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2017年11月24日「11月22日のこと、そしてお知らせ」

◎住民訴訟
 11月22日、東京地裁第103号法廷で「警視庁機動隊 沖縄への派遣は違法 住民訴訟」第4回口頭弁論が行われました。
都税を沖縄への弾圧に使わせない!と起こされた裁判です。
 高江ヘリパッド工事に反対する現場では全国から派遣された機動隊による、反対住民らの強制排除、恫喝、暴力、違法行為が横行しました。
政府が国策で強行する米軍基地建設に機動隊を導入することは、公権力、警察権力の乱用で許されません。
警視庁の警察官には私たちが納めた税金から給与が支払われています。
 この裁判のことを私は知ってはいましたが、口頭弁論傍聴は初めてのことでした。
この裁判は、機動隊派遣での公金支出は違法として東京都に提出した監査請求が門前払いで却下されたことから、住民訴訟として提訴されたものです。
 この日は原告2人の意見陳述がありました。
 最初に陳述したのは若い女性でした。
秘密保護法が強行採決されたことへの抗議行動に国会前の集会に参加した時のことを述べ、その後高江の集会に参加して、高江での機動隊の暴力行為を目の当たりにした体験を述べ、機動隊派遣に税金を使うことの不正義を説きました。
そして裁判官に「現実をしっかり見据えて司法として公正な判断を」と訴えました。
 次に陳述した男性は元公務員で組合活動をしていた体験から、公金がどのように使われどのように情報開示請求に答えて開示されるか、あるいはされないかを話し、中でも警視庁内の会計はかなり杜撰で財務会計上の不正があっても、情報開示もされないことを話しました。

 警視庁機動隊の沖縄派遣は違法であると住民訴訟が提訴された時、高江のヘリパッド建設に反対するにはそんな方法もあるのだと心に刻んだつもりだったのに、その後は頭から抜けていました。
今回の裁判を傍聴して、改めてこの訴訟を支援しようと思いました。
第5回口頭弁論は1月24日(水)、東京地裁第103号法廷で11:30開廷です。
来年のスケジュール表に、予定を書き込みました。
高江に、辺野古に行きたいと思いながらなかなか行けずにいますが、この裁判を通して沖縄への連帯の思いを行動にしていこうと思いました。

◎武蔵野スマイル 望年会
 夜は、福島から武蔵野市へ避難している人たちと支援者の集まりである「武蔵野スマイル」の少し早い「望年会」がありました。
9月に飯坂から武蔵野に避難している岡田めぐみさんにお話を聞かせてもらい、その時に「武蔵野スマイル」のこともお聞きし、早速私も会員になっていたのです。
「忘年会」ではなく「望年会」って、いいなぁと思います。
 老若男女、子どもたちも交えて、和気藹々の楽しい集いでした。
そしてそこで会ったI子さんから聞いた話を、忘れずに心覚えにしておきたいと思いました。
● I子さんの話
 I子さんの自宅は郡山です。
2011年3月11日地震が起きた日は、中学2年生でした。
高校卒業まで郡山で過ごした後東京の大学に進学して、現在大学3年生です。
そのI子さんから聞いたことです。
 震災後、地元の郡山ビックパレットには多くの避難者が身を寄せていました。
I子さんの学校では学校ぐるみで被災者支援活動に取り組み、I子さんも熱心に活動してきました。
原発事故が起きた時、家族も周囲も放射能の危険などには思いもよらず、そんな話題もなかったのでI子さんもその危険性には気付かずに過ごしていました。
 進学で東京に出てきたのですが、出身地が福島だというと「被災者ね」と言われ、大きなショックと違和感を覚えたと言います。
「支援者だと思っていたけれど、被災者だった?」と。
 その後岡田めぐみさんと出会い、原発事故による放射能被害について知り、学び始めていますが実家の家族たちは政府の「安全」という言葉を信じていて、I子さんの言葉には耳を傾けないそうです。
熊本での地震の後でバイト先の飲食店ではお客さんにも呼びかけて義援金を集めて送ったのですが、その時にI子さんが店長に「寄付を呼びかけて送ることができてよかったですね」と言ったところ、店長から「福島は毎年貰っているでしょう?」と言われたそうです。
またこの店長はI子さんが休みの日に実家に帰る話をしたら、「え?福島には入れるの?」と言い、それを聞いてI子さんは、あまりにも現状を知らない人たちとの気持ちのギャップにショックを受けたと言います。
 通っている大学には福島出身の友人たちも何人かいますが、3.11のことや原発事故のこと、実家のことなどは、互いに話題を避けているそうです。
自分から話し出せば別ですが、相手が話さないことを聞き出すことはしないので、友人たちがどんな事情を持っているかは知らないと言い、「本当はお互いにもっと知りたいと思っているのに、互いに触れられない」とも言いました。
 この日は大勢が賑やかに歓談する中で、少しの間I子さんと話しただけでしたから、今度またゆっくり話を聞かせてもらおうと思いました。
でもこの日に聞いたことからだけでも、考えさせられる点が多々ありました。
福島の被災の実態は、知ろうと意識していない人たちには、ほとんど(と言うか、全く)伝わっていないのだとも思いました。

◎お知らせ
 在日チベット人の友人ロディ・ギャツォが、映画を作りました。
ぜひ多くの方に見て頂きたく、お知らせします。
彼の生まれ故郷、東チベットのツァワ・ポンダの祭りの様子を記録した映画です。
「故郷チベットの暮らしを、記録に止めておきたい。みんなに知って欲しい」そんな彼の熱意がこもった映画です。
 映画監督が作った「作品」ではありませんが、そこからは生のチベットが伝わってきます。
私も以前に数回、撮影現場の村ポンダを通ったことがありますが、村人と交わったことはなくこのような祭りがあることを知らずにいました。
大きな画面でこの映画を見るのが楽しみです。
 上映会のチラシを添付します。
 どうぞ、皆様のおいでをお待ちしています。            

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2017年11月22日号「安保法制違憲訴訟・女の会 第3回口頭弁論報告」

11月15日(水)14:30〜、東京地裁第103号法廷で「安保法制違憲訴訟・女の会」の国家賠償請求事件、第3回口頭弁論が開かれました。
女の会の原告は少ないので、傍聴への参加が呼びかけられていましたが、傍聴席を満たすよりやや多い人数が集まり、傍聴券は抽選になりました。
私は幸い抽選に当たり、傍聴席に座ることができました。

◎第103号法廷
●意見陳述の前に
はじめに裁判長が原告・被告双方の代理人に、準備書面についての確認をしました。
裁判長の問いかけに原告代理人は傍聴席にもはっきりと聞こえる受け答えをするのに、マスクをしている被告代理人の返答はモソモソとして全く聞こえません。
裁判長が、その被告代理人の言葉をまるで通訳のように繰り返して「ということですね」と確認をしたので、かろうじて被告代理人が何を言ったかが分かりました。
でもその言葉がことごとく「認否しない」とか「すでに答えている」とかで議論にならないようなことだったので、裁判長はそのモソモソ声を通訳のように繰り返した後「答弁する気はまったく無いようで、…と、まるで木で鼻をくくったように言ってます」と伝えたので、傍聴席から失笑が漏れました。
●続いて原告本人の意見陳述がありました。
この日は原告のお二人、柴山恵美子さんと福島瑞穂さんが意見陳述をしました。
❶柴山恵美子さん陳述
柴山さんは1930年生まれで今年87歳、徹底的な軍国主義教育で育てられた「15年戦争世代」です。
病弱なお母さんが5人目の子どもを身籠り、これ以上子育てはできないと堕胎したことを密告されて堕胎罪で逮捕されたこと、日中戦争勃発直後に招集されたお父さんが中国戦線から戻ってきた時のことなど、衝撃的な事実を証言されました。
お父さんが持ち帰った写真は、長靴・軍服姿で長剣の柄に両手を重ね胸を張る中隊長と、その両脇に立つ部下でした。
部下の一人は笑顔のお父さんで、中隊長の足許には首のない民間中国人男性の死体が転がっていました。
「死を覚悟して戦うため、中隊長が手本を見せて兵隊たちに首を切らせた」というお父さんの苦渋の告白を聞きました。
1945年女学校3年の春からは学徒勤労令で旋盤女工として戦闘機の部品作りの日々となり、8月15日の敗戦の日まで続きました。
8月15日の玉音放送は、祖父と父と共に3人で聞きましたが、祖父は「これからはデモクラシーの時代が始まる」となんども万歳をし、父はうなだれ、柴山さんは「必ず勝たなければ、竹槍を持って戦う」と、祖父と言い争ったと言います。
柴山さんの自分史はこの日から始まり、1年後の東京裁判を通して、望まずして侵略戦争加害者であったことに気づき、侵略戦争の道具を作ってきたという罪責感にとらわれ、悩むようになりました。
それからしばらくしてイタリアのレジスタンス運動の女性たちのことを知り、当時の社会党関係者から調査先を紹介してもらってスポンサーもないままイタリアへ行き、調査研究をしました。
イタリア女性たちの経済的自立や堕胎罪廃止の取り組みを紹介し、日本の女性運動と平和に役立つ活動を続けようと思いました。
ナディア・スパーノ著『イタリア女性解放闘争史—ファシズム・戦争との苦闘50年』の翻訳出版は、その仕事の一つです。
母と同世代のナディアさんは、憲法制定議会の21人の女性議員の一人で、反ファシズム・平和のために生涯を捧げました。
産む・産まないは女性の権利です。
敗戦の日から72年にわたって、戦争に加担した罪を償おうと必死の思いで努力してきた柴山さんの自身の歴史を否定するものであると陳述しました。
「徴兵は命かけても阻むべし 母祖母おみな牢に満つるとも」は、夫君の友人のお母さんの、朝日歌壇に載った歌です。
日本近現代史は、ほぼ10年未満の間隔で戦争を起こし続けてきましたが、15年戦争・第2次世界大戦後は辛くも72年間、戦争のない時代を築いてきました。
それはこうした人々の努力があったからで、安保法制はその努力を無にするものです。
二度と戦争に加担したくありません。
日本と世界の女性たちの名において、未来を担う子どもたちのために、戦争を許す法制度は断固として拒否します。
❷福島瑞穂さん陳述
1、2014年7月1日の安保関連法についての閣議決定から強行採決に至るまでの国会審議の経過と内容は、憲法の基本を解釈によって捻じ曲げ、立憲主義を踏みにじるものです。
国会議員として、憲法99条に基づく憲法尊重擁護義務を負う者として、違憲立法は許さない立場で粉骨砕身努力してきましたが、安保法制を可決成立させたことによって、国民から負託された義務を果たせず、また国会議員としての権利が踏みにじられました。
2、2014年7月1日の閣議決定と本件法制については、元内閣法制局長官がこれまでの政府解釈を全く異なるものに変え、憲法違反・立憲主義違反を犯すと指摘し、元最高裁判事や憲法学者も、口を揃えて違憲であるとしてきました。
政府が使った砂川判決も、集団的自衛権行使を容認する判断ではないと明らかになりました。
3、また、立法事実がないことは誰の目にも明らかです。
集団的自衛権行使を認めなければならないという説得力は政府には皆無で、唯一必要だといったホルムズ海峡の機雷除去さえ、総理は最後には「想定していない」と言い、米艦防護における日本人母子も必要条件でないことが明らかになりました。
集団的自衛権の武力行使を認める正当性や基準はあいまいで、国会など民主主義的コントロールも効かないことも暴露されました。
このように立法事実は、国会審議を通じて雲散霧消してしまったのですからこの法案は、直ちに廃案にすべきでした。
そうでなければ、これまでの審議で取り上げられなかった課題についてさらに質疑がなされるべきでした。
4、参考人質疑は、衆議院で2回。参議院では1回のみです。
公述人と参考人には女性は一人もいません。
9月16日には、衆参女性国会議員有志で女性の意見を参考人及び公述人として聞くよう、参議院特別委員会鴻池委員長に手渡しましたが、それは、国会議員は国民全体の代表として、平和憲法下における女性参政権の意義を重んじ、国民の負託に応えるべき責任があるからです。
女性の声が十分に反映されていない点で、国会の審議手続きには瑕疵がありました。
5、審議手続きの違法は、他にもあります。
国会議員の質問権、討論権、表決権が侵害され、不利益を受けました。
9月15日、参議員安保関連法特別委員会で中央公聴会が開かれました。
そして9月16日に、横浜で地方公聴会が開かれました。
9月17日、特別委員会の委員長の不信任動議が否決され、委員長が着席した途端、強行採決になりました。
地方公聴会の後は、1秒も審議はされていません。
これは憲政史上初めてのことで、公聴会を冒涜するものです。
公述人の意見が、審議に反映されることはありませんでした。
地方公聴会は、派遣された委員のみで行っているので、その結果を委員会に報告する手続きは必須なのに、その報告がないまま採決するという憲政史上初めての暴挙がまかり通りました。
議事録も掲載されていません。
2015年10月に発表された議事録は、末尾に、地方公聴会の議事録が「参照」として掲載されていますが、報告もされていない内容を議事録にあったものであるかのように掲載するのは、違法を取り繕うものとしか言えません。
また与党は、この日2時間の総理への締めくくり質問をセットすると伝えてきており、安保特別委員会の委員である私は質問を用意して待ち構えていたのですが、その質問権が侵害されました。
国民の負託を受けて質疑をする国会議員としての基本的な権利が侵害されたことで大きな不利益を被り、さらに強行採決は私の討論権と表決権も奪っていきました。
6、第二次世界大戦中の日本人の300万人、アジアで2000万人以上といわれる犠牲者の上に、私たちは、日本国憲法を手にしました。
そして、憲法9条は、戦争しない、加担もしないという戦後を築いてきたのです。
このように立憲主義が踏みにじられ、その過ちが司法によって糾されなければ、人々は憲法も法も司法も信じません。
私は、憲法は権力者を縛るものというごく普通の憲法学に従って、弁護士として、国会議員として活動してきましたが、これほどの憲法と法の支配の危機を経験させられることになるとは想像もしませんでした。
違法な手続きに基づく違憲立法は正義によって修復されなければなりません。
その責任は、まさに司法に問われるものであることを指摘して私の違憲陳述とします。

◎報告集会
閉廷後、参議院議員会館で報告集会が行われました。
●原告代理人:中野麻美弁護士
第3回の今日も傍聴席を埋めてくださって、ありがとうございます。
毎回傍聴席がいっぱいになることは、裁判長にとってはこの審議は非常に意識してやっていかなければいけないと考える、何よりもの前提になります。
今日までの間、国からは第2次提訴文に対しての答弁書が提出された。
前回の法廷で国は「原告は権利利益の侵害を主張していない、それと合わせて安保法制が制定されたことで直ちに権利利益の侵害があることではない。法の執行などで損害が発生するかもしれないが、議決されただけでは発生しない」と言い、「直ちに」という言葉を使った書面を出して、私どもの主張を切り捨てるようなことがあったので、前回の法廷で「直ちに」というのは因果関係を指すのか、それとも事実上のことを言うのかを問うた。
すると答えられないというので、書面で釈明を求めた。
8月15日に回答があり、その内容は主張の繰り返しで、何を言っても答えない態度を国は明らかにしてきた。
仕方がないので、それに対する反論と、改めて損害を主張するということで第5〜第7の準備書面を提出した。
第5書面の権利利益の侵害についての裁判所の新しい傾向について、靖国訴訟などいろいろと最高裁の判決が出ているが、それに対する学界から、民法学の観点から国賠法上の権利利益の侵害はかなり広く採られているなどの解説が重ねて出ているのでそれら文献を引用して、権利利益の侵害とは何かを反論した。
併わせて本件において原告らはどのような権利利益の侵害を主張するかの骨子を示した。
直ちに原告らの権利は侵害されたということを、七点にわたって主張している。
もっと強調したいことの一つは、この原告ら戦争を体験した方々、戦後しばらくして生まれた方々、それらの人たちに共通していることは、戦争に対する痛み、貧困、暴力、差別など戦争によるネガティブな影響を受けながら今日までそれと闘って生きてきた。
その闘いを余儀なくされたことは、憲法の構造にある。
日本国憲法は、平和・平等・人権を不即不離の関係に立つものとして捉え、それを前面に押し出して人々に保障すると言ったが、しかし国民統合の象徴として家父長制の頂点として天皇を据えたことや、差別は社会の中に根強くある構造とされていて、私たちが憲法を手にしたからといって、そこで全て平等という人生を享受したわけではなかった。
みんながそれぞれの立場で、家父長制や差別や暴力と闘わねばならなかった。
それが例外なくいろいろな人に言えるということは、陳述書を読んで強く思う。
その闘いを支えたのが憲法であったのはとても大事なことで、72年間にわたり積み重ねてきた私たちの努力が、閣議決定・強行採決で、その努力が無視された。
そのことによる損害は、とても大きい。
人権のため、平和のために闘うということに価値があるという自尊の、最も根幹にある憲法を否定するわけなので、そのことへの私たちは怒り、怒りも損害のうちの一つだ。
被害は、今日までみんな戦争の中を生きているという側面もある。
被ばくした人は、未だにトマトの皮の湯むきもできない。
これは一体なんなのか、そういう被害を受けながら必死に生きている。
それらの人たちのことを、一体政府はどう考えてきたのか。
安保法制の、最も深刻な部分だと思う。
それから、何より武力で紛争を解決することを法的に承認するというのが、安保法制の肝の部分だと思うが、でも私たちの日頃は性暴力に対して反対したり、差別に抗って生きていく権利を主張してきているが、それは、力関係で物事を決めない、どんな人間でも互いに対等な存在だということが基本になっている。
戦争しないというのは、そういう考えをベースにしているが、安保法制は紛争を武力で解決する。
テレビなどで溢れている「もっと圧力をかけて」などという言葉が、子どもたちの口からも出ていることに非常に心が痛む。
法的にこういう考え方を承認するというのが、社会におけるそのリスク環境を強度に作っていく。
それを文化に反映させられていく。
生活の中に支配的な考え方として浸透してきたときに、女性たちに対する暴力が増長させられる。
現にベオグラード、ユーゴスラビアの紛争のときに、武力衝突は終わったけれど、女性たちは戦争が終わらず、家庭の中で暴力を受け続けている。
そういう構造をどれだけ審議したのかということも重要な問題で、そういうことを中心に具体的に損害を主張することにした。
第6は、柴山さんの陳述を中心にしながら、具体的に主張した。
これは戦争を体験した者としての損害ということで主張した。
第7は、立法過程を詳細に検討しなければいけないということで、議事録などを引用しながら、内閣の憲法解釈を変えた閣議決定をめぐる審議から安保法制をめぐる審議まで、ずっと経過を追って、それに法的評価を加えた。
審議経過自体が、法の支配に反している。
福島さんが、意見陳述した。
そういった準備書面を出し、裁判長はよく読んでくれていると思ったが、今日はそれに対する認否を迫ろうと思った。
国側を引きずり出して争点化することによって、議論することが重要だと考えたが、国はあんな答弁で、裁判長は「答弁する気はさらさらないようですよ」と、さすが落語をやっていた裁判長で傍聴席を笑わせるのは上手いが、そういう国の反応だ。
それをとても遺憾に思って「あなたがたはシビルサーバントというのですよ。私たち市民のために仕事をするのでしょう?市民がこういう点が疑問だとか、こういう事実があったと言うときに、そんなことは認否に値しないというのでは責任を果たしていることにならないのではないか。
裁判長は「国として認否に値しないということは、大枠のところは認否反論したのであって、詳細なところは認否反論に値しないということじゃないでしょうか。さすがに認否しないことによって、擬制自白として認めてしまったと言うことになれば別だが、今の所そういう主張ではないと思う。むしろ原告が権利利益の侵害を主張立証したらどうか。早く陳述書を提出してください」と言った。
この裁判所の訴訟指揮については非常に異論がある。
また、良い訴訟指揮と捉える見方もあるが、私はかなり問題で、早く決着をつけようという動きにとられかねないと思うので、そのことに注目して次回に臨みたい。
どうぞこれからも、ご支援ください。

●原告本人:福島瑞穂さん
今日は原告番号87番として、意見陳述しました。
私は裁判所での意見陳述は弁護士として何百回とあったが、原告としては初めてで嬉しかった。
嬉しかったと言うのはおかしいかもしれないが、安保関連法は違憲だと言えることは当たり前だから、嬉しかった。
準備書面7に纏めたが、歴代の自民党政権も、内閣法制局長官も集団的自衛権は違憲だと言い、法律家のほとんどすべても憲法9条に違反するので集団的自衛権の行使はいけないと言っている。
安保関連法、戦争法は、違憲の法律を成立させたということ、また先ほど中野弁護士が言ったように、様々な被害があるということと両方で、この裁判でしっかり認定してもらいたい。
国会の中での審議が、立法事実が消えたことも主張し、同時に審議が憲政史上あり得ない、初めてのものであることも主張した。
というのは中央公聴会、地方公聴会があって、普通は地方公聴会の後で審議をする。
中央公聴会は一部の委員しかいないから地方公聴会があり、それを報告書として議事録に載せて審議するわけだが、1秒も審議していない。
委員長の不信任案が否決されて、委員長が席に着いた途端に強行採決されたから、1秒も審議していない。
これは公聴会、公述人を冒涜するものだ。
意見を聞いたがそれを反映する機会が質問に反映せず、報告書を委員会に報告していない。
地方公聴会の議事録が全く載っていない。
10月になって「参照」という形で地方公聴会の議事録が載った。
国費を使って正式にやったものが、なぜ委員会に報告しないのか、しかも報告しなかったものが、参照として議事録に載せられるのか?
これも憲政史上初めてのことだ。
手続きのことだが、やはり憲法尊重擁護義務を国会議員は持っている。
天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官など公務員は憲法尊重擁護義務がある。
そしてその過程の中で、質問権、討論権、表決権が奪われたという具体的な権利が侵害されたことを主張した。
憲法尊重擁護義務が踏みにじられたわけで、異常な形で成立していることも、裁判所に理解して欲しいし、具体的被害が発生していることも理解して欲しい。
この裁判はとても意味がある。
とりわけ女性たちが原告として提訴したことは大きい。
参照人、公述人には、女性が一人もいなかった。
安倍政権が憲法9条3項に、自衛隊を明記するといっている。
この自衛隊の自衛権行使は、個別的自衛権でも災害救助でもない。
まさに集団的自衛権の合法化であり、安保関連法・戦争法を解釈改憲で捻じ曲げて、その合憲化でしかない。
世界で戦争をする自衛隊の明記でしかない。
安保関連法が違憲で問題だという裁判をトコトン闘うことで、明文改憲をおかしいぞという声を一緒にあげることができれば、と思っている。
最後に裁判官にも、憲法尊重擁護義務があるわけで、集団的自衛権の行使は違憲なのに、それを看過する裁判所は三権分立ではない。
裁判所こそ、法の支配がこの国にあるのだということを理解して欲しい。
裁判所が、当たり前の法の支配の観点に立ち、立憲主義の立場に立って判断してくれることを心から望む。

●原告本人:柴山恵美子さん
私の世代とその前の世代のことが、たえず頭にある。
私の世代は「進め、進め、兵隊進め」の、純粋培養の世代だ。
第1次大戦後にドイツは、ワイマール共和国憲法という世界で最も新しい憲法を作った。
ワイマール憲法そのものは、人類の歴史にとって抹消できない一里塚だと思う。
ところがヒットラーが登場し、ワイマール共和国を泥足で踏みにじり政権を打ち立てた。
ヒットラーがその過程を述べているのが『わが闘争』だが、その中で述べているが、「第1次大戦で苦労した世代に、我々は期待してはいけない。期待するのは戦争を知らない子供たちだ」と言っている。
それを読んだとき私は、「自分の人生はこれだ」と思った。
もう一つ『わが闘争』の中で言っているのは、「嘘は大きいほど真実味を持つ。人民はこれを見破ることができない」と言っている。
今、北朝鮮の問題、ミサイルが来る、来ると言っている安倍の支持率が、残念ながら上がっている。
戦争経験者として、いま動いている現実がすごく戦争の匂いがする。
その根拠の一つに人口政策がある。
戦時中は、とにかく5人産め、10人が理想と国が強調する人口政策を採ってきた。
最近、国は1.8人を言い、実質的に厚労省から、これを目標にすると具体的に数字が出ている。
今ほとんど死法みたいに動かない状態にあるが、明治40年にできた刑法の29章には
堕胎の罪というのがあり、いくらでもこれが使える。
ところがイタリアでも同じような法があり、しかもカソリックの国で堕胎は教義に反する絶対悪だが、1970年代に女性たちが一致団結して国民投票までもっていって堕胎罪を廃止した。
私はこれまでイタリアのそういう歴史を本や論文でも書いてきたが、まだまだ足りないと思っている。
いずれにせよ、日本は戦争の匂いが出るものがある。
既に1.8人の人口政策で、匂いがプンプンしている。
それからもう一つは「人づくり」ということで、政府は言い始めている。
大人は期待しないが、子どもに期待すると言っている。
お金をつぎ込んで無償にすると甘い汁を吸わせて、しかし人づくりは上意下達で動く人間を作るということだ。
戦争は一つ一つの態勢を柱のごとく作っていかないと戦争体制は完成しない。
人口政策であり、人づくり政策であり、常に匂いをプンプンさせるものがスタートを切って行われていることに、大きな危機感を抱いている。
もうひとつ、労働問題がある。
私は13歳で、深夜労働を含む12時間労働の旋盤工として、戦闘機の部品を作った。
なぜこれができたかというと、政策を変えたことによる。
男性が戦地に行き戦死者がどんどん出て、国内でも労働力が足りないということで、積極的な労働政策を次々出してきたなかで、13歳の女子学生は労働力になった。
だから私の中では、長時間労働と戦争は一体のものだ。
最近出してきた成果で賃金を払うなどは、あれほどの誤魔化しはない。
つまり「時は金なり」とか「金は天下の回りもの」など日本の社会で普通に語られていることは、みんな破壊しようとしている。
求人倍率がいいなどと言っているが、賃金は3%下がったという。
何が問題なのか。
膨大な利益を上げながら労働者の方に循環しないと、こんなことでは資本家だって自分の首を絞める。
経済はお金が回って、企業は活動ができるのに、このリズムが崩れてしまう。
一つ一つ検討していくとメチャクチャで、本当に私たちが意志を持って、国を、憲法をしっかり守って発展させていく内実化させていく使命を、私たちは持っている。
自覚を持って、私は命ある限りやっていきたい。
今日は内緒の話ですが、私は2枚の写真を持ってきました。
1枚は私を産んだ実の母の写真、もう1枚は私の研究の母、ナディア・スパーノの写真です。
内緒話を打ち明けました。

●安保法制違憲訴訟の会共同代表:杉浦ひとみ弁護士
4月26日の東京での国家賠償請求が最初だったが、全国21都道府県、北は旭川から南は沖縄まで21都道府県で24の訴訟が提訴され、いま名古屋でも準備していて間もなく提訴する。
11月25、26日と全国弁護団から弁護士が集まり、それぞれの闘い方をどう進めるか、どの論点にどう取り組むかを話し合った。
安保法制ができたからといって、何も被害は起こっていないだろうと裁判所も国も言っているが、実はそうではないということをどのように主張していくかがポイントで、その辺りを皆で頭を寄せ合って検討していきたいと思っている。
裁判の中で一番進んでいるのが東京で、いよいよ1月26日から尋問が始まることになった。
尋問はいままで主張してきたことについて、本当に裏付けがあるかどうかを裁判所が調べようというもので、調べ方として人の口から出る話が本当かどうか、証人あるいは本人が口頭で話すことについて、場合によったら国からの反対尋問もあったり、ということで裁判所側がどれほど真実性があるか、切迫性があるかを聞き取る機会だ。
こういう大きな裁判、特にこの裁判では、本当に被害があったかどうか判らないと多くの人が思っていた裁判で、元々は裁判が早くに打ち切られていたり尋問に入らずに「言いたいことを言いたいだけ言ってください、それで判断します」と成る可能性もずいぶんあったので、尋問に入れたのは大きな成果だ。
こちらは、こんな尋問をしたいということを裁判所に提出するが、国に対してもこの裁判にこういう尋問が必要かどうか、どんな意見を持っているか、国側にも質問をする。
その書面の中に国側から出てきたのが、何の被害も何の利益侵害もないだろう、そんなのは尋問するに値しないということで勝手にシャットアウトという書面が出てきた。
進行協議をして尋問する必要を国は完全に否定しているが、裁判所としては尋問を行う判断をしてくれた。
これは非常に大きな快挙だ。
私たちは当初、証人から尋問する計画を立てていた。
元内閣法制局長官、最高裁の裁判官、国会議員には成立過程を、法学者、精神科医、人権に関する学者、ジャーナリスト、半藤一利さんなどを候補に挙げて、尋問は先に証人から聞いてもらい、その後に原告本人からと考えていた。
だが先ほどから話が出ているように裁判所が一番気にかけているのは、被害があったかどうか、どんな権利が侵害されているか、そこが一番の焦点だと考えていて、まず被害を受けた原告から話を聞こう、となった。
原告の話を聞いた後で、必要があれば証人の話を聞こうという段取りになった。
予定としては狂ったが、私たちとしては原告がこんな被害を受けた、こんな利益が侵害されたということを裁判官にしっかり聴かせなければ、絶対に勝ちはあり得ないので、まずこれを乗り越えなければいけないと思っている。
まず最初に原告の尋問をするということで私たち弁護団としては、非常に緊張感を持って、どうやって被害を訴えていくか相談しているところだ。
原告のメンバーも絞り、担当の弁護士も決めて、今後集中的にその準備をしていくが、
もう一度繰り返すが、裁判所が尋問に踏み切ったということは、この裁判にとっては大きな画期的な第一歩である。
東京がこういう過程をとっているので他の裁判所もこれに追随してくれることを期待したいが、裁判官を後押しするのは原告や代理人だけではなく社会の大きな世論だ。
裁判官は中立であって法律でしか動かないとよく言われるが、裁判官を父に持つ人に聞いたことがあるが、「お父さんは新聞の『声』欄を一生懸命読んでいる、世論調査をすごく気にしている」などと聞いたことがあり、そういうものだと思う。
社会の風がどちらに向いているかということで、裁判長の気持ちを変えていけると思う。
まずは法廷で私たちが、ちゃんと監視をする。
この勢いを社会に反映させて、「この法律がおかしいと思ったらちゃんとおかしいと言え」と裁判官を後押しする空気をつくっていくことが必要だ。
その空気をどう作っていくか、全国でその風を吹かせていく、自分たちの地域地域で、どうやってこれを広げていくかは、弁護団・原告だけではなく多くの皆さんの知恵が必要だと思う。
ここまで来たので、ぜひこれから全国あげて闘って、大きな成果をあげていきたい。
これからも、みなさんの大きな支援をお願いします。

◎質疑応答など
杉浦弁護士の話で報告は終わり、ここからは参加者からの質問や意見を受けました。
❶損害に関して経済的な損害も、私たちは受けている。
安保法制によって、先日もトランプ来日で、安倍首相は巨額な武器を購入するという流れになったが、私たちはそのために税金を払っているのではない。
それは将来の子供達の経済生活に影響するし、一人数百万円の借金を背負っている財政がこの安保法制によって、ますます悪化する危機を負っていることも私たちの損害なので観点として主張して欲しい。
❷1943、44、45年あたりの堕胎罪で逮捕された人は、どれくらい居たかなども調べて出したらいいのではないか。
❸富山から初めて傍聴に来て、柴山さんの陳述に感銘を受けた。
初めて傍聴した個人の印象だが、裁判官が国の態度に対して「木で鼻をくくったような」と言った時に傍聴席から笑いが漏れたが、私は笑えなかった。
私は、「なんだ、この裁判官は」と思った。
そんな風に誤魔化すのでなく国に対してちゃんと反論するように促すべきだし、その前に国の代理人がマスクをしてぼそぼそ言うのを傍聴席から「聞こえません」と言ったことに対し裁判官は、傍聴席からの発言を抑えて、そして自分が国の言い分を通訳をするように繰り返したことに裁判官に不信感を持った。
今後傍聴の時も、裁判官のそのような態度に対して笑うということは改めて欲しい。

*ここで出た意見や質問については、今後の法廷で生かすよう弁護団で考えていくと話され、報告集会は終わりました。
繰り返し原告代理人の弁護士から話されましたが、毎回の法廷で傍聴席を埋めることは、安保法制違憲を勝訴に導くために、とても重要だと思います。
東京地裁での予定を下記します。
どうぞ、傍聴に詰め掛けてください。
*安保法制違憲・国家賠償訴訟 1月26日(金)13:30〜17:30
*安保法制違憲・差止請求訴訟 2月5日(月)10:30〜
*安保法制違憲訴訟・女の会  2月21日(水)14:30〜
いずれも東京地裁103号法廷です。
傍聴券抽選は、開廷時刻の20分前に締め切られますから、早めにお越しください。
なお各地での裁判や期日は、安保法制違憲訴訟の会HP(http://anpoiken.jp)でご覧ください。


2017年11月17日号「11月9日 被災地ツァー③」

伊達東仮設住宅の菅野榮子さんをお訪ねしました。
“被災地ツァー”では、飯舘村の学校建設現場を見てきたばかりでした。
ご挨拶の後で私は、「再開される飯舘村の学校に通うという人が以前の調査時よりも増えているようですが?」とお聞きしたことから話が始まりました。
◎菅野榮子さんの話
●子どもは天から降ってきたんだべか?
 学校一生懸命だけど、一生懸命働いてきた年寄りのことは考えてんのか?
子どもは天から降ってきたんだべか?
じいちゃん、ばあちゃんが居っから、ちゃんと子どもが居るんだよね。
(飯館の学校に通いたい)子どもの数増える?
アレ嘘言ってんだよ。
一流デザイナーのコシノヒロコさんのデザインした制服だって、そういうことやってんだよ。
だから思春期の子どもたちが、そういうのに憧れるんだな。
ほんで何十人か増えたって、教育委員会では喜んでるの。
県内だけでも住宅もちりじりになってっから、今度はスクールバスの手配だって大変でしょう。
●自主避難と同じだ
ほんで私らの年代の二人暮らしの人たちは、じいちゃん認知症入ったから、どうせなら村に帰るって帰った人たちいるけど、そういう人たちは戸惑っている。
また仮設に戻りたいって人が、いっぱい居る。
 帰村宣言されてから、私らここに居ること自体が、自主避難と同じだ。
だから、どうなってんだかな。
エコー調査なりアンケート調査で、村民一人ひとりの、一世帯一世帯の「帰る、帰らない」のエコー調査(の返答)はまとまってんだから。
だからそれに対して、どう対応すっかをしないんべ。
●大きな国政の中で
 村議選で佐藤八郎がトップ当選したけど(注:八郎さんは共産党で、現村長の村政に反対意見を持つ)、それには八郎の人柄もあったけど、なんで八郎があそこまで来たかを掴んでいない人もいるわけだ。
んだけど、そんなこと言ってみたって人の考えはみんな違うし、まぁ(村政は)変わってもらわなけりゃ、どうにもなんねぇ。
一人ひとりが変わってもらわなけりゃ。
 村長は自分が支持されてるとは思っていないべぇ。
だけど、国の大きな政治の枠の中で動くのは大変なんだなぁ。
現職議員10人の内7人も辞めたんだよ。
それ見たって、原発事故には勝てないと思う。
村づくりの施策が、見えないんだよ。
見えないところで「私は村議会やります」って言えないから辞めたんだと思う。
そういう中で村長は誰もやる人居ないから残って、してみたって大きな国の行政の中で、どうにもなんねぇからな。
がんじがらめだもの。
 今回の国政の選挙だって、なんで解散すんだか、なんで選挙すんだか、私らバカだから判んねぇよ。
ほして今度は解散前の閣僚だって、みんなそっくりそのままいったんだもん。
解散すっこと何にもないんだ、誰一人変わってないもん。
ほんだったら、何百億の金かけて、誰の金だっていうの。
今野さん(以下、青字は今野さん)
 選挙に使った700億円で仮設住宅とか借り上げ住宅に、9年間住めるからね。
年間80億あったら仮設住宅まかなえるんだから。
ただ何にも変わらない選挙のために700億、この前の参議院選に600億、まぁ参議院選は3年に1回だから仕方ないけど、その前の衆議院選に750億。
オスプレイ買う金あったら。
 その中で私らは国民として命ある限り、生きていかなきゃなんねぇから。
どういう生き方したらいいか判んねぇわ、ね?
つくづく考えさせられた。
●私ら、自然の中の動物なんだから
 伊達の学校さ行って、3年間、味噌作った。
美味しいのができたよぉ!
伊達のここの里の味噌種が入ったんだわ。
家庭科の栄養士さんが時間受け持って、講師になってやってくれたんだけど、いま子どもたちの食育から目指さないと。
自然を大切に、自然は素晴らしいもの持ってんだから。
その自然の中で、精一杯。
私らは動物なんだから、自然の法則の中で生かされて生きていくのが当たり前じゃないかと、私は思う。
なにも無理して自然を破壊するような中で、頑張って生きなくてもいいんじゃないかね。
●経済優先の旗立てて進む限り、どうにもなんねぇ
 原発事故には感謝しないけど、原発が事故起こしたからいろいろな人に出会った。
やっぱり事故がなかったら、(互いに)全然に判らないで生きるお互い様だよな。
 そうだよ。
俺だって事故がなけりゃ榮子さんと会うことなかったし、一枝さんとも会わなかった。
 この頃はウラン採掘や世界の核燃料扱ってる人たちのことや、核廃棄物をどこに持ってくかってことも考えるね。
採掘してる所はどのくらいの線量のところに人が住んでるの?って聞いたら、7マイクロ位の所なんだってね。
その中で当たり前の生活して、子ども産んで、ほうしているんだって。
それを今度は加工して、どんどん加工して利用して、一番最後に捨てるカスが、ものすごく人に悪影響及ぼすのに、そういうものにして捨てるわけなんだよ。
鉱山で働いている人たちだけじゃないんだよ。
世界全体の問題だ。
 チェルノブイリが爆発したときだって、ホットスポットはソ連さ落ちたんでねぇって。
他国に国境を越えてねぇ、落ちて大騒ぎしてんだから。
日本だって、(原発事故の)放射能、世界に流れていってる。
日本だけに留まっているわけでねぇ。
そんなのみんな、科学者だって私らより頭良いんだから、ちゃんと知ってるわいな。
黙ってるだけだ。
 そういう中で私ら生きてかなきゃなんねぇんだから、大変だよな。
そういう中で生きてかなきゃなんねぇから、やっぱり一人ひとりが考えてかなきゃどうにもなんねぇ。
経済優先の旗立てて進むような限りは、どうにもなんねぇな。
●飯舘ではいい人生だった
 まぁ、いろいろ考えさせられたり、悩まされたり、泣いたり笑ったりの人生が、人生なんだけどな。
私らは原発事故無ぇうちに人生の大半歩んできたから、ここさきてアルバム整理すっぺって思って、子どもん時からずっとのやつ、要らないもの捨てて整理したの。
よっちゃんに手伝ってもらって2人でやっから、助かるんだよ。(注:よっちゃんとは、菅野芳子さんのこと。飯舘村でもお隣同士、この仮設住宅でも)
「よっちゃん、考えてみれば飯舘にいた時、あん時はいい人生だったね」って。
 それこそ、自立か合併かって大きな選挙して村を二分して、村民一人ひとりが自分が村長になるような気持ちで闘って、自立の村を選んだわけだ。
500票くらいの差で、選んだわけだ。
飯舘の村民が自立の村にしていくって一生懸命やってきたから、あれだけの村になったんだ。
●「までいの村」誕生
 それだって、私ら本気になってウジャウジャ言わねぇで自分の腹割って、「ああだ」「こうだ」と意見出し合って、「までいの村」って。
その「までい」だって選挙で自立を選んでから、昔、明治の頃にじいちゃん・ばあちゃんが使ってた言葉が出てきたんだよ。
役場の若い職員から出てきたんだよ。
そん時は「なんだべな」って思ったけどよ、私ら子どもの頃に「までいにしろよ」って言われて育ってきたわけだ。
なんでも物は「までいにしろよ」って。
ご飯なんかこぼすと、「ご飯、までいに食わなきゃだめだぞ」って。
 そういう風に言わっちきた「までい」の言葉が、すべてに、そういう心の面でも「までいの心」を持たなきゃダメだっていうのが、みんなに「なるほどな」って。
子どもの頃から言わっちきたんだもの、それが普通に使われるようになって、みんな頑張ってきたんだもの。
●木の葉があったから
 でもねぇ、この原発で避難して、私ら放射能に出会ったってことは、環境すべてが汚されたんだな。
飯舘に帰ったって、元の通りには戻らねぇんだから。
やっぱり生きるってことに、人生ずうっと生きることの負を背負って生きなきゃなんねぇんだなって、私は思ってる。
飯舘村は子々孫々、負を背負って生きなきゃなんねぇんだなって。
 でも、行ってみると綺麗、紅葉なんか山さ入ると、もう綺麗なんだよねぇ。
「わぁ、綺麗!」って思うけど、「ああ、でも放射能だもんなぁ」って思うもんな。
どんなに落ち葉がいっぺぇ落ちてたって、一枚の木の葉だって利用できねぇんだもの。
 木の葉があったから、飯舘の農業はできたんだよ。
木の葉があったから、飯舘の農業はあれまでになったんだよ。
木の葉集めて、堆肥を作ることによって土になるんだもの。
木の葉が落ちて腐るからプランクトンが誕生して、川の水と一緒に流れて海に行って魚が育つんだから。
●佐須の三羽烏
 佐須の友達で帰ってる人がいるんだ。(注:高橋トシ子さんのこと。榮子さんと芳子さん、トシ子さんの3人は仲良しで三羽烏と言われる)
「帰って飯舘村に居るとホントいいよ」って、そう言うんだ。
「静かだし空気も綺麗だし、いいよ」って。
「だから早く帰って来て」って言わっちからな、「うん、帰るよ」って言うけどな。
まぁ帰っても年寄りの問題はなかなか見えてこないし、デイサービスも動かないし、医者に行くだって、家族で帰ってる人はいいよ。
車運転できるうちはいいよ。
だけど一人暮らしだったり、そういうこと考えるとなぁ。
 そんなことウジャウジャ言ってたってしょうがねぇから、3人して集まって誰もやんねぇ時は私らだけでもいいから、デイサービス始めっぺぇって。
(そう言うとトシ子さんは)「待ってっからなぁ」って。
(トシ子さんは) 2年前くらいに階段踏み外して、それから調子悪くして体弱い。
 そんなこと話してた時、ちょうど古居さん(注:ジャーナリスト・映画監督の古居みずえさん)来てたの、斎藤さんって人が運転して。
斎藤さんは私らの会話聞いてて、「う〜ん、榮子さんとよっちゃんだけだとうまくいかねぇんだな。よっちゃんとトシ子さんだけでもうまくいかねぇんだな」って言ってたって。
 そういう風にして佐須の集落で3人で居たから、踊りも20年踊ってこれたし、山津見神社の茶屋の簡易食堂の出店も、30年もやってこれた。
踊りだって名取さんや師範格にはなれなかったけど、地域づくりと仲間作りで頑張ってきたからなって、こういう風に言ったのな。
したら、「面白かったなぁ」って、3人して笑ったの。
●共に生きる
 そういうものが、これから大事なんだよな。
やっぱりこころの時代で、目立たなくても共に生きるって。
私はそう思ってる。
 まぁね、それなりに村もだんだんに考えてってくれっぺって思ってる。
私らが帰って自主的に動き出せば、ね。
 (役場の前にある村営の介護施設は)お知らせ版なりインターネットで、介護職員募集してますって出してるけど、だけど、それだけでは誰もこない。
原発だから線量の高いとさ、黙ってたら誰もこないよ。
 私んとこ、明日また来るんだけど仙台の看護学校から、仙台の看護大学のサキヤマ先生って先生が、学生連れて来て何回か勉強会してるの。
集会所でここの人たちと交流会やって学生たちにそれを経験させるんだけど、それの報告集を私のとこに送ってきたの。
やっぱり感受性の強い子どもたち大学生だから。
この間70人くらい来て、東京の先生が子どもたちに放射能の講義やったの。
測り方とか、被ばくの計算の仕方とか、そういうの教えたんだって。
そして『母ちゃん』の映画(注:古居さん監督の『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』)見て、私らと喋ったりなんかして行ったんだけど、そうして感じたことまとめた報告書。
 学籍番号からズラ〜っと並べて、私のとこ持ってきたの。
そん時ちょうど役場の自治会長さんが居て、私ら役場になんだかんだ言っても村さ届くわけねぇんだから、自治会長が会議ある時行って、伊達の東(仮設住宅)では、学生が来てこういうことやってんだって言ってみてって頼んだの。
 そしたら行って言ったら、村長が出るってことになってたの。
だけどやっぱり村長は来れないことあんだな、そんなこと言わねぇけど。
(村長は来ないで代わりに)課長が二人来たの。
保健福祉課の課長と、もう一人の人とな。
挨拶して飯舘村の現況を子どもたちに話してくれたし、そのことだけでも効果があった。
そして、ああ良かったなと思ったら、その報告集自治会長さんとこ持ってきた。
私とよっちゃんとこさも持ってきた。
自治会長さん私らが持ってるの知らないで「貰わねぇんでねぇか?」って持ってきた。私もよっちゃんも貰ったって言ったら、自治会長が「余ったから持ってきた」って言うから「ジャァ役場さ持ってって、この前来てくれた課長2人居っから、その人さやってくれろ」って言ったら、「うん、そうする」って。
 それ課長が読めば、自分来て挨拶したんだから、子どもたちはどういう風に受け止めたか、ちゃんと判っぺ。
報告書にちゃんと出てんだから。
飯舘村のこと、看護大学の在宅ヘルパーや看護師の研修受けてるし、保健婦の勉強もしてるから、報告書に出てるから。
それを持ってったべ?したら課長読むべだよ。
 まぁ、最後にどう決めっかは、村長だからな。
なんぼ下がワイワイ騒いだって、村長がやる気なければどうにもならねぇと、私は思う。
黙ってたって判んねぇから、それなりにいろいろな人に矢を向けながらやってかなきゃ、と私は思った。
 まぁ、飯舘さ帰るわ。
帰って本当に人が生きる道を、人間が生きる道を、お互いに模索しながらやっぱり生きてかなんねぇなって思ってる。
まぁ、出てしまった放射能、なんぼ拾ったって下がんねぇんだから、そういう環境が変わった。
世界が変わった中だって、その足跡を残すべきだと思ってる。
 味噌は残さなきゃ。榮子さんたちが作った味噌だから。
 飯舘にいればな、米と味噌さえあれば、そういう生活できたから。
今度は米と味噌あったって生きらんなくなるは、飯舘で。
山さ入ったって、食べるもの採ってこられねぇ。
だから、そこんとこが悔しいのな。
そこの中でどういう風にして生きっかなぁ。
●共に働いて自立を
 私らの集落は佐須だから、東大の農学部退官した先生や現職の先生たちが、11年の6月から入ったの。
「再生の会」ってNPO立ち上げて、今は何百人も会員居るんだけど、その人たちがここの仮設住宅を佐須さ持ってって建てて住みたいって言ってるの。(注:伊達東仮設住宅は木造で、解体して払い下げられる)
 (村内で)家壊したとこあるじゃん?そういうとこ借りて。
ここ、持ってくのは運んでくれるんだって。
この間大工さんやってる人が見てったの。
家族で来て住みたいって言ってる人もいるし、もう70歳くらいになると子どもも自立してるでしょうし、理事長の先生なんか飯舘村さ住民票持ってきたんだよ。
そういう人たちだの、定年退職した保健師だの介護士、介護福祉士や社会福祉士など、そういう資格持った人たちが入ってんの。
 そういう人たちにお手伝いいただいて、デイサービスでもなんでも基本的なものやればと思ってる。
やってれば、それなりに村が黙ってない。
これまで3回くらいやったのな。
毎月の最後の日曜日にやってたの。
したら老人会のやってる人、帰ってる人居っから。
区長が、村から部落で何かの役に立つなら使ってくださいってお金100万とかきてっから、それを利用してここで年寄りが集まってみんなして、ご飯炊いて食べるとかボーリングやるとか、何かそういうのやったらいいんでねぇかって出てきたのな。
だから、そういう風なのあれば、それに該当する中での活動計画を立ててやることにしたらいいべって、私は言ったの。
●持ってるもの出し合って
 トシ子さんも杖ついて歩いてっけど、何回も病気して三途の川渡る経験してっからな。
そうすっとナ、「巫女さんみたいな人が来て静かにして休みなさいって言うんだよ」って、私に言うの。(注:重篤な状態の時の夢の話)
言うのも聞くのも、笑ってっけどな。
やっぱり歳取ってから一人では生きられない歳になってるんだから、持ってるものを出し合っていくのが大事なんでないかなって思ってる。
私らよっちゃんと一緒だから、一人でここに居られる。
誰でもいいわけじゃないけどな。
 飯舘も年寄りは帰っても介護施設がないから、(仮設を)出て行った人も、伊達やなんかに古家でもなんでも買って住んでる。
私もどこまでやれっか判んないけど、よっちゃんと二人で一人前だから、認知症でおかず作ったって1品ずつ作って、何か入れるの忘れて「よっちゃん、砂糖入れて煮たっけ?塩か?」って。
●声掛け合って
 ここに来た時何でもなかったって、7年もいれば認知症がどんどん進んでる人もいるわけ。
こうなっと、「あ〜」って思う。
毎日朝晩、声かけてって私は言うのな。
やっぱり向き不向きがあっから、私は違う集落から来てるから私ら行って何か言うより昔から知ってる同じ集落の人が声かけるのがいいからな。
 まぁ誰でもその線は超えてかなきゃなんねぇ峠だからな。
まぁそういうもの認識しながら晩年を生きるってのは、大変だね。
 私らばっかりでねぇって、この間思った。
仏壇売りに来た人が、家新しくしたりの人がいるから売りに来んのな。
その人が言ってたんだよ。
今の子どもは結婚すっと、「私ら出ます」って言うって。
そして新興住宅みたいな団地みたいなのにローン組んで、そういうところに暮らすって言うんだって。
親が建てた家は親が歳とって死んだら、空き家になっていくんだって。
そういう時代だよって、セールスに来た人が言うんだ。
だから私らも、人が生きる、そういうのを改める機会なんだね。
共に自立して生きるっていう施設のあり方も考える時代だなって。
そういう生き方しないと、(子や孫と暮らすなどを)考え直さないと自分が哀れになるから、本当にそう思う。
まぁ、色々そういうことを考える機会を与えてもらったんだから、まぁね、生きてることに感謝しなきゃ。
 毎日、私らテコテコ朝早く歩いて、あそこにある観音様拝んで帰ってくる。
ここに来た時は阿武隈川の堤防さ行って、道のりも長かったけど、80になったんだから、そうそうはね。
*こんな話をしていたところへ、お隣の菅野芳子さん、よっちゃんが顔を出しました。
芳子さんもお元気そうな様子です。
「これ飲んで」と芳子さんが持ってきてくれたヤクルトを、私たちは頂きました。
●たいしたもんだよ、飯舘は
 みんな、やっぱり避難している人たちは考えるでしょう。
大熊とか帰還困難区域はどうなっかなぁ?
私はよっちゃんと2人で帰るわ。
家建ててもらったの、息子にな。
前の家、そっくり壊してな。
味噌桶も投げたわよ(注:壊した)。
 松川で(飯舘の人たちの居る、この伊達東とは別の仮設住宅)最後の芋煮会したの。
味噌の里親さんも40人くらい来て、その人たちみんなに50gずつくらいあげたの。
こんなしてやれただけたいしたもんだよ、やっぱり飯舘は。
そういう風にピカ一のものが出来るんだ。高原で温度差があるから。
発酵食品は、どこさ出しても負けないな。
 発酵食品は低温でじっくりがいいからな。
味噌も、どぶろくも発酵食品は飯舘みたいな土地が合ってる。
 野菜だって日持ちがいいし、花だって色がいい。
そういうものも私ら、当たり前だと思って判らないできた。
判んないで生きてきたけど、までいな生活しなきゃって築いてきた。
だから若い人たちも一生懸命やるようになった。
牛の育て方も、花の育て方も、もう就職した人たちが帰ってきて、父ちゃんが歳とったこともあったけど、そうして力入れ始まった時の爆発(注:原発事故)だもの。
●この歳になんねぇと判らない
 そんなわけで、私ももう少し若かったらな。
息子に「なんぼになったと思ってんだ。いつまでやる気なんだ」って言われっけど。
一枝:子どもってのはそういうもんだ。言わせておけばいい。
あんたが私の歳になったらわかるよって。(以下緑の文字は私)
その時は親は居ねぇからな。親居なくても、あの時は悪かったなって思うから。
私もそう思うもの。
お墓参り行って線香あげて「じいちゃん、ごめんな。あんなこと言って」って。
嫁姑で、じいちゃんとよく喧嘩したから、手合わせて「ごめんな。私もじいちゃんの歳になりました」って。
 この歳になんねぇと判んないこといっぱいある。
でもよっちゃんがいるし、2人で一人前でいいな。
なんとか2人で顔出して一人前でな、いい人生だったなぁって。
仲間がいたってことに感謝して。
 日野原重明先生が元気だった頃、私『生き生き』って雑誌ずっと読んでたの。
あの先生の言うことや菊池体操、ずっと読んできたの。
ああ、こういうわけなんだなぁ、生き方も考えなきゃなぁって。
そう思ってあの山ん中で働いてきたよ、腰も足もぶった切れるくらいに。
『生き生き』の本に出会って、女だってちゃんと意見もって生きなきゃなんねぇって若いうちから思ってきた。
●民主主義の教育
 んでも、子どもの頃はおとなしくて喋んなかったんだよ。
小学校の時は男女共学じゃなかったべしサ、中学校になって戦争負けて民主主義の教育が入ってきて男女共学になったの。
中学で男の子が生意気になってくっぺし?
そういう風になって生徒会やなんかがあるの。
そういう風にして男と喧嘩して喋るの、負けらんねぇ。
ほんでやっぱり民主主義も習ったし、そうやって喧嘩しいしい育ってきたから、同級生はみんな仲良いよ。
ほうして歳とって、男の人なんかハァ、ペンギン歩くような格好して歩いてんの。
いつも喧嘩してた男の子が、ペンギンになっちゃったかって。
こういう格好して歩ってんだから。
(榮子さんが太ってお腹が出た人の歩き方を真似て見せるので、みんなで大笑い!)

*大笑いの後でお暇しました。
別れ際に榮子さんは「『たぁくらたぁ』いい雑誌だなぁ。読んでてスカッとする。読んでも性に合わない雑誌もあっからな。来年暖ったかくなるまでここに居っから、また遊びに来てください」と言って下さいました。
榮子さんの話を口調をそのままにお伝えしたく、長くなりましたがお読みくださってありがとうございました。
「榮子語録」を、私は心の記憶にとどめておきたいです。       

いちえ

関連:

2017年11月15日号「11月9日 被災地ツァー②」

◎南相馬
●津波浸水域
 9日は被災地訪問が初めての友人たちを案内して上野敬幸さんの自宅のある萱浜に行き、慰霊碑の前で黙祷してから鹿島へ向かいました。
被災から6年8ヶ月経ち大津波の痕跡を示す物はほとんど見えませんが、私が見た2011年夏の光景を話しました。
萱浜から北上してサーフィンのメッカ北泉、そして右田浜、海老の海岸を通りました。
右田浜、海老では津波浸水域に建設されたメガソーラーや建設中の風力発電を見てから、鹿島の仮設住宅に行きました。
●小池第3仮設住宅
 小池第3仮設住宅集会所には、ヨシ子さんとハルイさんが待っていてくれました。
二人ともすでに仮設住宅を出て新居で暮らしていますが、手芸品のぶさ子ちゃんの代金をお渡ししたく、この日は事前に連絡をして集会所に来ていただいたのです。
二人とも元気そうで、先月末に仮設暮らしの仲間たちとみんなで行ったバス旅行の紅葉狩りは、生憎の天気で山は雪だったことを面白おかしく話してくれました。
 テーブルには、おふかしのおにぎりや白菜、大根の漬物が並んでいて「食べて」と勧められました。
まだお昼には早い時刻でしたが、ほかほかと温かいおふかし、ヨシ子さんが漬けた沢庵、ハルイさんが漬けた白菜を、私たちは「おいしいねぇ」と舌鼓を打っていただきました。
食べきれないほど用意してくださっていたおふかしや漬物を、「持って行ってお腹が空いたら食べて」と言われて、遠慮なくいただいて失礼しました。
 白菜も大根も、ヨシ子さんが自宅の庭の菜園で育てた野菜です。
被災前には小高で農業を営んでいたヨシ子さんは、この仮設住宅のすぐ近くの集団移転地に新居を建てました。
そこで長男家族と共に新たな暮らしを始めています。
新興住宅地の庭ですから以前のような大きな畑ではないですが、家族が食べても余りあるほど収穫できます。
白菜もハルイさんにお裾分けし、それをハルイさんは塩漬けにして持ってきてくれたのでした。
ハルイさんも被災前は小高でヨシ子さんの隣の集落でしたが、原町に新居を建ててそこでまた子どもや孫との暮らしを再現しました。
 2013年か14年だったと思いますが、ヨシ子さんが仮設退去後のことを話してくれた時のことです。
鹿島の集団移転地に新居を建てることにしたと言いながら、「小高の人が鹿島の人になっちゃうんだよなぁ」と、ぽつりと言ったのです。
私は被災前の福島の地域のことを知らなかったのですが、あの夏から通うようになって、平成の大合併で鹿島町、原町市、小高町の2町1市が合併して南相馬市となったことを知りました。
通いながら感じてきたのが、まだうまく言葉にできないのですが、鹿島と原町、そして小高は、それぞれ土地も人も醸し出している気質が違うような気がしているのです。
土地が人を作るのではないかという気がしてなりません。
私がそう感じるようになったのも「小高の人が鹿島の人になっちゃうんだよなぁ」と言ったヨシ子さんの言葉が心に残っていたからなのか、あるいは小高と鹿島はなんとなく違うと私自身が感じていたからヨシ子さんの言葉が心に残ったのか、それもどちらか判らないのですが。
●寺内塚合仮設住宅
 談話室には社長(菅野さん)、営業部長(天野さん)、山田さんの、いつもの3人が居ました。
初めて訪問した友人たちに3人を紹介すると、「ここは会社だったのですか?」と問われ、みんなで大笑い。
でも以前のように、天井からも壁にも棚にも部屋いっぱいに手芸品が飾られていたら、会社組織の手芸工房と思われても、不思議はなかったかもしれません。
そうではないと答えるとまた「なぜ社長なんですか?」と問われ、菅野さんは「一番年上だから」と答えました。
 以前はこの談話室には、毎日6人が集っていました。
初めの年、菅野さん80歳、他の人たちはみんな70代でした。
あれから6年が経ちました。
今、菅野さんは86歳、天野さんは85歳、山田さんは84歳。
6人はみな、小高に家があった人たちですが、天野さんと同年齢の井口さんは鹿島に息子が建てた家に移り、山田さんより若かった紺野さんは小高の自宅に戻り、村井さんは災害復興住宅に入居しました。
 社長も山田さんも、押し車がないと歩行は困難です。
社長は仮設住宅を退去して、娘夫婦が鹿島に建てた新居に暮らしていますが、昼間は家の中で一人になってしまうので、デイサービスのない日には娘婿さんがこの談話室へも送り迎えをしてくれて通っているのです。
山田さんは小高の自宅の修復ができたら、息子の家族とそこへ戻って暮らします。
天野さんは原町に娘が家を建てる予定ですから、完成したらそこへ移ることになるのでしょう。
山田さんも天野さんも大工さんが手薄で、まだ住まいが用意できずにいるのです。
二人がここを出られずに残っているので、コミュニティが保たれています。
でも、その後はどうなっていくのだろうと案じます。
自分で車の運転もできず、自力歩行は押し車に頼らねばならない高齢者は、送迎してもらえるデイサービスに行く以外は、部屋に蟄居しているしかないのでしょうか。
昔から馴染んだ地域でならまだしも、馴染みのない場所、ご近所のなかで、寂しい老後を過ごさねばならないのは、酷いことだと思います。
 今野さんは以前も一緒に来たことがあり、社長たちは「浪江の人」として今野さんをよく覚えていました。
小高と浪江は生活圏として同地区だったといえるでしょうか。
そんなことにも、小池第3のヨシ子さんの言葉「小高の人が…」を思い浮かべました。
 天野さんの実家は田村の養鶏場で、弟が継いでいます。
そこから送られた卵で、天野さんは美味しい煮卵を作って用事してくれていました。
煮卵を頂きながら初めて訪ねた友人たちを交えて談笑し、「こうして笑うのが一番だな」と互いに頷きあって、「また来ますね」と失礼しました。

◎南相馬
●津波浸水域
 9日は被災地訪問が初めての友人たちを案内して上野敬幸さんの自宅のある萱浜に行き、慰霊碑の前で黙祷してから鹿島へ向かいました。
被災から6年8ヶ月経ち大津波の痕跡を示す物はほとんど見えませんが、私が見た2011年夏の光景を話しました。
萱浜から北上してサーフィンのメッカ北泉、そして右田浜、海老の海岸を通りました。
右田浜、海老では津波浸水域に建設されたメガソーラーや建設中の風力発電を見てから、鹿島の仮設住宅に行きました。
●小池第3仮設住宅
 小池第3仮設住宅集会所には、ヨシ子さんとハルイさんが待っていてくれました。
二人ともすでに仮設住宅を出て新居で暮らしていますが、手芸品のぶさ子ちゃんの代金をお渡ししたく、この日は事前に連絡をして集会所に来ていただいたのです。
二人とも元気そうで、先月末に仮設暮らしの仲間たちとみんなで行ったバス旅行の紅葉狩りは、生憎の天気で山は雪だったことを面白おかしく話してくれました。
 テーブルには、おふかしのおにぎりや白菜、大根の漬物が並んでいて「食べて」と勧められました。
まだお昼には早い時刻でしたが、ほかほかと温かいおふかし、ヨシ子さんが漬けた沢庵、ハルイさんが漬けた白菜を、私たちは「おいしいねぇ」と舌鼓を打っていただきました。
食べきれないほど用意してくださっていたおふかしや漬物を、「持って行ってお腹が空いたら食べて」と言われて、遠慮なくいただいて失礼しました。
 白菜も大根も、ヨシ子さんが自宅の庭の菜園で育てた野菜です。
被災前には小高で農業を営んでいたヨシ子さんは、この仮設住宅のすぐ近くの集団移転地に新居を建てました。
そこで長男家族と共に新たな暮らしを始めています。
新興住宅地の庭ですから以前のような大きな畑ではないですが、家族が食べても余りあるほど収穫できます。
白菜もハルイさんにお裾分けし、それをハルイさんは塩漬けにして持ってきてくれたのでした。
ハルイさんも被災前は小高でヨシ子さんの隣の集落でしたが、原町に新居を建ててそこでまた子どもや孫との暮らしを再現しました。
 2013年か14年だったと思いますが、ヨシ子さんが仮設退去後のことを話してくれた時のことです。
鹿島の集団移転地に新居を建てることにしたと言いながら、「小高の人が鹿島の人になっちゃうんだよなぁ」と、ぽつりと言ったのです。
私は被災前の福島の地域のことを知らなかったのですが、あの夏から通うようになって、平成の大合併で鹿島町、原町市、小高町の2町1市が合併して南相馬市となったことを知りました。
通いながら感じてきたのが、まだうまく言葉にできないのですが、鹿島と原町、そして小高は、それぞれ土地も人も醸し出している気質が違うような気がしているのです。
土地が人を作るのではないかという気がしてなりません。
私がそう感じるようになったのも「小高の人が鹿島の人になっちゃうんだよなぁ」と言ったヨシ子さんの言葉が心に残っていたからなのか、あるいは小高と鹿島はなんとなく違うと私自身が感じていたからヨシ子さんの言葉が心に残ったのか、それもどちらか判らないのですが。
●寺内塚合仮設住宅
 談話室には社長(菅野さん)、営業部長(天野さん)、山田さんの、いつもの3人が居ました。
初めて訪問した友人たちに3人を紹介すると、「ここは会社だったのですか?」と問われ、みんなで大笑い。
でも以前のように、天井からも壁にも棚にも部屋いっぱいに手芸品が飾られていたら、会社組織の手芸工房と思われても、不思議はなかったかもしれません。
そうではないと答えるとまた「なぜ社長なんですか?」と問われ、菅野さんは「一番年上だから」と答えました。
 以前はこの談話室には、毎日6人が集っていました。
初めの年、菅野さん80歳、他の人たちはみんな70代でした。
あれから6年が経ちました。
今、菅野さんは86歳、天野さんは85歳、山田さんは84歳。
6人はみな、小高に家があった人たちですが、天野さんと同年齢の井口さんは鹿島に息子が建てた家に移り、山田さんより若かった紺野さんは小高の自宅に戻り、村井さんは災害復興住宅に入居しました。
 社長も山田さんも、押し車がないと歩行は困難です。
社長は仮設住宅を退去して、娘夫婦が鹿島に建てた新居に暮らしていますが、昼間は家の中で一人になってしまうので、デイサービスのない日には娘婿さんがこの談話室へも送り迎えをしてくれて通っているのです。
山田さんは小高の自宅の修復ができたら、息子の家族とそこへ戻って暮らします。
天野さんは原町に娘が家を建てる予定ですから、完成したらそこへ移ることになるのでしょう。
山田さんも天野さんも大工さんが手薄で、まだ住まいが用意できずにいるのです。
二人がここを出られずに残っているので、コミュニティが保たれています。
でも、その後はどうなっていくのだろうと案じます。
自分で車の運転もできず、自力歩行は押し車に頼らねばならない高齢者は、送迎してもらえるデイサービスに行く以外は、部屋に蟄居しているしかないのでしょうか。
昔から馴染んだ地域でならまだしも、馴染みのない場所、ご近所のなかで、寂しい老後を過ごさねばならないのは、酷いことだと思います。
 今野さんは以前も一緒に来たことがあり、社長たちは「浪江の人」として今野さんをよく覚えていました。
小高と浪江は生活圏として同地区だったといえるでしょうか。
そんなことにも、小池第3のヨシ子さんの言葉「小高の人が…」を思い浮かべました。
 天野さんの実家は田村の養鶏場で、弟が継いでいます。
そこから送られた卵で、天野さんは美味しい煮卵を作って用事してくれていました。
煮卵を頂きながら初めて訪ねた友人たちを交えて談笑し、「こうして笑うのが一番だな」と互いに頷きあって、「また来ますね」と失礼しました。

◎飯舘村
●“被災地ツァー”名所(?)巡り
 飯舘村では友人たちにぜひ見て欲しい場所として、4ヶ所を巡りました。
①初めに行ったのは蕨平の焼却施設です。
墓地に隣接してこんな施設があっては、死者も静かに眠れまいと思うのです。
小高い山状のところに墓石が何柱も立ち、まだ新しい墓碑もありましたが、土の部分は茶色のビニールシートで覆われていました。
長雨が続きましたから、土が流れるのを防ぐためだったのでしょうか。
 焼却炉の煙突からは、白煙が勢いよく噴き出していました。
相当量の除染廃棄物を燃やしているのでしょう。
村内の各所に積み上げられて緑色のシートを被せてあったフレコンバックの山が、シートだけを残して山が消えている場所を何ヶ所か目にしました。
そこにあったフレコンバックは焼却施設に運ばれ、燃やされているのでしょう。
焼却施設を、「減容化施設」と呼ぶわけです。
フレコンバックの山も、2020年のオリンピック開催までには目につかないようにしたいのでしょう。
 そんな事を思いながら焼却施設を後にしたのですが、その先で???の光景を目にしました。
10数個の黒いフレコンバックが1段に並べてあるのですが、ショベルカーが動いていてフレコンバックの上に土を被せていたのです。
まさか土を被せて隠してしまう訳ではないと思いますが、どうなのでしょう?
不可解な謎でした。
②次にまわったのは、学校とスポーツ公園建設現場です。
そのすぐ手前には葬祭場がありましたが、それは必ず必要な施設だろうと思います。
村に戻るのは、ほとんど高齢者ばかりです。
建設中のスポーツ公園や学校の施設規模の大きさに、友人たちはため息をついていました。
③そして「ふれ愛館」に行きました。
ここでも友人たちは、木彫のオブジエにため息をつき、奥のホールのカーテンの向こうに見える「嫌味百景」のフレコンバックにもため息をついていました.
④名所(?)めぐりの最後は「道の駅」でした。
友人たちは道中で見てきた村内の光景とのギャップに、憤りとも、やり切れなさとも、不可解さとも言える複雑な思いにかられた様子でした。

*飯舘村から伊達の仮設住宅に行き、菅野榮子さんを訪ねました。
榮子さんの話は「被災地ツァー③」でお伝えします。        

いちえ


2017年11月7日号「安保法制違憲・差止請求事件第5回口頭弁論②」

◎報告集会
●安保法制違憲訴訟共同代表挨拶:寺井一弘弁護士
 9月28日に「私たちは戦争を許さない市民大集会」に、多数ご参加ありがとうございました。
私たちの会は団体や組織のバックがなく不安でしたが、802名定員の会場で立ち見が出る集会になり非常に有意義な集会でした。
たまたまですが、衆議院の解散の日と重なり、全く大義なき解散でしたが、その日の夜に我々の集会を開き大成功させたことは大きな意義があったことだと思います。
ひとえに皆様のご協力、ご尽力のおかげと感謝しています。
 今日は二点について申し上げます。
一つは今回の総選挙の結果です。
皆様いろいろな感想をお持ちだと思いますが、憲法9条を変えようと標榜していた議員の当選は15%でした。
新聞各紙も80%以上が改憲に向けての解散と言っていましたが、15%、議席数は69議席でした。
 しかし、闘いはこれから始まるのだと思います。
非常に情勢がすっきりしていて、憲法9条を死守して安保法制を廃止に追い込んでいく構図が判りやすくなりました。
これからが本当の闘いです。
 今日の朝日新聞によれば、希望の党に合流した内の7割が安保法制反対であります。
あのような踏み絵を踏まされ、誓約書を書いた方々も安保法制には反対であると出ていました。
護憲政党三党がしっかり連帯して、希望の党あるいは無所属の議員など含めると、新しい動きが始まっていると、日曜日の総選挙の速報を聞きながら、これからが本当の闘いだと思いました。
少なくとも護憲政党に投票した人は1,700万人、昨日小池さんは希望の党に投票したのは1,000万人と言いましたが、それをはるかに超える1,700万人の方々が護憲政党、憲法改悪阻止、そして安保法制反対という意思をはっきりと示された。
1,700万人、すごい数字です。
一人が一人に働きかければ、3,400万人、もう一人加えればとんでもない数字になり、それは可能だと思います。
 これからが闘いの始まりです。
その中で代表を務めています私どもに寄せられている声は、「違憲訴訟を昨年4月26日に東京を中心に提訴して良かった」「全国的に広がりを持ったことになり良かった」「これは非常に救いだ」という声が寄せられています。
これからが闘いです。
ぜひ皆様と一緒に闘っていきたいと思います。
 二点目は、私は鹿児島での訴訟でも代理人の一人になっています。
原告は22名で、先日裁判がありましたが、傍聴席は裁判員裁判をやっている大法廷で一番大きい法廷です。
22名の原告はほとんど来ていましたが、傍聴席が厳しく見て3割くらい空席でした。
私は報告集会で「本当にみなさんはご苦労様ですが、2割3割の空席があってはいけない、裁判所を包囲するためには傍聴席を満席にしてほしい。鹿児島の弁護士さんは遠慮して言わないでしょうが、私は東京から手弁当で来ているので、お礼代わりに言いますが、誠に残念です」と話しました。
すると後から聞いた情報では、鹿児島の弁護士さんに裁判所が、次から小法廷にしましょうかと言ってきたそうです。
小法廷は10人か20人が入る傍聴席で、そこにしようかと言ってきたと。
 今日も傍聴席をチラッと裁判官が見ていました。(注:傍聴席は抽選にならず希望者全員が入れました。傍聴席がいっぱいにならなかったのです。)
 私たちは裁判所に私たちの声を、本当に反映させなければいけない。
そのためには国会包囲の大きな集会や日比谷公園での大きな集会、それらも大事ですがそれと同じように傍聴席を毎回満席にすること、これは欠かせません。
 裁判官も人の子です。
いろいろ考えながら膨大な記録を一つ一つ読み上げて判決をする裁判官もいるかもしれないですが、裁判官によっては「エイヤッ」と、どっちにするか決めて、そのために理屈をつけていく人もいるかもしれません。
刑事事件などは、罪を犯したかどうかかなり丁寧に分析していくことができますが、このような政治的判決の場合は、裁判官も人の子なので国民の声を気にしたり、権力を忖度したりいろいろなことを考えます。
そのために、権力を忖度するよりも国民の声が、もっともっと大きなものにならないといけません。
そのためには傍聴が非常に大切です。
 11月15日は安保法制違憲訴訟・女の会の裁判があります。
女の会も原告が少ないですが、傍聴席を満席にしなければいけません。
裁判官の中には、今の政治はおかしいぞ、怪しいぞ、論理も真実もないぞと、いろんなことをごまかしながらモリ・カケ問題を含めて誤魔化しながら進んでいるぞ、ヒタヒタと軍国主義の道を進んで戦争ができる国家になっていくのではないか、とみなさんと同じように裁判官も心のどこかで感じていると思います。
 こっちを向けさせなければなりません。
鹿児島地方裁判所で私は、裁判官に向かって「裁判官、あなた方は忖度するような信頼できる内閣ですか?よく考えてください。一人の人間として裁判官として、バランスをとった判決を出すのでなく、日本の未来を、子供たちのことを考えてください。その上でしっかりした判決を出してください。その前提として審議をしてください」と言いました。
 裁判官を追い詰め、その力を持って国家権力を追い詰め、安保法制を必ず廃止して平和憲法を死守してまいりたいと思います。

●古川(こがわ)健三弁護士
 「処分性」というのは判りにくいでしょうが、国はここで勝負しようとしている。
では国はどんな反論をしているかというと、はっきり言って反論していない。
新安保法制が違憲ということに、はっきり反論していない。
その代わりに、我々が差止を求めている集団的自衛権の行為は、「行政訴訟として、裁判で差止できるものではない。これを行政処分というが行政処分に当たらないから差止の対象にならないから、この裁判は却下、門前払いするものである」という主張をしている。
 ここは難しい話だが、きっちり議論していかなければいけない。
国がなぜ処分に当たらないというかの論拠に、昭和39年の判決を引っ張ってきて、これがあるから処分でないという。
しかし39年の判例は非常に古くて、それ以降に法律の改正もあり、特に行政訴訟法は平成16年に大改正があった。
 日本の行政訴訟は非常に間口が狭くやたら門前払いにしてしまうが、学会の中で学者たちからも酷いという声があり、間口を広げていく動きの中に司法改革の中で行政訴訟法の大改革が行われた。
平成17年の最高裁判決で藤田宙靖さんは、砂川判決が集団的自衛権の容認の根拠にはならないと、はっきりと言っている学者さんだが、藤田さんが最高裁裁判官だった時にかなり細かい補足意見を書いている。
昭和39年の判決は今の行政指導や行政が複雑になった流れの中で、最高裁も従来は行政処分ではないとして門前払いしてきた判決を判例変更して、行政訴訟の間口を広げてきている。
 そうした中で被告が言う昭和39年の判決をいうのはおかしいでしょ?ということだ。
また国は、集団的自衛権の行使で国民に不利益は生じないというが、そもそもその言い方はおかしいのであり、集団的自衛権の行使を行うこと自体が、戦争の当事国になる意味合いを持つものだ。
日本の領土が戦場にならなくても自衛隊が出ること自体が、戦争に参加することになるのだから、それで戦争が起きていないとか戦争の危険がないとか言うのはおかしい。
戦争になるおそれがある危険性が国民に不安を抱かせるのであって、戦争が起きなければ危険ではないというのは、全くの詭弁だ。
 私たちが本件は行政処分であるとした一つの大きな根拠は、昨年12月の厚木基地の判決だ。
結論自体は国側を勝たせた判決だが、門前払いではなく具体的に中身の判断をしていて、飛行機が飛ぶということ自体が行政処分であると認めている。
飛行機が飛ぶことによってなんらかの法的義務が生じるとか住民に法的な権利、義務が障るというのではないが、大きな被害が生じることを捉えて、最高裁は飛行機が飛ぶことを含めて行政処分であるから、中身で判断すると言っている。
 この言い方は安保法制でも使える話で、国のいう別のもの、厚木は厚木こっちはこっちというのも当たらない。
 もう一点は、民事訴訟として差止を求めていた横浜地裁での安保法制違憲訴訟がある。
国は民事訴訟の差止は認められない、集団的自衛権の行使は行政権の発動であり民事訴訟の対象にならないと言ってきた。
東京では行政処分でないと言い、横浜では民事訴訟はダメと言うのはおかしい。
国は、横浜と東京で都合よく使い分けている。
それに対して私たちは、横浜では民事訴訟ではダメで行政処分だと言ってるじゃないかと主張すると、国はムニャムニャと変な反論をしてきた。
 これについては、その矛盾について国はちゃんと説明をするようにと指摘した。
処分性の問題で門前払いで却下しろ、というのが国の戦略だ。
ただし処分かどうか考える上でも、安保法制が違憲かどうか議論せずに、議論を避けて通ることはできないだろう。
従って、本論について認否しないなどと言わずにちゃんと認否せよと言っている。
 今日の裁判官の対応を見て思ったことがある。
国の代理人は本件について答弁する必要はないなどと言ったが、裁判長は事実関係を認否反論するようにと言った。
処分だ、処分じゃないなどと空中のところでの話にせずに、中身について議論するようにという姿勢が見られると感じた。
これはもう少し押していく点だと思うので、ぜひ傍聴に詰め掛けてくださるようお願いします。

●福田 護弁護士
 行政差止訴訟の5回目だったが、3ヶ月に1度くらいの割合で開廷され、今日までに提出した書面は400ページくらいになる。
今日はPKOと米艦防護、武器等防護の追加提訴した書面について説明した。
これまでに言ってきたことは、安保法制の違憲性について総論と各論、集団的自衛権・後方支援・PKO・武器等防護・協力支援の5件について国会審議の中身に基づいて、学者や元最高裁裁判長の違憲を含めて書面にした。
 安保法制の外郭の問題で非常に重要なのはガイドラインだ。
国会審議の前に米議会で演説し、夏までに安保法制成立させると言ってしまった。
安保法制とガイドラインの関係はどうなのか、また安保法制が通り国民生活に浸透したら、この国はどう変わっていくのか、大きな問題だ。
 武器輸出三原則が切り替えられて軍需産業、鉄鋼業会など鵜の目鷹の目で自分たちの製造ラインで活用できないかと目論み、それが海外に進出してアメリカ企業と一緒になって製造しようとしている。
国も一緒になり、企業が変わり軍需産業が大きな割合を占めると、そこで働く労働者はどこかで戦争が起こることを望むようにならないか。
学術研究者が軍需的研究と生活と両用できるものだからと防衛省予算が軍学共同、軍産共同という事態が進行している。
これらによって国民生活がどう変わっていくかなど、とても大事な問題が、安保法制に関連してある。
 こうしたことを含めて準備書面に書いて、今回提出した。
5回を迎えて、こちら側の主張の一つだけ残して、今日でだいたい言うべきことは一通り裁判所に伝えてきた。
残しているもう一つは、伊藤弁護士が書いてくれている、司法が積極的に憲法判断すべきであるという違憲審査制の問題で、これを次回に陳述する。
 国は憲法違反論に対して、事実にも争点にも関連しないから認否せずという反論をしてきているから、これもそう言ってくるだろう。
次回は2月5日が期日だが、その時に国に然るべき対応を求めていく。
だいたい次回で互いにメインの主張は出てくるだろうから、その先が証人尋問に入るかどうかが問題だ。
裁判官によっては弁護士の話はよく聞くが原告の話は控えてということもあるが、原告本人の話をちゃんと裁判官に聞いてもらうようにしたい。
これが、これまでの差し止め訴訟の流れだ。
 今日は違憲の問題についてどういう考え方かを示した。
自衛隊が海外で武力行使をするというのが、一番の核になる。
これまでは自衛隊は、他国の攻撃を排除するために日本の領域内で活動できるという
ことで自衛隊と憲法の辻褄を合わせてきた。
 世界に出向いて兵站活動をし、武器弾薬使用も認められ、戦闘の起きているすぐそばで活動できるとなったら、紛争当事者と見られるようになる。
それが世界中で起きるとようになると、自衛隊は国内で実力行使するだけでなく、外に出向いて行って、そこで実力行使をする。
それは外国の軍隊と同じで、戦力以外の何物でもない。
憲法9条2項で禁止する交戦権の行使になる。
 安倍首相はごまかしてホルムズ海峡以外は念頭にないと言うが、いま念頭になくてもいつそれが変わるかわからないし、それが通ってしまう国会で行政と国会が暴走し、それを止める力がない。
そういう無理を通すために強行採決をしたことが問題だ。
海外で武力行使は、自国を守る自衛ではない。
それができるようにしたのがガイドラインで、ガイドラインを先行させて、ガイドラインの中には閣議決定を全て盛り込む。
閣議決定には政府で検討してきた安保法制を全て盛り込む。
こういう流れの中で安保法制が国会審議に移る。
ガイドラインには安保法制に書いてあること、日米でやろうとしていることが全て盛り込まれている。
 いままでは憲法9条で、断ることができた。
90年前後の朝鮮危機の時、アメリカから後方支援を頼まれ、千何十件かのことを要求されたが、日本は憲法9条があったので断れた。
これを断れないようにするために97年にガイドラインができ、周辺事態法ができたが
さらにグローバル化したのが今回の安保法制だ。
 いま朝鮮半島で米朝が緊張関係にあるが、朝鮮戦争で休戦状態の中で、アメリカと北朝鮮が軍事的対立をしている。
そこになぜ日本がアメリカの肩を持ちしゃしゃり出るのか。
5月以降、米イージス艦に日本の補給艦から燃料補給が繰り返されている。
物品・役務の提供も広げられた。
北朝鮮から見たら日本は、アメリカと一緒になってミサイル防衛していることになる。日本は武器等防護や給油活動を通じて、軍事的対立者として北朝鮮とアメリカの中に割り込んでいる。
それを可能にした安保法制だ。

●福田 護弁護士(武谷直人弁護士が席を外していたため、福田弁護士から報告)
 若手の武谷弁護士が法廷で話したPKOについて、私から簡単に報告を。
 PKO協力法の中で、この新安保法制で導入された大きな項目として「駆け付け警護」と、「安全確保業務(住民保護)」と呼ばれるものがある。
これらの目的のために強力な武器の使用を認めた。
 駆け付け警護ではPKOの活動関係者が武装勢力に襲われたような時に、自衛隊がそこまで行って救出をするということだが、そのためには武器を持った相手を打ち負かさなければ救出できない。
武器を持った相手とやりあうには、武器を使用するということで、これは戦争と紙一重となる。
昨年7月11日からの南スーダンの現場で起こっていたことは、現地自衛隊の日報に「戦闘」とか「〜の方向で発砲の音」「戦車が多い」など具体的に生々しい記録があった。
政府は日報は廃棄したと言って覆い隠そうとしていたが、ジャーナリストの布施さんが開示請求をして、データとして残っていることが明らかになった。
自衛隊のすぐそばのビルで銃撃戦があった。
 もう一つ、テラインホテルに援助関係者が詰めていたが、そこへ政府軍が押し入り、暴力沙汰、略奪、レイプなどをしたが、PKOの司令部が他の国の部隊に救援の指示をしたのだが、あまりにも危険だからとどこの部隊も動かなかった。
そのように活動関係者が襲われている時に救出に行くのが、まさに駆け付け警護なのだが、自衛隊はそういう任務を負わされて派遣されていた。
自衛隊は、本当に危険な任務を負わされて現地に派遣されていた。
 情報問題もだが、PKO5原則は完全に破綻していることを覆い隠せなくなって、自衛隊は5月に撤収した。
 いま国連のPKOは、以前のように停戦の監視業務がメインの任務ではなく、むしろ治安の維持がメインになっている。
南スーダンのPKOも最初は停戦監視だったのが、途中からは住民保護のための武力の行使が認められ武力行使の主体になっていった。
自衛隊は武力行使はしない、自己保身のための武器使用だけをすると言ってたが、それでは日本は、自衛隊の立つ瀬がないということで作られたのが任務遂行のための武器使用だ。
 1992年にPKO協力法が成立したのは、憲法9条に違反しないように自己保身以外の武器使用はしないということでできたのだが、それを破ったのが今回の安保法制だ。
1992年までは停戦合意の監視のためがメインだったが、1994年のルワンダでの虐殺を止めることができなかった時から、保護する責任が強調されるようになり、いまのように治安を維持するのがメインになっている。
そういう状況の中に自衛隊が置かれている。
今後自衛隊が、駆け付け警護や安全確保業務に行かされる危険性があるということで私たちは差し止めの訴えを起こした。

●伊藤 真弁護士
 先日の衆議院選挙の結果を、皆さんはどう受け止めただろう。
評価や反省はあるが、「安保法制が違憲・憲法に自衛隊明記を許さない」を、はっきりと主張する立憲民主党が野党第一党になったことを、大きく評価したい。
民進党が三分割されたということはあるが、やはり野党第一党の党首が安保法制は憲法違反であると言い、その理由として海外で自衛隊が戦争するのは許されない、安保法制はそれを認める法律だと、はっきりとメディアでも言ったことは大きな意味がある。
それを固定化するような、自衛隊明記は許されない。
 国民の多くは自民党のいう自衛隊明記について、よく判っていない。
災害救助で頑張っている自衛隊を明記しないと自衛隊がかわいそう、とか専守防衛なんだから明記していいんじゃないなどと思う人がいる。
そうではないのだということをしっかり伝えていくことで、今回の選挙結果は、とても意味があった。
自公は組織で勝ったが、立憲民主党は市民が立ち上がらせ市民が後押しして勝った。
 自民党の憲法改悪には3つの問題点がある。
1つは、憲法9条2項を空文化してしまうことだ。
自民党案は9条2として、我が国を防衛するための必要最小限度の自衛隊を設けることを加えるというが、それは9条2項で「交戦権」を禁じていることを空文化する。
戦力だろうが交戦権だろうが我が国を守るためなのだから構わない、という理屈だ。
9条2で自衛隊を明記することによって、その条文で9条2項を削除、まるで無いものであるようにするのと同じ意味を持つ。
2つ目は自民党案の憲法改変が通ってしまえば、次は国民投票で、直接国民の意思とされる。
憲法に自衛隊明記があれば、それは国民の意思となってしまう。
国民の初めての直接の意思で、認められたことになる。
3つ目は、国防・防衛は、現憲法にはない。
 人権を制限するとき、どういうときに制限できるかというと憲法上の一定の要請がある時にしか、人権を制限することはできなかった。
他者の人権を守るために、人権が制限されることはあっても仕方ない。
表現の自由、裁判の公正など、憲法上の要請として人権を制限することはできた。
 それが今度は、我が国を防衛するために必要最小限度の組織として防衛・国防が憲法上の概念として登場することで、新たに人権を制限する憲法上の根拠が生まれる。
信教の自由・表現の自由・学問の自由などなどや生存権などを含めながら、あらゆる人権が国防の名の下で制限される。
 これまでは公共の利益・公共の福祉を介在しないと、国民に不利益を強いることは難しかったが、防衛・国防の憲法上の要請として、しかも国民の直接の意思によって、そういうものが憲法に明記される。
「何も変わりません。単に自衛隊を明記するだけです」に騙されたら、どんな結果が待っているかということを、もっともっと伝えていかなければいけない。
安倍首相は大義なき解散をして、次は大義なき国民投票に持ち込みたいのだろう。
最終的には数の力でくるだろう。
 こういう流れの中で、安保法制違憲訴訟は、9条改悪を阻止するためにも重要な意味がある。
安保法制違憲訴訟は、市民と共に安保法制を廃止させる市民運動と、そして政治のルートでそれを実現する、それと共に裁判・司法のルートでこれを闘っていく。
安保法制を廃止させる。
最近は安保法制を廃止させるという重要な意義があるだけでなく、9条の改悪を阻止する意味でも、この安保法制違憲訴訟は極めて重大な意味があると考えている。
 そのためには市民の皆さんとどこまでも強く連携し、政治の部門では立憲民主党ができたこと、共産党・社民党もあり、そういう場はできている。
憲法改悪許さないぞという運動を全国の皆さんを巻き込み一緒にやっていく場が新たに生まれ、それがとても重要な時期だと思っている。
 この国は法の支配、憲法の支配の国であり、人の支配する国ではない。
安倍の支配や小池の支配、誰か特定の人が支配するのはおかしい、憲法という法の支配でなければいけない。
そのためにも立憲民主党を市民が立ち上がらせ、市民が支えていった。
同じようにこの裁判もみなさんの力で支えていかなければ、裁判官に対してもそうです。
 これから、闘いが始まります。
みなさん、一緒に頑張っていきましょう。

*この後、北村弁護士、黒岩弁護士、橋本弁護士からも短いスピーチがあって報告集会を終えました。
集会の冒頭に寺井弁護士が言っていましたが、今回は傍聴席が埋まりませんでした。
傍聴席を満席にすることが裁判官を押していく力になります。
11月15日には東京地裁では安保法制違憲訴訟・女の会が、14;30〜開廷されます。
原告が少ない女の会の訴訟です。
少ない原告を支えて傍聴席を埋めるよう、どうぞ傍聴に詰め掛けてください。     

いちえ


2017年11月6日号安保法制違憲・差止請求事件第5回口頭弁論

 10月27日(金)、安保法制違憲・差止裁判が、東京地裁第103号法廷で開かれました。
法廷での様子と、閉廷後に衆議院議員会館で開かれた報告集会の様子をお伝えします。
長くなりますので、法廷での様子を①に、報告集会を②としてお送りします。
①の原告代理人の違憲陳述は、言葉遣いが法廷独特のものもあって判りにくいかもしれませんが、報告集会で噛み砕いた説明がされますから、合わせてお読みいただけたらと思います。

◎第5回口頭弁論
 今回は原告本人の違憲陳述はなく、代理人弁護士から原告らの主張に基づいた意見陳述がされました。
●原告代理人:古川(こがわ)健三弁護士
 被告は、集団的自衛権の行使は、行政訴訟法3条2項の詩文に当たらないと主張している。
しかしこの主張は、原告らの主張を正解せず、原告らが引用している判例に対する誤った理解に基づくものである。
1、処分性に関する最高裁判例について
 被告は、被告が処分性の一般的判断基準であるとする昭和39年最高裁判決は、何ら変更されておらず、原告が引用する病院開設中止勧告の処分性に関する平成17年7月15日の最高s第判例は、事例的な意味しかないと主張する。
 しかし、前記平成17年最高裁判例と同種事案である平成17年10月25日の最高裁判例において、藤田宙靖判事は補足意見の中で、昭和39年の判決の考え方を「従来の公式」と呼び、「従来の公式」は現代の複雑な行政メカニズムには対応できず、そのような事実関係のもとで「従来の公式」を採用するのは適当でない、との趣旨を述べている。
 そして、前記平成17年判決以外にも、最高裁は、「実効的な権利救済のために当該行為を抗告訴訟の対象として取り上げるのが合理的かどうか」という事例を考慮すべきと述べて、土地区画整理事業計画決定の処分性を否定していた従来の判例を変更した(最高裁大法廷平成20年9月10日判決)。
その後も処分性を拡大する判例が相次いでおり、最高裁が昭和39年判決の考え方をもはや維持していないことは明白である。
2、本件集団的自衛権の行使が、原告らに不利益な効果の受任を義務付けることについて
 被告はまた、本件集団的自衛権の行使等は、原告に何ら不利益な効果の受任を義務付けるものではないとし、その理由として、原告らの主張する「平和的生存権」「人格権」及び「憲法改正・決定権」の具体的権利性を争い、また、原告らの主張は、本件命令等にかかる事実行為が行われることにより必然的に我が国が戦争に巻き込まれるという過程が成立してはじめて成り立つが、そのようなことは言えない、という。
 原告の主張する権利の具体的な権利性についてはすでに他の準備書面で詳しく述べた。
被告の後段の主張は、原告の主張を誤解するものである。
原告らは、現に戦争が起きる場合はもちろんであるが、戦争が起きる危険性が生じることによっても原告らの権利が侵害される、と主張しているのである。
そして、集団的自衛権の行使が行われた場合、我が国が戦争当事国となることを意味することはジュネーブ条約に照らして明白であるから、戦争の危険は必然的に生じる。
3、厚木基地訴訟に関する最高裁平成28年判決について
 被告は、最高裁28年判決は、本件と事案を異にする、と主張する。
 しかし、最高裁28年判決及びその判断の前提とされた最高裁平成5年判決がいう「受任義務」とは、法的義務とは言えない。
厚木基地周辺住民が航空機運行によって受けているのは航空機の運行に伴う不利益な結果を受任すべき「一般的な拘束」であって、法的地位や権利関係の変動ではない。
 そして、最高裁平成28年判決は、健康被害そのものを認めているのではなく、不快感や健康被害への幅広い被害が、処分性及び損害の重大性を基礎づける、という判断をしたものである。
 この判断枠組みは、本件においても当然考慮されなければならず、「事案を異にする」という被告の主張は当たらない。
4、「行政権の行使」は民事訴訟の対象ではない、とする被告の主張
 被告は、横浜地裁での主張内容が本件の主張と矛盾する、との原告らの指摘に対し、「行政権の行使」は民事訴訟の対象得ない、という。
しかし「行政権の行使」であっても「公権力の行使」に当たらない非権力的行為が民事差し止め訴訟の対象となることは確立した判例であって、被告の主張は誤りであり、詭弁と言わざるを得ない。
 原告は被告が主張する「当該行為の属性」とは何か、また被告のいう「行政権の行使」が「公権力の行使」と同一であるか否かについて釈明を求める。
5、まとめ
 処分性の核心は、本件集団的自衛権の行使等が、原告らに対し、如何なる不利益をもたらすか、という点にある。
そしてその憲法適合性を具体的に検討せずして、処分性の判断をすることはできない。
 被告は、概念的で空虚な反論に終始することなく、集団的自衛権の行使の権利侵害性と憲法適合性について、正面から認否反論すべきである。

●原告代理人:福田 護弁護士
1、海外で武力行使をする自衛隊は「戦力」である
 ①原告らは、準備書面において、新安保法制法の内容の具体的違憲性、その制定による立憲主義の破壊、これらによる国のあり方の変容の危険等について論じた。
 新安保法制法の何が違憲なのか。
その問題の核心はやはり、自衛隊が海外に出向いて武力の行使をしまたはその危険を生ずることにある。
これを是認することによって、日本が戦争当事国となる機会と危険を大きく拡大した。
新安保法制法は、従来の政府解釈が、そうならないように設けていた最低限の歯止めの、根幹部分を外してしまった。
 従来の政府解釈とそれに基づく防衛法性の基本原則は、日本の領域が外部からの武力攻撃によって侵害された場合に限って、その武力攻撃を日本の領域から排除するためにのみ、自衛隊による実力行使を認めるというものだった。
だからその活動範囲も、基本的に日本の領域またはその周辺の公海、公空に限るとされてきた。
従来の自衛権発動の3要件は、この原則の表現だった。
 ところが新安保法制法は、自衛隊が海外で集団的自衛権による武力の行使をすることを認め、あるいは海外での武力行使につながる後方支援、他様々な危険な活動を認めた。
このように日本の領域を守るだけでなく、海外を戦場として武力を行使する自衛隊は、もはや他国の軍隊と異なるものではなく、紛れもない「戦力」であり、「交戦権」の主体に他ならない。
②安倍総理大臣は、国会審議の中などで繰り返し、新法の下でも「自衛隊が武力行使を目的として、かつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません」「武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣するいわゆる海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるもので許されない。これは新三要件の下で集団的自衛権を行使する場合であっても全く変わらない」「他国の領域での武力の行使は、ホルムズ海峡以外は念頭にありません」、などと強調した。
 しかし、存立危機事態において「他国の武力攻撃」を排除する自衛隊の武力の行使は、その性質上当然に、当該他国の領域における武力の行使を予定するものであり、もちろん法文上のどこにも、外国の領域を不可として限定する規定はない。
すなわち新安保法制法は、自衛隊の海外での武力の行使を前提とするものだ。
政府も国会答弁で、「法理上」はそうなることを認めざるを得なかった(2015年5月28日衆議院安保法制特別委・安倍総理大臣・中谷防衛大臣答弁)。
2、新ガイドラインによる自衛隊の米軍と一体的行動の危険性
①2015年4月27日、新安保法制法の閣議決定・国会提出に先立って、法案の内容を先取りする新たな日米ガイドラインが両政府によって合意され、しかもその際安倍総理大臣が米議会で演説し、新安保法制法の制定を約束してしまった。
そのことの本末転倒、国会無視の問題性は言うまでもないが、そのことに象徴されるように、新安保奉仕法は新ガイドラインの実施法であり、米軍支援法にほかならない。
 そして新ガイドラインは、平時から有事まで「切れ目のない、力強い、柔軟かつ実効的な日米共同の対応」を目的とし、その共同対応体制として、平時から緊急事態までのあらゆる段階に対処するための「共同調整メカニズム」の整備を定めた上、新安保法制法による新たな、そしてグローバルな自衛隊の諸活動と米軍の共同関係を定めている。
②ここで重大なのは、新安保法制法によってこれまでの憲法の制約を破って可能とされた集団的自衛権の行使、戦闘現場近くでの物品・役務の提供、PKOにおける駆け付け警護、米軍の武器等防護などが、この新ガイドラインに基づいててアメリカから要請されれば、これに応じて自衛隊が米軍と共同・連携し、あるいは一体的な行動をとることになることだ。
日本はもはや、憲法9条によって禁じられているからとの理由で、これらのアメリカの要請を断ることはできなくなってしまった。
否むしろ、アメリカのこのような要請に応えるために、新安保法制法が制定されたと言うべきだろう。
3、新安保法制法の適用事例の危険性と問題性
①原告らは、去る8月10日、追加の提訴をして、PKOにおけるいわゆる安全確保業務と駆け付け警護の実施、及び自衛隊法95条の2に基づく米軍等の武器等防護の実施の差止めを求めた。
これは、新安保法制法が制定・施行されてから現実の適用事例が発生し、その危険性が明確な形をとって現れたからだ。
②PKOの駆け付け警護等については、相代理人が述べるが、もう一つの武器等防護は、本年5月、北朝鮮に圧力を加えるために日本海に米空母カールビンソンの艦隊が展開する最中に、防衛大臣の命令により、自衛隊の最大級護衛艦「いずも」ほか1隻が、米軍補給艦の武器等防護のための護衛の任務に就いたものだ。
これは米軍艦船に武力攻撃とまでは言えない侵害が発生した場合に、自衛官に米軍艦船の防護のための「武器の使用」を認めるもので、場合によってはミサイルの発射までもそうていされるものだ。
 この武器等防護の発令は、トランプ政権は軍事力を誇示して力による外交を展開し、これに対抗して北朝鮮が弾道ミサイルの発射を繰り返すという、米朝関係が極度に緊張する状況の中で、日本が米軍を守ろうという立場に軍事的にコミットするもので、これによって日本は明確に、軍事的対立の当事者となったことになる。
 さらに、報道によれば、今年5月以降数回にわたり、自衛隊の補給艦が、日本海等で弾道ミサイルを警戒している米イージス艦に燃料を補給しているが、これは物品・役務の提供の機会を拡大した改正自衛隊法100条の6に基づくものと解される。
これもまた、自衛隊が米軍と共同して、北朝鮮の弾道ミサイル警戒活動を行っていることになり、日本を米朝の対立の当事者にしてしまうものだ。
③もともと日本は、北朝鮮と対立関係にあったわけではない。
対立当事者はアメリカと韓国であり、北朝鮮のミサイル発射や核実験もアメリカに対する対抗戦略であることは明らかだ。
上記の自衛隊による米艦防護や物品・役務の提供は、その他国同士の軍事的対立に割り込んで一方的に加担し、自ら危険を買って出る行為と言わざるを得ない。
新安保法制法と新ガイドラインんは、こうして日本を戦争の危険に導くものであり、戦力を持たず、武力の行使を抛棄し、平和主義のもとに国民の人権と生存を保障しようとする憲法9条に真っ向から反するものにほかならない。
4、処分性に関する予備的主張について
 原告らはこれまで、本件における行訴法3条2項にいう「処分」について、集団的自衛権の行使等という事実を捉え、これらの事実行為が原告らの平和的生存権等の権利を侵害し、その侵害状態の受任を強いるものとして、原告らに対する公権力の行使に当たると主張してきた。
 このたび行政法学の大家である兼子仁東京都立大学名誉教授から、このような処分の捉え方は行政法条適法と考えられるとの意見とともに、集団的自衛権の行使に先立つ自衛官に対する関係大臣の命令を処分として捉える方途について示唆をいただいた。
 このような意見及び本件請求の趣旨等を総合考慮し、本件処分の捉え方について、予備的請求原因としての主張を追加したく、書面の通り主張する。

●原告代理人:武谷直人弁護士
PKO新任務と任務遂行のための武器使用の違憲性
1、はじめに
 強行採決された新安保法制の一つに、国連平和維持活動協力法いわゆるPKO協力法の改正がある。
 この改正で、自衛隊が行える活動領域が大きく拡大された。
それはいわゆる「安全確保業務」(住民・被災民の危害の防止等特定の区域の保安の維持・警護などの業務)と「駆け付け警護」(PKO等活動関係者の不測の侵害・危難等に対する緊急の要請に対応する生命・身体の保護業務)が追加され、それと共に、武装勢力等の妨害を排除し、目的を達成するための強力な武器の使用、すなわち任務遂行のための武器使用が認められたことだ。
2、国連平和協力法制定の経緯
①PKO協力法制定に至る論議
 そもそもPKO協力法は、いわゆる湾岸戦争契機に湾岸戦争後の国連貢献策の名の下に成立した。
 この審議過程において最も大きな争点となったのは、自衛隊の武器携行とその使用についてだった。
PKO協力法は、自衛隊が平和維持軍に参加する以上は、国連の指揮の下で、組織的な武力行使をせざるを得ないことになり、国連平和維持軍への参加は、武力の行使を禁じた憲法9条に反すると当初から批判されていた。
しかし政府は、「平和維持軍(PKF)への参加は当面凍結され、いわゆるPKO5原則(ⅰ停戦合意の成立、ⅱ紛争当事者のすべてのPKOへの参加の同意、ⅲPKO活動の中立性、ⅳこれらいずれかが満たなくなった時の部隊の撤収、ⅴ生命等防護のための必要最小限度の武器使用)を設けることによって、憲法9条には違反しないととして、1992年6月に可決成立させた。
このようにもともとPKO協力法そのものが、PKO5原則の下でかろうじて、合憲性を維持しようとしていた。
3、PKO活動の拡大(今回の新任務付与)の違憲性
①PKOの役割の変化
 さらに新安保法制においてPKO活動における自衛隊業務の拡大の背景には、国連のPKO活動の変質・変遷がある。
 従来のPKOは、PKO5原則の下で行うことが活動の中心だった。
 しかし、1994年、ルワンダにおける停戦合意の崩壊、PKO部隊の撤退による大量の住民が虐殺される事件が発生したことを契機として、国連PKOの性質も変化し、「停戦や軍の撤退などの監視活動」だけでなく、紛争当事者による住民の虐殺などが発生した場合には、停戦の有無と関係なく、PKO部隊は、紛争当事者と「交戦」して住民を保護するという「住民保護」もその目的となった。
 これでは、そもそもPKO5原則すら維持できず、特に必要最小限の武器使用という原則も通用しなくなる。
②PKOにおける新任務及びそれに伴う武器使用の違憲性
 今回のPKO業務の追加と武器使用権限の拡大について、政府は、PKO業務において、紛争の一方当事者との抗争に至ることはないとしている。
 しかし、南スーダンでPKOに参加していた陸上自衛隊が2016年7月11日から12日に作成した日報には、「戦闘」という言葉が多用されており、まさに、停戦合意が崩れ、現地では戦闘状態が現出していることが明らかになった。
かかる状況下において、仮に自衛隊が駆け付け警護のために武器を使用したとすれば、それは戦闘行為からさらに政府軍ないし反政府軍に対する武器の使用に至る危険性は明白であった。
4、結論
 以上の通り、南スーダンの事例を見るまでもなく、今後、再び紛争地帯においてPKOに寄って派遣された自衛隊が武器を使用する事態が生じる場合には、これは単なる「武器の使用」ではなく、「武力の行使」というべきである。
従ってPKO協力法における新任務は、もはや政府の従来の解釈で正当化することはできず、これは武器の使用を禁止した憲法9条1項及び交戦権を否定する憲法9条2項に違反することは明白だ。

*法廷での意見陳述はここまでです。
報告集会については②に続きます。          

いちえ


2017年11月4日号「10月20日トークの会報告③」

 10月5日に東電本社でドキュメンタリー映画「Life 生きてゆく」の上映会があり、木村さんもそこに行って東電社長にあったそうだが、どんな話をしたのか?
(注:この映画は映像ディレクターでジャーナリストの女性、笠井千晶さんが作ったドキュメンタリー映画で、南相馬の上野敬幸さんに取材した作品。
上野さんも木村さんと同じように家族が津波の犠牲になり、原発事故で捜索が阻まれて父親と長男が行方不明となった。
「そこにあった“命”の存在を、どうしても皆さんに知って欲しくて」監督はこの映画を作り、しっかりと上野さんに寄り添ってその思いを汲み取っている。
映画の後ろの方で、木村さんも出てくる)
●許すことはできない
 汐凪の遺骨が見つかったことが報道されたのは12月25日だったが、それから1、2週間経ってから、東電復興本社の社長 I氏から謝罪と焼香をしたいと連絡が来た。
白馬に来たいということだったろうが、白馬ではなく大熊に来て欲しいと言い、大熊で話をした。
 I氏とは以前から面識もありFBでも繋がっているが、その連絡をもらった時にまず感じたのは、遅すぎるということだった。
大熊で会った時に、「謝罪というのは東電としてか」と問うたが、それには答えがなかった。
東電としての謝罪なら判るが、彼個人から何か悪いことをされたわけでないから、謝罪される筋はなく、受け入れられなかった。
震災直後は東電も事故後の処理が色々大変だっただろうから、すぐに来いとは言わないが5年以上も経っていては、謝罪が遅いと思った。
裁判などに訴える気もないが、許すことはできないと話した。
 ただしI氏は福島に力を注いできたし、千晶さんの「Life」を東電本社で上映することになったのも、I氏が尽力したからだ。
上野さんとも懇意にしていて福島のいろいろなところでボランティアもされている。
だが、大熊でI氏と話した段階で、自分の中では東電との関わりはもう終わりだと思っていた。
もう関わりたくないと思ったのだ。
 夏のイベントが終わった後で千晶さんが白馬に来て、10月5日に東電本社で上映会をすると伝えられ、そこには東電社長も臨席するというので、ひとこと言いたくて参加した。
●人として、どう思うか?
 上映後に監督と上野さん、私で話をさせてもらった。
大熊で東電復興本社社長のI氏に言ったのと同じことを話したのだが、ちょうど前日の10月4日に原子力規制委員会は、再稼働を目指す柏崎刈羽原発6、7号機の適格性を容認した。
再稼働を認めるお墨付きを与えた。
企業としてはそうやって再稼働の方向に進んでいくのだろうが、人としてどう思うのかを聞きたかった。
自分はエネルギーを原発に頼るのはありえないと思っているが、あからさまに反対する気はない。
多くの人がそれに反対せず受け入れて生きているのだから、社会が容認しているということだろう。
けれど福島原発事故後のあの状況の中で、もしかしたら汐凪を見殺しにした可能性はあるのだと話した上で、柏崎刈羽を再稼働することが、人としてありうるのかを問うた。
 社長や他の社員とディスカッションする場はなく最後に社長が挨拶して終わった。
自分も興奮していて社長が何を話したか頭に残っていないが、「電気を作るのも命を守ることだ」と言っていた。
そうかもしれないが、順序が違う。
生きている人の命を守るために、もしかしたら汐凪は生きていた命を見殺しにされたし、野晒しにされたわけで、それで人の命を守ると言えるのか?
確かに命を守るために電気は必要かもしれないが、それは一部のことであり、全てではない。
生きるためだけを考えれば、必ずしも電気は必要ないのではないか。
電気を使わなければ、原発を動かす必要はないのだからと感じた。

 企業の鎧をかぶると、人の姿は見えなくなる。
木村さんと一緒に福島第一原発の視察に行った時に、視察参加者からの「再稼働は必要なのか?」という質問に、I氏は「裕福な生活を求めている方たちが居ますから」と答えた。
あの言葉を、どう思ったか?
●意識が変わらなければ
 あの時は悔しさと憤りで、とてもショックだった。
でも今思うと、実際にそうなのだと思う。
多くの人が便利で豊かな生活を追って、贅沢に電気を使う生活を求めているのだろう。
それでも原発が必要だというのは、おかしい。
我々が電気を大事に使おうという意識を持てば、原発は必要ないのではないか。
原発をなくそうと唱えても、電気を使う側の意識が変わらなければ、原発が止まることはないと思う。

*木村さんの話はこれで終わり、この後質疑応答です。
Q1、事故前は、原発に対してどう思っていたか?
A1、原発はあるべきではないと思っていたが、地元で職安に行って仕事を探すと、ほとんどが原発の仕事だった。
その地区の暮らしには原発の存在は欠かせず、それに依存してきたのが今の生活で、共存共栄という人もいれば、お世話になっているという人もいる。
学生時代にチェルノブイリがあったので、自分は原発には関わりたくないと思い、別の職業に就いた。

Q2、2日後に衆議院選挙だが、これについてどう考えるか?
A2、正直に言えば、国とは関わらずに生きていきたいという思いが強い。
コミュニティは大きくなればなるほど無駄も出てくるし、まとめられなくなる。
今の世の中は経済的にどんどん膨らんで無駄も出てくるし、自分が求めているのは多くの人が求めているのとは、真逆な気がしている。
政治については、判らない。

Q3、木村さんはFBでロヒンギャの難民の写真に「後ろめたさを感じる」と書いていた。
僕自身も木村さんに対して後ろめたさを感じているし、他にも僕がこれまでに会った何人かの人たちに後ろめたさを感じている。
木村さんがFBで書かれた「後ろめたさ」について聞かせて欲しい。
A3、ただ単に、当たり前のように何不自由なく生きているのに、他のところでは命の危険に晒されて飢えに苦しむ人たちがいる。
それでも、もっと豊かなものを求めたり、楽しいことをしたいとか、あそこへ行きたいなどと思うことは自分にもあり、一方でロヒンギャの難民のことを知ると、そんな風に豊かさを求めたり欲を持つ自分に後ろめたさを感じる。
自分が欲望を我慢すれば向こうの状況は少しは良くなるのかと思ったり…。
後ろめたさを感じるのは、そういうことです。

Q4、舞雪さん(一緒に暮らす長女)に、どういう風に生きて欲しいと思うか?
A4、大変な不幸な目に合わなければ、それで十分だと思う。
娘が置かれている状況は、震災を経験していたり、俺と一緒に白馬で生活することで普通とはちょっと違うので、娘にとっては不満とか、普通とは違うと感じているかもしれないが、それが彼女が置かれている状況なのだ。
あとは高校を出て彼女なりに彼女の思う生き方をしてくれたら、それで十分だ。

Q5、震災後、町の皆さんが離れて辺りは荒涼と暗く見えたが、今の大熊町の状況は?木村さんたちが菜の花畑など作って、温かみのある場所になってきたか?
A5、自由に栽培できるのは自分の土地しかない。
今年は自分の土地以外にも貸してくれる人もいたから1町2反、100平米くらいを菜の花畑にした。
自分の土地は3反しかない。
土地を貸してくれていた人も環境省に貸すことで印鑑を押したようなので、自分の土地の3反しかない。
 父が植木、花木が好きで植えていたので、それが育って庭らしくなっている。
浸水後に残ったものが元気で、特に椿が元気で増えている。
でもこうしたことは大熊町の中のごくごく一部でしかない。
雑草だらけだったところが環境省が整地して見た感じは整然としているが、大量のフレコンバックが運ばれて山になっているなど、以前とは違う。
それだったら雑草だらけのほうが良かったと。おもっている。

★トークの会「福島の声を聞こう!vol.25」ゲストスピーカー木村紀夫さんの話は、これで終わりです。
この日に話してくださったことも含めて、これまでの軌跡を木村さんは『たぁくらたぁ』に連載しています。
29号は特集記事「あれから2年、それぞれの選択」で「宿屋『深山の雪』、始めます」、
30号からが「白馬の森発 原発避難者の明日」としての連載です。
連載第1回は「放射能との付き合い方」、最新号43号は連載第13回「大熊の菜種油の意味。人として原発を考える」です。
お読みいただけたら、と思います。
★『たぁくらたぁ』購読のお申し込みは下記に。
TEL:026−219−2470 FAX:026−219−2472 e-mail:order@o-emu.net
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2017年11月4日号「10月20日トークの会報告②」

◎白馬での避難生活が始まった
●なぜ白馬だったか
 2011年3月から1年間は長女を岡山の妻の実家に預けて、自分は福島と岡山を行ったり来たりの生活をしていたが、出来るだけ娘と一緒に居たい思いがあった。
 大熊町が会津若松に仮庁舎や小・中学校を作り、多くの町民が移動して仮設住宅などに入っていた。
そこへ行くことも考えたが放射能への不安もあり、会津若松も震災前に比べて微々たる数値かもしれないが放射線量は3倍くらい高くなっているといわれていて、それは心配ない数値かもしれないが不安は拭えなかった。
 地震の発生時に最初の情報では3mの津波と報じられ自宅は安全と思っていたが、実際には10m以上の津波で家族を亡くしていたから、後になって後悔したくないという気持ちが強くあった。
また福島から通うことを考えると、岡山はとても遠かった。
1ヶ月に1度通うのでは長女と一緒に過ごす時間がしっかり持てないし、かと言って長女を福島に戻したくなかったので、ある程度福島に近くて放射能の心配がない地域として長野県を探していた。
たまたま都合の良いところが見つかり、長女は岡山に預けたまま、まず自分一人で白馬に移った。
長女は被災当時4年生だったから、岡山の小学校に転校して5学年を過ごしていた。
学年途中で転校させたくないことと、この1年間は、白馬で娘と二人で生活していくための準備期間でもあった。
●仲間ができた
 引っ越した当初は東京電力に対する思いが強く、賠償金をたくさん貰って土地を求めてそこを太陽光発電施設にして東電に電気を売ろうなどと考えていた。
初めて一枝さんが訪ねて来た時に同行してくれた雑誌『たぁくらたぁ』の編集部の仲間たちと触れ合う中で、「そういうことでもないのだな」と少しずつ気がつき始めた。
 電気のことで言えば、電気は当たり前にあると思われているが、原発をなくそうと言って大上段に構えるのではなく、できるだけ電気を使わず、できる範囲で電気に頼らない生きかたをしていきたいと思い始めていた。
そして長野でできたつながりの中で初めてやったことが、ロケットストーブを入れることだった。
もともとペンションだった建物で、セントラルヒーティングで各部屋に灯油のファンヒーターが付いていて、それを使うことはとても快適ではある。
しかし風呂も灯油のボイラーなので、冬場は一日中ボイラーを自動運転させると、1ヶ月の灯油代が4万円にもなってしまう。
繋がりを持った長野県の仲間たちに相談すると、「まず暖房設備だよね」という話になり、仲間の中にロケットストーブを作れる人がいて、ワークショップという形で2013年にロケットストーブを作った。
●ロケットストーブ
 ホームセンターで売っている時計型ストーブと、車のディーラーやガソリンスタンドで空になれば捨てているオイルのペール缶を使って作った。
それまではロケットストーブについて何も知らなかったが、それは木質燃料が燃える時に出る煙をもう一度燃やして、二次燃焼させて効率よく熱エネルギーにし、排気も少なくするものだ。
 ロケットストーブは食堂に作り、寝るまでの間は食堂で暖まり部屋に戻ったら布団に入れば朝まで凍えずに過ごせる。
寒い時には零下15℃くらいになることがあるが、それでも全く大丈夫だ。
 ロケットストーブを入れた最初の年は、薪を買っていた。
それまで燃料はお金を出して買うのが普通だと思っていたし、灯油も買っていた。
薪も買うのが当たり前だと思っていた。
けれど関わりを持ってくれた人たちを見ていると、薪を買っている様子がなく、それぞれのつながりの中で薪を頂いてきたり集めたりしていることを知り、自分もつながりの中で集めたり敷地内の枯れ木や、屋根にかかった枝を払ったりなどするようにして、それ以降は薪を買うこともなく冬の暖房費は抑えられている。
ただし娘に親の考えを押し付けるわけにもいかず、彼女の部屋には1台ファンヒーターを入れた。
●ボイラーは止めた
 風呂と給湯は大型のボイラーを使っていたが、ボイラーの具合が悪くなった時に点検を頼んだら、1時間ほどの作業に25,000円もかかった。
ボイラーは具合が悪くなっても自分で直せず、自分の手に負えないものを使って生きていくのはどうかと思い、風呂も薪にしようと思った。
去年の秋にそう決めて風呂を作ろうとしたのだが去年は作ることができず、ドラム缶に湯を沸かして、そこに風呂の湯を洗濯に使うためのポンプを突っ込んで先にシャワーノズルをつけ、室外で周囲を囲ってシャワーを浴びていた。
冬はそれでは無理なので、2、3日に一度、近くの銭湯(温泉)に行っていた。
 今年のゴールデンウィークに仲間に手伝ってもらって薪の風呂を作り、今はそれを使っている。
●ブレイカーも落とした
 ボイラーの使用をやめただけではなく、使わない部分のブレイカーを落とすようにした。
全ブレイカーを上げていると建物自体が電力消費するようにできているのか、たいして電気を使っていないのに電気代が嵩んでいた。
ブレイカーを落とすようにしたら電気代は、それまでの3分の1ほどになった。
電気を使っていなくてもブレイカーを上げていることで、電気系等の何かが動いているのだと思う。
 食堂はロケットストーブで暖かいので屋根雪は落ちるが、食堂の反対側は屋根の上に1mくらい積もった雪が締まって凍り重たい雪の塊になって、引き込んである電線を巻き込んで3月に一気に落ちた。
幸い断線をしなかったから良かったのだが、一瞬、これで電気を使うのも止めるかと考えた。
だが、さすがに娘もいるし全く電気を使わないわけにはいかないので、落ちて垂れた電線を直して電気は使っている。
この冬どうするか、それを悩んでいる。
娘も高校を卒業して他所で暮らすようになるだろうし、最終的には、2~3年後には電気は切ってもいいかなと思っている。

一枝;私が最初に木村さんをお訪ね時には、木村さん個人のお話を伺いに仲間を誘って行ったのだが、その時も、またその後も、木村さんが他の人たちとの触れ合いの中で考え行動してきたことは、原発事故を体験した私たちがこれから目指したい考え方、暮らし方を、木村さん自身が模索しながら示してくださっているように思う。
木村さんの発想が仲間たちとのやりとりの中で、渦のように沸き起こってくるのではないかと思う。
 今年も「忘れないから始まる未来」という催しをされたが、それはどういうものだったのか、お話しください。
●「忘れないから始まる未来」
 これは今年で4回目のイベントだが最初は自分の企画で、被災体験のトークと友人のミュージシャンのライブなどだったが、集まってくる仲間たちと企画を考えるようになり、去年から「原点回帰探検隊」という形で、去年はマッチやライターを使わずに木をこすり合わせて火を起こし、その日で料理をして食べる「火おこし」をやった。
 今年は小さなプレイルーム「汐笑庵(じゃくしょうあん)」を造り、その棟上げをした。
チェーンソウも電動ドリルも使わずに、集まってくれた仲間たちが人力で鑿(ノミ)を使って削り、それはとても大変だが、大変なことを楽しく感じられるイベントにしたいと思っていた。
自分一人ではそこまで考えつけないし、辿り着けなかったと思う。
 それは木村さんの方から言えばそういうことだが、集まる人たちからすれば、「自分のところでは出来ないけれど、あそこに行けばこういうことが出来るよね」という格好の場に「深山の雪(木村さんの住まい)」がなっているのではないか。

 白馬では着々と、新しい生き方で生活を進めながら、大熊では捜索だけではなくいろいろ活動されている。
大熊と白馬での繋がりは、どんな試みを考えているのか?
●大熊と白馬が繋がった!
 去年から始まったイベントの影響が大きい。
去年の春から大熊で菜の花を咲かせているが、去年の「原点回帰探検隊」では火おこしをやって盛り上がり、来年何をしようかという時に、菜の花を咲かせるだけではなく菜種油を絞って、その油で白馬に灯を点したらと考えた。
そう考えた時に、「大熊と白馬が繋がる!」と思った。
自分の中では、それはとても大きかった。
 ただ、放射能の問題があるので、油には放射能は移行しないと言われるが、実際に測ってみないと判らない。
実際に測ってみたいと思い、たまたま知り合った国分寺の「こども未来測定所」で測ってもらったら、国の基準では食用になるのが100ベクレル以下だが、大熊の菜種油からは、放射性物質はほぼ出なかった。
大熊の自分の土地は原発から3キロの場所で、空間線量は1〜2マイクロシーベルトだが、そこで取れた菜種油はセシウム137で0,167という値だった。
それを知って「食えるじゃないか」と思った。
●新たなアイディア
 燃料にしようと思って測ってもらったのだが、油からは出ないことを初めて確認できて、自分の中では、ちょっとした欲が出てきた。
大熊の菜種油を、食用として売ることはできないかと思っている。
その油のベクレル数値をはっきり明記して、原発から3キロ地点の大熊町で栽培した菜種から絞った菜種油であることや、栽培地の空間線量も隠さず明記した上で販売すれば、大熊がどういう状況にあるのかを知ってもらえることになる。
 もちろん売れたら嬉しいが、売れなくてもいい。知ってもらえればいい。
これはまだ自分の頭の中だけのことだが、いろいろな繋がりの中で少しずつ、もしかしたら実現するかもしれないという状況に来ている。
自分一人ではできないことで、環境省の協力も、町の協力も要るが、そうやっていけたらとても面白いと思う。
 大熊町は今、何もない灰色の町だ。
ああいう事故を起こしていながら、原発と共存共栄のような関係がまだある。
そうではなくて、あんな経験をしてこんな状態になったのだから、これまでとは違う新しい方向性を見つけていったらいいのではないかとおもう。
俺がやるより町の人がやっていったらうまくできるのではないかと思っているが、なかなかそういう風にならないので、きっかけを作りたいと思っている。
 町の人たちとの関係は?
 なかなか難しいところもあり、堂々とこういう話ができるのは一部の人で、関わってくれている人は協力的で有り難いが、自分のしていることに匿名で町や環境省に宛ててクレームをつける人もいる。
警察も町も目をつぶって認めてくれているが、捜索ということで許可をもらって入っているのに他のことをやっていると。
だから大熊での活動を大げさにFBに載せることなどしてはいけないと思うが、やはり発信は必要だと思うので「ごめんなさい」という気持ちでやっている。
●堂々と大熊に入りたい
 菜種油を実現することで、堂々と大熊に入れるようにしたい。
これはやってはいけないことなのだが、自宅の敷地に小さな小屋を建てた。
町の人も見て見ぬふりをしてくれているが、こそこそとではなく堂々と入るために、菜の花を利用できないかと考える。
 環境省が、もう一度捜索をしたからと、その場所に砂利を敷いてアスファルトにするかどうかという状況の中で、あそこに汐凪がいることを考えると、それは勘弁して欲しいと思う。
再来年は長女が高校を卒業するので、そうなれば自分が福島に居られる時間も長く作れる。
草が生えないように田んぼも耕運しているので、なんとかそのまま土のままにしておいて欲しいと思う。
菜の花をやりたいというのはそれが大きな理由でもあるが、でもやはり将来的なことを考えると、大熊が菜種油の一大生産地になるといいなと思っている。

*報告はもう1篇、次号に続きます。             


2017年11月3日号「10月20日トークの会報告①」

大変遅くなりましたが、先月催したトークの会「福島の声を聞こう!vol.25」の報告です。
長文なので3回に分けてお送りします。

◎トークの会「福島の声を聞こう!VOL.25」
 ゲストスピーカーは木村紀夫さんでした。
木村さんの自宅は東京電力福島第一原発から3キロ地点で、海岸戦から100mほど離れた海抜5〜6mのところに在りました。
津波で家は流され、父親の王太朗(わたろう)さん、妻の深雪さん、次女の汐凪(ゆうな)さんが犠牲になりました。
被災後は長野県白馬村で長女の舞雪(まゆ)さんと暮らしています。
 このトークの会では2012年12月の第4回で木村さんにお話いただき、今回は2度目のご登壇です。
昨年暮れに、行方不明だった汐凪ちゃんの遺骨の一部が見つかったことへの思いや、その後のことをお話いただきました。

●どのように捜索をしてきたか
⑴ 2011年
 2011年3月11日地震のあった時は職場の養豚所にいた。
5時頃自宅に戻ったら、自宅は流されてなくなっていた。
家族を探しに避難所に行ってみると母と長女がいて、父と妻、次女は見当たらなかった。
津波で流されたとは思わず他の避難所を探しても居ず、もしやと思い、再度自宅へ戻った時に、飼い犬がリードをつけた状態で山から駆け下りてきた。
室内で飼っている犬だったので、それを見て誰かが家に戻ったことがわかり、もしかしたらそこで津波の犠牲になったと思った。
 11日から12日の朝まで一晩中、懐中電灯で津波の浸水域のがれきの中を回って探したが、田んぼの中は潜ってしまうので立ち入れず、また懐中電灯一本では遠くまで見えず、声をかけながら探し歩いたが手がかりは見つけられなかった。
 12日の朝も一人で捜索を続けていたところへ地区の区長が来て、「原発がおかしいと避難指示が出た。生きている者を守るのが大事だ」と言われ、原発がそんな状態ならとんでもないことになるかもしれないと思い、避難所にいる長女と母と犬を連れて妻の実家の岡山に行った。
 岡山に彼らを送り届けた後で18日に福島へ戻り、再び捜索を始めようとしたが大熊町は警戒区域になっていて入れなかった。
津波から1週間経っていたがどこかで生きていると信じて、避難所を回り、「探しています」のポスターを貼って歩いた。
安置所にも通いつつ、スーパーなど200ヶ所くらいにポスターを貼ったが、情報は全く得られなかった。
 4月29日、無人のヘリコプターでのカメラに、家の田んぼにうつぶせで倒れている姿が写り父は見つかったが、それは被災から49日目のことだった。
49日間、野晒しにされていたということで、自分の中で東電の存在はとても大きくなった。
3月12日の避難のギリギリ時刻まで、地区の消防団の人たちは探してくれていて、その時に父の遺体が見つかった辺りから人の声を聞いたという人が何人かいたから、その時点で父はまだ生きていたかという思いもあり、見殺しにしてしまったという思いは消えなくなった。
 父の遺体が見つかるまで公な捜索活動は行われていず、自衛隊が入って捜索活動を始めたのは5月20日くらいからと、ずいぶん経ってからのことで、それはガレキを片付けながら2週間続けられた。
結局それでも見つからなかったが、自衛隊だから一生懸命捜索し、しっかりやってくれたのだろうと、その時点では信じていた。
その後、行政の人に連れて行ってもらって1日だけ自宅のある地域に入ったが、あれだけあったガレキがきれいに片付いていて、自衛隊はすごいなと思った。
その時点で妻と次女はまだ見つからなかったので、捜索したいのでなんとか大熊町に入れるようにして欲しいと町に頼んだのだが、なかなか許されなかった。
 6月1日、いわき東警察署から電話があり、4月10日に自宅から40キロほど南の海上で発見された遺体がDNA鑑定の結果で妻だと判ったと伝えられ、引き取りに行った。
すでに骨壷に収められた状態だった。
 その時点でも次女はまだ見つからなかったが、7月からは大熊町の住民の一時帰宅が叶うようになった。
ただし、それは3ヶ月に一度で、1回の滞在時間は2時間に制限されていた。
初めて大熊町に入って自分の手で捜索をしたのは、その年の秋だった。
広い場所を2時間という制限の中で、どこをどう探して良いかも判らないまま、海岸でガレキが打ち上げられているところを掘り起こして、畳2畳分ほどの範囲を探すのが手一杯だった。
3ヶ月後の次の時に行くと、前に探した辺りは海岸なので前の時とは様子が変わっていて、自分でも何をしているのか判らない状態だった。
やらなければならない、探したいという気持ちはいっぱいなのだが、何をどうして良いのか判らず、帰る頃には気持ちがすっかり落ち込んでいることがずっと続いていた。
⑵ 2012年
 1年後2012年6月に、警察や行政と一緒に入って捜索をする機会があった。
その時に、去年遺骨が見つかったガレキの中から、あの日に汐凪が履いていたと思われる靴が見つかった。
一緒に入った警察官の中で立場が上官らしい人にそのことを伝えたが、「そうですか」と言うだけで、そこから徹底した捜索になることはなかった。
警察の捜索といっても、土を削るような道具を使ってちょっと掻いて掘り起こし、目視するというやり方で、「あれで見つかるのか?」という印象だった。
だが捜索をする警察官も20代、30代の若い人ばかりで、当時は放射能について自分もとても神経質になっていたから、娘を探すために警察の若い人たちにここで捜索をしてもらってもいいのか?と思い、もっと探してくれるように強く頼むことができなかった。
これはもう、一生かけて自分一人で探していかなければならないと思った。
 あの時に「ここをもっとしっかり探してくれ」と言っていれば、その時に見つかっていたかもしれないと思うと残念だが、自分としては頼むことはできなかった。
同時に今思うのは、昨年末に汐凪の骨の一部が見つかった時の状態に比べたら、被災の年の5月に自衛隊が捜索に入ったあの時の方が絶対に見つけやすい状況だったと思う。
津波被害後のガレキを重機でつまみあげてダンプに積み、山にして置いてあったその山の一つからこの時に靴が見つかり、昨年は遺骨の一部も見つかったのだから、自衛隊の捜索時には、たとえバラバラであったとしてもまだ形の整った状態で見つけられたのではないか、もちろん想像でしかないが、そう思っている。
 その後、一時帰宅の機会も徐々に増え、年10回になり、また15回になり、現在は年間30日で、1回の滞在時間は5時間になった。
そういう経過の中で2013年までは、一人で捜索を続けていた。
⑶ 2013年
 南相馬の上野敬幸さんが「放射能なんか関係ないから探させてくれ」と、声をかけてくれた。
上野さん自身も親と長男が行方不明で震災直後から探し続けていたが、そこにはボランティアも集まってきていて、「福興浜団」として捜索活動やガレキの片付けを続けてきていた。
上野さんの申し出にも最初は、年若いボランティアたちに頼んでいいものかどうか逡巡したが、他にすがる先もなく、お願いして初めて一緒に大熊町に入って捜索してもらったのは2013年9月だった。
 靴が見つかったガレキの山がずっと気になっていたが、2階建、3階建くらいあるようなガレキの山で、重機を入れたくてもその許可が出ないので手作業でやるしかなく、ボランティアの人に「ここをやって」と頼むわけにもいかず自分でもどうしたら良いか判らなかった。
上野さんと福興浜団が2度目に大熊に入ってくれたのは10月か11月だったが、その時に、ボランティアの一人が何も言わずにそのガレキの山を掘り始めた。
自分でもそこがずっと気になっていたところだったので、その時からそのガレキの山での捜索が始まった。
そうは言っても、電柱や家の梁など人力では動かせないものが大量にあるのだが、できる範囲で掘り起こしながら捜索を続けた。
それでも人力でやっていては一生かかっても、そのガレキの山を探し終えることなどできない状況だった。
⑷ 2014年
 そんな状況下で、大熊町の自宅地域の津波浸水域について、県内で出た除染廃棄物の中間貯蔵施設にしようという話が持ち上がり、2014年6月に住民説明会があった。
国(環境省)としては、土地を買い上げて中間貯蔵施設にするよう話を進めるつもりだったろうが、自分は「売る気も貸す気もない」と説明した。
そうした施設が必要なことはわかるが、そこにいるかもしれない汐凪をまだ見つけ出せずにいるので、自分の土地だけは譲ることはできないと説明した。
すると、その時に環境省の担当者から返ってきたのが「その事実を知りませんでした」という言葉だった。
状況を把握しないまま、このような話を進めていることが信じられず、そんな話には自分はもう一切関わりたくない、この話は終わりだと思った。
⑸ 2015年
 その後もボランティアと一緒に捜索活動を続けたが、見つけるということについては全く先が見えなかった。
遺品などは大量に出てくるのだが汐凪は見つからず、ガレキも前とほとんど変わらない状態で作業も進まず、結果を出したい思いに駆られていた。
汐凪のためにも、また作業に入ってくれている仲間のためにも、結果を出したいと切に思い、国の力を借りないと先に進めないのかと思うようにもなってきていた。
環境省からはしきりに連絡が来ていたが関わりたくないので、それまでは無視をしていた。
⑹ 2016年
 結果を出したい思いから、2016年9月に自分から環境省に連絡を取った。
環境省は、中間貯蔵施設については津波浸水域には建物が建つ事はないと言い、ガレキの山の辺りを精一杯捜索をした後で造成し、緩衝地帯にしたいという。
そのためにまず、捜索をさせて欲しいと言い、こちらからも捜索をお願いするという事で話ができた。
 11月9日から重機を入れての大規模な捜索が始まった。
現場では環境省の役人とよりも、現場の作業長の人と打ち合わせながら「まずここを最初にやりましょう」という事でガレキの片付けを始めて、1ヶ月目の12月9日(金曜日)に汐凪の遺骨の一部が見つかった。
本当に、あっけなく見つかった。
あまりにもあっけなかったので、最初は信じられなかった。
ガレキの底の方の土の中から作業員のおばちゃんがマフラーを見つけ、土を払おうとパタパタと振ったら、頚椎の骨の一部がコロッとこぼれ落ちた。
それが最初だった。
そして同じ日に、歯のついた片方の顎の骨も見つかったと連絡を受けた。
翌日からの土、日で大熊に捜索に入る予定でいたので現地に行き、11日には反対側の顎の骨が見つかった。
 初めて現場で顎の骨を見た時は、ホッとした気持ちもあったし、一緒に行ってくれた仲間たちにも見て欲しいという気持ちが強くあった。
しかし、「ようやくここで見つかるまでに、これまで6年近くも経っていた」と考えると、その原因を作ったのは原発事故だと改めて思った。
そう思うと怒りよりもやるせない思い、申し訳ないという気持ちになった。
2011年3月12日にしっかり捜索していたら、父親と一緒に、もしかしたら生きて見つけてあげられたかもしれない、あの時に見殺しにしてしまったと言う思いが、どうしても消えない。
見つかった事によって、自分の中ではそんな風に逆に辛い思いが出てきた発見だった。
 今現在も捜索活動をしているが、環境省もどんどん作業は進めていて、捜索をした後は造成作業に進めていく。
捜索する場所が無くなっていくような状況だが、現在見つかっている汐凪の骨は、全体の2割ほどで、残りの8割の骨はどこかに埋まっている筈だ。
作業員の方は丁寧に捜索してくれているが、それでもやはり見落としはあるし、このまま一回捜索しただけで残りが見つからないまま砂利を撒かれアスファルトを敷かれてしまうことは耐え難い。
はじめに環境省にお願いした時にはそれでも仕方ないという思いだったが、今はそれがとても嫌で仕方がない。
自分たちだけでは進められない捜索で、どうしても重機の力、人手が必要なのだが、このままどんどん前に進められてしまうのがなかなか受け入れられない今の状況だ。

*ここまでは。木村さんのお話の前半です。
お話は続きますから「報告②」で記しますが、下記の本をご参照ください。
★『汐凪』木村紀夫(写真と文)/幻冬社ルネッサンス
★『汐凪を捜して 原発の町 大熊の3.11』尾崎孝史(写真と文)/かもがわ出版
★『3.11行方不明 その後を生きる家族たち』石村博子著/角川書店


2017年10月31日号「10月30日南相馬」

 南相馬へ行ってきました。
今回はゆっくりできずに日帰りでしたが、幾つか記憶に留めておきたいことがあって記します。
●バス路線の変化
 福島駅から南相馬へ行くにはバスを使いますが、運行会社が2社あります。
いつもは福島駅西口から出る東北アクセスを使いますが、時々は東口からの福島交通のバスで行きます。
どちらもコースはほぼ一緒で福島駅を出て国道114号線で川俣町に入り、そこから県道12号線で南相馬へ向かいます。
途中でのトイレ休憩停車は、東北アクセスが「シルクピア(川俣 道の駅)」、福島交通は自社の川俣営業所です。
 この日は福島交通のバスを使いました。
先月までは「福島〜南相馬・鹿島 高速バス」でしたが、「福島〜医大経由南相馬・鹿島 路線バス」に変わっていました。
福島駅東口を出ると国道4号線で福島医大前に停車し、それから県道に入って飯野町を経て川俣道の駅手前で国道114号線に合流して、そこからはこれまでと同じルートです。
路線バスになっても、福島駅東口から川俣町間の停留所では乗降できません。
でも川俣道の駅を過ぎて「飯坂学校前」停留所以降の停留所では乗降客がいれば、どこでも止まるのです。
だから飯舘村内各停留所で、乗降可能です。
どう言い表したらいいでしょうか?
うまく言えませんが飯舘村帰村は、こんなことからも「安心・安全宣言」されていくように思えました。
帰村者はほとんど高齢者ばかりで、自分で車を運転して動ける人ばかりではありません。
交通手段がなければそこで生活することができないのですから、こうして路線バスが運行されなければ、「帰りたくても帰れない」のは全く事実です。
だから帰村宣言したからには、路線バス開通は当然だとは思うのです。
思うのですが、何か釈然としないのです。
良かった!と素直に喜べない苦さが残ります。
でもこの日、「飯舘村までい館」や「ふれ愛館」を過ぎると、「草野本町」停留所から
乗車客があったのです。
私くらいの年配の女性でしたが、運転手さんに元気な声で「珍しいでしょ?ここから乗る人なんかあんまりいないでしょう」と話しかけていました。
「までい館」や「ふれ愛館」からの乗車なら地元の人ではなく観光客かもしれませんが。飯舘村の草野で乗ったのですから、きっと地元の人だと思うのです。
それを見れば、路線バスの開通は望まれていたことだとは思うのですが。
 南相馬から福島駅への帰路では、東北アクセスのバスを使いました。
こちらのルートは以前からと同じでしたが、途中のトイレ休憩のために停車する場所が、これまでとは変わっていました。
以前は「シルクピア(川俣道の駅)」だったのが、「いいたて村までい館」になりました。
私はやはりこれにも??と思いました。
 東北アクセスも福島交通も、乗車料金は、片道1,300円だったのが1,100円に値下がりして、たぶん行政から補助金(助成金?)が出てのことではないかと思うのです。
本当はまだ決して安全・安心とは言えない高線量地域に、どうにかして人を呼び寄せようとしているようにも感じられます。
 そこで暮らそうとする人たちには絶対に必要な交通手段であることは重々承知でありながら、素直に喜べない自分が悲しいです。
●寺内塚合仮設住宅
 談話室に居たのは菅野さんと天野さんの二人だけで、山田さんは居ませんでした。
自宅(小高の飯崎)の片付けに行っているとのことでした。
被災で傷んだ自宅の修復工事が済んで、それで片付けに行ったのではないのです。
大工さんが忙しくて、まだ山田さんの家の工事にかかれずにいるのです。
浄化槽が直っていないのですが、それもいつ工事が入るかわからない状況だと言います。
仮設住宅には来年3月まで居られますから、それまでには山田さんの自宅の改修工事も住むことでしょうが、これまでにもう既に6年経っています。
 山田さんも菅野さんも、押し車に頼らないと自分の足だけでは歩行が困難です。
初めて会った時の山田さんは、押し車が必要なのは外を長く歩く時だけで、例えば自室から談話室までは押し車に頼らないでも歩いてきていました。
でも、この6年間、狭い仮設住宅で過ごすうちに足腰は弱ってきました。
山田さん(84歳)より年長の菅野さん(86歳)は、なお弱ってきています。
二人とも押し車を使っても、平らな所ならいいですが、ちょっと凸凹があったり雨上がりで滑ったりぬかるんだりだと、もう動けません。
被災前には菅野さんは家事一切を自分でやっていましたし、山田さんは農家でしたから畑仕事もしていたし出かける時にはモーターバイクを運転していました。
 狭い仮設で体を動かすこともあまりないまま過ごしているうちに、どんどん機能が衰えてしまったのです。
これだって東電の原発事故による健康被害といえるのではないか、と私は思います。
 この日は山田さんには会えませんでしたが、菅野さんと天野さんの元気な顔を見てしばしのお喋りの後にお暇しました。                 

いちえ






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