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2016年4月5日号「伝えられない福島の現状①」

『たぁくらたぁ』編集長の野池さんが飯舘村の長泥で取材してきた記事が、『産直ドロつき通信』に載っています。
是非、みなさんに読んでいただきたい記事です。
添付しますが、開けない場合は下記にアクセスしてください。
http://o-emu.net/blog/sanchoku/archives/271.html

いちえ


2016年4月4日号「4月3日 アベ政治を許さない」

●国会正門前
3日の「アベ政治を許さない」国会前行動は、参加者80名ほどだったでしょうか。
マイクもスピーカーも用いずに、無言の抗議行動でした。
澤地久枝さん、落合恵子さんも参加されました。
私は、この無言の抗議行動がよかったと思っていますが、参加者の中には「もったいない」と言った人もいました。
その意をお聞きしませんでしたが、多分何かアピールをするべきだと思われたのかもしれません。
警備の警察官たちは、何かピリピリした感じでした。
新年度になって新任の人たちも居たことと、これまでの担当部署と変わって新たにここの警備に当たるようになった人たちで、緊張していたのではないかと思います。

●若い警察官のとった行動
この日私が地下鉄を降りて国会前に向かう時に、警備の若い警察官と目が合い「こんにちは」と挨拶すると「こんにちは」と挨拶が返ったのですが、歩き始めていた私を追いかけてきて、「あのぉ、抗議行動に行かれるのですか?」と聞くのです。
「そうですよ」と答えたら、「それではこの道ではなく向こう側から行って下さい」と言われたのです。
歩道の反対側を通ると遠回りなので、「向こうを通るには、戻って道路を横断して、しかも遠回りの道になるから、こっちを行きます」と答えると「あ、そうですね」と彼はそれ以上は無理強いしませんでした。
国会正門前の信号を憲政会館側に渡ってから見ると、なんとさっきの警察官が正門前の信号機の所でこちらを見ていました。
きっと、後ろから付いてきたのでしょうね。
彼の指示に従わずに私が歩いた道の方が近いのは明らかなのですが、上司からは道路の反対側を通らせるようにと指示されているのでしょう。
彼の気の弱さからだったのか、それとも良識的な判断からだったのか判りませんが、彼は上司の指示(?)に従わない私の言葉と行動を止めませんでした。
そのことに対しての彼なりの責任の取り方(?)だったのでしょうか。後ろから付いてきて正門の向こうに渡るのを見届けたのは。

●次は5月3日
この日も全国各地で「アベ政治を許さない」メッセージが掲げられました。
各地から寄せられた抗議行動の報告では、「一人で立ちました」という方も何人かおいででした。
また窓辺に掲げた方も、何人かおいででした。
澤地さんの言葉を、今一度。
「このスローガンを一人ひとりが道行く人に見えるように掲げるのです。示すのは勇気がいる世の中かもしれません。『許さない』勇気が試されます。政治の暴走を止めるのは、私たちの義務であり、権利でもあります」
次回は5月3日です。
5月3日は「有明防災公園」で【5.3憲法集会】が開かれますが、「アベ政治を許さない」抗議行動は、いつものように国会前で行います。
国会前での行動後、有明防災公園に合流しようと思っています。  

いちえ


2016年4月2日号「アベ政治を許さない」

早いですね、もう四月。
そして、明日は3日です。
午後一時きっかりに「アベ政治を許さない」掲げましょう。
アベ政治のこんな非道を、許すわけにはいきません。
私は国会前に行きますが、皆様もどうぞそれぞれの場で声をあげましょう。
もちろん、午後一時きっかりでなくても、できるやり方で声をあげ、行動しましょう。
私たちの意思を示しましょう。                    

いちえ

 

アベ政治を許さない


2016年3月31日号「南相馬・避難20mSv基準撤回訴訟」

3月28日(月)東京地裁で、「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」の第3回口頭弁論がありました。

◎経産省前抗議アピール
抗議アピールは12:30〜12:50に行われました。
原告たちは南相馬を早朝6時に発って、バスで来ました。
原告の竹内さんは「推進した国は、事故が起きた途端に我々の目の前から離れていき、誰一人責任を取ろうとしない。何年かかるかわからないが、わたしたちの子供のために孫のために一団となって、20ミリの基準を無くすまで頑張る」
と訴えました。
他にも何人かの原告の方の抗議アピールの後で、東京地裁前に移動しました。

◎東京地裁前応援アピール
「こども脱被曝裁判」原告で、この「20ミリシーベルト撤回訴訟」の支援者の今野さんは、「ICRP(国際放射線防護委員会)の勧告する公衆の被曝限度は年間1ミリシーベルトで、これは人間が100年生きるとして、その一生に浴びてもいい数値が100ミリシーベルトということから換算しての1ミリシーベルトなのだ。20ミリシーベルトでは、その5分の一、20年しか生きないことを推定している。福島の人間の命はこんなに軽んじられている。これは棄民だ。国が法律を破って、国民を犠牲にしている。こんなことは断じて許せない。共に頑張りましょう」とアピールしました。
「ふくしまの里山を次世代に」の代表で、いつも放射性廃棄物の焼却炉問題を発信してくれている和田央子さん、他何人かのアピールがありました。

◎東京地裁前
地裁前での応援アピールに続いて、Fo E Japan の満田さんが、2時に開廷する口頭弁論の傍聴券のことで説明しようとした時でした。
「済みませんが少しだけ時間をください」と言って、《袴田巌さんを救う会》の横断幕を掲げた方達が地裁前に立ちました。
横断歩道を渡ってこちらに向かって来たのは、袴田巌さんのお姉さんの秀子さんと弁護団の方たちでした。
東京高裁での協議に向かわれたのでしょうか。
20ミリシーベルト撤回訴訟の私たちも、また他の団体も皆、「頑張って」と拍手で送りました。
そのすぐ後で今度は地裁玄関から、「全面勝訴」と書かれた縦長の紙を持って現れた人たちがいました。「IBM のロックアウト訴訟」の人たちでした。
これもまた私たちは拍手で「おめでとう!」と。
それから傍聴券が配布されるのを受け取り玄関前で待ちましたが、この日もやはり抽選となりました。
幸い私は当選番号だったので、傍聴することができました。

◎東京地裁103号法廷
裁判長と原告代理人との間で準備書面についてのやりとりがあった後で、原告の平田安子さんが証言台に立ちました。
●平田さんの証言
原発事故当時南相馬市原町区片倉に夫と二人で暮らしていました。
片倉は山側の地域で特定避難勧奨地点(ホットスポット)があります。
私の主張は2点あり、それは「ふくいち周辺放射線量モニタリングプロジェクト」というボランティアチームと共に、南相馬の特定避難勧奨地点のある地域を測定した結果を根拠にしています。
❶国が追加被曝線量の推計に用いている遮蔽効果係数は、不当に低い。
国は屋内の空間線量率について、屋外の空間線量率に0,4をかけて計算しているが、これは南相馬の現状を無視した推計になる。
私の家を例にとれば、平均屋外線量が1時間当たり0,19マイクロシーベルトで、屋内は0,18マイクロシーベルトと、家の内外で線量はほとんど変わらない。
屋内と屋外の両方を測定した120世帯で見ると、私の家のようにほとんど変わらない世帯や、逆に家の中の方が高い世帯もあった。
120世帯の遮蔽係数を平均すると0,81となり、国が用いている0,4は、現実の数字のおよそ2分の1以下で計算していることになる。
屋内と屋外の空間線量率が変わらないのは、窓を開けたりすれば放射性微粒子がチリや埃と一緒に室内に入ってくることや、外に干した洗濯物や布団を取り込めばやはりチリや埃と一緒に放射性微粒子が家の中に持ち込まれる。
裏山の防風林、屋根材などに付着した放射性微粒子が屋内の空間線量率を高くしていると考えられるが、家の中の除染が行われたことはない。
❷南相馬の特定避難勧奨地点がある地域の空間線量率は、高い。
平田さんはこれを、メッシュ地図を用いて説明しました。
各行政区の地域メッシュモニタリングの結果を表した地図です。
空間線量率の数値に応じて色分けされた地図で、1時間当たり1マイクロシーベルト以上2,5マイクロシーベルト未満は赤、0,6マイクロシーベルト以上1マイクロシーベルト未満はピンク、0,23マイクロシーベルト以上0,6マイクロシーベルト未満はオレンジに塗り分けられています。
この地図を見ると一目瞭然に、この地域が広範囲に放射能に汚染されていることが判ります。

平田さんは、「裁判官には、本日の裁判を通じて、南相馬の現状を見たとき、『国が用いている遮蔽係数が不当に低いこと』『私たちの地域の空間線量率が高いこと』について十分にご理解いただきたいと思っております」と、証言を結びました。

●平田さんの証言の間、被告である国側の代理人(弁護士)たちは、傍聴席の私たちにも見えるように掲げられたメッシュ地図に目を向けることはありませんでした。
証言が終わって、裁判長から次回口頭弁論は6月6日と告げられて閉廷しました。

◎報告集会
この後、参議院議員会館で報告集会が持たれました。
●支援の会代表、坂本さん挨拶
第3回口頭弁論も多くの方に来ていただいて、ありがとうございました。
20ミリシーベルト撤回訴訟、なんとしても勝ち取りたい。

●原告、菅野さん挨拶
ご支援をありがとうございます。
今も6〜10ミリシーベルトと線量の高いところはたくさんあり、若い人は戻らず限界集落のようになっている。
大きなスーパーは戻らず、若い看護師や介護士が避難して出たために人手が足りず、総合病院も介護施設も閉じている。
3世代・4世代で暮らしていた生活が、若い人は出て行き、バラバラになって年寄りばかりで寂しい暮らしになっている。
5年経って子供や孫は避難先の学校に慣れ、あるいは卒業して進学や就職をし、親たちも避難先で仕事に就いて、なかなか帰ってこない状況だ。
メルトダウンした燃料棒を取り出す技術が未だにないことが悔しいことで、これを研究してほしい。
廃炉に30年、40年かかる。
先日もテレビでチェルノブイリのことをやっていたが、コンクリートの石棺が30年で劣化してしまってダメで高さ100メートル幅200メートルのコンクリート石棺を作るがそれで100年間冷やしても、中の燃料棒を取り出せない状況だ。
ものすごい金がかかるし、事故が起きれば無限に金がかかる。
だが原発を稼働することで経済が潤うというので、政府は再稼働に向けている。
東電と国と日銀が無利子でお金を回しあっているので国としてもマイナス面はなく、国民の税負担もない、むしろ経済効果があるということでやっているが、これは全く経済優先な政治だ。
国内の電力系会社は9社あるが全て国内企業で、これら電力会社からの税収が国にとっては大きい。
これほどの大事故を起こした東京電力が26年度、27年度、5600億円からの黒字だ。
電力業界が国を、政治を動かしている。
政治献金もしているだろうし、議員に対しても献金しているだろう。
これをどこかで変えないといけないし、再稼働や原発の輸出などとんでもないことだ。
我々もお金の問題ではなく、子や孫の世代のため、50年後、100年後、300年後、1000年後のために頑張っていかないといけないと思います。
ここで安心できる新しい法律を作っていくことで頑張っていきたいと思うので、これからもご支援をお願いしたい。

●連帯挨拶/福島原発神奈川訴訟を支援する会 水沢さん
20ミリシーベルトが続くことは非常事態が継続するに等しいことなのに、それを日常にしようという今の日本の状況は、とんでもないことだと思う。
神奈川の方の訴訟では、弁護団が被害者の状況調査で、浪江町・楢葉町・大熊町・南相馬の原町区と小高区を見て回り現地調査を行った。
この時に被害者の原告本人が積極的に現地を案内してくれるかと思ったら、以外とそうでもなかった。
それは原告にとっては、すでに被曝しているからこれ以上追加被曝したくないということからだったり、帰れない場所をこれ以上見たくないという思いからだった。
3月23日に14回目の口頭弁論が開かれたが、その時の原告の「家を追い出される気持ち、判りますか?」という言葉が、胸に残っている。
次回の口頭弁論は5月25日に開かれる。

●連帯挨拶/子ども脱ひばく裁判 今野さん
私たちがやっている「子ども脱ひばく裁判」もこの「20ミリシーベルト基準撤回裁判」も、目標は同じで、脱原発、脱被曝だ。
脱原発の裁判はたくさんあるが、脱被曝裁判は「20ミリシーベルト」と「子ども脱ひばく」なので、測定など共通して行っている。
原告になる条件などでの違いはあるが目標は一緒なので、情報や意見の共有をしてこれからも原告も支援者も、頑張って行って欲しい。
原告は支援者がいると、それが大きな励みになり力になる。
私自身原告の立場で、支援者がいると大きな励みになることがよく判る。
みなさん、これからもよろしくお願いします。

●連帯挨拶/被曝労働を考えるネットワーク 鈴木さん
南相馬に関しては小沢さんに案内されて見てきたが、ここでの除染作業は非常に大変だろうと思った。
原発労働の中でも年間20ミリシーベルトを目標にしているが、今はみなさんの目が厳しいから守られているが、世間の目が原発に対して甘くなれば、これは崩されていくだろう。
住民をそうやって戻していくことは、事故自体を無かったことにしたいということだろうと思っている。
労働者のひばくを最小限にしていくことと、また労働条件をよくしていくことを目指してやっていくが、共闘できるところで共闘していきたい。

◎弁護団報告 福田弁護士
毎回南相馬からバスで大勢の原告が来て、また支援者が大勢傍聴にも来てくれて、ありがとうございます。
今日の裁判は現地の汚染状況がどうなっているかについて、実際に現地で空間線量・土壌汚染の状況を計測している方々の成果を用いて、書面を提出し説明するというのが主な内容だった。
これは「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」の方々が、大変な時間と労力をかけて調査してくれたおかげでできた。
(ここで測定をしたモニタリングプロジェクトの中村さんから、測定法などについての説明がありました)
このように可視化することで、地域の汚染状況がすごく判りやすくなっている。
ありがとうございます。

第1回の9月の期日には原告2名が意見陳述をしたが、2回目の1月の期日の時に同様に意見陳述をする旨を裁判所に伝えると、それは罷りならんと言われた。
それはおかしいだろうと裁判所に掛け合い、また全国の支援者からの意見陳述を認めよの署名を提出したが、それでも意見陳述は認めないと前回言われた。
原告の意見を聞く機会は裁判の後の方にあるから、それを待つようにというのが前回の期日までの動きだった。
裁判所のその考えを変えるのは難しいと判断して、作戦を考えた。
実際に原告の生の声、言葉が法廷の場で響き、それを裁判所が聞くということは裁判に勝つためには絶対に必要なことだ。
弁護士が提出する準備書面を、原告が説明するのだったらどうかと裁判所と交渉したところ、準備書面の内容を逸脱しない範囲でならよいということで、今回の形になった。
それで今日は法廷で平田安子さんに準備書面を説明していただく形で、できた。
法廷が終わった後で、国側代理人の弁護士と裁判所、それに私たち原告側の弁護士とで〈進行協議〉という今後の進行についての打ち合わせをしたが、その場でも今日のような形で準備書面の説明を原告がすることは構わないということになった。
平田さん、今日はもっと話したいことがたくさんあっただろうが、準備書面の範囲内でということで語り尽くせなかっただろうから、ここで思う存分話して欲しい。

●原告の平田安子さん
今日は応援の皆さん、ありがとうございます。
ふくいちモニタリングの皆さんと原告団の家庭を訪問して共にモタリングした時、涙が出るような思いをした時のことを話したい。
ある家庭を訪問して、老夫婦の言葉に胸が痛んだ。
「事故前は子どもや孫たちと、ごくごく普通の暮らしをしていた。
今は子どもや孫は遠くに住み、寂しい。
モニタリングの人よぉ、この家は子どもや孫たちが戻っても大丈夫かなぁ。
しっかり測ってくれよ」という夫婦の言葉を胸に、モニタリングを開始した。
祈るような思いで見ている夫婦の姿に、目頭が熱くなった。
2階の子どもや孫たちの部屋は、裏山の林や屋根材の影響か、期待を裏切るような線量で、1階よりも数段高い空間線量だった。
特に畳表面の汚染には驚いた。
「どうでした?」と言われても返事を返せず、「結果は後日、書面で届けます」と言って帰ったが、このような高齢者がいることに毎回胸が痛む。
これがプロジェクトの皆さんと歩いて、毎回感じることだ。
みんな同じだと思う。
どうかこれからも、みなさんの応援をよろしくお願いします。

●再び福田弁護士から、裁判の今後について
裁判所は大変熱心にこの裁判に取り組んでいるというのが、私の率直な感想だ。
東京の場合、行政訴訟(この裁判も行政訴訟)は、東京の裁判所の特定の部署に集まる仕組みになっている。
私は行政訴訟をたくさんやっているが、この裁判の谷口裁判長とは何件も関わっている。
けれどもあそこまで丁寧に、具体的に「今後どういう予定か?裁判所としてはこういうことを知りたいと思っている」などと積極的に谷口さんから言ってきたのは初めてのことだ。
裁判官としては非常に強い関心を、この事件に対して持っている。
私たち弁護団も、原告の皆さんの思いを実現するために、そして裁判所の関心に負けないように、これまで以上にきちんと処理をしていかないといけないと思っている。
今後弁護団で次回までに準備することは3つある。
❶なぜ違法なのかという、違法性の枠組みの整理
被告はなんと言っているかというと、どういう基準で地点を指定するのかということは法律には何も書いていないから、行政には非常に幅広い裁量がある。
従って今回20ミリを基準に解除したことは、適法であると主張している。
私たちは、それは違うだろう、実際に政府自身が ICRP の勧告に則ってやっていくと言っているのに、その ICRP の勧告に照らしていけば政府がやっていることはあれもこれもおかしい、基準に反しているし、それに何の理由もないということをきちんと一つ一つ国側の言い分を崩していきたい。
❷手続きの問題
手続きの問題は比較的ルールが明確にあり、2011年8月に当時の原子力安全委員会が「避難措置の解除にあたっては、地方自治体や住民の関与できる枠組みを作ってやるように。また、解除後の新しい防護措置についてきちんと立案してから解除するように」と言っている。
この基準に全く違反している。
住民のみなさんの声が解除に反対していたにもかかわらず、強行した。
南相馬市も解除を延期してくれと言ったのに、それも無視して強行したというプロセスを、国と南相馬市のやりとり、あるいは住民協議の説明会資料などを使いながら今回の解除が手続き的にも違法であることを明らかにしていきたい。
❸土壌汚染
空間線量率だけでなく土壌汚染の問題も裁判所に資料として出していきたいが、モニタリングプロジェクトの中村さんからは、今のところ測定完了しているのは10分の1くらいと指摘されたので、どういう風に出していくかは改めて相談していきたい。
その他に、放射線の健康影響に関して知見をきちんと出していくことを準備しているのと、実際の原告の皆さんの声「解除されてこのように困っている」「こんな風に戻らなければいけなくなっている」など具体的な皆さんの声を弁護団の方で提出していきたいと思っているが、これは次回までには間に合わないだろうから少し後でと思っている。

*弁護団の報告の後で、原告の皆さん一人一人からの感想と、原告の小沢さんから土壌汚染について話されて、報告会は終了しました。
次回の口頭弁論は6月6日(月)14:00〜、今回と同じ103号法廷で開かれます。
支援の傍聴に駆け付けて下さるよう、お願いいたします。       

いちえ  


2016年3月23日号 トークの会「福島の声を聞こう!vol.18」報告③

徳雲さんのお話、続きです。
これで最後です。

◎アメリカ・インディアンに惹かれて
沢庵和尚に憧れてお坊さんになり仏教にのめり込んでいったが、現代の既存の仏教では満たされない思いを感じる事があった。
大きな組織の仏教界で、私もその組織の一員であるという事で、現実と理想の間にあるギャップを感じていた。
2004年にネイティブ・アメリカンの長老のデニス・バンクスさんに出会い、アメリカ・インディアンに心が向いていった。
インディアンは生き方なのだ、血ではないのだという事が、私に深く突き刺さった。
アメリカ先住民の考え方、生き方そのものが祈りなのだと知り、そのような生き方を自分も深く求めるようになった。
デニスさんは3・11後何度か同慶時を訪ねてくれ、昨年末も来てくれた。
その時に言われたのが、「福島から声を発せよ」という事だった。
現地の当事者から届く声が、一番強い、世界中の人が福島からの声を求めている、と言われた。
私も事あるごとに自身の内側を見つめてきて、迷いも悩みも、葛藤もたくさんあるが、そうした中で確かめてきたのが自分自身の覚悟・生きる覚悟だった。
福島で生きていくという覚悟が問われている。
不安が生じるたびに、覚悟を問われている気がする。
大体は腹が据わってきたなと思えるが、その時のコンディションによっては誰にも会いたくない時もあるし、全てを手放したくなる時もある。
良い時ばかりでなく悪い時もあるし、悪いことばかりではないし、良いことばかりではない。
皆さんも今が大事な時で、きっと生きる覚悟が問われているのではないだろうか。
人として親として、人間として、ここが自分自身の人生における主人公としての正念場ではないだろうか。
人生はずっと正念場かもしれないが、人生は〝今〟しかない。
今の連続が人生なのだ。
今の一瞬一瞬をお互いに大切に生きていけたら、と思う。

◎質疑応答&参加者の声に応えて
●〝木を植える男〟に
「これまで反原発運動を一緒にやってきた仲間からも、減容化焼却場に賛成する人が出てきた」と宮城県から山梨に避難している人が話すと、徳雲さんが応えました。

燃やすことには反対、燃やして解決というのは大間違いで、目の前から無くなれば処理できたと思うのは大間違いだ。
埋めるのがいいと思う。
父は船に乗っていたので毎日海を見ていたし、私も海を見て育った。
父は海を見るとその日の天気が判り、「今日は午後から時化るぞ」などと言ったものだった。
かさ上げして高い防潮堤を作るなど、海を見ていない人の発想だ。
いわき市でも防潮堤がかさ上げされて、ほとんどのところから海が見えなくされているが、海が見えるのがその土地の良い点だったのに、コンクリートの防潮堤しか見えなくなってしまった。
一昨年「命の行進」で同慶寺から青森県の大間まで、日本山妙法寺の方たちと歩いたが、その時に南三陸のホテル観洋の社長さんから聞いた話だ。
ホテルは高台に建つのでそこからは海の様子が見え、3月11日も津波が来るのが見えたので下にいる人たちに「逃げろ、逃げろ」と叫んだのだが、防潮堤に遮られて海が見えなかったために、下の人は何を言われているの判らず犠牲者が多く出た。
田老町は津波の被害が大きかった地域だが、田老町には海面から高さ10m、長さ1350mという巨大な防潮堤があったが、海が見えなかったので津波が来るのが判らず、逃げなかった人も多かった。
巨大な防潮堤も決壊して、多数の犠牲者が出た。
いわきの父も海が見えなくなった高い防潮堤を見て、「こんなの、却っておっかねぇ。引き波が来るから、津波が来るって判るんだ。海が見えなくなったら、海と人間は切り離されてしまう」と言っている。

横浜国大の名誉教授の宮脇昭先生が提唱する、潜在自然植生という植樹の仕方がいいと思う。
瓦礫を芯にしてその上に土を被せ、そこにその土地本来の固有種を植えていくという植樹法だ。
その土地に根付いている大木の子孫のどんぐりを苗木にして植えていくと、10年、20年経った時に、それがまたどんぐりを落とす。
そこから生えた実生のものは、大木になる。
100年、200年経つうちに余裕の防潮林になる。
いわきから相馬まで、そういう防潮堤を作っていくのが私の夢だ。
そういう防潮堤を作り、自然が、海が豊かになって、人間はその中で木を植えていくことになれば、自然界の生き物たちがみんな喜ぶ。
今はその逆で自然界の生き物たちはみんな、人間を恨んでいるのではないか。
「人間はなぜ、いつまでも気がつかないのか。地球がこんなに悲鳴をあげて苦しんでいるのに、山を壊し海を埋め立て、まだこんなことをしている」と。
いま復興だと言って山を崩して木を切って、海をかさ上げするのに土が足りないから山の土を運んでいる。
重機を使って山を崩している。
木を植える行為はそれとは真逆の行為で、自然界の生き物、山の生き物、海の生き物、小さな虫たち、みんなが喜ぶ行為だ。
そういう活動をしていきたい。

間も無く帰宅困難区域を除いて避難指示解除になるが、複雑な問題を孕んでいる。
解除を望む人はあまり居ないが、でも少なからぬ数のじいちゃんばあちゃんたちは、住み慣れた家、見慣れた山の景色など等身大の生業の中で、晩年を自分の家で過ごしたいと思っている。
だから避難指示解除をyesかnoで言うのはとても難しい。
問題は、「住む」「住まない」を、政府が帰っていいと言ったから帰るんだとか、放射能があるから帰らないほうが良いそうだとかではなく、自分で考えて自分で判断することなのだ。
自分で考えて自分で判断することが、生きる覚悟につながっていく。
自分で選んで、結果がどうなっても、自分で選んだのだから自分に責任があると納得できる。
避難指示解除になってお年寄りが少しずつ戻ってきたら、一緒に山に行って大木のどんぐりを拾って苗木を育て、コツコツと沿岸部に植えていきたい。
コンクリートの防潮堤をどうしても作りたい人たちがいるから、多分それはできていくだろう。
だがコンクリートの防潮堤の寿命は、せいぜい100年か150年だ。
その間に大きな地震は来ないかもしれないが、大きい地震が来るのはコンクリートの防潮堤が脆くも崩れた去った後だろう。
その時に、森が最後の切り札になる。
たとえ津波が来ても、引っかかるところがあれば、最後まで持って行かれない。
海岸には松林が多かったが、松は塩水を嫌うので浅くしか根を張らない。
津波の第1波で倒された松が凶器になって、第2波で人や物にぶつかった。
人の手をもぎ、足を切り、体に刺さり、ご遺体で無傷のものは無かった。
元々潜在的にその地を好んでいた植物は、根が3分の1以上も塩水に洗われても、持ち堪えて生きていた。
だからそういう木を植えるのが大事なのだ。
沿岸部にそういう木が植えられれば、やがて来る津波からも守ってくれる。
人間は木を植えながら、地球の声が聞こえてくる。
それは魂が喜ぶことだろう。
津波で亡くなったばあちゃんに逢える気がする、息子に逢える気がする。
そういう活動に転換していきたい。

●放射能を愛で還元していく

私の父が畑で作った野菜を、「みんなで食べろ」と言って届けてくれる。
私は「父さん、子どもたちも居るし、家じゃ食べないよ。だから持ってこないで」と断っていたが、父はめげずに採れるたびに持ってくる。
妻は「お父さんが孫たちに食べさせたいと思って一生懸命育てているんだから、大丈夫。感謝して食べよう。お父さんの愛の方が上回っているから、大丈夫」と言う。
そう聞けば私も、「なるほどな」と思う。
玉ねぎばかり1Kgも食べないし、人参だけ1Kgも食べない。
私たちも食べ物には気をつけて、いろいろ測ってきたので、玉ねぎにはどれくらい、キャベツには、人参には、大根には、などとだいたい判ってきている。
大根は生では出ないが乾燥させると出てくることや、豆は以外に数値が高いことも判ってきたし、父が持ってくる野菜で数値が高いものはないことも判ってきた。
事故以来私も妻も、嫌になる程勉強してきて、妻は「お父さんの持ってくるものは大丈夫」と言っている。
私自身も野菜を作ってきたので、父の気持ちはよくわかる。
私も”作りたい”という気持ちは、抑えられない。
大地に根を張って生きる生き方を、もう一度取り戻したい。
被曝もしたくないが、土と切り離されたくない。
試行錯誤しながら、身の丈にあった暮らしを取り戻したいと思っている。

●電気を考えよう

木質バイオマス発電も太陽光発電も、規模の大きさで効率が変わるのではない。
大きくても小さくても、効率は変わらない。
消費する場所から離れたところに大規模な発電施設を作っても、かえってロスが多くなる。
気をつけて欲しいのは、電気を熱に変えるのは非常に非効率ということだ。
発電所では火を起こして作った熱エネルギーを、電気に変えて送電している。
その電気をまたエアコンや電気ストーブで熱に変えるのは、85%くらいのエネルギーを捨てているのと同じことになる。
効率的に、とても無駄をすることになる。
田中優さんなど詳しい人の本もたくさんあるので、調べて勉強して欲しい。
私たちの暮らしを、できるところから変えていこう。

*トークの会「福島の声を聞こう!vol.18 」報告は、これで終わりです。
ゲストスピーカーの田中徳雲さんのお話は、参加されなかった皆さんにもぜひぜひ知って欲しいお話でした。
そのため長文になりました。ご容赦ください。             

いちえ


2016年3月23日号 トークの会「福島の声を聞こう!vol.18」報告②

3月8日に催したトークの会「福島の声を聞こう!vol.18 」、田中徳雲さんのお話の続きです。

◎除染の問題
私は、困難に当たると燃えて立ち向かう性格だが、この原発事故に対しては「立ち向かう」などと割り切れるものではないし、まだまだ困難が大きく、これからも困難は続くのだろう。
5年経ってようやく、どんなことが起きたのかと、冷静に判断できるようになった程度だ。
今やっている復興は目に見える形ばかりの復興で、実際は巨額を費やしている除染もそれほどの効果は上がっていない。
放射線量は半分ほどに下がったが、それは黙っていても自然の半減期でそれくらいにはなっただろう。
除染には多分、何十兆円もの費用がかかっているだろう。
除染で出た放射性物質を含むゴミを減らすための、減容化焼却炉が造られている。
一基500億円〜700億円かけて、浜通りに11基造られた。
これは仮設施設で、2年くらいでゴミがなくなれば施設は解体する。
建設会社はそんな風に麻痺した感覚で動いているから、新国立競技場は2500億円くらいになってしまう。(会場から失笑)
最低500億円、高いものは700億円で、壊すのを前提に焼却施設を作っている。
(私:減容化ということだから燃やせば体積は減るが、煙になって微細な有害物質が
出るし、バグフィルターにススがたまるとそれを掃除する。それが粉塵になってまた舞っていく。どう考えてもとんでもないこと)

◎自分の問題として
いま福島で起きていることは福島だけの問題でも、日本だけの問題でもない。
現代の生活、ボタン一つで電気がつき冷たい水がお湯になる便利な生活を享受してきた私たち一人一人に、「立ち止まって考える時だよ」のサインを頂いている時なのではないか。
最近東電の幹部3人が強制起訴になったが、他にもしっかり責任のある人たちがいるので、その人たちにも反省と責任を求めていくことが必要だろうと思う。
子どもに「お父さん、なんで誰も責任を取らないの?」と聞かれるが、そう問うてくる子どもの方がよっぽどまともだ。
これからもみんなで声をあげて責任の所在を明らかにしていくべきだと思う。
だが、私自身も外に責任を求めていく思いはあるが、同時に外に向ける心と同じように、自分のうちに向けるベクトルも必要だと思う。
自分のどこが、そうさせてしまったのかを考えていくことが必要だろう。
最近、檀信徒の方たちと話す時に「コンセントの向こう側を意識しよう」と言うことが多い。
震災前にはあまり意識していなかったが、原発が動かなくなったので化石燃料の火力発電がフル活動している。
ではその燃料はどこから来るのか?燃やすことによって出たカスはどこへ行くのか?そういうことも考えたい。

◎生活を見直そう
震災前の小高は、ゴミ収集車が走らない街を目指していた。
街には小収店(こしゅうてん)があって、365日、毎日朝8時から夕方4時まで営業していた。
生ゴミはじめ色々なゴミを持って行き目方を量り分別するが、分別ボックスが40仕分けくらいあって、ビンは透明・茶色・その他の色などで分けるし、紙も新聞、ダンボール、コーティングされている・いないで分かれていた。
分別することによって私たちの生活がいかに過剰包装が多く、いかにゴミが多いかが判り、分別することの大切さを痛感した。
それと同時にしっかり分別できていれば、ゴミが資源に変わることも学べた。
夕方回収業者が来て分別された壜や金属を買い取っていくので、お金にもなった。
混ぜればゴミ、分ければ資源なのだ。
小収店は毎年従業員を増やし、最初は小さな軽トラだったのにホロ付きの2トントラックになり、少しずつ業務も拡大していた。
小収店は登録制だったが、登録者も増えていたし、集落毎に小収店が出来ていけば雇用につながる。
小高でゴミ回収業者に年間4000万円くらい払っていたが、そのお金で小収店を増やして循環でき、ゴミ収集車が走らなくて済む小高になる筈だった。
小収店に持って行った生ゴミは、液体化してEM菌を混ぜて肥料にして、農薬や化学肥料ではなく生ゴミから作ったその肥料だけを使った野菜を作り、古集店の隣で売っていた。
その野菜は苦味がなく自然の味で美味しくて、私の子供たちも大好きな味だった。
野菜は朝行かないと売り切れてしまうほど、人気があった。
ゴミを置きに行って野菜を買って帰るというシステムで暮らしていた。
現在の暮らしは特に町の暮らしは、ゴミ収集車がゴミを回収し、生ゴミも紙ゴミも一緒にしてゴミ焼却場で燃やす。
焼却場の燃料は化石燃料の石油をかけて燃やしているが、石油も日本では採れないから原油をタンカーで運んでくる。
このように何から何までCO2を撒き散らしながらの状況を、よく考えていかなければと思う。
地球が悲鳴をあげている。
このままでは自然環境が持たないギリギリの状態にきていると思うが、これに対してどうすればいいのか声を上げ続けながら行動していきたい。
外の人を責めれば対立構造になるが、自分の内側を変え本音と建前をなくしたい。
なるべく車を使わない、エレベーターを使わない、歩いて済むところは歩くなど等身大で身の丈にあった生き方をしようと思う。

◎原発裁判
一昨年の福井地裁での大飯原発差し止めの判決文はとても良いので、是非読んで欲しいと思う。
発電所の発電行為は人の幸せと天秤にかけられるようなものではない、事故が起これば何十万、何百万の人に迷惑をかけ、国や電力会社が発電停止は国富の流出というが、本当の国富は人々がごく当たり前に日常を送れることで、すべての経済的行為よりも人格権は何よりも上回ると下した判決だった。
関電は上告して控訴審をやっていて、私は昨年の二審で、名古屋高等裁判所金沢支部で意見陳述した。
裁判は一審は双方の意見を聞くが、二審は法律に照らしてどうかを判断する。
私が意見陳述した時にも裁判長を含めて3人の裁判官は一度も顔を上げず、ずっと下を向いたまま、書類を見たままだった。
そして下を向いたまま、本日で6回目の意見陳述なのでそろそろ結審の準備をしていただきたいと、淡々と言った。
一審で素晴らしい判決を下した樋口裁判長は、その後家庭裁判所に移動したが、多分左遷だ。
左遷ではないというが、実質的に左遷だ。
弁護士たちに聞くと、震災前からずっと原発裁判には矛盾があって一審で勝っても二審で負ける状況が続いていた。
月に一度裁判官の会合があるが、福島第一発電所の事故後は裁判官たちの雰囲気が変わってきていた。
自分たちの気持ちを出しやすい雰囲気になってきていたのに樋口さんが家裁に飛ばされて、またピリピリと緊張してきているそうだ。
朝日新聞記者で『原発と裁判官 なぜ司法は「メルトダウン」を許したのか』を書いた磯村健太郎さんに会った時に、原発裁判の可能性はどこにあると思うかを尋ねたことがある。
答えは、「小さな積み重ねしかないと思う。だから訴訟をたくさん起こしていくことだ。たくさん訴訟を起こしていけば、すべてが国寄りの判決にはできない。特に一審では良い判決が積み重ねられていくと思う」だった。
裁判官が嫌になるくらいに、たくさんの小さな訴訟を起こしていくことが大事だと思う。
沖縄は今、それで和解案が出たのだろう。
すべてのことが訴訟になっていったら事が進まないし、すべて国が勝つことはあり得ない。
すると何かにつけて県知事の許可が必要になるし、県知事は突っぱねるだろうから事が進まない。
それを考えて、一応の和解なのかと思う。
福島の事もこれからもまだまだ訴訟をやっていく、東京に住んでいる人もやっていくことが、外への責任追及であると同時に内に向けても考えていくことかと思う。

*徳雲さんのお話、まだ続きます。
長文になるので、続きは後刻お送りします。            

いちえ


2015年3月23日号 トークの会「福島の声を聞こう!vol.18」報告①

大変遅くなりましたが、3月8日に催したトークの会「福島の声を聞こう!vol.18」の報告をお届けします。

◎ゲストスピーカーは同慶寺のご住職
今回のゲストスピーカーは、小高区の同慶寺ご住職の田中徳雲さんでした。
同慶寺は建保年間(1213〜1219年)に創建された古刹で、中村城藩主の相馬家累代の菩提寺です。
苔むした石段を上がり山門をくぐると、樹齢1000年ほどの大銀杏や紅葉の古木の向こうに本堂が、そして境内の杉木立ちの中には26基の相馬家藩主や奥方の墓碑と、明治に至るまでの藩主と一族の位牌を安置した霊堂が一棟在ります。
霊堂は南相馬市指定史跡、大銀杏は南相馬市指定文化財です。
その同慶寺ご住職の徳雲さんは、「今年もまた3月11日が近づいてまいりました。非常に慌ただしくなってきております。一日一日が大事なことに変わりはないので、とりわけ11日だけを大事にするわけではないのですが、5年目ということで、たくさん注目してもらっていますし、振り返りのきっかけであるとも思っています」と、話し始めました。

◎徳雲さんの自己紹介
生誕地はいわき市小名浜。
小・中・高と大好きな野球一筋の少年だったが、いつも補欠だった。
強くなりたい一心で中学の時は片道4キロの道程を走って通ったが、それでも結局補欠だったが、チーム自体は初めて全国大会へ出場するなど好成績を挙げた。
野球部の監督からは、「この3年間で心身ともに自分がどれだけ強くなったか自分でよくわかっているだろうから、高校へ行っても野球を続けろ」と背中を押してもらった。
高校でも野球部に入ったが、上手な人が集まってきていたので自分は間違った選択をしたかと後悔をしたが、途中で止めるという選択肢は持てず、中学であれだけ頑張ったのだから高校ではもっと頑張るのみだと考えた。
それで片道25キロの道を走って通い始めた。(会場から驚きの声と笑い)
おかしいですね。今なら自分でもおかしいと思えるけれど、当時はやってやれないことはないと思っていたし、また高校生だから出来てしまった。
その生活がずっと続いたが、あるとき夜中にものすごい激痛と吐き気が生じ、熱っぽくなり、父が病院に電話すると一刻を争うから救急車を待たずに自家用車ですぐに連れてくるようにと言われた。
病院に着くと、即手術だった。
蓄積疲労で脚の筋が伸びきっているが、寝ている間に筋が元に戻ろうとし、その時に血管や大事な筋を巻き込んで捻れる。
そのために痛みや吐き気、むくみがいっぺんに現れるが、睾丸が近いので生殖器もダメになるかもしれない、大変なことになると言われた。
全治3ヶ月の入院生活だったが、何日か経って学校の先生たちが見舞いに来てくれた。
先生たちは「職員室にはお前のファンの教師が多いから、お前が居ないのを残念に思っている。今の時代にお前みたいなのは珍しいからな」と言われ、また「ここで腐るな!お前みたいなのが、ここで腐ったらもったいないからな。今は心を鍛える時だと思って、しっかり心を鍛えてみろ」と言われた。
そう言われて先生に、心はどうやって鍛えたらいいのか問うと、国語の先生は「野球はピッチャーとバッターの勝負だろう?その真剣勝負の心を宮本武蔵に学べ。吉川英治が『宮本武蔵』という名作を書いているが、きっと学ぶことがあると思うから読んでみろ」と勧められた。
さっそく車椅子で売店に行って、全8巻の『宮本武蔵』の1巻目を買って読んだ。
引き込まれて夢中で読み、寝るのも忘れて一晩で読みきった。
心に残る箇所は赤で傍線を引き、『宮本武蔵』を読んだ。
書かれている登場人物に沢庵和尚がいるが、枠にとらわれず権力にも屈せずスケールの大きいお坊さんの生き方に心惹かれた。
当時高校2年生だったが、世の中にも大人にも魅力を感じていなかった。
大人になるということは、場合によっては自分に嘘をつくことだとも思っていた。
高校で私が好きだった佐々木先生は社会科の先生だったが、「教科書に書かれた通りに覚えると、碌でもない大人になるぞ。教科書に書いてあることの裏を見ることができる大人になれ。ヨーロッパからの移住者がアメリカ大陸を侵略して行った時に、侵略される側の先住民たちの思いを解る人間になれ」というような先生だった。
佐々木先生は職員室では浮いた存在で変わり者だと思われていたが、学校の先生がそういう状態なら一般の会社はもっとそうだろうと感じていた。
そんな時期に怪我をしたことによって”お坊さん”という生き方が目の前に開けて、それならありのままの自分でやっていけるかもしれないと思った。
野球部の仲間やクラスメートに、お坊さんという生き方に惹かれていることを話すと、みんなから「お前、それ合ってるよ!」と言われた。
でも両親は「一般の家庭に生まれながら、何が悲しくてお坊さんになるのか」と大反対で親戚からも反対されたが、祖母だけが「本人のやりたいことをするのが何より。とことんまでやって自分には務まらないと思ったら止めたらいい。やりもしないうちから諦めるな。挑戦しないうちから諦めるな」と言ってくれた。
それから京都の花園大学に入り、卒業後は永平寺で5年間修行した。

◎修行時代
永平寺というと厳しいところだと言われるが、厳しいのはどの社会でも一緒だろう。どの社会も下積みの頃に丁寧に教えるなどはなく、大人の社会は学校の教育と違って教えてなどくれない。

大学時代は長い休みなどの時には、剃髪をしてくれたお師匠さんの寺に住み込んだ。お師匠さんは厳しい方で何も教えてくれなかったが、それが、厳しさは優しさなのだと気づくきっかけになった。
大学3年の夏休みだったが、自分が弟子を取ったらどうしたらいいのかと考えた時があった。
「自分もお師匠さんのように何も教えないかもしれない。教えられたことはすぐ忘れるが、教えられないから一生懸命目で盗んで、それは忘れない」と考えた。
夏休みが終わって京都へ帰る時にお師匠さんへ挨拶に行ったら、「お前は今年の夏は成長したな。その調子でがんばるように」と初めて褒めて貰え、とても嬉しかった。
「あ、これだ。学校と違って大人の社会は誰も教えてくれない、自分で学ばなければいけない」と思った。
「自分で研究しろ、目で見て盗め、職人の社会は特にそうだ」ということを心がけて永平寺に修行に行った。
永平寺では現代っ子の私には目からウロコのことばかりで、永平寺の生活は本当に質素で、昔ながらの生活をしているが、それで十分だということも解った。
修行中は本当の修行ではなく先輩やお師匠さんから、詳しくはなくとも「こういうことをしなさい。ああしなさい」と教えられてまた自分からも目で盗んで真似て、自分のものにしていくが、そういう修行道場での修行は、振り返ってみればとても贅沢で楽な時間だった。
娑婆に出てからは誰も教えてくれない、これからが本当の修行だと言って送っていただき、子どもの無い小高の同慶寺に副住職として迎えて頂いた。

◎強い生き方をしたい
同慶寺で家族として暮らしながら、自分はどういうお坊さんになりたいか考えた。
一つやりたいと思ったことは、昔の人はなんでも自分でできるサバイバルの術、生き残る術を知っていたが、そういう強い生き方をしたいと思った。
現代っ子の自分は、生きるための術を何も知らないと思った。
小高の農家の人たちの暮らしを見ると、鉈一つでなんでも作ってしまうし、小刀が一本あればもっともっと繊細な細かいものを作ってしまう。
そういう生活、なんでも工夫して身の回りにあるもので生活をこしらえていく暮らしを目の当たりにして、自分の暮らしは弱すぎると思った。
良い機会だから畑をやってみようと思い、荒地を借り、鍬より刃が厚く丈夫で石などにぶつかっても刃が欠けない、開墾に必要な道具の万能(マンノウ)を一本買った。
借りたのは荒れた桑畑で、養蚕を止めてから30年ほども手入れされずに放置された所だった。
背丈くらいの高さで太ももほどに育った桑の木が、何本も植わっている畑だった。
先住民は木を切るときに捧げ物をしながら切ると聞いていたので、塩と水そして、「ここで学んだことは必ずみなさんに還元したいと思っているので、今から起きることを、どうか受け入れてほしい」と綴った自分の気持ち書いたものを供え、一本一本に「ごめんね」と挨拶しながら切り倒していった。
チェーンブロックで根を掘り起こしていったが、これは想像を絶するほど大変な作業だった。
そうやって開墾していったが、夏は翌日には草が生え出てしまうので、開墾は冬にする作業だと思った。
そうやって少しずつ畑を増やしてやっていくうちに、ジャガイモはどれくらいの種芋からどれくらいの収穫があるか、豆はどれくらい作ったら枝豆にして食べ近所にもお裾分けをし、味噌を作るくらいの収穫量になるかなどを判っていった。
少しずつ手探りでやっていきながら大体自給自足していくには、一反の田んぼ、一畝の畑があれば一家族が十分に食べていけることが判ってきた。
そのようにして米や野菜を作ってきたが、命をいただくとはどういうことか、自分の手を汚さず肉を食べるのはフェアではないし、自分で育てたものを食べて初めて骨の髄まで有難くいただくことができるのだろうとも思っていた。
そう考えていた矢先に起きた原発事故だった。

◎原子力発電について勉強
永平寺での修行を終えて同慶寺に迎えていただくことになった時、小高は原発が近い地域なので、原発のことを学んでおこうと思った。
知らないでは何も考えられないので、その仕組みや、どういうことが起きたら危険かを知っておこうと、勉強をした。
原子炉は核分裂反応を利用して発電している、大きな湯沸かし器のようなものと例えられる。
原発は燃料が放射能だが、燃焼を利用してエネルギーを抽出するという点では車も同じだ。
だがガソリンを燃料にして車を動かすから、車が爆発して怖いと思う人はいない。
安全性を考えて作られているからだ。
原子力発電所も原子炉自体は十分に工夫されて作られているが、問題は使用済み燃料プールだ。
アメリカで原子力のいろいろな裁判を担当してきたアメリカ人弁護士に、そう教えられた。
使用済み燃料プールは屋根が付いてる水泳プールのようなものだが、そこにはかなりの密度で使用済み燃料が保管されている。
プールの水を循環させることができていれば問題ないが、循環が止まったら非常に危険だ。
アメリカでも何度かそういう事故が起きている。
予備のディーゼル発電機が準備されているが、予備なのでなかなか使用する機会がないから、たまに出番が来ると大抵故障すると、その時に聞いていた。
福島は地震が多いところなので地震が来るたびに、どうか燃料プールが安全でと祈るしかなかった。

◎3月11日
3月11日より前の8日から震度4の地震が、3日間続いていた。
一昨日の地震は止まり、昨日も止まった、今日も止まれよと思ったが止まらず、更に激しくなりガラスが割れ、壁にヒビが入った時点で「ああ、遂にきた。天に任せるほかない」と思った。
が、いつかこうなる日が来るのでは、と予測していた自分もいた。
大津波警報が出て、同慶寺は海抜10m、海岸から4Kmだが、アマチュア無線情報で7メートルの津波という情報がネットで流れた。
それを見て、同慶寺も危ないと思った。
寺が避難所だったのでたくさんの人が避難してきていたが、本堂は余震がひどくて危ないので、みんな駐車場にいた。
その人たちと一緒に山の方へ避難した。
1時間ちょっとした後で寺に戻り、自転車で海の状況を見に行った。
天変地異が起きる時はそういうものかもしれないと後になって思ったが、2月下旬から連日のように通夜、葬式が続いていて、その夜もお通夜が入っていた。
通夜の会場が国道6号線に面して海から2キロのところで、亡くなった人の家も海の近くだったから、その家族や会場の安否を確認しようと思って行った。
海岸線から内陸3キロくらいが、海になっていた。
想像を絶する状況で通夜の会場も浸水していた。
見に行ったのは津波の第3波の後ぐらいだったが、家屋、ヘッドライトが点いたままの車などが海に持って行かれているのを見て、相当に大変なことだと思い、こういう時だからこそ冷静に判断しようと強く思った。
寺に戻ったのが4寺半ごろだったが、ツィッターを確認すると津波情報を流してくれた同じ人が、福島第一原発で津波により電源喪失、予備のディーゼル発電機も浸水し海に流れたことを発信していた。
それを知って、アメリカの弁護士から冷却できなくなった燃料プールは大体24時間で爆発すると聞いていたので、もう24時間のタイマーは作動してしまっていると思った。
それで地元の人たちに、原発が大変なことになっていると話した。
海を見に行った時に6号線が浸水しているのを見ていたが、原発に行くには6号線を通らなければ行けない。
今原発では作業員に収集がかかっているだろうが、6号線は海になってしまっているから作業員たちは原発まで辿り着けないだろうと思った。
地元の人たちに原発が危険なことになっていると話しても、誰も避難した方がいいとは判断せず、「原発は絶対大丈夫」の一点張りだった。
エンジニアや原発建設に携わった人、原発で働いている人もいて原発については詳しい人たちがいるという地域性の中で、危険を発信したが受け止められず、ダメだった。
私は小さい子供が3人居たので、ここで大丈夫、大丈夫じゃないと話していてもダメだ、子供たちを守りたい、子供達を連れてここを離れよう、山の向こうへ行こうと思った。
その日は客人が来ていたので、その人を送りながら福島市まで行こうと思い、客と家族を乗せて着の身着のままで、毛布3枚と食料少々、米とその夜食べるものを持って避難を開始した。
客を送り届け、普通なら1時間で福島に行くのにその夜は渋滞していて3時間かかったが、車にはガソリンを入れていたので避難することができた。

◎避難行が始まった
●会津若松へ
11日の晩は車中で一泊し、2日目の夜中に会津若松の栄町教会に着いた。
そこには「廃炉アクション」の仲間たちが集まっていることをメールで知っていたので、そこを目指したのだった。
「福島の老朽化原発を考える会(通称:フクロウの会)」代表の宇野さんが「避難者の会」の代表となってそこにいて、私もフクロウの会の仲間だった。
フクロウの会では、建設から40年になる福島原発の廃炉を目指す「廃炉アクション」を準備していた時期に起きた事故だった。
早朝3時頃に、今なら移動可能だと思って行動したが、皆さんもなんらかのアクシデントに見舞われた時には、早朝なら渋滞もなく移動しやすいことを知っておくと良いと思う。
携帯電話も、寝ている人が多く利用者が少ないその時間帯なら繋がった。
会津若松で少し落ち着いて態勢を立て直そうと思っていたが、1号機の爆発をニュースで見て、ここは原発から100キロしか離れていないので、もっと離れて日本アルプスの向こうへ逃げようと思った。
●長野県へ
長野県の大町市美麻の友人に電話するとすぐ来いと言ってくれ、夜通し走って13日の夜中に美麻に着いた。
2日間一睡もしていないのですごく疲れているはずなのに、覚醒してしまってその夜は眠れなかった。
両親や近所のお寺などに電話して長野県に着いたことを伝えたら、「逃げ脚が早いなぁと言われた。
自分だけ逃げて済まないと詫びると、「そんなことはない。お前は勉強してきたから、そういう行動が取れた。俺たちは”絶対大丈夫”を鵜呑みにしてきたから、こうなった。自業自得だ。でも、お前は生き延びろ。生き延びていつか帰ってこられるようになったら、戻ってきてまたこっちで活動してほしい」と、一番お世話になっている和尚さんに言われ、涙が溢れた。
当時は福島にとどまることは即、死を考えさせられたし、一方では避難した人たちは後ろめたさを共通して感じている。
家族を避難させていた私自身も、そうした後ろめたさを感じた。
長野県に避難した時点で子供がいる家庭の3家族が合流していて12人になっていたが、地元の区長や消防団が地元集会所を開放してくれ、食べ物、衣類、布団、テレビなどいろいろな支援物資を持ってきてくれて、とても親身にしてくれた。
運んでくれたテレビで、原発の状況もニュースで見た。
母親の一人が区長さんに、ここの飲料水の水源を尋ねると「沢水だから美味しいぞ。ここでは昔から、この沢水を飲んでいる」と答えが返った。
夜になって大人たちで話し合った。
これまでならいいが原発が爆発した今はもう、沢の水は飲ませられないと母親は言い、どうせ避難するなら安心できるところまで避難したいと言った。
その日1日で避難所らしくなったこの集会所を、2日間寝ていない我々で元のように綺麗に戻すのは大変だったが、母親たちはやると言い、また明朝少し早く起きて昼食のおにぎりも作って行こうということになった。
「立つ鳥あとを濁さず」と集会所を元どおり綺麗にして、美麻を発つことを決めた。
翌日になって区長さんたちにお礼の挨拶を言うと、区長さんも「そうか、行くのか。でも、あんたたちの気持ちもよく判る。セッカク避難するなら安心できるところまで避難しなければ嘘だ」と言って送り出してくれた。
私たちは美麻を出るときには、祝島まで行こうかと話しあっていた。
原発に反対しているおばあちゃんたちは、きっと私たちの気持ちをわかってくれるだろうと思ったからだ。
祝島の友人に電話をすると、「島のおばあちゃんたちも喜んで迎えると言ってるから、早く来い」と言われた。
●永平寺へ
車3台で移動していたのだが、3時頃に後ろの車から子供の様子がおかしいと電話があった。
サービスエリアに止まって子どもの様子を見ると熱っぽく、これ以上の移動は無理だと判断した。
そこは金沢だったのでそこからなら永平寺に行こうと思ったが、永平寺の寺そのものは組織が大きいのですぐに受け入れという具合にはならないと思い、門前の宿に電話をすると私のことを覚えてくれていて、「大丈夫。すぐ来い」と言ってくれた。
3家族12人は、そうして13日に永平寺に着いた。
●福井で受け入れ態勢確保
翌14日、福島からの避難者を受け入れてくれる避難所確保のために、2ヶ所の寺を訪ねた。
老僧たちは「福井にも原発はいっぱいあるのだが、そうか、原発はそんなに怖いものなのか」と言い、「判った、避難者を受け入れよう」と言ってくれた。
私は東の原発銀座から西の原発銀座に避難したのだが、『お前には逃げるところはない。自分の問題として考えろ』と、神様から言われているような気がした。
2ヶ寺を回ったあとで福井県庁に行ったのが、3時半くらいの時刻だった。
対応してくれた係りの人から「判りました。受け入れ場所を考えましょうと」返事を貰い、帰ろうとして県庁のロビーを通ると、ちょうどそこでは職員たちが支援物資を仕分けしている様子を、NHKと福井テレビが取材しているところだった。
そこへ飛び入りで「私は福島から避難して昨夜ここに着いた者ですが、メッセージを届けさせてほしい」と頼んだ。
それが6時と9時のニュースで流れた。
すると避難者を受け入れるというたくさんの申し出がテレビ局に届いて、そのリストが宿に届けられた。

◎避難者から支援者へ
●福井から福島へ、福島から福井へ
それまでも毎夜、福島の友人や檀家、門信徒、地域の寺と連絡を取りあっていた。
みんな避難したいが、ガゾリンが無くて動けない状態だった。
いろいろな物資もガソリンも郡山までは届くが、常磐道が通れないためにそこから南相馬へは届かない状態で、南相馬から郡山まで取りに行ければなんとかなるのだが、取りに行く手がない状況だった。
それでなんとかしてガソリンを届けたいと思い、一緒に避難してきた父親たちにホームセンターでガソリンタンクを買い集めるよう頼んだ。
だが福井でも買占めが始まっていて2個しか手に入らず、新品で無くても良いことに気がつき、農家を回って農繁期までには必ず返す約束をし、タンクには貸主の名前を書いて借りて集めた。
農家では農機具に注油するのに使うため、2個、3個持っている家もあったので、たくさん集めることができた。
それらのタンクにガソリンや軽油、灯油をいっぱい詰め、食料や簡単な医療用品、オムツ、生理用品などを買って、運んだ。
福島を出たもののガソリン不足で途中で立ち往生してしまった家族たちと携帯で連絡を取り合って途中で会い、彼らが新潟まで行けるだけのガソリンを入れてやり、
新潟に行けばそこで10リットルは入れてもらえるから後は自力で福井まで行くように言って、自分は福島へ向かった。
運んできたガソリンや物資を福島に届け、また福井に引き返し、福井まで辿り着いた人たちと抱き合って再会を喜んだが、まだまだ福島から出るられずに残っている人たちがいたので、何度もそうやって福井=福島を往復した。
何度も往復したが、行って戻るのではなく、福島で活動しなければダメだと思えた。
●福島での活動
福島の避難所では緊急時の対応が必要となっていた。
ボランティアも大勢入っていたが、避難者みんなに等しく物資が渡らず、また外に向けてSOSを発信しやすい人は支援が届きやすいが、一人で生活している人や引っ込み思案の人などはケアが必要だった。
お寺の役員からは檀信徒の中にもそういう人はたくさんいるから、それらの人をケアして欲しいと言われ、そうしようと覚悟を決めたが、正直に言えば爆発後の福島で長期間活動することは少し怖かった。
初めて避難所に行ったのは3月24日だったが、やはり「お前、今頃になって何しに来たんだ」と言われた。
「済みません。子どもたちを守るのは私しかいないので、彼らを避難させました。彼らも避難先で少し落ち着いたので、私はこちらで活動するのに混ぜてもらいに来ました」と言って、入れてもらった。
お父さんたちは強く当たってきたが、おばあちゃんたちは「徳雲さん、お茶でもいっぱい飲みなさい」などと言ってお茶を入れてくれた。
でも、その水はどこの水か?安全か?などと思いながらも、断ることはできずに飲んでいた。
同じことをし、同じものを食べて分かち合いたいと思ったが、そういうことの繰り返しだった。
そうやって少しずつわだかまりが溶けていき、「和尚は一度は離れたが、また戻ってくれた」と信頼関係を取り戻していった。

*徳雲さんのお話は、まだ続きます。
長文になりますので、続きは後刻別便でお送りします。        

いちえ


2016年3月18日号「南相馬、3月12日」

10日の朝刊一面トップの見出しの大きな文字、「高浜原発3、4号機差し止め判決」を見て、紙面を開く時間もなく家を出ました。
新聞は家人が読むだろうからと置いて出たので、東京駅の売店で買い、車中で読みながら行きました。

●仮設住宅で拾った声
5年前の事故が収束できないまま復興の声ばかりで、被災者の暮らしは置いてきぼりにされているようだと、誰もが言っていました。
差し止め判決のニュースについては、それが当たり前の判断だと言い、判決が覆されるようなことは、絶対にあって欲しくないの声ばかりでした。
他にもこんな声を聞いてきました。

「ガンばっかり。あれから友達や知り合いで、ガンになった人が多いよ。影響はないなんて言うけど、絶対に影響はあると思うよ。
3月12日に避難して一週間ばかりして家に戻ってきた時、外にいると喉がヒリヒリ痛くなったもの」(原発から20キロちょっと外れに家がある人)

「泥棒が人の家に入って何か盗めば罪になるのに、何万人もが家に住めなくなったのに罪にならないなんて、おかしい」

「天災(津波)が原因だって言ったって、津波で家が流されてもその人(家が流された人)は他人に迷惑かけてないでしょ?東電は何万人もに迷惑かけてんだよ」

「避難解除の後の生活? 今はまだ、どうなるか決められないね。毎日、今日のことだけ考えてる。朝起きると毎日、とりあえず今日はこうしようって思うだけ。そう、とりあえずの毎日だね」

「浪江にコンビニができたって、土・日は休みでしょ?作業員のためのコンビニだから、自宅の片付けに行くにも土・日しか休めない住民は利用できないんですよ」

●バスの窓から
飯舘村では解体を希望する家屋の解体が、既に始まっています。
一応除染してから解体するのですが、解体した家屋の資材を積み置く場所ができていました。
それらはどう処理されていくのか、気になるところです。
行きにはなかったのですが、帰りには道路際に一軒の新築住宅が展示されていて、ヒラヒラと旗がはためいて、背広姿の男性が数人、道路に向かって笑顔で立っていました。
積水ハウスの住居展示でした。
周囲には除染物を入れたフレコンバックが、野積みにされているのです。
現実の光景とは思えない、不思議な光景でした。
今は無人になった村の椏久里珈琲店のブルーベリー畑は、イノシシが掘り返した跡で土がそこここに盛り上がっていました。
村長が帰村宣言をしたら、こうした村に学校が戻るのです。
子供達は近隣の仮住まいから、村内の学校に通学するようになるのです。

●タクシーの運転手さん
南相馬に行く時は、行きか帰りに福島市で再開している椏久里珈琲店に寄ることがあります。
今回は帰りに寄りました。
福島駅からタクシーで向かいました。
乗っている間の運転手さんとの会話です。

運:「飯舘村とか浪江とか、みんな賠償金もらってんだろう。毎日パチンコに行ってるとか、浪江の奴は女に入れ込んで賠償金全部つぎ込んだとか、いろんなこと聞くよ。椏久里も店を新しくしたんだってな。賠償金で儲かってんだろう。真面目に働いてる俺らが馬鹿らしくなるよ」
私:「原発事故で、暮らしの全てを奪われてしまったのですからね。浪江の人たちも津波で家を流された人は、原発事故の前に家は流されていたからと、建物についての賠償は全くないんですよ。賠償金の出し方はおかしいですね。福島市内も放射線量の高いところはあるのに、そこには出ていないですね。同心円で区切ったり、区域外の被災者を対象から外したりするから、いがみ合わなくてもいい人たちがいがみ合ったりしてしまうんですよね」

運転手さんは、初めはいかにも苦々しげな口調だったのですが、言いたいことを言ったので少し気が晴れたのでしょうか。それとも私が福島市の人も被害者だと言ったので気が晴れたのでしょうか。
口調が柔らかになって、こう言いました。
運:「あの店は自分のとこで焙煎してるのかい?」
私:「そうですよ。飯舘の店から持ち出せなかった機械もいろいろあったので、また新しく揃えて、福島市内での再開だったんです」
運:「ふ〜ん。自分とこで焙煎してんなら、コーヒーもうまいんだろうな」
私:「ええ、とっても美味しいですよ。今度時間があるときに行ってみてください」
運:「ああ、行ってみよう」

椏久里の椅子にかけてコーヒーを注文してからタクシーの運転手さんとの会話のことを話すと、「2、3日前に、地区ごとの賠償金額が新聞に出たのよ。それを読んでいれば被災者たちに入ったお金のことしか判らないから、避難生活のせいで出ていったお金や失ったもののことなど判らないから、そんな話になっちゃうんでしょうね。」と、言葉が返りました。
核被害者同士が気持ちを分かってしまうことなく、被害をもたらした者への責任追及を共にやっていくようにしなければと、改めて思いました。

*遅ればせの3月の南相馬行の報告でした。
ぜひ読んでいただきたい本があります。
それでも飯舘村はそこにある 村出身記者が見つめた故郷の5年』産経新聞出版刊
飯舘村出身の産経新聞記者、大渡美咲さんが書いた本です。
飯舘村の5年間が、如実に語られています。
多くの人に手に取っていただきたい本です。               

いちえ


2016年3月16日号「南相馬、3月11日②」

◎浜野博年さん・芳枝さん夫婦
●「あれぇ、久しぶり!」
萱浜の追悼式には、浜野博年さん・芳枝さん夫妻も来ていました。
2人に会うのは2年ぶりでした。
追悼式が終わってから二人に声をかけると、「あれぇ、いちえさん久しぶり!」と声が返りました。
浜野さんは萱浜の自宅が津波で流されて鹿島区原畑第2仮設住宅に入居していましたが、相馬市に息子が家を建て、またそこで一緒に暮らすようになったのです。
相馬に家を建てる計画が持ち上がったのは3年前ですが、芳枝さんはその時から「行きたぐねぇ。仮設に居られる間はここに居て、出なきゃなんねぐなったら、みんなと一緒に復興住宅さ入りたい」と言っていました。
被災前のように息子一家と一緒に暮らせるようになるとはいえ、息子夫婦も孫も、昼間は勤めや学校で留守になります。
知り合いもいない新たな土地での暮らしに、不安が大きかったのでしょう。
また、仮設住宅は同じ被災体験をして気心知れた仲間たちがいますが、新居ができる場所は津波の被害のなかった地域で原発から30キロ圏外ですから、賠償金などの問題で地域住民との間に軋轢が生じることも心配だったのでしょう。
こうした心配は浜野さんだけではなく、仮設に暮らす人たちの多くが感じていることでした。
けれども新居ができると、浜野さん夫婦は引っ越して行きました。
もしも芳枝さんが言ったように避難解除されるまで仮設に残り、その後復興住宅に入居しても、いずれ息子たちの世話を受けなければ暮らせなくなっていくでしょう。
そう考えて、仮設住宅を出たのでした。
けれども六角支援隊の畑の管理をしていた荒川さんに聞けば、芳枝さんは引っ越し後も、しょっちゅう畑に来ているという話でした。
薬の服用が欠かせない博年さんの病院も南相馬で、2週間に一度は処方薬を受け取りに来ますし、また毎週のように仲間たちに会いに仮設住宅に通ってもいるようでした。
私も、そんな芳枝さんが気がかりでしたから度々電話をしていました。
膝の具合が悪く太っている芳枝さんは、家の中など少しの距離は大丈夫ですが外を出歩くには押し車が必要です。
仮設住宅にいた時には畑まで押し車で歩いてきていたし、畑の手入れなどで体を動かすことも多かったのですが、引っ越してから度々仮設住宅に来るとは言っても運動量が少なくなっていることが心配でした。
私は芳枝さんに電話をするたびに、散歩をするように伝えてきました。
芳枝さんは「うん、天気がいい時は30分くらい歩いてるよ」と言っていましたが、交通量も多いところなので時間帯や天気を選んでのことのようで、家にいれば座りっきりの日々のようでした。
庭も狭くてほんの少し花を植えられる程度で畑もできないというので、農家だった芳枝さんが仮設の六角支援隊の畑に通ってくるのも無理もないことだと思えました。

●新しい仲間ができたんだ
2年ぶりにあった浜野さん夫妻は、二人共元気そうで嬉しいことでした。
通院先の病院は住まいの近くの病院に変えたことは電話で聞いていましたが、近所に畑を借りることもできたので、そこで野菜を作っていると言いました。
畑を貸してくれた人は定年退職後の学校の先生だった人で、野菜作りは素人なので、芳枝さんが色々と教えてあげているそうです。
また近くの公民館で開かれているパッチワーク教室にも通うようになり、教室の人たちと友達になり「新しい仲間ができたんだ」と、芳枝さんは言いました。
「ああ、それはよかったねぇ」と私も嬉しく言うと、「んだなぁ。この間は仲間たちと近くの温泉に行って湯さ入った後で、宴会場で食べたりお喋りしたりして、楽しかった。仲間たちと、またこんな会をしようなって話したんだ」と笑顔の芳枝さんでした。
それだけではなく畑で採れた野菜で漬けた漬物を、公民館のパッチワーク教室に持参して仲間に喜ばれたり、畑の持ち主からは漬け方を教えて欲しいと言われて教えたりで新しい仲間たちにとっても芳枝さんは掛け替えのない大事な存在になっていっているようでした。
野菜作り名人で料理の上手な芳枝さんです。
転居先で生き生きと過ごせるようになって、本当によかったと思いました。

◎新たな暮らしに馴染んで欲しいけれど
芳枝さんの他にも、仮設から出て新たな生活を始めた人は多いです。
みんながみんな、芳枝さんのように新たな暮らしに馴染んでいないいことは気がかりです。
小池第3仮設住宅から一昨年の2月に、新居に越して行ったクニちゃんは、今も毎日仮設の仲間に電話をかけてきます。
クニちゃんは車の運転ができず、家には介護が必要な高齢の義父がいるのです。
仮設に居た時にも義父の介護をしていましたが、疲れれば集会所に顔を出せば仲間がいてお茶を飲んだりお喋りで、気分転換ができていました。
新居では近所にそういう仲間は居ず、仮設の仲間との電話でのお喋りが気晴らしになっています。
寺内塚合の菅野さんは、この2月に仮設を出て娘家族と同居するようになりました。
菅野さんも運転はできず、携帯電話も持っていません。
仮設の仲間たちも菅野さんがどうしているか案じますが、連絡が取れずにいます。
家に篭って体調を崩していくのではないかと、仲間たちは心配しています。
寺内塚合第2仮設自治会長の藤島さんが構想しているシェアハウスが実を結んで欲しいと願いますが、”シェアハウス”という概念がみんなには思い浮かべにくいようで、肝心の仮設住宅の高齢者たちに構想が浸透していかないようなのです。
モデルケースを見学したりできれば具体的にイメージできるのでしょうが、言葉だけでは掴みにくいようです。

◎南相馬市東日本大震災追悼式
この日午後は市の文化会館「ゆめはっと」で、市主催の追悼式が行われました。
開会の辞に続いて「ゆめはっと合唱団」により市民歌斉唱、桜井市長の式辞がありました。
2時46分に参加者全員で1分間の黙祷を捧げ、その後映像で国主催の追悼式の中継が映されました。
映像は天皇陛下の「おことば」で中継終了し、市議会議長の追悼の辞、ご遺族代表のことば、献花、閉式の辞で、追悼式は終わりました。
会場で参加者に配られた式次第に、「南相馬市の将来像」「まちづくりの目標」が載っていました。
まちづくりの目標の最後の項目に、こう書かれていました。
「●原発事故を克服し、誰もが安全・安心して暮らせるまち
 原発事故を克服し、原子力に依存しない自然にやさしい安全・安心のまちづくりを推進するため、市民が放射線被ばくの不安を抱くことなく暮らすことができるまちの実現を目指します。また、地震、津波などの大きな災害に対しては、十分な備えを行うことで、誰もが安全・安心に暮らせる環境を整備します」
どうかこの目標を違うことなく進めていけますようにと、願います。

◎ハローワーク相双求人情報
市役所には市や社協の広報誌他、様々なチラシやお知らせが置かれています。
その中にハローワークの求人情報があったので、手に取ってみました。
240件の求人(2月29日〜3月4日受付分)の内、90件は除染と土木工事関連の求人でした。
南相馬の今が見えるようです。 

*12日に帰宅したのですが、帰ってからは留守中に溜まっていた諸々の始末や、また独居の従弟が救急車で運ばれたと連絡が入って病院に行ったりで、なかなか机に向かえず、続きの報告がこんなに遅くなりました。
飯舘村の様子や今回の滞在中に聞いた現地の人たちのことばなども、後ほどお伝えしたいと思っています。                        

いちえ


2016年3月12日号「南相馬、3月11日①」

◎早朝の追悼式
●今年もご一緒に
先月藤島さんにお会いした時に、「今年も11日には海岸で追悼式をします」とお聞きしていました。

南相馬での私の定宿は原町区大甕のビジネスホテル六角ですが、昨年の3月10日は、友人でフォトジャーナリストの豊田直己さんも同じくそこに宿を取っていて、食堂でばったり顔を合わせたのでした。
豊田さんに翌早朝の追悼式の事を伝えると、「一緒に行きましょう」という事になって豊田さんの車に同乗して鹿島の海岸での追悼式に参加したのでした。

今回10日に藤島さんにお会いした時に、「去年の場所は防潮堤ができて入れないので、明日は違う場所でやりますが」と言われ、1枚の紙を頂きました。
「3・11追悼(〜忘れじの時)
2011年3月11日
あまりにも突然に
過酷な現実を背負いながら
生きることを
強いられることになった日

あれから5年
避難解除を前にして
苦悩の日々はつづく
それでも前に進む以外に道はなく
明るく励まし合いながら明日へ
犠牲になられた人々の冥福を祈りながら
         日時:3月11日(金)朝6時30分
         ところ:鹿島区海岸
         主催:3・11追悼実行委員会」
そう書かれていました。
今年も参加したいと思うものの、大甕から鹿島までの交通手段がなくどうしようかと思っていたのですが嬉しい事に、この日もまた豊田さんも六角に宿泊だったのです。
それで昨日11日、今年もまたまた豊田さんと一緒に行って参加することができました。

●早朝の追悼式
寺内塚合第2仮設住宅は鹿島区寺内に在るのですが、この仮設住宅には小高区に自宅がある方達が入居しています。
津波で家族を亡くされた方達も居ます。
自分の家族だけではなく、多くの人の命があの日の海に消えました。
亡き人たちへの追悼の想いを届けたいと、仮設住宅から近い鹿島の海岸で追悼式を行うのです。
昨年は右田浜の鹿島の一本松の海辺で祈りを捧げ、花を手向けました。
玉砂利の浜辺で寄せくる波に花を投げると、引き波が花を運び、手向けられた花は寄せる波に返されまた波に運ばれ、寄せては返すうちに沖へと消えていきました。
その海岸は今は防潮堤ができて海はみえず、鹿島の一本松も枯れました。
ですから今年は少し北上した北海老の海岸で、行いました。
そこもやはり防潮堤ができて居ますが、防潮堤のこちら側はほんの少し高台になっているの
で、そこからは海がみえます。
昨年は脚が悪い人以外は、仮設住宅から海岸まで歩いてきたのですが、今回は歩くには遠く、何台かの自家用車に乗り合わせてきました。
その高台に祭壇を設けて、花を飾り、今朝早く起きて作った団子や菓子を供え、蝋燭を灯しました。
藤島さんが、「あの日から5年が経ちました。今日は5年前と同じ金曜日で、市内の中学校は卒業式の日です。私たちは、突然いのちを奪われた亡くなった人たちの無念を想い、仮設住宅で今日まで必死に過ごしてきました。今年は避難解除ということで、それぞれまた別の生活になっていきますが、私たちが安寧に暮らすことが、亡くなった方達への手向けになると思います。みなさん、笑顔でこれからも生きていきましょう」と挨拶され、藤島さんの鳴らす御鈴の合図で、黙祷をしました。
元気で脚のい達者な男性(この方は大工さんだったそうです)が手向けの花束を抱えて堤防のパイプのはしご段を上り、海側のはしご段を降りて石の浜辺に立ちました。
良い波の来るのを待って、花束を波に放りました。
みんなは堤防越しに、波間に花が運ばれていくのを手を合わせて見つめたのでした。

●真野川漁港
追悼式の海岸から少しの烏崎は真野川の河口です。
ここには真野川漁港があるのですが、震災でダメージを受け営業ができずに居ました。
何艘かの漁船がもやってはありましたが、どれも汚れてみえました。
この日に行ってみると漁港の修復も済んで、漁船の数も以前見た時よりも多くなっていましたし、船体はどの船もきれいでした。
新しい漁船も何艘かあるようにみえました。
また竹の先に船の名を染め抜いた旗を付けている船もありました。
向こうの方には船の上で何か操作をしている人の姿もみえ、試験操業も始まっているのかもしれないと思いました。
小さな漁港ですが、漁師さんたちの暮らしが戻ることを祈ります。

◎浪江請戸漁港へ
鹿島の海岸での追悼式の後、浪江に行きました。
6号線から請戸の方へ向かう検問所では、「お墓参りです」と言って車のナンバーを控えられて抜けました。
請戸漁港も修復が進んでいて、護岸には車止めや、船の舫ロープを巻き付ける杭も並んでいました。
黄色と黒の斜め縞の車止め、濃いピンクに塗られた杭です。
こうして形の上では生活再建に向けて、いろいろが進んできているようにみえます。
捕獲された魚が安全で美味しく、本当の生活再建になるようにと祈りました。
漁港へ入る道の角に震災後に作られた祭壇があります。
ここを通る時には誰もが、手を合わせて通ります。
私も請戸に行った時にはいつも、亡くなった人たちに想いを寄せて手を合わせてきました。
漁港から戻る時にそこに行きかかると、ちょうどそこでは大勢のお坊さまたちが追悼式をしていたのでした。
墨染め衣のお坊さまたちは、各県からの曹洞宗青年会の方達でした。
お坊さまだけではなく一般人の姿もあり、ご夫婦でみえていたその方達は、二本松の仮設住宅に住む浪江の方でした。
自宅は請戸ではなく南赤宇木だそうですが、毎年この日は追悼に来るのだそうです。
浪江は、津波に流された家々は辺りの瓦礫は片付けられて土台だけになっていますが、半壊や一部が壊れた家々はそのまま残っています。
瓦礫が片付き草も刈られてがらんとした原に、半壊や一部損傷した家々がポツリポツリと立っていました。
「建って」いたのではなく「立って」いたのです。
5年の月日が過ぎても、この風景でした。

●浪江ローソン
浪江町の出口辺に、コンビニのローソンが開店していました。
トイレに行きたかったのと新聞を買いたかったので、店に入りました。
トイレもレジも作業員の方達が順を待って並んでいました。
私も列に並んでトイレを済ませてから、熱い珈琲と温めた肉まんを買い奥に設えられた休憩コーナーで、遅い朝食を摂りました。
ふと目の前の壁を見上げると、ここに立ち寄った人たちが書いたメッセージカードが何枚も貼ってありました。
一部をご紹介します。

「浪江の復興拠点 便利なローソンができてうれしい!頑張って下さい」
「人生楽しく生きましょう!その為にはまず除染ですね。日本ガンバレ」
「除染作業に九州から来ています。浪江町も残り少ない除染となります。共に頑張りましょう。 H27.12.8 八代市 K.S」
「あの日卒業式だった私たちも成人式を迎えました。浪江でできなかったのは残念だと思うけれど、今は笑顔で過ごしています。がんばろう 浪江っ子」
「除染大好き I LIKE JYOSEN」
「何人たりとも俺の除染を妨げる者は許さん」

私は住居の周辺や生活環境は徹底した除染が必要だと思いますが、これまで見てきた中では不必要な除染もあると思っています。
汚染物質をなくす為の除染ばかりでなく、除染という仕事を生み出す為の除染、つまりお金を流通させる為の除染も多いように思います。
最後に紹介したメッセージカードを書いた人からは、「許さん」と断罪されるかもしれませんが、必要な除染ばかりではないと思っています。
ではどこまでが”必要”で、どこからが”無駄”かと言われれば、一つ一つそれぞれの場合で考えなければならないことも多いでしょうが、基本的に除染で片付くことではないと思っています。
そしてまた不必要な除染作業で被爆する人が増えることも案じますし、除染に費やすお金を被災者の為にもっと別の使い方をするべきだと思っています。
福島に来ると、本当に考えさせられることが多々あります。

*萱浜へ
浪江から原町に戻り、萱浜で豊田さんと別れました。
豊田さんはそこから別の取材地へ向かい、私は萱浜の追悼式に参加しました。
この報告はまた後刻いたします。                   

いちえ






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