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2016年10月6日号「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」

9月28日、件名の訴訟が開廷されて、第5回口頭弁論が行われました。
原告の方達は朝6時に南相馬を発つバスで、見えました。
そのバスに乗るためにはそれぞれの住まいからさらに早い時刻に出なければなりませんから、皆さん早朝からの支度で本当に大変だったことと思います。

◎第5回口頭弁論について
●この訴訟は
この訴訟は、国が用いた年間20ミリシーベルトという基準による避難解除の是非が直接の争点となる初めての裁判です。
2014年12月、政府は南相馬市の特定避難勧奨地点について年間積算被ばく線量が20ミリシーベルトを下回ることが確実になったとして、全て解除し、その後順次支援策や賠償を打ち切っています。
地点に指定されていた世帯や近隣の世帯合計808名が、解除の取り消しなどを求めて、2015年4月・6月に国(原子力災害対策現地本部長)を相手取って提訴しました。
●原告の主張
原告は、20ミリシーベルト基準での特定避難勧奨地点の解除は、次の3点から違法であると主張し、その取り消しを求めています。
①公衆の被ばく限度が年間1ミリシーベルトを超えないことを確保するべき国の義務に反する。
②政府が放射線防護の基準として採用している国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に反する。
③政府が事前に定めた解除の手続き(新たな防護措置の実施計画の策定、住民等の意思決定への関与体勢の確保)を経ることがないまま解除を強行した。
●訴訟の現状
これまで、そもそも特定避難勧奨地点の解除について、これを直接争う裁判が可能なのか(処分性の有無)という入り口論が争われてきました。
またこれまで、原告からは訴状に記載した解除の違法性をさらに論証するために、追加の主張立証を行ってきました。
第3回口頭弁論期日では現地の放射能汚染の状況について「ふくいちモニタリングプロジェクト」が作成した空間線量の血腫地図を提出。
第4回期日では、解除に至る意思決定の過程において住民が参加する機会がなく、住民の声を無視して解除が強行された事実について、南相馬市や国の資料に基づき明らかにしました。
これらに対して被告国は、原告が解除の違法性の根拠としているICRPの勧告や解除の手続きに関する原子力安全委員会の意見について、そもそもこれらを遵守する法的義務はないとして争っています。

◎今日の第5回口頭弁論期日でおこなわれたこと
①特定避難勧奨地点の解除により、原告に対する各種支援策や賠償は打ち切られ、原告らは支援のないまま自力で避難を継続するか、放射能汚染が続く元の居住地に期間をするかを迫られている状況にあります。

原告の語りを書面にした陳述書、計21通を裁判所に提出し、原告がまだまだ放射能汚染に対して不安を抱えていること、解除によって原告が期間を強要されていることを明らかにしています。
②「ふくいちモニタリングポスト」が行った原告の原発事故当時の自宅の放射線量に基づき、自宅に戻った場合の被ばく線量(ただし外部被ばくのみ)の推計を行い、原告の95%以上の世帯について、推計年間被ばく線量が、公衆の被ばく限度とされている1ミリシーベルトを超え、最も高い世帯では年間5ミリシーベルトを超えることを明らかにしました。
③また、同プロジェクトが行った原発事故当時の自宅の土壌汚染の状況を明らかにする資料も提出しましたが、これによれば原告の96%の世帯で、放射線管理区域の基準に相当する1平方メートル当たり4万ベクレルを超えるセシウム137に汚染されています。
●上記の3点について原告の小澤洋一さんと、林マキ子さんが説明をしました。

◎今後の予定
原告側からさらに、解除による住民への影響や放射線の健康影響に関する科学的知見について追加の主張立証を行った上で、被告が反論を行う予定になっています。
次回の期日は2017年1月19日(木)15:30〜、オナj引く東京地裁103号法廷で開かれる予定です。

今日は100名をわずかに超えた傍聴希望者でしたので抽選が行われました。
傍聴席は96席ありますから、支援に関わるスタッフの方達が次の報告集会の準備のために抽選に漏れた人に券を譲ったりして、希望者全員が傍聴できました。
次回も103号法廷ですから、96席を全て埋めたいと思います。
どうぞ、来年の1月19日第6回口頭弁論傍聴を、ご予定に入れておいてください。

この後、参議院議員会館で報告集会が開かれました。
原告団の小澤洋一さんが「土壌汚染と健康影響」について報告をし、支援の会の青木一政さんが「ガンマ線カメラによる汚染状況のイメージ化」について報告しました。
ガンマ線カメラによって見えない放射能汚染を可視化することで、「数字」でしか判らないために実感を伴わなかった汚染の実態が明らかになっていきます。
これはガンマ線イメージングカメラ(GeG1)というカメラですが非常に高価で扱いも難しいものだそうです。
また原発事故避難者の相談を受け付け、必要な支援につなぐことと、避難当事者と支援者が協同して、地域で支え合い助け合い、避難者が地域で孤立することなく生活出来る支援を行うために「避難の協同センター」が立ち上げられた報告がありました。

*この訴訟に関して、これまで提出された原告及び国の準備書面は「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟支援の会」のウェブサイトで公開されていますので、ご覧ください。                          

いちえ


2016年10月4日号「お知らせ」

先月からMLでの一斉送信ができなくなっています。
「一枝通信」をお送りしようとしても「送信できません」とメッセージが入ってしまい、幾つかの報告が滞っています。
それらを順次送信させていただきますが、その前にまずお知らせを。

◎お知らせ①
信州発産直泥つきマガジン40号が発行されました。
「小粒でもピリリと辛い」読み応え満載の記事ばかりです。
お申し込みはお近くの本屋さんへ。
または、tel:026-219-2470,fax:026-219-2472,e-mail:order@o-emu.net
定価476円+税です。

◎お知らせ②
トークの会「福島の声を聞こう!vol.21」
ゲストスピーカーは浪江町の今野寿美雄さんです。
放射線作業従事者として原発関連施設で働いてきた今野さんは事故後「脱子ども被ばく裁判」の原告、またそのほかの原発関連裁判の支援者として活動しています。
今野さんのお話を、ぜひ多くの方にお聞きいただきたいと願っています。
皆様のおいでをお待ちしています。

vol21

hotmailの画面も変わって読みにくいのではないかと案じていますが、どうぞご容赦ください。
追って記したまま送信できずにいた報告も送信させていただきます。  

いちえ

 


2016年9月29日号「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」報告

9月28日、件名の訴訟が開廷されて、第5回口頭弁論が行われました。

原告の方達は朝6時に南相馬を発つバスで、見えました。

そのバスに乗るためにはそれぞれの住まいからさらに早い時刻に出なければなりませんから、皆さん早朝からの支度で本当に大変だったことと思います。

◎第5回口頭弁論について

●この訴訟は

この訴訟は、国が用いた年間20ミリシーベルトという基準による避難解除の是非が直接の争点となる初めての裁判です。

2014年12月、政府は南相馬市の特定避難勧奨地点について年間積算被ばく線量が20ミリシーベルトを下回ることが確実になったとして、全て解除し、その後順次支援策や賠償を打ち切っています。

地点に指定されていた世帯や近隣の世帯合計808名が、解除の取り消しなどを求めて、2015年4月・6月に国(原子力災害対策現地本部長)を相手取って提訴しました。

●原告の主張

原告は、20ミリシーベルト基準での特定避難勧奨地点の解除は、次の3点から違法であると主張し、その取り消しを求めています。

①公衆の被ばく限度が年間1ミリシーベルトを超えないことを確保するべき国の義務に反する。

②政府が放射線防護の基準として採用している国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に反する。

③政府が事前に定めた解除の手続き(新たな防護措置の実施計画の策定、住民等の意思決定への関与体勢の確保)を経ることがないまま解除を強行した。

●訴訟の現状

これまで、そもそも特定避難勧奨地点の解除について、これを直接争う裁判が可能なのか(処分性の有無)という入り口論が争われてきました。

またこれまで、原告からは訴状に記載した解除の違法性をさらに論証するために、追加の主張立証を行ってきました。

第3回口頭弁論期日では現地の放射能汚染の状況について「ふくいちモニタリングプロジェクト」が作成した空間線量の血腫地図を提出。

第4回期日では、解除に至る意思決定の過程において住民が参加する機会がなく、住民の声を無視して解除が強行された事実について、南相馬市や国の資料に基づき明らかにしました。

これらに対して被告国は、原告が解除の違法性の根拠としているICRPの勧告や解除の手続きに関する原子力安全委員会の意見について、そもそもこれらを遵守する法的義務はないとして争っています。

◎今日の第5回口頭弁論期日でおこなわれたこと

①特定避難勧奨地点の解除により、原告に対する各種支援策や賠償は打ち切られ、原告らは支援のないまま自力で避難を継続するか、放射能汚染が続く元の居住地に期間をするかを迫られている状況にあります。

原告の語りを書面にした陳述書、計21通を裁判所に提出し、原告がまだまだ放射能汚染に対して不安を抱えていること、解除によって原告が期間を強要されていることを明らかにしています。

②「ふくいちモニタリングポスト」が行った原告の原発事故当時の自宅の放射線量に基づき、自宅に戻った場合の被ばく線量(ただし外部被ばくのみ)の推計を行い、原告の95%以上の世帯について、推計年間被ばく線量が、公衆の被ばく限度とされている1ミリシーベルトを超え、最も高い世帯では年間5ミリシーベルトを超えることを明らかにしました。

③また、同プロジェクトが行った原発事故当時の自宅の土壌汚染の状況を明らかにする資料も提出しましたが、これによれば原告の96%の世帯で、放射線管理区域の基準に相当する1平方メートル当たり4万ベクレルを超えるセシウム137に汚染されています。

●上記の3点について原告の小澤洋一さんと、林マキ子さんが説明をしました。

◎今後の予定

原告側からさらに、解除による住民への影響や放射線の健康影響に関する科学的知見について追加の主張立証を行った上で、被告が反論を行う予定になっています。

次回の期日は2017年1月19日(木)15:30〜、オナj引く東京地裁103号法廷で開かれる予定です。

今日は100名をわずかに超えた傍聴希望者でしたので抽選が行われました。

傍聴席は96席ありますから、支援に関わるスタッフの方達が次の報告集会の準備のために抽選に漏れた人に券を譲ったりして、希望者全員が傍聴できました。

次回も103号法廷ですから、96席を全て埋めたいと思います。

どうぞ、来年の1月19日第6回口頭弁論傍聴を、ご予定に入れておいてください。

この後、参議院議員会館で報告集会が開かれました。

原告団の小澤洋一さんが「土壌汚染と健康影響」について報告をし、支援の会の青木一政さんが「ガンマ線カメラによる汚染状況のイメージ化」について報告しました。

ガンマ線カメラによって見えない放射能汚染を可視化することで、「数字」でしか判らないために実感を伴わなかった汚染の実態が明らかになっていきます。

これはガンマ線イメージングカメラ(GeG1)というカメラですが非常に高価で扱いも難しいものだそうです。

また原発事故避難者の相談を受け付け、必要な支援につなぐことと、避難当事者と支援者が協同して、地域で支え合い助け合い、避難者が地域で孤立することなく生活出来る支援を行うために「避難の協同センター」が立ち上げられた報告がありました。

*この訴訟に関して、これまで提出された原告及び国の準備書面は「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟支援の会」のウェブサイトで公開されていますので、ご覧ください。                                

いちえ


2016年9月11日号「直近のお知らせですが」

昨日、東中野ポレポレ坐でドキュメンタリー映画『ブリンギング・チベット・ホーム』を見てきました。
ご存知のようにチベット人は国を奪われ、亡命地と本来の自分たちの〝国土〟に分断されて生きています。
1959年3月、ダライ・ラマ法王はインドに亡命され、また多くのチベット人がその後を追いました。
亡命地で生まれ故国を知らない難民チベット人2世の現代アーティストのテンジン・リグドルは、「もう一度、故郷の土を踏みたい」と願いながら叶わず死んだ父の思いに動かされて、壮大な計画を立てました。
チベットから20トンもの土をインドへ運ぶ、一大プロジェクトです。
多くの困難を乗り越えて(それはさながらチベット人の亡命の道程、その途上で起こりうる数々の危険に重なります)土はダラム・サラに到着します。
引き寄せられた故郷の土を踏むチベット人たち…。
アーティストのテンジン・リグドルと同じく難民2世の監督が、この壮大なプロジェクトを追ったドキュメンタリー映画です。
監督は、当初は映画にするつもりではなく、もし計画途中でテンジン・リクドルや関係者が中国の官憲にスパイ行為を疑われて捕らえられた場合に、そうではないという証拠として記録していったのです。

ぜひぜひ多くの人にご覧いただきたいのですが、残念ながら劇場公開はしていません。
今日は長野で、そして13日18:00〜東京外語大で公開されます。
直近のお知らせですが、お時間ある方はぜひご覧ください。
詳細はFBで「ブリンギング」で、検索してください。
いずれ私も自主上映会を計画するつもりですが、13日(火)東京外語大での上映をご覧いただけたらと願います。

私は今日から15日までパソコンも携帯も使えなくなります。
申し訳ありませんが、御用の向きは16日以降にご連絡ください。      

いちえ

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2016年9月6日号「9月2日 安保法制違憲訴訟裁判①」

「安保法制違憲訴訟 国家賠償訴訟」第1回口頭弁論が9月2日午後2時から東京地方裁判所で開かれ、そして5時からは参議院議員会館で報告会がありました。
1時から地裁前で広報の集会が持たれ1時30分傍聴者の抽選、そして103号法廷が開扉しました。
私はこの裁判の原告の一人ですが、これまで残留孤児裁判や残留邦人裁判、福島原発事故関係の裁判などで法廷の傍聴席に座ったことは何度もありますが、この日は原告席に座りました。

開廷の前に裁判所の前で開かれた広報集会では司会の内田弁護士から、全国各地で取り組まれている「安保法制違憲訴訟」の最初の裁判が今日のこの裁判であることが告げられました。
そして岡山、埼玉、長崎、千葉など各地訴訟団の原告代理人弁護士の方たちや支援者、憲法学者、原告の挨拶があり、弁護団と原告らが地下鉄出口の歩道から横断幕を掲げて裁判所入り口までデモ行進をしました。
多くの人が傍聴席の抽選に並びました。

◎口頭弁論
東京地裁103号法廷は、午後2時に開廷しました。
裁判長が原告席、被告席双方に言葉をかけた(耳の悪い私にはよく聞き取れませんでした)後、原告代理人の寺井一弘弁護士が「本日はこの手続きの他に代理人5名原告本人5名が意見陳述をします」と言いました。
被告代理人も何か言いましたがぼそぼそと小さい声で、やはりよく聞き取れませんでしたが、どうやら裁判で争うに値しない訴訟だから早い閉廷を望むというような意見を言ったようでした。

●意見陳述
訴訟代理人の寺井一弘弁護士、角田由紀子弁護士、福田護弁護士、伊藤真弁護士、中鋪美香弁護士の5名、そして原告の堀尾輝久さん、菱山南帆子さん、辻仁美さん、河合節子さん、新倉裕史さんの5名が意見陳述をしました。
訴訟代理人の方たちの意見は、それぞれ弁護士の立場から安保法制の制定とその制定過程、憲法上の問題点、市民・国民の生活に与える影響などを平易な言葉で述べられ、私は安保法制の問題点を総合的な見地から考える俯瞰的な見方を、改めて得た思いでした。
原告の方たちの意見陳述は、それぞれの方が自身の成育史や生活環境の中から具体的に感じとっている被害を述べられ、個々人の体験や思いがリアルに伝わり、その被害を追体験するような思いで聞きました。
原告の方たちの意見陳述の要旨をお伝えします。

*原告 堀尾輝久さん
6歳の時に父親が中国北部で戦死し靖国に祀られた私の家は「誉れの家」とされ、私は”当然のように”軍国少年になりました。
敗戦は12歳、中学1年生の夏でした。
終戦の安堵と将来の不安を抱えた中での教科書の墨塗り体験は、それまでの価値観を自分の体で否定する・否定される体験で、翌年配られた「新しい憲法の話」は新鮮な驚きでした。
私の青年期は憲法と教育基本法の下で始まり、大学は法学部政治学科で学びましたが、さらに人間の問題を深く考えたいと思い人文科学研究科の大学院で教育哲学・教育思想を専攻しました。
なぜ自分は軍国少年であったのかを自らに問い、戦後改革への関心から憲法と教育基本法の成立過程を精査し『教育理念』として上梓しました。
人格形成を軸とする人間教育にとって、平和は条件であり、目的であると考えて、平和主義を教育思想の中軸に据えて、研究者・教育者として過ごしてきました。
私の研究・教育活動の軸には平和への希求と9条の理念があったのです。
2006年安倍内閣の下での教育基本法制定によって、私は教育学研究の根拠を奪われる思いを感じましたが、しかし、まだ憲法が生きていると思い直してきました。
けれども安保法制が進めば、マスコミと教育は国民馴化のための手段となり、社会や学校から自由の雰囲気が消えていき、再び軍国少年・少女が育てられるのではないか、人格権としての幸福追求の権利を制約して奪うのではないかと危惧しています。
教育研究に長らく身を置いてきた立場から、このように憲法が侵される自体は耐え難く、平和主義を生き方として選びとってきた身には人格権の侵害というべき苦痛です。
生き方を国家権力によって否定され奪われる思いです。
それは個人としての苦痛にとどまらず、教育研究者として未来世代に責任を負う者としての憤り(公憤)です。
戦前戦中そして戦後を生きてきた人間の一人として、未来世代の権利を守る責任を持つ世代の一人として、安保法制を違憲として法の前に立ちたいと思います。

*原告 菱山南帆子さん
1989年(平成元年)に生まれ、両親共働きだったために祖母に預けられることが多く、祖母から戦争の話を聞いて育ちました。
戦争で兄弟や家族を亡くし、1945年の八王子大空襲を経験した祖母は戦争の話をした後にはいつも、「二度と戦争をしない憲法ができたのよ」と話してくれました。
小学校6年生の秋に「9・11」が起き、なぜこんなテロが起きるのかを考え、アフガンの人たちがアメリカを憎む原因を考え、また9・11で犠牲になった人たちの苦しみを想像しました。
アメリカが始めた「正義の戦争」は、アフガンから見たら「正義」ではなく「悪」ではないだろうか?そしてテロの根幹には「貧困」や「差別」があり、「戦争」は憎しみの連鎖にしかならないということは、12歳の自分にも分かりました。
中学1年生だった2002年12月イラク戦争が始まる直前に、母と一緒に初めて日比谷野外音楽堂の「イラク戦争反対」集会へ行きました。
戦争反対の思いを大勢の人と共有することに感動し、それから一人で集会などに参加するようになりました。(このころの菱山さんを、私はよく覚えています)
イラク戦争が始まった3月20日以後は、寝袋を持ってアメリカ大使館前で泊り込んでの抗議にも参加しましたが、大使館前に座り込む人たちを暴力的に排除する警官の姿も見ました。
こうして運動に関わる中で大人たちから、運動の歴史や憲法を、憲法は9条だけではなく13条や24条など大切な条文がたくさんあることを学びました。
中学3年生から高校2年生までの長期休みの時には辺野古へ行き、体を張って基地建設反対運動を続けている人たちを知り、仲間に入れてもらい、ここでも国家権力の側に立つ人が住民を海に突き落とすような姿を見ました。
私は、祖母が安堵した平和を守る憲法を、このままの姿で守りたいのです。
戦争の加害者になって、心の傷を負う人を作りたくないのです。
安保法制によってアメリカと一体化する政策は、自衛隊をこれまでの中立者から明確な敵兵へと豹変させることであり、日本を一気に危険な状態へと陥れます。
バングラデッシュのダッカで起きたテロ事件で7名の日本人が犠牲になりましたが、安保法制を制定したことで日本も、 アメリカやその同盟国を標的とする IS のようなテロリストにとっての標的となりました。
また国の基本法である憲法をかくも違法な手続きで破壊した安保法制は、憲法97条が定める「この憲法が定める基本的人権は侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」ことを、改めて心に呼び起こさせました。
祖母から教えられた「戦争をしないかけがえのない憲法9条」が安保法制によって破壊されたことは、私の心に大きな傷跡を残しました。
平和のために最善のものと考えてきた憲法9条が歪められ、15年以上前に私の中に生まれ育んできた主権者としての意識、政府が憲法に従うべきという立憲主義の考え方が、安倍政権による安保法制制定によってドンドン破壊され続け、絶望的な気持ちになっています。
祖母から思いを託されたものとして、平和憲法を踏みにじる安保法制を認めることはできません。
自分が平和の中で安心して暮らしてきたことを、そのまま次世代に渡すために安全法制を違憲とする原告となります。

*原告 辻仁美さん
この春大学を卒業して社会人になった娘と、大学2年生の息子を持つ母親です。
3・11の事故までは政治に関心を持つこともなく過ごしてきましたが、3・11以来政府の出す情報はおかしいのではないかと思うことが重なり、当時子供たちは高校生と中学生でしたから子供を守るための市民活動に関わるようになりました。
その延長線上に、昨年7月に参加するようになった「安保法制に反対するママの会」の活動があります。
ママの会は「だれの子どももころさせない」を合言葉にしています。
国民の8割が時期尚早と言っていたにもかかわらず、国会で十分な審議も尽くさぬまま、立法事実のないままに安保法制が強行採決され、絶望感にさいなまされました。
原発だらけの日本へのテロ攻撃の心配も現実となってきています。
バングラディッシュ・ダッカで、明らかに日本人がターゲットになったテロ事件が起きました。
安保法制によって、日本は外国から見れば、明らかに平和主義を捨てたとみられていることがはっきりしたからです。
私は先月、沖縄の東村・高江でアメリカ軍のヘリパッド建設工事に反対している人々の応援に行きました。
そこで私が自分の目で見て感じたことは、「権力の暴走した実際の姿」でした。
本土の各地から動員された若い機動隊員たちが、非暴力で抗議行動する人たちを羽交い締めにして暴力的に排除する姿でした。
それは法律を無視し、自分たちのしたいように規制をしている「無法地帯」でした。
戦争ができる国になるということはこのような暴力が許される社会であり、それを現場で担わされるのが若者なのだと実感しました。
大学生の半数が利息付きの奨学金を借りているという現実に照らすと、数年先の本土でも、息子のような若者を使ってこの光景があるかもしれないと思うと身震いしました。
私は子どもたちを、戦争に加担させるために産み育ててきたのではありません。
子どもたちを、世の中の役に立つような人に育てようと、しっかり教育してきたつもりです。
武器輸出解禁や自衛隊海外派遣などのニュースは、私を不安にさせます。
高江での体験で、さらに不安が増しました。
精神的にも肉体的にも大きな負担と苦痛を感じます。
裁判所におかれては、どうぞ、この思いをお受け取りくださいますようお願いいたします。

*原告 河合節子さん
戦争によって家族を殺され、傷つけられた被害者の一人として、この安保法制が強引に成立させられたことで私が受けた被害を訴えます。
昭和20年3月10日の東京大空襲は、2時間余りの間に東京下町の約10万人が焼き殺され、約100万人が罹災した凄まじい戦争被害でした。
私は、母と2歳、3歳の幼い弟を焼夷弾の火炎の中で、喪いました。
父は大火傷を負い病院に収容されましたが、薬もなく劣悪な医療環境の中でやっと命を取り留めました。
しかし、眼瞼や唇は反り返り、耳たぶも融けてなくなり、顔中ケロイドの状態になりました。
空襲で住居も生活用品も食べ物も全てを失いましたが、家族も生活の術も失った者たちがその後を生きることは、本当に大変なことでした。
当時、誰もが貧しく、なにがしかの被害を負った生活でしたが、それでも父の顔中ケロイドの顔面は人が目を背けるようなひどい様子でした。
父が奇異の目にさらされながらも、働いて、幼い私を育てるのはどんなに大変だったかと思います。
父はそんな被害を受けながらも、妻や子を守ってやれなかったことに苦しんでいました。
父の辛さ、切なさがわかる年齢になり、私自身も胸のつぶれる思いです。
戦時中、兵士も戦いましたが一般市民も、戦争に巻き込まれました。
私の人生は、母や弟たちを失い、父を苦しめ続けた、そんな戦争の傷跡の中で形作られてきたのです。
国内外に膨大な被害をもたらして終わった戦争の結果、「私たちは、もう二度と戦争はしない」と決め、現在の憲法が制定されました。
私に大きな重荷を負わせた戦争を「やってはいけないことだ」と国が認め、「二度と戦争をしない」と私たちに約束してくれたのです。
私のような苦しみを子どもや孫たちが二度と負うことはないと、その約束と引き換えに大きな心痛みや苦しみをこらえて、私は生きてきました。
私は東京大空襲の被害者として国を相手に裁判を起こす原告となり、約7年間裁判をしてきましたが、司法はこの戦争被害についての救済の必要性を判断せず、立法府に委ねました。
ところが国の立法機関は、司法に指摘されたかつての戦争の後始末をするどころか、その反省さえ忘れてしまいました。
この安保法制に、私たち戦争体験者は70数年前の異常な日々の暮らしの記憶を呼び覚まされ、さらに頭上に火の玉となって戦争が降ってくると、怯えて暮らすことになりました。
何十年経とうとも、消えることのない心の傷は、この法制の成立によって、再びかさぶたをはがされるように、生々しい心の傷として全てが蘇ってきます。
戦争する国になることは、世界を平和にはしません。
恨みが恨みを招き、やがてその恨みは自分たちの元に返ってきます。
私は、9条の「戦わない平和な日本」を、家族の犠牲と自分の人生の犠牲の引き換えに、70年手にしてきました。
この先、人の犠牲を無にするようなことは絶対にやめてください。
裁判所は、私たちの被害をしっかりと受け止めてください。

*原告 新倉裕史さん
住まいは在日米軍横須賀基地から10kmのところにあります。
父親が米軍基地で働いていたので、幼い頃から基地の存在は身近に感じていました。
成人するにつれてその存在に疑問を持つようになり、小さな市民運動に参加して、基地の存在と市民の平和な暮らしについて考え続けています。
安保法制の成立は、基地の街に暮らす市民として大きな不安材料です。
基地の街の住民が抱いている不安について証言します。
横須賀基地を母港とする空母機動部隊は、湾岸戦争、イラク戦争で、先制攻撃の中軸を担ってきました。
イラク戦争では横須賀母港の2隻のイージス艦が、巡航ミサイル・トマホークを発射して戦争が始まっています。
先制攻撃の後横須賀母港の空母キティーホークの艦載機が、5000回以上の攻撃を行いました。
イラク戦争の犠牲者は19万人。
その7割の13万4000人が、戦闘に巻き込まれて死亡した一般市民と言われています。
アメリカ軍兵士の戦死も4500人を超え、除隊後の自殺者や戦争後遺症に苦しむ元兵士の多さが深刻な問題となっています。
開戦理由とされた、フセイン政権による「大量破壊兵器の保有」も、「テロリストを匿っている」も事実ではなかったことが、米国自身の調査で明らかになっています。
今年7月には、同盟軍であったイギリスの独立調査委員会(チルコット委員会)も、「侵攻は法的根拠を十分に満たしていたと言うにはほど遠い」と調査報告書を出しました。
基地の街に暮らす市民として心に重くのしかかるのは、こうした国際法に反した先制攻撃による軍事力の投入が「平和」を遠ざけ、より大きな混乱を作り出している現実です。
歴史学者のエマニュエル・トッドは「 IS を生んだのは、アメリカのイラク侵攻だ」(朝日、2015・2・19)と指摘します。
欧米諸国が過去数十年にわたって繰り返してきた空爆や地上戦が、夥しい数の中東の市民を犠牲にしてきたことが、今日の「テロの脅威」を呼び込んでいます。
こうした現状を冷静に見れば、安保法制の成立によって、私たちが暮らしている横須賀の米軍と自衛隊が、より同盟化を強め、一緒になって新たなテロを生み出すことにつながる軍事行動を起こすことになりはしないかと、心から心配しています。
2001年9月11日、アメリカで起こった同時多発テロに関連して在日米軍基地がとった対応を見ると、米軍基地自身が「テロ」を現実問題として捉えていることがわかります。
9•11「テロ」の直後、米陸軍相模補給廠の入り口には土嚢が積まれ、その上部には機関銃が据え付けられました。
重装備の兵士が構える銃口は市民に向けられていました。
横須賀基地の正面ゲートでは、基地で働く人々の通勤時には、弁当の中身や着替えの下着までがチェックされ、人権侵害の指摘が新聞記事になりました。
9•11の2日前の「星条旗新聞」は、一面で「テロに注意、韓国と日本の米軍基地が攻撃の対象に」という警告記事を掲載していました。
行政も、「テロ」問題を現実的な問題として扱っています。
2008年から横須賀に配備された原子力空母は、一時寄港ではなく、横須賀基地で定期修理も行い、平均的な滞在日数は200日前後、加えて原子力潜水艦の寄港もあり、年に300日近くは、横須賀基地に原子力艦が停泊しているのが現状です。
こうした原子力艦が攻撃され、原子炉破壊されれば、取り返しのつかない惨事となります。
その被害は、首都圏全域に広がると原子力情報資料室のシミュレーション結果は警告します。

◎2時に開廷した口頭弁論は、3時に閉廷しました。
その後弁護団、原告の記者会見があり、5時からは参議院議員会館で報告集会がありました。
報告集会の様子は、続いて後ほど報告します。               

いちえ


2016年9月1日号「お知らせ」

◎お知らせ①
3日は、「アベ政治を許さない」意思表示の日です。
午後一時きっかりに、「アベ政治を許さない」プラカードを掲げましょう。
プラカードはコンビニのネットプリントサービスで、A3版1枚20円です。
      *セブンイレブン 23969992
      *他のコンビニ 2ZRUWPT3FL
沖縄高江のオスプレイパッド工事強行、経産省前のテント強制撤去などなど民意を踏みにじって、やりたい放題の「アベ政治」です。
抗議の声を高くあげましょう。
この日は私はどうしても外せない用事があって国会前には行けませんが、いる場所でプラカードを掲げます。

◎お知らせ②
次回トークの会「福島の声を聞こう!vol.21」は、10月18日(火)です。
日時:10月18日(火)19:00〜21:00(開場は18:30)
会場:セッションハウス・ギャラリー
ゲストスピーカーは、浪江町の今野寿美雄さんです。
今野さんは「子ども脱被ばく裁判」の原告として、また他の原発事故に関係する裁判の支援者として活動しています。放射線作業従事者として働いていた体験から、原発事故後の東電や政府発表の言葉のまやかしや嘘についても話してくれるでしょう。
まだ先のことですが、ご予定に入れていただけますようお願い致します。                 

いちえ

vol21-2


2016年8月31日号「南相馬8月25日」

24日は小高駅前の双葉屋旅館さんに泊まりました。
宿泊客は私の他には2人で、50代後半かと思われる男性は常磐線の復旧に携わっているJR職員で、連泊しているようでした。
もう一人は自宅の片付けに来ていたのでしょうか、40代くらいの女性でした。

◎常磐線に乗って
25日は午前中は小高で過ごし、カトウ理容室を訪ねて被災直後からの写真を見せてもらいながら話を聞き、また東電職員の千葉さんが詰めている「小高浮舟ふれあい館」で話を聞き、「おだかぷらっとほーむ」に寄ってから鹿島へ向かいました。
●小高=相馬駅間で常磐線は運転再開された
7月12日から小高=原ノ町駅間が運転再開し、これで小高から相馬駅までは繋がりました。
今年の年末までに相馬=浜吉田間は運転再開の見込みですから、そうすると仙台駅から小高駅まではつながりますから、東京から南相馬へ行くには仙台経由でずっと時間が短縮されます。
私も来年からは福島経由でなく、仙台経由で通うようにしようかと思います。(東京から原町・鹿島までの高速バスもあるのですが、5時間15分の乗車時間はさすがに体に堪えます)
復旧工事は、’17年春までに浪江=小高駅間運転再開、’17年内に竜田=富岡駅間運転再開、そして富岡=浪江駅間は’19年度末までに工事終了して常磐線全線運転再開となる予定です。

●復旧工事
相馬=浜吉田駅間の工事は仙台支社の管轄で、この日に同宿だった方は水戸支社勤務の方で、現場の作業の進行状況などを監督する立場の方でした。
この方から話をお聞きしました
常磐線は上野=藤代駅間は東京支社、藤代=新地駅間は水戸支社、新地=仙台駅間は仙台支社の管轄です。
浪江=小高の両駅間に桃内駅がありますが、この辺りは3・11震災の被害による影響が大きかったようで、除染はもちろんのことですが、土木工事が大変なようです。
作業服とマスクで毎日ぐっしょり絞るほどの汗、体重が10kg以上減りましたと仰っていました。
実際に作業にあたっているのではなくてさえこうですから(とはいえ、時には作業実務に当たることもあると言っていました)、終日作業に携わる人たちは本当に大変なことと思います。
これから富岡駅=浪江駅の工事になると、夜ノ森、大野、双葉と原発立地地域で放射線量の高い区域ですから、なお一層大変なことだろうと思います。
設計や工学的な面など実際の工事に関わることだけではなく現場で働く若い職員の統括も職務の一環のようですが、この人事面でご苦労が多いようです。
それまでデスクワークだった若者が現場に派遣されて、樹木の伐採や除草など除染に関わったりもするので、辞めていく人も少なからず居るそうです。
それでは、工事は予定通りに進むのだろうかと尋ねてみました。
「’19年度末までに工期完了で予算を取っているので、延びる様なことになっては費用の出処が難しくなります。
だから工事は’19年度末に完了、めでたくオリンピックを迎えるという計算なのです」
この方は言葉に出してそうは言いませんでしたが、〝何が何でもオリンピックありき〟の政府の姿勢を肯定してはいない様子でした。だからなおのこと、絶対に工事に手抜きはできないことと現場での進行は机上の計算通りにはいかないことの間でご苦労がとても大きいことが、言葉の端々に感じられました。

●期待と不安の狭間で
この日の夕食時には地元の女性たちもいて、常磐線復旧に関しても話が弾みました。
国道6号線が開通して放射線量の高い区域の往来も繁くなって、便利になったけれど放射能の拡散が心配という声が出ました。
だから常磐線の運転再開は嬉しいけれど、不安もあるのだと。
原発の近くを通る線路はトンネルで覆えないのかという質問には、トンネル工事は莫大な予算が必要なので無理だが、線路の両側に遮蔽壁を築けば放射能の影響は軽減されるだろうと説明されましたが、多少は軽減されるとしてもそれで安全かどうか、大いに不安です。
6号線の帰還困難区域は自転車やバイクなど2輪車の走行は禁じられていますし、その区間車の窓を開けないように指導されています。
常磐線が開通した場合、この区間で電車の窓を開けないような措置が取られるのだろうかとお聞きすると、特にそれはないだろうとの返事が返りました。
電車も空調が効いているので、窓を開けるような人もいないだろうというのです。
そうでしょうか?
車内アナウンスで注意は促されるかもしれませんが、不安です。
話は変わりますが、2006年にチベットの青蔵鉄道が開通しました。
青海省省都の西寧とラサを結び、今はラサから更に西のシガツェまで延びています。
高度4000メートル以上の地域を走行するので、車内は飛行機と同様に平地と同じ気圧に保ち、窓の開閉はできないようにしている筈なのですが、トイレの窓は開閉できますし、車内でタバコを吸う人がいたりして、窓が開けられていることもあるのです。
それも乗客ばかりか、乗務員が開けたりしていることもあります。
それと同じに思ってはいけないでしょうが、常磐線の全線運転再開には不安が残ります。

●小高駅から常磐線に乗って鹿島まで
小高と相馬駅間は、だいたい1時間に1本運行しています。
昼前の電車に乗ってみました。
駅には電車を待つ乗客が私の他に6人居ました。
地元の人らしいお年寄りの女性2人とやはり高齢の男性1人、あとの3人は若い男性でした。
駅員さんに7月12日に運転再開してから、毎日どれくらいの利用者がいるのか聞いてみました。
7月12日はセレモニーもあったので賑わったけれど、普段は、日によって違いはあるが利用者は少ないそうです。
少し苦々しい口調で「地元の利用者は少なくて、〝青春18切符〟などを使って来る物見遊山の旅行者の方が目立ちます」と言い、駅舎や電車の写真を撮っているそれぞれ別々に来たらしい若い男性たちの姿を顎で示しました。
被災地の複雑な思いが、察せられる気がしました。
’11年の12月に原ノ町と相馬駅間で運転再開された時には原ノ町駅周辺で学生の姿を見かけることが増えて、町に活気が戻ってきたように感じたことを私が話すと、駅員さんは、小高も来年学校が再開されれば少しは違うかもしれないが、それでも若い人はあまり戻らないだろうと言いました。

車内には太田小学校の生徒たちが描いた常磐線沿線風景や、電車の絵が飾られていました。
絵を描いた子どもたち、一人一人の家庭や暮らしを想いました。
車窓からの風景は車で行き来しながら見えていた風景とはまた印象が違って、こうして電車に乗ってみればまた、運転再開を望む地元の人の気持ちが身に沁みてくるのでした。
「常磐線が開通したら、本当に便利になるんだけど」という声を、これまでもなんども聞いていました。
同時に前の晩に聞いた不安の声もまた大きく蘇りました。

◎鹿島の仮設住宅を訪ねて
●自宅に戻ってはみたけれど
寺内塚合仮設住宅談話室には、久しぶりに6人全員が揃っていました。
毎月訪ねていましたが、このところいつも誰かしらが欠けていたのです。
仮設住宅をでて新たな暮らしに移ったのは〝社長〟の菅野さんだけです。
村井さんは戻るつもりで準備宿泊期間に自宅で過ごしましたが、イノシシの群れが徘徊していて「おっかなくて戻れない」と言って仮設に帰ってきました。
山田さんも井口さんも自宅に戻るらしいのですが、まだ時期ははっきりしていないようです。
〝営業部長〟の天野さんは娘が鹿島に家を建てているのでそこに同居するそうですが、まだ気持ちは揺れています。

”社長”の菅野さんは周囲に知り合いもいない鹿島の新居に居ても、週に2回のデイサービスに行く他はやることがなくてテレビを見るばかり、〝おかあさん(息子の嫁のこと)〟がそんなお姑さんを心配して、時々仮設の仲間のところへ送ってきてくれるのです。
でもそれも、”おかあさん”が別の用事があれば無理ですし、そう毎度毎度というわけにはいきません。
山田さんは自宅に戻ったら、自分が食べる分くらいは畑をやりたいと思っているけれど、同居する筈の息子たちは家の片付けなどまだ何も手をつけていないそうです。
もしかしたら息子さんは戻るつもりでも、その妻や子どもたち(孫に当たりますが)は戻るのに躊躇しているのかもしれません。
もう一人の菅野さんも井口さんも、きっと同じような問題を抱えているのでしょう。

●作り続けていいんだろうか?
一ヶ月ほど前でしたが、天野さんから電話をもらいました。
最近は仮設住宅を訪ねてくれるボランティアや見学者もなく、これまでのように手芸品を作ってもそのはけ口がないと言うのです。
布や綿、ボタンやリボンなど私が送ったものがまだあるので作りたいのだが、作ってもはけ口がないので作るのをやめて布などを私に返したほうがいいだろうか?と言うのです。
いろいろ聞くと、作る意欲がなくなったのではなく、お喋りしながら手を動かして何かを作っているほうが気持ちが紛れるから作っていたいけれど、あてもなく作っても引き受け手がないから心配だと言うのです。
私は、作ったものはみんな私が引き受けるから、心配しないで作り続けてくれるように話しました。
そして天野さんからの電話を切ったのでした。

それから一ヶ月ほど経って訪ねた、この日でした。
以前にはこの談話室は天井も壁も、みんなが作った手芸品で溢れていました。
そしてテーブルの上に針箱や布、作りかけの手芸品が所狭しと置かれていて、テーブルを囲む誰もが手を動かしたり、動かしていた手を休めてお茶を飲んだりしていたのです。
この日、テーブルにはみんなの湯呑み茶碗と、お茶受けの菓子が載っているだけでした。
天野さんブレンドのお茶を一緒に飲みながら、私は改めてみんなに言いました。
手を動かして何か作っているほうが気持ちが紛れるなら、遠慮なくどんどん作っていいのだし、作るのにも飽きて疲れるようなら作らなくてもいいからゆっくり過ごして欲しいと。
”社長”の菅野さんは「そりゃぁ、作ってたほうが気持ちがいいよ」と言うし、他の人たちも「やることがなくてお喋りばかりじゃ、張り合いがない」と言います。
それならノルマじゃないのだから、気が向くように作ったりおしゃべりしたりして過ごしたらいいよと私が言うと、「んだな。仮設から出た人もいて集会所には人も集まらなくなってるけど、談話室にはいつものみんながいて楽しいし、おしゃべりしながら手を動かしていたら、退屈しないもんな」と答えが返りました。

●「悩みはもっと深いよ」
談話室のばぁちゃんたちが作る手芸品は、商品ではありません。
原発事故で余儀なくここに避難した彼女たちが、ここで生きた証を言葉に替えて表している手芸品なのです。
その思いを受け止めて欲しいけれど、訪問してくる人もいなくなり、言葉替わりの作品を届ける先がないと嘆いているのです。
でも多分、多分、ばぁちゃんたちの嘆きは、作った物のはけ口がないことへの嘆きではなく、原発事故の被災者である自分たちは、もう世間から忘れられてしまったのではないかという嘆きではないかと思えてなりません。
私は改めて「作るのが嫌になったら作らなくていいし、作っていたほうが気持ちが紛れるなら、どんどん作って」と言いました。
そんな話をしながらもみんなの口から出るのは、「避難指示解除になってから、悩みはもっと深いよ」の言葉でした。
前にも言ったことですが、私はまた言いました。
「他に行き場所がなければ、強制的に追い出されることはない。出て行けと言われるまで居て良いし、出て行けと言われたら出て行く場所を作ってくれと言っていいのよ」と。

●指示解除後は2度目の避難
寺内塚合を辞して、小池第3に行くという私を、天野さんは途中まで送ってくれました。
暑い日でしたから私は遠慮したのですが、天野さんはどうしてもと言って聞きませんでした。
一ヶ月ほど前の電話で、手芸品のことを話した後で天野さん自身の今後のことに話が及ぶと、涙声になってしまった天野さんでした。
きっとまた話したいこともあるのだろうと、歩きながら天野さんの話を聞きました。
娘さんが建てる家に同居することになるだろうけれど、本意ではないのでしょう。
なんだか少し投げやりな口調で、被災前のように娘と孫と一緒に暮らすことにしたと言いました。
家族間に確執があるわけではなくても離れた暮らした5年間は、それぞれに思いはすれ違ってもきたでしょう。
娘さんにしてみれば、高齢の母親を一人住まいさせるわけにはいかないという思いがあるでしょうし、天野さん自身も体力がなお衰えていくことへの不安はあるでしょう。
高齢者が安心して、そして最後まで自分らしく過ごせる場が、なんとしても欲しいと思います。
こうした原発被災者たちの今を、寺内塚合第2仮設の自治会長だった藤島さんは、「2度目の避難」と言っています。そして、だからこそ少しでも安心して暮らせるようなシェアハウスをと、奮闘しているのです。

●「260戸、知ってる人は誰もいない」
小池第3仮設に行きました。
ここも、もう退去した人が多く、この日も管理人の星見さんは退去した人の家を掃除しに行って集会所にはいませんでした。
集会所で待っていてくれたのは、ヨシ子さんとハルイさんの2人です。
ヨシ子さんも来月半ばには新居に引っ越し、ハルイさんも同じ頃にやはり新居に移ります。
ヨシ子さんの新居はこの仮設からほど近い集団移転地に建てた家で、周囲には被災前に同じ地域に住んでいた人たちもいます。
ハルイさんは原町に建てた家に越しますが、以前からの友人たちも近くにいる場所です。
もう既に1年前、あるいは数ヶ月前に引っ越した人もいますし、ヨシ子さんもハルイさんも間も無く退去しますが、この仮設住宅の人たちはそうやって離れ離れになっても連絡を取り合って、時々一緒に温泉に行ったりして親睦を重ねています。
もう何度かそんな集いを重ねていて、まるでそれは同窓会のようです。
被災前には違う地区に暮らしていて互いに知らぬ仲だったけれど、仮設住宅で仲良くなっていった人たちです。
人が人を呼ぶと言ったらいいでしょうか、みんながこうして仲良くなっていったのには、ヨシ子さんの存在が大きいと思います。
ヨシ子さんが自分の部屋に籠らずに毎日集会所にいて、外を通る人に「お茶飲みにおいで」と呼びかけ集まってきた人たちが打ち解けあってのことでした。
そのヨシ子さんも仮設に入居してしばらくの間は引き籠り状態だったのですが、数ちゃんに「畑に種蒔かない?」と声を掛けられたのがきっかけで、数ちゃんと話すようになり、そして自分から進んでみんなに声をかけるようになったのでした。
数ちゃんも数ヶ月前に引っ越しましたが、その後も時々集会所に顔を出しますし、〝同窓会〟にも常連で参加しています。

ヨシ子さん、ハルイさんとハルイさんの漬けた梅漬け、数ちゃんの漬けた梅漬けを食べ比べながらお喋りをしていると、外に人影が見えました。
ヨシ子さんは窓を開けて「お茶飲みにおいで」と声をかけ、佐藤フサ子さんが入ってきました。
84歳の佐藤さんは、痛めた腰が曲がったまま伸びず、手押し車がないと歩けません。
でも、まだ車の運転はしていて、日々の暮らしに車は欠かせないので、来月免許証更新を受けるつもりです。
運転免許証を持たない私はそれを聞いて「すごいなぁ!」と感嘆するのですが、ここでは自分で運転できないと本当に不便なのです。
日々の買い物も医者通いも、銀行や役場に行くにも、車は文字通り自分の足なのです。
佐藤さんは原町の北原復興住宅に入居申し込みをして抽選に当たり、つい先ごろ説明会を聞いてきたそうです。
260戸ある集合住宅ですが、浪江や広野の人も入居することになっていて、説明会では知っている人には誰も合わなかったそうです。
説明会には小高の人は一人居たそうですが、どこに入居するのか不明です。
佐藤さんは3階に住むことになるそうで、「エレベーターが付いているから大丈夫だ」と言いますが、足の不自由な高齢者は優先的に1階にすることはできないのでしょうか。
それとも何か他の理由でもあったのでしょうか。
復興住宅に移ってからの佐藤さんの暮らしが、気がかりです。

*25日は南相馬に泊まり、翌日帰宅しました。
月末になってようやく、今回の南相馬行の報告をお送りすることができました。
長文、お読みくださってありがとうございました。                

いちえ


2016年8月26日号「8月24日②」

◎小高で
小高は7月12日に避難指示が解除され、また、この日から常磐線小高駅と原ノ町駅間での運転が再開されました。
指示解除後小高に戻った人は、人口13,000人中239人とされていますが、この数字は届け出た人の数で、届け出せずに戻っている人もいることが見込まれるため、実数は400人程度だろうと言われます。
戻った人たちの暮らしはどうなのか、また戻ってみての気持ちはどうなのかを知りたいと思い、何人かをお訪ねしました。

●志賀順子さん(73歳)
上根沢の順子さんの自宅を訪ねましたが、いつも順子さんが乗っている軽自動車が無く、順子さんはお留守でした。
帰宅に供えて手入れをした際に外壁を塗り直したのでしょうか、グリーンの家は真新しく見えました。
原発事故後の避難生活が始まる前には、夫と息子夫婦・孫と7人で暮らしていた家です。
避難生活が続く中で、息子の家族は他所の借り上げ住宅に移りました。
順子さん夫婦は避難所を7回も転々とした後、ようやく12月に寺内塚合第2仮設住宅に入居したのでした。
自宅に戻る日を楽しみにしていた夫がその日を待たずに昨年亡くなると、息子は「いつか俺たちが戻るまでは、母さん一人暮らしになるから」と、家の4隅に防犯カメラを設置したのです。
息子の妻や孫は放射能への不安から小高には戻らないので、息子が時々は泊まりに来るようですが、順子さんはこの大きな家に独り住まいです。
192世帯の地区で戻るのは23世帯だけだそうですから、夜などどんなにか不安なことだろうと思いました。
昼間は、植木職人だった夫が造った庭の手入れで気が紛れても、近隣に住む人の無い家での夜は、外に明かりや音が漏れないようにカーテンをしっかり閉めて手元の小さな明かりだけにして、テレビもイヤホンで聴くそうです。
そして昼間は元の仮設の集会所に、ちょくちょく戻っているようです。

●志賀英明さん(83歳)・時子さん(81歳)
駅前通りに面した立地で、元の家は地震の被害もあったので建て直しました。
お訪ねした時には職人さんたちが、庭を作っている最中でした。
仮設住宅でお見かけした時よりも、お二人とも体調がすぐれないような様子です。
時子さんはこのところの暑さで熱中症になり、昨日まで点滴を受けていたと言います。
自宅に戻れて、どんなお気持ちでしょうかと伺うと、英明さんは開口一番、「こっちに来て、寂しいな。喋らなくなった。喋る人がいない。そこは仙台に行ったし、こっちは原町、あそこは新地、向こうは会津…」と、隣近所の家々が他所に転居していったことを言いました。
時子さんも「爺と婆だけ。ここは仕事が無いから」と言い、それに続けて英明さんはまた、「寂しいもんだよ、ここは」と言いました。
小一時間ほどお邪魔して話をお聞きした間に、英明さんはこの後も何度も「寂しいな」と繰り返しました。
「毎日、昼にはここから双葉食堂を見てるんだ。『あ、今日は○○人並んでる』ってね」
志賀さんの家の裏通りに在る双葉食堂は震災前からの人気食堂だったそうですが、再開してからは他に食堂も無いからなおのこと、昼時には行列ができるようです。
その行列を眺めると言う英明さんの言葉は、人恋しさの表れでしょうか。
「人が死んでも公報に載らないし家族葬だったりで、みんな音信不通。小高にいれば判るがちょっと遠いところだと判らないし、小高にいる筈でもどこに誰がいるか判らない。相馬の人間が会津のサムライになった」そんな風にも言う英明さんでした。
「魚屋は戻った。肉や野菜はエンガワ(駅前通りに開店した食品・日用品を売る店)が在るから助かるけど、米5キロをこの前エンガワで買ったら、原町より高いんだ」と英明さんは言いました。
「皮膚科と内科は在るけど歯医者と眼科が無いし、ここで医者にかかっても薬は原町まで取りにいかないと行けない」と言う時子さんの言葉は、現在の医療制度の矛盾を突いています。
二人ともこの間にだいぶ痩せてしまったそうで、時子さんは7kgも体重が落ちたと言います。
もともと痩せ気味だった時子さんですが、本当に折れそうな体格になっていました。
時子さんの「爺婆は、この5年の間にフニャッとなっちゃった。前にはみんなシャンとしてたのに、フニャッとなっちゃった」の言葉が、如実にこの間を語っているようでした。

●松本さん
駅前の復興住宅に住む松本さんを訪ねました。
奥さんはお留守で、松本さん一人でした。
家の前にはプランターを並べて、ナス、カボチャ、キュウリ、トマトなど野菜を育てています。
20戸のうち12戸は埋まったけれど、8戸はまだ人が入らず、そのうちの6戸は入居者が決まっているようですが、2戸はまだ入居希望者募集中のようです。
建ち並ぶ住宅の庭には、どこにも土の部分がありません。
車を止める場所はコンクリートがうたれ、他は細かい砂利が敷き詰められているのです。
被災前は農家だった松本さんは仮設住宅でお会いした時には、こう言っていたのです。
「塚原は津波でやられちまったから、畑も潮をかぶったな。だけどキャベツなんかは塩分あるとこでも旨いのが育つし、帰ったら畑をやるんだ」
でも復興住宅のこの庭では、プランターで野菜を育てるより他はありません。
カボチャが4個、ナスもキュウリもトマトもたくさん成っています。
この週末にっ息子や孫たちが遊びに来るので、「孫たちに見せ採らせてやりたいから、もう実ってんだけど、採れねぇんだよ」と、弾んだ声で言いました。
松本さんは、「ここはいいなぁ。部屋が広いし、いろんんこと好きにやってられるからな」と言います。
私は松本さんの被災前の塚原での暮らしを知りませんが、農家で子どもや孫と一緒に暮らしていたと言いますから、きっと家もここよりはずっと大きかったと思いますが、この復興住宅はもちろん仮設住宅よりは広く、またキッチン、リビング・ダイニング、ベッドルームとあって、以前の自宅よりも暮らしやすいのかもしれません。
夫婦二人で食べるだけならプランターでの野菜造りで足りますから、「畑には行かねぇ。
草取りに行ったり墓があっちにあるからたまに行くけど、畑はやらねぇ」という松本さんでした。
ここに来てからは毎日30分以上、8000歩ほど歩いているそうです。
歩くコースも歩道橋を渡る階段の在る道を選び、運動不足にならないように心がけているようです。
この日お留守だった奥さんは整体マッサージを受けに行き、その後は志賀順子さんと一緒にエステサロンに回ると言って出たそうです。
松本さんと志賀さんとは被災前には住んでいる地域も違っていて知り合いでもありませんでしたが、仮設住宅で親しくなってのおつきあいです。
「ここはいいなぁ。いろんなこと好きにやってられるからな」と言った松本さんに、「松本さんは野菜を育てられるし、奥さんはサロンに行ったりできるし、じゃぁ復興住宅に入れて、良かったですね」と言うと、「そうだよ。本当に良かったよ」と答えた松本さんでした。

●富田さんの自宅跡
この日一緒に行動した富田さんの自宅跡に行ってみました。
富田さん(73歳)は被災の4年前に夫が亡くなり、それ以前から3人の息子はそれぞれ独立して東京など他所で暮らしています。
被災後一時は東京の息子のところに避難していましたが、長くは居られず仮設住宅に入居しました。
避難指示解除後の暮らしを考えた時に息子に同居を勧められてまた東京に行きましたが、やはりそこでの暮らしは気持ちに負担があって戻りました。
富田さんの自宅は金谷でした。
昨年2月に取り壊しましたが、家が無くなってから初めて跡地に戻った富田さんは「家が在った時には、“もうここには住めない”と思ってたから何とも感じなかったけれど、無くなった家の前に立つと、心が痛みます」と言いました。
庭だったところは草木が茂って原野に戻ったような風景で、庭の奥にあったタラの木は花盛りでした。
丈高く真っ赤なフヨウが咲き、青花サルビアが雑草のように茂っていました。
その庭は猪が掘り返した跡だらけで、糞もそこここにありました。
線量計を持っていたので測ってみると地上1mの空間線量が、場所によって0,34~0,5で、ピィピィ鳴りっぱなしでした。(0,3以上警戒音がなるように設定)
屋敷林の杉木立の下はきっともっと高かったでしょうが、草が茂っていてそこまでは行けずに測れませんでした。
帰りしなシュウカイドウが咲いているのを見つけて、一株根ごと引き抜いて持ち帰った富田さんでした。

●帰り道で
小屋木の集落を抜ける時に見た取り壊された家の跡は、松本さんという方の自宅跡です。
この方は去秋、自宅の周辺に落ちていたドングリの実をたくさん拾い集めて家の前の畑だったところに蒔き、「100年経って孫子の時代になったら椎の木林になるだろう」言っていた人です。
先頃奥さんに先立たれて、どうしておいででしょうか。たぶん90歳を超えておられる方だったと思います。

●小高駅前通り
建築中の家や手入れをしている家もあり、また人が住んでいて窓が開いている家や洗濯物が干してある家も見かけました。
これらを見て過ぎるだけだったら、小高にも人が戻って来たことを嬉しく思うだけの私だったでしょう。
けれども志賀英明さん・時子さんの声を聞いた後では、これらの様子に、却って人が去って寂れてしまったことを強く感じてしまうのでした。
エンガワ商店にも寄ってみました。
生鮮食品 お弁当やお惣菜、日用品などが並んでいましたが売り場の総面積に比べて酒類の占める場所が大きいように感じました。
聞いてみたら、顧客は地元の人ばかりでなく作業員の人たちが多いそうです。
近所に住む人も無い地域で、一人で暮らす志賀順子さんの不安を思いました。

*この日は駅前の双葉屋旅館に泊まりました。
同宿だったお客さんに、JRの修復に関わっている方がいました。
その方の話や昨日25日のことなど、また追ってお伝えします。     

いちえ


2016年8月25日号「南相馬8月24日①」

南相馬に来ています。
22日に出る予定でいましたが台風の影響で、予定をずらしました。

◎バス停変更
今回は福島駅東口から出る福島交通のバスを使いました。
発車してしばらく経ってからの車内アナウンスに、「おや?」と思いました。
途中停車する場所をアナウンスするのですが、これまでは福島市内の「大町」そして「川俣営業所」「南相馬市役所前」「原町駅前」なのですが、今日は「川俣営業所」の次に「飯舘ふれあい館前」と、アナウンスされたのです。
私は福島駅から原町までは西口から出る東北アクセスのバスを利用することが多いのですが、6月に来た時には今日と同じく福島交通を利用しました。
その時には「飯舘ふれあい館前」はアナウンスされなかったし停車もしませんでした。
先月は『たぁくらたぁ』編集長の野池さんと一緒だったのでバスを利用しなかったので判りませんが、たぶん7月からこのように停車場変更されたのでしょうか。
福島市内を抜け、伊達市を通り川俣町に入りました。
「川俣営業所」ではこれまでここで停車して、トイレに行きたい人は営業所内のトイレを借りることが出来たのです。
でも今日はここで停車はしましたが、なんと営業所の建物が取り壊されていました。
敷地内に新たな建物が出来ていたのか見る間もなく、ここからの乗客を一人乗せてすぐに発車しました。
そして飯舘村。
クズ、ヤマユリ、アキノノゲシ、オトコエシ、キクイモ、黄花コスモス、イタドリの花が咲き、ススキが穂を出していました。
ナナカマドやフクギも咲いています。
車内アナウンスは「間もなく臼石通過します」、これも初めて聞くアナウンスです。
臼石は飯舘村の地名の一つですがここは停車場ではないのですが、これまでこんな風にアナウンスされたことはありません。
更にアナウンスは続きました。
「間もなく飯舘ふれあい館前です。お降りの方は停車ボタンを押してお知らせ下さい」
誰もボタンを押す人は無く、「通過します」のアナウンスで通過しましたが反対車線には同じく福島交通のバスが、1台ドアを開けて停まっていました。
ここからの乗客を乗せて福島へ戻るバスなのでしょう。
飯舘村は帰村に向けての準備宿泊が始まっていますから、それで公共バスの停車場もこのように変更されたのでしょうか。

”ああ、こうして原発事故は無かったことにされていく。もうすっかり安全というように喧伝されていく”と、思ったのでした。

◎シェアハウス構想その後
原町駅前でバスを降りると、寺内塚合第2仮設住宅の藤島さん、富田さんのお二人が、待っていて下さいました。
小高は先月12日に避難指示解除となりました。
それで自宅に戻ったり、復興住宅に入居した方達を訪ねてお話をお聞きしたくて、藤島さんにご案内をお願いしたのです。

また、藤島さんからはシェアハウス構想のその後の進展をお聞きしたくもありました。
以前にもお伝えしましたが、今年2月の市議会で藤島さんらのシェハウス構想の陳情が採択されました。
ただシェハウスを必要としているのは、年金暮らしの仮設のお年寄りです。
行政の支援が無ければ運営は難しいのですが、市は「公営住宅はシェアハウスのような形態を想定してはいない」と回答していて、実現の見通しは立っていません。
けれども藤沢の湘南台チャンプハウスという会社が、設計や運営面での相談に乗ろうということで、今月末に市側も交えて藤島さんらと話し合うことになっているそうです。
チャンプハウスは実際にシェアハウス運営もしているそうです。
これは行政が関わるもので、ある程度規模の大きなものになるのでしょうが、それとは別に個人宅を数人で利用するような小規模のものも、藤島さんは考えています。
空き家になっている住宅を貸すと言ってくれた人もいて話は大詰めまで進んだのに、その家族や親戚が反対して最後のところで話が実らなかったケースが2件もあったそうです。
小高区内に空き家は何軒もあるのですが、そこはほとんど除染作業員の宿舎になってしまっているそうで、空き家を探すのが難しくなっているようです。
「復興デザインセンター」が設立されて小高区の区長がセンター長になっているそうなので、その方にもお会いしたいと思います。

*午後は小高に行きましたが、この報告は明日お送りします。        

いちえ


2016年8月12日号「一枝通信」

◎沖縄から
北上田さんからの情報です。拡散をお願いします。
ヘリパッド建設に向けての政府の強硬な姿勢に対して、地元では必死の抵抗運動が続けられています。
現地の状況を、北上田さんや目取真さんのブログ、また辺野古浜通信や三上智恵さんのブログでぜひお読みください。
*北上田さんのブログ「チョイさんの沖縄日記」:blog.goo.ne.jp/chuy
*目取真さんのブログ「海鳴りの島から」:blog/goo/ne/jp/awamori777
*三上智恵さん「智恵の沖縄撮影日記」:www.magazin9.jp/category/article/mikami/
*辺野古浜通信:henoko.ti-da.net/
以下が北上田さんからです。
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<沖縄県民の皆さん、全国の皆さんへのお願い>コピーして拡散してください
高江・ヘリパッド建設阻止行動のためのカンパ要請
 今、高江では、4ケ所(N1地区、G地区、H地区)のヘリパッド建設を阻止するために懸命の闘いが続いています。政府は7月22日、全国からの500名の機動隊を含め総勢1000人もの機動隊・警察官を動員し、住民らが10年近く座り込んでいたN1ゲートのテントを強制撤去し、ヘリパッド予定地に向かう進入路の造成工事を始めました。さらに、南側からも工事に着手するためにN1裏の座り込みテントの強制撤去を狙っています。
 こうした政府の強行姿勢に屈せず、あくまでもヘリパッド建設を阻止するために、私たちは次の2点を県民の皆さん、全国の皆さんに訴えます。
1.高江現地に集まってください。N1裏の座り込みテントには大勢の人たちが集まり、泊まり込みの行動が続いています。テントの撤去を許さずヘリパッド工事を阻止するためには、さらに多くの人たちの結集が必要です。
2.現地反対行動へのカンパを! 「基地の県内移設に反対する県民会議」は、高江のヘリパッド建設阻止行動を進めるために現地実行委員会を発足させました。今後の反対運動を阻止するためにカンパをお願いします。
 県民会議オスプレイヘリパッド建設阻止高江現地行動実行委員会 代表・山城博治
  口座番号  琉球銀行大宮支店 普通 404-607754  間島孝彦

=====北上田さんからは、ここまで==============

◎映画『ラサへの歩き方 祈りの2400km』
以前にもお伝えしましたが、7月23日から渋谷のシアター・イメージフォーラムで、上記の映画が上映されています。
昨日私は、上映後トークでこの映画に関わるチベットのことをお話ししてきました。
チベットというと政治的な状況がまず思い浮かぶかもしれませんが、この映画にはそうした視点は一切描かれていません。
東チベットの小さな村の人たちが聖地へ巡礼をする姿を淡々と写していますが、その日々を通してチベット人の暮らしや思い、文化が伝わってきます。
彼らが大事にしているものは何か、彼らの心の在りようが見えてきます。
ぜひ、多くの人に知っていただきたいチベットの姿です。

沖縄の人たちも、本来の自分たちの暮らしを生きていきたいのだと思っています。
けれども今、深い緑の森と珊瑚礁の海、自然の中での静かな暮らしが圧政によって踏みにじられようとしている。
チベットも同じ痛みを抱えています。
チベットの人たちの思いを、暮らしを大切にしたいと強く願いますし、沖縄の人たちの思いを、暮らしを守りたいと、また強く思います。     

いちえ






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