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一枝通信 FW: 声明 日印原子力協定締結に抗議/ベトナムは原発計画を撤回?理由の一つは「経済性」

Foe Japanの満田さんからの情報を転送します。
昨日朝9時から、官邸前での抗議集会に私も参加しました。
許しがたい外交です。
2011年の東京電力福島第一発電所事故は無かったかのように、そして核災害被災者は居ないかのように、また相手国インドがNPT(核不拡散条約)非加盟の国であることも知らぬげに、協定を結んだ「アベ政治」を断じて許せません。
「原発は悲しみしか生まない」前回のトークの会で、ゲストスピーカーの今野さんが言った言葉を、今一度思い返します。

いちえ

みなさま(拡散希望!重複失礼)

FoE Japanの満田です。
さきほど、日印原子力協定締結のニュースが流れました(怒)。
FoE Japanから抗議声明を出しました。問題点をまとめたのでご一読ください。
声明 日印原子力協定締結に抗議 「核廃絶への願うすべての人々を裏切り、福島現原発事故の被害を無視する行為 」
http://www.foejapan.org/energy/export/161111_2.html

声明 日印原子力協定締結に抗議 「核廃絶を願うすべての人々を裏切り、福島現原発事故の被害を無視する行為」|FoE Japan
www.foejapan.org
本日、日印首脳会談が開かれ、日印原子力協定が調印されました。 私たちはこれを、核廃絶を願うすべての人々を裏切り、福島原発事故の被害を無視する行為として、強く抗議します。私たちはまた、国会議員に対して、核廃絶と脱原発を願う市民の声に耳を傾け、日印原子力協定を批准しないように求めます。|FoE Japan

協定の内容は不明ながら、NHKは日本政府は別文書で、インド政府が2008年に出した、「核実験を凍結する」という内容の声明に違反するような行動をした場合には、協力を停止することを確認している、と報じています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161111/k10010765711000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_002

日本・インド首脳会談 原子力協定に署名 | NHKニュース
http://www3.nhk.or.jp
安倍総理大臣は日本を訪れているインドのモディ首相と11日夜に会談し、日本の原子力関連技術のインドへの輸出を可能にする原子力協定について最終合…

ものすごく低レベルの担保で、こんなことで、NPT非加盟国との原子力協定締結のいいわけになると思ったら大間違いです。また、日本が原子力協定の相手側に常に禁じてきた放射性廃棄物の再処理がどうなったのかは不明です。

一方で、朗報もあります。
ベトナムでは、日本・ロシアが原発輸出を予定していた原子力事業の白紙撤回が決まりそうです。
しっかりと見守りましょう。
注目すべきは、撤回の大きな理由が、原発の「経済性」にあることです。
ベトナム国会議員で科学技術環境委員会の副委員長は、原発の単価が上昇していること、核廃棄物の問題、事故、ベトナムの巨額債務問題をあげ、これ以上計画を進めるよりは、今の時点で計画撤回することは時機を得た判断と述べています。
さらに、ベトナム電力公社の社長が「原発は経済面で競争力なし」と述べたとのこと!
原発導入前でずぶずぶの原子力ムラが形成されていないからかもしれませんが、賢明で冷静な判断かと思いました
原発計画に翻弄され、移転の準備をさせられてきた現地の人たちが、もとの暮らしに戻れるよう、祈るばかりです。

ベトナム 原発計画を撤回!?-オールジャパンの売り込み攻勢の影で
https://foejapan.wordpress.com/2016/11/10/vietnam-2/

ベトナム 原発計画を撤回!?-オールジャパンの売り込み攻勢の影で
https://foejapan.wordpress.com
ベトナムにおけるニントゥアン原発建設計画の白紙撤回の方針が報道されています。今日から国会で審議されるとのこと(…

ベトナム原発計画のゆくえ…「多くの国会議員が原発中止に賛成」
https://foejapan.wordpress.com/2016/11/10/vietnam-3/

ベトナム原発計画のゆくえ…「多くの国会議員が原発中止に賛成」
https://foejapan.wordpress.com
ベトナムが原発事業を白紙撤回する方針であることが報じられています。科学技術環境委員会の副委員長は、原発発電の単…


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2016年10月31日号「お知らせ」

喫緊のお知らせ2件です。

お知らせ①
FoE Japan からのお知らせ転送です。
高江は、本当に酷い状況になっています。
以下が転送です。
==========================
高江ヘリパッド建設をめぐる集会&省庁交渉(11/2)

沖縄の東村高江周辺のヘリパッド建設が強行されています。
やんばるの森を切り裂いて、道路が建設され、約2万4,000本もの樹木が伐採されつつあります。
環境影響評価は形だけ、工事を急ぐあまり、現場ではトラックの過積載、最大積載量の表示がない等の道路運送車両法違反の工事用車両が連日、国道、県道を走行している状況です。これらの問題をめぐり、防衛省、警察庁、国土交通省との交渉を行います。また、高江の工事の最新の状況をご報告します。現地からは北上田毅さんが参加されます。ぜひご参集ください。

◆日時:2016年11月2日(水)12:30~16:00
 12:30~13:45  事前集会
 14:00~16:00  警察庁・防衛省・国土交通省交渉(調整中)
(12:10から通行証を配布します)
◆会場:参議院議員会館 講堂
◆資料代:500円
◆申し込み:不要
◆主催:FoE…

==============================
お知らせ②
11月3日(木・休)は「アベ政治を許さない」一斉行動日です。
どうぞ、それぞれの場所で一斉に意思表示をいたしましょう。
私は、長野市にあるブックカフェまいまい堂の「からこる坐」で3日から写真展を開催しますので、2日は設置で現地に行っていて2日の集会には参加できませんが、3日の1時までには国会前に馳せ参じるつもりです。

喫緊のお知らせで、ごめんなさい。

いちえ


2016年10月23日号「トークの会報告③」

18日のトークの会報告を続けます。

●住宅支援を打ち切るな
なぜ田舎暮らしをするかといえば、給料が安くても半自給生活ができるのが田舎だからだ。
畑で野菜を作り、山で山菜やキノコを採り、魚を自分で捕ってくれば、お金を出さなくても生活していける。
半自給自足暮らしだから、田舎で生活できた。
それを奪われてしまったら生きる糧がない。
今から帰って生活しろと言われても、水は飲めずペットボトルで買わなければならない、食物も買わなければならない、生えているものはすべて食べられないで、お金がかかるだけ。
そこに帰って生活しろと言われても、できない。
来年3月で自主避難者の住宅支援の打ち切りが問題になっている。
平成30年3月には、自主避難でなく警戒区域内の避難者の住宅支援も打ち切ると言っている。
警戒区域外自主避難者たちは、ほとんどが母子避難だ。
夫は仕事があるので残り、母子だけで避難している。
彼らは月10万円の精神的苦痛慰謝料も貰っていない。
ただ住居を無償で提供されるから、なんとか生きていけるのに、それを奪おうとしている。
そうした始末の悪いことをしているのが、福島県の内堀知事なのだ。
山形県、新潟県の県知事は災害救助法を延長して住宅を供与しろと言い、各市町村会議も打ち切り撤回を採択した。
神奈川県でも京都の方でもそうしているが、福島県はやらない。
福島県は甲状腺ガン検査縮小をするなという採択はしたが、住宅支援打ち切りするなの採択はしていない。
自分で自分の首を絞めているようなものだ。
自分たちで声をあげて支援の継続を望めばいいのに、内堀知事はそれをしない。
昨年6月に内堀知事と竹下亘、小泉進次郎が赤坂のホテル9階の会議室で密談したが、神奈川に避難している人と2人でそこを“襲い”、エレベーター内で持って行った要望書を渡した。
「これを読んでください。避難者の声です。住宅支援打ち切りはやめてください」と言って手渡した。
そうして住宅交渉問題に関わることになったので、今はその活動も続けている。
県庁への申し入れを、これまでに既に三回やってきたが、避難者たちはその度に京都・東京などから新幹線を乗り継いで福島に来るが、新幹線代などその費用も大変だ。
でもそれでも訴えないとどうしようもない状況だ。
山形県は無償で50戸を2年間提供すると言ってくれ、隣の県なのに被災者に寄り添っている。
福島県は被災当事者なのに加害者と組んで、加害者に寄り添って県民いじめをしている。
12月に県議会の定例会があるので、その時に全国からの請願書と採択した決議文を持って、県と交渉することになっている。
問題はたくさんあるが喫緊の問題は住宅問題だが、その間にも被ばくは続いている。

●ロボットは放射能に弱い
最近また空間線量が高くなっているという話もあるが、風の影響でもずいぶん変わる。
要はそれだけ危ないということで近くにいれば吸引による内部被曝の可能性も大きいということだ。
原発でいま何が起きているかというと、汚染水だけではなく排気筒の問題が大きい。
最近ようやくこの問題もクローズアップされてきたが、1、2号機のスタックと呼ばれる排気筒が問題だ。
火力でいえば煙突だが、原発の排気筒は煙は出ないが発電所内の空気を外に放出するものだ。
その支柱が錆びて腐食している。
地震や竜巻が来たら、ポキッと折れて倒れるのではないかと心配される。
支柱が倒れたら排気筒自体が倒れる。
排気筒が倒れたら何10、何100シーベルトになるかも判らない大量の放射性物質が放出されてしまう。
ドライベントして2号機の排気筒の中に原子炉の空気を出したから、その汚染は半端ではない。
それが倒れたら、風下は相当の被ばくをする。
風向きによっては原発事故そのものよりも酷い状況になる可能性があるのに、人が近づけないので直すに直せない。
東電は遠隔装置を使って半分ほどに切ると言っているようだが、技術としてできるわけがない。
鉄を切るには、グラインダーで切る、バンドソーで切る、ガスで切る、プラズマで切るという方法があるが、その装置を誰が付けに行くのか、どうやってセットするのか。
アーマースーツのようなロボットがあって、その中に入って物をつかんだりできるなら可能かもしれないが、ロボットも近づけない状況なのだ。
2号機の調査のために線量を測るドローンを2機飛ばしたが、排気筒の中に落ちてしまった。
とても人が行けない高線量のところなのでロボットを使おうとするが、ロボットはコンピューターを積んでいるが、マイコンは1、0、1、0でプログラムされている。ところが1、0、1、0、は放射線で飛ばされて全部0、または全部1になってしまう。
だからいままで投入したロボットが全部動かなくなったというのは軍事用のクインスでさえ動かなくなり、太刀打ちできない状況だ。
クインスは核戦争が起きた後に調べに行くロボットだが、入り口まで行ったら動かなくなってそれを回収もできない。
撮影するために投入したロボットが行くのに、瓦礫をどかすアームのついたロボットもあるのだが、それもひっくり返って動かない。
ロボットは放射線に弱いのだ。
画像で見ると霧のようにノイズが入っているが、あれが放射線だ。
放射線はロボットの頭脳部分を、人間の内臓を損傷し壊す。

●なぜガンになるのか
なぜガンになるのかというと細胞のDNAに損傷を起こすからで、普通は単純な損傷は修復されやすいが、複雑な損傷は修復時に間違いを起こしやすく、それがDNAに変異をきたし細胞が分裂するときに異常な細胞の増殖がガンを引き起こす。
細胞内で遺伝子情報を持つDNAは螺旋状に連なって、そこにはG・C・T・Aと4種の塩基がAはTと、GはCと結びついて突起となっている。
細胞内を放射線が通過するときにこの塩基の繋がりの一鎖切断の場合は切断された塩基はまた繋がるべき相手の塩基と結びついて修復されやすいが、二鎖切断になると、繋がるべき相手の塩基を誤ってしまい、それがDNAに変異を起こすのだ。
これを崎山比佐子さんが分かりやすく説明しているが、放射線とガンの仕組みは解明されているのに御用学者たちは、判らないと言い、因果関係はないとかチェルノブイリとは違うなどと言う。

●原発を廃炉にしない理由
原発を廃炉にしたらその瞬間に、それまで資産だったものが放射線廃棄物に変わってしまう。燃料棒は使用済みでも、そうでなくても、全てが廃棄物になってしまう。
設備として資産担保があれば銀行は資金を回すが、廃棄物になってしまうとお金は回らなくなる。
使用済み核燃料は兵器になるから経済界は軍需産業で潤うし、政府もそれを望む。
核被害国の日本は核の威力を手放したくないから、原発を廃炉にしないし持続する。
東電は国が護り、経済界が護っているから潰されない。
政府・経産省・経団連・東電幹部、彼らはみんな好き放題にやっている。
原発事故後白血病やガンで死んだ人は多く、友人夫婦もガンで死んだ。残されたのは中学生の一人娘だ。
自殺も多いし、仮設住宅での孤独死も多い。
たかが電気のために死んだ彼らは、みんな核災害の関連死だ。
原発は、人々に悲しみだけを残し、残ったプルトニウムで人殺しの武器を作り、その武器がまた悲しみを生んでいく。

*トークの会「福島の声を聞こう!vol.21」の報告は、これで終わります。
長文を最後までお読みくださって、ありがとうございました。
次回の「福島の声を聞こう!」は、来年2月24日(金)です。
二本松の若い女性農業者さんに話していただきます。
先のことですがご予定に入れていただけたら嬉しいです。

いちえ


2016年10月23日号「トークの会報告②」

18日のトークの会「福島の声を聞こう!vol.21」の続きをお送りします。

●「6国清掃活動」
県や健康調査委員会は、事故が起きた当時から真逆の政策をしてきているが、ここにきてまた問題が起きている。
「6国清掃活動」といって、イチエフから20Kmの広野町の国道6号線の清掃活動をするイベントで、中高生たちも参加した。
そのイベントは事故前には、ただ道路のゴミ拾いをするイベントだったが、事故後は中止されていたのだが、6号線が開通した翌年の2015年にハッピーロードという団体が主催して、一気に活動が再開された。
「みんなでやっぺ!きれいな6国」の標語のもとに、故郷をきれいにしたいという子どもたちの気持ちを利用して、周辺の道路は高線量のところがあって被ばくの危険性があるのにそこでゴミ拾いをさせる。
道路のアスファルト部分は高圧洗浄機で洗ったりしていても、通行する車のタイヤから撒き散らされる放射性の粉塵を浴びて路肩の草むらなど除染されていないので線量が高いままだ。
こうした活動に抗議の声を上げると、「復興の妨げをする」などとお門違いの声が出たりする。

●新たな安全神話
警戒区域内でわざわざ田んぼを作って、収穫した米は100ベクレル以下だから安全だと言って、汚染されていない田んぼの米と混ぜて、汚染を薄めているような状況もある。
そんな風に、やってはいけないことをやっている。
そんな場所でわざわざ米を作らなくてもいいのに、莫大な税金を投入して田んぼを除染して土を入れ替えたりして汚染地域で米や野菜を作っている。
結局そこからの作物は汚染が検出されるが、それでも100ベクレル以下だから安全だと言い流通させる。
子どもの清掃活動も同じだが、こうして新たな「安全神話」が作られている。
非人道的な許しがたいことだが、それを復興だと言い、イベントをすれば、あるいは建物を造れば復興したと言い募る。
そして事故は終わった、もう大丈夫だと喧伝する。

●ふざけるな!
実際には全然大丈夫ではなく、体の具合が悪い人はどんどん増えている。
甲状腺ガンは子どもだけの問題ではない。
還暦過ぎた大人でも、なっている。
友人は兵庫県に避難しているが、甲状腺ガンの手術をした。
彼女に会ったら首にスカーフを巻いていて、「年取ってシワになって手術跡が目立たなくなるまで、スカーフを巻いている」と言った。
甲状腺ガンは男性でも発症して、知り合いの男性も手術をした。
こうした状況を原発のせいではないと言い、これまでも、今後も健康被害の出ることはないと、安倍晋三は先日参議院の質疑応答で答えた。
傍聴席に居てそれを聞いた時、思わずサンダルを脱いで投げつけたくなった。
それ以上そこに居たら絶対にやらかしてしまうと思ったので午後の傍聴は止めて帰ったが、腹が立ち頭にきてどうしようもなかった。
共産党の市田さんの質問に対して「原発はコントロールされています。汚染水はイチエフの港湾内で完全にブロックされてコントロール下にあります」などと吐かした。
ふざけるな!と思ったが、その時に自民党席からもどよめきが起きた。
誰が聞いても、自民党の議員たちでさえおかしいと思うことを、シラ〜ッと言うのを聞いて腸が煮え繰り返るようだった。
「福島県民に寄り添っています」などと訳のわからないことを言い、「大丈夫です。オリンピックをやります」だから、とんでもない話だ。

●弁当持参でいじめを受ける
IOCでは、オリンピック村では福島産の食材を使うなと言っているくらいなのに、日本ではどんどん食べるよう仕向けている。
県庁の職員食堂では、使用食材の産地が表示されている。
事故後には福島県産は一切なかったのだが最近は少しずつ増やしていて、米は福島産だが県庁食堂で使用しているものは0ベクレルと表示されている。
学校給食で使用する米は、100ベクレル以下で安全な米だという。
県庁食堂で大人たちは0ベクレルの米を食べ、子どもたちには100ベクレル以下だから安全だという。
給食を食べさせずにお弁当を持たせるという選択肢もあるが、それでいじめられた子どもがいる。
先週の「子ども脱被ばく裁判」では、泣き泣きそのことを訴えた母親がいた。
これが今の福島の現実だ。
被ばくを避けることが悪いことのように思われ、被害にあった人が悪者扱いされる。
加害者が堂々とお天道さまの下を歩き、被害者はひっそりと生きている。
悲しい現実だ。

●ふるさとを隠して生きる
故郷の浪江町津島地区の住民は今、「津島訴訟」を起こしている。
彼らは避難して他地区で暮らしているが、自分の故郷の名前を口に出せない。
津島から来たと言えない。
そこの子どもと結婚するなとか、放射能は移るとか言われるから、自分たちの素性を隠して新たな場所に住居を求めて生活している。
知人は10人家族だが、避難当時は10人が6ヶ所にバラバラに分かれて暮らした。
2人の高校生はそれぞれ学校の近くに下宿し、ジジ・ババは別の所、夫は単身赴任、知人と下の娘はアパートを借り、もう一人の子どもはまた別の所とみんなバラバラになった。
今ようやく中古の住居を買って家族が一緒に暮らせるようになったが、近所には津島から来たとは言えずにいる。
何もかも奪われ、それだけではなく故郷を負い目に生きなければならないのだ。

●今野さんの場合
3月11日は女川原発に居て、地震に遭い、津波も見た。
15日まで女川を脱出できず、その間は救援活動をしていた。
津波で道路も流され、帰宅も避難も、できる訳がなかった。
あのような半島にある所は、伊方原発の立地地区もそうだが、避難計画など絵に描いた餅だ。
自然災害の前には、太刀打ちできない。
5日目の15日になって、やっと仮の道路ができて女川から脱出できた。
それまでは携帯も繋がらず家族とも一切連絡が取れなかったが、石巻まで出てやっと電話が繋がった。
家族は茨城の古河市に避難していることを知って、追いかけた。
会社の車で郡山駅まで行き、そこでみんなと別れて郡山からタクシーで那須塩原まで行き、そこから新幹線で古河に着いた。
朝7時に女川を出て、古河に着いたのは夜の8時だった。
高速道路も使えないし新幹線も那須塩原までしか通じていなかったし、その時の格好といえば作業服のままで髭茫々、復員兵みたいな姿だった。
それから2週間、古河の親戚宅に居たが、気を使ってとても居辛かった。
きょうだいの家であっても、相手には生活があるのにそこにいては迷惑で、気を使ってしまう。
浪江の役場が二本松に避難したということで、古河から5時間かけて4日間、毎日役場まで往復し安否確認や避難所の空き状況を調べた。
古河にいては、そうした状況は何も知ることができなかったからだが、空いている避難所もすぐには見つからなかった。
当時幼稚園児だった子どもと妻、妻の母親の3人は避難所には連れていけないと思い、妻の叔母の家に預け、男たちは避難所に移った。
3日目か4日目に浪江に自分の車を取りに行き、高圧洗浄機で洗車したが、フロントガラスのワイパーの下に汚染が溜まってしまって、しばらく汚染は落ちなかった。
夜10時までは避難所は電気が点いていて明るい中でテレビを見たりしているが、10時になると消灯で皆寝るので、避難所ではとても寝られずに自分の車に戻った。
自宅から持ち出したアルコールを飲んで寝たが、そんな風にして車で2週間、被爆しながら過ごしたが、寒い毎日だった。
その時は毎朝、スギ花粉で車が真っ黄色になったのだが、くしゃみが出るようになって花粉症を体感した。
ところが半年後から鼻血が出るようになり、ただのスギ花粉ではなかったことが判った。
1ヶ月に2回くらい、突然洗面台が真っ赤になったり、タオルが真っ赤になったのだが、その時期のスギ花粉はセシウムをたっぷり吸っているわけだから、セシウムを吸い込んでいたわけだ。
最初に鼻血が出た時は血圧が上がっているのかと思ったのだが、二度、三度と出てそれに気がついた。
『美味しんぼ』で、井戸川さんの鼻血問題がパッシングされたが、間違いなく鼻血はそれしか原因が考えられない。

●嚢胞の出た子どもたち
またその頃は子供が1ヶ月に2回も風邪を引くようになり、治ったかと思うとまた病院通いで、子どもは花粉は吸っていなかったが、型の違うウィルスに次々とかかって、それが2年ほど続いた。
子どもは3月15日まで津島に居て、その時に外で遊び降った雪を食べたりもしていた。
いま我が子には嚢胞が出ていないので安心しているが、子どもの同級生たちには嚢胞がある子が大勢いて、母親たちが心配している。
嚢胞があるその子どもたちは、福島市や郡山など中通りの子どもたちだ。
浜通りの双葉郡の子どもたちはその時に東京や他の場所へ逃げた子どもが多いのでまだ被害が少ないが、情報が隠され、避難指示も出ずにそこに留め置かれたのが、中通りの子どもたちで、ガンの子どもやガンを切った子どもたちが大勢いる。
我が家では一ヶ月古河に居た後で会津へ行ったが、会津は比較的汚染が少なく線量も低いのが良かった。
9月に飯坂温泉の借り上げ住宅に入居し昨年9月までそこに居て、10月から復興公営住宅として建てられた県営住宅に移った。
その飯坂温泉復興住宅の一周年記念のイベントが、先週日曜日にあったばかりだ。
そこは敷地も、また隣接する公園も全て除染してきれいになったところで、環境も良い所だ。
飯坂温泉は福島の端で、もともと比較的線量の低い地域だが、今住んでいるのはそういう条件の良い所だ。

●70cm掘ってやっと事故前の値に
それ以前の借り上げ住宅として住んでいたホテル聚楽の社宅の隣は飯坂小学校で、そこでは
事故の半年後くらいに、校庭の土をどれくらい掘れば汚染がなくなるかの実証実験をした。
5cm、10cm、15cm、30cm、50cm、70cmと掘り、70cmでやっと事故前の値になった。
掘り返したその土を運ぶ場所がなかったので、校庭に6mの穴を掘って、シートに包んだ土をそこに埋め新しい砂を持ってきて敷き、グランドにした。
どこかの御用学者は「3cmか5cm土を剥げば汚染はなくなる。田んぼは反転耕作で畝えば下に沈んでなくなる」と言ったが、とんでもない、半年後で70cmだ。
グランドは砂地なので雨とともにどんどん染み込んでいく。
早ければ早いほど表面近くにある時に剥げばいいが、半年後で70cmだから5年経った今は相当深く染み込んでいる。
何十年かして地下水脈に達すれば、井戸水に出る。
今はまだそこまでは至っていないが、そういうリスクがこれからの未来にあると思う。
セシウムでもコバルトでも、ヨウ素でも、放射線を出さないとしても重金属だから、それを体に取り込むのはとても良くないことだ。
重金属中毒を起こすので放射能だけの問題ではない。
重金属が生物に濃縮され陸上ではイノシシ、クマ、海ならカツオやマグロ、海底にいる魚に溜まる。
子どもの頃の話をすれば、春は山菜、秋にはキノコ、冬はイノシシ料理だったが、そんなものは一切食べられない。
ワラビもキノコも、土に生えるものはダメ、川底にあるものはダメ、一切食べられない。
浪江には鮭の簗場があり、請戸川の河口から200〜300mの所が大きな簗場だが、いつも川が真っ黒になるほど鮭が遡上した。
先々週行って何匹か遡上しているのを確認したが、毎年9月末から12月くらいまで遡上する。
それを捕ってどれくらい汚染されているか調査するが、その立会いに妻の父親が行くことになっているが、まず、すべて終わりだろうと思う。

*報告、もう1便続きますが、どうぞ最後までお読みくださるようお願いいたします。
編集して短く詰めることも考えましたが、今野さんが話してくださったことできるだけそのままに知っていただきたいと思いました。

いちえ


2016年10月23日号「トークの会報告①」

18日(火)に、トークの会「福島の声を聞こう!vol.21」を催しました。
ゲストスピーカーは、浪江町の今野寿美雄さんでした。
今野さんは電気計装設備や機器の建設・メンテナンスの技術者として原子力発電所及び火力発電所での仕事をしてきた人です。
原子力関連では、東電福島第一・第二、東北電女川、原電東海第一・第二、JAEAもんじゅ、動燃東海・大洗、原研東海・大洗、原燃六ヶ所他に関わってきました。
29年間、原発・火発のエネルギー関係の仕事に携わってきた今野さんのお話からは、事故を起こした原発の今と、事故による影響がリアルに伝わってきて、多くの人にこれらの事実を知って欲しいと思うことばかりでした。
当日今野さんは「です。ます」調で話されましたが、以下に「だ。である」調でお話の概略を記します。
長いので3回に分けてお送りします。

●原発作業員の被ばく量は管理されている
仕事の内容は自動制御計測専任で、オートメーション化されている制御をコントロールする機械やそれらを計測する機械の定期点検、修理・メンテナンスを主にやってきた。
電気関係がメインだったが、その他に派遣社員という形で日立製作所や IHI の指導員や監督として、作業員を使っての特殊な作業の指導をしてきた。
全面マスクを被って、原子炉の下に潜ってするような仕事もしてきた。
今までで一番被ばくをしたのは、その仕事に関わっていた時だ。
新しい原発は汚染が少なくきれいなので被ばく量は少ないが、フクイチは古くて汚染がひどい。
放射能が漏れていて放射化しているので、被ばくする量が多い。
フクイチの1〜6号機まで全てに入ってメンテナンス点検をし、その時に最大で年間12 ミリシーベルトの被ばくをした。
それが29年間働いた中で一番多い被ばく量で、たった1ヶ月でそれだけの量になった。
1ミリシーベルトの場所で作業して0,8ミリシーベルト浴びると、そこで作業を終えて上がるのだが、2週間足らずの間に毎日連続で入るとそんな被ばく量になる。
他の作業員よりは被ばくしないように管理されていたが、監督として現場確認をしなければならないので中に入り、その時に年間被ばく量12ミリシーベルトになった。
国が言う年間20ミリシーベルトは国の基準であって、発電所の基準は年間15ミリシーベルトだ。
20ミリシーベルトをオーバーするといけないので、各メーカーや事業者(東電など電力会社)などは、年間15ミリシーベルトで管理されている。
そうした中での12ミリシーベルトだった。
年間20ミリシーベルトというと5年で100ミリシーベルトになるが、1年間最大50ミリシーベルトかつ5年間で100ミリシーベルトを超えないというのが法律上の制限値だ。
そして1日1ミリシーベルトを超えないことにされているが、労働基準局に届け出て特別協定を結ぶと、1日最大2ミリシーベルトまで許される。
ただし2ミリシーベルトと言っても、ちょっとしたことでオーバーしてしまうことがある。
高線量の場所なので、作業場から上がるのがほんの1、2秒で遅れただけでも2ミリシーベルトを超えてしまう可能性があるので、2ミリシーベルトの場合はアラームメーターは1,5ミリシーベルトでセットする。
東海村での仕事中に、1ミリシーベルト超え、1,5ミリシーベルト超えが発生してしまったことがある。
原子炉の下にはCRDといって燃料の制御棒を駆動する装置があるが、そのメンテナンスの監督として仕事にかかっていた。
作業員が中に入って制御棒を下に引き抜いた時に、損傷燃料が装置についていた。
損傷燃料は50シーベルトもあるので、一瞬にしてアラームが鳴り出し、作業員は一斉にそこから飛び出した。
原子炉は直径5メートルくらいの広さで、2〜3mの分厚い壁があるが、その通路を伝わって逃げたが間に合わず、1,5ミリシーベルトをオーバーしてしまった。
すぐに労働基準監督署が来て、事情聴取されたが、2ミリを超えていなかったので事後報告提出ということでその作業は許されることになり、逮捕されることもなく済んだ。
常にそうやって労働基準監督署や、放射線障害防止法や電離則(電離放射線障害防止規則)など法律や法令など厳格な基準で原子力発電所の作業員は管理されている。

●作業員以上の被ばくを強要される福島県民
ところが現在福島では、なんの管理もされずに年間20ミリシーベルトなどの基準が小さい子どもにまでも強要されている。
それが今の大きな問題だ。
だいたい1ミリシーベルトというのも追加被ばく線量であり、宇宙や大地、食物など自然界から2,4ミリシーベルトを日本人は浴びていると言われるが、自然界にないものからはそれ以上に1ミリシーベルで抑えようということなのだ。
1ミリシーベルトという値にも根拠があり、人間が100歳まで生きるとすれば累積して100ミリシーベルトまでは大丈夫だろうということから、100を100で割って長生きする人で年間に1ミリシーベルトという基準で決まったのがその数値だ。
だから1ミリシーベルトが安全だと、ハッキリ言える基準ではない。
ICRP(国際放射線防護委員会)では、できる限り被ばくは低くするように勧告している。
それを、事故が起きたからといって基準を20ミリシーベルトにまで持っていく、しかも事故当時のことだけではなく現在も、福島県民にはその数値を強要している。
他の都道府県では、1ミリシーベルトだが、福島では20なのだ。
だから南相馬では「20ミリシーベルト基準撤回訴訟」が起きている。
なぜ20ミリシーベルトが許されているかといえば、「原子力緊急事態法」があり、それが出されたままであるからだ。
事実上事故は今も収束していず、今現在も放射線は漏れて汚染水は溢れている。
海にも大気にも、放射能は漏れだしている。
緊急事態法の範囲は当たり前の数値だが、それを逆手にとって福島は20ミリシーベルトだとしているのだ。
原発で働いている人以上の被ばくを子どもたちにさえ強要する、とんでもない話だ。

●甲状腺ガンが増えている
県内の子ども38万人に対して174人の子どもが、甲状腺ガン及び疑いと発表された。
100万人に一人とされていた病気が、原発事故6年目でこの数だ。
一昨年から始まった県民健康調査では、スタート時には112人くらいだったが、1年で50人、60人も増えた。
昨年2月に最初の発表があったが、1ヶ月に4、5人くらいのペースで増え続けている。
一巡目でA判定だったのが二巡目でC判定になって手術した人が多数いた。
今後どう増えていくか判らないが、チェルノブイリの例から見ても30年は増え続けるだろう。チェルノブイリでは、今もまだ新たな発症が出ていて、当時子どもだった人が結婚して生まれた子どもがまた、体調が悪くなっている。
そういう世代にまで、影響が出ているのだから、長い目で見ていかないといけないだろう。
これまで甲状腺ガンの症例があまりにも少なく、データがないことから「チェルノブイリとは違う。だから福島の健康調査の結果は、原発事故由来ではない」などと、御用学者や政府は訳のわからない屁理屈で否定している。

*トークの会報告は、次号に続きます。                     

いちえ


2016年10月22日号「お知らせ」

先日18日のトークの会の報告は、いま文章をまとめています。
少しお待ちください。
その前にお知らせをお届けします。
久しぶりに写真展のお知らせです。
東京ではなく長野での開催ですが、もし長野方面へおいでのご予定があったらどうぞお立ち寄り下さい。

渡辺一枝写真展 「ある日チベットで」
会期:2016・11・3(木・祝)〜11・13(日) 12:00〜19:00pm
会場:からこる坐(長野市上千歳町1137−2アイビーハウス4F
問い合わせ:090−4153−2007
トークイベント:11月5日(土)14:00〜(入場料500円、飲食付き、要予約)

会場はブックカフェ「まいまい堂」の4階です。
赤いドアで緑の螺旋階段のある建物です。
ブックカフェもとても居心地の良いところで、私の大好きなカフェです。
会場でお目にかかれたら嬉しいです。

いちえ

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2016年10月17日号「お知らせ」

明日18日(火)、トークの会「福島の声を聞こう!vol.21」を催します。
お時間ありましたら、ぜひお出かけください。
ゲストスピーカーは浪江町の今野寿美雄さんです。

今野さんは放射線作業従事者として東電福島第一・第二・東北電女川、原電東海第一・第二、JAEAもんじゅなどなどで電気設計装備や機器に関する建設工事、メンテナンスに従事してきました。
3・11では女川に出張中に被災し、現地で復旧支援活動に当たった後で、家族や浪江の人たちとともに飯坂温泉の公営住宅に避難しました。
「子ども脱被ばく裁判」の原告として、また「脱被ばく実現ネット」で活動しています。
「福島原発告訴団」「南相馬20mSv撤回訴訟」「津島訴訟」「生業裁判」などの支援者としても活動をしています。

今野さんの話を、多くの方にぜひ聞いていただきたいと思っています。

トークの会「福島の声を聞こう!vol.21」
日 時:10月18日(火)午後7時〜9時(開場は午後6時半)
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158/2階)
参加費:1500円(被災地への寄金とさせていただきます)

どうぞお出かけください。

いちえ

vol21


2016年10月16日号「10月13日飯舘村」

早朝に宿を出て、飯舘村へ向かいました。
今回の福島行は飯舘村・長泥の杉下初男さんに、ご自宅を案内していただくことが目的の一つでした。
前述しましたが、今回は友人の小林さんと一緒です。
「長泥に行きますが、ご一緒しませんか?」とお誘いしてのことです。
一人で来る時は福島駅からのバスは県道12号線で飯舘村を通り抜けるだけですが、この日は杉下さんとの待ち合わせの前後に、村内何ヶ所かを回りました。
長泥は帰還困難区域ですから、立ち入り許可証のある住民の同行が必要です。
飯舘村で石材加工業を営んでいた杉下さんとは、今年2月に長野県の小海町で催されたイベントでお会いし、その折に長泥へ連れて行ってくださるようお願いしていたのです。
この日、9時に村役場前で待ち合わせをお約束したのでした。
小林さんと一緒に来たおかげで、それまでの時間も有効に使うことができました。

◎飯舘村
●線量計の怪
飯舘村だけではなく昨日訪ねていた南相馬でも、また今回常磐道で通ってきた楢葉や富岡、大熊、双葉、浪江でも、今回は通らない伊達市や福島市や、県内各地に放射線量測定器が設置されています。
それらの測定器は上部がドーム型の円筒形のもので、ソーラーパネルが付いていてそこからの電流で稼働しています。
ところが奇妙なことに、それらの設置場所はどこでも、同じ形の測定器が二台並んで併設されているのです。
一台は数値が表示されるパネルに「測定停止中」の張り紙が、ペタリと貼られています。
もう一台は稼働していて、数値が表示されています。
測定値は自動的に環境省に送られ、各地の放射線量としてそれが発表されるのです。
聞くところによれば「測定停止中」の機械は当初設置されたもので、これは割合正確な数値が表示されるものだそうですが、この数値はそのまま公表できない(高い数値を示すため)ので、データ送信に不都合があるという理由で、別のメーカーの測定器を設置することになったというのです。
それが事実かどうかは判りませんが、実際にどこでも2台併設されていて、片方には「測定停止中」の張り紙が貼ってあるのです。
そして飯舘村では最近になって、この円筒形をした測定器以外に四角い箱型の測定器が設置されるようになりました。
円筒形と箱型の測定器とでは検出数値に差があるのかどうか私には判りませんが、測定器の設置に関しては行政の思惑、メーカーの売り込み手腕などなどが幾重にも絡んでいることは容易に想像できます。
官公省庁や行政などの予算の使い方、探れば”怪”がいろいろ出てくるように思えます。

●蕨平の焼却炉
蕨平に建設され、既に稼働中の「除染廃棄物減容化施設」に行きました。
村内には汚染土壌を詰めた黒いフレコンバックが、それらを運び込む「中間貯蔵施設」の行方も決まらないままに、野積みにされています。
草木の伐採や家屋解体で出た除染ゴミもまたフレコンバッグに詰められて、これらは減容化施設と名付けた焼却炉で燃やして煙と灰にして、”容積を減らす”のです。
これが減容化施設なのです。
蕨平の公営墓地に隣接して建てられた焼却炉は、煙突からもくもくと煙を吐き出していました。
飯舘村だけではなく県内各地に、こうした減容化施設が建設されました。(南相馬にもあります)
焼却施設で燃やされるものは、原発事故のすぐ後で除染作業した結果に生じたものではありません。
除染作業が始まったのは、事故直後からではありませんでした。
セシウム134は半減期が2年と言われますが、フレコンバッグに入った除染廃棄物はそれよりも半減期が長い放射性核種を含んだ汚染物です。
これを燃やした灰は、放射線を放出する期間がずっと長くなるのです。
また焼却炉の煙突から吐き出されるガスと微細な粉塵には、減衰しにくい放射性核種が含まれます。
環境学者の関口鉄夫さんは「焼却は第二の原発事故」と言い続けていました。
蕨平の焼却炉に隣接した墓地には、このお彼岸にもお墓詣りにきた方たちがいたのでしょうか。
花生けに萎れた花が残ってもいました。
墓地は小高い丘の斜面を段上に平らにならして作られていますが、一番下の墓地はまだ新しく、墓石の裏には「平成27年」と文字が削られていました。
放射能が降る、降る墓地に、死者たちは眠ります。
墓地の小山の裾には、青草に紛れて秋の花たち、アレチノギク、ノコンギク、キキョウ、オミナエシが咲いていました。

●栃の木
大きな栃の木の下で、小林さんが車を止めました。
ここも小林さんの定点観測の取材場所です。
小林さんは落ちている栃の実を拾い、持ち帰っていつも頼んでいる測定所でまた測ってもらうのだそうです。
栃の木の陰で私の持っている線量計は、地上1メートルの空間線量が0,57~0,70を、接地で2,78を示していました。
道路の向かいの家には柚子がなっていました。
小林さんに「あそこに柚子が」と言うと、「原則として個人宅の庭のものは無断で採らないことにしています」と、答えが返りました。
また一つ、私が学んだことでした。

●不思議な光景
いま、飯舘村ではとても不思議な光景を目にします。
これが飯舘村でなく、他の地域でのことなら不思議でも何でもない光景なのでしょうが、それが「飯舘村」であるからこそ、私には不思議に感じられます。
解体して木材や瓦、金属類などが分別して置かれている家屋跡、また、今現在解体中の家屋があるかと思えば、新築中の家があるのです。
とても不思議な(あるいは「シュールな」と言ったらいいのでしょうか)光景です。
通り過ぎた解体中の家屋の前庭には、薄紫のサフランが群れ咲いていました。
各所に設置されている線量計の数値を車の窓から見て、0,87μSv、0,965μSv、1,27μSvなどとメモしながら、それらの光景を見て行ったのです。
これらの数値も、実際よりは低く表示される(と言われている)線量計によるものです。
飯舘村は帰還困難区域の長泥を除いて、来年3月31日に避難指示解除となります。
それに先立って今年の7月1日から、村役場本庁での業務が再開されました。
また同じく7月1日から、希望する住民の自宅での長期宿泊も始まっています。
広報によれば月26日現在で141世帯、318人の届け出を受け付けたといいます。

◎飯舘村・長泥へ
●展望台
役場で杉下さんと落合って、私は杉下さんの乗ってきた軽トラックの助手席に移り、小林さんは自分の車で軽トラの後に続きました。
助手席で杉下さんからお話を伺いながら、長泥へ向かいました。
長泥に入るゲートで杉下さんは、警備員に許可証を見せて後続車も同行であることを告げ、警備員は車のナンバーを控えて、帰りもこのゲートから出ることを確認してゲートを開けました。
そのすぐ先の展望台で、いったん車を降りました。
区域再編成される以前の国道399号線が通行止になる以前に、私は一度ここまでは来たことがありました。
その時には、避難先から自宅に置いてきた猫に餌をやりに来たという人に会いました。
あの人は、その猫は、どうしているだろうかと思います。
展望台からは、遠い峰と峰の間にうっすらと遥かに太平洋が望めました。
浪江、双葉辺の海です。
「朝陽が当たると、綺麗なんだ!」と杉下さんは言いました。
「蕨平の焼却炉はあの山の向こう側に」と杉下さんが左に見える山を指しました。
こうして地形を見ると、焼却炉から出る煙は手前の山並みが壁になって、長泥方向に流れることが見て取れます。
「減容化施設」と銘打った焼却炉はいずれも「仮設」のもので、ある期間稼働したら取り壊すことになっています。
蕨平の焼却炉は5年稼働ということになっていますが、ここでは村内のものだけではなく飯舘村以北からも運び込まれるので、稼働年数はさらに延びるでしょう。
「サァ、行きましょう。滞在時間は2時間ですから、急ぎましょう。ここからはマスクをしてください」
杉下さんに促されて、マスクをして車に戻りました。

●杉下さんの話
杉下さんは避難先の伊達市の借り上げ住宅を出て、伊達市内に新たに自宅を建てました。
「だけど気持ちは区切れない。長泥に住めないから止むを得ず仮の住居を作ったのであって、本当の住居はこっちにある。
74戸の長泥だが、みんな帰れない。問題は二つある。
集落の形はそのまま残っていて地域の集会所、防災無線などの公共の施設設備もそっくり残っている。
行政区の資産であるそれらの維持管理をどうするのか、問題がある。区費を取るわけにもいかないし、国が支援するか?しないだろう。
もう一つは、二重課税の問題だ。
新しく建てた家は課税対象となる。長泥の不動産は、現在は評価額0だが、村では近い将来課税するという。二重課税になる。
そうならないような対策を、国・県・村がやってくれないと安心して暮らせないが、何も考えられていない。
国は、帰還困難区域は復興拠点にならないから、除染しないという。
村民が帰らないと決断したのだから除染しないというのだが、帰れなくしたのは誰なんだ?
除染しないで放置して、また5年待てというのか?」
浪江の津島・赤宇木など、他の帰還困難区域との連携はないのかお聞きしました。
「連携はない。首長の考え方が全く違うから。
浪江の町長は原因は国と東電にあるとしているが、飯舘村は村長が国の考えに添っている。本来なら賠償裁判は被災地住民が、一体でやるべきだが各市町村バラバラにやっている。
メディアは事故後の問題を報じないで、オリンピックばかり報道している。
お墓も数軒の家族は、もう移動してしまった。墓を移動した人は、もう戻っては来ない。
義理の弟も田村氏に墓を移した。旧家だったのになぁ。小学生の子供がいたからな」

●杉下さんの自宅
自宅前の道路脇に2機設置されている円筒形の線量計の片方は、「2,471」の数値を示し、もう片方は「測定停止中」の張り紙で塞がれていました。
自宅周辺そこいらじゅう、イノシシが掘り返した痕跡でメチャメチャでした。
道路から少し上がった家の前に行くと、どこからか大きな音量でラジオの声が聞こえてきました。
杉下さんが車庫のシャッターを開けると、音はそこから流れているのでした。
シャッターの入り口には、「猪除けにラジオをつけっぱなしにしています」の札が下がっていました。
でも庭の植栽も裏手の方も猪が掘り返した跡だらけなのを見ると、ラジオの効果はないようです。
玄関を開けて上がり、家の中を点検する杉下さんの後について、各部屋を見せていただきました。
築8年目に避難せざるを得なくなった家屋は、材を吟味し、腕利きの職人さんが存分に腕を発揮して造ったものであることが伺えました。
床も天井もヒノキの無垢板、9寸の通し柱です。
床柱は槐の木、畳もささくれなど一ヶ所もなく青畳の匂いこそ消えていますが綺麗なままでした。
人が住まずに風を通さなくなった家は障子がボロボロに破れていますが、杉下さんは最近は2ヶ月に1度になりましたがそれまでは毎月一度、点検に来て風を通しているのです。
全ての部屋の窓を開けて風を通し、異変がないか確かめていきます。
寒い地方では冬になると水道管の中の水が凍って破裂することがありますが、杉下さんの家は凍結防止のために、冬の間はボイラーから熱を通しています。
夏の間は切っていたボイラーのスイッチを入れ、「よし!水、OK」と指差し確認する杉下さんでした。
避難後亡くなった息子さんの部屋の机には、消防団のヘルメットが置いてありました。
「消防団員だったからな。みんなを避難させるときに、これを被って避難誘導したんだよ。ベッドは処分したけど、他は何にも捨てられねぇ。そっくり残してある。処分できないよ」
家の中の水回りや電源などの点検を終え、開け放した全ての窓を閉めると、およそ30分が過ぎていました。
作り付けの大きな茶箪笥の上に設えた神棚の前で杉下さんは手をあわせ、私達も外に出て杉下さんは鍵を閉めました。
内部の点検を終えて、今度は外回りの点検です。
外の配線なども見て回るとまた指差し確認をして、車庫の中から「害獣ストップ」とラベルのついた大きなボトルを持ち出して、イノシシが荒らした跡に粒状の忌避剤を撒いて廻りました。
雑草の生えた庭、草ぼうぼうの家の前の田んぼや畑を見遣って、杉下さんは言いました。
「草一本生やしてなかったんだ。こんな草なんか生えてない、綺麗な里山だったんだよ。働かないと、腕の筋肉落ちてしまうな。人がいないからそこらじゅうイノシシが荒し回って、あいつらの天下だ」

●石材加工場
自宅を出て、そこから車で数分の加工場へ行きました。
シャッターを開けると、直径1メートル以上もの大きな円盤状の切断用機械、それよりも小さな切断機、研磨の機械、石を運ぶ機械などなどが並んでいました。
「見たい?」と問われ「見たいです」と答えると「危ないから離れていて」と言って、杉下さんは機械を一機ずつ動かしていきました。
円盤状の切断機は大きな音を立てて回転しながら、左右に動いていきました。
これらの機械も、動かさなければダメになっていくでしょう。
故障しても帰還困難区域にあるので、メンテナンスに来てもらうことも、持ち出して修理を頼むこともできません。
帰還困難区域の中のものは、家屋の解体もできないのです。
「俺たちがいなくなったら、どんなになるんだべぇ」そう呟く杉下さんでした。
行きに入ったゲートを出て、飯樋の自動販売機で温かい缶コーヒーを買って一服し、杉下さんとはそこで別れました。
別れしなに問いかけられました。
「全てを失う者の気持ちが、判りますか?雑誌や新聞に書いてあったりテレビで報道したりしても、俺たちの本当の気持ちは、そこには書かれてない。
俺は、それを批判する気もないし、それについては、何にも言わねぇ。
俺たちの気持ちは、津波で全部無くした人の気持ちとは違う。そっくりそのまんまそこに在るのに、それを失うんだよ。
その気持ちがわかりますか?」
私には判りません。
どんなにか悔しいだろう、どれほど無念だろうか、恨めしいだろうなと想像してみます。
でも、たとえ100万語を重ねても、その思いを表すことはできないでしょう。
言葉ではない、言葉にできない思いを、深く想像するしかできません。
けれども私は、言葉にはならないその思いを判ることはできないままに、自分の内に抱えて考え続けていきたいと思います。
浪江の赤宇木の関場さんと一緒に御自宅を訪ねた時に関場さんから聞いた言葉、「いっそ火事で焼けてしまってくれたらいいのにと思うことがある」を思い起こします。

◎どこから予算が出るのだろう?
杉下さんと別れて、また小林さんの車で川俣町・山木屋を抜けて帰路につきました。
山木屋も放射線量が高く避難指示が出ていましたが、指示解除に向けて除染作業が行われています。
路肩には数mおきに、標語を刷り込んだ幟旗が立てられていました。
「山木屋に笑顔を戻すその日まで 今日も無事故で除染作業」
「つらい思いは袋につめて 明日への希望の種をまく」
「やっと言えます『おかえりなさい』除染隊一同」
などなど、他にも幾つかの標語がありましたが、メモを取りきれませんでした。
オレンジや青、ピンクや白などカラフルな布に印刷された膨大な数の幟旗です。
何キロにも渡って道路の両側に数m間隔で立っているのです。
これらにかかる予算は、どこから出るのだろう?と思います。

◎前便訂正
10月11日の報告で「井戸沢公営墓地」と「家畜・ペット供養碑」について書きました。
「富岡町大川原地区」と記しましたが、富岡町は間違いで、正しくは「大熊町」です。
訂正します。 

いちえ


2016年10月12日号「南相馬10月12日」

◎初めて訪ねる場所
前便でお伝えしたように、今回は友人で写真家の小林さんと一緒に動いています。
小林さんは3・11後から取材して歩いた場所を、その後も定点観測のように繰り返し繰り返し訪ねて取材を続けています。
写真に撮るだけではなく、それらの場所の放射線量を測り記録しながらです。
そんな小林さんと一緒の行動なので、これまで私が行ったことのなかった場所を訪ねることが出来ています。
今日も、何ヶ所かそんな場所を訪ねました。
●朝日を眺めながらの朝食
今朝は7時に宿を出て近くのコンビニでサンドイッチと水、ホットコーヒーを買って小高・村上浜へ向かいました。
ビジネスホテル六角の在る大甕から小高方面へ向かう作業車が数珠つなぎでノロノロなので、ホットコーヒーは車内でゆっくり味わうことが出来ました。
村上浜の高台で車を止めて朝日の昇る海を眺めながら、車内での朝食。
2011年夏から南相馬へ毎月通う私には、こんな朝ご飯も初めての体験です。
景色もごちそうで、美味しく頂きました。
●川原田神社
国道6号線から村上浜へ向かう道の途中に、川原田神社があります。
神社と言っても、小さな鳥居とお手水鉢、小さなお社があるだけです。
ここは被災から2年後の3月11日に、私は訪ねたことがあるのです。
その日、この小さなお社がこの場所に鎮座(そのように言っていいのでしょうか?)されたのでした。
小高の川原田地区も津波の被害を大きく受け、神社の鳥居もお社もすべて流されたのです。
それを知った熊本高校の宮大工科の生徒さんたちが、新しいお社を作って奉納したのです。
日本でただ一校、宮大工科がある高校です。
熊本からトラックで、そしてフェリーで、真新しいお社は、はるばると運ばれてきたのでした。
まず小高神社にお社を一つ納め、次にもう一つをこの川原田神社跡に運んで納めたのでした。
その日は小雨まじりの一日でしたが、氏子さんたち、神社関係の方達、熊本高校の先生や生徒さんたち、国学院大学の先生や学生さんたちに混じって私も、白木の香るような新しいお社がコンクリートの台座(台座も流されたのですがこの日のために新たに造られていました)に納められる式典に列席させて頂いたのでした。
思いがけずに今日また、その川原田神社の前を通りかかったのでした。
白木のお社、銅葺きの屋根は、もう何十年も前からそこにそうしてあったお社のようにすっかり焦げ茶に色が変わっていて、小さいながらも風格のあるたたずまいでした。
よく見るとお社の木材の幾部分かは、新しい材木ではなく年季が入ったものが使われていて、もしかすると津波で流されたお社の木材を活かして削り直し、造られたのかもしれないと思いました。
あの日に真新しい白木のお社に見えたのは、そうやってかつてのお社を再生させたのではなかったかと思い至ったのでした。
熊本高校の宮大工科の生徒さんたち、指導された先生のゆかしさを思いました。
けれども、お社の前に置かれた賽銭箱の上には、野獣の糞が二つ。
それもまた、ご縁なのかもしれないとも思いました。
獣も、お参りに来たのかしら?と。
4年前には波を受けて半壊した家々、礎石だけが残ったところ、瓦礫の散乱していたこの辺りですが、瓦礫も半壊の家々もすっかり片付けられ、新しい家屋が数軒建っていた川原田の景色でした。
「復活」という言葉が浮かびました。
戻る人は少なく、決して「復興」とは思えません。
けれども、地域としての再出発が始まっているのだと思えます。
●村上城趾
名前だけは聞いたり地図で見たり、資料で読んだりしていた場所でした。
小林さんに案内されて初めて訪ねました。
城趾には貴布根神社があり、野紺菊、水引草が咲き群れていました。
城趾の前の開けた場所にはどなたの畑なのか、畝が造られていてその脇にはビニールを被せた一畝に白菜が育てられていました。
●波切り不動尊
同じ名前の不動尊は各地にあり、私は小浜の浪切り不動尊は知っていますが、ここを訪ねるのは初めてでした。
赤いよだれかけをかけたお地蔵様が8体並び、上にかけてあった屋根は崩れ落ちていました。
石碑の文字を読むと「二十三夜講地蔵」とあり、講中の人々の名前が刻まれていました。
村上浜の人々の、かつてあった暮らしを思いました。
この地区の家々は、殆どが津波で流されました。
村上浜は危険区域(土地が低く津波の害を受けやすい)になって、被災前にこの地域に住んでいた人たちはもうここに家を建てることは出来ません。

◎飯崎の田村さん
村上浜から山の方へ向かいました。
枝垂桜の飯崎を通ったので、田村さんの家に寄りました。
この枝垂桜は市の天然記念物に指定されていますが、墓地の只中にある古木です。
田村さんは小池長沼仮設住宅にいた人ですが、今年の桜の頃にここを通った時に姿を見て、自宅に戻っているのを知ったのでした。
その時に「戻ってるのですか?」とお聞きすると、「そう。準備宿泊でちょくちょく戻ってるの」と言いました。
小高区は7月12日が避難指示解除でしたが、それ以前から帰宅のための片付けや掃除などに「準備宿泊」という形をとって宿泊が出来るようになっていました。
田村さんも、そうして戻っていたのでした。
以前は海岸近くの浦尻に家が在りましたが、大工さんだったご主人がこの辺の風景が気に入って土地を求め、被災の2年前にここに家を建てて移り住んだのでした。
その翌年にご主人は亡くなり、年が明けた春に東日本大震災だったのです。
仮設住宅で会った時にはそうしたことは知らずにいましたが、4月にここでお会いした時にそれらを聞き、またその時に桜の枝垂れた枝の先に墓所を求めて、ご遺骨を安置したことも聞きました。
4月には、田村さんにお暇してからもう一度、満開の桜の花を見に行き、「田村家の墓」を見つけて手を合わせて帰ったのでした。
今日訪ねて玄関のブザーを押すと、「はぁい」と返事とともに田村さんが野良着姿で現れました。
「畑をするの?」と聞くと、「いんや、友達のとこで今日は稲刈りなんだ、手伝ってって言われて、もうちょっとして出かけようと思って支度してたんだ」と、答えが返りました。
田村さんの向かいの志賀さんも戻ってきていますが、今日は志賀さんの家の前にはお葬式の花輪が立っています。
94歳のお爺さんが亡くなり、今夜がお通夜だそうです。
一人住まいの田村さんが自宅に戻って暮らす決心ができたのも、お向かいの志賀さんが一家で戻ると知ったからでもありました。
亡くなられた志賀千寿さんは仮設住宅から自宅に戻り、わずかな期間でしたが、懐かしい我が家で過ごすことが出来て良かったと思いました。

◎これでも避難指示解除準備区域?
飯崎から更に山の方に向かい、私には、やはり初めての道を行きました。
横川ダムを過ぎなおも行くと、また一つダムがあります。
鉄山ダムです。
設置された線量計の数値は、1,593を示していました。
福島の地元紙にはいつも、県内各地の放射線量が掲載されています。
南相馬市内で数値が一番高いのが、この鉄山ダムなのです。
途中の馬事公苑や片倉を過ぎたらもう人家などない山中ですが、区域分けで言えば、この辺りはまだ避難指示解除準備区域です。
専門家ではない私が考えても、もし仮にこの辺りに人家があったら、「こんなところに住んでは行けない。安全な場所に避難して」と言うでしょう。
鉄山ダムの先からが「この先帰還困難区域につき通行制限中 ここで迂回して下さい」の看板があり、ゲートで塞がれていました。
放射線量1,539を示した地点は、「避難指示解除準備区域」ということなのです。
区域分けの根拠は、一体なんなのだろうと、大きな疑問です。

◎山中の養魚場
小林さんの「定点観測箇所」のひとつが、横川ダムの下の養魚場でした。
横川ダムからの沢水を引いての養魚場です。
ダム湖の底には放射性物質が沈殿していて線量が高くても、上の方の水や流れ出る水は相当低い数値だそうです。
でも以前に小林さんがここから買ったニジマスを持ち帰って測定してもらったところ、200bq超と検出されたと言います。
今日は養魚場の主は留守でしたが、小林さんは以前に会って話を聞いているそうです。
渓流魚が好きで、自分で孵化させ育てる喜びを生き生きと語ってくれたそうです。
養魚場は小さな池が段差をつけて二つ並び、上の池には絶えず水が流入し、そこには30㌢ほどのニジマスが
泳いでいました。
上の池から流れ出る水が注ぐ下の池には、それよりも小さなニジマスが泳いでいました。
別の場所には炭焼き小屋があり、原発事故のなかった頃の主の暮らしぶりを想い描きました。
この暮らしを捨てて別の暮らし方を選ぶことなどで着るだろうか?と思いました。
精神的苦痛に対する賠償金、生業に対する賠償金、たとえどんな名目をつけた賠償金が多額に(?)払われたとしても、お金には換えられない暮らしがあるのだと思います。
原発事故は、暮らしのすべてを、つまり「ひとが、ひとらしく生きること」を奪ってしまったのだと思います。

◎鹿島の仮設住宅で
●小池第3仮設住宅
小高から鹿島に行き、小池第3仮設住宅を訪ねました。
もう、かなりの人が引っ越していったようです。
集会所にはハルイさん、ヨシ子さん、星見さん、佐藤さんがいました。
ヨシ子さんは体調が少し芳しくないようで、疲れやすいと言っていました。
でもみんなと楽しくお喋りが弾み、またテーブルにはハルイさんが炊いてきたばっかりのカボチャ(ほかほか湯気が立っていました)、イチジクの砂糖煮、梅の甘漬け、ヨシ子さんのショウガ漬け、星見さんの栗おこわ(この辺りでは、おこわのことを「お蒸かし」と呼びます)が並び、それらを美味しく頂きながら、笑いとおしゃべり花が咲きました。
ハルイさんからは縫いぐるみの象を、ヨシ子さんからはバージョンアップした「ぶさこちゃん」を預かってお暇しました。
これらは来週18日に催す「トークの会 福島の声を聞こう! vol.21 」で、お披露目します。
ハルイさんもヨシ子さんも仮設退去後の暮らしは決まっていて、もう引っ越すばかりになっています。
そこからまた新たな出発です。
●寺内塚合仮設住宅
天野さん、山田さん、後から井口さんも加わって、健康談義。
なぜかと言うと、今日は来ていない菅野さんが、つい先日胃カメラの検査を受けたそうなのです。
菅野さんは前の日の夕食に、すりおろした生わさびを食べ過ぎて夜中に猛烈に胃が痛くなり、診療を受けたところ胃カメラ検査が必要とされていカメラを飲んだそうです。
軽い胃潰瘍ではあるけれど、案ずるようなものではなく放っておいても大丈夫と診断されたと言います。
そんな話から、天野さんも山田さんも、それに小林さんや私も自分の”胃カメラ体験記”を披露したのでした。
ここではみんな、仮設退去後の暮らしに大きな不安を抱えていますが、言っても詮無いこととばかりに口にはせずに、毎日が過ぎていきます。
これもまた、年月を重ねた人の知恵・行きていくための術なのでしょう。

◎六角への帰り道
帰り道に寄った利さんの店で、鹿島・烏崎の烏中(うなか)さんに会いました。
左足首にギプスを巻いて、松葉杖をついている姿に驚いて、「久しぶり」の挨拶もそこそこに「どうしたんですか?」と尋ねたのです。
笑い話のような屯末です。
体力測定に参加したのだそうです。
行く気はなかったけれど参加者が少ないから来てくれと頼まれて、行ったそうです。
行ってみたらば簡単な動作ばかりで、年齢に応じたコースが定められていたけれど、自分はやらなくても良いもっと若い世代に課せられた動作にも挑んだそうです。
自分の前にやっていたのは、それをするにふさわしい年齢者だったけれど、烏中さんはその彼よりももっとテキパキとその動作が出来て得意満面になっていた最後のところで「ブチッ」と大きな音がして、アキレス腱を切ってしまったというのです。
「いやぁ、大きな音がした。忘れられない音だよ」と。
烏崎も津波の被害が大きかった地域です。
烏中さんも家を流され、別の場所に山荘をもう一軒持っていたので被災後はそこで暮らしていましたが、鹿島・小池に新居を構えることにしたそうです。
萱浜の上野敬幸さんの家にも寄りました。
小林さんが、以前に撮った写真をお渡ししたいからということでした。
玄関のブザーを鳴らすと貴保さんが出てきて、写真をお渡ししてしばしの立ち話。
失礼しようと思っていたところに敬幸さんが、大きなトラククターに乗って帰ってきました。
農業者として生計を立てていくことの苦労は、とても大きいようです。
また今度、ゆっくりお話を聞かせてもらおうと思いました。                

◎トークの会「福島の声を聞こう!vol.21 」
18日(火)ゲストスピーカーに、浪江町の今野寿美雄さんをお招きして開催します。
みなさまのご参加をお待ちしています。 

いちえ

vol21


2016年10月11日号「10月11日南相馬」

南相馬へ来ています。
いつもは新幹線で福島駅へ行き福島駅からバスで来ますが、今回は写真家の小林恵さんの車に同乗させて頂いて、東京から車で来ました。
小林さんも3/11後何度も被災地を訪ねている方で、これまで小林さんが取材されてきた場所を案内して頂きながらやって来ました。

◎常磐線竜田駅
常磐線は竜田駅—小高駅間がまだ不通で、その区間は一日2便の代行バスが走っています。
以前私はこのルートを使って東京から南相馬入りしようと計画したことがありましたが、乗り物所用時間がとても長時間になるので早朝に家を出ても原町に着くのが夕方遅い時間で、移動に一日費やさなければならないのであきらめ、いつも通りの方法にしたのでした。
竜田駅からの代行バスは、放射線量の高い原発立地地域を通り抜けます。
小林さんの話では、竜田駅前のバス停留所には「この区間は線量が高い地域を通ります」ということを記した張り紙があったそうです。
今日見ると既に張り紙は剥がされていて、紙を貼ってあった跡だけが残っていました。
張り紙には具体的に線量の数値が書かれていたそうですから、除染の結果それよりも数値が下がったので剥がしたのでしょうか。
とは言え、だから「安全」でも「安心できる」訳でもないとは思いますが。
常磐線の駅舎待合室には、いわき方面へ行く人が4人ほどベンチに座っていました。
時刻表を見ると、もうすぐ上り列車が到着するようでした。
いわき駅方面からの列車がここで折り返しての上り列車となるのでしょう。
駅の近くの畑地では、荒れた畑の草刈りをする人の姿がありました。
第二原発辺りの津波の爪痕を見て楢葉町で、仮設焼却炉の塀には大きな看板の標語「こころ、つなぐ、ならは、明日へ」と書かれていました。
標語の後に「前田建設」とも。
地元の人はどんな思い出この標語を読むのでしょうか?
私なら、「あんたに言われたくないよ!」
この看板は事故後のものですが、飯舘村など事故前に村の人が立てた看板の言葉などには、胸が締め付けられる思いがします。
「美しい村を子どもたちへ」などを読めば、無惨にも願いが打ち砕かれてしまった空しさ、無念を思います。
そんなことを思いながら富岡町に入ると、夜の森の桜並木の辺りには「双相地方の未来に光を」の看板が。
これもまた、事故前のものでしょうか。
桜並木の途中から先は帰還困難区域でゲートがあって入れませんが、その少し手前には帰宅に向けての準備をしている様子の家が在りました。

◎家畜・ペット供養碑
大熊町の大川原地区の道路際に在る井戸沢公営墓地で、小林さんが車を止めました。
墓地の前に小さな札が立てられてありました。
こう書かれていました。
「除染前 1,47μSv
 除染後 0,83μSv
 現在値 0,54μSv
 平成28年9月12日 清水建設 JV 放射線管理課 諏訪」
現在の数値は決して低くはない数値ではありますが、作業された清水建設の放射線管理課の方の矜持を感じました。

そこからしばらく走った先に、まだ新しい大きな黒御影石の碑がありました。
「東日本大震災東京電力(株)原発事故
2011・3・11午後2時46分
犠牲家畜・ペット供養碑
牛たちよ 犬・ねこ 人間(われら) みな家族
ありがとう Never Give Up 決して忘れないよ!
みな親子  H13、5、7生
たかこ       」
などと共に過ごした家畜やペットの名前が碑には刻まれ、また牛や犬、ネコなど動物の顔も刻まれていました。
石碑の裏には「平成26年11月7日 吉田彰 キヨ子建立」とありました。
石碑の奥の牛舎はきれいに掃除され、その向こうの自宅には住む人の姿はなく、今はどこにおいでなのでしょうか。
賠償金が出たら真っ先に供養碑をと思い立って造られたのでしょうか。
吉田さんご夫妻に、お会いしたいと思いました。

◎希望の牧場
ススキの原、セイタカアワダチソウの原の大熊町を過ぎ浪江町に入り、希望の牧場へ寄りました。
牧場の牛たちは以前よりもずっと肥えて、見えました。
みどりの草地は遠くに見えますが、柵の近くは草は無くて土なのです。
なぜ?と思って奥の方を見たら、除染作業の人たちが作業終えて帰り支度をしているのが見えました。
吉沢さんに聞かないと確かめられませんが、表土を剥いで除染したのでしょうか?
後で電話で尋ねてみようと思います。           

◎小高町同慶寺
今日は11日、東日本大震災・津波で亡くなった方達の月命日です。
同慶寺の田中徳雲さんをお訪ねしました。
同慶寺は、いつお訪ねしても心の落ち着く古刹です。
徳雲さんもお元気そうで、これからのことをお話し下さいました。
7月12日に避難指示解除になった小高区ですが、戻った人は少数です。
戻っても生業がなければ暮らして行けません。
農業者として生きてきた人たちは、ただ暮らして行けるだけの生活費があれば良いのではなく、土を耕して得た実りを、喜んで受け取ってくれる人たちがいることが生き甲斐になるのです。
被災前には孫たちが、また家を巣立った子どもや親戚たちが、「じいちゃんの作ったお米はおいしいね」など食べてくれる姿や言葉が生き甲斐だったことでしょう。
でも今、小高で以前のように米作りをしても、元のような日々は戻らないだろうと思えます。
食べるものではなく別の生産物をと考え、始めは綿の栽培を考えたそうです。
でも綿の栽培は手入れも大変で、それなら麻はどうかと考えているそうです。
もともとこの辺りは、かつては麻の栽培をしていたそうです。
麻を栽培し糸を紡ぎ、染め織りもして行くように出来ないだろうかと、模索中だそうです。
徳雲さんの夢を応援していきたいと思いました。

◎宮ちゃん
定宿のビジネスホテル六角に着いたのは、夕方の6時頃でした。
大留さんとしばしのお喋りの後で、3人で夕食を食べに町へ出ました。
六角の辺りには店はないので駅の近くまで。
食後「ここまで来たから、宮ちゃんの家に寄ってみようか」ということになり、大町東団地の高橋宮子さんを訪ねました。
宮ちゃんも元気そうで、安心しました。
83歳、胃を摘出手術していますが、毎日元気に過ごしています。
被災前は萱浜に住んでいましたが津波で家は流され、娘と孫娘を亡くしている宮ちゃんです。
被災の年の11月から原町の仮設住宅に入っていましたが、この復興市営住宅が出来てここに移ったのです。
仮設住宅は6畳一間と玄関に隣接した小さな台所、トイレとユニットバスという間取りでした。
この市営住宅は6畳が三間で廊下がありトイレ、バスルーム、天井は吹き抜けで、バリアフリーの造りです。
大留さんが何気なく「ここはいいね。いいとこに入れて、宮ちゃんは幸せだよ」と言うと宮ちゃんからは、「社長さん(宮ちゃんは大留さんをこう呼ぶのです)、娘、孫を亡くした人に幸せなんて言うもんじゃないよ」と抗議の声が出ました。
宮ちゃんも本気で大留さんに文句を言ったのではないのでしょうが、やはりいつもいつも娘や孫を亡くした悼みを胸に抱えているのです。
大留さんと宮ちゃんは二人で居れば、まるで夫婦漫才みたいにポンポンと軽口の冗談が飛び交うのです。
そんな風に笑いがいっぱいのお喋りが続いた後で私が、「宮ちゃんは今も薬を飲んで寝るの?」と聞くと、「んだな。飲まないと眠れない」と。
「飲んだら朝までぐっすり眠れる?」と重ねて聞くと「だめだぁ。3時間ぐらいで目が覚めっから、ちょっとバナナ食べたりビスケット一つくらい食べて、また薬飲んで寝る」
仮設住宅に住む人たちの90%、いえ、もしかしたら99%の人たちはあの日以来、睡眠薬や誘眠剤がないと眠れなくなっているのです。
宮ちゃんは羽子板造りはもう終えて、今はこけしを作っています。
材料は果物の緩衝材にしている発泡スチロールの網です。
棚の上に造りかけのこけしが一つありました。目鼻はまだついていません。
どんな風に完成させるのか、出来上りが楽しみです。

いちえ






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