HOME » 一枝通信»2017年3月20日号

2017年3月20日号

東日本大震災から7回忌を迎えた11日には行けなかったので、16、17日の一泊2日で南相馬へ行ってきました。

◎中筋 純さん写真展『流転 福島 チェルノブイリ』
 今回の南相馬行の目的の一つは、15日から福島テルサで開かれている中筋 純さんの写真展「流転 福島 チェルノブイリ」を拝見することでした。
中筋さんは、2007年に訪問したチェルノブイリ原発とその周辺の光景に衝撃を受け、以降ライフワークとして現地に通い記録し、また3.11以降は福島にも通い続けています。
 中筋さんがチェルノブイリと福島で、定点観測のように季節を違えて記録してきた写真が、見入る私に語りかけてきます。
場所を違え、時を違えているにもかかわらず、チェルノブイリの、そして福島の風景は同じように私に語りかけてくるのです。
私が写真を見ているのではなく、私がそれらの風景に見据えられているような感覚を覚えます。
 入口のすぐ近くの一枚は、チェルノブイリの森に生えた小さなキノコの写真。
林床の草々に朝露が光り、その緑の草の中に一本スックと立つ細く小さな茶色いキノコ。
写真の前に立ち、見ている内に思わず涙がこぼれました。

 私は3.11後のあの夏から、毎月福島に通い始めました。
人が消えた里山に春に桜が咲き、夏には緑が溢れ、秋に木々が紅葉し、そして冬には雪が覆う。
それらを見ながら「きれい!」と思う私がいて、「いいや、そんな風に思ってはいけない。放射能に色が付いていたらと想像してみよ!」と思う私がいました。

 中筋さんがファインダー越しに切り取り、フィルムに収めた足元の風景。
放射能で汚染された森、ガイガーカウンターが叫び声を上げるような森の中の一本の小さなキノコ、きれいでした。
とても、きれいでした。
細く小さな一本に、いのちが溢れて見えました。
その美しさに、私は涙がこぼれました。
この意味を、私は自分に問い続けていこうと思います。

 中筋さんの写真、多くの人に見て欲しいです。
福島テルサでの写真展は今日20日の17時で終わりました。
帰宅してすぐにでも「一枝通信」でお知らせしたかったのですが、遅くなってしまいました。
でも、これから東京、静岡、金沢で巡回展が開かれます。
どうぞ、多くの方に見て欲しいと願っています。
●東京/目黒:5月31日(水)〜6月4日(日)目黒区美術館区民ギャラリー
●東京/練馬:7月5日(水)〜7月9日(日)練馬区美術館企画展示室
●静岡/富士:8月11日〜15日ロゼシアター展示室
●石川/金沢:10月31日〜11月5日金沢21世紀美術館
*お問い合わせ:090−8849−6864  2016ruten@gmail.com
https://www.facebook.com/2016Fukushima.Chernobyl/

◎小池第3仮設住宅
 前もって訪問を伝えずに行ったのですが、集会所にはハルイさんとヨシ子さんが居ました。
突然の訪問だったので驚かれましたが、お二人からは震災前の小高での暮らしを聞かせていただきました。
 これまで福島にはまったく縁のなかった私ですが、震災後に通い始めて、それまで知らずにきたこの地の歴史や文化、暮らしを少しずつ知ってきました。
今は、もっともっと知りたいと思っています。
今発売中の『たぁくらたぁ』に「聞き書き南相馬」を寄稿していますが、この地の人々の暮らしを書き留めていこうと思っています。
 ハルイさんもヨシ子さんも、かつての暮らしを語った後で「今は自分のために好きなように1日を過ごしているから、今が一番幸せ」と言います。
津波で家族を亡くし家を流された二人ですが、その悲しみを抱きながらの思いです。
 つい先月、「仮設の人たちに役立ててください」と手紙と共に、私宛に大量のピンクの軍手が送られてきました。
もうすでに退去者が多く出て、仮設住宅に残っている人は少なくなっているので、これを使って何かを作る講習会を集会所で開くこともできないと困っていたのです。
 でも、5足ほどヨシ子さんに送ってみたのです。
すると、なんとまぁ、楽しい作品ができていました!
写真は、87歳の吉田とも子さんが作りました。
集会所で、みんなでお茶飲みしながら作ったのでしょうか。
今も仮設住宅に残っているのは、ハルイさんやヨシ子さんよりも年長の高齢者がほとんどです。
ピンクの軍手が、こんなタオルかけに変身していたのでした!
いえ、掛けるものはタオルでなくてもネクタイでもスカーフでも。
 これらは次回のトークの会*でお披露目します。
*次回「トークの会 福島の声を聞こう!vol.23」は、5月27日(土)14:00〜16:00です。以前に5月12日(金)19:00〜とお伝えしましたが、変更します。
ゲストスピーカーは飯舘村の長谷川健一さんです。

◎寺内塚合仮設住宅
 談話室には“社長”の菅野さん、“営業部長”の天野さん、そして山田さんと村井さんが居ました。
井口さんと紺野さんは、休みでいませんでした。
 誰からともなく「6年経ってしまったね」と声が出て、私が「この6年で一番良かったことは何だろう?一番嫌だったこと、悔しかったことは何だろう?」と問いかけると。4人共まるで声を合わせたように言ったのです。
「良かったことなんか何にもない!」「悔しいのは原発だ!」
みんな小高に家が在って、帰るに帰れない家が在って、6年近い日々を仮設住宅で過ごしてきたのです。
 天野さんは自宅を解体しました。
被災前に同居していた娘の家族が原町に建てる新居に同居するかどうか、天野さんはまだ揺れています。
この談話室でみんなが作った小さなフクロウのぬいぐるみを数体、小さなカゴや箱に一緒に入れて「家族揃って暮らしたい」とメッセージカードを添えたのは、天野さんのアイディアでした。
 3世代、4世代が一つ屋根の下で暮らしていた被災前の生活は、核災害によって分断されてしまったのです。
孫の姿も声もなく、老夫婦で、あるいは連れ合いに先立たれていれば自分一人で、食卓に座る仮設暮らし。
「家族揃って暮らしたい」は、胸底からの叫びであったのです。
 けれども3年経ち、4年目を迎える頃に、天野さんが言いました。
「『家族揃って暮らしたい』は、間違いだった。離れている間に子供も孫も自分の暮らしができてくるものね。前みたいに一緒に住むのは、難しい」
これは天野さんだけではなく、多くの人が感じてもいることです。
 山田さんは自宅を修復し戻るつもりでいるのですが、大工さんが忙しくてなかなか工事に来てくれず、いつになったら戻れるのか見当がつきません。
 村井さんの自宅はほとんど直さずに済むので、月末までには仮設を出て、自宅へ戻るつもりで準備を進めています。
 菅野さんは、すでに息子たちが鹿島区に建てた新居に一緒に住んでいますが、
昼間は息子夫婦も孫も仕事や学校に出かけ、近所に知り合いもない家の中に菅野さん一人が残されます。
それでは寂しいので、週に一度のデイサービスの日以外はいつも、家族に送迎してもらって “古巣”の仮設住宅談話室に来て過ごしています。
 菅野さんの自宅は今月24日に自宅を解体するそうですが、その日、息子家族と一緒に現場に行き解体後の更地に塩を撒いてくると言うので、私は行かない方がいいと助言しました。
以前、菅野さんと一緒にその自宅を見に行ったことがありました。
地震でサッシがゆがみ、きちんと閉じなくなっていましたが、丁寧に暮らしてきた跡が見える家でした。
庭にはすでに枯れてしまった盆栽が幾鉢も並び、サンシュユ、山茶花、椿が咲き、オモトが赤い実をつけていました。
子供達を育て、孫の成長を見てきた思い出の詰まった家が、重機でガラガラと崩されるのを見ては、心が萎えると思ったからです。
 米寿を迎えた菅野さんが自宅の解体を見届けなくとも、それは息子たちに任せたらいいと思ったのです。
余計なお世話かもしれませんが「行かない方がいいですよ」と私は言い、同行してくれていた今野さんもやはり「行かない方がいい」と言い、菅野さんは同意しました。

◎ここを出たら、みんなバラバラになってしまう。
 先に寄ってきた小池第3仮設住宅も、また他の仮設住宅もそうですが、被災前には見知らぬ人同士だった仲です。
仮設住宅に入居してもしばらくは、殆どの人が互いに心を閉ざしていました。
集会所で催されるイベントに顔を出し、また集会所で一緒にお茶を飲んだりするうちに、互いに打ち解けて、同じように苦難を乗り越えてきたもの同士、それは同志とも言えるような、心通じるかけがえのない仲間になってきたのです。
互いに離れがたい仲間となったのでした。
 被災によって地縁のコミュニティが崩壊し、仮設住宅退去で再度コミュニティが壊されてしまうのです。
避難所から次の住居は「仮設住宅」ではなく、ずっとそこで暮らしていける住宅を提供するべきだったのです。
阪神淡路大震災や、またその後の災害時の教訓が全く生かされず、被災者たちは、しかもこの核災害では高齢者たちが、より手酷いダメージを受けることになりました。
「良かったことは、何もない!」「悔しいのは原発だ!」
心からの叫びです。

◎ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト
 今回の目的の一つは、「南相馬・避難勧奨地域の会」事務局長の小澤洋一さんに会うことでした。
小澤さんは「南相馬20ミリシーベルト基準撤回訴訟」で、いつも放射線汚染のメッシュマップや映像を使って、汚染状況を示してくれています。
この訴訟の原告団の一人でもあります。
私は、いつも法廷やその報告会で小澤さんが話されることを聞いてはいましたが、直接話を交わしたことがなかったのです。
 小澤さんに会うべくお訪ねしたのは、「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」の作業場でした。
パソコンを前にして作業をしている男性たちは皆、20ミリシーベルト撤回訴訟やその報告会、あるいは原発関係の集会などで顔なじみの方たちでした。
小澤さんや他の皆さんにご挨拶し、作業の様子を短時間見学をして辞しました。
 政府はこの3月で帰還困難区域を除き避難指示解除をしますが、その根拠は空間線量が20ミリシーベルトを下回ったからと言います。
土壌の線量は無視していますが、このプロジェクトでは土壌を採取して線量を測り、地図に落とし込んで汚染状況を可視化しているのです。
別の部屋には測定器が設置されていました。
このプロジェクトが果たす役割は、とても大きいと思いました。
 また日を改めて、小澤さんからゆっくりお話を伺うつもりです。

◎菊池和子さん写真展
 椏久里珈琲店で開催された菊池和子さんのスライドトーク「フクシマ漂流はつづく」に参加してから帰宅しました。
菊池さんは2014年から福島に通い続け、被災者の声を聞き写真を撮り続けています。
写真集『フクシマ無念』『フクシマ漂流』(どちらも遊行社)、ぜひご覧ください。
被災者に寄り添った目で、彼らの日常を捉えています。

長文、お読みくださってありがとうございました。

いちえ

IMG_0165


2017年3月7日号報告2件(3月3日「安保法制違憲訴訟」、3月4日「脱被ばく実現ネット」集会とデモ)

報告1
3月3日、東京地裁103号法廷で「安保法制違憲・国家賠償請求訴訟」第3回口頭弁論が開かれました。
裁判所前での広報活動の後で傍聴券の抽選に並び、傍聴券を手にして入廷しました。
法廷では、原告代理人弁護士3名と原告本人3名の方達が、意見陳述をしました。

◎原告代理人弁護士の意見陳述
代理人弁護士の伊藤真さんは、「立法不法行為と新安保法制法制定過程の違憲性」について話しました。
代理人弁護士の橋本佳子さんは、「憲法改正・決定権の侵害」について、同じく弁護士の杉浦ひとみさんは原告らの「被害論」について話しました。
(皆さん「です。ます」調で話されましたが、「だ。である」調で記します)
●伊藤真さん(過去の判例を例に出しながら話しました)
 ①立方不法行為の判断枠組みについて
 国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行う場合には、国家賠償法の適用上、違法と認められる。
こうした立法行為によって原告の「権利または法律上保護される利益」が侵害されたなら,国家賠償法上の違法性が認められる。
 さらに国務大臣は,重大な違憲の疑いがあるような法案を国会に提出する閣議決定に同意してはならないし,国会議員は,そうした違憲の疑いを払拭するべく審議を重ね,国民の多くが違憲の疑いを持たない程度に法案の修正などによって対応するべき職務義務がある。
 ②新安保法制法の制定過程は,国会議員として国民に誠実な態度で立法行為を行ったとは、とても思えないものだった。
米軍支援法という本質を持った新安保法制法を強引に成立させた行為は,明らかに国会議員として遵守すべき行為規範に違反し,国会議員として負う職務義務違反である。
 新安保法制法の立法行為は,国家賠償法上,違反の評価を免れることはできない。
以上から新安保法制制定行為には、国家賠償法上の違法である。
 ③安全保障政策に関する国民の意思は多様であり,具体的な安全保障政策の実現や外交交渉の内容などは政治部門の判断に委ねられるとしても,内閣,国会が最低限遵守しなければならない大きな枠組は,憲法で規定されている。
司法の役割は、政策の当不当の判断ではなく,こうした大きな枠組みを逸脱した立法か否かの判断である。
 アメリカではトランプ大統領のイスラム7カ国市民の入国を一時禁止した大統領令に対して,連邦地方裁判所が、その執行停止の判断を下し,司法が人権,憲法,民主主義の擁護者としての職務を果たしている。
アメリカ憲法を範として導入された日本の違憲審査制においても,司法が権力分立を維持し,政治部門の目に余る暴走を止めるためにその権限を正当に行使しなければならない。今が,その時である。
 裁判所が,今回の新安保法制法の違憲性についての判断を避け,自らその存在意義を否定するようなことがあってはならない。
●橋本佳子さん
 ①、原告らは国民主権および民主主義の担い手として、憲法を最終的に決定する権利として憲法改正・決定権を有すると主張している。
新安保法制法の制定が、96条の憲法改正手続き経ずに、解釈で憲法9条を実質的に改変してしまったことによって、原告ら国民各人の憲法改正・決定権を侵害されたと主張している。
 ②、憲法制定権は、改正手続きを経て憲法を改正する最終決定権を含み、これが憲法改正・決定権だ。
憲法改正手続き法が制定され、96条の国民投票権について具体的に定められている。
国民各自が96条の手続きに従って最終的な意思決定をする権利である憲法改正・決定権は、明らかに具体的な権利として保障されている。
 重要な憲法改正問題が起きていない時には「憲法改正・決定権」は潜在しているに過ぎないが、重要な憲法改正問題が起きて、確立した憲法規範が変更されようとしている場合には、国民にとって「自分たちの国民投票なしに憲法改正が行われることがあってはならない」という「憲法改正・決定権」が浮上する。
 ③、明文改憲だけでなく、すでに解釈として確立した憲法規範の内容を変更することも憲法の改正だ。
長年にわたる政府解釈が有権解釈として定着し、機能しているなら明確性と安定性を備えた不文の憲法規範になって、憲法として行政府・立法府の権力行使を制約し、立憲主義を支えてきたのだ。
 従って、内閣及び国会が、解釈で憲法規範を変更することは96条に定める憲法改正手続きによって個々の国民の最終的意思確認の手続きを経ないものであり、許されない。
 ④、憲法9条に関しては、「憲法上、個別的自衛権は認められるが集団的自衛権は認められない」が、長年にわたって内閣法制局や歴代内閣によって表明され、政府解釈として定着し、不文の憲法規範として確立していた。
その解釈を変更し、集団的自衛権の行使を容認することは、憲法規範を変更することであり、96条の改正手続きなしに行うことは許されない。
 ところが政府は、この歴代解釈を変更して集団的自衛権の行使及び自衛隊の海外出動を容認する閣議決定を行い、新安保法制法を成立・施行した。
こうして重要な憲法問題として浮上したのだから、閣議決定の時点で96条の憲法改正手続きなしに進めることはできないはずであり、原告ら国民各人の「憲法改正・決定権」が具体化したのである。
 実際に圧倒的多数の憲法学者、歴代法制局長官、元最高裁長官らが9条違反との意見を表明し、多くの国民の反対表明が国会前を中心に全国各地で繰り広げられる歴史上稀に見る状況にあった。
それにもかかわらず96条の改正手続きを経ずに9条の実質的改変を行い、原告ら国民の憲法改正・決定権を侵害した。
 ⑤原告らは「9条があるから日本の平和が守られている」と思い、自らが最も誇りとする平和憲法の下で、二度と戦争をしてはならない9条を守り通さねばならないと強く決意し、これまでの人生を送ってきた。
そのため多くの原告らは、違憲の閣議決定直後から、国会前集会や地域の集会やデモなど、あらゆる場面で反対の声をあげてきた。
 しかし違憲の新安保法制の強行採決よって、戦争のできる憲法に実質的に改変されてしまい、南スーダンには隠蔽されていた日報で明らかになった戦闘地域に自衛隊が派遣されている。
しかも稲田防衛大臣は、憲法違反になるから「衝突」という言葉を使ったと憲法違反を自白している。
 こうして原告らは、96条の改正手続きを通じて自ら意見表明する機会を一切与えられないまま、意に反する受忍状態を強いられることになった。
これほど理不尽なことはない。
憲法改正に関わる個人としての価値を根底から否定され、怒り、絶望感、さらには悲愴感などにさいなまされ、原告らの精神的苦痛は図り知れない。
●杉浦ひとみさん
 ①原告らは、新安保法制法の成立により平和的生存権、人格権、憲法改正・決定権を侵害されたことを訴えている。
多くの市民国民は「裁判所は人権の砦」「司法は違憲立法審査権がある」ということを小学校の頃から信頼してこの国で暮らしてきた。
あれほど多くの学者が憲法違反だといった新安保法制法が成立させられたが、裁判所がこのような事態を形式的な理由で早期打ち切り、知らぬ存ぜぬとするのは許されないだろうというのが、原告らの主張の根底にある。
 原告らが新安保法制法によってどんな被害を受けたのか、代理人の私たちは原告らの声に真摯に耳を傾けてきた。
これまでの2回の口頭弁論で原告らが陳述し、代理人が法的に主張してきたように、その被害は法制度成立当時には思いもよらない程の大きな被害を受けていることがわかってきた。
 ②戦争被害を受けた中で、長崎の原爆被害者が負っている被害を準備書面では何人か記載した。
1歳半で被爆した原告は、通った小学校に「原爆学級」があり、被爆した子供たちは実験材料にされたことを子ども心に気づいていたし、友人を白血病で失った。
他の原告は皮膚のめくれた被害者が湯剥きトマトのようだったと、今もトマトを見ることが苦痛になっている。
また赤ちゃんを抱いたまま黒焦げになっている女性の死骸、馬が半分は黒焦げ半分は形を残している様子など、心の中には忘れることのできない映像が、今も生々しくあり、戦争や人を殺しあうというこの法制は、こうした記憶と分かち難く結びついている。
 障がい児への教育に生涯を捧げてきた女性は、障がいのある子どもたちにこそ、この社会の中での光を教えられているという。
そんな子どもたちが、人を殺し殺されることを許す社会では真っ先にその命を奪われること、そうであっていいという意識が社会の中にすでに巻き起こってことを過去の歴史の事実に照らして感じ、心を痛めている。
 ある宗教家の原告は、信仰による心の平穏は社会の平和と一致しなければ意味はないと気づき、50歳で牧師になったが、今の国の動きは、まさに彼の信仰的心情を引き裂くものであり、人格を打ちのめすものだ。
 基地周辺の住民である原告は、その爆音や大きな機体、空母の存在の威圧感を知っているので、基地が狙われ巻き込まれることへの恐怖を現実的に感じている。
 また今回の準備書面では、国を挙げて戦った先の戦争中には、子どもたちがどれほどゆがんだ価値観を押し付けられ、考える自由も、考える意欲も力も奪われた状態にあったか、また人格を形成する段階で大きな侵害を与えられた事実を語る人が複数いた。
新安保法制法の成立で、この心の侵害が始まっていることから過去に被害を受けた原告らはその頃の喪失感、絶望感を蘇らせている。
 ③裁判所には、この安保法制法及びこの法ができたこの社会が、国民にすでに与えている人権侵害と、今後人権侵害が起きているかさえも自覚できないような暗黒の社会になることを防ぐために、司法権を担う立場であることを自覚していただきという思いが、各原告の主張に込められていることを読み取っていただきたい。

◎原告本人意見陳述(やはり「です。ます」調を「だ。である」調で記します)
●原告本人 T.Tさん(男性)
 1945年夏に、私の生涯は終わってしまった。
たかだか12歳の少年に、そんなことがあるものかと思われるかもしれないが、私にとってはまぎれもない真実だ。
 それ以前の私には明確な生きる目的があった。
それは「大東亜戦争」に勝利することであり、「大日本帝国」を自称し「東洋平和」のためという大義名分で戦争を始めた国家の目的が、そっくりそのまま私の生きる目的であり生きる支えになっていた。
それが一挙に失われてしまった。
そればかりではない。
「大東亜戦争」の目的そのものが正義に反するものであり、その不正な目的のためにこの国家は、3,000万人ものアジアの人々を殺し、300万人物自国民をも殺したという事実を、認めざるを得なくなった。
 この「大日本帝国」の植民地で敗戦を迎えた私は、国家の保護を一挙に失っただけでなく、この帝国に抑圧されてきた民族からの報復をも受けなければならなかった。
なぜ私までこんな目に合わなければならないのか、全くわからなかったが、やがて少しずつその理由を理解していった。
戦後の私の生涯は、なぜ私がこのような愛国少年に作り上げられてしまったのか、その原因を探り、私自身がその在りようを克服して人間として真っ当な在り方を取り戻していく営みに捧げられてきた。
 戦前戦中の私には、自分の頭で考え自分で判断して自発的・自主的に行動するなど思いもよらないことだった。
あの当時は、大人たちも含めて誰もが、国家が望むように考え国家が望むように感じることを直接的にも間接的にも強制されていた。
和の尊重。一億一心。これに同調できない者は非国民として、国家が排除する。
みんなが同じように、みんなと同じことを、みんなと一緒にやらなければならなかった。
そうした「期待される人間像」へと、私は国家によって純粋培養されたのだった。
 そこから全生涯をかけて脱却し、自己変革を遂げてきた今のこの私にとっては、自分の頭で考え、自分で判断し、自発的・自主的に行動できるということ、言い換えれば、みんなと同じようなことをみんなと同じように、みんなと一緒にやりなさいと言われた時に「いやです」と拒否できることが、生きていく上で欠くことのできない条件になっている。
 これまではこの条件を、日本国憲法が私に保障してくれていた。
それが今、安保法制の施行によって脅かされようとしている。
日本国民はかくあるべしと、国家が、具体的には安倍政権が、規定し、この規定に従えない、あるいは同調できない者は異分子、非国民として国家が、実質的には安倍政権が排除するといった状況が杞憂ではなくなった。
 私が私として生きることを、日本国という国家の独裁的支配圏を握った安倍政権が、いまや不可能にしてしまった。
少なくとも極めて困難にしてしまった。
安保法制は日本国憲法に違反し、とりわけその根本理念である基本的人権を侵害していると私が考えるのは、以上の理由による。
●原告本人 I.Yさん(男性)
 去年5月までNHKで報道記者として働き、チーフプロデューサーの肩書でニュース制作の現場の管理職を務めていた。
ニュース番組の制作、編集責任者も務め、最後は「首都圏放送センター」のニュース制作に関わった。
一昨年、安倍内閣が集団的自衛権を容認し、安保法制の成立を強行したことが、私の運命を変えた。
 私の父母は共に昭和9年生まれで、父は東京大空襲に遭い家を失い、母は戦時中山形市内に疎開するなど、戦争の被害を受けた。
異なる地で敗戦を迎えた両親だが、2人が共通して体験したのは教科書の墨塗りだった。
昨日まで「天皇陛下は神様だ」「最後は日本軍に神風が吹く」と教えていた教師が、何の謝罪も釈明もせず「昨日まで教えていたことは誤りだった」と言って教科書の記述を次々と墨で潰させたという。
軍国主義に染められた子どもたちは、それまでの価値観を全面的に否定され、天皇陛下、教師に至るまでの大人たちに対する不信感を抱かざるを得ない衝撃的な体験だったとなんども聞かされた。
 そんな両親にとって「民主主義」は新鮮で理想的な価値観であり、日本国憲法の「平和主義」の理念は戦争体験者として、とても腑に落ちるものだっただろう。
親からは「民主主義」や「平和主義」の大切さを教えられ、かけがえのない価値観として吸収して私は成長した。
大学の法学部に学ぶ中で、自分自身でこの価値観を見直す機会があったが、この理念はますます私の揺るぎない確信となった。
 やがてNHKに記者として就職したが、「憲法の精神が行政・立法・司法の場でどのように実現されているのか、何より国民が憲法の恩恵を享受しているのか、すべてこの目で見てやろう!」というのが、大きな動機だった。
また、おかしいと感じたことを指摘するのがジャーナリストの使命であり、権力には屈しないというのが仕事上の信条だった。
しかし、私の人生に予期せぬ事態をもたらしたのが、安保法制関連法だった。
 そもそも公共放送たるNHKの報道は、不偏不党・公正中立の立場を守り、情報の送り手の主観的な判断を交えず客観報道に徹することが原則だ。
余計な論評を一切しないのは、“行政府も立法府も民主主義が貫かれている”からであり、ありのままを客観的に伝えることこそ重要だと考えるからだ。
 しかし安保法制関連法の成立は、あれほど憲法違反だという指摘を受けながら、審議も尽くされず数の横暴による「多数決」で成立させられ、他方、ジャーナリズムに対して政府・与党からのあからさまな圧力が相次いだ。
テレビ朝日のコメンテーターへの批判、TBSの放送内容に対する非難、沖縄の地方紙に対する暴言、さらには電波管理法に基づくテレビ局の免許更新をちらつかせ、政府批判の報道の自粛を迫るかのような大臣発言。
NHK前会長が就任記者会見で「政府が右というものを左とは言えない」発言も、その流れを象徴していた。
 徹頭徹尾、民主主義と平和主義を生かしたいと選んだ仕事が、この安保法制法の成立という決定的な出来事でその存在基盤を失い、私はこれ以上今の報道体制に従事していくことはできなくなった。
 私が思い描いていた穏やかな人生の流れは、安保法制という大きな波により流れを変えられた。
民主主義の危機を目の当たりにして、家庭にいても職場にいてもまるで大波に飲み込まれて息が詰まるような毎日が始まった。
そして昨年5月に依頼退職を余儀なくされた。
 もはや「政府を信じ、国会を信じ、この国の民主主義を信じよう」と無責任に口にすることができなくなったからだ。
戦後日本に構築された民主主義が目の前で破壊されている時に、この破壊行為に疑問を呈することすら「不偏不党」の大義名分の下では慎重に検討せざるを得ない職場では、できることは限られている。
 私は、残り数年の安泰なサラリーマン人生と、自分の信念を曲げてまで仕事を続けることの苦しい選択だったが、答えは明瞭だった。
この社会の中で私自身はとても小さな存在に過ぎないが、この濁流から孤独でも一人で抜け出さなければ、自分の信念を貫き通すことはできないと思った。
NHKという職場を失い職場の仲間の連帯を捨てても、妻子を背負って一人で立ち上がらなければならないと決心した。
それは、私の50年培ってきた自らの価値観と、これからの子どもたちの未来のために、傷つけられたままではいられないからだ。
 民主主義の時計の針を後戻りさせるのではなく、前に進める司法の判断を切に希望します。
●原告本人 O.Tさん(男性)
 1950年に東京で生まれ、66際になる私の人生に大きな影響を与えたのは、中学2年生の時に読んだ島崎藤村の『破壊』だった。
「被差別部落」という存在を初めて知り、それが社会構造の中で権力の側が作った制度による差別だと知り、激しい怒りを覚えた。
 さらにそれが権力の手による差別にとどまらず、同じ庶民の間での差別として根付く時、人の尊厳はあっけなく失われることを知り、強者が弱者を抑圧する構図に対して反発する気持ちが強くなり、やがてはそうした正義感が私の最も重要な価値観となり、その後の行き方に据えられたと思う。
 1980年代後半から、レバノンのパレスチナ難民キャンプの子どもたちを支援する里親運動に参加している。
欧米列強国がそれぞれの思惑から、パレスチナの地にイスラエルを建国させ、一方的に祖国を分割させられたパレスチナ人は、その後も今に至るまでイスラエルの圧倒的な軍事力により家族や親族を虐殺され祖国から追い出される悲惨な歴史は、私の正義感に火をつけたのだった。
 そして、いたいけな子どもたちが空爆や虐殺などの暴力に怯え、本来享受しなければならない教育や遊びから置き去りにされた現状に、じっとしてはいられなかった。
私たちの里親運動は、現地の子どもたちに対して16歳までの生活や学資の援助をしているほか、幼稚園や図書館の建設援助や教材支援、歯科検診、シリアからの避難民に対する緊急支援なども行っている。
 パレスチナの人々は総じて、日本人や日本という国に特別の親しみを寄せ、信頼を抱いている。
欧米諸国も同様の支援をしているが、特に彼らの日本人に対して寄せる親愛の度は明らかに強い。
 それは日本が唯一の被爆国として悲惨な形で敗戦を経験しながらも、見事に立ち直り発展したことに対する尊敬と、何よりもその敗戦から今日まで「非戦」を誓い、平和外交を貫いているからだ。
 他の大国が中東諸国に軍事介入する中で、憲法9条のもと武器を持たず平和外交やNGOによる人道支援を続けてきた日本に対しては、パレスチナに限らず中東諸国の多くの人々は、絶大な信頼を寄せてくれた。
これは中東諸国で人道支援や取材活動を続けてきた日本人なら、誰もが感じている。
 ところが安倍内閣が誕生して以来、彼らの日本に対して抱く信頼は徐々に薄れてきた。
如実に変わったのは、2015年1月に安倍首相が中東諸国を歴訪して以降だ。
なかでも1月18日にイスラエルを訪問し、サイバーテロや軍用無人機などの安全保障関連分野での提携を深める演説は、中東諸国に対して挑発的な言葉となり、私はそのニュースに全身に戦慄が走ったのを、忘れることができない。
 昨年7月1日にバングラデシュのダッカで武装集団によるレストラン襲撃事件があった。
この事件で私が最もショックを受けたのは、人質の一人の日本人が銃を突きつけた犯人に向かって「I am Japanese」と言って殺されたことだ。
かつては私たちの身を守る言葉だった「I am Japanese」が、今やなんの力もないこと、むしろ日本人が攻撃の対象に変わってしまったことに、深い悲しみを感じた。
 安倍政権が成立させた安全保障関連法は、中東諸国の人々の日本に対する不信感をさらに決定付けた。
日本国憲法を蹂躙し強行採決によって成立されたこの法律は、彼らにかつてない衝撃を与え、これまでの日本のイメージを大きく塗り替えさせてしまった。
 この法律が成立するや、私は中東の多くの友人から「安倍は正気なのか?」「日本は戦争をするのか?」「いつから日本は好戦国になったんだ?」といったメールを受け取った。
安倍政権による安全保障関連法の制定は、“非戦”を誓った日本への世界の信頼を壊してしまった。
 私や私の仲間がこれまで積み上げてきた中東の人々との信頼に基づいた取り組みを、中東の子どもたちへの支援を、大きく侵害されたことを強く訴えたい。

★「安保法制違憲訴訟」第3回口頭弁論の法廷での報告は以上ですが、原告本人の I.Yさんの意見陳述の際に、傍聴席から図らずも拍手が湧きました。
それに対して裁判長は静止しませんでした。
またその後の原告本人O.Tさんの意見陳述の際にもまた、拍手が湧いたのです。
やはり裁判長は、静止しませんでした。
これはとても異例の、特筆すべきことだと思います。
裁判官が原告の声にしっかり耳を傾け、言葉を聞き、傍聴席の私たちと同じく受け止めていたからではないのかと思いました。

◎報告集会
午後からは参議院議員会館行動で報告集会が持たれました。
始めに、代理人弁護士の寺井一弘さんの挨拶がありました。
●寺井一弘さんの挨拶
 安倍政権の強行採決に非常に怒り、安倍政権に鉄槌を打たねばと提訴を思い立ち、昨年4月26日に提訴の決起集会をここで行った。
今日の原告の方達の発言を聞いて、提訴してよかったと思った。
市民が何を感じて原告として立ち上がったかを、より一層理解した。
 人間の尊厳を守ることがいかに大事か、それに対する安倍の反発がいかに強いかを、この提訴で感じている。
まだ長い時間がかかるだろうが、共に闘っていきたい。
安倍政権は少しヨタヨタしてきて森友学園、天下り事件など、問題が続いている。
稲田大臣の「9条があるから戦闘と言えない、武力衝突と言う」の発言は許せないが、これが安倍政権の本質なのだ。
 彼らは市民はやがて諦めるだろう、忘れるだろうと我々を侮っているが、だからこれは忘却との闘いでもある。
 裁判官は判決を急いでいるようにも見受けられるが、国側からのなんらかのプレッシャーがかかっているのではないかということも感じられる。

 この後法廷で意見陳述した代理人弁護士の伊藤真さん、橋本佳子、杉浦ひとみさんの3人と、原告本人の3人から補足や感想が話され、最後に代理人弁護士の福田護さんから、国家賠償訴訟の現状が報告されました。
 現在15の地方裁判所で19件の訴訟が起きていることが報告されました。

●次回の「安保法制違憲訴訟」口頭弁論期日
*第3回差し止め請求訴訟
 日時:4月14日(金)10:30〜 @103号法廷
*第4回国家賠償訴訟
 日時:6月2日(金)10:30〜 @103号法廷

また3月8日には、さいたま地裁・広島地裁で、3月14日に福岡地裁で国家賠償訴訟、3月22日は岡山地裁、4月12日福岡地裁で差し止め請求訴訟,4月26日福島地裁いわき支部でと、口頭弁論期日が決まっています。
どうぞ傍聴に詰め掛けてください。

★この日は定例の,午後1時きっかりに「アベ政治を許さない!」プラカードを掲げる日でした。
私は裁判傍聴に出ていたので国会前には立てませんでしたが、澤地久枝さんはじめ仲間たちが大勢「アベ政治を許さない!」を掲げました。

報告2
 3月4日は「脱被ばく実現ネット」主催の第8回新宿デモでした。
 アルタ前で1時から集会を開き,2時から新宿駅周辺をぐるりと巡るデモでした。
福島原発事故から6年。6年前に原発事故が起きて「原子力緊急事態宣言」が発令されましたが、「原子力緊急事態宣言」は解除されないままの現在なのです。
 事故の収束は程遠く,各地の土壌汚染は依然として高いまま,小児甲状腺がん患者は183名に達し,その他様々な健康被害が出ています。
 この3月末には「帰還困難区域」を除いて避難指示解除され、放射能被害から必死に逃れた人たちへの帰還圧力が強まっています。
自主避難した人たちへの住宅支援打ち切りが迫っていますが、これは被災者たちにとって死活問題です。
東京都知事に宛てて、自主避難者に対する支援をお願いするハガキを添付します。
埼玉、神奈川、千葉、京都、長野、兵庫などなど各地に避難者はいます。
このハガキを参考に、どうぞあなたのお住まいの地域の知事宛に支援を要請してください。

いちえ

hagaki


2016年3月7日号「2月24日トークの会報告②」

●ゆうきの里、東和
東和では、30年前から有機農法の活動が始まった。
それ以前のじいちゃん、ばあちゃんの時代は農薬をヘリコプターで散布するようなやり方だったから、有機農法に切り替えていくのは大きな転換点だった。
もともと東和は養蚕と羊や牛など畜産が盛んだった。
私の家も牛を飼っていて牛糞と生ゴミで堆肥にするということで、牛を飼っていた。
その頃の東和は、米と家畜と蚕と自給用の野菜で生計を立てていたが、海外の絹糸が入ってきたり、化学繊維がいろいろ出回るようになり、価値がどんどん下がり養蚕は廃れていった。
そうした状況の中で私の親世代の地域全体の農業者たちが、これからは消費者とつながって、より安全なものを作っていきたいと考えた。
今はほとんど行われていないが、その頃は青年団活動も活発にあって(実際は、飲み会も含めた交流の場)、そうしたコミュニケーションをとれる基盤があったから、同じ志を持って有機農業をやっていこうという流れができた。
農業にはまず土を考えなければならないが、有機農法では特に土が大事、土の質が大事だ。
東和には地域循環センターという堆肥センターがあって、そこでは食品残渣や味噌や醤油を作った後の滓、牛を飼っているところからの牛糞、飴玉工場の食品残渣など地域にあるものを堆肥にし、有機質の堆肥としてみんなが使えるようにした。
堆肥センターができたおかげで、みんなが土作りから有機農法でやっていこうという流れが大きくできた。
土作りから1年かけていろいろな農作業があるが、私のところでは夏は主にトマトで、有機野菜は年間30種くらい作っている。
12月〜3月は餅の加工が主になるが、冬場の気温はー10℃位になるほど気温が低い。
冬場の農作業にはハウスがないと無理だが、ハウスがない農家もある。
昔ながらの伝統で、凍み大根や凍み餅を作る人もいるし今の季節だと味噌作りなど、昔ながらの物作りを大切にやっている農家も多い。

●人も虫もカエルも共に生きる里山
私の家は自宅の周囲に田んぼと畑があり、田んぼは全部で50枚くらいだが、大型機械が入れられないところや、周囲の農家が高齢で仕事ができなくなり、「息子がやらないからやって欲しい」と田んぼを手放す人も増えていて、私のところでやる田んぼの枚数は、年々増えている。
3月からは種もみを選ぶ塩水選が始まっていく。
私が生きていく上で一年を通して土と触れあうことはとても大事で、有機農法では農薬を使わないためにどんな対策ができるのかを、常に考えていかなければならない。
イチゴを作りたいと思って、4年前から有機栽培のイチゴにチャレンジし、県の有機栽培の先生に教えてもらいながらやってきた。
虫の発生を抑えるのに農薬をかければ一発で効果があることは判るが、有機農法でやりたいので、どうにかして薬を使わずに虫の害を防ぎたい。
イチゴの畝の周りに麦を植えると、虫は麦の方へいくのでイチゴには付かなくなるということなどを、経験者に聞いたり本で調べたりして試行錯誤しながらやることが多い。
中山間地域なので傾斜が多く常に草刈りが大変で、特に夏場は刈ってもすぐにまた伸びてくる日々の繰り返しだ。
だが、大規模農園や工場生産のような農業のやり方では、自然と人間の間に壁ができる。
私たちのようなやり方だと、カエルやトンボ、いろいろな虫がいて、里山の景観を作っていくが、それもまた農家の大きな役割だと思う。
里山に虫や生き物が共存して、子どもたちがトンボを採ったりバッタを捕まえたりが当たり前の光景だったが、今は子どもたちもそうした現場に足を運ばなくなり、遊ぶ機会も減っている。
里山を守っていく上で、農家の果たす役割はとても大きい。

●不安は常につきまとうけれど
自宅から車で20分ほどの標高600mほどに高原畑があり、そこは避難指示が出た川俣町山木屋地区のすぐ傍だが、線量も測ってやってきた。
耕せば耕すほど空間線量が下がってきたことが判り、そこではジャガイモ、大根、大豆を作っている。
車も通らず周囲には何もなく、その畑にいるときには開放感を感じて気持ちがいい畑だ。
失敗したらどうしよう、と目の前が真っ暗になるような不安は常につきまとう。
何か対策が遅れたり虫にやられたり、雨が降らないなど天候の不安などと、常に向き合っている。
それでも実りを楽しみにしてくれるお客さん、東和に来たい、食べたいという人がいるからこそ農業に携わっていきたいと思うし、自分自身が本来の自分と向き合える場所になると思うので、事故前と同じではなく汚染されているのは事実だが、そうした中で自分が今やっている農業を、多くの人に知ってほしいと思っている。
毎日食べているものは、誰が作っているの?どこからきたの?ということが目に見えなくなっている時代なので、有機農法でやる意味が非常に大きいと思っている。

●自分の体にも常に向き合って
自分の体のことにも向き合っていかなければいけないと思い、2011年11月に初めてホールボディカウンターを受けた。
当時は子どもたちの検査がいっぱいでなかなか受けられなかったが、知り合いの伝手で受けることができ、それから毎年1〜2回受けている。
昨年は甲状腺ガンの検査も受けた。
5年経って発症している人もいるし、子どもたちには小児甲状腺ガンが183人もでて、手術した子どももいる。
そうした現状がなかなか公表されないし、政府は原発事故との因果関係を示さない方向になっていて、これから健康被害が出てくるだろうに検査や支援などいろいろなことを打ち切ろうとしている。
県民健康調査で18歳以下の甲状腺ガン検査は無料だが、大人は自分の意思で有料で受けなければ何も判らない。
私も自分のことを知っておきたいと思い、県立医大に「20歳過ぎているが甲状腺ガンの検査を受けられるか」と尋ねたら、症状がなければ受けることはできないと言われた。
それで「今は症状がなくても、これからどうなるか判らないから現状をまず知りたい」と言ったら、地元の病院に連絡するように言われた。
そこで二本松の病院に電話すると、同じように症状がなければ検査対象にならないと言われた。
いわきの「たらちね(注:NPO法人いわき放射能市民測定室たらちね)」は、いつもは沿岸部のいわきや南相馬で検査を実施しているが、福島で出張検査すると友人が知らせてくれて、その時に福島の検査場に行って去年初めて受けることができた。
結節があるが今後どうなるかは現段階では不明ということで、手術に至ることではなかったが、みんな何かしら影響を受けているので、知らないでは済まされないと思う。
10年、20年経った時に、それが原因でということもあるかもしれない。
水俣病患者の人たちは、60年経っても裁判をしている。
水俣を訪ねた時に言われたが、実証できる証拠がなければ因果関係はなかったことにされてしまうだけなので、何かあってからでは遅く、その前の対策として自分なりに検査を受け記録しておくことが大事だと言われた。
私は、この地でやっていくと決めたので、そういう意味でも自分で検査の機会を探して自分の体も記録していこうと思う。
その他にもいろいろな方から、福島にずっといるのではなく、福島を離れる時間を作るのも大事ではないかと言われ、こうして東京での会に呼ばれたり、他にも機会があれば外へ出るようにしている。
子どもたちには夏・冬の休みなどに保養キャンンプで、福島から離れて過ごす時間があるように、私も自分の体のことには常に向き合って気をつけていこうと思っている。

●きぼうのたねカンパニー
2013年に《きぼうのたねカンパニー》を立ち上げた。
就農する前から、自分で会社を作りたいと思っていた。
農業の現場のことを何も知らないし、農業法人に入ったとしても農業のことは伝えられないと思い実家へ戻って就農したが、震災を体験して、より強く今の農業のことを、福島のことを伝えなければいけないと使命感を感じた。
震災直後は、誰もが下を向いていた。
みんな自分に何ができるのかと案じていたり、これからどうなるのかという不安が周り中に漂っているのを感じていた。
でも、何かを始めないと何も変わらないし、動く人もいない。
農業は、種を蒔かなければ花も咲かないし実もつかない、収穫できないということを考えた時、まず何かを始める、種をまくことが大事だと考えて、震災直後の今後どうなるか判らないともがいていた中でも、まず第一歩が種を蒔くことだった。
自分自身を振り返ってみても、そう思う。
二本松市は4月12日まで作付けが制限されていて、ここで農業ができるのかと政府も色々とサンプルをとって検査している状況だった。
そういう中で第一歩を踏み出した。
一歩踏み出したら周りから寄ってくる人もいたし、そうした中で、人それぞれに考え方も価値観も違うが、まずは一歩を踏み出せる場所を作りたいという思いで《きぼうのたねカンパニー》を立ち上げた。
まず始めたのが、これもタイミングだったが、HISという旅行会社が2013年4月から「福島の今を知り、応援しよう」というスタディツァーを始め、それがちょうど《きぼうのたねカンパニー》立ち上げと同時期で、ツァーの中に私のところも組み込まれた。
現地に足を運び現地の人と触れ合い、土に触れ空気を吸うことがとても大事だと思うので、福島に足を運んでもらうきっかけとしてHISと協働しようと思った。
このツァーも5年目になるが、当初からもそうだったが、福島に若い子が足を運ぶというだけで、親が反対する声もたくさん聞いてきた。
私の母校の後輩も、新宿のバス停まで母親がついてきて止めようとしたそうだが、後輩は「私は行きたい」と言って親の反対を押し切って来てくれた。
それを聞いた時私は、彼女は強い意思を持ってきてくれたことを感じたし、福島に対してマイナスの情報がたくさん溢れている中で、福島に来る一歩を踏み出すことは、そう決意するまではいろいろと思うこともあっただろうが、強い意思を持って来てくれたのだった。
彼女は帰宅してから親に体験を話し、親も理解してきてその後は母娘でも来た。
現場では、種まき・田植え・稲刈り・収穫した野菜でバーベキュー・餅つきなどの普通の農村の風景だが、そういう体験+放射能の問題、どちらも伝えなければならないと思ってツァーをし、また来てくれた人に野菜や米を買ってもらったりしている。
それらは農業を知る、福島を知るためのきっかけ作りだと考えている。
年間200人から300人が体験に来てくれるが、宿泊は東和地区には24県の農家民宿があるので、農家の人とお酒を飲みながら直接話をすることで、埋もれてしまっている真実の話を知ることができる。
風評被害でりんごが全く売れずに収穫がなかった話や、子どもたちがおじいちゃんやおばあちゃんの作った野菜を食べてくれなくなって、若い人と高齢者で米や野菜を巡って家庭内でも分断が起きてしまったことなど、現場に来ないと判らないことがたくさんある。
地道なことばかりだが、それらを知ってもらう窓口を広げたくて、今も継続してやっている。

●仮設焼却炉
二本松は避難指示が出なかった地域だが住宅や周辺の土手を除染したので、除染物を入れたフレコンバッグが野積みになっている。
中間貯蔵施設も定まらないので、除染した物をもっていく場所がないからだ。
2014年12月に、放射性汚染物の焼却施設を東和地区に作る話が浮上した。
地元の住民たちは反対したが、昨年7月に建設が決定してしまった。
水面下で市と環境省や業者、地権者で決め、決定後に住民に知らされた。
1日に120トンを焼却するというが、住民の生活への影響が非常に懸念される。
交通量が増えれば、子どもたちの通学時の交通事故が心配だし、作業員が増えることで治安も不安だ。
避難指示が出ていた飯舘村や浪江町など、一部の期間困難区域以外はこの3月で避難指示が解除されるが、除染で表土を剥ぎ取って汚染土が入ったフレコンバッグが山積みになっている。
山積みのフレコンバッグを目の前にする場所に、帰還を勧められているのだ。
(*この件に関して、私(渡辺一枝)が、捕捉しました。以下私の捕捉です)
焼却炉の煙突にはバグフィルターをつけるというが、バグフィルターは気化したガスは通り抜ける。
除去した汚染物でフィルターは詰まるし、詰まれば汚れを除去するが、その度にフィルターは傷み、除去能力も落ちていく。
たとえバグフィルターをつけてもガスとなった微細な化学物質は空気中に吐き出されるし、焼却灰を搬出する際には粉塵が舞う。
環境科学者の関口鉄夫さんは、「焼却は第二の原発事故」だと言っていた。
*私の捕捉はここまで。この後は瑞穂さんの話)

●これからのこと
東和はIターンでの移住者が多く、震災後も離れずに留まってやっている人が多い。
農業だけではなく、農家民宿や農業レストランで地ビールなど、いろいろな産業が広がっていて、人とのつながりを大事にやっている。
私はつい先日、地元の中学生たちに話す機会があった。
2011年に小学2年生だった子どもたちが中学1年生になっていて、その子どもたちに話した。
農業のことばかりでなくいろいろなことを話したが、彼らの感想で「福島のものは、米も野菜もみんな測っていることを初めて知ったという。
農業者として私が検査していることも、地元の子どもたちが知らないということに愕然とした。
この子たちが大人になった時に、原発事故や放射能のことを聞かれるだろうが、その時に大人になった今の中学生たちは、何を伝えていけるのかと思い、「伝えていく」ということを大事にしたいと思った。
おじいちゃんやおばあちゃん、父や母や、前の時代の人たちが残してくれたものを、次の世代に引き継ぐことが大事だと思う。
私は子どもの頃のおやつに、既製品のお菓子をあまり食べていなかった。
学校から帰るとおやつは母特製の味噌をぬったおにぎりや塩にぎりなどで、それが当たり前の米農家として育った。
今はお金を払えばなんでも買えて、いろいろ手に入るものが溢れているが、今そこにあるものを大切にしながら繋いでいくことを大事にしたい。
そういうことに目を向けるべきだと思う。
また、そういう方向に目を向けるべきだとも思う。
現在は経済至上主義で消費社会だが、本当に大切なものは何かを見つめることが大切だ。
我が家でも去年から農家民宿を始めたが、家で作った大豆を避難先で工場再開している納豆屋さんや豆腐屋さんに加工してもらって、民宿のお客さんに食事に供している。
お客さんたちはみんな、とても美味しいと喜んでくれる。
その地のものを大切にしながら、次世代に受け継いでいく役割を改めて思っている。

★瑞穂さんのお話はここまでです。
瑞穂さんはお話の途中で10分間ほど、スクリーン上の写真で《きぼうのたねカンパニー》の現地での活動の様子を見せてくれました。
ボランティアや体験ツァーの若者たちによる種まき、田植えや手刈りでの収穫、また測定場で米や野菜の線量検査の様子、田んぼの空間線量を地形地図で表したマップ、果樹農家の除染の光景、などなどで、線量測定の様子などは、もっともっと多くの人に知ってほしい現実でした。

次回のトークの会「福島の声を聞こう!vol.23」は、5月12日(金)です。
まだ先の話ですが、どうぞご予定に入れておいて頂けたら嬉しいです。

いちえ


2017年3月6日号「2月24日トークの会報告①」

22回目のトークの会、ゲストスピーカーは菅野瑞穂(すげのみずほ)さんでした。
今回のチラシに、私はこう書きました。
「7年目を迎える福島です。原発事故の収束・廃炉の見通しは立たず、人々の不安は解消されないまま避難指示は解除されて支援は打ち切られていきます。
東電は除染や賠償金など事故処理費用が予想を大幅に上回ることから国に支援を要請し、国は送電網の託送料に上乗せするなどで国民負担を増やそうとしています。
そうした中で農林水産業に携わる現地の人たちは、復興へ向けて様々な努力を重ねてきています。
今回は二本松で有機農業に携わる若い農業者さんにお話しいただきます。
国や御用学者の言うまやかしではなく、現場の声を是非みなさんに聞いてほしいと思います。」
瑞穂さんのプロフィール
東京の大学卒業後、農業生産の現場を学ぶため二本松東和地区へ戻り収納した。
その翌年に東日本大震災・原発事故が起き、放射能災害に向き合うことになった。
しかし、種を蒔き耕すことで土の力が蘇り、放射性雨物質が作物に移行しないことが判り、2013年に《きぼうのたねカンパニー》を設立。
「たねをまくことは、命をつなぐこと」をモットーに活動を続けている。

◎菅野瑞穂さんの話(「です。ます」調で話されましたが「だ。である」調で記します)
●福島のことを伝えたい
実家は二本松東和の農家だ。
東京の体育大学を卒業して就農したのだが、その翌年、東日本大震災、続いて原発事故が起きた。
大学卒業後の進路を考えるときに、体育の教師になるとか会社に勤めるなどの選択肢もあったが、自分では農業をやると決め、その覚悟はあったと思っていた。
だが正直なところ、(原発事故後)心に蓋をして日々を暮らしていたところもある。
「農業をしたいなら、他の場所でやったほうがいいのではないか」と言われることもあったし、「風評被害ではなく実害なのだから、それに対してどう思っているか」を直球で受け応えしなければならいことも多々あった。
米も野菜も全て測定し、なおかつ土や山の汚染の状況も農業者と研究者が連携して全てデータをとっていることを伝えたい。
だが、「見えない、匂いもない、色も形もない」放射能をどうやって伝えていくか、自分では判っているつもりでも、人に伝えるときに相手が情報や知識がない場合に、どう伝えるかがとても難しい。

●自分の中には悔しさが常にあった。
悔しさをバネにしながら、ようやくわかってきたことがある。
そこには、今まで6年間重ねてきたデータとして見えるものもある。
それだけではなく、人の前で話して知ってもらおうと言葉を並べてきたが、最終的には「思い」が伝わるのだというのが今に至る結果だ。
「思い」が人に伝わるし、それは「言葉」ではないかもしれないし、「感情」かもしれない。
原発事故があった当初はよくわからなかったが、年々思うのは「悔しい」の一言で、この悔しさを知ってもらえないことが悔しいし、何も知らない人に対してどうやって伝えられるか、自分がうまく伝えられないという悔しさもたくさん感じてきた。
福島に住んでいて、今は普通に暮らして電気も使い、食べ物も食べ、それは当たり前の生活なのだが、そのことに私は危機感を覚える。
このまま原発事故がなかったかのように、国はどんどん帰還を進めている現状の中で、私は「これからどうやって福島を伝えよう」という思いが強くなっている。

●経験したからこそ伝えられる
親の代から有機農業に取り組んできて、安心・安全なものを第一に、消費者と直接顔が見える関係を大切にしてきた。
私自身も親の姿や地域で活動している人の姿を見て、地域には若者が必要だと思い、若い人が居ることで地域が元気になると思っていた。
だから私は、農業という地域の基盤の中で、地域の産業の中で、そのベースを元にチャレンジしたいというのが、就農の大きなきっかけだった。
そういう気持ちで農業を始めたので、予測できなかった震災と原発事故にあったが、それがあったからこそ、より一層、農業のこと、福島のことを伝えたいと思うようになった。
農業をやりながら震災がらみの活動は常につきまとったので、自分の経験したことを伝えたかった。
1年目は目に見えない放射能に対して、作っても食べられるか?売ることができるか?
そういう先の見えない不安が、非常に大きかった。
周りの有機農業をやってきた人たちが、ここに留まって続ける決意を持ってやっていた姿に私も、ここで若い者が頑張らなければいけないと思うようになった。
原発事故が起きた時、放射能の問題は2、3年の問題ではないことは直感的に感じ、20年、30年、50年という長い時間をかけて向き合わなければいけない問題だと強く感じたし、現場にいない人間には伝えられないと思い、自分が経験したからこそ伝えられるのではないかと思って、留まる選択をした。

●インドで考えたこと
葛藤と不安の中で着実に見えてきた光は、いろいろな立場の多くの人が福島に関心を持って来てくれたことであり、また、話を聞いてくれる人たちが周りにいたから、ここまでやってくることができた。
国内だけでなく国外にも出て、いろいろな人たちと触れ合ってきた。
昨年3月に、福島のNGOの企画で、インドに行ってきた。
福島の原発事故被害地からの生の声をインドに届けるという企画で、政府や研究者のデータではなく現場の生産者がどんな思いでどんなことをしているのかを伝えるという企画だった。
浪江町の希望の牧場の吉沢正巳さんと私がデリー、チェンナイ、ムンバイの3都市で講演し、インドの人たちに福島で起きたことを話し、また質問もたくさん受けた。
インドは今、原発を46基建設予定している。
日本が輸出するし、技術提携するということで、福島であれだけの過酷事故が起きたのに、政府のそんな姿勢は日本人としてとても恥ずかしく思っていた。
反原発運動をしているインドのジャーナリストやメディア関係者、研究者、農民、漁民が、福島のことを聞きたいと遠くから話を聞きに来てくれた
「なぜあなたは原発から50kmのところで有機農業をしているのか」と、直球の質問を投げてきた人もいた。
私は、福島の米も野菜も果物も、全部検査して今はほとんど検出されていないことを話したのだが、すると原発があってもそこで農業することに問題がないのではないかと捉えられてしまうことがあるが、それは誤解で、そうではなくて原発があることによって第一次産業の農業・漁業は、とても大変な思いをすることを伝えたかった。
原発と農業は共存できない、原発は人間社会と共存できないことを、しっかり伝える必要性を感じた。
人によって視点も考えていることも違うが、福島の農産物から今はほとんど放射性物質が検出されないが、他の国で同じことが起きた場合に、同じようにはならない。
これには日本の気候や土が影響している。
有機質の粘土質の土は、放射能を吸着する力があるが、砂地ではセシウムは作物に移行しやすいことが研究で解ってきた。
そうしたことから、もしインドで原発事故が起きた場合、6年後に農作物からはほとんど検出されないかと言えば、日本と同じようにはならないだろう。
福島では農業者と研究者の連携があったからこそ、見えてきた光だと思う。
今もインドで稼働している原発の周辺では、ガンが発症したり生まれてきた子供が障害を持っていたりの事例が発表されていると聞いてきた。
そうしたことも含めて、この現実、原発事故のことを世界にどうやって知ってもらうかがとても大事だと思う。

●大きな宿題
つい先週はアメリカへ行く機会があり、アメリカに行ってこれまでの活動を振り返る時間を持てた。
正直に言えば、これまで孤独感を感じていた。
もちろん周りには家族や支えてくれる仲間達がいたが、この6年間一人で闘ってきて、なんとかしようともがいていた。
それというのも、地域で活動していると周りはもう普通に生活して普通に農業をしているので、前を向いてやっている現実があるのだが、私はこの原発のことをどうやってみんなに知ってもらい、声を届けるかということに、もがいていた。
研修で、福島からは3人が参加したのだが、アメリカの一般の人たちとの交流会で「福島の今の状況はどうなっているの?」とか「この中に福島の人は何人いるの?」などと聞かれた。
一般の市民がこんな風に福島にとても感心を持って話を聞いてくれ、福島のために何かしたい、応援したいと思ってくれている人がこれだけ居るのだということがとても嬉しく、思わず泣いてしまった。
日本ではなかなか言えずにもがいていたことが、アメリカに行った時に解けたように感じた。
そしてこの問題は、長く細く世界の人と繋がりを持ちながらやっていけたらいいのだと思い、自分の中でもう一度、どうやってこの問題を伝えていけるか、自分の何を活かしてやっていけばいいのか、大きな宿題を持ち帰ったように思う。
日本から見た世界ではなく、世界から見た日本という視点で考える大きなきっかけになった。

関連:

2017年2月14日号「お知らせ2件」

◎お知らせ①
【信州発】産直泥つきマガジン『たぁくらたぁ』41号が発刊されました。
特集「関口鉄夫の仕事」です。
●関口鉄夫さん
環境科学者の関口さんは『たぁくらたぁ』初代編集長でもありました。
2013年夏に多発性骨髄腫を診断され、闘病生活を送りながらも、放射性廃棄物処分場や焼却施設の現場に通い、また全国各地の産廃処理場問題に取り組んでいましたが、昨年8月31日逝去されました。
福島に通うようになった私が放射能汚染や環境問題を考える時に、関口さんから教えられることが多々ありました。
何度か一緒に福島へも行き、南相馬の仮設住宅で住民の方たちに「わかりやすい放射能の話」をして貰ったこともありました。
私もそうですが、福島原発事故以前には「ベクレル」も「シーベルト」も聞いたこともなかった被災者たちに、こんな風に話し始めたのでした。
仮設住宅の集会所の前には、コスモスが咲いていました。
関口さんはそこから数本の花を手折り、その花を持って会場に入ったのです。
集会所で話を聞こうと待っていたのは高齢者たち、ほとんどがおばあちゃんたちでおじいちゃんはチラホラでした。
関口さんは開口一番、「みなさん若い時にやったことあるでしょう?スキ、キライ、スキ、キライって花占い」と言ったのです。
そして「今でもやっている人いるんじゃないですか?私じゃなくていいですから、誰かいい人を思い浮かべてやってみてください」と軽口を言ってみんなを笑わせて、持っていたコスモスを目の前のおばあちゃんたちに1本ずつ渡しました。
少ししておばあちゃんたちに「どうでした?」と問うと「キライ」になった人も「スキ」になった人もいたのです。
関口さんはおばあちゃんたちに、「スキで始めましたか?キライで始めましたか?」と問うと、誰もが「スキ」から始めたと答えました。
関口さんは、話し始めました。
「一重のコスモスは花弁が8枚、偶数なのです。だから花占いでスキが出るように望むなら、キライから始めなければならないのです。大抵みんなスキから始めるのでキライの結果が出てしまいます。でも、今日はスキで始めてスキで終わった人がいましたね。花弁が奇数だったのです。これを変異と言いますが、今日は私が集会所の前の畑でどれこれと選ばずに無造作に手折ってきたコスモスでもそうでしたが、原発事故後に花や木などの植物や、虫や鳥など動物にも、こうした変異がたくさん出ています」
こんな風に話し始めた関口さんの話は、仮設住宅での日々の暮らしや、また自宅に戻った時にどんな点に注意したらよいかなどを具体的に伝えて、タイトル通り高齢者たちにも「わかりやすい放射能の話」でした。
「関口鉄夫さん」その人と、関口さんの仕事を、多くの人に知ってほしいです。

●他にも読み応え溢れる記事満載
*巻頭言:「馬齢の尽きるその日まで」関口邦平(鉄夫さんのお父さん)
*巻頭インタビュー:「平和とは何か」中村尚司
*特集:関口鉄夫の仕事
 ゴミポチが亡くなった:田島征三
 ゴミ問題の現場を駆ける:梶山正三
 地方議員と住民自治:森山木の実
 3・11後の福島へ:野池元基
 関口鉄夫の著作より
 二つの詩=関口鉄夫のメールより
*ノ パサラン No pasaran やつらを通すな!第6回
        プロテスター(抗議する者):浅井大希
*人間の生き方」と「太陽光発電」問題を考える:米田佐代子
*白馬の森発 原発避難者の明日 第11回
 汐凪発見に思うこれから:木村紀夫
*戦時体験の二つ逸話
 731部隊 障がい者を受け入れたホテル:清水まなぶ

などなど、ぜひお読みいただきたい記事満載です。
ご購入はお近くの書店、またはオフィスエムへ。
オフィスエム:TEL 026-219-2470 FAX 026-219-2472 e-mail:order@o-emu.net
定期購読(1期4回分〜)のおすすめ 2,800円(送料込み)
HPも御覧ください。http://o-emu.net/
WEB版たぁくらたぁ http://o-emu.net/tarkuratar/

◎お知らせ②
トークの会「福島の声を聞こう!vol.22」参加申し込みの受付は始まっています。
今回のゲストスピーカーは二本松の有機農業者、菅野瑞穂さんです。
東京の大学卒業後に実家の有機農家に戻り就農した翌年、東日本大震災・原発事故が起き、放射能災害に向き合うことになった若い女性農業者の話を、多くの方に聞いていただきたく思います。
どうぞ、お出かけください。

いちえ

トークの会vol.22


2017年2月12日号「安保法制違憲訴訟・女の会」

前便で、傍聴できなかったとお伝えした「安保法制違憲訴訟・女の会」第1回口頭弁論の報告集会プログラムが届きましたので添付します↓


安保法制違憲訴訟・女の会 国家賠償請求事件(平成28年(ワ)第27258号)

第1回口頭弁論 報告集会プログラム

参議院議員会館B104号室
17:00~18:00

1.第1回口頭弁論の報告       弁護団より

2.陳述した代理人から        中野麻美さん、角田由紀子さん
陳述した原告から         池田恵理子さん
                高里鈴代さん

3.全国の訴訟の取組から       杉浦ひとみさん

4.質問&今後について意見交換

    次回期日:  6月16日15時(103号法廷)

意見陳述

原告ら代理人 弁護士 中野麻美

「平和なくして男女平等なし」「男女平等なくして平和なし」
これは、女性の参政権と地位向上に尽力した市川房枝が先の戦争から得た教訓です。
日本国憲法は、個人の尊厳のうえに差別のない社会を実現することを国家の使命とし、軍隊をもたず戦争を放棄することを誓いました。この憲法をもったことは、原告らの誇りであり、粉骨砕身、差別や暴力のなかから人生を切り開き、行動する支えになってきたものでした。

 戦争は人間を目的化・道具化・序列化します。個人こそ社会の主人公であって、自由にして平等であるという基本原理にたったときには、戦争は放棄されるべきです。また、戦争と軍隊は、女性の性を道具として支配の対象にしてきました。憲法が男女平等の本質的かつ普遍的な権利を保障する以上、戦争放棄条項も永久普遍の原理として守られるべきものです。

 私たちがこの訴訟で問題にしている安全保障法制は、その制定過程から重大な憲法違反を重ねるものでした。
憲法学者のほとんど全員が憲法違反だというのに、政府は、これまでの解釈をクーデタのように変えてこの法律を国会に上程し、武力による紛争解決を法的に承認してしまいました。
世論が注目する国会などの場面では、何度も「女性と子どもを護る」というフリップを用いて武力行使の必要性を説明し、家父長制と戦争の正当性を繰り返し人々にイメージさせました。
世界各地で、女性に対する性暴力・性虐待が戦争の手段にされたくさんの人たちを傷つけています。日本軍性奴隷制や米軍による性暴力がいまだに女性たちを傷つけていて、戦争は終わっていないのです。そして、戦争の正当化が日常の生活における女性に対する暴力や差別を強化することが告発されてきました。
安全保障法制は、生活のあらゆる場面において女性の権利を脅かします。
それなのに、これらのことは何一つとして議論・検討されないまま、この法律は強行採決されました。いったい、どうしてそれが「積極的安全保障」に資するもので、「国民の人権を守る」ことになるのか、国際紛争への軍事介入や日本の軍事化は女性たちの人権を侵害するものではないのか、私たちはきちんとした説明を受けていないのです。
にもかかわらず数を頼んでこの法律を強行採決するのは、デモクラシーの理念の否定であると同時に、女性たちの政治的権利を否定するものです。

 立法やその制定過程が憲法に違反し、正当性もなく、民主的代表制を完全に無視して制定されたとき、そのような法律は廃止されるべきであり、この国と社会の主人公としてその効力を認めるわけにはいきません。立法府と異なる立場からそれを判断するのが裁判所に与えられた使命です。裁判の公開の原則のもとに立法過程をすべて明らかにし、検証しなければならず、私たちにはそれを求める権利があります。
被告国は、私たちの主張は、単なる不安や危惧を抽象的に述べるにとどまるものであるから国賠法上の要件を満たさないといっています。そして、安保法制の違法性を裏付ける重要な事実について、「認否に値しない」として回答を拒否しています。このような姿勢は、国民から信託を受けた政府の対応としても、訴訟当事者としても許されるべきではありません。

原告ら各人の権利侵害はそれぞれ多様です。そして、政府や国会議員の違法行為は、既に原告らそれぞれの権利利益を現実に侵害しています。被告国には、このような訴訟態度を直ちに撤回してきちんと認否反論して証拠を提出するよう求めます。また裁判所には、違憲審査権を行使するにふさわしく、訴訟指揮権を行使されるよう強く求めるものです。
以上

原告 池田恵理子
私は1950年、大空襲で多数の犠牲者を出した東京・江東区に生まれ育ち、高校時代にはベトナム戦争での惨たらしい戦場報道に接して戦争は絶対嫌だと思ってきました。中国に出征した父に戦争体験を聞いても、住民虐殺や強かんには沈黙するだけだったので、「加害兵士の娘である私」を自覚するようにもなりました。1973年にNHKのディレクターになってからは、大空襲や原爆、中国残留孤児など、戦争体験を語り継ぐ番組を数多く作りました。「慰安婦」の番組も1991年から96年までに8本は作りましたが、97年以降は企画が全く通らなくなり、一市民として「慰安婦」被害者や元兵士の証言を記録する活動を始めました。「慰安婦」制度を裁いた2000年の女性国際戦犯法廷には主催団体の一員として取り組み、2010年にNHKを定年退職した後は、日本で唯一の「慰安婦」資料館、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の館長となって今に至っています。
 こうした経験から、憲法改正をライフワークと公言する安倍晋三首相が、日本を「普通に戦争ができる国」にしようと強行した安保法制の制定・施行を許すことができません。首相はこの20年余り、「慰安婦」の記録と記憶を抹殺しようと躍起になってきました。これは、戦争と性暴力をなくすために勇気をふるって凄惨な被害体験を語ってくれた女性たちを再び傷つけるものです。

●日本軍は戦争中、アジア各地に慰安所を作りましたが、そのきっかけは日本兵の強かんが頻発した南京大虐殺でした。慰安所は強かん防止と性病予防のため中国各地に設置され、戦域が東南アジアに広がると、現地女性を拉致・監禁・輪かんする「強かん所」も増え続けました。しかし厳しい報道規制によって慰安所の存在は国民には知らされず、敗戦直前には戦犯裁判を恐れた軍上層部が関連文書を焼却させました。兵士たちは「慰安婦」を“戦場の売春婦”と思い込まされ、加害の意識はありませんでした。
「慰安婦」制度が性奴隷制であり、女性への人権侵害で重大な戦争犯罪だと知られるようになったのは、1991年に韓国の金学順さんが名乗り出てからです。彼女は日本政府が「慰安婦は民間業者が連れ歩いた」と答弁したことに憤り、立ちあがりました。それを機に、韓国、フィリピン、中国、台湾、オランダなど各国の女性が名乗り出て、日本政府に謝罪と賠償を求める裁判を起こしました。これら10件の裁判は最高裁で原告敗訴となりましたが、8件の裁判では事実認定がされています。また審理過程で綿密な聞き取りや資料発掘が行われ、「慰安婦」制度の実態と全貌がわかってきました。
この事実は国際社会に大きな衝撃を与えます。旧ユーゴやルワンダでの集団強かんが問題となった時代です。1993年の国連の世界人権会議は「女性に対する暴力は人権侵害」と決議し、国連総会では「女性への暴力撤廃宣言」を採択しました。
対応を迫られた日本政府は「慰安婦」調査を行い、93年には河野官房長官が「慰安婦」の強制を認めてお詫びと反省を発表しました。しかし政府は「法的責任はない」と「賠償」は行わず、国民からの募金で「女性のためのアジア平和国民基金」を推進したので、被害女性からは批判や受け取り拒否が起こりました。

●こうした国内外の動きに危機感をつのらせたのが、歴史修正主義の政治家やメディアでした。彼らは「慰安婦」を“戦場の売春婦”として、90年代後半から激しいバッシングに乗り出します。1997年度版の中学歴史教科書の全てに「慰安婦」が記述されたために教科書会社への攻撃が始まり、やがて教科書から「慰安婦」は削除され、2012年度版では遂にゼロになってしまいました。
報道現場でも、90年代後半から「慰安婦」報道を抑える動きが強まりました。2000年の「女性法廷」を取り上げたNHKの番組が政治介入による改竄が暴露されて、その一端が明るみに出ました。「女性法廷」は右翼の猛攻撃を受けながら開催されましたが、各国から被害女性64人が参加し、海外メディアは95社、200名が取材に訪れて世界中に報じ、今では現代史に残る出来事となっています。ところが国内での報道は低調で、とりわけNHKが放送した「女性法廷」の番組は異常でした。法廷の起訴状も判決も主催団体もカットされ、出演者のコメントは脈絡なく編集され、「女性法廷」を否定するトーンになっていたのです。あまりのことに主催団体はNHKや制作会社を提訴したところ、その審理中にNHK職員の内部告発によって、安倍晋三官房副長官(当時)ら自民党の政治家たちの介入で、放送直前に番組が改竄されたことが明らかになりました。東京高裁では政治による番組改竄を認めて原告は勝訴、被告NHKらに200万円の賠償支払いを命じました。この事件は報道への政治介入が克明に暴かれた、放送史上稀にみる事件になりました。

●ここまで徹底して「慰安婦」がなきものにされるのは何故か。安倍首相は1993年に国会議員になってから一貫して、あの戦争は「アジア解放の正しい戦争」だったと言っています。しかし女性たちを性奴隷にした「慰安婦」制度は明らかな戦争犯罪であり、「正しい戦争」とは相いれません。そこで「慰安婦」は民間業者が連れ歩いたもので、日本軍に責任はなかったことにしたい…つまり日本軍が犯した加害事実に向き合う勇気がないのです。
安倍首相は第1次安倍政権の時から「慰安婦の強制の証拠はない」と主張し続け、メディアは政権に同調して「慰安婦」を否定するか、報道を自粛してタブー扱いしてきました。2015年12月末に日韓両政府が「慰安婦」問題は「最終的・不可逆的解決」に達したとする日韓「合意」を発表し、日本のメディアの多くが「一件落着」と報じ、大方の世論もそう受け止めました。ところが、韓国の被害女性も世論も日本とは真逆で、日韓両政府への批判を強めており、この落差は大きくなるばかりです。このような日本国内の世論形成は、安倍首相たちが20年余りかけて「慰安婦」の報道と教育を管理・統制してきた結果だと言えましょう。
昨年5月末には日本を含むアジア8ヵ国の民間団体がユネスコの世界記憶遺産に「日本軍『慰安婦』の声」の登録を共同申請しました。右派のメディアや日本政府はこの登録を阻止しようと、官「民」一体で取り組んでいます。日本の登録団体の中心にいるwamへの攻撃は激化し、爆破予告の脅迫状まで送られてきました。こうした不穏な動きは、安保法制下での出来事です。「慰安婦」問題を訴える輩は”敵“として攻撃してもいいのだ…と思う者たちがうごめき出したのです。

●安保法案をめぐる国会審議では、「慰安婦」制度に関する国連の勧告も、南スーダンやアフガニスタン、イラクなど紛争下での戦時性暴力についても、何ひとつ取り上げませんでした。私に参考人として意見を述べたり、公聴会で発言する機会を与えてほしかったと痛切に思います。国会審議で戦争遂行の装置だった「慰安婦」問題を議論できず、法案を廃案にできなかったことは、日本人としての戦後責任を果たせなかったという点で、慚愧の念に堪えません。「慰安婦」問題の真の解決を目指してきた被害女性や国内外の女たちの努力を無にすることだからです。
私はジャーナリストとしての仕事も、「慰安婦」支援や資料館の運営に取り組んできたこれまでの人生も全て否定されたような衝撃と苦痛に襲われています。安保法制は、加害国だった日本がやってはならないことなのです。戦争と性暴力のない世界を築くためにも、違憲である安保法制を何としても廃止しなければなりません。
以上

原告 高里鈴代
1 5歳で終戦を迎え、台湾から宮古島へ、そして那覇へ
私は、現在76歳です。1940年に台湾で生まれました。父は東京農大卒業と同時に、台湾総督府農林省に勤務しました。私の家族は、米軍の爆撃を避けて防空壕で終戦を迎え、終戦の混乱の中をかいくぐって郷里の沖縄・宮古島に引き揚げてきました。そのとき私は5歳でした。
私が小学校4年生の2学期に父の転職で那覇市に移りました。家庭の経済は、宮古島でそうであったように、那覇でも厳しく、母親の着物は下駄の鼻緒となって売られました。

2 フィリッピン留学が私の人生を決めた
私は沖縄の短大卒業後、フィリッピン・マニラにあるハリス・メモリアル・大学へ留学しました。そこでの2年間が私の生き方を方向づけました。
 第1は、アジア・太平洋戦争で日本軍がフィリッピンの人々への残忍な戦争行為をした事実とそれが犠牲者に深い痛みをもたらしていたことを、現地の人々の口から繰り返し聞いて知ったことでした。
もう1つは、クリスマス休暇で訪ねた友人の住んでいる町が、実は米軍基地の町であったことの衝撃でした。友人の町は、沖縄のコザに来ているのかと錯覚するほど、沖縄の基地の街そのものの姿でした。その街は、アジア最大の米海軍スービック基地のオロンガポ市でした。沖縄に基地があるのではなく、基地の一部に沖縄があると強く実感しました。

3 売春防止法の制定が遅れた背景
本土では、1956年に売春防止法が制定されていたのですが、沖縄にはありませんでした。1967年に、本土で売防法制定のために奔走していた矯風会の高橋喜久江さんが、沖縄での売防法成立の遅れを調査するために、来沖されました。私は高橋さんに同行し、沖縄の現状を学びました。立法院議会へ再三の立法要請がなされても、法律が成立しなかったのには2つ理由がありました。
第1は、もし、売防法が成立したら、米軍兵士たちの暴力のはけ口は、かつてのようにまた地域社会に戻って来るのではないかという恐れが、議員たち及び地域社会の中に強くあったということでした。軍事支配を背景に、そこでは圧倒的なむき出しの暴力が日常的に存在していたのです。日本の敗戦により、沖縄の女性の身体は米軍兵士たちに文字通り踏み荒らされ続けてきたのです。米兵の容赦ない暴力から一般の人が逃れるために、沖縄に集娼地区が作られたのです。これが廃止されると、それ以前のように米兵が民家に踏み込んだり、歩いている女性を掴まえたりして手当たり次第に強姦をするようになるという心配でした。
もう一つは、売防法が成立すると、女性たちが米兵から日々稼ぐドルはどこへ行ってしまうのかという心配でした。当時の沖縄の女性たちは、厳しい強制管理売春の中で生きて、沖縄経済を支えるドルをかせいでいたのです。私は、この女性の状況と彼女たちの心身をむさぼりつくすとでもいうしかない売買春の実態に触れて、女性の人権侵害であると強く思いました。

4 ベトナムの狂気は基地の街で
 そのような状況の中で、施行は2年後の復帰時として、1970年には売防法が成立しましたが、その同じ日にもうひとつの決議があります。それは当時前原高校3年の女子生徒がレイプの被害から逃れるために抵抗し体中をナイフで切られ重傷を負う事件を受けてのものです。沖縄は米兵からの暴力を防ぐための集娼地帯のはずだったのですが、実際はそういうものを越えて暴力が起こり続けていたわけです。70年の売防法制定日には、この女子高校生の被害に対する抗議声明が出されたのです。
ベトナム戦争中、米兵は沖縄から出撃し、休暇になれば沖縄に戻ってきました。ベトナムに送られれば命の保障はないことを米兵たちは知っていましたし、殺戮の現場から戻ってきた兵隊は荒れており、売春女性たちが彼らの不安や怒りなどの受け皿とされていました。
私は高橋さんに同行しての見聞で、沖縄の女性の問題に深く関わりたいと考え、その後は、まず、売春に関する新聞資料の収集を始め、売防法の問題に関心を持つようになっていきました。
5 婦人相談員に
私は、婦人相談員の仕事を知って勉強をし直して、1977年4月、東京都婦人相談センターの電話相談員第一号に採用され、女性が女性であるが故に受ける暴力、理不尽な差別扱いなどの相談に携わるようになりました。1981年4月に沖縄へ帰り、1年間、うるま婦人寮(婦人保護施設)でボランティアの後、那覇市の婦人相談員として1982年から7年間働きました。

    6 那覇市議会での活動
私は、1989年、那覇市議会議員へ立候補し当選しました。以後、市議会議員を4期務めました。婦人相談員としての仕事は、女性を人権の回復へ支援する意義ある仕事だと思っていましたが、婦人相談員の仕事と司法の限界を思い知らされ、社会の性差別意識を変えたいという思いから選挙に出ることを決意し、女性たちと共に当選を勝ち取ったのです。

7 北京女性会議へ
 日本への復帰後も米軍の削減はなく、米軍の演習による事故・事件は続き、女性に対する暴力も後を絶ちませんでした。1995年、国連の世界女性会議(北京会議)への参加準備の中で、沖縄は直接の紛争状態の中にあるのではないけれども、戦後から50年にわたり、大規模の米軍が駐留し、人権侵害、生命の危機、暴力が起こり続けており、「長期軍隊駐留下における性暴力」を戦争犯罪として捉えるべきではないかと、「軍隊・その構造的暴力と女性」のワークショップを北京会議の一角で開きました。

8 北京会議の最中に3米兵による少女強姦事件が起こった
北京会議のさなか、1995年9月に起こった3米兵による少女強姦事件は、復帰後の米軍人の特徴を現した事件です。事件に抗議する県民大会には、沖縄の人々の積年の怒り、痛み、そしてこれ以上の人権侵害を許さないと8万5千人の県民が結集しました。
この県民大会の会場で、私は、女性たちと一緒に立ち上げた「強姦救援センター・沖縄、REICO」を10月25日に開設するとのチラシを配り続けていました。性暴力相談活動は、今も継続しています。
同時にその県民大会直後に結成されたのが、女性たちによる「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」です。早速に政府に対して、日米地位協定を北京行動綱領(日本政府は署名しています)の精神に則して改正することを求めました。

9 私が原告になった理由・私の被害
 私は、沖縄で米兵による女性の人権侵害をつぶさに近距離でみてきました。沖縄は71年間軍隊の支配下にあります。
婦人相談員として、あるいは那覇市の市議会議員として、常に女性たちの苦しい現実に寄り添い、解決に力を尽くしてきました。沖縄ではいまも毎日軍隊との共存を強いられているのです。軍隊が女性にとってどのようなものであるかを身に沁みて知りました。
軍隊の本質は、家父長制に基づく力による支配を強行する組織です。沖縄では特に、米軍人の女性に対するレイプ、絞殺事件は、9ケ月の乳児から5歳の幼児を含めあらゆる年齢に及んでおり、ベトナム戦当時には、年間2~4人の女性が絞殺されました。
沖縄の戦後71年を軍隊の女性への性暴力、殺害などを通して振り返る中で、その人権侵害性を声を大にして訴えます。軍隊の駐留によってもたらされる暴力、それによって傷つき、苦しむ女性たちの存在、その回復支援に取り組んできた者として、訴えます。
私は、少しでも性差別のない、暴力のない社会を作ろうと働いてきました。沈黙を強いられている女性たちと共に、暴力の元凶である米軍の撤退、削減を求め、声を上げてきました。しかし、安保法制法は、その全く真逆なところにあり、私の、私たちの声を完全にかき消すものです。戦後71年経って、再び振り出しに押し戻されたような屈辱感と怒りを強く感じます。私は、安保法制法の撤回を求めます。
以上

原告ら代理人 弁護士 角田由紀子
1 戦争被害の現在性
 日本において、戦争が一般の人々に与えた被害の悲惨な事実は、アジア・太平洋戦争の時期を通じて、多くの人々の体験の中に刻印されています。女性や子どもはその被害の中心にありましたが、今日に至るも被害は癒されることなく、人々の心身の深いところで存在し続けております。今回の安全保障法制は、それらの深い傷を呼び起し、再体験を迫るものです。安全保障法制の制定過程そのものが、女性の存在を無視し、女性の声に一度たりとも耳を傾けることなく、文字通り、暴力的なものでした。その内容と制定過程に直面して、原告たちは、深い苦痛と不安に曝されています。その苦痛や不安は、漠たるものではなく、現実に女性たちの心身に深い打撃を与えるものです。

2 戦争と女性の性的被害について
 戦争がその本質において、女性への性的加害行為を伴うものであることは、過去世界中の様々な戦争で、十二分に証明されております。そのことは、沖縄では戦争中に始まり敗戦後から今日まで、常に現在進行形であり、どれだけ多くの女性が命を奪われ、人としての尊厳を奪われたかを、特に注目しなければなりません。この事実は、私たちに戦争と女性の関係の本質をはっきりと示すものです。
日本軍「性奴隷制」の問題の真摯な解決を置き去りにした政権による安全保障法制に、原告たちは「安全保障」という言葉とは裏腹に極めて大きな危険を感じております。安全保障法制は、次の戦争を確実に準備するものとして、目に見える形であるいは見えない形で、既に女性たちの生活の安全を脅かしております。原告たちの多くは、女性への性暴力を含む暴力と闘ってきております。この社会を女性や子どもなど権力を持たない人々にとってできるだけ安全なものにしたいと、日々努力をしてきました。それが、戦争という究極の暴力を肯定する法制がとられたことで、これまでの努力が根こそぎ否定されてしまいました。それは、そのことに力を尽くしてきた原告たちの生き方そのものの否定であります。原告たちの努力を支えてきた根幹にあるのは、日本国憲法です。憲法の平和主義、個人の尊重などを明確に否定する今回の法制は、原告たちから将来への希望を奪い、打ちのめしました。言うまでもないことですが、女性への暴力の加害者の多くは、男性であり、男性のそのような暴力にいわば「お墨付き」を与えるのが、今回の法制です。その法制は、昨年3月29日に施行され、昨年11月から南スーダンに派遣されている自衛隊には、武力行使を容認する新任務が与えられました。南スーダンでは、性暴力が頻繁に起きていることは、新聞等で報道されており、国民の多くが知っております。このことは、国内での女性の安全に大きく悪影響を与えるものといわざるを得ません。
 いかに近代化された戦争であっても、戦争はそれに従事する人間を必要とします。かつての戦争の時代に国を挙げて「産めよ増やせよ」がとなえられ、その実現が強要されました。病弱な女性が子どもを産むことに耐えられず、堕胎をした例がありましたが、その女性は堕胎罪で逮捕されました。堕胎罪は、今でも刑法に規定されており、戦争に向かう社会が、女性の性にどのように敵対的であるかの例です。少子化対策という言葉でさまざまに行われている政策は、「産めよ増やせよ」政策と無関係ではありません。

3 個人としての女性の否定
 戦争とそれに伴う戦時性暴力の基盤になっているのは、日常生活の隅々までを支配している家父長制です。今日では「家父長制」という言葉が使われることは少なくなりましたが、社会の仕組みとしてのそれは生き続けております。
家父長制の仕組みがむき出しであった社会において、憲法は女性に人間解放をもたらしました。戦争肯定社会は、憲法が女性にもたらした個人としての権利を否定するものです。多くの原告たちは、憲法13条、14条及び24条等によって保障された人権をしっかりと手にして戦後の人生を築いてきました。戦前には閉ざされていた多くの場所で女性たちは、羽ばたいてきたのです。もちろん、彼女たちの生き方の骨格は憲法です。しかし、安全保障法制は、それらを否定するものです。原告たちが体験させられた苦痛や恐怖や不安は、彼女たちが生きることの根幹にかかわるものです。
 ある原告は、教育者や研究者として、憲法に導かれて新しい社会を作ることに尽力してきました。ある原告は、政治家として国会等で奮闘してきましたが、安保法制法は、女性政治家からその本来の活動の場を奪い、大きな被害を与えました。ジャーナリストや公務員等の原告たちも、その自由な活動を制約されたり、不本意な活動を強制される危機に瀕しており、これらの原告たちが具体的に受けた苦痛に対して、被告が損害賠償をするべきであります。原告たちが現に被っている被害及び損害が正当に償われるべきです。そのために、司法が憲法によって付与されている責務を果たさねばなりません。
 私は原告の女性たちが、既に被っている被害について、その一部を指摘しました。詳細は、今後原告本人尋問等で立証する予定です。
以上


また記者会見と報告集会の様子が、youtube でご覧になれます。
https://www.youtube.com/watch?v=HOmLGbvym_0

報告集会プログラムを読み、またyoutubeを見て、その場にいられなかったことが残念であるとともに、参加できなくてもこうして読み、そして見ることで理解することができることを嬉しく思いました。
次回もまた、傍聴券を求めて並ぼうと思います。
第2回口頭弁論期日は6月16日(金)15:00〜です。

いちえ


2017年2月10日号「2月10日東京地裁」

今日は東京地裁で「安保法制違憲訴訟・女の会」第1回口頭弁論期日でした。
私も傍聴券を求めて並びましたが、残念ながら抽選に外れて傍聴できませんでした。
傍聴席は96席ですが、180人以上の人が抽選に並んでいました。
15:00開廷で、閉廷後17:00〜の報告集会があったのですが、私は都合がつかずに参加できませんでした。
女性の立場からの違憲陳述を、ぜひぜひ聞きたかったのですが残念です。
戦時性暴力など、女性に関わる問題はとても大きくあると思います。
戦争は、女性たちに特別な影響と被害をもたらすと思っています。
今日の法廷での陳述内容が判ったら、またお伝えしたいと思います。

「安保法制違憲訴訟」は、全国に広がっています。
東京地裁での国家賠償請求訴訟、第3回期日は3月3日10:30開廷です。
差止請求訴訟は4月14日です。
大阪地裁は2月22日。広島3月8日。さいたま地裁も同じく3月8日。
福岡地裁での国家賠償訴訟は3月14日、差し止め訴訟は4月12日。
福島地裁いわき支部は4月26日に開かれます。
お近くの方、どうぞ傍聴に行ってください。                 

いちえ


2014年2月7日号「お知らせとお願い」

◎お知らせ①
ご承知のことと思いますが、沖縄が本当に酷い状況になっています。
こんなことが許されていいものか!と憤りで身が張り裂けそうです。
以前の「一枝通信」で、地元沖縄の人たちが取り組んでいる「山城博治さんたちの早期釈放を求める署名」にご協力をお願いしました。
現地から、その報告が届きました。
添付します。

山城博治さんたちの早期釈放を求める署名活動へのお礼と報告

◎お願い①
また同会では抗議の手紙・ハガキ行動を呼びかけています。
下記が宛先です。

*那覇地方裁判所
〒900-0022 沖縄県那覇市樋川1−14−1 所長:阿部正幸
*那覇地方検察庁
〒900-0022 沖縄県那覇市樋川1−15−15 検事正:林秀行

上記2名宛に抗議の手紙・ハガキを送ってください。

◎お願い②
救援カンパのお願いです。
下記に支援金をお寄せください。

ゆうちょ銀行
記 号:17050
番 号:18292851
口座名:オスプレイ・ヘリパッド建設阻止高江現地実行委員会
              現地実行委員会実行委員長:大城悟 090−1085−1232

◎お願い③
拘束されている博治さんたちに激励の手紙・ハガキを!
〒900-0022 沖縄県那覇市樋川1−14−2
山城博治/稲葉博

地方裁判所所長と検察庁検事に抗議を、山城さんと稲葉さんに激励を、どうぞお願いいたします。

◎お知らせ②
関西方面の方へのお知らせです。
映画監督池谷薫さんの4作品が一挙上映されます。
池谷さんは「延安の娘」「蟻の兵隊」「先祖になる」「ルンタ」と、一貫して”人間の尊厳”を深く見つめた作品を送り出してきました。
沖縄でも、福島でも、自衛隊駆けつけ警護の問題も、人間の尊厳が著しく傷つけられ踏みにじられていると思えてなりません。
共謀罪が浮き彫りになってきている今、戦争への道をヒタヒタと進んでいるような不安と恐怖を覚えています。
「戦争」には勝者も敗者もありません。
あるのは「尊厳の破壊」のみだと思います。
関西方面の方、ぜひ池谷監督の4作品、ご覧ください。

いちえ

上映場所:神戸県立美術館ミュージアムホール
プログラム:4月7日(金)10:30〜「延安の娘」、14:00〜「蟻の兵隊」
      4月8日(土)10:30〜「先祖になる」、14:00〜「ルンタ」
各作品上映後に監督のトークあり
料金:1回券=1,000円、2回券=1,600円、4回券=3,000円


2017年2月4日号「集会報告」

1月29日(日)に、玉川区民会館で「福島原発刑事訴訟支援団」の結成1周年集会が開かれました。
◎これまでの経過
2011年3月野東京電力福島第一発電所の事故から3ヶ月後の6月に福島原発告訴団が結成され、避難者を含む福島県民が東電幹部らを刑事告訴しました。
追加告訴を合わせると14,716人による集団告訴です。
2013年9月、検察庁は刑事告訴について容疑者全員を不起訴処分としました。
翌10月、告訴団はこの不起訴処分を不服として、検察審査会に審査を申し立てました。
2014年7月、東京第5検察審査会が、勝俣恒久元会長、武藤栄元副社長、武黒一郎元副社長野3名を、起訴相当としました。
ところが2015年1月に検察庁は、東電元幹部3名について再度不起訴としたのです。
2015年7月、東京第5検察審査会は東電元幹部3名を起訴すべきとする2度目の議決をし、強制起訴が決まりました。
2015年8月に東京地方裁判所は検察官役の弁護士3名を指定、さらに9月には検察官役の弁護士2名を追加指定し、強制起訴事件では最多の5人体制となりました。
そして2016年1月30日に、福島原発刑事訴訟支援団が結成されました。
2016年2月29日、指定弁護士が裁判所に起訴状を提出•公判請求しました。
20016年3月14日には指定弁護士が証拠約4,000点の一覧を被告人の弁護士に交付、請求されれば原則開示する事を通知した旨発表し、東京地裁に早期に裁判を開くよう要請しました。
同年4月27日、東京地裁は初公判前に争点や証拠を絞る公判前整理手続きを行うと決定したのです。

起訴状が提出されて11ヶ月、「1日も早く裁判を!」と、開かれた支援団結成1周年集会でした。

◎「一日も早く裁判を!支援団結成1周年集会」〜福島原発事故の真実を明らかに〜
●団長挨拶:佐藤和良さん
2011年3月11日から丸6年が経とうとしている。
福島県内では様々な分断の中で帰還政策が進められ、この3月末に避難指示解除準備区域の指定を解除する。
政府は50ミリシーベルト以上を帰還困難区域、20〜50ミリシーベルトは居住制限区域、20ミリ以下は避難指示解除準備区域として、20ミリ以下ならどんどん帰るようにとして、早期帰還政策・強制帰還政策を採ってきた。
ところが今年の3月末日をもって50ミリシーベルトの居住制限区域まで帰るようにという、とんでもない話が進められている。
同時に、放射能被害と子どもの健康を案じて、避難指示区域外から全国に自主避難している区域外避難者たちの住宅支援を3月末で打ち切る話が、国と県で進められている。
つまり2020年の東京オリンピックまでに、「避難者は居ない、福島原発事故は終息、汚染水は漏れていない」という話にしようという魂胆が見え透いている。
福島県内では「物言えば唇寒し」で、原発災害、放射能汚染、被ばくの問題について話すのは非常に厳しい状況になっている。
区域外避難者の子どもたちがいじめにあうことがようやく顕在化してきたが、その一方では、避難しているからいじめにあうのだと言われる現状がある。
この6年間いじめの問題はずっとあったにもかかわらず、今になって顕在化しているのは、この帰還政策と期を一にしているものがあるのではないか。
2011年に原発事故が起き、2012年に福島原発告訴団が告訴した裁判は2度不起訴になったが、ようやく2015年強制起訴にこぎつけ、東電元幹部3名が強制起訴になった。
2016年2月29日5人の指定弁護士によって、勝俣、武藤、武黒の3名は公訴された。
それからもう1年になろうとするが裁判はまだ開かれず、その間棚ざらしにされていたわけではないのだろうが、東電側が非常に抵抗してここまで引き延ばされている。
一刻も早く公判を開けという声を大きくしていかなければいけない。
このままでは全国の原発再稼動という、安倍内閣の勢いが止まることを知らない。
被害者が地獄の苦しみを味わっているのに加害者が天国という状態に、一刻も早く終止符を打ち脱原発の道に向かうには、あの福島原発の事故はなぜ起きたのか、その責任者は誰なのかということをはっきりさせることが一番大事だ。
この刑事裁判を全国に知らしめて傍聴席を満席にして、裁判の状況と現実を全国・全世界に発信していく、そのためにこの福島原発刑事訴訟支援団が昨年発足した。
今日も大勢の皆さんにおいでいただいたが、更に団結をして、何としてもあの3名を有罪にするよう裁判を勝ち取っていきたいので、これからもどうぞ宜しくお願い致します

●弁護団からの報告:河合弘之弁護士
「刑事訴訟で期待すること」
私たちの闘いは、総力戦だ。
一番大事なのは、日本中から原発をなくす「脱原発」の闘い。
それと同等に大事なのは、福島原発事故についての刑事責任の追及だ。
もう一つ大事なのが、福島原発事故被害者の救済だ。
この3つは相互に関連しあって、互いにそれ抜きでは考えていけないという闘いだ。
敵は非常に強大な原子力村だが、敵の力量を過大評価してはいけない、相手は張り子の虎だ。
私たちが追及しまくっていけば、プスッと破けてしまう張り子なのだ。
私たちの闘いは着々と進んでいると自信を持って確信していいと思う。
私たちの闘いは彼らに重圧をかけ、彼らの自壊を招き寄せている。
彼らがなぜ再稼働したいかというと、目の前の、今だけ、金だけ、自分だけの気持ちで必死に縋り付いているだけだ。
世界の潮流は原発を止めて、自然エネルギーに移行する大きな流れになっている。
世界銀行は、原発には融資も出資もしないと言っている。
私たちの脱原発の闘いは、世界の大きな潮流に乗った闘いである。
脱原発は究極の闘いであり正義の闘いを最後まで闘って、日本中の原発を全部なくして、福島原発事故の刑事責任をきっちりと取らせて、放射能被害に苦しむ人、故郷を追われた人たちを最後の一人まで救いきる闘いをこれからも続けていこうではありませんか。
●弁護団からの報告:海渡雄一弁護士
「東電役員の刑事責任追及の現段階と今後の課題」
最近色々な取材を受けるが、経済関係のメディアの記者から聞くのは電力会社が再稼働を止めたがっているという情報で、原発がないと困ると思っているのは関西電力と九州電力だけではないかということだ。
東芝の問題からは、誰が見ても原子力はダメだとわかるから、潮目が変わったと言える。
裁判所でも必死になって準備をして数かぎりない打ち合わせを重ね、証拠なども選定されている。
それに対して東電が認否を徹底的にサボろうとしている。
そのために期日が決められていない。
とにかく東電はこの裁判を恐れているのだろう。
検察が起訴したのは、勝俣、武藤、武黒の3人。
起訴の議決は政府事故調と政府検察に流れてきた構図を一変させたという事、これがポイントだ。
2007年12月に東電は推本(地震調査研究推進本部)の長期計画を取り入れ、福島沖で津波・地震が起きるということを前提に対処することにした。
2008年7月の武藤さんの指示で津波対策はやらないとした。
これは迷った末にやらないことにしたのではなくて、一旦決まってやると決めた方針を覆したことだ。
そこがポイント。
95年の阪神淡路震災の直後に大きな地震・津波が襲うのではないかということで各省庁がきちんと議論してかなりいい想定指示が出ていた。
2000年の段階で福島の第1原発が津波に非常に弱いことが示されている。
2002年の7月31日に推本の地震調査委員会から長期構想が発表されて福島沖合でマグニチュード8,2という想定が出された。
2002年に当時役員であった被告らは、10mを超える津波が襲う危険性を、この時点で予測できた。
当時土木学会の津波評価技術は福島沖合で大津波は起きない前提だったが、土木学会に参加している地震学者の中でも推本の長期評価の方針に大きく頷いている人もいて、2004年にスマトラ沖地震でマグニチュード9,4だったが日本近海でもそれくらいの地震が起きるのではないかということは、言われていた。
津波対策の先送りの背景には耐震バックチェックの大幅先送りが隠されている。
2006年9月、地震に対する最新設計の見直しが行われた。
極めて稀だが発生する可能性もあると想定し、大きな地震は1000年に一度はあるとされた。
耐震バックチェックは既設の原発の運転を認めながら、新指針への移行を認めている仕組みで、これが非常に良くなかったが、しかし保安院は2006年の新指針ができた段階では津波対策を重視していた。
津波対策をきちんと実施させないと、保安院自体の責任になるかもしれないという緊張感を持っていた。
2009年には耐震バックチェックは完了の予定だった。
これがキチンとされていたら、今回の津波による事故は避けられた可能性はある。
2007年には中越沖地震が起き、それがバックチェックの引き伸ばしの材料になった。
新潟県の柏崎刈羽は止めたが、他は止めずに動かしながらバックチェックを進めていた。
2007年12月には東電も耐震チェックでバックチェックを取り入れる方針で、3月18日に東電設計から試算が納品された。
この試算の意味は実際に対策を採るときに防潮堤の高さをどうしたらいいかとかを決めるために行われた、まさに対策の総体を示している。
2008年3月東電の地震対策の打ち合わせ、中間報告書の提出に伴うプレス発表の想定問答報告で、推本の想定で津波15,7mになることを予測し、原子炉建屋を津波から守るために敷地上に防潮堤を設置する場合は、10mの敷地上に10mの防潮堤を設置する必要があるとした。
おそらくこのときに、予算等も出された。
ところがその一ヶ月後に、武藤さんは何もしないことを決めてしまう。
2008年9月10日、対策先送りした2ヶ月後のメモがでてきて、耐震バックチェック説明会のメモだが、ここには津波に対する検討情報は極秘情報のため資料は回収し資料には記載しないとされた。
ただし現場の土木学会では、地震・津波に対する学識経験者のこれまでの見解、および推本の知見を完全に否定することは難しいとある。
対策は役員会で否定されたが、現場の土木学会では否定できないことの内部告発だ。
東電設計にどの程度の防潮堤を作らせるか、土木調査グループはかなりの決意をもって会議に望んでいた。
事故の原因が隠された最大の隠蔽事件で、これは検察審査会、株主総会で明らかにされてきた。
2011年の夏までには検察庁の努力で政府事故調と検察庁で共有していたにもかかわらず、今日迄巧妙に隠されていた。
政府事故調の一部は出されていたが、他は隠されてパッチワークの絵のようだった。
が、これらの重要な証拠となる事実が、ようやく我々の努力で発掘された。
3月中には第1回期日が決まるだろう。

●原発事故被害者スピーチ:大賀あや子さん(大熊町から新潟に避難)
家、仕事、馴染んだ生活、人のつながり、ほとんどすべてを失った。
原発事故から5年10ヶ月、避難先7ヶ所を経て現在は新潟の借家にいる。
毎月11日には弔いに行けなかった津波被災地の友人知人達やこれまでに故郷に帰れずに亡くなったすべての方々、被ばくを受けたすべての方々を思い、終わらない被害を考える。
今でも余震が続くたびに、身構えてしまう。
日常生活の振動や騒音も不安になったまま、心身の不安生活を抱えてきた。
賠償金などによる格差が生じていることがとても辛く、放射能や被ばくを話題にできない福島のみんなが心配。
帰還困難区域の自宅には、一度も立ち入りしていない。
会津若松に3年間暮らしていた時、もう嫌だ、大熊に帰って野たれ死にしたいと思ったが、その時これは危ない、折れてしまうと思って新潟に再避難した。
避難指示解除で空間線量だけが話題になり、土壌汚染は無視されている。
●うのさえこさん(福島市から京都に避難)
原発事故が起き命の危険が迫っていても、私たちが命を守るために必要な情報は手に入れることが困難なまま、原発事故は続いているし、事故の責任も原因究明も進んでいないままに再稼動が進められていることに深い憤りを感じている。
会津を通り新潟を通り新潟に行く途中で1号機の爆発を知り、実家のある山口県に避難、九州に避難、2013年に京都に避難した。
この6年の間にたくさんの避難者に会ってきた。
家族を壊されたり、生まれた子供に病気があったり、大変な悲しみと喪失感と不安を感じながら、それぞれの人がどれだけ大変な思いをしながらきたか…、お互いに支え合っていきたい。
この刑事裁判が未来の人たちにとって、これからの希望ある命を守る社会に向けての財産となるものを残せるようにと願っています。
共謀罪が成立するとこうした集会も困難になっていくかもしれないが、どんな困難があっても、大事なことを淡々と続けていきましょう。
●千葉親子さん(会津坂下町)
原発から西へ110kmの会津は白銀の世界で、地吹雪が舞う。
6年前、温暖な浜通りから避難してきた人たちは、どんなに不安な思いだったかと思う。あれから6度目の冬を迎えた。
この間原発を取り巻く状況は時間の経過と共に複雑多岐にわたり、汚染水の問題や放射性廃棄物の問題、被ばく労働の問題、甲状腺癌の問題など深刻な状態が続いている。
国は復興の名の下に居住できる放射線量の値を20ミリシーベルトといって、この3月に避難指示を解除しようとしている。
一般許容被ばく線量は年1ミリシーベルトなのに、なぜ福島県民だけが20ミリシーベルトの線量が可となるのか。
政府は避難指示を20ミリシーベルトで決めたから、20ミリシーベルト以下になったら解除すると説明する
安倍首相は原発の汚染水はアンダーコントロールと言って、全世界に嘘をついてオリンピックを招致した。
過酷な事故を起こしても福島県はもう避難地域はなくなり、普通に暮らしている、世界の皆さん、公衆衛生被ばくは20ミリシーベルトでも大丈夫と、オリンピックを利用して世界の基準を変えてしまう大きな力が蠢いている気配を感じる。
福島の20ミリシーベルトが容認されれば、再稼動も事故時の避難や補償も大きく変わってくるだろう。
被ばく線量を20倍も高くすることは、福島だけの問題ではない。
東日本大震災の関連自殺が、被災3県の中で福島県は全体の81,6パーセントとその割合は増え続けている。
原発事故による避難の長期化によって生活の基盤が定まらない曖昧な日々の中で、生きる喜び、感動が一つずつ奪われ続けているのだ。
自動車事故でも医療事故でも事故を起こした者は責任を問われ、事故の原因を徹底して調査するのに、原発事故は未だにその責任の所在も原因も明確にされていない。
この曖昧さの中にあることが、被災者を疲弊させてきている。
曖昧な中で苦しんでいるのは、甲状腺ガンの当事者や家族の方も同じだ。
183人がガン、または悪性腫瘍と発表された。
2011年から始まった県民健康調査の1巡目で甲状腺ガンまたはガンの疑いと診断された子どもは115人、2014年からの2巡目では59人が新たに診断され、増加傾向に歯止めがかからない状況だ。
県民健康調査検討委員会で星座長は、被ばく線量はチェルノブイリより少ない、被ばくから発ガンまでの期間が1年から4年と短く、地域別に差がないので放射能の影響からとは考えにくいと説明を繰り返している。
福島県ではこれらの意見を裏付けに、検査室長や検査規定などが提案されている。
甲状腺ガンと診断され手術を余儀なくされた患者や親は、再発や転移が心配だと不安を抱えている。
また、親たちは、うちの子は県民健康調査で見つけてもらったので手遅れにならずに済んだ、検査の縮小などすべきではない、検査の拡大と期間の延長が大事だと思うと言っている。
ガンの発症が過剰診断というのなら、過剰診断されたのは誰なのかはっきり調べて欲しい。我が子であれば、もう甲状腺は取られたし元には戻らないと訴えている。
子どもがガンを発症すると生命保険に加入できなくなったり、進学や就職など社会的な弊害を受けることになり、大人のガンと違うのは治療の期間が長くなり病気と向き合いながら成長するということだ。
昨年9月に「3・11甲状腺癌子ども基金手のひらサポート」が設立された。
福島原発事故以降、甲状腺ガンと診断された方と家族への経済的支援を目的としている。一人100,000円を支給する。
転移や再転移などでアイソトープ治療が必要な人には、100,000円追加支給となる。
1都14県を対象にし、12月に第1回支給があり福島県内で26名県外9名の35名に支給が決まったが、そのうち再転移の重症患者でアイソトープの治療が必要な方が3名、そのいずれも県外者だ。
福島県のように公的に幅広い甲状腺ガン検査が行われていない地域では、自覚症状が出てから病院に行く方がほとんどで、進行した段階で発見されているからではないかと推測する。
ガン治療の基本は早期発見、早期治療が不可欠だ。
この現象を見ただけで、福島県の検査縮小などあってはならないし、県外の検査も拡大していく重要性を実感する。
12月23日、福島県立医科大学付属病院みらい棟に9床のアイソトープ治療施設が新設された。
福島県には他に厚生病院に1床があり、県内10床となり日本で最大級のアイソトープ施設を備えた県になる。
アイソトープ治療とは、高濃度の放射性ヨウ素を含んだカプセルを服用させ、あえて内部被曝をさせ、器官やリンパに転移しているガンを内部から破壊させる治療だ。
服用したヨウ素が体から排出する5日から1週間は、隔離個室で誰とも接触することができず、食べ物の残渣や排泄物も放射性廃棄物として処理される。
10代、20代の子どもが放射性ヨウ素の被曝にじっと耐えて、隔離病室で治療している姿を想像した時とても悲しく切ない気持ちになった。
誰が一体こんな目にあわせているのか!子ども達の心と体に癒しがたい傷を負わせた責任は誰が!と叫びたい気持ちだ。
子ども甲状腺ガンの治療で、県立医科大と協定を結んでいない医療機関で治療を受けている人は県のサポート事業の助成もなく、ガンの発症人数にもカウントされていない。
こんな理不尽なことが行われていいのか!
隠れ患者がどれだけいるのか、表に出ない患者数に大きな警戒心を持っている。
農林水産への精神的苦痛の賠償問題は、すべて行き着くところは健康被害があるからだ。
自然災害にはない放射能という健康に関わる問題が根幹になっていることを、忘れてはならない。
現場検証もなく、人災として処罰対象の東京電力福島第一原発事故を、想定外、自然災害と逃げ切ることは許されない。
司法で真相を明らかにし、被告人の罪が鎚に打たれ、事故責任を明確にすることで被災者は、今ある苦しみから一歩進むことができる。
しっかりと原発事故の刑事責任を問う裁判を支援していきたいと思う。
●賛同人スピーチ:鎌仲ひとみさん
いかにこれ以上子ども達に被ばくをさせないで守っていくのか。
被ばくがあるからこそ原発の問題がある。
福島原発事故の被害がどれほどなのか、しっかりと理解されていないのではないか。
『小さき声のカノン』に出てくる福島のお母さん達は、自分や子どもが被ばくすることがあるということを一切想像したこともなかったし、被ばくのことも判らないままに被ばくしてしまった。
この映画でベラルーシを取材した。
チェルノブイリ原発事故から30年、未だに5万人の子ども達を保養させている。
国内で5万人、それ以外に5万人が海外に出て保養する。
では日本はというと、「もう福島は大丈夫でしょう。なんで今さら福島から避難しているの?」と言い、まして、なぜ子ども達を保養させないといけないかを判っていない。
これまで日本中で200くらいの市民グループが、自分たちの自前や寄付を募って保養活動をしてきたが、保養できた子どもの数は8,000人くらいと言われている。
福島県内だけでも36万人の子どもがいて、汚染は県境を越えて北関東や宮城県にも及んでいる。
甲状腺ガンが転移した子どもは県外の子どもたちで、福島県内ですら甲状腺ガンの検査を縮小していこうとしているが、こうした中で二つのことを強く懸念している。
これからどんどん子供達の甲状腺ガンが増えていくだろうが、見つかった段階で既に転移している状態になっているのではないか、だから検査を縮小してはいけないし拡大していかなければいけないということが、一つ大きな課題としてある。
もう一つは、子どもたちが保養しないで現地に留まるとすると、多様な病気が出てくる。
それはチェルノブイリを見れば明らかで、しかもそれが放射能のせいとは認めてもらえないという二次被害。
原発事故の多様で大きな被害の広がりの中で事故の過小評価が行われ、ずるずると誰も責任を取らないで流れていく日本の社会の中で、この訴訟は本当に大事だと思っている。
きちんと個人を呼び出して、そこで責任を取らせるということがなければ、誰も責任を取らず、責任を取らなくてもいいというモラルの破壊が、そこから始まっている。
この訴訟は、日本の社会の中で崩れてしまったモラルを取り戻す、非常に重要な取り組みだと思っている。
マスコミが伝えるべきことを伝えない現状の中で、被ばく問題を非常に重要な原発の問題として考えていってほしい。

●賛同人スピーチ:神田香織さん
本来なら「講釈師、見てきたような嘘をつき」というが、嘘をつくのは嘘つきの安倍さんの特許になった。
本当に恥ずかしいが、私たちは「デンデン」と「ミゾウユウ」の人たちにこの国を任せてしまったわけだ。
『福島の祈り』という講談の中で、「歴史というものは人々の経験の伝承である。それは物語とも言える。物語には始まりがあり、そして終わりがある。これが伝えられて歴史となる。福島で起こった事件は3・11から始まったわけではなく、それ以前から原因がありました。どこまで遡ればいいのだろうか、果てしない歴史へのまなざし…」というようなことを語っている。
「どこまで遡ったらいいのだろうか」がテーマとなって、勉強を始めた。
行き着いたところが明治維新だ。
最近『明治維新という過ち』という本が売れているが、買って読んだ。
福島原発事故のことも怒りを持って書いている。
ぜひ読んで欲しい。
*香織さんの語りは、こんな風に文字にしては伝わらないのですが、「とにかく声を大にして、怒りをバネにして、こんな状況を変えていきましょう」と結びました。

●閉会の挨拶:支援団副団長 武藤類子さん
お忙しい中を参加下さって、ありがとうございました。
原発事故から6年、つい先日福島市内の復興住宅で原発事故被災者が孤独死をしているのが見つかった。
つい昨年の暮れ、高校生が第1原発の収束作業を見学に行った。
18歳以下は働けない場所だ。
事故の被害は時間とともに新たな悲劇を生んでいく。
福島県の自殺者は急激に増加の一途をたどっている。
被害者の切り捨てが始まっている。
原発が一度事故をこしたら何百年もの間、土や海や山の木々は汚染され、人々の人権は奪われる。
危険と諦めと分断を強要され、生きる尊厳を傷つけられる。
こんな悲惨な事故は福島で終わりにしなければならない。
この原発社会を反省し、新しいいのちの時代を作らなければならない。
春の訪れと共にきっと、私たちの待ち望んだ原発事故の責任を問う裁判が始まると思う。皆さんと次にお会いするときは、東京地検の初公判の日かもしれません。
みんなでしっかりとこの裁判を見届け、力を合わせ頑張りましょう。
今、この支援団は3,300人の方がお名前を連ねてくださっています。
発足から1年経って、今年は新たな会費をお願いする時期がやってきたので、よろしくお願いします。
お友達やご家族に、この支援団を進めてください。
どうかよろしくお願い致します。
今日は本当にありがとうございました。
まだ寒いですから、どうぞ風邪をひかれないようお気をつけください。
そしてこの裁判を最後まで見届けていけるように、皆さん生き延びていきましょう。

*こうして「福島原発刑事訴訟支援団」結成1周年集会は終えました。
類子さんの最後の挨拶にもありましたが、どうぞ支援団に加わってください。
そしてこの裁判で原発事故の責任を明らかにさせていくよう、世論を大きくしていきましょう。
支援団入会申込書を添付します。

moushikomi

◎毎月3日、「アベ政治を許さない!」
2月3日節分の日、国会前には60名ほどが集まりました。
澤地久枝さん、そしていつもお馴染みの仲間たち。
木内みどりさんも駆けつけました。
「アベ政治を許さない!」「アベは外!」
スローガンを掲げました。                   

いちえ


2017年1月28日号「お知らせ」

◎お知らせ(と言うよりも、ご協力のお願いです)
友人で写真家の宇井眞紀子さんが、アイヌ100組のポートレートの写真集を出版します。
出版費用捻出のために readyfor で協力を呼びかけ基金を募り、出版の運びとなったのです。
私も募金で応援しました。
アイヌのもとに20年以上にわたって通い続け、その暮らしや文化に畏敬の念をもって接してきた宇井さんのこれまでの写真集に惹かれてきたので、今度の出版も心待ちにしていたからです。
今度の写真集は100人のアイヌがそれぞれに撮影場所や服装など条件を宇井さんに提示して被写体になったと言います。
そして撮影後に宇井さんは、100人から「いま一番言いたいこと」を聞き、写真集にはその言葉も載ります。
宇井さんはさらに次のステップとして、取材に応じてくれたアイヌの人たちに 写真集を届けたいと願っています。
宇井さんの願いに私も共感します。
そのための費用を readyfor で募っています。
どうぞ、皆さんのご支援をお願いいたします。
下記をご覧ください。
https://readyfor.jp(「宇井眞紀子」か「日本全国100箇所で撮影したアイヌ100組のポートレートを写真集に」で検索してください)

いちえ


1 / 5012345...102030...Last »




TOPへ戻る