり、さらに「母子家庭」ということで身近に差別を感じていたせいか、私は子ども時代から様々な「差別」に敏感だったのですが、それらを「恥」と見なす意識が徐々に浸透してくるのを感じてきました。
男女同権を含めた基本的人権は「与えられたもの」であったかもしれませんが、その「内実」は私達が一つ一つ、勝ち取ってきたのです。
私はそれを国民として本当に嬉しく、誇りに思います。
 ところが近年、その誇りをぐらつかせるような空気が漂い始めたような気がします。
長年「言葉」を仕事の道具にしてきた人間の感覚で言いますと、10年ほど前から徐々に、そしてここ数年は加速度的に、言葉が「粗雑」で「野卑」になってきているように思えてなりません。
「女の子に三角関数を教えて何になる」とか、沖縄における「土人」発言等々……。
少し前でしたら、いわゆる差別的な発言は、たとえ酒の席のようなところであっても「下品だ」という共通認識があったように思います。
それが平然と「常識あるはずの大人」の口から出る。
 言葉が粗雑で野卑になってきたのは、もしかするとマッチョイズムがーー私達が懸命に否定し、封じ込めようとしてきたマッチョイズムが首をもたげてきたからではないかと私は思っています。
丁寧に言葉を紡ぎ、互いの思いや感覚を(完全には理解できないにせよ)少なくとも理解しようと努力すること。
それを「えーい、面倒だ」と放り出し、「力がすべてだ!」と肩を怒らせて威嚇し合うのが、マッチョリズムの本質だと私は思います。
だから、言葉に対する感覚も鈍くなる。
言葉を剥き出しにし、それを「本音の発言」などと言って恬として恥じない。
言葉の力を大切に思う者にとって、言葉が破壊されるさまを見るほど辛いことはありません。
 マッチョリズムといえば、「平和を守るために軍事力が必要」という考え方はその最たるものです。
存立危機事態等々の言い回しですぐに拳を振り上げる安易な道を選び、集団的自衛権の名のもとにそれこそ世界の裏側まで自衛隊を派遣する。
これは「戦争はNO、差別もNO」と念じ続けてきた私に対する、国家の重大な裏切りという他ありません。
力で物事を解決しようとする社会においては、当然、弱い人間は排除されます。
弱い立場であると自覚し、微力ではあっても同じ立場の人々に寄り添いたいと願い続けた私の人権を侵害する安保法制を、私は何としても認めるわけにはいかないのです。

●原告本人:渡辺一枝
 私は1945年1月9日、旧満州国ハルピンで生まれました。
同年7月20日父は根こそぎ動員で臨時召集されました。
生後6ヶ月の私を置いて出征する日、父は「この戦争は、じきに日本が負けて終わる。必ず帰るからイチエを頼む」と母に言って出たそうです。
一枝と書いてイチエと読ませる名は、父が私に残してくれたただ一つの形見です。
 翌年9月に私たち母娘は引き揚げ、母の実家に身をよせました。
ある日叔母の連れ合いが復員する知らせが入り、1歳下の従弟と私は「お父ちゃんが帰る」と喜び跳ね回りました。
叔父が戻り私たちが駆け寄ろうとすると、祖母は泣きながら私を抱きとめて「あんたのお父ちゃんじゃないんだよ」と言いました。父なし子を自覚した3歳の私です。

 中学生の時に、父と同じ部隊にいた人からの伝聞を母が訪問客に話すのを一緒に聞きました。
部隊は8月18日に武装解除となり部隊長が「捕虜としてソ連に送られるだろうから、家が近いものは家族に会いに行ってこい」と言い、父たち3人は部隊を離れました。
線路伝いに歩きましたが線路を見失い、地元の人に教えられた道を迷って湿地帯に入ってしまいました。
父は足を痛めた仲間を背負っていたそうですが、その人が振り返った時には二人の姿はなかったそうです。
「そいつを置いてこい」と言うと「家族が待っているだろう。連れて行く」と答えたのが、その人が聞いた父の最期の言葉です。
その話を聞いて私は、父の墓石の下には紙切れしか入っていないことを知ったのです。

 小さかった時の私はハルピンの街を憧れをもって想像していました。
東洋のパリと言われ、街並みの美しいところだったと聞いていました。
同時に、満州は日本が中国を侵略して作った国だとも教えられ、侵略をするような日本に疑問を感じてもいました。
 小学校に入ると学校でも戦争のことを学ぶようになりハルピンを懐かしく語る母親たち大人を、次第におぞましく思うようになりました。
父の最期を知るまでの私は、働きながら私を育ててくれる母を誇らしく思い、尊敬していました。祖母に「あんたのお父ちゃんじゃないんだよ」と抱きとめられた時からずっと、父を恋しく思っていました。
 父の最期を知った日から、私は母に心を閉ざしました。
父を恋しく思いながらも父を恨めしく思うようになりました。
帝国主義に反対だった父、軍国主義に反対だった母は、なぜ自ら侵略地に行ったのか?
なぜ私はハルピンで生まれたのか?
生後6ヶ月の赤ん坊を残して、父はなぜ召集に応じたのか?
「戦争はもうじき終わる」と言いながら出征した父を、母はなぜ止めなかったのか?
止めれば良かったのにと、詮無いことと思いながらも、私は心の中で母を責めました。

 母が死んだ翌年、私はハルピンを訪ねました。
父から聞けなかった言葉や母が語らなかった思いを、そこに立てば感じられるだろうかと思ったのです。
初めてのハルピン行で出会ったおばあさんに、「私たちの国は中国の人たちに本当に済まないことをしました。お詫びします」と言うと、おばあさんは「それはあなたたちのせいではないですよ。日本の軍部がやったことです。あなたたちも犠牲者です。ここに住んでいたなら、懐かしくなったら何度でも訪ねていらっしゃい」と言ってくれたのです。
 その後も旧満州の各地を訪ね、残留邦人に会い、残留孤児を育てた養父母に会い、多くの人たちから話を聞いてきました。
ある時は朝鮮人のおばあさんに「私2回の戦争あった。1つは日本、日本負けたね。それからアメリカと朝鮮ね。戦争2回ね」と言われ、朝鮮戦争では日本は米軍の前哨基地の役割を果たしていたことを思い、身がすくみました。
「申し訳ない思いでいっぱいです」と言うと、「終わったら、もういい。私かわいそうな人です。あんた、解ったらいい。私、あんたのこと解ります。あんた、私の娘よ」と、言葉をかけられました。
異国で暮らす残留邦人や被害国中国の人たちが戦中・戦後どのように暮らし、何を望んできたかも知りました。

 人は自分の生を生きるだけではなく、自分が生きた時代をも生きるのではないでしょうか。
それはまた、自分の生に責任を持つだけではなく、自分の生きた時代にも責任を持つことだと思います。
私が出会ったどのお一人も、戦争に蹂躙されて人権を踏みにじられ、人生を弄ばれ傷つきながらも、立ち上がって生きてきた人たちでした。
戦争のない平和な世界を願うのは、国家を超えて人としての願いなのだとはっきりと言えます。
ですから私は、戦争への道を開く安保法制に反対します。

========安保法制違憲訴訟 報告はここまで================
*これまで私が関わってきた裁判は、例えば残留邦人の裁判にしてもいつも支援者としての関わりでした。
あるいは原告(イラク訴訟)だったときも、傍聴席で傍聴するだけでした。
原告として法廷に立つことは、今回が初めてでした。
憲法は読んでいても法律の仕組みなどをもっと知りたいと、これまでも何冊かを読みましたが、「世界一敷居の低い法学入門」と銘打った木村草太さんの『キヨミズ准教授の法学入門』、ほんととっても敷居が低くてわかりやすかったです。
星海社新書です。 


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