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2016年6月15日号「6月4日集会報告③」

大変遅くなりましたが、集会報告の続きです。

◎第1部最後は、落合恵子さんでした。
落合さんには、第8回と第13回の集会にもご出演頂きました。
この集会は、最初の数年間は春と秋とで年2回催していましたが、第8回は2007年の秋の集会でした。
この年は第1次アベ政権の時で、キャッチフレーズは「『美しい国』は平和憲法あってこそ!私たちは、平和な毎日を生きてゆきたい ︎ 」としたのでした。
この年9月には沖縄で、教科書からの「軍命削除」に反対する11万人の県民大抗議集会が開かれ、10月にはニューヨーク市などでイラク戦争反対の大集会も開かれました。
第13回集会は2012年6月に開催、キャッチフレーズは今回と同じく「とどけメッセージ キッチンの窓から ガレキの戦場から」でした。
前年に起きた東日本大震災、そして原発事故。
落合さんは、「さよなら原発1000万人アクション」の呼びかけ人にもなっていました。
第13回集会のキャッチフレーズ「ガレキの戦場」は、原因こそ違え原発事故後の被災地でもあると思えていました。
揺るぎなくいつも弱者に寄り添い、鋭い視線でその時々の時勢を抉る話をされる落合恵子さんに、今回もまたご登壇いただいたのでした。

  ==第17 回集会での落合恵子さんの話=
●『フランシーヌの場合』
新谷さんの「フランシーヌの場合」が大勢の人の心をノックしていた頃、私な文化放送のアナウンダーで、この曲を何度も番組で紹介したことを、今お聴きして思い出していました。
『フランシーヌの場合』が多くの人の心をとらえるような時代背景が、かつてもあったのですね。
右田さんの熱演されたアレン・ネルソンさん。来日された折にお目にかかっています。一方の足に包帯をされて引き摺っておられたので、どうされたかとお尋ねしたら、ニューヨークの街角で、いかに戦争が悲惨なものか、反戦の思いを話していた時に、突然殴りかかられ、蹴られたとおっしゃっていました。
来日されてから一年ほど経った頃、ネルソンさんは亡くなられてしまいましたね。
そして、今しがたのArt and Politics のおふたりの演奏を聴きながら、アコーディオンを弾く姿を見て思い出した光景があります。

●〝イコク〟で死んだ人
 私は栃木県の宇都宮で生まれ小学校入学前に上京しましたが、宇都宮に住んでいた子供時代、今頃の季節のことです。
街に童謡歌手がやってくるというので、大人たちが朝から作ってくれた海苔巻きのお弁当を持って、みんなで公会堂へ出かけました。
 娯楽の少ない時代でした。みんなうきうきしていました。
 公会堂へ続く目抜き通りに、アコーディオンを弾く男性がいました。少し離れたところにはハーモニカを吹く男性もいました。
 片方の脚が妙にテラっと光る木であったり、片方の手が同じように木製であったりした男性たちでした。祖母や母からあの人たちは戦争で傷を負った「傷痍軍人」だと教えられました。
「見てはいけない」と思いながら私の目は、木製の脚や腕に釘付けになっていました。戦争が終わって4、5年経ったこの国の一つの街。戦争の影はこうして街中にもありました。
 仲がいい友達に、近所の早苗ちゃんがいました。早苗ちゃんは私より一つか二つ年長でしたが、彼女の家に遊びに行くといつも気になるのが、居間の鴨居の上に飾ってある額入りのモノクロームの写真でした。
 早苗ちゃんは写真を指差して「お父ちゃんだよ」。その隣の同じように額入りの写真を指差して「あっちはおじちゃんだよ」。
 早苗ちゃんは「お父さんもおじちゃんも、〝イコク〟で死んだ」と言いました。
 鴨居の下には、早苗ちゃんの祖母がいつもペタッと小さく座って、手を合わせている姿がありました。
 私はかなり大きくなるまで「異国」の意味がわからず、〝イコク〟という国が地球のどこかにあるのかと思っていました。近所の人たちは早苗ちゃんの祖母のことを、こんな風に言っていました。
「そばへ行ってはいけない」、「風の強い日は近寄らないほうがいい」、「夜など話しかけてはいけない」等々。なぜなのか私は判りませんでしたが、ある夜、嵐の夜に私は見てしまったのです。
 雨戸がカタカタと音を立てていました。雨戸を打つ風雨の音がより激しくなった時、早苗ちゃんの家の雨戸が開く音がして、縁側伝いに庭に飛び降りて、何か叫んでいるのは、早苗ちゃんの祖母でした。お祖母ちゃんが叫び、呼んでいたのは「異国」で死んだ二人の息子さんの名前だと知ったのは、あとのことです。
 早苗ちゃんの祖母は、「お国のために」戦争にとられ、「お国のために」息子たちが戦死したという事実は認識していたはずです。けれども嵐の夜、雨戸が激しくなると、何かが祖母の気持ちを揺さぶり、たまらなくなって外へ飛び出して息子の名前を呼び続けさせたのでしょう。それを近所の大人たちは「そばへ行ってはダメだよ」と、私たち子どもに教えたのです。

●早苗ちゃんと私
 早苗ちゃんと私が、仲が良かったのは理由があります。
 早苗ちゃんは、父親を戦争に奪われていました。私の場合はもう少し複雑な事情があり、母は当時では珍しいシングルマザー(そんな呼称はなかったですが)で、小さな街では後ろ指を指される存在でもあったと言えます。
 子どもは詳しいことは判らなくても、どこかで自分と同じ匂いのする誰かを探し出し、寄り添い、頷きあうところがあるのかもしれません。
 母と二人で私が上京したのは、小学校に入る前でした。郷里の街で中途半端に事情を知っている周囲の人達の中で集団生活を送らせることを避けたい、と母は考えたに違いありません。さまざまな噂にさらされて、心乱されるかもしれない…。
 そんなことを心配して、母は私を連れて上京したのです。
 東中野の、「東中野ハウス」という小さなアパートに住むようになりました。

●東中野ハウス
 東中野ハウスは4畳半か3畳一間の小さな部屋の並ぶ二階建ての小さなアパートでしたが、住人のほとんどが一人暮らしの女性たちでした。
 ある日母に頼まれて、近所のパン屋にお使いに行きました。
 お客さんの行列ができていて、私の番になり、パン屋のおじさんに「見慣れない子だね、どこの子?」と訊かれ、「東中野ハウス」とアパートの名を答えると、その途端におじさんも、並んでいた人たちも、なぜかサァ〜と引いたような気がしました。子どもの私には理由はなぜか判りませんでしたが、空気が違ってしまったということだけは、強く意識できました。
 母は、朝自分で作ったお弁当箱を持って小さな会社に出勤しますが、私が「お姉さん」と呼んでいたアパートの住人、女性たちは、母が会社から帰るころ、「お仕事よ」と言って出かけました。
 赤いヒールの靴を手に提げて、ズック靴で走って出かけたり、着物を着ていくお姉さんもいました。お姉さんたちの暮らしぶりが、パン屋さんで「東中野ハウス」と私が言った時にそこにいた大人たちに、何らかの「引く影響」を与えていたのでしょう。
 戦前戦中の社会は、多くの女たちに、職を持つこと、自ら立つこと、自活・自立することを伝え、教えてくれませんでした。早くに「嫁に行って」、「できるだけたくさん子を産むこと」、その子を「兵隊」か「銃後の女」にすることが、戦争という時代の、トップモデルであったかもしれません。
 東中野ハウスのお姉さんたちは、それらを刷り込まれ、信じて生きてきたのです。婚約者がいた人もいたでしょう、心密かに想う人がいた人もいらっしゃったでしょう。
 けれども戦争で家は焼かれ、家族は離散したり死んだりして、そうして1945年8月15日。
 気がつけば自分が一人生き残っていた。「生き残ってしまった」と感じたかもしれません。
 それでも生き残った一人として生きていくしかない。喪失感の中でそう決意した時、勉学の機会も、職業の訓練も受けることがなかった当時の多くの女性たちが、どんな職業に就くことができたでしょうか。夕方、ハイヒールを手に運動靴で走って行ったお姉さんは、ダンサーと呼ばれる仕事をしていました。午後3時頃になるとガラッと開け放したドアの向こうで、鏡の前に座り込んで胸から上を露わにして、溶いた白粉を刷毛で塗って着物を着ていくお姉さんは、「俄か芸者」と呼ばれる人でした。
 不思議なもので、ここでも同じ匂いを嗅ぎ分けるようにして、人々は集まっていたのです。それが、「あのアパート」という一つのレッテル貼りになっていたのでしょう。

●お母さん、なぜ私を生んだの?
 母は22歳で私を生みました。
 中学生になった時、「なぜお母さんは、私を生んだの」と、訊きました。「母はなぜ、辛い道を選んだのか、なぜ差別を受けるであろう選択をしたのか」。
 母には残酷な質問だったかもしれませんが、私には大事な問いかけでした。
 この答えを聞いておかないと、私は「私を生きてゆけない」という切羽詰まった思いがありました。母は、次のように答えました。
「お母さんは、あなたのお父さんが大好きだったの。あなたのお父さんにあたる人も、お母さんのことが大好きだったと思う。ふたりの大好きが出会って、お腹にあなたがいると知った時、あなたのお父さんと連絡が取れない状態になっていた…。」
どこまで事実に即した話か判りませんが、母はそう言って、さらに続けました。
「昨日街角ですれ違ったばかりの幼馴染が、今日は焼夷弾で死んでいる。
人の命はなんて儚いのだろうと知った時、あなたがお腹にいると知って、何があっても産むんだ、産みたいと思った。みんなは反対するに決まっている。でもどんなに反対されてもいい、どこか遠くに行って産むのではなく、自分が生まれたこの街の真ん中で、”父親がいない子を産みます”と、手を上げて産むんだ、と心に決めたんだ。ごめんね。これからあなたの人生は辛いものになるかもしれないけれど」
 そんな母の言葉を聞きました。
 母は3人の妹たちを進学させるために、自分はほとんど勉強という場に行ったことのない人でした。机の上の学歴など、ほぼ皆無で生きてきた人でした。
 もし人間の知性、あるいは感受性が人の痛みに敏感であることからスタートするなら、そして私たちがそれを知性・教養と呼ぶならば、私の母は知性もあり教養もある人だったと、照れながら言わせてください。学歴が人のすべてを決めるはずもないのです。
 東大出身でフランス留学し、いわゆる出世の階段を二段跳びで上がり詰めようとしたした人が、いとも恥ずかしい公金の使い方をして問題になっています。(笑)
 さて、「どうして生んだの?」という娘の問いに答えた後で、彼女は言いました。
「あなたの人生は、あなたが選ぶものだけれど、私たちの人生は国が決めてきたんだよ。よく考えてごらん。あなたは、出生に対して差別される側の子どもになっちゃった。世の中にはたくさんの差別がある。障がいがある人に対する差別、障がいと呼ばれるものであっても体のそれと心のそれとによっても微妙に違う。被差別部落の人に対する差別、自分の肌の色と違う色の肌の人に対する差別、いろんな差別がある。ある病に対する差別もある。あなたはその中の一つ、生まれについて非嫡出子という差別を受ける側の一人になった。でも、そのことを大事にしてね。そして差別される側のひとりひとりと柔らかく手をつなぎ、差別をなくしていくために、ちょっと踏ん張ることができたなら…。他の何がダメでも、他の何も持っていなくとも、お母さんはあなたに五重丸を付けるよ」
 この日、母からこの言葉をもらった時に、私は第二の誕生日を迎えたのではないかと思うことがあります。

●母に贈った言葉
 この母を7年間在宅でを介護して見送る朝、私が母にプレゼントした言葉、認知症の最も深いところにいるであろう母に贈った言葉は、次のようなものでした。
「ありがとう。お母さん大好きだよ。お母さん愛してるよ。お母さん、私はあなたの娘で本当に良かった!お母さんは私を”生まれつき父親のいない子にしちゃった、ごめんね”って、何度も何度も言ったけれど、そんなことないよ。私あなたの娘で本当に、本当に良かった」
 母のベッドに上がって母の上半身を抱いて、最期の時を迎えました。
 そうして、彼女が大好きだった花をたくさん、たくさん飾って、彼女を愛してくれた人、彼女が愛した人々、ご近所の方や親類縁者で、密葬の形で、みんなで彼女を送ってもらいました。
 当時私は『母に送る子守唄 私の介護日誌』という新聞連載をしていました。母が亡くなったことを書かなければいけないと思いながら、なかなか書けずにいましたが、ご担当の方にだけはお伝えしなければと思ってお伝えしたところ、「写真を貸してください。訃報欄に載せます」と言われました。
 もちろんご好意で言ってくださったのですが、お断りしました。彼女は彼女としての人生を全うしました。「落合恵子の母」という肩書きだけが彼女の生き方ではない、ささやかでも自分の中にある正義感をかき集めて、素手で懸命に生きてきた。一市民として生きてきたことを何より大事にしたいと思い、訃報欄への掲載をお断りしたのです。
 母は大変重い神経症に苦しんできました。それでも私に、たくさんのことを教え、伝えてくれ、周りの人々を元気づけることが大好きだった彼女です。
 密葬の日に向けて、彼女が若い頃から聞いていた音楽をダビングしてテープに作りました。コンチネンタルタンゴ、アルゼンチンタンゴ、それからそれが見送りの歌にふさわしいかどうか判らないような美空ひばりさんの『お祭マンボ』とか、それを泣きながらダビングして、そして家中に流しました。
 重い神経症を患っていた彼女の眉間にはいつも縦皺が刻まれていましたが、柩の中の彼女は、亡くなった後の硬直もあったのですが、皺は消え、
「お母さん、隠していたね。お母さん、綺麗じゃん」と言った私がいます。

●すべて、いのちから考えよ
2011年3月11日、あの年、あの日、既に母は見送っていました。見送っていて良かった、と思う私がいます。
自由に動ける、走り回ることもできる、何かを失うかもしれないけれど、声を挙げられる、と。
 介護をしていた日々は、例えばイラク戦争の時「集会に来てください」と言われて参加する予定を立てていても、その朝になって母の血圧が突然下がってしまう、反対に上がってしまう、そうなると行けなかった私がいました。
今度は、自由にできるぞ。「見ていて、母さん」。そんな日々でもありました。

私たちの父や母、祖父や祖母は、こんな時代を迎えるために汗水垂らして働いてきたのでしょうか?
人の痛みを全く感じようとしない、イマジンの歌など鼻先で笑っているような人間たちが、自分たちだけが自由に豊かに生きられるような社会、それ以外のすべての人々を捨て石にするような酸鼻な社会を目指しています。
そんな日を迎えるために、私たちの親は生きてきたのでしょうか?そして私たちは、次の世代やその次の世代に、そんな社会を手渡していいのでしょうか?
すべてを、「いのちから」考えれば、「原発、NO!」です。「いのちから」考えれば、「戦争法制、NO!」です。当然です。沖縄の基地も「NO!」です。
「TPP NO!」これも同じです。
熊本を中心とする地震、まだまだいろいろ問題は起きています。
地震の中で、不安と恐怖と悲しみと、喪失感の中にいる住民の方々に、これ以上の負担は避けたい、せめて、川内原発1、2号機止める、当たり前でしょ、人として。すぐに鹿児島県知事に、有志で声明文を送りましたが、予想通り返答はありません。そして「原発止めよう」に対して「今、原発止めてどうするんだ?被災地の人たちが困るだろう」というような悲しすぎるバトルが繰り返されています。去年の8月まで、この国では原発は一基も稼働していなかったにもかかわらずです。

●「おらがむすこの ちであかい」
 詩人、木村迪夫さんのドキュメントをご覧になりましたか?私はまだなのですが。
 「農民詩人」という呼称にご本人はどう思われているかは判りませんが、山形県で農業に従事しながら素晴らしい詩を書き続けておられる詩人です。
木村さんの作品に「祖母の歌」という詩があります。
木村さんの祖母、おばあちゃんが戦後の日々を歌い続けていた自作の唄を、お孫さんである木村さんが写した作品です。
木村さんのお父さんも叔父さんも、戦死しています。木村さんのお祖母さんは、二人の息子が戦死したのを知った時、三日三晩泣き尽くし、それからこの唄を歌うようになったとおっしゃいます。
学校に通うことなく、字が読めず書けない祖母でしたが唄を作り、歌い続けた詩をご紹介させてください。

     『祖母の唄』
  ふたりのこどもをくににあげ
  のこりしかぞくはなきぐらし
  よそのわかしゅう(若衆)みるにつけ
  うづ(家)のわかしゅういまごろは
  さいのかわら(賽の河原)でこいしつみ

  おもいだしてはしゃすん(写真)をながめ
  なぜかしゃすんはものいわぬ
  いわぬはずじゃよ
  やいじゃもの(焼き付けたもの)

  じゅうさんかしらで
  ごにんのこどもおかれ
  なきなきくらすは
  なつのせみ

  にほんのひのまる
  なだてあかい
  かえらぬ
  おらがむすこの ちであかい

抜粋です。
ドキュメンタリー映画『無音の叫び声』、いろいろなところで上映されますので、ぜひご覧ください。

●たった一人が欠けても
木村迪夫さんの祖母のような方、私の郷里の早苗ちゃんの祖母のような人、あるいは母、父。このような人たちを、もう私たちは作ってはいけないという思いで戦後を生きてきたはずです。にもかかわらずこの国の政権与党は、「戦争法」を通してしまった。
 そして、憲法改悪に積極的に動いています。いつ、どこの、誰かの息子に、誰かの夫に、誰かの父に、誰かの恋人に何が起こるかわからない時代がやがてはやってくるとしたら…。その時になってから、私たちはどこまで反対できるでしょうか。
 「まだ間に合う、今ならば」という思いが、強くあります。
 かつてラジオ局に勤めていた時に、詩人の川崎洋さんと一緒に仕事をしたことが度々あります。
 川崎さんを見送った後に、無念なことに見送った後に、彼がこのような詩を書いておられたことを知りました。
『抹殺』という詩です。
 この詩について、彼と話したかった!彼の話を聞きたかった!
 彼は書かれた詩をよく見せてくれましたし、私も彼の詩集をたくさん持っていますが、見送った後でこの詩に出会った作品です。
    『抹殺』
   両親がいて
   わたしは生まれた
   それは祖父母がいてのこと
   さらには曽祖父母がいてのこと
   そうやって十代さかのぼると
   両親をはじめとする先祖の総計は
   一〇二四人となる。
   この中の一人が欠けても
   今のわたしはいなかった
   戦争は
   「この中の一人」を殺す
   いや一人だけではない
   未来の数えきれないいのちを
   抹殺する

●〝怒髪〟で走り続けます
 私の好きなアメリカ合衆国の作家であり活動家に、アンジェラ・デイヴィスという女性がいます。
公民権運動などでも活躍した、アフリカ系米国人の女性です。
 自分の目の前に壁が聳え立つ時、わたしたちは竦みます、跳ね返されるかもしれません。でも、彼女は言います。
壁も(倒せば)橋になる、と。
 私もそれを信じます。
どうか、忘れないでください。
 沖縄の人々が、どれだけの無念さと悔しさを背負ってきたか。女が略奪の対象であり、支配と差別の対象である限り、このような事件は無くならないでしょう。
 1995年、3人の米兵による「少女暴行事件」。それより前の「ゆみこちゃん事件」。海岸のゴミ捨て場に変わり果てた姿で捨てられていた女の子。
 私たちの偽りの安全や安心のために、沖縄の人々をこんなに苦しめていいのでしょうか?
ご一緒に声を上げ続けましょう。
そして私は、この”怒髪”で走り続けます。 

     ==落合恵子さんのお話、ここまでです======
*この後、落合さんは、販売用に用意してくださった本を紹介されました。
ご自分の著書『質問老いることはいやですか』と写真絵本『空より高く』の2冊です。

◎実行委員挨拶
第1部の締めに、実行委員の仲内節子が挨拶しました。
出演された皆さん、参加者の皆さんへのお礼の言葉と共に、「もうダメだ」などと諦めずに、手を繋ぎあって行動していこうと提起しました。
昨年のこの集会で澤地久枝さんが提起されたのが、全国一斉に「アベ政治を許さない」プラカードを掲げる行動でした。
たぶん澤地さんから最初に聞いた私たちは、ネットなどでこの提起を拡散し、昨年7月18日に日本全国で、パリやベルリン、アメリカ、韓国など世界各地で一斉に掲げました。
それからも政治状況は一層酷くなり、昨年11月からは毎月3日の一斉行動を呼びかけました。
これはどこででも、一人でもできる行動です。
来月は7月3日、参議院選挙中です。
明日(5日)は「全国総掛かり行動」、6日は官邸前で安田純平さんの救援行動があります。
毎日のように行動が提起されていますからできる限り参加して、せっかく70年間守り続けてきた9条を守り続けていきたいと思います。
頑張りましょう。
ありがとうございました。

*第17回集会第1部は、こうして閉会しました。
第2部は映画『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』上映と、監督の古居みずえさんと私のトークでした。
こちらは報告省きます。
長文、お読みくださってありがとうございました。       

いちえ

関連:

2016年6月12日号「南相馬6月9日②」

◎双葉屋旅館
双葉屋旅館女将の小林友子さんに話をお聞きしたくて、小山田さんにお暇してから
小高に行きました。

●避難指示解除準備区域
小高は2012年3月の区域再編成され、同年4月16日から日中の立ち入りが自由になりました。
2013年暮れには、2016年の春には避難指示解除という政府方針が出されましたが、
これについて市長は除染完了を見てから判断すると答えました。
山林の除染は行われませんし、除染が済んだところでも再除染を望む声もあり、住民の不安は消えず解除に反対の声も強くありますが、来月12日に避難指示は解除されます。
若い世代は、避難先で仕事を得たり子供たちは学校に通っていて、小高には戻らずに避難先での暮らしを選ぶ人が大半です。
けれどもそうした中でも、昼間の立ち入りが自由にできるようになった四年前の春から、壊れた建物の修復をして片付けや掃除に通い、帰還してまたここでの暮らしを再開しようとする人たちもいました。
営業再開の準備をしてきた商店もあり、駅前の双葉屋旅館もその一軒でした。
小高と一口にいっても、地域によって線量にはかなり差があります。
駅前通りの商店街など「避難指示解除準備区域」とされた海寄りの地域の汚染度は低く、それが小林さん夫妻に帰還を決意させたのでした。

●友子さん
’12年4月、昼間の立ち入りが自由になった時から、友子さんは駅前ロータリーや駅前通りに花の苗を植え種を蒔き、花を咲かせてきました。
私が友子さんの話を聞きたいと思ったのは、そうやって花を植える姿に現れているように小高の再興に積極的に取り組みながら、一方で友子さんは、政府や行政に不信感をはっきり示し、要望をしっかり伝える人だと知ったからでした。

被災後、小林さん夫妻は息子さんの住む名古屋に避難していました。
’12年2月に南相馬へ戻り、原町の高見仮設住宅へ入居しました。
そして3月に警戒区域解除に伴い区域再編成され、4月からは日中の立ち入りが自由にできるようになって我が家の様子を見に戻り、再建を心に決めたのでした。
この地域の線量が低いことも決心の要素ではあったでしょうが、それよりも友子さんの”負けん気”、このまま負けてはいられないという気持ちが大きかったのではないかと思います。
地盤が緩い地で、また津波の被害も受けていますから建物は損壊もしていました。
でもそれだけではなく、物盗りの被害も大きかったそうです。
この年の6月から、お連れ合いは「放射線測定センター・南相馬 とどけ鳥」に、ボランティアで働き始めます。
この測定センターは、NPO法人チェルノブイリ救援・中部が立ち上げた市民測定センターです。
13年、「チェルノブイリ救援・中部」がチェルノブイリに行った時には、夫妻も一緒に行きました。
今年5月にもまた、チェルノブイリ・救援中部と共に、チェルノブイリを再訪しています。
持ち前の素地の上にそれらの体験を重ねた友子さんだから、政府や行政の方針に唯々諾々と従うのでなくしっかりと意見を示し、地域の女性たちの牽引役にもなっているのでしょう。
けれどもその友子さんが、ぽつりと言いました。
「こうやって営業再開するのは、帰ってきてはいけないところに人を返そうとする政府のお先棒を担ぐことじゃないかって、時々思うこともある…。そんなことを言われることもあるし」

●友子さんは怒っています
私が訪ねた9日は、常磐線の小高=原ノ町間の試運転が行われた日でした。
本格的な運転再開は、避難指示解除の7月12日です。
友子さんは言います。
「商工会女性部では、運転再開に何もしないわけにはいかない。でもお祝いじゃないよねと、みんな言っている。お祝いじゃなくて、一つの区切りだと思う。これまで女性部は折あるごとにいろいろやってきたから、今回もお祝いではなく区切りとして、夏野菜カレーでも出そうかと話し合っている。無料にしようか、100円か500円かと話し合っている」
こう話す間に何度も「お祝いじゃない。一つの区切り」と言った言葉に、商工会の女性たち、小高の人の思いが込められていると思いました。
また、友子さんはこうも言いました。
「環境省に花を贈ろうかしら?鉢に土を入れて小高で育て小高で咲いた花を贈ったらどうだろう?」
友子さんがこういうには、わけがあります。

●友子さんが怒る理由
環境省は除染で出た汚染土の8000ベクレル以下のものは、全国の公共事業で再利用するという方針を出しました。
原発敷地内から出た100ベクレル/kg以上の廃棄物は、厳重に保管・処分されますが、今回の環境省の方針はそれを80倍も超えるものです。
そしてそれを「全国の公共事業」道路や公共の建物などに再利用する、つまり汚染を拡散させようというものです。
この再利用の試験事業を、この夏から小高で始めようというのです。
小高の蛯沢に除染廃棄物現用か施設が建設され、火入れ式が行われたのは昨年の3月でした。
その施設が、汚染土再利用の試験事業を行うことになるのです。
私はこれまで福島県内の除染廃棄物減容化施設の何ヶ所かを見てきましたが、いずれも山の中にありました。
人目につかない山の中で、その地域の中では地形的に放射線量が高い場所に作られていました。
線量が高い山の中ならいいというわけでは決してありませんが、小高の減容化施設は海に面して少し出っ張った小高い場所で、線量は低い場所なのです。
線量が低い場所になぜ汚染度の高いものを持ち込むのか、繰り返しますが、高い場所ならいいということでは決してないのですが、なぜ汚染が低い場所にそんな施設を作るのか!
友子さんは、怒っています。
「署名なんかどうせ見ないだろうから、花なら受け取るかもしれない。底の方には線量が高い土、上の方は低い土を入れて鉢植えの花を送ろうかと思う」
それなら関係の省宛ではなく、関わった役人、政治家一人一人に、個人に宛て送るのがいいかもしれないと、私も思います。

◎避難直後のこと
2011年3月、小山田さんも小林夫妻も、原発事故被災者の多くが各地へ避難しました。
避難先で、あるいは避難の途中で、様々な嫌がらせを受けた人は少なくありません。
車を傷つけられたり、タイヤに釘を刺してパンクさせられたり、入店を断られたり、子供がいじめられたり仲間外れにされたり、これまでも私はこうした悲しい話をたくさん聞いてきました。
今回もまた小山田さんが、こんなことを言いました。
「どんなに大事に育ててきた息子でも、嫁をもらったら人が変わるね。
息子のところへ避難していったら、私はバイ菌扱いだった。嫁がヒステリーになってバイ菌扱いされたから、もうここにはいられないと思って福祉課に電話して迎えに来てもらった。出て行く時に息子には、『かあちゃんが悪かった。ここにきたのは間違いだった』って言って出たけど、息子は何も言わないで黙ってた」
小山田さんは、どんなに悔しかったかと思います。
放射能への恐怖が、憎悪や差別の気持ちを抱かせるのでしょうが、無知が、それを態度として表してしまうのでしょう。
お嫁さんの態度は、子供を持つ母親の思いからだったのでしょうが、放射能はこんな風にして、親子やきょうだいや夫婦の気持ちを引き裂いていくのだとも思えました。

◎助け、助けられ
小林さんに、小高の再興に向けて尽力してきたボランティアの方たちの話も聞きました。
そしてここでのボランティア活動が縁になって、結婚した二人の結婚式のDVDも見せていただきました。
二人ともそれぞれ別の地からボランティアに通い、ここで知り合い愛が芽生えてのことでした。
今も車での送迎などのボランティアを続けています。
高齢者で免許証を返納した人など,車がないとどこへも行けないのです。
そうした人の足になっているのです。

また藤島さんからは、こんな話を聞きました。
仮設住宅集会所に募金箱を置いて、被災地熊本への支援金を集め、送りました。
ある日熊本から手紙が届きました。
そこにはこう書かれていました。
「地震で家はぐしゃぐしゃに潰れ、父はすっかり気力を失い布団に臥せり、母も心配でオロオロするばかり、子供たちも不安でおちつかない毎日でした。
そんな時に見ず知らずの方から義援金が届いたのです。
このままでは介護施設に頼むしかないと思っていた父が、ぽつりと「このお金でオカリナを買ってもいいかなぁ」といいました。
オカリナが大好きだった父は、オカリナを吹いて元気を取り戻し、母も子供らも笑顔になりました。ありがとうございます」

友子さんが言いました。
「被災したことが良かったとは言えないけれど、被災したおかげで多くの人を知り多くの人に助けられた。それは私には大きな財産になった」と。

*その晩は双葉屋旅館さんに宿泊し、翌10日に帰宅しました。
前の日とはすっかり変わって抜けるような青空で、帰りの車窓からは緑濃い山中にウツギやノイバラの白い花が咲き、マタタビが半白の葉を風に揺らしていました。

いちえ


2016年6月11日号「南相馬6月9日①」

南相馬へ行ってきました。
以前お話しを聞かせていただいた牛越仮設住宅で一人住まいの小山田トヨさんと、寺内塚合第2仮設住宅の藤島昌治さんをお引き合わせするための南相馬行でした。

◎シェアハウス構想のその後
●藤島さんの思い
小高区は間もなく避難指示が解除されますが、仮設暮らしの皆さんは解除後に仮設住宅を出た後の生活について思い悩んでいました。
仮設住宅で自治会長をしていた藤島さんは、仮設退去後の暮らしの形態の一つとしてシェアハウスという構想を持っています。
この件では以前のトークの会で藤島さんにお話しいただいたり、それを機に皆さんに署名をお願いしたりしてきました。
署名は南相馬市に届け、また市議会でも議案に乗り、その結果賛成多数で議会を通り、前向きに検討されることになっています。
用地、予算などまだまだ具体的になってはいませんが、藤島さんは少しずつ実現化に向けての足場作りを進めています。

ボランティアとして何度も仮設住宅を訪ね藤島さんの構想に心を寄せてくれていた介護士さんが、南相馬に移り住みました。
シェアハウスが実現したらそこに一緒に住むことを考えてのことです。
彼女はいま、”目的外使用”としての許可を得て、仮設住宅に住んでいます。
藤島さんは前にも他所の施設を幾つか見学をしていますが、つい最近も宇都宮の介護施設を見てきたそうです。
参考になる点が、多々あったそうです。
藤島さんは大きな施設は市の予算で作るとしても、それ一ヶ所だけではなく2、3人か数人で暮らせる小規模のものも出来るといいのではないかと考えています。
本当にその通りだと思います。
自宅のある小高で、馴染んだ地域に暮らしたい人もいるでしょうし、買い物などに便利な原町に暮らしたい人もいるでしょう。
自活が困難な高齢者はシェアハウスといっても、食事なども供され介護者もいる介護施設が必要でしょうし、自活できる高齢者は医療機関や商店、スーパーが近くにある場所が良いでしょう。
市で作る大きな施設は、介護施設のようなものになるのではないかと思います。

●小山田トヨさん
以前に小山田さんは、仮設退去後は小高区の自宅を手直しして、気が合う人とシェアハウスのようにして暮らしたいと言っていました。
その後小山田さんをなかなかお訪ねできずにいましたが、藤島さんが構想するシェアハウスに小山田さんの思いを重ねられないかと思って、今回の約束になったのでした。
小山田さんに藤島さんのシェハウス構想のことを伝えると、「ああ、いいねぇ。ぜひ会っていろいろ話したいよ」と言っていましたが、こんなことも付け加えました。
「あのね、一緒にお昼を食べに松川浦に行きましょう。美味い魚がいっぱいあるからね。ホッキ飯、美味いヨォ!藤島さんは車で来るんでしょ?乗せてもらって一緒に行けばいいでしょ?」
全盲の小山田さんは、誰かに連れて行ってもらわなければ松川浦までは行けません。
小山田さんに私は、「いいですよ。藤島さんにお願いしておきますよ」と答えて、この日藤島さんと牛越仮設住宅に小山田さんを迎えに行ったのでした。

●医療過誤では?
雨が降っていましたが、小山田さんは集会所の前に出て待っていました。
片手で白杖を衝き、もう片手で私の腕を掴んで小山田さんは藤島さんの車に乗り込みました。
「あら、この車は座席が高いねぇ。私はチビだからヨッコラショッだわねぇ」とカラカラと笑う小山田さんでした。
声に張りがある小山田さんは83歳、いろいろをポジティブに考える元気な方です。
前にお話をお聞きした時にも、前向きに生きる小山田さんに私は、お尻を叩かれ「しっかりしなさいよ」と言われているような気がしたものでした。
でもこの日、その小山田さんが言うのです。
「前よりうんと見えなくなったの。前にあなたに会った時はまだ明るさと暗さは区別できたけど、今は真っ暗。病院で貰った膀胱の薬飲んだら、その副作用で悪くなっちゃった」
小山田さんは緑内障から50代で失明しましたが、小高の自宅では一人で暮らし、買い物などはヘルパーさんに頼っていましたが、炊事・洗濯・掃除など家事は自分でこなしていました。
小山田さんの、あの日3月11日からのことはまた改めてお伝えしようと思いますが、今は6月9日にお聞きしたことなどのみをお伝えします。

この冬、夜中に何度もトイレに起きて頻尿なのに尿の出が悪く痛みもあって、病院に行ったのです。
緑内障は眼圧を下げるために利尿作用のある薬が処方されますが、この時小山田さんが処方されたのはそれと逆の作用をする膀胱炎の薬が処方されたようです。医療ミスだと思えます。
白杖の人が行ったのですから、医師はまず緑内障からの中途失明かどうかを確かめるべきだったのではないでしょうか。

●松川浦へ
松川浦は相馬市にある潟湖(湾)で、潮干狩りが出来る干潟や漁港ですが、’11年3月11日の津波で、壊滅的な被害を受けました。
これまでも南相馬では何人もの方から、松川浦の話は聞いていました。
毎年潮干狩りに行ったということや、新鮮な魚介類を買いに行った話などです。
私は被災前の様子を知らないのですが、少しずつ復旧しているらしく、営業再開している店もあります。
今年の2月に私は、被災後に浪江町から相馬市に移住した渡部さんを訪ねた時に、松川浦でお昼ご飯をいただいたことがありました。
「ここが美味い店なんだよ」と連れて行かれたのは「たこ八」という店で、隣は海鮮や海産物の直売所でした。
藤島さんの運転で牛越仮設住宅から松浦に向かいましたが、時々雨脚は激しくなって車中での会話もつおいつい声が大きくなるのでした。
小山田さんは、目が見えていた時の記憶でしょうか「今、どの辺?ああ、じゃぁ少し行くと右に入る道があるからそこを右に行って」などと言いますが、道路事情も変わっています。
やはり何度も松川浦にきたことのある藤島さんは「そこはいま工事中で入れませんから、6号線で行きますね」などと丁寧に答え運転していきました。
松川浦の湾が見えてきて、「小山田さん、お店の名前を覚えていますか?」とお聞きしても、「サァなんて店だったか…」と、目が見えていた時の小山田さんは名前ではなく場所で覚えていたのでしょう。
藤島さんと私が「たこ八?」というと、「ううん、たこ八じゃなかった」と小山田さんが答える間に、たこ八の前を通りました。
店は繁盛していて、順番待ちのお客さんが店内の椅子に大勢並んでいました。
他の店を探しましたが湾に面した場所で他に営業しているところはなく、藤島さんが「斎春かな?」と言うと「あ、斎春だったかもしれない」と小山田さんは言い、一本裏通りの斎春に行きました。
旅館食堂で、一階は満席でした。
店の人が「エレベーターがありますから2階にどうぞ」と言い、2階に行きました。

●白杖の人の外出は
この時私は初めて、視力障害者が行動する時の大変さを身を持って感じたのでした。
右手で白杖を持ち左手を私の右腕にからめて、小山田さんは歩きます。
少しの傾斜、ほんの3センチほどの段差、敷居のレールなど、一つ一つそのすぐ手前で説明して注意を喚起して行きました。
側溝の上などに渡したすのこ状の鉄板なども、白杖の先が穴に入ってしまったら大変です。
そうした場所を避けるには「左に寄ってください」など言って、通り抜けるのでした。
普段私たちがなんでもなく過ごしていることが、ハンディキャップがある人にはどれほど不自由なことなのかを、身を持って知ったのでした。

これまで私は、今の家でもまた引っ越す前に住んでいた家でも、「もしも目が見えなくなっても家の中では一人で行動できるように」とトイレに行く時やお風呂に入る時、台所でまな板や包丁を出したりお湯を沸かしたりなどは目をつぶってすることがよくありました。
でもさすがに目をつぶって料理はできませんでしたし、”練習”は家の中だけで、また上記したまでのことだけでヤカンで湧いたお湯をポットに移すことさえもできませんでした。
この日私は、小山田さんのお陰で得難い体験をさせてもらったのでした。

●「カツオはうまいねぇ!」
ようやく2階の席に落ち着いて、「ホッキ飯を」と注文すると「ホッキ飯はやっていません」との答えが返り、小山田さんのがっかりした顔!
ここから「たこ八」まではそんなに離れてはいませんが、小山田さんの動き方からすると、座っている椅子から立って「たこ八」の座席に座るまでには30分は必要かもしれません。
「たこ八」はかなり混んでいるようでしたから、行ってもまた順番待ちでしょう。
小山田さんは「この店は他にも美味いものがあるでしょう?刺身なんかないの?」と言い、私はメニューを読み上げました。
そして、「てんぷら定食」を注文したのでした。
料理旅館のてんぷら定食は、てんぷらの他に2品の小鉢、汁、漬物、白飯が一人前ずつ大きな盆で運ばれました。
他に刺身の盛り合わせも一皿頼みました。
盛られた刺身の種類を言って小山田さんに食べたいものを聞くと、「カツオ、赤身」など答えが返り、それらをわさび醤油の小皿に入れて手渡すと、「うまい!、うまいねぇ。カツオうまいヨォ。店で買ってきたような刺身とは違うね。新鮮でうまいよ」
小山田さんの声が、私には嬉しかったです。
ハマグリの潮汁も一口飲んで「わぁ、おいしいねぇ。これハマグリだけで出汁とってるんでしょう」と。
小山田さんの椀のハマグリを殻から出して「殻を取りましたから、身を食べられますよ」と言うと、箸で身をつまみ「わぁ、でかいハマグリだねぇ。これだからうまい出汁が出るんだな」という小山田さんでした。
自分で炊事もするという小山田さんですが、目が見えなければてんぷらを揚げることは無理でしょう。
魚やエビ、野菜のてんぷらをどれも美味しいと言いながら食べる小山田さんに、この店に入っててんぷら定食にして良かった、と思いました。
ホッキ飯は、お弁当などでも食べられますが、出来合いのものではなく揚げたてのてんぷらを食べていただけて良かったと思いました。

●二人の話し合い
食事が済んで藤島さんはシェハウスの構想を小山田さんに話し、小山田さんもそれについて意見を出しました。
この日に何か相談事がまとまったわけでは決してありませんが、”シェアハウス”に思いを寄せるお二人を引き合わせることができて良かったと思いました。
二人とも小高の人なのですが行政区が違っていたので、この日が初対面でした。
小山田さんは藤島さんに「いいねぇ。是非それをやってちょうだい。それができなけりゃ、私は死ねないよ」と言いました。
今後の成り行きで必要が生じれば、藤島さんと小山田さんは直接連絡を取り合っていくことでしょう。

●牛越仮設住宅、小山田さんの部屋で
松川浦を出て途中で小山田さんの買い物を済ませ、牛越仮設住宅に戻りました。牛越仮設の駐車場には、臨床心理士で「東日本大震災・喜多方市復興支援隊」の相馬勉さんが車の中で待っていました。
相馬さんは南相馬の仮設も度々訪ねていて、被災者の相談に乗っています。
この日は藤島さんと連絡が取れていて、ここで待っていたのでした。
相馬さんは何度かこの仮設住宅も訪ねて小山田さんにも会っているのですが、小山田さんは覚えていなかったようです。
「相馬さんっていうの?だってあなた、私の部屋に来たことなかったでしょう?」
各地から訪ねてくるボランティアによって、集会所では様々な催しが開かれます。
でも目が見えない小山田さんには、自分の部屋を訪ねて、部屋に上がって話した人でなければ覚えているのが難しかったのかもしれません。
相馬さんは小山田さんから最近の体調や視力のことを聞き、また血圧計で血圧を測りパルスオジシメーターで血中酸素濃度を測り、またライトを当てて瞳孔の様子を診察してから、来週にでも一緒に病院に行ってくれることになりました。
相馬さんが来てくれて、良かったと思いました。
相馬さんは千葉県の市川に相談室がある臨床心理士ですが、喜多方市が郷里で震災後喜多方市や相馬・南相馬へ通って「心の相談室」を開いているのです。
不眠や神経症、精神的に不安定になっている人の相談に乗り、支えになっている人です。

*「南相馬6月9日」のシェアハウスの項は、ここで止めます。
シェアハス応援してくださっている皆さん、ありがとうございます。
なかなか実現までは道が遠く大変ですが、「消えた話」ではなく藤島さんの健闘は続いています。
進展がありましたら、またお伝えします。
「南相馬6月9日」の続きは、②でお送りします。         

いちえ

関連:

2016年6月9日号「南相馬・避難20mSv基準撤回訴訟」

後先になりますが、6月4日集会報告③の前に、6日の裁判と報告集会のことをお伝えします。

◎第4回口頭弁論
6日は「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」の、第4回口頭弁論がありました。
東京地方裁判所103号法廷で行われましたが、傍聴席に空席が目立ちました。
裁判長と原告代理人との間で準備書面について幾つかのやりとりがあり、その後、原告の佐藤信一さんが証言台に立ち、「特定避難観賞地点」の解除に関する手続きに違法性があったことを、具体的な例を挙げて証言しました。
佐藤さんは原発事故当時、南相馬市原町区大原に家族5人で暮らしていました。
平成26年4月から大原行政区の区長をしています。

●佐藤さんの訴え
平成26年12月21日、午後には特定避難観賞地点に関する区長説明会と住民説明会が予定されていたが、朝のNHKニュースで、特定避難観賞地点の解除が決まったことが報道された。
住民への説明会の前に解除が決定事項となっていた。
平成26年4月16日、国と南相馬市の間で行われた打ち合わせで、被災者生活支援チームの井上参事官は、「説明会であり、協議の場ではない」と発言。
同年11月19日の国と南相馬市の間の打ち合わせでは、現地対策本部の福島班長が「12月の住民説明会では解除反対の声が強く出るだろうが覚悟をもってやることだと考えている」の発言があった。
これらの発言からは、住民が強く反対していることを認識しながら、解除を押し通そうとする態度が見える。
前回の裁判の時にも室内の線量の高さについて訴え、室内の線量が屋外と変わらないことを示した。
室内の線量が高いことへの不安を訴える意見は無視され、平成26年3月13日の国と南相馬市の間で行われた打ち合わせでは、環境省福島環境再生事務所の松岡企画官から「室内に放射線は入っていない前提でやっているので、室内の除染はできない」と発言した。

これらの事実を具体的に上げて佐藤さんは、「裁判官には、原告の主張や証拠をよくご覧になっていただき、特定避難勧奨地点の解除にあたり、原子力委員会の意見に反して、私たち住民や南相馬市の意見がどれだけ無視され、解除が強行されたのかを分かっていただきたいと思います」と結びました。

●次回口頭弁論期日
佐藤さんの証言の後で、裁判官と原告代理人との間で提出の用意のある準備書面について打ち合わせがあり、裁判長から次回の口頭弁論は9月28日と告げられて閉廷しました。

◎報告集会
「開会挨拶」、「連帯挨拶」、「法廷における原告からの訴え」に続いて、「弁護団からの報告」がありました。
国と南相馬市の間で行われた打ち合わせの議事録や、放射線量測定記録など具体的な証拠を出しながら進めていることで、裁判官もしっかり意見を聞いていることが報告されましたが、この点は私自身も傍聴していて感じることです。
ただこの日の傍聴者は71人で、98席ある傍聴席が埋まらず、この点について裁判長から指摘があったそうです。
原告からの報告では、この裁判に対して地域の人の理解が少しずつ広まっていることが挙げられました。

地域の住民の声が大きくなること、また世論が強い関心を持っていることが裁判勝利につながります。
次回の口頭弁論には、傍聴希望者が溢れるようにしたいものです。

◎報告集会後のサプライズ
参議院議員会館での報告集会が終わって、私は地下鉄の駅に向かいました。
その時に官邸前の歩道で、嬉しい光景に出会ったのでした。
先日の集会で一人芝居を演じてくれた右田隆さんが、英語版「9条への生還」を演じていたのです。
私は側に立って、きれいな英語に聞き入り、演技に見入っていました。
すると歩道の向こうにいた警備の機動隊員が私のところに来て、何か言いました。
耳の悪い私には右田さんのよく通る声に消されて彼の言葉は聞き取れませんでしたが、「見ているのですか?」というようなことを聞かれたのではないかと思います。
それで「何度か見ていてファンなのです」と言いました。
すると彼は「ああ、ファンなのですか」と言って、また自分の持ち場に戻って行きました。

大勢の人が通り過ぎて行きました。
誰も足を止めず、誰もが無関心に、通り過ぎて行きました。
ごく何人かは、ギョッとしたように驚いて足早に通り過ぎ、顔をしかめて過ぎる人もありました。
しばらく経った頃に向こうから、さっきまで裁判所や報告会会場で一緒だった浪江町の今野さんがこちらに渡ってくるのが見えたので、手招きして一人芝居をしていることを説明すると、彼も一緒にそこで見物人になりました。
右田さんは私たちが見ていたことには全く気付かずに演じ終えて、両手を合わせて「ご静聴、ありがとうございました」と頭を垂れました。
私たちの拍手に顔を上げた右田さん、私を見て驚いていました。
道行く人は誰も無関心でしたが、今野さんは「あちこちに立ってる機動隊が聞いているから、見ているから、それでいいよ。あいつらに聞かせてやればいいんだよ。あいつらの胸に響けばいいんだよ」と言ったのでした。
少し3人でお喋りして、今野さんはその後そこで開かれる「安田純平さん救援集会」に参加するために残り、右田さんも私も、それぞれ家路につきました。
広島ドーム前での英語版「9条への生還」、是非成功させたいと思いました。

いちえ


2016年6月6日号「6月4日集会報告②」

●次の登壇者は、右田隆さん(路上一人芝居)でした。
私が右田さんの一人芝居を初めて見たのは、今年1月3日の国会前。
「アベ政治を許さない」のプラカードを掲げる一斉行動の日のことでした。
ベトナム戦争から帰還後に心的外傷ストレス障害で苦しんだ元海兵隊の黒人兵が、戦争中の自分の行為を小学校の生徒たちに話したことから自分の心を取り戻し、1995年に沖縄で起きた米兵による少女暴行事件をきっかけに来日し、日本国憲法を知り、9条の大切さを語り続けるようになるまでを一人芝居で演じていたのです。
迫真の表現力に圧倒され、大きな感銘を受けました。
その場で6月の集会へのご出演をお願いしたのでした。

==右田隆さんの一人芝居==
会場が暗転している中で客席後方から、深い声で歌声が響いてきました。
♪ 海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍 ♪

歌いながら舞台に上った右田さんは、大きく「Article 9」とマジックで書かれた白いシャツ、ジーンズでライトを浴びて立っていました。

「政府や国家は今、兵士たちが平和を守り軍隊が平和を築くのだと言う。しかし、私たち兵隊は軍隊で平和のことなど何も教わりませんでした。ひたすら毎日、人を殺す訓練ばかり…」

こうして、一人芝居が始まりました。
右田さんのこの一人芝居から受ける感動は、私がどんなに言葉を重ねても、重ねてもお伝えしきれません。
多くの人に右田さんの一人芝居を見て欲しいと思います。
私は1月3日の後にもまた先月3日の国会前で、右田さんが演じているのを拝見しました。
1月も5月も国会前の路上でしたが、この日は十分な照明設備ではなかったとはいえ、走り去る車や外部からの音や声が無い舞台の上で演じられた一人芝居。
なお、なお心に沁みました。
場内200名ほどの参加者の皆さんも水を打ったように静まり返り、息を呑んで見入り、聞き入っていました。

右田さんは、月曜日@官邸前、水曜日@アメリカ大使館前(英語版)、金曜日@国会前で17:00〜演じていることがあります。
またネットで「九条への生還」を調べると You Tube で昨年12月に夜の国会前で演じられた様子を見ることができます。

演じ終えた右田さんに、大きな拍手がわきました。
拍手が静まった時に右田さんが言いました。
「僕の夢は、広島の原爆ドームの前で英語版で演じたDVDを作りたいと思っています。そして映像で、世界の人たちに平和憲法九条の素晴らしさを知って欲しいと思っています。皆さんからカンパを頂けたらとお願い致します」
賛同の笑いと拍手がわきました。

●新谷のり子さん(歌手)
前述のように右田さんにご出演をお願いした後で、絶対にこの人にもご出演をお願いしたいと思ったのが、新谷のり子さんです。
新谷さんには2006年の第5回集会にもご出演いただいたのですが、今回も是非また、♪ フランシーヌの場合 ♪を歌っていただきたいと思ったのです。
そして願いが叶い、今回もご出演頂けたのでした。

==新谷のり子さんの歌==
「1969年3月30日、ベトナム戦争に反対をして、パリでフランシーヌ・ルコントという女性が焼身自殺をしました。
その当時思いました。
頂いた命だよ。生きて生きて生き抜いて、そして戦争を阻止していきたい。
年月が流れています」
前奏が流れる間、新谷さんはこう語り、語り終えて歌いました。
♪ フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん
 フランシーヌの場合は あまりにもさびしい
 3月30日の日曜日
 パリの朝に 燃えたいのちひとつ
 フランシーヌ

 ホントのことを云ったら オリコウになれない
 ホントのことを云ったら あまりにも悲しい
 3月30日の日曜日
 パリの朝に 燃えたいのちひとつ
 フランシーヌ

 ひとりぼっちの世界に 残された言葉が
 ひとりぼっちの世界に いつまでもささやく
 3月30日の日曜日
 パリの朝に 燃えたいのちひとつ
 フランシーヌ ♪

「最近、肝に命じている言葉。
人生で最も重大な過ちは、あきらめること。
もっとも惨めな敗北は気力をなくすこと」
ヒップホップ調のリズミカルな音に乗って、そう語りだしたのり子さんが次に歌ったのは、♪第九歌謡曲・第2楽章 ♪

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

これがヒップホップのリズムで歌われたのでした。
のり子さん、素敵でした!
会場からもリズムに乗って手拍子が湧き、戦争への道は歩かない!舞台の上も下も、思いは一つでした。

「聖アーグスティヌスの言葉。
希望には二人の娘がいる。ひとりの名は”怒り” ひとりの名は”勇気”」
そして歌った3曲目は、♪ イマジン ♪
    天国はここに ただ空はあるだけ
    国境はない ただ地球があるだけ
    みんながそう思えば 簡単なことさ
    社会主義も 資本主義も 貧しい人も 悲しい人も
    みんなが同じならば 簡単なことさ
    夢かもしれない でもその夢を見てるのは
    あなたひとりじゃない 仲間がいるのさ

    誰かを憎んでも 派閥を作っても
    頭の上には ただ空があるだけ
    みんながそう思うさ 簡単なこと
    夢かもしれない でもその夢を見てるのは
    あなたひとりじゃない 仲間がいるのさ

    夢かもしれない でもその夢を見てるのは
    あなたひとりじゃない 仲間がいるのさ 

歌い終わったのり子さんは、こう言いました。
「右田さんのお芝居というか、現実を見ている感じで、言葉が溢れて胸がいっぱいで、歌うのが辛いくらいでした。でもこうやって繋がっていける。平和を求めて九条を、本当に私たちの暮らしから手放さないように諦めちゃいけないと思う。そしてみなさんと一緒に吠え続けなければいけないと思いました。
いっぱい力をいただきました。ありがとうございました」

のり子さん、私たちこそありがとうございました。
会場にはのり子さんのファンが何人もおいででした。

●次の出演は Art and Politics
バンドで、トランペットの山本恭子さん、アコーディオン・クラリネットの石垣真里子さん、作編曲家・パフォーマー・ピアニストの赤井康男さんの3人ですが、この日は会場の都合で石垣さんはアコーディオンだけ、赤井さんは演奏はなく編曲での参加でした。
Art and Politics は、音楽やダンスやアートの表現活動を通して社会へ訴えかけるています。
今回は3曲演奏してくれました。
私は以前に石垣さんのクラリネットや赤井さんのピアノも入るコンサートを聞いたことがありますが、機会があればみなさんにも是非お聞きいただきたいと思っています。

==Art and Politics ==
♪ Trasteverina 映画「フェリーニのローマ」より
 Roma(1972 film) Federico Fellini&Nino Rota
♪ カタルーニャ民謡 鳥の歌
♪ 波間に(作曲:山本恭子・編曲:赤井康男)

最後の♪波間に♪は、恭子さんがこの日のために作曲してくださった曲でした。
軽やかで心が希望に向かって広がっていけるような、素敵な曲でした。
今も胸の中で曲が響いています。

下記の日程でコンサートの予定もあります。
6月22日(水)高円寺:ぽれやぁれ「歌声喫茶」
6月24日(金)新宿 :Los Lavaderos(ロス ラバデロス)
7月31日(日)高円寺:ぽれやぁれ「星祭のしらべ」

*6月4日集会第1部報告、続きます。            

いちえ


2016年6月2日号「お知らせ」

◎お知らせ①
明日3日は、【アベ政治を許さない】意思表示の日です。
午後1時きっかりに、全国で一斉にスローガンを掲げましょう。

A3のポスターは、コンビニのネットプリントで1枚120円でプリントできます。
*セブンイレブン ネットプリント予約番号:39366421
*他のコンビニネットワークプリント ユーザー番号:2ZRUWPT3FL

私は国会前で掲げます。

◎お知らせ②
「一枝通信 沖縄から」をお送りしましたが、同行の村石さんが写真満載のブログを発信しています。
私の通信はズラズラと文章ばかりでしたが、村石さんの写真でご覧いただけたら様子がなお鮮明に伝わるかと思います。
http://o-emu.net/blog/mura/
どうぞ、アクセスしてみてください。              

いちえ

アベ政治を許さない


2016年6月1日号「お知らせ」

続投で失礼します。
お知らせ2件です。

◎お知らせ①
〈信州発〉産直泥つきマガジン『たぁくらたぁ』39号、発売中です。

第39号(2016年夏)目次
●巻頭言:住む人が増えてゆく…高橋寛治
*特集:夏の参院選【アベ政権を許さない 自民党「憲法改正」草案の正体】
*原発事故から5年が過ぎた福島 復興は?
*メガソーラーに異議あり
*ノ パサラン No Pasaran やつらを通すな!
*ブルキナファソをご存知ですか?
*なぜ勉強するの?
*伊那谷発 風 この谷にリニアはいらない
*白馬の森発 原発避難者の明日
*他連載記事たくさん

小粒だけれどピリリと辛い雑誌です。
ぜひ、お手に取っていただき、読んでいただきたいです。
お申し込みはお近くの書店、またはオフィスエムへ。
TEL:026−219−2470
FAX:026−219−2472
e-mail:order@o-emu.net
http://o-emu.net/
定期購読(年4回発行)をお勧めします。
1期(4回分)講読料 2,800円(送料込み)です。

◎お知らせ②
【戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会】集会は、今週土曜日です。
第17回集会、会場は東京江戸博物館ホールです。(両国駅徒歩3分)

とどけメッセージomote

第1部 表現者はリレーする 14:00〜16:15(開場13:30)
落合恵子(作家)、安田菜津紀(フォトジャーナリスト)、右田隆(路上一人芝居)、
Art and Politics (バンド:山本恭子・石垣真里子・赤井康男)、新谷のり子(歌手)

第2部 映画とトークの夕べ 17:00〜(開場16:30)
映画「飯舘村の母ちゃんたち 土とともに」95分
トーク 古居みずえ監督×渡辺一枝

入場料:1部:1000円、2部:1000円、1部+2部:1500円(前売り)
    1部+2部当日券:2000円
お問い合わせ:090−9964−2616(和田)
主催:戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会
   歴史に学ぼう!Love&Peace実行委員会
後援:温個知新の会

とどけメッセージ_ura

「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」は、自衛隊イラク派兵に反対して2004年1月に立ち上げた会です。
アベ政権によって日本が戦争に加担する法案が通り施行されてしまった今、なお一層「戦争への道は歩かない!」声を大きくしていかねばと思います。
どうぞ、皆様のご参加をお待ちしています。
ご家族、お友達を誘っておいでください。

いちえ


2016年6月1日号「沖縄から④」

◎前便「沖縄から③」の訂正
北上田さんのスピーチに、一部訂正があります。
海上警備業務者への残業代未払い(内部告発があった。*防衛局から8ヶ月で20億円の業務費がALSOKに支払われたことになっているが、実際に支払われたのは3億円ほどだった。*は北上田さんではなく他の人から聞いた話)
と書きましたが*の部分は海上警備の話ではなく陸上警備でのことです。
北上田さんのスピーチでは、内部告発によって明らかになった海上警備業務者への残業代未払いがあったことは話されましたが、*は北上田さんの話ではありません。
ということは、陸上警備においても海上警備においても、業務費はピンハネされていたということなのだと思います。

◎辺野古基金
県庁前広場から辺野古バスでゲート前座り込みに参加した私たちは、ゲート前を4時に出る帰りの辺野古バスに乗り、県庁前広場に戻りました。
辺野古バスは毎日一往復していますが、料金は1000円。
50人乗りのバスですから人数が少なければ運営も大変です。
このバスやその他様々な活動のための「辺野古基金」に、どうぞご協力ください。

●郵便局窓口で直接振り込む場合は、局にある振込用紙を利用して
口座番号:01790−5−18966
加入者名:辺野古基金

●他行から以下の銀行へ振り込む場合
*ゆうちょ銀行
店番号:17000
口座番号:13659411
名 義:辺野古基金
預金種目:普通預金
*みずほ銀行那覇支店
店番号:693
口座番号:1855733
名 義:辺野古基金
預金種目;普通預金

スキャン

◎「みんな集まれ!辺野古がピンチ」

「ネット実況中継の視聴のお願い 〜みんなでネット中継を見て、国の暴力を監視しよう〜」と書かれたA5判のチラシを受け取りました。
チラシを添付します。
開けない方はご一報ください。
添付でなくお送りします。


◎ゲンロンカフェ
夜は那覇の桜坂劇場で「ゲンロンカフェ沖縄出張版2:政治の夜」が開かれました。
題して『琉球独立論は何を夢見るか』で、登壇者は東浩紀(哲学者/作家)、津田大介(ジャーナリスト/メディア•アクティビスト)、熊本博之(明星大学准教授/Nimby developments副代表)、親川志奈子(オキスタ107共同代表/琉球民族独立総合研究学会理事)の4人でした。
津田さんがなんとなく司会の役割となっていて、私には親川さんの論は胸にストンと収まりました。
これはネット中継もされていて視聴者からの反応がスクリーン上に逐次出てくるので、4人の討論や公判の参加者からの質問や意見を受けながらの討論をメモを取りながら集中することができず、内容をしっかり報告できません。
何か結論が出るようなゲンロンカフェではないのですが、会場も熱気があふれて刺激的でした。

◎『圧殺の海ー第2章 辺野古』上映
藤本幸久・影山あさ子監督のドキュメンタリー映画『圧殺の海』の続編『辺野古』の上映が、28日に桜坂劇場でありました。
一日1回の上映で、この日が初日。
上映後に島袋文子さんと影山あさ子監督のトークがありました。
前作『圧殺の海』は2014年7月1日の辺野古新基地建設の着工から、同年11月16日の沖縄県知事選挙で「辺野古に新基地はつくらせない」という翁長雄志氏が当選するまでを記録したドキュメンタリーでしたが、この日に初公開されたのはその続編で、翁長県知事誕生から2016年3月4日の「和解」までを撮り貯め『辺野古』と題された映像の記録です。
海上、ゲート前、県庁及び知事の動きの3点を活写しています。
沖縄で起きていたこと、沖縄県民の、そして翁長知事の戦いの様を伝える抵抗の記録です。
いずれ東京や各地でも上映されていくと思いますが、ぜひ多くの人に見て欲しいです。
たまたま私は前日にゲート前に居て、その前の日には大浦湾を眼前にして、その上での『辺野古』でしたから、一層胸に響きました。
上映後の文子おばぁのトークも、楔のように胸に食い込みました。
「一日に2分でも3分でもいい、家族で戦争の話をして欲しい」
終わってから買った『圧殺の海 第2章 辺野古』のプログラムには、島袋文子さん・山城博治さんのロングインタビューも載っています。
目取真俊さん、新崎盛暉さん、北上田毅さん他の皆さんが書いた記事も載っていて、これだけでも貴重な戦いの記録だと思いました。
監督の藤本さんと影山さんは、「圧殺の海ー第3章」として『沖縄の未来(みち)』(仮題)の政策を考え、辺野古にとどまって撮影を続けています。
記録し、それを残していくことの重要性を思います。
”和解”で、現在は工事は止まっていますが、予断は許しません。
裁判手続きもやり直すことになりましたが、新たな裁判に勝利して沖縄県の手足を縛り埋め立て工事に着工という国の計画も見え隠れしています。
ぜひ記録を続けて欲しいと思います。

◎最後の夜に
夕食の後で栄町市場へ行きました。
実は今回の沖縄行、栄町市場の特設会場で月末の土曜日に開かれているという「おばぁラッパーズ」のライブを見たいという目的もあったのです。(すみません、不純な動機です)
でも残念、ライブは6月からでした。
ところが残念を帳消しにしても余るような、嬉しい出来事があったのです。
南米料理の店 SUDAKA のドアを開けました。
今回の沖縄行のスケジュールアレンジをしてくれた、「沖縄を感じる会」主宰の野池道子さんが連れて行ってくれたのです。
店の主人の金城艶子さんは、知る人ぞ知るという方だったのでしょうが道子さんも同行の友人も私も、艶子さんの経歴を聞いて驚くことばかりでした。
艶子さんは、軍政だった70年代のアルゼンチンでラジオ局のアナウンサーをしていたのです。
その頃の話、またもっと遡って艶子さんのおじいさんの代からの一族の話や沖縄の移民の歴史など、驚きが満載の話を聞いたのでした。
聞かせてもらったのは真実の物語のほんの一部だけだったと思いますが、夜も更けて、そろそろお暇をと思ったときに、またあっと驚く艶子さんと私の個人的な共感話が飛び出したのでした。
この人の話を聞きに、また沖縄を訪ねようと思った夜でした。

*こうして5泊6日の琉球行は終えました。
毎日抜けるような晴天で、お天気にも恵まれ、素晴らしい出会いもありました。
沖縄の人々の日常に触れ、だからこそ、この現状に深い憤りを持つ心情を感じることのできた旅でした。
今度は高江にも行こうと思います。                

いちえ


2016年5月31日号「沖縄から③」

帰宅して自室からの通信なので件名の「沖縄から」は変なのですが、沖縄報告の続きとしてご容赦を。

◎キャンプ・シュワブゲート前
ゲート前の座り込み691日目の午後です。
午前中は写真家の嬉野京子さんが引率されてきたグループの方たち十数人がいましたが、彼らはこのあと高江・伊江島を回るということで昼食前に場を離れました。

午後の司会の上間ヨシ子さんが明確な論調で、前日のサミットでの安部総理のスピーチと各国首脳の反応などを解説しました。
上間さんのお歳は私と同年輩かもう少し上かとお見受けしましたが、経済状況の数字などもしっかり頭に入っているようで、とても説得力のある話ぶりで私もこのように在りたいと思ったのでした。
ジャーナリストの津田大介さんも参加していて、スピーチされました。

●北上田毅さんのスピーチ(抗議船船長・沖縄平和市民連絡会)
嘉手納基地の抗議行動も7週目に入り、今日は120名が参加している。
58号線に面したゲート前での抗議行動で米軍がそこを避けて他のゲートを使おうとすると抗議行動はそちらに移りという具合で、軍車両が出入りできない状況を作っている。(拍手)
ダグラス・スミスさんがスピーチしたが、プラカードによる抗議行動が続けられていることで、基地内の米兵もとても神経質になっていて、抗議行動は明らかに米軍に影響を与えていると話した。(拍手)
これまで毎週水曜日に行っていた抗議行動をこれからは毎週水・金の2回行うことを確認した。
一昨日、防衛局と交渉したが、いままではだいたい30分ほどで打ち切られていた交渉も、一昨日は5時間にわたった。
交渉の内容は今回の事件を受けて米兵への抗議、陸上警備業務業者の残業代未払い(内部告発があった。*防衛局から8ヶ月で20億円の業務費がALSOKに支払われたことになっているが、実際に支払われたのは3億円ほどだった。*は北上田さんではなく他の人から聞いた話)、海上での監視活動調査などで、防衛局もすぐには打ち切って逃げられずに長時間にわたる交渉になった。
局長はさすがに内部告発に関して否定できなかったが、調査中だから待って欲しいと逃げた。
防衛局は海上警備ボートに対して船長の顔写真と乗員リストを渡している。
警備員はつぶさに観察して、船長名・乗員を陸上本部に連絡し、これが防衛省本部に連絡される。
これは個人情報保護法、個人の人権に関わることで、開示請求ができることだ。
警備員は一年に一回個人情報に関する研修を受け終えていることとなっている。
これは防衛省は当初から個人を特定して報告することを、念頭に置いている。これらについてあらゆる法的手段を使って追求していきたい。
3月4日の和解以降、海上のフロートは撤去され海上保安艦は居ない。
自由に大浦湾を航行できるようになった。
これを再び喧騒の海にしてはならない。
5月11日から鉄筋クズを積んだトラックが40台出ている。
和解で工事は中止されているが、米軍兵舎関連宿舎解体工事により鉄筋クズの搬出で、これは明らかに米軍工事、埋め立て工事の一部だ。
搬出して廃棄物を仕分け、各所へ運ぶのだろう。
これは、和解条項違反だ。
中谷防衛大臣は「関連工事も全て止めている」と言っているが、鉄筋クズ搬出を見ても、その言はまやかしだ。
関連工事も絶対に許せない。
ゲート前での監視を強め続けよう。
鉄筋を解体した廃棄物(アスベストを含むコンクリートガラ)搬出は、これを道路や滑走路に敷き詰めることの一環としてされているだろう。
工事用車輌は第一ゲートからしか出てはいけないことになっているのに、ここからは毎日20トン車輌が出ている。
今回の事件についてオバマ氏は、「できることは全てやり再発防止につなげたい」と言ったが、アベ総理は地位協定改正は求めず、オバマ氏も改定の必要性を認めなかった。
軍属・家族も地位協定で守られている。
海兵隊は個人個人は普通の人間だが、空軍・陸軍と違って敵と対峙して戦うのが海兵隊だ。
そこでは殺戮を繰り返す訓練を受けているし、今回明らかになったように県民蔑視の研修がされている。

●ゲート前のミニコンサート
北上田さんのスピーチや司会の上間さんがマイクを握っている間に、譜面台やスタンドマイクが用意されて、スピーチが一段落してギターを持った男性がマイクの前に座りました。
伊集セイケンさんです。(漢字表記の名前をお聞きしたのですがメモできませんでした)
マイクを前にして伊集さんは、歌う前に語りました。
「神奈川県議の小島健一という自民党議員が『基地反対を言っているのはキチガイだ』と言ったそうです。
彼は日本会議のメンバーで、日本会議地方議員連盟幹事長、自民党の県連広報部長をしている。
そんな彼に、聞いて欲しい」
ギターを弾きながら間奏にハモニカを吹きながら歌ってくれた歌は、♪とにかくここで♪。
  とにかくここで
  ここで生まれたから ここで生きてきた
  ただそれだけの ことだけど
  沈む夕陽に染まる 町も人並みも
  なにげない日々の暮らしが 今日も過ぎてはゆくけれど
  どれだけの時が流れても 着飾った町になっても
  ままならぬ日々の暮らし 夕暮れの空の下

  いくさが終わった後に 生まれたぼくだけれど
  いくさの道具のような この島で生きている
  いやしの島だといいながら 多くの人が訪れるけど
  足早に通り過ぎていく 冬の風のように
  日本人でしょうか僕も 日本だと思いますか ここは
  何も知らずに 生きてきた僕がいる

  アカバナー咲く島に いつになれば 春の風は吹くのだろう
  平和を望めば 自由を求めれば
  叫ぶ声はむなしく響くだけ
  帰れ沖縄よ みずからへ
  日本人でしょうか僕も 日本だと思いますか ここは
  何も知らずに 生きてきた僕がいる

  ここで生まれたから ここで生きてきた
  ただ それだけの ことなのさ

伊集さんのこの歌が、心にぐさりとささりました。
伊集さんは他にも♪喜瀬武原♪など数曲歌い、愛知の歌姫(名古屋から来た支援者の女性)の歌もあり、また地元参加者の男性も飛び入りで歌い、ゲート前の小さなコンサートでした。

●せっかくだから歩きましょうか
「暑いけれど、せっかく遠くから来た人もいますから歩きましょうか」と伊集さんが言って、みんなで道路を渡りフェンスの側に行きました。
用意されたプラカードや鳴り物を手にして、縦隊を組んで歩きシュプレヒコールをしました。
「辺野古基地反対」「命を返せ」「静かな海を返せ」「アベ政治を許さない」
ゲートの前を行き来してのデモ行進でしたが、途中で兵士が運転するYナンバーの乗用車が出ようとしたときには、みんなでその前に立ち塞がってシュプレヒコール。
5分、10分ほどだったでしょうか?
運転していた兵士はうんざりした顔でした。
中の警備員たちがこちらの方へ動き出したときに、私たちもまた塞いでいた場から動いて、さっきのように縦列でシュプレヒコールの声を上げながらの行進に移りました。
30分ほどのデモ行進でした。

●沖縄の戦い
スピーチやミニコンサートの間にも数人の人が、あちらに一人、そちらにも一人という具合に座り込みのベンチの向こうでフェンスの前に立ち、無言で「辺野古基地 NO」などのプラカードを掲げて通る車にメッセージを訴えていました。
手を振って通り過ぎる車もありました。
炎天下で無言でプラカードを掲げる姿に私は、先ほどの基地内の警備員のマイク越しの声に大声で反応してしまった自分を、恥ずかしく思いました。
業務で威嚇しているだけの相手に即反応してしまうのではなく、時にはユーモアを交えた的確な言葉や歌、動じない無言の意思表示などの”沖縄の戦い”のあり方を、学びたいと思いました。

◎人々から聞いたこと
●座り込みの昼の休憩時に、話しかけてきた男性がいました。
「ここは捕虜収容時だったんですよ。小学2年生の時に私もここに入れられました。米軍から支給される食べ物は家畜の餌にするトウモロコシの粉でした。それを溶いて粥のようにして食べるけどとても足りないので、食べられるものを探しに外に出ますが、女性は絶対に外に出さずに隠していました。外に出たら何をされるかわからないからです。男も大変だったけれど、女性たちは本当に苦労しました。私は今日、初めて座り込みに参加したけれど、明日からもまた来ます」
●米軍族・元海兵隊による事件について
誰しもが大きな憤りを持って話していましたが、こんなことも聞きました。
被害者は辺野古移設容認派の前市長島袋氏の親戚筋の女性で、この事件によって容認派の人たちに反対の動きが生じているようだ。
”容認派”というと、推進していると思うかもしれないが、それは違う。
政府との軋轢が続くことに疲れたりで、仕方なく容認の姿勢になっている場合がほとんどで、積極的に推進する”推進派”なのではない。
●ゲート内で米軍と自衛隊での日米合同訓練が行われている。
●米軍基地反対運動に反対する日本人もいて、地元大手のタクシー会社の社長はその一人だが、米軍兵士がよくタクシーを利用してくれていて顧客の彼らと仲が良くなり、彼らに嫌な思いをさせる反対運動に拒否の思いを持っている。
●基地がある故に米軍と親しむ機会を作り、互いの理解を深めることでいざこざや事件が起きないようにと考えてきた面もあるが、それが裏目に出て米兵が住民を蔑視し今回のような事件が繰り返されている。
●オスプレイ
オスプレイの着陸時には非常に高温の熱風が出て、芝生が燃えて消火活動をしなければならないことがある。(これは写真も見せられました)
●県議選が始まって
以前から立候補を表明していた翁長知事支持者ではなく、最近になって立候補表明している人は翁長支持といっても信用できない。あちら側から送り込まれた候補者の可能性がある。

◎幸福の科学
今回の沖縄行で、「幸福の科学」の建物やポスターなどがとても多く目につきました。
実際にどの程度の影響力があるのかは判りませんが、私が東京や時々行く福島で
見るよりもずっとその数は多く、不気味に思いました。

*沖縄報告、まだ続きます。                 

いちえ


2016年5月29日号「沖縄から②」

◎前便の訂正
前便に私の間違いがありました。
辺野古の港が見える展望台(灯台跡)にハワイの上院議員を案内したのは、浅井大希さんの友達だったそうです。
「一枝通信 沖縄から」では大希さんが案内したように書きましたが、間違いです。
済みません。

◎辺野古バス
27日、県庁前広場から「辺野古バス」に乗りました。
平日だったせいか同乗者は16人と少なく、50人乗りの大型バスは空席が多くてもったいなく思いました。
県外からの人は私を含めて6人で、後は地元の人たちでした。
もっと大勢が乗ればいいのにと思いましたが、こんな事件の後ですから土日にはもっと大勢が乗っているようです。
これは一昨年8月に「島ぐるみ会議」が企画し、往復1000円で毎日運行しています。
県庁前広場を10時に出発して昼前にキャンプ・シュワブ前に着き、5時頃にまた県庁前に戻るものです。

車内では今日のリーダー役の島袋さんから辺野古や基地問題などの説明があり、マイクを通して互いの自己紹介もありました。
初めての参加者は長野からの『たぁくらたぁ』仲間3人と私の合計4人で、他は県外からの人も地元の人も、何度も来ている人たちでした。
自己紹介や説明が一区切りすると島袋さんが「みんなで歌いましょうか?」と言って歌詞が印刷された紙を配り、何曲かを一緒に歌いましたが中の一曲が童謡『増産』の替え歌!
♪晋三さん 晋三さん 安保がすきなのね
そうよ じいさんも好きなのよ♪(2、3番もありますが略)
拳を振り上げるだけではないしなやかでしたたかな沖縄の闘いを、ここでも感じました。
途中で一度トイレ休憩をとり、11時過ぎにキャンプ・シュワブのゲート前に着きました。

◎キャンプ・シュワブゲート前
道路を隔ててフェンスの前にはブルーシートで屋根掛けをして、ブロックを脚に板を置いたベンチが並んでいました。
数十人が座っていましたが、中央で椅子に座っていたのは島袋文子さんでした。
文子おばぁの元気そうなお顔に接して、とても嬉しいことでした。
座り込みは、思ったよりも人が少なかったのですが代わる代わるのスピーチでその訳が判りました。
嘉手納基地のゲート前抗議行動に行った人が多いためでした。
辺野古湾での工事は3月4日の「和解」後中止されていますが、これは前日に大希さんに案内して頂いた展望台から見た大浦湾の様子からも判りました。
でもフロートは外されていても、あの大きなコンクリートブロックは海中に埋められたままです。
裁判の結果如何によってはいつ工事再開されるかもしれませんから、決して決して余談は許しません。
基地内から建物を解体して瓦礫の搬出が行なわれていることに対ても、抗議をしています。
鉄骨の入ったコンクリート片はアスベストを含んでいるかもしれず、これらが基地外に持ち出されれば道路工事などに再利用される恐れが大きいからです。
ゲート前抗議行動を続けてきた人たちからのスピーチが続いた後で、司会の女性から「県外からの初めての参加者の方達も、どうぞ挨拶を」と促され、私たち4人は前に出て座り込みの仲間の方を向いて立ちました。
マイクを持った私が、「東京から来ました」と自己紹介を始めたときのことでした。
突然フェンスの中からスピーカー越しに、「幕を張るのは違反です。撤去しなさい!」と大音響で響きました。
座り込みの仲間が「辺野古移設反対」の横断幕を、フェンスに結びつけていたのです。
思わず私は仲間に背を向けてフェンスに向かって、「撤去しなければ行けないのは基地です。あなたたちは基地を撤去しなさい!」と、がなっていました。
道路を隔てフェンスの向こうにいるのは紺の制服を着た、日本人。
あれは警備会社の社員なのでしょうか?
何度か「撤去しなさい」は繰り返されましたが、それも止み、結びつけた横断幕はそのままで、私も続いて同行の仲間たちも自己紹介や思いを伝えるスピーチをして、お昼の休憩になりました。
午前の司会者に代わって上田さんという女性が司会をして、午後もスピーチが続きました。
何十人かが新たに到着して座り込みのベンチに座りましたが、この人たちは大阪からの人たちで、港湾労組や生協など組織で来ている人たちでした。

*そろそろホテルをチェックアウトして空港に向かわねばなりません。
ゲート前の座り込みの様子や、翌日に初公開されたドキュメンタリー映画『辺野古』(『圧殺の海』の続編)のことなど、帰宅してからご報告します。        

いちえ






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