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2018年9月4日号「9月3日国会前」

 昨日は3日、「アベ政治を許さない」スタンディングの日でした。
12時30分より少し前に国会正門前のいつもの場所に行くと、すでに数人の仲間たちの姿がありました。
台風の影響で空模様が怪しかったのですが、そのうちにパラパラと降ってきました。
持参したレインコートを着て雨傘さして「アベ政治を許さない」プラカードを掲げて立っていましたが、澤地さんが到着する頃には雨は止みました。
さすが「晴れ女」と折り紙付きの澤地さん、なんと薄日が差してきました。
 1時きっかりに時報のチャイムが聞こえてきて、みんなでプラカードを掲げました。
参加者80名ほどです。
向かいの国会正門から見学を終えた人たちが出てきます。
一般の人たちが出てきた後で、修学旅行できたらしい制服姿の学生さんたちが出てきました。
門を出て向かいの道路を行きながら、手を振っている子どもたちの姿もありました。
どうやらひとクラスごとにまとまって出てくるのですが、手を振る子どもたちのいるクラス、こちらが手を振っても全く応えないクラスもありました。
 その一団が去って、また今度は別の学校の子どもたちの姿が門の内に見えました。
彼らは、クラスごとに国会議事堂を背景にして記念写真を撮ってから出てきました。
するとどうでしょう!
この学校の子どもたちは、多くがこちらを見て手を振ったのです。
もちろん私たちも皆、プラカードを掲げながら手を振りました。
7クラスか、8クラスあったでしょうか。
どのクラスの子どもたちもみな、笑顔で手を振ってくれました。
私たちの中から「どこから来たのぉ!」と声が上がり、すると「秋田から‼︎」と答が返りました。
「私も秋田よ!」と声を上げて、信号が青になると子どもたちの列に駆け寄っていった人がいました。
彼女は秋田出身だったのです。
その姿に、「故郷の訛り懐かし停車場の人ごみの中そを聴きに行く」を想いました。
 全部のクラスが去った後で彼女は戻ってきて「秋田の大曲中学の子どもたちだった。私はその隣町」と。
子どもたちに手を振りながら、また彼女の言葉を聞いて、涙がこぼれた私でした。
あの子たちが戦争への道を歩かねばならない明日は、決して開かせない!!
熱く強く思いました。
 最後に澤地さんが挨拶されました。
「アベさんほどひどい政治家はこれまでに見なかった。沖縄を沖縄の人たちの取り戻さなければ、もう日本はダメだと思います。政治を私たちの手に取り戻すまで、頑張りましょう」
 この日は澤地さんの、88歳のお誕生日でした。
スタンディングの常連で澤地さんとも親しい竹内さんが用意された花束を、私がお渡ししました。
可愛らしいデザインの黒いワンピース姿の澤地さんに、ひまわりの黄色い花束がとてもお似合いでした。                          

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2018年8月7日号「お知らせ」

トークの会「福島の声を聞こう!vol.28」
お申し込み受付が始まりました。
ゲストスピーカー熊本美彌子さんのお話を、ぜひ多くの方にお聞き頂きたいと願っています。
皆様のご参加をお待ちしています。           

いちえ

vol28new-3


2018年8月7日号「福島原発刑事訴訟第21回〜第23回公判傍聴記」

 福島原発刑事訴訟の公判は7月24日に第21回公判、25日に第22回公判、27日に第23回公判が開かれました。
●第21回公判(7月24日)
 証人は東電設計の安中正(あんなかただし)氏で、検察官役の石田省三郎弁護士が質問していきました。
安中氏は地震の専門家で、土木学会の津波評価部会では幹事役として土木学会の実務を取り仕切ってきた人です。
石田弁護士は安中氏に、福島第一原発は「確率論的津波ハザード解析」ではどのように評価されているのかを質問していきました。
 土木学会の津波ハザード解析の研究成果によって東電設計が2004年にまとめた報告書では、1万年に1回くらいの確率で津波高が7〜8mになることがわかりました。
土木学会はその後も研究を続け、東電設計はそれをもとに2009年に再度津波ハザード解析を実施、そして新たに貞観地震を考慮に入れて1万年に1回レベルの津波高は、11,5mとなることが判り2010年5月に東電に報告されました。
この結果を聞いた東電の高尾氏は安中氏に、「一桁程度低くならないか」と発言したことが明らかにされました。
 地震本部の長期評価について土木学会は津波ハザード解析の基礎資料として、2004年度と2008年度に専門家にアンケートをとりました。
2004年度のアンケートは、①「過去に発生例がある三陸沖と房総沖で津波地震が活動的で、他の領域は活動的でない」②「三陸沖から房総沖までのどこでも津波地震が発生するという地震本部と同様の見解」で聞いたところ、地震本部の見解を支持する回答が上回っていました。
2008年度は①「三陸沖と房総沖のみで発生」②「津波地震はどこでも発生するが、北部に比べ南部は津波が小さい」③「津波地震はどこでも発生し、北部と南部も同程度の津波地震が発生する」の設問でしたが、「津波地震はどこでも発生する」という②と③
への回答が過半数でした。
安中氏は2004年度には①の「三陸沖と房総沖で」に回答しましたが、2008年度には「どこでも津波が起きる」と考えが変わりました。
その理由として2004年のスマトラ沖地震や貞観地震の調査などから地震本部の長期評価を否定できないと思うようになったようです。
 津波ハザードについては最も詳しいと思われる安中氏の尋問からは、ハザード解析をすれば敷地高さを超える綱海を想定しておくべきだという結論が出ていたことが、明らかになりました。

●第22回公判(7月25日)
 22回公判の証人は電力中央研究所の松山昌史氏で、検察官役の神山啓史弁護士が質問しました。
 松山氏は1999年の土木学会津波評価部会の立ち上げ時から、幹事として関わっていました。
土木学会津波評価部会は2002年に津波想定の方法をまとめた「原子力発電所の津波評価技術」を策定しましたが、コストも人手もかかるから改定は10年に一度くらいにしようという同意があったことを証言しました。
これに対して神山弁護士が、新しい知見が出てきたらどうすべきだったかを問うと、新しい知見は毎年出てくるので、そうした色々な評価を検討材料にしてチェックは必要だと答えました。
 以前の裁判傍聴報告でも記しましたが、津波対策を練ってその報告をした2008年7月31日の会議で武藤氏の「ちゃぶ台返し」発言によって、対策は先送りされたのです。
武藤氏の、「研究を続け第三者の研究に任せよう」という言葉で対策がとられずに先送りされたのですが、この時に提案された「第三者」というのが土木学会でした。
 土木学会のメンバー委員、幹事30人の内、13人は電力会社社員、3人が電力中央研究所員、1人が東電設計で、過半数が電力関係者です。
こうしたメンバーを見れば、土木学会が第三者だとは思えません。

●現場検証を求める意見陳述
 22日の公判期日では、証人尋問の後で検察官役の久保内浩嗣弁護士が裁判官に対して「事故現地の現場検証を行うよう求める意見陳述が行われました。
 本件の争点の一つは被告人らに「事故を予見することができたかどうか。予見できたとしたら結果を回避できたかどうか」です。
この争点の判断には、事故発生の経過を具体的、現実的に理解することが不可欠です。
そのためには、同発電所を直接見聞して、どのような地盤に設置されているのか。地盤上にはどのような設備があるのか、津波はどこまで襲来しどんな痕跡を残しているのか、それらを裁判官の五感で検証する必要があります。
 現場に臨めば本件原子力発電所が、いかに海面に接した場所に設置されているか、津波の襲来に対する十分な対策が必要であったかが一目でわかります。
本件について正しい判断をするには、本件原子力発電所の検証が必要不可欠です。

●第23回公判(7月27日)
 証人は安保秀範氏で検察官役の久保内浩嗣弁護士が質問しました。
安保氏は東電入社後日本原電(日本原子力発電)に出向し、2007年10月〜2009年3月まで原電の土木グループのグループマネージャーとして、東海第二の耐震バックチェックに関する業務を担当していました。
 安保氏は、東電の高尾氏が東北大の今村教授から「福島県海溝沿いで大地震発生は否定できないので波源として考慮すべき」という意見を聞いたという報告を受けて、東電が地震本部の長期評価を受け入れて対策を練ることを理解しました。
2008年3月の日本原電の常務会では、バックチェックにおいて津波地震の予測については福島県海溝沿いで発生の場合の評価結果を求められる可能性が高いことが報告されました。
津波対策を考慮する東電の判断に倣って日本原電は、防潮壁を設置した場合の敷地浸水をシミュレーションするなど、対策に動き始めていました。
ところが東電では、2008年7月31日に会議で武藤氏の「ちゃぶ台返し」によって、対策は先送りという方針変換となったのです。
 東電の先延ばしの判断を聞いて日本原電の取締役開発計画室長は、「こんな先延ばしでいいのか」「なんでこんな判断するのだ」と、発言したそうです。
検察の聴取に安保氏は、東電の酒井氏に方針が変わった理由を尋ねると、酒井氏は「柏崎刈羽も止まっているのに、これに福島も止まったら、経営的にどうなのかって話でね」と答えたと話しています。
 この点について検察官役の久保内氏が質問すると安保氏は、その時の酒井氏の発言について「今の記憶ではない」「その時はそういう風に思ったということだ」と言い、明確に認めませんでした。
 この日の尋問で明らかになったのは、原電の次のような施策です。
・東電が対策を先送りした2008年8月の段階で、地震本部の津波地震による津波については引き続き検討を続ける。
・バックチェックは茨城県津波でやる。
・津波対策については耐力に余裕があるとは言えず、バックチェックの提出時点で対策工事が完了していることが望ましい。
茨城県の波源についての対策は、先行して実施する。
 こうして津波影響のあるすべての管理区域の建屋外壁にて止水する方針で工事をし、工事で不要になった泥を使って海沿いの土地を盛り土しました。
盛り土を防潮堤の代わりにして、津波の遡上を低減させるためです。
それでも浸水は防げないので建屋の入り口を防水扉やシャッターに取り替えたり、防潮堰を設ける対策を施しました。
 東日本大震災で東海第二を襲った津波は、対策工事前のポンプ室側壁を40cm上まわっていました。
外部電源は2系統とも止まったので、もし対策をしていなければ非常用ディーゼル発電も止まり電源喪失につながる事態にもなりえたのです。
これについて安保氏は、「側壁のかさ上げが効いていた」と答えました。

★東海第二は対策をとって電源喪失を免れたのですが、東電は「経営的にどうなのかって話でね」ということで対策を先延ばしにした結果、あの事故が起きたのです。
刑事訴訟の裁判傍聴記をお伝えしていますが、私の拙い報告よりも、もっとわかりやすく弁護団の先生方が報告してくださる報告会が開かれます。
*9月2日(日)14:00〜16:30@郡山市ビッグアイ7F大会議室
*9月30日(日)14:00〜16:30@専修大学神田キャンパス7号館大学院棟3F731室
チラシを添付します。
ぜひご参加ください。                        

いちえ

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2018年8月5日号「安保法制違憲訴訟第8回口頭弁論③」

●伊藤真弁護士
 忌避の申し立てをするとこの裁判では、あの3人の裁判官は私たちの裁判の裁判官ではなくなる。
裁判官ではあっても、私たちの裁判とは関係のないただの人だから、なんであそこに座っているのか判らなくなる。
あそこで私たちに退出するように命令する権限もない、ただそこにいるだけなのだ。
ただそこにいるだけの裁判官で、「人でなし」と言おうが、なんと言おうが関係ない。
 が、まぁ、権力というのはああいうものだ。
原告の話も聞かない、証人の話も全く聞かない、それでも判決は出せると考えている。
証人の話など聞く必要がないと考えている。
それは、証人の話など聞かなくても自分は正しい裁判ができるという驕りだ。
謙虚さがまるでない。
自分なりに正しい判断はこうだと決めて、淡々と進めていくだけ。
自分が裁判の主人公だと思っている。
 判決を書くのはあの人たちかもしれないが、裁判は原告の皆さんが主役で主人公なのだ。
だが、あたかも自分が主役で主人公で、自分の思う通りに裁判を進め結果が出せると思っている。
当事者の声や証人の話を聞いた上で正しい判断をしようという考えは、全くない。
自分の頭の中で出来上がっている正しい答を、押し付ける。
 これは裁判に限ったことではなく、権力を持った人は皆そうだ。
昨今の政治状況を見てもそうだ。
カジノにしても、私が関わっている一人一票にしてもそうだ。
参議院の議員を6人増やして合区を解消するなど、とんでもない話だ。
だが、「一度これをやるんだ、まぁいろいろグズグズ言って理解しないかもしれないが、自分たちがやっていることは絶えず正しいのだ」と押し通す。
権力を持った者は、自分が正しい、自分が主役、自分が主権者でこの国の主人公だと思って押し通す。
 政治家にせよ官僚にせよ公文書の偽造、改竄、隠蔽をする。
自分の判断は正しいのだから、その正しい判断は別に細かく文書に記録する必要はないと思っている。
公文書に記録するということは、自分は正しいと思っているけれど万が一自分の判断が誤っているという可能性がある時に、後にそれを検証して二度と同じ過ちを繰り返さないように、きちんと公文書に記録しておくのだ。
自分は正しいと思っているけれど、ひょっとしたら判断が間違っているかもしれない、その謙虚さがあればこそ、後の判断の検証に耐えるように文書に残しておく、それが公文書の存在意義だ。
 それを全く無視して都合よく、改竄しても良い、廃棄しても良い、隠蔽しても良いと、自衛隊の日報も財務省の記録もそうだ。
官僚にせよ政治家にせよ、誰がこの国の主人公で誰を動かしているのかということが、根本的に昔と変わっていない
我々を、政治家や官僚の臣、臣民だと思っている。
ふざけるんじゃない!
主人公、主体は私たちなのだ。
 裁判所もそうだ。
裁判官は自分が正しい、証人の話は聞かないで自分の判断を書けばいいと思っている。
裁判所はそういう場ではない。
あくまでも原告が、そして傍聴する市民の皆さんが主役であり、主体である。
そこをきちんと思い知らせる意味で、私は今回の忌避はとても意味があったと思う。
皆さんがああして、思い思いに声を上げた、これは裁判官にとってみれば予想はしていたかもしれないが、やはり思いの外だったのではないか。
今まで私たちは法廷の場で、静かに大人しく座っていた。
陳述を聞いておもわず拍手をしてしまったことがあるというくらいで、暴れたりせずに静かに座っていた。
素直で御し易い臣民だと思っていたかもしれない。
それが違いましたからね。
そんな言い成りになる市民ではない、私たちは主体的なこの国の主権者だということを示した、意味のある裁判だった。
 だが、7月初めの大飯原発の判決も、昨日の日の丸・君が代判決もそうだが、裁判所もどうしようもない。
政治の状況も「なんだ?こりゃぁ!」という状況だ。
でもそれが権力だし、それに対してきちっと向き合って私たち国民・市民が闘うための道具が憲法なのだ。
だからこういう憲法訴訟も負けずにこうやって声をあげ続けていきましょう。
それこそが憲法の存在意義に他ならない。
 人権や平和をやっと憲法のなかに獲得できている。
それを私たちが形にしていくのだろうと思う。
人権も平和も民主主義も、数年や数10年で確固たるものにできることではないのだから、この先数10年、数100年とこういった運動は続けていかねばいけないだろう。
きちんと伝えていくこういう運動で、後に続く若い市民や法律家に伝えていく。
今も全国で闘っている仲間がいる、その仲間たちにもきちんとその姿勢を伝えていくことが大事だろう。
 集会冒頭で寺井弁護士が話されたが、まさにここからが新たなスタートだ。
思いを新たにして皆さんと一緒に頑張っていきたい。
●    弁護士
 私は弁護士になって38年目だが、忌避申し立てに関わるのは今回で2回目で、最初は弁護士1年目の時だった。
1度目のそれは、日立製作所武蔵工場で女性社員が残業を拒否して解雇された事件で、
裁判闘争自体は1991年に最高裁で敗訴になったが、その後の粘り強い闘いで、2000年に全面的な勝訴和解を勝ち取った。
これは先例的な事件だった。
 先日のことだが日本国民救援会などの主催で講演を頼まれて、「困難な裁判をいかに闘うか」という話をした。
その時に私は、1960年代の朝日訴訟のことを話した。
これは結核の患者さんが厚生大臣を相手取り、生存権と生活保護に関して闘った裁判だ。
 この裁判も最初は、受ける弁護士がいなかったそうだ。
当時は憲法25条の議論が深まっていなかったので、裁判をやっても生存権は権利ではないというのが、圧倒的な憲法学説だった。
裁判は本当に粘りつよくやられて、1960年に東京地裁で勝訴判決が出た。
浅沼さんという裁判官で、「浅沼判決」と呼ばれている。
 私はその後、この裁判の時の左陪審だった人に話を聞く機会があった。
なぜ朝日さんを勝たせたかというと、現場に行って朝日さんの生活を見たことが、自分が変わった大きな理由だったといった。
東京から岡山の診療所まで行って、3日かけて現場検証をし臨床尋問をしたことが、自分が大きく変わる理由だった、と。
裁判自体は東京高裁、最高裁で敗訴になったが、東京地裁の浅沼判決があるので、憲法25条が立派な権利になったということで、社会的には大勝利の判決だった。
 もう一つ、私は東京大空襲の被災者裁判に関わっているが、これは大法廷で戦時の被害は国民は等しく受忍ということで敗訴になったが、被災者たちの訴えで超党派の議員連盟が発足して援護法案を提出しようという動きが生まれた。
裁判は勝ち負けもあるが、裁判の主文の勝ち負けだけではなく、裁判を力にして社会的な成果を上げていこうということを講演で話した。
 この裁判は憲法闘争なので、最終的には戦争法を廃止するという目標のために、この裁判闘争を力にして頑張っていきたい。
●杉浦ひとみ弁護士
 古川弁護士も言われたように、ギリギリまで証人採用をしてくれと話をしに行った。この裁判の意義と法曹の使命について話したが、裁判官はそれはもう法廷で聞きましたよね、それがどうした?という表情をした。
そして一番印象的だったことは「この裁判は傍聴の方達は粛々とやっていると聞いているが、次回はどうでしょうか?」と言った。
何を言っているか理解できず「普通に法廷の指示に従ってやっている」と答えたがなおも「どうでしょうか?」と言って警備の話までしだして、何かとても警戒していた。
私は思わず「暴動など起こしません」と答えたが、裁判長は「まさか」と言うかと思ったのだが、それを言わないで「自分では警備もあるかもしれないということをちょっと考えていた」と言った。
 今日の法廷を見て、傍聴の方達は思いの丈を着席して言った。
品のいい形で反論をした。
裁判官は国民のことを全く知らずに、怯えている。
私たち弁護士は原告の方達と膝を交えて話し、闘い方について一緒に検討していると思っている。
原告の方たちと私たちは互いに怖がってなどいないが、でもあの裁判官は怖がっている。国民のことを知らないのだ。
だから私たちは、この司法を変えていくところの大きな狙いが残っている。
私たちは間違っていない、裁判所はおかしいから怯えている、そういう図式の中でこれからも頑張っていきたい。

◎会場からの質疑応答
Q:記者会見での反応は?
A:あまり良くなかった。事前に各報道機関には「今日は重要な局面になるから来て欲しい」と伝えておいたのだが、記者たちも共同通信と毎日新聞、朝日新聞くらいで、質問もあまり深い内容のものはなかった。
私たちの方で新聞社などに「こういう大事なことを何故報道しないのか」と問うていくことも大事かと思う。
Q:証人採用拒否したが、もう一度証人申請はできないのか?
安保法制の大元は小泉内閣の時に小泉が安倍晋三を幹事長にしてしまったというところにあるので、小泉純一郎と小沢一郎の二人をなんとか証人申請して欲しいと思っているが如何でしょう。
A:検討します。
Q:忌避の申し立てをした後の裁判の流れはどうなるのか?
A:この裁判は民事1部だが、忌避申し立てを採用するかどうかは他の部の裁判官3名が判断する。
おそらく忌避は認めないという決定を出すだろうから、そうすると東京高等裁判所に行くだろうと思う。
そこもまた同じような判断をするだろうと思う。
これまで忌避申し立てを認めた例がない、同僚意識、仲間意識なのだ。
おそらく最高裁でも認めないだろうと思っている。
他の部の3裁判官の判断には約1ヶ月以上かかるだろうから、8月の末になるだろう。するとまた進行協議と言うことで今日の裁判官3名が残ると、我々に連絡してくるだろう。
この前澤裁判長は、最終準備書面を秋くらいまでに出すようにと言っていて、本当にこの人は許せない。
記録も読んでいないのに、そういう判断をする。
私はどこかでこの裁判長に「あなた方が忖度するような安倍内閣か?」と言いたいと思っている。
「国民をなめるな」と言いたい。
最終準備書面を秋に出すことを認めないで、証人の方々知識人の方々に意見書を書いてもらう。
意見書を書いてもらって、秋ぐらいに提出しようと思っている。
それを認めないとなったら、また裁判官の忌避をしようと思っている。
それで最終準備書面を来年の春以降に出していく、そうすると判決は夏休みを挟んで来年の秋以降になるかと思う。
 名古屋地裁へも提訴したばかりなので、延ばすだけ延ばして、全国で一緒に闘っていきたい。
 できるだけ民事1部でも頑張っていきたい。
そして意見書で、証人として語って欲しいことを長い意見書で書いて頂いてそれを提出する。
証人尋問に替えて、長い心のこもった意見書を出すことについて弁護団は当面全力で尽くしていきたい。
Q:これから私たちは何をやっていけばいいのだろう?
A:寺井一弘弁護士
 できることはなんでもやっていきましょう。
6月23日の沖縄慰霊の日、相良倫子さんのスピーチを覚えていますか?
7分間の詩を諳んじて語ったんですよ。
その次に安倍が官僚は書いた作文を読んだ。
これが去年の文とほとんど同じだった。
 私はスピーチをした女の子に「励まされた」と、手紙を書いた。
そしたらその女の子から返事が来たんですよ。
嬉しくて嬉しくて、「私は9条を愛しています。平和のために闘います」と書いてあった。
私はそのことを名古屋の講演で話したら、朝日新聞の名古屋総局で論説委員をやっている人が聞いていて「すごくいい話だ」と言って、その子に会いに行くと仰った。
ノーベル化学賞受賞の益川先生も原告になっていますから、この安保訴訟は創意工夫をこらしながらやっていかねければいけないと言ってくださった。
 どんなことでもできることはなんでもやっていきましょう。
真剣になってやっていけば、必ず応えてくれる人がいる。
そうやって広めていきましょう。

*裁判傍聴記、これで終わりです。
最後に寺井弁護士が話された、沖縄慰霊の日に詩を朗読した相良倫子さんに手紙を書いたら、彼女から返事がきたというお話に、心打たれました。
私も倫子さんのスピーチに胸を打たれ家族や仲間たちともその話をして感動を分かち合いましたが、倫子さんに直接その想いを伝えることはしませんでした。
感じたことを即行動で表す寺井弁護士の姿に打たれたのです。
そして倫子さんがまたそれに応えて返事をくれたことに、打たれたのです。
寺井弁護士の「真剣にやっていけば、必ず応えてくれる人がいる」、それを心に留めてやっていこうと思いました。
長文をお読みくださって、ありがとうございました。              

いちえ


2018年8月5日号「安保法制違憲国賠訴訟第8回口頭弁論②」

裁判傍聴記の続きです。

◎報告会
●挨拶:寺井一弘弁護士
先週土曜日に講演で呼ばれて、名古屋へ行ってきました。
その日の名古屋はなんと38,3℃で、駅からタクシーに乗ろうとすると50人くらいが並んでいて、ようやくタクシーに乗った時には汗びっしょりでした。
講演会場は冷房が余り効いていず話している間も辛くて、その日以来体調が余り良くないのですが、まぁそれは年のせいもありますが、今日までは頑張らないといけない、今日までは何としても頑張って大きな声で「忌避する」必要があると思って頑張ってきました。(大きな拍手がわく!)
 法廷で私が話した後に皆さん方から大きな拍手の励ましを頂き、皆さん方の思いの丈を述べて頂きました。
凄かったですね。
「それでもお前は人間か」とか「良心を持っているのか」とか、「クズだ」「腐ってる」とか、裁判官がどう対応するか少し心配していますが、私は大きな励ましを受けました。
 安保法制違憲訴訟は最初から厳しい闘いになることは予想していましたが、なかなか一方的に憲法違反である判決をとるまではいかないで、これからが新しい闘いになると思っています。
今日の拍手と皆さん方の言葉を聞きながら、「よし、これからが闘いの始まりだ。仕切り直しだ」と励ましを受けました。
 名古屋はこの暑さの中、8月2日に裁判所に提訴します。
名古屋はイラク訴訟で平和的生存権を軸にしながら、イラクでアメリカを支援する軍事活動は憲法違反だとはっきり述べている高裁判決を獲りました。
その名古屋が、安保法制違憲の提訴が遅れたのはなぜか?
「イラク訴訟の闘いは厳しかった。安保法制違憲はあの繰り返しになるのか」と、中心の活動家が躊躇していたのですが、私と伊藤真弁護士が乗り込んで「名古屋で闘わず二どうするのか」と迫って、その檄が効いたのか提訴を決めました。
しかもイラク訴訟の高裁判決を書いた青山邦夫君が僕と同期ですが、彼が共同代表の一人として入るということですし、イラク訴訟の弁護団長だった内河恵一君、彼もまた同期ですが、前の参議院議員で憲法学者の大脇雅子さんも共同代表ということで紹介がありました。
原告団も着々と増えて、ノーベル物理学賞受賞の益川敏英先生も原告に入ることを聞き、名古屋でも大きな励ましを受けました。
 名古屋で私は、「忌避の申し立てをするのだろう?」と聞かれましたが、事前に裁判所やマスコミに漏れ出してはいけないと思い「検討している」とだけ答えました。
 イラク訴訟で実質的な事務局をやっていた私の友人が、言いました。
イラク訴訟では名古屋は一審で、判事全員の忌避をしたそうです。
今日の法廷では忌避の申し立てを黙って聞いてくれましたが、名古屋では裁判官が黙って出て行ったので忌避の申し立てを聞いていなかったと言うので、それを問題にして、裁判官に対して損害賠償申し立てを起こしたと言っていました。
そして、忌避の申し立てをしてもなんのマイナスも生じないとも言っていました。
忌避の申し立てをした私どもを、裁判官が快く思っていないのは間違いないけれど、報復として安保法制を合憲にしようというのは心理的に難しい。
裁判所は相当圧迫するだろうけれども、これから判決が出るまでの半年か1年以上の長い時間がかかるだろうがそれまでの間、大きな運動として裁判官を追い詰めていくなら、まだやれるかもしれない。
また忌避を申し立てられるかもしれないと裁判官は怯えるだろうと、名古屋の友人に言われて大きな励ましを受けました。
 私はこの訴訟の意義は二つあると思っています。
一つは絶対に我が国を、戦争する国にさせないということ。
もう一つは安倍内閣の意向ばかりを忖度している裁判所が、三権分立のもとで司法権独立、裁判官独立を果たしていない、これを民主主義国家として言えるなら、そのような裁判官の姿勢を我々は認めるわけにはいかない、この二点です。
今日みなさんが傍聴されて、あの通りです。
 前澤達朗裁判長は最高裁から降りてきた裁判官で、その前は最高裁人事局任用課長をしていたエリート中のエリートで、4月の裁判官交代の時にこれは危ないと思っていました。
4月6日に電話をして弁論更新の機会に、これまでのことを含めお話ししたいと言ったら、これを拒否しました。
前の裁判長は会ってくれたのですが、前澤裁判長は「会う必要がない」と拒否したので、これはまずいと思いもう一度、左陪審の判事に、これからのためにもこれまでの流れと弁護団の意向を聞く方が良いのではないかと伝え、そのことを裁判長にも伝えて欲しいと言いました。
その夜電話があって、裁判官は着任したばかりでなんの記録も読んでいないから、その段階であっても意味がないという意見でした。
 それから10日後、土日を挟むと一週間しかないですが、記録は膨大です。
16日に国側を入れた3者協議がありました。
その場で「証人採用については消極的だ」と言いました。
弁論更新はその後ですが、その前の非公式の会議で証人採用は考えていないと平然とした顔で言ったのです。
しかもその態度が悪く官僚的な顔はこれかと思って聞いていましたが、今日の結果は弁護団全員が予測していました。
当初考えていた8人の証人全員を拒否することを予測していましたから、その中でも2名でも3名でも、1名でもいいから採用してもらう必要があると、古川弁護士が説明した通りです。
裁判所は、証人の意見書を読めばわかる、原告の訴えは意見書を読んでももっと切実なことがあろうかと聞いてきたが、証人については必要ないと理屈を言うので、半田さんと西谷さん、前田さんは海外のいろいろな戦地や紛争地などを回って自らが体験してきた事実を語れる立場から客観的な事実を法廷で明らかにすることが大事だと、3人に絞ったのですが、聞く耳持たないと一蹴しました。
 しかし、私はここで気持ちを取り直して、これからの闘いを進めていきます。
みなさんもどうか、この歴史に残る闘いを勝ち取ろうではありませんか。
9月の29、30日の2日間、全国の弁護団の交流会を東京で行います。
全国の仲間と忌憚のない意見交流をしたいと思っています。
●埼玉弁護士会:北村弁護士
 一人でも証人採用を願ったが、ダメだった。
がっかりするとともに裁判官の権力に対して、怖さを感じた。
今日、裁判官が口頭弁論が終わってからも残っていたのは、裁判官には法廷警察権という権限があり、庁舎全体は裁判所長が権限を持つが法廷に関しては、開廷の前後を含め裁判官が秩序を守る立場があり権限を持つ。
普通は裁判が終わるとさっさと引っ込むのに、今日は、彼は国家の権力を笠に着て行動を取っていると感じた。
原告や傍聴のみなさんは、冷静に裁判官を睨んでいたが、私は権力の怖さを感じた。
●代理人弁護士の一人の北村弁護士
 これまで裁判官の態度を見てきましたが、今日も3人を見ていて裁判長が一番不真面目だと思って見ていた。
意見陳述を真剣に聞いていない。
前回の原告の陳述の時も、原告の一生懸命の訴えを真剣に聞いていないなと疑いの目で見ていた。
 だから今日の決定に対して忌避の申し立ては当然のことだと思う。
だが忌避の申し立てをしても、なかなか勝てないのが普通だ。
しかし今日は、寺井さんの話の後で原告席、傍聴席からうねりのように大きな声が上がった。
これは裁判手続き上どんな意味があるかということ以上に、裁判官にとっては大きなプレッシャーになる。
これから原告や支援者が真剣に考えていることのアピールになると大きく感じさせた。
 集団的自衛権は憲法9条に照らして違憲というのが、一番大きなところだが、ただ訴訟戦術上これを前面に出すと門前払いになるという懸念もあったので、国家賠償という形で訴え却下にならないようにやってきた。
 この訴訟の一番の根本問題は、集団的自衛権は違憲であるということにこそ力を入れていきたい。
これからも準備書面で、この点を強調していきたい。
●角田由紀子弁護士
 残念ながら、思った通りのことだった。
私は「女の会」の代理人もやっているが、女の会はこれから原告本人尋問採用せよ、証人採用せよということをやり始めるので、裁判所がどう応じるか参考にして見ていた。
 今日の原告席、傍聴席のあのうねりは凄いですね。
裁判官は怖かったのではないかと思った。
今日、裁判が始まった時の前澤裁判長はいつもとちょっと違うような顔をしていて、「あ、この人とっても怖がっているんだな」と思った。
彼は途中で「合議します」なんてパフォーマンスしていたけれど、証人を採用するかしないかという大事なことを、数分で合議などできるわけはない。
裁判官がどんな態度をとってどんな考え方で判決するかは、私たちがどんな風に訴えどんな風に主張するかと大きなつながりがあると感じているので、今日の結果はわかってはいたが、これからも負けないように、今日を出発点として次のゴールに向かっていきたい。
●福田衛弁護士
 昨日「日の丸・君が代」裁判(「再雇用拒否撤回第二次訴訟」があった。
これは起立しなかったからと再雇用を拒否された人たちが起こした裁判で高裁では勝訴だったのを最高裁でひっくり返した。
最高裁大法廷の裁判長は山口篤で、山口は憲法学者だったが最高裁に任命される直前に弁護士になった。
日本弁護士連合会は、山口以外を推薦していたが、日弁連の推薦を全て外して山口を最高裁長官に任命した。
その背景には、安倍政権の意思が働いていた。
その山口が最高裁長官になって、君が代の判決を出した。
 この流れの中で最高裁の人事の中枢にいた人間が、安保法制違憲国賠訴訟の裁判に乗り込んできて、証人採用却下という決定を出した。
私たちは司法が最後の砦だと思っていたが、この裁判を通してこの流れを突破していかないと、日本全体が本当に間違った方向に行ってしまう。
今日の忌避申し立てもそういう意味で、私たちは闘いの狼煙を上げたと考えたい。
 法的保護利益が、私たちの訴えにはあると主張した。
法的保護利益とは、この訴訟で国は最初から憲法論争を回避した。
その根拠として、私たちが国家賠償を請求している慰謝料というのは法的救済をする対象にはならない主張だと居丈高に言い、また私たちが戦争やテロの危険を訴える不安感は漠然としたもので法的保護の対象にならないと言い続けてきた。
 今日、こういう局面を迎えるにあたってその問題に私たちはきちんと反論しておく必要があるということで書面を作り提出した。
前澤裁判長もおそらく、国側同様のそこのところで私たちの主張を棄却するだろうと思う。
イラク訴訟名古屋高裁も、原告は一人1万円の国家賠償請求をしたが、青山裁判長は一人一人の真剣なその訴えは切実だということは判るが、と言いながら法的保護の対象にならないと、その請求を棄却している。
ただ傍論として憲法違反だとしたのは、アメリカの兵隊をクエートからバグダッドに空輸したことが、自衛隊業務として憲法違反の行動だったという判断をした。
憲法違反の判断をしながら原告の請求を棄却したから、国側はそれに対して上告できない結果になった。
あのイラク訴訟ですら、原告の国家賠償を裁判所は法的に救い上げることをしなかった。
私たちはそこをちゃんと、原告の一人一人が苦痛、危険を感じている、それは客観的な状況、つまり安保法制という憲法違反の法律が成立することによって、客観的に戦争の危険が高まった中で原告が戦争の追体験をし、戦争の再来を恐れる、その裏づけとして客観的状況を3人の証人に陳述してもらおうとしたのだが、聞く耳持たずという結果だった。
 行政訴訟の差止請求訴訟では原告本人尋問を予定している。
原告本人の話を聞いた上で証人尋問も判断したいと言っている。
少なくとも今日、私たちがすんなり証人申請却下を受け入れたら差止もそうなるだろうが、そういう意味も含めて今日の忌避は、私たちは証人申請却下を許さないぞという姿勢を示した。
証人申請却下に対して、私たちは忌避申し立てをして闘う姿勢を示した。
これは行政訴訟でも証人採用をさせるという目標が、あるので一緒に闘う必要があるので、まだまだよろしくお願いします。
●古川健三弁護士
 忌避するかどうかについては、弁護団で激論を交わした。
理屈から言えば忌避が通らないという見通しは残念ながらある程度あって、だから、無駄なことをやるのかという意見もあった。
ただし今日、寺井弁護士が「忌避します」と言い、それに呼応するように大きな拍手が湧き、忌避を選んだのはやはり正解だったと思う。
議会に例えれば、忌避は不信任で、不信任が拒否されて強行採決になるという話だが、そうだとしても我々は筋を通したということを残しておく必要がある。
 最近の裁判所は非常におかしな判決が、たくさん出ている。
例えば大飯原発差止訴訟は、地裁の判決を高裁がひっくり返して棄却した。
原告団はこれを上告しなかった。
なぜか。
今の最高裁では、上告したらどうなるか。
昨日の「日の丸・君が代」のような結果になったら、全国で戦っている原発裁判はどうなるのかを案じた。
それを考えると、上告を断念せざるを得なかった。
 実際に大飯の高等裁判所の裁判官も、本件のように途中で交替している。
その前の裁判では電力側に、かなり厳しい追求をしていたが、今の内藤裁判官になったら、もうガラッと変わってしまったことが原告団の声明に書いてあるから、是非読んで欲しい。
我々の忌避申し立てと相通ずるものがある。
 全国でも人事を通した意図的な裁判への介入が行われている。
この訴訟でも寺井さんが法廷で述べたように、1月に7人と5月に3人の原告尋問があった。
1月に原告尋問を聞いた裁判官は、誰一人残ってはいない。
裁判所のホームページを見れば、左陪審だった裁判官は東京地裁に残っている。
左陪審だった裁判官は残っていて、4月の本件の進行協議の時にも居た。
ずっとこの裁判に関わっていた人(左陪審だった裁判官)を目の前にして、前澤裁判長は、今度から左も替わりますからと言った。
左も替わると言うからどこかへ転勤かと思ったら、そうではなく東京地裁に居るのだ。
これはおかしい、明らかに意図的だ。
 誰がこの裁判を担当するかは、結局は裁判長の采配による。
もちろん理屈的には裁判官会議の決定で、裁判官全員で決めるということだが、
実際には裁判長の「お前はやめろ」ということだと思う。
 今回期日を迎えるにあたり、2日前に杉浦弁護士と私で改めて裁判官に証人採用をお願いしたいということで、裁判長に面会を申し出た。
4月の面会は断られていたから、正直言って今回も断られるかと思っていた。
だが、断らずに「来てください」ということだった。
あれ?と思ったが、面会して何を言うかと思えば「証人不採用になったら次はどうしますか」というわけで、4月に着任した最初から、腹の中は予断と偏見で決まっていた。
これに対して我々は、きちんと言わざるを得ない。
 裁判長は傍聴をすごく怖がっている。
今日はなんだか偉そうに最後まで残っていたので、私も驚いた。
普通は「終わりました」と言ったら、裁判官は帰る。
終わったなら帰ればいいのに、裁判官がいるからこっちだって帰れないということでしょう?
普通は裁判官が帰ってから傍聴人は帰るのに、裁判官が居るのに傍聴人が帰る法廷はない。
だからあれは、誰かが暴れたら摘まみ出してやるという態度がありありとしていて、もしそうなったら、次からは法廷に入る時には身体検査をして持ち物検査もして、携帯をを預けさせということまで考えていると、2日前にチラッと言った。
よほど怖がっている。
それに対して我々はきちんと筋を通して、言うべきことは言う態度を最後まで貫かないといけない。
これからもよろしくお願いしたい。

*報告はまだ続きます。
どうぞ、最後までお読みください。              

いちえ


2018年8月5日号「安保法制違憲国賠訴訟第8回口頭弁論①」

 大変遅くなりましたが、7月20日の裁判傍聴記です。
報告会まで含めてかなりの長文になりますが、分割してお送りします。
ぜひお読み下さいますよう願っています。       

いちえ 

7月20日、東京地裁第103号法廷で、「安保法制違憲訴訟 国家賠償請求」事件の第8回口頭弁論が開かれました。
この日も東京は猛暑の真夏日でしたが、傍聴席は埋まりました。
私は原告席に座りました。
◎第8回口頭弁論
 裁判長から、提出されている準備書面についての確認があった後で、原告代理人の福田衛弁護士、古川健三弁護士が、それぞれ意見を述べました。
●「法的保護利益の問題について」:福田衛弁護士
⒈「国家賠償法上保護された利益」とはなにか
 被告は、原告らが安保法制法の制定によって侵害されたと主張する権利ないし利益は、「法律上保護された利益」ではないから主張自体が適切でないから国家賠償は棄却されるべきだと主張し、新安保法制法の違憲性という確信の論点についての議論を回避しようとしてきた。
 しかし、「法律上保護された利益」とは何かを、被告は明確に説明できていないし、その有無の判断基準らしきものも提示できていない。
 また、被害が主観的な不安感や危機感であっても、それだけで法的保護利益性が否定されるべきではない。
例えば被告は、原告らの人権侵害の主張に対し、戦争やテロの危険にさらされるのではないかという「漠然とした不安感を抱いたという域を超えるものではない」「かかる程度の内容を持って具体的権利性が認められると解する余地などない」と主張するが、不安感や危機感を抱かされない利益も、れっきとした利益であり、最高裁判例でも法的利益たることが認められている。
「漠然とした」とか「域を出ない」とか「かかる程度の」というのは特定の立場からの評価に過ぎず、だから法的保護に値しないと決め付けることはできない。
⒉原告らの被害は新安保法制法によって作り出された客観的事実によるものであること
 原告らの戦争やテロへの恐怖、不安、危機感、自分の人格が傷つけられた苦痛は、原告らの政治的信条やものの見方や考え方によるものではない。
あるいは、新安保法制法が成立して主義主張が通らなかったことに対する憤怒の情や、挫折感、焦燥感とも全く異なる。
 原告らの精神的苦痛は、新安保法制法という日本国憲法上許されない立法行為が、集団的自衛権行使の禁止及び海外派兵の禁止という憲法上の禁を犯し、日本の国と国民を戦争とテロに巻き込む危険を一挙に拡大したという客観的事実により根拠づけられている。
現に新安保法制法の適用により、南スーダンでは自衛隊の部隊がいつ殺傷や戦に直面するかわからない状況が出現し、あるいは自衛隊の護衛艦に米軍の補給艦の武器等防護が発令されて日本は北朝鮮との極度の軍事的緊張の対立当事者となった。
原告らはこのような客観的事実の下で、それぞれの戦争体験や社会的立場に応じて、戦争の再来におののき、苦難の人生の支えを失い、生涯をかけた平和な街づくりや平和への職業的使命を妨害されるなど、各人固有の人格の侵襲を受けているのである。
⒊主観的利益の重要性と本件侵害行為の重要性
 これまでの最高裁判例でも、平穏な日常生活を送る利益、焦燥や不安を抱かされないという利益、内心の静穏な感情を害されない利益、良好な景観を享受する利益なども法的保護の対象となることが明らかにされている。
近事の下級審裁判例でも、人の精神に対する侵害や環境への侵害など非物理的侵害が不法行為法理上重要性を増し、「人格権の主観化」が進んでいることが指摘されている。こんにち、人格的利益を中心に不法行為法の保護利益が拡大し、不法行為の成立が全く否定される利益は多くないことが広く指摘されている。
 不法行為の成立は、侵害行為の態様・程度と被侵害利益の種類・性質との相関関係の下で、総合的に判断すべきとする定着した判例法理の下で、明確な根拠も判断基準もなしに「法的保護に値しない」として救済の入り口で排除するような取り扱いが決してなされてはならない。
 圧倒的多数の憲法学者、元内閣法制局長官や元最高裁裁判官らがこぞって指摘するように、明らかに憲法9条に違反する新安保法制法の制定という異常で重大な本件侵害行為が存在し、かつ、それによってこの国と原告他国民が直面させられている戦争への危険という客観的事実が存在する。
この客観的状況を直視し、その内容を解明し、その上に立って原告等の権利と利益の侵害の深刻さを正面から受け止めることなくして本件を裁く司法の役割は果たし得ない。
●「証人採用について再度の意見・要旨」:古川健三弁護士
 本件における証人尋問の必要性について、これまでにも再三にわたり意見を述べてきたが、これまでの意見を踏まえ、半田滋氏、前田哲男氏、西谷和文氏についてその必要性を述べる。
 被告は、原告の証人尋問申請に対し、「具体的な権利ないし法的利益を離れて」意見、法的評価を述べるに過ぎないと主張している。
しかし法的保護に値する権利ないし法的利益があるかどうかは、原告らの訴えだけから判断されるべきではない。
新安保法制法の制定行為それ自体の違法性や、これがもたらした客観的な状況の変化に関する事実は、被侵害利益の有無と程度を判断するために必要不可欠だ。
 原告らは市井に生きる一般市民であり、体験した事実の範囲は限られている。
これに対し新安保法制法は10件の法改正と国際平和支援法の新規立法を含む大幅な法整備で、従来の政府の憲法解釈を逸脱するものであるため、その影響はきわめて多方面に及ぶ。
新安保法制法がもたらす客観的な危険性は専門的な知見による立証が不可欠だ。
 原告らは、本人尋問でそれぞれの体験や職業的知見、社会的立場を踏まえて語った。
原告らが供述した戦争への恐怖、テロの危険、平和の喪失は個人の体験を通したものだ。しかしそれらの恐怖や危険は、客観的な事実に裏付けられたものだ。
原告ら個人の体験と、新安保法制法がもたらした自衛隊の変化や日米軍事同盟の変化などの客観的事実は一体不可分、表裏一体だ。
これまでの原告本人尋問では、まだ前者が語られただけだ。
これからさらに、専門的な知見を有する証人尋問によって、原告らが語る危険性の根拠となる客観的事実を明らかにしなければならない。
 以上を踏まえ、ここでは特に半田滋氏、前田哲男氏、西谷文和氏の証言の必要性を再度述べる。
*半田滋氏
 半田氏は、現実に紛争地帯に身を置いて取材を続けてきた経験を持つジャーナリストで、新安保法制法の危険性を判断するために必要不可欠な知見を持つ。
 本件で提出している原告本人の意見書にも、半田氏の著書が度々引用されている。
憲法学者が法的評価を行う上でも、半田氏の具体的な体験に基づく知見が不可欠だ。
*前田哲男氏
 前田氏には、自衛隊や在日米軍の実態、それらの変容について、詳細な取材に基づく多数の著述があり、原告意見書にも引用されているし、また、すでに提出している新聞記事にも前田氏のコメントを掲載するものが少なくない。
前田氏の取材活動によって得られた事実体験と知見は、新安保法制法が原告らにどのような危険をもたらしているか判断するために不可欠だ。
*西谷文和氏
 西谷氏はフリージャーナリストであるとともに、NGO代表として、イラク、シリア、南スーダンなどの紛争地帯で救援活動を行っている。
海外で自衛隊を見る目がどう変化しているか、新安保法制法がどのように国内外でのテロの危険性を高めたかについて、国内にある原告が説明することは困難だが、西谷氏はそれら紛争地帯で活動した実体験を通じて語ることのできる数少ない人物であり、その証言は本件の心理に不可欠だ。
 民事訴訟は、裁判所が必要でないと認める証拠を取り調べないことも認めているが、しかし「必要」かどうか何の基準もなく無原則に判断することは許されない。
 新安保法制法というこれまでの憲法解釈を根底から覆す立法が、憲法改正手続きにもよらずに行われたのが本件事案だ。
その社会的影響は極めて多方面に及び、国外にまで影響を及ぼしている。
原告らの主張が単なる漠然とした不安感や焦燥感に過ぎないのかどうか、それらは原告らの個人的な体験だけではなく、それぞれ証人の体験や知見を通じてこそ判断できる。原告らが申請する証人はいずれも原告らの体験を補完して客観的な危険性を語りうる人物だ。
いずれ証人尋問も、本件の争点に深く関わるものだ。
万一、裁判所が原告らの証人尋問をすべて却下するなら、重要な証拠方法を却下したものとして、審理不尽になると言わざるを得ない。
 証人尋問の採用を改めて求める。
●裁判官合議
 二人の弁護士が意見陳述をした後で、3人の裁判官は「合議をします」と言って退出しました。
そして、ものの数分も経たぬうちに戻ってきて言い放ったのです。
「合議の結果、証人は採用しません」
 原告席、傍聴席からは、一瞬息を呑んだように悲鳴のようなため息がもれました。
すかさず弁護団長の寺井弁護士が挙手して忌避申し立ての意見陳述を求めました。
●「裁判官を忌避します」:寺井一弘弁護士
 4月に裁判官が3人とも交代したことの不自然さを言い、これまでの裁判官は、同じこの東京地裁の民事部にいて他へ移動にはなっていないことにも言及し、この交代劇の裏にはなんらかの意図があるのではないかと追及しました。
そして「証人採用せず」の不当な採血をした裁判官を「忌避します」と宣言したのです。
 原告席、傍聴席からは割れるような大きな拍手がわきました。
 裁判官は「閉廷します」と言いましたが、そこここから声が上がったのです。
「人でなし!」「それでも裁判官か!」「恥を知れ!」「戦争法なんだぞ!解ってるのか!」
「憲法違反だぞ!」「税金泥棒!」
 次々に上がる声に裁判官は「閉廷しました。退出してください。部屋から出てください」と言いますが、誰も席を立ちません。
声は鳴り止まず「それでも人間か!」「「憲法違反の法律だぞ!」「証人を採用しなさい!」
いつもなら「閉廷」の声とともに裁判官は立ち上がり、同時に法廷内の全員が立って礼をして、裁判官はさっさと退出するのですが、原告席からも傍聴席からも抗議の声が上がり続け、裁判官も席を立てずに座ったまま「退出してください」を繰り返しました。
 が、そうしていても埒があかず、私たちは憤りと悔しさを抱えたまま席を立ったのでした。


2018年8月2日号「7月31日南相馬」

●朝の散歩
31日は5時少し前に目が覚めて窓を開けると、朝靄が深くて太陽は見えません。
顔を洗って身支度をして、散歩に出ました。
いつものコースでビジネスホテル六角を出てコンビニの角を曲がり、森合の集落を抜けて小浜への道です。
コンビニの角を曲がった少し先の、蓮池に寄りました。
道路から外れて畑のあぜ道を通って行けるのです。
幾本かは名残の花をつけていましたが、ほとんどがもう種になっていました。
然程大きくはない池(4×2mほど)ですが、水面は蓮が埋め尽くしているのです。
花の盛りに訪ねたのは、去年だったか一昨年だったか…
それはそれは、夢のような光景でした。
小浜の荒川さんの家が在ったところは、道路になっていました。
太田川の河口の橋も完成して、通れるようになっていて、辺りの景色はすっかり様変わりしていました。
そこから引き返して来た道を戻ると、向こうからランニングしてくる人がいました。
キャップを被ってタオルの鉢巻をしていたのでとっさに気がつかなかったのですが、「あれ、一枝さん来てたの?」と元市長の桜井さんでした。
「昨日来て、今日は寺内の仮設に行ってから帰ります」と答えると、「なんだ、連絡くれればよかったのに。じゃぁ、僕はここを回ってから後で六角に行きます」と言って向こうへ走って行きました。
相変わらず元気そうな姿でした。
つい最近気がついたのですがスマホの「ヘルスケア」というところは、万歩計のように歩数や歩いた距離、上がった階数が表示される機能だったのです。
スマホはいつも持ち歩くばかりではなく身近に置いたままのこともありますから、ここに表れる数値に信憑性はないだろうと思っていますが、この朝は宿を出てからずっと持って歩いていましたから、確かな数値だろうと思います。
歩数は8300となっていました。
六角に戻ってシャワーを浴びて食堂に行けば、桜井さんが来ていました。
お聞きしたいことはいくつかありました。
一つは特定避難勧奨地点の避難指示解除に関してです。
これは私も支援者として関わり傍聴を続けている、「南相馬・20ミリシーベルト撤回訴訟」に関係します。
もう一つは、桜井さんのこれからの去就についてです。
でもそうした話に入る前に別の宿泊者が現れて桜井さんに話しかけて、居合わせた大留さんや大留さんの息子さんも交えて、もちろん私も加わってその話題になってしまったので、私が聞きたかったことはまた改めて次の機会にと思いました。
●心配なこと
寺内塚合仮設住宅も残っている人は、本当に少なくなりました。
談話室のメンバーで残っているのは天野さんだけ、山田さんも自宅に戻ったそうです。
5月に訪ねた時には、大工さんの手が空かず自宅の改修がまだ済まな胃のでいつ戻れるか判らないと言っていたのですが。
だから談話室に居るたのは、菅野さんと天野さんの2人でした。
天野さんは、携帯が見つからないと言って探していました。
談話室では見つからず、自室へ探しに行きましたが「無かった」と言って戻ってきました。
もう一度大留さんと一緒に自室に行き、大留さんの携帯から天野さんの携帯に電話をしてみても着信音は鳴らず、ゴミと一緒に捨ててしまったのではないかと、また大留さんが一緒にゴミ置場に確かめに行っても見つかりませんでした。
天野さんと大留さんがいない間に、菅野さんに聞いたことです。
最近天野さんは、いつもどこかに何かを置き忘れて、探してばかりいるというのです。
また、夜中に誰かがドアをノックしたりガチャガチャ開けようとしたりすると言うけれど、夜中に誰も来たりはしていない筈だと言うのです。
仮設住宅の住人の誰も、夜中にそんな物音は聞いていないそうなのです。
また他にも気がかりなことを幾つか聞きました。
86歳で一人暮らしの天野さん、心配です。
菅野さんも天野さんを案じて、できるだけ一緒にいるようにしているそうです。
この日、談話室を辞してから市議の田中京子さんに会ったので状況を話し、ケアの方策を考えてくれるようにお願いしました。
●ハプニング
田中京子さんに会うよりも前のことです。
談話室から戻ろうとした時のことです。
大留さんが車のエンジンをかけようとしたのですが、なんとバッテリーが上がってしまっていてエンジンがかかりません。
なんとしてもダメ。
自動車修理工の根本内さんに電話をして、助けを求めました。
幸いトシさん(私はいつもこう呼んでいます)が在宅していて、待つこと30分ばかりで、原町から駆けつけてくれました。
トシさんが来るまでの間、大留さんが運転席でエンジンのスイッチを入れた時に私が後ろから力いっぱい押したりしたのですが、車はウンとも言わずにビクともせず、暑いさなかに大汗をかきました。
トシさんにそれを言うと、「今の車はそんなことじゃ動かないし、昔の車だって一枝さんが押したくらいじゃビクともしないよ」と、笑われました。
トシさんの車と繋いで充電してもらって、発車オーライでした。
そんなハプニングで終わった今回の南相馬行でした。          

いちえ


2018年7月31日号「7月30日南相馬」

 久しぶりの南相馬です。
今回は原町区馬場の羽根田ヨシさんを再訪することと、寺内塚合仮設住宅の談話室に行って天野さんたちに会うことが目的です。
前回が5月の連休明けでしたから、あれから2ヶ月半もの時が経っていました。
6月は私が眼瞼下垂の手術を受け、その予後があまり芳しく回復せずにいて病院通いが続いていました。
7月も最終になって、ようやく身動きとれる様になったのです。
●まずは椏久里へ
 朝の新幹線で福島駅に着いたのは10時少し前、まずは椏久里へ向かいました。
椏久里のトーストとコーヒーで早お昼を済ませて、11時半のバスで南相馬へ向かうのです。
これが大抵いつもの私の流儀。
お店のドアを開けて入ると、奥で商品のラッピングをしていた秀耕さんが「ひさしぶりですね。これから?」と顔をあげ、そして「原発の刑事裁判の記録を読んでいますよ」と言ってくださいました。
「一枝通信」のことなのですが、いつも長くなってしまう通信を読んでくださっているという言葉に励まされます。
 美由紀さんも奥の工房から顔を出して、「あら、いらっしゃい。これからでしょう?11時半のバスね?その前に仕事が終わるから送っていきますよ。それまでごゆっくりね」と言って、また仕事に戻りました。
 ほどなく、注文したトーストとコーヒーが運ばれてきました。
縦に三つに切り分けた1枚の厚切りのバタートーストは、まん中の一つにブルーベリージャムと苺ジャムがひと匙ずつほど載せてあります。
それに今日は、中深煎りのブルーマウンテンをお願いしました。
しみじみと、「おいしいなぁ」と味わいながらゆっくりいただきました。
人様に手をかけてもらった食べ物を、こんな風に寛いで頂ける幸せを感じながら。
こんな気持ちを味わえるのも、大きなご馳走です。
 美由紀さんの車で駅まで送っていただく途中で、美由紀さんは言いました。
「この間飯舘村の家に帰って、初めて一泊したの。眠れなかった。今年も畑のブルーベリー測ってもらったら、5ベクレルだった。下がっているけれど、でも食べられないし使えない」
政府が言うのは100ベクレルですから、5ベクレルなら…とも思いますが、この数値を良しとしないのが美由紀さんの矜持であり、そんな美由紀さんに私は尊敬の念を抱き拍手を送ります。
 通りに面して「浜焼き」と看板のかかった店を指して、美由紀さんが言いました。
「このお店ね、飯舘の子が始めた店なの。開店するからって店に挨拶に来てくれたので、行ってみたの。20代の子だけど、しっかり頑張っているから応援しようと思ってる。
若い人たちはこうして新しい生き方を見つけて頑張っているけど、50代60代が揺れていてなかなか踏ん切りがつかないのね」
ああ、そうなのだろうなぁと思いながら聞きました。
年代的にもそうなのでしょうが、根本原因が“放射能災害”で、それに関して政府の出す情報に信頼がおけないとなれば、若くもない老齢でもない年代には、なお一層「踏ん切りをつける」のは難しいだろうと思えました。
こんな風に人生を中途半端にさせてしまったことも、原発事故の大きな罪だと思えます。
●バスの車窓から
 西の地方では各地で集中豪雨の被害が出て、また今回の台風でも雨がだいぶ降ったようですが、福島の中通り地方では、雨は然程でなかったのでしょうか。
渡利大橋の下を流れる阿武隈川は水量も少ないようで、水辺にはアオサギ、小鷺が数羽いました。
川べりには葛の葉が生い茂り、山の道に差し掛かれば木々の緑にむせかえるようでした。
花の終わったネムノキに「ああ、今年は合歓の花を見なかった」と、大切なことを落としてしまったように思いました。
 川俣の飯舘村の3小学校の仮設校舎が在った場所からは仮設校舎は跡形もなく消えて、そこは何もない更地になっていました。
幼・小・中一貫校となった村の新しい校舎を、思い浮かべます。
子どもたちは、どんな夏休みを過ごしているのだろう?
 飯舘村道の駅でトイレ休憩をして、バスは柳沢トンネルと抜けて南相馬へ入りました。
今日は相馬野馬追の最終日ですが、大原の村上さんの家は無人のままでした。
2012年の野馬追いの日、早朝に村上さんの家を訪ね村上さんと息子さんの二人の出陣の支度からを拝見し、出陣式を見送ったのでした。
あの年は村上さんが中之郷の侍大将で、雲雀が原の神旗争奪戦では息子さんが旗を獲ったのでした。
●懐かしい顔
 バスは、終点の東北アクセス本社前に着きました。
大留さんが迎えに来てくれているはずなのに、車が見当たりません。
バスの到着が少し早かったからと思ってベンチに掛けて待とうとしたら、駐車場から降りてきた車があって、後部座席に大留さんが座っています。
あれ?と思って運転席と助手席を見たら、なんと荒川さん夫妻でした。
陽子さんが運転して、登さんが助手席にいたのでした。
 荒川さんは六角支援隊で大留さんの片腕となって活動していた人で、私もずいぶんお世話になりました。
「わぁ、久しぶり!なん年ぶりかしら?」と言うと、「4年ぶり」と答えが返りました。
そんなに長い日が経っていたのだと、改めて震災からの年月を思いました。
 荒川さんは原町区小浜の自宅が津波で半壊し、原町の借上げ住宅に住みながら六角支援隊でのボランティア活動に中心的に関わっていました。
六角支援隊では支援物資配給、イベント開催、ビニールハウスや畑の提供、試験田での米つくりなどをやってきましたが、避難指示が解除されてきてボツボツと仮設住宅を出る人たちが見られるようになった2014年春、六角支援隊としての活動は閉じたのでした。
 その頃荒川さんも仙台市に新居を建てて、転居したのです。
前述した相馬野馬追で大原の村上さんの出陣式を見送ったのも、陽子さんの導きによってでした。
陽子さんは、村上さんの中学時代の同級生だったのです。
●羽根田ヨシさん
 羽根田さんは鹿島区の借上げ住宅にいた頃、六角支援隊が提供した畑を使っていた一人です。
被災前には、品評会で何度か賞を取ったことのあるかぼちゃ作り名人の羽根田さんは、六角支援隊の畑でも、かぼちゃを作っていました。
飯舘村の渡邊とみ子さんの「いいたて雪っ娘」かぼちゃの記事を雑誌「家の光」で読んで、とみ子さんに連絡をして種を入手して「いいたて雪っ娘」や、他にもいろいろな野菜を作っていました。
荒川さんと一緒に羽根田さんの住むアパートを訪ねると、自分の作った野菜での数々の手料理で歓待してくれて、そのお料理がまたどれも美味しくて、荒川さんと私は羽根田さんにつくり方を教えてもらったりもしていたのでした。
 そして今日は、荒川さんも一緒に羽根田さんの自宅を訪ねたのでした。
前回5月の連休明けに訪ねた日は、ちょうど羽根田さんはデイサービスに通う日でしたから、ほんのご挨拶程度の訪問でした。
今日はゆっくりお邪魔して、みんなで話が盛り上がりました。
 羽根田さんは被災前からずっと詩吟の教室に通っていて、借上げ住宅にいた頃も教室のある日には毎週、鹿島区から原町まで通っていたのです。
また借上げ住宅のアパートでは声を出せないからと、まだ他の人が来ない朝早くに六角
支援隊の畑に来て、そこで詩吟を歌っていたのでした。
そんな話が出た後で大留さんが、「詩吟を聞かせて」と言うと、「一つやりましょうか」と言って、羽根田さんは詩吟を語ってくれました。
詩吟特有の言葉なので私にはしっかり聞き取れなかったのですが、その後でもう一曲(詩吟は曲と呼ぶのでしょうか?それとも違う言い方をするのでしょうか?)「白虎隊」を語ってくれました。
これは私にも内容が聞き取れました。
朗々と語る羽根田さんは、素敵でした。
 羽根田さんからは、羽根田カンボス彗星を発見した叔父さんのことや、ヒノキの植林の話、子どもの頃のことや、詳しく聞きたいことが山のようにありました。
ヨシさん一代記をお聞きしたいと思っていました。
 その羽根田さんは、「私の投稿が、今日の新聞に載ったのです」と言って「福島民友」を見せてくれたのですが、新聞の「窓」という投書欄に「感謝をしながら90歳の坂を上る 南相馬市 羽根田ヨシ88」という投稿を見せてくれました。
投稿が好きで、時々投稿しては掲載されているというのです。
そしてまた、折々に書きためた自分史の束を見せてくれたのです。
 書くことが好き、読むことも好き、関心があることにはすぐに行動に移し、詩吟や書道と趣味も多彩なヨシさんから、私は今日、そのご自分で書かれた自分史の束をお借りしてきました。
帰宅してゆっくり読ませていただこうと思います。
 震災の年の夏から南相馬に通い、こうして野に在る素晴らしい先輩たちに出会えたことが、私には大きな喜びでもあります。
ヨシさんのことはまたいつか改めてお伝えしたいです。
●また懐かしい人に
 羽根田さんのお宅を辞して、宮ちゃん(高橋宮子さん)の家に向かいましたが、ちょうど途中には鈴木時子さんの家があるのです。
時子さんの家にも寄りました。
時子さんもまた六角支援隊で陽子さんとともに、大留さんの片腕になって動いていた人です。
いわば六角支援隊の司令塔が大留さんで、時子さんと陽子さんが実質的に活動の中心になっていたのです。
 時子さんもご夫婦で在宅で、まるで今日は同窓会のようでした。
●宮ちゃん
 宮ちゃんも元気にしていて、部屋の天井からはみやちゃん手作りの飾り物が下がってっていて、「ここでな、夏祭りをしようと思ってんの。10人くらい呼んでな。そん時に市長さんもご招待しようと思ってんのよ」と言います。
昨年の選挙で前市長の桜井さんが負けて、自公が推した候補が新市長になりました。
その人の評判の悪いこと、悪いこと!
「自分で票入れた人たちからも文句が出てるんだよ」と言われているのです。
 宮ちゃんの招待に市長が応じるかどうかは判りませんが、荒川さんも大留さんも私も、「もし市長が来たら、要望をしっかり伝えた方が良いよ」と言いました。
きっと宮ちゃんのことですから、先刻そのつもりではいるのでしょう。

 久しぶりに懐かしい人たちに会えて、またあった人たちが皆元気で、嬉しいことで
した。                          

いちえ


2018年7月17日号「南相馬・避難20ミリシーベルト撤回訴訟」

 7月12日(木)、東京地裁第103号法廷で、件名の裁判の口頭弁論がありました。
裁判長と右陪審が交代して2回目の口頭弁論期日でした。
原告側から3本の準備書面が提出されて、原告の佐藤さんと原告代理人の福田弁護士が説明に立ちました。
◎この裁判について
●これはどんな訴訟か?
 2014年12月、政府は南相馬市の特定避難勧奨地点について、年間積算被ばく線量が20ミリシーベルトを下回ることが確実になったとして、避難勧奨地点を解除し、その後順次支援策や賠償を打ち切りました。
 特定避難勧奨地点とは避難指示区域に含まれないものの、積算線量が20ミリシーベルトを超えるとされる、いわゆるホットスポットのことで、南相馬市の山沿いにある原町区片倉、馬場、押釜、高倉、大谷、大原地区、そして鹿島区の橲原(しではら)、上栃窪地区について、地域内の世帯ごとの特定地点を設定して避難を勧奨したのです。(2014年10月現在142地点、152世帯)
地点に指定されていた世帯や近隣の合計808名が解除の取り消しを求めて国(原子力災害対策現地本部長)を相手取って提訴しました。
●訴訟での原告の主張
 原告は、20ミリシーベルト基準での特定避難勧奨地点の解除は、次の3点において違法であると主張して、解除取り消しを求めています。
⑴講習の被ばく限度が年間1ミリシーベルトを超えないことを確保するべき国の義務に反する。
⑵政府が放射線防護の基準として採用している国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に反する。
⑶政府が事前に定めた解除の手続き(新たな防護措置の実施計画の策定、住民等の意思決定への関与体制の確保)を経ることがないまま解除を強行した。

◎7月12日口頭弁論
●佐藤さんの意見陳述
 解除手続きの違法性について、住民の意見が無視されたまま進められた実情を具体的
に訴えました。
 被告は「賛否を含め様々な意見や要望があり得る中、住民らの意見や要望を全て取り入れられるものではなく」と言うが、本件においては大多数の住民が反対している状況であるから、それらの意見を反映し、真摯に検討の対象とすべきであるのに、解除に反対する住民の意見は全く考慮されなかった。
 第一に、当初解除の予定は平成26年10月中とされていたところ、住民に対して初めて説明会が開催されたのは平成26年10月8日であり、解除まで3週間を切った日程だった。もはやこの説明会において出た意見を「真摯に検討」する時間はなく、住民らの意見を真摯に検討する意図が全くなかったことは明らかである。
 第二に、平成26年9月26日には、「解除時期について、特に生活の節目は考慮しない」「心情では理解させていただいているつもりではあるが、解除の時期の再検討は考えていない」との発言もあった。
平成26年10月11日には、「子どもを守りたい」との思いで除染を求めた住民に対し、現地対策本部は、「心配なら掃除で対応」「農地、道路の除染を終了させてから解除すべきというご指摘に関しては、特定避難勧奨地点の指定は面的な避難指示を出す場所ではなく…」と回答している。
これは、住民の不安の理由や生活についてなんら耳を傾けていないことを示す事実である、真摯な検討をする意思すら有していなかったことは明らかである。
 第三に、被告は、「賛否を含め様々な意見や要望」と主張するが、行政区長の説明会においても住民の説明会においても、賛成意見が出た記録などどこにもない。
後藤副本部長は、現地訪問で賛成の意見もあったような発言をしているが、現地にて賛成意見があったという記録は存在していない。
にも関わらず本件解除を強行したことは、住民らの意見を全く考慮せず、真摯な検討をしていなかったことを示すものと言わざるを得ない。
 従って、住民、地方自治体が関与できる枠組みを構築せず、住民、地方自治体の意見をなんら真摯に検討することなく行った本件解除には手続き的違法があることは明らかである。
●福田弁護士の意見陳述
 本件解除の違法性について、主張しました。
 原子力安全委員会の「放射線防護に関する基本的な考え方」として、ICRPの勧告の内容をほぼそのまま引用し、特に現存被ばく状況においては、現存被ばく状況において適用されるバンドの年間1〜20mSvの下方の線量を参考レベルとして選定し、長期的には年間1mSvを目標とするよう述べている。
原災本部長による権限行使は、当然に原子力安全委員会の意見を基準としてなされなければならない。
 被告の主張は、原子力安全委員会の原災法上の位置付け、および原子力安全委員会によるICRP勧告の取り入れについて無視したものであり、失当であるとして、ICRP勧告が解除の際の基準を構成すること、そしてICRP勧告違反があること、土壌中の放射性物質についても考慮されるべきであることを主張しました。
 そしてまた、放射線の健康影響に関する主張を述べました。
本件解除に当たって参照にされる科学的知見として、LNTモデル(放射線被ばく量がどれほど少なくても、その線量に比例して人体への影響があるとする考え方)は、放射線の健康影響に関する科学的証拠に照らして適合的であると主張しました。
●被告は
 第12会口頭弁論期日に向けて被告からは、書面の提出も意見も出されませんでした。

*原告佐藤さんが意見陳述を終えると、期せずして傍聴席から拍手が起こりました。
すると裁判長は、拍手を制しました。
傍聴席から拍手が起き、裁判長がそれを制するのはこれまで他の裁判でもよく体験していました。
つまり、自然発生的に拍手は起きてしまうのですし、裁判長としてはそれを制したいのでしょう。
ところがこの日は、裁判長が「拍手はしないように」と言ったその直後に、傍聴席の一隅からまた拍手をした人がいました。

◎報告集会
 閉廷後、参議院議員会館で報告会が開かれました。
●挨拶:原告団長の菅野さん
 特定避難勧奨地点に指定された8行政区は、子どもがいない、若い人がいない。
空間線量は低くなってきましたが、土壌の線量は高い。
やっと、申し込めば土壌線量も測ってもらえるようになりましたが、例えばキノコなどは最初の頃よりももっと線量が高くなっている。
 そうした中で若い人が帰ってこないですから、農業後継者はいない。
耕作放棄地が増えている。
畑地を除染して山土を入れたところでは、牧草の種をまいても芽が出てこない。
つまり農地も崩壊。
 同じ行政区内でも、特定避難勧奨地点に指定された家と指定されなかった家もあるため、地域が分断され行政区が崩壊した。
家族も分断されて崩壊、大自然も崩壊、病院も看護師がいなくて、80歳過ぎた人で資格を持つ人が働いているような状況です。
●福田弁護士
 今回の内容について説明された後で、傍聴席からの拍手について触れました。
自然発生的拍手は構わないが、裁判長が制した後でもう一度拍手が起きたが、あの行為はこの裁判を進めるにあたってはこちらの不利になることを説明されました。

*この日、傍聴席は埋まらず空席もありました。
感覚での発言は控えたいとは思いますが、この裁判長はなんとなく「食えない」人のように感じられます。
傍聴席を埋め尽くして、司法を監視する姿勢で裁判を見つめていきたいと思います。
どうぞ、次回の口頭弁論にご参加ください。              

いちえ


2018年7月16日号「6月24日集会報告③」

●佐藤道代さん(ダンサー)
*佐藤さんプロフィール
津田塾大学卒業後、ロータリー財団奨学生として留学したNY大学より1997年修士号及び舞踊教育学科長賞「舞踊教育への特別な専心」を授与。
1999年イサドラ・ダンカン国際学校教員免許取得後、2000年より同校日本大使として国内外で講演、指導を行う。
2007年「イサドラの舞踊理論とスピチチュアリティー」を、2013年「古代ギリシャとイサドラ」の論文を出版。
作家として自作を国内外で公演、NYタイムス紙は「スタイル・内容共に洗練された作風」と書く。
2012年より福島の小学校、仮設住宅で福島の美しい自然を踊る活動も行う。
★佐藤さんのプログラム
・「復讐の女神」音楽:グルック「オルフェ」より、振付:イサドラ•ダンカン(1910)
 イサドラ•ダンカン振付のダンスを緋色の衣装で舞い、会場を魅了しました。
・福島県伊達市大石小学校の子供たちの映像
 大石小学校の子ども達が佐藤さんの指導で伸びやかに表現活動をする様がスクリーンに映し出されました。
・「狩り」音楽:リスト超絶技巧練習曲第8番、振付:佐藤道代(2015年)
 「墨虎を獲らんと欲せば白狼の足跡を進むべし」飯舘村の山津見神社の神話によせて、福島の霊山に700年伝わる「濫觴の舞」を元に、自然と文明の融合を祈念して、白装束に刀を手にして舞った佐藤さんでした。

●西尾綾子さん(伊達判決を生かす会)
*西尾さんプロフィール
 1969年新潟県生まれの会社員。
2003年のイラク戦争をきっかけに、市民運動に関わるようになる。
新宿での路上生活者支援などを経て、2015年より毎週日曜日に池袋駅前で仲間達とともに、プラカードを持ち安保法制反対などのスタンディングアピールを続けているほか、ラジオ番組「みんなの民主主義歩みの会」(FMたちかわ)作りにも参加している。
また、人権NGOのボランティアとして人権問題にも取り組む。
現在「伊達判決を生かす会」の会員として、砂川事件の元被告らと共に、砂川事件最高裁判決を無効とする再審請求を最高裁に特別抗告中。
★西尾さんのお話
・戦争は嘘と秘密から始まる
 戦争は嘘と秘密から始まると言われます。
安倍政権は特定秘密保護法に始まり、安保法制、共謀罪、原発、モリカケ、日報問題など、嘘と秘密、疑惑のオンパレードです。
ナチスの手口に学んだらどうかなどと、どなたかが仰いましたが、嘘も繰り返せば本当だと思わせると言わんばかりです。
国民が知るべき真実は秘密にされて、国会での議論は封殺されています。
2014年7月、安倍内閣は集団的自衛権の行使容認の法的根拠として、砂川事件最高裁判決を持ち出しました。
これは、明らかな間違いです。
・砂川事件とは
 ご存知のように砂川事件裁判の主な争点は、日米安保条約に基づく米軍駐留が憲法9条に違反しているか否かです。
安保法制が合憲だと主張するために、無関係な砂川事件裁判最高裁判決を持ち出し、無いものをあると言い張るような強引な嘘を堂々とついています。
これを政府がやっていることに私は、戦慄と憤りを禁じ得ません。
そのような形で思いがけずに注目を浴びましたが、砂川事件裁判は今日もなおさまざまな意味で重要です。
 1955年現在の立川市にあった旧米軍立川基地の拡張計画に反対して、多くの市民、労働者、学生達が立ち上がった砂川闘争は警官隊の暴行で多数の負傷者を出しながらも、彼らは非暴力の抵抗を貫き、米軍基地の拡張を断念させました。
しかし、デモ隊の一部が立ち入り禁止の基地内に数m入ったということで、7名が日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反で逮捕起訴されました。
これが1957年の砂川事件です。
1959年3月30日に出された第一審東京地裁判決は、画期的で非常に明快、そして至極真っ当な判決でした。
伊達秋雄裁判長の名をとって、伊達判決と呼ばれています。
・伊達判決
 日本国憲法第9条は、従来の我が国の軍国主義的、侵略主義的性格についての反省だけでなく正義と秩序を基調とする世界永遠の平和を実現するための成文たらんとする高邁な理想と悲壮な決意を示すものである。
駐留米軍は、憲法9条によって禁止されている戦力の保持に該当するもので違憲である。
駐留米軍が違憲である以上、日米安全保障条約に基づく刑事特別法は無効であり被告人は全員無罪。
今日に至るまで、駐留米軍を違憲とした判決は、伊達判決しかありません。
・司法権の放棄
 当時日米両政府は、日米安保条約改定に向けて動いていました。
駐留米軍を違憲とした第一審が安保改定の妨げになると考えた日米政府は、伊達判決が出てすぐに最高裁に異例の跳躍上告をしました。
1959年12月16日、最高裁の田中耕太郎裁判長は第一審伊達判決を破棄し、事件を東京地裁に差し戻しました。
差し戻しで被告人達は、罰金2,000円の有罪判決を言い渡されました。
 この判決は、いわゆる統治行為論に使われました。
日米安保のごとき高度の政治性を持つものは、裁判所はこれを判断しないとして、司法権を放棄したのです。
嘉手納国賠訴訟や厚木基地夜間飛行差止訴訟の判決を見ても判るように、今なお裁判所は米軍基地がらみの判断からは逃げています。
後の裁判に判例として影響を持ち続ける砂川事件最高裁判決ですが、実はこの裁判は日本の司法に大きな汚点を残した問題のある裁判でした。
・新事実の浮上
 判決から時を隔てた2008年以降、米公文書館で相次いで見つかった文書によって、田中最高裁長官が、当時のマッカーサー駐日大使と複数回にわたり秘密裡に接触して、進行中の砂川事件裁判について情報を流していたという驚くべき事実が明らかになりました。
田中裁判長は砂川事件裁判の判決方針や判決時期などを、米大使に伝えていました。
日米安保改定の障害となる第一審伊達判決を、なんとか早く潰そうという日米両政府の思惑に、日本の司法が完全におもねっていたのです。
 日本国憲法第37条に謳われた公平な裁判を受ける権利は、最高裁長官の自らの手で潰されてきたのです。
・「伊達判決を生かす会」結成
 砂川事件裁判が結審して50年後に発覚したこの驚くべき新事実に対して、元被告の土屋源太郎氏らは「伊達判決を生かす会」を立ち上げ、2014年6月、高裁の砂川事件判決は憲法違反で無効であるとして、免訴判決を求めて東京地裁に提出しました。
東京地裁は2016年3月これを棄却。
土屋氏らは東京高裁に即日抗告しましたが、昨年11月これも棄却されました。
 しかし、ここでへこたれるような土屋氏らではありません。
現在、最高裁に特別抗告しています。
この先また、ニュースなどで報道されることもあろうかと思います。
みなさんどうぞ、今後も注目をお願いします。
・伊達判決の今日的な意義
 なぜ、土屋氏はじめ「伊達判決を生かす会」は闘い続けるのか。
砂川闘争に関わった人たちは皆、先の戦争を実際に経験した人たちです。
土屋氏もそうですが、子ども時代に疎開生活や空襲にあった経験を持つ人たちです。
みな今の政治や社会を見て、あの時代の空気に似てきている、日本は再び戦争になりつつあるのではないかという、強い危機感を持っています。
そして今なお沖縄を中心に日本各地に存在する米軍基地、米軍機による事故、基地関係者による犯罪、基地の騒音公害、住民の暮らしや美しい自然を破壊し、民意を無視して強引に進められる辺野古新基地建設や高江ヘリパッド建設。
戦争の反省から生まれた憲法9条は、駐留米軍を認めないとした伊達判決が、不正な最高裁判決によって破棄された代償はあまりにも大きいです。
今こそ砂川事件最高裁判決を覆し、伊達判決を生かす必要があるのです。
 今日もみなさん仰っているように先日、米朝首脳会談が実現しました。
日本を取り巻く国際情勢は目まぐるしく変化しています。
周りの国々は平和への道を選びとって、共に手を取り合って歩み始めています。
一方アジア平和外交の蚊帳の外に置かれた日本は、軍備拡大の道をひた走っています。
莫大な軍事予算が米国からの武器輸入に当てられ、一方で福島は切り捨てられています。
安倍首相の言う安全保障というのは軍事力のもとであって、米軍との一体化を意味しています。
このような認識でいる限り、日本はアジア平和外交に与することは絶対できません。
真の安全保障は不断の努力と、開かれた対話によってもたらされます。
愛と知性が必要なのです。
・あきらめずに粘り強く声をあげ続けよう
 対話を軽視し軍事力に頼る国の指導者は国際情勢を誤った方向に導きかねず、自らが国難であることにさえ気づきません。
いま国会前や街頭など色々な場所でたくさんの市民が、政治を変えよう、社会を良くしようと、声をあげています。
デモや集会も、署名集めも行われています。
土屋源太郎氏は言います。
「あきらめずに粘り強くやっていかなければいけない」
84歳の言葉には重みがあります。
私たちは伊達判決に光を当てた憲法9条を謳う平和国家への、確かな道を歩む為に耳を澄まし、言葉を磨き、仲間と繋がりながら、あきらめずに粘り強く声をあげ続けなければならないと思います。
 7月15日(日)伊達判決59周年記念集会があります。
一人でも多くの方に来ていただけるとありがたいです。

●湯川れい子さん(音楽評論家・作詞家)
*湯川さんプロフィール
 東京都生まれ、山形県米沢で育つ。
昭和35年、ジャズ評論家としてデビューした後、早くからエルヴィス・プレスリーやビートルズを日本に広め、作詞家としても活躍。
代表的なヒット曲に『涙の太陽』『ランナウェイ』『センチメンタル•ジャーニー』『六本木心中』『恋におちて』など作品多数。
環境問題を含め、次世代の育成にも力を注いでいる。
日本音楽療法学会理事、国連世界食糧計画WFP協会顧問
★湯川さんのお話
・19歳からの反核運動
 こんなメチャクチャな政治を見る日が来るとは、私の人生の中でも思ってもいませんでした。
いま人生100歳の時代で、私も後何年生きられるか判りませんが、もう82年生きてきました。
82年間の内19歳の時からずっと、反核運動をしてきました。
運動などという意識は全然ないのです。
人間として当たり前のことでしょう。
「こんなもの、あっては困る」と思って意見を言ってきただけで、それは音楽を聴くのと同じ感覚だからです。
音楽を聴くと細胞のレベルから元気になるのです。
・ビートルズ、武道館公演
 ビートルズが1966年にやって来て、武道館を使いました。
1966年というと52年前でビートルズが来た時は、私はラジオのDJとか音楽評論とか、いろんなことでバリバリとやっていましたから、日本で一番ビートルズに詳しい人間かと思います。
その2年前にビートルズはデビューしていますから、30曲もヒット曲があるのです。
アメリカ、イギリスで1位になったような曲が、30曲もあるのです。
日本にビートルズが来ても、雨が降っても公演を振り替えることができないくらい世界的な人気者になっていましたから、だから屋根があるところで1万人近く入れるところを使いたかった。
そうでなければ、コンサートができない。
その2年前に東京オリンピックがあって、武道の殿堂として武道館を使っていました。
そこしか使えなかった。
それでしかも、ドル、外貨を持っていたのは大きな新聞社や商社くらいでしたが読売新聞が外貨を持っているということで、招聘元になりました。
読売新聞の社主は中曽根康弘さんと一緒に日本に原発を持ち込んだ正力松太郎さんでしたが、正力さんは武道館の館長でもあったのです。
そういう立場の人が喜んで貸しましょうということで武道館に決まったのですが、当時の政治評論家の小汀利得さんとか結構偉い方たちが、日曜討論会のような番組で、「あんなテートルズか何か知らないが、西洋乞食のような奴らに神聖な武道館を貸すとは何事だ」と仰ったんですよ。
嘘みたいな話ですが、本当のことです。
しかも「貴重な外貨を使うとは何事か。エレキなんか聞くと不良になる」と。
わずか52年前ですが現実にそんなことが起きていたのです。
・おっちゃんたちには判らない
 私はその頃もうビートルズが大好きでしたから、どうしてこれがいけないのだろう、このどこがいけないのだろうと思っていました。
そして3日間5回公演で合計たった35分、11曲だけ歌ったのです。
前座がずっとあって、ビートルズのたった11曲の中にポール•マッカートニーが歌った名曲「イェスタデイ」が入っていたのです。
なんでその時、あの偉いおっちゃんたちは判らなかったんでしょうねぇ。
なんであれを聞くと不良になると思ったんでしょうねぇ。
そして実際にコンサートの時には警備員の人たち、警察や消防の人たちがいっぱいいて、なぜか機動隊までいましたけれど、200人も子どもたちが補導されました。
一目ビートルズを見たいと来た子ども達が、200人補導されました。
それで学校に通知されたり、親に迎えに来てもらったり、停学処分になったり、本当に色々ありました。
それは私にとって理解できないことでした。
・耐え難かった贔屓
 話を遡ります。
私は昭和11(1936)年に生まれましたが父は海軍の大佐で、父のいとこが山本五十六です。
母方の祖父は黒井悌二郎といって、海軍大将でした。
上杉鷹山公の米沢の出身ですから、貧乏藩です。
お金がない子弟は、文武両道で海軍兵学校に行くのが米沢のエリート教育でした。
私の父を含め親戚は、そういう家系でした。
 私は父が海軍大佐、五十六さんがおじさんですから、小学校1、2年生の頃はメチャクチャに先生から贔屓されていました。
その頃クラスメートにウスイさんという女の子がいて、その子は多分お父さんが作家だったのか、いわゆる自由を主張されたお父さんだったと思います。
広い講堂での朝の教育勅語の時間に、私は寒くて寒くておしっこを漏らしちゃったんです。
酷く叱られたと思うでしょう?
ところが私の担任は男の先生でゲートルを巻いた軍国青年のような人でしたが、私をストーブのところへ連れて行って手ぬぐいで一生懸命乾布摩擦をして乾かしてくれ、濡らしたパンツをきれいに包んで、私が持って帰れるように紐で結んで帰してくれたんです。
 その頃ウスイさんが何をしたというのでしょうね。
いつもその先生の逆鱗に触れて、小学校は木の椅子ですから、そこに後ろ手に縛られて、よくポロポロ泣いていました。
贔屓にされていた私が、気持ちがいいと思いますか?
耐えられなかったです。
・兄のこと
 私の18歳上の長兄は、絵が好きで音楽が好きな人でした。(注:昭和19年フィリピンで戦死。私はずっと以前に湯川さんからこのお兄さんのことをお聞きしたことがありましたが、素晴らしい方でした。生きて戦後の日本で活躍して欲しかったと思いました。)
 次兄は父の背中を見ていて、その頃は憧れだったのでしょう。
猛勉強をして麻布中学から海軍兵学校に入りました。
海軍兵学校を出て零戦に乗りました。
その後終戦の時まで、いわゆるガリガリにエリートだったと思います。
桜花隊の分隊長になって、桜花に乗っている時ではないですが飛行機が事故で落ちたんですね。
撃ち落とされたんではないのですね。
その兄に一度聞いたことがあります。
「零戦に乗っている時とか、空中戦で何機か相手の飛行機を落としたことはあるの?」
兄は「一機も」と答えました。
そんな経験をしないまま戦争が終わり戦後3年経って、奇跡的に生き残って帰ってきました。
その兄を主人公にした本が出ております。
『特攻』(注:寺田晶著、到知出版社)というその本の中で兄が言っているのですが、終戦の時に兄は生存者名簿から消されて3日間死んだことにされて、特別な任務を持たされたそうです。
極東裁判などで天皇陛下に戦争責任が及んだ場合に、いかに天皇陛下を逃がすかという作戦があって兄はその一人で、海軍出身者が一人もいない島根県の小さな村に全くの偽名で3年間その秘密指令を待って、やがて帰ってきたという数奇な運命を持った兄です。
(注:上記の本には次兄の帰宅は昭和21年と書かれているようですが、湯川さんは次兄は3年間潜伏して後に帰宅したと話されました。)
 戦後海上警備隊などを経て海上自衛隊が発足すると即座に入隊したその兄とは、もうさんざん国防という問題、集団的自衛権についてありとあらゆる議論をしてきました。
兄は言いました。
「理想としては君の言う通りだが、今まで戦って負けた国の民族というのは、一度潰されると二度と立ち上がれないんだ。日本のようなこんな小さくて360度海に囲まれた国が生き残っていくためには、どうすればいいんだ?
少なくとも今はアメリカの核の傘の下でこうなっているが、どれほどあの頃僕がソ連からのスクランブルを受けながら緊急発進していたか知っているだろう?」
兄は、千葉と三沢の航空隊司令をやっていました。
・オスのヤキモチ
 そういう中を私は生きて、音楽が好きで、ただひたすら音楽が好きで、それで気がついたのです。
さっきのビートルズ、なんで?なにがいけないんだ?って。
ファンたちがキャーと立ち上がると、日体大の学生とか(注:日体大の体育会系学生も警備に雇われていたようです)お巡りさんが、「座って聞けぇ!」「気狂いか!」ってやられる。
だって嬉しいのよ、大好きな、素敵な男の子が来て素敵な歌を歌っているんですもの。
なんで「座って聞けぇ!」って言われるのか…。
ここにご参加の男性たち、ごめんなさいね。
私、オスのヤキモチだと思ったの、オスのヤキモチ。
よその格好いいオスが自分とこに入ってきて、自分とこのメスがキャァ〜って喜んで面白いわけないじゃない。
しかも、そのおじさんたちは聞いたことのない歌だったから、騒音にしか聞こえないわけです。
ロックなんて聞くと不良になるって。
なりましたか?
・音楽の秘密
 いま私は音楽療法学会というところで理事をしています。
音楽は何かということを、昨日も1日原稿に書いていたのです。
諏訪の陣太鼓とか西洋のドラムボーイとか、太鼓を叩く破裂音の楽器を持った人たちが、諏訪の陣太鼓は神事として『天と地と』という映画に出てきますが、御神技として安全と勝利を祈りながら、まず真っ先に太鼓が突っ込んでいくのです。
 少なくとも36,000年の音楽の歴史を調べると、戦争のために音楽が使われたことはありません。
ヒットラーはいつも演説の前にワーグナーを大音響で流して、人の心を掴みました。
オウム真理教もそうでした。
音楽が入ってくると、そこに同時にメッセージが入り込むからです。
そういう使われ方をしましたが、音楽というのは常に、「みんなで楽しくやろう」だったら今日もここに書いてあるように(注:集会のタイトル「いま、語り 描き 写し 歌い舞うとき」を指して)、語り、歌い、舞う、踊るんです。
音楽があるところは、平和なんです。
みんな、何をメッセージとして受け取るのか。
ビートルズが来たときも、そうなんです。
「サァみんな、楽しく生きようよ」って、メッセージを受けるんです。
そこが音楽のすごいところです。
 そこに何があるのか。
赤ちゃんがお腹の中にいるときに、お母さんの心臓の音に刺激されながら、お母さんの心臓の音に共振して共鳴して、その2倍の速さで赤ちゃんの心臓は動いている。
生まれてから自分の生涯の基本リズムを心臓が刻んで、そこに高等動物である人間は外からリズムを与えられて、その基本リズムの定常性、恒常性は整うという体のメカニズムを持っています。
だから外から太鼓だとかリズムを与えられると、すごく楽しく、すごく生き生きとして、細胞のレベルで元気になるのです。
それが音楽の秘密だということなのです。
・どこの国にも嫌な奴はいるけれど
およそ36,000年前の洞窟から出てきた人類で一番古い管楽器といわれる動物の骨を吹いたり、洞窟の壁画からも判っていますが、ことごとく左様にそういうところでずっと私は、お陰様でまだペレストロイカが溶け始めた頃のソビエトと言われたロシアにも行っています。
それからやっとイギリスの領土から解放されたジャマイカにも、まだ麻薬が入り込む前に行っております。
いろいろなところに行きました。
中国は80年代に万里の長城の修復ボランティアというか、環境保全で行っております。
 どこの国にも嫌な奴はいるんです、どこの国にも悪い奴はいるんです。
でも、どこの国にも私たちと同じような人たちが、必ずいるんです。
本当にこれだけはぜひ諦めないで、そういう人たちとなんとか一緒に手を携えて、同じ人間だよね。
みんな向こうだって十月十日大変な思いをして、大きなお腹を抱えて産んだ子どもがいるんです。
そしてその子ども達がやがて兵士になって、人の頭を切り落とすようなISの残酷な残虐な兵士にもなるんです。
 そうならないためには、どうしたらいいのかと言ったら、本当に昨日の(注:集会前日の行き縄慰霊の日)相良倫子さんの素晴らしいあの詩。
・地震大国に原発は要らない
 私も14歳の頃から詩を書き始めました。
でも私は、自分の毛穴から子宮から命じるままに、自分の意見を言う環境運動をしてきました。
そしたら1999年に東海村のあの事故、あの柄杓で原液を汲むというバカなことで臨海事故を起こしたとき、その頃ちょうど私は、通産省が審議会として原子力の平和利用という部会に所属して、呼ばれて参加していました。
夢中になって、この日本に原子力発電所は要らないと言いました。
少なくとも議事録だけは残して学ぶだけでもいいから、この地震大国にそんなものは要らないと言いました。
「だって原発って双子の子どもじゃないですか。
爆発すると、私たちはコントロールできないんだから。
活断層があるかもしれないじゃないですか。
活断層はないんですか?」
無いって言われました。
今でも私は、その時の委員会の25名の名簿を持っています。
その内20名が、もう既に原発の事業者か原子力の先生か、日立とか三菱とか、ああいうところの人たちでした。
私が何を言っても、笑われました。
優しい顔で、笑われました。
「湯川さん、一人しか死んでいないんですよ。毎日交通事故で何人死んでいると思いますか?」って。
 「違うだろう!バカ野郎!!」って思いませんか?
でも、それが現実なんです。
そしてここまで来ちゃったんです。
・女性議員を増やして
 私は欲しく無いって言いませんけど、これだけ今でも税金払っていて、紫綬褒章もらいませんでした。
もちろん勲章貰いませんでした。
私の子分たちはもらっています。
だからこれからお願いしたいのは、とにかくあの相良倫子さんのような人が成長して、伸びていって、自分のやりたい仕事と自由な発言ができるような国を作って欲しいのです。
どうぞ、どうぞ、どうぞもっと女性の議員を増やしてください。
なぜなら、女性が優れていると言っておりません。
どうやったってビートルズにあの男たちが反対したように、本能的にジェンダーの差はあるのです、性差というものが。
女は根回しが効きません。
自分が本能的にこれは危ないと思うことには、必死になって子どものために逆らえるんです。
私はそれが、世界にとってとっても、とっても大切なことだと言いたくて今日までやってまいりました。
とにかく、あと何年生きられるか判らないけれど華やかに楽しく生きますから、皆さんもお元気で頑張ってください。

*大変遅くなりましたが、6月24日の集会第1部の報告です。
この後第2部では笠井千晶監督の映画『Life 〜生きていく』上映とトークがありましたが、ここでは報告を割愛いたします。
 第1部の朴慶南さんのお話から始まって湯川れい子さんのお話まで、お一人お一人が発信された言葉や歌、舞はもちろんのこと、それらが連なって複合的に伝わってきたメッセージに、大きな勇気と励ましと、そして指針を受け取ることができた集会でした。
 長文お読みくださって、ありがとうございました。        

 

いちえ


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