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2019年5月24日号「4月7日トークの会報告①」

大変遅くなりましたが、トークの会「福島の声を聞こう!vol.31」の報告です。
今回も大変長文になりました。3回に分けてお送りします。
PDF版ご希望の方はどうぞ、お知らせください。

●ゲストスピーカー
 この日のゲストスピーカーは、浪江町の佐々木茂さんでした。
私がみなさんに佐々木さんの話をお聞き頂きたいと思ったのは、参議院文教科学委員会を傍聴したことからでした。
 国会で原賠法(原子力損害賠償法)の見直し法案の審議がされていて、昨年11月29日には参考人を招致して参議院文教委員会が開かれ、私はその傍聴に行きました。
参考人は4人で、原子力損害賠償紛争審査会会長の鎌田薫さん、生業裁判の馬奈木嚴太郎弁護士、FoE Japanの満田夏花さん、そして津島訴訟原告団副団長の佐々木茂さんでした。
 どの議員がどんな質問をしたのか私の記憶から漏れてしまっていますが、佐々木さんは質問への答えの冒頭に「学者というのはバカで世間知らずだから」と言ってから意見を述べたのでした。
鎌田さんは元早稲田大学総長で、4人の内のただ一人、いわば“あちら側“の立場でしたから、佐々木さんの言葉は痛烈に鎌田さんの発言に異を唱えてのことだったのです。
 この日は馬奈木弁護士も満田さんも被災者の思いに沿った発言をされて、その言葉を議員たちは、どうかしっかりと受け止めてほしいと思ったのでした。
 私は佐々木さんの「学者というのは…」発言に大いに痺れて、次のトークの会では是非とも佐々木さんに話していただこうと思ったのでした。
●佐々木茂さんプロフィール
 1954年、浪江町昼曽根で生まれる。上に2人、下に2人と、きょうだいは5人。
早稲田大学社会科学部卒業後、竹中土木に勤務。
元浪江町議会議員1期を務め、また元(株)竹中土木福島営業所長として勤務。
現在は、津島被害者原告団の副団長をしている。
 2011年3月の被災時は、浪江町で家業の農業をしていた。
当時元気だった母親をその翌年に避難先で病気で亡くし、現在は障害者の弟とその子ども3人と共に二本松の復興住宅で暮らす。

◎佐々木さんの話
Ⅰ裁判のこと
●法廷では
 浪江町の佐々木茂です。
原告団680名で国と東電を断罪したいと、裁判(「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」)
をやっています。
 私たちの裁判は原発裁判の中でも後塵を拝して遅くに始まりましたが、約3年経って現在は第17回まで進んでいます。
 弁護士の先生たちが非常に熱心で2ヶ月に1度のペースで進んでいて、来年夏くらいには結審となり、再来年の3月には判決が出るでしょう。
これは裁判官が「そろそろ移動を希望したいが、その前に私たちに判決文を書かせるかどうか?」ということを言われ、私たちとの進行協議で「それなら急いでやろう。2ヶ月に1度を2日連続で進めていこう」となって、現在は個人尋問に入っています。
 個人尋問に入って、東電の弁護士は自分らに有利なことは何も言えていません。
前回の裁判で東電弁護士は、証言席に立つ原告の三瓶早弓(さゆみ)さんのところに賠償金額を記した書類を持って行き、「あなたはこれだけ貰っているだろう」と露骨なやり方で質問しました。
 原告の早弓さんは原発事故当時高校生でしたから、賠償金額など親に聞けるわけもありません。
「あんたはこれだけ貰っているんだよ。それなのに文句があるのか?」と、まるで頬を叩くような質問を続けました。
これは実に東電らしいやり方だと思った。
私が傍聴した群馬の裁判でも、これと同じようなことをしていました。
 原告団団長の今野秀則さんに対して、被告・国の代理人は、「ダムに沈んだ町には2度と戻れないが、あなたたちは書類を出せばいつでも帰れるではないか?」という質問をしましたが、これは大変失礼な話です。
●ヤクザのような国の代理人
 津島は面積が、およそ9550ヘクタールあります。
その中に、国直轄の大柿ダムという農業水利用ダムがあります。
私が住んでいるのは昼曽根、その下流が大柿で、それぞれ独立した村でした。
当時人口が80人くらいの小さな村ではありましたが、どちらも小学校の分校があり、中学校の分校もあり、農協も郵便局もありました。
それが、大柿ダムが出来て部落が半分消えてしまいました。
それで、大柿と昼曽根の二つの部落をつけて大昼地区という行政区にしたのです。
 大柿のダムに沈んだ家は町の方に引っ越したり、他所へ移住しました。
それは昭和45年以降の話ですが、それから何年経ったのか。
この間の私たちの苦しみを解ろうともしない国や東電の弁護士は、そうした歴史について全く勉強不足です。
歴史を勉強しなければいけない。
その土地土地に、どういう歴史があったのか勉強もしないで、ただ単に裁判に勝つか負けるかなど、そんなのはヤクザの商売と同じです。
こんなやり方で、私たちを攻めにかかっている。
 群馬の裁判では高裁の裁判を傍聴しましたが、国側の代理人は「私たちは正義のために闘います」と宣言しました。
国家公務員たる国の代理人が、国民に向かって「とことん闘います」。
どういう神経でそんなことを述べるのか、不思議でなりません。
誰が考えても、おかしな話です。
大切な税金、私たちが汗を流して働いた国家予算の税金でご飯を食べながら、おかしいですよね。
●弁護士費用はどこから?
 もう一つ、東電の弁護士のことで。
東電は弁護士に、たくさんお金を払っています。
私たちの弁護士はほとんどボランティアの状況で、それでもこの裁判は絶対に勝つぞという強い意識で応援してくれています。
私たちには少しの蓄えしかないのですが、それを出し合ってお願いしているからです。
 東電の弁護士は東電からガッポリ報酬を得ていますが、その原資は皆さんが東電に払っている電気料金からです。
じゃぁ東電に電気料を払っている皆さんは、福島の原発事故被害者に対して、どれほどのお気持ちを持っておられるのか?
「東電の弁護士、おかしいぞ!そんなことなら電気料を払わないぞ!」くらいの声を上げてくれてもいいではないかと思います。
Ⅱ私たちのふるさと
●金ではない
 私たちはこの裁判を通して、金銭的な目的は持っておりません。
一日も早く、故郷に返してもらいたいのです。
だから私たちのスローガンは、「ふるさとを返せ 津島原発訴訟団」なのです。
このタスキをかけてデモ行進をし、各地に出かける時もこのタスキをかけて、我々の意思表示をしています。
 なぜ金銭を目的にしていないのかというと、私たちはお金よりもふるさとが大事だからです。
そこはご先祖様が遺してくれた地で、そこで育った私たちが巣立って、東京や大阪、北海道などで暮らしているように、各地にたくさんの親戚たちがいます。
●ふるさと喪失
 事故前は、ふるさとを出たそれらの人たちが、夏休みや冬休みになると「じいちゃんやばあちゃんの居るふるさとに行こう」と言って帰ってきました。
豊かな自然溢れる津島に、大勢が移動してきました。
お盆になると、村の人口が倍以上になりました。
これは日本全国の村でもそうした情景があると思いますが、今は津島では、それら外へ出た人たちが帰ってくるふるさとが失くなりました。
 私たちの村でも夏になると、たくさんのお土産を抱えてお墓参りにみんなが帰ってきたものです。
津島には8行政区がありますが、それぞれが櫓を建てて盆踊りをやり、そこで景品を配ると子どもたちが、「来年も来るよ。来年はもっといい景品が出るといいな」などと言い、こっちは予算がないからハラハラしたりしますが、子どもたちのそうした声もまた楽しみでした。
そういう村の生活が続いていたのです。
 私たちのふるさとは人口が1400人で、戸数がだいたい450戸。
その半数は、満州などから引き揚げてきて、戦後に開拓者として入植した人たちです。
国有林を切り拓いたら3町歩くらいやるよ、何反歩なら分けてやるよと言われて、鍬やナタ、万能(マンノウ)という農機具を使って、食べ物もろくにない中で苦しみ抜いてやっと作り上げてきた土地なのです。
 それを、あっという間の出来事で、何が何だかわからないうちに出て行けと言われてしまいました。
私たちは国や東電に何一つ悪いことをしたわけではないし、また、何の恩恵を受けていません。
まぁ、一部にはそこで働いていた人もいたでしょうが、しかし、原発ができたおかげで潤った分も、マイナスになってしまったのが現実となりました。
 私の家は約300年くらい続いてきた村の中でも旧い家の一軒だと思いますが、しかし、営々となんとか生きてきた、しがみついて生きてきた、それが全部なくなってしまいました。
 私の家の前には川があります。
 子どもの頃から、春になったら魚を捕りに行きました。
そして夏なら、朝から川で遊んでいました。
川にはイワナやヤマメ、鮎が泳いでいて、それを捕るのが子どもたちの毎日の遊び、楽しみでした。
 私たちの村は「津島松」と呼ばれる真っ直ぐに伸びる良質の松の産地で、皇居の廊下は津島松ではないかと思います。
なぜそう思うかと言うと津島は相馬藩に属していて、関ヶ原の戦いでは応援に行かなかったのです。
そして藩政時代には、津島松は将軍家に献上されるようになりました。
皇居の一部を作るときに、良材である津島松があるぞということだったからです。
●奪われた暮らし
 松があるから松茸がある。
どの松山を見ても、松茸がある。
それぞれ個人が、松茸が生えるところを知っていて、そこを「城」と呼び、城の場所は親は子にも教えず、絶対に他人に教えない秘密の場所にしていました。
 猪の鼻(イノハナ)というキノコは香茸(コウタケ)とも言いますが、炊き込みご飯にすると大変美味しいキノコで、それは雑木林に生えています。
明るい場所では小さいのしか採れないが、笹薮と雑木が生えている場所では、大きい香茸が採れるところがありました。
 そうしたふるさと、キノコや山菜が採れるふるさとで、そんなに裕福な暮らしではないが、私たちは幸せに暮らしてきました。
Ⅲあの日から
●地震からの避難
 その生活を奪われて8年になります。
あの日、私たちはただ「今日は寒いなぁ」と思っていたら、ガタガタと地震がきた。
これまでの記憶にないような、大きな地震がきました。
私も含めてですが、みんな、まず周りの安否を考えました。
家の周りを見回せば、屋根の縁が落ちている、瓦が飛んでる、これはおかしいぞと、私はまず母親が住んでるアパートに安否を確認に行きました。
母は、町に住んでみたいと言って小さなアパートを借りて、一人で暮らしていたのです。
 母は無事で、更にその周囲には母の同級生がたくさんいたので、その人たちも訪ねて大丈夫かと確認しながら、何度も震度6とか7の余震が続いていましたから「おじさん、おばさん、ちょっと来なよ。そこの桜の木にしっかり捕まっていな」と、家が潰れちゃうような状態になっていたので外に出るように言いました。
 じいちゃん・ばあちゃんたちを木につかまらせてから、小学校へ行きました。
それは、小学校には弟の子どもたちが2人通っていたのです。
小学校の校舎の中では、机が飛んでいるような教室内に子どもたちが居ました。
 校長と教頭に「外に避難をしてくれ」と言うと、「あんたは何者だ」と言うのです。
「佐々木茂だ」と答えると「聞いたことのない名だ」と言うのですが、子どもたちはみんな、私を知っていました。
町長選を2回やり、町会議員を1期やってきたので誰でも知ってます。
校舎の中は机が飛んでいるのに、その中に子どもたちをそのままにしていたのです。
それで私は「ふざけるな!全員出なさい!」といきり立ったら、用務員さんが阻止してくれて、そして子どもたちを全員出そうと言って一緒に出してくれました。
それでも先生方はみんな、私の顔も見ず、「余計なことをしてくれるな」という顔をしていました。
 子どもたちを全員校庭に避難させたのは私ですが、でも誰も「ありがとう」でも何でもなく、「余計なことをした」という雰囲気で、これが私たちの町の実態かと、今も不思議に思っています。
 それから、兄の家が小高の海岸近くにあるので、津波が引いた後でしたが兄夫婦の安否を確かめに行き、二人は津波から逃げて無事だとわかりました。
●活かされない防災マップ
 私は昼曽根の自宅の他に町にも家があるので、次の日の早朝にその家を見回りに行きました。
そのニュータウンの自治会役員をしていたので、1軒1軒回って、避難するかどうかを聞き歩きました。
すると、どうして良いかが判らないと言う人が多かったのです。
町が防災マップの計画を作っていたにもかかわらず、運用できていなかったからです。
 たぶん、皆さんのところでも防災マップを作っているでしょうが、東京で大災害が起こったら、行政は実際には運用できないのではないかと思います。
 それはなぜなのか?
 私たちの町では、直接死が150人いました。
役場の職員には海辺の人も多く、家や家族が心配でならなかったのに、「家を見に行ってこい」という声がかからずに、業務業務で寝る間もなく働かされて、家に帰る人がいなかった、帰れなかった、帰してもらえなかった。
 避難計画があったにもかかわらず、そういうことの話し合いが町民の間でできていなかった。
常に話し合っていれば良いが、「計画ができました。はい、どうぞ」で終わってしまっては、その避難計画は絵に描いた餅でありました。
自宅で親が死んだのでは?子どもが死んだのは?と、心配で寝られない。
ほとんど現場の職員は、寝る暇がない状態にありました。
 この役場の職員の方々の心労は、今もまだ精神的に辛さを抱えている人が居て、私の親戚も、急に脳出血を起こして仕事を辞めました。
でも、そういう人がたくさんいることを公表はしていません。
●原発事故と関連死
 震災以降、私たちの町では震災関連死が431人います。
県内で直接死は1600人超、関連死4300人、将来を悲観して自死した人が100人近くいます。
 私の近くにも居ます。
 その人たちは何の情報も与えられず、放射能は目に見えず、何がどうなるかさっぱり判らないまま、そうした中で家を追い出されて、いつ帰れるかも判らない状況の中で、そんな死を迎えてしまった。
 私はそういう思いはしなかったが、未だにふるさとの時間は止まったままだ。
だから私は、家に帰るのが好きじゃない。
●変わり果てたふるさとの姿
 私たちの村は、今では田んぼは柳の林、畑は萱の原。
田んぼには肥やしがあるから柳が生える。
畑には、肥やしをあまり必要としない萱のような、イネ科の植物が生える。
 中通りの阿武隈川と、宮城県を流れる名取川という2本の川があるが、その川をカモシカが渡って来てしまった、クマが渡って来てしまった。
特にイノシシが増え、逆にイノシシは川を渡って会津へ行き、それから山伝いに青森まで行ってしまった。
それまでカモシカやクマはいなかったし、イノシシはいたが人目につくような数ではなかった。
 震災前には大小の養豚場があって、住民が避難した後で豚が豚舎から逃げて野良豚になった。
豚は年に2回子どもを産むが、逃げた豚とイノシシの間でイノブタができた。
イノシシは一度に5匹くらいしか産まないが、イノブタは10匹くらい産む。
福島だけで今、イノブタは45,000頭ほどになっている。
 猟師が獲ればいいと思うだろうが、放射能が降った土の上で放射能のついた木の実や他のものを食べた動物を、なぜ殺生しなければいけないのか。
 殺生したら駆除会員の人たちは、1頭につき25,000円の報奨金が出る。
尻尾を切って名前を書いて役場に届ければ、25,000円貰える。
一昨年の1シーズンで、駆除代として40万円貰った人がいる。
 私は一人猟師で駆除会員になっていないので、仮に尻尾を持って行って25,000円貰っても、殺生したイノシシの始末を自分でしなければいけない。
2万ベクレルとか3万ベクレルに汚染されたイノシシを、自分で山から出して、自分で埋却処分するか焼却施設に持って行くかしなければならないが、そこでそうしている間に自分も被ばくする。
 2月に赤旗の記者と自宅に行って線量を測ったが、空間線量は3〜4マイクロシーベルトだったが地面を測ったら30マイクロシーベルトあった。
若い記者だったが「私はこんな所にいていいんでしょうか」と、さすがにやばいと思ったのか、そう言った。
「良いも悪いも、あんたが取材に来たいというから連れてきたんだ。俺も被ばくしてるんだから、あんたも被ばくするのは同じだから良いっぺ」と言いました。
雨樋の下は70〜80マイクロシーベルトありました。
●土壌汚染
 国は私たちに嘘をついた。
空間線量は時間が経てば自然に薄くなる。
地面に落ちるからだ。
土を剥がない限り、除染をしない限り、地面の線量は絶対に低くならない。
 だから私は土壌の線量マップを作ってくれと、役場や国に申し入れている。
私たちの裁判は、ふるさとを返して欲しい、そのためには除染をして欲しい、できないなら帰れるまでの生活を補償して欲しいとお願いしている裁判です。
 ふるさとを返してもらえるなら、帰りたい。
土壌汚染がいかに高いか、このままでは決して帰れない。
 私の家は300年ほど続いた、世代で言えば15代ほどになるが、ワン・ジェネレーションは30年ほどだから、大体30年で世代交代してきただろう。
代々大切に守られてきたふるさとに、できることなら帰りたいのだ。
 私たちは希望を失っていない。
だからそのためには早く除染をして欲しいから、土壌の線量マップを早く作ってくれとお願いし続けざるを得ない。
 しかし私は、なぜ被害者の私たちがお願いをしなければならないのか、未だにさっぱり理解できない。
国は土壌汚染を知られるのが、一番怖いのだろう。
 除染をしたから帰って来いと促し、子どもたちにも帰って来いと帰還を勧めるが、帰って来いという場所の土壌は汚染されている。
 常磐道ができて、浪江インターチェンジもあります。
インターから東側の地域は、避難指示が解除されました。
土壌の線量マップを見れば分かりますが、300万ベクレル以上のホットスポットがあります。
 5年前にNHKが、大堀の小丸地区で牛を飼っている私の友人を取材した番組をやっていました。
取材を受けた友人は、「オレは放射能を受けてもいいんだ、牛が大事だから」と言っていましたが、それは岩手大、北里大、弘前大の農学部の先生たちと牛を解体して放射能がどれほど入っているかを現地で調査した番組です。
そこの土壌は1億3千万ベクレルありました。
津島の赤宇木地区では、試験的に除染したらどれくらい下がるかと除染してみたら、3千500万ベクレルになったところです。
 セシウム134は、2、3年で半減しますが、137は半減に30年かかります。
放射能はすぐには無くならないのです。
 復興拠点整備事業が去年から始まりましたが、津島の9550㌶の割合はほとんど山林です。
8割の山林の内7割が国有林で、だから農水省は除染をしようなどとは、一言も言っていないのが現状です。
線量が高くて、国も手がつけられないのでしょう。


2019年5月9日号「1月25日トークの会報告③」

※質疑応答
Q:災害が起きた時に寄付を募ったりしますが、寄付は役に立っているのか?
また寄付するなら、どこへすれば良いのか?
A:日赤から最初に義援金で頂いたのは、まだ賠償などなかった時でしたから本当に助かりました。
被災者にとっては助かってありがたいことですが、日本では寄付の習慣がまだ根付いていないようです。
寄付金がちゃんと被災者に届くような仕組みを作っていただければ良いと思いますが、それがまだちゃんとできていないようなのが残念です。
Q:復興と避難が対立する関係にあるようだが、避難せずに住み続けている人と避難先から帰還した人、県外に避難している人が対立にならずに話し会える機会がもっとあったら良いと思う。
 給食には県内産の食材を使うといって100ベクレル以下のものを使っているが、1品目が100ベクレル以下でも食材全て合わせたら100を超えないかと問うたら、その時には食材を減らすということだった。
A:被害者同士を対立させない、それが本当にこれからの課題だと思います。
僕は、お互いはそんなに心の底は対立していないと思いますが、なぜ対立しているように見えるかというと、内堀県政に象徴されるように、復興を見せたがる、外に向けて復興をアピールするというような政治的な事が、一つの大きな原因になっていると思います。
 もう一つは公害の歴史などでも同じですが、御用学者たちのそこで名を上げたいという野心が利用されて、上から作られたそういう雰囲気が、普通の人たちのお互いの理解を妨げていると思います。
 政治的な判断で一方的に線引きをされて、それに賠償が絡んで、最初から分断が持ち込まれている事も大きい。
 それは僕も判りますよ、線引きされてこっちは月額10万円の賠償貰ってるのに、道路の反対側は何も貰っていないとなって、その感情の対立が消えない傷になってしまっている。
 更に今度は、解除の順番に時差を設けて支援を無くしていったりして、またそこで別の亀裂を作るなど、作られた壁のようなものが、心の通じるところを阻害していると思います。
 健康被害だって給食のベクレル数だって、みんな本当にそれで安心しているわけじゃないと思いますよ。
 ただそれを一緒に食べないと、またそこで「あいつは」と刃を入れられる。だからみんなそれが辛いから「大丈夫」「大丈夫だべと思うしかねぇな」と、心配を我慢している人たちの方が、本当は心理的にしんどい状態に置かれているのだと思います。
 県外に避難している人に対して、「住んでいる人たちがいるのに、なぜ戻らないのか」などと言う人もいますが、そうした政治的な意図を持った声に僕たちは振り回されてはいけないと思います。
 「そうじゃないよね、お互いにしんどいよね。放射能の問題についてはお互いに正面から向き合わないといけないよね」としていかなければいけないと思います。
 オリンピックの聖火リレーが通るといって6号線の清掃をさせられている子どもたちだって、喜んでやっていないですよ。
喜んだふうにさせられている、というのが一番の問題だと思います。
Q:東京に住んでいますが、出身は南相馬の原町で91歳になる父と83歳の母が原町にいるので、毎月介護に通っている。
 南相馬市は2006年に鹿島町と原町市、小高町が合併して南相馬市になったが、原発事故後、鹿島、原町、小高の分断をとても強く感じる。
小高はお金を貰ってるのに鹿島は何にも貰ってないなどとよく聞くし、この分断をどうしたらいいのかと思う。(注:鹿島区は、ほぼ30キロ圏外。原町区は、ほぼ20キロ圏外30キロ圏内、小高区は、ほぼ20キロ圏内)
A:お金で分断させられたことは、最初にバッサリ入れられた大きな傷で、これの修復には時間がかかると思います。
 「あの人は月10万円貰ってる、僕は貰ってない」となったら、それは気持ちを分断してしまうことは僕にもよく判ります。
 だけど逆に考えたら、「じゃぁ月10万円貰ったら、ふるさとを離れ知らない土地で生きたいか」と言ったら「それは嫌だ、できない」となります。
 だから僕らの裁判でも損害賠償で一番力を入れているのは、線引きではないだろう、受けた被害は生活を破壊されて元の生活に戻れないということで、この被害は線引きと関係がないということで、一律に損害賠償1,500万円請求ということでやっている。
 それに対して裁判所がどう答えるかが一つのポイントで、そうやってそこの部分の傷を少しでも塞げていけたら良いなと思っていますが、傷は大きくむずかしいですね。
 お金の話をするときには、受けている被害がどうなのかというところに戻って話したり考えたりしていかないと、目先の金額の差、貰えた貰えないということがいつまでも自分の中にトゲとなって刺さったままになってしまうのではないか。
 それを解かせるとしたら、僕らが裁判でやっているような被害に対する平等な賠償を
認めさせていくことだと思います。
 事故の被害に正面から向き合って傷を癒し、溝を埋めていくためには、共通の立場に立たないとならないと思います。
大変難しくて時間がかかりますが、やっていかなければならない、最大の目標だと思います。

◎「福島原発かながわ訴訟」判決
●判決
 原発事故で神奈川県に避難した60世帯175人が国と東電に総額54億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が、2月20日に横浜地裁でありました。
中平裁判長は、国と東電の賠償責任を認め、原告1522人に総額約4億2千万円を支払うよう命じました。
判決は2009年9月時点での東電の報告書で、福島第一原発の敷地高を超える津波の到来を予見できたとして、電源設備の移設をしていれば1号機の水素爆発は回避できたと指摘し、国の責任について、東電に規制権限を行使しなかったのは「著しく合理性を欠く」と違法であることを認めました。
 裁判のもう一つの焦点が、避難指示区域外からの自主避難者への賠償でした。
判決では原告が主張した被ばくによる健康影響には閾値がないとする「LNTモデル」について、「無被ばく者が、従前の被ばく量をわずかでも超える被ばくをすれば、ガン発症ほか健康上の影響を受けるということまで統計的に実証したものはない」と認めませんでした。
 また一方で、国が「100ミリシーベルト以下の被ばくでは影響が小さく、損害は生じていない」と主張したことについても認めず、「事態を受任して生活を続けることは精神的損害がある」と、中間指針が定める賠償額では不十分だとの認識を示し、自己決定権の侵害慰謝料として原則、1人30万円、子ども・妊婦は100万円の慰謝料を認めました。
 区域外避難者については、避難しないことで「将来ガンに罹患したとしても、それが放射線被ばくを原因とするものなのか」「判然としない事態を受任して生活を続けることにほかならない」と指摘し、区域外からの避難の合理性を認めました。
 請求を棄却されたのは23名で判決による賠償額がすでに支払われた賠償額を下回ることなどが理由でした。
●横浜地裁前
 判決が出ると弁護団が地裁前で「国の責任5度断罪」「賠償水準大きく前進」の垂れ幕を掲げました。
「法の庭八分咲きなり寒の梅」の墨書の垂れ幕も出ました。
原告団長の村田さんは「国の責任が明確に認められました。8年間、本当に辛い時間でした。国と東電は避難者いじめの政策をやめてほしい」と声を詰まらせました。
●判決を受けて原告団・弁護団の声明(要旨)
 「国や東電の加害責任が司法の場において5回も断罪された今、国や東電はこれまで進めてきた被害者に対する賠償、支援策の打ち切りという対応を根本から改め、被害者が原発事故以前の生活基盤を取り戻すための完全賠償とそのための諸政策を速やかに実施すべきである。
 合わせて福島復興再生特別措置法や福島原発事故子ども・被災者支援法の改正を始め、被害者の人権を回復し、生活再建を進めるための新たな立法の制定、施策を求める」と、声明を出しました。   ​

終わり​


2019年5月8日号「1月25日トークの会報告②」

​Ⅱ 罪深い原発事故
 原発事故は多くの人を巻き込んで、広く深く長く被害をもたらし続けますが、こうした被害は戦争以外にはないと思います。
●原発事故第一の罪
 子供の頃の疎開生活をしていた時は、食べ物もないような時代でした。
どこの家に行っても玄関脇に「戦没者遺族の家」という白い札が貼ってありました。
どうしてこんなものが貼ってあるのか子供の頃は判らなかったですが、原発事故に遭って、「ああ、あの戦争の被害と変わらないのが原発事故の被害ではないか」という実感を深めました。
 あの原発事故では、広島に投下された原爆の180倍くらいの放射能が出たと言われますが、それは事故直後のことであって、現実は今もまだ空気中にも放出され汚染水としても流れ続けています。
 放射能はどうやっても消せません。除染と言ってやっていますが、あれは「移染」です。除染してまとめても、セシウム137の半減には30年かかります。
 いま福島には9割ほどの人たちが事故前と同じようにそこに残って住み続けているではないか、と僕たち避難者は言われます。
 でも残って生活している人たちだって放射能に対する不安が無いわけではなく、心に蓋をして仕方ないと生活しているのです。
 事故を起こした原子炉は、溶け落ちてメルトダウンした燃料棒が、どこにあるのかも判らない。
もう一度大きな地震や津波が起きたら、またもや大きな事故が再現されるのです。
 原発事故による緊急事態宣言は、解除されずにまだ続いているのです。
 原発事故後に福島第一原発、福島第二原発は同時に緊急事態宣言が発令されました。
あの年の12月に第二原発が冷温停止状態になって、当時の野田首相が「原発事故は収束した」などと言って、第二原発の緊急事態宣言は解除されました。
けれども第一原発の緊急事態宣言はまだ続いているのです。
 原発事故は8年経っても、何も終わっていないのです。
 浜通りは自然環境に恵まれ気候も温暖で、海が近く魚が獲れ、山菜やキノコが採れ、台風などによる災害もほとんどなく、本当に気持ち良く過ごしたところでした。
それが原発事故によって日常が壊されてしまった。
事故前は戸外に出れば深呼吸をしたいところだったのに、事故後は「マスクをしましょう」となってしまった。
緑がいっぱいのところは命の源だったのに、放射能がいっぱいだから入ってはいけないところになってしまった。
自然が壊されてしまったのです。
 人間関係がバラバラにされ、地域がバラバラになってしまって元に戻る可能性はありません。
祭りなど、それまで続いてきた地域の文化も途絶えてしまった。
ありとあらゆるものが壊されたのが、この原発事故です。
 災害関連死や自死のように、失われなくても良かった命がたくさん失われました。
これらは他県に比べて、福島県がダントツに多いのです。
自然災害の場合は年を経ればこのような死因は減っていきますが、時間が経っても減らないのは原発事故の特徴的なことです。
 子供の甲状腺ガンも増えています。
健康被害に関して言えば、子供だけではなく高齢者の肺炎や心筋梗塞による死亡例も増えています。
 日常が壊され、故郷を奪われ、自然が破壊され、そして命まで奪われ、先が見えないから夢も希望も奪ってしまう、これが原発事故の第一の罪です。
●第二の罪
 刑事裁判は続いていますが、国と東電は原発事故の加害者として大きな罪があります。
 更に言いたいのは、事故後の対応による二次被害です。
 あれだけの被害を与えてのだからそれをしっかり見つめて、少しでも被害者の救済をしなければいけないのに、今の政権、国は被害者に対して全く真逆なことをやっている。
事故をなかったことにしよう、見えなくしようとしている。
 レベル7の事故だったのに、来年のオリンピックに向けて「主な処理は終わり復興している」と発信しようとする狂った方針で政治が進められ、被害者がそれに巻き込まれてきたのがこの8年です。
 被害にどう耐えるかとやってきた、耐えることさえできなかった8年の上に、もう一つ、被害はなかったことにしよう、蓋をしようという強烈な政治的圧力がかかっているのが、本当に被害者を追い詰めている元凶です。
 今それに直面しているのが住宅無償提供打ち切りです。
 一昨年3月に区域外避難者の住宅無償提供は打ち切られました。
放射能は30キロ圏内に止まっていないのに、政治的判断で被害地域と決めた範囲外から避難した人は「勝手に逃げた」という理屈を立て、「6年間もタダで住宅を提供したのだからもういいでしょう、もうこれ以上住宅提供できないよ」ということで、露骨に言えばそういうことで、区域外避難者の住宅提供を打ち切りました。
 さすがにそれではと、福島県が3万円、次年度には2万円を補助してきましたが、それも打ち切りました。
 これは帰還政策の一環で、住宅提供を打ち切ることで汚染地に帰そうとしているし、避難指示を出していた地域も次々に解除して去年の4月1日で帰還困難区域を除いて全てを解除しました。
 それによって避難指示区域からの避難者も区域外避難者と同じ扱いになり、今年3月限りで住宅提供が打ち切られました。
 避難指示解除で帰った人がどれくらいかというと、全体で言えば16%くらいです。
 なぜかというと、今は帰れる状況ではないことをみんな知っているからです。
 線量が下がっていない、フレコンバッグがいっぱいで、スーパーや病院なども身近になく、生活できる環境ではないからです。
 避難者の数は初めから曖昧でしたが、今でも7万人くらいはいるでしょう。
避難者の数はどこも責任を取ってまとめていません。
 住居の提供を止めて、それはまるで兵糧攻めのように「住居攻め」にしている。
 それだけでなく、浪江や飯舘などの帰還困難区域から避難している人に対しても住宅提供は来年の3月で打ち切り、「早く自立してもらう」と言っている。
 2020年オリンピックまでに、避難者をゼロにするというのが政府と福島県の目標なのです。
 安倍政権と福島県は、被害の実態や一人ひとりの生活とは全く無関係に、政治的な思惑だけで住宅提供を打ち切りました。
これは本当に深刻な事態を生んでいる、大きな罪です。
 借家でも、帰るところがあるから安心して生活できるのに、それを奪われる。
ましてや原発で避難をしていて、ことに区域外避難者の場合は賠償金もほとんどない中で、子供を連れて避難してしんどい思いをして8年。わずかに住宅が無償で提供されてきたから避難生活が続けられたのに、その命綱を断ち切ろうということが進んでいるのです。
 これが第一の罪にも劣らない第二の罪です。
●“我が美しき祖国”では
 裁判のときに意見陳述で話しましたが、チェルノブイリでレベル7の事故を起こしたソ連が、事故から6年経った1991年に、日本でいえば国会にあたる最高会議で「事故の被害に対する認識が足りなかった」という反省決議をしました。
それが元になってチェルノブイリ法ができました。
 それは事故に対する国の責任を正面から認めて、国の責任で一定の放射線量以上のところには住めないということで補償するという法です。直後にソ連という国家は無くなりましたが、チェルノブイリ法ができたおかげでベラルーシやウクライナ他で、今でもチェルノブイリ法が活きていて、国の責任において被害者を救済するということができているのです。
 ところが“我が美しき祖国”は、まるっきり逆のことをやっている。
国の責任については、被害者である僕らが裁判で争わなければならない事態になっているのです。

Ⅲ 生き残らされた者として
●蟷螂の意地
 生きてるだけでもしんどい被害者が、なんで裁判を起こさなければならないのか。
 それは、どこかでけじめをつけてもらわなければ、被害者の人間としての生き方が保証されない、人権が守られないと思うからです。
 問題は政府、行政がやるべきことをやらずに、真逆のことをしていることです。
 それと、また、立法府がもっとしっかりと政府に対して「それはおかしいぞ」と言えなければいけない。
「子ども被災者支援法」を作ったが、ただそれだけで、立法措置をするなど議会がもう一歩踏み込んでやってくれないといけないのに、全く無しで議会も政府も一体で嘘をついたりする状況だから、何も頼りにならない。
 唯一残っているのが司法なのです。それでみんな裁判を闘っている状況なのです。
 私たちのように損害賠償の集団訴訟でやっているのは全国で31か32あって、去年までで7つの判決が出ています。
 そこで争われているのは、①この事故の責任はどこにあるのかということです。
 こんなことを私たち被害者が裁判で争わなければならないということが、非常に逆立ちしていると思いますが、そこをはっきりさせないと次に進めない。それが第一の争点です。
 もう一つの争点は、私たち被害者は生きていかねばならないので、②事故に対する賠償をきっちりしろ、というのがもう一つの争点です。
●法廷での闘い
 今までに出た7つの判決について大きく言うと、第1の争点である国と東電の責任については、国の責任はありという判決が4つ出ています。
津波が来てあれだけの事故が起こることを予測できたにもかかわらず対策を怠った責任を問う、国家賠償法上の責任があるという判決が4つ出ています。
 今度のかながわ訴訟でも、そこをしっかり押さえていかないとならないですが、これは多分、揺るがない流れになるだろうと思います。
 問題なのはもう一つの争点である損害賠償です。
 これまでのところではもっとも高くて300万円、もっとも低いところで1万円などという賠償金判決が出ています。
これだけの被害を受けていることへの賠償金がこんなことでは、被害者はとても償われません。
 これは裁判官がこの事故の本当の大きさ、実態を掴みきれていないからです。
私たち原告の側の実証が足りないと言われるかもしれないが、できるだけのことを裁判で実証して、法廷に立って訴え続けてきました。
 まともな人間なら判る筈ですが、事故の大きさを判断してこれまでの判決にないようなしっかりした賠償の判決を出すような勇気を持った裁判官が、まだ現れていないです。
国が示している賠償の物差し(原陪審指針)に、裁判官がちょっとだけ上乗せしたような判決しかまだ出ていないのが現実です。
 かながわ訴訟では、被害の大元である放射線の被害についてしっかりと実証することに力を入れてきています。
 放射線の被害に対する認識がしっかりしていないと避難の正当性や、どれだけの賠償が正当かの判断が示せないと思うからです。
 これまでの判決は、「科学的に実証できない」という国や東電の反論の前に立ち止まってしまって、それで結果的に全てが中途半端な判決しか出されていません。
 かながわ訴訟では原告の被害者全部の自宅の空間線量、土壌線量を全て測って証拠として提出しています。
そして広島、長崎の原爆被爆者の調査で長年蓄積されてきた実績と合わせて、生涯における線量が50ミリシーベルトを超えることを実証しています。
 広島・長崎の追跡調査では、被ばく線量が50ミリを超えると200人に1人の割合でがんが発症すると実証的に指摘されているので、その辺を理解して判断してもらえるかどうか、それが重要な争点の一つだと考えています。
●「痛み」の連帯を
 裁判制度そのものが国家機関なので、あまり破天荒なことは期待できないし、現に目の前で進んでいる避難者を無くすという暴力的な政策への直接的な歯止めにはならないけれど、この事故に対する国と東電の責任をきっちりと認めさせていくことを基点にして、次の政策転換を迫っていくしかないと思っています。
 そう考えて裁判闘争をしていますが、辺野古の土砂投入の光景を見て僕らが感じているのは、僕ら原発事故被害者は、辺野古の海で窒息しかかっているサンゴと一緒だということです。
 でも沖縄の場合は県知事を先頭に県民が「これはおかしい」と一緒に立ち上がっているのに、福島は県知事を先頭にして安倍政権の先兵になっているという違いがあり、この点は沖縄と全く真逆です。
 そういうことはありますが、まだ被害もこの事故の現実も消えないから、必ずみんな黙って諦めることはないでしょう。
 僕はその一方で、少しでもこの事実の記録を残していくことが僕たちの責任だと思っています。 ​続く


2019年5月7日号「1月25日トークの会報告①」

 大変遅くなりましたが、1月25日に催したトークの会「福島の声を聞こう!vol.30 」の報告です。
ゲストスピーカーは、南相馬市小高区から横浜市に避難した村田弘(ヒロム)さん、「福島原発かながわ訴訟原告団」の団長です。
村田さんは当日のためにレジュメを作って配布してくださいました。
そのタイトルは「『破局の後』8年後の今を生きる」で、このレジュメに沿って話してくださいました。
 トークの会が終わった翌月2月20日に、裁判の判決がでました。
この件についても、報告の最後にお伝えします。

*今回も大変長い文章になりましたから、3回に分けてお送りします。
もしまとめてPDFでの送信をご希望の方がおいででしたら、そういたしますのでおしらせください。

◎トークの会「福島の声を聞こう!vol.30」村田弘さんの話
●まず始めに
 被害者の置かれている状況は、本当にしんどい。
今日はその辺を判って頂きたく、話します。
 2011年3月11日は原発から16kmの、小高区の町中にいました。
1号機が爆発した後、避難しろとの事で、横浜に子どもたちがいたので横浜に避難しました。
 避難直後は、何もかもがクシャクシャとしてどうなっているのかが判らない状態で、私自身も錯乱に近い混乱状態でした。
 自分でもどうして良いのか判らず困っていた時に、岩波書店の雑誌『世界』で「破局の時を生きる」という手記を募集していたのを見ました。
思いの丈を書いて応募したら、それが掲載されました。
ちょうどあの「破局の時」から8年経って、今日は「『破局の後』8年後の今を生きる」のタイトルでお話します。
 3・11の大津波、その後の原発事故は思いもかけない人生の転換点でした。
あの日を境にすっかり生活は変わりました。
Ⅰさまよう被害者
●あれまで
❶ドジョウ追いしかの川
 僕は昭和17(1942)年に、神奈川県の横須賀市で生まれましたが、父と母は今の南相馬市の出身です。
父は鹿島区の農家の次男、母は原町区萱浜のやはり農家の末っ子でした。
あの時代の農家は長男が後を継ぎ次男三男は外へ出ましたが、戦争の時代でしたから父は海軍に志願して職業軍人として横須賀にいて、僕はそこで生まれたのです。
戦争も末期に近くなると軍港の横須賀は爆撃されるかもしれないと案じて、母は子どもたちを連れて萱浜から3キロほど南の米々沢(めめざわ)と呼ばれている所に疎開しました。
そこで藁屋根の家を借りて暮らし、僕はそこで育ったのです。
 父は職業軍人でしたから戦争が終わったら仕事がなくなり、僕たちを育てるために浜で塩炊きを始めました。
子どもは6人で僕は真ん中です。
 塩炊きは海水から塩を抽出する仕事です。
父は母と二人で桶に海水を汲んできて砂浜に撒くのですが、すると水分が蒸発します。
また何度か海水をかけるのを繰り返して、濃縮させた砂を枠の中に入れます。
またそこに塩水をかけて水分を蒸発させ、と繰り返してある程度濃縮したら、それを大きな釜に入れて三日三晩かけて炊くのです。
下からどんどん火を炊いて、そうすると塩ができるのです。
できた塩を俵に入れてニガリを落として、それを背負って売りに行くような生活でした。
 その頃僕は4、5歳でしたが、父が海水を入れる樽を大八車に載せて海に行くのに一緒に乗っかって行って浜辺で遊んでいる、海で育ったような子どもでした。
 僕の家から学校まではずうっと広い田んぼで、子どもの頃は朝から晩まで田んぼの川でドジョウ獲ったり、うなぎやナマズを獲ったりしていました。
夕方になると母に「ヒロム、食うもん無いから、ドジョウ獲ってこい」などと言われて、そうやって育ったようなものですから、僕の骨の3分の1くらいはドジョウとナマズでできているって自慢するほどです。
あそこに行けばナマズがいるとか、どこで何が獲れるかなどを知っていました。
❷奪われた故郷
 米々沢の僕の育った家があったところが今は、除染物のフレコンバッグが置かれた広大な仮々置き場になってしまいました。
獲物が取れる場所を知っていた僕のテリトリーみたいだった所が、ほとんどフレコンバッグの下に埋まってしまった。
あの光景を見た時に僕は、この原発事故で本当に故郷を奪われてしまったなぁという気持ちになりました。
 そんな育ち方をして高校卒業後に会社(朝日新聞社)に勤めましたが、全国あっちこっちへ転勤がありました。
度々転勤がありいつも借家住まいでしたから、いずれは田舎に帰って土を耕したいなと、ずっと思っていました。
 両親は2人とも百姓家の出ですが、受け継いだ田畑は無かったので、親戚の家の田植えや刈り入れ時には手伝いに行ってたので、土を耕したいという憧れはなんとなく持っていたのです。
それで、定年になったら田舎に帰ってそういうことをしようと思っていたのです。
 妻の両親は戦争中大陸に行っていたのですが、戦後引き上げてきた時に、大きな百姓だった父方の祖父から小高の土地を分けてもらって、果樹園をやっていました。
 義父母は家の周りの土地を少しずつ買い求めて祖父に分けてもらった土地を増やしていき、畑が7反歩(2,000坪)ほどありリンゴやモモをつくっていました。
 その畑は義父父母が亡くなってから放って置かれて、ジャングルみたいになっていました。
 妻は3人きょうだいですが、誰もその土地の面倒を見ようと考える人はいなかった。
僕はそれを傍で見ていて、「義父母があれだけ苦労して買い集めて子どもたちを育てた土地を、誰もなんとも思わないのか」と偉そうなことを言った手前もあって、僕が定年になったらあそこへ行って綺麗にしてやると言ってたんです。
 妻は「二度とあそこへ帰りたく無い。あそこが嫌だったから出てきたのに」と言いましたが、説き伏せて、2002年12月に定年になった翌年小高へ帰りました。
●あのとき
❶まさかの坂
 それから茂った木を切って抜根したり、草を刈ったりして3年くらいかかりましたが少し綺麗になって、リンゴやモモの果樹を植えて、自分たちが食べる野菜なども作っていました。
 会社勤めは37年間でしたが転勤族で、その間引越しを13回くらいして全部借家生活でしたから、小高に戻って「さぁ、ここが自分の家だぞ」と思いました。
それまでは家賃を払うために働いているようにも感じて、妻と「ようやく家賃払わないで済むね」などと言い、これから残り少ない人生を真面目に物を考えていこうかと思っていた矢先の出来事でした。
 人生には山も平坦な道もいろいろあって「まさか」という坂があると言いますが、本当に「まさか!」でした。
❷津波の陰で始まった地獄
 あの時は津波が大変でした。
 南相馬だけで500人以上が亡くなっています。
 3月11日は親戚や実家が海の近くでしたから津波のことで頭がいっぱいで、津波の被害ばかりが気になっていました。
後になって気付いたら、原発が大変な状況になっていたのに、12日に1号機が爆発するまでは、原発のことは僕の頭には全くありませんでした。
 12日も母の実家に行って安否を確認したり、弟が住んでいた自分の実家(常磐線の磐城太田駅前)が地震で潰れたのを片付けたりして、3時過ぎに帰宅したら隣の奥さんが、「原発爆発したって言うから逃げるよ」と言ってきたのです。
でも僕は津波の被害のことで頭がいっぱいだったものだから、その日の夕方になって初めて原発が爆発して大変なことになっているんだなと気がついたのです。
 夕方6時半頃に、「20km圏内に避難指示」のテロップがテレビに流れて、菅直人首相が「念のために避難して下さい」とコメントを出しました。
 でも、避難せよと言ったってどこへ行けばいいのか、いずれ避難すべき先を伝えてくるだろうと思って、僕らは家にいました。
 ところが次の朝、外から帰って来た妻が「この辺誰も居ないみたい。シーンとしている」というので町まで下りて行ってみたら、町の中はもぬけの殻で銀行も郵便局も閉まっていました。
 役場に行ったら若い人が2人残っていたので、みんなどこへ避難したのか尋ねると、「随分のんびりしてますね。昨夜は大変でしたよ。みんな車で行ったから渋滞が酷かった。小高の人はみんな、原町の石神小学校と石神中学校が避難所になってます」と言われました。
●あれから
❶避難所へ
 それで毛布を2、3枚車に積んで避難所へ行ってみたら1,000人くらいの人が居て学校中いっぱいで。
体育館に行ったら、もうみんな毛布をビッシリ敷いていたけれど、知り合いの人がいたので「少しだけ空けてください」と言って入らせてもらいました。
 そこに13、14、15、16と4日間、床に毛布を敷いて雑魚寝の避難をしました。
 困ったのは全く情報がないことでした。
新聞はこないし、初めの頃はテレビもなくて、情報源はラジオしかありませんでした。
カーラジオを聞こうと思って1時間おきくらいに聞いていましたが、当時はほとんど津波被害のことばかりで、原発に関するニュースはほとんど無かったです。
電話も通じず、最初の2日間はそんな風に情報から切断されたような状態でした。
 14日になってテレビが1台入り、NHKのニュースで現場の状況が少し判るようになりましたが、学者の話も「大丈夫」というようなことばかりでした。
「爆発ではないでしょう。爆発的事象です」などと言われ、深刻さがまだ判りませんでした。
 ところが15日夜に初めて電話が通じて、大阪に住んでいる会社の先輩から電話がかかってきました。
先輩の第一声は「何してんだ!お前はまだそんなところにいるのか!早く逃げろ!」というもので、ようやくそんなにも深刻なことになっていたのだと気がつきました。
 そこからは急転直下。15日には2号機も爆発して南相馬市も避難所を閉鎖するとなりました。
❷避難に次ぐ避難
 16日夜10時頃になって市の職員が避難所に来て、「この避難所は明日の朝には閉鎖するので、次の3つから選んで行き先を決めてください」と言うのです。
⑴新潟県が受け入れてくれるから、集団で希望者をバスで送る。
⑵自力で避難できる人は、ガソリンを10リットル支給するので各自で避難を。
⑶どこにも行くすべがない人は、もう少しここに残っても良い
と、3つの選択肢が提示されて、明朝7時に避難所は閉鎖、と言われました。
 僕はサラリーマン時代に横浜で暮らしたこともあり、また子どもたちも横浜や川崎に住んでいて、彼らもこっちに来るようにと言ってくれたので横浜に行くことにしました。
 避難する時にはほんの2、3日で帰れると思っていたので、何も持って出ませんでしたから、横浜に行く前に自宅に寄ってからと思いました。
 ところが我が家は避難指示が出された20キロ圏内なので一般道路は封鎖されて通れないので、朝4時頃に避難所を出て山道を抜けて自宅に戻りました。
 我が家には仔猫がいましたがその猫を置いたまま避難していたので、もしその猫がいなかったら探している時間はないから置いていくしかないと思っていました。
 家に戻ると猫は、僕らを待っていたかのように玄関先で「ミャー」と鳴いていたのです。
 地震で本などが散乱したままの家から着替えやお金、それと僕の“埋蔵金” (何本ものフィルムケースに入れて貯めていた500円玉)を持って、猫を連れて出ました。
福島を経由して、2日かけて川崎の長女の家に避難しました。
 13日から17日まで5日間風呂に入らなかったし、温かい食べ物を食べていなかったので、川崎へ行く途中のインターチェンジの食堂で最初に食べた蕎麦が、美味かったですねぇ。温かい食べ物って美味いんだなぁと思って、今でもあの暖かさは忘れられないです。
 そうやって長女の家に避難した後、末の娘が住んでいた横浜市旭区の神奈川県住宅供給公社に1部屋空きがあるからと娘が手続きをしてくれて、エレベーターもない5階の団地で夫婦と猫1匹で暮らし始めました。
 小高の家では部屋中駆け回っていた猫ですが避難生活は判るのか、駆け回ったりせず大人しくしていました。
でも猫も狭いところで四六時中人間と一緒にいるとストレスが溜まるのか、洗濯機のホースが動くのを引っ掻き回して水漏れ騒ぎを2度も起こし、階下の人には賠償を請求されました。
 まだその頃は東電の賠償の話も進んでいない時期でしたから、フィルムケースに入れてきた“埋蔵金”などで弁償したのですが、猫と一緒に居られる家を探さなければと思い近くの民家を探しました。
 たまたま転勤で4年ほど家を空けるので貸してくれるという人がいて、そこを借りて入りました。
 公社の部屋に1年居ましたから、あと4年すれば事故から5年。
その頃になれば何とかなるだろうと思いながらそこに住み始めました。
しかし、4年経っても何も変化せずに全く帰れない状況だったので、仕方なく別の家を探して避難してから3回目の引越しをしました。
現在は、同じ横浜市旭区の借家に住んでいます。
❸頭をガツンと叩かれた
最初は原発事故の状況がよく判らないでいて、その頃はどちらかといえば精神的に安定していましたが判ってきたら、「えっ、こんなことが起きていたのか!」ということの連続でした。
 一番初めは4月3日か4日に海側のサブトレインの1号機か2号機から、ものすごい高濃度の汚染水が流れたというニュースがありました。
それを止めるのに新聞紙やペットのトイレ材を投入したが止められず、コンクリートを投入したなどという話が3日くらい続きました。
それを聞いたときには、これが今まで日本の科学の粋を集めて絶対安全だといってきた原発の実態なのかと、あれが一番のショックでした。
ガツンと頭を叩かれたような気がしました。
❹幽霊みたいに
 その後、白河の農家の方が自殺したり、南相馬では82歳のおばあさんが「私はお墓に避難します」と遺書を書いて自殺、飯舘村の長谷川健一さんの友人の酪農家が「原発さえなければ」と牛舎の壁に書いて自殺など、そういうことが次々に出てきました。
 僕の近所でも、お年寄りが避難先で次々に亡くなっていきました。
 原発事故は日常を奪い、ふるさとを、夢や希望を奪い、自然を破壊し、命までも奪っていきました。
 そんな頃に(自民党の)高市早苗が、「原発で死んだ人は一人もいない」などと言ったのです。
 そんなことが続いて僕の精神は錯乱状態のようになって、自分の足場がなくなって幽霊になったみたいな雰囲気を味わって、本当にしんどかったです。
❺集団提訴へ
 その後、「原発民衆法廷」みたいなことをやろうという方と一緒に1年半くらい全国を回ったりして、それで冷静さを取り戻してきました。
 ところがその頃になると被害者に対する国や東電の対応の仕方が、目に見えてどんどん悪くなってきました。
 賠償をしっかりさせなければと、1年半くらいしてから横浜弁護士会(現在は神奈川弁護士会)の弁護士さんの支援を得てADRの手続きをしました。
 それがまた、加害者の東電は凄まじく人を馬鹿にしたような対応で、避難によって生じた支出についてはレシートを持って来いというのです。
僕の家ではレシートは生活の歴史だからと、すべて捨てずにとっておいてあったのでそれを持っていくと、1枚1枚について何の用途で何に使ったのかなどと聞くのです。
 そんな馬鹿げた対応なので、これでは話にならん、ADRでは話がつかないとなって、東電が加害者なのにまるでこっちが加害者のように立場が逆みたいになったので、やっぱり裁判に持ち込まなければダメだとなって、2013年に集団で横浜地裁に提訴して裁判闘争を続けてきました。
 その過程で本当にいろいろなことを考えたし、考えさせられてきました。
 5年半かかりましたが、ようやく昨年7月に結審して2月20日、横浜地裁で判決が出ます。  

​続く​

 


2019年5月2日号「お知らせ」

 写真展「ツァンパで朝食を」
9年ぶりの写真展です。
同名の写真集発行に合わせて開催します。

会期:5月24日(金)〜6月2日(日)11:00〜20:00(最終日は17:00まで)
場所:セッションハウス・ギャラリー(新宿区矢来町158 2F)
入場無料
お問い合わせ:03−3266−0461
ギャラリートーク:①5月24日19:00〜20:30 ②6月1日16:00〜17:30

 初めてのチベット行から30余年が経ちました。
どんな人がどんな暮らしをしているのか何も知らなかった子どもの頃から、なぜか「チベット」という響きに惹かれて憧れていました。
 思いがけずに扉が開かれてチベットへ飛び出したのは1987年、42歳の時でした。
長年勤めた保育士をやめた翌日、出かけたのでした。
高野山のお坊さまたちと行を共にした、「チベットの仏教寺院を訪ねる旅」という旅行会社企画のツァーでした。
初めてのチベット行を前にして「行けばきっと、なぜそこに惹かれてきたのか判るに違いない」と、好きの理由を知りたいと思っていた私です。
行ってみたらお寺巡りにはまったく心踊らず、でもお寺にお参りに来たチベット人と笑みを交わし、農作業をするチベット人と一緒に鍬を振るったり、チベット人との触れ合いが深く心に刻まれました。
「彼らといるとなぜこんなに、穏やかな心地になるのだろう。言葉一つ通じないのに」と、その理由を知りたくて通い続けるようになりました。
 1995年には、チベットの西北部チャンタンをほぼ半年かけて馬で行きました。
初チベット行の後も毎年訪ねていたのに、この「50歳記念騎馬行」で私は、ようやくチベットの懐に飛び込めたと思えました。
 その後も広いチベットの各地を訪ね、また季節を違えて同じ地を繰り返し訪ねなどしてきました。
そのたびにいつも心に触れる出会いがあり、彼らの暮らしぶりが深く心に刻まれてきました。
けれども私が通い始めてからの、たった30余年の間に消えてしまった光景があります。
また、もはや風前の灯のような暮らしの風景もあります。
チベットは政治的に語られることや、宗教・信仰面で語られることが多いのですが、私は人々の日常を記憶に留めておきたいと思っています。

 今回の写真展タイトル「ツァンパで朝食を」のツァンパは、チベット人が常食する青裸麦(大麦の一種)の煎り挽き粉です。
はったい粉、麦こがしのことです。
 展示写真の他に、「西の家・東の家」「衣装百花繚乱」花の好きな方には花の写真も、手仕事や食べ物などとジャンル分けにした多数のアルバムもご覧いただけるように置きます。
どうぞ、ごゆっくりお出かけください。                 

いちえ

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2019年4月8日号「2月25・26日福島行③」

 小高区大富に、大井千加子さんを訪ねました。
大井さんは大富の自宅から避難して、福島市に1年、その後は原町の借り上げ住宅で4年過ごし、一昨年7月に大富の自宅に戻りました。
そして株式会社彩葉(いろは)を立ち上げ、老人介護の仕事を始めたのです。
自宅に隣接して要介護の人を対象にした「デイサービス いろは」と、そのすぐ近くに介護予防施設として「お元気デイサービス 彩りの丘」、「居宅介護支援事業 いろは」の
3つを統括運営しています。
 被災前には74軒が暮らしていた大富地区ですが、現在は15軒しか戻っていません。
戻ったのはほとんど高齢者たちとはいえ、こうした施設が成り立つのだろうか、ここで老人介護の事業を立ち上げるには、相当の覚悟が必要だったのではないかと思うのです。
 原発から20km圏内で山側に位置する大富ですから放射線量が高い場所もあります。帰還した人も少ないのに、ここで施設を作っても利用者がいないという心配はなかったのかと、私にはそれが大きな疑問でしたから、まずその点をお聞きしました。
この日は「お元気デイサービス 彩りの丘」でお話を伺いましたが、千加子さんは問いに答えて言いました。
●「デイサービスいろは」
 鶏が先か卵が先か、です。
帰りたいけど、施設がないから帰れないということもあります。
私の中には、やらなければダメだという思いがありました。
銀行とのやりとりも何とかなったので、やると踏み切ったのです。
 2017年7月に、私たち夫婦と夫の両親の4人で大富に戻りました。
息子夫婦と二人の孫は、いわき市に避難しています。
義父母は住み慣れた大富に戻りたいと強く願っていました。
避難生活では、心身ともに本当に疲れてしまったのでしょう。
年寄りだけを戻すわけにはいかないと考えて、私たちも一緒に戻りました。
私自身は、家族みんなで一緒に暮らしたかったので別の場所でもいいと思っていましたが、義父母の願いも大事でした。
孫もいますから息子たちをここに戻すわけには行かず、息子家族は避難したままです。
 義父は認知症もある半寝たきり状態で、義母はリウマチを病んでいました。
夫は建築関係の仕事で毎日勤めに出ています。
ずっと私が家に居るのでは嫁として結構大変で、それでは私も心身ともに参ってしまうと思いました。
大富に帰ったら近所にも人がいるだろうと思ったのに、近所には誰もいませんでした。
それなのに私が外に勤めに出たら近くに見守る目もなく、リウマチで体が不自由な義母が認知症の義父の世話をしながら年寄り2人だけで日中を過ごすことになります。
ここを始める前は他のデイサービスに2人を預けていましたが、私がこの仕事を始めたら、ここで面倒を見ていけると思いました。
 自宅の隣は家の畑だったので、そこに介護施設を作ることにしたのです。
私もそこで働きながら、義父母を施設で世話できると思ったのです。
自分でやる施設に家族を入れるのはどうなのかと思われるかもしれないのですが、他の選択肢はありませんでした。
地区に戻ってきたのも高齢者ばかりでしたから、介護施設は必要だと思っていました。
それで、やろうと思って役所に相談に行きました。
●役所との交渉
 施設を建てようと思った場所は畑地でしたから、農地転用の手続きが必要でした。
介護施設を始めたいと役所の介護保険係に申請に行くと、担当者は知人でした。
農業委員会で農地転用手続きをするときには、委員会の人に「本当にやるんですか?」と言われましたが、役所の人が「大井さんがやるのだから良いじゃないですか。きっとやるから、農地転用しても大丈夫ですよ」と保証してくれて、転用が許可されました。
 宅地だったら農地転用手続きは必要なくすぐにできたのですが、まずこの手続きをしました。
その手続きまでも、また大変でした。
除染済みの証明書が必要だったのですが、除染してあったはずなのに、除染済みの資料が無かったのです。
国からは「除染しました」と通知はあったのに、証拠となる資料が無いというのです。
環境省に問い合わせたら、除染業者はコロコロ変わるので前の業者から資料を受け取っていないので、すぐに出せる資料は無いから、もう一度除染しましょうということになったのです。
そして除染にかかり、その写真を撮ったデータを貰い、除染が終わったということで農地転用の手続きをして許可が出て、それからスタートでした。
 20km圏内で賠償金が出ましたが、その賠償金を使わずに貯めていたので建築費にはそれを使って銀行の融資を受けました。
●「彩りの丘」
 「デイサービスいろは」は自宅の隣で畑だったところに作りましたが、こちらの「彩りの丘」は組内で隣の友達の家だったところです。
震災前から親しくしていた人で、小さい子どもがいるので避難先から戻らないと言っています。
友人にこの家を貸して欲しいというと、快く「使っていいよ」と言ってくれました。
この建物は震災の2年前に建てられた新築の家で、3世代同居の家族でしたからバリアフリーで廊下も広く、また男性が多い家族だったので男子トイレが別にある建物です。
 デイサービスを始めるにはそれなりの施設設備が必要なので、それらを備えた建物を作ることが前提でしたから、ここを使うことは始めから考えていませんでした。
でも「いろは」の研修で打ち合わせにこの建物を使っているうちに、「ここも使えそう。要介護の人の施設はそれなりの設備が必要だけど、介護予防なら普通の家でできるから、ここを介護予防施設に使ったらいいのではないか」と考えました。
 介護予防は、大事だと言われる割には重視されていないと思います。
実際に南相馬の人たちを見ていると、介護予防の施設は足りていないと思います。
要介護にならないようにということを重視しているなら、本腰を入れて介護予防に取り組み、その予算を組むべきだと思うのです。
たとえば国が10円しか出さないなら、県や市はもっと本気になってあと5円上乗せするとかしないと、本当に採算が取れません。
国が基準としているギリギリのところで私はやっていますが、その基準では採算は取れません。
国の基準で儲かっているところがあるなら、教えてほしいと思います。
けれども実際には、利用者さんにとって介護予防施設は本当に必要だと思います。
 心療内科の先生にお聞きしましたが、人と話すということが認知症の一番の予防で、また生活の質を上げるのにも大事だと言われました。
週に1回でもここに来て、初めて会った人とも話したり笑ったりして、帰るときに「また1週間後に」と言って帰る人を見ていると、本当に必要とされている場所だと思います。
 採算が取れないのを知って、「え〜、やっていけるの?」という人はたくさんいるし、これをやろうと思う人もいないけれど、介護予防は絶対に必要だと思うから、やれるだけやっていこうと思っています。
 利用者は、自分から「行きたい」という人はほとんど居ません。
デイサービスというと「子どもじみたことをやってる」とか「自分のやりたいことが出来ないで、みんなと同じことをやらされる」といったイメージが植えつけられてしまっているようです。
私たちが目指しているのは、できるだけその人のこれまでの生活に添っていこうということだし、笑ったり泣いたり、当たり前の事に触れていけたらいいなと思っています。
その人がこれまでに培ってきたことを、発揮できるようにしてあげたいと思っています。
 ここに来て「あら、こんなところが在った」と口コミで広がり、社協やケアマネージャー、包括支援センターからの紹介もあります。
だからその人たちとのバトンも大事ですが、利用者たちが「良いよ」と言ってくれる口コミが、とても大事だと思っています。
●イノシシが減りました
 介護予防施設の「お元気デイサービス 彩りの丘」は2017年11月に開所し、介護施設「デイサービス いろは」は2018年2月に、「居宅介護支援事業所 いろは」は、2018年11月に開所しました。
 この仕事を20数年やってきているので、以前一緒にやっていた人が「やるの?」と言って助けてくれたりで、正規職員は4人ですがパートを入れて20人がスタッフです。
他に地域のおじちゃんが送迎の運転手をしてくれたり、おばちゃんが食事を作ってくれたりと地域の人たちがボランティアで手伝ってくれています。
 「ここでやる」と思った時に、地域を巻き込みたいと思ったのです。
またここで働く若い人たちも、仕事としてではなく地域の人とお互いに支え合ってやっていくことを学んで欲しいと思ったのです。
一番若いスタッフは28歳、一番年長は76歳の近所のボランティアのおじちゃんです。
幅広い年齢層がいて、それが家族だと思うのです。
時々は若いスタッフの子どもが遊びにきたりして、とても良い感じです。
 介護の仕事というと建物の中で完結してしまうイメージがありますが、そうではなくて、いろんな人と関わり合って、いろんな環境と関わり合っていってほしいのです。
利用者さんの人生って色々だと思うし、だからスタッフもいろんなノウハウがある人が居てほしいです。
 シフトを組むのは、みんなの話し合いでやっています。
20数年介護の現場に居て、トップダウンみたいなやり方が多かったですが、それは間違いではないけれど現場の人が一番よく知っているのだから、現場の人たちが話し合っていかないといけない。
ここは介護者たちが、一生懸命に考えてやってくれています。
 ここを始めてから、イノシシが減りました。
減ったのではないかもしれませんが、日中出てこなくなりました。
人の出入りがあるから、イノシシも出てこれないのでしょうね。
地域の人との関わりも増えて、地域でもいろんなことでみんなが関わってくれています。
この地域では、57歳の私が一番若いのです。
住んでくれる人が増えたら良いなぁと思っています。
 曜日によって利用者数は違いますが、「デイサービス いろは」は、月曜日が15人、他の日はそれよりいくらか少なく、「彩りの丘」は1日10人前後です。
去年の10月くらいまで小高の人はほとんど居ない状態でしたが、今は増えてきました。
ようやく小高も水道が使えるようになったので高齢者たちも戻ってくるようになりましたが、それまでは小高では生活ができなかったのです。
ここは原町からは遠く、浪江が近いので浪江の人も受けています。
地域密着型というデイサービスの縛りがあって、役所からは地域の人優先と言われますが、市と掛け合ってやっています。
 利用者さんは、家族が連れてくることも稀にありますが、ほとんど送迎しています。

 私が大富の梅田照雄さんを訪ねたのは、つい一月前でした。
その日梅田さんから、「近くに大井さんという人がいて紹介しようと思っていたら、昨日お母さんが亡くなって、今日がお通夜なのです。彼女はデイサービスを立ち上げてやっているのです」と聞いたのです。
 そしてその一ヶ月後のこの日に私はまた大富に行き、リウマチを病んでいた義母を亡くし夫と義父と3人の暮らしになった千加子さんにお会いしたのでした。
初対面の千加子さんにお会いした私は、一目見るなり強く惹かれるものを感じました。
千加子さんは爽やかな笑顔で、介護施設の立ち上げまでを語ってくれましたが、ここに至るまでには、壮絶な体験がありました。

●あの日、千加子さんが見たもの
 2011年3月11日14時46分、大地震発生。
南相馬の老人保健施設ヨッシーランド介護長だった千加子さんは、施設利用者と職員の全員が無事であることを確認し、寒い日だったので防寒対策をとって建物の外へ避難誘導しました。
「地震から津波までの40分くらいの間、やれるだけのことはやっていたつもりでした。
これまで度々避難訓練を行ってきましたが、その時に消防士さんからは、海から2kmも離れているので津波が来てもせいぜい床上くらいでしょうと言われてきました。
 揺れから40分の間に県道まで逃げていたら助かったでしょうが、防災無線は鳴らず、けれども続く余震に、これは危ないのではないか思って避難を決断し、津波がくる10分か15分前に「逃げましょう」と伝えて避難を始めたのです。
避難を始めていた時に、松林に覆いかぶさる波を私は見たのです。
津波の早さに勝てるわけはないですが、できるだけのことはしました。
でも津波は屋根を覆ってしまった。
後で知れば、80人くらいは逃げて助かっていますが、40人くらいは助からなかった」
 千加子さん自身も波に叩きつけられ、また猛烈な勢いの引き波から辛くも逃れ、泥に埋まった人を引き上げ、引き上げ……、無我夢中で救護にあたりレスキュー隊を待ち、救護した人の顔や体を拭き、救急車に同乗してなんども連携病院へ走ったのでした。
また受け入れ可能な施設へ手当たり次第に連絡を取り5ヶ所の移動先を確保しました。
 12日午後一旦自宅へ戻ると、市から体育館への避難指示があって家族は全員避難していました。
家族は千加子さんの生存を諦めかけていたそうです。
無事を確認しあうと千加子さんは汚れた服を着替えて、またすぐに本部に引き返したのです。
 「ブルーシートの上の遺体の顔の泥を拭いながら、ご家族への謝罪の思いで胸が詰まりました。
遺体安置所への収容を依頼して、消防団と施設の車で遺体安置所へ移送しました。
 3月12日15時36分、福島第一原発1号機水素爆発。
半径20キロ圏内避難指示。
受け入れ施設に職員が来ない、無断で緊急避難を始める職員、電話は不通、連絡手段もない、迎えに行くにも燃料もない!そんな中で24時間以上勤務する職員もいたといいます。
 3月13日。
水がまだ出ない、食料・薬・物流が止まる、更なる燃料の危機、交代の職員が来ない、連絡が取れない…状況が続きました。
 3月14日11時1分、3号機水素爆発。
避難を希望する職員と交代し千加子さんは施設に行き、夜間に本部に戻って仮眠していました。
その深夜、日付は15日になっていましたが、息子から緊急メールが届きました。
「自衛隊が原発から50km圏外に走っている。今すぐ逃げろ!」
千加子さんから息子への返信は、「置いてはいけない。どうしようもないから、まずはみんな助かってね」
 3月15日6時14分、2号機爆発、建屋損傷。9時38分4号機で出火。30km圏内屋内退避指示。
 物流が止まり食事は汁のみで2食との放送があり、自販機の野菜ジュースを買い占めて利用者の栄養補給にしましたが、食事も薬もオムツにも終わりが見え、先が不安の中を午後になって連携病院へ移動しました。
 受け入れ施設は2ヶ所のみになり、その一つの施設から夜に、「職員が誰も来ていない」と連絡が入り、とうとう動けるのは千加子さんだけになってしまいました。
千加子さんがその施設に行くと友人が迎えてくれて、「今夜はこちらの職員に任せてゆっくり休んで」と言ってくれたのでした。
千加子さんはその夜、あの日から初めてお風呂に入り、初めて布団で休んだのでした。
 3月16日、朝。
夫と息子が着替えを届けに来てくれて、家族はみんな避難所で無事にいること、孫が寂しがっていることを伝え、大変だろうが頑張れと励ましてくれました。
この日、千加子さんは1ユニット15人の利用者を任されましたが、避難を希望する職員もいて、理事長は「避難希望者は避難していい。再開時には来てくれ」と決断して希望者は避難していきました。
 この時千加子さんは、避難する職員に問われました。
「なぜ、大井さんは逃げないの?」
問われて自問した千加子さんは、自身に答えたのでした。
「私には孫がいて、命が、ちゃんと継ながっている。もしものことがあっても、私の生きていた証はある」
 職員が避難し、残った数名の職員でヨッシーからの避難者と施設の利用者と共に過ごすことになりました。
ここで避難者の一人が施設職員に「私の薬はないのでしょうか?」と問うた時に、施設職員が答えたのです。
「もう、薬は手に入りません。これからは、一人ずつ看取ることになるでしょう…。
それが、これからの私たちの仕事です…」
それは、30km圏内屋内退避となって物流が途絶えた中での言葉でした。
千加子さんは、「あの津波の中から助かった命をこんなことで亡くしたくない!そんなのは絶対に嫌だ!」心で叫びました。
 その夜、施設長から「明日、福島市へ避難できるかもしれない。理事長が交渉中で、ヨッシーランドの避難者全員が1ヶ所の施設に行けるように調整中」だと伝えられ、その言葉に「助かる!これで助かる」と思った千加子さんでした。
 3月17日、朝から移動準備を開始し、夕方に移動が決定しました。
ヨッシーランドからの避難者13名全員、施設入居者17名の計30名、引率者1名、大井千加子と決定されました。
16時、観光バスで介護タクシーの運転手と補助1名とで60km先の福島市へ移動開始したのでした。
19時頃、光る街灯と待っていた職員のみなさんの笑顔の挨拶に迎えられて、福島市なごみの郷へ到着したのでした。
 「私たちは助かった。もう、死と向き合うことはない。生きる…」安堵した千加子さんでした。
●心的外傷後ストレス
 ヨッシーランドから避難した人たちのデータは、津波で全て失っていました。
利用者たちの家族もどこかに避難して連絡がつかないままでした。
受け入れてくれた福島市なごみの郷では、職員たちが懸命に情報収集に努めました。
寄り添ってくれる職員もいました。
お風呂に入ることもでき、三度の食事ができることをしみじみ幸せに感じ、ゆっくりできて心身ともに落ち着いたはずでした。
 けれども4日目に、両手が突然震えて止まらないのです。
寝れば毎日同じヨッシーランドの夢、真っ黒なものが動く夢を見て夢の中で金縛りにあっていました。
1年くらいそんな夢ばかり見ていて、千加子さんは、「私は生きていて良いのか」という思いに苛まされていました。
そんな夢を見なくなってからも、寝ても4時間も眠られないまま目が覚めてしまう日が1年以上続きました。
 取材を受けたり講演を頼まれたりして、千加子さんは皆さんのためになるならとできる限りを受けてきましたが、あの日のことを話すと、両手に泥まみれの利用者の重さが蘇って、体が震えました。
突然涙が止まらなくなったりもするのです。
時間が経ってもあの日を伝える文字や映像、言葉に、体も心も反応してしまうのです。
 3年ほど経って、ようやく体が反応しなくなりましたが、一人で過ごす休日が怖かったと言います。
街で、亡くなった利用者さんの家族に会うのが辛く、震災後の慰霊祭でも顔を合わせられませんでした。
被害者であると同時に、加害者でもあると思えてならなかったのです。
助けることができなかった悔いが残って苦しかったし、苦悩は続き、またフラッシュバックで生きている意味がわからず、それで休日も仕事をしていようと思ったのでした。
 2011年6月にヨッシーランドで慰霊祭をしましたが、千加子さんはその場にいて体が張り裂けそうでした。
「80人は助かったじゃない」と言ってくれる人もいましたが、亡くなった人の家族は「なぜうちのばあちゃんは助からなかったの」と思うだろうし、口に出さなくても、そう考えるのではないかと思えてならない千加子さんでした。
そんな思いをずっと抱えているので、8年経った今も、ご家族にちゃんと会える自信がない、顔を合わせられないと、辛く思っているのです。
 私は2011年夏から南相馬に通い始めました。
原町のビジネスホテルに宿を取り、宿の主人の大留さんから被災地を案内してももらい、そのときに被災の爪痕を残すヨッシーランドにも行きました。
大留さんは、「あの日の夜、うちのお客さんが泥だらけで帰ってきたの。どうしたのと聞いたら、ヨッシーランドのお年寄りを救援してたんだって。
ほら見てごらん敷地からこの道路まで、ほんの1mか1,5mでしょう。ここを上れた人は助かったんだろうが、一人じゃ動けない人もいたんだろうな」と言いました。
建物内部は津波の爪痕がそのまま残り、玄関ホールだったところには献花台がおかれていました。
 千加子さんの言葉に、あの日に見たヨッシーランドの情景を思い起こしました。
そして泥にまみれながら懸命に利用者たちを救い出そうとする千加子さんたちの姿を想い浮かべました。
そしてまた千加子さんのように、多くの人がPTSDを抱えていることを思いました。
 「亡くなった人の家族に顔を合わせられない。辛いです」という千加子さんに、私はお聞きしました。
「でも逆に、今こういうお仕事をしていなければ、もっと辛いですね」
千加子さんは答えて言いました。
●私にできることは、これしかない
 「動けるから元気に見えるし、喋れるから大丈夫に見えていたかもしれない。
でも、そんな5年間でした。
これからどうするの?という時に、これを立ち上げました。
 20数年介護の仕事に携わってきて、ヨッシーランドにいて津波で腰まで浸かりながら生きて、今があります。
亡くなった方たちに私は、すごく良くしてもらっていました。
その人たちにどう向き合うか考えると、いま生きている方たちに恩返しするしかないと思って、それは自己満足かもしれませんが、亡くなった方が応援してくれるなら、いま生きている方たちに恩返しするしかないと思ったのです。
原発事故があって自宅にも戻れず、また心身の不調もあって、私は5年間は動けませんでした。
でも、私にできることはこれしかないと思いました。
 たくさんの人に支えられました。
皆さんが来てくれて、少しでも興味を持ってくれて少しずつでも広げていけたらと思っています。
小高に、住んでくれる人が増えたらいいなぁと思っています。
 2012年4月に避難指示解除になって昼間は小高に入れるようになった日に、初めて蛯沢の実家に行ってみました。(注:蛯沢は海側の地域で干拓地)
津波の被害を見て、ショックでした。
友人の家や思い出の沢山あるところだったのに、家も畑も何も無くなって海に戻ってしまっていました。
 けれども「いろは」を始めようと思ったときにちょうど良いタイミングで、昔お世話になった人たちに会うことができて、それもまた私の背を押してくれました。
「やるべきじゃないか!」と思えたのです。
 長野県の御代田の人たちが、ボランティアでずっと来てくれています。
はじめは家の片付けや掃除をしてくれて、5年間も開けていなかった冷蔵庫をすっかりきれいにしてくれたり、5年間も住んでいなかった家を泊まれるようにしてくれました。
そして今、私たちはその家に住んでいます。
 そうやって片付けや掃除をしてくれる中で、蕎麦の種の話が出たのです。
蕎麦の種をあげるから、蒔いてみないかと言うのです。
それを区長さんと梅田さんに話すと梅田さんが動いてくれて、大富に蕎麦畑ができて花が咲いて、とってもきれいでした。
夢を見ているようでした。
来年はもっと増やしたいねと言って、去年は最初の年よりも増やしました。
そんなことをやっていると楽しいし、楽しいことをもっとやっていきたいです。
 いわきにアパートを借りて住んでいる息子たちも、イベントの時には家族で来て嫁も泊まっていってくれるし、蕎麦のイベントにも来てくれました。
息子は、子どもが大きくなったらオレは戻ってくるよと言ってくれています。」

●施設見学
 もう利用者さんたちはとうに帰った夜7時でしたが、「デイサービス いろは」を見学させてもらいました。
管理栄養士さん、介護士さん2人がまだ残っていて明日の準備をしていました。
バリアフリーの板張りの床で、テーブルや椅子など家具類は木製で、室内は家庭のように温かな雰囲気で、聞けば千加子さんが「できるだけお家らしく」と言って、そのように設えたと言います。
トイレは車椅子の人も使えるトイレが2ヶ所、風呂場もまた車椅子の人も風呂の椅子にかけ直して、椅子ごと持ち上げて浴槽に入れるような最新装置が供えてありました。
そこにいたスタッフの方たちも気持ちの良い人たちで、そこで働くことが楽しく誇らしいと感じているようで、笑顔で対応してくださったのでした。
またいつかきっと、利用者さんたちがいる昼間に訪ねてみたいと思いました。
 帰りに頂いてきた「彩葉だより」第5号は、色刷りの通信でした。
「一人一人が活躍する場所がある」と見出しのページには、お年寄りが擂鉢と擂り粉木で、何かを擂っている姿や植木の手入れや花を生けている様子、食卓の配膳をし、縫い物をする姿などの写真があり、別のページはイベントの時の楽しい写真や職員の紹介などが載っていて、「いろは」と「彩りの丘」の日常が伺えました。

 千加子さんに会えて良かった!と、しみじみ思いました・
「いろは」が、「彩りの丘」が滞りなく運営できていけるよう、行政はしっかり予算を下ろしてほしいと願ってやみません。
この事業の代表者として、千加子さんにはきっとたくさんのご苦労があることでしょう。
どうか体をお大事に、過ごしてほしいと祈ります。

 そしてまた、考えます。
事故後に30km圏内の物流が途絶えてしまった時のことを。
食料も薬も水も、生きるに必要な品の入手が出来なくなった時のことを。
国や経済界はそういう場合のシミュレーションもなしに、原発を再稼働し、さらに再稼働させようとしているのではないか。
そのような動きは、断じて許せません。
前々便でお伝えした瀧澤昇司さんも大井千加子さんも、自身の活動を通してその思いを体現しているのだと思います。                      

いちえ


2019年4月6日号「2月25・26日福島行②」

◎大規模酪農場建設計画
 1月に訪ねた南相馬で、2人の方から大規模酪農場が建設されるらしいという話を聞きました。
 小高区大富のUさんからは、地区の仲間たちと蕎麦、菜種、陸稲の栽培をやっているが近くに大規模酪農場が建設されるので、これからは耕作放棄地を借りて牧草栽培もやっていきたいと聞きました。
それを聞いた時には、「ああ、そうやって放っておかれた畑地が蘇り、また地元の人にとっても収入に繋がっていくのは嬉しいことだなぁ」と思ったのでした。
 ところが次に訪ねた原町区片倉ではY子さんは、地図を広げて建設予定地と住民たちの住居との位置関係を示しながら、地下水を飲料水にしている住民たちは上方に牧場が建設されることに反対をしていると聞いたのでした。
なるほどY子さんの家を出て先に向かう道の路肩には、「牧場建設反対」の幟旗で住民たちの意思表示がされていたのでした。
 そんなこともあったので2月の南相馬訪問では、その牧場についてもう少し情報を得たいと思い、片倉行政区の区長、牛渡美知夫さんを訪ねました。
●原発事故後の牛渡さん
 牛渡さんは、「嫁いで川口市にいる娘が臨月で里帰りしていた時で、地震が起きた後で余震も続いたので家内と一緒に娘を川口に戻し、家内を付き添いに置いて、自分だけ自宅に戻った」そうです。
牛渡さんは鹿島区で食品加工の会社を経営しているのに、「みんなぶん投げたままで、従業員もどこさ行ってるか判んないし、中には金がないと困るから口座に入れてくれって言う従業員もいるし」ということで、5月初旬には奥さんを呼び戻しました。
 片倉は原発から半径20kmのちょうど境目になるような地域で、放射線量も低くはない地域ですから住民たちはほとんど避難して、残ったのは牛渡さんの他に2軒だったそうです。
そんなわけで残っている人は少ないし田畑は草が茂ってきていたので、奥さんが戻ってきた翌日に、牛渡さんは草刈りをしました。
「私は草刈り機を持って土手の草を刈り始めたら、もの凄いんです。
涙が止まらない。
鼻水も。
テレビではマスクをして出かけろと言ってたけど、ゴーグルしろとは言わなかった。
だけど、ダメだね。
目も涙がボロボロ出て、マスクは鼻水でダラダラなんだから。
どうしてこんなになるのかなとそのころは思ったけど、後から考えるとヨウ素だな。
 事故の後降った放射能が水に溶けて植物が吸ったのを、オレ刈ってたんだよ。
目には見えないけど刈った時に、フワーッて放射能が舞ったんじゃないの。
6月には、もうそういう症状は出なくなった。
5月はそんな風だったな。
線量計で測っても単位面積当たりの線量は一緒のわけで、吸い上げられたとこに濃縮しているヨウ素だったんだなぁ。
ゴムも凄かった、タイヤがね。
ゴムは吸うんでしょうかねぇ。
ボロボロになったよ。
あのころはなんか金属臭もしてたよ。
 オレが避難したのは一晩だけ。
2回目の爆発の時、津島通って郡山まで行って戻ってきて、草刈りしたのはそれから後の話だ」
 そう聞いて私は、その後体調に障りはないか、ホールボディカウンターを受けたかを尋ねましたが、具合の悪いところはないし検査結果も良好だったと答えが返りました。
●牧場の話
 以下、牛渡さんから聞いた話の概要です。
 「大規模牧場建設は自己資金だけでは無理で国からの助成金が必要だが、復興予算からの助成は32年度までに終わっていないと下りない。
しかしこの地区に大規模牧場要地の話がもたらされたのは、3ヶ月ほど前で昨年の11月頃のことだった。
福島県酪農組合から持ってこられた話だ。
大規模牧場建設要地として、最初は小高区川房が俎上に上がったらしいがそこは放射線量が高い地域なのですぐに候補から外れ、替わって小高の大田和に話を持っていった。
ところが大田和では、地元の反対にあって進められず、このままでは助成金の面でタイムアウトになると後が迫っていて急遽こちらに話が回ってきた。
 だがここは、この話が持ち上がるよりもっと以前にボーリング調査をしたことがあるのだが、水が出ないといわれている場所だ。
水の問題が不明なのに、後ろが限られているのでお尻に火がついたみたいに、降って沸いたように話が持ち込まれた。
フラワーランドという場所に21町歩くらいの畑地があり、そこを買収して復興牧場を作りたいというのだ。
そこで成牛1000頭(牛渡さんはそういったがY子さんのところで聞いた時には子牛を入れると3500頭)の牧場。
 3月中にボーリング調査をするような話だが、ボーリングも1本掘るのに300万円位かかるから、そう何ヶ所もやれないだろう。
ボーリングの許可は地権者がすることだから、私には判らない。
もしかして水が出てなんとかしようとなれば、バタバタと話は進むだろう。
候補地にあたる場所の地権者全員の承諾がないと作れないが、地権者の中にはここに住んでいない人もいる。
また地権者の内の多分1名は、承諾しないだろう。
しかしその人の所有地を避けて建設することは難しいだろうから、どこか代替地を出して承諾してもらうことになるのだろう。
 建てることになったら法律に則って、周りの行政区長も含めて農事組合や住民に対してきっちり納得いくようにやっていくことになるだろうけど、小高で作って貰えば良かったんだけどなぁ。
小高でうまくいかなかったのは、マァマァの人もいたのだが強硬に反対する人もいて、
それはあの地域には養豚場があるのだがそこの環境対策が杜撰らしく、それであんなものはダメだとなったらしい。
 事業の詳細を頂いてないので判らないが、糞尿の処理をどうするかという問題もある。
糞尿処理について言葉では聞いているが、実際にどうするのか見に行ったことがある。
『新聞紙やおが屑を70%くらい落として発酵させると熱が出てきて、だんだん激しく発酵してくるから水分が取れる。
最終的には、水分の少ない発酵堆肥として畑に撒くという循環型でできる。
一ヶ所に集めて発酵させるとそのガスで発電もできる』と聞いている。
 仮にここで大規模牧場が建設されるなら、気をつけないと話だけ進んでいってしまうので我々も注意してみていくより他ない。
間違いなくそういう処理ができるという保証が必要だし、排水の問題もある。
発酵して燃やしたら匂いは消えるだろうが、残渣の問題がある。
水分を分離して浄化して放流となるだろうが、どこまでちゃんとできるのかということだ。
かなり規模がでかい牧場だが、福島県の基準では1日30tまでの放流はさほどうるさくないが、30tを超えると管轄の振興局が直接管理するようになり、基準がより厳しくなる。
 いずれにしろ大規模牧場建設計画の事業主体は県酪農組合で、ここでは水が出るか出ないかにかかっている。
ボーリング調査の結果ですから、今はどうなるのか私には判らない」

 他所では既に復興牧場として、大規模な牧場が運営されているところもありますが、経営は外国企業だと聞きました。
南相馬での大規模牧場計画のこれから、よく見ていきたいと思います。

◎羽根田ヨシさん
●過ぎた日々を語るヨシさん
 久しぶりに羽根田ヨシさんを訪ねました。
訪問の約束はしていなかったのですが月曜日だから、ヨシさんはデイサービスには行かない日だと思って訪ねたのです。
ヨシさんは畑から戻ったところでした。
突然の訪問を詫びながら、一緒に行った今野さんを「津島の人ですよ」と紹介しました。
ヨシさんは津島の出身なので、初対面の今野さんが訪ねたことをとても喜びました。
 昨年米寿を迎えたヨシさんと50代半ばの今野さんですが、ヨシさんは津島の友人や知人の名を挙げて今野さんにその人たちの消息を尋ね、今野さんが知る限りの事を丁寧に答えていきました。
その様子はまるで伯母さんが、訪ねてきた甥と故郷の人たちのことを語り合ってるように見えて、私にも嬉しいことでした。
 新制農業高校を卒業して20歳で嫁入りしたヨシさんは、津島の実家から馬場のこの家までの道中のことも話してくれました。
ふろしき包みを抱えて津島を出るとバスで昼曽根まで行き、昼曽根の茶屋で持ってきた着物に着替え、山を二つ越えて馬場に来たことを。
その道は2000年に原浪トンネルができたので、今は山越えせずに道は通じています。
原浪トンネルの浪江側の口が昼曽根です。
原発事故後に昼曽根から先の浪江津島は、帰還困難区域になってしまいました。
 ヨシさんには避難生活中から何度か話をお聞きしてきましたが、この日の今野さんとの会話では初めて聞く話も多く、それも興味深いことでした。
そして二人の会話からまた私は、かつての津島の暮らしに想いを馳せました。
地域の人々の繋がりや、季節ごとに催された行事などをも。
 ちょうど、ヨシさんのことが書かれた本(『羽根田ヨシさんの震災・原発・ほめ日記』馬場マコト著、潮新書刊)が出版されたばかりで、私もそれを読んでいました。
その本には六角支援隊が提供した畑と、畑を利用するようになったヨシさんの思いも書かれていました。
ヨシさんに「いいご本ができましたね」と言うとヨシさんは、「ええ、本を読んだ人が手紙をくれたり訪ねてくれたりして、嬉しいですよ」と答えるヨシさんでした。
●原浪トンネル
 別れ際にヨシさんは、「渡辺さん、今日は津島の人と一緒に来てくれてありがとうございました。津島の話ができて嬉しかった」と、晴れやかな笑顔でした。
ヨシさんにお暇して、車中から羽根田カンボス彗星を発見した羽根田利夫さんの天文台跡を見ながら次の訪問先へ向かいました。
 次の訪問先との約束の時間には、まだ少し間がありました。
馬場のヨシさんの家からヨシさんの輿入れした道を逆に辿って、昼曽根まで行きました。でもヨシさんが越えた「山二つ」は越えることなく、原浪トンネルをくぐってのことですが。
昼曽根で国道114号線を右に行けば、ヨシさんがバスに揺られて来た浪江津島へ至ります。
ヨシさんの故郷、津島はあの日から人の姿が消えました。
懐かしくても、帰れぬ故郷になりました。
 小高の大富に訪問を約束した人がいたので、昼曽根の分岐で私たちは道を左にとって小高に向かいました。                         

いちえ


2019年4月6日号「2月25・26日福島行①」

大変遅れた報告になってしまいました。
もう一ヶ月以上も前の福島行の報告です。
明日はトークの会「福島の声を聞こう!vol.31」ですが、その前の村田弘さんにお話いただいた回の報告も、滞っています。
村田さんの言葉はぜひお読みいただきたく、まとめているところです。
今少しお待ちください。
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◎南相馬市・瀧澤昇司さん
*南相馬原町区の馬場に、ひときわ脚の高いソーラーパネルが設置されている畑地が何ヶ所かあります。
友人で写真家の大石芳野さんから聞いていた、酪農家の瀧澤昇司さんの牧草畑です。
「希望の牧場」の吉沢正巳さんからも、瀧澤さんのことは聞いていました。
吉沢さんの話では、「瀧澤さんとこでは、売乳より売電の方が儲かっているみたいだよ」というのです。
ご本人の瀧澤さんから話をお聞きしたいと願っていながら、お忙しい様子でなかなか叶わずにいましたが、ようやくスケジュールが合って、瀧澤さんに会いに行ってきました。
単刀直入に、吉沢さんが言ったことは本当ですかとお聞きすると、「農業以外での収入を得るとなると、総売り上げの半分までだからね。農業の方が若干多いよ」と、答えが返りました。
 そして瀧澤さんは、あの日からのことを話してくれました。
●あの日から
 瀧澤さんの住まいのある南相馬市原町区馬場は原発から21キロで、原発事故が起きた時には屋内退避または自主避難という曖昧な指示が政府から出された地域です。
瀧澤さんはその当時、50頭ほどの乳牛を飼っていました。
事故後に政府は、「直ちに影響はない」と言いましたが、福島県産の原乳から厚労省が定めた暫定基準を上回る放射能が検出されたとの発表があり、3月21日には原乳の出荷制限が指示されました。
子どもたちを避難させて牛と共に留まった瀧澤さんですが、検査もせずに出荷はダメという県の指示には納得がいきませんでした。
もちろん、汚染されたものは絶対に出荷したくなかったし、だからこそ自分の原乳はどれくらいヨウ素やセシウムが出ているのか知りたいと思いました。
国も学者も信用できず自分で勉強するしかなかったと、その頃を振り返って瀧澤さんは言います。
 知り合いの大阪の会社から測定費用の支援があり、測ってみると1回目に検査した4月6日にはセシウムもヨウ素も出ましたが、2回目の4月26日の検査では検出されなかったので、やはり検査してみなければ判らないのだと思いました。
 その後、区域再編成があって瀧澤さんの住む馬場地区は、屋内退避区域から緊急時避難準備区域となりました。
そして5月中旬には、南相馬市の原乳のモニタリングが実施されるようになり、ようやく6月10日から原乳の出荷が再開されました。
以前は1日2回搾乳していたのですが集荷停止期間中は1日1回にし、搾った乳は畑に捨てる毎日でした。
 6月に出荷停止が解除されてホッとしたのも束の間、今度は牧草が使用禁止になって閉まったのです。
牧草は、買うよりほかはなくなりました。
けれども1キロ70円の牧草を買っていたのでは採算が合わず、事故前のように十分に与えることができず、栄養不足で弱った10数頭を処分せざるを得ませんでした。
一体何のために仕事をするのかと悩み、どうすれば良いのかを考えあぐねる日々の中で、いかにして草を使えるようにするかが、一つの目標になっていきました。
 震災前は畑で燕麦やイタリアンライグラスなどの牧草を育て、その畑には牛の糞尿から作る堆肥を施し、完全に循環型の酪農を行っていたのですが、以前のその形に戻さなければここで酪農は続けられないと改めて思い至った瀧澤さんでした。
機械メーカーなどが研究した除染の方法新聞で公表されたりすると、隈なくそれらに目を通し、また自分でもいろいろ考えて試してみました。
例えば、天地返しのように土を攪拌したら汚染を薄められるのではないかとやってみた結果、国の基準の半分程度に低い数値の牧草が採れるようになりました。
 飼料に使えるようになりこれでやっていけると思ったその3ヶ月後に、今度は酪農団体が独自の基準を出しました。
県の畜産と酪農の組合、全農福島と農協という人たちの集まりである酪農協議会で作った基準ですが、それは国よりも厳しい基準でした。
キロあたり30ベクレル以下なら食べさせても良いが、ただし自由採食させる場合は20ベクレル以下でなければいけないとしたのです。
20〜30ベクレルの間は調整が必要で、0ベクレルの牧草と混ぜて食べさせないといけないことになったのです。
そうしないと、牛乳から1ベクレル以上の数値が出てしまうからです。
その結果、現在出荷している原乳は1ベクレル以下です。
●EM菌との出会い
 瀧澤さんは、根本的には土壌中の放射性物質を減らさないと先に進まないと考え、土壌の微生物でなんとかできないかと考えました。
放射能は原子ですから分解できませんが、ネットで調べたら放射能をエネルギー源とする光合成細菌という微生物がいることがわかりました。
それを培養してうまく使えば放射能を減らすことはできるのではないかと考えていたところ「EM研究機構」の人たちに出会い、EMの中にも光合成細菌が入っているというので、試してみようと思いました。
EMというのは乳酸菌、酵母菌、光合成細菌など、人の暮らしに有用な微生物群のことです。
 そこでまずは、牛にEM菌を食べさせてみることにしました。
一番初めに刈った草は50ベクレルで使用禁止になっていましたが、禁止になるまでの間の数ヶ月、瀧澤さんは1頭にだけその草を食べさせて牛乳からどれくらい出るかを試験的に測っていたのです。
国の定めた100ベクレルという基準値以下ではありましたが、その牛の乳からは毎回10ベクレル程度は出ていました。
その牛に、EM菌を毎日食べさせたのです。
きっと数値は下がるだろうと思っていたのに、逆に高く出るようになってしまいました。
けれどもある一定期間は高い数値が検出されていたのですが、2ヶ月ほど過ぎるとスパッと落ちて5ベクレルほどになったのです。
 これはおそらく内部被曝で蓄積していた放射能が、EMによって低減したのではないかと考えられました。
2ヶ月間ほど高い数値が出ていたのは、その間に筋肉に溜まっていた放射性物質がEM菌の力で排出されたためで、排出が進んである程度体内から消えたことによって、その後には乳から検出される放射能数値が下がったのです。
瀧澤さんは、それをデータとして取ることができたのでした。
 広島・長崎の原爆被災者で、味噌を食べた人たちは放射能の影響が比較的少なかったと言われますが、発酵食品は味噌でも納豆でも、麹でも、発酵する時に酵素が出るので、酵素を摂っていれば排出は早くなるのです。
これは決して無駄ではないと判り、「これでやっていく」と決意を新たにしたのでした。
 それからは自分のところで培養したEMを、1頭辺り1日に300ccくらいを毎日餌にかけて、全頭に食べさせています。
牛が排泄した糞の中にも、EM菌はちゃんと残っています。
それが堆肥になり堆肥は畑や田んぼに還元することによって、長い間にはセシウムの量を減らす速度を早めていけるのではないか、半減期を短縮できるのではないかと考えています。
EMを食べさせた牛の糞を堆肥にして積んで置くのですが、堆肥から滲み出てくる水分を溜めて汲み、それを液肥として使っています。
その液肥自体が、EMの発酵液肥になるのです。
 それを一ヶ所の圃場にだけ散布して、毎年、土壌と牧草の数値を検査しています。
これも実験です。
瀧澤さんの原発事故後の生業への向かい方は、考察と実証実験、そして得た答えから前に進むという日々でした。
そして去年やっと、その圃場の牧草がNGとなりました。

*私が瀧澤さんの名前を知ったのは、大石芳野さんに教えられてのことでした。
瀧澤さんは大石さんとの出会いを、そして大石さんと出会ったことで瀧澤さんの今が在ることを話してくれました。
●大石芳野さんとの出会い
 2011年5月のある日、瀧澤さんの息子さんが学生だった時の担任が一人の女性写真家を案内して訪ねてきたのです。
その女性が、大石芳野さんでした。
その担任は3•11後に心身に不調をきたして休職し、大学時代の恩師を訪ねて相談に行ったそうです。
その大学の教授は大石さんの知人でした。
大石さんは教授に、南相馬の酪農家を取材したいので、案内してくれる人を探していることを伝えていました。
教授は大石さんに自分の教え子だった南相馬の彼を紹介し、彼が瀧澤さんのところへ大石さんを案内したのでした。
 2011年5月、その頃の瀧澤さんは乳を搾っては畑に捨てる毎日でした。
少し前にオーストラリアから支援物資として20日分ほどの牧草が送られてきましたがそれも尽き、輸入した牧草を与えながら「オレは何をやってんだ」と虚しさを募らせながらも、なんとかしたいと喘ぐような毎日でした。
瀧澤さんが大石さんに出会ったのはそんな時期でしたから、取材を受け、苦境に心寄せて貰えたことで励まされもしたことと思います。
 夏に再訪した大石さんに原乳が集荷できるようになったことを伝え、「ちょっと安心だね」と会話を交わした時に「放射能も、そのうちなんとかなるだろうから」と瀧澤さんが言うと、大石さんには「何を言ってるの!この先、何十年と向き合っていかなければいけないんだよ!」言われました。
そう言われても最初は、ピンとこなかった瀧澤さんでした。
でもそれから色々調べていくと畑の土壌は3,800ベクレルと高い数値で、ここで放射能と向き合っていかなければならない現実に、ハンマーで頭をガツンと殴られたような思いがしたのでした。
 大学卒業後は帰ってきてここで農業をやるという息子に、生計を立てていく筋道をつけて置きたいと思うものの、ここでは農作物を作っても収入は上がらないとしたら、その分を補うには太陽光発電が一番手っ取り早いのではと考えた瀧澤さんは、牛舎の屋根にパネルを載せるとしたらいくらかかるか見積もりを取ってみました。
23Kwで800万円と言われ、それだけの投資をして回収できなかったらどうするか、逡巡し踏み切ることができずにいました。
 その一方で瀧澤さんは、牧草が使えるようにするにはどうすれば良いか試行錯誤の日々を過ごしながら2012年の5月にEM研究機構に出会い、EMの試験協力農家になったのでした。
●世界平和アピール7人委員会
 大石さんは、その後も季節が変わるごとに訪ねてくれていました。
そして2012年の夏には秋に開かれる講演会の知らせを持って来て、瀧澤さんもそれに参加するようにと誘われたのです。
 2012年11月10日、サンライフ南相馬で「世界平和アピール7人委員会 2012年講演会」が開かれました。
この7人委員会というのは、1955年に当時平凡社社長だった下中弥三郎氏が平和問題に関して知識人として意見表明していこうと提唱して結成された会です。
メンバーの条件は、「*政治家でないこと*自由人で民主主義陣営の人*世界的に平和運動を行いうる人」の3点で、年月とともに物故者もでて新たな人が加わって、常に7人で構成されてきました。
現在のメンバーは、武者小路公秀さん、小沼通二さん、池内了さん、高村薫さん、池辺晋一郎さん、島薗進さん、大石芳野さんの7人です。
 講演会の前にも大石さんは瀧澤さんを訪ねて講演会へ誘い、また瀧澤さんにも発言をするようにと言いました。
そう言われても瀧澤さんは、その時は話すべき何も心に浮かんでいませんでした。
7人の人たちが何を話すのか、じっくり聴いて考えようと思って講演会に参加したのでした。
 この日の講演会のプログラムは、下記です。
*講演1:辻井 喬「中央集権の時代から地方自治の重視へ」
*講演2:大石芳野「福島の人びとを撮りつづけて、思う」
*講演3:小沼通二「原発と核兵器の時代を超えて」
*パネルディスカッション「あらためて原発を考える」
 パネラー:武者小路公秀、辻井喬、池内了、小沼通二、大石芳野、桜井勝延
 登壇した7人委員会の人たちの発言は、脱原発についての話でした。
なぜ原発がダメなのか、なぜ放射能がダメなのか、使用済み核燃料の処理には20万年も管理していかなければならないことなどが話されました。
 大石さんが、放射能は人類と共存できないと語るのを聞きながら、なぜか想いが溢れて涙がこみ上げてくる瀧澤さんでした。
パネルディスカッションが終盤となり大石さんは、マイクを瀧澤さんに向けたのです。
思わず「発電は電力会社を頼らずに得たい」と、瀧澤さんは発言したのでした。
7人委員会の人たちの話を聞きながら瀧澤さんは、「原発は止めなければいけない、太陽光や風力があるではないか、800万円かかっても屋根にパネルを載せよう、原発の電気は要らない、原発に頼らなくてもこういうやり方があると、ここから発信しよう」と、逡巡していた気持ちを前へ進める踏ん切りがついたのでした。
●太陽光発電へ踏み出した
 屋根の上のソーラーパネルから売電するようになって2、3ヶ月が経ちました。
売電で得た収入を計算すると、10年で元が取れる額でした。
売電は20年間の固定買取価格でしたから、20年で減価償却していけば利益が出ます。
それなら太陽光発電で収入を得ていくことができるではないか、パネル設置できる場所は全部利用しようと思い、夢が膨らんでいきました。
たくさんある農地を使って売電をと思い、いざ進めようとしたら第一種農地なので農地転用はできないことが判り、膨らんだ夢が消えました。
ところが夢が消えてガックリと気落ちしていたある日、新聞に営農型発電設備を許可することにしたという記事を見つけたのです。
早速業者に話したのですが、その業者は情報が入ってこないからまだよく判らないと言うのでした。
 そんなこんなで話が進まずに1年ほどくすぶっていたのですが、ある時東京から営農型発電設備を考案して実用新案登録を出したという人が訪ねてきました。
特許申請をしている人で、「ソーラーパネルの下でシャインマスカットを作るといいですよ」と営業に来たのでした。
それは高さ2m50の設計でしたから、トラクターは入れません。
瀧澤さんは、もとよりマスカットを作る気などなく、下で牧草が作れるならいいなと思いました。
牧草刈りのトラクターの高さは、2m80です。
そこで瀧澤さんは、高さ3m50で支柱間が6mで作れるかどうか考えてくれと、業者に言ったのです。
それだけの高さと幅はかなり特殊な注文だったでしょうが、業者はその注文に対してできると答えました。
 答えを聞いて瀧澤さんは営農型発電機として山の上に第1号機を作りましたが、農業委員会への申請が実に面倒でした。
農業委員会へ申請すると、書類はそこから合同庁舎の改良普及部企画課へ送られます。
そこではパネルの下で作る作物が、同じ作物の地域平均の80%以上の収量が見込めるかどうかを判断します。
決定権は県の農林水産部担い手課にあるのですが、さらに県の農業会議にかけて意見を求めて可となると、今度は逆のルートで下がっていって農業委員会からオーケーの返事を貰うのです。
途中で何か質問が一つでも出れば、またこのルートを手繰って行くという具合でとても時間がかかるのです。
もう諦めようかと思うくらい面倒でしたが、ここまできたら意地でも通してやろうと思いました。
 10ヶ所の農地に設置したいと思いましたが、高さも幅も特別仕様なので基礎と支柱に余分に費用が嵩みます。
国産にこだわらずに中国産を使えば費用は3分の1に抑えられることが判り、中国産を使うことにしました
自分の家の農地10ヶ所で太陽光発電を始めてもうじき1年になりますが、出力750Kwくらいになっています。
 瀧澤さんは、言いました。
「太陽光発電は原発をストップさせるために、敢えてやらせて貰っている!」
●次代に継ぐ
 北海道の酪農大学で学んだ息子は、この春卒業です。
我が家の酪農を継ぐと言った息子に「ちゃんと継げよ」と言って、瀧澤さんは継げる段取りはつけてやりました。
そして息子の卒業後は、家に戻る前に徳島の酪農家のところで1年間修業させようと思っています。
酪農コンサルタントの先生に毎月指導を受けている瀧澤さんですが、もう10数年もその先生の指導でやっている酪農家が徳島県には何人かいるのです。
瀧澤さんも以前に徳島でそうした酪農経営を見てきて、目からウロコが落ちるような体験をしました。
その時に「こんな経営ができるならオレもやってみたい」と思い、勉強するようになったのです。
だから息子も1年くらい、そこで勉強させようと思ったのです。
 EMと太陽光発電で、息子がここで酪農を継いでいくための基盤はできました。
放射能は思ったほど下がっていませんが、何もせずにいるよりは早く減らしていける技術はできました。
●地域のこれから
 太陽光発電は利潤のためだけでやっているのではないと、瀧澤さんはこれからのプランを話してくれました。
「この地域は原発事故の影響からばかりでなく自然の在り方として、人口が、特に若い人が減っている。
もともと原発事故以前から、若い人たちは出て行って帰って来ないので年寄りばかりだったが、事故後はそれに輪をかけた感じで、構造的に若い人が少ないところだ。
それで耕作放棄地もあるので、そこを借りて営農型太陽光発電で再生させていくという目的もある。
この地で農業をやっても食べ物はまず敬遠され、消費者は福島県産より県外産を選ぶし、福島産なら南相馬より相馬の物の方が良いというのが人の心情だ。
ここで農作物を作って食っていこうとしたら、全量を農協や国で買い上げてくれると保障された物に手を出さない限りは、自力で販売していこうというのは荊の道を進むようなものでリスクが高い。
それで耕作放棄地が増えている。
 そうした人様の土地を耕作と発電とセットで貸してくれるかと頼むと、大体はよろしく頼むと言ってくれる。
 パネルの下で渋柿と榊を作ったらどうかと思っている。
甘柿は日照がないと甘みが出ないからダメだが、渋柿ならパネルの下で大丈夫だ。
実を採って、干し柿用に出荷する。
 榊は温暖地のものだが、うちの間取りだとパネルの下に5m40のビニールハウスが作れる。
元々榊は日陰の植物だからパネルの下で良いし、ハウスの中で作ればもっと遮光できてちゃんとした本榊ができる。
実ものではないから、出荷時期を選ばない。
 渋柿も榊も、はさみ1丁で年寄りでも収穫できる。
大した金にならなくても太陽光で稼げば、その下は手間賃が払えればそれでいい。
昔は浜通りの浪江やこの辺りは榊の産地だったが、震災の影響でダメになり激減して、中国産の安いのが入ってきている。
でもそれは品質が良くないので、需要は国産に戻ってきているというから、やってみようかと思っている。
 若い人が居ねぇ、若者が居ねぇって言うが、若い人は居なくても年寄りがいる。
年寄りの仕事に良いんじゃねぇかと思ってる。
もちろん、若い人がやったって良い。
潤沢な収入が得られるくらいの面積を確保できれば、やっていけると思う。
榊は枝切って挿し木で増やせるし、花木は放射能の影響受けないから。
 渋柿はもう植えていて、出荷契約は取っている」
そう話してくれた瀧澤さんでした。
●昔日を振り返れば
 現在52歳になる瀧澤さんですが、酪農は祖父の代からです。
歴史を紐解けば日本では6世紀頃から、酪(ヨーグルト)、蘇(チーズ)、醍醐(バター)などの乳製品は薬として利用され、江戸時代末期には搾乳した牛乳が飲まれるようにもなったようです。
ただ一般の庶民に普及するのは、もっと時代が下ってからのことです。
 戦後、酪農振興法ができて酪農が奨励されるようになったのは昭和30年代で、瀧澤さんの祖父の代の頃のことです。
どこの農家にも牛が1頭か2頭いて、牛が1頭いれば子どもを一人大学に行かせられると言われていました。
瀧澤さんのおばさんも、「私は牛で大学行かせてもらった」と言っていたそうです。
その頃は1頭、2頭が5頭に増えてくると、そこで酪農を止めて勤めに出るか、それとももっと頑張って増やして酪農で生計を立てていくかという時代でした。
稲作の他に葉タバコや養蚕もやっていましたし、牛の飼葉は鎌で刈り乳搾りも手で絞っていた時代です。
搾乳も牧草刈りも機械化された今とは違って、1頭、2頭なら他の作物と兼業できても頭数が増えたら難しく、虻蜂取らずになってしまう時代でした。
 震災前の南相馬には酪農家が9軒ありましたが、今は3軒です。
瀧澤さんの他に片倉の杉和昌さんと深野の柚原友加津さんです。
杉さんは、私も以前に3度訪ねてお話を聞いてきました。
初めて訪ねたのは2011年の秋でしたが、その頃は和昌さんのお父さんも健在で、お父さんからはこんな話も聞きました。
 やはり昭和30年代のことですが、アメリカへの農業実習性の募集があったそうです。
福島からも数人が応募して、杉さんのお父さんもその一人でした。
アメリカの酪農家の家で1年間過ごし、帰国して酪農を始めたと言っていました。
 私が瀧澤さんに以前に杉さんを訪ねたことを話すと、瀧澤さんは「杉さんとは親戚です。杉さんのばあちゃんは、ウチから出ているんです」と言いました。
また、先月私が訪ねたH・Y子さんの娘さんの嫁ぎ先が杉和昌さんなのです。
 このように地域の人同士が、何かしらの縁続きというのが珍しくない地方の暮らしなのでしょう。
●「ウチの米、食べてってください」
 原発事故後のここで農業をやるにはリスクが高いと言った瀧澤さんは、「米をやるなら飼料米のほうが無難だ」と言いました。
「ウチでも殆ど飼料米にした。若干自分のとこで食う米は作ってっけどな。
長いこと自分の米を食ってきたから、他所の米食っても納得いかない。
自分とこのコシヒカリ食ってきたから、どこの米食っても味が違う。
『これ違う。俺の食いたい米じゃ無い』って。
会津の米買って食ったけど、美味いんですよ。
粒も大きくて明らかにウチの米より食感がいいんだけど、でも味が違う。
ベコの堆肥の入った米は美味しいね、これだけは言える。
だから、どうしても自分の米食いてぇから農地除染やって終わったら、まずまず自分の米食いてぇからって試験田作付けやって、ベクレル問題無いってなったから、じゃぁ元に戻しましょうって徐々に戻してやってきた。
だけど、前は米のお客さんも居たんだけど震災後に失って、米の販売はもうやってない。
自分とこで食う分と、『ウチの米だから食べてください』って親戚に配るのと、そこの“田舎食堂”に出すのとだけだ。
“田舎食堂”、昼やってますから、行ってウチの米食べてみてください、美味いですよ」
 私は馬場に来てこの道を通る時にはいつも、田舎食堂の前に立つのぼり旗を目にしています。
交通量も少ないところですから、商売が成り立つのかしらと思いながら見て過ぎていました。
この日、瀧澤さんの家を出たのはちょうどお昼時でもあったので、田舎食堂で昼食をと思ったのですが、生憎定休日だったのか店は閉まっていました。
今度馬場に行く時には、寄ってみようかと思いました。
 瀧澤さんは、別れ際にこう言いました。
「いろんな人が家に来てくれましたが、みんな何かしら置いていってくれたなぁと思う。
良いものを置いていってくれたなぁ、と。
それに導かれてきたような感じですね。
感謝するしかないねぇ」
 諦めずに挑戦する瀧澤さんの声には、張りがありました。
徳島へ酪農修行に行く息子さんが戻った頃にまたここの、「T・アグリプロダクト株式会社」の瀧澤さんを訪ねようと思いました。              

いちえ


2019年3月26日号「裁判傍聴2件」

◎福島原発刑事訴訟
 3月12日、東京地裁で第37回公判が開かれました。
●被告人側の最終弁論
 勝俣恒久、武黒一郎、武藤栄の3被告の弁護人による弁論はいずれも、長期評価を取り入れるかどうか土木学会の審議を待つことが妥当であり、そう判断した東電側には罪はないというもので、また山下調書は信頼が置けないという弁論でした。
なぜ土木学会の審議を待つことが妥当なのかの説明はなく、また山下調書については言葉尻を捉えての批判ばかりでした。
例えば調書で山下氏が「…と思う」と言ったりしている点を、「だ」とか「である」と言い切らずに「思う」などと言うのは、確かではないことを自分の印象で述べているだけに過ぎないなどと言うのでした。
 これらの最終弁論を武藤栄被告人の宮村啓太弁護士は、パワーポイントを使いながら滔々と読み上げました。
 武黒一郎被告人の政木道夫弁護士の声は小さくとても早口で言葉が聞き取れず、傍聴席から「聞こえません」の声が上がりました。
すると驚いたことに、これまででしたら裁判長は「傍聴席は発言してはいけません。発言したら出て行ってもらいます」などと居丈高に言い、衛士が発言者に詰め寄ったりしたものですが、この日はまるで違いました。
傍聴席には何も注意せず、政木弁護士にマイクを使ってもう少しゆっくり話すように言ったのです。
本来それが当たり前の裁判官の姿勢だと思いますが、これまでがこれまでだったので驚きました。
 勝俣恒久被告人の岸秀光弁護士と加島康宏弁護士は、2人で相次いで最終弁論を読み上げました。
●被告人3人の意見陳述
 永渕健一裁判長が3人の被告に、「これで裁判は終わりますが、最後に意見があれば述べてください」と言い、3人は順に証言台に立ちました。
勝俣被告人は「申し上げることはお話ししました。付け加えることはございません」と言い、武黒被告は「特に付け加えることはありません」。武藤被告は「この法廷でお話ししたことに、特に付け加えることはありません」と、3人とも木で鼻をくくったようなそっけなさで、一言の謝罪もありませんでした。
 裁判長は判決を9月19日に言い渡すと述べて、閉廷しました。
3人の被告が法廷から出るときには傍聴席から「恥を知理なさい」「勝俣、責任を取れ」
と怒号が飛びました。
「人非人」とは、彼らをこそ言うのでしょう。
裁判官の公正な判断を強く望みます。

◎「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」第17回口頭弁論
 3月15日、福島地裁郡山支部で津島訴訟の原告本人尋問、証人尋問が行われました。
原告の三瓶春江さん、三瓶早弓さん、証人の関礼子さん(立教大学教授、社会学者)の3人が意見陳述をしました。
私はこの日は夕方東京で用事があったので、午前中の春江さんの本人尋問しか傍聴できませんでした.
原告本人尋問は原告代理人弁護士からの質問に原告が答えて、それが終わると次に被告代理人弁護士が質問して原告が答え、最後に裁判官の質問に答えというように進みますが、ここでは春江さんの答えをまとめた形でお伝えします。
 午後の原告本人(三瓶早弓さん、春江さんの次女)尋問、証人尋問は傍聴できませんでしたが、頂いた資料で関先生の論旨を知ることができました。
●三瓶春江さん、原告本人尋問
⑴原告代理人弁護士の質問に答えて
*7人きょうだい9人家族
 1960年6月25日、津島で渡辺家の6番目の子供として生まれ、下に弟が生まれたので9人家族だった。
両親は満州からの帰国者で開拓者として津島に入植し、炭焼きと農業の兼業で暮らしを支え、農閑期には父は出稼ぎに行った。
長兄は家族一の働き頭で、中学卒業後は高校へ行かずに東京へ出稼ぎに行き家族へ仕送りをしてくれていた。
*長兄の死
 兄が25歳で埼玉県の大宮市で交通事故で亡くなったが、それは春江さんが11歳の時のことだった。
兄のお葬式は津島で執り行った。
その頃の津島は土葬だったが、ご遺体を大宮から津島まで運んで土葬した。
母が兄の亡骸に会うまではその死を信じられず、そのまま津島に連れて来てと望んだからだった。
夕方になって兄の遺体が津島に戻ると、隣組の人たちみんなで廊下から部屋に上げた。
隣組は13、4軒あったが、夜になっても7、8人は残ってくれ、通夜も葬式も隣組でやっていただいた。
それが津島のやり方だった。
*結の力
 式を仕切り、葬儀委員長を務めるのは組長さんだった。
各家庭から男女ともに手伝いに出て、男性は棺を作ったり、五色旗、ろうそく立てなどお墓に持って行くものを全て用意し、女性は料理を作るおまかないに当たった。
お墓は家から2kmくらいの赤于木の部落にあり、棺はリヤカーに屋根をつけて運んだ。
紙製の花輪も作り、それは大人が一人で運べるもので、組の人たちが行列を作ってお墓まで運んだ。
 最近は土葬でなく火葬になったが、葬式はそのように組でやり、それでもいつもスムーズに行えたのは、何100年も前からそのやり方でしてきたので、判らないことがあっても長老に聞けば教えて貰えた。
 お葬式だけではなく、農業や日々の暮らしも隣組の結の力でやってきた。
田植え、稲刈り、脱穀など、結で助け合ってやっていた。
*仲の良いきょうだいだった
 兄が亡くなってきょうだいは6人になったが、きょうだい仲が良かった。
母はいつも、「親はいつかは死ぬが、きょうだいで助け合って生きていってほしい」と言っていた。
母は周囲の人から「渡辺さん家は、きょうだい仲いいね」と言われることに誇りを感じていた。
 被災まで渡辺家の家族は、既に亡くなっていた父と長兄の他はみな津島に暮らしていた。
母が常々言っていたように、きょうだいは仲良く、ケンカをしたことはなかった。
*春江さんの結婚
 春江さんは1984年、津島の三瓶ノリミチさんと結婚した。
婚家ではノリミチさんの両親、妹と暮らし、賑やかで楽しい家庭だった。
義父のリクさんは開拓農業組合から浪江町役場に勤める公務員だった。
津島を愛した人で、開拓者に畜産業や田畑の作り方や仕事を教え、津島の薬草や山菜なども教えてあげていた。
渡辺家も開拓者だったので、リクさんの世話になっていた。
またリクさんは津島の芸能保存会の役員をしたり、診療所の先生を囲む会、寺の檀家総代など、あらゆる団体の世話役をして、困っている人を見たら黙って見過ごせない人で、津島の人たちはリクさんを「生き字引」と呼び、大学の先生などから津島に関して何か問い合わせがあれば、リクさんが紹介された。
そんなリクさんだったから訪問客もとても多く、週に3、4日は誰かしらが訪ねてきていたし、津島の人たちも頻繁に訪ねてきた。
 三瓶家だけではなく津島では、人を見かければ必ずと言っていいくらい茶や食事を振る舞ったし、人が集えば酒を飲まないで終わることはなかった。
津島では山菜やキノコ、川魚など保存食として塩漬けや冷凍・冷蔵庫に保管してあったので、突然の訪問者でも酒の肴には困らなかった。
また家の周囲では山菜が採れたし、水がきれいだったのでクレソンやわさびも育てていたし、川魚も獲れた。
畑にも山にも食べ物は豊富にあったし、それらはとても美味しかった。
リクさんは歴史の話をするのがとても好きで、津島のことやこれからのことなどをみんなと話しているときはとても楽しそうで、一緒にいて春江さんも楽しかった。
 春江さん夫妻も子どもが生まれ、家族は増えていった。
被災前には義父母、春江さん夫婦、長女夫婦と二人の孫、次女と9人家族で賑やかに暮らしていたが、こうした日々も、原発事故で一変してしまった。
自衛隊に勤務していた長男も3月12日に退官して自宅に戻る予定だったが、そのまま避難となった。
*初めてのきょうだい喧嘩
 次兄と三男の兄は結婚しておらず、実家で母と暮らしていた。
震災当時、次兄は肝硬変から肝がんになって原町病院に入院中だった。
被災後、次兄は退院(被災によって入院患者の多くは退院させられた)して3月13日に小塚の姉の家に母やきょうだいが集まり、これからどうするか話し合った。
防護服を着た人やパトカーも頻繁に通り、また多数の避難者がやってきたから、これはただ事ではない、原発は大丈夫か?と不安を感じていた春江さんが避難しようと言うと、原発の下請けで働いていた三男の兄は「国が影響ないと言っているし、国が俺たちを見捨てる筈はない。逃げるならお前だけで行けばいい」と言った。
それが初めてのきょうだい喧嘩だった。
 3歳、5歳の孫と20歳になったばかりの娘もいる春江さんは、兄の言葉に納得できず、20代の子どもたちがいるのにここにとどまっていいのか不安でならず、二本松東和の叔母(母の妹)に避難させて欲しいと打診すると、叔母は「今すぐにでも、みんなで来い」と言ってくれた。
2時間近く話し合ったが意見はまとまらず、母は黙って下を向いていた。
姉の家には親族ばかりでなく避難してきた他人もいたので、母だけでも叔母の家に連れて行くと兄に伝え、兄も「わかった」と言って、14日午前中に母を二本松に送った。
その道中、母に「なんで兄さんは、子どもたちを避難させたいのを判ってくれないんだろう」と言うと母は「ごめんね。春江の気持ちはすごく判るよ。本当にごめんね」と泣いた。
*避難
 母を送って津島に戻りお茶を入れた瞬間にテレビで3号機爆発を見て、孫や子を守るのは自分しかいないと思い、文京区に住む夫の妹に避難させて欲しいと電話し「いいよ」と返事を聞いて春江さんは孫や子どもたちを連れてすぐに東京へ避難した。
15日には津島地区全員に避難指示が出て、渡辺家の者もみな二本松に避難した。
二本松の叔母の家は渡辺家の親族で、母の他に病気の次兄が世話になるので三瓶家の春江さんは東京に避難したのだが、もし母を二本松に避難させた時に避難指示が判っていたら、大変でも一緒に避難して、はるばる東京まで行かずにみんなと一緒に二本松に行きたかったという春江さんだった。
 東京に避難したことについて、16日に姪からメールが来た。
そこには「春江さんは東京に逃げてよかったね。ばあちゃんやヨシオさん(病気の次兄)や私たちを置いて、東京に逃げてよかったね」と書かれていた。
春江さんは母や次兄の世話をしたかったけれどそれができなかった後ろめたさもあって、姪のいうのも当然だと思うものの、それを読んでとても辛かった。
*母の死
 2011年6月24日、次兄が亡くなり、翌年6月25日に母が亡くなった。
兄と仲直りできなかったことが心にかかっていた春江さんは、母が亡くなる少し前に母の手を握って「かあさん、何か言いたいことある?」と声をかけたが返事がなかった。それで春江さんが、「にいちゃんのことだよね。大丈夫だよ。きょうだいで面倒みるから安心して」と言うと、意識がないと思っていた母が春江さんの肩に触れて強く肩を握った。
長男も次男も亡くなっていたから渡辺家を継ぐのは3男の兄だが、独身なのでその兄のことが母の一番の心配ごとだと思っていたから、春江さんはそう言ったのだった。
当の兄もそこに居て、泣いていた。
 母が亡くなって6年経つが、兄とは仲違いする前のような付き合い方をしているし、姪とも普通に付き合っている。
残されたきょうだいが仲良く暮らすことが、母への供養だと思っている。
*家族バラバラの避難生活
 家族9人が一緒に避難できる場所はなく、バラバラになっての避難生活だった。
義父母も2人で福島市八木田に避難したが、津島にいた時にはいつも客人が絶えなかったのに、避難先に客が訪ねてくるのは年に1、2度になってしまった。
津島の人たちも、誰がどこにいるのか判らない状況だった。
リクさんは外出することもなくなり、毎日新聞とテレビを見るだけの日々になっていた。
春江さんが訪ねるととても喜こび、「寂しいね。いつになったら帰れるのかなぁ。俺が死んだら津島に埋めてくれ」と言うリクさんだった。
 家族みんなで暮らせる家を探していたのだが、2016年に福島市内に中古住宅が見つかりリフォームして引っ越し、また9人で暮らせるようになった。
長男家族も近くにアパートを借りて住んでいる。
*義父リクさんの死
 リクさんには肝がん、肺がんがあり、2018年9月13日に入院した時には普通に会話をしていたのだが、15日に春江さんが見舞いに行くと「帰りたい、帰りたい」と春江さんの手を握って興奮して叫ぶように言うリクさんだった。
春江さんがその手を握り返して、「おじいちゃん、大丈夫だよ。帰れるんだからね」と繰り返し言うのを聞くうちにリクさんは落ち着いてきたので、春江さんは「おじいちゃん、興奮して疲れたろうから少し眠ろうね」というと、安心したのか落ち着いて眠った。
それが最後の会話だった。
9月17日に、リクさんは亡くなった。
 リクさんの葬儀は業者に頼んだ。
組の人たちがどこに避難しているかも判らなかったからだが、葬式には300人ほどの人が来てくれ、そのほとんどが津島の人たちだった。
「もっと早く知っていたら、なくなる前にリクさんに会いたかった」という人たちもいて、津島にいたなら亡くなる前にみんな来てくれただろうし、葬儀にももっと大勢が来てくれたことだろう。
 リクさんの墓をどこにするか、まだ決めていない。
津島に帰れるように除染されたなら津島に埋めたいが、除染されない場所に埋めたらお墓まいりもできない。
お墓のことで悩んでいる人は、他にも大勢いるだろう。
*孫たちのこと
 今の家で家族で一緒に暮らすようになってから、もう一人孫が生まれた。
避難した時に3歳と5歳だった孫は中学生と小学5年生になって、学校に通っている。
だがここでは、春江さんたちは津島から来たことを言わずに隠している。
孫たちの学校はマンモス校で、彼らが津島から来たことが知れたらいじめられるのではないかと不安を持っている。
津島に居たなら住民たちから守られて、よその家の子どもでも自分のうちの子どものように見守られていたから、安心して過ごせただろう。
⑵被告代理人、東電の棚村弁護士の質問に答えて
 春江さんは質問に答えて、両親が津島へ入植した1960年に津島で生まれ津島小学校へ入学し中学校卒業後は静岡へ就職したが、その後津島へ戻ったこと、そこで結婚し3人の子どもを持ったこと、また聞かれることに答えて家族のことを話した。
 2002年に勤めを辞めて石材業を始めた夫は、原発事故後の避難で続けられなくなっていたが、宮城県角田の同業の知人に手伝いを頼まれて行くようになり、2012年5月には自身の作業場も角田に移して一人で住みながら営業を再開した。
津波で墓石が流されたり、地震で墓石が倒壊したという避難者も多く、ほぼ毎日津島に通った。
約2年そこで営業していたが、その後福島市内に石材店を移して営業を続けている。
 自衛隊に勤務し寮生活だった長男は、2年間の勤務を終えて退官し2011年3月12日に津島の自宅に荷物を送る予定でいたが、その前日に大震災が起きた。
しかし荷物は、実際に津島の自宅に運び込まれた。
退官後は三春町の専門学校に入学し、卒業後は学んだことを生かして就職した。
 長女は2004年に、福島第二原発の空調設備の仕事をしている男性と結婚した。
その娘婿は原発事故後も連絡があれば何度か仕事に行ったが、事故を契機に退職した。
その後三春町で建築の仕事に就き、現在は夫の石材店の後継者として働いている。
 春江さんは家事や孫の世話など大家族の主婦としての仕事の他、夫の店の経理、義母の介護などで忙しく、津島の友人と連絡を取り合うことも滅多にない。
そんな時間的余裕がなく、市内に津島からの避難者が何世帯あるのかも判らずにいる。
夫婦で年に5、6回は津島の自宅へ行き、家の中や周囲を調べ墓参もしてくる。
 春江さんの兄(避難のことで喧嘩し、その後和解した)は、東和の叔母のところへ避難した後で市内の復興住宅に入居した。
兄は原発事故後の下請け作業員だったが辞めて現在は無職で、津島訴訟の原告にもなっている。
*被告東電の代理人である棚村弁護士の質問に上記のように答えた春江さんでしたが、
態は人柄を表すのではないでしょうか。
この棚村弁護士に私は、人を見下したような意地悪い目つきや質問の仕方のいやらしさを感じました。
例えば「平成16年に長女が結婚しましたね」などと質問し、春江さんが咄嗟に言われた年が正しいかどうか答えられずに詰まると、ねちっこく「あなたは調書に○○と書いてある」などと畳み掛けるのです。
また夫が角田で営業を再開した時のことを問うにも、「夫が角田に引っ越して」などと言い、春江さんに「引っ越したのではありません」と訂正されるなど、およそ被災者の実情を判っていないし理解しようともしていないのです。
 前回の口頭弁論で棚橋弁護士は原告に対して、「あなた方は『ふるさと喪失』と言うが、津島に家も土地もあるではないか。ふるさとはそこにあるではないか。ダムなどで村ごと湖底に沈んで無くなってしまった場合は『ふるさと喪失』と言えるが、原告は家も土地もあるのだから、『ふるさと喪失』とは言えない」と言った人です。
盗人猛々しい言葉です。
⑶被告国代理人弁護士の質問に答えて
 質問は、現在の家に住むようになってから近所の人とのトラブルがあったことが陳述書に書かれているが、近所の他の人たちとの関係についてだった。
春江さんは住居の組に加入して最低限の付き合いはしているがそれ以上の付き合いはしていないので特にトラブルになる関係はない。
津島の友人たちとは電話番号の交換はしているが、特に連絡を取り合ったりしていない。距離的なこともあり遊びに来てと誘うこともできず、互いに気を使って誘えない。
⑷裁判長からの質問に答えて
 あの時のままで津島は終わっていて、周囲だけが変わっていっている。
津島は忘れられ置き去りにされているという危機感を持っている。

●証人尋問で意見陳述する関礼子さんの意見書要旨
 関さんはこの訴訟を原告らの「ふるさと喪失」という争点から論じています。

 原告らの「ふるさと津島」の喪失というのは、東京電力福島第一発電所事故による「ふるさと剥奪」なのだ。
 例えばダムの場合は予め建設計画がもたらされた時に、対象地域の住民は建設者側と意見を交わし交渉するなど時間的な経過があるので、いちどきに失うことではない。
喪失は大事なものを一部失うが、剥奪は全てをいちどきに奪い取られる、自分の体をもぎ取られる感覚がある。
 「喪失」という言葉は曖昧で、「ふるさと喪失」と言えば主観的な問題だと矮小化しがちだが、津島原発訴訟での「ふるさと喪失」は、原告が津島の土地から切り離されてしまった事実を問題にしている。
 「ふるさと津島」という時には、土地に根ざして生きることを意味している。
山間地の厳しい自然ではあるが、その自然からの恵みもまた豊かにあった土地で、自然とのつながりの中で生きてきた。
山菜やキノコ採り、狩猟や釣り、日本ミツバチの養蜂など、それらは生業ではないが、季節性のある土地に根ざした津島の暮らしそのものだった。
 厳しい自然の中での生活だからこそ人と人との交流が豊かに深く強く、「結」の精神が育まれて暮らしていた。
交流は持続し、継続して世代を超えて子孫に受け継がれ繋がっていた。
田植えなどの農作業、葬式、祭りなど相互扶助で、共同・協同・協働の精神で生きてきて、いわば「一つの家族」となってつくりあげてきたかけがえのない地域だった。
出勤途中に通学バスに乗り遅れた子どもを見かけたら、子どもを乗せて学校まで送っていくことや、行政関係に詳しい人が地域の人の相談に乗ることや、祭りや行事の世話をするなど、人との関係が「ふるさと津島」でもあった。
 同じ姓が多いということから名前で「〜ちゃん」「〜さん」と呼び合ったり、あるいは「あんにゃ」と呼び合う人間関係は、個人を尊重し世代を超えたつながりを意味していたし、また家を呼ぶにも地名で、例えば本家を「東」と呼びその西側にある家は「西」、その隣は「西脇」などと土地に家が刻まれていたから、「東の家の子だ」などと言えば親の世代やその上の世代まで遡ってつながりが確認できた。
 「ふるさと津島」は、「人間の生きることの意義」そのものを表す言葉だ。
共同・協同・協働の社会風土、個人として尊重されながら「一つの家族」として生きてきた自治感覚は、津島地区の日常的な生活実践の積み重ねによって培われてきた社会的秩序である。
 その「ふるさと津島」は、原発事故によって大きな打撃を受けた。
関わってきた自然は汚染され、繋がってきた人々はバラバラになり、「ふるさと津島」は見る影もなく荒れ果てた。
人が住まず生活の匂いがなくなった家屋には野生動物が入り込み、廃屋同然になってしまった家、田畑には雑草や雑木が生い茂り、山は荒れて、以前の風景を想像することも難しくなった。
 原発事故は津島地区の自然を高濃度の放射能で汚染し、人と自然(山や田畑)との関わりや、人と人との繋がりを断ち切った。
原告らが希求する「ふるさとを元どおりにして返せ」というのは、土地と共に生活し、文化、伝統や歴史を未来につなぐ可能性、津島地区のエートス(精神)を未来につなぐことを可能にせよという訴えなのだ。
 土地に根ざして生きる津島の人々を、丸ごと土地から引き剥がしたのが原発事故による放射能汚染だった。
原発事故がもたらす加害の特徴は、土地に根ざして生きる権利の侵害にある。
人と自然との関わりが作り上げてきた環境を奪われ(環境権侵害)、人と人との日々の繋がりが断ち切られ(社会関係資本の損傷)、地域の中で穏やかに生活する日常を奪われ(平穏生活権侵害)、出身地の誇りを傷つけられ(人格権侵害)、津島地区の歴史を未来につなげていくことができない状況(地域の伝統文化や無形文化財の消失の危機)など、原発事故避難における「ふるさと喪失」は、全人的な被害の表現であり、人権の束が侵害されていることの告発である。
それは、近代化の過程で徐々に進んでた「加害なき喪失」とは全く異なる。
原発事故によって存在の足元を掬われ、環境難民化し、「よるべなき精神の放浪」に追い立てられた人々の、被害の訴えである。
それは「ふるさと喪失」というよりはむしろ、「ふるさと剥奪」である。
津島原発訴訟での「ふるさとを元どおりに返せ」の訴えは、剥奪されたままの「ふるさと」を完全に失ってしまうことへの抗いの声である。
 もちろん「ふるさと」を取り戻したとしても、そこに原発事故以前の「ふるさと」はない。
一から育て上げなければならない。
それでも、精神の拠り所として津島地区の文化や歴史をつないでいきたいという願いが、津島原発訴訟には込められている。
 ふるさとのエートスをつなぐということ、それは切り倒された大木の根を台木にして若木を接いでいくように、「ふるさと」をつないでいくイメージに近いだろう。
台木は時間が経てば接ぎ木は困難になる。
原告らは、そのギリギリのタイムリミットを10年として除染による原状回復を求め、それが困難な際には、台木である「ふるさと」に対する慰謝料を求めているのである。

*「津島原発訴訟第17回口頭弁論」の傍聴報告、長文を最後までお読みくださってありがとうございました。
次回のトークの回「福島の声を聞こう!」のゲストスピーカーは、この裁判の原告団副団長の佐々木茂さんです。
佐々木さんの言葉を、ぜひお聞きいただきたくご参加をお待ちしています。 

いちえ

vol31-(1)


2019年3月4日号「お知らせ」

 ​第1回目となるトークの会のお知らせです。
「トークの会 福島の声を聞こう!vol.31」
ゲストスピーカーは、浪江町津島から避難して二本松の復興住宅で暮らす佐々木茂さんです。
津島訴訟の原告団副団長をされています。

日 時:4月7日(日)14:00〜16:00
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158 2F)
参加費:1,500円(被災地への基金とさせていただきます)
主 催:セッションハウス企画室 tel:03-3266-0461 mail@session-house.net
申し込み受け付けは、3月18日(月)11:00〜です。

みなさまのご参加をお待ちしています。             

いちえ

vol31-(1)


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