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2016年5月31日号「沖縄から③」

帰宅して自室からの通信なので件名の「沖縄から」は変なのですが、沖縄報告の続きとしてご容赦を。

◎キャンプ・シュワブゲート前
ゲート前の座り込み691日目の午後です。
午前中は写真家の嬉野京子さんが引率されてきたグループの方たち十数人がいましたが、彼らはこのあと高江・伊江島を回るということで昼食前に場を離れました。

午後の司会の上間ヨシ子さんが明確な論調で、前日のサミットでの安部総理のスピーチと各国首脳の反応などを解説しました。
上間さんのお歳は私と同年輩かもう少し上かとお見受けしましたが、経済状況の数字などもしっかり頭に入っているようで、とても説得力のある話ぶりで私もこのように在りたいと思ったのでした。
ジャーナリストの津田大介さんも参加していて、スピーチされました。

●北上田毅さんのスピーチ(抗議船船長・沖縄平和市民連絡会)
嘉手納基地の抗議行動も7週目に入り、今日は120名が参加している。
58号線に面したゲート前での抗議行動で米軍がそこを避けて他のゲートを使おうとすると抗議行動はそちらに移りという具合で、軍車両が出入りできない状況を作っている。(拍手)
ダグラス・スミスさんがスピーチしたが、プラカードによる抗議行動が続けられていることで、基地内の米兵もとても神経質になっていて、抗議行動は明らかに米軍に影響を与えていると話した。(拍手)
これまで毎週水曜日に行っていた抗議行動をこれからは毎週水・金の2回行うことを確認した。
一昨日、防衛局と交渉したが、いままではだいたい30分ほどで打ち切られていた交渉も、一昨日は5時間にわたった。
交渉の内容は今回の事件を受けて米兵への抗議、陸上警備業務業者の残業代未払い(内部告発があった。*防衛局から8ヶ月で20億円の業務費がALSOKに支払われたことになっているが、実際に支払われたのは3億円ほどだった。*は北上田さんではなく他の人から聞いた話)、海上での監視活動調査などで、防衛局もすぐには打ち切って逃げられずに長時間にわたる交渉になった。
局長はさすがに内部告発に関して否定できなかったが、調査中だから待って欲しいと逃げた。
防衛局は海上警備ボートに対して船長の顔写真と乗員リストを渡している。
警備員はつぶさに観察して、船長名・乗員を陸上本部に連絡し、これが防衛省本部に連絡される。
これは個人情報保護法、個人の人権に関わることで、開示請求ができることだ。
警備員は一年に一回個人情報に関する研修を受け終えていることとなっている。
これは防衛省は当初から個人を特定して報告することを、念頭に置いている。これらについてあらゆる法的手段を使って追求していきたい。
3月4日の和解以降、海上のフロートは撤去され海上保安艦は居ない。
自由に大浦湾を航行できるようになった。
これを再び喧騒の海にしてはならない。
5月11日から鉄筋クズを積んだトラックが40台出ている。
和解で工事は中止されているが、米軍兵舎関連宿舎解体工事により鉄筋クズの搬出で、これは明らかに米軍工事、埋め立て工事の一部だ。
搬出して廃棄物を仕分け、各所へ運ぶのだろう。
これは、和解条項違反だ。
中谷防衛大臣は「関連工事も全て止めている」と言っているが、鉄筋クズ搬出を見ても、その言はまやかしだ。
関連工事も絶対に許せない。
ゲート前での監視を強め続けよう。
鉄筋を解体した廃棄物(アスベストを含むコンクリートガラ)搬出は、これを道路や滑走路に敷き詰めることの一環としてされているだろう。
工事用車輌は第一ゲートからしか出てはいけないことになっているのに、ここからは毎日20トン車輌が出ている。
今回の事件についてオバマ氏は、「できることは全てやり再発防止につなげたい」と言ったが、アベ総理は地位協定改正は求めず、オバマ氏も改定の必要性を認めなかった。
軍属・家族も地位協定で守られている。
海兵隊は個人個人は普通の人間だが、空軍・陸軍と違って敵と対峙して戦うのが海兵隊だ。
そこでは殺戮を繰り返す訓練を受けているし、今回明らかになったように県民蔑視の研修がされている。

●ゲート前のミニコンサート
北上田さんのスピーチや司会の上間さんがマイクを握っている間に、譜面台やスタンドマイクが用意されて、スピーチが一段落してギターを持った男性がマイクの前に座りました。
伊集セイケンさんです。(漢字表記の名前をお聞きしたのですがメモできませんでした)
マイクを前にして伊集さんは、歌う前に語りました。
「神奈川県議の小島健一という自民党議員が『基地反対を言っているのはキチガイだ』と言ったそうです。
彼は日本会議のメンバーで、日本会議地方議員連盟幹事長、自民党の県連広報部長をしている。
そんな彼に、聞いて欲しい」
ギターを弾きながら間奏にハモニカを吹きながら歌ってくれた歌は、♪とにかくここで♪。
  とにかくここで
  ここで生まれたから ここで生きてきた
  ただそれだけの ことだけど
  沈む夕陽に染まる 町も人並みも
  なにげない日々の暮らしが 今日も過ぎてはゆくけれど
  どれだけの時が流れても 着飾った町になっても
  ままならぬ日々の暮らし 夕暮れの空の下

  いくさが終わった後に 生まれたぼくだけれど
  いくさの道具のような この島で生きている
  いやしの島だといいながら 多くの人が訪れるけど
  足早に通り過ぎていく 冬の風のように
  日本人でしょうか僕も 日本だと思いますか ここは
  何も知らずに 生きてきた僕がいる

  アカバナー咲く島に いつになれば 春の風は吹くのだろう
  平和を望めば 自由を求めれば
  叫ぶ声はむなしく響くだけ
  帰れ沖縄よ みずからへ
  日本人でしょうか僕も 日本だと思いますか ここは
  何も知らずに 生きてきた僕がいる

  ここで生まれたから ここで生きてきた
  ただ それだけの ことなのさ

伊集さんのこの歌が、心にぐさりとささりました。
伊集さんは他にも♪喜瀬武原♪など数曲歌い、愛知の歌姫(名古屋から来た支援者の女性)の歌もあり、また地元参加者の男性も飛び入りで歌い、ゲート前の小さなコンサートでした。

●せっかくだから歩きましょうか
「暑いけれど、せっかく遠くから来た人もいますから歩きましょうか」と伊集さんが言って、みんなで道路を渡りフェンスの側に行きました。
用意されたプラカードや鳴り物を手にして、縦隊を組んで歩きシュプレヒコールをしました。
「辺野古基地反対」「命を返せ」「静かな海を返せ」「アベ政治を許さない」
ゲートの前を行き来してのデモ行進でしたが、途中で兵士が運転するYナンバーの乗用車が出ようとしたときには、みんなでその前に立ち塞がってシュプレヒコール。
5分、10分ほどだったでしょうか?
運転していた兵士はうんざりした顔でした。
中の警備員たちがこちらの方へ動き出したときに、私たちもまた塞いでいた場から動いて、さっきのように縦列でシュプレヒコールの声を上げながらの行進に移りました。
30分ほどのデモ行進でした。

●沖縄の戦い
スピーチやミニコンサートの間にも数人の人が、あちらに一人、そちらにも一人という具合に座り込みのベンチの向こうでフェンスの前に立ち、無言で「辺野古基地 NO」などのプラカードを掲げて通る車にメッセージを訴えていました。
手を振って通り過ぎる車もありました。
炎天下で無言でプラカードを掲げる姿に私は、先ほどの基地内の警備員のマイク越しの声に大声で反応してしまった自分を、恥ずかしく思いました。
業務で威嚇しているだけの相手に即反応してしまうのではなく、時にはユーモアを交えた的確な言葉や歌、動じない無言の意思表示などの”沖縄の戦い”のあり方を、学びたいと思いました。

◎人々から聞いたこと
●座り込みの昼の休憩時に、話しかけてきた男性がいました。
「ここは捕虜収容時だったんですよ。小学2年生の時に私もここに入れられました。米軍から支給される食べ物は家畜の餌にするトウモロコシの粉でした。それを溶いて粥のようにして食べるけどとても足りないので、食べられるものを探しに外に出ますが、女性は絶対に外に出さずに隠していました。外に出たら何をされるかわからないからです。男も大変だったけれど、女性たちは本当に苦労しました。私は今日、初めて座り込みに参加したけれど、明日からもまた来ます」
●米軍族・元海兵隊による事件について
誰しもが大きな憤りを持って話していましたが、こんなことも聞きました。
被害者は辺野古移設容認派の前市長島袋氏の親戚筋の女性で、この事件によって容認派の人たちに反対の動きが生じているようだ。
”容認派”というと、推進していると思うかもしれないが、それは違う。
政府との軋轢が続くことに疲れたりで、仕方なく容認の姿勢になっている場合がほとんどで、積極的に推進する”推進派”なのではない。
●ゲート内で米軍と自衛隊での日米合同訓練が行われている。
●米軍基地反対運動に反対する日本人もいて、地元大手のタクシー会社の社長はその一人だが、米軍兵士がよくタクシーを利用してくれていて顧客の彼らと仲が良くなり、彼らに嫌な思いをさせる反対運動に拒否の思いを持っている。
●基地がある故に米軍と親しむ機会を作り、互いの理解を深めることでいざこざや事件が起きないようにと考えてきた面もあるが、それが裏目に出て米兵が住民を蔑視し今回のような事件が繰り返されている。
●オスプレイ
オスプレイの着陸時には非常に高温の熱風が出て、芝生が燃えて消火活動をしなければならないことがある。(これは写真も見せられました)
●県議選が始まって
以前から立候補を表明していた翁長知事支持者ではなく、最近になって立候補表明している人は翁長支持といっても信用できない。あちら側から送り込まれた候補者の可能性がある。

◎幸福の科学
今回の沖縄行で、「幸福の科学」の建物やポスターなどがとても多く目につきました。
実際にどの程度の影響力があるのかは判りませんが、私が東京や時々行く福島で
見るよりもずっとその数は多く、不気味に思いました。

*沖縄報告、まだ続きます。                 

いちえ


2016年5月29日号「沖縄から②」

◎前便の訂正
前便に私の間違いがありました。
辺野古の港が見える展望台(灯台跡)にハワイの上院議員を案内したのは、浅井大希さんの友達だったそうです。
「一枝通信 沖縄から」では大希さんが案内したように書きましたが、間違いです。
済みません。

◎辺野古バス
27日、県庁前広場から「辺野古バス」に乗りました。
平日だったせいか同乗者は16人と少なく、50人乗りの大型バスは空席が多くてもったいなく思いました。
県外からの人は私を含めて6人で、後は地元の人たちでした。
もっと大勢が乗ればいいのにと思いましたが、こんな事件の後ですから土日にはもっと大勢が乗っているようです。
これは一昨年8月に「島ぐるみ会議」が企画し、往復1000円で毎日運行しています。
県庁前広場を10時に出発して昼前にキャンプ・シュワブ前に着き、5時頃にまた県庁前に戻るものです。

車内では今日のリーダー役の島袋さんから辺野古や基地問題などの説明があり、マイクを通して互いの自己紹介もありました。
初めての参加者は長野からの『たぁくらたぁ』仲間3人と私の合計4人で、他は県外からの人も地元の人も、何度も来ている人たちでした。
自己紹介や説明が一区切りすると島袋さんが「みんなで歌いましょうか?」と言って歌詞が印刷された紙を配り、何曲かを一緒に歌いましたが中の一曲が童謡『増産』の替え歌!
♪晋三さん 晋三さん 安保がすきなのね
そうよ じいさんも好きなのよ♪(2、3番もありますが略)
拳を振り上げるだけではないしなやかでしたたかな沖縄の闘いを、ここでも感じました。
途中で一度トイレ休憩をとり、11時過ぎにキャンプ・シュワブのゲート前に着きました。

◎キャンプ・シュワブゲート前
道路を隔ててフェンスの前にはブルーシートで屋根掛けをして、ブロックを脚に板を置いたベンチが並んでいました。
数十人が座っていましたが、中央で椅子に座っていたのは島袋文子さんでした。
文子おばぁの元気そうなお顔に接して、とても嬉しいことでした。
座り込みは、思ったよりも人が少なかったのですが代わる代わるのスピーチでその訳が判りました。
嘉手納基地のゲート前抗議行動に行った人が多いためでした。
辺野古湾での工事は3月4日の「和解」後中止されていますが、これは前日に大希さんに案内して頂いた展望台から見た大浦湾の様子からも判りました。
でもフロートは外されていても、あの大きなコンクリートブロックは海中に埋められたままです。
裁判の結果如何によってはいつ工事再開されるかもしれませんから、決して決して余談は許しません。
基地内から建物を解体して瓦礫の搬出が行なわれていることに対ても、抗議をしています。
鉄骨の入ったコンクリート片はアスベストを含んでいるかもしれず、これらが基地外に持ち出されれば道路工事などに再利用される恐れが大きいからです。
ゲート前抗議行動を続けてきた人たちからのスピーチが続いた後で、司会の女性から「県外からの初めての参加者の方達も、どうぞ挨拶を」と促され、私たち4人は前に出て座り込みの仲間の方を向いて立ちました。
マイクを持った私が、「東京から来ました」と自己紹介を始めたときのことでした。
突然フェンスの中からスピーカー越しに、「幕を張るのは違反です。撤去しなさい!」と大音響で響きました。
座り込みの仲間が「辺野古移設反対」の横断幕を、フェンスに結びつけていたのです。
思わず私は仲間に背を向けてフェンスに向かって、「撤去しなければ行けないのは基地です。あなたたちは基地を撤去しなさい!」と、がなっていました。
道路を隔てフェンスの向こうにいるのは紺の制服を着た、日本人。
あれは警備会社の社員なのでしょうか?
何度か「撤去しなさい」は繰り返されましたが、それも止み、結びつけた横断幕はそのままで、私も続いて同行の仲間たちも自己紹介や思いを伝えるスピーチをして、お昼の休憩になりました。
午前の司会者に代わって上田さんという女性が司会をして、午後もスピーチが続きました。
何十人かが新たに到着して座り込みのベンチに座りましたが、この人たちは大阪からの人たちで、港湾労組や生協など組織で来ている人たちでした。

*そろそろホテルをチェックアウトして空港に向かわねばなりません。
ゲート前の座り込みの様子や、翌日に初公開されたドキュメンタリー映画『辺野古』(『圧殺の海』の続編)のことなど、帰宅してからご報告します。        

いちえ


2015年5月28日号「沖縄から」

24日から沖縄に来ています。
毎日があまりにも濃密で、日々の様子を伝えられずに過ぎています。

24日
糸満でお世話になった宿のご夫婦は、夫(1947年生まれ)がトロール船の乗組員でスペインまで蛸漁に出ていたと言いました。
この人の話をお伝えするだけでも長くなりそうですし、妻(1949年生まれ)の母親は子どもの頃に糸満売りに出されてパラオに働きに出ていたそうで、この母娘の話もまた長い物語です。
美浜では96歳のおばぁに出会いました。
おばぁは子どもの頃に両親を亡くして大阪のおばさんに育てられたので沖縄戦は体験していませんが、おばぁの一代記も一巻の物語です。
糸満の御嶽や「受水拝水(ウキンジュハインジュ)」を訪ね、この地に稲がもたらされた歴史を知りました。
夜は、うちゃたい・あかなーさんの三線弾き語りで、あかなーさんは替え歌の歌い手さんなのです。
沖縄の歌唱法で三線を弾きながらの替え歌は、安里屋ゆんたなどの民謡から歌謡曲、童謡までと幅広く歌詞はすべてあかなーさんの作詞です。
♪昔々その昔 南の島に 鬼が来て
村中島中焼き尽くし さながらこの世の生き地獄♪(浦島太郎の節で)
などなどで、琉球は歌舞の國であったことを再認識しました。

25日
ひめゆり平和記念館、魂魄の塔、佐喜眞美術館、くすぬち平和文化館を訪ねました。
佐喜眞美術館、くすぬち平和文化館では館長さんにお目にかかり話を聞かせて頂き、その夜は本部(もとぶ)町の農家民宿泊でした。
宿のオーナーは夫婦ともに那覇出身で、20代の頃は東京に勤めに出ていたけれど東京の空気は合わず数年でUターンし那覇に戻ったものの土と共に暮らしたいと、本部に土地を求め夫婦で山野を開墾して畑にしてきたと言います。
子どもたちが独立して家を出たことと、現金収入を得る道として農家民宿を初めて10年目だそうです。
この日に会った方達のお話もまた、どなたの話もとても奥が深く心に留め置きたいことばかりでした。

26日
今帰仁に行き備瀬の福木並木の集落を訪ねました。
沖縄本島の各地の住宅はコンクリート造りになっていますが、ここには昔ながらの集落の姿が残っていました。
芭蕉布の工房を訪ね芭蕉の畑や糸繰り、染めた糸や端布や作品を見せて頂き、また話を聞きました。
その後「辺野古からの報告」を送ってくれている浅井大希さんの案内で、辺野古の港側のテントに行きました。
元は灯台だった展望台に上って大浦湾を一望しましたが、美しい海が目の前に広がり、この海を埋め立てるなんて絶対に許してはならないと強く思いました。
大希さんは言いました。
「この前、私の友人がハワイの上院議員を案内してここに来ました。彼は辺野古移設に賛成している人だったのですが、この景色を見て考えが変わりました。その後でゲート前に行って抗議行動に参加してスピーチもしました」
その議員の感性こそ、人が本来持っている命の感性なのだと思いました。
この日から那覇泊です。

27日
朝ホテルを出て県庁前広場へ。
辺野古バスでキャンプシュワブのゲート前に行き、抗議行動に参加しました。

報告したいことは多々ありますが、明日はまた朝が早いので今夜はこれで失礼します。
この日までのことももっとお伝えしたいことはたくさんありますが、それもまた後日に。


2016年5月23日号「辺野古からの報告011」

沖縄の浅井さんから「辺野古からの報告」が届きました。
以下へのアクセスでお読みいただけますが、以前添付をご希望の方もおいででしたので、念のため添付もいたします。
どうぞ、ぜひどちらかでお読みください。

http://o-emu.net/blog/sanchoku/

私は明日から沖縄へ行ってきます。
29日帰京の予定です。               

いちえ

関連:

2016年5月16日号「トークの会」報告④

◎続:菅野榮子さんの話④
●原発事故さえなければ
くるくる くるくる心は変わる。
国の政策は変わるし、村の対応も変わってくる。
その度に「ああ、どうしよう」と考えてきた5年間だった。
原発の事故さえなければ、貧しくとも家族揃って、孫の顔見て生活できたのにと思っている。
でも、叫んでも喚いても、出てしまった放射能は消えるわけではないから、変わってしまった世界の中で私たち飯舘村民は、許すか許さないかで生きていくより他はない。

●自然が心をとらえる飯舘村だった
飯舘の村づくりの要、原点は、村民参画の村だった。
老いも若きも子供も含めて、村民主役の参加参画の村づくりだったから「美しい村」の選定を受けるようになったほどに頑張れた。
それが、これから年寄りばかりが、(原発事故によって)世界が変わってしまった中に帰っていくから、どういう村づくりをしていくのか、私は外野席の感覚で見ているところだ。
5年間の中での支援と交流事業で「味噌の里親」を立ち上げてもらい、凍餅も村外に作り方を残した。
それらを踏まえて考えれば、交流事業で支援者の方たちが伊達の仮設に来て凍餅や蕎麦を食べてワイワイと賑やかに交流したり、松川の仮設に味噌の里親さんたちが来ての芋煮会では、村民は「帰ってきたね」と迎え、里親さんたちは「じいちゃん、ばあちゃん元気でいたね」と親戚付き合いみたいに交流する。
あの雰囲気が、これからの飯舘の村づくりの形になっていくのかなと、去年の芋煮会で、ふと感じた。
飯舘村の人たちが他所へ行って飯舘に根ざしたものを販売したり交流していくことで、首都圏や他県の皆さんが飯舘村に出入りしてくれるイベントが重なり合いながら、自然除染を踏まえた飯舘の放射能減少の状況を見ながら過ごしていく年月が続いていくのだと思う。
自然が人の心を捉えてくれるのが、飯舘村の宿命だと思う。
県外からIターンで飯舘村に入ってきた人が大勢いた。
脱サラで入村して自然農業や味噌作りに取り組む人などが何人もいた。
カタカタ常に音がしているような都会で一生懸命働いてきた人が、人生にホッと一休みしたい思いで入ってきたり、若者が新規就農で入ってきたりもしていた。
飯舘牛がメジャーになり始めた頃の原発事故だったから、酪農家も和牛農家も打撃はとても大きかった。
酪農も和牛農家も、資本が1000万や2000万でやれる仕事ではない。
牛飼いは、元牛を一頭買うには何百万円もかかるし、その牛にどんな種をかけるかと育種も大変で、またどんな牧草がいいのか牧草育ても大変だ。
掛け合わせと飼料で、品種を改良していくは経験と思考による。
農業はそういうものだが、畜産は特にそうだ。

●孫にもらった金メダル
農家が野菜一つ作るのも、どういう肥料にするかで味が変わってくる。
私も手作りのぼかし肥料を工夫して野菜を作り、玄米麹で味噌も作ってきたし今、仮設にいてもそれをしている。
埼玉にいる娘は毎年の大晦日に夫婦と子供2人の家族4人で、「今年1年に食べたものの中で何が一番美味しかったか」を言い合うのだが、孫は「夏休みにばあちゃんの仮設に行った時に、ばあちゃんが畑で作った生キュウリに生味噌をつけてボリボリ食べたのが一番美味しかった」と言った。(会場から大きな拍手)
消毒を一回もしてこなかったキュウリをもいで洗って、味噌つけて山賊が食べるような食べ方で(笑)ボリボリムシャムシャ食べたんだよ。
百姓してきて土と共に生きてきて、作物の命をつないで自分流に肥料など工夫してやってきて、孫からそう電話をもらった時は、本当に嬉しかった。

※司会の私の言葉を挟みながらここまで1時間半を、榮子さんは話してくれました。
ここからは休憩後の質疑応答です。

◎質疑応答
●Q:川俣町の仮設住宅に通っているが、近くに利用できる畑もなく住民は無気力になっている。どうすればいいか?
A:仮設にいる避難民も、その中で何かしていこうという気構えがないと大変だ。
飯舘村の避難民も、土に生きようと畑をしたり手を動かそうと編み物したりしている人は、生き生きとしているよ。
何もすることがない人が80になれば、「オラ死にてぇ」となる。
経済的なことはともかく、自分の心の葛藤にどう打ち勝つかが、避難している人の要だと思う。
どう生きるかは避難している人が本気になって、「この窮地を生き抜く!」と思ってやっていかないと、自分が惨めになる。
5年経って、しみじみそう思う。
私は気さくに「こうしたら」なんて言うが、そう簡単にいくものでもないから、自分自身で自分の足で生き抜くものを見出さないとダメだ。
他人に言われてできるものではなく、本人が気づかねばダメだと思う。

●Q:村政に対しての質問がありました
 A:平成の大合併の時に飯舘村は合併に同意せず、自立の道を選んだ。
その時には自立か合併かで、死に物狂いの論争になった。
そしてどちらの陣営も、心を開いてとことん話し合った。
その結果、村独自でいく道を選んだのだ。
自然と人と人との絆を大事にしようと緑と触れ合う村を作ってきたし、新しい村づくりをするにはどうすればいいかを腹を割って話し合う中で、飯舘村は「美しい村」に選定された。
自立か合併かで徹底的に話し合ったことが、とても貴重なことだったと思う。
村民主体の村政を行おう、これ以上の経済成長を追うのではなく「までい」に生きていこうと「までいな村」として進もうとしてきた。
「までい」は、ものを大切にする、丁寧に使い切る、心を大切にする、人と人との出会いも大切にするというような意味で、私が子供の頃はばあちゃんに「までいにご飯を食べないとバチがあたるよ」「物はまでいに使わねど」などとよく言われた。

原発後の村長の姿勢に対しての批判はとても大きかったが、首長となると国策でやってきた原発事故の処理は、ある程度国のいいなりにならないと対応できないこともあるのかなぁとも思う。
ここで足を止めて、日本の矛先を変えていく時期だと思う。
飯舘村は「緑と触れ合い」をキャッチフレーズにした村だったが、原発事故にあってみて、それは本当に素晴らしい構想だったと強く思っている。
4年前の選挙の時、村長は「任期満了ですから引退します」ときれいに幕引きをして欲しかった。
首長は戦況で選ぶべきだと思うが、あの時は対抗馬が出なかったことが問題だったと思う。

●詩:「おこり虫」
ポレポレ東中野での映画上映後のトークでも、またこの日のトークの最後にも、榮子さんは自作の詩を披露してくれました。
気持ちが高ぶったり追い詰められたような時、気持ちが弾き出そうになる時、榮子さんは想いを書き留める癖があるといいます。
5年間の避難生活を過ごしているうちに、榮子さんの中に「おこり虫」が誕生したのだといいます。

         怒り虫
    一ぴき勝手に怒っている虫
    怒り虫を飼ってる?
    どんな虫かって?
    ひとり勝手に怒っている虫さ
    何に? 誰に? 誰に怒ってるの?
    ウソを言う奴らに怒っている
    あったことをなかったことにする奴らに
    人を人と考えない奴らに
    心ない奴らに怒っている
    毎日 毎日新しい怒りに堪えきれなくなる
    毎日 毎日怒りはいっそう激しくなっている
    毎日 新しい遺言を書き続けている
    沈黙は恐ろしい
    忘却は恐怖そのものだ
    そう考えるから、一ぴき勝手に怒っている虫を飼っている

私の心の中で栄養を与えながら飼っている虫です。

*榮子さんの話はこれで終わりです。

◎お知らせ
毎年重ねてきている集会のお知らせです。
2004年自衛隊をイラクに派兵することが決まった時に、友人たちと「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」を立ち上げました。
戦争への道反対!原発反対!を掲げて活動してきました。
今年もまた集会を持ちます。
ぜひみなさんのご参加をお待ちしています。
集会2部では菅野榮子さん、菅野芳子さんの二人が主役の映画『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』の上映もあります。                    

いちえ

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2016年5月15日号「トークの会」報告③

◎続:菅野榮子さんの話
●歳を重ねるごとに故郷が恋しい
とし子さんもよっちゃんも佐須で生まれて佐須に嫁いだ。
佐須の空気に馴染んで、その土地に育てられた人生は、やっぱり、どんな事情があってもその土地を去り難い。
私も飯舘で生まれ飯舘で育ち飯舘に嫁いだが、郷愁の思いは、その土地で生まれ育った者でないと理解できないだろう。
私も目を閉じれば飯舘村の山並みが、まぶたに浮かぶ。
ああ、あれは花塚山だ。こっちが矢岳山。向こうは二つ森、二つ森の陰が南相馬だというのが常に頭の中に描かれている。
老いれば、歳を重ねるごとに故郷を離れた者は、故郷が恋しくなる。
もう、放射能なんか高くても構わねぇとなる。
でもちょっと立ち止まって考えれば、「いや、帰村して5mSvの所に大手を振って帰れば、原発の再稼動を許すことになるのでないか」と思う。
そうではない社会に早くなって欲しいと思うし、もう本当に、気持ちは揺れ動いている昨今だ。

●共に生きる社会の構築は
原発事故を起こして12万も13万もの避難者を出しているのだから、電気の需要と供給、人口の増減のバランスを考えて、今すぐには無理でも何年後かには、原発に頼らない政策を出すという表明があるなら、そんな世の中を目指しているのなら、私は少しくらい線量が高くても我慢して生まれ故郷に帰ろうと思う。
でも、人口が減少しているのだし、自然エネルギーの方法がいくらでもあるのに、その道を選ばずに、安いからと原発を再稼働して海外にも電気を売る構想を立て経済優先で進む指針を出しているのに乗っかって帰村すれば、生まれてきたひ孫や玄孫に、「このばあちゃん、なに考えたんだろう?将来への計算ができなかったのかな」と言われるのではないかと思う。
人が、幸せを願いながら共に生きる社会は、私たちが構築していかなければ誰も作ってはくれない。
誰かがやってくれると思ったら、私たちの本当の幸せの探求はできない。
この原発事故で、強くそう思った。

●これからの家族のあり方
私らの時代は、じいちゃん、ばあちゃんがいて大家族制度の中で長男に生まれれば、どんなに能力があっても、違った才能があっても、「お前は長男だから家を継げ」ということで農業をやるしかなかった。
嫁は、男尊女卑が当たり前の社会という時代の中で私らは生きてきた。
それも少しはいいところもあったかもしれない、全部が全部悪かったと言えないかもしれない。
だけど、人間は人間らしく一人一人の個性を生かしながら生きていく社会であって欲しい。
原発事故で考え直さなければいけないのは、自分が自分らしい生き方をするための、「生き方の選択」の時間を与えてくれたのかなと思っている。

●命の尊厳を伝えていくことも
私は夫よりも、姑との生活が長かった。
夫との別れの時よりも10年間介護してきた姑との別れは、もっと違った形で辛かった。
他人でも親子の別れ以上に絆ができていたということに、ばあちゃん(姑)に感謝している。
10年間の介護では喧嘩もしたし一緒に泣いたけど、ばあちゃんが亡くなった時は…
夫が亡くなった時は、「これからは自分で生きていかねば。一人で生きる」と、覚悟をもらったけど、ばあちゃん(姑)との別れはまた違った別れを経験をした。
人間の最期の瞬間を、人の命の尊厳を伝えていくことも、人間社会の大切な役割ではないかと思う時がある。

●息子の結婚
私らは70歳で酪農を止めたが、夫は近所の養鶏所から鶏糞をもらって牧草地だったところをユンボで掘り起こして、鶏糞を撒いて土をかけていた。
息子は”風来坊”で、畑仕事なんかやったことはなかったから、夫が病気で働けなくなった’10年の田植えは、人に頼むつもりだった。
だけど”風来坊”の息子が、「俺がやる。俺は百姓になる」って言い出した。
そして近所の人に教えられながら、息子は田植えをした。
7月に夫が亡くなり、刈り入れも息子がやった。
息子は、農業の大変さも収穫の喜びも味わったと思う。
年が明けて2月に姑が亡くなり、後には39歳の息子と私が残された。
息子は夫が鶏糞をまいてた牧草地を平らに均して、畑をやるって言ってたの。
だけど3月に原発が爆発して、私らは避難生活になった。
前の年に村のイベントか何かで、村の青年と都会の娘たちを会わせるような催しがあって息子も参加していたらしく、そこで知り合った娘さんと結婚することになった。
飯舘村は放射能で有名になってしまったからこの話はダメになるかと思ったけれど、その女性は飯舘の人と結婚するって言って、’11年の12月に結婚式を挙げた。
二人は福島にアパート借りて住んでいたけど赤ちゃんができて、福島で産むわけにはいかないって言って、埼玉に引っ越した。
その孫が、もう幼稚園に上がりました。
本来なら孫に手を引かれて「ばあちゃん、そこは危ないよ。石があるから気をつけて」なんて言われる年になったのに、孫の顔見に行くにはお金もかかるしねぇ、そうそうは会いに行けない。
まぁ、そんな暮らしになりましたけれど、自分の体ひとつで自立して、原発事故にあったけれど、どういう風に生きていくか生きざまをどう選択して生きていくか、考えています。

*菅野榮子さんの話、あと一編続きます。
続きは④でお送りします。                

いちえ


2016年5月14日号「トークの会」報告②

だいぶ間が空いてしまいましたが、トークの会「福島の声を聞こう!vol.19 」菅野榮子さんのお話、報告を続けます。

◎続:菅野榮子さんの話
●土と共に、牛と共に生きてきた
飯舘村は日中と夜間の温度差が激しく、稲の花が咲いても夜間の冷え込みがきつくて実らないなど、3年に一度は冷害に見舞われる冷害常襲地だった。
昭和34年に学校時代の同級生と結婚したが、婚家は水稲と葉タバコ栽培の農家だった。
夫と相談して結婚した翌年から、専業農家としてやっていけるようにと考えて、酪農に取り組んだ。
水稲、タバコは夏作(収入が夏の気候による)だが、酪農なら月々の収入の安定が計れるからだった。
生後6ヶ月の乳牛を1頭買い、その1頭から始めた酪農を46年と6ヶ月続けた。
牧草の開発や乳牛の品種改良などにも取り組んで40頭まで増やしてきたが、70歳を契機に酪農を止めた。
国の農業政策や貿易の自由化の中で、乳製品の自由化によってキロ当たり140円だった牛乳の値段がコカコーラよりも安くなるなど、酪農家としてやっていくにも規模拡大のために借金、借金で夫と二人、借金ダルマの中で生きてきた。
品種改良のために良い種牛を買うには相当な金額が必要だし、そういう中で酪農家としての生活の闘いは、本当にすごかった。
でも、借金ダルマではあったけれど、明日への希望があるからやってくることができた。
振り返ってみれば土と共に生き、牛と共に生きてきた50年が私の人生の足跡だった。
自然の中で「明日がある」「今日よりも明日は、いい太陽が昇ってくる」と思って生きてきた人生だったと感謝している。

●放射能が降って
70歳で酪農を止めて、自分たちが食べるだけでいいと有機農業に取り組み、孫に囲まれて老後を送るつもりだった。
その暮らしは、放射能が降って一変してしまった。
仮設住宅に一人居て、誰かが玄関をピンポーンと鳴らし「ごめんください」って来ても、私は湯たんぽ抱えたまま「誰もいないよ!」とばかり、玄関に出ようとはしなかった。
よっちゃんがいたから、よっちゃんがいたから、今の私がある。
よっちゃんが「榮子さん、何やってんの?」「寝てんだ!」次の日もよっちゃんが来て「榮子さん、どうしてる?」「寝てんだ!」そんなことが何日も続いたことがあるけれど、よっちゃんに支えられて今の私がある。
孫のために、これから生まれてくるひ孫のために、と思っている。
ばぁちゃんの生きてきた足跡を辿ってくれる孫がいる、ひ孫が生まれる、と思って現在に至っている。
放射能に心まで犯されて、光もなかなか見えないし生活の道筋も見えないが、ここまできて、いつまでもそうしてはいられないと立ち上がった。
皆さんとの出会いが私の大切な宝物になった。

●味噌に生かされて、凍餅に生かされて
避難した後で飯舘村と気候条件が似ている小海町で作ってきた凍餅が、今日の上映会で出品販売できるようになった。
佐須で私たちが作ってきた味噌を種味噌にして、佐須の味噌の遺伝子を持った味噌作り「味噌の里親プロジェクト」に取り組んでいるパルシステムの醸造蔵元もある。
私は味噌に生かされ、凍餅に生かされた。
今日も凍餅を販売して、みなさんが「おいしい」「おいしい」と言って食べてくれたことは、私たちが生活してきた、生きてきたことが、ちゃんと形になったことじゃありませんか。(大きな拍手)
本当に私は、嬉しくてならない。
味噌の蔵元は「守る自然・残す自然」のキャッチフレーズで活動しているが、まさにその通りだと思う。
自然は、人の命を慰め、癒し、生きる力を与えてくれる。

●心の奥に希望を持って
65歳以上の高齢者、75歳以上の後期高齢者の村民の30%が「帰りたい、帰りたい」と言っている。
そうなるともう、姥捨山に帰っていくだけだ。
本当に、自然ほど大切なものはない。
放射能は、その自然の全てを犯してしまうものだということを、私は身をもって経験した。
いま、飯舘に私の子孫は帰らなくても、いつか誰かが、あの山並みと川の流れを目にし、そよ風の声を耳にしながら、「私はこの自然の中で生きてゆきたい」と思う人が必ず出てくるだろうと思っている。
その時に初めて、飯舘村の再生が行われる。
新しい飯舘村の出発点は、そこにある。
私は、それを希望に持って心の奥底にしまいながら、いま生きている。

●それぞれの土地に根ざした伝統食
味噌も凍餅も伝統を繋いでくれる人たちがいて伝統食が残っていくが、同じ製法で作っても場所が違えば、それはその土地の人が開発する特産品になることを身を以て教えられた。
同じ材料を使っても、その土地によって材料の性質は少しづつ違うし、気候も違う。
凍餅も「支援と交流」ということで、小海町で5年間続けてきたが、今年あたりはもう立派に小海町独特の凍餅になっている。
同じように冷涼な気候でも、飯舘と小海では凍み方が違う。
最初の2、3年は私たちが指導してやってきたが、小海の加工施設は素晴らしく、女性たちが頑張って輝いている。
いろいろな部会があってやっているが、凍餅部会としても5年間やってきて、いまは「小海の凍餅」となっている。
凍餅は加工食品であり、保存食品として緊急時の食品にもなり、救荒食でもある。
小海の特産品の一つになっていって欲しい。

●健康管理は自分でする
よっちゃんが仮設に入って2年くらいは、畑で種蒔く時もよっちゃんと私は対等な立場で、「よっちゃん、上手に蒔くんだよ」「オラそんなこと知らねぇ。ええ塩梅、ええ塩梅」なんてやってるうちに、よっちゃんに癌が見つかって手術した。
高齢者での摘出手術だから、よっちゃんの体力も衰えて2年前までのように対等な立場では働けなくなった。
私は「よっちゃん、これやるんだよ」なんて言えなくなった。
手術後は2人の関係は一変して、よっちゃんは管理職(場内爆笑!)、私は労働者だ。(また、また爆笑!)
私は5時頃起きて新聞に目を通して「今日はどの番組を見ようか」などと頭に入れながらコーヒーを1杯飲んで、炊飯器のスイッチを入れてご飯が炊き上がるまでの1時間くらい、サッサッサッと散歩する。
大体7000〜8000歩を歩く。
以前はよっちゃんも一緒に歩いたが、今は一緒に歩けないから一人で歩く。
健康管理は自分でやる、と思いながらやっている。
健康でなければ生き抜けないと思うので自分の健康管理は自分ですることを、この避難生活で覚悟した。
子供の世話にならないとは言わないが、できる限り自立することが自分の役割だと思っている。

●一人では生きられない
よっちゃんが手術のために入院していた時は、私も片足片手をもがれたみたいで、どうしていいか判らなかった。
お見舞いにも行けなかった。
「よっちゃんどうしているかな」「よっちゃんの顔が見たいな」と、お見舞いに行きたい気持ちはあっても、行けなかった。
「あ〜、また日が暮れた、明日行くベェ」と思って、明日になり「今日行くベェ」と思っても行けなかった。
なぜだか不思議なもので、なかなか行けなかった。
ようやく行った時、よっちゃんも待ってたんだね、「なんで来なかったんだ」って泣くし、私は「ごめんね」と言ったけれど、その気持ちは…。
避難生活になって、また隣同士になったよっちゃんが手術ということになって、私も痛かったです。

それで生活が一変してよっちゃんは管理職で、私は労働者。(笑)
種まくと芽がでます。
よっちゃんがカタカタと散歩に行って畑を見て「榮子さん、芽が出たよ」って言うから「ん?どんな風に出てた?」と言うと「ちょうどいい塩梅だ。(笑)間引きしてもいいよ」って。
「はい、判りました」って、私がトコトコ行って間引きする。
「榮子さん、ジャガイモの畑に草が出てるよ」「はい、はい、判りました」草取りをする。
こんな現状だが、やっぱり一人では生きられない世の中だ。
私とよっちゃんだけでは、うまいこといかない。
味噌を作るのも、とし子さんが入らないとうまくいかない。
3人集まれば、3人3様でうまくいく。
3人で頑張ってきた飯舘村での生活だったが、終の場所をどこにするかで、いま一番迷っています。
「よっちゃん、どうする?」と聞いて、行動に移す時期がきてるかと思っている。
原発事故さえなければと、何度思ったか判らない。
でも出てしまった放射能には勝てないから、その中で生きていく模索をしなければならない人生が与えられたのだと思っている。
生きる社会が変わってしまった中で、世界が変わってしまった中で、同じ人間が変わった世界の中で生きるということを、模索している。

●佐須の3人”娘”
よっちゃんと私の2人でも、とし子さんがいないとうまくいかないし、とし子さんと私で、よっちゃんがいなくてもダメだし、よっちゃんととし子さんの2人で私が欠けてもうまくいかないし、3人集まればうまくいく。
とし子さんは私やよっちゃんと違って、娘や孫と一緒に家族で借り上げ住宅にいる。
とし子さんが飯舘に帰りたいって言えば、娘は「ばあちゃんが帰りたいならいいよ。私も一緒に帰るよ」って、孫はどこに住居を構えるかは孫の選択だって言っている。
「線量は高いが、たとえ5mSvあったとしても70歳過ぎてれば生きてるうちは放射能の影響も、そうそうはないべ」って、言ってるけど、どの程度の影響があるかは、今となったら学者も誰も何も言わない。
放射能は危ないということだけは教えてもらったが、どういう影響があるかは、誰も何も言わない。
5mSvでは直ぐにガンになる心配はない、20mSvでも大丈夫、100mSvでも直接影響はないという説明はあるが、そのうちの何%がガンになるかの数字は出ている様だが、教えられない。
こうなったら体力と健康が何よりの宝物だと思っている。
(いちえ注:とし子さんが一時帰宅で自宅に帰るとカラスが寄ってくる。「母ちゃんきたよ」と呼ぶとどこからともなくカラスが「カァ」と鳴いて寄ってくる。飯舘にいた時いつも、残飯などを庭木の根元に置き「食べな。置いとくよ」などと言って餌付けしていた。除染作業員なども、とし子さんが帰宅するとカラスが寄ってくるので、「イヤァ、母ちゃんとカラスは仲がいいんだな」と驚いていた)
飯舘村の暮らしは、そんな風に自然と融合して生きてきた村だった。
「母ちゃん来たの?」ってカラスが寄ってくるって、とし子さんはそう言う言葉を使うけど、それを聞いて私は「ああ、なるほどなぁ」と思った。
そんな風に自然と融合してきた暮らしが、全て奪われてしまった。

*長くなるので一旦区切りますが、報告はまだ続きます。続きは③をお待ちください。       

いちえ


2016年5月10日号「南相馬5月10日②」

◎小高で
●最初に前便の訂正です。
双葉屋旅館で「おだかのひるごはん」をやっていたとお伝えしましたが、私の勘違いでした。
「おだかのひるごはん」は双葉屋旅館ではなく、双葉食堂の間違いです。
訂正します。

●再び双葉屋旅館さんへ
午前中に小池第3仮設住宅の方達が作った作品を、見本として双葉屋旅館に持っていき女将の小林友子さんにお見せしました。
「どうぞ、もっとたくさん持って来て下さい」と言われ、午後もう一度行ったのです。
午前中に行った時も先方のご予定も聞かずに突然訪問したので、自己紹介とほんの短い時間お話ししただけで、「午後もう一度、品物を持って伺います」と言って失礼したのでした。

そして午後にもう一度お訪ねしたのでした。
でも午前中に伺った時に、3時から御用があるということをお聞きしていたので、段ボールいっぱいの品物をお渡しし、またほんの短い立ち話で失礼しました。
けれども短時間の訪問で、改めてまた次の機会にゆっくりお話を聞かせて頂きたいと思ったのでした。
避難指示解除になったら営業再開するというのも、本当によくよく考えてのことだということが、短い立ち話の中からも私には強く感じられたのです。
原発事故について発言する人の中には「[避難指示区域]だった所に帰還するのは、本当は安全とは言い切れないのに、政府が『安全だから避難指示解除をする』という言葉に組する態度だ」などという言う人もいます。
このことは、常磐線の小高駅や浦島鮨の営業再開のことを報告した先月の「一枝通信」でも触れました。
午後の訪問で友子さんと話していて、友子さんは人の安全よりも経済効率を優先する行政に対して、はっきりと抗議の声をあげている方だと思ったのです。
お連れ合いも同じ考えで、お二人は「チェルノブイリ救援・中部」の方たちと一緒に、2013年に一度、またこの5月にも再度、チェルノブイリに行き先日帰国したばかりだそうです。
友子さんと次回をお約束して、失礼したのでした。

◎シェアハウス構想のその後
寺内塚合第2仮設住宅の自治会長さんだった藤島昌治さんは、この3月で自治会長の立場をおりました。
藤島さんが提唱した仮設住宅退去後のシェアハウス構想への署名活動には、みなさまにもご協力いただきました。
ところが外部の(例えば私もその一人ですが)人たちは、「それはいいね」と賛同するのに、当事者である仮設の高齢者たちが、案外乗り気でないことは以前にもお伝えしたと思います。
3月に藤島さんにお会いした時にそんなことを聞き、またその時に藤島さんがとても疲れていらっしゃるように見受けられました。
その時に私は藤島さんに、「良かれと思ってしてきたことが、理解を得られなくて気力をなくされているのでは?」と、それとなくお尋ねしたのです。
はっきりとはお答えにならず、いつもの藤島さんらしくない曖昧な笑顔が返ってきたのでした。
その時にまた藤島さんご自身は、シェアハウスに入るつもりはないこともお聞きしていました。
まだまだご自身でやりたいことがあるので、共同の暮らしとなるシェアハウスではなく、一人で住みたいのだと仰っていました。
そんなことから私は、仮設住宅の方達との間に気持ちの行き違いが生じてしまったのでは?などと思ってしまったのです。
でも今日お会いしてお話を伺い、それは私の早とちりな想像だったことが判りました。
シェハウス構想はやはり、その後も進展はないのですが、今も藤島さんはその構想を持って動いています。
そして住民の方達との気持ちの行き違いなどもなく、自治会長をおりたのは避難指示解除後に藤島さんは仮設を出るつもりなので、その後もまだ仮設に残る方が自治会長をするべきだということで、役目をおりたのでした。

●家族間の問題
仮設に住む高齢者が、自分の子どもにシェアハウス構想について話すと、子どもに反対されることが多いそうです。
高齢者はシェアハウス構想に惹かれても、子どもに反対されると自分の思いを通せない高齢者が多いのです。
「そんな所に入ったら、いよいよ歳を取った時に引き取らないぞ」などと言われたら、高齢者はシェハウス構想には乗れないのです。
でも実際には、原発事故後に他県で暮らしていた子どもたちの所へ避難したものの、居心地が悪くて、もうここに居たくないと思って子どもの家から出たという話を、私はとても多く聞きました。

また、被災前には親子何代かの複数世代で同居していた暮らしが、原発事故後別れて住まざるを得なくなった家庭もとても多く、子や孫たちは他所へ避難し、親たちは仮設住宅へ入居したりしているのです。
そういう人たちの中にも、避難先で子どもが家を建てたので、仮設を出てまた子どもたちと一緒の暮らしに戻った人たちも居ます。
または子どもから「家が出来るまで復興住宅に入っていて。家が出来たらまた一緒に住もう」と言われる人も居ます。

けれどもよく考えたら前述したように、たとえ親子であっても、5年間離れて暮らしてきたブランクを埋めて、以前と同じように一緒に暮らせるとは限らないのです。
こんな話も聞きました。
避難した時には1歳だった孫が、今はもう小学生です。
息子たちと再び同居するようになったのに、その孫に「おばぁちゃん、いつ帰るの?(いつまで居るの?)」と聞かれたというのです。
聞いた孫に悪気はないのでしょうが、「離れた暮らしに慣れてしまったら、同居はなんだか居心地悪い」ということはあるでしょう。

飯舘村の菅野榮子さんが言っていました。
「昔のような家族関係は考え直すべきだと思う。これからは親も子も、誰もが個人として自立して生きていかなければ」
榮子さんの言葉に私は深く頷きます。
ここで言う「自立」は、経済的な面のことよりも、より強く「精神の自立」と言えるでしょう。

*朝日新聞南相馬支社の本田記者に南相馬在住の詩人の若松丈太郎さんにお引き合わせいただき、また若松さん、本田夫妻とご一緒に小高の「浮舟文化会館」内の「埴谷島尾記念文学資料館」で、加賀乙彦さん、志賀泉さん他「脱原発社会を目指す文学者の会」の方たちに、お会いしたのでした。
一日雨降りでしたが、気持ちは晴れ晴れの今日でした。          

いちえ


2016年5月10日号「南相馬5月10日①」

◎小高駅前双葉屋旅館
●小池第3のみなさんの手芸品を、常時置いてくれる場所
午前中、小高の双葉屋旅館を訪ねました。
小池第3仮設住宅のみなさんが作っている手芸品は、いつも私が預かってトークの会「福島の声を聞こう!」で会場に並べ、参加して下さった方達が欲しいものがあればカンパで持ち帰って頂いています。
小池第3の方たちはいつもたくさん作って待っていて下さるのですが、トークの会は3ヶ月に一度なのです。
その間に、ただ私が預かっているだけではもったいないと思っていたのです。
先月来た時に小高駅前の「はなとも広場」に、小高の方達が作った手芸品を売っているコーナーがあるのを知ったのです。
はなとも広場の廣畑さんに、そのコーナーに小池第3の方達の作品を置かせてもらえないかと尋ねたら快諾され、はなとも広場を設けたのは双葉屋旅館の小林さんで、そこで売っている物も、すべて小林さんが管理されていること廣波田さんから教えられたのでした。
それで、双葉屋旅館に行ったのです。
昨日預かったばかりの作品の、いくつかを見本に持っていきました。
小林さんは「喜んで受けますよ。ぜひ置きましょう」と言って下さったのでした。
そして「何か素敵な名前をつけて、小池第3コーナーにしましょう」と言って下さったのです。
今日は、午後もう一度小高に行く予定だったので昨日預かった小池第3のみなさんの作品を届けるつもりです。
実は昨日ホテルに戻ってから、預かって来た作品を我が家に送るつもりで段ボールに箱詰めしたのですが、それをそのまま午後に小林さんの所へ持っていくことにしたのです。
小池第3のヨシ子さんにそう伝えると、喜んでくれました。       

●双葉屋旅館
原発から10〜20キロ圏内に位置する南相馬市小高区は、原発事故後は警戒区域とされ住民は避難となりました。
2012年3月30日にそれまでの警戒区域・避難指示区域は帰還困難区域・居住制限区域・避難指示解除準備区域に再編成され、4月16日から小高区は、日中の出入りが自由になったのです。
その時点から避難指示解除になったら小高に戻ると決めて、準備して来た人たちが居ます。
駅前通りの「理容カトウ」は20日から、毎日仮設住宅から通って店を再開していました。
双葉屋旅館も解除になったら営業再開を目指して、お掃除に通っていました。
2015年から昼間は「おだかのひるごはん」と名付けて食堂を開き、小高に帰宅した住民やボランティアの人たちが昼食を食べられる所を作ってきました。
避難指示解除になったら旅館再開をするので、今は「おだかのひるごはん」は
閉じていますが、そんな風に小高の街を再び蘇らせようとする人たちが居るのです。
双葉屋旅館も、その一つなのです。                 

*午後の小高報告は、また後ほどに。               

いちえ


2016年5月10日号「南相馬5月9日」

南相馬に来ています。
福島駅からバスに乗り、市内を通り抜けるとき目にした街路樹のトチノキには花が咲いていました。

◎5月の山
バスは川俣の町中を抜けて、山道に入っていきました。
木々の梢にヤマフジが絡んで薄紫の花を垂れ、あの木にもこの木にもこんもりと薄紫の花が固まりを作っていました。
ヤマツツジが緑の中にポツポツと、そこここに赤い花群を見せていました。
ガマズミやウワミズザクラの白い花も。
路肩や山際の草地にはナガミヒナゲシが咲いていますが、この外来植物の繁殖力の旺盛なこと!
ウマノアシガタの黄色い花も見えます。
飯舘村の山々は、5月の花の盛りでした。
二枚橋の辺りでは、畑仕事をする老夫婦の姿を見ました。
自宅の前の小さな畑は、自家菜園なのでしょう。
この人たちの姿は2年前に、「たぁくらたぁ」編集委員の野池さん、関口さんと一緒にここを通った時にも見かけました。
私たちはその時にはとても驚いたのですが、今日こうして再びその姿を見ると、二人にとっては放射能があろうがあるまいが、自分の畑で自分たちが食べる物を作るというのは“当たり前”の行為なのかもしれないと思いました。
一昨日のトークの会では榮子さんの話を聞かせてもらったのですが、このご夫婦は帰還を思い定めているのでしょう。
2年前にその畑の脇には何の木なのか、まだ丈低い木を何列か並び植えてありました。
長野のリンゴ農家でブルーベリーも育てている野池さんは、その時に「ブルーベリーかな?」と言いましたが、今日見るとブルーベリーよりも葉がもっと大きくて、ブドウ?かとも思えましたが、帰る日にもう一度、しっかり見ようと思います。

飯舘村を通る時に、驚いたことがありました。
自転車でのツーリング姿を見かけたことです。
何かの用事で自転車に乗っているのではなく、明らかにツーリングだと思える自転車の単独行でした。
タオルをしっかりと結びつけて口元は覆っていましたし、荷物にもビニールをかけて覆ってありました。

◎小池第3仮設住宅
ちょうどお昼時に着くので、途中でおにぎりを買って持っていったのです。
集会所では、ヨシ子さん、ハルイさん、星見さん、野村さんが待っていてくれました。
星見さんが、「いちえさん来るからって、ヨシ子さんとハルイさんがお昼用意してますよ。みんなで一緒にお昼にしましょう」と言いながら、テーブルの用意をしていました。
「あらら、ありがとうございます。私もおにぎり買ってきたから、じゃぁこれも一緒に食べましょう」と、買ってきた舞茸おこわのおにぎりも、テーブルに並べました。
きんぴらごぼう、漬け物、タケノコとフキとフキノトウ、こんにゃくのお煮染め、大根のザラメ漬け(初めて食べました!)が並べられ、サランラップをかけたお皿の上にはちょっといびつな形の白いおにぎりがいくつか載っていました。
「”おふかし”です」と言って出されたのですが、ウズラ豆を炊き込んだ餅米のおにぎりでした。
「おふかし」、初めて聞く言葉でした。
ハルイさんが「みんなで食べると、美味しいな」と言うと、みんな頷いて「一人じゃ何食べても味けないもんね」と相づちを打ったのでした。

今回の訪問も、ヨシ子さん、ハルイさん、ゆり子さん、和香子さんから預かっていた手芸品の代金を届けにきたのです。
また新しい作品が出来ていて、フェルトの縫いぐるみネコ、白無垢姿のブサコちゃん、編みぐるみの蛸などですが、それらを並べてみんなで品評会をしながら眺めていた時に、ゆり子さんもやって来ました。
ゆり子さんもまた、新しい作品をたくさん持って来たのです。
花のブローチや髪留め、てっぺんにフェルトの花をつけたボールペンや鉛筆、和香子さんの作った縫いぐるみなどです。
ゆり子さんは和香子さんのお母さんです。
ゆり子さんは小さな物をとても丁寧にきれいに作り、またアイディアが豊富な人で、どれを見ても感心します。
和香子さんの縫いぐるみには、いつも「ゆめ」と書いた札が付いています。
”あの日”から一変してしまった暮らしに、和香子さんは大きな不安の固まりを心に抱いてしまったのです。
和香子さんが「ゆめ」人形を作り出したのは、つい最近になってからのこと。
それまでは塞いだ心が解けないままの日々でした。
ヨシ子さんのブサコちゃんを見て「私も作ってみようかな」と、ようやく少しずつ気持ちが外に向けて動き始めたのです。
「ゆめ」に、和香子さんの願いが籠っているように思います。
先月は大きな大きな縫いぐるみ「ゆめ」を託されたので、私は、大きい物より小さい方が喜ばれると話したのです。
ゆり子さんは、「和香子は枕のつもりで作ってました」と言いました。
和香子さんは、眠れない夜を抱えてもいるのだと、それを聞いて気づいた私でした。

小池第3仮設住宅も、引っ越した人が多く寂しくなってきました。
ここだけではなく他の仮設住宅も、だいぶ空きが目立ってきました。
最初の頃よりも5年過ぎた今の方が、心の支えが必要だろうと思える被災地です。

◎寺内塚合仮設住宅
談話室を訪ねると、今日は“社長”(菅野さん)と“営業部長”(天野さん)と山田さん、もう一人の菅野さんの4人だけでした。
(*「一枝通信」を初めてお読みになる方もいらっしゃると思います。”社長”“営業部長”は、ここでの渾名です)

●”社長”の毎日
”社長”は2月に娘一家と同居の新居に引っ越したのですが、家にいても何もすることがないので、週に二回のデイサービスに行く日やたまに病院に行く日を除いて、いつもここに来ています。
83歳、車の運転も出来ず押し車で歩く”社長”ですから、ここに来るには娘が仕事に出るついでに送ってもらうのです。
この仮設に居た時には娘も同じくこの仮設の別の部屋に居て、食事は娘が作って社長の部屋まで届けていました。
”社長”は食事の世話は娘にしてもらっていましたが、食べ終えた後の食器を洗ったりトイレの掃除をしたり、狭い部屋ではあっても、片付けやら何やら自分でやる仕事はあったのですが、引っ越して娘たちと同居になったら、食事の片付けも部屋の掃除もみんな娘や孫がしてくれるのでテレビを見るだけになってしまったのです。
娘もそれでは良くないからと、仲間が居る談話室に母親を送ってきてくれるのです。

ここに居る人たちは皆、小高の人です。
政府は今年4月に小高は避難指示解除の方針を出したのですが、市長は除染の完了を見定めてからにしたいと言い、まだ解除になっていません。
おそらく7月の野馬追祭りの前に、解除になるのではないかと思います。

●山田さんのこれから
山田さんの自宅は飯崎で、解除になったら自宅へ戻り、また息子たちと一緒にそこで暮らします。
避難前からの暮らしに戻りますが、以前は息子夫婦は勤めに出て、孫は学校、山田さんは畑をやっていました。
野菜は出荷してもいたのです。
でも今度戻っても、畑はもう出来ません。
息子たちはそれぞれ仕事や学校がありますが、山田さんはどうするのでしょう?
「山田さん、家に帰ったら昼間何をするの?」と訊ねました。
「なんもしねぇ。畑なんか出来ないし、なんもすることねぇ。週に1日デイサービスに行くだけだ。迎えにきてくれっから」
被災前は病院へ行くにも、買い物や郵便局に行くにも、バイクに乗って行った山田さんです。
あれから5年。
自宅から避難する時にバイクも置いてきてしまったし、80歳になった今、家に帰ってももうバイクには乗れません。
「山田さん、畑が出来なくても何か体を動かすことをしなきゃ駄目だ、それ以上太ったら、体に毒だよ」と私は言いはしましたが、そんな風に言うこと自体が気休めでしかないと、自分でも思いました。
“社長”と同じようにやっぱり押し車が必要な山田さんですから、あの坂道を散歩するのも大
変だろうと思います。

●“営業部長”の過ぎた日々
避難指示解除後どうするのか、“営業部長”は思い悩んでいます。
街中の自宅は解体することにしました。
娘家族と同居は気が進まず、厚生年金もあるから老人ホームに入ると言っていましたが、条件の合うホームがあるのかどうか……

これからを問うそんな話を逸らすつもりからではなく、話の流れから、過ぎてきた日々の話になりました。
都路の農家の娘だった”営業部長”は、「農家の嫁には絶対になりたくない」と、学校を卒業してから小高の紡績工場に就職したのです。
小高は、かつて紡績が盛んなところでした。
そこで職場結婚したのです。
夫は定年後、自動車部品工場に再就職し、そこを辞めた後で今度はブロッコリー栽培農家で出荷の仕事に就きました。
その夫も震災の5年前に亡くなり、この春のお彼岸に10年忌を済ませました。
”営業部長”は紡績工場を辞めた後で、日立のテレビ部品工場に再就職しました。
昼間働いて夕方家に帰って夕食を済ませると、工場から仕事が届きます。
部品の種類ごとに個数を数えて箱詰めする仕事です。
「ホントよく働いたな。そうしなきゃ食べていけないもん。トウチャン(夫)と二人で、ホントよく働いた。一日中働いたよ」
詰めた箱は何段も重ねて外に置くと翌朝、工場の人が引き取りに来るのです。
脚立の載らないと重ねられず、トウチャンが手伝ってくれたそうです。
「あの頃は私らだけでなく農家の人も夜は内職したりして、ホントみんなよく働いたわよ」

そんな話を聞きながら、私は思いました。
「よく働いた」のは、その誰もが自分の暮らしの為と思ってのことだったかもしれないけれど、「よく働いた」人たちが居たからこそ、この国にいま居る私たちの暮らしがあると。
でもその結果が原発事故だなんて、あまりにも悔しいことではないかと。
そんな風に思ってた時に、原発の話になりました。

●使ってたのは東京の人
「原発があった所は、『ここに作っていいよ』って言って原発を呼んで、それでそこの人たちはお金も貰ったけれど、私らは『作っていいよ』なんて言わなかったしお金も貰わなかったもんね」
「電気も使わなかったし、使ってたのは東京だよ」
東京から来た私を責めての言葉では決してなく、思わず本音が出たのです。
でも本当にその通りです。
以前、脱原発運動の仲間から「福島の人はもっと[原発反対]の声をあげるべきだ」という言葉を聞いたことがあります。
被災から2年目くらいの時だったでしょうか。
仮設住宅の人たちは、支援物資を送ってくれた人、ボランティアで来てくれた人などなどにお礼にしたいからといろいろな手芸品を作ったりしていました。
「福島の人は…」の言葉を聞いた時に私は、「それは違う。被災地でいま懸命に生きていること自体が、[原発反対]の思いを体現していることなのだ」と思いました。
今日、寺内塚合の談話室で、はからずも「使ってたのは東京だよ」の言葉を聞いて、あの時の思いが蘇りました。

●アリと同居
高橋宮子さんに何度電話しても、「この電話は現在使われていません」のアナウンスが流れます。
電話番号を変えたのだろうと思いました。
それで宮ちゃんの家を訪ねました。
出歩いていて留守も多い宮ちゃんですから、在宅しているかどうか、いつもなら電話で確かめてから訪ねるのですが、幸いなことに家に居ました。
ちょうど先客が帰る所で、福祉事務所の人たちでした。
災害復興住宅に一人で暮らす後期高齢者の宮ちゃん(77歳)の状況がどんなかを、様子を尋ねに来たのでしょう。
宮ちゃんは「家の中に赤蟻が出てきている」と、伝えたそうです。
宮ちゃんが入居した災害復興住宅は、6畳間が3間並び、真ん中の部屋がダイニングキッチンになっています。
バスとトイレは別で、吹き抜けの天井でとても気持ちがいい住まいです。
6畳一間だった仮設住宅に比べたら、雲泥の差です。
でも仔細に見ると、木材に見える箇所の建材は全部合板です。
合板の張り合わせの接着剤はアリが好むそうですから、建てられてまだ1年経たないこの住宅も、こうしてアリが入って来るようになってしまったのかと思いました。

●宮ちゃんの羽子板
仮設の仲間と演芸集団「宮ちゃん一座」を作った宮ちゃんは、双六やカルタ、百人一首を作って仮設の仲間たちを楽しませ自分も楽しんできました。
災害復興住宅に移ってからは、「ゲームばっかりやってる最近の子どもたちに手や体を使って友達と遊ぶ楽しさを知って欲しい」とメンコやお手玉を作っていました。
羽子板を作りたいと言い出したのは去年の暮れで、のこぎりで板を切って作り始めましたが、板で作るには時間も労力もとても大変なことでした。
今日訪ねたら、ボール紙を張り合わせた羽子板が、何枚もできていました。
その羽子板もとてもよく出来ていて、重さといい固さといい申し分無いのですが、なんと羽子板で搗く羽根も出来ていました。
ムクロジの実に穴をあけて、3枚の羽が付いています。
羽は鶏を飼っている人から貰った羽と「赤い羽募金」の赤い羽まで使ってあります。
ムクロジの実は、散歩していたらいっぱい落ちていたのを見つけて拾って来たそうです。
「宮ちゃんは、いろいろいい物を拾う名人ね」と言うと、仏壇に供えてあった小皿を私の前に置きました。
一円玉、5円玉、50円玉など何枚かのコインが入っていて、どれにも拾った日付が書いてあります。
今年の元旦、日の出を見ようと家を出て浜の方へ歩いていったら、ちょうど橋の上で海から太陽が昇ってくるのが見えたそうです。
手を合わせてふと頭を下げた時、足下に1円玉が落ちていたのだそうです。
初日の出に手を合わせた時に見つけた1円玉を拾って帰り、仏壇に供え、お守りにしています。
それ以来、落ちていたコインを見つけると同じようにお守りにして仏壇に供えているのです。
遊びに来た孫に、「ばあちゃん、拾ったお金をこんなにお守りにしてるんなら、宝くじを買ったら当たるんじゃないか。宝くじを買ったらいいべ」と言われ、この間生まれて初めて宝くじを買ったと言って、それもまた仏壇に供えてありました。        

*5月9日の南相馬報告でした。
明日は小高に行ってきます。                      

いちえ               






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