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2018年7月31日号「7月30日南相馬」

 久しぶりの南相馬です。
今回は原町区馬場の羽根田ヨシさんを再訪することと、寺内塚合仮設住宅の談話室に行って天野さんたちに会うことが目的です。
前回が5月の連休明けでしたから、あれから2ヶ月半もの時が経っていました。
6月は私が眼瞼下垂の手術を受け、その予後があまり芳しく回復せずにいて病院通いが続いていました。
7月も最終になって、ようやく身動きとれる様になったのです。
●まずは椏久里へ
 朝の新幹線で福島駅に着いたのは10時少し前、まずは椏久里へ向かいました。
椏久里のトーストとコーヒーで早お昼を済ませて、11時半のバスで南相馬へ向かうのです。
これが大抵いつもの私の流儀。
お店のドアを開けて入ると、奥で商品のラッピングをしていた秀耕さんが「ひさしぶりですね。これから?」と顔をあげ、そして「原発の刑事裁判の記録を読んでいますよ」と言ってくださいました。
「一枝通信」のことなのですが、いつも長くなってしまう通信を読んでくださっているという言葉に励まされます。
 美由紀さんも奥の工房から顔を出して、「あら、いらっしゃい。これからでしょう?11時半のバスね?その前に仕事が終わるから送っていきますよ。それまでごゆっくりね」と言って、また仕事に戻りました。
 ほどなく、注文したトーストとコーヒーが運ばれてきました。
縦に三つに切り分けた1枚の厚切りのバタートーストは、まん中の一つにブルーベリージャムと苺ジャムがひと匙ずつほど載せてあります。
それに今日は、中深煎りのブルーマウンテンをお願いしました。
しみじみと、「おいしいなぁ」と味わいながらゆっくりいただきました。
人様に手をかけてもらった食べ物を、こんな風に寛いで頂ける幸せを感じながら。
こんな気持ちを味わえるのも、大きなご馳走です。
 美由紀さんの車で駅まで送っていただく途中で、美由紀さんは言いました。
「この間飯舘村の家に帰って、初めて一泊したの。眠れなかった。今年も畑のブルーベリー測ってもらったら、5ベクレルだった。下がっているけれど、でも食べられないし使えない」
政府が言うのは100ベクレルですから、5ベクレルなら…とも思いますが、この数値を良しとしないのが美由紀さんの矜持であり、そんな美由紀さんに私は尊敬の念を抱き拍手を送ります。
 通りに面して「浜焼き」と看板のかかった店を指して、美由紀さんが言いました。
「このお店ね、飯舘の子が始めた店なの。開店するからって店に挨拶に来てくれたので、行ってみたの。20代の子だけど、しっかり頑張っているから応援しようと思ってる。
若い人たちはこうして新しい生き方を見つけて頑張っているけど、50代60代が揺れていてなかなか踏ん切りがつかないのね」
ああ、そうなのだろうなぁと思いながら聞きました。
年代的にもそうなのでしょうが、根本原因が“放射能災害”で、それに関して政府の出す情報に信頼がおけないとなれば、若くもない老齢でもない年代には、なお一層「踏ん切りをつける」のは難しいだろうと思えました。
こんな風に人生を中途半端にさせてしまったことも、原発事故の大きな罪だと思えます。
●バスの車窓から
 西の地方では各地で集中豪雨の被害が出て、また今回の台風でも雨がだいぶ降ったようですが、福島の中通り地方では、雨は然程でなかったのでしょうか。
渡利大橋の下を流れる阿武隈川は水量も少ないようで、水辺にはアオサギ、小鷺が数羽いました。
川べりには葛の葉が生い茂り、山の道に差し掛かれば木々の緑にむせかえるようでした。
花の終わったネムノキに「ああ、今年は合歓の花を見なかった」と、大切なことを落としてしまったように思いました。
 川俣の飯舘村の3小学校の仮設校舎が在った場所からは仮設校舎は跡形もなく消えて、そこは何もない更地になっていました。
幼・小・中一貫校となった村の新しい校舎を、思い浮かべます。
子どもたちは、どんな夏休みを過ごしているのだろう?
 飯舘村道の駅でトイレ休憩をして、バスは柳沢トンネルと抜けて南相馬へ入りました。
今日は相馬野馬追の最終日ですが、大原の村上さんの家は無人のままでした。
2012年の野馬追いの日、早朝に村上さんの家を訪ね村上さんと息子さんの二人の出陣の支度からを拝見し、出陣式を見送ったのでした。
あの年は村上さんが中之郷の侍大将で、雲雀が原の神旗争奪戦では息子さんが旗を獲ったのでした。
●懐かしい顔
 バスは、終点の東北アクセス本社前に着きました。
大留さんが迎えに来てくれているはずなのに、車が見当たりません。
バスの到着が少し早かったからと思ってベンチに掛けて待とうとしたら、駐車場から降りてきた車があって、後部座席に大留さんが座っています。
あれ?と思って運転席と助手席を見たら、なんと荒川さん夫妻でした。
陽子さんが運転して、登さんが助手席にいたのでした。
 荒川さんは六角支援隊で大留さんの片腕となって活動していた人で、私もずいぶんお世話になりました。
「わぁ、久しぶり!なん年ぶりかしら?」と言うと、「4年ぶり」と答えが返りました。
そんなに長い日が経っていたのだと、改めて震災からの年月を思いました。
 荒川さんは原町区小浜の自宅が津波で半壊し、原町の借上げ住宅に住みながら六角支援隊でのボランティア活動に中心的に関わっていました。
六角支援隊では支援物資配給、イベント開催、ビニールハウスや畑の提供、試験田での米つくりなどをやってきましたが、避難指示が解除されてきてボツボツと仮設住宅を出る人たちが見られるようになった2014年春、六角支援隊としての活動は閉じたのでした。
 その頃荒川さんも仙台市に新居を建てて、転居したのです。
前述した相馬野馬追で大原の村上さんの出陣式を見送ったのも、陽子さんの導きによってでした。
陽子さんは、村上さんの中学時代の同級生だったのです。
●羽根田ヨシさん
 羽根田さんは鹿島区の借上げ住宅にいた頃、六角支援隊が提供した畑を使っていた一人です。
被災前には、品評会で何度か賞を取ったことのあるかぼちゃ作り名人の羽根田さんは、六角支援隊の畑でも、かぼちゃを作っていました。
飯舘村の渡邊とみ子さんの「いいたて雪っ娘」かぼちゃの記事を雑誌「家の光」で読んで、とみ子さんに連絡をして種を入手して「いいたて雪っ娘」や、他にもいろいろな野菜を作っていました。
荒川さんと一緒に羽根田さんの住むアパートを訪ねると、自分の作った野菜での数々の手料理で歓待してくれて、そのお料理がまたどれも美味しくて、荒川さんと私は羽根田さんにつくり方を教えてもらったりもしていたのでした。
 そして今日は、荒川さんも一緒に羽根田さんの自宅を訪ねたのでした。
前回5月の連休明けに訪ねた日は、ちょうど羽根田さんはデイサービスに通う日でしたから、ほんのご挨拶程度の訪問でした。
今日はゆっくりお邪魔して、みんなで話が盛り上がりました。
 羽根田さんは被災前からずっと詩吟の教室に通っていて、借上げ住宅にいた頃も教室のある日には毎週、鹿島区から原町まで通っていたのです。
また借上げ住宅のアパートでは声を出せないからと、まだ他の人が来ない朝早くに六角
支援隊の畑に来て、そこで詩吟を歌っていたのでした。
そんな話が出た後で大留さんが、「詩吟を聞かせて」と言うと、「一つやりましょうか」と言って、羽根田さんは詩吟を語ってくれました。
詩吟特有の言葉なので私にはしっかり聞き取れなかったのですが、その後でもう一曲(詩吟は曲と呼ぶのでしょうか?それとも違う言い方をするのでしょうか?)「白虎隊」を語ってくれました。
これは私にも内容が聞き取れました。
朗々と語る羽根田さんは、素敵でした。
 羽根田さんからは、羽根田カンボス彗星を発見した叔父さんのことや、ヒノキの植林の話、子どもの頃のことや、詳しく聞きたいことが山のようにありました。
ヨシさん一代記をお聞きしたいと思っていました。
 その羽根田さんは、「私の投稿が、今日の新聞に載ったのです」と言って「福島民友」を見せてくれたのですが、新聞の「窓」という投書欄に「感謝をしながら90歳の坂を上る 南相馬市 羽根田ヨシ88」という投稿を見せてくれました。
投稿が好きで、時々投稿しては掲載されているというのです。
そしてまた、折々に書きためた自分史の束を見せてくれたのです。
 書くことが好き、読むことも好き、関心があることにはすぐに行動に移し、詩吟や書道と趣味も多彩なヨシさんから、私は今日、そのご自分で書かれた自分史の束をお借りしてきました。
帰宅してゆっくり読ませていただこうと思います。
 震災の年の夏から南相馬に通い、こうして野に在る素晴らしい先輩たちに出会えたことが、私には大きな喜びでもあります。
ヨシさんのことはまたいつか改めてお伝えしたいです。
●また懐かしい人に
 羽根田さんのお宅を辞して、宮ちゃん(高橋宮子さん)の家に向かいましたが、ちょうど途中には鈴木時子さんの家があるのです。
時子さんの家にも寄りました。
時子さんもまた六角支援隊で陽子さんとともに、大留さんの片腕になって動いていた人です。
いわば六角支援隊の司令塔が大留さんで、時子さんと陽子さんが実質的に活動の中心になっていたのです。
 時子さんもご夫婦で在宅で、まるで今日は同窓会のようでした。
●宮ちゃん
 宮ちゃんも元気にしていて、部屋の天井からはみやちゃん手作りの飾り物が下がってっていて、「ここでな、夏祭りをしようと思ってんの。10人くらい呼んでな。そん時に市長さんもご招待しようと思ってんのよ」と言います。
昨年の選挙で前市長の桜井さんが負けて、自公が推した候補が新市長になりました。
その人の評判の悪いこと、悪いこと!
「自分で票入れた人たちからも文句が出てるんだよ」と言われているのです。
 宮ちゃんの招待に市長が応じるかどうかは判りませんが、荒川さんも大留さんも私も、「もし市長が来たら、要望をしっかり伝えた方が良いよ」と言いました。
きっと宮ちゃんのことですから、先刻そのつもりではいるのでしょう。

 久しぶりに懐かしい人たちに会えて、またあった人たちが皆元気で、嬉しいことで
した。                          

いちえ


2018年7月17日号「南相馬・避難20ミリシーベルト撤回訴訟」

 7月12日(木)、東京地裁第103号法廷で、件名の裁判の口頭弁論がありました。
裁判長と右陪審が交代して2回目の口頭弁論期日でした。
原告側から3本の準備書面が提出されて、原告の佐藤さんと原告代理人の福田弁護士が説明に立ちました。
◎この裁判について
●これはどんな訴訟か?
 2014年12月、政府は南相馬市の特定避難勧奨地点について、年間積算被ばく線量が20ミリシーベルトを下回ることが確実になったとして、避難勧奨地点を解除し、その後順次支援策や賠償を打ち切りました。
 特定避難勧奨地点とは避難指示区域に含まれないものの、積算線量が20ミリシーベルトを超えるとされる、いわゆるホットスポットのことで、南相馬市の山沿いにある原町区片倉、馬場、押釜、高倉、大谷、大原地区、そして鹿島区の橲原(しではら)、上栃窪地区について、地域内の世帯ごとの特定地点を設定して避難を勧奨したのです。(2014年10月現在142地点、152世帯)
地点に指定されていた世帯や近隣の合計808名が解除の取り消しを求めて国(原子力災害対策現地本部長)を相手取って提訴しました。
●訴訟での原告の主張
 原告は、20ミリシーベルト基準での特定避難勧奨地点の解除は、次の3点において違法であると主張して、解除取り消しを求めています。
⑴講習の被ばく限度が年間1ミリシーベルトを超えないことを確保するべき国の義務に反する。
⑵政府が放射線防護の基準として採用している国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に反する。
⑶政府が事前に定めた解除の手続き(新たな防護措置の実施計画の策定、住民等の意思決定への関与体制の確保)を経ることがないまま解除を強行した。

◎7月12日口頭弁論
●佐藤さんの意見陳述
 解除手続きの違法性について、住民の意見が無視されたまま進められた実情を具体的
に訴えました。
 被告は「賛否を含め様々な意見や要望があり得る中、住民らの意見や要望を全て取り入れられるものではなく」と言うが、本件においては大多数の住民が反対している状況であるから、それらの意見を反映し、真摯に検討の対象とすべきであるのに、解除に反対する住民の意見は全く考慮されなかった。
 第一に、当初解除の予定は平成26年10月中とされていたところ、住民に対して初めて説明会が開催されたのは平成26年10月8日であり、解除まで3週間を切った日程だった。もはやこの説明会において出た意見を「真摯に検討」する時間はなく、住民らの意見を真摯に検討する意図が全くなかったことは明らかである。
 第二に、平成26年9月26日には、「解除時期について、特に生活の節目は考慮しない」「心情では理解させていただいているつもりではあるが、解除の時期の再検討は考えていない」との発言もあった。
平成26年10月11日には、「子どもを守りたい」との思いで除染を求めた住民に対し、現地対策本部は、「心配なら掃除で対応」「農地、道路の除染を終了させてから解除すべきというご指摘に関しては、特定避難勧奨地点の指定は面的な避難指示を出す場所ではなく…」と回答している。
これは、住民の不安の理由や生活についてなんら耳を傾けていないことを示す事実である、真摯な検討をする意思すら有していなかったことは明らかである。
 第三に、被告は、「賛否を含め様々な意見や要望」と主張するが、行政区長の説明会においても住民の説明会においても、賛成意見が出た記録などどこにもない。
後藤副本部長は、現地訪問で賛成の意見もあったような発言をしているが、現地にて賛成意見があったという記録は存在していない。
にも関わらず本件解除を強行したことは、住民らの意見を全く考慮せず、真摯な検討をしていなかったことを示すものと言わざるを得ない。
 従って、住民、地方自治体が関与できる枠組みを構築せず、住民、地方自治体の意見をなんら真摯に検討することなく行った本件解除には手続き的違法があることは明らかである。
●福田弁護士の意見陳述
 本件解除の違法性について、主張しました。
 原子力安全委員会の「放射線防護に関する基本的な考え方」として、ICRPの勧告の内容をほぼそのまま引用し、特に現存被ばく状況においては、現存被ばく状況において適用されるバンドの年間1〜20mSvの下方の線量を参考レベルとして選定し、長期的には年間1mSvを目標とするよう述べている。
原災本部長による権限行使は、当然に原子力安全委員会の意見を基準としてなされなければならない。
 被告の主張は、原子力安全委員会の原災法上の位置付け、および原子力安全委員会によるICRP勧告の取り入れについて無視したものであり、失当であるとして、ICRP勧告が解除の際の基準を構成すること、そしてICRP勧告違反があること、土壌中の放射性物質についても考慮されるべきであることを主張しました。
 そしてまた、放射線の健康影響に関する主張を述べました。
本件解除に当たって参照にされる科学的知見として、LNTモデル(放射線被ばく量がどれほど少なくても、その線量に比例して人体への影響があるとする考え方)は、放射線の健康影響に関する科学的証拠に照らして適合的であると主張しました。
●被告は
 第12会口頭弁論期日に向けて被告からは、書面の提出も意見も出されませんでした。

*原告佐藤さんが意見陳述を終えると、期せずして傍聴席から拍手が起こりました。
すると裁判長は、拍手を制しました。
傍聴席から拍手が起き、裁判長がそれを制するのはこれまで他の裁判でもよく体験していました。
つまり、自然発生的に拍手は起きてしまうのですし、裁判長としてはそれを制したいのでしょう。
ところがこの日は、裁判長が「拍手はしないように」と言ったその直後に、傍聴席の一隅からまた拍手をした人がいました。

◎報告集会
 閉廷後、参議院議員会館で報告会が開かれました。
●挨拶:原告団長の菅野さん
 特定避難勧奨地点に指定された8行政区は、子どもがいない、若い人がいない。
空間線量は低くなってきましたが、土壌の線量は高い。
やっと、申し込めば土壌線量も測ってもらえるようになりましたが、例えばキノコなどは最初の頃よりももっと線量が高くなっている。
 そうした中で若い人が帰ってこないですから、農業後継者はいない。
耕作放棄地が増えている。
畑地を除染して山土を入れたところでは、牧草の種をまいても芽が出てこない。
つまり農地も崩壊。
 同じ行政区内でも、特定避難勧奨地点に指定された家と指定されなかった家もあるため、地域が分断され行政区が崩壊した。
家族も分断されて崩壊、大自然も崩壊、病院も看護師がいなくて、80歳過ぎた人で資格を持つ人が働いているような状況です。
●福田弁護士
 今回の内容について説明された後で、傍聴席からの拍手について触れました。
自然発生的拍手は構わないが、裁判長が制した後でもう一度拍手が起きたが、あの行為はこの裁判を進めるにあたってはこちらの不利になることを説明されました。

*この日、傍聴席は埋まらず空席もありました。
感覚での発言は控えたいとは思いますが、この裁判長はなんとなく「食えない」人のように感じられます。
傍聴席を埋め尽くして、司法を監視する姿勢で裁判を見つめていきたいと思います。
どうぞ、次回の口頭弁論にご参加ください。              

いちえ


2018年7月16日号「6月24日集会報告③」

●佐藤道代さん(ダンサー)
*佐藤さんプロフィール
津田塾大学卒業後、ロータリー財団奨学生として留学したNY大学より1997年修士号及び舞踊教育学科長賞「舞踊教育への特別な専心」を授与。
1999年イサドラ・ダンカン国際学校教員免許取得後、2000年より同校日本大使として国内外で講演、指導を行う。
2007年「イサドラの舞踊理論とスピチチュアリティー」を、2013年「古代ギリシャとイサドラ」の論文を出版。
作家として自作を国内外で公演、NYタイムス紙は「スタイル・内容共に洗練された作風」と書く。
2012年より福島の小学校、仮設住宅で福島の美しい自然を踊る活動も行う。
★佐藤さんのプログラム
・「復讐の女神」音楽:グルック「オルフェ」より、振付:イサドラ•ダンカン(1910)
 イサドラ•ダンカン振付のダンスを緋色の衣装で舞い、会場を魅了しました。
・福島県伊達市大石小学校の子供たちの映像
 大石小学校の子ども達が佐藤さんの指導で伸びやかに表現活動をする様がスクリーンに映し出されました。
・「狩り」音楽:リスト超絶技巧練習曲第8番、振付:佐藤道代(2015年)
 「墨虎を獲らんと欲せば白狼の足跡を進むべし」飯舘村の山津見神社の神話によせて、福島の霊山に700年伝わる「濫觴の舞」を元に、自然と文明の融合を祈念して、白装束に刀を手にして舞った佐藤さんでした。

●西尾綾子さん(伊達判決を生かす会)
*西尾さんプロフィール
 1969年新潟県生まれの会社員。
2003年のイラク戦争をきっかけに、市民運動に関わるようになる。
新宿での路上生活者支援などを経て、2015年より毎週日曜日に池袋駅前で仲間達とともに、プラカードを持ち安保法制反対などのスタンディングアピールを続けているほか、ラジオ番組「みんなの民主主義歩みの会」(FMたちかわ)作りにも参加している。
また、人権NGOのボランティアとして人権問題にも取り組む。
現在「伊達判決を生かす会」の会員として、砂川事件の元被告らと共に、砂川事件最高裁判決を無効とする再審請求を最高裁に特別抗告中。
★西尾さんのお話
・戦争は嘘と秘密から始まる
 戦争は嘘と秘密から始まると言われます。
安倍政権は特定秘密保護法に始まり、安保法制、共謀罪、原発、モリカケ、日報問題など、嘘と秘密、疑惑のオンパレードです。
ナチスの手口に学んだらどうかなどと、どなたかが仰いましたが、嘘も繰り返せば本当だと思わせると言わんばかりです。
国民が知るべき真実は秘密にされて、国会での議論は封殺されています。
2014年7月、安倍内閣は集団的自衛権の行使容認の法的根拠として、砂川事件最高裁判決を持ち出しました。
これは、明らかな間違いです。
・砂川事件とは
 ご存知のように砂川事件裁判の主な争点は、日米安保条約に基づく米軍駐留が憲法9条に違反しているか否かです。
安保法制が合憲だと主張するために、無関係な砂川事件裁判最高裁判決を持ち出し、無いものをあると言い張るような強引な嘘を堂々とついています。
これを政府がやっていることに私は、戦慄と憤りを禁じ得ません。
そのような形で思いがけずに注目を浴びましたが、砂川事件裁判は今日もなおさまざまな意味で重要です。
 1955年現在の立川市にあった旧米軍立川基地の拡張計画に反対して、多くの市民、労働者、学生達が立ち上がった砂川闘争は警官隊の暴行で多数の負傷者を出しながらも、彼らは非暴力の抵抗を貫き、米軍基地の拡張を断念させました。
しかし、デモ隊の一部が立ち入り禁止の基地内に数m入ったということで、7名が日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反で逮捕起訴されました。
これが1957年の砂川事件です。
1959年3月30日に出された第一審東京地裁判決は、画期的で非常に明快、そして至極真っ当な判決でした。
伊達秋雄裁判長の名をとって、伊達判決と呼ばれています。
・伊達判決
 日本国憲法第9条は、従来の我が国の軍国主義的、侵略主義的性格についての反省だけでなく正義と秩序を基調とする世界永遠の平和を実現するための成文たらんとする高邁な理想と悲壮な決意を示すものである。
駐留米軍は、憲法9条によって禁止されている戦力の保持に該当するもので違憲である。
駐留米軍が違憲である以上、日米安全保障条約に基づく刑事特別法は無効であり被告人は全員無罪。
今日に至るまで、駐留米軍を違憲とした判決は、伊達判決しかありません。
・司法権の放棄
 当時日米両政府は、日米安保条約改定に向けて動いていました。
駐留米軍を違憲とした第一審が安保改定の妨げになると考えた日米政府は、伊達判決が出てすぐに最高裁に異例の跳躍上告をしました。
1959年12月16日、最高裁の田中耕太郎裁判長は第一審伊達判決を破棄し、事件を東京地裁に差し戻しました。
差し戻しで被告人達は、罰金2,000円の有罪判決を言い渡されました。
 この判決は、いわゆる統治行為論に使われました。
日米安保のごとき高度の政治性を持つものは、裁判所はこれを判断しないとして、司法権を放棄したのです。
嘉手納国賠訴訟や厚木基地夜間飛行差止訴訟の判決を見ても判るように、今なお裁判所は米軍基地がらみの判断からは逃げています。
後の裁判に判例として影響を持ち続ける砂川事件最高裁判決ですが、実はこの裁判は日本の司法に大きな汚点を残した問題のある裁判でした。
・新事実の浮上
 判決から時を隔てた2008年以降、米公文書館で相次いで見つかった文書によって、田中最高裁長官が、当時のマッカーサー駐日大使と複数回にわたり秘密裡に接触して、進行中の砂川事件裁判について情報を流していたという驚くべき事実が明らかになりました。
田中裁判長は砂川事件裁判の判決方針や判決時期などを、米大使に伝えていました。
日米安保改定の障害となる第一審伊達判決を、なんとか早く潰そうという日米両政府の思惑に、日本の司法が完全におもねっていたのです。
 日本国憲法第37条に謳われた公平な裁判を受ける権利は、最高裁長官の自らの手で潰されてきたのです。
・「伊達判決を生かす会」結成
 砂川事件裁判が結審して50年後に発覚したこの驚くべき新事実に対して、元被告の土屋源太郎氏らは「伊達判決を生かす会」を立ち上げ、2014年6月、高裁の砂川事件判決は憲法違反で無効であるとして、免訴判決を求めて東京地裁に提出しました。
東京地裁は2016年3月これを棄却。
土屋氏らは東京高裁に即日抗告しましたが、昨年11月これも棄却されました。
 しかし、ここでへこたれるような土屋氏らではありません。
現在、最高裁に特別抗告しています。
この先また、ニュースなどで報道されることもあろうかと思います。
みなさんどうぞ、今後も注目をお願いします。
・伊達判決の今日的な意義
 なぜ、土屋氏はじめ「伊達判決を生かす会」は闘い続けるのか。
砂川闘争に関わった人たちは皆、先の戦争を実際に経験した人たちです。
土屋氏もそうですが、子ども時代に疎開生活や空襲にあった経験を持つ人たちです。
みな今の政治や社会を見て、あの時代の空気に似てきている、日本は再び戦争になりつつあるのではないかという、強い危機感を持っています。
そして今なお沖縄を中心に日本各地に存在する米軍基地、米軍機による事故、基地関係者による犯罪、基地の騒音公害、住民の暮らしや美しい自然を破壊し、民意を無視して強引に進められる辺野古新基地建設や高江ヘリパッド建設。
戦争の反省から生まれた憲法9条は、駐留米軍を認めないとした伊達判決が、不正な最高裁判決によって破棄された代償はあまりにも大きいです。
今こそ砂川事件最高裁判決を覆し、伊達判決を生かす必要があるのです。
 今日もみなさん仰っているように先日、米朝首脳会談が実現しました。
日本を取り巻く国際情勢は目まぐるしく変化しています。
周りの国々は平和への道を選びとって、共に手を取り合って歩み始めています。
一方アジア平和外交の蚊帳の外に置かれた日本は、軍備拡大の道をひた走っています。
莫大な軍事予算が米国からの武器輸入に当てられ、一方で福島は切り捨てられています。
安倍首相の言う安全保障というのは軍事力のもとであって、米軍との一体化を意味しています。
このような認識でいる限り、日本はアジア平和外交に与することは絶対できません。
真の安全保障は不断の努力と、開かれた対話によってもたらされます。
愛と知性が必要なのです。
・あきらめずに粘り強く声をあげ続けよう
 対話を軽視し軍事力に頼る国の指導者は国際情勢を誤った方向に導きかねず、自らが国難であることにさえ気づきません。
いま国会前や街頭など色々な場所でたくさんの市民が、政治を変えよう、社会を良くしようと、声をあげています。
デモや集会も、署名集めも行われています。
土屋源太郎氏は言います。
「あきらめずに粘り強くやっていかなければいけない」
84歳の言葉には重みがあります。
私たちは伊達判決に光を当てた憲法9条を謳う平和国家への、確かな道を歩む為に耳を澄まし、言葉を磨き、仲間と繋がりながら、あきらめずに粘り強く声をあげ続けなければならないと思います。
 7月15日(日)伊達判決59周年記念集会があります。
一人でも多くの方に来ていただけるとありがたいです。

●湯川れい子さん(音楽評論家・作詞家)
*湯川さんプロフィール
 東京都生まれ、山形県米沢で育つ。
昭和35年、ジャズ評論家としてデビューした後、早くからエルヴィス・プレスリーやビートルズを日本に広め、作詞家としても活躍。
代表的なヒット曲に『涙の太陽』『ランナウェイ』『センチメンタル•ジャーニー』『六本木心中』『恋におちて』など作品多数。
環境問題を含め、次世代の育成にも力を注いでいる。
日本音楽療法学会理事、国連世界食糧計画WFP協会顧問
★湯川さんのお話
・19歳からの反核運動
 こんなメチャクチャな政治を見る日が来るとは、私の人生の中でも思ってもいませんでした。
いま人生100歳の時代で、私も後何年生きられるか判りませんが、もう82年生きてきました。
82年間の内19歳の時からずっと、反核運動をしてきました。
運動などという意識は全然ないのです。
人間として当たり前のことでしょう。
「こんなもの、あっては困る」と思って意見を言ってきただけで、それは音楽を聴くのと同じ感覚だからです。
音楽を聴くと細胞のレベルから元気になるのです。
・ビートルズ、武道館公演
 ビートルズが1966年にやって来て、武道館を使いました。
1966年というと52年前でビートルズが来た時は、私はラジオのDJとか音楽評論とか、いろんなことでバリバリとやっていましたから、日本で一番ビートルズに詳しい人間かと思います。
その2年前にビートルズはデビューしていますから、30曲もヒット曲があるのです。
アメリカ、イギリスで1位になったような曲が、30曲もあるのです。
日本にビートルズが来ても、雨が降っても公演を振り替えることができないくらい世界的な人気者になっていましたから、だから屋根があるところで1万人近く入れるところを使いたかった。
そうでなければ、コンサートができない。
その2年前に東京オリンピックがあって、武道の殿堂として武道館を使っていました。
そこしか使えなかった。
それでしかも、ドル、外貨を持っていたのは大きな新聞社や商社くらいでしたが読売新聞が外貨を持っているということで、招聘元になりました。
読売新聞の社主は中曽根康弘さんと一緒に日本に原発を持ち込んだ正力松太郎さんでしたが、正力さんは武道館の館長でもあったのです。
そういう立場の人が喜んで貸しましょうということで武道館に決まったのですが、当時の政治評論家の小汀利得さんとか結構偉い方たちが、日曜討論会のような番組で、「あんなテートルズか何か知らないが、西洋乞食のような奴らに神聖な武道館を貸すとは何事だ」と仰ったんですよ。
嘘みたいな話ですが、本当のことです。
しかも「貴重な外貨を使うとは何事か。エレキなんか聞くと不良になる」と。
わずか52年前ですが現実にそんなことが起きていたのです。
・おっちゃんたちには判らない
 私はその頃もうビートルズが大好きでしたから、どうしてこれがいけないのだろう、このどこがいけないのだろうと思っていました。
そして3日間5回公演で合計たった35分、11曲だけ歌ったのです。
前座がずっとあって、ビートルズのたった11曲の中にポール•マッカートニーが歌った名曲「イェスタデイ」が入っていたのです。
なんでその時、あの偉いおっちゃんたちは判らなかったんでしょうねぇ。
なんであれを聞くと不良になると思ったんでしょうねぇ。
そして実際にコンサートの時には警備員の人たち、警察や消防の人たちがいっぱいいて、なぜか機動隊までいましたけれど、200人も子どもたちが補導されました。
一目ビートルズを見たいと来た子ども達が、200人補導されました。
それで学校に通知されたり、親に迎えに来てもらったり、停学処分になったり、本当に色々ありました。
それは私にとって理解できないことでした。
・耐え難かった贔屓
 話を遡ります。
私は昭和11(1936)年に生まれましたが父は海軍の大佐で、父のいとこが山本五十六です。
母方の祖父は黒井悌二郎といって、海軍大将でした。
上杉鷹山公の米沢の出身ですから、貧乏藩です。
お金がない子弟は、文武両道で海軍兵学校に行くのが米沢のエリート教育でした。
私の父を含め親戚は、そういう家系でした。
 私は父が海軍大佐、五十六さんがおじさんですから、小学校1、2年生の頃はメチャクチャに先生から贔屓されていました。
その頃クラスメートにウスイさんという女の子がいて、その子は多分お父さんが作家だったのか、いわゆる自由を主張されたお父さんだったと思います。
広い講堂での朝の教育勅語の時間に、私は寒くて寒くておしっこを漏らしちゃったんです。
酷く叱られたと思うでしょう?
ところが私の担任は男の先生でゲートルを巻いた軍国青年のような人でしたが、私をストーブのところへ連れて行って手ぬぐいで一生懸命乾布摩擦をして乾かしてくれ、濡らしたパンツをきれいに包んで、私が持って帰れるように紐で結んで帰してくれたんです。
 その頃ウスイさんが何をしたというのでしょうね。
いつもその先生の逆鱗に触れて、小学校は木の椅子ですから、そこに後ろ手に縛られて、よくポロポロ泣いていました。
贔屓にされていた私が、気持ちがいいと思いますか?
耐えられなかったです。
・兄のこと
 私の18歳上の長兄は、絵が好きで音楽が好きな人でした。(注:昭和19年フィリピンで戦死。私はずっと以前に湯川さんからこのお兄さんのことをお聞きしたことがありましたが、素晴らしい方でした。生きて戦後の日本で活躍して欲しかったと思いました。)
 次兄は父の背中を見ていて、その頃は憧れだったのでしょう。
猛勉強をして麻布中学から海軍兵学校に入りました。
海軍兵学校を出て零戦に乗りました。
その後終戦の時まで、いわゆるガリガリにエリートだったと思います。
桜花隊の分隊長になって、桜花に乗っている時ではないですが飛行機が事故で落ちたんですね。
撃ち落とされたんではないのですね。
その兄に一度聞いたことがあります。
「零戦に乗っている時とか、空中戦で何機か相手の飛行機を落としたことはあるの?」
兄は「一機も」と答えました。
そんな経験をしないまま戦争が終わり戦後3年経って、奇跡的に生き残って帰ってきました。
その兄を主人公にした本が出ております。
『特攻』(注:寺田晶著、到知出版社)というその本の中で兄が言っているのですが、終戦の時に兄は生存者名簿から消されて3日間死んだことにされて、特別な任務を持たされたそうです。
極東裁判などで天皇陛下に戦争責任が及んだ場合に、いかに天皇陛下を逃がすかという作戦があって兄はその一人で、海軍出身者が一人もいない島根県の小さな村に全くの偽名で3年間その秘密指令を待って、やがて帰ってきたという数奇な運命を持った兄です。
(注:上記の本には次兄の帰宅は昭和21年と書かれているようですが、湯川さんは次兄は3年間潜伏して後に帰宅したと話されました。)
 戦後海上警備隊などを経て海上自衛隊が発足すると即座に入隊したその兄とは、もうさんざん国防という問題、集団的自衛権についてありとあらゆる議論をしてきました。
兄は言いました。
「理想としては君の言う通りだが、今まで戦って負けた国の民族というのは、一度潰されると二度と立ち上がれないんだ。日本のようなこんな小さくて360度海に囲まれた国が生き残っていくためには、どうすればいいんだ?
少なくとも今はアメリカの核の傘の下でこうなっているが、どれほどあの頃僕がソ連からのスクランブルを受けながら緊急発進していたか知っているだろう?」
兄は、千葉と三沢の航空隊司令をやっていました。
・オスのヤキモチ
 そういう中を私は生きて、音楽が好きで、ただひたすら音楽が好きで、それで気がついたのです。
さっきのビートルズ、なんで?なにがいけないんだ?って。
ファンたちがキャーと立ち上がると、日体大の学生とか(注:日体大の体育会系学生も警備に雇われていたようです)お巡りさんが、「座って聞けぇ!」「気狂いか!」ってやられる。
だって嬉しいのよ、大好きな、素敵な男の子が来て素敵な歌を歌っているんですもの。
なんで「座って聞けぇ!」って言われるのか…。
ここにご参加の男性たち、ごめんなさいね。
私、オスのヤキモチだと思ったの、オスのヤキモチ。
よその格好いいオスが自分とこに入ってきて、自分とこのメスがキャァ〜って喜んで面白いわけないじゃない。
しかも、そのおじさんたちは聞いたことのない歌だったから、騒音にしか聞こえないわけです。
ロックなんて聞くと不良になるって。
なりましたか?
・音楽の秘密
 いま私は音楽療法学会というところで理事をしています。
音楽は何かということを、昨日も1日原稿に書いていたのです。
諏訪の陣太鼓とか西洋のドラムボーイとか、太鼓を叩く破裂音の楽器を持った人たちが、諏訪の陣太鼓は神事として『天と地と』という映画に出てきますが、御神技として安全と勝利を祈りながら、まず真っ先に太鼓が突っ込んでいくのです。
 少なくとも36,000年の音楽の歴史を調べると、戦争のために音楽が使われたことはありません。
ヒットラーはいつも演説の前にワーグナーを大音響で流して、人の心を掴みました。
オウム真理教もそうでした。
音楽が入ってくると、そこに同時にメッセージが入り込むからです。
そういう使われ方をしましたが、音楽というのは常に、「みんなで楽しくやろう」だったら今日もここに書いてあるように(注:集会のタイトル「いま、語り 描き 写し 歌い舞うとき」を指して)、語り、歌い、舞う、踊るんです。
音楽があるところは、平和なんです。
みんな、何をメッセージとして受け取るのか。
ビートルズが来たときも、そうなんです。
「サァみんな、楽しく生きようよ」って、メッセージを受けるんです。
そこが音楽のすごいところです。
 そこに何があるのか。
赤ちゃんがお腹の中にいるときに、お母さんの心臓の音に刺激されながら、お母さんの心臓の音に共振して共鳴して、その2倍の速さで赤ちゃんの心臓は動いている。
生まれてから自分の生涯の基本リズムを心臓が刻んで、そこに高等動物である人間は外からリズムを与えられて、その基本リズムの定常性、恒常性は整うという体のメカニズムを持っています。
だから外から太鼓だとかリズムを与えられると、すごく楽しく、すごく生き生きとして、細胞のレベルで元気になるのです。
それが音楽の秘密だということなのです。
・どこの国にも嫌な奴はいるけれど
およそ36,000年前の洞窟から出てきた人類で一番古い管楽器といわれる動物の骨を吹いたり、洞窟の壁画からも判っていますが、ことごとく左様にそういうところでずっと私は、お陰様でまだペレストロイカが溶け始めた頃のソビエトと言われたロシアにも行っています。
それからやっとイギリスの領土から解放されたジャマイカにも、まだ麻薬が入り込む前に行っております。
いろいろなところに行きました。
中国は80年代に万里の長城の修復ボランティアというか、環境保全で行っております。
 どこの国にも嫌な奴はいるんです、どこの国にも悪い奴はいるんです。
でも、どこの国にも私たちと同じような人たちが、必ずいるんです。
本当にこれだけはぜひ諦めないで、そういう人たちとなんとか一緒に手を携えて、同じ人間だよね。
みんな向こうだって十月十日大変な思いをして、大きなお腹を抱えて産んだ子どもがいるんです。
そしてその子ども達がやがて兵士になって、人の頭を切り落とすようなISの残酷な残虐な兵士にもなるんです。
 そうならないためには、どうしたらいいのかと言ったら、本当に昨日の(注:集会前日の行き縄慰霊の日)相良倫子さんの素晴らしいあの詩。
・地震大国に原発は要らない
 私も14歳の頃から詩を書き始めました。
でも私は、自分の毛穴から子宮から命じるままに、自分の意見を言う環境運動をしてきました。
そしたら1999年に東海村のあの事故、あの柄杓で原液を汲むというバカなことで臨海事故を起こしたとき、その頃ちょうど私は、通産省が審議会として原子力の平和利用という部会に所属して、呼ばれて参加していました。
夢中になって、この日本に原子力発電所は要らないと言いました。
少なくとも議事録だけは残して学ぶだけでもいいから、この地震大国にそんなものは要らないと言いました。
「だって原発って双子の子どもじゃないですか。
爆発すると、私たちはコントロールできないんだから。
活断層があるかもしれないじゃないですか。
活断層はないんですか?」
無いって言われました。
今でも私は、その時の委員会の25名の名簿を持っています。
その内20名が、もう既に原発の事業者か原子力の先生か、日立とか三菱とか、ああいうところの人たちでした。
私が何を言っても、笑われました。
優しい顔で、笑われました。
「湯川さん、一人しか死んでいないんですよ。毎日交通事故で何人死んでいると思いますか?」って。
 「違うだろう!バカ野郎!!」って思いませんか?
でも、それが現実なんです。
そしてここまで来ちゃったんです。
・女性議員を増やして
 私は欲しく無いって言いませんけど、これだけ今でも税金払っていて、紫綬褒章もらいませんでした。
もちろん勲章貰いませんでした。
私の子分たちはもらっています。
だからこれからお願いしたいのは、とにかくあの相良倫子さんのような人が成長して、伸びていって、自分のやりたい仕事と自由な発言ができるような国を作って欲しいのです。
どうぞ、どうぞ、どうぞもっと女性の議員を増やしてください。
なぜなら、女性が優れていると言っておりません。
どうやったってビートルズにあの男たちが反対したように、本能的にジェンダーの差はあるのです、性差というものが。
女は根回しが効きません。
自分が本能的にこれは危ないと思うことには、必死になって子どものために逆らえるんです。
私はそれが、世界にとってとっても、とっても大切なことだと言いたくて今日までやってまいりました。
とにかく、あと何年生きられるか判らないけれど華やかに楽しく生きますから、皆さんもお元気で頑張ってください。

*大変遅くなりましたが、6月24日の集会第1部の報告です。
この後第2部では笠井千晶監督の映画『Life 〜生きていく』上映とトークがありましたが、ここでは報告を割愛いたします。
 第1部の朴慶南さんのお話から始まって湯川れい子さんのお話まで、お一人お一人が発信された言葉や歌、舞はもちろんのこと、それらが連なって複合的に伝わってきたメッセージに、大きな勇気と励ましと、そして指針を受け取ることができた集会でした。
 長文お読みくださって、ありがとうございました。        

 

いちえ


2018年7月14日号「6月24日集会報告②」

◎間が空いて大変遅くなりましたが、「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」集会の報告の続きです。
NAJAT(武器輸出反対ネットワーク)の杉原浩司さんと、ジャーナリストのまさのあつこさん、お二人のトークをお伝えします。
●杉原浩司さん(NAJAT)
*杉原さんプロフィール
 1965年鳥取県生まれ。
1980年代半ばから市民運動に参加。PKO法反対、阪神・淡路大震災被災者による住宅再建への公的支援を求める「市民=議員立法」運動、ミサイル防衛反対、脱原発、秘密保護法・共謀罪反対などに取り組む。
2015年の戦争法審議では、集団的自衛権問題研究会ニュースレビュー編集長として国会審議ダイジェストを発信。現在、武器輸出反対ネットワーク(NAJAT)代表。軍学共同反対連絡会にも参加し、日本に「軍産学複合体」を作らせないために活動中。
共著に『亡国の武器輸出〜防衛装備移転三原則は何をもたらすか』(合同出版)、『武器輸出大国ニッポンでいいのか』(あけび書房)。『宇宙開発戦争』(作品社)に「日本語版解説」を執筆。
★杉原さんの話
・軍需産業の企業に対して不買運動を
 今日お話する中で重要なのが、このアクションシートです。(注:配布された2枚のシート。「三菱電機は防空レーダーをタイに売らないで!」「川崎重工は軍用輸送機C2をUAE(アラブ首長国連邦)に売らないで!」と書かれています。2枚のそれぞれはハガキ代に切り抜いて三菱電機と川崎重工へ抗議メッセージとして送れるようになっています)
三菱電機がタイに防空レーダーを輸出しようとしています。
三菱電機はイギリスとミサイルの共同開発もしている武器輸出の確信犯です。
私たちは三菱電機の不買運動を呼びかけています。
冷蔵庫やエアコン「霧ヶ峰」などを買わないように、そして、そのことを意思表示して欲しいと思います。
ここは、本当に問題企業です。
 もう一つは、中東の貧しいイエメンという国にサウジアラビアやアラブ首長国連邦が3年前から空爆を行い、民間人を含めた犠牲者が多く出ています。
また飢餓やコレラが拡大して人口の3分の2が人道支援を必要としており、3分の1が飢餓の一歩手前にあります。
攻撃している側のアラブ首長国連邦に、日本は川崎重工の軍用輸送機を売ろうとしています。
考えられないような非道なことです。
これを止めたいので、お配りした2枚のシートのハガキを切り抜いて、62円切手を貼って三菱電機と川崎重工に送って下さい。
私たち一人一人の声が伝わることで、武器輸出を止めさせる力になると思います。
日本の企業は軍事部門の比率はまだ非常に小さいので、消費者に嫌われるのを恐れることで、輸出を思い止まらせることにつながると思います。
まず、このことを皆さんに呼びかけます。
・軍拡も武器輸出も反対
 朴慶南さんと李政美さんの二人から話がありましたが、朝鮮半島がいま、平和に向かおうとしています。
思い起こすと、朝鮮戦争は自衛隊を作るきっかけになりました。
そして在日米軍や日米安保や、沖縄の基地を正当化する大きな理由になってきました。
それがいま終局に向かおうとしている、この動きを絶対に後戻りさせてはいけません。私たちは沖縄の基地を含めて安保や基地について大本のところからきちんと問い直して、無くしていく大きなチャンスにしていくべきだと思います。
 そうした中で、それに全く逆行しているのが安倍政権です。
安倍さんはようやく、こうやって頭をかかえるミサイル避難訓練は中止すると言いましたが、秋田県や山口県へのイージス・アショアの配備は諦めていません。
これは、1基1,000億円と言われますがもっと膨れ上がって、2基で5,000億円になるという話があります。
しかも秋田市の場合、周囲1km以内に小学校や高校などがあります。
電磁波の人体実験のようです。
地元でも反対の声は強いですが、これを押し切ろうとしています。
こういう動きも絶対に止めていかなければならないです。
 北東アジアを、軍産複合体のくびきから解き放っていく、その大きなチャンスが来ている中で私たちが主権者として、安倍政権を退陣させることが何よりも大事になっていくと思います。
・憲法9条のもとで
 憲法9条のもとで私たちは、殺し殺される戦争をしてきませんでしたが、在日米軍基地からベトナムや中東に戦闘機や軍艦が行って攻撃をして人を殺してきました。
最近も世界で6,850万人が難民になっていて、それは史上最大だと報道されましたが、世界はいま本当に悲惨な状況です。
そして、難民が生まれる最大の理由は紛争です。
日本政府は、「紛争当事国は世界に存在しない」と解釈していますが、それは武器輸出をしたいからです。
さすがに紛争当事国に武器輸出はしにくいからです。
それなのに紛争をしているアラブ首長国連邦に武器輸出をしようというのですから、ハチャメチャな話です。
 憲法9条は守るだけではなく、また9条に寄りかかるのではなく、むしろ憲法9条の理念を、戦争で利益を得ている軍産複合体を解体していく力にしていかなければならないと思います。
イエメンに関して言えば、内戦に介入しているサウジアラビアが、アメリカやイギリスから武器を購入して攻撃している一方で、攻撃されているフーシ派という勢力の背後にはイランがいるとされています。
憲法9条を持つ日本は、武器輸出ではなく、イランともサウジアラビアとも良好な関係を築いてきているのだから、両者の間に入って攻撃を止めて話し合いで解決するように言うべきだし、武器を売りつけているアメリカやイギリスに対して「武器輸出をやめろ」と言うべきです。
・あろうことか、武器見本市が!
 残念ですが安倍首相のもとで4年前に武器輸出三原則が撤廃されて、武器輸出が解禁されました。
でも、完成された武器の輸出は、今はまだゼロ件です。
ですから、私たちは実績ゼロのままで安倍政権を退陣させ、武器輸出の流れを止めて、来るべき立憲野党の政権に、武器輸出三原則を復活させ、さらにそれを強化させて、世界の武器輸出の流れを止めるような働きをして欲しいと思っています。
 安倍政権のもとでは武器輸出が解禁されただけではなく、日本で武器見本市が開かれたりして全く逆な動きになっています。
3年前にパシフィコ横浜で、戦後初めての大々的な国際武器見本市が開かれました。
世界で行われている武器見本市にも、日本政府が軍需企業を引き連れて出展しています。
最近は更に酷くなっていて、この8月29日、30日に川崎市のとどろきアリーナでイスラエルの軍事見本市の開催が予定されています。
これは、イスラエルが官民一体となって、2020年の東京五輪に照準を合わせて「テロ対策」「サイバーセキュリティ」を煽って日本市場を狙うものです。
ヨーロッパなどでイスラエルはボイコットされている中で、日本が狙われているのです。
パレスチナ人に対して虐殺を続けているイスラエルの軍事見本市を、日本で開催させてはいけないと考え、開催に反対するための相談会を7月2日に開きます。
ぜひ参加してください。
注:イスラエル軍事エキスポに反対する第1回相談会
日時:7月2日(月)18:30〜21:00
会場:エポックなかはら(川崎市総合福祉センター)第3会議室(JR南武線「武蔵中原駅」徒歩1分)
・軍拡計画を止めよう
 もう一点、朝鮮半島の状況とは真逆ですが、今年の年末までに「防衛計画の大綱」などの自衛隊の増強計画が作られます。
すでに今年度の予算で長距離巡航ミサイルの予算が付き、敵基地攻撃能力の保有に踏み出しました。
これは「専守防衛」を踏み破るものですが、それに加えて今度は空母を本格的に持つとか、サイバー、宇宙防衛に踏み込んだ新しい次元の防衛をするのだとか、様々な内容をこれに入れていこうとしています。
宝島社から出ているムック本にもあるように、「自衛隊が空母やミサイルを持っていよいよ攻撃できるようになる」「新しい自衛隊が生まれる」という方向になっていきます。
 年末までに野党の皆さんと協力して、そういうメチャクチャな計画を作らせないようにしたいです。
私たちに必要なのは、しっかり勉強して話し合って、防衛省や自衛隊が考える軍拡計画ではなく、北東アジアをもっと平和で持続可能な地域に、そして朝鮮戦争は終わらせ、中国ともきちんと話し合って軍拡競争ではなく平和の道を作っていくという計画を私たち自身が持って、それをメディアでも報道させていくような積極的な動きがとても大事です。
 昨日の沖縄慰霊の日の相良倫子さんの詩には、「今」という言葉が10回出てきました。
「未来は今なのだ」この瞬間が未来につながっていると。
私たちがしっかりと考えて、話し合って、時ははっきりと異議申し立てをして、自分たちにふさわしいと思う人を国会に、地方議会に送り出していく。
そういう努力をすることによって未来が準備されるのだということを、彼女の言葉を聞いて、肝に銘じました。
NAJATはまだまだ力は弱いですが、少人数で努力しています。
NAJATは課題の大きさに比べて人数が少ないので、時々手伝っていただけたらありがたいです。
歴史的に大事な瞬間を後悔しないように、ご一緒に頑張っていきましょう。

●まさの あつこさん(ジャーナリスト)
*まさのさんプロフィール
 1995年からダム、医療、原発などの問題を取材。現在までに3度、国会の裏方である政策担当秘書として働き、御用学者に対抗すべく東京工業大学大学院総合理工学研究科で博士号を取得。
 著書に『水資源開発促進法—立法と公共事業』(築地書館)、『投票に行きたくなる国会の話』(ちくまプリマー新書)、『四大公害病』(中公新書)、『あなたの隣の放射能汚染ゴミ』(集英社新書)など。
 昨年、このままでは戦争が起きてしまうと焦燥感に駆られて朝鮮民主主義人民共和国を取材。
★まさのさんの話
・このままでは戦争になりそうだ
 昨年、国交のない国へ行ってきました。
国連が認めている「国」は197ヵ国だそうですから、日本は196ヵ国と仲良くすればいいのですが、ところが日本は北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国とだけは国交がありません。
私は昨年10月半ばに、6日間だけ訪れてきました。
行った理由は、このままでは戦争になりそうだから、なんとか止めなければという思いに駆られてのことでした。
私は20年間ジャーナリストとして活動をしてきましたが、平和に対して行動するという経験がなかったのです。
 今日私がこの会に呼ばれたのは、そのたった1回の平和のための活動の故だと思いますが、つまり、いろいろなジャーナリスト活動をしてきましたが、それは平和あってこそのものであって、一旦平和でなくなってしまえば、そういった執筆活動もできなくなるのではないか、では何ができるかというと私は戦争を止めるための言葉を持っていないことに気づいたのです。
それで、まず行くことにしたのです。
 行って見なければ、何の言葉もかけないと思ったのです。
昨年の今頃は、バンバンとミサイルだ、ロケットだと発射実験が行われていました。
アメリカではトランプ大統領が誕生して、米国第一主義を掲げました。
初めの頃は、安全保障に金を費やすな、軍隊を海外から引き上げろと言う方々が側近に付いていましたが、3月以降フリン国家安全保障補佐官、あるいはバノン首席戦略官が退いて、マティス国防長官、ティラーソン国務長官といったネオコンといっていいような産軍複合体のような人たちが取って代わってしまい、日韓を訪れて「すべての選択肢はテーブルにある」とか言い始めたのです。
 そんな時でしたから「行くしかない」と思い、とにかく行こうと思いました。
神奈川県に「日朝国交正常化を求める会」があってそこに加えて頂いて8人で行く予定でした。
行く直前になって、トランプは金正雲を「ロケット犯」とか「チビ」「デブ」とか言い出すし、金正雲はトランプを「米国の老いぼれ狂人」とか言い出して、行くのをやめようかと思うほど怖かったし、実際に家族に反対されて取りやめた方も一人いました。
・事前学習、李教授の話
 行く前に事前勉強をしようと思い、小平市にある朝鮮大学校の李◯◯教授の話を聞きました。
「金正日時代から金正雲時代になって変わったことがある。
金正日時代は、何としても強い国を作っていくということで、砂糖よりも弾丸だった。
金正雲になってから、銃弾も大事だが砂糖はもっと大事だと、住民に満足を与える経済が大事ということで経済への変身路線になった」と聞きました。
 なぜ核ミサイル開発をするのかと聞くと、それには彼らなりの理屈がありました。
「ロシア、中国、米国、韓国、日本も含めて核の傘の下にある中で、北朝鮮だけが核を持たないということから脱却する必要がある。
過去の米国のやり方を見ていると、例えば、テロとの戦いということでアフガニスタンやイラクを攻撃してきた。
アフガニスタンもイラクも核がないからだったから、だから私たちは核を持とうということで開発をしているのだ」という理屈でした。
 他にも機会がある度にいろいろ質問して答えを聞く中で、彼らの言うこともそれなりに理屈が通っていると思いました。
例えば、ロケット実験だと言っていた時には事前通告をしていたが、それがやがてミサイル発射実験をするようになった理由を質問しました。
「ロケット実験だと言っても、ミサイル発射だと言って非難される。
それならミサイルだとすればいいのではないか。
またミサイルだと言って事前通告すれば、撃ち落とされてしまうかもしれない。
すると、そこから戦争が始まってしまうではないか」という答えが返って、それを聞くと、なるほどねというような彼らなりの理屈でした。
 また、粛清をなぜするのか、粛清はやめるべきではないかと言うと、
「◯◯◯を根拠にしている。社会主義国でも民主主義国でも資本主義国でも、国家権力は唯一統治する方法として、殺すという手段を持つ暴力装置だ」と、説明されました。
 先ほど朴慶南さんのお話にもありましたが、韓国でもかつては暗黒の時代でした。
「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国も、いずれは変わるだろう」事前準備として李教授から、そういう話を聞いて行きました。
また李教授からは、「あなたはジャーナリストだから、どんなことでも聞いてきたらいいですよ」と言われて行ったのですが、帰国後に挨拶に行ったら「よく帰って来れましたね」と言われました。
・遠慮なく聞くことができた
 実際、本当に遠慮なく聞くことができました。
その結果私なりに、お隣の国、朝鮮民主主義人民共和国はいま、二つの敵から二つの方法で彼らなりに彼らの国を守ろうとしているということで、納得できたことがあります。
 一つは、彼らが敵視しているのは米国で、その米国からなんとかして核抑止力で守りたいたいという意志が強くあるということです。
米朝首脳会談が実現した時に、なるほど彼らは言ってきたことを実現したんだと、私は思いました。
もう一つは資本主義が生んでいる多様な文化から社会主義という制度、つまり金正雲体制を守ろう、情報統制によって守ろうということなのだと思いました。
 情報統制をどのようにして行っているかというと、平壌には北京から飛行機で行きましたが、平壌空港に到着後すぐに、携帯電話を取り上げられてチェックを受けました。
印刷物やCDを持っていないかも、荷物をガサゴソ調べられました。
私はたいしたものは持っていなくて携帯もすぐに返してもらえましたが、一緒に行った仲間の中には、朝鮮民主主義人民共和国について書かれた和田春樹さんの新書を持っていた人がいて、その本は空港で没収され帰る時に返却されました。
要するに、国の体制を壊そうとする人、壊そうとするもの・情報を水際で抑えることで国の体制を守ろうとするのだということです。
やっぱり彼らにとっては、今は戦時中だという意識がとても強いことを思い知らされました。
行ってみてあちらの人たちと話をして教えられる中で、先ほどの朴さんの話にもありましたが、占領していた日本が負けて日本の武装解除を理由に米軍が入って行って、それが今に続くということを、改めて現場で勉強することができました。
 向こうでは1歳の子どもを持つキム・チョンシルさんという女性と、もうすぐ結婚するというパク・ヒョンソンさんという若い男性、そして2人の上司で朝鮮対外文化連絡協会の日本局長の男性が案内役でついてきました。
日本局長のその男性は在日朝鮮人として中学まで日本で暮らして帰国したので、日本のことをよく知っている人でした。
 その3人との会話を通して、平壌の普通の市民生活を知ることができました。
例えば米や醤油は配給制であるという社会主義の仕組みや、日常生活に必要な石鹸や歯磨きも配給制ということ。
一方では大きなスーパーもできていて、お金を貯めることができれば、そこでものを買うこともできるということなどで、祖父母や親たちの時代とは変わっていくことを、そこで暮らしている人たちは感じていることも見えてきました。
人間が3食食べて暮らしを営むという日常生活を聞くことによって、つまり社会主義とか資本主義とか、民主主義とかということは別にして、基本的な当たり前の体験を知ることを通して見えてきたことがありました。
 会話を重ねていく中で、色々な話をしても大丈夫なのだ、自信がついてきたところで、日朝平壌宣言についての感触を聞くこともできました。
2002年に当時の小泉純一郎首相と金正日国防委員長が結んだ日朝国交正常化交渉を再開するということを宣言したものですが、その中に「拉致問題」「不幸な過去の清算」「核ミサイル防衛」と、今も引きずっている3つの大きなテーマが盛り込まれていました。
交渉はこの3つを、なんとか解決していこうというものでした。
 日本にいるときには、この3つの中で日本人の主眼としては拉致問題と核ミサイル問題だと思えていたのが、あちらに行ってみると別の視点から見えてきました。
それはすぐに解決されなければならないことであり、やろうとすれば案外すぐにできるはずのこととして、在日朝鮮人の地位の問題です。
最もシンプルなもので言えば、高校の無償化の問題です。
アメリカンスクールや他のインターナショナルスクールは無償化されているのに、朝鮮学校だけが無償化されずに差別されています。
これがなぜ問題になるかという理屈も、あちらに行って判りました。
朝鮮民主主義人民共和国の憲法第15条には、「海外に在住する朝鮮同胞の民主主義的民族権利と、国際法によって公認された合法的権利と利益を擁護する」とあって、たとえ海外に暮らしている子であっても、その子たちを守らなければいけないという意識があり、それに基づいて国交正常化の交渉事項に挙げられているのです。
 あるいは先ほど朴さんの話にあった参政権もそうだと思いますが、それらのようなすぐにできることも日本政府はやってきていないというのが、朝鮮民主主義人民共和国の反日感情の言説の一つになっていることが、平壌宣言の評価について話をしている中で徐々に判ってきました。
 日本では「拉致問題」が大変問題になっているので、そのことについても聞いてみました。
すると、「拉致の事実は国家の代表が認めて謝罪をしていて、今さら隠しても何の得にもならないのに、なぜ、まだ私たちが隠しているだろうと言われなければならないのだろう。
日本が調査したいと言ってきたので、お墓まで掘って調べてもらった。
そして無期限で調べてくださいと言い、要求通りのことをして帰ったはずだ。
それなのになぜ、日本ではこういうことが報道されないのだろう」と、言われました。
 どこかに情報の齟齬があるのは明らかですが、彼らが言っていることは日本では伝わっていません。
そして日本では、現地に行ったこともない専門家がTVに出ていろいろなことを話しています。
私は、あちらに行ってみてそのギャップを強く感じました。
それが判っただけでも、行った甲斐がありました。
 なぜ平壌宣言が暗礁に乗り上げたかは、そういった日本の事情もありますが、同時に2001年のアメリカでの同時多発テロという不幸な出来事もあります。
「テロとの闘い」を合言葉に、2002年にブッシュ大統領がイラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と名指し、2003年にイラク戦争に突入しました。
 何度かそういう危機を乗り越えて、米朝首脳会談が成功したのですから、今度はやはり日本の番だと思います。
日本の番だと思うときに、向こうで聞いてきた言葉をお伝えしたいです。
朝鮮民主主義人民共和国は、他国を攻撃するようなことはしませんよね?と尋ねたら、それに応えて金さんが言った言葉です。
「他国を攻撃する暇なんかないですよ。
過去の歴史を見たら、戦争を仕掛けるのは強国であり、アフガニスタンもシリアもイラクも、軍需産業で成り立っている米国が国家の存続のために戦争を作っています。
私たちには、それだけの経済力はないです。
私たちの第一の目標は、人民生活を高めることです。
経済を高めるには平和な環境が必要です。
周辺では、社会主義の側を下ろさせようとして制裁をしてきます。
ですから、自分たちを守れる力を養うしかないのです。
でも、他国と戦争をするなんて、とんでもない。
戦争をして豊かになれるわけはないのです」
キッパリと彼女は、そう言いました。
 私は、女性たちだけではなく男性も含めて、平和であってこその世の中であり経済であり、そのように一致している価値観で共に行動ができれば、197ヶ国はいずれ平和な世界が作れると思います。


2018年7月9日号「お知らせ」

◎「天福ノ島」東京公演、無事終了
 以前にお知らせした『天福ノ島』東京公演、7日は昼・夜2回の公演がありました。
今年1月に三春のデコ屋敷で上演された本公演のDVD上映と、今回の東京公演のために新たに作られた番外編の短編劇、休憩を挟んでゲストトークでした。
三春で観劇した時の感動が蘇り、そして番外編がまたとても素晴らしかったのです。
自由民権運動が潰されていった明治期と、原発事故から7年目の福島の状況が、より一層リアルに伝わってきて、そしてまたこれは「福島の物語」なのではなく、私の身に起きている今なのだと深く心に響きました。
 昼の部のトークは、影浦峡さん(東京大学大学院教育学研究科教授)お芝居台詞の中の一言から、自分自身また、人々の思考や行動について考えさせられる深いお話でした。例えば「するべきだ」という言葉がどんな時にどんな立場で発せられるのかなど、示唆に富み、自分自身の日頃の何気ない行動や言葉に思いを馳せました。
30分ほどの短い時間でしたから、もっとゆっくりお聞きしたい内容でした。
 夜の部では私が、「民権ばあさん」と「妹の力」をテーマに話しました。
明治期に日本の各地で自由民権運動が起きた頃「西の土佐、東の福島」と言われたそうですが、そのころの土佐の女性民権家、楠瀬喜多さんのことと女性性の持つ根源的な力のことをお話しました。
 8日は13:00〜の1回公演でしたが、この日も満席。
3回の公演がすべて満席で、多くの方が観てくださり本当に嬉しいことでした。
「『天福ノ島』東京公演 勝手に応援団」として集会でチラシを配布してきましたが、それを見ておいでくださった方たちもおいででした。
ありがとうございます。
この演劇の脚本・演出の大野沙亜耶さんをお若い方だと認識してはいましたが、この日に年齢(28歳)を知り大変驚きました。
いつかゆっくり彼女と話してみたいと思いました。

◎トークの会のお知らせ
「福島の声を聞こう!vol.28」のお知らせです。
日 時:8月17日(金)19:00〜21:00(開場18:30)
場 所:セッションハウス•ガーデン(新宿区矢来町158 2F)
参加費:1,500円(参加費は被災地への基金とさせていただきます)
 今回のゲストスピーカーは東京から福島県田村市へIターンで移り住み、原発事故で東京に避難している熊本美彌子さんです。
60歳の定年を機に、予てから希望していた田舎暮らしをと田村市に移住。
夫婦で鍬で200坪を開墾し、無農薬有機栽培で農業に勤しんできました。
だのに原発事故で、老後の夢が潰え、暮らしも一変してしまいました。
現在は被災者として東電•国の加害責任を求めて係争中です。
 私は集会や裁判傍聴の折に度々熊本さんにお会いしていますが、我が身のことだけではなく他の被災者の方達の立場にも思いを寄せて発言する熊本さんの言葉から、多くを学んでいます。
熊本さんのお話を、ぜひ多くの方にお聞きいただきたいと願っています。       

いちえ

vol28new-3

 


2018年7月6日号「お知らせ」

『天福ノ島』東京公演は、いよいよ明日からです。
今朝の毎日新聞に、紹介記事が載りました。
どうぞ、お出かけください。    

いちえ

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関連:

2018年7月4日号「7月3日国会前」

昨日お送りした『天福ノ島』東京公演のチラシは、表面だけでした。
裏面に詳しい情報がありますので、そちらを送信いたします。
大変失礼いたしました。
各回とも終演後にトークがあります。
7日14:00の回のスピーカーは、影浦峡(かげうらきょう)さん。
【東京大学大学院情報学環/教育学研究科教授】
7日18:30の回は、私が話します。
8日13:00の回は『天福ノ島』キャストの鈴木勇也さん、鈴木七恵さん、千葉乙寧さん。
モデレーターは、チグリハーブさん(歌手)です。
会場のシネマハウス大塚は、4月にオープンしたばかりですが心地よい空間です。
都立文京高校のすぐ前です。
どうぞお越しください。

いちえ

天福ノ島

関連:

2018年7月3日号「7月3日国会前」

7月3日、「アベ政治を許さない」国会前スタンディングの日でした。
いつもの仲間たちに新しい仲間も加わって、暑い日差しの下でプラカードを掲げて立ちました。
でも風があったのが幸いでした。
澤地久枝さんをはじめとして、70人ほどの参加でした。
国会開催中のためなのか、いつもよりも警備の警官、公安が多くたちました。
すでに顔なじみの他に若手の新顔たちも居て。
私は「天福ノ島」東京公演のチラシを50枚持参して配りましたが、後から来られた方の分は足りなくなりましたから。

配布したチラシの「天福ノ島」東京公演、いよいよこの週末です。
今年1月に三春で上演された公演を観て、ぜひ東京公演をと願って実現する今回の企画です。
多くの方にご覧いただきたいお芝居です。
どうぞ、お越しください。
きっと心に深く残るひとときになることと思います。          

いちえ

天福島


2018年6月30日号「6月24日集会報告①」

◎「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」主催第19回集会
 6月24日(日)、第19回「いま、語り 描き 写し 歌い 舞うとき」を催しました。
15年前の3月、アメリカ軍がイラクの首都バグダードへ空爆を開始し宣戦布告ないままイラク戦争が始まりました。
「イラクが大量破壊兵器を保有している」というのが、侵攻の理由でした。
米英軍の陸上部隊侵攻や各所への空爆が行われ、4月9日バグダード陥落。
5月1日当時のアメリカ大統領ブッシュが勝利宣言をし、12月にフセインは捕捉されました。
 日本では当時の小泉首相がアメリカを支持し、2003年にイラク特措法が強行採決され2004年1月、陸上自衛隊がイラクへ派兵されました。
アメリカを中心とした有志連合軍によるイラク戦争には、連日多くの市民が反対の声をあげて集会やデモを行っていました。
国会にイラク特措法が案件として上がり強行採決によって成立した過程でも、多くの市民が国会に馳せ参じて反対の声をあげました。
 そんな中で出会った女性たちと立ち上げたのが、この集会主催団体の「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」です。
歌で、カメラを通して、絵画やアートの力で、など「表現者はリレーする」として様々な手段で、戦争への道は歩かない!思いを訴えようと立ち上げたのでした。
 イラク戦争から15年、日本は今、ますます戦争への道へ進もうとしているように思えてなりません。
そんな今ですからキャッチフレーズを、「武器ではなく対話を 威嚇ではなく笑顔を」として開催した第19回集会でした。
集会は例年どおり、第1部「表現者はリレーする」、第2部「映画とトークの夕べ」の2部構成で行いました。

◎第1部「表現者はリレーする」
●朴慶南(ぱく きょんなむ)さん
*プロフィール
 作家・エッセイスト。
1950年、鳥取県生まれの在日韓国人二世。
命の大切さと人間の尊厳を軸に、誰もがその人らしく生きられる平和で平等な共生社会を目指して執筆すると共に、全国各地で広く講演活動を行っています。
★朴慶南さんのトーク
・素敵な挨拶
 ご存知の方も多いと思いますが朝鮮語で「こんいちは」を「アンニョンハセヨ」、丁寧に言う時には「アンニョンハシムニカ」と言います。
漢字で書けば「アンニョン」は「安寧」で、「安寧でいらっしゃいますか」という挨拶言葉です。
 北海道に行った時に、アイヌの人たちの挨拶言葉を覚えました。
「イランカラプテ」というのですが、「あなたの心に触れさせていただけますか」という意味だそうです。
「あなたの心に触れさせていただけますか」、素敵な言葉ですね。
互いの心に触れ合えば、争いや戦争はなくなると思います。
 昨日6月23日は沖縄慰霊の日でした。
酷い地上戦が行われた沖縄で、そして日本軍が武装解除した日が昨日でした。
昨日の慰霊式で中学生の女子生徒、相良倫子さんがとても素敵な平和の詩を朗読されました。
生きることがどれほど大切かが伝わってくる、素晴らしい詩でした。
沖縄では今も大変な基地の負担が押し付けられ、そして辺野古ではあれだけ沖縄の人たちが反対しているにもかかわらず、基地建設が進められています。
 沖縄には米軍基地がたくさんあり海兵隊が駐留していますが、いま東アジアでは平和の方に向かおうとしています。
・6月という月は
 4月27日、南北首脳会談が板門店で行われました。
あの映像を見ながら、私は涙がこぼれました。
きっと日本人の皆さんとは感じ方が違うかもしれませんが、「こんな日が来たんだ!こんな時が来たんだ!」
 思い起こせば2000年の6月13日、平壌空港に韓国大統領キム・デジュン(金大中)氏が降りて、当時の北朝鮮の最高指導者キム・ジョンイル(金正日)氏と握手したのでした。
その時も胸がいっぱいになって、鳥取に住む父にすぐに電話をしました。
父は7年前に亡くなりましたが、私は日本で生まれた在日二世ですが、父は7歳で日本に来ました。
父の故郷は朝鮮半島ですが、弟一家、妹一家は北朝鮮で暮らしています。
南北分断の狭間で、父は長い間、70数年も故郷に戻ることができず、北にいる弟や妹を思いながら、ひたすら平和を祈って、半島が一つになって会える日を願って生き続けていました。
その父に、「お父さん、見ていますか?」と電話をしたのです。
無口な父は一言、「見てる。泣いてる」と言いました。
いま父が生きていたら、あの板門店の光景を、どんな思いで見ながら泣いただろうと思います。
 明日の6月25日は、朝鮮戦争が休戦になった日です。
6月はいろんな思いが深い月ですが、朝鮮戦争は1950年に始まり1953年に休戦協定が結ばれました。
38度線を挟んで同じ民族が戦いあって、大変な悲劇で、離散家族は1,000万人とも言われています。
・38度線
 38度線がどうして引かれたか、みなさんご存知でしょうか?
それは、日本と大きな関係があります。
日本の植民地支配が36年間続き1945年8月15日、日本の敗戦と同時に私の国、朝鮮半島は独立を果たしたと言われていますが、しかし、独立は果たされていなかったのです。
まだそこは、日本の領土だったからです。
敗戦後の日本は米軍が占領していて、朝鮮半島は被占領国の日本のままだったのです。
 1952年サンフランシスコ平和条約が締結されて、占領のくびきから放たれました。
1945年の朝鮮半島は日本の領土のままでしたが、日本軍の武装解除という名目でアメリカとソ連がそこに入って引かれたのが、38度線でした。
そう思うと38度線は、歴史のつながりの中でいまに至っている事をわかっていただきたいです。(そう言って朴慶南さんは、大きくため息をつきました)
 明日6月25日は休戦協定が結ばれた日ですが、それを平和協定にする事が悲願です。
まだ、朝鮮では戦争は終わっていないのです。
まだ唯一戦争が終わっていない地なのです。
それが日本とは全く関係がない事ではないのです。
日本の植民地支配の流れの中で、朝鮮半島はいまも戦争で分断されているのです。
 実は、日本が北海道で分断されるという話もあったようです。
敗戦国ドイツは、戦争責任として東西冷戦の中で分断されました。
日本も同じように北海道で分断されそうになったのを、日本の身代わりのようにして朝鮮半島が冷戦の中で分断されたのです。
 そういう中で両首脳が、「これから朝鮮半島は平和の道へ向かっていくのだ。和解の道を進むのだ」という熱い思いの宣言を、板門店で出したのです。
・南北会談そして米朝会談実現
 その流れの中で6月12日、本当に行われるのかハラハラしながら見ていましたが、米朝首脳会談が行われました。
去年は、もう戦争が起きるのではないかと、一触即発のような空気が漂っていました。
それを一番歓迎して煽っていたのが、アベ政権です。
それ以前の自民党政権もそうでしたが、一貫して北朝鮮の非道さと脅威を挙げて、自分たちの延命と今の状況を作り出しています。
アベさんにとっては、朝鮮半島が平和になることを望んでいない。
トランプが米朝会談をやめると言った時に、唯一賛成したのがアベさんです。
 本来なら東アジアの安定が、日本の平和にとって一番大切なはずです。
それなのに東アジアに不安があるから、アメリカの核の傘の下にいなきゃいけない。
米軍基地がいっぱい必要だという状況を作っています。
 ムン・ジェイン(文在寅)大統領でなかったら、今日の南北首脳会談も米朝首脳会談も実現しませんでした。
ムン・ジェイン政権になって、「何があっても絶対に朝鮮半島で戦争を起こさせない」という思いが貫かれて、南北会談、米朝会談が行われたのです。
その前のパク・クネ(朴槿恵)政権、その前のイ・ミョンパク(李明博)政権だったら、南北関係は緊張したままだったでしょう。
・長い暗黒の時代があった
 ムン・ジェイン政権がどうして誕生したか、皆さん思い起こしてください。
テレビでよく報道されていましたね。
朝鮮半島は北も南も、本当に辛い時代を生きてきました。
38度線に分断され、イ・スンマン(李承晩)政権ができたあと1960年4月19日、学生たちが起ち上り李政権を倒しましたが、パク・チョンヒ(朴正煕)氏がクーデターを起こして軍事独裁政権ができました。
本当に辛い、長い暗黒の時代が続きました。
それは在日の私たちにも、無関係ではありませんでした。
私のいとこはソウル大に留学し、スパイ罪ということで捕まりました。
その時代、韓国に渡った学生たち、仕事に行った人たちがたくさん逮捕され、国家保安法で無実の罪で牢獄に繋がれ、いとこも6年間繋がれていました。
酷い拷問もありました。
 でも、裁判がやり直されて無実になった今、全て冤罪であった無実であったということで、いとこも数10年ぶりに法廷で裁判官が謝ったそうです。
若者に本当に酷い罪を着せて青春を奪ったことを心から謝罪しますと言って、国家が正式に謝罪しました。
 「タクシー運転手」という映画が上映されていますが、それは、そういう長い苦しい時代の中での1980年5月18日、光州事件を描いています。
パク・チョンヒ氏が腹心に銃で撃たれた後、チョン・ドゥファン(全斗煥)という軍人がまたクーデターを起こしました。
そして光州の人々が民主化を求めて、起ち上がったのですが、その市民に向けて空挺部隊を送り銃を向けて、市民を虐殺したのです。
それは一切外に漏らさないように、報道は全て逆のことを流し、外部を遮断して情報が漏れないようにしたのです。
映画「タクシー運転手」は実話です。
タクシー運転手がドイツの記者に「光州まで行って欲しい」と頼まれて乗せ、入れない光州に本当に頑張って光州に入り、ドイツ人の記者がその模様を撮って世界に発信したのです。
 光州事件が起きたのが1980年で、そういう中でやはり6月ですが、1987年に民主化が成し遂げられたのです。
そしてノ・テウ(盧泰愚)大統領が誕生しましたが、それも6月でした。
それも6月の忘れられない記憶の一つです。
 そういう中でキム・デジュン政権、ノ・ムヒョン(盧武鉉)政権と続きましたが、その後で揺り戻しがあって、イ・ミョンパク政権、パク・クネ政権と、保守政権になりました。
・初めて手にした選挙権
 日本で生まれ育った私は日本で選挙権がなくて、地方選挙でも国政選挙でも投票できません。
選挙権がないまま、60歳まで生きてきました。
在日の私たちが日本で選挙権がないことを言うと、自民党の議員は「韓国だってやっていないから同じじゃないか」と言いますが、韓国では定住外国人は地方選挙権が所与されて、私たちもパク・クネ氏とムン・イジュン氏の大統領選の時に初めて選挙に参加できました。
60になって初めて選挙投票したのです。
幽霊のような存在だった自分が、人間として認められたような気がしました。
そしてムン・イジュン氏に投票したのですが、わずかな差で破れてパク・クネ政権になりました。
 そして誕生したパク・クネ政権の時にはみなさんご存知でしょうが、本当に色々な事件がありました。
何よりもセウル号事件の時には、たくさんの若い学生が犠牲になったのに、それに対してしっかりと対応しなかったのです。
しかもメディアは、全く虚偽の情報を流し続けました。
・ろうそく革命
 そうした中で、韓国の民衆は「ろうそく革命」をしたのです。
市民革命です。
平和的なデモに延べ1,700万人が参加したと言われます。
人口5,000万人の国で、1,700万人がろうそくの火を灯して、自分たちの意思を表したのです。
その「ろうそく革命」が、ムン・イジュン政権を誕生させたのです。
 これまで韓国の民衆は、本当に血を流してきました。
私の知り合いのお兄さんは、4月19日の学生革命で銃で撃たれて命を奪われました。
たくさんの人が血を流して闘い、自らの手で民主主義を守り抜いて今の政権を作り上げたのです。
セウル号事件はパク•クネ政権の時でしたが、全く虚偽の情報が流されました。
その前のイ・ミョンパク政権時から、ひどい言論封殺が行われてきました。
韓国の代表的テレビ局はKBC(公営放送)とMBC(文化放送)とありますが、2008年に米国産牛肉輸入問題について放送されると、市民たちの大規模なデモが起きました。
するとイ・ミョンパク政権はKBC社長を突然解雇し、KBCだけでなくMBCのアナウンサー、プロデューサーなどを解雇したり番組を降ろしたり、閑職に回したりしました。
MBCで調査報道番組の責任プロデューサーだったチェ・スンホ(崔承浩)さんも、解雇されました。
KBCもMBCも大規模なストライキを敢行し、市民も起ち上がったのです。
市民たちが出資して市民メディア「ニュースタパ(打破)」を立ち上げてチェ・スンホ氏が社長になりました。
真実の情報を流し、そしてろうそく革命が起きました。
映画「共犯者たち」はニュースタパが製作したドキュメンタリー映画で、チェ・スンホさんがKBCやMBC関係者に鋭くインタビューを重ねています。
 政府による言論操作はパク・クネ政権にも引き継がれましたが、市民革命が起きて民主政権が誕生すると、旧政権時の人事は一掃され、チェ•スンホさんはMBCに社長として復帰しました。
・私たちは、沈黙してはいけない
 チェ・スンホさんは映画の中で言っています。
「私たちは沈黙しなかった。沈黙しなかったことを子どもたちに伝えられる」
今の日本もメディアは自主規制して伝えて欲しいことを伝えずどうでもいいことばかりを流していますが、これもメディアに裏から手が回っているのかと思います。
私たちは沈黙してはいけないと思います。
戦争に向かおうとするアベ政権に、沈黙してはいけないと思います。
ご一緒に声を上げていきましょう。
●李政美(い ぢょんみ)さん
*プロフィール
 韓国済州島生まれの両親のもと、6人兄弟の末っ子として東京・葛飾で生まれる。
幼い頃はアボジ(父)が歌う韓国歌謡曲を聴いて育つ。
オペラ歌手を夢見て、民族学校から国立音大声楽科に進む。
音大入学前から、在日韓国人政治犯救援運動の集会などで歌い始める。
肉体労働、定時制高校教師などを経て、30歳半ば頃からオリジナル曲を作り始め、以来、自作曲を中心にジャンルを超えた幅広いレパートリーで、ライブ、コンサートを展開。
2003年には、韓国・ソウルでの初ソロコンサートを実現。
現在は、日韓両国で年間役100回のコンサートを行っている。
今夏、3年ぶりとなる待望のニューアルバム「おとと ことばと こころで」を発表。
★李政美さんの歌
「こんにちは。キョンナムの妹のイ・ジョンミです。キョンナムが色々話してくださったので、私は歌に専念します」と言って、3曲歌ってくださいました。
 一曲目は与謝野晶子の♪君死にたまうことなかれ♪
次は韓国映画『キヒャン(鬼郷)』のテーマ曲♪パシリ♪
『鬼郷』は、従軍慰安婦とされた14歳の韓国人少女の過酷な運命を描いた映画だそうですが、主題歌の「パシリ」は、古い高麗時代の伝承歌謡だそうです。
最後の曲は♪奪われた野にも春は来るか♪、これは私の大好きな李相和(イ・サンファ)の詩に、ジョンミさんが曲をつけたものです。
韓国の太鼓を叩きながら歌ってくれました。
 日本統治時代の1926年に書かれた詩です。
   奪われた野にも春は来るか   作・李相和
私はいま全身に陽射しを浴びながら
青い空 緑の野の交わるところを目指して
髪の分け目のような畔を 夢の中を行くように ひたすら歩く

唇を閉ざした空よ 野よ
私一人で来たような気がしないが
おまえが誘ったのか 誰かが呼んだのか もどかしい 言っておくれ

風は私の耳もとにささやき
しばしも立ち止まらせまいと裾をはためかし
雲雀は垣根越しの少女のように 雲に隠れて楽しげにさえずる

実り豊かに波打つ麦畑よ
夕べ夜半過ぎに降ったやさしい雨で
おまえは麻の束のような美しい髪を洗ったのだね 私の頭まで軽くなった

ひとりでも 足取り軽く行こう
乾いた田を抱いてめぐる小川は
乳飲み子をあやす歌をうたい ひとり肩を踊らせて流れてゆく

蝶々よ 燕よ せかさないで
鶏頭や昼顔の花にも挨拶をしなければ
ヒマの髪油を塗った人が草取りをした あの畑も見てみたい

私の手に鍬を握らせておくれ
豊かな乳房のような 柔らかなこの土地を
くるぶしが痛くなるほど踏み 心地良い汗を流してみたいのだ

川辺に遊ぶ子どものように
休みなく駆けまわる私の魂よ
なにを求め どこへ行くのか おかしいじゃないか 答えてみろ

私はからだ中 草いきれに包まれ
緑の笑い 緑の悲しみの入り混じる中を
足を引き引き 一日 歩く まるで春の精に憑かれたようだ

しかし、いまは野は奪われ 春さえも奪われようとしているのだ
                    (訳・徐京植 ソ・キョンシク)

*集会第1部「表現者はリレーする」はこの後、杉原浩司さん(NAJAT)と、まさのあつこさん(ジャーナリスト)のトーク、佐藤道代さん(ダンサー)のダンス、西尾綾子さん(伊達判決を生かす会)と湯川れい子さん(音楽評論家)のトークがありました。
後の方のお話の報告は、次号に続きます。                 いちえ


2018年6月25日号「お知らせ」

◎お知らせ
 以前にもお伝えしましたが、「はっぴーあいらんど☆ネットワーク演劇プロジェクト」の【天福ノ島】東京公演のお知らせです。
今回の公演は1月に福島で上演された本編のDVD上映と、その本編に関する短編の芝居を上演します。
 私は本編上演を1月に三春で観て、ぜひ東京公演をして欲しいと願っていました。
多くの人に観て欲しい!と思ったからです。
それがこうして叶うことがとても嬉しく、ぜひ、ぜひ皆さんにもご覧いただきたいと願っています。
 演者たちのお芝居も見事だったのですが脚本が素晴らしく、明治期の青年たちの思いと、原発事故後の福島の人たちの思いが重なって今を生きる私たちの胸に迫ってきます。脚本を書いているのは大野沙亜耶さんという素敵な女性ですが、今回の東京公演にあたっての彼女のメッセージを下記します。
「数回稽古してみて、これはいいお芝居になるという気がしています。
本編だけではな区、番外編もぜひ観て欲しい、と胸を張って言えるものになりそうです。
《本編》は、2017年の福島に住むある家族と、1882年の福島で自由民権運動の先頭に立った青年民権家たちの物語。
《番外編》は、2017年の福島に住むある家族と、1888年の福島が舞台です」

日時:7月7日(土)14:00・18:30(2回公演)
     8日(日)13:00  ※受け付けは開演の1時間前、開場は30分前です。
場所:シネマハウス大塚(豊島区巣鴨4−7−4−101)
一般前売り:2,000円/当日2,200円  高校生以下1,000円
予約:Web http://www.happyisland-network.com/ticket
はっぴーあいらんど☆ネットワーク演劇プロジェクトvol.2「天福ノ島」
www.happyisland-network.com
はっぴーあいらんど☆ネットワーク演劇プロジェクトvol.2「天福ノ島(てんぷくのしま)」のホームページです。

メール happy.island311@gmail.com
   電話 090−5237−4312(事務局・鈴木) 

 どうぞ、ご参集いただけたらと願っています。
きっと、「ああ、この日ここに居て良かった!」と心に刻まれる時を過ごしていただけると思います。                         

●昨日の「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」第19回集会は、無事終了しました。
後ほど集会の報告をお伝えしようと思います。
ご参加くださった皆様、ありがとうございました。             

いちえ

天福島

関連:

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