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2017年6月7日号「5月27日トークの会報告①」

大変遅くなりましたが、5月27日に催したトークの会「福島の声を聞こう!vol.23」の報告です。
ゲストスピーカーは、飯舘村の長谷川健一さんです。
長文なので2回に分けてお送りしますが、飯舘村の現状をぜひ知っていただきたく、どうぞ最後までお読みくださいますようお願いいたします。

23回目になるトークの会、ゲストスピーカーは長谷川健一さんでした。
長谷川さんは原発事故が起きてからの村の様子を、写真や動画、言葉や数字で記録を続けています。
この会で長谷川さんに話していただくのは2度目ですが、今回もまた写真や表などをパワーポイントを使ってスクリーンに写し出しながら話してくださいました。

●2011年3月
まずはじめにスクリーンに映し出されたのは、農地が一面のフレコンバックの山になってしまった飯舘村の現在の様子。
それから福島の地図、飯舘村の行政区割りも載った地図が映された。
 帰還困難区域の長泥地区が原発から30km、私の自宅のある前田地区が45kmの場所だが、そこでプルトニウム、ストロンチウムが検出された。
飯舘村は美しい村だが、まさか原発から40kmも離れたところでそんなものが検出されるなんてと思った。
ところが長泥を除いて、この3月31日に避難指示解除になった。
 村長は素晴らしいアイディアマンで、私と同じ酪農家で友達だった。
24年前に彼が村長選に出るときに共に闘い、共に村を作ってきたという自覚を私は持っている。
 しかし、原発事故をきっかけに気持ちが疎遠になってしまった。
彼は村を守ろうとし、私は村ではなく命が大事だと言った。
そのように、意見の対立が起きてしまった。
飯舘村に放射能がまともに流れたスピーディでの記録写真が映された。
 この情報が国によって隠され、県も隠蔽した。
行政は嘘をつく、隠す、隠し通す。
隠しきれなくなってチョイ出しをしてくることによって、我々の被曝につながる。
 3月15日、「不安のある方は避難してください」とバスが用意され350人が栃木県鹿沼市へ避難した。
みんな不安ではなかった。
放射能は見えないし匂いもしない、安全・安心と言われていた。
その後長崎大の山下俊一などが安全講話をした結果、鹿沼市へ避難した一部の人達も、また自主避難した人たちも、戻ってきてしまった。
 逆に京大の今中さんのように、危ないという人も出てきた。
今中さんは「恐ろしいことだ。こんなに線量が高いところに、人が住んでいることは信じられない」と、データを持って村長に会い「直ちに全村避難すべき」と言ったのだが、村長は拒否し、「そんなことはできない。この線量を浴びながら生活することはできないか?」と問うた。
今中さんは「それは無理だ。どうしても離れられないなら、厚いコンクリート壁の建物内で暮らすべきだ」と答えた。
 村を守ろうとする村長に私は「せめて子どもだけでも避難させろ」と言い、区長会でもそう言ったのだが、「子どもだけでも避難させろというのは解るが、子どもだけではやれない。子どもが行けば親もいくだろう。すると村は空になる」と言われた。
 葛尾村の松本村長は国が避難指示を出すより以前に、全村避難させた。
3月12日に東電の免震重要棟から東電社員が避難する情報を知り、すぐに対策本部を開き、夜中に村民全員を避難させたので、葛尾村の人は誰も被曝していない。
後に(2013年)、松本村長は国際的な環境団体から「グリーンスター賞」を受賞した。
大事故のときに村民を安全に避難させ、被曝をさせなかったことが評価された。

●2011年4月
 4月12日、計画的避難に国はようやく重い腰を上げた。
この時に村は、誘致した企業と特養を残すことを要請し、企業と特養は残った。
お年寄りが避難によって症状が悪化することもあるから、特養を残すのは解るが、企業を残したことで、若い従業員は避難先から飯舘村に通うことになった。
 この頃全国の自治体から、飯舘村民を受け入れる態勢があるからいらっしゃいと言われたが、村はそれら全てを断った。
住民は村から車で1時間以内の場所に避難させるというのが、その理由だ。
避難指示解除になったら直ちに戻って、村を再興させるためということだ。
長谷川さんが牛乳を穴に捨てている写真や、牛を屠畜場に送るために車に乗せる写真、畜舎で餓死した牛たちの姿が写っている写真が映される。
畜舎の壁にチョークで「原発さえなければ」と書き残された遺書の写真も。
 毎日乳を搾って捨てていた。人間は避難したが動物は移動制限され、屠畜処分しろと指示され、屠畜は賭場に運んでするようにと言われた。
これは交渉して、移動制限は解除された。
 この頃はいろいろなことが起こった。
相馬の酪農家は「原発さえなければ」と書いて、自殺した。
私の友人だった。
 隣の地区の102歳のおじいちゃんが、避難するのにワシがいては足手まといだろうと言って自殺した。102歳だよ。
南相馬では「私はお墓に避難します」と言って自殺したおばあちゃんがいた。
飯舘村のダムの橋の上から、飛び込んだ人もいる。
 牛が餓死した写真に写っているこれは、豚の足跡だ。
死んだ牛を、逃げた豚が食べてたんだ。
酪農家は一週間くらいで戻れると思って餌をたっぷり置いて出たんだが、その後入ることができなくなって、餌をやれずに牛は餓死していった。

●除染とモニタリングポスト
環境省が設置したモニタリングポストと、そのすぐ脇で長谷川さんが手にした線量計の写真。官製の方が低い数値を示している。
家の屋根瓦を作業員がペーパータオルでふき取り作業をしている様子、ビニールハウスを同様にペーパータオルでふき取る作業をしている写真が映された。
 モニタリングポストはたくさん設置されている。村内に約70基。全てが低く表示される。
私は2011年12月から毎月1回、前田地区の一戸一戸の玄関先で測定を続けているが、公表される数値のほぼ倍の値が出ている。
 原発事故は絶対に起きないということが前提にされてきていたから、除染の研究などしてこなかった。ところが事故が起きて、現実の除染はペーパータオルで屋根瓦を拭くとか、ビニールハウスをペーパータオルで拭いている。
そんなことで除染ができるのか?
 道路の法面は草を刈って、箒で掃くのが除染だという。
除染といっても「面的除染」で「線量除染」ではないから、面積をこなせばいいだけで、線量が下がらなくても構わない。
だから作業員が「除染したって下がらないよ」と言っている。
 宅地除染や農地除染は、表土を5cm剥いだ上に山から採ってきた土を盛り土して除染だと言うが、それは除染ではなくて遮蔽だろう。
そうして“除染”したものをフレコンバックに詰めて、飯舘村の中にはフレコンバックは235万個と言われている。
福島県内には2200万個と。
これが中間貯蔵施設に運ばれようとしているが、運ぶ順序があるだろう。
まずはじめには福島市や郡山市の宅地や学校が先になるだろうから、飯舘村など最後の最後だろう。
前田地区の除染の範囲を示した地図の写真。
これが前田地区の除染の範囲だが、道と宅地はするが山はやらない。
飯舘は75パーセントが山なのだ。
今中先生は放射能は山から水が流れるように、谷筋を通って下に流れていくと言っていた。
除染した場所、地上1cmで値が下がっても、1mでは上がる。空中に蔓延しているということだ。

●県民健康管理調査 外部線量推計結果
数字を書いた表で出されたのだが、それでは分かりにくかったのでグラフで表したという。そしてそのグラフの写真が映された。
 2011年3月11日から7月11日までの3ヶ月間どこで何をしていたかを記入し、その調査から体内被曝線量を推計してグラフに表したものだ。
飯舘村は突出して被曝量が多いが、周辺町村では被曝していないところもある。
早期に避難したところは被曝していない。
5ミリ以上被曝した人は福島県内で960人となっているが、その8割が飯舘村民だ。
これからどうなっていくのか、非常に心配だ。
 NHKのドキュメンタリーで、とてもいい番組があった。
「逃げるか留まるか。選択を迫られた村」という番組だったが、そこに長泥で子供を抱いた女性が「避難したいができない」と涙ながらに訴えている場面があった。
「全村避難になったら堂々と出ていけるが、そうでないのに私だけ避難すると職場の仲間に迷惑がかかるから出ていけない」と訴えていた。
 このDVDを借り出そうと思ってNHKに連絡したら、菅野村長からクレームがついたので貸し出しも再放送もできないと言われた。
逆にこのドキュメンタリーを見ると見た人たちはきっと、「あの村長、何やってるんだ!」と思うだろう。

●ADR申し立て
 周りを見ると飯舘村の村民はおとなしい。
浪江町では、町をあげてADRで訴えた。川俣町の山木屋も。
ADRのことを調べて区長の仲間に話をした。
狭い仮設住宅に押し込められ、家族はバラバラ、ふるさとは汚された、黙っていていいのか?と話し、ADRをやろうということになった。
村長は村としてはやらない、村民がやるなら村は関知しないと言った。
それですぐに行動に移した。
各区長に、区民に説明してもらい村民の半数強の3070人が声を上げ申し立てをした。
弁護団は、95人の弁護士が飯舘村に特化した弁護団を組織した。
「謝れ!償(まや)え!かえせふるさと 飯舘村」として声を上げた。
区長や弁護士たちを先頭に「謝れ!償え!かえせふるさと 飯舘村 原発被害糾弾 飯舘村民救済申し立て団」の横断幕を掲げてデモ行進の写真が映された。
 だが今になっても、何一つ結果が出ない。
メディアではADRは8割が解決したというが、これは件数でのことで、我々は3000人の申し立ても1件になる。
情報は全て東電が持っているので、東電にそれを出すように言っても個人情報だから出せないと言い、証拠が出せないでいる。
 区長会で村長にADRのことを話した時に村長は「関知しない」と言いながら、東電に緊急要望書で村民からのADRを認めないようにと要望を出していた。
認められると賠償に差が生じるから困るというのが理由だった。

●避難指示解除
 今年3月31日、長泥を除いて避難指示が解除された。
避難指示解除は、通常は国から自治体に何月何日に解除するように伝え、それに対して自治体は時期尚早とか条件をつけるとかいろいろ言って、協議の結果決まっていくのだが、飯舘村は村の方が国に2017年3月31日に解除指示をさせてくれ、これは村民の総意だと要望した。
 それについては無理もないとは思う。
6年も避難生活を続けてきたが、4年でもう我慢の限界を超えている。
それぞれの判断で「避難を続ける」「戻る」の選択はあるはずだ。
戻りたい人に対しては医療体制、インフラ、買い物など、戻って生活できる状況を作るのを先にしなければいけない。
だがこれらがなされないまま、解除が先になった。
だから戻らない人が多い、若い人は戻らない。
私は、いずれは戻ろうと思う。                   


2017年6月5日号「6月2日報告②」

◎安保法制違憲訴訟 国家賠償請求
 6月2日の口頭弁論報告の続きです。
原告3人の意見陳述です。
改めて思うのは、代理人弁護士の方たちの意見陳述は、原告の思いを汲み取って裁判所用語(と言っていいのでしょうか?)で伝えてくださっていることを感じました。
そしてきっと、被告代理人の官僚や弁護士たち(各省庁の官僚、弁護士だそうです)には、そうした硬い言葉(?、お役所用語?)の方が通じるのかもしれないとも思いました。

●原告本人:K・Mさん(教会牧師、男性)
 日本基督教団教会の牧師です。
会員の中には旧満州からの引き揚げ者も多く、いざ戦争となったら「在外邦人救出」どころか、軍隊が真っ先に逃亡し、放置された民間人の筆舌に尽くしがたい苦難の経験を高齢者から何度も伺ってきました。
 戦争中の教育が日本の軍国主義を支えたことも経験からの話として聞いてきました。
第1次安倍内閣で「教育基本法」が改悪され、内心の自由に関わる「日の丸・君が代強制」問題が起きた頃、子どもの親として、国が教育に不当に介入する恐れに心を痛め、折あるごとに杉並区教育委員会に申し入れを行ってきました。
「つくる会歴史教科書」採用、杉並区独自の教員採用と教員養成機関である「師範館」設立、「教育特区」の名を借りて無理やり採用された「全国初の民間人中学校校長」や「夜スペ」という私塾など、子どもたちが吸収する教育に大きな危惧を持ち、区内の教員、保護者たちと「教育懇談会」を立ち上げ、公教育を見守り、現場情報を発信する団体としての活動を、現在も行っています。
 また、1990年頃には、私は教会からアメリカミズーリ州のセントルイスのキリスト教神学校へ留学させてもらいました。
当時は丁度「湾岸戦争」が始まった時で、私が通っていた黒人教会では、軍の奨学金で大学に学んだ青年たちが次々と戦地へ送られ、「自爆テロで友人が目の前で亡くなった」、
「反射的に人を殺す道具に成り果ててしまった自分に嫌気がさす」など戦場からの生々しい手紙が礼拝の中で読み上げられるのを耳にしました
 戦争は露骨に容赦なく貧しい黒人青年たちを戦場へ送り込み、現地で「侵略者」の片棒を担がされ、死と隣り合わせの日々を強いられ、挙げ句の果てに帰還しても「後遺症」のトラウマに悩まされ麻薬に溺れていくのです。
家族に残されるのは祈ることしかないという理不尽さにやりきれない思いを感じていました。
 今回の「安保諸法」は、私がこれまで牧師として、あるいはひとりの人間として、戦争体験者の苦悩を受け止めようと努めてきた私自身が奈落に突き落とされるような衝撃を受けました。
 私は、長年讃美歌研究を続け、牧師を育成する神学校の教育現場にも立ってきましたが、讃美歌は単に美しいメロディーで歌うというだけでなく、歌詞の中に思想や思いを浸透させ、注入するような機能も持っているのです。
子どもたちの教育は讃美歌と同じです。
殺し殺される国の教育は子どもたちに害悪を浸透させます。
 またセントルイスの黒人教会で見たように社会的貧困層の青年たちから戦争への犠牲が強いられ、苦しみを負わされるような社会の仕組みが、必ず、私たちの国でも展開されていきます。
 加えて牧師である私は、第二次世界大戦時のキリスト教会の反省を片時も忘れることはありません。
教会やキリスト教信者たちが戦時体制下、単に時の政府の抑圧に抗しきれなかったというだけに留まらず、煮え湯を飲まされるような思いで、礼拝堂に日の丸を飾り、皇居に向かって遥拝し、戦闘機奉納に募金を集めアジアの特に朝鮮半島や中国大陸、台湾のキリスト者たちに神道は宗教ではなく「風俗儀礼」に過ぎないのだと言って「強制参拝を強いる」…といった、あってはならない行動の数々をもって、積極的に戦争のお先棒担ぎさえもしていったのです。
こうした先人たちの懺悔・反省を戦後に生きる私たちは自分のこととして十字架を背負ってきました。
しかし再びこのような世界に引きずりこまれ、同じ轍は踏むまいと誓って歩んでいる私たち戦後のキリスト者たちにとっては、これら「安保諸法」のすぐ先にある壮絶な未来を思う時に総毛立つような恐怖を感じています。

●原告本人:N・Yさん(フリージャーナリスト、女性)
 私は1949年生まれです。
 周囲には生々しい戦争の記憶を持つ人たちが大勢おり、その体験談を聞く機会が結構ありました。
小説を含めて戦争に関わる本なども読み、「戦争は人間を不幸にするだけだ」という、ごく当たり前の考えを自然に身につけて育ったと思います。
体験談と言えば亡くなった母の友人に、高等女子師範学校在学中、学徒勤労動員によって軍需工場で働いていた人がいました。
彼女は戦後になって自分たちがいわゆる「人間魚雷」の部品を造っていたと知り、知らぬうちに戦争に深く加担させられていたことに後ろめたく、かつ恨めしい思いを抱き続けたそうです。
戦争は人の命を奪うだけでなく、生き残った人の心にも深い傷を残すのだと戦慄を覚える話でした。
 また、私はいわゆる「戦後民主主義教育」を受けた世代にあたり、上の世代からしばしば「本当にいい時代に育って」という言葉を聞かされました。
すべての国民は「基本的人権を持ち」「個人として尊重され」「法の下に平等である」と定められた憲法に守られているのだと。……
とりわけ女性に男性と同様の権利が認められたことについて、何人もの大人の女性達から羨ましがられたものです。
とは言え、その「男女平等」がある意味で建前にすぎないことも、子ども心に何となく感じていました。
学校から一歩出れば「女の子のくせに」といった類の言葉があふれていましたから。
そして就職する頃から、ますますそれを痛感するようになりました。
当時は四大卒の女性の求人はきわめて少なく、限られた求人の中にも「片親の子は不可」など驚くべき差別がまかり通っていたのです。
何とか就職できても「ウチの女の子」と言われ、賃金差別や結婚退職制が存在する企業も少なくありませんでした。
 それでも、年月と共に「建前」が少しずつ「建前でなくなってきた」のも事実です。
他の様々な差別についても、同じことが言えます。
女性であり、さらに「母子家庭」ということで身近に差別を感じていたせいか、私は子ども時代から様々な「差別」に敏感だったのですが、それらを「恥」と見なす意識が徐々に浸透してくるのを感じてきました。
男女同権を含めた基本的人権は「与えられたもの」であったかもしれませんが、その「内実」は私達が一つ一つ、勝ち取ってきたのです。
私はそれを国民として本当に嬉しく、誇りに思います。
 ところが近年、その誇りをぐらつかせるような空気が漂い始めたような気がします。
長年「言葉」を仕事の道具にしてきた人間の感覚で言いますと、10年ほど前から徐々に、そしてここ数年は加速度的に、言葉が「粗雑」で「野卑」になってきているように思えてなりません。
「女の子に三角関数を教えて何になる」とか、沖縄における「土人」発言等々……。
少し前でしたら、いわゆる差別的な発言は、たとえ酒の席のようなところであっても「下品だ」という共通認識があったように思います。
それが平然と「常識あるはずの大人」の口から出る。
 言葉が粗雑で野卑になってきたのは、もしかするとマッチョイズムがーー私達が懸命に否定し、封じ込めようとしてきたマッチョイズムが首をもたげてきたからではないかと私は思っています。
丁寧に言葉を紡ぎ、互いの思いや感覚を(完全には理解できないにせよ)少なくとも理解しようと努力すること。
それを「えーい、面倒だ」と放り出し、「力がすべてだ!」と肩を怒らせて威嚇し合うのが、マッチョリズムの本質だと私は思います。
だから、言葉に対する感覚も鈍くなる。
言葉を剥き出しにし、それを「本音の発言」などと言って恬として恥じない。
言葉の力を大切に思う者にとって、言葉が破壊されるさまを見るほど辛いことはありません。
 マッチョリズムといえば、「平和を守るために軍事力が必要」という考え方はその最たるものです。
存立危機事態等々の言い回しですぐに拳を振り上げる安易な道を選び、集団的自衛権の名のもとにそれこそ世界の裏側まで自衛隊を派遣する。
これは「戦争はNO、差別もNO」と念じ続けてきた私に対する、国家の重大な裏切りという他ありません。
力で物事を解決しようとする社会においては、当然、弱い人間は排除されます。
弱い立場であると自覚し、微力ではあっても同じ立場の人々に寄り添いたいと願い続けた私の人権を侵害する安保法制を、私は何としても認めるわけにはいかないのです。

●原告本人:渡辺一枝
 私は1945年1月9日、旧満州国ハルピンで生まれました。
同年7月20日父は根こそぎ動員で臨時召集されました。
生後6ヶ月の私を置いて出征する日、父は「この戦争は、じきに日本が負けて終わる。必ず帰るからイチエを頼む」と母に言って出たそうです。
一枝と書いてイチエと読ませる名は、父が私に残してくれたただ一つの形見です。
 翌年9月に私たち母娘は引き揚げ、母の実家に身をよせました。
ある日叔母の連れ合いが復員する知らせが入り、1歳下の従弟と私は「お父ちゃんが帰る」と喜び跳ね回りました。
叔父が戻り私たちが駆け寄ろうとすると、祖母は泣きながら私を抱きとめて「あんたのお父ちゃんじゃないんだよ」と言いました。父なし子を自覚した3歳の私です。

 中学生の時に、父と同じ部隊にいた人からの伝聞を母が訪問客に話すのを一緒に聞きました。
部隊は8月18日に武装解除となり部隊長が「捕虜としてソ連に送られるだろうから、家が近いものは家族に会いに行ってこい」と言い、父たち3人は部隊を離れました。
線路伝いに歩きましたが線路を見失い、地元の人に教えられた道を迷って湿地帯に入ってしまいました。
父は足を痛めた仲間を背負っていたそうですが、その人が振り返った時には二人の姿はなかったそうです。
「そいつを置いてこい」と言うと「家族が待っているだろう。連れて行く」と答えたのが、その人が聞いた父の最期の言葉です。
その話を聞いて私は、父の墓石の下には紙切れしか入っていないことを知ったのです。

 小さかった時の私はハルピンの街を憧れをもって想像していました。
東洋のパリと言われ、街並みの美しいところだったと聞いていました。
同時に、満州は日本が中国を侵略して作った国だとも教えられ、侵略をするような日本に疑問を感じてもいました。
 小学校に入ると学校でも戦争のことを学ぶようになりハルピンを懐かしく語る母親たち大人を、次第におぞましく思うようになりました。
父の最期を知るまでの私は、働きながら私を育ててくれる母を誇らしく思い、尊敬していました。祖母に「あんたのお父ちゃんじゃないんだよ」と抱きとめられた時からずっと、父を恋しく思っていました。
 父の最期を知った日から、私は母に心を閉ざしました。
父を恋しく思いながらも父を恨めしく思うようになりました。
帝国主義に反対だった父、軍国主義に反対だった母は、なぜ自ら侵略地に行ったのか?
なぜ私はハルピンで生まれたのか?
生後6ヶ月の赤ん坊を残して、父はなぜ召集に応じたのか?
「戦争はもうじき終わる」と言いながら出征した父を、母はなぜ止めなかったのか?
止めれば良かったのにと、詮無いことと思いながらも、私は心の中で母を責めました。

 母が死んだ翌年、私はハルピンを訪ねました。
父から聞けなかった言葉や母が語らなかった思いを、そこに立てば感じられるだろうかと思ったのです。
初めてのハルピン行で出会ったおばあさんに、「私たちの国は中国の人たちに本当に済まないことをしました。お詫びします」と言うと、おばあさんは「それはあなたたちのせいではないですよ。日本の軍部がやったことです。あなたたちも犠牲者です。ここに住んでいたなら、懐かしくなったら何度でも訪ねていらっしゃい」と言ってくれたのです。
 その後も旧満州の各地を訪ね、残留邦人に会い、残留孤児を育てた養父母に会い、多くの人たちから話を聞いてきました。
ある時は朝鮮人のおばあさんに「私2回の戦争あった。1つは日本、日本負けたね。それからアメリカと朝鮮ね。戦争2回ね」と言われ、朝鮮戦争では日本は米軍の前哨基地の役割を果たしていたことを思い、身がすくみました。
「申し訳ない思いでいっぱいです」と言うと、「終わったら、もういい。私かわいそうな人です。あんた、解ったらいい。私、あんたのこと解ります。あんた、私の娘よ」と、言葉をかけられました。
異国で暮らす残留邦人や被害国中国の人たちが戦中・戦後どのように暮らし、何を望んできたかも知りました。

 人は自分の生を生きるだけではなく、自分が生きた時代をも生きるのではないでしょうか。
それはまた、自分の生に責任を持つだけではなく、自分の生きた時代にも責任を持つことだと思います。
私が出会ったどのお一人も、戦争に蹂躙されて人権を踏みにじられ、人生を弄ばれ傷つきながらも、立ち上がって生きてきた人たちでした。
戦争のない平和な世界を願うのは、国家を超えて人としての願いなのだとはっきりと言えます。
ですから私は、戦争への道を開く安保法制に反対します。

========安保法制違憲訴訟 報告はここまで================
*これまで私が関わってきた裁判は、例えば残留邦人の裁判にしてもいつも支援者としての関わりでした。
あるいは原告(イラク訴訟)だったときも、傍聴席で傍聴するだけでした。
原告として法廷に立つことは、今回が初めてでした。
憲法は読んでいても法律の仕組みなどをもっと知りたいと、これまでも何冊かを読みましたが、「世界一敷居の低い法学入門」と銘打った木村草太さんの『キヨミズ准教授の法学入門』、ほんととっても敷居が低くてわかりやすかったです。
星海社新書です。 


2017年6月4日号「6月2日報告①」

◎安保法制違憲訴訟 国家賠償請求
 6月2日は、上記件名の第4回口頭弁論期日でした。
103号法廷で10:30に開廷しました。
原告代理人の3人の弁護士、伊藤 真さん、角田由紀子さん、福田 護さんが、原告本人の小海 基(こかいもとい)さん、同じく野木裕子さん、そして私が意見陳述をしました。
弁護士の方たちの意見陳述を、私が理解した範囲内でお伝えします。
 報告は長文になりますから、2回あるいは3回に分けてお送りします。

●原告代理人弁護士:伊藤 真さん
被告準備書面(1)への反論
①国家賠償法上の違法性の判断基準について
 被告は、原告らの主張は単なる不安や抽象的なものでしかないというが、安保法制法によって引き起こされた不安なのであり、そのような不安を持つ原告一人一人の思いに向き合い、具体的な事実に向き合うようにして欲しい。
国会議員の違法性行為は原告が受けた被害と相関関係にある。
国民各人の権利や法的利益を侵害するような法律を制定する場合には、相当慎重に立法内容を検討する注意義務がある。
さらに有識者から憲法違反と言われるような法律を制定する際には、当該立法が憲法違反にならないことを国民に説得的に説明する法的義務がある。
 国会議員の職務義務の内容・レベルは、侵害行為の態様、当該立法行為によって生じる不利益の種類や性質を考慮しなければ判断できない。
刑事事件のように明確な要件が予め法定化されているわけではない。

②「『平和的生存権』は国賠法上保護される具体的権利ないし法的利益と言えない」という被告の主張はせいとうでないこと
 被告の立場は「平和的生存権派抽象的かつ不明確」であり、裁判上の救済の対象となる「具体的権利ないし法的利益と認められない」という論旨で一貫している。
被告のこうした主張は、戦争や武力行使の現実を直視しないことから生じるものである。
「平和的生存権」の権利性を正確に認識するためには、具体的事実例に真摯に向き合うことが必要である。
 例えば多くの母親は「安保法制に反対するママの会」を立ち上げ、安保法制違憲の運動に積極的に関わった。
単なる不安感だけからこのような反対運動のために会を立ち上げ、頻繁に行動に出たりするであろうか。
新安保法制によって、具体的に自分の子どもが戦争の加害者・被害者になることへの切迫した恐怖を感じて、居ても立っても居られないからこそ、つまり重大な精神的苦痛を感じたからこそ、このままではいけないと立ち上がったのである。
 原告らが陳述書で述べ、法廷で主張している声は、あくまでも、原告らの現実である。
こうした現実に目を向けず、机上の言葉遊びに終始して「抽象的かつ不明確」などと繰り返す被告の対応は、国家として、現実に戦争や武力行使の恐怖に怯えざるを得ない状況に置かれている多くの国民・市民の苦しみに目を閉ざすものと言わざるを得ない。
 平和的生存権は歴代政府が自衛隊の海外派兵を加速させるに対応して、憲法学界では平和主義の理論の研究が進められ、平和的生存権の内容も精緻化されてきた氏、具体的な個人に対する「平和的生存権」への侵害も顕在化したため裁判所でも「平和的生存権」の具体的権利性を認める判決も生まれている。
このように「平和的生存権」の内実も確実に進化しているのに、こうした時代の変化や学説・判例の進歩を考慮せず、旧態依然の主張を繰り返すことは許されない。
 被告は「わが国を取り巻く安全保障が厳しさを増している」と認めているが、そのような今日、平和的生存権という人類の進化を認める必要はないと言うのだろうか。
権利ないしは法的保護利益は。侵害の具体的な危険視が増加すれば、それに従って要保護性も増していくものである。
プライバシーなどの人格権が、その最たるものである。
個人情報が本人の意思に反して拡散してしまう危険性が増している現代だからこそ、これを法的に保護する必要性が増しており、平和的生存権も同様である。
 付言すれば、2016年12月19日、「平和への権利宣言」が国連で採択された。
「平和概念が曖昧」とか「司法上の権利となり得ない」などと主張する国もあったが、そうした見解は国連で支持されなかった。
平和を権利として主張することは、もはや国際標準である。

③「人格権は国賠法上保護される権利ないし法的利益と言えない」という被告の主張は、「人格権」に関する不当な理解に基づく
 原告らの主張する人格権について、被告は準備書面で「漠然とした不安感を抱いたという域を出るものではなく、かかる内容を持って具体的権利が認められると解する余地はない」などと繰り返し述べているが、これは誤りである。
 新安保法制法の成立により、基地周辺や大都市、原発周辺の住民、自衛官、海外にいる日本人、NGO関係者などの生命や安全が危険にさらされる。
こうした状況はまさに「人格権」の侵害と言わざるを得ない。
④憲法改正・決定権は「『国家の主権者としての国民』という抽象的な位置づけ」にとどまるものではなく、具体的な権利であること
 被告は国政選挙の選挙権は「国家賠償法上保護された権利が存在することが前提となっている」のに対し、憲法96条1項に関しては「『国家の主権者としての国民』という抽象的な位置づけにとどまる」という。
しかし、憲法学説でも、憲法改正・決定権こそが主権者の意思表明であると考えている。国政選挙における選挙権が国家賠償法上保護された権利と認めるならば、憲法改正・決定権が問題となる投票の場合は国政選挙以上に国家賠償法上保護された権利が存在すると考えざるを得ない。
選挙という主権者の間接的な意見表明よりも、国民投票という直接的な意見表明の法が、より強固で明確な意思表示と言えるからである。
 また被告は、「そもそも、平和安全法制関連2法は、憲法の条文を改正するもの」ではないことを根拠に、「憲法改正・決定権」が侵害されたわけではないと主張している。
しかし、第1次世界大戦後のヒトラー政権においても、ヒトラー・ナチスによる「受権法」成立でワイマール憲法が実質的に廃止されたのである。
このように明文改正ではない法律の制定でも、憲法の意義が空洞化される事例がある。
私たちは、こうした歴史の教訓から学ぶ謙虚さを持たなければならない。
「憲法条文自体を改正するものではない」から「憲法改正・決定権」が侵害されたのではないとする被告の主張も、憲法改正手続きを経ないで憲法の意義内容を改変する法律の正当化を認める危険な主張であり、「法の支配」や「立憲主義」の理念を体現する日本国憲法の基本理念の空洞化を正当化するものであり、決して許されない。

●原告代理人弁護士:角田由紀子さん
人格権の被侵害利益絵性と具体的被害について
①被告国は原告らの人格権に関する主張を真っ向から否定し、原告らの主張は「漠然とした不安感を抱いたという域を超えるものではないのであって、かかる程度の内容を持って具体的権利性が認められると解する余地などない」とまで述べている。
原告らは先に提出した準備書面で・原告らの主張する人格権が国賠法の保護を受ける権利ないしは法的利益であることを詳しく論じ、国の主著が間違っていることを論証している。

②今日においては、「人格権」と呼ばれる権利が存在し、これがなんらかの意味で法的に保護されることは、我が国の判例・学説で疑問の余地なく認められている。
❶学説について
 人格権が権利として認められるには戦前からの議論に始まり、今日まで多くの議論が積み重ねられ、見るべき段階に達している。
 ある学者は、近年は環境やプライバシーなど、人格権に関する権利が新たに提唱されるなど権利内容が多様化しており、現代社会にでは、人格権の重要性はさらに高まりつつあると述べている。
 別の学者は、人類はこれからも人格的価値を侵す思わぬ事態に遭遇するだろうし、その過程で人格価値の新しい側面も見出されて来ることになるだろうと述べている。
 多くの権利がそうであるように、人格権も未だ完成されたものではなく、社会の進展・変化に対応して新しい認識を重ねて、その権利に含まれるものを広げていくものだ。
新安保法制法のもとでの新しい人権侵害状況は、今までの学説及び判例によって築き上げられてきた人格権の蓄積の上に立って考えられるべきものだ。
❷判例について
判例も非常に重要な権利として人格権を認めており、そのような判例からいくつか紹介しよう。
⑴最高裁大法廷判決(1985年6月11日、北方ジャーナル判決)
 最高裁判決が初めて、名誉権を人格権として認めたもので、この事件で最高裁は、人格権を極めて重要な保護法益であり、排他性を有するとして、絶対権としての人格権を明確に位置付けた。
⑵最高裁大法廷判決(1988年6月1日、自衛官合祀手続き事件)
 結論としては、キリスト教徒である原告の夫を神社に合祀しないでほしいという訴えを認めなかったが、プライバシー法の専門家であった伊藤正己裁判官の反対意見がある。
伊藤裁判官は「現代社会において、他者から自己の欲しない刺激に心を乱されない利益、いわば心の静謐の利益もまた、不法行為上、被侵害利益となりうるものと認めてよい」と述べ、原告の受けた侵害は「単に不快である」を超えると論じている。
 この見解は、被告の反論を検討するにあたり、重要な手掛かりを与える。
⑶最高裁第二小法廷(1989年12月21日判決)
 ビラ配布行為に起因する人格的利益の侵害について不法行為責任を認め、原判決を変更して慰謝料の支払いを命じた。
この判決は「私生活の平穏などの人格的利益」が侵害されたことを明確に認めた。
⑷最高裁第二小法廷(1991年12月21日、水俣病認定業務に関する熊本県知事の不作為違法に対する損害賠償請求事件上告審判決)
 県知事の水俣病認定の遅れで、認定を待つ患者の不安や焦りの気持ちは、「いわば内心の静謐な感情を害するものであって、その程度は決して小さいわけではない」として、不法行為上の損害賠償の対象となることを認めた。
この判決は、自衛官合祀手続き事件では否定された「内心の静謐」の利益侵害が不法行為になりうるとしたもので、内心の静謐の利益を不法行為上の保護法益として明確に認めた最初の判決だ。

 下級審でも重大な判決がいくつも出されている。
⑴大阪高裁(1975年11月27日、大阪国際空港の夜間飛行禁止請求事件判決)
 この事件では被告国は、学説による体系化、類型化がなければ人格権として裁判上採用できないと主張したが、大阪高裁は、その主張をはっきりと否定した。
「個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体を人格権ということができる」
「人格権の内容をなす利益は人間として生存する以上当然に認められるべき本質的なものであって、これを権利として構成するのになんらの妨げはなく、実定法の規定を待たなくとも当然に承認されるべき基本的権利である」
⑵福井地裁(2014年5月21日、大飯原発3、4号機運転差止め判決)
 人格権は憲法上(13条、25条)の権利であり、人の生命を基礎とするものなので、我が国の法制下では、これを超える価値見いだすことができないとして、その重要性が強調されている。
これは、本件で原告たちが訴えている、戦争への生命侵害への不安、恐れの重要性に通じるものとして示唆的である。
⑶前橋地裁(2017年3月17日、福島・原発被害避難者による損害賠償請求事件)
 平穏生活権が自己決定権を中核とした人格権であって、放射線被ばくへの恐怖不安にさらされない利益や内心の静謐な感情を害されない権利など、多くの権利を包摂するものであると述べている。
 これらの指摘は、原告らの多くが、憲法のもとで築いてきた今までの人生を否定されたと感じ、戦争になるのではないかとの恐怖不安にさらされていることなどが人格権の深刻な侵害であるとする論拠となるものだ。
❸原告らの主張する人格権の内容
 被告は「曖昧な不安にすぎない」と主張するが、原告らが内閣および国会の行為によって、生命・身体・精神を侵害される危険にさらされ、また平和に生活してきた平穏を壊され、さらに憲法改正について主権者としての意思決定の場を奪われたことで、著しい精神的苦痛を受けている。
原告らが侵害された人格権は、具体的には⑴生命権・身体及び精神に関する利益としての人格権、⑵平穏生活権、⑶主権者として蔑ろにされない権利だ。
 原告らを類型化すれば次のように言える。
⑴戦争体験者、⑵基地周辺住民、⑶公共機関の労働者、⑷学者・教育者、宗教家、ジャーナリスト、子を持つ親や孫を持つ祖父母、障がい者、若者、原発関係者、平和を望む国民・市民などだ。
これらの原告たちは、それぞれが生きてきた歴史を背景として今日まで憲法の下で懸命に生きてきたが、被告により様々に人格権を侵害されて現実に苦しんでいる。

 今、原告たちに残された救済の手段は司法しかない。
多くの人の期待が今ほど司法に寄せられたことはなかっただろう。
ぜひ、憲法が司法に託した責務を果たすよう、改めて裁判所にお願いする。

●原告代理人弁護士:福田 護さん
駆けつけ警護及び武器等防護について
① 新安保法制法の適用と原告らの権利侵害
新安保法制法が施行されて1年余が経過して、この間に自衛隊に2つのケースが適用された。
一つは南スーダンPKOにおける駆けつけ警護の新任務の付与であり、もう一つは護衛艦による米軍艦船の武器等防護だ。
どちらも憲法9条に違反し、自衛隊が武力の行使に至る危険を実感させ、原告らの平和的生存権、人格権、憲法改正決定権を深く侵害するものだ。
 これらは新安保法制法の立案・制定過程で夙に違憲性が指摘されていたものであり、この適用はその具体化、現実化に他ならない。
そこで原告らは、本件における損害発生の請求原因として、これらの規定を追加して主張する。

②駆けつけ警護の違憲性とその危険の現実化
  被告国は昨年11月15日、改正PKO協力法で新たに規定された「駆けつけ警護」の任務を、自衛隊の派遣部隊に付与することを閣議決定した。
駆けつけ警護は、PKO活動関係者に不足の危険性が生じた場合に、自衛隊の部隊が現場に駆けつけて生命・身体の保護を行うというもので、活動関係者を襲った武装勢力から救出するためには強力な武器の使用も認めている。
これは容易に武装勢力との間の戦闘行為、武力の行使に発展しかねず、自衛隊員が相手を殺傷し、または殺傷されることになりかねない極めて危険な任務だ。
 南スーダンでは既に停戦合意は崩壊し、大統領派と反大統領派間で激しい戦闘が繰り返される内戦状態で、PKO参加5原則の前提が失われた状況であるのは、国連その他の関係機関の度重なる報告等で明らかだった。
しかも昨年7月8日から始まった首都ジュバにおける激しい戦闘状況は、現地自衛隊の「日々報告」などの文書にも明確に記載されていた。
 そんな戦地に、政府は駆けつけ警護という危険な任務を与えて、自衛隊の部隊を送り込んだ。
自衛隊の宿舎のすぐそばでも、激しい銃撃戦があった。
国連PKO司令部近くのテラインホテルでは援助関係者に対して政府軍兵士による殺人、レイプなどの暴虐行為が繰り広げられていたのに、その援助要請に国連の他国部隊は動かなかったほどの危険な状態なのだ。
 その上あろうことか、政府ないしは自衛隊は、激しい戦闘の実情を報告した自衛隊文書を国民・市民に開示せず、秘匿しようとしていた事実が明らかにされつつある。
戦争、武力紛争に関する情報が、正確に国民・市民に伝えられず、情報操作がされるほど危険なことはない。

③武器等防護の違憲性と日本の軍事対立の当事者化
 被告国は、昨年12月22日、自衛隊法95条の2に新設された他国軍隊の武器防護の規定の運用指針を策定し、5月1日から3日間、自衛隊の最大級護衛艦「出雲」等に、米軍の補給艦の武器等の防護を命じた。
これによって日本は、ミサイル発射を繰り返す北朝鮮に対し、トランプ政権のアメリカが日本海にカールビンソン空母打撃群を展開するという緊迫した軍事対立下で、明確に米軍と一体化して軍事対立当事国となることを示した。
 米軍の武器等防護の規定は、武力攻撃に至らないグレーゾーンの状況下で、米軍等の艦船や航空機まで含めて、その「武器等」を自衛隊が防護するもので、例えば公海上で米韓と自衛艦が警戒監視活動を行っている場合に米韓に向かって発射されたミサイルを、自衛艦のイージス艦が迎撃することまで規定されている。
この迎撃のために、現場の自衛艦の判断で、自衛隊の武器を使用することができるというものだ。
 これは自己保存のための武器使用をはるかに超え、戦争の口火を切り、実質的な集団的自衛権の行使になりかねない。
極めて危険な規定であることは明らかだ。
この場合日本は、閣議決定も総理大臣の防衛出動命令もなく、ましてや国会の承認もないまま、或る日突然、アメリカのための戦争に突入してしまう危険を否定できない。
 しかも、その運用指針によれば、政府は、この米韓の警護等の実施中に特異な事象が発生した場合のみ公表義務があるだけで、その他の情報開示は政府の裁量に委ねられている。
ここにも情報操作の危険性がある。

④危険にさらされる原告らの権利
 私たちは、新安保法制法の実施により、日本が実際に武力の行使に踏み込みかねない現実の危険に直面している。
南スーダンPKOの実施部隊は撤収したが、自衛隊の部隊が戦闘に巻き込まれなかったのは、偶然にすぎない。
その危険な戦場に危険な任務を背負って臨場した事実は歴然として存在し、今後も繰り返されることが危惧される。
米軍等の武器等防護も、いつ爆発するかわからない。
 戦争とその被害、加害への恐怖は、いま現実のものとなりつつある。 


2017年5月31日号「5月31日」

◎中筋 純さん写真展
以前にお知らせしました中筋 純さんの写真展「流転 福島&チェルノブイリ」目黒区美術館 区民ギャラリーでの展示は、今日から始まりました。
私は3月に福島市の会場で催されたときに拝見していましたが、今日また目黒区民ギャラリーに行ってきました。
人間が汚してしまった大地、自然、人の営みの痕跡…。
それらが発する言葉、いいえ言葉ではない、なんと言うか…気配?
そう、気配かもしれない、私自身がそこに立ってそこの空気を感じているような、「そこの気配」が満ち満ちていました。
人物の写真もありますが、それはサマショールと呼ばれる人たちばかり。
彼らの話す言語は私たちの言葉とは違っていても、写真からはその声や言葉が胸に響いてきます。
多くの人にぜひ見て欲しい写真展です。
目黒区美術館での会期は6月4日までですが、7月5日〜9日には練馬区立美術館で、こちらは3人展で開催されます。

●中筋 純写真展「流転 福島&チェルノブイリ」
 会 場:目黒区美術館 区民ギャラリー
 会 期:5月31日〜6月4日 10:00〜18:00(最終日は16:00まで)
 入場料:500円
●福島原発事故より6年。3人の作家がそれぞれの表現でコラボレートする
『もやい展』
 「流転福島&チェルノブイリ」:中筋 純
 「放射線像」Autoradiography:加賀谷雅道
 「ダキシメルオモイ」:小林憲明
 会場:練馬区立美術館
 会期:7月5日〜9日 10:00〜18:00(最終日16:00まで)
 入場無料

加賀谷さんは2012年から放射線像プロジェクトを開始し、放射線汚染を可視化しています。写真の他に3D化した放射線像を映像化して、見えないものの根源を体感させくれるようです。
小林さんは結婚を機に家族をテーマにして絵画制作を続けていますが、ここでは母子を描いた作品を多く展示されるようです、

練馬の「もやい展」も、ぜひ見に行こうと思っています。
中筋さんの写真展は全国巡回で予定されています。
*8月3日〜7日、横須賀市文化会館
*8月11日〜16日、富士市ロゼシアター展示室
*10月31日〜11月5日、金沢市21世紀美術館
*2017年秋 筑後市九州芸文館にて展示交渉中
*お問い合わせは090−8849−6864 または 2016ruten@gmail.com
https://www.facebook.com/2016Fukushima.Chernobyl

◎第18回「いま、語り描き 写し歌い舞うとき」
 集会は今週末6月3日です。
あまりにも、あまりにも、あまりにも許しがたいアベ政治です。
戦争への道は歩かない!思いを一つに繋がりましょう。
皆様のご参加を、お待ちしています。

私は2013年に東京オリンピック招致が決まったとき、アベ首相の「アンダーコントロール」発言は、「原発事故は収束したという嘘」、つまり「内外に原発事故の清算は済んだと思わせるための嘘」というようにしか受け止めていませんでした。
でもその後で秘密保護法が可決されたときに、オリンピック招致は原発事故が収束していない事を隠すためだけではなくもっと他の理由があると思うようになりました。
オリンピック開催は続いてパラリンピック開催とセットです。
オリンピックが喧伝された頃から日々ニュースになっていたのが、ハンディキャップのある人たちのスポーツに関する記事でした。
本当にこれは毎日話題にならない日がないと言っていいほど、新聞紙上に載っていましたし、いまもです。
ハンディキャップのある人たちもスポーツを楽しんで欲しいし、そのために施設や様々の条件がもっと整っていって欲しいと私も願っています。
けれどもオリンピックと抱き合わせてオリパラと言ったりする事で、オリンピック開催に反対しにくい雰囲気が生まれているのではないでしょうか。
秘密保護法に続いて安保法制強行採決、そして施行。
その間にも会場の事やいろいろな点でオリンピックについては奇妙な点はたくさん出ているのに、開催はまるで動かしがたい決定事項のように進められてきています。
私の周囲の人たちで、オリンピック歓迎という人はただの一人もいないのです。
でも、パラリンピックに反対は、声に出しにくいと思えます。
共謀罪でああ、やっぱりオリンピックはこのためだったのだと思います。
その上、万博まで。
オリンピックも万博も、すべて共謀罪への布石でしょう。
騙されまいぞ!

共謀罪、断じて許すわけにはいきません、。
3日の集会は、その思いをみなさんと共有する場でもあります。
どうぞ、お出かけください。

◎おすすめ図書
読んだ本の中からお勧めしたい本は多々あるのですが、この通信でお伝えできずにいます。
でも、この本はぜひご一読をお勧めしたく思います。
『新・先住民族の「近代史」植民地主義と新自由主義の起源を問う』
「先住民族」をキーワードにした「近・現代史」です。
著者は上村英明さん(恵泉女学院大学教授)、出版社は法律文化社です。
章の目次のみ記しますので、ご興味ある方はぜひご一読をお勧めします。

第1部 先住民族への差別と収奪の歴史
    *伝統的知識という視点から考える
第1章 近代オリンピックと先住民族
第2章 「日本人」の極地探検とアイヌ民族の知識
   *「帝国」に動員され、忘れ去られた先住民族
第3章 「合衆国」と「国際連合」を生み出した先住民族
   *近代民主主義を超える試み

第2部 「国民国家」形成という名の植民地
    *アジアにおける先住民族の成立
第4章 日本と「北海道」「沖縄」の植民地化
    *東アジア史への視座
第5章 「尖閣諸島」問題と琉球民族の領土的権利

第3部 グローバルな環境問題史と先住民族
第6章 大規模「水銀中毒」と先住民族
    *技術革新・経済成長、そして環境破壊・人権侵害
第7章 ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下と先住民族
第8章 核実験場・ウラン鉱山と先住民族
    *放射能に汚染された大地

「そうだったのか」と、近・現代史を理解する上でもやもやしていたことが溶けていくように思え、さらに深く読み込んでいきたいと思う本でした。

●先日のトークの会「福島の声を聞こう!」報告は少しお待ちください。
まとめた記録を、長谷川さんにチェックしていただいています。
戻り次第お伝えします。                   

いちえ


2017年5月19日号「5月17、18日」

◎南相馬15・16日 補足
南相馬小高区は昨年7月12日に、飯舘村は今年3月31日に避難指示解除(帰還困難区域を除く)になりました。
このことによってまた、新たな問題を抱えている人は少なくありません。

子育てを終えた年代の夫婦間に、気持ちの食い違いが生じてきているケースが出てきています。
夫婦のどちらかが「解除になったとはいえ、安全ではない。安心して暮らせないから戻らない」と考えているのに、お連れ合いは「安全ではないかもしれないけれど、解除になったのだから帰りたい」と言い出したりしているのです。
大抵は、妻の気持ちは「帰らない」選択をしていても、夫は「先祖の土地・故郷を守りたい」などから帰りたくなっているケースが多いようです。
原発事故当初、子どもの健康を考えて避難するという妻と、仕事や親のことを考えて残る夫というように、家族が別れての暮らしを選択した人たちはたくさんいました。
その頃は「止むを得ず」にその選択をした人たちが多かったと思います。
今生じているのは、あの頃とはまた少し違う感じなのです。
Hさんは「いま私の一番の課題は家族です。互いに一緒にいるのが嫌になってる訳じゃないのに、ここが譲れないと別居かな?とも思うし、私が折れなきゃいけないのかなと思うけれど、それって諦めだと思うし、家族の問題が一番難しい」と言います。
これはHさんだけではなく、言葉こそ違え他の何人かからも聞いています。
原発によって暮らしが汚されることさえなければ、起きなかった問題だと思います。

南相馬の仮設住宅では、こんな話が出ていました。
寺内塚合の菅野さんは、仮設住宅を出て新居で息子たちと一緒に暮らしています。
食事の支度や選択など家事は、お母さん(息子の嫁のことをこう呼んでいます)がしてくれます。
仕事や学校に行く息子や孫は、早い時刻に朝食を済ませて出かけますが、お母さんも彼らと一緒に食事をします。
菅野さんはその後で、ゆっくり一人で食べるのです。
食べ終わった食器も、お母さんが「ばっぱ(おばあさん)はやらんでいいよ」と言うので、テーブルにそのまま置いて、自室に戻ります。
仮設住宅にいた時には自分で食器も洗っていましたが、年齢とともに動作も鈍くなっているので、菅野さん自身も、茶碗を洗う手元がおぼつかなくて割ってはいけない、と思い、“お母さん”もそれを案じて「やらんでいいよ」なのでしょう。
食後はお母さんに送ってもらってデイサービスか仮設住宅の仲間のところへ行って夕方まで過ごします。
夕食は、みんなの帰りは時間がまちまちなので、お母さんが作って用意したものを自分で食器によそって一人で食べ食べます。
菅野さんは「だから、家族で団欒なんてないなぁ」と言います。
家族が冷たい訳ではなく、互いに気を使いあっているのですが、かつての暮らしぶりとは全く違ってきているのです。
元の家だったら食事後にもみんながそこに座ってテレビを見たり話しをしたりして、自ずと“団欒”に時間が生まれていたでしょう。
新居は家の造りがそうした時間を奪っているようです。
ばあちゃんにも孫にも個室があって、息子夫婦もやはり自分達の部屋があり、食事をする部屋も以前の広さが取れないからです。
これは菅野さんだけの問題ではなく、他の人たちからも同様の話を聞いています。
そしてまたこれは、震災や原発事故の被災者だけの問題ではなく今の私たちの社会が抱えている問題ではないかとも思います。
ただし被災者たちにとっては、これもまた原発事故がもたらした家族分離なのです。

2年ほど前だったでしょうか、菅野榮子さんが「これからは家族制度のあり方を変えていかなければならないと思う」と言っていたことがありました。
ほんとうに今、家族のありかたを見直す時代が来ているのだと思います。
これは震災や原発の被災者だけの問題ではなく広く私たちの社会が行き当たっていることなのだと思いますが、被災者の人たちにとっては喫緊の問題になっているのです。
寺内塚合第二仮設住宅の自治会長だった藤島昌治さんが提案した、シェアハウス構想も、こうした問題を見据えてのことでした。
構想は思うようには進まず、市はケアハウスの形で検討しようとはしているようですがまだ進んではいません。

◎参議院議員会館で
17日は午後から参議院議員会館で、辺野古新基地建設に関する集会があり、それに間に合うように帰京しました。
「〜辺野古新基地建設〜護岸工事の違法性を問う 防衛省交渉&院内集会」です。
主催はFoE Japan/美ら海にもやんばるにも基地はいらない市民の会でした。
集会はFoE Japan の阪上さんが辺野古の現況を話した後で、沖縄からの北上田 毅さん(沖縄平和市民連絡会/抗議船船長)が、違法性に関して丁寧に説明してくれました。
私はいつも北上田さんが発信されているブログ(チョイさんの沖縄日記)を読んでいるのですが、読んでいただけではしっかり理解できずにいたことが、説明を受けて理解できました。
 防衛省の担当者たちに対する交渉は、下記の流れで進められました。
1、K9護岸の施工について
2、「進入道路(パネル敷設)」について
3、サンゴ類の保全などの環境保全措置について
4、ボーリング調査について
5、事前協議及び設計変更承認申請について
 これらの質問書は、あらかじめ防衛省に提出されていたにもかかわらず、毎回な回答は何一つなく、そればかりか防衛省は自分たちが作成した工程表などについても把握していないなど、こんな人たちがゴリ押しで工事を強行し用としていることに改めて憤りを覚えました。
 例えば、住民が反対しているために建築資材を搬入するための道路建設ができずにいますが、するとパネルを敷いてその上を搬入車両が通るようにしたのです。
これ「道路ではないか?」と質問すると「一時的なパネルの敷設であって、道路ではない」と答えるのです。
 また「事業実施前にサンゴ類など移植・移築するとしているが、行ったのか?」という質問に対しては「護岸には総被度5パーセント以上で0,2ha以上の規模のサンゴ類が73,863群体あります」と答えるのみなのです。
北上田さんが、「サンゴは護岸にのみ生息するのでなく埋め立て予定の湾の中心部にも多数の群体があるのに、それはどうするのか?」と問うても、「護岸には総被度5パーセント…」云々の先ほどの返答を繰り返すばかりなのです。
 ここでも全く、ただただ強引に結果を作ってしまえば住民は諦めるだろうという政府の姿勢が明らかでした。
この日の防衛省交渉についても、「チョイさんの沖縄日記」(北上田さんのブログ)に載ることと思います。
 私はなかなか沖縄には行けずにいますが、現地からの情報を読み取りながら気持ちを繋げていくつもりです。

◎18日、東京地裁

福島原発刑事訴訟支援団集会が東京地裁前で開かれ。またこの日は「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」第7回口頭弁論期日でした。
地裁前での集会の最中に、スコールのような雨。
地裁の張り出し屋根の下で抽選を待ちましたが傍聴希望者が少なかった為、全員傍聴席に座れました。
開廷は14:00、いつもの103号法廷です。
裁判長が準備書面居着いて確認し、原告代理人福田弁護士が提出した準備書面の内容について陳述しました。
それは、被告の20ミリシーベルト基準は正しいという主張に対して、放射線が健康に与える影響を科学的見地から考えて誤りであると主張するもので、パワーポイントを使って、傍聴席にもよくわかる説明でした。
福田弁護士の口頭弁論の後、裁判長が被告側に弁論を促すと被告側代理人は、ボソボソとまるで聞こえない声と喋り方で、(反論は)書面で提出すると答えました。
裁判長から次回期日は7月20日、14:00〜、103号法廷でと告げられて閉廷しました。
今日の口頭弁論では、原告本人からの陳述はありませんでした。

●報告会
参議院議員会館で、報告会が持たれました。
福田弁護士から、これまではなんらかの形で原告本人が陳述するようにやってきたが、今日は内容的に代理人からがふさわしいと考え、本人陳述はなかったことが説明されました。
また、もしかすると裁判長が変わるかもしれないことも報告されましたが、これまでこの裁判長は原告の意見陳述にしっかり耳を傾けてくれているように思えましたから、裁判長が変わることへ大きな不安を感じます。
替わってくる裁判長が、原告の思いを聞き届ける人物であってほしいと願います。

●特別報告
①特別報告として小澤洋一さんから「浪江町の汚染状況」について報告がありました。
4月29日に発生した森林火災は5月10日に鎮火するまで12日間燃え続け、火災現場が帰還困難区域で除染されていない地域のため、粉塵で放射能が拡散されることが心配されました。
これについて福島県HPでは、周辺環境に影響が及んでいる事実は一切ないとしています。
しかし報告では、火災後には測定値が上がっていることが伝えられました。
②もう一件の特別報告は、安定ヨウ素剤配布についてでした。
国は「原子力災害対策指針」で PAZ(原発から5キロ圏内)には安定ヨウ素剤を事前配布、UPZ(30キロ圏内)は備蓄して事後配布としています。
ひたちなか市は一部地域が5キロ圏内ですが、大部分の地域は30キロ圏内です。
福島事故を見て、事故発生後の緊急避難時に安定ヨウ素剤を全ての市民に配布するのは困難であるとして、全市民に事前に配布の必要があると考えました。
政府は、ひたちなか市は事前配布の PAZ 地域ではないからと、そのために国費は出さない、市の予算で用意するよう言っていたのですが、政府交渉の結果ひたちなか市でも国費を用いた配布は問題ないことになりました。
原発再稼働された地域ではどうなのか気になります。

*17日の辺野古新基地建設に関する集会の時も、またこの日の報告会の時も、議員会館前には共謀罪反対の抗議の声が響いていました。
その列に加わりたい思いを抱えながら、帰路につきました。
共謀罪、絶対に許すわけにはいきません!               

いちえ 

関連:

2017年5月16日号「5月16日南相馬」

◎訂正
昨日の通信で廣畑さんの蝦沢の自宅は津波で流されたとお伝えしましたが、私の早とちりでした。
家は流されていません。
けれども家のすぐ近くに、焼却炉が2基建設されました。
大事なことを早とちりで、誤ってお伝えしてしまいました。
訂正いたします。

◎上野敬幸さん
●朝の道
朝6時20分にホテルを出て、上野敬幸さんの家を訪ねました。
ホテルから上野さんの家のある北萱浜(かやはま)までは、2キロほどでしょう。
昨日の空とは打って変わって気持ちよく晴れた空、路肩の草は勢いよく伸びて法面にはタケノコがビューンとまっすぐ天を突いています。
シマ商会の角を曲がって雫(しどけ)の集落の道は、新築の家が建ち並んでいます。
2011年は消防車や自家用車、テトラポットがゴロゴロと転がっていた辺りです。 雫も萱浜も津波の被害が甚大だった地域です。
雫の新築の家々が並ぶ辺りは集団移転地で、元はもっと海よりに家が在った方達もそこに新居を構えたのでしょう。
萱浜では家を新たに建てたのは上野さんともう一軒だけですが、津波被害が大きかった関係で、もしかすると建築制限がかかっている地域なのかも知れません。
けれども圃場整備が済んでいて、水路も造成され田圃にする準備も進んでいるようです。
朝早くに上野さんを訪ねるのは、上野さんも農作業が忙しく朝7時には家を出ると伺っていたからです。
道すがら、そこかしこで草の中からヒバリの声が聞こえました。
そしてまた、そこにもかしこにもナガミヒナゲシが咲いていました。

●菜の花迷路を終えて
上野さんは、今年もまた菜の花迷路を作りました。
自宅の前の菜の花畑だけを残して、他の部分は既に別の作物用にすべて刈り取られ片付けられていました。
お宅にお邪魔してお仏壇でお焼香した後、少しの時間お話を交わしました。
今年のゴールデンウィークに開いた菜の花迷路大会には、延べにして1万人がやってきたそうです。
「人に酔いました」と上野さんは言っていました。
「疲れたけれど、いい疲れだった」とも。
次は夏の花火大会です。
先祖が鍬を入れ、お父さんとお母さんが増やしてきた農地を、継いで守っていくのだと農業に取り組みながら、「福興浜団」としての活動も続けている上野さんです。
大熊町の木村紀夫さんの捜索活動も助け、また地域の子どもたちが笑顔で過ごせる活動をと、菜の花迷路、花火大会も続け、避難生活をしていた人の自宅の片付けや引っ越しを手伝ってもいるのです。

●「支援されることに甘えてちゃ駄目だ」
上野さんは、「東京や関東に避難している人たちは、支援されることに慣れてしまっているのではないか、また支援者は、本当の支援は被災者が自ら自分の足で立っていけるように支援すべきなのに、物質的な支援をすることで満足しているのではないか」という内容のことを話してくれました。
東京に避難していた浪江の高齢の女性が戻って来て、復興住宅に入居するので、その引っ越し手伝いをした時のことだそうです。
浪江のその復興住宅は、原町のスーパーフレスコが目の前にある場所に作られました。
都心と比べれば不足なことはあっても、そこは買い物には便利だし、町の中に病院もあるのに、その女性は東京ではこんな事もして貰った、あんなところが便利だったなどと、口を開けば不満を漏らしていたと言います。
避難せずに留まった自宅は買い物には車でないと遠いのだが、車の運転もできない高齢者は押し車を押して行くという生活をしている人もいるのだ、と上野さんは言うのです。
メモを取らずにいたので、上野さんの言葉を具体的に正確にお伝えできないのですが、昨日の廣畑さんの言葉と通じる点があると思いました。
考えさせられる点が多々ある話でした。

◎寺内塚合仮設住宅
今日は火曜日なのでデイサービスがない日ですから、社長の菅野さんも、営業部長の天野さんも、他のみんなも居る筈と思って訪ねました。
談話室に居たのは、菅野さん、天野さん、山田さんの3人でした。
「みんな出たんだ」と、天野さんが言いました。
井口さんは相馬に息子が建てた家に、村井さんとミッちゃんは小高の自宅に戻ったそうです。
談話室の天井にあった折り紙の薬玉は、全部外して天野さんが私宛に送ってくれました。
これは前に天野さんが「捨てる」と言ったので、私が頼んで送ってもらったのです。
そして南相馬へボランティアに来たことのあるバンド活動をしている人たちに話して、ライブの会場に飾ってもらったりしています。
その他の手芸品もみんな無くなって、部屋の中は先月よりもなおガランとしていました。
人も減り、部屋も片付き、なんだか寂しい光景ですが、3人は元気でした。
山田さんは小高の自宅の改修を頼んでいる大工さんが、まだ手が空かず家の改修ができていない、天野さんも末娘が新居を建てたら一緒に住むことになっているけれど家がまだできない、菅野さんは近くに娘家族が建てた家に同居だけれど昼間は一人になってしまうので娘婿に送って貰って昼間はここに居る。
という訳で、3人は今も談話室で過ごしています。
けれども水曜日は菅野さんがデイサービスの日なので、ここには天野さんと山田さんだけ、金曜日は天野さんと山田さんがデイサービスなので、菅野さんは自宅で過ごしているのです。
相馬に行った井口さんは、昼間は子どもや孫は出かけてしまいますが、お連れ合いが居るので老夫婦で過ごしているのでしょうか。
自宅に戻ったミッちゃんはやはり昼間は一人になりますが、畑をやっているかも知れません。
村井さんのところも昼は子どもも孫も居ないですが、お連れ合いも居るし畑もあるし、村井さんは車の運転もできるのです。
みんなどうしているかなぁと思います。
「塚合のばぁちゃん」たちを支えようと、松戸の千田優子さんが小さなフクロウの縫いぐるみを注文してくれるので、菅野さんと山田さんはお喋りしながら針を運び、出来上がった品を天野さんが袋に詰めているのです。
一日に一つでも作れたら、それでいいのです。
お喋りしながら手を動かして笑い合い、やったことの成果が目に見えていること、これが大事なのだと思います。
「手を動かしてると、惚けないって言うね」「お喋りしてると肺を使うから肺炎にならないそうだね」それでいいのです。

◎小林吉久さん
久しぶりに、本当に久しぶりに小林さんのお宅を訪ねました。
小林さんは鹿島区の篤農家で、元市会議員をしていた人です。
3・11後、仮設住宅建設のために土地を提供されたり、また六角支援隊が仮設住宅に居る人たちのためにビニールハウスや畑を作りたいと言った時にも、畑や土地を貸してくれた人です。
試験田をやった時にも、田圃の提供者を紹介してくれたのです。
仮設住宅にまだ多くの人たちが居て、みんなが畑やハウスをやっていた時には小林さんのお宅を何度も訪ねていました。
奥さんの秀子さんには、南相馬の伝統食「柿餅」の作り方を教えて頂きもしました。
仮設から出て行く人たちも増えてきて畑やハウスも閉じていった頃から、次第に足が遠くなっていたのです。
また秀子さんが癌で入院したということも聞いていて、お訪ねするのも憚っていたのでした。
1年ぶりか、それ以上経っていたかも知れません。
久しぶりにお会いした小林さんはお元気そうで、秀子さんは胆管切除したけれど肝臓に転移していて、その放射線治療で入院中。けれども顔色もいいし非常に元気で、放射線治療も土・日は無いので、金・土・日は自宅に戻って過ごしているそうです。
病院への送迎は、小林さんがなさっているとのこと、8月には80歳になる小林さんです。
久しぶりにお訪ねして良かったと思いました。
6月には秀子さんも退院されるそうですから、その頃にまたお訪ねしようと思います。

◎小池第3仮設住宅
ここもほとんどの人たちが出て、集会所にはヨシ子さんとハルイさんの二人だけでした。
二人は他の誰よりも気持ちの通じ合う同士なので、一緒に居るとお喋りと笑いが絶えません。
初めて私がヨシ子さんやハルイさんに会った頃(2012年春)は、他人行儀ではないものの、会話も標準語で改まった感じでしたし、私も土地の言葉はよく判らなかったのですが、今は自分では喋れませんが話されることは全部聞き取れて、それがとても楽しいのです。
「足が悪かったのはバッチなの?」などと訊ねることもできるようになりました。
バッチというのは末子のことなのです。
「言葉が判る」のは、垣根を飛び越えるようなものかしらとも思っています。
ヨシ子さんはこの仮設住宅のすぐ近くに長男が建てた新居に同居、ハルイさんは原町の新居で子どもたち家族と同居ですが、やはり昼間は一人になってしまうので、ヨシ子さんは夜には自宅で眠りますが、朝になると仮設集会所に“出勤”してきます。
ハルイさんは車の運転ができないので原町の家に居ると昼は一人で蟄居になってしまうので、仮設住宅に居られる間はここで過ごしたくて、原町の家に帰るのは時々のことです。
二人は今日も、作った手芸品をたくさん持ってきてくれて、それは量が多いので私は持ち帰らずに宅配してもらうことにしました。
トークの会「福島の声を聞こう!」でご披露します。

◎高橋宮子さん
大町の復興住宅に、宮ちゃんを訪ねて近況を聞いてきました。
中学の同級会を、ここで2回やったそうです。
この復興住宅は6畳が三部屋続きなので、大勢が集まるには都合がよく、また宮ちゃんの人柄もあって、みんなが集まりやすいのです。
78歳の同級生が10人も集まって、しかも宮ちゃん曰く「みんな後家」だそうですから、誰にも気兼ねなく気が向くまでのお喋りの時を過ごしたのでしょう。
遠くは横浜から、また、いわきや仙台からの人もいたそうです。
「またやろうね」と言って別れたそうです。
その時の写真を見せて貰いましたが、みなさんとても若々しく元気そうで、「またやろうね」は、きっと叶うと思いました。

*明日は朝1のバスで福島へ戻り、午前中に帰京するので今日一日でずいぶん詰めた行動でしたが、よい一日でした。          

いちえ


2017年5月16日号「5月15日南相馬」

南相馬に来ています。

◎車窓から
福島駅から南相馬へのバスの車窓から、雨に煙る5月の川俣、飯舘の風景を眺めていました。
山中に咲く桐、ヤマフジの紫の花、ウワミズザクラやホウの白い花、野辺にはナガミヒナゲシの原もありました。
アルジェリアの山中に一面に咲いていた、真っ赤なヒナゲシを思い出しました。
真っ赤なヒナゲシを見て私は、この国が独立を勝ち取ったのはほんの30年前なのだと思ったのでした。
ナガミヒナゲシはアルジェリアのケシの花よりも淡い赤ですが、一面に咲く様から“独立戦争”を想い起こした私でした。
ナガミヒナゲシの原を見たのが、もし飯舘村ではなく例えば伊豆のどこかだったら、あるいは千葉だったら、私はアルジェリアを思い出しただろうか?などということを考えもしたのでした。
飯舘村は汚染土を積んだフレコンバックの深緑のシートの山が連なり、住む人の気配はなく、道の駅の建設は進み、道の駅の建物に並んで大きなガラス張りの建造物も作られ、どうやら温室のようです。
道路を挟んで向い側は花畑になるそうですから、きっと温室なのでしょう。
原発事故…、これも戦争なのかもしれないと思ったのでした。

◎小高で
●廣畑裕子さんに会いたくて
福島からのバスで終点の原町駅前で降り、常磐線で小高に行きました。
「おだかぷらっとほーむ」の廣畑裕子さんに会いたくて、この日の面会をお願いしてあったのです。
これまで廣畑さんには鹿島の仮設住宅でも、また小高でも何度もお会いして言葉も交わしているのですが、ゆっくりお話をお聞きしたことがなかったのです。
以前からずっと、「この人の話を聞きたい」と思ってきたのです。

●「無知の知」
廣畑さんを初めて知ったのは、2014年にポレポレ東中野で見た「無知の知」(石田朝也監督)というドキュメンタリー映画を通してでした。
これは原発事故後、“それまで自分は原発について何も知らなかったということを知った”石田監督が知らずにきたことを知ろうと思い立ち、被災者や政府関係者、原発推進者、その他の人など、ニュートラルにさまざまな立場の人たちへインタビューを試みたドキュメンタリー映画です。
もっともっと評判になっても良い映画だったと思うのですが、残念ですが多くの人の目には触れなかったのではないかと思います。
ここに廣畑さんが出てきたのです。
石田監督がこれを撮ったのは2013年だったと思いますから、小高はまだ避難指示解除にならず、昼間だけ一時帰宅が許されていた時期です。
映画に出てきた女性は、明らかに怒っているのですが、でもまぶしい笑顔だったのです。
「え?この人怒っているのに、こんな風に笑っている。なぜ?どうしたらこんな笑顔で怒っていられるの?」
その女性にとても惹き付けられたのです。

●のらとも農園
映画を見てから少し経った頃、寺内塚合第2仮設住宅に藤島昌治さんを訪ねた時に、偶然その女性に行き会ったのでした。
思わず私は、「あ、無知の知の人ですね」とお声かけしたのでした。
思い返せばずいぶん失礼な言葉だったと思いますが、映画で見た笑顔そのままに「あはは、そうですよ」と、それが廣畑裕子さんでした。
それから何度も顔を合わせ、その度にいつかゆっくり話を聞きたいと思いなかなか果たせず、そして今日だったのです。
寺内塚合第2仮設住宅の脇の広い草地には、ヤギ小屋と花畑、ビニールハウスがありました。
ハウスの中は野菜ではなく、花や花の苗が育てられていました。
それは廣畑さんが仮設の仲間たちと始めた「のらとも農園」でした。
今日、話を聞けば被災前の廣畑さんは、パソコンのデータベースを作る仕事に従いてたそうです。
デスクワークをしていた廣畑さんがなぜ「のらとも農園」を始めたかを、廣畑さんはDVDに記録したもので見せてくれました。
「時間が経てば忘れてしまうことを、記録しておきたいと思った」と言います。
2011年あの日、大きな揺れに見舞われ職場の窓からようやく外へ逃れ、子どもたち(当時高校生)はどうしているだろう、無事だろうか、不安でいっぱいになりながら自宅に向かいました。
いつも使っていた浜側の道は渋滞で進めず、山の方の道もまた渋滞、普段は決して通らない畦道を通って自宅に向かおうとしましたがラジオの情報で津波情報を流れてきていました。
自宅は海側の地、蝦沢です。
家族はみな無事に、再会できました。
避難所を転々として仮設住宅に入居しましたが、誰もが不安でどうしていいのか判らずに居た日々でした。
できることをやろう、一歩でも踏み出そう、そうして種を蒔いたら、種を蒔いた姿に刺激されて育て方を教えてくれる人も居て、というように、互いにほんの少し一歩踏み出すことで刺激し合えて、少しずつ動き出せてきたのだということが見せてくれたDVDから伝わってきました。

●そしていま
もう1本のDVDは「震災から5年半 いま思うこと」。
昨年7月に避難指示解除になった小高(帰還困難区域を除く)ですが、やはりこれも「日々思うことは変わるし、時間が経てば前のことを忘れてしまうから」と記録してきたものです。
このDVDも、また先に見せて貰ったDVDにも折々の様子も写真で映されもするのですが、廣畑さんが忘れずに書き留めた言葉がずっと、文字で流れているので私は見ていながら、それらの言葉を書き留められなかったのがとても残念です。
でも、廣畑さんと会話を交わす中で、紙に書き留めるのではなくDVDの画面に次々に現れ流れていく言葉を読み取ることが、却って廣畑さんの思いに添って居るのかもしれないと感じられました。
廣畑さんの中に、「刻々、人の思いは移っていく」のだという意識が強くあるのではないかと感じたのです。
始めに見せて貰ったあの日からのことを記録したDVDはここに来ないと見ることはできないようですが、後に見せて貰ったものは「ひろゆう」で検索するとYouTubeで出てきます。
他にも何本も載せていると言いますから、私も後でいろいろ検索してみようと思います。

●「ゴミの出し方を教えてよ」
廣畑さんの自宅があった蝦沢には、焼却炉が建てられました。
現在は相馬の息子さんの家に“居候”をしていますと言う廣畑さんに、「これからはどうなさるおつもりでしょう?」と聞くと、「考えていません」との答え。
これもまた、その時の状況で人の思いは変わるけれど、その時々にできることを精一杯やっていく中で、自ずと道ができていくということなのでしょうか。
「帰還とか戻るとか言う言葉は違うと思う。戻れっこないんだから。避難指示解除になってから元の自宅に帰って住んでる人も、戻ったんじゃなくて元の家に住むことを選んだ、選択したんだから、戻ったってことじゃないのだ」
廣畑さんはそう言います。
私も同感です。
実際に自宅に戻って暮らしている人たちに会い話を聞けば、それは決して元の生活ではないのです。
6年間の空白があって、その空白は埋めようがないのです。
避難してあちこちを転々としていたとき、そこでのゴミの分別の仕方やゴミの出し方が判らず、コンビニのゴミ箱に捨てるしかなかった(コンビニのゴミ箱は入れ口が仕分けられている)と言う廣畑さんは、「戻りたいけど作業員が居るから危険だとか怖いとか言うのを聞くと、悲しくなる。私たちが避難している時に“福島だ、放射能がうつる”とか“こっちに来るな”とか言われたのと同じことを、今度は私たちが言っているのと同じではないか」と言います。
ゴミの出し方を教えてあげるように接することが大事ではないか、と言います。
だから、野馬追の通路の草取りをみんなで一緒にしようと呼びかけた、小高の人も作業で来ている人たちも、みんなで一緒にやろうと呼びかけて、やったのだと言います。
草取りなんか喜んでやりたがる人は居ないけれど、「いやいや、渋渋」でいいから出てきて一緒にやろうよと呼びかけたのだと。
みんな考えていることも違うし、好きとか嫌いとかではなく「みんな違って、みんないい」でやっていこうよと、廣畑さんは言うのです。

●悲しみの方が大きい
廣畑さんが再稼働に反対なのは、原発が止まって居れば良いと思うからではなく、止まっていても津波で事故が起きたのだから「原発止めろ」ではないと言います。
再稼働に反対なのは使用済み核燃料の処理ができないのだから、反対するのだし、だから原発を作ってはいけないのだと言います。
けれども実際にはこれだけ原発が“在る”ことに、廣畑さんは怒りよりも悲しみを感じると言います。
廣畑さんの思いに、私も同感です。
そして廣畑さんは、「繋がっていて下さい。訪ねてきて下さい」と言い、いま取り組んでいるプロジェクトについて教えてくれました。
「クラウドファンディング南相馬小高(廣畑裕子)」で検索して下さい。
私もこのことを聞くまで知らずに居て、廣畑さんと別れて宿のビジネスホテル六角に着いてから、このページを開いてみました。
廣畑さんの思いが溢れています。
ぜひ、みなさんにも応援して欲しいと思いました。
ページを開いて見て下さるだけでも、お願いしたいと思いました。

いちえ


2017年5月14日号「お知らせ」

①〈トークの会福島の声を聞こう!vol.23〉の受け付けは始まっています。
ゲストスピーカーは、飯舘村の長谷川健一さんです。
3月31日に避難指示解除されましたが、果たしてどんな現状でしょうか。
長谷川さんのお話を、多くの方に聞いていただきたいと思っています。
皆様のご参加を、お待ちしています。
vol23

②HIS田植えツァーのご案内です。
前回の「トークの会福島の声を聞こう!」のゲストスピーカー菅野瑞穂さんからご案内が届きました。
二本松東和の瑞穂さんの田んぼでの田植えなど農業体験を通して、福島の現状を知るとても良い機会だと思います。
第1回の日程が、ちょうど長谷川さんにお話いただくトークの会「福島の声を聞こう!」と重なってしまうのですが、福島を肌身で感じ、知るには良い機会になると思います。資料を添付します。

福島の今を知り 

③デモクラシータイムス
先日のこの通信で、5月4日の渋谷のロフト9で催された「山城博治さんと語ろう」のことをご報告しました。
この催しは4月23日にも新宿のロフトで開かれていたのですが、その様子が
デモクラシータイムスYouTubeで配信されています。

以上、お知らせ3件です。
私は明日からまた南相馬へ行ってきます。            

いちえ


2017年5月5日号「5月3日・4日報告」

◎3日@国会前
「アベ政治を許さない!」一斉行動日でした。
この日は有明臨海公園で大規模な憲法集会が開かれていたので、国会前に参集した仲間は澤地久枝さんはじめ30名ほどでした。
国会議事堂内が一般の人たちに開かれて見学日となっていたので、大勢がぞろぞろと正門から入り、また出てきて、“国会議事堂大にぎわい“でした。
そのためにいつもよりもずっと多くの機動隊の車が国会を取り巻き、また機動隊や警官の数も多く出ていました。
私たちはいつも通り国会の正門に向かって立ち、「アベ政治を許さない!」プラカードを掲げました。
国会見学者は私たちを見て会釈をしながらすぎる人、「何だろう?」といった顔つきで見てすぎる人たちはいましたが、露骨に嫌がらせを言う人は皆無でした。
右翼の街宣車が、「憲法を変えるなと、馬鹿なことを言う奴らがいる」などと、がなってすぎました。
澤地さんが、先月は京都の集会に呼ばれて行っていたので国会前に参加できなかったけれど、京都でも1時きっかりにみんなでプラカードを掲げたことを話されました。
そして全国でこうして意思表示を続けていくことが、とても大事と話されました。
諦めてはいけない、諦めずに声を上げ続けましょう、と。

この日アベは露骨に「9条」改変の姿勢を表しました。
9条の1項、2項はそのままで、そこに自衛隊を明記するというのは、魂胆は国防軍として位置付けようということですから、大きな矛盾です。
戦争への道を突き進もうとするアベ政治を、絶対に許さない!

◎4日@渋谷ロフト9
 「山城博治さんと語ろう」が開かれました。
大木晴子さんが仕掛けてくださった会です。
 第1部は大木さんの司会で、「標的の島 風かたか」監督の三上智恵さんの挨拶と三上さんが撮りためたフィルムから、山城さんを特化して編集した25分の映像が流されました。
 そして山城さんが登壇、大きな拍手で迎えられました。
山城さんは、三上さんの映像にあった入院治療を受けていた頃のことから話を始め、5ヶ月に及んだ勾留生活、これまでの反基地闘争の闘いをお話くださいました。
 悪性リンパ腫の治療で受けた抗がん剤の副作用では、頭髪が抜けるだけではなく眉毛、まつげ、鼻毛まで抜け、全く人相が変わってしまったこと、免許証更新のために提出する写真は、その変わり果てた人相の時に写したものなので、何かの必要で身分証明書を提示しなければならない時に免許証を見せても、証明書の役を果たさないのだと、「見えないかもしれないですけど」と免許証を出して見せながら話し、会場を笑わせました。
 笑わせながらも、病気に負けずに絶対にゲート前テントに戻るんだ、戻ってまた闘うんだと、そのことしか考えていなかったから闘病生活も苦しくはなかった、もちろん辛い治療ではあったけれど、辺野古移設を許さない、沖縄に基地はいらないという思いが闘病を支えてくれたと話されました。
 勾留中も新聞は毎日1紙読むことはできたが、自分に関する記事は全て切り抜かれていたので、切り抜き部分の多寡で外の状況を推測したことや、外にいる仲間たちの励ましの声も聞こえて、元気をもらえたと言います。
毎日起床時刻、消灯時刻、食事時間も一定で、食事は3食、粗食だけれど健康には良い食事が出ていたことや、体がなまらないように運動も続けていたことなど話されました。
拘置所にはどこにも時計がなかったので、時間が判らないことが辛かったことなどをユーモアを交えて話す博治さんに、会場の私たちは勇気付けられ連帯の思いを一層強くしたのでした。

 休憩を挟んで第2部は鈴木耕(マガジン9条)さんの司会で、三上智恵さん、山城博治さん、福島瑞穂さん。井筒高雄(元自衛官)さん、元山仁士郎(SEALs琉球)さんのクロストークでした。
この日の様子は後ほどきっと、YouTubeデモクラシータイムスで流れると思いますから、そちらをご覧ください。
 第2部の最後は会場参加者との質疑応答でしたが、その中には強く考えさせられた質問と返答が幾つかありました。
*質問者:「2004年以降なかなか沖縄に行けずにいるが、その頃は沖縄の人たちと防衛局の職員が相対して座り込んで話し合っている姿をよく見ました。沖縄の人たちのそういう闘い方に大きな刺激を受け学ぶことが大きかったです。今は変わったようですが、そのことについてコメントをいただきたい」
*山城:「2004年は小泉政権でしたが、確かにその頃はそうでした。訪ねてきた人がいたら、お客が来たら、とにかく“座れ座れ”といって座らせてお茶出して沖縄の歴史やら話したもんです。そうすると向こうも座って聞いて、不覚にも涙を流したり、“判りました。また明日来ます”となんて言って帰って行った。
小泉政権から正式に伝わってきたのは、“沖縄に寄り添う。強行はさせない“ということだった。それで2005年に予定されていた工事は強行されなかった。
 ところが今のアベ政権は、全く違う。2005年の轍は踏まないという姿勢できている。
今、目の前にいる警察や保安庁は非常に荒々しくて憎らしいが、裏にいるのはアベ内閣です。アベ内閣が海上保安庁の長官に向かって、“2005年のような失敗をしたら君たちの組織は無いものと思え。組織解体してやる”と脅迫しているんです。
そして海上保安庁の人間を、外部からの人事異動ではなくて生え抜きの奴をトップに据えて、海上保安庁の沖縄県民に対する態度を根本的に変えたんです。
 それは警察も同じように言われている。
2015年までは、映画にもあったように警察と私たちは冗談も言い合った。
私は警察に我々もムチャはしないから、君たちも逮捕はするなと言い、そういう話ができた。
ところが2015年11月に警視庁の機動隊が150人来た時から、変わった。話ができない。
沖縄の警察も後ろから睨まれているから、暴力一辺倒。
それまでは山城博治がハンドマイク持ってガァガァ話してても、触ろうともしなかったのが、年が明けた1月からはもっと酷い。
“こいつ持っていけ!”と、一番先に引っこ抜かれるようになった。
国家の権力は暴力だと思った」
*質問者:「沖縄の米軍基地は侵略の拠点として使われてきたが、そのことについてお話をいただきたい」
*山城:「そもそも沖縄の基地は、東京を空襲するために作られた。判りますね?普天間基地・嘉手納基地は、東京・大阪を空襲するために作られた。だから沖縄の住民が見ている目の前からB29が本土爆撃に飛んで行ったんです。
1950年から朝鮮に爆撃に行きました。
1965年からベトナムに爆撃に行きました。
そして今アフガン、イラクに行ってます。
沖縄の米軍基地は、いつもそうやって沖縄から爆撃機が飛んで行った。
 その痛みを忘れてる沖縄人はいません。
第2ゲートを封鎖したのは、弾薬庫だから。米軍の海外戦争を止める運動をすれば米軍も恐怖するだろうということで、第2ゲートに座ることにしたんです。
それがわかってるから、米軍基地に手を出したらただじゃおかないというのが、今のような逮捕されている状況じゃないでしょうか」
*質問者:「最近、基地引き取り運動を提唱している人たちが各地にいて、沖縄にばかり基地を押し付けないで、東京で、大阪で、本土で基地を引き受けようということを言う人たちがいますが、そのことについてどうかんがえますか?」
井筒:「基地の問題はシンプルで、少なくともに憲法・法律の下で日本の法治国家権で米兵をコントロールできるように仕組みを変えることが第一です。
 第二には、日本だけではなく世界の警察としてアメリカがあまりにもいろいろな国に基地を置きすぎです。
そういう問題をどうするかを、基地を抱えている国とアメリカで政府間交渉する必要があると思っています。
 軽率に基地を引き受けると言いますが、基地を引き受けるということは覚悟が必要です。
戦争にダイレクトに巻き込まれることです。
戦争に巻き込まれたその時には、米兵だけではなく日本の中でも情報保全化ということで、必ず監視活動が強化されます。賛成派、反対派ということで選別をつけます。
基地を引き受けることは戦争に加担することですから、差別を生みます。
敵を作るんです。良い人たち、殺していい人たちという選別をつけます。
基地を引き受けるというなら、そういうことを全て判かった上で、基地を引き受けるという覚悟を持って欲しいです。
 それからお金の流れ、税金の使い方が変わります。
若者が死んでもいい人たちになります。
将棋の歩の駒といっしょです。
戦場では白兵戦になった時に、戦力に支障をきたす人たちは殺しちゃいけない人たちと、殺しても死んでもいい人たち、撃てって言ったら弾を撃つ人たちだけでいい。
死んでもいい人たちはいくらでも代わりがあるからです。
いみじくも稲田さんが言ったように、これからはどんな隊役でもいいから女性隊員を行かせると言ったのは、簡単なことなんです。
弾を撃てと言われて撃つのは、女性も男性も関係ない、撃てればいいからです。
死んでも代わりはいるから、戦力に変わりはないです。
駒は誰か?と言ったら自衛隊に高卒から入って4年以内の人たちです。
自衛隊も公務員なので3年、4年だと退職金も少ない、応急手当も少ない、戦争しない自衛隊には事故死か病死しかないんです。
死んでもいい人たちは、コストが安いんです。
 そういう現実を知ってください。基地を引き受けるということは」

 他にも沖縄から基地がなくなったら基地で働いていた人たちが困るのではないか?沖縄の産業はどうなるか?などの質問が出ましたが、元山さんから基地撤去後の振興策は既に横浜ミルクプラントという実績があり、基地閉鎖後の雇用など日本政府や自治体としてやっている例があるから、同様にできると返答があり、山城さんからは今でも観光立地の沖縄には多くの観光客が訪れている。基地をなくして基地跡をもっと観光にふさわしい施設にすれば、さらに観光客は増え産業は充実していくと答えがありました。
 博治さんは今は行動に制約があって辺野古や高江の現場には行けないが、全国を回って沖縄の基地問題を訴えて歩こうと思っていると言いました。
また今回の仕掛け人の大木晴子さんは、今後もこうした企画をやっていくつもりで、HPの「明日も晴れ」に情報を載せていくそうです。
 前述しましたが、youtubeデモクラシータイムスで、この日の様子はいずれ流れると思います。                           

いちえ


2017年4月30日号「4月28日報告」

◎東京地方裁判所前
 4月28日、12:00〜13:00、東京地裁前で福島原発刑事訴訟支援団のアピール集会がありました。
これは、裁判所は一日も早く公判を開くようにとの要請行動です。
 原発事故を起こし被害を拡大させた責任者たち3名、勝俣恒久、武黒一郎、武藤栄は昨年2月に強制起訴され、検察官役の指定弁護士からは既に4000点余の証拠が開示されているのですが、まだ公判が開かれていないのです。
東京電力(そしてその背後には国が)の引き延ばし作戦で、未だに公判が開かれずにいるのです。
裁判では、証拠開示が行われないために公判が開けないことはあっても、証拠が揃っているのに公判が開かれないのは、極めて異例なことと言われます。
被疑者側の抵抗が、よくよく強いからだと思われます。
この日、裁判所内で第2回公判整理前手続きが行われるのに合わせて開かれた要請行動でした。
 始めに団長の佐藤和良さんの挨拶、そして広瀬隆さん、各地から参集した福島の被災者の方達、日本チェルノブイリ基金や他の方達から挨拶があり、最後に副団長の武藤類子さんの挨拶がありました。
その後、原告や支援者で100名ほどの参加者たちは地裁の建物に向かって、「私たちは、もう待てません!」「一日も早く公判を開いてください!」とシュプレヒコールをあげました。

 先日更迭されて復興相の座を降りた今村さんの言葉、あれを聞いた時私は、憤るよりも前に、たまらなく悲しかったです。
怒りは、「なにくそ!」というエネルギーを沸かせてくれますが、今村復興相の言葉を聞いたときには、悲しみに打ちのめされました。
あの言葉は一人、今村さんだけの心情ではなく、この日本の中に澱のように沈殿している“東北”蔑視を吐露したものではなかったかと思えてならなかったのです。
 なぜ東北というか?
九州、四国、中国、中部、関西、関東と言いながら、なぜそこは“東北”なのかと、腑に落ちない思いを抱えていました。
私がそう言うと仙台の友人は、「陸奥の国」「出羽国」を合わせた奥羽地方と呼ぶべきなのだと言い、また北東の方角は鬼門に当たるのだと言いました。
友人のその言葉から、そこは古くから蔑視され続けてきたのだということがまざまざと読み取れました。
「立場上、その言葉は許されないない」と、今村さんを攻めて首をすげ替えても、澱が消えずにある限り差別と蔑視は繰り返されるのではないでしょうか。
私の中に澱の因子はないだろうか、もし微塵でもあるなら、それを消すように努めるべきではないかと思っていたのです。
 今村発言を知った後、ずっとそんなことを考えていたのです。
そして昨日の東京地裁前での要請行動で、支援団団長の佐藤和良さんの挨拶を聞いたのでした。
佐藤さんの言葉は、胸に深く染みました。
佐藤さんは言いました。
「今村大臣の言葉は酷い、許せないという声も大きいですが、日本の政治の中に、原発を推進してくる政治状況の中に、あのような言葉を吐き出させる体質があるのではないでしょうか。
私たちは東北のまつろわぬ民として、誇りを持ってこの裁判を闘い抜きましょう」
「誇りを持って闘うまつろわぬ民」の側に、私も立とうと思います。
振り返れば2011年9月11日、明治公園での「さよなら原発集会」での、武藤類子さんの挨拶が胸に蘇ります。
「私たちは静かに怒りを燃やす、東北の鬼です」
今ネット上には、「#東北でよかった」が溢れています。
私も支援者の一人として原告と共に手をつなぐ鬼になって、一日も早く公判が開かれ、裁判官が被疑者に罪を下すよう見届けていきたいと思います。

◎参議院予算委員会傍聴
 東京地裁前での要請行動を終えて昼食を済ませてから、国会の参議院予算委員会の傍聴に行きました。
26日に今村復興大臣は「東北の方でよかった」発言で更迭され、後任の復興大臣は吉野正芳さんになりました。
吉野さんは閣僚経験がなかった人ですが、福島県出身ということから下された人事のようです。
この日の予算委員会は、吉野復興大臣への質問でした。
メモ用紙も持っていたのですがしっかり記録できず、最後に質問した議員の質問と吉野さんの答えだけは、メモせずとも頭にしかと刻み付けました。
「復興大臣としてやっていこうと思っていることは幾つかあるでしょうが、これだけは是非ということを一つだけ挙げてください」という質問でした。
吉野復興相は、こう答えたのでした。
 「帰還困難区域をなくすことです。除染して帰還困難区域をなくして、みんなが戻れるようにすることです」
吉野さんは各党議員の質問に答える際に、口を開けば「私は福島出身ですから」と繰り返し、だから被災者の気持ちはよく判るとばかりにそれを強調していましたが、「帰還困難区域をなくす」の一言で私は、この人はダメだなぁと思ってしまいました。
 帰還困難区域がどのような地形かも、除染にどれほどの効果があるのかも、除染した廃棄物をどう処理するのかも、何にも頭にはない人なのだと思ってしまいました。
 アベさんは、福島出身者に復興大臣の首をすげ替えれば、歴代の復興大臣の失態もなんとか乗り越えられると、浅はかな考えで及んだのでしょう。
そんな浅知恵で、被災者をたぶらかせるとでも思っているのでしょうか?
バカにするな!と言いたいです。

◎29日のことも
 29日には永山公民館ベルブホールで、「アイヌ民族との出会い、そして全国に暮らす人々のもとへ」というイベントがありました。
写真家の宇井眞紀子さんのスライドとトーク、上村英明さん(恵泉女学園大学教授、国際(人権)法、平和学、植民地論、NGO論)と宇井さんの対談でした。
主催は「多摩平和イベント実行委員会」で、18:45〜21:15という時間帯での会でしたが、参加者は私を含めて多摩市在住ではない人が半数近くいて、この問題に関心がある仲間が多い事、嬉しく思いました。
 宇井さんは長年にわたってアイヌの人たちを取材し続けてきて、これまでに発表されてきた写真集や、取材にあたっての姿勢に私は以前から惹かれていました。
宇井さんの新しい写真集『アイヌ、100人のいま』に関してのクラウドファンディングのご紹介は、以前に「一枝通信」でお伝えしましたが、刷り上ったばかりのその本も会場で販売されていました。
いま私たちの隣にいるアイヌの人たちを伝える、素晴らしい写真集ができました。
 上村さんのお話を聞くのは初めてでしたが、お二人の対談は、民族差別や排外主義が蔓延る現状のいま、とても意義ある対談でした。
上村さんのお話の中で、日本が近代国家の仲間入りをした明治時代以後に政治的・制度的に差別思想が固定化していったという点は、原発事故で鮮明になってきた「東北蔑視」
とも相まって、私は深く頷ける事でした。
会場で購入して帰った上村さんの著書『新・先住民族の近代史』、読むのが楽しみです。

 会の開会冒頭には、多摩市長の阿部裕行さんの挨拶がありました。
いま、平和集会や憲法集会などを持とうとするとき、主催者は会場確保にとても苦労します。
使用料が安い公共の施設は、国の姿勢を“忖度”してそうした意図を持つ集会には会場を貸さないようになってきているからです。
阿部さん自身がこの「多摩平和イベント実行委員会」初代代表だったそうですが、この日の挨拶の中でもハッキリと、アベ政権下の教育政策に対して異議を話されていました。
地方自治体の首長の姿勢が、そこに住む子供たちの未来に大きく影響して来る事を、改めて感じたのでした。                                 

いちえ






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