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2017年11月6日号安保法制違憲・差止請求事件第5回口頭弁論

 10月27日(金)、安保法制違憲・差止裁判が、東京地裁第103号法廷で開かれました。
法廷での様子と、閉廷後に衆議院議員会館で開かれた報告集会の様子をお伝えします。
長くなりますので、法廷での様子を①に、報告集会を②としてお送りします。
①の原告代理人の違憲陳述は、言葉遣いが法廷独特のものもあって判りにくいかもしれませんが、報告集会で噛み砕いた説明がされますから、合わせてお読みいただけたらと思います。

◎第5回口頭弁論
 今回は原告本人の違憲陳述はなく、代理人弁護士から原告らの主張に基づいた意見陳述がされました。
●原告代理人:古川(こがわ)健三弁護士
 被告は、集団的自衛権の行使は、行政訴訟法3条2項の詩文に当たらないと主張している。
しかしこの主張は、原告らの主張を正解せず、原告らが引用している判例に対する誤った理解に基づくものである。
1、処分性に関する最高裁判例について
 被告は、被告が処分性の一般的判断基準であるとする昭和39年最高裁判決は、何ら変更されておらず、原告が引用する病院開設中止勧告の処分性に関する平成17年7月15日の最高s第判例は、事例的な意味しかないと主張する。
 しかし、前記平成17年最高裁判例と同種事案である平成17年10月25日の最高裁判例において、藤田宙靖判事は補足意見の中で、昭和39年の判決の考え方を「従来の公式」と呼び、「従来の公式」は現代の複雑な行政メカニズムには対応できず、そのような事実関係のもとで「従来の公式」を採用するのは適当でない、との趣旨を述べている。
 そして、前記平成17年判決以外にも、最高裁は、「実効的な権利救済のために当該行為を抗告訴訟の対象として取り上げるのが合理的かどうか」という事例を考慮すべきと述べて、土地区画整理事業計画決定の処分性を否定していた従来の判例を変更した(最高裁大法廷平成20年9月10日判決)。
その後も処分性を拡大する判例が相次いでおり、最高裁が昭和39年判決の考え方をもはや維持していないことは明白である。
2、本件集団的自衛権の行使が、原告らに不利益な効果の受任を義務付けることについて
 被告はまた、本件集団的自衛権の行使等は、原告に何ら不利益な効果の受任を義務付けるものではないとし、その理由として、原告らの主張する「平和的生存権」「人格権」及び「憲法改正・決定権」の具体的権利性を争い、また、原告らの主張は、本件命令等にかかる事実行為が行われることにより必然的に我が国が戦争に巻き込まれるという過程が成立してはじめて成り立つが、そのようなことは言えない、という。
 原告の主張する権利の具体的な権利性についてはすでに他の準備書面で詳しく述べた。
被告の後段の主張は、原告の主張を誤解するものである。
原告らは、現に戦争が起きる場合はもちろんであるが、戦争が起きる危険性が生じることによっても原告らの権利が侵害される、と主張しているのである。
そして、集団的自衛権の行使が行われた場合、我が国が戦争当事国となることを意味することはジュネーブ条約に照らして明白であるから、戦争の危険は必然的に生じる。
3、厚木基地訴訟に関する最高裁平成28年判決について
 被告は、最高裁28年判決は、本件と事案を異にする、と主張する。
 しかし、最高裁28年判決及びその判断の前提とされた最高裁平成5年判決がいう「受任義務」とは、法的義務とは言えない。
厚木基地周辺住民が航空機運行によって受けているのは航空機の運行に伴う不利益な結果を受任すべき「一般的な拘束」であって、法的地位や権利関係の変動ではない。
 そして、最高裁平成28年判決は、健康被害そのものを認めているのではなく、不快感や健康被害への幅広い被害が、処分性及び損害の重大性を基礎づける、という判断をしたものである。
 この判断枠組みは、本件においても当然考慮されなければならず、「事案を異にする」という被告の主張は当たらない。
4、「行政権の行使」は民事訴訟の対象ではない、とする被告の主張
 被告は、横浜地裁での主張内容が本件の主張と矛盾する、との原告らの指摘に対し、「行政権の行使」は民事訴訟の対象得ない、という。
しかし「行政権の行使」であっても「公権力の行使」に当たらない非権力的行為が民事差し止め訴訟の対象となることは確立した判例であって、被告の主張は誤りであり、詭弁と言わざるを得ない。
 原告は被告が主張する「当該行為の属性」とは何か、また被告のいう「行政権の行使」が「公権力の行使」と同一であるか否かについて釈明を求める。
5、まとめ
 処分性の核心は、本件集団的自衛権の行使等が、原告らに対し、如何なる不利益をもたらすか、という点にある。
そしてその憲法適合性を具体的に検討せずして、処分性の判断をすることはできない。
 被告は、概念的で空虚な反論に終始することなく、集団的自衛権の行使の権利侵害性と憲法適合性について、正面から認否反論すべきである。

●原告代理人:福田 護弁護士
1、海外で武力行使をする自衛隊は「戦力」である
 ①原告らは、準備書面において、新安保法制法の内容の具体的違憲性、その制定による立憲主義の破壊、これらによる国のあり方の変容の危険等について論じた。
 新安保法制法の何が違憲なのか。
その問題の核心はやはり、自衛隊が海外に出向いて武力の行使をしまたはその危険を生ずることにある。
これを是認することによって、日本が戦争当事国となる機会と危険を大きく拡大した。
新安保法制法は、従来の政府解釈が、そうならないように設けていた最低限の歯止めの、根幹部分を外してしまった。
 従来の政府解釈とそれに基づく防衛法性の基本原則は、日本の領域が外部からの武力攻撃によって侵害された場合に限って、その武力攻撃を日本の領域から排除するためにのみ、自衛隊による実力行使を認めるというものだった。
だからその活動範囲も、基本的に日本の領域またはその周辺の公海、公空に限るとされてきた。
従来の自衛権発動の3要件は、この原則の表現だった。
 ところが新安保法制法は、自衛隊が海外で集団的自衛権による武力の行使をすることを認め、あるいは海外での武力行使につながる後方支援、他様々な危険な活動を認めた。
このように日本の領域を守るだけでなく、海外を戦場として武力を行使する自衛隊は、もはや他国の軍隊と異なるものではなく、紛れもない「戦力」であり、「交戦権」の主体に他ならない。
②安倍総理大臣は、国会審議の中などで繰り返し、新法の下でも「自衛隊が武力行使を目的として、かつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません」「武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣するいわゆる海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるもので許されない。これは新三要件の下で集団的自衛権を行使する場合であっても全く変わらない」「他国の領域での武力の行使は、ホルムズ海峡以外は念頭にありません」、などと強調した。
 しかし、存立危機事態において「他国の武力攻撃」を排除する自衛隊の武力の行使は、その性質上当然に、当該他国の領域における武力の行使を予定するものであり、もちろん法文上のどこにも、外国の領域を不可として限定する規定はない。
すなわち新安保法制法は、自衛隊の海外での武力の行使を前提とするものだ。
政府も国会答弁で、「法理上」はそうなることを認めざるを得なかった(2015年5月28日衆議院安保法制特別委・安倍総理大臣・中谷防衛大臣答弁)。
2、新ガイドラインによる自衛隊の米軍と一体的行動の危険性
①2015年4月27日、新安保法制法の閣議決定・国会提出に先立って、法案の内容を先取りする新たな日米ガイドラインが両政府によって合意され、しかもその際安倍総理大臣が米議会で演説し、新安保法制法の制定を約束してしまった。
そのことの本末転倒、国会無視の問題性は言うまでもないが、そのことに象徴されるように、新安保奉仕法は新ガイドラインの実施法であり、米軍支援法にほかならない。
 そして新ガイドラインは、平時から有事まで「切れ目のない、力強い、柔軟かつ実効的な日米共同の対応」を目的とし、その共同対応体制として、平時から緊急事態までのあらゆる段階に対処するための「共同調整メカニズム」の整備を定めた上、新安保法制法による新たな、そしてグローバルな自衛隊の諸活動と米軍の共同関係を定めている。
②ここで重大なのは、新安保法制法によってこれまでの憲法の制約を破って可能とされた集団的自衛権の行使、戦闘現場近くでの物品・役務の提供、PKOにおける駆け付け警護、米軍の武器等防護などが、この新ガイドラインに基づいててアメリカから要請されれば、これに応じて自衛隊が米軍と共同・連携し、あるいは一体的な行動をとることになることだ。
日本はもはや、憲法9条によって禁じられているからとの理由で、これらのアメリカの要請を断ることはできなくなってしまった。
否むしろ、アメリカのこのような要請に応えるために、新安保法制法が制定されたと言うべきだろう。
3、新安保法制法の適用事例の危険性と問題性
①原告らは、去る8月10日、追加の提訴をして、PKOにおけるいわゆる安全確保業務と駆け付け警護の実施、及び自衛隊法95条の2に基づく米軍等の武器等防護の実施の差止めを求めた。
これは、新安保法制法が制定・施行されてから現実の適用事例が発生し、その危険性が明確な形をとって現れたからだ。
②PKOの駆け付け警護等については、相代理人が述べるが、もう一つの武器等防護は、本年5月、北朝鮮に圧力を加えるために日本海に米空母カールビンソンの艦隊が展開する最中に、防衛大臣の命令により、自衛隊の最大級護衛艦「いずも」ほか1隻が、米軍補給艦の武器等防護のための護衛の任務に就いたものだ。
これは米軍艦船に武力攻撃とまでは言えない侵害が発生した場合に、自衛官に米軍艦船の防護のための「武器の使用」を認めるもので、場合によってはミサイルの発射までもそうていされるものだ。
 この武器等防護の発令は、トランプ政権は軍事力を誇示して力による外交を展開し、これに対抗して北朝鮮が弾道ミサイルの発射を繰り返すという、米朝関係が極度に緊張する状況の中で、日本が米軍を守ろうという立場に軍事的にコミットするもので、これによって日本は明確に、軍事的対立の当事者となったことになる。
 さらに、報道によれば、今年5月以降数回にわたり、自衛隊の補給艦が、日本海等で弾道ミサイルを警戒している米イージス艦に燃料を補給しているが、これは物品・役務の提供の機会を拡大した改正自衛隊法100条の6に基づくものと解される。
これもまた、自衛隊が米軍と共同して、北朝鮮の弾道ミサイル警戒活動を行っていることになり、日本を米朝の対立の当事者にしてしまうものだ。
③もともと日本は、北朝鮮と対立関係にあったわけではない。
対立当事者はアメリカと韓国であり、北朝鮮のミサイル発射や核実験もアメリカに対する対抗戦略であることは明らかだ。
上記の自衛隊による米艦防護や物品・役務の提供は、その他国同士の軍事的対立に割り込んで一方的に加担し、自ら危険を買って出る行為と言わざるを得ない。
新安保法制法と新ガイドラインんは、こうして日本を戦争の危険に導くものであり、戦力を持たず、武力の行使を抛棄し、平和主義のもとに国民の人権と生存を保障しようとする憲法9条に真っ向から反するものにほかならない。
4、処分性に関する予備的主張について
 原告らはこれまで、本件における行訴法3条2項にいう「処分」について、集団的自衛権の行使等という事実を捉え、これらの事実行為が原告らの平和的生存権等の権利を侵害し、その侵害状態の受任を強いるものとして、原告らに対する公権力の行使に当たると主張してきた。
 このたび行政法学の大家である兼子仁東京都立大学名誉教授から、このような処分の捉え方は行政法条適法と考えられるとの意見とともに、集団的自衛権の行使に先立つ自衛官に対する関係大臣の命令を処分として捉える方途について示唆をいただいた。
 このような意見及び本件請求の趣旨等を総合考慮し、本件処分の捉え方について、予備的請求原因としての主張を追加したく、書面の通り主張する。

●原告代理人:武谷直人弁護士
PKO新任務と任務遂行のための武器使用の違憲性
1、はじめに
 強行採決された新安保法制の一つに、国連平和維持活動協力法いわゆるPKO協力法の改正がある。
 この改正で、自衛隊が行える活動領域が大きく拡大された。
それはいわゆる「安全確保業務」(住民・被災民の危害の防止等特定の区域の保安の維持・警護などの業務)と「駆け付け警護」(PKO等活動関係者の不測の侵害・危難等に対する緊急の要請に対応する生命・身体の保護業務)が追加され、それと共に、武装勢力等の妨害を排除し、目的を達成するための強力な武器の使用、すなわち任務遂行のための武器使用が認められたことだ。
2、国連平和協力法制定の経緯
①PKO協力法制定に至る論議
 そもそもPKO協力法は、いわゆる湾岸戦争契機に湾岸戦争後の国連貢献策の名の下に成立した。
 この審議過程において最も大きな争点となったのは、自衛隊の武器携行とその使用についてだった。
PKO協力法は、自衛隊が平和維持軍に参加する以上は、国連の指揮の下で、組織的な武力行使をせざるを得ないことになり、国連平和維持軍への参加は、武力の行使を禁じた憲法9条に反すると当初から批判されていた。
しかし政府は、「平和維持軍(PKF)への参加は当面凍結され、いわゆるPKO5原則(ⅰ停戦合意の成立、ⅱ紛争当事者のすべてのPKOへの参加の同意、ⅲPKO活動の中立性、ⅳこれらいずれかが満たなくなった時の部隊の撤収、ⅴ生命等防護のための必要最小限度の武器使用)を設けることによって、憲法9条には違反しないととして、1992年6月に可決成立させた。
このようにもともとPKO協力法そのものが、PKO5原則の下でかろうじて、合憲性を維持しようとしていた。
3、PKO活動の拡大(今回の新任務付与)の違憲性
①PKOの役割の変化
 さらに新安保法制においてPKO活動における自衛隊業務の拡大の背景には、国連のPKO活動の変質・変遷がある。
 従来のPKOは、PKO5原則の下で行うことが活動の中心だった。
 しかし、1994年、ルワンダにおける停戦合意の崩壊、PKO部隊の撤退による大量の住民が虐殺される事件が発生したことを契機として、国連PKOの性質も変化し、「停戦や軍の撤退などの監視活動」だけでなく、紛争当事者による住民の虐殺などが発生した場合には、停戦の有無と関係なく、PKO部隊は、紛争当事者と「交戦」して住民を保護するという「住民保護」もその目的となった。
 これでは、そもそもPKO5原則すら維持できず、特に必要最小限の武器使用という原則も通用しなくなる。
②PKOにおける新任務及びそれに伴う武器使用の違憲性
 今回のPKO業務の追加と武器使用権限の拡大について、政府は、PKO業務において、紛争の一方当事者との抗争に至ることはないとしている。
 しかし、南スーダンでPKOに参加していた陸上自衛隊が2016年7月11日から12日に作成した日報には、「戦闘」という言葉が多用されており、まさに、停戦合意が崩れ、現地では戦闘状態が現出していることが明らかになった。
かかる状況下において、仮に自衛隊が駆け付け警護のために武器を使用したとすれば、それは戦闘行為からさらに政府軍ないし反政府軍に対する武器の使用に至る危険性は明白であった。
4、結論
 以上の通り、南スーダンの事例を見るまでもなく、今後、再び紛争地帯においてPKOに寄って派遣された自衛隊が武器を使用する事態が生じる場合には、これは単なる「武器の使用」ではなく、「武力の行使」というべきである。
従ってPKO協力法における新任務は、もはや政府の従来の解釈で正当化することはできず、これは武器の使用を禁止した憲法9条1項及び交戦権を否定する憲法9条2項に違反することは明白だ。

*法廷での意見陳述はここまでです。
報告集会については②に続きます。          

いちえ


2017年11月4日号「10月20日トークの会報告③」

 10月5日に東電本社でドキュメンタリー映画「Life 生きてゆく」の上映会があり、木村さんもそこに行って東電社長にあったそうだが、どんな話をしたのか?
(注:この映画は映像ディレクターでジャーナリストの女性、笠井千晶さんが作ったドキュメンタリー映画で、南相馬の上野敬幸さんに取材した作品。
上野さんも木村さんと同じように家族が津波の犠牲になり、原発事故で捜索が阻まれて父親と長男が行方不明となった。
「そこにあった“命”の存在を、どうしても皆さんに知って欲しくて」監督はこの映画を作り、しっかりと上野さんに寄り添ってその思いを汲み取っている。
映画の後ろの方で、木村さんも出てくる)
●許すことはできない
 汐凪の遺骨が見つかったことが報道されたのは12月25日だったが、それから1、2週間経ってから、東電復興本社の社長 I氏から謝罪と焼香をしたいと連絡が来た。
白馬に来たいということだったろうが、白馬ではなく大熊に来て欲しいと言い、大熊で話をした。
 I氏とは以前から面識もありFBでも繋がっているが、その連絡をもらった時にまず感じたのは、遅すぎるということだった。
大熊で会った時に、「謝罪というのは東電としてか」と問うたが、それには答えがなかった。
東電としての謝罪なら判るが、彼個人から何か悪いことをされたわけでないから、謝罪される筋はなく、受け入れられなかった。
震災直後は東電も事故後の処理が色々大変だっただろうから、すぐに来いとは言わないが5年以上も経っていては、謝罪が遅いと思った。
裁判などに訴える気もないが、許すことはできないと話した。
 ただしI氏は福島に力を注いできたし、千晶さんの「Life」を東電本社で上映することになったのも、I氏が尽力したからだ。
上野さんとも懇意にしていて福島のいろいろなところでボランティアもされている。
だが、大熊でI氏と話した段階で、自分の中では東電との関わりはもう終わりだと思っていた。
もう関わりたくないと思ったのだ。
 夏のイベントが終わった後で千晶さんが白馬に来て、10月5日に東電本社で上映会をすると伝えられ、そこには東電社長も臨席するというので、ひとこと言いたくて参加した。
●人として、どう思うか?
 上映後に監督と上野さん、私で話をさせてもらった。
大熊で東電復興本社社長のI氏に言ったのと同じことを話したのだが、ちょうど前日の10月4日に原子力規制委員会は、再稼働を目指す柏崎刈羽原発6、7号機の適格性を容認した。
再稼働を認めるお墨付きを与えた。
企業としてはそうやって再稼働の方向に進んでいくのだろうが、人としてどう思うのかを聞きたかった。
自分はエネルギーを原発に頼るのはありえないと思っているが、あからさまに反対する気はない。
多くの人がそれに反対せず受け入れて生きているのだから、社会が容認しているということだろう。
けれど福島原発事故後のあの状況の中で、もしかしたら汐凪を見殺しにした可能性はあるのだと話した上で、柏崎刈羽を再稼働することが、人としてありうるのかを問うた。
 社長や他の社員とディスカッションする場はなく最後に社長が挨拶して終わった。
自分も興奮していて社長が何を話したか頭に残っていないが、「電気を作るのも命を守ることだ」と言っていた。
そうかもしれないが、順序が違う。
生きている人の命を守るために、もしかしたら汐凪は生きていた命を見殺しにされたし、野晒しにされたわけで、それで人の命を守ると言えるのか?
確かに命を守るために電気は必要かもしれないが、それは一部のことであり、全てではない。
生きるためだけを考えれば、必ずしも電気は必要ないのではないか。
電気を使わなければ、原発を動かす必要はないのだからと感じた。

 企業の鎧をかぶると、人の姿は見えなくなる。
木村さんと一緒に福島第一原発の視察に行った時に、視察参加者からの「再稼働は必要なのか?」という質問に、I氏は「裕福な生活を求めている方たちが居ますから」と答えた。
あの言葉を、どう思ったか?
●意識が変わらなければ
 あの時は悔しさと憤りで、とてもショックだった。
でも今思うと、実際にそうなのだと思う。
多くの人が便利で豊かな生活を追って、贅沢に電気を使う生活を求めているのだろう。
それでも原発が必要だというのは、おかしい。
我々が電気を大事に使おうという意識を持てば、原発は必要ないのではないか。
原発をなくそうと唱えても、電気を使う側の意識が変わらなければ、原発が止まることはないと思う。

*木村さんの話はこれで終わり、この後質疑応答です。
Q1、事故前は、原発に対してどう思っていたか?
A1、原発はあるべきではないと思っていたが、地元で職安に行って仕事を探すと、ほとんどが原発の仕事だった。
その地区の暮らしには原発の存在は欠かせず、それに依存してきたのが今の生活で、共存共栄という人もいれば、お世話になっているという人もいる。
学生時代にチェルノブイリがあったので、自分は原発には関わりたくないと思い、別の職業に就いた。

Q2、2日後に衆議院選挙だが、これについてどう考えるか?
A2、正直に言えば、国とは関わらずに生きていきたいという思いが強い。
コミュニティは大きくなればなるほど無駄も出てくるし、まとめられなくなる。
今の世の中は経済的にどんどん膨らんで無駄も出てくるし、自分が求めているのは多くの人が求めているのとは、真逆な気がしている。
政治については、判らない。

Q3、木村さんはFBでロヒンギャの難民の写真に「後ろめたさを感じる」と書いていた。
僕自身も木村さんに対して後ろめたさを感じているし、他にも僕がこれまでに会った何人かの人たちに後ろめたさを感じている。
木村さんがFBで書かれた「後ろめたさ」について聞かせて欲しい。
A3、ただ単に、当たり前のように何不自由なく生きているのに、他のところでは命の危険に晒されて飢えに苦しむ人たちがいる。
それでも、もっと豊かなものを求めたり、楽しいことをしたいとか、あそこへ行きたいなどと思うことは自分にもあり、一方でロヒンギャの難民のことを知ると、そんな風に豊かさを求めたり欲を持つ自分に後ろめたさを感じる。
自分が欲望を我慢すれば向こうの状況は少しは良くなるのかと思ったり…。
後ろめたさを感じるのは、そういうことです。

Q4、舞雪さん(一緒に暮らす長女)に、どういう風に生きて欲しいと思うか?
A4、大変な不幸な目に合わなければ、それで十分だと思う。
娘が置かれている状況は、震災を経験していたり、俺と一緒に白馬で生活することで普通とはちょっと違うので、娘にとっては不満とか、普通とは違うと感じているかもしれないが、それが彼女が置かれている状況なのだ。
あとは高校を出て彼女なりに彼女の思う生き方をしてくれたら、それで十分だ。

Q5、震災後、町の皆さんが離れて辺りは荒涼と暗く見えたが、今の大熊町の状況は?木村さんたちが菜の花畑など作って、温かみのある場所になってきたか?
A5、自由に栽培できるのは自分の土地しかない。
今年は自分の土地以外にも貸してくれる人もいたから1町2反、100平米くらいを菜の花畑にした。
自分の土地は3反しかない。
土地を貸してくれていた人も環境省に貸すことで印鑑を押したようなので、自分の土地の3反しかない。
 父が植木、花木が好きで植えていたので、それが育って庭らしくなっている。
浸水後に残ったものが元気で、特に椿が元気で増えている。
でもこうしたことは大熊町の中のごくごく一部でしかない。
雑草だらけだったところが環境省が整地して見た感じは整然としているが、大量のフレコンバックが運ばれて山になっているなど、以前とは違う。
それだったら雑草だらけのほうが良かったと。おもっている。

★トークの会「福島の声を聞こう!vol.25」ゲストスピーカー木村紀夫さんの話は、これで終わりです。
この日に話してくださったことも含めて、これまでの軌跡を木村さんは『たぁくらたぁ』に連載しています。
29号は特集記事「あれから2年、それぞれの選択」で「宿屋『深山の雪』、始めます」、
30号からが「白馬の森発 原発避難者の明日」としての連載です。
連載第1回は「放射能との付き合い方」、最新号43号は連載第13回「大熊の菜種油の意味。人として原発を考える」です。
お読みいただけたら、と思います。
★『たぁくらたぁ』購読のお申し込みは下記に。
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2017年11月4日号「10月20日トークの会報告②」

◎白馬での避難生活が始まった
●なぜ白馬だったか
 2011年3月から1年間は長女を岡山の妻の実家に預けて、自分は福島と岡山を行ったり来たりの生活をしていたが、出来るだけ娘と一緒に居たい思いがあった。
 大熊町が会津若松に仮庁舎や小・中学校を作り、多くの町民が移動して仮設住宅などに入っていた。
そこへ行くことも考えたが放射能への不安もあり、会津若松も震災前に比べて微々たる数値かもしれないが放射線量は3倍くらい高くなっているといわれていて、それは心配ない数値かもしれないが不安は拭えなかった。
 地震の発生時に最初の情報では3mの津波と報じられ自宅は安全と思っていたが、実際には10m以上の津波で家族を亡くしていたから、後になって後悔したくないという気持ちが強くあった。
また福島から通うことを考えると、岡山はとても遠かった。
1ヶ月に1度通うのでは長女と一緒に過ごす時間がしっかり持てないし、かと言って長女を福島に戻したくなかったので、ある程度福島に近くて放射能の心配がない地域として長野県を探していた。
たまたま都合の良いところが見つかり、長女は岡山に預けたまま、まず自分一人で白馬に移った。
長女は被災当時4年生だったから、岡山の小学校に転校して5学年を過ごしていた。
学年途中で転校させたくないことと、この1年間は、白馬で娘と二人で生活していくための準備期間でもあった。
●仲間ができた
 引っ越した当初は東京電力に対する思いが強く、賠償金をたくさん貰って土地を求めてそこを太陽光発電施設にして東電に電気を売ろうなどと考えていた。
初めて一枝さんが訪ねて来た時に同行してくれた雑誌『たぁくらたぁ』の編集部の仲間たちと触れ合う中で、「そういうことでもないのだな」と少しずつ気がつき始めた。
 電気のことで言えば、電気は当たり前にあると思われているが、原発をなくそうと言って大上段に構えるのではなく、できるだけ電気を使わず、できる範囲で電気に頼らない生きかたをしていきたいと思い始めていた。
そして長野でできたつながりの中で初めてやったことが、ロケットストーブを入れることだった。
もともとペンションだった建物で、セントラルヒーティングで各部屋に灯油のファンヒーターが付いていて、それを使うことはとても快適ではある。
しかし風呂も灯油のボイラーなので、冬場は一日中ボイラーを自動運転させると、1ヶ月の灯油代が4万円にもなってしまう。
繋がりを持った長野県の仲間たちに相談すると、「まず暖房設備だよね」という話になり、仲間の中にロケットストーブを作れる人がいて、ワークショップという形で2013年にロケットストーブを作った。
●ロケットストーブ
 ホームセンターで売っている時計型ストーブと、車のディーラーやガソリンスタンドで空になれば捨てているオイルのペール缶を使って作った。
それまではロケットストーブについて何も知らなかったが、それは木質燃料が燃える時に出る煙をもう一度燃やして、二次燃焼させて効率よく熱エネルギーにし、排気も少なくするものだ。
 ロケットストーブは食堂に作り、寝るまでの間は食堂で暖まり部屋に戻ったら布団に入れば朝まで凍えずに過ごせる。
寒い時には零下15℃くらいになることがあるが、それでも全く大丈夫だ。
 ロケットストーブを入れた最初の年は、薪を買っていた。
それまで燃料はお金を出して買うのが普通だと思っていたし、灯油も買っていた。
薪も買うのが当たり前だと思っていた。
けれど関わりを持ってくれた人たちを見ていると、薪を買っている様子がなく、それぞれのつながりの中で薪を頂いてきたり集めたりしていることを知り、自分もつながりの中で集めたり敷地内の枯れ木や、屋根にかかった枝を払ったりなどするようにして、それ以降は薪を買うこともなく冬の暖房費は抑えられている。
ただし娘に親の考えを押し付けるわけにもいかず、彼女の部屋には1台ファンヒーターを入れた。
●ボイラーは止めた
 風呂と給湯は大型のボイラーを使っていたが、ボイラーの具合が悪くなった時に点検を頼んだら、1時間ほどの作業に25,000円もかかった。
ボイラーは具合が悪くなっても自分で直せず、自分の手に負えないものを使って生きていくのはどうかと思い、風呂も薪にしようと思った。
去年の秋にそう決めて風呂を作ろうとしたのだが去年は作ることができず、ドラム缶に湯を沸かして、そこに風呂の湯を洗濯に使うためのポンプを突っ込んで先にシャワーノズルをつけ、室外で周囲を囲ってシャワーを浴びていた。
冬はそれでは無理なので、2、3日に一度、近くの銭湯(温泉)に行っていた。
 今年のゴールデンウィークに仲間に手伝ってもらって薪の風呂を作り、今はそれを使っている。
●ブレイカーも落とした
 ボイラーの使用をやめただけではなく、使わない部分のブレイカーを落とすようにした。
全ブレイカーを上げていると建物自体が電力消費するようにできているのか、たいして電気を使っていないのに電気代が嵩んでいた。
ブレイカーを落とすようにしたら電気代は、それまでの3分の1ほどになった。
電気を使っていなくてもブレイカーを上げていることで、電気系等の何かが動いているのだと思う。
 食堂はロケットストーブで暖かいので屋根雪は落ちるが、食堂の反対側は屋根の上に1mくらい積もった雪が締まって凍り重たい雪の塊になって、引き込んである電線を巻き込んで3月に一気に落ちた。
幸い断線をしなかったから良かったのだが、一瞬、これで電気を使うのも止めるかと考えた。
だが、さすがに娘もいるし全く電気を使わないわけにはいかないので、落ちて垂れた電線を直して電気は使っている。
この冬どうするか、それを悩んでいる。
娘も高校を卒業して他所で暮らすようになるだろうし、最終的には、2~3年後には電気は切ってもいいかなと思っている。

一枝;私が最初に木村さんをお訪ね時には、木村さん個人のお話を伺いに仲間を誘って行ったのだが、その時も、またその後も、木村さんが他の人たちとの触れ合いの中で考え行動してきたことは、原発事故を体験した私たちがこれから目指したい考え方、暮らし方を、木村さん自身が模索しながら示してくださっているように思う。
木村さんの発想が仲間たちとのやりとりの中で、渦のように沸き起こってくるのではないかと思う。
 今年も「忘れないから始まる未来」という催しをされたが、それはどういうものだったのか、お話しください。
●「忘れないから始まる未来」
 これは今年で4回目のイベントだが最初は自分の企画で、被災体験のトークと友人のミュージシャンのライブなどだったが、集まってくる仲間たちと企画を考えるようになり、去年から「原点回帰探検隊」という形で、去年はマッチやライターを使わずに木をこすり合わせて火を起こし、その日で料理をして食べる「火おこし」をやった。
 今年は小さなプレイルーム「汐笑庵(じゃくしょうあん)」を造り、その棟上げをした。
チェーンソウも電動ドリルも使わずに、集まってくれた仲間たちが人力で鑿(ノミ)を使って削り、それはとても大変だが、大変なことを楽しく感じられるイベントにしたいと思っていた。
自分一人ではそこまで考えつけないし、辿り着けなかったと思う。
 それは木村さんの方から言えばそういうことだが、集まる人たちからすれば、「自分のところでは出来ないけれど、あそこに行けばこういうことが出来るよね」という格好の場に「深山の雪(木村さんの住まい)」がなっているのではないか。

 白馬では着々と、新しい生き方で生活を進めながら、大熊では捜索だけではなくいろいろ活動されている。
大熊と白馬での繋がりは、どんな試みを考えているのか?
●大熊と白馬が繋がった!
 去年から始まったイベントの影響が大きい。
去年の春から大熊で菜の花を咲かせているが、去年の「原点回帰探検隊」では火おこしをやって盛り上がり、来年何をしようかという時に、菜の花を咲かせるだけではなく菜種油を絞って、その油で白馬に灯を点したらと考えた。
そう考えた時に、「大熊と白馬が繋がる!」と思った。
自分の中では、それはとても大きかった。
 ただ、放射能の問題があるので、油には放射能は移行しないと言われるが、実際に測ってみないと判らない。
実際に測ってみたいと思い、たまたま知り合った国分寺の「こども未来測定所」で測ってもらったら、国の基準では食用になるのが100ベクレル以下だが、大熊の菜種油からは、放射性物質はほぼ出なかった。
大熊の自分の土地は原発から3キロの場所で、空間線量は1〜2マイクロシーベルトだが、そこで取れた菜種油はセシウム137で0,167という値だった。
それを知って「食えるじゃないか」と思った。
●新たなアイディア
 燃料にしようと思って測ってもらったのだが、油からは出ないことを初めて確認できて、自分の中では、ちょっとした欲が出てきた。
大熊の菜種油を、食用として売ることはできないかと思っている。
その油のベクレル数値をはっきり明記して、原発から3キロ地点の大熊町で栽培した菜種から絞った菜種油であることや、栽培地の空間線量も隠さず明記した上で販売すれば、大熊がどういう状況にあるのかを知ってもらえることになる。
 もちろん売れたら嬉しいが、売れなくてもいい。知ってもらえればいい。
これはまだ自分の頭の中だけのことだが、いろいろな繋がりの中で少しずつ、もしかしたら実現するかもしれないという状況に来ている。
自分一人ではできないことで、環境省の協力も、町の協力も要るが、そうやっていけたらとても面白いと思う。
 大熊町は今、何もない灰色の町だ。
ああいう事故を起こしていながら、原発と共存共栄のような関係がまだある。
そうではなくて、あんな経験をしてこんな状態になったのだから、これまでとは違う新しい方向性を見つけていったらいいのではないかとおもう。
俺がやるより町の人がやっていったらうまくできるのではないかと思っているが、なかなかそういう風にならないので、きっかけを作りたいと思っている。
 町の人たちとの関係は?
 なかなか難しいところもあり、堂々とこういう話ができるのは一部の人で、関わってくれている人は協力的で有り難いが、自分のしていることに匿名で町や環境省に宛ててクレームをつける人もいる。
警察も町も目をつぶって認めてくれているが、捜索ということで許可をもらって入っているのに他のことをやっていると。
だから大熊での活動を大げさにFBに載せることなどしてはいけないと思うが、やはり発信は必要だと思うので「ごめんなさい」という気持ちでやっている。
●堂々と大熊に入りたい
 菜種油を実現することで、堂々と大熊に入れるようにしたい。
これはやってはいけないことなのだが、自宅の敷地に小さな小屋を建てた。
町の人も見て見ぬふりをしてくれているが、こそこそとではなく堂々と入るために、菜の花を利用できないかと考える。
 環境省が、もう一度捜索をしたからと、その場所に砂利を敷いてアスファルトにするかどうかという状況の中で、あそこに汐凪がいることを考えると、それは勘弁して欲しいと思う。
再来年は長女が高校を卒業するので、そうなれば自分が福島に居られる時間も長く作れる。
草が生えないように田んぼも耕運しているので、なんとかそのまま土のままにしておいて欲しいと思う。
菜の花をやりたいというのはそれが大きな理由でもあるが、でもやはり将来的なことを考えると、大熊が菜種油の一大生産地になるといいなと思っている。

*報告はもう1篇、次号に続きます。             


2017年11月3日号「10月20日トークの会報告①」

大変遅くなりましたが、先月催したトークの会「福島の声を聞こう!vol.25」の報告です。
長文なので3回に分けてお送りします。

◎トークの会「福島の声を聞こう!VOL.25」
 ゲストスピーカーは木村紀夫さんでした。
木村さんの自宅は東京電力福島第一原発から3キロ地点で、海岸戦から100mほど離れた海抜5〜6mのところに在りました。
津波で家は流され、父親の王太朗(わたろう)さん、妻の深雪さん、次女の汐凪(ゆうな)さんが犠牲になりました。
被災後は長野県白馬村で長女の舞雪(まゆ)さんと暮らしています。
 このトークの会では2012年12月の第4回で木村さんにお話いただき、今回は2度目のご登壇です。
昨年暮れに、行方不明だった汐凪ちゃんの遺骨の一部が見つかったことへの思いや、その後のことをお話いただきました。

●どのように捜索をしてきたか
⑴ 2011年
 2011年3月11日地震のあった時は職場の養豚所にいた。
5時頃自宅に戻ったら、自宅は流されてなくなっていた。
家族を探しに避難所に行ってみると母と長女がいて、父と妻、次女は見当たらなかった。
津波で流されたとは思わず他の避難所を探しても居ず、もしやと思い、再度自宅へ戻った時に、飼い犬がリードをつけた状態で山から駆け下りてきた。
室内で飼っている犬だったので、それを見て誰かが家に戻ったことがわかり、もしかしたらそこで津波の犠牲になったと思った。
 11日から12日の朝まで一晩中、懐中電灯で津波の浸水域のがれきの中を回って探したが、田んぼの中は潜ってしまうので立ち入れず、また懐中電灯一本では遠くまで見えず、声をかけながら探し歩いたが手がかりは見つけられなかった。
 12日の朝も一人で捜索を続けていたところへ地区の区長が来て、「原発がおかしいと避難指示が出た。生きている者を守るのが大事だ」と言われ、原発がそんな状態ならとんでもないことになるかもしれないと思い、避難所にいる長女と母と犬を連れて妻の実家の岡山に行った。
 岡山に彼らを送り届けた後で18日に福島へ戻り、再び捜索を始めようとしたが大熊町は警戒区域になっていて入れなかった。
津波から1週間経っていたがどこかで生きていると信じて、避難所を回り、「探しています」のポスターを貼って歩いた。
安置所にも通いつつ、スーパーなど200ヶ所くらいにポスターを貼ったが、情報は全く得られなかった。
 4月29日、無人のヘリコプターでのカメラに、家の田んぼにうつぶせで倒れている姿が写り父は見つかったが、それは被災から49日目のことだった。
49日間、野晒しにされていたということで、自分の中で東電の存在はとても大きくなった。
3月12日の避難のギリギリ時刻まで、地区の消防団の人たちは探してくれていて、その時に父の遺体が見つかった辺りから人の声を聞いたという人が何人かいたから、その時点で父はまだ生きていたかという思いもあり、見殺しにしてしまったという思いは消えなくなった。
 父の遺体が見つかるまで公な捜索活動は行われていず、自衛隊が入って捜索活動を始めたのは5月20日くらいからと、ずいぶん経ってからのことで、それはガレキを片付けながら2週間続けられた。
結局それでも見つからなかったが、自衛隊だから一生懸命捜索し、しっかりやってくれたのだろうと、その時点では信じていた。
その後、行政の人に連れて行ってもらって1日だけ自宅のある地域に入ったが、あれだけあったガレキがきれいに片付いていて、自衛隊はすごいなと思った。
その時点で妻と次女はまだ見つからなかったので、捜索したいのでなんとか大熊町に入れるようにして欲しいと町に頼んだのだが、なかなか許されなかった。
 6月1日、いわき東警察署から電話があり、4月10日に自宅から40キロほど南の海上で発見された遺体がDNA鑑定の結果で妻だと判ったと伝えられ、引き取りに行った。
すでに骨壷に収められた状態だった。
 その時点でも次女はまだ見つからなかったが、7月からは大熊町の住民の一時帰宅が叶うようになった。
ただし、それは3ヶ月に一度で、1回の滞在時間は2時間に制限されていた。
初めて大熊町に入って自分の手で捜索をしたのは、その年の秋だった。
広い場所を2時間という制限の中で、どこをどう探して良いかも判らないまま、海岸でガレキが打ち上げられているところを掘り起こして、畳2畳分ほどの範囲を探すのが手一杯だった。
3ヶ月後の次の時に行くと、前に探した辺りは海岸なので前の時とは様子が変わっていて、自分でも何をしているのか判らない状態だった。
やらなければならない、探したいという気持ちはいっぱいなのだが、何をどうして良いのか判らず、帰る頃には気持ちがすっかり落ち込んでいることがずっと続いていた。
⑵ 2012年
 1年後2012年6月に、警察や行政と一緒に入って捜索をする機会があった。
その時に、去年遺骨が見つかったガレキの中から、あの日に汐凪が履いていたと思われる靴が見つかった。
一緒に入った警察官の中で立場が上官らしい人にそのことを伝えたが、「そうですか」と言うだけで、そこから徹底した捜索になることはなかった。
警察の捜索といっても、土を削るような道具を使ってちょっと掻いて掘り起こし、目視するというやり方で、「あれで見つかるのか?」という印象だった。
だが捜索をする警察官も20代、30代の若い人ばかりで、当時は放射能について自分もとても神経質になっていたから、娘を探すために警察の若い人たちにここで捜索をしてもらってもいいのか?と思い、もっと探してくれるように強く頼むことができなかった。
これはもう、一生かけて自分一人で探していかなければならないと思った。
 あの時に「ここをもっとしっかり探してくれ」と言っていれば、その時に見つかっていたかもしれないと思うと残念だが、自分としては頼むことはできなかった。
同時に今思うのは、昨年末に汐凪の骨の一部が見つかった時の状態に比べたら、被災の年の5月に自衛隊が捜索に入ったあの時の方が絶対に見つけやすい状況だったと思う。
津波被害後のガレキを重機でつまみあげてダンプに積み、山にして置いてあったその山の一つからこの時に靴が見つかり、昨年は遺骨の一部も見つかったのだから、自衛隊の捜索時には、たとえバラバラであったとしてもまだ形の整った状態で見つけられたのではないか、もちろん想像でしかないが、そう思っている。
 その後、一時帰宅の機会も徐々に増え、年10回になり、また15回になり、現在は年間30日で、1回の滞在時間は5時間になった。
そういう経過の中で2013年までは、一人で捜索を続けていた。
⑶ 2013年
 南相馬の上野敬幸さんが「放射能なんか関係ないから探させてくれ」と、声をかけてくれた。
上野さん自身も親と長男が行方不明で震災直後から探し続けていたが、そこにはボランティアも集まってきていて、「福興浜団」として捜索活動やガレキの片付けを続けてきていた。
上野さんの申し出にも最初は、年若いボランティアたちに頼んでいいものかどうか逡巡したが、他にすがる先もなく、お願いして初めて一緒に大熊町に入って捜索してもらったのは2013年9月だった。
 靴が見つかったガレキの山がずっと気になっていたが、2階建、3階建くらいあるようなガレキの山で、重機を入れたくてもその許可が出ないので手作業でやるしかなく、ボランティアの人に「ここをやって」と頼むわけにもいかず自分でもどうしたら良いか判らなかった。
上野さんと福興浜団が2度目に大熊に入ってくれたのは10月か11月だったが、その時に、ボランティアの一人が何も言わずにそのガレキの山を掘り始めた。
自分でもそこがずっと気になっていたところだったので、その時からそのガレキの山での捜索が始まった。
そうは言っても、電柱や家の梁など人力では動かせないものが大量にあるのだが、できる範囲で掘り起こしながら捜索を続けた。
それでも人力でやっていては一生かかっても、そのガレキの山を探し終えることなどできない状況だった。
⑷ 2014年
 そんな状況下で、大熊町の自宅地域の津波浸水域について、県内で出た除染廃棄物の中間貯蔵施設にしようという話が持ち上がり、2014年6月に住民説明会があった。
国(環境省)としては、土地を買い上げて中間貯蔵施設にするよう話を進めるつもりだったろうが、自分は「売る気も貸す気もない」と説明した。
そうした施設が必要なことはわかるが、そこにいるかもしれない汐凪をまだ見つけ出せずにいるので、自分の土地だけは譲ることはできないと説明した。
すると、その時に環境省の担当者から返ってきたのが「その事実を知りませんでした」という言葉だった。
状況を把握しないまま、このような話を進めていることが信じられず、そんな話には自分はもう一切関わりたくない、この話は終わりだと思った。
⑸ 2015年
 その後もボランティアと一緒に捜索活動を続けたが、見つけるということについては全く先が見えなかった。
遺品などは大量に出てくるのだが汐凪は見つからず、ガレキも前とほとんど変わらない状態で作業も進まず、結果を出したい思いに駆られていた。
汐凪のためにも、また作業に入ってくれている仲間のためにも、結果を出したいと切に思い、国の力を借りないと先に進めないのかと思うようにもなってきていた。
環境省からはしきりに連絡が来ていたが関わりたくないので、それまでは無視をしていた。
⑹ 2016年
 結果を出したい思いから、2016年9月に自分から環境省に連絡を取った。
環境省は、中間貯蔵施設については津波浸水域には建物が建つ事はないと言い、ガレキの山の辺りを精一杯捜索をした後で造成し、緩衝地帯にしたいという。
そのためにまず、捜索をさせて欲しいと言い、こちらからも捜索をお願いするという事で話ができた。
 11月9日から重機を入れての大規模な捜索が始まった。
現場では環境省の役人とよりも、現場の作業長の人と打ち合わせながら「まずここを最初にやりましょう」という事でガレキの片付けを始めて、1ヶ月目の12月9日(金曜日)に汐凪の遺骨の一部が見つかった。
本当に、あっけなく見つかった。
あまりにもあっけなかったので、最初は信じられなかった。
ガレキの底の方の土の中から作業員のおばちゃんがマフラーを見つけ、土を払おうとパタパタと振ったら、頚椎の骨の一部がコロッとこぼれ落ちた。
それが最初だった。
そして同じ日に、歯のついた片方の顎の骨も見つかったと連絡を受けた。
翌日からの土、日で大熊に捜索に入る予定でいたので現地に行き、11日には反対側の顎の骨が見つかった。
 初めて現場で顎の骨を見た時は、ホッとした気持ちもあったし、一緒に行ってくれた仲間たちにも見て欲しいという気持ちが強くあった。
しかし、「ようやくここで見つかるまでに、これまで6年近くも経っていた」と考えると、その原因を作ったのは原発事故だと改めて思った。
そう思うと怒りよりもやるせない思い、申し訳ないという気持ちになった。
2011年3月12日にしっかり捜索していたら、父親と一緒に、もしかしたら生きて見つけてあげられたかもしれない、あの時に見殺しにしてしまったと言う思いが、どうしても消えない。
見つかった事によって、自分の中ではそんな風に逆に辛い思いが出てきた発見だった。
 今現在も捜索活動をしているが、環境省もどんどん作業は進めていて、捜索をした後は造成作業に進めていく。
捜索する場所が無くなっていくような状況だが、現在見つかっている汐凪の骨は、全体の2割ほどで、残りの8割の骨はどこかに埋まっている筈だ。
作業員の方は丁寧に捜索してくれているが、それでもやはり見落としはあるし、このまま一回捜索しただけで残りが見つからないまま砂利を撒かれアスファルトを敷かれてしまうことは耐え難い。
はじめに環境省にお願いした時にはそれでも仕方ないという思いだったが、今はそれがとても嫌で仕方がない。
自分たちだけでは進められない捜索で、どうしても重機の力、人手が必要なのだが、このままどんどん前に進められてしまうのがなかなか受け入れられない今の状況だ。

*ここまでは。木村さんのお話の前半です。
お話は続きますから「報告②」で記しますが、下記の本をご参照ください。
★『汐凪』木村紀夫(写真と文)/幻冬社ルネッサンス
★『汐凪を捜して 原発の町 大熊の3.11』尾崎孝史(写真と文)/かもがわ出版
★『3.11行方不明 その後を生きる家族たち』石村博子著/角川書店


2017年10月31日号「10月30日南相馬」

 南相馬へ行ってきました。
今回はゆっくりできずに日帰りでしたが、幾つか記憶に留めておきたいことがあって記します。
●バス路線の変化
 福島駅から南相馬へ行くにはバスを使いますが、運行会社が2社あります。
いつもは福島駅西口から出る東北アクセスを使いますが、時々は東口からの福島交通のバスで行きます。
どちらもコースはほぼ一緒で福島駅を出て国道114号線で川俣町に入り、そこから県道12号線で南相馬へ向かいます。
途中でのトイレ休憩停車は、東北アクセスが「シルクピア(川俣 道の駅)」、福島交通は自社の川俣営業所です。
 この日は福島交通のバスを使いました。
先月までは「福島〜南相馬・鹿島 高速バス」でしたが、「福島〜医大経由南相馬・鹿島 路線バス」に変わっていました。
福島駅東口を出ると国道4号線で福島医大前に停車し、それから県道に入って飯野町を経て川俣道の駅手前で国道114号線に合流して、そこからはこれまでと同じルートです。
路線バスになっても、福島駅東口から川俣町間の停留所では乗降できません。
でも川俣道の駅を過ぎて「飯坂学校前」停留所以降の停留所では乗降客がいれば、どこでも止まるのです。
だから飯舘村内各停留所で、乗降可能です。
どう言い表したらいいでしょうか?
うまく言えませんが飯舘村帰村は、こんなことからも「安心・安全宣言」されていくように思えました。
帰村者はほとんど高齢者ばかりで、自分で車を運転して動ける人ばかりではありません。
交通手段がなければそこで生活することができないのですから、こうして路線バスが運行されなければ、「帰りたくても帰れない」のは全く事実です。
だから帰村宣言したからには、路線バス開通は当然だとは思うのです。
思うのですが、何か釈然としないのです。
良かった!と素直に喜べない苦さが残ります。
でもこの日、「飯舘村までい館」や「ふれ愛館」を過ぎると、「草野本町」停留所から
乗車客があったのです。
私くらいの年配の女性でしたが、運転手さんに元気な声で「珍しいでしょ?ここから乗る人なんかあんまりいないでしょう」と話しかけていました。
「までい館」や「ふれ愛館」からの乗車なら地元の人ではなく観光客かもしれませんが。飯舘村の草野で乗ったのですから、きっと地元の人だと思うのです。
それを見れば、路線バスの開通は望まれていたことだとは思うのですが。
 南相馬から福島駅への帰路では、東北アクセスのバスを使いました。
こちらのルートは以前からと同じでしたが、途中のトイレ休憩のために停車する場所が、これまでとは変わっていました。
以前は「シルクピア(川俣道の駅)」だったのが、「いいたて村までい館」になりました。
私はやはりこれにも??と思いました。
 東北アクセスも福島交通も、乗車料金は、片道1,300円だったのが1,100円に値下がりして、たぶん行政から補助金(助成金?)が出てのことではないかと思うのです。
本当はまだ決して安全・安心とは言えない高線量地域に、どうにかして人を呼び寄せようとしているようにも感じられます。
 そこで暮らそうとする人たちには絶対に必要な交通手段であることは重々承知でありながら、素直に喜べない自分が悲しいです。
●寺内塚合仮設住宅
 談話室に居たのは菅野さんと天野さんの二人だけで、山田さんは居ませんでした。
自宅(小高の飯崎)の片付けに行っているとのことでした。
被災で傷んだ自宅の修復工事が済んで、それで片付けに行ったのではないのです。
大工さんが忙しくて、まだ山田さんの家の工事にかかれずにいるのです。
浄化槽が直っていないのですが、それもいつ工事が入るかわからない状況だと言います。
仮設住宅には来年3月まで居られますから、それまでには山田さんの自宅の改修工事も住むことでしょうが、これまでにもう既に6年経っています。
 山田さんも菅野さんも、押し車に頼らないと自分の足だけでは歩行が困難です。
初めて会った時の山田さんは、押し車が必要なのは外を長く歩く時だけで、例えば自室から談話室までは押し車に頼らないでも歩いてきていました。
でも、この6年間、狭い仮設住宅で過ごすうちに足腰は弱ってきました。
山田さん(84歳)より年長の菅野さん(86歳)は、なお弱ってきています。
二人とも押し車を使っても、平らな所ならいいですが、ちょっと凸凹があったり雨上がりで滑ったりぬかるんだりだと、もう動けません。
被災前には菅野さんは家事一切を自分でやっていましたし、山田さんは農家でしたから畑仕事もしていたし出かける時にはモーターバイクを運転していました。
 狭い仮設で体を動かすこともあまりないまま過ごしているうちに、どんどん機能が衰えてしまったのです。
これだって東電の原発事故による健康被害といえるのではないか、と私は思います。
 この日は山田さんには会えませんでしたが、菅野さんと天野さんの元気な顔を見てしばしのお喋りの後にお暇しました。                 

いちえ


2017年10月30日号「10月22日『福島の空はチベットに続く』」

◎奈須りえさん主催のお話会
 10月22日、投票を済ませてから大田区の男女平等参画センター「エセナおおた」へ行きました。
大田区議会議員の奈須りえさん主催のお話会に招かれ、「福島の空はチベットに続く」のタイトルでお話させていただきました。
 私は大田区民ではありませんが、奈須さんの活動に共感を持って以前から応援しているのです。
奈須さんからは最初は「福島のことを話して」と言われていましたが、少し後で再度連絡があり「チベットのことも話して」と言われたのです。
私にとっては願ってもないことでした。
と言うのも私の中では、チベットと福島では問題の根幹は同じだと思えているからです。
それで講演タイトルは「福島の空はチベットに続く」としたのです。

◎福島の空はチベットに続く
●まずはチベットのことを
①ごくごくかいつまんだチベットの歴史
 6世紀にソンツェン・ガンポという王が統一王朝を築くと王朝の力は大きく、一時期はチベットが西域を支配した。
東西文化の要衝の地でもあり、今で言えば「医学サミット」のようなものも開かれた。
6世紀に伝来した仏教は8世紀には国教とされ、その後一時廃仏運動が起きるが、再興して、暮らしや文化の基盤になっていく。
 近代になって欧米の列強国がアジアに植民地を求めて動いていた頃、チベットもロシアやイギリスなどが食指を伸ばそうとしていた。
20世紀初頭にはイギリスが通商条約を求めてラサに侵攻。
清がラサへ進駐しダライ・ラマ13世はインドへ亡命するが、清は滅び中華民国が成立して後、ダライ・ラマ13世は独立を宣言した。
 第2次世界大戦が終戦し、1949年年に中華人民共和国が成立すると、中国は「チベットを外国人帝国主義から解放する」宣言し、チベットに侵攻した。
1959年3月、ダライ・ラマ14世はインドに亡命し北インドのダラム・サラにチベット亡命政府を樹立した。
 中国が侵攻するまで、チベットは外国の統治下にあったことはなかったが、これ以後中国はチベットを自国に組み入れた。
「宗教はアヘンだ」として寺院や僧院は破壊され、続いて文化大革命が起きてチベットの文化や風習、伝統は否定され、その時までに残されていた僧院、寺院もほとんど全て破壊された。
 毛沢東が死去して文革が収束すると、鄧小平の時代になった。
鄧小平の打ち出した「改革開放」で、経済特区の設置、人民公社の解体、海外資本の導入などによって市場経済に移行していった。
 1980年代になるとチベットでは、宗教活動も復活し僧院の再建なども行われるようにはなったが、実際には政府の思惑はそれらは観光資源としての位置付けであり、チベット人の望む宗教活動が復活されてきたわけではない。
 少数民族政策は言葉とは裏腹に、宗教活動や言語教育など様々な点で自由が奪われている。
 2000年以降、「西部大開発」計画が実施されてくると環境破壊はいっそう進み、鉄道が開通してからは漢民族が大量に移住してくるようになり、それに伴って生活環境の急激な変化が起き、以前は農耕地帯と牧畜地帯では生産物の交易で成り立っていた暮らしも、現金がないと生活ができなくなった。
そもそも西部大開発のお題目は、市場経済導入によって豊かになった沿岸部と、相変わらず貧しい内陸部の経済格差をなくすというものだったが、実際にはチベットや新疆ウィグル自治区など西部の天然資源、鉱物や石油などの採掘や、水不足に悩む沿岸部にチベットに水源のある大河の上流域から沿岸部に水を送ることや、水力発電によって電力を供給することなどが主眼だったのではないかと私は思う。
鉄道の敷設によって内陸部の物価が安くなったのも開設当初だけで、その目的は実際には資源の搬出や漢民族の移住、兵員の輸送に便利なためだった?
拝金主義の経済体制の下で、民族間での経済格差も大きくなっている。
 2008年、北京オリンピック開催の年、ラサで起きた自由を求めてのデモンストレーションは、燎原の火のようにチベット全土に広がった。
これは北京オリンピックに反対しての抗議行動ではない。
上述したような環境破壊、経済格差、人権侵害、少数民族同化政策、経済格差などに対しての抗議行動で、北京オリンピックで世界の目が中国に向いている時だからこそ、中国の政治の実態に世界の目を向けて欲しいということからのデモンストレーションだった。
これに対して中国政府は仮借ない弾圧で抑え、チベット人の自由は大きく制限されていて、言論の自由もないし、非暴力で平和的なデモも許されない。
こうした状況に対する身を呈しての抗議が、焼身抗議なのだ。
だがチベット問題を考えるときに、政治問題だけで考えると中国政府を避難するだけで人ごとになる。
経済の仕組みを考えることで、我が事として捉えられるのではないか。
②チベットに通い続けて
 1987年の初めてのチベット行以来30年間通い続けているが、チベット人の暮らしぶりや言葉から学ぶことは多々ある。
*チベット医に言われた言葉「いつも怒っているようだが、心を平安に保ちなさい。薬を飲むより何より、それが大事だ」「状況を変えようとするのでなく、心を変えてごらんなさい」
*粉挽き小屋のおじいさんの言葉「世界では今あちこちで戦争をしている。みんなが武器を捨てて祈れば、戦争は起きないのだ」
*アコギな商売をする中国人に抗議しようとした私に、見知らぬチベット人が言った言葉「あんたがカリカリして何か変わるかい?それよりあんなことしかできないあの哀れな男のために祈ってやりなさい。あの男が来世はもっとよく生まれてくるように、祈ってやりなさい」
*田舎の小さな寺で祈っていた足の不自由な老女の言葉「この私の足や腰の痛みを、他の誰もが感じることのないように」
*咲いていた野草を摘んで押し花にしようとした私に、ガイドが言った言葉「今咲いている花を手折るのは、命を一つ殺すことだよ」
*夜、灯を目指して入ってくる虫をそっと捕まえて外に逃がすチベット人。逃してもまた入ってくるのだが、それを何度でも繰り返す。「だってあの虫は、もしかすると前世で僕のお母さんだったかもしれない」
③2008年以降のチベット
 2000年以降の状況や2008年からの弾圧が強まっている中で、チベット人たちは逆に自分たちの言語や文化を大事に守っていく気構えが強くなっている。
「今、自分たちが何かしようと思っても、それは卵が岩にぶつかるようなものだ。だから今はチベット語や文化をしっかり守り伝えて、やがて卵が堅く堅く、鉄よりも堅く岩を砕けるほどに堅くなるようにしていく」と言った元教師もいた。

●そして福島で
①再生可能エネルギームラ
 2011年8月から毎月福島に通ってきた。
「命より金」の経済至上主義が、原発ムラを生み原発を54基も造った。
経済のグローバル化で富は一部のところに集約していき、その勢いはますます強くなっている。
こうした状況は、現在の中国にもそっくり同様に見られる状況だ。
規制緩和というと何か良さ気に聞こえるが、グローバル化した経済と組んで、富があるところへますます富が集中する状況を生む。
 原発事故後、再生可能エネルギーが声高に叫ばれるようになった。
雨後の筍のように、ソーラーパネルはあちこちに出現している。
各地に大規模太陽光発電所が建設され、南相馬でも津波浸水域にメガソーラーが建設され、風力発電も建設する計画だ。
もちろん原発は絶対やめるべきだから、再生可能エネルギーに変えていくべきだ。
けれども今の状況を見ていると、新たに「再生可能エネルギームラ」ができているように思える。

◯◯ムラは、そうやって利害の一致するもの同士が組んで、利益を手中に収めようとするシステムだ。
原子力ムラも健在で、今もなお再稼働をさせる魂胆でいる。
②暮らし方を変えよう
 一方では、電気を当たり前に使っていた暮らしを見直そうという動きも、原発事故後は顕著に見えてきた。
真剣に省エネに取り組もうとすると、以前は“変わり者”扱いだったのが、大勢ではないにしろ肯定的に受け止められる空気が生まれてもいる。
暮らし方を変えようということが、普通に話される。
③意識の地殻変動?
 家族が分断された避難生活が長くなってくる中で、特に女性たちの意識が変わってきているように思う。
大家族の農家の暮らしで、家父長性がまだまだ残っていた生活が、「避難」で世代が別れた暮らしになった。
以前は家長の言うことに、内心はどうあれ逆らわずに従ってきた人たちが、自分の意識に目が向くようになったのではないだろうか。
高齢の女性が「これからは私の考えで生きていく」という言葉も聞いたし、「今までの家族制度は、考え直す時期にきている」という言葉も聞いた。
 また以前はIターンで田舎暮らしを選ぶカップルの場合、大抵は夫の方がサラリーマンを辞めて農業をしたいと言い出し、妻が付いて行くケースがほとんどだったそうだが、
最近は妻が主導権を持ってIターンに踏み切るという以前とは逆のケースが多いという。
これらのIターンは原発事故がきっかけではなくそれ以前からの傾向だそうだが、そういう傾向があったところに原発事故により避難ということが起きた。
 原発事故後は子どもの健康を守りたい一心で母子避難を選んだ女性も少なくないが、これに対して夫や身内から離婚を迫られた例も少なくない。
経済的な問題などから已むなく夫に従った人もいるだろうが、子どもと自身のこれからを考えて困難な中でも夫を説得して避難先で暮らすことを選んだ人もいる。
フェミニズムの意識が広がっている傾向のところへ、震災の避難生活がそれをなお後押ししたと言えるのだろうか。
●福島の空はチベットに続く
 受難のチベットだが、ダライ・ラマ法王はじめ多くのチベット人が亡命したことによって、チベットの文化が広く世界に知られるようになった。
 福島は大きな不幸を経験したが、そこから人々の中に意識の変革が生まれてきている。
 チベットと福島では問題の原因は、「被侵略」と「核災害」で違ってはいるが、どちらもその根っこに「命より金」という経済至上主義があるのではないか。
そしてこうした大きな受難に見舞われたときには、打ちひしがれてばかりいるのではなく、問題の根をしっかり見つめて行くべきだろうと思う。
でもそれだけではなく大変な状況の渦中でも、その渦ばかりを見ているのではなく、遠くを見つめるまなざしが大事ではないだろうか。
「卵が岩を砕くほど堅く堅くなる」日を見透すことや、誰もが「これからは私の考え方で生きていく」と思うようになる明日や、そんな遠い日を見るまなざしが、今起きている問題を見つめるのと同時に必要ではないか。

◎順序が前後して
 20日のトークの会「福島の声を聞こう!vol.25」の報告と順序が前後しましたが、奈須りえさんのお話会では、このようなことを話しました。
トークの会の木村紀夫さんのお話も、追ってご報告するつもりです。
 トークの会の前日の19日には、池袋でドキュメンタリー映画「憲法を武器として〜恵庭事件知られざる50年目の真実」の上映会がありました。
恵庭事件は北海道で酪農を営む野崎健美・美晴兄弟が、自衛隊法で起訴された裁判です。
野崎兄弟は法廷で「自衛隊の存在は憲法9条と憲法前文に反するものである以上、自衛隊法は違憲無効な法であり、それによって処罰されることはない」と、一貫して無罪を主張した裁判です。
映画も近いうちにまた上映会が開かれることと思いますが、会場で購入したブックレットを、ぜひご一読することをお勧めします。
『憲法を武器として 恵庭事件知られざる50年目の真実』
                  稲塚秀孝:著/タキオジャパン:発行
自民党の9条自衛隊可憲、憲法改変、絶対に認めることはできません。    

いちえ


2017年10月21日号「投票日を明日に控えて」

知人から下記のメールが届きました。
皆様にもご覧いただきたく、転送いたします。
天候が心配されますが、どうか棄権なさらず投票をお願い致します。

桜井均

「映像ドキュメント」&「ドキュメンタリー@工房」の桜井均です。
2年前に安保法制が強行採決されました。
1年前の参院選から、選挙権が18歳以上に下げられました。
この2年間、日米同盟が危機の元凶です。
Move Your Shadow(お前の影が邪魔だ)と言いたい。
去年つくった「18歳のためのレッスン」まだ使えます。
特に、若い人に転送、拡散をお願いします。

******************************

いまこそ『18歳のためのレッスン』を!

若者諸君、いま起こっていることは、「政権選択選挙」に名を借りた
一億総「保守化」の流れです。
投票はまず自分自身への一票です。
以下の『18歳のためのレッスン』のうち一本でも見て、
投票に行ってください。

第1回 小森陽一さん
安保法制と憲法 小森陽一さんとSEALDsメンバー[60分]
http://www.eizoudocument.com/0135komori&sealds.html
小森陽一さん安保法案を解き明かす[73分38秒]
http://www.eizoudocument.com/0134komori.html

第2回 樋口陽一さん
立憲主義と安保法制 樋口陽一さんとSEALDsメンバー[60分]
http://www.eizoudocument.com/0139higuch&sealds.html
樋口陽一さんが語る 一人ひとりの「個人」の自由の大切さ[24分34秒]
http://www.eizoudocument.com/0129higuchi.html

第3回 高橋哲哉さん
沖縄米軍基地と日米安保条約 高橋哲哉さんと学生たち[60分]
http://www.eizoudocument.com/0517takahashi&student.html
付録:高橋哲哉さんのアピール 2012年9月9日、国会前[3分45秒]
http://www.eizoudocument.com/0515takahashi.html

第4回 西谷修さん
ほんとうの戦争の話をしようか 西谷修さんと学生たち[59分54秒]
http://www.eizoudocument.com/0140nishitani&student.html

第5回 小林節さん
安全保障法は違憲だ! 小林節さんと学生たち[59分56秒]
http://www.eizoudocument.com/0142kokbayashi&student.html

第6回 浜矩子さん
グローバル市民の声が聞こえる! 浜矩子さんと若者たち[59分57秒]
http://www.eizoudocument.com/0703hama&youth.html

第7回 前田哲男さん
ガイドラインから〈戦争法〉を見直す─対立と軍拡ではない安全保障を考えよう
前田哲男さん[要約版59分・全編86分]
http://www.eizoudocument.com/0518lesson07maeda.html

第8回 ジャン・ユンカーマンさん
沖縄戦は終わっていない ジャン・ユンカーマンさんと若者たち[59分43秒]
http://www.eizoudocument.com/0519lesson08junkerman.html

第9回 澤地久枝さん
アベ政治を許さない 澤地久枝さんと若者たち[59分52秒]
http://www.eizoudocument.com/0144lesson09sawachi.html
澤地久枝さんの話「一人からはじまる」[30分17秒]
http://www.eizoudocument.com/0120sawachi.html

第10回 山田厚史さん
現代の貧困・格差 山田厚史さんと若者たち[59分57秒]
http://www.eizoudocument.com/0704lesson10yamada.html

第11回 徐京植さん
「日本国憲法」はアジアへの国際公約である 徐京植さんと学生たち[59分39秒]
http://www.eizoudocument.com/0146lesson11sokyonshuku.html                    

いちえ


2017年10月19日号「お知らせ2件」

◎お知らせ①
トークの会「福島の声を聞こう!vol.25」は、明日です。
木村紀夫さんのお話を、多くの方にお聞きいただきたいです。
木村さんの言葉は、きっと皆様の胸に深く響くと思います。
皆様のおいでをお待ちしています。
日 時:10月20日(金)19:00〜21:00(開場18:30)
場 所:セッションハウス・ギャラリー
    (新宿区矢来町158 2F:地下鉄東西線神楽坂駅出口1、徒歩3分)
参加費:1,500円(被災地への寄付とします)
主 催:セッションハウス企画室 電話:03-3266-0461

vol25

◎『たぁくらたぁ』43号発刊
〔信州発〕産直泥つきマガジン『たぁくらたぁ』最新号のお知らせです。
昨日発刊、刷り上がりホヤホヤです。
この最新号も、読み応えある記事満載です。
特集「当事者たちの真実」では、性暴力被害、原発被災、精神障害、当事者たちの言葉です。
上記「トークの会」のゲストスピーカー木村紀夫さんの連載記事もあります。
お申し込みは、オフィスエムにお願いします。
*Tel:026-219-2470  Fax:026-219-2472  e-mail:order@o-emu.net

この雑誌は執筆者の原稿料も編集も無償で、市民が自ら出資して創刊した非営利の雑誌です。
「タダほど強いものはない!」のです。
忖度も斟酌も一切無用、一部週刊誌のような「売らんかな記事」も拒絶している本音雑誌です。
是非、お手に取ってお読みいただきたい雑誌です。
明日のトークの会でも販売いたします。                     

いちえ


2017年10月19日号「裁判傍聴報告」

10月18日は「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」の第9回口頭弁論期日で、東京地裁103号法廷で傍聴してきました。

◎南相馬避難解除取消等請求事件訴訟
 この訴訟は、国が用いた年間20ミリシーベルトの基準での避難解除の是非を問う裁判です。
2014年12月、政府は南相馬市の特定避難勧奨地点に着いて、年間積算被ばく線量が20ミリシーベルトを下回ることが確実になったとして、避難解除市、その後順次支援策や賠償金を打ち切っています。
 地点に指定されていた世帯や近隣の世帯、合計808名が解除の取消を求めて2015年、4月・6月に、国(原子力災害対策現地本部長)を相手取って提訴しました。
●この裁判での原告の主張は
①公衆の被ばく限度が年間1ミリシーベルトを超えないことを確保すべき国の義務に反する。
②政府が放射線防護の基準として採用している ICRP(国際放射線防護委員会)の勧告に反する。
③政府が事前に定めた解除の手続き(新たな防護措置の実施計画の策定、住民等の意思決定への関与体勢の確保)を経ることがないまま解除を強行した。
●これまでの期日では
 原告本人からの意見陳述で、解除に至る意思決定の過程で住民が参加する機会がなく、住民の声を無視して解除が強行されたじじつがのべられました。
また、原告は放射能汚染に対して不安を抱えていること、解除によって帰還が強要されたことなどを主張してきました。
 ふくいちモニタリングプロジェクトが行った、原告の原発事故当時の自宅の放射線量に基づき、原告の95%以上の世帯について、推計年間被ばく線量が、公衆の被ばく限度とされている1ミリシーベルトを超えていることを主張しました。
そして同プロジェクトが行った土壌汚染状況資料も提出し、原告の約96%の世帯で、放射線管理区域の基準に相当する1㎡あたり4万ベクレルを超えるセシウム137に汚染されていることを主張しました。

◎10月18日第9回口頭弁論
 原告代理人弁護団長の福田弁護士が準備書面14について説明しました。
この準備書面では、これまでの原告の主張を中間的にまとめたもので解除の違法性について説明して記載しています。
①本件解除がICRP 勧告の放射線防護の原則に違反すること、②本件地域の放射線量(公衆の被ばく限度)や、③土壌汚染について考慮することなくなされた本件解除は違法であると主張しているものです。
 被告(国)は、ICRP の2007年勧告に基づいて放射線防護措置について様々な施策を策定してきたにもかかわらず、20ミリシーベルトで避難解除は、この勧告を無視しているものであると説明しました。
●被告の主張
 被告から提出された準備書面について裁判長から「これが原告への反論ですね」というような確かめがあり被告は、それを肯定して、特に陳述や説明はされませんでしたが、被告の反論論旨は次のようなものでした。
 「特定避難勧奨地点の設定は、住人に対する注意喚起といった事実の通知または情報の提供という事実上の行為であり、本件解除も事実上の行為であり、法律上直接の制約は存せず行政庁に広範な裁量に属するものであり、裁量の逸脱または濫用はない」
 「行政庁の施策、評価において依るべき科学的知見は通説的見解といえる程度に形成、確立されたものであることを要する。本件解除は通説的見解に依拠したものであるため、裁量の逸脱または濫用はない」

*この日は福島地裁で「子ども立つ被ばく裁判」第12回口頭弁論期日と重なっていましたから、支援者の多くは福島地裁への傍聴に行ったことと思われます。
東京地裁では傍聴の抽選はなく、希望者全員が傍聴席に入れました。
法廷では、被告が提出した原告主張への反論に対する再反論を福田弁護士が行って、他に意見陳述はありませんでしたから、短時間で閉廷となりました。
 次回の口頭弁論は2018年1月22日、午後2時から東京地裁第103号法廷で開廷される予定です。

◎報告集会
 閉廷後、参議院議員会館で報告集会が開かれました。
報告集会では原告団団長、副団長他原告挨拶の後、福田弁護士から法廷での陳述の説明があり、」また、ちくりん舎の青木一政さんさんから「バグフィルター 集塵率99,9%のウソをあばく」のお話がありました。
 青木さんは添付の資料を使って、除染で出た廃棄物を焼却、またリサイクルで建設資材にする危険性を説明してくださいました。
昨年8月に亡くなった環境科学者の関口鉄夫さんを思い出しながら、お聞きしました。

*福島原発訴訟は、この日に東京地裁で行われた「南相馬・避難20ミリシーベルト撤回訴訟」、福島地裁で行われた「子ども脱被ばく訴訟」の他にも各地で様々な裁判闘争が行われています。
「福島原発被害東京訴訟」は10月25日に結審です。
東京地裁103号法廷で開廷されます。
 先日の福島地裁での生業訴訟判決では、国と東電に責任があることが認められました。
これは先に千葉地裁で出された判決と並んで一歩前に進めた判決でした。
しかし帰還を断念している被害者を救済しない内容であったことや、原状回復義務を否定したことなど、完全勝訴とは言えない判決でした。
原告の訴えに沿う判決となるよう、支援と傍聴をお願いいたします。   

いちえ


2017年10月16日「チベットを生きる」ということ

◎キキソソチベットまつり
 13日〜15日、小諸のエコビレッジで「キキソソチベットまつり」という催しがありました。
長野県在住の在日チベット人のゲニェン・テンジンさん、柳田祥子さん夫妻が発起人で、今年で3回目になる催しでした。
「キキソソ」というのはチベット人たちが特別の日や峠を越える時などなど、節目になるような時に唱える祈りの言葉「キキソソ、ラーギャロー!」なのです。
神仏をはじめとして山や川、湖などの神々を讃えて感謝し、自分たちをお護りくださいと言う願いを込めて、ツァンパやタルチョを天に撒きながら唱えます。
 現在日本にはおよそ100人ほどの在日チベット人がいますが、日本の各地で暮らしている彼らは、日頃はチベットの文化とは離れた暮らしを送らざるを得ませんし、チベット人同士での繋がりも日常的には持てずに過ごしています。
チベット人たちが集い、自分たちの文化を楽しみながら、チベットを多くの日本人に知って欲しいと企画して続けてきた祭りです。
 私は14日に、ここで「チベットを生きる」というタイトルで講演をさせていただきました。
ゆっくりできなかったのが残念ですが、会場のエコビレッジは楽しい雰囲気が溢れていて、チベット人も日本人も子どもたちも笑顔がいっぱいでした。
 そこでお話ししたことを、下記します。
お読みいただけたら嬉しいです。

◎チベットを生きる
1、はじめに
 幼い頃に大人たちの会話で漏れ聞いた言葉「チベット」が心に残り、チベットにあこがれた。
話していた大人たちはチベットについて何か具体的なイメージがあっての会話だったのではなく、話の流れで「チベット」という名詞が出てきただけだったと思うが、その響きに私は反応したようだった。
子どもは、「大きくなったら◯◯へ行きたい」などと夢を語ることがあるが、私の場合◯○は、アメリカでもフランスでもアフリカでもなく、そこがどんな所か何も知らなかったのに、なぜかチベットだった。
それで子どもの頃のあだ名は「チベット」だった。
 初めてチベットについて具体的に知ったのは、中学2年生の時に読んだ新聞記事からだった。
川喜田二郎さんが隊長の、西北ネパール学術探検隊の調査報告だった。
記事の見出しは「チベット人、鳥葬の民」だった。
チベット人が暮らすネパールのドルポで文化や植生などを調査したもので、見出しにあった「鳥葬」についても書かれていた。
それを読んでチベットに一層惹かれるようになった。
 未知のチベットが、次にまた具体的に目の前に現れたのも新聞の記事でだった。
中学3年の卒業間近の時に「ダライ・ラマ法王インドに亡命」という記事が載った。
それを読んで初めて地理上だけではない、チベットの “位置”を理解した。
 チベットは憧れる所だけれど、行くことは叶わない地だと思っていた。
2、初めてのチベット行
 1987年3月25日、18年間の保育士生活に終止符を打って、「チベットの仏教寺院を訪ねる旅」というツァー旅行に参加し、高野山大学の松永有慶学長(当時)を団長に高野山のお坊さんや尼さんらとチベットに行った。
お寺には全く関心もなく、寺院の見学は楽しめなかったが、お参りに来るチベット人との触れ合いや、畑で農作業をするチベット人たちとの触れ合いがとても楽しく心に残り、
「この人たちと一緒にいると、なぜこんなに心が和めるのか」、その訳が知りたくなって、それからチベットに通い始めるようになった。
3、チベット医学院
 初めの頃は旅行の仕方も判らず、旅行会社のツアー旅行に参加したり、親しい友人が企画を立ててくれて一緒に行ったりと、いつも団体での旅行だった。
 チベット医学に関心があり、3度目のチベット行でラサのチベット医学院を訪ねてチベット医に受診した。
現代西洋医学とは違う診察法や投薬の仕方に、なおチベット医学への興味が増し、そしてまたチベットのことをもっとよく知りたいと強く思った。
4、個人旅行に切り替える
 団体旅行では行動の幅が限られることに気づき、自分で旅程を立てて個人旅行で訪ねるようになった。
だがそれでも車で移動しているだけでは、チベット人の暮らしや思いを知るのが難しく、馬で行こうと考え、1995年にほぼ半年かけてチャンタン(チベットの西北部高原)を馬で旅行した。
馬旅を通して、初めてチベットの深部に触れることができチベットに受け入れてもらえたように思えた。
5、チベット仏教って?
 初めてのチベット旅行は高野山のお坊さんたちと同行のお寺巡りだったが、その時に私の関心は仏教ではないと思い込み、馬旅までの間の幾度もの旅行では僧院を訪ねるのもあまり積極的ではなく、旅先に有名寺院があれば訪ねるだけだった。
馬旅でチベット人の日常や考え方に触れて、チベット人に深く根付いている仏教を避けていてはチベットのことはわからないと思うようになった。
それ以降は行った先の小さな寺院、僧院なども積極的に訪ねてきたし、高僧の法話なども機会があれば傾聴するが、正直に言って私には理解がむずかしい。
けれども、チベット人の日常の言動から学ぶことがとても多い。
6、出会った人々の言葉や振る舞い
*ギャンツェの博物館で「イギリス人はチベットに何をしたか」の展示を見て私が、「これを言うなら中国人はチベットに何をしたか」を展示するべきだ」と言うと、ガイドが言った言葉。
「それは違う。『中国はチベットに何をしたか』であって、中国と中国人はちがう」と。
*かかりつけだったチベット医が私に言った言葉。
「あなたにはこの薬が合っているけれど、でも薬よりも大事なことは、あなたはいつも何かに怒っているようだけれど、怒りを鎮めて平穏な心でいることが何よりもの薬なのだ」
*別のチベット医に通うようになったが、新たにかかりつけになった医師の言葉。
「状況を変えようと立ち向かうのではなく、心の有り様を変えて御覧なさい」
*馬旅で数日を共にした巡礼の尼僧が、別れを惜しんで涙する私に言った言葉。
「イチ、泣くことは何もない。私たちは共に幸せな時を過ごした。だからこれからは祈りなさい。祈っていればいつも幸福な心で居られる。元気な時も病気の時も、祈りなさい。そしていつも、幸せな心を保ちなさい」
*塩湖で。そこで採取している塩を買いたいというとたっぷりと袋に入れて渡された。
代金はいらないと言うので何かお礼を渡そうとしたら、叱られた。
「遠くから来たあんたにあげるのだ。人の行為は黙って受け取れ」
*粉挽き小屋のおじいさんは、ツァンパを買いたい私が小屋に入ろうとするのを止めて「祈りの言葉を唱えなさい」といきなり言ったので、私は釈迦牟尼仏、薬師如来、緑ターラー観自在菩薩の真言を3回ずつ唱えたら小屋に入れてくれて言った。
「最近は観光客が増えて大勢がやってくるが、祈りを知らない者にはツァンパは売らない。世界ではあちこちで戦争が起きているが、みんなが武器を捨てて祈れば、平和になるのだ。祈りを忘れてはいかん!」
*宿をとった招待所で。足の悪い女性服務員が魔法瓶のお湯を運んできてくれた。彼女が去った後で同行のチベって人たちが、彼女の歩き方を真似して笑った。それを見て私は、チベット人って、こんな風にハンディのある人を笑い者にするのかと思った。
さっきの女性服務員がもう一度部屋に来た時に彼女を笑ったチベット人たちが「お前の歩き方はこんなだな」と真似て見せると彼女は笑いながら、「そうなのよ。子供の頃から私はこうやって歩けるけど、あんたたちはこんな風には歩けないでしょ」と言い、笑った者も笑われた者も、言った者も言い負かされた者も、互いに声たてて笑いあった。
それを見て私は、彼らが彼女を真似て笑ったのは差別や蔑視ではなく、また彼女と彼らが笑い合ったのは違いを認め合っての笑いだったと知った。
*サカダワ(チベット暦の4月15日の祭礼)で中国人のあくどい商売を見て、怒りに任せて文句を言おうとした私に、見知らぬチベット人が言った言葉。
「あんたがカリカリと怒っても、仕方ないだろう。それよりあんな商売をする哀れな男のために、あいつの来世がよくなるように祈ってやりなさい」
7、2000年西部大開発計画により鉄道工事が始まると
 鉄道開通前には、物価が安くなるだろうという期待もあったが、一時的に物価は下がったが、それによって生活が楽になったわけではない。
以前は牧畜地帯の住民と農業地帯の住民が収穫期に交易で生活必需品を手に入れていたが、物産の集積馬や加工工場ができて、必要な品は現金で買うようになったので現金収入がないと生活できない。
 またビニールやプラスチックなど環境に悪影響を与えるゴミが散乱するようになった。
便利を求めればきりがない。便利は欲望を道連れにしてやってくる。
 また鉄道開通後は他省から移住してくる漢人が激増し、それもチベット人の暮らしに様々な影響を与えている。
8、良い人も悪い人もいるし、好ましい人も嫌な人もいる
 チベット人、中国人、日本人などを問わず、どの国にも良い人もいるし悪い人もいる。
チベット人の商人に確かに私は紙幣を10枚渡したのに、9枚しかもらっていないと言って誤魔化されたこともあるが、私が自分の手元に目をやって彼女が1枚を隠すのを見ていなかったからで、私の方に油断があったことだった。
 また生産者が道端で売っているバターを買ったときのこと、宿に戻ってバターを切ってみると、中に茹でジャガイモが入っていた。それで重さを誤魔化されたわけだが、それもやっぱり買った私たちに見る目がなかったと言える。近くに市場があったのだから、そこで買えばよかったのに、産直だからと信用してしまったのが迂闊だった。
9、2008年以降
 2008年に北京でオリンピックが開催されたが、それに先立ってチベットでは大きな抗議運動が起きた。
抑圧されてきたチベット人たちが、自由と人権を求めて各地で非暴力のデモを行った。
初めは、ラサで起きた数人の僧侶のデモが公安に抑えられ、それがニュースやネットで流れると、抗議行動はチベット各地に燎原の火のように広がった。
政府は強硬な弾圧に乗り出し、多くの人が拘束され虐待・暴行を受けて亡くなった人もいる。
そればかりか政府は、その後一層、締め付けを強化し、現在チベット人たちはチベット内での移動の自由も制限されている。
 少し大きな会社などでは、従業員はチベット人も中国人もいるが、以前は政府のやり方に関わらず互いにわだかまりなく、例えば昼時には誘い合って食堂に行ったりしていたが、あれ以来「僕たちと中国人の間には大きな溝ができてしまいました。僕たちは隣の人とは仲良く暮らしたいと思っていたのに、とても残念です」と、知り合いのチベット人は言う。
10、終わりに
 私が30年通い続けて、そこで見聞し感じてきたチベットを話しました。
この日の講演タイトルは「チベットを生きる」としましたが、チベットの人たちからは多くを学んできたし、これからも私は「チベットという生き方」を求めていきたいと思っています。
 チベット問題というと政治的な意味合いで語られることが多く、私自身も中国政府の少数民族に対する施政には憤りを抱き、強く抗議を申し立てます。
 けれどもチベット問題を語るときに、政治だけで語るのは違うように思います。
現在のグローバル化した経済システムから考えるべきことが、多々あるように思います。
政治問題とだけ捉えれば、自分は“正義”の場に立って中国政府を批判していればいいのかもしれません。
中国政府もグローバル経済至上主義にどっぷり浸かっています。
けれどもこの経済システムの中では、一部の富める者はより富んで、格差は大きくなるばかりです。
 チベット問題を政治問題としてだけではなく、経済問題として考えた時にこそ、チベット問題は人ごとではなく我が事としてとらえていけるのではないでしょうか?
 またチベット問題は、チベット人たちの自由や人権が抑圧されているだけではなく、文化が抹殺されることも大きく危惧されていることです。
言語や宗教や、暮らし方などなど文化に含まれる具体的な事柄は多々ありますが、それらの文字で表したり、映像などで記録していけるものばかりが文化ではなく、チベットの人たちの生き方そのものが文化なのだと思うのです。
「チベットを生きる」のタイトルは、そんな思いからつけたのです。
チベットという生き方は、「思想」と言っていいのではないでしょうか?
その思想が消されることを憂うるなら、消そうとする者への抗議だけではなく、その思想を受け継ぎ伝えていく努力をしたいのです。

長文、お読みくださってありがとうございました。
来月、亡命チベット人女性に取材したドキュメンタリー映画が公開されます。
多くの方にご覧いただきたく願っています。
東京では11月18日からポレポレ東中野で公開されますが、全国各地で公開予定されています。

いちえ
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