HOME » 一枝通信»2015年12月25日号「12月20日小海町で③」

2015年12月25日号「12月20日小海町で③」

飯舘村の方の話を続けます。

◎杉下初男さん 68歳
杉下さんの自宅は、帰還困難区域にされた長泥です。
御影石の加工と販売をしていました。
職業は石材加工販売ですが、農業もやっていたと言いますから家族で分業していたのでしょうか。

●帰還困難区域、長泥
住んでいた地区は長泥だったと聞いて、「長泥には行ったことがあります。菅野さんに案内してもらいました」と野池さんが言うと、杉下さんは「封鎖前でしょう?」と気色ばんで言いました。
2012年7月に長泥は帰還困難区域と指定され、地区入り口で道路はバリケードで封鎖され、許可証がなければ入れなくなりました。
それ以前は、封鎖されてはいませんでした。
野池さんが菅野さんと一緒に行ったのは、それ以前のことだったでしょう。

私は以前に野池さんと一緒に飯舘村に行った時に長谷川健一さんの案内で、長泥の手前まで行ったことがあります。
前田、蕨平、飯樋、比曽など幾つかの行政区を周り、国道399号線で長泥の方へ向かいました。
その先が長泥で、道路が封鎖されている検問所の手前で引き返しました。
村民が植えたという桜の山には、見晴台がありました。
山の斜面にずっと、桜が植えられていました。
木立は枯れていた季節でしたが、桜の頃はみんなでお花見に来たと長谷川さんから聞き、花の季節はどんなに見事だろうと思いました。
その先は長泥へ続く国道を見下ろしながら、野池さんが言いました。
「封鎖前は常磐道が通れないから、みんなここを通ったんでしょう。被曝街道ですよねぇ。酷いなぁ」
2012年7月に封鎖される以前は、この国道399号線はいわき市から山形方面へ抜ける車が往来していました。
原発事故後、被災地へ物資を運ぶのにも頻繁に車が往来したのです。
私がよく行く南相馬などが被災当初に陸の孤島となってしまった頃も、支援物資はこのルートで運ばれていたのでした。
でもこの道は、葛尾、津島、長泥など高線量地域を抜ける道でした。
この時の野池さんは、その頃のことを言ったのでした。
でも小海町でのこの日、「長泥には行ったことがあります」と言った野池さんに、「封鎖前でしょう?」と言った杉下さんの口調は気色ばんでいました。
 
●杉下さんの話❶
長泥は地上1mの空間線量で6〜8マイクロシーベルト、家の縁側や雨樋周辺で測ると80〜120になる。
現在は伊達市の保原町に避難している。
旧伊達郡6町にまたがって避難している飯舘住民920名で、借り上げ住宅に住んでいる人たちの自治会の会長をしている。
村に帰る、帰らないの話し合いをしているが、帰ると言う人は2割、私も含めて迷っている人が3割、あとの4割以上は帰らないと言う。
これから問題になるのは、長泥という地域が消滅するということだ。
今年3月の長泥地区の総会で判ったことは、誰も戻らないということだった。
誰も戻らないのだから、このままでは消滅だ。
長泥は帰還困難区域なので除染もされず、避難解除にならない地域だが、誰も帰らないこの地域をこのまま消滅させるわけにはいかないので、新潟大学の先生にお願いして長泥集落の記録を残そうと、この春から記録集を作っているところだ。
記録集を来年3月上旬に発行する目標で、その記録集委員もやっている。
村長が帰村宣言をしても、村に帰れない集落があることを、飯舘村には消滅の可能性が100%の集落があるということを、放射能で辛い思いをしていることを、話を聞いたあなた方は、他の人たちに正確に伝えて欲しい。
我々は、本当に悲惨な辛い思いをしていることを、消滅する集落があるのだということを、どんな誌面でもいいから伝えて貰いたい。
避難経路によって個人個人の思いは多少違っていても、辛い思いをして避難したのはみんな同じだ。
だが自分たちの故郷に戻れない、強いインパクトのある集落は飯舘では長泥だ。
この思いを、皆さんにどう伝えていいのか私には判らない。
言葉にできない、本当に、辛い集落だ。
私は以前は長泥行政区の区長をやっていたが、今は区長はやめて長泥地区の復興委員長をやっているのだが、復興への仕事は何かといえば、現実的には帰還困難区域なので復興の仕事は何もない。
復興の仕組みを作ろうとしても、戻ろうという人がいないのだから、復興の先も見えず、何も始まらない。
何をやったかというと、賠償の仕切りをやった。
集落にある公民館とかグランド、集会所や神社などの賠償を、東京電力に対して部落の代表として責任を持って交渉してきた。
賠償問題は、ほぼ100% 終わったが、お金で解決する問題ではないので、ただ、ただ悲しいだけだ。
私は長泥では、飯舘特産の御影石を工場で加工して、関東方面に出荷していた。
白御影石で、飯舘特産の石だった。
加工工場で、村特産の石として売っていたのだが、部落に入れないし、加工場も動いていないので廃業するしかない。
長泥は、酪農や農業の再開だけでなく、村特産の石も出荷できなくなってしまった。
原石も売っていたし、加工もして売っていたのだが、石も採れない加工もできないとなっては、商工業での飯舘村の発展も全部終わりだ。
それぞれみんな苦しい思いをしているが、私も収入源を完全に絶たれたので、どのように生活していいか判らない。
収入がないので貰った賠償金を取り崩しながら、この先15年から20年生活していく計画をたてないとならない。
いま現在避難生活をしている伊達の町に家を造って、故郷ではない伊達の町で生活していこうと考えている。
収入がないのでできるだけ小さな住宅を造って、細々とやっていこうと思うが、それにしても先が見えない。

避難後しばらくの間、母は戸田にいる弟に見てもらっていた。
その間私は成田の知人の所で世話になったが、長くはお世話になれないので、その後宮城県の石巻に移って、被災した墓石の修理を兼ねて仮住まいしていた。
23年の12月までは宮城県に避難していて、その後飯舘村に帰ることはできずに伊達の保原町に家族で住んでいる。
先の見えない生活で、故郷に戻ることは完璧にできない集落なので、他の皆さんの思いとは違うだろうと思うが、故郷に対する思いは人一倍強い。
居住制限区域は避難解除になれば無理をすれば帰ることはできるだろうが、長泥は帰ることはできない地域だ。
辛いですよ。
いま現在80戸が加入している自治会で、2日前にお茶会をやったが、やはりみんな若い人たち、子や孫が帰らないと言ってる。
「オレは帰ってもいいけど、子供や孫が帰らない」では、老人の村になる。
村長の言う29年3月帰村は、国も村も考えての方針だから筋道をつけねばならないだろうが、住民で戻る意思のある若い人はいない。
75歳以上の老人ばかりの村になり、活性も何もできない村になる。
先の、そうした姿は見えている。
放射能で避難する村民の思い、辛い思いはみんな同じだろう。
酪農家だけでない、農業者だけでない、我々自営業者も村の特産で販売できたものが販売できない、この辛さ…。
農業は移住してもそこで農地を求めれば、同じ生産物、大根でもネギでも種類は多少違っても、そこで生産できる。
村の特産として御影石を販売してきた我々商工業者は、もうそれで終わりだ。
福島や小海に住んでは、飯舘村の石は販売できない。
飯舘村から採った御影石で加工してこそ、はじめて阿武隈山系飯舘産の石として販売できるのだ。
原石が完全にストップしているので、農業よりもダメージが大きい。
村の経済を支えてきていた一商工業の業種が、全て終わってしまった。
村の収入に対するダメージはとても大きいが、こういうことをメディアは全く報道しない。
農業や酪農については報道されているが、村を支えてきた商工業の業種が壊滅状態ということは、伝えられていない。
農業は県をまたいで多少移動しても再開できるが、我々のような商工業の特産物は再開できない。
そういう辛さもあるのだ。
帰還困難区域の自宅にも帰れず、辛い、辛いの毎日だ。
これまで雑誌を見ても、新聞を見ても、我々は直接報道関係には話さなかった。
話せば辛くて話せず、話さなかった。
でも、話を聞きたいとあなた方が言うから話すが、最も辛いのは再開ができない業種であり、村に戻れない地域であり、集落が消滅するという、そういう所に我々が住んでいることが、本当に悲しいのだ。
言葉に表せないほど寂しく辛い。
雑誌などで、国に対して色々話したとしても、本当に辛い我々の思いは、そこには書き込むことができないほど辛い。
断片的に書いても、我々の本当に辛い思い、村を去らなければならない飯舘村村民の心の言葉は入っていない。
いろんな言葉で書かれていても、我々の思いは伝えられていない。

★2011年の東京電力福島第一発電所の事故で帰還困難区域に指定された地は、飯舘村だけではなく大熊町、双葉町、富岡町、浪江町、葛尾村、南相馬市の各市町村にまたがっています。
けれども「帰還困難区域」となった辛さは同じく抱えていても、故郷を奪われた悔しさは、またそれぞれ違います。
話の進行役の野池さんが大熊町の名を口にすると、杉下さんの口調はまた強くなりました。
●杉下さんの話❷ 除染廃棄物焼却施設
原発誘致に力を注ぎ、立地した町の人たちは、ずっと交付金を受けてきた。
今回の事故後に必要になった中間貯蔵施設設置に関しても、浪江と双葉には250億円ずつの補助金が下りたが、飯舘村はびた一文貰っていない。
中間貯蔵施設は迷惑施設だと言いながら、原発で恩恵を受け、中間貯蔵施設でまた国からのお金が下りる。
地権者は若干迷惑を被るだろうが、それに見合った交付金は貰えるわけだ。
飯舘で現在進められているのが除染廃棄物の焼却施設で、あれも本当に迷惑施設だ。蕨平の焼却施設は、私の住んでいる長泥から4kmしか離れていない。
4kmなんていうのは、風向きによってはあっという間に自宅に風が届く距離だ。
施設が稼働する前にモニタリングをするように申し入れ、環境省もそれを認めていたのに、火入れ直前までモニタリングをしていなかった。
11月に火入れしたが、10月にモニタリングについて問うと、「忘れていた」と。
「忘れてたとは何事か!」と、住民はみんな怒っている。
稼働が目的でも住民が安心できるように、稼働6ヶ月前、1ヶ月前などモニタリングして空間線量のデータをとって、稼働前と稼働後のデータにほとんど変動がないことが判れば安心だと思えるのに、稼働前のモニタリングをやらず稼働してからモニタリングをセットしようとしている。
12月になってからようやくモニタリングをセットしたが、施設の火入れはもう済んだ時期で、本格稼働はまだだが、試験稼働はしている。
そうなってからのデータを取ろうとしている。
全く稼働される前の、1ヶ月前、半年前のデータがない。
そんな状況にあるのだから、もう帰れない。
焼却施設が稼働して煙がどんどん出れば、帰る人は誰もいない。
蕨平の焼却施設は一つの施設に2基の焼却炉があり、日本で一番大型施設だ。
長泥と蕨平は隣の行政区で、蕨平は行政区として施設導入に同意したので、地権者は賠償金・補償金を貰っている。
長泥は地域が違うので賠償金の恩恵は受けず、煙だけが来る。
蕨平も、長泥と同じく住民が戻らない地区だ。
焼却施設は5年間稼働する予定だが、場合によってはそれが3年延長され8年間稼働する。
避難から5年、焼却施設稼働から8年、13年経ったら「戻れ」と言われても戻る人など居ない。
大手メディアの朝日にも読売にも、そういう我々の切実な思いは一切紙面に出て来ない。
NHKも来て3日間取材していったが、我々はこういう話を報道して欲しいと要望したが、2、3分間ちょこっと放映されただけで、伝えたいことは全く放送されなかった。
飯舘村民の、我々の思い、本当に辛いこの思いを、誰が見ても記録に残る言葉として正確に伝えて貰いたい。

●杉下さんのお話を聞いた後で
この翌日、飯舘村の方達は二手に分かれて、片方は小海小学校の学童達との交流会、もう片方は小海町のボランティアグループとの交流会になりました。
私は小学生との交流会を見学させていただきましたが、そちらには菅野栄子さん、渡邊とみ子さん、杉下初男さん、坂本弘さんの4人が臨まれました。
交流会を終えて帰り道、道路際に石材店がありました。
石材店の看板に目を留めた杉下さんに、「石材店を見ると、やはり気になりますか?」と伺うと、杉下さんは答えました。
「そりゃぁ、気になりますよ。どんな石をつかってるかなとか、色々思い出したり気になったりします。
でも石屋は、地縁で成り立つ商売ですから、他所へ行ってはできないですよ。
墓石にしても何にしても親の代からの付き合いとか、親戚や知り合いの紹介とかでやっていく商売ですからね。地縁がないとこでは、やっていけないです」
聞かなければ気付けないことでしたが、全くその通りだと思います
杉下さんから頂いた名刺には、名前と飯舘村長泥の住所、避難先の保原の住所、電話番号と共に、「杉下石材」と印刷され、また「国産みかげ製造販売・墓石修理 」の文字もありました。
失礼かと思いましたが、避難前に使っていた名刺にも「墓石修理」の文字はあったのかと伺うと、無かったと答えが返りました。
お話を伺っている時に、何度も何度も「辛いです」と言葉され、また、その思いをきちんと他者に伝えて欲しいと繰り返されたことが、胸によぎります。
野池さんの「長泥に行った」という言葉に気色ばみ、また「大熊町」と聞いて語調がきつくなった杉下さんの、胸の内を思います。

春になったら、杉下さんに長泥のお宅に連れて行っていただこうと思っています。
外部の者は入れない地域ですが、住民の方と一緒なら入れます。
もう錆びついて使えなくなった加工場の機械、主のいない家屋敷、人が消えた集落、
焼却施設の煙、それらを体に受け止めたいと思います。

★今回も長文になりましたが、飯舘村の方の話はまだ続きます。
お読みいただけたら幸いです。
                    
いちえ


2015年12月25日号「12月20日小海町で②」

この日と翌日にかけて、飯舘村の方達から話を聞かせていただきました。
飯舘村は全村避難中ですが平成29年3月で避難指示解除して、帰村の方針を出しています。
そしてそれ以後は、仮設住宅も借り上げ住宅も閉鎖になります。
そのような状況下で、現在避難生活中の皆さんのあの日から今日までを、そしてまた再来年の4月以降の暮らしをどのように考えていこうとしているのか、そうしたことをお聞きしたくて、お話を伺いました。

◎菅野 晢(カンノヒロシ)さん 68歳
〝いいたて匠塾〟の塾長の菅野さんには、私はこれまでも何度かお会いしています。
菅野さんは村役場に勤めながら農業をしていましたが、定年前に退職して農業と加工食品作りで暮らしてきました。
以前にお会いした時に一度は飯舘村を案内して頂きましたが、その時には、何本ものイチョウの木が植えられた草野地区のご自分の畑に連れて行って下さり、「ここで作った銀杏を商品にするつもりでした」と聞きました。
また松川町の仮設住宅の一角にあるお店では、菅野さんの畑で採れた花豆で作られた煮豆の缶詰を求めて帰ったこともありました。
その時に菅野さんは、「この豆は被災前年に収穫したもので、私の畑の豆で作った煮豆の缶詰は、これで最後です」と言いました。
私はその最後の2缶を買って帰ったのでした。
開けて食べた花豆の煮豆はとても美味しく、惜しみ惜しみ頂いたのでした。
その菅野さんから、聞かせていただきました。

●菅野さんの話
再来年4月に帰村となれば、学校も再開するだろう。
外の人はそうしたニュースを聞けば、「ああ飯舘村はもう安全なんだ。事故の影響も解決したのだ。よかった、よかった」と思うようになるだろうし、そうしようとしている。
原発が爆発した3月17日から、妻と母との3人で秋田に避難して4日間秋田に居たが、行政区の住民がまだ飯舘に残っていたので、母を秋田にお願いして置いて、5日目に妻と2人で飯舘に戻った。
それから行政区内に残っていた14、5人と一緒に飯坂温泉の旅館に避難したが、そこにも長く居ることはできずに4日間居て、また村に戻った。
この時点で、村は20マイクロシーベルトあった。
その後も避難指示は出ていなかったが、25日に県の主催で長崎大学の高村昇教授の講演会があり、村民400人ほど参加した。
そのときの話は、「安全だ。洗濯物は外に干せる。子供が外で遊んで大丈夫」と、安全、安全ということで、動揺を鎮めようとしたのだろうが、結局は不信感を買うだけだった。
村民は知識の無い者ばかりではない。
若者はどんどん避難をしていた。
それでもまだ春休みで学校は始まっていなかったが、4月になって新学期が始まる時に、村ではなく隣の川俣町に学校を設けるという話になった。
それでも安全だという話は繰り返されていて、4月1日は長崎大の山下俊一教授が、4月10日には近畿大の杉浦紳之教授が来て、「安全」という言葉は繰り返された。
ところが4月11日に全村避難の政府発表があり、実際に全村避難指示が出されたのは4月22日だった。
その時点で、高線量の中で暮らしていた村民の被曝量は、相当なものだと思う。
それまで村民はずっと、「安全だ」という中に置かれていた。
村では自然水を使っていたが、その水の検査もしないでいて、ようやく検査して「飲めない」と言われたのは3月22日だった。
村民はその間ずっと、放射能が混入した水を飲み続けていた。
避難指示は出たがすぐには避難できず、7月の中旬にようやく避難が完了した。
それまで多くの人が避難できなかったのは、仮設住宅が出来ていなかったし、借り上げ住宅がなかなか見つからなかったからだ。
それでも独自に、私もそうだが、自分で見つけた住宅に避難していた人もいて、後から借り上げ住宅の指定をしてもらった。
私は5月13日に避難した。
その前に一度仙台に行ったが、90歳の母親が仙台は嫌だから家に戻ると言ったが、家に戻ってもどうしようもなく、福島なら近いからいいと言うので福島に借りて母と妻と3人で避難した。
ただ、もう90歳なので一人で外には出られず、4畳半の部屋に閉じこもっている。それで現在、福島市内の町外れに家を建築中だ。
来年2月に完成予定なので、3月には新居に引っ越せるだろうと思っている。
帰村となって村がどうなるかというと、とにかくすぐには暮らせるようにはならないだろうと思う。
農業をやっても食べるものが作れない状況の中では、経済的に立ち行かない。
なかなか先が見えないが、村の方の畑の維持と避難先とを行ったり来たりしながら、二地域居住の生活をしていこうと思っている。

●菅野さんの話を聞いた後で
お話はこの日の夕方お聞きしたのですが、夜は飯舘村と小海町のみなさん達と夕食を共にしながらの交流会でした。
会場のファミリーロッジ宮本屋は、2012年に飯舘と小海の交流が始まって以来ずっと、飯舘のみなさんの定宿になっている旅館です。
宴席のテーブルには、当地産の食材で作られた郷土料理と、飯舘村の皆さんが作って持参した郷土食が並びました。
信州佐久と、福島中通り阿武隈地域の味の饗宴です。
小皿に2品載っていたのは、菅野さんが持参された食用菊〝もってのほか〟を三杯酢で和えたものと、宮本屋さんが用意した”山フジの花”の酢漬けでした。
〝もってのほか〟の牡丹色と、〝山フジ〟の薄紅藤色が美しく、目にも舌にもご馳走でした。
隣の席の菅野さんが言いました。
「三杯酢は砂糖と酢の塩梅がとても微妙なんです。今日持ってきたのは、昨日作ったんだけどちょっと酢が足りなかった。食べた後でほんの少し酢を感じなければダメなんです。酸っぱいと思っちゃうのはダメだけど、でもほんのちょっと舌に酢を感じないとダメなんです」
それぞれの席に載せきれなかった品々が、別のテーブルに並んでいました。
汁のすいとんはコンロで温めて、キムチや他の漬物、デザートの果物や菓子です。
キムチも、デザートのラスクとカボチャのマドレーヌも飯舘村の皆さんが持ってきたものです。
菅野栄子さんが言いました。
「デザートやキムチも食べてくださいね。キムチはヒロシの味だから、どんなかわからないけど」(栄子さんは甥の菅野さんを、「ヒロシ」と呼ぶのです)
それを聞いた隣席の菅野さんは、頭を掻いていました。
私は、松川町の仮設のお店で買った煮豆の缶詰を思い出しました。
あれは、菅野さんのレシピで作られた味だったのです。
そしてまた、菅野さんのイチョウの畑を思い出しました。
原発事故がなかったら、菅野さんはきっと銀杏の加工食品を作っていたのだろうなと思いました。

★飯舘村の皆さんから聞いた話は、まだ続きます。
長くなりますので、別便でお届けします。         

いちえ


2015年12月24日号「12月20日小海町で①」

◎小海町へ
19日に長野のまいまい堂での座談会を終えて、翌20日は南佐久の小海町へ行きました。
『たぁくらたぁ』編集長の野池元基さん、編集委員の戸崎公恵さんと一緒です。
この日は飯舘村の「いいたて匠塾」の方達が来て、小海町のボランティアグループ「八峰村」の方達と一緒に、飯舘村の伝統食〝凍み餅〟を作ると聞いていたからです。
「いいたて匠塾」は、原発事故で全村避難になった飯舘村の食文化を守りたいという思いで結成された、飯舘村で食に関わって来た人たちの集まりです。
「八峰村」は小海町で市民農園を運営して、栽培した酒米で醸造した酒をブランド化したりしています。

◎凍み餅作りを通して続く交流
飯舘村と気候の似ている小海町で、”凍み餅”作りの交流が始まったのは、2011年の9月からです。
〝凍み餅〟はゴンボッパ(和名オヤマボクチ)の葉を餅に搗きこんで、切り分けてから日陰で寒風に50日間ほど晒した保存食です。
「いいたて匠塾」の菅野晢さんが小海町を訪ね、「八峰村」の渡辺均さんに現地を案内され気候条件などを聞き、ここなら凍み餅が作れるということで交流が始まりました。
実際に小海町での凍み餅作りが始まったのは、2012年の1月末でした。
飯舘村からやってきた匠塾の菅野晢さん、菅野栄子さん、渡邊とみ子さんら8人の指導で、小海町のボランティアの人たちが凍み餅を作りました。
その後も小海町と飯舘村の人たちは凍み餅作りでの交流を続け、私が行ったこの日は15回目になる凍み餅作りの日だったのです。

◎ゴンボッパ
凍み餅の特徴は、餅米とうるち米を半々に使うことと、ゴンボッパの葉を使うことです。
ゴンボッパは、晩秋に大きなアザミのような花を咲かせるオヤマボクチのことですが、葉はゴボウの葉に似ていますから、それでゴンボッパと呼ばれるのでしょう。
凍み餅はヨモギの代わりにゴンボッパを使った草餅ですが、搗き立ての餅を雨樋でかまぼこ型に成型して、適度に固まったら1センチほどの厚さに切り分け、稲わらで編んで吊るすのです。
2012年の1月末に匠塾の指導のもとで小海町の人たちが初めて作った凍み餅は、震災から1年目の3月11日を迎える直前に、福島市内の匠塾の人たちの避難先に届けられました。
届けられた凍み餅を食べた飯舘村の人たちの、胸の内を思います。

最初の凍み餅作りに使ったゴンボッパは匠塾の人たちが持参しましたが、これは被災前に採って乾燥させ保存しておいたものです。
飯舘村では、凍み餅用に栽培もしていたのです。
この年の5月、「八峯村」の田植えでは、酒米の他に凍み餅用の餅米も植えましたが、問題はゴンボッパでした。
八峯村の人たちは町内を回って自生地を探しあて、移植し、種を採って増やしていったそうです。

◎伝統食のバトンタッチ
村長が帰村宣言をしている飯舘村ですが、村民の多くは帰らないと言っています。
放射能が降って、帰りたくても帰れない故郷になってしまったからです。
核災害は大地や山、川など自然環境を汚染するばかりではありません。
そこで育まれた暮らしや文化、食や住の知恵、芸能や人間関係など故郷を根こそぎにしてしまうのです。
冬の冷え込みが厳しく寒風が吹きさらす山里の伝統食、〝凍み餅〟は保存食であり、また飢饉の時の救荒食でもあったと聞きます。
被災の翌年から始まった小海町での凍み餅作りは、一過性の支援活動ではなく継続されています。
最初は飯舘村の人たちの指導のもとに小海町の人たちが作り方を習い、一緒に作ってきましたが、回を重ねるうちに飯舘村の人が来てから一緒に作るだけではなく、小海町の人たち自身でも作り、飯舘村の人が来た時にまた一緒に作っているのです。
でも伝統食は、ただ材料を調達して作り方の手順さえ会得すれば、それで受け継がれるものではありません。
繰り返し、繰り返し作り続けることで、どんな条件や状況のなかでも、同じように作れるようになってこそ伝統食となるのでしょう。
この日も「いいたて匠塾」の菅野栄子さんは、茹でてあったゴンボッパをちぎってみて「まだ固いな。もっと柔らかくゴンボッパの糸(葉裏の白い糸毛)がふわーっとなるようになるまで茹でないと。もうちょっと長く茹でた方がいいな」と言いました。
多分乾燥したゴンボッパの手触りや、その日の気温や、作る量や、諸々の条件で
何かを増やしたり減らしたり、時間を長くしたり短くしたりといったような、微妙な違いがあることでしょう。
文字で書き表せるレシピではない、体が覚える経験レシピのようなものといったらいいでしょうか。
経験レシピは、作り続けることによって会得されるものなのでしょう。

餅米とうるち米を粉にして、そこに茹でたゴンボッパを手で千切り入れて、よく混ぜて蒸します。
外に用意された臼に、蒸しあがった材料を入れると、飯館から来た男性たちが杵をつき、小海町の女性が臼のなかの餅を返します。
杵つく人は交代で、時には小海町の男性陣も代わります。
この日、”街の駅”の台所では、こうして凍み餅が作られました。

夜の交流会で、〝いいたて匠塾〟の菅野晢さんが言いました。
「飯舘の伝統食の凍み餅が、こうして小海町の皆さんの手で作られるようになって、これからは凍み餅が小海町の特産品になって町おこしの一助になるようにしていってください」
そして交流会の最後に、〝八峯村〟の渡辺均さんが言いました。
「初めは支援活動として取り組んだ凍み餅作りでしたが、回を重ねていくうちに小海の私たちが元気づけられ学ぶことも多くありました。そして今また菅野さんの言葉で改めてそのことを強く感じました」
この日は”いいたて匠塾”の人たちは乾燥させたゴンボッパを、どっさり持ってきましたが、それは避難先の地で栽培したものです。
絶やさない思いを抱く人がいて、受け継ぐ人がいて、伝統食はバトンタッチされていきます。

渡邊とみ子さん(〝かーちゃんのちからプロジェクト〟代表、いいたて匠塾)の指導で、秩父農業高校の生徒たちによっても、凍み餅は作られています。
秩父農業高校でも被災の翌年から続けられていて、ゴンボッパの栽培もやっています。
野にある草を大地の恵みと戴いて食べ物にし、気候の助けを借りて保存食にしてきた先人の知恵は、こうして受け継がれています。
帰れない故郷ですが、凍み餅が故郷の味を伝え、故郷への思いを抱く心を繋いでいってくれることでしょう。                   

いちえ


2015年12月23日号「12月19日長野で」

◎オフィスエム新企画
19日(土)に長野市のまいまい堂で、「戦後70年の女たち」と題しての座談会が持たれました。
発言者は坂田雅子(映画監督)、纐纈あや(映画監督)、野沢喜代(フリー・ディレクター)、野池道子(沖縄を感じる会主宰)、寺島純子(編集者)、そして私の6人でした。

企画したのは、永田町や霞が関の”男社会”による政治に対して常々異議を唱えている、オフィスエムの村石保さんです。
2011年7月に「脱原発ナガノ・2011フォーラム」の一環として、オフィスエムの企画で【女たちの3.11 それでも、私は命を繋いでいく】と題してのシンポジウムが開かれたことがありました。
発言者は坂田雅子さん、纐纈あやさん、私の3人で、司会は寺島純子さんでした。
その日の発言は、オフィスエムからブックレットで出版されています。
この時に村石さんは、「…今回の原発事故は、戦後この国を司ってきた男社会の責任だと思っています。…」と言いましたが、この度の【戦後70年の女たち】もまた、
「2015年、安保法案をはじめ、この国はかつてない危険な状況に陥っている。
まさに”男的”な政が最も突出した年でもあった。」と言う村石さんの発案に大いに賛同して、私たち6人が集ったのでした。

◎自分の言葉で語る
座談会に当たって村石さんから提起されていたことが、一つありました。
それぞれが、このタイトルでの座談会に臨むにあたってのキーワードを一つ考えてくるようにということでした。
もとより何か結論を出すことが目的の座談会ではないのですが、それにしても41歳から70歳までの、それぞれ生きてきた軌跡もまったく異なる6人での座談会です。
村石さんの司会で各自がキーワードを披露し、なぜその言葉を選んだのかを話すことから始まりました。
あやさんは祝島の撮影で体験したことを語り、沖縄で生まれた道子さんは子供時代を東京で過ごしましたが、中学入学時に沖縄に戻り、それから今までを語り、喜代さんは取材で出会い感じたことを話し、純子さんは両親やそのきょうだいたちを、雅子さんもまた撮影で訪ねた各地でのことを語り、「引き揚げ」をキーワードにした私は、親のことなどを話しました。
それぞれが、ネットや本の情報ではなく自身が聞いたり見たりしたことを、自分の言葉で語り合いました。
互いに「聴き合う」という豊かな5時間でした。
いずれオフィスエムから、この時のまとめが出版されることになっています。
その折にはまた、お知らせいたします。

◎道子さんの沖縄
話しても話しても、話したりない私たちでした。
聴いても、聴いても、なおもっと聴きたい私たちでした。
そして道子さんの話は、私たちを強く揺さぶりました。

道子さんは首里高校卒業後は東京の短大で児童福祉を学び、卒業後は住み込みでお手伝いさんの仕事の傍ら中国語を学びました。
そして中国との国交が回復した時に、北京の日本大使館に駐在する家族のベビーシッターとして同行し、2年4ヶ月を北京で過ごした後に沖縄に戻り児童書専門店「夢空間」を始めたのです。
石垣島の白保に空港建設の話が持ち上がった頃には、「夢空間」が空港建設反対運動の拠点の一つになりました。
そこで出会った長野県のリンゴ農家の男性と結婚して、長野に嫁いだのでした。
2013年に長野で、映画「標的の村」の上映会がありました。
上映実行委員の一人だった道子さんは、故郷の現状を見て矢も盾もたまらず、沖縄へ帰り同胞と共に闘いの戦列に加わりたいと思い詰めました。
離婚を覚悟で家族に相談すると、息子たちも夫も姑も快く道子さんの思いを理解してくれて、離婚はせずに長野と沖縄を行き来しての、”沖縄”の語り部としての道子さんの活動が始まったのです。
沖縄にいる時は現地の情報を集め、辺野古や高江の座り込みに参加し、また、かつての”夢空間”のように誰もが集える場を作って仲間作りをしています。
ブルーベリーや桃、リンゴなどの収穫期には長野で過ごしています。
そして「沖縄を知ってほしい」と、長野県内ばかりでなく請われれば何処へでも出かけて、「沖縄を感じる会」を開いています。
また沖縄にいる時には、本土の人たちに実際に現地を訪ねてもらおうと、沖縄ツァーを企画してもいます。
道子さんの話を聞いた座談会終了後には、もうみんなで沖縄へ行く相談がまとまっていました。

その晩は飯綱にある村石さんや道子さんの知り合いのお宅に泊まりましたが、そこでもまた夜更けまで、座談会の続きを語り合ったのでした。

◎「野池道子さんの沖縄を感じる会」第2回へのお誘い
以前にもお伝えしましたが、年が明けてからの1月23日(土)に、第2回「沖縄を感じる会」を催します。
時 間:14:00〜16:30(開場:13:30)
場 所:セッションハウス・ガーデン
参加費:大人:¥1500 大・高校生:¥500 中学生以下:無料
申し込み:090−5393−3716 または E-mail:iwatanabeoffice@yahoo.co.jp
申し込み受付は、2016年1月4日(月)より。
お申し込みの際にはお名前、人数、連絡先をお知らせ下さい。       

いちえ

沖縄を感じるVol.2-6


2015年12月14日号「常岡浩介さん講演」

12月5日(土)に、「色川フォーラム」の主催で常岡浩介さんの講演がありました。

◎色川フォーラム
色川フォーラムは、東京経済大学の色川大吉先生のゼミナールOBを中心に、1995年につくられた市民歴史研究グループです。
色川ゼミには「ニセ大学生」が自由に出入りしていたそうですが、その伝統を受け継いでゼミOBにとらわれず一般に呼びかけられ、私も会員の一人です。
作家たちの著作や映画から現代史を読み解く講座が定期的に持たれ、、またその時の情勢に応じての講演会が開かれてきましたが、今回は【イスラムとの共生はあるか ーパリ同時テロの意味を探るー】と題して催された緊急!特別講演会でした。

◎緊急!特別講演会【イスラムとの共生はあるかーパリ同時テロの意味を考えるー】
フランス・パリで同時多発テロが発生してイスラム国が犯行声明を出し、事件はイスラム過激派の犯行と断定されました。
2011年9月11日のニューヨーク・ワールドトレードセンタービルの爆破から始まったイスラム過激派による爆弾テロは、米国のみならずヨーロッパ諸国をターゲットに広げられています。
私たちは、イスラムをどう捉えるか。
イスラムを敵視することから新たな時代は生まれるのか。
イスラムとの共生はあるのか。
これらの問題を考えるために、現代イスラム世界に通じている常岡浩介さんを講師に、開かれました。

常岡浩介さんプロフィール
1969年、長崎生まれ。
1998年よりフリージャーナリストとしてチェチェン・ロシア問題を取材。その後イスラム世界の取材を続け、2010年アフガニスタンでイスラム過激派の人質となり、157日後に解放される。
2014年、北大生のイスラム国参加支援を口実に、公安警察から家宅捜査を受け、ビデオカメラ、スマートフォンなどずべての取材機材を押収され、その結果取材は中止に追い込まれた。
近著に『イスラム国とは何か』(旬報社刊)がある。

◎問題は、ISよりもシリア
常岡さん自身の使用言語は英語、ロシア語、ペルシャ語で、アラビア語はできない。東アジアが自身の活動エリアだと自覚していて中東専門ではないので、どちらかといえば「イスラム国」は苦手だが、と前置きして話を始められました。

パリでテロが起き、またISが犯行声明を出したことから各国も、メディアもISだけを問題にしているが、むしろISよりも大きな問題はシリアだ。
ロンドンにあるシリア人権監視団の調査によれば、2011年1月のシリア内戦後
一般人がどれだけ殺されたかを発表している。
シリア人25万人が殺され、これは今世紀最大の人道事件だが、このうち政府軍によって殺された人は96%にものぼり、ISにより殺された人は1パーセントに満たない。(具体的な人数を記した表が映し出されたのですが、書き写す前に画面は先に進みました)
シリアでは、政府軍による大量殺戮が続いている。
戦闘だけではなく拘束され拷問によって死亡する人も多数にのぼっている。
ISは拘留した人質を殺すなどの残虐行為を、わざと発表して自分たちの恐ろしさを見せびらかすような行為に出るが、シリア(サウジアラビアやイランも)はISと同じように残虐な方法で敵対勢力を殺しているが、ISのように見せびらかさない。
こうした事実に対して日本のメディアは、シリアの一般市民に取材せずアサド政権側からばかりの取材だ。
このような紙面のつくり方は日本だけで、ロシア、中国、レバノンはアサド寄りの取材が多いがそれでもロシアは反体制側からの取材もしている。
12月4日の朝日新聞で初めて、反体制側に取材した記事が出た。
なぜこうした状況になるかというと、シリアの内戦で25万人が殺されていることよりも、テロが自国へ及ぼす影響を重要視しているからだ。
アメリカが、ISを標的にしたシリアの空爆では民間人が251人死んだ。
有志連合により1年1ヶ月以上も空爆は続いている。
ロシアの空爆ではすでに500人以上が殺されている。有志連合とロシアの空爆で殺されたのはISではなく、80〜90パーセントが一般の市民だ。

◎ロシアとトルコ
ロシアはISが全く居ない地を空爆した。
ダマスカスより北方のラタキアにロシア軍の基地があり、ロシア軍のシリア空爆はここから発している。
ラタキアの北方20キロあたりに、トルクメン民族自由シリア軍という穏健派の反体制派の拠点があるが、ロシア軍戦闘機が撃墜される2週間前にトルコはロシアに対して、この地はトルクメン民族なので攻撃しないように言ったがのだが、ロシアはそこにいるのは過激派だと言って譲らなかった。
実際そこにいるのは、’07年にチェチェンを脱出してトルコに亡命し、’13年にシリアに入ってアサドに対する戦いを始めたチェチェン人のジャーナリストでもある司令官と彼の率いる部隊で、イスラム過激派だがアルカイダともISとも協力せず、だが、どちらとも闘わず、アサドへの攻撃をしている。
ロシアはチェチェン人を恐れている。
プーチンが一番恐れているチェチェン人が亡命して、アサド政権を追い詰めている。
ロシアにとってISはどうでもいいことで、プーチンはテロを怖がっていない。
テロが起きた時に政治的にどう対処するかを、知っているからだ。
テロが起きれば起きるほどチェチェンで激しく戦い、そしてプーチンの支持率は上がった。
テロは打撃ではなく利益を上げることを知った。
プーチンにとっての最大の脅威はNATOで、トルコはこの件に関してはNATOの中枢とも言える。
ロシアは、ISは、むしろどうでも良いと考えている。
ロシアはトルクメンチェチェンを攻撃しているのに、ISを攻撃していると言い、メディアは現地に行かずにロシアやアサド政権の発表のままに報道している。

◎シリアに関しては”反米の物語”は通用しない
アメリカは反体制派を政治的に支援したが、その後はイスラム過激派が多いという理由から支援をしていない。
反体制派を訓練してシリアに送りアサドと戦わせているが、アサドとは戦わずISと戦えと教育している。
反体制派の自由シリア軍をテロ組織と言い、アメリカの諜報機関はテロ情報をアサド政権から取っている。
アメリカはアサドと通じている。
シリアに関して言えば、アメリカが何かを”したために”ではなく、”しなかったために”シリアの状況は悪くなったと言える。
国連はアサド政権が化学兵器を使ったと証明できなかったと発表したが、これに対してはアメリカの陰謀とも言われてもいる。
内戦が始まる前からアサド政権の強権支配は続いていたが、自由シリア軍はそれに抗してきた。
日本の世論は、取材の偏りによって現場の正しい認識ができていない。
シリアで起きていることは、ISの残虐行為よりも、アサド政権が一番の問題なのだ。
シリアでアサドを倒したらシリアもリビアのようになるというが、リビアは無法状態だが毎年何万人もが死んではいない、殺されてはいない。
ISの存在が問題なのではない。
虐殺が続くから市民が絶望してISになるのだ。

◎田中宇さんの国際ニュース解説も
その後の質疑応答も大切なことが多々出たのですが、しっかり記録が取れず、私の頭の中で、まだうまく整理ができていないのでお伝えできません。
昨日配信された田中宇さんの国際ニュース解説(http://tanakanews.com/)の無料版の《イラクでも見えてきた「ISIS後」》には、トルコとロシアのことも書かれているので、これからしっかり読み解いていこうと思います。
それにしても、ごくごく素朴な疑問ですが、アメリカにしろロシアにしろ”誤爆”で
子供や武器も持たない女性など一般市民を殺害するのは、”誤爆”という言葉で言っていいのだろうか?と思うのです。
これは攻撃された側から言えば、テロではないのでしょうか?
パリの事件の後ではトリコロール国旗が大量に売れたそうですが、私はむしろそうした動きを恐ろしく感じます。
一斉に同じ方向に動く、あるいは何か大義をかかげて、その一点で団結する…、人々のこうした感情は海の向こうの話ばかりではなく、日本でも容易に起こりうることのように思えます。

◎『私のかかげる小さな旗』
なかなか本を読む時間が取れずにいますが、10,11月に読んだ中で考える視点を与えられた本を、ご紹介します。

●『「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて』大沼保昭:著/聞き手:江川紹子/中公新書
●『日本占領史 1945ー1952 東京・ワシントン・沖縄』福永文夫:著/中公新書
●『「昭和天皇実録」を読む』原 武史:著/岩波新書
●『新国防論 9条もアメリカも日本を守れない』伊勢崎賢治:著/毎日新聞出版
●『戦後入門』加藤典洋:著/ちくま新書

これらは最近出版された本ですが、再読した本もあります。
●『私のかかげる小さな旗』澤地久枝:著/講談社(2000年10月25日発行)です。
澤地さんは、私が最も尊敬している先輩のお一人です。
この夏、澤地さんが提案された全国で同一日の同一時刻に一斉に「アベ政治を許さない」のスローガンを掲げよう!に賛同して、私も動いてきました。
澤地さんはここで、一人一人が声を上げること、意思表示をすること、一人一人が全国で一斉に行動することを提案されたのでした。
私も、7月18日に「アベ政治を許さない」スローガンを掲げました。
その後、毎月3日の行動が提起されてたときに、私はもう一度『私のかかげる小さな旗』を読み返したのです。
私がこの本を初めて読んだのは15年前、55歳のときです。
以前読んだ時には気付かなかったのですが、この本は澤地さんが70歳の時に書かれたものでした。
今の私の年齢(年が明ければもう一つ重ねますが)の時に書かれたのだと思いながら読み、澤地さんの行動力に改めて畏敬の念を抱きました。
そして、この本が書かれた頃と今と、政治的な状況はなんと似ていることか!と思い、また事態は一層悪くなってきていることを思いました。
私は一体この15年間、何をしてきたのだろうとも思い、暗澹としました。
その間に国会で様々な悪法が可決されることに反対する署名活動、集会やデモにも、出来る限り参加してきたつもりでしたが、何だか今はもう「崖っぷち」という感じがしてなりません。
「アベ政治を許さない!」なんとしても、政治の流れを変えていかねばと思います。

いちえ


2015年12月12日号「12月10日東京地検前」

12月10日(木)は、福島原発告訴団の呼びかけで、東京地方裁判所前で下記の行動があり、私も参加しました。

◆東京第一検察審査会激励行動◆
東電と旧経産省保安院の津波対策担当者計5名について、東京第一検察審査会に申立てをしています。この申立てについても起訴相当の議決をしてくださるよう激励行動を行います。
今年最後の検審激励行動です。
起訴相当議決を求めて、声を上げましょう!
12月10日(木)
12:00~13:00 検審激励行動 東京地裁前
*今回は院内集会はありません。
*福島発着のバスはありません。

◎憤りの声を聞いて!
東京地裁前で、原告団団長の武藤類子さんや他の方たちのリレートークがありました。
憤りの発言を聞いて、私も強く同感した幾つかがありました。
●国道6号清掃ボランティア
国道6号線は日本橋から関東平野を抜けて水戸を通り、福島浜通りを北上して仙台と結んでいる国道です。
福島第一原発事故による帰還困難区域となった富岡消防署交差点から浪江町・双葉町の境までおよそ30kmの区間が通行止になっていました。
2013年6月から、通勤や通院などの目的に限って避難区域の住民は市町村発行の通行証を持参すれば帰還困難区域内の通行が可能になりました。
その後、帰還困難区域内の除染や道路補修が終了したとして2014年9月15日からは、自動車に限り全線通行が可能になりました。
可能になったのは自動車のみで、歩行者、自転車、オートバイなどは不可ですし、自動車で走行する場合も、区間内の駐停車は禁止され国道を外れた道路や施設への立ち入りも出来ません。
走行中は窓を閉めてエアコンは内気循環するように指示されています。

10日の地裁前でのリレートークでは、憤りの報告がされました。
この6号線の清掃ボランティアが相双地区(福島県浜通りの相馬地区と双葉両地区)の学校に呼びかけられて、それに応えた生徒たちによって10月10日にボランティア清掃が行われたのです。
開催前から市民団体などが反対の声をあげていたのですが、それを無視して実施されたのです。
主催は「みんなでやっぺ!! きれいな6国」実行委員会、共催はNPO法人ハッピーロードネットほか地区内の青年会議所です。
後援が国土交通省、環境省や警察署などなどで、協賛には東京電力、東北電力、日本サッカー協会や地方紙2社などが名を連ねています。
私もこの6号線を通ったことがありますが、車の中にいて窓を開けずとも線量計は警戒音を発する区間があるのです。
ダンプカーも繁く往来する道路ですから、子どもらは粉塵を吸い込むことでしょうし、路肩の草むらなどの線量も高いと思われます。
ここまでは私も情報として知っていましたが、この日の報告で、新たに知ったことがありました。
後援している自治体の中には、「被曝の可能性があるなどは、考えていなかった」というところもあったというのです。
また、反対する市民団体に対して、「生徒たちの、ふるさとをきれいにしたいという純粋な気持ちを踏みにじる大人の反社会的な態度」などと言って批判するメディアや”文化人”がいたそうです。

●問題の元凶の当事者が?
郡山の中学校で「私たちは福島に何ができるか」ということをテーマに、授業が持たれたそうですが、「廃炉、除染、風評被害」の3点について子どもたちが考えるよう意図されたもので、学校の教師ではなく外部の講師が指導しての授業でした。
”外部からの講師”は、なんと!、東電と日立の人間だったそうです!
報告者も憤りを持って伝えてくれましたが、聞いていて私も、こんなことがあってもいいのだろうか?と、ハラワタが煮え繰り返るようでした。

他にも聞き捨てならない報告が伝えられ、また検察審査会に、起訴相当の議決を求める激励スピーチもされました。

◎支援団発足のつどい
福島原発告訴団が2012年に行った告訴・告発事件は、検察庁により二度にわたる不起訴処分を受けました。
しかし、東京第五検察審査会は二度に絵渡り起訴相当の議決をしました。
被疑者、勝俣恒久、武黒一郎、武藤栄の3人は、「強制起訴」になりました。
これからの長い法廷闘争に向けて、この裁判を見守り支えるために「支援団」を立ち上げます。
東京電力福島第一発電所事故の真実と責任の所在を明らかにするこの裁判は、原発社会に終止符を打つために、非常に重要な意義を持っています。
「支援団」発足の集いに、ぜひお集まりください。

【福島原発刑事訴訟支援団 1・30発足の集い】
日 時:2016年1月30日(日)
場 所:目黒区民センターホール(目黒区目黒二丁目4番36号)
時 間:14:00〜16:30(開場13:30)
主 催:「福島原発刑事訴訟支援団」準備会
連絡先:080−5739−7279(福島原発告訴団)             

いちえ 


2015年12月12日号「辺野古からの報告007」」

沖縄の浅井さんから、キャンプシュワブ、ゲート前の報告が届きました。
http://o-emu.net/blog/sanchoku/
「産直ドロつき通信WEB版」                

いちえ


12月11日号「12月9日南相馬」

◎廃品回収の軽トラで
7日の夕方、再開した「いととんぼ」へ寄りました。
志賀さんと渡部さんが店番をしていました。
志賀さんは小浜の自宅が津波で流され、鹿島区の仮設住宅で過ごしていましたが、萱浜の六貫山の集団移転地に家を新築し、5月に引っ越しました。
秋に新居をお訪ねしましたが、明るく瀟洒なお家です。
小浜にいた時には息子夫婦と二人の孫娘も一緒に暮らしていたのですが、原発事故で息子たちは避難しました。
突然の避難生活で大好きなおばあちゃんと別れて暮らすようになったことや、転校などが引き金になったのでしょうか、上の孫娘は心を病み拒食症で入退院を繰り返すようになりました。
最近はだいぶ落ち着いて元気になり、入院先の院内学級で学んでいます。
志賀さんは、今は夫婦二人の暮らしです。

渡部さんの自宅は江井でしたが津波で半壊しました。
原町区に家を借りて、みなし仮設住宅(借り上げ住宅)暮らしとなりました。
高齢のお姑さんとご夫婦の3人でそこに暮らし始めたのですが、渡部さん夫婦が昼間勤めに出ていた間に、お姑さんは自らの命を絶ちました。
江井の自宅は窓を開ければ、向こうに海が見えました。
息子夫婦が勤めに出ている日中は、お姑さんは畑に出て働いていたのです。
けれども事故後の、街中での避難生活では、窓を開ければすぐ隣の家が覗けるので開けられず、閉じていればお隣との境の狭い空間の上にわずかに空が見えるだけ。
畑はおろか庭さえもありません。
テレビを見て過ごすしかなくなってしまいました。
そんな日々に、お姑さんは希望をなくしてしまったのでした。
その頃の渡部さんはビジネスホテル六角で働いていましたから、直後に顔を合わせた時になんと言葉をかけて良いのか、私も辛かったです。

この日の「いととんぼ」の店番は、その志賀さんと渡部さんでした。
帰りしなに志賀さんが大留さんに「ダンボールが溜まっているんだけど」と言い、大留さんは8日は都合が悪いので9日の朝に取りに行くと返事をしたのでした。
この廃品回収は産廃運動の資金捻出のために大留さんが始めたものですが、産廃処理場の建設は許可取り消しになってからも続けています。
残務費用捻出のためだけではなしに、紙や他の資源ごみを回収してくれるのでみんなが大留さんを頼りにしているのです。
9日朝、まず軽トラの荷台にすでに積んであるダンボールを積み直して、その上に六角の裏に置かれたペットボトルや缶を積み、それから志賀さんの家へ向かいました。
大留さんは志賀さんの新居を訪ねるのは、これが初めてです。
「いやぁ、いい家ができたねぇ。二人だから、これくらいの大きさでいいんだよ。まだ広いくらいだよ。よくできてる家だよ」
若い頃に土木工事を仕事にしていた大留さん、しっかり普請された志賀さんの新居を褒めていました。
そして物置からダンボールを運び出して軽トラに積みましたが、まぁその量の多いこと!
きっと引っ越しで出たものだったのでしょう。
荷台にダンボールを山と積み上げた軽トラで、私はバス停まで送ってもらいました。

◎大原
●千葉さん
バスは南相馬から飯舘村を抜けて川俣町を通り、福島へ向かいます。
南相馬の外れ、その先は飯舘村になるあたりは南相馬市原町区大原です。
この上空を北上して放射能は飯舘村に流れたのでした。
山間部なので、大原も放射線量が高い地域です。
震災の年の秋に訪ねた千葉さんのお宅は原発から30キロ圏外にあって、事故後の支援は何も届かず、そのことを憤って話してくれました。
ご主人は森林関係の仕事だと言いましたが、原発事故でその仕事もできなくなったとも言いました。
その2年後に再訪したら無人になっていて、台所の裏手から猿の群れが逃げていくのが見え、庭はイノシシが荒らした跡がありました。
千葉さんは、どこへ越したのかわかりません。
ご夫婦とも元気でいて欲しいと思いますが、それも判りません。

●村上さん
千葉さんの家からさらに先に、村上さんの家があります。
村上さんの家を訪ねたのは、2012年の7月末でした。
放射線量が高く帰宅困難区域なので普段はそこに住んではいないのですが、相馬野馬追の祭事のために戻ったときに訪ねたのです。
原発事故が起きる前は村上さんは、その家で高齢の母親と自分たち夫婦、息子夫婦と二人の孫の7人で暮らしていました。
事故後母親は市内の施設に預け、息子たちは仙台に避難しました。
村上さん夫婦は原町にアパートを借りて住んでいます。
村上さんも息子さんも、野馬追いの騎馬武者として出陣するために自宅に戻っていたのです。
原発事故の後、自宅で飼っていた馬は栃木県の牧場へ預け陣羽織などの衣装や鎧、兜も親戚に預けました。
朝早くにお宅を訪ねて、出陣の準備を見せてもらい、出陣式から祭場への出馬の様子、祭場での神旗争奪戦での息子さんの活躍も見ました。

それから後、南相馬へ行くたびに無人の村上さんの家の前を通り、どうしていらっしゃるか気になっていました。
たまに車が止まっている時があると、「あ、今日は何か用事があって戻られているんだな」と思って過ぎました。
そのうちに人づてに、息子たちは仙台から戻らないが、夫婦は市内に新たに家を建ててそこで暮らすようになったと聞きました。
それが今回、7日に南相馬へ向かう時に馬小屋に馬がいるのを見たのです。
見間違いだったかと、9日に帰りのバスの窓からしっかり目を凝らしました。
間違いなく馬がいるのです。
除染が済んだというので、預けていた馬を引き取ったというのです。
新居は町場なので馬を飼うわけにはいかず、自宅に連れ帰った馬の餌やりに、村上さんが毎日通っているというのです。

それを知って、とても複雑な思いでいます。
前日の同慶寺【大地といのちの祈り】で、徳雲さんは東日本大震災と原発事故で多くのいのちが失われ、さらに安保法制強行採決によって戦争への道が開かれてしまった今、大地と人だけではなくすべてのいのちのために祈りたいと言いました。
すべてのいのちのために、と。
村上さんの愛馬は、育った馬小屋に帰ることができ、餌を与えに来てくれる主人と毎日触れ合える、それは馬にとって大きな喜びだと思います。
けれども除染したとはいえ、周囲は山ですから線量が下がっても一時的なことです。
馬にはそうした思考はないでしょうが、被曝をしても慣れ親しんだ環境を取るか、被曝を避けて他人の居候として生きるか、二者択一で前者を取ったということです。
きっと、村上さんもどれほどか悩んだことでしょう。

◎飯舘村
飯舘村は村長の考えで、来年をめどに帰村の計画で進められています。
すでにセブンイレブンは開店していて、除染作業員たちはお陰でここでお弁当や飲み物を調達できます。
その近くには木造で立派な公民館を建設中です。
数日前には商工会の職員たちを集めて、来年から戻って仕事をするようにと言ったそうですが、若い女性職員の中には「帰りたくないと」と泣き出す人もいたと言います。
9日付朝日新聞福島版の記事に、「飯舘村勤務 最大6,31ミリシーベルト 昨年度被曝線量「見守り隊」など実測」の見出しの記事が載りました。
全村避難する飯舘村に避難先から通って働く村民の昨年度の被曝線量は年0,22〜6,31ミリシーベルトだったことが約300人の実測値からわかったといいます。
調査対象は、村内の留守宅の状況を一軒一軒確認して回る「見守り隊」213人と村内で営業している事業所で働く約60人、村役場本庁舎で働く村職員22人ですが、屋外で働く人の方が線量が高いと書かれていました。
来年の帰村を目指している村長は、小学生も戻したい考えのようです。
実際には戻りたい村民は少なく、特に若い世代は戻らないでしょうが、一人でも戻る子どもがいたら、その子のために小学校を新設すると言っているとも聞きました。
「アンダーコントロール」と言った政権の、言いなりの村政です。
そこに自治はあるのだろうか?と、思います。

◎こんなことがあっていいのだろうか?
8日に同慶寺からビジネスホテル六角まで、徳雲さんの車に乗せていただきました。
徳雲さんはお通夜があって原町の方へ行かれるとのことでしたから、同乗させていただいたのでした。
その時に聞いたことです。
小高の農家の96歳の方が亡くなって、そのお通夜で出かけられるとのことでした。
とても真面目な農業一筋の方で、小高に戻れる日のためにとせっせと片付けに通ったり、畑地の草取りなどもなさっていたそうです。
以前は13人の大家族で暮らしていたのですが、原発事故後は5カ所に分かれての暮らしになっていました。
そんな暮らしが続く中で、気持ちも持ち堪えられなくなっていったのでしょう。
自然死ではなく、自ら早めた死だったそうです。


2015年12月11日号「12月8日南相馬」

8日は午後1時から小高区の同慶寺で、デニス・バンクス(ナワカミック)さんを迎えて『大地といのちの祈り』という会が催されました。

◎これからはナワカミックを名乗る
デニスさんはこれまでにも何度か来日されていますが、3・11後は被災地や他の地を訪ねてスピーキングツァーを重ね、今回は4回目のスピーキングツァーです。
私は先月の16日に東京のスタッフたちが開いた会にも参加しましたが、
その時に、これからは”デニス・バンクス”ではなく”ナワカミック”と名乗ると宣言されたのです。
アメリカの歴史の中で、インディアン(ネイティブ・アメリカン)の人たちは、土地を奪われ、言葉を奪われ、改宗を迫られ、非常な迫害を受けてきましたが、名前も奪われてきたのです。
子どもたちは親から引き離されて寄宿舎のある学校に入れられましたが、その時にアラスカ風のデニス・バンクスという名前にされたそうです。
親がつけてくれた名前は、ナワカミック。
中心に立つというような意味だそうです。
私の中ではアメリカの先住民族の歴史は、チベットや朝鮮半島、沖縄の人々の姿と重なります。
アメリカ先住民について書かれた本は数多くあり、私の書棚にも100冊ほどが並んでいます。
『わが魂を聖地に埋めよ』など闘いの歴史を記したものや、『ローリング・サンダー』のような先住民の精神世界について書かれたものなどですが、どの1冊からも学ぶことが多いのです。
デニス・バンクスさんの『死ぬには良い日だ オブジエ族の戦士と奇跡』も、その1冊です。(本の出版時2010年には、まだナワカミックを名乗っていませんでした)
ナワカミックさんは”レッドパワー”のリーダーとして有名ですが(1968年にAIM”アメリカインディアン運動”を結成して、アルカトラス島やウーンデッドニー占拠など)、1978年にはサンフランシスコからワシントンDCまでの大陸横断平和行進「ザ・ロンゲスト・ウォーク」を成功させ、インディアンの生きる権利を奪う11の法案を退けました。
その後も2008年、2011年のロンゲストウォークを通じて、世界中に環境保護や平和へのメッセージを伝えています。
同慶寺への訪問は、これで3度目です。

◎小高区同慶寺
ナワカミックさんを囲んでの【大地といのちの祈り 福島 2015】が開かれた同慶寺は、相馬中村藩の歴代藩主の菩提寺です。
樹齢を重ねた木立の中に本堂や霊堂、鐘撞き堂があり、境内には累代藩主の墓碑が並んでいます。
ご住職の田中徳雲さんはもともと原発問題や放射能被害についての知識もあったので、地震の後すぐに原発の危険性を感じてすぐに家族を連れて、まず福島市から会津若松に避難し、そこから長野を経由して福井に落ち着きました。
7歳、5歳、3歳と3人の子どもの父親でもあった徳雲さんは、そうやって家族を避難させましたが、地元福島のことも気がかりで単身福島に戻り、それから福島と福井
を往復する日々を2年間続けました。
被災から2年後の2013年に奥さんの実家のあるいわき市に家族で戻りましたが、徳雲さんは信徒の方たちと毎月2回の清掃活動や法事などで、度々お寺に戻られています。
私が同慶寺を訪ねるのも徳雲さんにお目にかかるのも、これで3度目です。

◎「大地といのちの祈り」
朝は霜で真っ白なほど冷え込みの厳しい日でしたが、本堂には何台もストーブが置かれて板敷きの広い部屋の中も暖かでした。
参加者は50人ほどだったでしょうか、小高の方ばかりでなく県内各地から、また高崎や、私以外にも東京からなど遠方からの参加者もいました。
●徳雲さん
徳雲さんのお祈りの後で参加者全員で般若心経を唱えて会は始まり、最初に徳雲さんが話しました。
この日はメモを取らなかったのでお話の内容を詳しくはお伝えできないのですが、今も依然として大気を汚染し、海にも汚染水は漏れ続けているのに「アンダーコントロール」などと言って世界を欺き、また9月19日には「安保法案」を強行採決したアベ政権に対して、反対の声をあげていきたいと話されました。
自分の欲のためではなく、すべてのいのちを大切にする世界を作りたいと。
徳雲さんが話したのは、私がこうして文字で記したにべもないような表現ではなく、しみじみと心にしみる言葉でした。
●ナワカミックさん
続いてナワカミックさんは、1937年にミネソタ州のオブジエ族居留地リーチレイクに生まれてからの出来事を話しました。
自身の身に起きたことばかりでなく第二次大戦やその後の世界各地での戦争、ウラン採掘のために被害を受けた人々や大地を、また広島、長崎、チェルノブイリ、福島を語り、それらの災禍が多くの人を殺し、母なる地球を酷く苦しめていると言いますが、今回のツァーではそれらの出来事を語るのではなく、解決策と行動計画を話したいと言い、「stand up」「never give up」「pray」3つの行動を呼びかけたのです。
立ち上がれ、声をあげ訴え、行動せよと言って、自身のアメリカ先住民権利回復運動の体験を話しました。
アルカトラス島やウンデッドニー占拠の体験を話し、「ザ・ロンゲスト・ウォーク」での体験を話し、諦めるな、諦めなければ道は開けると言います。
そして、私たちが守るべきこれまでとは違った社会の枠組みを築こう、「Be of One Mind」心を一つに繋げて祈ろう、7代先の子供たちが戦争と憎しみの足跡を辿らないように、善良なスピリット、ご加護をいただいている神々と慈悲の天使に呼びかけようと言いました。
ナワカミックさんは、母なる地球を守るには女性、母親が大きな力を持っていると言い、母ライオンは子供を守るために戦うが父ライオンは役に立たないと言って参加者を笑わせました。

休憩の後で、ナワカミックさんが持参のドラムを叩きながら歌いました。
オブジエ族に伝わる歌です。
リズミカルな歌に、サンダンスの様子を思い浮かべました。

ナワカミックさんのツァーは、明日12日(土)は高崎市総合福祉センターたまごホールで、18日(金)は神奈川の金沢文庫アサバアートスクエアで、19日(土)神奈川葉山の森山神社一色会館で、20日(日)には東京白金の明治学院大学内アートホールで催されます。
ご興味ある方は、ぜひお出かけください。

いちえ


2015年12月8日号「辺野古からの報告006」

沖縄の浅井さんから、報告が届きました。
http://o-emu.net/blog/sanchoku/
「産直ドロつき通信WEB版」






TOPへ戻る