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2019年7月31日号「7月12日 津島訴訟・第21回裁判㈪」

 7月12日午後は須藤カノさんの原告本人尋問に続いて、証人関礼子さんの反対尋問が行われました。
原告代理人からの主尋問は今年の3月に為されて、今回は被告代理人からの反対尋問でした。
◎証人:関礼子さん
 関礼子さんは立教大学社会学部の教授で、環境社会学・地域社会論の専門家で、原告が主張している原状回復請求の必要性と、「ふるさと喪失」に関わる社会学的評価を明らかにするために証人をされています。
●関さんの論旨の要点
1、「ふるさと喪失」が持つ被害の重大性
2、「ふるさと」は次の3つを構成要素とする
  ㈰、人と自然との関わり
  ㈪、人と人とのつながり
  ㈫、㈰の関わりと㈪のつながりの持続性・永続性
3、原発事故および放射能汚染が「ふるさと津島」という自然との関わり・人とのつながりという磁場を奪い、これにより「ふるさと」という磁場を持続的・永続的に将来につなげることが著しく困難になっていること及びそれが原告らのアイデンティティーを傷つけていること
4、原告らの主張する「ふるさとを返せ」とは、津島地区の文化・伝統・歴史を未来に繋ぐことを可能にせよという訴えであり、そのためには津島地区の除染(原状回復)が必要不可欠であること。

●関礼子さんの意見書から(3月の主尋問の際に提出されたものから抜粋)
 原告がこの裁判に託しているのは、土地に根ざして生きる権利、すなわち土地の文化や歴史を受け継ぎながら人生を全うするという、ささやかな根源的な幸福を奪われた不公正と不正義を正すには、もはや裁判しかないという切なる願いである。

 浪江町には山間集落である津島地区、平地農村と市街地、漁村集落がある。ヒラバ(平場)、マチバ(町場)と呼ばれた平野部や市街地と、ヤマ(山)とかサンチ(山地)と呼ばれてきた津島地区には、かつて、明らかな地域格差、経済格差があった。山間地の厳しい風土の中で生き抜くために育まれてきたのが“結い”の精神である。
津島地区では田植えなどの農作業の共同作業だけではなく、助け合うこと(相互扶助)、みんなで楽しみながら一つのことを成し遂げること(共同・協同・協働)も“結い”である。
同じ津島地区に住む人がともに(共同)、心と力を合わせて協力しながら(協同)、それぞれが得意分野を活かして何かを成し遂げる(協働)という“結い”の精神は、「私は私」という個人主義的な風潮があるヒラバやマチバとは対照的な気性である。

 津島に開拓に入った人々は食うや食わずの苦労をした。だが、津島地区の自然の恵みは開拓者が開拓地に選ぶだけの優位性があった。豊富な水と豊かな山、食糧になる動植物や燃料となる薪が豊富な土地が、自給自足の生活に適していたからである。
 開拓に入った当時は、開拓に入った家と、元から津島地区に住んでいた「旧農家」との間には微妙な距離があったが、もはや「あいつ開拓者だ、なんて言わなくなった」、「開拓者の家には嫁に行かせないという話は聞いたことがない」、そして津島地区の中に「格差はない」。隔たりを超えて「津島はひとつの家族」になったのである。
以上のように、各行政区の歴史や芸能、自治を継ぎながら、有機的、一体的に形成されてきたのが「ふるさと津島」である。
そこは旧農家にとっては、先祖代々住み続けてきたという歴史的蓄積のある場所であり、戦後開拓に入った開墾の家にとっては、辛苦して根を下ろしてきた場所である。
そして、両者が「ひとつの家族」となって作り上げてきた、かけがえのない地域である。

「ふるさと」そのものであった人びとが、原発事故で土地を追われて「ふるさとを元どおりに返せ」と訴えることになったのである。
 それでは、原告にとっての「ふるさと」とは何か。避難を余儀なくされてからは、涙なくして歌えなかったという唱歌「ふるさと」は、「ふるさと」の3つの構成要素を端的に示す。
第一は人と自然の関わり(「兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川」)である。
第二に、人と人とのつながり(「如何にいます父母、恙無しや友がき」)である。第三に、愛着のある「ふるさと」の自然に対する信頼、いつまでも変わることなく存在する自然の永続性への願い(「山は青き故郷、水は清き故郷」)である。
 ここに象徴されるように、「ふるさと」とは、関わりとつながりが生活や文化、歴史や伝統として編み込まれた空間であり、人びとが、関わりとつながりを編み足しながら生活や文化、歴史や伝統を継いでいく空間である。
そこは住民たちの権限が及ぶ「領分」「縄張り」(territory)として認知される空間でもある。

 山菜採りのような活動は「マイナー・サブシステンス」活動として特徴付けられる。
マイナー・サブシステンスは、主たる生業や副次的な生業ですらない生業活動を指す。経済的にはさほど重要ではないが、季節性があり、自然に分け入って自然と密着して、動植物を捕獲採取する活動である。
創意工夫して自然と駆け引きするマイナー・サブシステンスは「楽しみ」であり、「名人」という社会的名声を得ることのできる活動でもある。
そしてまた、マイナー・サブシステンス活動の空間は、人々が繰り返し働きかけることで、親和性のあるトポス(場)になる。
 マイナー・サブシステンス活動の中で大きな位置を占めていたのは、山菜やキノコの採取である。
山菜は、フキ、ワラビ、ミズナ、タラノメなどであり、食卓になくてはならないもので、フキやワラビは大きな樽に塩漬けにして一年中食べた。
山菜採りという自然に関わる行為は、自給自足に資するだけではなく、人と人をつなぐ“結い”のアイテム(道具)を獲得することでもあった。
山菜採りに行けない人に分けたり、祭りやイベント、診療所の医師や学校の先生との交流の場で振舞ったりした。
近隣縁者への分配分を含めて採取・保存加工するのが当たり前だったし、かつてはフキを採って売り、学校の資金造成を行ったこともあった。
つしま活性化センターが出来てからは、地域の活性化に資する商品としてセンターで販売する人もあった。

 自給自足的な生活は、1世帯、1地域の中で完結するのではない。
世帯と世帯、地域の内外で必要な資源が分配され、均等化することで成立する。
例えば野菜や菌類を栽培する時には、あらかじめ「分ける」ことを見越して自家消費用をはるかに上回る量をつくる。
屋敷に竹林がある家では、タケノコの季節になると「採りに来い」と声をかける。山菜・キノコ採りにも、「採る楽しみ、わける楽しみ」があった。
 さまざまな資源を「わけ合う」ことで、作物の栽培の有無や、作物の出来・不出来は平準化される。
自然に働きかけて得た資源が再分配されて、必要なものが必要なだけゆきわたる状況が生まれる。
「わけ合う」のは有形の物だけではなく、物の代わりに、個々が持つ情報や提供しうるサービスも、物に代わって分配された。
 例えば、出勤途中に通学バスに乗り遅れた子どもを見かけたら、車に乗せて学校まで送っていく、町の大きな病院に通院するお年寄りから、「出勤する時に(ついでに)乗せて行って欲しい」と電話がある。
あるいは医療関係者が地域の患者さんの様子を気にかけて、自宅まで様子を見に行く。行政関係に詳しい人が地域の人の相談に乗る。地域の祭りや行事の世話をする。
 そうすると、自分の家で米や野菜を作っていなくても、「あのとき世話になったから」と、米や野菜、山菜などがどっさりと届けられる。
高齢化によって、一方が分配・贈与する資源を持ち得なくなった場合でも、こうした関係は当たり前に継続されていく。
世代を超えて「あのときに(先代に)世話になったから」と、互酬関係が受け継がれる。
 このような関係は“結い”の一類系として認識されている。
有形、無形の資源が日常的に分配され、分配が連鎖することによって、人間関係が密に結びつき、社会関係資本が持続的なものになった。
「本当に辛くなったら周囲が助けてくれる」という信頼と安心感があり、実際に、津島地区の緊密な人間関係はいざという時のセイフティネットとして機能した。
 例えば使う分の血液を用意しなければ輸血してもらえなかった時代、大事故で大量の輸血が必要になったときに、津島地区の人たちがこぞって献血してくれ、命を助けてもらったという人がいる。
ハンディキャップを持つ子を、「地域の一員」「津島の子」として、ともに愛しみ、その成長をともに見守ってくれていたと語る人がいる。
 人間関係を密にする日常の営みは、ごく自然に社会関係資本を維持するように機能していた。
津島地域が地域活性化に取り組む際にも、それぞれの得意分野を活かして事業が展開された。「かぼちゃまんじゅう」を作る名人に教わって、「かぼちゃまんじゅう」の特産品化をはかり、ニホンミツバチの養蜂をしている人に、蜂蜜を商品に出してもらった。
教師や医師など、外部からやってくる重要な職種の人々を迎える際には、津島地区の一員として気持ちよく暮らしてほしいと、引越しの手伝いや歓送迎会はもちろん、日々の活動への協力に手間を惜しまなかった。
「津島はいいところだと思ってほしい」という純粋な気持ちからであるが、それは「津島は来て良いところだ」という評判につながる。そうした評判は、津島地区の人々にとって嬉しいことであるだけでなく、その後に赴任する人のモチベーションを上げることになった。

●反対尋問:国側代理人
Q:経歴についてお聞きします。専門は環境社会学というが、どのような学問か?
A:自然社会学にも環境社会学はあるが、1990年代に自然保護運動の文脈から社会問題化した環境社会学という分野で携わってきている。
社会学は実証的なもので、環境社会学は発生当初から「現場を見よう」「被害は現場にある」として、現場に出ることを大事にしている。
Q:本件の意見書の作成は現場での実証からか?
A:現場に直接入ることのみでなく、被害者に聞くことも大事だ。
原発事故は公害問題と捉えている。
Q:意見書は弁護団から依頼があってのことか?
A:そうだ。だが、意見書は原告らの実被害について述べている。
「ふるさと喪失」という言葉も、原告の言葉から出ている。
Q:津島地区の住民中、あなたが話を聞いたのは5パーセントに満たない人数ではないか?いささか少なすぎるのではないか?
A:調査方法は住民から直接聞く他に、新聞記事、原告団調書も全て時系列で調べ読んでいるが、言葉で語られていることの他に、語られないこともある。
それらの分析にブレはない。
Q:マイナー・サブシステンスは、津島独自ではなく、人間社会一般に見られるのではないか?
A:人間社会にあることだが、津島地区にも特徴的にある。
Q:帰還困難区域になった津島でなくても、都会でも人が住まずに朽ち果てていく家がある。それは胸が痛むことではないか?
津島の住民だけでなく、都会の人でも自分の持っているものが朽ちていけば胸が痛いのではないか?
A:それは、被害と加害を考えない理屈だ。津島の住民は原発事故の被害を受けて住めなくなっている。
Q:原告にはヒアリング以外、例えば食事を共にするなどで会ったことはあるか?
A:一緒に食事をするために会うことはないが、例えば裁判期日の昼食時に一緒にお弁当を食べたりはする。
●反対尋問・東電代理人
Q:「ふるさと」で暮らす価値は、人によって違うか?
A:原告らは自分たちを「ふるさとの人」とは思っていず、「地元の人」と思っていた。
Q:「ふるさと」に対する思いは、個々人で違うか?
A:思いの強度の違いは若干はあるだろうが、「ふるさと」への思いは同じだ。
損害賠償金の支払いに相違があることは承知しているが、その妥当性についてはペンディング。
一人一人の損害は個別に見ざるを得ない事情はあるが、「ふるさと剥奪」の被害は同じようにある。その場に住めなくなった人は「ふるさと剥奪」の被害に遭っている。
Q:津島地区を「ふるさと」と捉えた根拠を知りたい。
A:津島はもともと自然村6つが合わさって、人と自然との関わり、人と人とのつながりが育まれ、一つの津島になっていった。

★十分にメモしきれず、何か“しり切れとんぼ”のような報告ですが、津島訴訟第21回裁判報告を終えます。
次回期日は、9月19・20日の両日です。
 なお、9月19日は福島原発刑事訴訟の判決です。
勝俣、武黒、武藤の3被告に、責任を取らせる判決をと、強く望みます。


2019年7月29日号「7月12日 津島訴訟第21回裁判①」

 11日に続いて12日にも、原告本人尋問が行われました。
午前中に、石井絹枝さんと今野千代さん、そして午後には須藤カノさんと3人の原告がが証言しました。
午後は須藤さんの後で専門家証人尋問があり、関礼子さんが証言しました。

◎原告・石井絹枝さん
●主尋問に答えて
 昭和45年から浪江町の公務員として住民戸籍等の窓口で勤め、平成11年に産業振興課に配属を望んで、そちらで働いていました。
 18歳で公務員になったのは、津島のみんなのために働きたかったからです。
戸籍係のような職種のことを一般業務と呼んでいましたが、平成11年に移った先は事業課と呼んでいました。
一般業務から産業振興課に移りたかったのは、直接住民の役に立つ仕事をしたかったからです。
 津島は山が多いので、自然相手に少しでも自然の恵みを活かして、春は山菜、秋にはキノコを現金収入に繋げたいと思ってやってきました。
働き方の提案などもしてきました。
津島は宝の山で、自然環境が良く、水も澄んでいました。
春の山菜・秋のキノコなど地元の年寄りは良く知っていて、加工技術なども持っていました。
 地元の人はなかなか気づかないことでしたが、津島は標高350〜450mの高地なので昼夜の温度差が大きいので植物の色が鮮やかに出ますから、色の出るブルーベリー、りんごなどの果実やリンドウなどの花卉栽培を作物としてどうかと提案して、町に助成を交渉しました。
そしてブルーベリーを50本以上栽培する人を8部落対象に募集して、36世帯が作るようになりました。
 またシソ科のエゴマは種まきから収穫までが短期間で現金収入につながるので、推奨しました。
平成11年前には油を絞ることは考えていませんでしたが、みんなでエゴマを作って油を絞ろうと提案して、搾油機を予算300万円で購入して貰い、搾油するようになりました。
搾油するようになる前は、擂り潰して“じゅうねん餅“などにして食べていました。
エゴマを食べていると10年長生きするということから“じゅうねん”と呼ばれる健康食品で、それまでは各家庭で自由に消費していましたが、大規模に現金収入につながるようにしたのです。
 平成12年には、「信用組合津島」という法人を作り、組合活動として「ほのぼの市」を始めました。
活性化センターに機械を設置して、専任オペレーターを2人採用しました。
浪江町だけではなく近隣からも搾油を依頼され、エゴマ油生産化に県・町・農家が一体となって頑張り、大成功でした。
直売場の「ほのぼの市」では、エゴマ油を始めとして浪江町の物産の販売をしましたが、朝早くから開店し、みな自分の商品に自信を持って販売していました。
組合には73人が集まり、一人一口10,000円の出資金を当初の資金として始めました。
売り子は会員内で交代であたりました。
「ほのぼの市」は公務員活動ではなく私的な取り組みでしたが、「100円の商品を作ろう」を合言葉にしましたが、それでは人件費まで出すのは難しかったです。
出品者が自分で値段を決め、同じ商品なら値段は一律にしました。
エゴマ油、かぼちゃまんじゅう、餅、また餅にキムチを入れたキムチ餅など各自自慢の商品が並び、山菜やキノコ、松茸も並び、お客さんの中にはクーラーボックスを持って買い付けに来る業者もいたりで、春秋は大混乱でした。
山菜やキノコを出品した人の中には、50万円の収入になった人もいました。
売り上げの15パーセントは組合へ、85パーセントは出品者の口座へ送りました。
朝7時に開店し、夏場は17時まで冬場は16時まで開店していました。
業者や料理人が買い付けに来るのは、出品者のやりがいとなり、自慢の加工品を持ち寄り、横のつながりもできて、みなで「良いものを作ろう」と、それぞれ頑張りました。
 「ほのぼの市」の他にも東北物産展や東京のアンテナショップ、郡山のデパートにも出品していて、もっともっと発展していく筈でしたが、2011年の原発事故が起きて、無に帰してしまいました。
 夫は酪農をしていましたが、避難時に「おれは牛を守るから、お前は自分の命は自分で守れ」と言い、二本松へ避難しました。
35頭の牛は殺処分しました。
夫は「殺処分したことはお前に言いたくない」と語ろうとしませんでしたが、牛を失い酪農を再開できなかったことを夫の証言から22ページの紙芝居にして、その読み聞かせ活動をしています。
牛の目線で作った紙芝居で、牛になった気持ちで読んでいます。
 「ほのぼの市」は解散し、もう再開は出来ません。
 家族は4ヶ所にバラバラになり、夫は最後まで5頭の牛を守っていましたが、仮設住宅に入居してからうつ病になりました。
 夫と話し合って新たに土地を用意して、「石井農園」を始めました。
津島に帰れる日まで、福島で農園をやろうと思っています。
 津島に戻りたい!帰りたいです。
浪江町の公務員だった時からいつも、町民に恩返しをしたいと思ってやってきました。
浪江町の自然豊かな暮らしが断ち切られたことが、苦しくて悲しいです。
きちんと措置をしておけば、原発事故は防げたのではないかと思っています。
 裁判官の皆様には、浪江町に、津島に帰りたいのにそれができない悔しさを、どうか理解していただきたいです。
●東電代理人から反対尋問
Q:事故当時、赤宇木の自宅は敷地内に2棟の建物があり、1棟に石井さん夫婦が、別棟に両親と長男家族が住んでいましたね?
A:はい。
Q:2棟の建物の名義は夫のタカヒロさんと、あなたでしたね?
東電の賠償金は、このお二人に払われていましたね?
A:はい。
Q:平成25年3月に浪江町職員を退職されましたが、それ以降は何をしていましたか?
A:平成25年4月以降は、「かあちゃんの力プロジェクト」で弁当を作って仮設住宅に配っていましたが、浪江町からは3人が加わって1年9ヶ月続けました。
(*注:「かあちゃんの力プロジェクト」は、東日本大震災と原発事故で農地も加工所も失ったあぶくま地域の女性農業者たちが、“福興”に願いをかけたプロジェクト)
 平成25年6月に福島市に自宅を購入し夫と住んでいますが、家族みんなで住みたくてそこを購入しました。
購入費用は私の貯金と夫への賠償金からで、8人で暮らせるような家にしました。
 三浦さんと私とでエゴマ油を中心に加工品を作って、福島観光物産展やコラッセなどで販売しています。
私が有機農法で作付け、収穫をし、飯坂に加工所を作って、三浦さんが搾油所を作りエゴマ油を、私は加工品をやっています。
 石井農園として、平成27年から農地を4ヶ所買い求めました。
エゴマを中心に、ブルーベリー、桑、柿などを栽培しています。
Q:ご長男は原町区のエンジニアでしたね?
平成23年3月に原町区の仕事が再開されましたが、平成23年4月20日に退職されましたね。そして二本松に転居後、郡山に勤めていますね?(などと問うのですが、その眼差しのの冷たいこと!)
A:はい。
Q:これは東電からの賠償金を記したものですが、間違いないですね、ご確認ください。
A:はい、間違いないです。
●国代理人から反対尋問
Q:紙芝居活動はどのようにしているのですか?
A:4人で、依頼を受けて全国を回っています。
●原告代理人から
 津島にいた時の物産販売では、自分たちで作付けして加工したものを販売していたので、仲間との繋がりは広く強いものだった。

◎原告・今野千代さん
(*今野千代さんも沢山のことを話されたのですが、耳の悪い私にはよく聞き取れず、メモ書きできなかったのですが、聞き取れたことのみを記します。)
 今野さんは、看護師として津島診療所に勤務していました。
所長の関根医師は、津島診療所に赴任して20年以上になりますが、専門が外科医なので緊急の時には手術にも対応してくれました。
診療所隣の宿舎に寝泊まりして、時間外でも対応してくれました。
津島診療所と関根医師は地域の人たちにとって、なくてはならない大切なところでした。
津島の人たちは診療所を支えるために「診療所を守る会」を作って懇親会などを開き親睦を図っていましたが、その中心になっていたのが今野さんでした。
関根医師に移動の話が持ち上がった時には反対署名を集め、移動を防げました。
 診療所の待合室にはこたつも置き、地域の親睦の場でもありました。
半分以上が高齢者なので、今野さんは歩き方などもよく観察して体調を察していました。
 今野さんは2011年3月11日には、診療所に残って仕事をしていました。
事故前は日に35〜40人ほどの受診者でしたが、震災後は一気に、350人ほどに膨れ上がりました。
浪江町中心部から、避難者が殺到してきたのです。
普段の何倍もの患者が押し寄せて、みるみるうちに在庫の薬がなくなっていきました。
 15日、突然に役場職員から津島から避難するようにと告げられ、東和町に避難しました。
避難所になった東和町の体育館では、寒いところに避難者がゴロゴロ寝ていました。
その様子を見て今野さんは、「大変なことになった、このままでは死んでしまう」と、診療所に残してきた薬があることを思い出して関根医師と上司に相談しました。
その結果、浪江町は仮設の診療所を立ち上げました。
 2013年3月に、今野さんは定年を迎えて退職しました。
(*以上が、原告代理人尋問への今野さんの答えの要旨です。最後に原告代理人が「裁判官に伝えたいことがあったら、お話しください」と促すと、今野さんは応えました)
●今野千代さんが裁判官に伝えたこと
 裁判官の皆様が現地に来てくださることを聞いて(*注:昨年9月27、28の両日、現地調査が行われました)、とても嬉しく思いました。
もし皆様が具合が悪くなったら、私が診なければいけないと思い血圧計を持って行きました。
悪天候の中を来てくださって、本当にありがとうございました。
 何よりも現状を見てくださって、ありがとうございました。
●東電代理人から反対尋問に答えて、今野さんが話したこと
 私自身の体調が悪くて月に一度診療所に通うが、行くと関根先生や以前の患者さんに会うことがある。
兄、母が亡くなり、守る者が亡くなってから入眠剤がないと眠れなくなった。
津島の行事には年に5、6回参加している。
Q:これは東電からの賠償金支払いの明細です。
精神的損害その他の賠償金額ですが、間違いないですね?受け取っていますね?
Q:土地・建物の購入代金は、東電の賠償金からですか?
A:はい。

◎原告・須藤カノさん
 生まれは飯舘村だが、北海道の酪農の様子を見て酪農の仕事に惹かれて、20歳で津島の酪農家に嫁いだ。
結婚してみたら朝から晩まで牛の世話で、楽しいことは一つもなかった。
子どもは3人生まれたが夫は暴力をふるう人だったから、子どもらが4歳、6歳、小学1年の時に離婚して子どもを引取り育ててきたが、夫からの援助はなかった。
生活のために仕事を掛け持ちして、1日15時間くらい働き、毎日夜10時か11時頃まで働いた。
近所の人から、米、味噌、野菜など頂き、助けられてきた。
また、子どもらは「暗くなったから家に入りなさい」とか「これ(おにぎり)食べて、お母さんが帰るまで待ってなさい」などと近所の人が世話もしてくれた。
 長女のエリは結婚後も、津島で一緒に暮らしていた。
カノさんが勤めていた会社の社長の家族が倒れ、会社で米など食材を出すのでカノさんに給食を作ることが依頼されて引き受けるようになった。
 職場でクラッシャーのベルトコンベアーに挟まれて怪我をして、手が使えずにいた3ヶ月間、山崎さん(同僚?近所の人?)に助けられた。
 原発事故後3月25日までは、津島の自宅にいた。
なぜかというと、会社の社長には大変世話になって恩義を感じていたが、社長の母が倒れて避難できずにいるのを見てカノさんは世話をしたいと思ったし、家の中にいれば安全だと言われていたからだった。
だが、3月25日に警察と消防が来て「ここにいては危ないから避難するように」と言われて避難した。
孫は4歳、小1、小2と小さかったが、「ばあちゃんが出ないから孫が出ないんだ」と役場や警察、消防に言われて、「オレ(*方言で女性もオレと自称する)が一番悪かった」と思って孫たちを連れて避難した。
避難する前に社長が線量を測ったら、線量計はピーピー鳴ったが、匂いもしないし危険だなんて判らなかった。
 東和体育館へ行ったら、川俣公民館で線量を測って来いと言われて行ったらそこではなく川俣高校へ行けと言われ、川俣高校で測った。
避難所の体育館に着いたのは遅い時間で、夕食にパンとカップラーメンをもらったが、夜だったし封を開けるときにとガサガサ音がするので、みんなを起こしてしまうと思い、食べなかった。
体育館にダンボールと毛布を敷いて、毛布を被って寝た。
 4月5日に、避難場所は移って土湯温泉に避難した。
その後仮設住宅に入居し、息子たちは3DKに、オレは4畳半一間の仮設に入居した。
息子夫婦は避難のストレスから離婚し、孫の世話をオレがするようになったので、オレの部屋では狭くて大変だった。
仮設住宅では(請戸の人に)、「請戸の人は家が無くなったが、山の者は家があるだろう!」と言われた。
 孫の世話は大変だった。
学用品をどう用意すれば良いのかわからなかったし、仮設住宅での生活は辛かった。
孫から「体育着で雑巾がけされた」「ばい菌が付いてると言われた」と聞いて、オレは学校に行き先生に言ったら、校長と教頭から「いじめはない」と言われた。
また孫はレイと言う名前だが、クラスでは「キン」と呼ばれていると聞いたとき、オレはまさか「菌」だとは思わず「金」のことかと思い、「いい名前つけてもらって良かったね」と言ったら、孫は「ばあちゃんもオレのこといじめる」と泣き出し、話もしなくなり、ご飯も食べなくなり「死にたい、死にたい」と言うようになってしまった。
それで、ばい菌扱いされて、いじめられてることがわかった。
この子に死なれたら一番困るのはオレだから、「ばあちゃん悪かった。ごめんよ。金のことかと思ったんだよ。お前が大好きなかぼちゃ饅頭作ってやっからな。泣くな」と言って、かぼちゃ饅頭を作ってやったが、孫はトイレに篭って出てこなかった。
校長先生に相談すると、津島小学校に転校させるようにとアドバイスを受け、平成26年に津島小に転校させたら、もう「死にたい」と言わなくなった。
中学校に入った時には、「浪江から来たと言うのは良いが、津島からとは絶対言わないように」と言い聞かせた。
 孫は、避難前から祭りなど地域の伝統行事などに積極的に参加していて、三匹踊り(三匹獅子舞)が好きだった。
孫は「津島に帰りたい」と言っているし、三匹踊りを踊りたいと言っています。
●反対尋問・東電代理人
Q:昭和26年に飯舘で生まれて北海道で酪農をして、20歳で酪農家の津島の人と結婚し3人の子どもが生まれ、30歳で離婚しましたね?
A:はい。
Q:長男は浪江高校津島分校を卒業し、長女は津島分校卒業後東京に就職。次女は高卒後地元で就職した後、東京へ行ったのですね?
A:はい。
Q:長男は平成16年に結婚し、津島の町営住宅に住んでいましたね?
A:はい。町営住宅の3DKに7名で生活していましたが、狭くなったので家を建てようと計画していたところでした。
Q:避難するまで2週間津島にいて、それから二本松の体育館に避難し、4月6日に土湯温泉に避難したのですね?
A:はい、息子の妻の両親もここにいました。孫は4人でしたが、嫁の両親が孫を叩いたりするようになり、息子夫婦は離婚しました。孫はパパと一緒に行くと言って、息子が孫たちを引き取りました。
Q:その後、仮設住宅に入居してから須藤さんが引きこもるようになりましたね?
A:はい。1ヶ月くらい引きこもっていました。仮設には、津島の人もいました。でも仮設の人の中には、酔っ払ってドアをドンドン叩いたり「孫の世話もできないのか」と嫌がらせを言う人もいて、外に出るのが怖くて引き篭もっていたら、隣に住んでいた自治会長さんが「談話室に集まって嫌なことを話し合おう」と誘ってくれて、毎日談話室に行くようになりました。
Q:津島では家庭菜園をしていましたが、仮設住宅では?
A:畑を借りて、野菜を作っていました。
Q:今はどうですか?
A:自宅を購入した今も家庭菜園をして、家族で食べたり人にあげたりしています。
家は5DKで、駐車場は軽が10台入ります。
畑は駐車場くらいの広さがあります。
津島の人とは月に2、3回電話で連絡を取りあっています。
 孫2人は、二本松の津島の高校に通うようになりました。
Q:東電からこれだけの賠償を受けていますね?(と、言って書類を見せる)
A:はい。
●反対尋問・国側代理人
Q:仮設を出て福島市に自宅を購入しましたが、福島市を選んだ理由は?
A:世話をしてくれる人がいて、佐々木さんの家も近かったので。
Q:甲状腺検査はしましたか?
A:孫は、再検査の連絡を受けたので心配しています。
Q:近所とのトラブルは?
A:ないです。
Q:現在の住居は、あなたと息子さん、お孫さん4人で6人ですが、狭いと感じますか?
A:いいえ。

*12日は石井さんと今野さんの原告本人が午前中、須藤さんは午後でした。
そして午後は須藤さんの後で、証人(関礼子さん)尋問がありました。
関礼子さんの証人尋問の様子は、別稿で続けます。        

いちえ


2019年7月26日号「7月11日津島訴訟 第20回裁判」

 7月11日、福島地裁郡山支所で津島訴訟の第20回裁判があり、原告本人尋問が行われました。
 この日、証言台に立ったのは、今野幸四郎さんと武藤茂さんです。
まず原告代理人が原告本人に質問し、原告が答える形で進められますが、ここでは原告の答のみを記します。
次に被告側からの反対尋問については、被告代理人の質問とそれに対する原告の答えとを記します。
◎原告・今野幸四郎さん
●主尋問
*私が酪農を始めた
 私は82歳になりますが、今野家が津島で生活を始めてから私で5代目です。
山林と農業をしていましたが、昭和36年、私の代から酪農を始めました。
津島は高冷地で5年に一度は冷害があり、安定した生活のためには酪農しかないと思ったからです。
 始めの頃はタバコ栽培と林業もしていましたが、酪農は2頭の牛から始めました。
8ヶ月の子牛を北海道から買いましたが、2頭で5万円でした。
今野牧場として酪農一本に切り替えたのは、昭和46年からです。
そのきっかけは、タバコや農業だと毎月の収入が不確かなことと、昭和46年から減反政策が始まったからです。
乳は毎日の搾乳量はほぼ一定しているので、収入が安定しているので、農地も飼料作物に変えました。
 長男は高卒後に県の試験場に見習いに行き、北海道、カナダで研修をして昭和57年に戻ってきてから、今野牧場で一緒にやってきました。
*酪農家の暮らしと誇り
 双葉郡のホルスタイン共進会で、賞はかなりたくさん貰い、県知事賞も25枚貰いました。
春はホルスタイン賞、秋は県の共進会で牛の品評会がありました。
事故直前には70頭、飼育していました。
 毎朝6時には起床して、牛舎の清掃・消毒後に搾乳にかかり8時に搾乳を終えます。
搾乳は毎日、朝夕2回です。
牛舎は2棟と牧草地があり、水は山から引いているので、その水の管理があります。
 酪農家として特に辛いことは、牛の病気、難産です。
搾乳は365日、1日も休めず年中無休ですが、仕事として辛いと思ったことはなく、毎日励みになっていました。
体力的には厳しい仕事で、牛も人間も毎日忙しいです。
 牛は家族であり、社員で、働き手です。
ですから、牛を大切に愛情を持って育ててきました。
やりがいは毎日の乳量と、生まれた子牛が育っていくことです。
津島の牛乳の成分は優秀だということで、大阪からグリコが訪ねてきて、この牛乳でアイスクリームを作りたいというのです。
作ったアイスクリームは、TVコマーシャルに乗って全国デビューしました。
私も角川撮影所で、石原さとみと1日撮影にかかってコマーシャルに出ました。
そのコマーシャルは全国に流れて、「見たよ」と遠くの親戚や友人からも言われました。
グリコ津島の牛乳の成分の高さは、誇りでした。
 津島の酪農家はみな、震災当日から郡山工場がラインが閉鎖されたので出荷できなくなりました。
今は、お中元やお歳暮の付き合いは続いていますが、取引はなくなりました。
グリコのCMは2008年からでしたが、今は「最近はお前の顔を見ないな」と、遠くの親戚や友人に言われます。
*仲間との助け合いでやってきた
 牛の出産の時には仲間が駆けつけてくれたり、日常的に仲間との付き合いはありました。
共進会等の反省会や「牛魂碑の集い」など、日常的に付き合っていました。
年中無休の仕事ですが、冠婚葬祭や旅行などでは、互いに手伝いをやりくりしていました。
そしてその際にはお礼のお金のやり取りなどせず、「お互い様」の気持ちでやりくりしていました。
その後ヘルパー制度ができましたが、それ以前は互いに助け合っていたのです。
 また農家との付き合いは、耕畜連携で、農家からは寝ワラにする為にワラを頂き、こちらからは堆肥をあげていました。
この際にも、金銭のやり取りはありませんでした。
互いに不要物をあげあっての、有効活用でした。
 津島では地域での年中行事、1年に一度毎年11月10日の牛魂祭、地区内新年会、忘年会など、地域ぐるみで仲が良く、家族同士遠慮なく仲が良く、後継者育成にも力を入れてきました。
*人間が逃げるのが精一杯だった
 事故後、乳牛移動は5月いっぱいと言われ移動先が見つからず組合に探してもらって本宮の酪農家を借りて、息子と娘がメインでやっていますが、今野牧場の名前は消えました。
 津島の酪農仲間はほとんど廃業して、やっているのは私だけです。
津島全体で260頭の牛が犠牲になりました。(と、涙声で)
私の家の牛以外はみな、場所も見つからず、人間が逃げるのが精一杯でした。
私の場合は、珍しいケースです。
でも私も全ては連れて行けず、連れて行けたのは30頭のみで、40頭は連れて行けませんでした。
娘夫婦も津島で酪農をやっていましたが、娘夫婦の牛と合わせて60頭を本宮で子どもらがやっています。
 連れて行けなかった40頭は、殺処分でした。(と涙声)
親友の三瓶さんのトラックにつけようとした時に、なかなかトラックに乗らず、ようやく乗せましたが、牛には判っていたのです。
その時の牛の顔を今も覚えていて、今でも思い出せば涙が出ます。
*牛も故郷を奪われた
 本宮では最初は60頭で始めましたが、堆肥が満杯になって処分に困るからと言われて、25頭に減らしました。
本宮では耕地がないので、堆肥をあげられず、また本宮はコンバインで収穫するので稲ワラがもらえず、稲ワラは酪農組合から輸入品を購入しています。
 津島では全て自家生産でしたし、水も山からの引き水でした。
牛たちも存分に、水を飲めました。
本宮では水道水とボウリングの水なので、料金がかかるようになりました。
 今年の3月までは東電から補償されていた本宮の牧場の賃料は、4月からは補償打ち切りとなり自己負担になりました。
牛は寒さに強く暑さに弱いので、海抜450mの津島は牛にとっては良い環境でしたが、本宮は牛には生き辛いです。
食欲も落ち、乳も出にくくなりました。
津島では糞尿の匂いもなかったですが、本宮では周囲から「環境に気をつけて!」と言われ、隣近所に牛の声や匂いで気を使います。
これまで、地域社会に喜ばれる酪農をしたいと思ってやってきましたが、それは本宮では難しいです。
周囲の人との信頼関係など、中元・歳暮を贈ったりして気を使ってますが人間関係は難しい。
本宮では、助け合いや物々交換はできません。
地域の人と生活パターンが違うので、難しいです。
 息子のところも経営は、容易でありません。
孫が小学校5年生の時に「じいちゃん、おれも酪農やるわ」と言ってましたが、高校1年になった今は、酪農をしたいと思ってるかどうかわかりません。
経営は不安定で、飼料は全て購入していますし、牧場の賃料は非常に重くのしかかってます。
頭数も少なくなりました。
もし今も津島でやっていたとすれば、3代で仕事ができ、経営も楽だったろうし、牛にとってもはるかに良かったと思います。
牛も、原発事故で故郷を奪われたのです。
*牛魂碑
 ホルスタイン協会の役員だった時に県内各地の酪農家を回り、その時に、ある個人の家で牛魂碑を見たのです。
感銘を受けて津島でも地区として牛魂碑を作りたいと思い、昭和52年11月10日に建立しました。
114号線の県酪農協津島事務所の所ですが、後に津島の塩浸(シオビテ)の我が家にも建てました。
 以前は、毎年11月10日には役場や隣村からも人が来て盛大に牛魂祭をしていましたが、震災後はみんなチリジリバラバラになってできなくなりました。
津島では12世帯が酪農をしていました。
酪農を続けられない仲間の、無念を思います。
*朝に晩に我が家に向かって
 今は朝起きてすぐに、晩も寝る前の9時には必ず、祈る思いで我が家の方を見て過ごしています。
津島の風景、我が家の庭、毎日夢に見ます。
酪農を後世に残したい気持ちがあります。
避難後20数回、自宅に戻りましたが、ガードマンに柵を開けてもらい、また閉めてもらいます。
イノシシが檻に嵌ったのと同じようです。
イノシシが凄くて、道路の真ん中にいて逃げません。
国と東電に対して言いたいことは、1日も早く自由に我が家に入ることができたら良いと思っています。
*元の津島に帰りたい!
 82歳ですから、いつあの世に行くか判らないので、津島の畑をきれいにしておこうと思って、菜の花を蒔きました。
今年の春は一面の菜の花で、それは見事でした。
きれいな環境の津島に帰りたい!
今では田畑は柳が伸び放題で、同じ国民として情けないです。
一日も早く、元の津島に帰りたい!
これまで地域の安心、安全に尽くしてきました。
それが今は、帰れない故郷です。
●東電代理人から反対尋問(色々聞きましたが、全てを記録できていません)
Q:あなたは東電からの賠償金をもらいましたか?
A:貰ったが、あれほど大切に育てた庭木や盆栽などについては、一切賠償されなかった。
イチジク、ブルーベリー、柿なども植えて楽しんでいた。
Q:検査を受けたことはありますか?
A:受けたことはある。2年後に受けたが、問題ないと言われ、その後は行ってない。
Q:あなたと奥様に精神的損害としてあなたにお支払いしているものですが、財産的損害など支払いを受けているということで良いですか?
A:39人で24町歩の共有地が放牧場だったが、そこは放射線量が17あった。
2年目でも低くならず、荒れてしまった。
●国代理人から反対尋問
 代理人が官僚口調で話し始めると今野さんは大きな声ではっきりと、「標準語でなく福島の言葉で聞いてくれたら、そしたら答えられる」と言いました。
でも代理人は意に介せず、質問しました。
Q:本宮に家を建てられましたね?家を建てたりした時の資金は?」
 もちろん東電からお金を貰わなければできなかった。
毎晩外に出て、津島の方を見てから寝る。
帰れるものなら帰りたい。
もし明日ゲートが開いたら、真っ先に帰りたい。
オレは、故郷が恋しい。
 本宮から津島に帰るのに、川俣、葛尾、田村、山木屋を通って行く。
道が封鎖されているからで、これも原発事故のせいだなと自分に言い聞かせても納得できない。
天王山を通れば近道なのに、津島を通れないから1057mの天王山を、登って行けない。
 津島の土を踏まれない。
それは東電のせいだ。
こんな不平等は無くして欲しい、国は平等の扱いをして欲しい。
言いたいことは山ほどあるが、この辺で止めます。
◎原告・武藤茂さん
●主尋問
 南津島の佐藤畑に、妻と義母、娘とペットのミニチュアダックスフンドの「メル」と住んでいました。
私は犬を飼うのには反対でしたが、事故の3年前に娘が「孫だと思って可愛がってください」と言って連れてきました。
以来、孫のように可愛がって、避難先にも連れてきました。
 南津島は武藤姓が9軒あるのですが7軒が親戚で、みな屋号で呼ばれていました。
私は「佐藤畑」と呼ばれていました。
 生業は農業ですが、私は大工をしていました。
小高で生まれ、佐藤畑の長女リツコと昭和52年に結婚し、義父母と養子縁組をして南津島に住み、半農半大工で暮らしていました。
 リツコは電気部品店に勤め、私は小高の工務店でしたから、平成6年に妻の会社が閉鎖されるまで、朝の出勤時は私の車で妻を送りながら私は小高に通い、帰宅時も妻を迎えて一緒に帰っていました。
帰宅後に田の畔や道路脇、家の周囲の草刈りをし、農繁期には大工の仕事を休んで機械を操作して、田おこしや稲刈り脱穀をしていました。
農繁期には親類に来てもらって10人くらいで短時間で農作業をしたのですが、それらの人が泊まれるくらい、広い家でした。
 平成4年に老朽化していた自宅を建て直し、自分で自分の家を建てるという長年の夢を実現しました。
自宅の保有林から義父が材木を切り出して、それらを使って建てたました。
樹齢100年くらいの松や7、80年の杉、檜です。
柱には40cmほどの太い材を使い、すべて自宅の保有林から切り出した材木で建てたのです。
自分で設計し、基礎は知り合いの左官屋に頼み、大工仲間に手伝ってもらって建てたのです。
建坪78㎡の平屋建てで、薪を燃料にする風呂とトイレは母屋とは30mほど離れた別棟にしました。
 部屋は8部屋ですがどの部屋も広くして、圧迫感のない自分のイメージ通りの広々とした家でした。
特別の愛着があり、常に綺麗に心がけて、こまめに掃除をしていました。
平成4年に建てて、19年目で原発事故でした。
事故がなければ80年は手直しせずに持つ家でした。
 事故直後の3月に夫婦で自宅に戻った時に屋根瓦が落ちていたのを直したのですが、その時に怪我をしました。
立ち入り許可を取って津島の自宅に戻るたびに、毎回掃除をして家を見回り、窓を開けて風を通していました。
窓を開けて風を通さないと、家はダメになってしまうのです。
綺麗にしておきたいので、今も立ち入りのたびにそうしています。
いつ戻れるか判らないのですが、望みとして明日にでも戻りたい気持ちがあるからです。
 汚染の実感はないのですが、最初に戻った2011年9月13日には、玄関外が4,78マイクロシーベルト、玄関内が3,358、2階は6,9、茶の間は1mの空間で3,6、玄関外の地表は9,99まで測れる線量計が振り切れて測定不能でした。
恐怖を感じましたが、その後も現在まで自宅の線量測定は続けています。
 今年5月には玄関外が1,18、玄関内で0,56と、自宅内はずいぶん下がってきましたが、常に掃除をしてきたことが除染に繋がったのではないかと思っています。
ただ台所の流しは6,7あり、西側の窓辺は高いです。
毎回窓を開けて外の風を入れていますが、風とともに放射能も入ってくるからではないかと思います。
 老後は農業をしながら自給自足で暮らしたいと思っていましたが、それが叶わないことがとても残念です。
一刻も早く、除染をして欲しいです。
●被告側東電代理人反対尋問と答え
Q:津島の自宅は義父の名義ですね。
 その後、宝来町に本人名義で自宅を購入していますが、購入に際して自給自足生活を
 考えましたか?
A:考えませんでした。宝来町は自分で設計して、建築は業者に依頼しました。
Q:毎日どういうことをして過ごしていますか?
A:家族の用事をして過ごしています。
 津島に帰れれば農業をしたいが、今は仮住まいで、農業をしたい気持ちは起きない。
 少しだが庭があるので、庭いじりはしていて、きゅうり、トマト、花を育てている。
 野菜はほとんど近所にあげている。
  引っ越した翌年から、地域自治会の副会長で活動をして、その後も町内会の催し物、
 芋煮会、運動会などに参加している。
 野菜をあげる相手は、妻が地域との交流があるので、その人たちにあげている。
 話をしていないと寂しいので、日々交流はしている。
  避難者同士の集まりもあるが、2年前に浪江の人が近所に越してきたので、その人と
 は親しく付き合って、自宅に招いたりもしている。
  義母はやることがなくて、衰えが早くなった。
 デイサービスには週3回行っているが、地域との交流はない。
  津島に帰るたびに線量測定しているが、まだまだ高くて危険だと感じている。
Q:IAEAは年間20ミリシーベルトを基準にしていることを、ご存知ですか?
(*この質問には傍聴席から「え〜」と、それを言うか!というような呆れた声が上がったが、裁判長はこれに対して「傍聴席は発言を控えて」と制した)
A:知っている。
Q:甲状腺検査を受けたことはありますか?
A:避難してから、ホールボディカウンターを3回受けた。
 異常なしという結果だった。
Q:津島地区には、東電として色々な賠償をしていることはご存知ですか?
(*と言って、賠償額を記した書類を見せて確認を取る)
●被告国代理人反対尋問と答え
Q:いつ避難しましたか?
A:避難しなければいけない情報を、消防団につながりがある人から知らされて避難した。Q:度々立ち入り、帰宅していますね?
A:これまで70回以上立ち入り、被ばくを気にせずにいることはありません。
Q:高いことを気にしていますか?
A:はい。
Q:地域の交流についてお尋ねしますが、浪江・津島の人が訪ねてくることはありますか?
A:はい、あります。津島の人との交流は、年1回新年会などの時か、葬式の時です。
●原告代理人弁護士から
 話をしないと寂しすぎると武藤さんは言いましたが、佐藤畑では、毎日のように訪ねあってお喋りをしていたのです。

*第20回裁判は終わり、翌12日に第21回裁判が開かれました。
追って報告いたします。                       

いちえ


2019年7月23日号「7月9日福島地裁・裁判傍聴へ②」

◎市民会館での集会(①からの続き)
●署名集計報告
 原告団代表の今野寿美雄さんから、「子ども脱被ばく裁判支援」署名の集計報告がありました。
前回集計から今回までに、4,546筆。累計で73,959筆になりました。
今回も開廷前に、裁判所に届けられました。
●今回の裁判について
 弁護団長の井戸謙一弁護士から、今回の裁判ではどのような事が行われるのか説明されました。
 原告からは準備書面73を提出しました。
前回、被告国からは準備書面12、13が出されましたが、原告準備書面73は、それに対する反論です。
準備書面12は低線量被ばくについて、準備書面13は内部被曝について、いずれもリスクはないと主張しているのでそれに対しての反論ですが、中身については法廷で、弁護士が入れ替わり立ち替わり自分の得意とする分野で反論を主張します。
今までは一つの準備書面については、そのテーマが得意な弁護士が一人で説明していましたが、今回の準備書面は弁護団みんなの合作ですので、入れ替わり立ち替わり説明することになります。
 国からは14、15という準備書面が出ています。
14は、前回我々が出したプルトニウムについての反論です。
福島原発事故由来のプルトニウムは確かに検出されているが、とそれは認めているのですが、非常に微量なのでリスクはないという内容の書面です。
 15は、前回こちらから、放射線に対する子どもの感受性は高いのかどうかに対する国の考えについて求釈明を提出していたのですが、それに対する答えで、以下のように言ってます。
 放射線防護については、子どもの感受性は大人より高いという考え方に依拠して、防護対策をしている。
感受性が本当に高いのかどうか、低線量被ばくについての子どもの感受性が高いかどうかは、それを高いという科学的根拠はない。
根拠はないが、防護対策としては高いという前提を取っている。
 科学的根拠はないが対策は取っていると、非常に矛盾したことを言ってます。
 そして今回原告側からは、証人申請をしています。
今日は、証人について何人かの採否が決まるはずです。
申請した証人は、河野益近さん、郷地秀夫医師、西尾正道医師、崎山比早子さん、井戸川克隆さん、山下俊一氏、鈴木眞一氏の7名です。
 河野さんと郷地医師には放射線微粒子の健康リスクの問題について、西尾医師には内部被曝一般の問題について、崎山さんには低線量被曝について証言をいただこうと思っています。
井戸川克隆さんには事故直後の放射線防護対策の無為無策について、双葉町長として直接色々な経験をされているので、その経験をお話しいただく。
山下俊一氏は彼の発言内容自体が、この裁判の請求の根拠になっています。
鈴木眞一氏については、初期の無為無策の原因としていま甲状腺がんの被害が出てきているのではないか、これが過剰診断であり被ばくとの因果関係はないむしろ必要がない手術をしているという意見が出ているので、実際に執刀した鈴木眞一氏に必要がない手術だったのかどうかを証言してもらおうと思っています。
 原告側としては更に6人程度の原告本人の方に証言して頂く予定ですが、申請書はまだ出していません。
次回以降5回の期日で、それぞれ尋問が行われことになると思います。
 被告側からも申請があってもおかしくないのですが、現時点では被告側からは申請が届いていません。
県は、県からも山下俊一氏を証人申請すると、口頭で言っておりました。
国からは放射線微粒子の問題について健康リスクはないのだと準備書面を出していますから、それについて専門家の申請があるかと思っていましたが、現在のところ申請書は届いていません。
 そういうような状況で、今日それらの申請についての採否が決定されることになるかと思います。

◎福島地裁
●原告代理人意見陳述
*被告国側が提出した準備書面12に対する反論
①はじめに
②「LNTモデルの仮説が科学的に実証されていないこと」について
③「各種論文に基づいた原告らの主張が誤りであること」について
④「第4 福島県県民健康調査の結果に係る原告らの主張に理由がないこと」について
⑤「第5 子どもの感受性について原告らの主張に理由がないこと」について
*被告国側が提出した準備書面13に対する反論
①はじめに
②被告の「第2 内部被ばくの健康リスクの考え方及びセシウム含有不溶性微粒子摂取の健康リスクについて」に対して
③「請求原因⑴、⑶、⑷及び損害に係る内部被ばくに関する原告らの主張は、独自の見解であり、失当であること等」について
④「セシウム含有不溶性放射性微粒子」摂取の危険性を述べる原告らの主張は理由がなく、同主張を前提としても、原告らが本訴で主張する「年1mSv以下の被ばくであっても、無用な被ばくによる健康被害を心配しないで生活する利益」なるものが国賠法の救済が得られる具体的権利ないし法的利益であるとはいえないこと」について
*原告準備書面67に関する書証の追加と求釈明

 上記について、午前中の集会で井戸弁護士が説明されたように、原告代理人の光前弁護士、古川弁護士、崔弁護士、井戸弁護士らが代わる代わる意見を述べました。
●原告本人意見陳述 N・Kさん
 二本松市内の自宅で、夫、二人の子ども、夫の母の5人で生活しています。
上の子どもは既に成人していますが、下の子は現在9歳で福島原発事故当時は誕生日前の乳児でした。
夫はサラリーマンであり、私は主婦として家庭にいます。
 2011年3月11日の大地震で自宅建物は少しヒビが入りましたが、私たちはそのまま住み続けていました。
その後、福島第一原発時爆発が続きましたが、自宅は原発とは距離があったし、行政から何の指示もなかったので危機意識を持つこともなく、それまでと変わらぬ暮らしを続け、幼い二男を連れて買い物等に外出もしていました。
その後知人から被ばくの怖さを聞いたり、講演会に出かけたりする中で、被ばくによる健康リスクについて徐々に知識を持つようになったのです。
 幼い二男の健康が心配になり、条件が許せば避難したいと思いましたが、夫には仕事があるし母子だけの避難には踏み切れませんでした。
その代わり、数日間福島を離れるというプチ避難を何度もし、春・夏・冬には沖縄や北海道の市民団体を頼って、必ず二男を保養に連れ出していました。
 夫は当初、「国が大丈夫と言ってるのだから、大丈夫だろう」という考えでしたから、プチ避難や保養に関しては夫婦間で何度も揉めました。
その後、夫にも講演会に参加してもらったりする中で、夫も少しずつ理解するようになりました。
 二男は、甲状腺に小さな嚢胞の存在を指摘されたことがありました。
また、原発事故から2〜3年経過した頃から、絶えず鼻水を出すようになり病院で診察を受け「蓄膿症」と診断され、一時期投薬治療を受けましたが、湿疹が出たこともあって現在は投薬を止めています。
症状は改善されず、二男が蓄膿症になった原因はわかりませんが、被ばくも原因ではないかという思いを捨て去ることができません。
また、二男には外遊びをあまりさせなかったので、二男自身も外に出たがらないようになってしまい、その点でも不憫でなりません。
 今でも自宅付近では、0,2マイクロシーベルト程度の線量があり、安心できる数値ではありません。
地元の食材は使わない、洗濯物を外に干さない等の配慮は今でも続けていますが、近所の人や知人と、被ばく問題については話しづらい雰囲気になってしまいました。
 福島原発事故前、私は被ばく問題について、全く知識がありませんでした。
原発事故が怒った後も、当初の1ヶ月くらいはほとんど警戒心を持っておらず、何の防護対策もしていませんでした。
安定ヨウ素剤のことも知りませんでした。
私が自宅周辺の空間線量の数値を初めて知ったのは、2011年5月か6月になって、市の広報を見た時だったと思います。
しかし、マイクロシーベルトの数値を見ても、当時は、その意味がわからず危険か安全かの判断もできませんでした。
 私は、事故当初の約1ヶ月の間に、二男に無用な被ばくをさせてしまったのではないかと心配しています。
この頃は買い物等に二男を連れ出していました。
二男はまだ母乳を飲んでいたので母体が栄養を取らねばいけないと思い、出荷停止になっていた牛乳を貰って毎日のように飲んでいました。
当時の私は、牛乳が出荷停止になった意味さえ判っていなかったのです。
母乳に放射能が含まれていたのではないかとの、不安は尽きません。
将来、二男に被ばくによる健康被害が生じたら、悔やんでも悔やみきれません。
 私は今でも長期の休みには、二男を保養に行かせています。
子ども達にはまだまだ保養が必要だと思いますが、行政が保養について全く協力してくれないので、保養に関する情報が若いお母さんたちに拡がらないのが残念です。
 私は、行政が「安全、安心」というのではなく、事故直後から、線量とその数字が持つ意味を住民に正しく伝え、住民一人一人が被ばくを避けるための援助をすべきだったと思います。
そして、せめて自宅の除染が終わるまでの間、行政の責任で避難させて欲しかったと思います。
 私は、自分が裁判の原告になるなど、思ってもみませんでした。
できれば裁判などには、関わりたくありません。
しかし、自分の子どもだけでなく、子どもたち皆を大切に守っていく社会になってもらうためには、声を上げることができる親が声をあげないといけないと思いました。
裁判官の皆様には、子どもたちの健康を守るという大切な義務を怠った国や福島県の責任を、はっきりと認めていただきますようお願いいたします。

◎市民会館で
 閉廷後に、また市民会館でこの日の裁判についての記者会見と、今後についての意見交換会がありました。
●記者会見
*意見陳述をした原告本人のN・Kさんへの質疑応答
Q:白石 草さん(Our Planet−TV)
 事故直後1ヶ月ほどの間、情報も無くシーベルトの意味も知らなかった混乱の中で、行政の責任に対してどう考えているかということと、この裁判でどのような責任を取って欲しいと考えているかお聞かせください。
A:考えてもいなかったことが起きて、ニュースで爆発を見ても遠くのことと思っていました。
直後から避難していたら、被ばくを避けられたかと思っています。
線量がとても高かった時期に1週間でも2週間でも、被ばくから子どもを守れなかったことを、強く後悔しています。
 今後については、自分のこどもだけではなくすべての子どもたちに、保養が平等に与えられるような国になって欲しいので、それを実行して欲しいと強く思っています。
Q:藍原寛子さん(フリーランス・ジャーナリスト)
 多くの母親が、公の場で実名を出したり顔を出して話せないと言われていますが、Nさんは実名で証言され、今日は写真撮影にも応じて下さりありがとうございます。
 裁判でこういう証言をするのは、ご自身にとって高いハードルだったでしょうか。
すごく勇気がいることだったでしょうか。
また、そもそも裁判で原告になるということには、どういうきっかけがあったのでしょうか。
A:自分が原告になるとは、考えてもいないことでした。
事故がなければこんなことはなかっただろうと思いますが、それ以上に子どもを守るということで弁護士の先生方を始め、また、子どもを守るために一生懸命やって下さっている方々がいて、それを声にしないでどうするのかという思いが自分にもあって、やっぱり私もそれを伝えていくことで、これから先の子どもたちのためにもなるのかと考え、話をしようと思いました。
Q:ご自分の子どもだけではなく、すべての子どもたちのためにもということですね。A:はい、そうです。
Q:やっぱり勇気がいったことですか?
A:はい。
●弁護団団長の井戸弁護士から今日の裁判について
 開廷時刻が大変遅れましたが、それは事前協議で証人尋問について誰を採用してどの期日で聞くのか、議論が熱していたからです。
 原告側からは証人を河野益近氏、郷地秀夫医師、西尾正道医師、崎山比早子さん、井戸川克隆さん、山下俊一氏、鈴木眞一氏の7名を申請していましたが、被告国側は河野、郷地、崎山、西尾、井戸川の5名については必要ないと言いました。
しかし裁判所は、もう事前に決めていたようで原告側の意見を聞くまでもなく、河野、郷地の両氏については採用する、西尾、井戸川両氏は、まだ陳述書・意見書が出せていないので、それを見た上で判断するということで、とりあえず保留となりました。
 山下俊一氏、鈴木眞一氏の2名は採用すると。(会場から「ホゥ!」と声が上がる)
崎山さんは近々、福岡地裁で尋問が予定されており、また、京都地裁で詳細な尋問をしていてその調書は既にでています。
その後の世界の研究経過を証言してもらおうと思って申請しましたが、福岡地裁でそういうことを証言するでしょうから、それが出れば十分で、改めて福島でやる必要がないのではないかということで、まだ正式決定ではないのですが不採用になるかと思います。
井戸川さんと西尾さんは留保なので、採用させる方向で、今後押していきたいです。
 事前の進行協議ではいつ誰に聞くかで、揉めました。
主尋問と反対尋問を同じ日にするか、主尋問で原告側が聞いて、そのすぐ後で被告側の反対尋問にするのか、別の日にするのかということです。
主尋問をすれば調書ができますから、その調書を見て相手方はそれを検討して反対尋問をするとなれば、期日を別の日にしなければいけない。
国は反対尋問のために時間が欲しいから別の期日にして欲しいと主張し、これは裁判所も同じ意向で、裁判所側も専門家についてはきっちりと質問したいということで、別の期日でやる方向になりました。
 証人それぞれの都合もあって、次回の10月1日は午前中は郷地さんの主尋問、午後は河野さんの主尋問で、まだ少し時間がありますからその後原告1名の主尋問をします。
11月13日の午前中は、郷地さんの主尋問で、この日の午後と12月19日、1月13日は、誰をどういう順でやるかについてはまだ決まらず、9月5日の進行協議で決まります。
 山下俊一氏の尋問は来年3月4日に主尋問、反対尋問を同一期日でします。
山下氏は5回の期日のうち、3月4日しか都合がつかないとのことで、そうなりました。
 次回10月1日の郷地、河野両氏の専門家には、始めにパワポでプレゼンテーションをしてもらい、その後原告代理人から一問一答形式で主尋問に入ります。
反対尋問は、プレゼンテーションを基にすることが決まりました。
 国は鈴木眞一氏の採用を嫌がっているようですが、裁判所は鈴木氏の尋問をしたいと思っているようです。
●傍聴した原告らの声
*今野寿美雄さん(原告団団長)
 いよいよ山下俊一を引っ張り出せることが、とても嬉しいです。
鈴木眞一氏については不要な手術をしていない、やらなきゃいけない手術をしたと言っているので、きちんと証言を取りたいです。
河野益近氏は専門家としてセシウムボールのサンプルを採って、今までになかった新しい知見を法廷で話してもらうことは大きな意味を持つと思っています。
*横田麻美さん
 いま団長が言ったのと同じ思いですが、専門家が出てきて証言してくれることで、今までモヤモヤしていたものが前に進む気がします。
*会場から
 やっとこの時が来たという思いと、長くかかったなという思いとで、複雑な思いです。
意見陳述した原告のNさんと私も同じ思いで、裁判に関わるとは自分で思っていませんでした。
二人の息子の鼻血や、私自身シングルマザーなので、子どもだけを保養に出す辛さで胸がいっぱいで、本当にここが安全なら、区の人がここに住んで欲しいという思います。
子どもたちを無用な被ばくから守るには、国が保養をきちんとして欲しい思いを、新たに強く思いました。
 2014年8月29日に福島地裁に、子ども脱被ばく裁判を提訴した日に私の息子は当時小2でしたが、「ママ、僕も言いたいことがある」と言いました。
現在中1ですが、自律神経の病気になっています。
私には病気の原因は何か判りませんが、でも、あの時によぎりました。
もしかしたらこの子も、将来なんらかの病気になるかもしれないとよぎったことが、いま現実になっています。
 ですからこの裁判は、本当に負けるわけにはいかない思いで、今日も参加しました。

★この裁判は
 以前にもお伝えしましたが、再度繰り返します。
この裁判は「子どもたちに被ばくの心配のない環境で教育を受ける権利が保障されていることの確認」としての「子ども人権裁判」、「原発事故後、子どもたちに被ばくを避ける措置を怠り、無用な被ばくをさせた責任」「親子裁判」、これらの権利と責任について、国と県を訴えた二つの裁判を併せて「子ども脱被ばく裁判」として闘っているものです。
 長々と第20回期日の報告をいたしました。
原告団長の今野さんも言っていましたが、いよいよあの山下俊一を証言台に立たせます。
また他にも証人を呼びますから、裁判費用がこれから、まだまだかかります。
原告団は裁判費用100万円カンパを呼びかけています。
 どうぞ、皆様のご協力をお願いいたします。

いちえ


2019年7月19日号「7月9日裁判傍聴報告①」

 7月9日は、「子ども脱被ばく裁判」の第20回口頭弁論期日でした。
裁判は福島地裁で14:30〜ですが、それ以前に福島市民会館で集会が持たれました。
◎当日プログラム
11:00 開会挨拶・署名報告
11:10 報告⑴ ヨーロッパ巡回講演報告:横田麻美さん
11:50 報告⑵モニタリングポスト継続配置を求める活動報告:片岡輝美さん
12:30 昼食と休憩
13:15 地裁へ移動開始
13:45 地裁前集会
14:00 傍聴券配布
14:30 開廷・意見陳述
16:00 記者会見
16:15 本日の裁判と今後について意見交換
16:45 閉会の挨拶
●駅頭のビラ撒き
 脱被ばく実現ネットの仲間たちと東京駅発8:08の新幹線で、9:46福島駅着。
仲間たちと一緒に、東口の駅頭で裁判支援のビラ撒きをしました。
前回の裁判のときの集会で「私は初めて参加しましたが、駅前でこのビラを頂いて『あ、私はこれに行かなければ!』と思って参加させていただきました。孫が健康調査で甲状腺に嚢胞が見つかりました。……」と発言した女性がいました。
その言葉に励まされた思いを抱いたのでした。
この日も、その言葉を思い起こしながらビラ撒きをしましたが、やはり嬉しいことがありました。
 「おはようございます。どうぞ読んでください」と声をかけながらビラを渡すと「これから行きますよ。ご苦労様です」と答えて受け取ってくださった方が一人、また「ありがとうございます。市民会館に行く“ももりん(市内循環バス)”の乗り場はどこですか」と尋ねてくださった方も一人いらっしゃいました。
お二人にはその後で会場の市民会館でまたお会いし、会釈を交わしました。
お二人とも仙台からの参加者でした。

◎市民会館で
 「子ども脱被ばく裁判」代表の水戸喜世子さんの司会で、集会は進められました。
「横浜で園児が二人、白血病で亡くなったという記事が出ました。
フレコンバックが埋めっ放しになっている所が何十ヶ所もあると聞きました。
子どもをめぐる状況が、本当に日々厳しくなっている中での私たちのこの裁判は、放射能だけをテーマにして、子どもたちを本気で守ろうという私たちの裁判です。
実質審議が終わって、次からは尋問に入ります。
そのためには10人くらい証人を呼ぶために、お金と滞在費が必要です。
計算すると100万円くらいになりますが、私たちの財政ではとても出しきれないので大々的に100万円カンパとして募金集めをやろうと思っています。
どうぞ、お友達にも呼びかけてご協力をお願いします。
 早速、集会を進めます。
報告者の横田さんと片岡さんをご紹介します。
 横田さんの息子さんは、事故直後は中学2年生でした。
この年齢は多感で感受性が強い頃ですが、その息子さんが震災直後に苦労して保養に行ったりしながら2年経って、母親と別れて単身北海道へ避難して、落ち着かれたのだと思います。
その2年間の期間がフランスで本になって、その本はフランスで必読図書のようになっています。
 この春には横田さんがフランスに行って講演をしてきました。
その報告をしていただきます。
 引き続いてご紹介しますが、片岡さんです。
皆さんもご存知と思いますがモニタリングポストを福島から撤去するという話が出て、本当に私たちは驚きました。
撤去反対に最初に動き始めたのは会津だと思いますが、反対運動は福島全土に広がり、市民の力で撤去させず存続させることになりました。
その中心になって頑張ってきたお一人が片岡さんです。
片岡さんからは、モニタリングポスト撤去反対運動の経過をお聞きしたいと思います。

●横田麻美さんの報告
①ここまでの経緯
 このような機会を頂いて、ありがとうございます。
3月11日に絡んで、3月10日から約1ヶ月間フランスとイギリスを回ってきました。
講演の数は小学校から大学まで、また市民団体など含めて1日に三講演などハードな日もありましたが、25講演をしてきました。
 水戸さんから今お話にあったように、息子は2013年、中学校を卒業した後に単独避難しました。
それをフランス在住の杉田くるみさんに話したらとても興味を持って下さって、普通にキオスクなどで売られている「TOPO」という雑誌ですが、社会問題などがとても優しく解るように書かれていて学校などで指定図書のように描かれている漫画の本になりました。(フランスの雑誌の実物を、見せてくださいました)
 「TOPO」が今年の1月に発売され、漫画を通して次世代の子どもたちに原発事故のこと、福島のこと、また息子のように自分で判断して決断することの大切さを伝えるということで、お話してきました。
息子だけを避難させ自身は福島に残った私と、大阪に母子避難したお母さんである森松明希子さんとのクロス証言と言う形での講演行脚でした。
 震災のこと、原発事故が起きてからのこと、生活のこと、息子の単独避難のこと、この裁判のことなど、8年が過ぎての周りの暮らしの状況のことなどを話してきました。
次の世代の子どもたちには実際に息子の経緯を話し、自分で判断し決断する大切さを伝えたいと思いました。
②各地での講演と質問
 横田さんはスクリーンで講演先での写真を写しながら、各地での講演の様子を話してくれました。
自分が話したことばかりでなく、どんな質問があったかをも伝えてくれました。
「放射能は移るのか?」というごく初歩的なものや、「放射線量が低い場所のすぐ近くに高線量の高いホットスポットがあるのは何故か?」「なぜ避難するのにペットを連れていけないのか?」などなどで、これらの質問には横田さんと森松さんが分担して答えたそうです。
 フランスは原発を是として進めている国ですから、やはり「安心・安全」の刷り込みはあるようで、中には「日本は地震があるから事故が起きたが、フランスは地震がないから大丈夫」という意見もあったそうです。
またリヨンに行く途中で、ビュジェ原発から19Kmの村で話した時には、「ビュジェで事故が起きたら500万人近い人を避難させないといけないが、どう思うか?」という難しい質問もあったと言います。
 リヨンへは電車で移動したそうですが、車窓から見えたビュジェ原発の写真を映しながら話してくれました。
真青な空、緑の畑、勢い良く白煙を吹き上げる原発、胸が痛い風景でした。
③ブルーノさんの話
 クリセットという街の市民測定所を訪ね、ブルーノさんから話を聞きました。
ブルーノさんは2011年5月下旬に福島に入り、取材・測定をしてきたことを話してくれました。
「事故後2ヶ月の福島で、子ども達が普通に通学している様子を見て非常に悲しい思いがし、また、とても残念だった。
飯舘では100万単位のベクレルが観測された。
 事故から2週間後の3月28日には、フランスでも福島原発事故由来の放射性物質が観測された。
このクリケット測定所の屋根の上の測定器で、ヨード131が観測された。
フランスではあの事故後にも食品検査をしていたが、その際に出荷停止にはならなかったが、牛よりも羊の方が高い濃度が検出された。
牛はこの季節は前年の枯れ草を飼料にしているが、羊は放牧して外の草を食べていたので、その点からも福島原発由来の放射性物資がわずか10日くらいでフランスにも飛来していたと考えられる。
 日本の見識の甘さを、非常に残念に思う。
子ども達に健康被害が出てくるだろうということにとても心が痛む。(と、何度も繰り返したそうです)」
④立場の違いを感じたこと
 一緒に行った森松さんとは面識があり、これまでにも何度か話を交わしたこともありましたが、避難した人と現地に留まった自分との意識の違いに気がつきました。
これについては互いに「違うな」ということを、これまでも気にしてはいたのですが、これまでの経緯を互いに話さずに過ぎていて、今回ずっと一緒に旅をする中で話ができました。
 そして最初の講演をした夜に、論争になりました。
それは言葉の使い方についてですが、事故後「汚染水を飲まされた」と、彼女は言いますが、水道水が汚染されたことは知っていたそうなので、無理やり飲まされてのではなく知っていて飲んだのではないかと思い、その言葉にひっかかりました。
また、帰還施策について「強制送還」という言葉を使っていたことにも私は疑問を持ちました。
不本意ながら帰還する人もいますが、その場合にも「強制送還」という言葉で良いのかについて私は、なんとも言い表せない思いを抱き、何か納得できませんでした。
決して森松さんを非難するつもりではありませんが、今も現地に住み続けている者の立場からは、「ハッ?」という感じがするのです。

 原発事故がらみの講演は、活動していたり興味ある人を対象にすることが多いのですが、今回は学校訪問など興味の有る無しに関わらず、多くの人に知ってもらえたのは画期的なことだと思いました。
 原発のある国フランスに行ったので、フランスの人たちの思いも聞ければよかったですが、その時間はなく伝えるばかりだったのが残念でした。
日本でも、被ばく回避のために母子避難など家族離散のことなど、衝撃の大きいそのような話が語られることが多いと思いますが、福島に留まって生活をしている者として話をし、知ってもらえたことはよかったと思いました。
福島に住んでいる人の方が多いので、福島居住の多くの母親達の声を、放射能や被ばくに対して気にしながら暮らしているこのような人たちの声を届けることも大事だと思いました。
同時に、福島と同じような事故が他所で起きたら、どうすれば良いかが伝えられたらよかったと思いました。
顔を合わせて話をすることで、他人事を自分事として考えられる時間を持てたらと思います。
 今回、最後に講演をした図書館で、公演後に図書館の人が言った言葉が強く心に残りました。
それは、「原発事故を予防するには、原発を止めること!」という言葉でした。

●片岡輝美さんの報告
 リアルタイム線量測定システムを私たちはモニタリングポストと呼んでいますが、これは、原発事故、これを私は核事故と呼んでいますが、事故の後に文科省が、子ども達の環境数値を確認する為に設置したのが最初の目的でした。
その後、原子力規制委員会ができて、事業主はそちらに移りました。
 県で起きていることの特徴の一つが、核事故被害の「見えない化」「見せない化」が、ありとあらゆるところで進んでいて、モニタリングポスト撤去もその一つです。
2018年3月20日に原子力規制委員会が、リアルタイム線量測定システムの配置見直しという方針を出しました。
実はその前から少しずつ撤去は始まっていました。
会津若松でもたまたま1台在ったのを、住民が撤去しないで欲しいと止めた経過がありました。
幼稚園・保育園が閉園された場合や、閉校された学校の前にあるものなど、いろんな理由で撤去は進んでいましたが、3月20日の後に大量撤去の方針が判りました。
 最初に会津で1台が撤去されようとした時にそれを止めましたが、その時には「強制避難区域が解除されてそこに人々が戻っていくには、より安全を確認する必要があるからそこに移設する」といういかにも住民の心をくすぐるような説明がされました。
3月20日の方針発表の時にも、移設という理由でした。
2400台を撤去してほぼ浜通りに移設するなら、浜通りのありとあらゆる所がモニタリングポストだらけになるので、これはおかしいぞと思って規制委員会に情報開示を求めたら、そのような案はなく予算も付いていず、ただその方針があるというだけの話だと判りました。
規制委員会の発表が3月20日で、2020年までに3600台撤去するという理由は、除染が済んで既に放射線数値が低くなっているということでした。
 けれども住民説明会の交渉で、本当の理由が判ってきました。
復興庁が2020年末で終わるので、それに合わせて予算も終わるからというのです。
要するに、予算の終わりがモニタリングポスト撤去で、1次年間6億円の予算が無くなるからという理由でした。
 「モニタリングポスの継続配置を求める市民の会」を3月末に立ち上げて、私が共同代表の一人です。
浜通り、中通り、会津地方から1人ずつ代表を出して3人の代表で、住民の中から撤去はおかしいと意識を持って声をあげる人が集まっています。
女性たちで、実質活動は10人くらいがメンバーになっています。
 「誰でもいつでも日々の数値を目視できる唯一の情報が、モニタリングポストにあるのだ」ということを話し、つまり私たちには「知る権利」があるということです。
モニタリングポストの数値に関して問題はありましたが、子どもの安全を確保するためには、せめてそこにモニタリングポストが存在していることが大切だと考えました。
また、撤去か継続かの判断は、私たちにあるということです。
当事者抜きで話をするな、ということです。
無用な被ばくを強いられながら県内に住み続けている人間にとって、それを継続するか撤去するかの決定権は、私たちにあるということを訴えています。
 原子力規制庁との最初の交渉は4月16日で、国との交渉だけでなく、各自治体の住民たち特に母親たちが自分たちの首長の所へ訴えに行きました。
赤ちゃんを連れたり、子連れで申し入れに行き、このように住民の動きが大きくなったので、メディアも継続配置を求める市民の声ということで動くようになりました。
「可視化されることが安心に繋がった」「福島には在って当然」という意見が出され、メディアでは県民世論調査が始まりました。
昨年7月2日の「福島民報」では、撤去反対が45、9%との記事を載せ、その12日後の民報はまた一面で取り上げました。
そこには県内59市町村中、25市町村が撤去に反対とあり、同じ紙面で市町村だけではなく反対している議会もあり、11の市町村議会が意見書を出したとありました。
このように住民の声が上がる中で、住民の声が後押しした形で規制庁も動かざるを得なくなり、8月24日には2019年度も同額の維持費を要求を出しました。
その後NHKの取材がまとめたところでは、撤去に賛成は2つの村だけとなり、更に冬になった時には県の市議会議長会でも継続の声を上げました。
12月7日の第3回規制庁交渉では、皆さんから寄せられた35,000筆の署名も併せて届けました。
 2018年の6月から11月までの間に住民説明会は18回(いわき市と福島市では複数回)行われた中で、ほとんどが撤去反対の住民の声でした。
その結果、規制庁は住民説明会の目的を達成できませんでした。
規制庁のそもそもの目的は撤去を納得してもらうことでしたが、途中からその目的を住民の声を聞くという方向に変更せざるを得なくなりました。
第3回の交渉時に、「当初の目的を達成できましたか」と聞くと「できませんでした」と答えたので、「どのように変更したのですか」と尋ねたら、「住民の声を聞くというように変更しました」と認めたのです。
 2019年2月28日の朝日新聞では、撤去に反対が56%の数字が上がっていました。
この紙面では、浜通り56%、中通り58%、会津51%とあり、県民が一様にこの問題を意識していることが判ります。
 住民説明会は、原発から一番遠い只見町から始まりました。
遠いところから攻めてくるな、と私たちは思いました。
規制庁は、そこなら撤去しても良いという声が上がると思ったのでしょう。
ところが只見での住民説明会では、「私たちは柏崎刈羽原発から半径60〜80km圏内に居て、そこで何かあった時には自分たちがどういう行動をとるべきかはモニタリングポストにかかっている」という声が上がったのです。
 私はそれを聞いて、本当に申し訳なく思いました。
それまでは自分の感覚中心に考えていましたが、そうではなくてモニタリングポストは県民全体に必要であることを改めて気づかされ、また、それなら全国各地に原発があるのだから、モニタリングポストは全国に必要なものだと、改めて知りました。
 昨年7月20日の第2回交渉はクローズドで行われ、私たちは5名、あちらは3名でした。
私たちは、「次に何かあった時にはモニタリングポストを見て自分たちで判断して行動を決めたい。その為にモニタリングポストは必要なのだ」と、改めて伝えました。
そして「不測の事態が起きるかもしれないということは、あり得ますよね?」と問うと、「あり得ます。原発はまだ落ち着いていない。廃炉作業もまだ途中だから」と、答えが返ったのです。
だからモニタリングポストは必要なのだと繰り返し伝えると、それに対しての答えは「次の緊急時には勝手に避難しないでください」というのです。
その答えに呆れて「なぜか?」と問うと、「いま福島県とは前回のことを教訓として正しい情報が出せるように情報網を構築している最中です。だから勝手にモニタリングポストを見に行かれると、その時点で無用な被ばくをすることになるので屋内退避をしていただきたい」と言うのです。
 それを聞いた時にはショックで返す言葉もなかったのですが、後からジワジワと怒りが湧いてきました。
原発事故が起きた時には、安定ヨウ素剤を飲んで一刻も早く避難しなければならないことは判っている筈なのに、それしか予防措置がないことは判っている筈なのに、住民たちにこんなことを言うのか!と信じられなかったです。
 7月27日の住民説明会では、思い切り爆発して住民から声が上がりましたが、それを聞いて担当官の一人は泣き出してしまいました。
規制庁側が泣いてしまったのですが、でもやはり向こうの言ってることが変なので私は思わず「泣くな!」と言ったのですが、すると「はい」と答えました。(会場から笑)
泣くのはずるいです。
 東海第二原発の再稼動を発表した時点で、「原発事故が起きても住民を安全に避難させることは到底無理」、つまり「できないことはしなくても良い」というように掏り替えが始まっていると思いました。
 その後規制委員長の更田氏は、「原発事故後1週間、100ミリシーベルト以下であれば避難は不要」と言いました。
いくつも重ねて、避難は必要ないということを言い始めたのです。
つまり、避難は不可能だから避難は不要と掏り替えるのです。
国民に避難をさせないし、国民を被ばくから守らないのです。
福島原発・核事故を経験していながら、彼らは何も学んでいないことが判りました。
 今年5月29日の第10回規制委員会で、モニタリングポストは当面存続すると発表しました。
最悪な結果を予想していたので、これを聞いた時は気が抜けて実感が沸きませんでしたが、翌日の福島民報、河北新報には、「市民の声が国を動かした」と、大きく報道されました。
何が国を動かしたかというと、普通の母親たちが立ち上がった、市長の顔も知らないお母さんたちが市長に会いに行き申し入れをするという、このことが規制委員会・規制庁にいくつもの声として届いていったことが事実です。
 6月12日には復興大臣が2020年以降も放射線の監視は必要だと言いました。
メディアには「(維持費に)6億円もかかっているなら、要らないんじゃないか」という声も上がっていたし、ある母親は「前は気にしていたけど、最近は気にしていなかった。でも、やっぱり必要だと思う」という声が挙がっていました。
 けれども一番賢かったのは、子どもたちです。
「みんなで考えたほうが良いと思う」と言いました。
 モニタリングポストは一応、当面の存続は決まりましたが住民たちにそれをフィードバックしていた時に、中学1年生の男の子が訪ねてきて言いました。
「僕はなんでモニタリングポストが無くなるのだろうと思っていました。僕は毎日見ていたんです。でも皆さんが頑張ってくれたので、撤去されないで済んだのですね。ありがとうございました」と言って、ぺこりと頭を下げたのです。
それを聞いて私は、涙が出ました。
当事者である子どもたちが危険を感じているのに、それをなかなか声に出せないでいる。
でも、こういうことをきっかけにして、私たちが意思疎通をしたり情報交換ができるようにしたいと思いました。
中学生の母親が、こう言いました。
「モニタリングポストは大人の知る権利を保障するだけでなく、子どもに知る権利も保障している。自分たちで確認することが、どれほど大切なことかと思った」
 その後も私たちは規制庁との交渉を予定していて、これは当面の存続とは関係なく、選挙前の6月17日には確実に押していこうと思っていました。
ところが存続となって大きく出だしが変わったのに、交渉にあたってみるとやっぱり相手との違いがいくつも挙がってきました。
 「モニタリングポストの配属の適正化」という言葉が出てきました。
それに対して「適正化ということは台数を減らすということではなく、住民の要望に応えた所に配属をし直すということですね」と問うと、竹山課長は「はい、その通りです」と答えたので、私たちはてっきり足りない場所に移設するのだと思ったら高山課長は、「いや、そんなことは答えていません。適正化というのはあくまでも企業主である規制委員会が、この範囲でだぶ(だぶってと言いかけて慌てて言葉を呑んで)、これだけのモニタリングポストが不要だと思ったら、自分たちは撤去できると考えています」と言いました。
“だぶって“と言いかけたのを見て、だぶついていたら撤去できると考えていることが判りました。
このことから、やっぱり住民の思いとは食い違っていることが判りました。
存続が決まった時に「私たちの声は届くんですね」と、何人ものお母さんたちが感激して、そのお母さんたちはその時の成功体験から“国に物申す”ことが始まったのはとても貴重な体験でしたが、やっぱり住民の思いと国側の考えとの違いはあります。
その他にも課長は、「みなさんは福島に住むことを選んでいるのですから」と言い、本当にいつも、私たちの心を逆なでするような言葉が出ています。
 更田委員長の発言に「心の問題」という言葉がありました。
「私たちの心に問題があるという意味か」と問うと、「そうではない」と取り繕いましたが、この問題がなぜ始まったかといえば、当事者である私たちを抜きにして規制庁が勝手に撤去しようとしたことから始まったのです。
つまりこれは、私たちの権利が犯されているということと、国が責任をとっていないことが問題なのです。
この件に関して、あの産経新聞でさえ、私たちに称賛の記事を書いてくれました。
「撤去方針を撤回せざるを得なかった規制委員会の誤りは、住民の心を想像できなかったこと」と。
 選挙が近いので私たちはいま、候補者たちに「あなたはモニタリングポストは、いつまで必要だと考えますか」「議員になったら、モニタリングポストの解消を変えるために尽力しますか」という質問を、答えは「ハイ」か「イイエ」しかありませんが、そんなアンケートをとっています。
 私たちは、科学者の言うことを信用しない市民というレッテルを貼られてきました。
それは安心安全キャンペーンによったのですが、それに裏打ちされていたのはパターナリズムだと思います。
パターナリズムというのは、強い立場の者が弱い立場の者の利益のためだと言って、本人の意思に関わらず支援することを言います。
福島県で起きているあらゆることが、パターナリズムだと思います。
 私たちは原発・核事故の被害の可視化をしていくこと、権利の回復を求めていくことが大切だと思います。
 命に真正面から向き合って、命を選び取ることがモニタリングポストを存続させて欲しいという運動の一つであるし、この「子ども脱被ばく裁判」だと思います。

★長文をお読みくださって、ありがとうございました。
 この後、井戸弁護士からこの日の裁判の進行についての説明がありましたが、その報告は裁判傍聴報告と合わせて次に続けます。

いちえ


2019年7月6日号「大鹿村訪問記・他」

◎大鹿村へ行ってきました
●そもそもは
 6月29、30日と、長野県下伊那郡大鹿村へ行ってきました。
リニア新幹線建設に反対する現地の方達が立ち上げた、「大鹿村の10年先を変える会」が続けている学習会に参加してきたのです。
この会と私との繋がりは、2017年12月からのことです。
友人の誰かから送られてきたのか、それともSNSで発信された情報で見たのだったか、大鹿村へ至る中川の県道の土砂が崩落して通行が不能になり、早急に復旧工事を求める賛同者を募っているという情報を見て、私も賛同したことからでした。
 崩落現場は年内には復旧したようでしたが、それから間もなく「大鹿村の10年先を変える会」の宗像充さんからメールが送られてきました。
「リニア説明会等のオープンな取材を求める共同声明」の、賛同人になって欲しいとの依頼でした。
もちろん、賛同人になりました。
南アルプスの入り口に位置する大鹿村へは行ったことはなかったのですが、以前からいつか訪ねたいと思っていた所です。
そんなことからご縁が繋がって、会が主催する学習会で「チベットから見たリニアと自治」のタイトルで話をして欲しいと請われたのです。
 リニア新幹線の建設計画を知った時から私は建設には反対でしたが、当該する現場を実際に見てみたい、また現地の方たちの言葉を聞きたいと願っていましたし、以前から行ってみたかった大鹿村でしたから嬉しく出かけたのでした。
●29日
 新宿バスタから飯田行きの高速バスに乗車して、松川で降りました。
停車場で、宗像さんが出迎えてくれました。
互いに「初めまして」の挨拶を交わしてから、宗像さんの車で大鹿村へ向かいました。あいにくの雨の日でしたし、新宿を出たのが2時過ぎでしたから村へ向かう道中はもう暮れゆく時刻で、残念ながら景色を堪能すること能わずでした。
 その時まで私は宗像さんのことを何も存じ上げていなかったのですが、車中での会話で色々知ることができました。
私のFB繋がりの友人Kさんの山岳部の後輩であることや、長野に住んでいる友人Kさん一家が東京に住んでいた頃に宗像さん家族も近くに住んでいて、同年齢の子どもがいて同じ保育園に通う保護者同士の友人であったこと、宗像さんは大鹿村の在の方ではなく出身は大分であること、お連れ合いがこの村の旧家の出身だったこともあり、リニア新幹線建設を問題視して夫婦で大鹿村に移住したことなどです。
そんなことから私は宗像さんに、「信念の人」という印象を持ちました。
●30日
 翌30日の午前中は村内見学、13:00〜15:00が学習会でした。
村内見学の集合場所に行くと、目の前に見たことのある建物がありました。
大きく「ディア イーター」の看板が掲げられていて、これは映画「大鹿村騒動記」で見たことがあったのでした。
 集合場所に集まったのは5人、車2台に分乗して宗像さんの案内で村内を回りました。
トンネルを掘って出た残土の置き場、トンネル建設予定地などなどを見て回りました。
「仮置き場」として既に大量の土砂が山積みされている場所、残土置き場として予定されている場所や、それを地権者が拒んでいる場所、ボーリングしている場所、作業員宿舎などなど見て回りました。
 樹木もなく山肌が露出した斜面には幾層も砂防ダムが築かれていますが、その斜面の下が残土置き場に予定されているなど、正気の沙汰とは思えません。
 また川の流れが湾曲している所を残土置き場に考えたようですが、住民の反対にあっています。
もしそこに残土を積んだら、川水が増水したら上流からの水の勢いで残土が流出して下流に甚大な被害を及ぼすでしょう。
 そもそも大規模な活断層がある地域ですから、トンネルを掘るなんて正気の沙汰ではないと思うのです。
 あいにくの雨降りで、しかも雨脚が繁く十分に見学はできませんでしたし、飲み込みの悪い私は一度聞いただけでは十分に理解できないこともあって、また今度天気の良い時に訪ねて案内していただこうと思いました。
 2017年の県道の土砂崩落はリニアの本体工事現場での事故ではなく、リニア新幹線工事のトンネル堀削で出た残土を運び出すための道路拡張工事の際の崩落事故だったそうです。
リニア本体工事ももちろん大きな問題を孕んでいますが、この工事のための道路拡張工事もまた、問題だらけです。
 道は文化だと思うのです。
人が歩いた街道を、2車線、4車線道路にすることが、必ずしも進歩や発展だとは思えません。
もう一度見学に来て、なおしっかりとこの問題を考えていきたいと思いました。
●学習会
 チベットのことを話せば、三日三晩話し続けてもまだまだ話し足りない私です。
けれども「チベットから見たリニアと自治」のお題をいただいて、さて、どのように話せば良いのだろうと悩みました。
それに気がかりなのは、午前中の村内見学の時から一緒だった人の中に、中国吉林省からの留学生がいたことです。
彼は修士論文のテーマをリニアにしているそうで、この会のメンバーとは既に顔馴染みらしく、だから案じることはないのでしょう。
とはいえ私としては、やはり「中国からの留学生がいるのでは、言葉を選ばねば」という用心の思いが沸くのでした。
 学習会の会場には10数名の方が集まっていました。
みなさんの関心は「チベット」ではなく「チベットにおける住民の自治」ということだと思いましたから、いつものチベット話とは違う切り口で話すことにしました。
●「チベットから見たリニアと自治」
 地図上の中国の形を見ると、鶏のような形に見えます。
1949年中華人民共和国が建国して後、新生中国は「チベット解放」を宣言して圧倒的武力を持ってチベットに侵攻し、1951年には「17条協定」が結ばれてチベットは中国に呑み込まれていきました。
地図には西蔵自治区、青海省、甘粛省、四川省、雲南省のように境界線が書かれて省分けされていますが、西蔵自治区以外の4省には例えば「玉樹チベット族自治州」「甘孜チベット族自治州」「天祝チベット族自治県」などのように「自治」が冠された地域があります。
これらの地域は、元来チベット人たちが暮らしていた地域なのです。
つまり西蔵自治区のみでなく、青海省、四川省、甘粛省、雲南省の、省によっては大部分あるいは一部地域を含めた広範な地域がチベット人の認識するチベットなのです。
それは中国の国土のほぼ4分の1を占める広さです。
 そこは天然資源も豊かで、アジアの大河の源流域であり、鶏の形をした中国の、卵を産み落とす臀部の辺りがチベットなのです。
中国語ではチベットを西蔵と表記しますが、まさに国土の西方の蔵なのです。

 というようなことから話し始めて、初めて私が行った1987年から以降の、特に西部大開発が始められてからの2000年以降の変化について話しました。
鉄道敷設工事で工事資材を搬出するために新たな道路が続々と建設されて、草原の自然がズタズタにされ環境が破壊されていったこと、漢人の大量流入によって文化が急激に変化していったことなどなどを、具体的な例をあげて話しました。
 幾つかの質問に答えた後で、最後に私は話しました。
 経済的発展が著しい中国からは、チベットへの旅行者が激増しているし、日本への旅行者もとても増えています。
また留学生として他国で学ぶ人も増えていて、日本にも大勢の留学生がいます。
どうか外に出た人たちは、中国で学んだことだけが真実と思わずに、他国が伝えるチベットの歴史をしっかりと学んで欲しいし、そうして真実を知る事があるでしょう。
実際に天安門事件の後で外国に逃れたリーダー学生の中には、『私の西域、君の東トルキスタン』を著した王力雄さんのように、亡命先でチベットやウイグルの歴史を知った人たちもいるのです。
 村内見学から一緒だった吉林省からの留学生に、この言葉を届けたくて言ったのですが、2008年の北京オリンピックに向けて長野市での聖火リレーの日、私が体験したことも具体的に話しました。

 あの日、長野市内は五星紅旗で真っ赤に埋め尽くされていました。
在日チベット人と私たち支援者の抗議のデモは、五星紅旗を掲げた中国人留学生や中国人たちと、対峙していました。
チベット国旗を掲げたチベット人と支援者たちは、圧倒的多数の五星紅旗を掲げた中国人たちに囲まれて「嘘つき!嘘つき!」の罵声を浴びながら歩きました。
 私はチベット国旗ではなく、片面に「FREE TIBET」もう片面には「FREE CHINA」の文字をアップリケした手作りの旗を掲げて歩きました。
私に向かって「嘘つき!」と言った中国人学生に、なぜ嘘つきだと思うのか問いました。
すると彼は、アメリカも日本もヨーロッパの国々も、中国が少数民族を弾圧しているなどと誤った情報を流しているのに、その嘘の情報に私が毒されているというのです。
私は、黒竜江省、吉林省、内蒙古自治区、遼寧省など中国東北地方(旧満州)を広範囲に訪ねたこと、またチベットには繁く通っていることを伝えました。
そして逆に彼に出身地を尋ねると、北京市の郊外の農村で生まれたと言いました。
さらに私は、中国国内でどんなところに行ったことがあるかを尋ねると、大学が北京市内だったから、北京市のことはよく知っていると答えました。
私は、中国東北地方の各省の農村で見てきた農民の暮らし、チベットで体験してきたことなどを、彼に話しました。
彼は最初の頃は私の言葉に反発していたのですが、話し続けるうちに反発の言葉はなくなり黙って耳を傾けるようになりました。
 そんな彼に私は、日本にいる間に、中国では習うことのなかった中国の歴史を学んで欲しいことと、留学を終えて中国に帰ったら国内各地の特に貧しい農村地帯を自分の目でしっかりと見て欲しいと伝えて、抗議デモ最終地点の若里公園の手前で、五星紅旗の仲間たちの列に戻るように促し別れました。
握手して、互いに「再見」と言い合って別れたのでした。

 「チベットから見たリニアと自治」で私は、そんなことを結びにしました。
その後チベットの現状に関してのいくつかの質問にお答えし、学習会は宗像さんのお連れ合いの前島久美さんによる報告「佐倉義民伝現地レポート」に移りました。
 江戸時代、礼服の「色肩衣」の着用を巡って大鹿村の村役人層と百姓衆の間で起きた「裃事件」という訴訟事件があったそうです。
訴訟は長期化して、幕府の裁定を仰ぐまで発展したといいます。
 同じく江戸期の頃のこと、凶作にもかかわらず年貢の割増を申し渡した藩主に対し、将軍に直訴して死罪、お家取り潰しになった下総の国佐倉藩の義民、佐倉宗五郎の話は、歌舞伎や講談を通じて広く知られていますが、大鹿村内にも裃事件をきっかけに、宗五郎を祀った「佐倉様」が勧請され、毎年お祭りが行われているそうです。
 前島さんの報告は、佐倉宗五郎の所縁の地と縁者を訪ねた報告でした。
これもとても興味ふかく、私は大鹿村のことをもっと深く知りたいと思ったことでした。
●他人事にせず私の事と考えたい
 29日に宿泊した宿のお隣の家の庭には、「リニア絶対反対 リニアを考え登山者の会、大鹿村の10年先を変える会」と書かれた大きな立て看板がありました。
宗像さんは、「リニアに反対して、僕たちに協力してくれているお爺さんの家です」と教えてくれましたが、村内でリニアに賛成を表明している人も少数ですがいて、それは
利権が絡んでのことのようです。
けれどもハッキリ反対の声をあげている人もまた多数派ではなく、ハッキリ意思表示をしていないけれど、心の中では反対の人が大部分のようです。
 またリニアの問題は、少し離れた地域の人たちには見えにくく、他人事のように考えられているようです。
県内でもまた同じ南信地域であっても、リニアの問題点について話題にされることは少ないらしいです。
 私は数年前に阿智村の満蒙開拓平和記念館を訪ねたときに、帰りに松川の果樹農園に寄り農協の青年部の方達のお話を聞く機会がありました。
この辺りは、満蒙開拓団だった彼らの祖父母や父母が、“満州”から帰還後に入植し、山野を切り拓いて現在のような果樹の村にしていったと聞きました。
今は見事な果樹園が広がる地域ですが、彼らの親たちは筵を壁にしたような掘建て小屋に暮らし、草の根や山の芋を食べながら山野を伐採・抜根し、開墾していった文字通り開拓地だったそうです。
そうした歴史を踏まえているので、平和運動に熱心に取り組んでいるとも聞きました。ところが最後に、「リニアが開通すれば名古屋までもっと短時間で行けるので、収穫した果樹を新鮮なうちに流通できるようになる」と、リニアに期待する言葉を聞いて、私は唖然としたのです。
そして、反戦思想の持ち主ならリニアに反対だろうという勝手な思い込みを抱いていた自分自身を、苦く思ったのでした。
 およそどんなことでもそうですが、作りたい側はバラ色の話だけを振りまき、それによって起こりうる弊害については語りません。
私たちはどんな未来を次世代に残したいのか、しっかりと考え、「ならぬものはならぬ」という声をはっきりと上げていかなければならないと思います。
 JR東海はリニア新幹線を遮二無二進めようとしていますが、大鹿村での工事関係者の中には、工事を進めるのは無理だと考えている人もいるようです。
工事関係者は村民と無益な争いは避けたく、工事を円滑に進めるにはむしろ仲良くしていたいというのが本音でしょうか。
驚いたことに大鹿村にはガールズバーが1軒あり、工事関係者はちょくちょくそこへ通っているようです。

9784866230313

◎『たぁくらたぁ』最新号
 大鹿村から帰宅したら、『たぁくらたぁ』48号が届いていました。
この雑誌の事は以前にも何度かお伝えしましたからご存知の方も多いと思いますが、「〔信州発〕産直泥付きマガジン」を自称している雑誌です。
名前だけですが、私も編集委員の一員です。
A5版76ページの小雑誌ではありますが、読み応えある記事満載の雑誌です。
特集は3本組んであります
❶「原発事故を『払拭』する広告代理店・電通」
❷地方自治から変える、新人議員が変える
❸オン・ザ・ロード
 その他の記事には「伊那谷発 風 第11回」として、「リニア中央新幹線 知られざる大規模工事はここにも」があります。
飯田の工事現場の話ですが、私はちょうど大鹿村を訪ねて帰ったばかりだったので記事の現場が目に見えるようでした。
 私は「聞き書き南相馬⑤」として、かぼちゃ作り名人の羽田ヨシさんの事を書いています。
 特集でも電通の事を載せていますが、本誌編集部では「電通の情報開示資料を保存するプロジェクト」を進めています。
資料は膨大で、写しの交付代がかさみます。皆様のご協力をお願いいたします。
なお次号でも「原発事故を『払拭』する広告代理店・電通 part2」を特集します。
●「たぁくらたぁ」定期購読(1期4回〜)のおすすめ
 一期(4回分)講読料は2,800円(送料込み)
お近くの書店、または下記へご連絡ください。
オフィスエム 長野市上千歳町1137−2
Tel.026-219-2470  Fax.026-219-2472  e-mail.order@o-emu.net
WEB版たぁくらたぁ:http://o-emu.net/tarkuratar/

◎これは必見
 映画『新聞記者』を観てきました。
すでにご覧になった方も多いかと思いますが、まだご覧になっていない方、見ようかどうしようか迷っている方、これは必見です!
 21日は参議院議員選挙投票日です。
ご家族、親戚、友人、お知り合いの人たちに、ぜひ、「投票に行こう!」と呼びかけてください。
「たかが1票」が集まれば、大きな力になります。
投票に行きましょうね!

一枝


2019年6月17日号「6月14日裁判傍聴報告」

◎「安保法制違憲訴訟・女の会 国家賠償請求事件」傍聴
 6月14日(金)は上記裁判の第8回口頭弁論期日でした。
14時からの傍聴抽選に行きましたが、この日は抽選なく希望者全員が入廷できました。
入れるのは嬉しいことながら、空席が出ることが残念でした。
 裁判長から提出書類についての確認が何件かあった後で、原告のY・F子さんの意見陳述がありました。
●原告意見陳述

 1949年生まれで戦争を体験していないが、小さい時から戦争の話はよく聞いていた。
憲法9条により平和が保たれているが戦争ができる社会になれば、暴力や殺害が平然と行われ、大量に殺した人が英雄になるという歴史を、様々な形で学んだ。
10代からベトナム反戦運動や70年安保闘争に参加してきた。
京都の大学を出て家族を持ち、働きながら子供を育てる中で人権と平和をジビウンの手でつかむための叡智や力を身につけてきたと思う。
 1981年に大阪ガス関連会社のガス配管工事会社の(株)京ガスに入社した。
正社員とはいえ年収150万円の低賃金だった。
入社当時こどもは1歳と4歳だったが、‘83年にシングルマザーになり、3歳と6歳のこどもを育てながら働いた。
‘84年2月、入社3年目で不当な指名解雇を受けた(女性と嘱託職員を先に解雇)。
この時から、「男社会」が総掛かりで襲いかかる力に抗う生活が始まった。
悔しくて悲しくて、夜も眠れない日が続いたが、屈したら私の人間性の全てを奪われてしまう、だから諦めないと、何度も自分を立て直して生きてきた。
 そして、最初の指名解雇を撤回させてから23年、2007年に会社倒産により全員解雇になるまで、京ガス社員として働き続けた。

 会社が、女性を差別的賃金においたり、真っ先に首を切るのは男性社員の生活を守るためだった。
仕事では人一倍貢献しているのに、異議を唱えると。労働組合・社員総掛かりで私を排除するため、あらゆる形態の暴力と差別を加えてきた。
「女は黙ってろ!」と思考も行動も凍りつかせてしまう衝撃的暴言から始まり、言葉にできない嫌がらせや暴力を加えられた。
解雇撤回のビラまきをしていた最中の、突風が吹く2月のある日、通勤に使っていた赤いファミリアに卵が投げつけられてオレンジ色になっていたことが心に突き刺さり、今でも赤い車を見ると正常ではいられない。
何十個物卵が突風でこびりついたため、一生懸命にフロントガラスだけ拭き取って帰宅し、徒歩でこどもを保育園に迎えに行った。
 指名解雇を撤回させると、会社から2年にわたって仕事を干され、その後、強制配転させられた。
私が組合の委員長になる‘92年まで、毎日、車の車輪の周りに釘を撒かれ、磁石で釘を拾う日々が続いた。
バイクで行けば、タイヤの脇に釘が刺さっていたこともあった。
 今は「集団リンチ」と言えるが、当時は口にしたら壊れてしまいそうで自分の中に飲み込み、誰にも話すことができなかった。
男女賃金産別是正を求めて、1987年に結成した「おんな労働組合(関西)」で団交を申し入れると、何度も密室に閉じ込められ、数人の男に取り囲まれて「あんたの存在が迷惑なんじゃ」「職員組合をやめてしまえ!」と怒鳴られ、脱退を強要された。
さらに「Yの処遇について」と私の処遇についてのテーマで緊急組合大会が開催され、組合員全員の前で脱退を迫られた。

 企業の門の前で、憲法は立ちすくむ。
自分の権利を守り、職場の差別を改善しようとすると、異質な物を排除する集団主義と、自分の意見を言う女性に対する差別的排除に向けた力が結集し、その場にはいられなくなるような嫌悪の烙印が押されてしまう。
 私が経験したことは、戦争だったと思う。
モノを考えないことによって痛みを感じないようにし、痛みを感じないから異質なモノをリンチで排除できる。
戦争に突入していった軍国主義がリアルな姿で、私の前に立ちはだかったのだと思った。
違っていたのは、集団主義や女性を従属させるような家父長制による暴力と差別を認めないという憲法が私にはあったことだ。
 集団リンチに耐えて自分を貫いた人は、他にも少なからずいる。
労働現場における差別と暴力から解放されることが正義であり、それを実現できるという可能性が、自分を貫く誇りを支えた。
 戦争は人間を序列化して支配し、道具にしていく。
私がずっと求めてきた男女平等賃金は、そのような差別と暴力の温床への挑戦だった。
国際基準の職務評価を実践し、ペイ・エクイティ西多賀って賠償金を支払わせることに長い年月をかけたのも、差別をなくすことができるという希望を持ち続けたからだった。この活動は今でも、ペイエクイエティ・コンサルティング・オフィスを通じて継続している。

 解釈改憲をした閣議決定と安保法制の国会審議・暴力的強行採決は、あらゆる意味で、私が経験した暴力を再体験させるものだった。
それを見せ付けられる毎日が苦痛で、不安と緊張を強いられた。
憲法を支えに差別と暴力に抗い、少しでも時代を切り開いてきた誇りが瓦解させられるような喪失感に襲われた。
 私たちの社会は、このような暴力が「国権の最高機関」で許されることを、目の当たりにさせられた。
しかも暴力の象徴としての武力行使を、正当化してしまったのだ。
暴力の本質は、暴力を向ける相手を無力化し、行動や精神の自由を制約することにある。
暴力の形を問わず、それが社会的な力関係を背景とする時には、暴力の矛先になった人間を、そうしてもかまわない相手であるという暗黙の了解を成立させてしまう。
被害者はこれに抵抗しようにも、また異議を唱えようにも、身動きすることができなくなってしまう。
私が経験した集団リンチは、そうした構造を痛感させるものだった。
戦争はその連鎖による究極の形だがこの法制によって正当化された「軍事化」は、戦争になる前にすでに、私たちをそうした暴力の連鎖に投げ込んでいることについて、訴えたい。

●次回期日
 原告代理人の中野麻美弁護士から証人尋問を求める意見陳述があり、裁判官3人は協議のために中座しました。
13日に群馬県前橋地裁で開かれた安保法制違憲訴訟では証人尋問があり、元内閣法制局長官の宮崎礼壹氏が「集団的自衛権の行使は、憲法が容認する自衛の措置を超えるため違憲であるというのが、政府や国会の一貫した解釈だ」と証言しています。
この女の会の訴訟でも、ぜひ証人尋問をと願っての原告側からの意見陳述でした。
 中座から戻った裁判官は、証人と原告で何人の尋問を考えているのかと中野弁護士に尋ね、それによって尋問時間の割り振り方を説明しました。
7月にこの103号法廷ではなくもう少し小さな部屋で、その件に関しての法廷が開かれることになりました。
そしてその後の期日として、10月18日と言い渡されて閉廷しました。
 証人尋問は行われるようです。

◎『Voice 平和をつなぐ女たちの証言』出版記念集会
 安保法制違憲訴訟•女の会で編著した件名の本が出版されました。
目次
第1章:戦争とわたし
第2章:軍隊による暴力
第3章:女性に対する暴力を許さない
第4章:働きつづけていま
第5章:教育の軍事化
第6章:家父長制に抗って
第7章:アジアの中で生きる
第8章:わたしと平和憲法
の、8章からなる女たちの安保法制違憲訴訟原告121名の違憲陳述・証言と中野麻美弁護団長のこの訴訟について、証人の清末愛砂さん(室蘭工業大学大学院工学研究科准教授)の証人陳述書が載っています。
 原告たちの証言に、その苦悩とご苦労に共鳴し共感し、多くを教えられました。
ご注文はメールまたはファックスでお申し込みください。
e-mail:anpo4iken@gmail.com fax:03-3944-9647
1冊1500円+スマートレター180円です。

いちえ

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2019年6月8日号「報告とお知らせ」

​◎写真展終了
 写真展「ツァンパで朝食を」、無事終了しました。
連日多くの方においでいただき、嬉しいことでした。
お運びくださった皆様、ありがとうございました。
 会場には写真の他に、現地で入手した手織り布に入れたツァンパ、ラサから送ってもらったチーズやニュマ(蕪をミルクで煮て干した行動食、保存食)、牧童が家畜を追う時に使う投石具、手織りの袋多数、曼荼羅模様のブリキのポット、農作業のヤクの頭飾り、バター茶を作るドンモ、バンデン(女性のエプロン)の布地、フェルトの長靴などの実物も展示しました。
ギャラリートークでは、煎った青裸麦(これを粉に挽いたものがツァンパ)やチーズ、ニュマをご試食頂きました。
会場には低くチベッタンポップスを流していましたから、目で耳で、トークにご参加くださった方には舌でも、チベットを感じていただけたかと思います。
 チベットは政治問題や宗教で語られることが多いのですが、この写真展ではチベットの人たちの暮らしを知っていただきたかったのです。

 写真展は終わりましたが、なぜか6月はチベットに関する講演などが続きます。
◎関野吉晴さんと対談
 ​●​6月11日(火) 19:00〜21:00 武蔵野美術大学三鷹教室
 関野さんが続けてこられている「地球永住計画」講演会で、関野さんと対談します。​
「写真で見る極限の世界 チベットに吹く風」と題しての対談です。
 火星移住計画はもはやSFの世界の話ではなくなってきたようですが、しかし一方ではこの地球が命を育むのにいかに奇跡的な星なのかを再認識することでもあります。
だから、火星移住計画よりも「地球永住計画」
この奇跡の星に私たちが生き続けるためには、どうしたらいいのか。
自然や宇宙とのつながりを、みじかな環境の中に再認識するところから始めようというプロジェクトが「地球永住計画」です。
 SNSで発信されていますから「地球永住計画」または「関野吉晴」で検索してください。

◎チベリン1周年記念講演
 在日チベット人たちが、自分の子どもたちにチベット語やチベットの文化を伝えていこうと立ち上げた「チベリン」が1周年を迎えます。
チベリンは、子どもたちにチベットと文化を教えるばかりでなく、私たちにチベットの文化を伝えてくれる場でもあります。
●6月22日(土) 13:30〜 新宿・常圓寺 ​
「子育て、そしてこれからのチベット」と題して話します。
今という時代に、大人はどんな風に子どもたちに向き合えば良いのでしょう。
これからのチベットを考えることはまた、これからの私たちを考えることでもあると思うのです。
ご一緒に、考えてみたいと思います。

◎大鹿村で
 「大鹿の十年先を考える会」主催の学習会で「チベットから見たリニアと自治」と題して話します。
●6月30日(日) 13:00〜15:00 大鹿村・上蔵地区の集会所 参加費:1000円
 私はリニア建設には、ずっと反対の立場を取ってきました。
そんなことから大鹿村の方達が起こした「リニア説明会等のオープンな取材を求める共同声明」の呼びかけ人にもなっています。
そのご縁で呼ばれて、お話しします。
 大鹿村は以前から行ってみたい場所でしたから、お声掛けいただいて嬉しいことでした。
映画「大鹿村騒動記」の舞台、また内田ボブさんが住んでいらっしゃる地、訪ねるのが楽しみです。

他に報告すべきことが溜まっているのですが、滞ったままでいます。
4月の福島訪問(南相馬の酪農家、杉さん。南相馬寺内塚合仮設住宅。吾妻復興牧場)、「安保法制違憲国賠訴訟」傍聴、「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」傍聴。
5月の「子ども脱被ばく裁判」傍聴、福島訪問(寺内塚合仮設住宅、鹿島区の小林吉久さん)
 裁判傍聴は次回期日を傍聴してのちに報告させていただきます。
小高区から避難していた天野ハルさんは鹿島区寺内塚合の仮設住宅を退去して、原町区の新居に移りました。娘さん家族と同居です。
寺内塚合は、誰もいなくなりました。
それぞれが”仮住まい”から、仮ではない住まいに移っていきましたが、手放しで「良かったね」と言えない苦さが残ります。一枝


2019年5月27日号「4月7日トークの会報告③」

Ⅵもう一つの闘い
●財物ADR
 津島原告団では、財物(田畑と山林)のADRを行っています。
評価額は、国は畑、山林、雑木林など自然に生えて大きくなったものは、1ヘクタールで30万円、杉・松・ヒノキで植林したもので100万としています。
我々は1反歩植林するのに、50万円かかっています。
300坪には苗木1本150〜160円で300本植えて、10年ごとに間伐して60年か80年で材木が仕上がります。植林には手間がかかるのです。
300坪で10万円の賠償、単純に150円を300本なら45,000円です。
苗木代だけで。植林の費用や手間が除かれています。
 今は山林労働者の日当は15,000円から18,000円です。
5年間は下刈りしないと森は育たない。10年ごとに蔓が生えるので、その蔓を切る。
私たちは立木1本200円で請求しました。これは苗木1本の価格で、土地代は別です。
 太くても細くても、平均150本植わっているという考え方で出しましたが、東電の回答は0でした。
電力会社は電線、鉄塔にかかる支障木については、1本2,000〜10,000円で賠償していました。
私たちは裁判もやるけれど、今までに頂いた補償金ではとても納得できないから、ADRにかけました。
 震災前の公共事業の土地の取引額、民間の土地の取引額、山林の売買価格など、調べられるだけ調べました。
足りなければ隣村まで行って比較し、調べました。
そして平均単価を作って、東電にADRで請求しました。
2年半前にやったのだが、未だに結論が出ていません。
 なぜ結論が出ないのかと言うと、それは東電が去年8月に土地の鑑定をさせて欲しいと言い出したからです。
我々は震災前の鑑定書を使ってやっています。
東電から出されたのは、今年1月の鑑定結果の評価額です。
要するに、震災でダメになった山林、土地の評価額を出してきて、これを呑まなければ賠償しないという。
発災8年後の鑑定評価を持ち出す無神経さは、“天にツバする”と同じです。
 そんな馬鹿な話がありますか? こういうのを詐欺というのです。
内幸町にいる白い髭の生えたサギです。
 震災前の鑑定書が基準になるのではないですか?
既に土地の賠償はお金が払われました。
津島の山間部ではなく、里の方の田んぼで平米あたり1,200円から1,500円出ました。
1年に作られるお米は1反で8俵から10俵です。
我々の津島の田んぼでも、反あたり8〜10俵です。
そして里の田んぼの米より、津島の山の田んぼの米の方が美味しいのです。
なぜかと言うと、水が美味しいからです。
 なんで里の田んぼの評価額が高くて、山の方が安いのか。
不動産で、里の方が欲しがる人がいるからだという理屈を言います。
しかし、農家だから田畑がなければ商売にならないわけですから、田んぼも畑も売りません。
だったら同程度か、多少低いくらいの価値に見るのが普通だろうと思います。
こんなことさえ判らないのです。
●参議院文教委員会で
 私たちは、どうしても故郷に帰りたいという意欲があります。
しかし、国がそのロードマップを示さない。あまりにも線量が高いから示せない。
 政治家はマヌケで頓馬な人ばかりで、どうすることもできない。
情けない話です。
そして、選挙になると「任せてください。私に任せてください」などという。
選挙になるとそう言うが、中身は何にもない。
 だから私は昨年11月29日の参議院文教委員会で、あの発言をしたのです。
参考人4人の中でポツンと黒い顔をした津島の山猿が、招致された機会に言ったのです。
 原子力損害倍賞紛争審査会会長は私の大学の先輩で、その母校の総長をやっていた方ですが、彼に文科省が作った書類を見せてもらいました。
満田さんは大変勉強家で、熱意のある尊敬すべき女性でした
馬奈木先生も、弁護士として尊敬できる方です。
みなさん原稿を書かれていて、あらかじめ委員会の議員たちに渡してあったそうですが、私はノー原稿で、あの時に喋りました。
●誰のための原発か
 経団連の会長の中西というのは日立の会長ですが、彼は「会社としては原発の下に非常用電源を設置することは、海外の状況から見て非常識だと思った。しかし原発は必要だから、今度原発を作る時は非常用電源は上に上げる」と言った。
日立も東芝も、三菱重工も、非常用電源を下に作ることは、なんら問題がないと考えていた。
「津波が来たらどうするんですか」と聞いたら、「津波は来ません」と言ったんですよ。
 大きなプロジェクトをする時には必ず、環境アセスメントをやります。
これは常識です。
あの東京電力が目をつぶったのは、869年の貞観地震という三陸沖で大規模な地震が起こった時の津波の跡を、サンプリングしなかったことです。
 明治三陸沖地震や、大正三陸沖地震のサンプリングはやったが、貞観地震はやらなかった。
見逃したのではなくて、やらなかった。
昔の人が遺した記録を、調べなかった。
それ行けドンドンで進めてしまった。
 原子力損害賠償法は1961年に原発政策を推進するために成立しましたが、これは当時の政治家たちがこの原子力で金儲けしようと、それ行けドンドンで作った法律です。
平成24年の改正前は600億、当初は300億の話です。
昭和30年代の前半は日雇い労働者が1日働いて、日当が120〜150円の時代ですから、300億は、相当大きい金額でした。
 今回の改定では、前回に続き1,200億の措置(平成24年の改正額)があり、事故に見合った措置額を示しませんでした。政治の怠慢です。
措置額というのは、電力会社が払うお金ではありません。
保険会社が払うお金です。
今までで8兆6,000億円も使われました。
一般的には、廃炉までには22兆円くらいかかるだろうと言われています。
電力会社は、1,200億円くらい保険金を払えばいいのです。
 だけど措置額は保険会社が払うわけですから、保険会社は引き受けません。
だから私は、電力会社の保険金を100倍にしろ、20兆円くらいかけるようにしろと話したのです。
 ところが今回、国の方では「しょうがない、肩入れしましょう」というくらいの話で、それは全て税金です。
誰が、この税金を返済するのでしょうか。
それは、東京電力利用者の受益者負担とするべきです。
 この震災で、市町村を含めていろいろな対応で、福島県はいろいろお金がかかりましたから、その損害を東電に請求しました。
しかし、東電が認めたのは30パーセントです。
本来ならそんなお金は、全て福祉や教育に使われていたお金ではありませんか?
 そしてさらに、1100兆円といわれる国家の借金の山になっていますが、この原発1基で88億という数字が出てきました。
誰のための原発なのか、いま、太陽光や自然エネルギーを使って間に合ってるじゃないですか。
不思議な世の中になったものです。
 こうした世の中から私たちは、政治のあり方、国のあり方、行政のあり方、などを一緒に考えていきたいです。
ご静聴、ありがとうございました。

◎​報告送信が、混乱してしまって申し訳ありませんでした。
ゲストスピーカー、佐々木茂さんのお話はここまでです。
長文をお読みくださって、ありがとうございました。


2019年5月26日号「4月7日トークの会報告②」

Ⅳ放射能の怖さ
●どうすれば帰れるのか
私は去年も一昨年も、環境省に言いました。
東電にも復興庁にも言いました、町にも言いました。
帰還までのロードマップを示して欲しい、とお願いしているのです。
あと10年待ってなどと、ロードマップを示してくれたら、少しは気が楽になります。
今年65歳になりますが、まだ20年、30年は生きたいと思っていますが、こればかりは判らない。
しかし、帰れる時期を示す、どうすれば帰れるのかを示す責任は国や東電にあると思います。
震災時直後に、私の家は毎時700マイクロシーベルト、関場さん(注:津島原告団の一人で、前々回トークの会のスピーカー)のところは750〜800マイクロシーベルトありましたが、これは1時間の量であって1日ではありません。
ここに1ヶ月いたら、死んでしまいます。
放射能の怖さは、体に入っても1、2ヶ月は影響が現れなくても、細胞を切ってしまうのです。
それが遺伝子として残る可能性があり、ガンになる可能性がないとは言えないでしょう。
今の政府関係の学者はみんな嘘つきだから、彼らが安全のお墨付きを与える資格はないと思います。
福島医大も、放射能の影響はないと言ってますが信じられますか?
●子どもへの影響
個人的な話ですが弟が障害者なので、私はその子ども3人を預かって育てています。
長女は甲状腺ガン、次女は判定でA1ですが男の子はA1からA2になりました。
その子は高校に入ってからもう一度検査したら、A1に戻っていたので良かったと思いました。
しかし、今年大学に入った一番下の女の子は、昨年クッシング病になりました。
これは免疫不全が起こる病気で、脳下垂体に小さなイボがあって、放射能を浴びると甲状腺とかこういうところに出るそうです。
発症の原因は、原発事故が原因ではないかと思います。
下の子は震災の10日後、陸上自衛隊の除染部隊が来て県の男児共生センターに連れて行かれました。
放射線量700マイクロシーベルトと高いところにある家から来たので、二本松東和第一体育館でスクリーニングを受けたところ、高線量汚染ということで、男女共生センターに連れて行かれたのです。
服を全部脱がされて、そこに古着があるから好きなのを着てと言われて、一番下のその子は洗髪を2度しました。
雪が降っている、みぞれが降っている寒い日でしたが、2度の洗髪をお湯で洗ってくれるなら有難いが、かわいそうにあの寒い中で水で洗われました。
2度洗ったのに落ちなかった。
だから私は、彼女の病気はそこに原因があると思う。
当時は小学4年生で、私がその時が原因ではないかと言っても、県からは放射線の影響ではないと言われました。
県立医大は当時と違って、新しい建物がどんどん建ち、いろんな設備・機械も入って立派になっています。
文句を言わなければ、国からどんどんお金が下りてくるのです。
当時、男児共生センターに連れて行かれた人たちの名簿は、一切ありません。
誰が、どのような理由から隠したのでしょうか。
●国に忖度する大人たち
伊達の保原で医大出身の女性医師が、甲状腺検査を受けても医大は信用できないから受ける必要はない、受けて甲状腺の判定結果が出てもそれを隠してしまうと言って涙を流しましたが、医大はその女性医師を外しました。
福島医大は、そういうところです。
長崎医大から放射線の専門家が来て、初めは放射線の影響があるだろうと言っていたが、その後は放射能の話になるとどうも歯切れが悪い。
国からの研究のための補助金でも提示されたか、目の前に勲章がぶら下がったのではないかと思えます。
郡山に星総合病院がありますが、院長は県民健康調査委員会の座長を務めています。
この人は放射線の専門家ではありません。
それが座長をやっていて、放射線の影響はないという。
けれど、福島県で甲状腺の子供が何人いるか。
日本では甲状腺の疫学調査などやったことがないのです。
上の娘は震災後に東和町の中学校に転校しました。
私はその時に、PTAの総会に出ました。
校長は1時間に20マイクロシーベルトは大丈夫だと言ったので、私は誰がそう言ってるのかと質問しました。
校長は、「国際的な組織が1〜20は大丈夫と言ってるから良いじゃないですか」と、正々堂々と言ったから、私は「ふざけるな!」と机を蹴って出てきたら若い先生が、「あれは狂ってる」と言って、「放射能が心配だから子どもを避難させました」という若い先生が何人かいました。
年間1ミリシーベルトに達するには、毎時0,23マイクロシーベルトと言われています。
でも震災前には、0,01くらいしか、自然界からの放射能はありませんでした。
いま私たちは、3マイクロや10マイクロ浴びても、「こんなものか」と、慣れっこになってしまって平気な顔をしています。
「まぁ、生きていれば良いか」と。
東京では「0,2が出た。凄い数値だ」「0,1だって!怖いなぁ」というが、福島ではその中で子どもたちが遊んでいます。
いくら除染したと言っても、家の中で0,4〜0,7マイクロシーベルトある。
外では0,4〜2マイクロシーベルトある。
除染しても未だにそれだけある。
東北大学の女性講師が、家の中の除染をしないなら、安易に家に帰してはならないと言っていました。
この言葉を町にすぐ届けたが、誰が決めたんだと言われた。
職員は勉強不足で、どうにもならない。
町長にも言ったのですが、「そんなこと今頃言われても、もう『帰って来い』と言ってしまったしなぁ」と言われました。
違うんですよ、きちんと汚染すれば良いだけの話なんですよ。
原子力の行政そのものも、また、国もいい加減だけど、被災した町役場や市役所は、国に忖度しています。
国に文句を言った途端に予算を切られる、減らされる。
こういう状況にあるのが事実です。
議会もそう、お金を持って来させなければ、それ以上何もできない。
これ以上文句言っても仕方ない、という雰囲気がいっぱいです。
これではね、たまったもんじゃありません。
Ⅴ復興のまやかし
●拠点整備事業のこと
私はそういう中で、これから帰るためにはどうしたら良いか、本当は真剣に考えなきゃいけないと思っているのですが、同じ町の中で温度差ができてしまった。
町では町長も「頑張らなきゃ駄目だ」と言い、「いや、ごもっともだけどそれをやったら予算がこない」と言っている。
なぜそんなことが起こるのか?
それは国が悪いからだ、金にするから悪いのです。
中間貯蔵施設を、双葉町と大熊町に作っています。
そこに去年は汚染土を140万立米運び、今年は400万立米運ぶ予定だそうです。
私も以前は建設会社にいたから思いますが、これは建設業者のための事業であることに間違いありません。
この汚染土を中間貯蔵所に運ぶために、その土地の人たちは泣かされています。
しかし、泣かされたけど、その土を全量県外に運ぶことに法律では決まりました。
舌の根が乾かぬうちに、公共事業に使うことにしたのです。
まず初めは飯舘村の長泥地区に運んで、拠点整備事業として土を反転して農地として使えということで、行政区長は泣く泣く承知をしました。
それを受け入れないなら除染しないというのですから、涙を流して受け入れたのです。
次には二本松の道路工事の路盤材に使うということでしたが、二本松は断った。
すると今度は南相馬・小高区の高速道路の盛り土に使うように言う。
私たちは被害を受けた被害者で、国や東電になんの悪いこともしなかったが、それなのに8000ベクレル以下の汚染土を受け入れて使うようにと言ってくる。
津島でも拠点整備153㌶で、これは地区の約1,6パーセントにしか当たりませんが、やっと始まりました。
ところで、除染した結果、何人が戻るでしょう。
これが財務省の差し金だと、ある人から聞きました。
「国は、人が戻らないところに除染して金をかけて、どうするんだよ」という話が裏で囁かれている。
津島地区は全域が帰還困難区域に指定されているから、これを解除する理由として、国は津島の濃い汚染土壌を公共事業に使える。
飯舘村の長泥地区の、二の舞になりかねません。
つまり、田畑の土にすると言いだすのだろう。
そうでなければ、除染はやらないよという話が出てくるだろうと、私は想定しています。
私らは、トコトン闘うつもりですが、そうした話が飯舘村で出た、二本松で出た、南相馬で出た、となれば浪江町で出ない筈がない。
●ジャマリンピック
なんでこんなに除染が遅れたかというと、オリンピックのための復興って、やっていますよね。
オリンピックって復興のためのオリンピックでしょう?
宮城県の三陸道が、釜石まで開通しました。
その道路の下の、国道を通ってみてください。
未だに堤防を作り、高台の住宅地はできましたが、そこに家を建てる人は殆どいない。
不便だからです。
東京ではオリンピック景気と言われているように、どんどんビルが建ち、さらに施設も作られています。
私たち東北3県では、せっかく津波に耐える町づくりをしようといった作業員の半分以上が、東京の工事現場に流れてしまったから、公共施設や建物、学校がきれいになっただけで、本当の意味での復興や町づくりには向かっていない。
現場で働く労働者が少なくなり、復興オリンピックと囃されていても、これは東京のためのオリンピックです。
一昨年、石巻港で釣りをしていた時に挨拶を交わした釣り人は、建設労働者でした。
私も以前は建設の仕事をしていたことを話し会話が続きましたが、彼は「来月から東京に行くんだ。東京の方が手当てが高いし、東京の仕事がなくなったら、また戻って来る」と言いました。
私は彼に、「戻ってきたら、声をかけてな。いつも大体この辺で釣っているからな」と言って別れましたが、彼とはそれから会っていません。
復興オリンピックなんて言いますが、地元では「復興ジャマリンピック」と呼んでます。福島ではソフトと野球をやるそうですが、大体喜んでいるのは東京の人だけ、地元ではオリンピックなんて喜んでいません。
オリンピックなんかやらなくていい、そんなお金があるなら、我々が一日も早く帰れるような状況にしていただきたい、と思っています。
●汚染土は東京へ
2、3日前の新聞に、塩釜港の沖の防波堤が沈下したと報道されました。
大切な税金を使って国土強靭化というなら、しっかりと地盤を調査するなど当たり前で、
自然沈下で倒れるような堤防を作ってどうするのだということです。
国は震度6〜7の地震が90パーセント確実という記事を出しましたが、自然沈下で
倒れるような堤防だったら、津波が来たら、みんなバタッと倒れてしまう。
現に釜石では、あの消波堤が津波で全部倒れてしまったではないですか。
除染で出た土を中間貯蔵所に運ぶには手間も金もかかるから、道路の路盤材として、または堤防の資材として使ってくれというなら、私らの港に大型船を持ってきてポンプで除染土を船に積んで、それを東京で使ったらどうでしょうか。
東京湾で公共事業に使ったらどうなのか。
電力は、水や空気と同じように考えている国民が多いのじゃないですか。
それでも、やっぱり電気は必要だと言うなら、地方に移住してみて欲しいです。
地方でも生活できますから。
だけどみんな移住はできないんですよ、都会の暮らしに慣れていて、電気がなければエレベーターも使えない、電気がなければ何も使うことができないからです。
それなら、受益者負担を考えて欲しいです。
私らは東北電力の電気を使っています、東北電力に対しては、なんの文句もない。
もし東北電力が原発事故を起こしたら、ガンバレ、ガンバレと応援します。
それくらいの気持ちが、少しはあります。
●風評被害?
でも東京の人に中には、「風評被害だ」とか「福島産のものは食べない」などという人がたくさんいます。
未だに風評被害が続いているというのは、どういうことなのでしょうか。
米の値段はだいたい全国レベルになってきたといえど、米問屋は値段を叩いている。
牛肉も、福島は双葉牛、飯館牛などを総称して福島牛と呼んで、霜降りの良い牛肉の産地だった。
白河には農水省の家畜研究所があり、そこで日本を代表するような霜降りの雄牛をたくさん育てています。
宮崎県や鹿児島県が肉牛で有名ですが、実は山形県の米沢から松坂に持って行って、それが松坂牛となるのですが、そういうことは知られていない。
その松坂牛に勝るとも劣らないのが、岩手県の水沢牛です。
こういうことを判らないまま、皆さんが福島や東北産を敬遠するから、それが風評被害となって、なかなか我々の成果にならず、儲からないで叩かれます。
それをいいことにして貪り食っているのが、中間業者、販売業者です。
風評被害で売れないからと安く買い叩いて、混ぜて、どこの米かわからないようにして売っています。
牛もそうです。
福島の牛は100g当たり例えば1,000円だとしたら、600円か700円に叩かれる。
だけど皆さん、牛肉を食べて松坂牛だ神戸牛だと、判りますか?
混ぜてしまってるんです。
要するに風評被害を隠れ蓑にした中間業者が、いかに儲かっているかということです。
皆さん方消費者が、利用されているんですよ。
葛尾村でも飯舘村でも牛の飼育が始まり、皆さん一生懸命やっています。
そしてみんな、厳重に管理して放射能検査しています。
福島の子牛は不足しているから高いけど、子牛を生産する人たちは、親牛を外に放牧します。
外に放牧して自由に動き回らないと、足腰が鍛えられないし、足腰を鍛えさせないと良い子牛は生まれないのです。
だけど今は外で放牧できずに、牛舎で育てています。
また飼育して肉牛として売る人たちは、飼料は福島産の餌が使えないのです。
それで北海道や外国からの輸入飼料を食べさせています。
コストが高く付くから、儲かりません。
でも、牛が好きだ、この仕事が好きだからと、こうした生産に励んでいるのです。
東電からは賠償金をもらったと思いますが、家に換算して言えば、だいたい柱3本分ほどでしかないでしょう。
東電は減価償却を考えているが、我々は再調達価格ということで完全賠償を求めています。


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