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2015年3月23日号 トークの会「福島の声を聞こう!vol.18」報告①

大変遅くなりましたが、3月8日に催したトークの会「福島の声を聞こう!vol.18」の報告をお届けします。

◎ゲストスピーカーは同慶寺のご住職
今回のゲストスピーカーは、小高区の同慶寺ご住職の田中徳雲さんでした。
同慶寺は建保年間(1213〜1219年)に創建された古刹で、中村城藩主の相馬家累代の菩提寺です。
苔むした石段を上がり山門をくぐると、樹齢1000年ほどの大銀杏や紅葉の古木の向こうに本堂が、そして境内の杉木立ちの中には26基の相馬家藩主や奥方の墓碑と、明治に至るまでの藩主と一族の位牌を安置した霊堂が一棟在ります。
霊堂は南相馬市指定史跡、大銀杏は南相馬市指定文化財です。
その同慶寺ご住職の徳雲さんは、「今年もまた3月11日が近づいてまいりました。非常に慌ただしくなってきております。一日一日が大事なことに変わりはないので、とりわけ11日だけを大事にするわけではないのですが、5年目ということで、たくさん注目してもらっていますし、振り返りのきっかけであるとも思っています」と、話し始めました。

◎徳雲さんの自己紹介
生誕地はいわき市小名浜。
小・中・高と大好きな野球一筋の少年だったが、いつも補欠だった。
強くなりたい一心で中学の時は片道4キロの道程を走って通ったが、それでも結局補欠だったが、チーム自体は初めて全国大会へ出場するなど好成績を挙げた。
野球部の監督からは、「この3年間で心身ともに自分がどれだけ強くなったか自分でよくわかっているだろうから、高校へ行っても野球を続けろ」と背中を押してもらった。
高校でも野球部に入ったが、上手な人が集まってきていたので自分は間違った選択をしたかと後悔をしたが、途中で止めるという選択肢は持てず、中学であれだけ頑張ったのだから高校ではもっと頑張るのみだと考えた。
それで片道25キロの道を走って通い始めた。(会場から驚きの声と笑い)
おかしいですね。今なら自分でもおかしいと思えるけれど、当時はやってやれないことはないと思っていたし、また高校生だから出来てしまった。
その生活がずっと続いたが、あるとき夜中にものすごい激痛と吐き気が生じ、熱っぽくなり、父が病院に電話すると一刻を争うから救急車を待たずに自家用車ですぐに連れてくるようにと言われた。
病院に着くと、即手術だった。
蓄積疲労で脚の筋が伸びきっているが、寝ている間に筋が元に戻ろうとし、その時に血管や大事な筋を巻き込んで捻れる。
そのために痛みや吐き気、むくみがいっぺんに現れるが、睾丸が近いので生殖器もダメになるかもしれない、大変なことになると言われた。
全治3ヶ月の入院生活だったが、何日か経って学校の先生たちが見舞いに来てくれた。
先生たちは「職員室にはお前のファンの教師が多いから、お前が居ないのを残念に思っている。今の時代にお前みたいなのは珍しいからな」と言われ、また「ここで腐るな!お前みたいなのが、ここで腐ったらもったいないからな。今は心を鍛える時だと思って、しっかり心を鍛えてみろ」と言われた。
そう言われて先生に、心はどうやって鍛えたらいいのか問うと、国語の先生は「野球はピッチャーとバッターの勝負だろう?その真剣勝負の心を宮本武蔵に学べ。吉川英治が『宮本武蔵』という名作を書いているが、きっと学ぶことがあると思うから読んでみろ」と勧められた。
さっそく車椅子で売店に行って、全8巻の『宮本武蔵』の1巻目を買って読んだ。
引き込まれて夢中で読み、寝るのも忘れて一晩で読みきった。
心に残る箇所は赤で傍線を引き、『宮本武蔵』を読んだ。
書かれている登場人物に沢庵和尚がいるが、枠にとらわれず権力にも屈せずスケールの大きいお坊さんの生き方に心惹かれた。
当時高校2年生だったが、世の中にも大人にも魅力を感じていなかった。
大人になるということは、場合によっては自分に嘘をつくことだとも思っていた。
高校で私が好きだった佐々木先生は社会科の先生だったが、「教科書に書かれた通りに覚えると、碌でもない大人になるぞ。教科書に書いてあることの裏を見ることができる大人になれ。ヨーロッパからの移住者がアメリカ大陸を侵略して行った時に、侵略される側の先住民たちの思いを解る人間になれ」というような先生だった。
佐々木先生は職員室では浮いた存在で変わり者だと思われていたが、学校の先生がそういう状態なら一般の会社はもっとそうだろうと感じていた。
そんな時期に怪我をしたことによって”お坊さん”という生き方が目の前に開けて、それならありのままの自分でやっていけるかもしれないと思った。
野球部の仲間やクラスメートに、お坊さんという生き方に惹かれていることを話すと、みんなから「お前、それ合ってるよ!」と言われた。
でも両親は「一般の家庭に生まれながら、何が悲しくてお坊さんになるのか」と大反対で親戚からも反対されたが、祖母だけが「本人のやりたいことをするのが何より。とことんまでやって自分には務まらないと思ったら止めたらいい。やりもしないうちから諦めるな。挑戦しないうちから諦めるな」と言ってくれた。
それから京都の花園大学に入り、卒業後は永平寺で5年間修行した。

◎修行時代
永平寺というと厳しいところだと言われるが、厳しいのはどの社会でも一緒だろう。どの社会も下積みの頃に丁寧に教えるなどはなく、大人の社会は学校の教育と違って教えてなどくれない。

大学時代は長い休みなどの時には、剃髪をしてくれたお師匠さんの寺に住み込んだ。お師匠さんは厳しい方で何も教えてくれなかったが、それが、厳しさは優しさなのだと気づくきっかけになった。
大学3年の夏休みだったが、自分が弟子を取ったらどうしたらいいのかと考えた時があった。
「自分もお師匠さんのように何も教えないかもしれない。教えられたことはすぐ忘れるが、教えられないから一生懸命目で盗んで、それは忘れない」と考えた。
夏休みが終わって京都へ帰る時にお師匠さんへ挨拶に行ったら、「お前は今年の夏は成長したな。その調子でがんばるように」と初めて褒めて貰え、とても嬉しかった。
「あ、これだ。学校と違って大人の社会は誰も教えてくれない、自分で学ばなければいけない」と思った。
「自分で研究しろ、目で見て盗め、職人の社会は特にそうだ」ということを心がけて永平寺に修行に行った。
永平寺では現代っ子の私には目からウロコのことばかりで、永平寺の生活は本当に質素で、昔ながらの生活をしているが、それで十分だということも解った。
修行中は本当の修行ではなく先輩やお師匠さんから、詳しくはなくとも「こういうことをしなさい。ああしなさい」と教えられてまた自分からも目で盗んで真似て、自分のものにしていくが、そういう修行道場での修行は、振り返ってみればとても贅沢で楽な時間だった。
娑婆に出てからは誰も教えてくれない、これからが本当の修行だと言って送っていただき、子どもの無い小高の同慶寺に副住職として迎えて頂いた。

◎強い生き方をしたい
同慶寺で家族として暮らしながら、自分はどういうお坊さんになりたいか考えた。
一つやりたいと思ったことは、昔の人はなんでも自分でできるサバイバルの術、生き残る術を知っていたが、そういう強い生き方をしたいと思った。
現代っ子の自分は、生きるための術を何も知らないと思った。
小高の農家の人たちの暮らしを見ると、鉈一つでなんでも作ってしまうし、小刀が一本あればもっともっと繊細な細かいものを作ってしまう。
そういう生活、なんでも工夫して身の回りにあるもので生活をこしらえていく暮らしを目の当たりにして、自分の暮らしは弱すぎると思った。
良い機会だから畑をやってみようと思い、荒地を借り、鍬より刃が厚く丈夫で石などにぶつかっても刃が欠けない、開墾に必要な道具の万能(マンノウ)を一本買った。
借りたのは荒れた桑畑で、養蚕を止めてから30年ほども手入れされずに放置された所だった。
背丈くらいの高さで太ももほどに育った桑の木が、何本も植わっている畑だった。
先住民は木を切るときに捧げ物をしながら切ると聞いていたので、塩と水そして、「ここで学んだことは必ずみなさんに還元したいと思っているので、今から起きることを、どうか受け入れてほしい」と綴った自分の気持ち書いたものを供え、一本一本に「ごめんね」と挨拶しながら切り倒していった。
チェーンブロックで根を掘り起こしていったが、これは想像を絶するほど大変な作業だった。
そうやって開墾していったが、夏は翌日には草が生え出てしまうので、開墾は冬にする作業だと思った。
そうやって少しずつ畑を増やしてやっていくうちに、ジャガイモはどれくらいの種芋からどれくらいの収穫があるか、豆はどれくらい作ったら枝豆にして食べ近所にもお裾分けをし、味噌を作るくらいの収穫量になるかなどを判っていった。
少しずつ手探りでやっていきながら大体自給自足していくには、一反の田んぼ、一畝の畑があれば一家族が十分に食べていけることが判ってきた。
そのようにして米や野菜を作ってきたが、命をいただくとはどういうことか、自分の手を汚さず肉を食べるのはフェアではないし、自分で育てたものを食べて初めて骨の髄まで有難くいただくことができるのだろうとも思っていた。
そう考えていた矢先に起きた原発事故だった。

◎原子力発電について勉強
永平寺での修行を終えて同慶寺に迎えていただくことになった時、小高は原発が近い地域なので、原発のことを学んでおこうと思った。
知らないでは何も考えられないので、その仕組みや、どういうことが起きたら危険かを知っておこうと、勉強をした。
原子炉は核分裂反応を利用して発電している、大きな湯沸かし器のようなものと例えられる。
原発は燃料が放射能だが、燃焼を利用してエネルギーを抽出するという点では車も同じだ。
だがガソリンを燃料にして車を動かすから、車が爆発して怖いと思う人はいない。
安全性を考えて作られているからだ。
原子力発電所も原子炉自体は十分に工夫されて作られているが、問題は使用済み燃料プールだ。
アメリカで原子力のいろいろな裁判を担当してきたアメリカ人弁護士に、そう教えられた。
使用済み燃料プールは屋根が付いてる水泳プールのようなものだが、そこにはかなりの密度で使用済み燃料が保管されている。
プールの水を循環させることができていれば問題ないが、循環が止まったら非常に危険だ。
アメリカでも何度かそういう事故が起きている。
予備のディーゼル発電機が準備されているが、予備なのでなかなか使用する機会がないから、たまに出番が来ると大抵故障すると、その時に聞いていた。
福島は地震が多いところなので地震が来るたびに、どうか燃料プールが安全でと祈るしかなかった。

◎3月11日
3月11日より前の8日から震度4の地震が、3日間続いていた。
一昨日の地震は止まり、昨日も止まった、今日も止まれよと思ったが止まらず、更に激しくなりガラスが割れ、壁にヒビが入った時点で「ああ、遂にきた。天に任せるほかない」と思った。
が、いつかこうなる日が来るのでは、と予測していた自分もいた。
大津波警報が出て、同慶寺は海抜10m、海岸から4Kmだが、アマチュア無線情報で7メートルの津波という情報がネットで流れた。
それを見て、同慶寺も危ないと思った。
寺が避難所だったのでたくさんの人が避難してきていたが、本堂は余震がひどくて危ないので、みんな駐車場にいた。
その人たちと一緒に山の方へ避難した。
1時間ちょっとした後で寺に戻り、自転車で海の状況を見に行った。
天変地異が起きる時はそういうものかもしれないと後になって思ったが、2月下旬から連日のように通夜、葬式が続いていて、その夜もお通夜が入っていた。
通夜の会場が国道6号線に面して海から2キロのところで、亡くなった人の家も海の近くだったから、その家族や会場の安否を確認しようと思って行った。
海岸線から内陸3キロくらいが、海になっていた。
想像を絶する状況で通夜の会場も浸水していた。
見に行ったのは津波の第3波の後ぐらいだったが、家屋、ヘッドライトが点いたままの車などが海に持って行かれているのを見て、相当に大変なことだと思い、こういう時だからこそ冷静に判断しようと強く思った。
寺に戻ったのが4寺半ごろだったが、ツィッターを確認すると津波情報を流してくれた同じ人が、福島第一原発で津波により電源喪失、予備のディーゼル発電機も浸水し海に流れたことを発信していた。
それを知って、アメリカの弁護士から冷却できなくなった燃料プールは大体24時間で爆発すると聞いていたので、もう24時間のタイマーは作動してしまっていると思った。
それで地元の人たちに、原発が大変なことになっていると話した。
海を見に行った時に6号線が浸水しているのを見ていたが、原発に行くには6号線を通らなければ行けない。
今原発では作業員に収集がかかっているだろうが、6号線は海になってしまっているから作業員たちは原発まで辿り着けないだろうと思った。
地元の人たちに原発が危険なことになっていると話しても、誰も避難した方がいいとは判断せず、「原発は絶対大丈夫」の一点張りだった。
エンジニアや原発建設に携わった人、原発で働いている人もいて原発については詳しい人たちがいるという地域性の中で、危険を発信したが受け止められず、ダメだった。
私は小さい子供が3人居たので、ここで大丈夫、大丈夫じゃないと話していてもダメだ、子供たちを守りたい、子供達を連れてここを離れよう、山の向こうへ行こうと思った。
その日は客人が来ていたので、その人を送りながら福島市まで行こうと思い、客と家族を乗せて着の身着のままで、毛布3枚と食料少々、米とその夜食べるものを持って避難を開始した。
客を送り届け、普通なら1時間で福島に行くのにその夜は渋滞していて3時間かかったが、車にはガソリンを入れていたので避難することができた。

◎避難行が始まった
●会津若松へ
11日の晩は車中で一泊し、2日目の夜中に会津若松の栄町教会に着いた。
そこには「廃炉アクション」の仲間たちが集まっていることをメールで知っていたので、そこを目指したのだった。
「福島の老朽化原発を考える会(通称:フクロウの会)」代表の宇野さんが「避難者の会」の代表となってそこにいて、私もフクロウの会の仲間だった。
フクロウの会では、建設から40年になる福島原発の廃炉を目指す「廃炉アクション」を準備していた時期に起きた事故だった。
早朝3時頃に、今なら移動可能だと思って行動したが、皆さんもなんらかのアクシデントに見舞われた時には、早朝なら渋滞もなく移動しやすいことを知っておくと良いと思う。
携帯電話も、寝ている人が多く利用者が少ないその時間帯なら繋がった。
会津若松で少し落ち着いて態勢を立て直そうと思っていたが、1号機の爆発をニュースで見て、ここは原発から100キロしか離れていないので、もっと離れて日本アルプスの向こうへ逃げようと思った。
●長野県へ
長野県の大町市美麻の友人に電話するとすぐ来いと言ってくれ、夜通し走って13日の夜中に美麻に着いた。
2日間一睡もしていないのですごく疲れているはずなのに、覚醒してしまってその夜は眠れなかった。
両親や近所のお寺などに電話して長野県に着いたことを伝えたら、「逃げ脚が早いなぁと言われた。
自分だけ逃げて済まないと詫びると、「そんなことはない。お前は勉強してきたから、そういう行動が取れた。俺たちは”絶対大丈夫”を鵜呑みにしてきたから、こうなった。自業自得だ。でも、お前は生き延びろ。生き延びていつか帰ってこられるようになったら、戻ってきてまたこっちで活動してほしい」と、一番お世話になっている和尚さんに言われ、涙が溢れた。
当時は福島にとどまることは即、死を考えさせられたし、一方では避難した人たちは後ろめたさを共通して感じている。
家族を避難させていた私自身も、そうした後ろめたさを感じた。
長野県に避難した時点で子供がいる家庭の3家族が合流していて12人になっていたが、地元の区長や消防団が地元集会所を開放してくれ、食べ物、衣類、布団、テレビなどいろいろな支援物資を持ってきてくれて、とても親身にしてくれた。
運んでくれたテレビで、原発の状況もニュースで見た。
母親の一人が区長さんに、ここの飲料水の水源を尋ねると「沢水だから美味しいぞ。ここでは昔から、この沢水を飲んでいる」と答えが返った。
夜になって大人たちで話し合った。
これまでならいいが原発が爆発した今はもう、沢の水は飲ませられないと母親は言い、どうせ避難するなら安心できるところまで避難したいと言った。
その日1日で避難所らしくなったこの集会所を、2日間寝ていない我々で元のように綺麗に戻すのは大変だったが、母親たちはやると言い、また明朝少し早く起きて昼食のおにぎりも作って行こうということになった。
「立つ鳥あとを濁さず」と集会所を元どおり綺麗にして、美麻を発つことを決めた。
翌日になって区長さんたちにお礼の挨拶を言うと、区長さんも「そうか、行くのか。でも、あんたたちの気持ちもよく判る。セッカク避難するなら安心できるところまで避難しなければ嘘だ」と言って送り出してくれた。
私たちは美麻を出るときには、祝島まで行こうかと話しあっていた。
原発に反対しているおばあちゃんたちは、きっと私たちの気持ちをわかってくれるだろうと思ったからだ。
祝島の友人に電話をすると、「島のおばあちゃんたちも喜んで迎えると言ってるから、早く来い」と言われた。
●永平寺へ
車3台で移動していたのだが、3時頃に後ろの車から子供の様子がおかしいと電話があった。
サービスエリアに止まって子どもの様子を見ると熱っぽく、これ以上の移動は無理だと判断した。
そこは金沢だったのでそこからなら永平寺に行こうと思ったが、永平寺の寺そのものは組織が大きいのですぐに受け入れという具合にはならないと思い、門前の宿に電話をすると私のことを覚えてくれていて、「大丈夫。すぐ来い」と言ってくれた。
3家族12人は、そうして13日に永平寺に着いた。
●福井で受け入れ態勢確保
翌14日、福島からの避難者を受け入れてくれる避難所確保のために、2ヶ所の寺を訪ねた。
老僧たちは「福井にも原発はいっぱいあるのだが、そうか、原発はそんなに怖いものなのか」と言い、「判った、避難者を受け入れよう」と言ってくれた。
私は東の原発銀座から西の原発銀座に避難したのだが、『お前には逃げるところはない。自分の問題として考えろ』と、神様から言われているような気がした。
2ヶ寺を回ったあとで福井県庁に行ったのが、3時半くらいの時刻だった。
対応してくれた係りの人から「判りました。受け入れ場所を考えましょうと」返事を貰い、帰ろうとして県庁のロビーを通ると、ちょうどそこでは職員たちが支援物資を仕分けしている様子を、NHKと福井テレビが取材しているところだった。
そこへ飛び入りで「私は福島から避難して昨夜ここに着いた者ですが、メッセージを届けさせてほしい」と頼んだ。
それが6時と9時のニュースで流れた。
すると避難者を受け入れるというたくさんの申し出がテレビ局に届いて、そのリストが宿に届けられた。

◎避難者から支援者へ
●福井から福島へ、福島から福井へ
それまでも毎夜、福島の友人や檀家、門信徒、地域の寺と連絡を取りあっていた。
みんな避難したいが、ガゾリンが無くて動けない状態だった。
いろいろな物資もガソリンも郡山までは届くが、常磐道が通れないためにそこから南相馬へは届かない状態で、南相馬から郡山まで取りに行ければなんとかなるのだが、取りに行く手がない状況だった。
それでなんとかしてガソリンを届けたいと思い、一緒に避難してきた父親たちにホームセンターでガソリンタンクを買い集めるよう頼んだ。
だが福井でも買占めが始まっていて2個しか手に入らず、新品で無くても良いことに気がつき、農家を回って農繁期までには必ず返す約束をし、タンクには貸主の名前を書いて借りて集めた。
農家では農機具に注油するのに使うため、2個、3個持っている家もあったので、たくさん集めることができた。
それらのタンクにガソリンや軽油、灯油をいっぱい詰め、食料や簡単な医療用品、オムツ、生理用品などを買って、運んだ。
福島を出たもののガソリン不足で途中で立ち往生してしまった家族たちと携帯で連絡を取り合って途中で会い、彼らが新潟まで行けるだけのガソリンを入れてやり、
新潟に行けばそこで10リットルは入れてもらえるから後は自力で福井まで行くように言って、自分は福島へ向かった。
運んできたガソリンや物資を福島に届け、また福井に引き返し、福井まで辿り着いた人たちと抱き合って再会を喜んだが、まだまだ福島から出るられずに残っている人たちがいたので、何度もそうやって福井=福島を往復した。
何度も往復したが、行って戻るのではなく、福島で活動しなければダメだと思えた。
●福島での活動
福島の避難所では緊急時の対応が必要となっていた。
ボランティアも大勢入っていたが、避難者みんなに等しく物資が渡らず、また外に向けてSOSを発信しやすい人は支援が届きやすいが、一人で生活している人や引っ込み思案の人などはケアが必要だった。
お寺の役員からは檀信徒の中にもそういう人はたくさんいるから、それらの人をケアして欲しいと言われ、そうしようと覚悟を決めたが、正直に言えば爆発後の福島で長期間活動することは少し怖かった。
初めて避難所に行ったのは3月24日だったが、やはり「お前、今頃になって何しに来たんだ」と言われた。
「済みません。子どもたちを守るのは私しかいないので、彼らを避難させました。彼らも避難先で少し落ち着いたので、私はこちらで活動するのに混ぜてもらいに来ました」と言って、入れてもらった。
お父さんたちは強く当たってきたが、おばあちゃんたちは「徳雲さん、お茶でもいっぱい飲みなさい」などと言ってお茶を入れてくれた。
でも、その水はどこの水か?安全か?などと思いながらも、断ることはできずに飲んでいた。
同じことをし、同じものを食べて分かち合いたいと思ったが、そういうことの繰り返しだった。
そうやって少しずつわだかまりが溶けていき、「和尚は一度は離れたが、また戻ってくれた」と信頼関係を取り戻していった。

*徳雲さんのお話は、まだ続きます。
長文になりますので、続きは後刻別便でお送りします。        

いちえ


2016年3月18日号「南相馬、3月12日」

10日の朝刊一面トップの見出しの大きな文字、「高浜原発3、4号機差し止め判決」を見て、紙面を開く時間もなく家を出ました。
新聞は家人が読むだろうからと置いて出たので、東京駅の売店で買い、車中で読みながら行きました。

●仮設住宅で拾った声
5年前の事故が収束できないまま復興の声ばかりで、被災者の暮らしは置いてきぼりにされているようだと、誰もが言っていました。
差し止め判決のニュースについては、それが当たり前の判断だと言い、判決が覆されるようなことは、絶対にあって欲しくないの声ばかりでした。
他にもこんな声を聞いてきました。

「ガンばっかり。あれから友達や知り合いで、ガンになった人が多いよ。影響はないなんて言うけど、絶対に影響はあると思うよ。
3月12日に避難して一週間ばかりして家に戻ってきた時、外にいると喉がヒリヒリ痛くなったもの」(原発から20キロちょっと外れに家がある人)

「泥棒が人の家に入って何か盗めば罪になるのに、何万人もが家に住めなくなったのに罪にならないなんて、おかしい」

「天災(津波)が原因だって言ったって、津波で家が流されてもその人(家が流された人)は他人に迷惑かけてないでしょ?東電は何万人もに迷惑かけてんだよ」

「避難解除の後の生活? 今はまだ、どうなるか決められないね。毎日、今日のことだけ考えてる。朝起きると毎日、とりあえず今日はこうしようって思うだけ。そう、とりあえずの毎日だね」

「浪江にコンビニができたって、土・日は休みでしょ?作業員のためのコンビニだから、自宅の片付けに行くにも土・日しか休めない住民は利用できないんですよ」

●バスの窓から
飯舘村では解体を希望する家屋の解体が、既に始まっています。
一応除染してから解体するのですが、解体した家屋の資材を積み置く場所ができていました。
それらはどう処理されていくのか、気になるところです。
行きにはなかったのですが、帰りには道路際に一軒の新築住宅が展示されていて、ヒラヒラと旗がはためいて、背広姿の男性が数人、道路に向かって笑顔で立っていました。
積水ハウスの住居展示でした。
周囲には除染物を入れたフレコンバックが、野積みにされているのです。
現実の光景とは思えない、不思議な光景でした。
今は無人になった村の椏久里珈琲店のブルーベリー畑は、イノシシが掘り返した跡で土がそこここに盛り上がっていました。
村長が帰村宣言をしたら、こうした村に学校が戻るのです。
子供達は近隣の仮住まいから、村内の学校に通学するようになるのです。

●タクシーの運転手さん
南相馬に行く時は、行きか帰りに福島市で再開している椏久里珈琲店に寄ることがあります。
今回は帰りに寄りました。
福島駅からタクシーで向かいました。
乗っている間の運転手さんとの会話です。

運:「飯舘村とか浪江とか、みんな賠償金もらってんだろう。毎日パチンコに行ってるとか、浪江の奴は女に入れ込んで賠償金全部つぎ込んだとか、いろんなこと聞くよ。椏久里も店を新しくしたんだってな。賠償金で儲かってんだろう。真面目に働いてる俺らが馬鹿らしくなるよ」
私:「原発事故で、暮らしの全てを奪われてしまったのですからね。浪江の人たちも津波で家を流された人は、原発事故の前に家は流されていたからと、建物についての賠償は全くないんですよ。賠償金の出し方はおかしいですね。福島市内も放射線量の高いところはあるのに、そこには出ていないですね。同心円で区切ったり、区域外の被災者を対象から外したりするから、いがみ合わなくてもいい人たちがいがみ合ったりしてしまうんですよね」

運転手さんは、初めはいかにも苦々しげな口調だったのですが、言いたいことを言ったので少し気が晴れたのでしょうか。それとも私が福島市の人も被害者だと言ったので気が晴れたのでしょうか。
口調が柔らかになって、こう言いました。
運:「あの店は自分のとこで焙煎してるのかい?」
私:「そうですよ。飯舘の店から持ち出せなかった機械もいろいろあったので、また新しく揃えて、福島市内での再開だったんです」
運:「ふ〜ん。自分とこで焙煎してんなら、コーヒーもうまいんだろうな」
私:「ええ、とっても美味しいですよ。今度時間があるときに行ってみてください」
運:「ああ、行ってみよう」

椏久里の椅子にかけてコーヒーを注文してからタクシーの運転手さんとの会話のことを話すと、「2、3日前に、地区ごとの賠償金額が新聞に出たのよ。それを読んでいれば被災者たちに入ったお金のことしか判らないから、避難生活のせいで出ていったお金や失ったもののことなど判らないから、そんな話になっちゃうんでしょうね。」と、言葉が返りました。
核被害者同士が気持ちを分かってしまうことなく、被害をもたらした者への責任追及を共にやっていくようにしなければと、改めて思いました。

*遅ればせの3月の南相馬行の報告でした。
ぜひ読んでいただきたい本があります。
それでも飯舘村はそこにある 村出身記者が見つめた故郷の5年』産経新聞出版刊
飯舘村出身の産経新聞記者、大渡美咲さんが書いた本です。
飯舘村の5年間が、如実に語られています。
多くの人に手に取っていただきたい本です。               

いちえ


2016年3月16日号「南相馬、3月11日②」

◎浜野博年さん・芳枝さん夫婦
●「あれぇ、久しぶり!」
萱浜の追悼式には、浜野博年さん・芳枝さん夫妻も来ていました。
2人に会うのは2年ぶりでした。
追悼式が終わってから二人に声をかけると、「あれぇ、いちえさん久しぶり!」と声が返りました。
浜野さんは萱浜の自宅が津波で流されて鹿島区原畑第2仮設住宅に入居していましたが、相馬市に息子が家を建て、またそこで一緒に暮らすようになったのです。
相馬に家を建てる計画が持ち上がったのは3年前ですが、芳枝さんはその時から「行きたぐねぇ。仮設に居られる間はここに居て、出なきゃなんねぐなったら、みんなと一緒に復興住宅さ入りたい」と言っていました。
被災前のように息子一家と一緒に暮らせるようになるとはいえ、息子夫婦も孫も、昼間は勤めや学校で留守になります。
知り合いもいない新たな土地での暮らしに、不安が大きかったのでしょう。
また、仮設住宅は同じ被災体験をして気心知れた仲間たちがいますが、新居ができる場所は津波の被害のなかった地域で原発から30キロ圏外ですから、賠償金などの問題で地域住民との間に軋轢が生じることも心配だったのでしょう。
こうした心配は浜野さんだけではなく、仮設に暮らす人たちの多くが感じていることでした。
けれども新居ができると、浜野さん夫婦は引っ越して行きました。
もしも芳枝さんが言ったように避難解除されるまで仮設に残り、その後復興住宅に入居しても、いずれ息子たちの世話を受けなければ暮らせなくなっていくでしょう。
そう考えて、仮設住宅を出たのでした。
けれども六角支援隊の畑の管理をしていた荒川さんに聞けば、芳枝さんは引っ越し後も、しょっちゅう畑に来ているという話でした。
薬の服用が欠かせない博年さんの病院も南相馬で、2週間に一度は処方薬を受け取りに来ますし、また毎週のように仲間たちに会いに仮設住宅に通ってもいるようでした。
私も、そんな芳枝さんが気がかりでしたから度々電話をしていました。
膝の具合が悪く太っている芳枝さんは、家の中など少しの距離は大丈夫ですが外を出歩くには押し車が必要です。
仮設住宅にいた時には畑まで押し車で歩いてきていたし、畑の手入れなどで体を動かすことも多かったのですが、引っ越してから度々仮設住宅に来るとは言っても運動量が少なくなっていることが心配でした。
私は芳枝さんに電話をするたびに、散歩をするように伝えてきました。
芳枝さんは「うん、天気がいい時は30分くらい歩いてるよ」と言っていましたが、交通量も多いところなので時間帯や天気を選んでのことのようで、家にいれば座りっきりの日々のようでした。
庭も狭くてほんの少し花を植えられる程度で畑もできないというので、農家だった芳枝さんが仮設の六角支援隊の畑に通ってくるのも無理もないことだと思えました。

●新しい仲間ができたんだ
2年ぶりにあった浜野さん夫妻は、二人共元気そうで嬉しいことでした。
通院先の病院は住まいの近くの病院に変えたことは電話で聞いていましたが、近所に畑を借りることもできたので、そこで野菜を作っていると言いました。
畑を貸してくれた人は定年退職後の学校の先生だった人で、野菜作りは素人なので、芳枝さんが色々と教えてあげているそうです。
また近くの公民館で開かれているパッチワーク教室にも通うようになり、教室の人たちと友達になり「新しい仲間ができたんだ」と、芳枝さんは言いました。
「ああ、それはよかったねぇ」と私も嬉しく言うと、「んだなぁ。この間は仲間たちと近くの温泉に行って湯さ入った後で、宴会場で食べたりお喋りしたりして、楽しかった。仲間たちと、またこんな会をしようなって話したんだ」と笑顔の芳枝さんでした。
それだけではなく畑で採れた野菜で漬けた漬物を、公民館のパッチワーク教室に持参して仲間に喜ばれたり、畑の持ち主からは漬け方を教えて欲しいと言われて教えたりで新しい仲間たちにとっても芳枝さんは掛け替えのない大事な存在になっていっているようでした。
野菜作り名人で料理の上手な芳枝さんです。
転居先で生き生きと過ごせるようになって、本当によかったと思いました。

◎新たな暮らしに馴染んで欲しいけれど
芳枝さんの他にも、仮設から出て新たな生活を始めた人は多いです。
みんながみんな、芳枝さんのように新たな暮らしに馴染んでいないいことは気がかりです。
小池第3仮設住宅から一昨年の2月に、新居に越して行ったクニちゃんは、今も毎日仮設の仲間に電話をかけてきます。
クニちゃんは車の運転ができず、家には介護が必要な高齢の義父がいるのです。
仮設に居た時にも義父の介護をしていましたが、疲れれば集会所に顔を出せば仲間がいてお茶を飲んだりお喋りで、気分転換ができていました。
新居では近所にそういう仲間は居ず、仮設の仲間との電話でのお喋りが気晴らしになっています。
寺内塚合の菅野さんは、この2月に仮設を出て娘家族と同居するようになりました。
菅野さんも運転はできず、携帯電話も持っていません。
仮設の仲間たちも菅野さんがどうしているか案じますが、連絡が取れずにいます。
家に篭って体調を崩していくのではないかと、仲間たちは心配しています。
寺内塚合第2仮設自治会長の藤島さんが構想しているシェアハウスが実を結んで欲しいと願いますが、”シェアハウス”という概念がみんなには思い浮かべにくいようで、肝心の仮設住宅の高齢者たちに構想が浸透していかないようなのです。
モデルケースを見学したりできれば具体的にイメージできるのでしょうが、言葉だけでは掴みにくいようです。

◎南相馬市東日本大震災追悼式
この日午後は市の文化会館「ゆめはっと」で、市主催の追悼式が行われました。
開会の辞に続いて「ゆめはっと合唱団」により市民歌斉唱、桜井市長の式辞がありました。
2時46分に参加者全員で1分間の黙祷を捧げ、その後映像で国主催の追悼式の中継が映されました。
映像は天皇陛下の「おことば」で中継終了し、市議会議長の追悼の辞、ご遺族代表のことば、献花、閉式の辞で、追悼式は終わりました。
会場で参加者に配られた式次第に、「南相馬市の将来像」「まちづくりの目標」が載っていました。
まちづくりの目標の最後の項目に、こう書かれていました。
「●原発事故を克服し、誰もが安全・安心して暮らせるまち
 原発事故を克服し、原子力に依存しない自然にやさしい安全・安心のまちづくりを推進するため、市民が放射線被ばくの不安を抱くことなく暮らすことができるまちの実現を目指します。また、地震、津波などの大きな災害に対しては、十分な備えを行うことで、誰もが安全・安心に暮らせる環境を整備します」
どうかこの目標を違うことなく進めていけますようにと、願います。

◎ハローワーク相双求人情報
市役所には市や社協の広報誌他、様々なチラシやお知らせが置かれています。
その中にハローワークの求人情報があったので、手に取ってみました。
240件の求人(2月29日〜3月4日受付分)の内、90件は除染と土木工事関連の求人でした。
南相馬の今が見えるようです。 

*12日に帰宅したのですが、帰ってからは留守中に溜まっていた諸々の始末や、また独居の従弟が救急車で運ばれたと連絡が入って病院に行ったりで、なかなか机に向かえず、続きの報告がこんなに遅くなりました。
飯舘村の様子や今回の滞在中に聞いた現地の人たちのことばなども、後ほどお伝えしたいと思っています。                        

いちえ


2016年3月12日号「南相馬、3月11日①」

◎早朝の追悼式
●今年もご一緒に
先月藤島さんにお会いした時に、「今年も11日には海岸で追悼式をします」とお聞きしていました。

南相馬での私の定宿は原町区大甕のビジネスホテル六角ですが、昨年の3月10日は、友人でフォトジャーナリストの豊田直己さんも同じくそこに宿を取っていて、食堂でばったり顔を合わせたのでした。
豊田さんに翌早朝の追悼式の事を伝えると、「一緒に行きましょう」という事になって豊田さんの車に同乗して鹿島の海岸での追悼式に参加したのでした。

今回10日に藤島さんにお会いした時に、「去年の場所は防潮堤ができて入れないので、明日は違う場所でやりますが」と言われ、1枚の紙を頂きました。
「3・11追悼(〜忘れじの時)
2011年3月11日
あまりにも突然に
過酷な現実を背負いながら
生きることを
強いられることになった日

あれから5年
避難解除を前にして
苦悩の日々はつづく
それでも前に進む以外に道はなく
明るく励まし合いながら明日へ
犠牲になられた人々の冥福を祈りながら
         日時:3月11日(金)朝6時30分
         ところ:鹿島区海岸
         主催:3・11追悼実行委員会」
そう書かれていました。
今年も参加したいと思うものの、大甕から鹿島までの交通手段がなくどうしようかと思っていたのですが嬉しい事に、この日もまた豊田さんも六角に宿泊だったのです。
それで昨日11日、今年もまたまた豊田さんと一緒に行って参加することができました。

●早朝の追悼式
寺内塚合第2仮設住宅は鹿島区寺内に在るのですが、この仮設住宅には小高区に自宅がある方達が入居しています。
津波で家族を亡くされた方達も居ます。
自分の家族だけではなく、多くの人の命があの日の海に消えました。
亡き人たちへの追悼の想いを届けたいと、仮設住宅から近い鹿島の海岸で追悼式を行うのです。
昨年は右田浜の鹿島の一本松の海辺で祈りを捧げ、花を手向けました。
玉砂利の浜辺で寄せくる波に花を投げると、引き波が花を運び、手向けられた花は寄せる波に返されまた波に運ばれ、寄せては返すうちに沖へと消えていきました。
その海岸は今は防潮堤ができて海はみえず、鹿島の一本松も枯れました。
ですから今年は少し北上した北海老の海岸で、行いました。
そこもやはり防潮堤ができて居ますが、防潮堤のこちら側はほんの少し高台になっているの
で、そこからは海がみえます。
昨年は脚が悪い人以外は、仮設住宅から海岸まで歩いてきたのですが、今回は歩くには遠く、何台かの自家用車に乗り合わせてきました。
その高台に祭壇を設けて、花を飾り、今朝早く起きて作った団子や菓子を供え、蝋燭を灯しました。
藤島さんが、「あの日から5年が経ちました。今日は5年前と同じ金曜日で、市内の中学校は卒業式の日です。私たちは、突然いのちを奪われた亡くなった人たちの無念を想い、仮設住宅で今日まで必死に過ごしてきました。今年は避難解除ということで、それぞれまた別の生活になっていきますが、私たちが安寧に暮らすことが、亡くなった方達への手向けになると思います。みなさん、笑顔でこれからも生きていきましょう」と挨拶され、藤島さんの鳴らす御鈴の合図で、黙祷をしました。
元気で脚のい達者な男性(この方は大工さんだったそうです)が手向けの花束を抱えて堤防のパイプのはしご段を上り、海側のはしご段を降りて石の浜辺に立ちました。
良い波の来るのを待って、花束を波に放りました。
みんなは堤防越しに、波間に花が運ばれていくのを手を合わせて見つめたのでした。

●真野川漁港
追悼式の海岸から少しの烏崎は真野川の河口です。
ここには真野川漁港があるのですが、震災でダメージを受け営業ができずに居ました。
何艘かの漁船がもやってはありましたが、どれも汚れてみえました。
この日に行ってみると漁港の修復も済んで、漁船の数も以前見た時よりも多くなっていましたし、船体はどの船もきれいでした。
新しい漁船も何艘かあるようにみえました。
また竹の先に船の名を染め抜いた旗を付けている船もありました。
向こうの方には船の上で何か操作をしている人の姿もみえ、試験操業も始まっているのかもしれないと思いました。
小さな漁港ですが、漁師さんたちの暮らしが戻ることを祈ります。

◎浪江請戸漁港へ
鹿島の海岸での追悼式の後、浪江に行きました。
6号線から請戸の方へ向かう検問所では、「お墓参りです」と言って車のナンバーを控えられて抜けました。
請戸漁港も修復が進んでいて、護岸には車止めや、船の舫ロープを巻き付ける杭も並んでいました。
黄色と黒の斜め縞の車止め、濃いピンクに塗られた杭です。
こうして形の上では生活再建に向けて、いろいろが進んできているようにみえます。
捕獲された魚が安全で美味しく、本当の生活再建になるようにと祈りました。
漁港へ入る道の角に震災後に作られた祭壇があります。
ここを通る時には誰もが、手を合わせて通ります。
私も請戸に行った時にはいつも、亡くなった人たちに想いを寄せて手を合わせてきました。
漁港から戻る時にそこに行きかかると、ちょうどそこでは大勢のお坊さまたちが追悼式をしていたのでした。
墨染め衣のお坊さまたちは、各県からの曹洞宗青年会の方達でした。
お坊さまだけではなく一般人の姿もあり、ご夫婦でみえていたその方達は、二本松の仮設住宅に住む浪江の方でした。
自宅は請戸ではなく南赤宇木だそうですが、毎年この日は追悼に来るのだそうです。
浪江は、津波に流された家々は辺りの瓦礫は片付けられて土台だけになっていますが、半壊や一部が壊れた家々はそのまま残っています。
瓦礫が片付き草も刈られてがらんとした原に、半壊や一部損傷した家々がポツリポツリと立っていました。
「建って」いたのではなく「立って」いたのです。
5年の月日が過ぎても、この風景でした。

●浪江ローソン
浪江町の出口辺に、コンビニのローソンが開店していました。
トイレに行きたかったのと新聞を買いたかったので、店に入りました。
トイレもレジも作業員の方達が順を待って並んでいました。
私も列に並んでトイレを済ませてから、熱い珈琲と温めた肉まんを買い奥に設えられた休憩コーナーで、遅い朝食を摂りました。
ふと目の前の壁を見上げると、ここに立ち寄った人たちが書いたメッセージカードが何枚も貼ってありました。
一部をご紹介します。

「浪江の復興拠点 便利なローソンができてうれしい!頑張って下さい」
「人生楽しく生きましょう!その為にはまず除染ですね。日本ガンバレ」
「除染作業に九州から来ています。浪江町も残り少ない除染となります。共に頑張りましょう。 H27.12.8 八代市 K.S」
「あの日卒業式だった私たちも成人式を迎えました。浪江でできなかったのは残念だと思うけれど、今は笑顔で過ごしています。がんばろう 浪江っ子」
「除染大好き I LIKE JYOSEN」
「何人たりとも俺の除染を妨げる者は許さん」

私は住居の周辺や生活環境は徹底した除染が必要だと思いますが、これまで見てきた中では不必要な除染もあると思っています。
汚染物質をなくす為の除染ばかりでなく、除染という仕事を生み出す為の除染、つまりお金を流通させる為の除染も多いように思います。
最後に紹介したメッセージカードを書いた人からは、「許さん」と断罪されるかもしれませんが、必要な除染ばかりではないと思っています。
ではどこまでが”必要”で、どこからが”無駄”かと言われれば、一つ一つそれぞれの場合で考えなければならないことも多いでしょうが、基本的に除染で片付くことではないと思っています。
そしてまた不必要な除染作業で被爆する人が増えることも案じますし、除染に費やすお金を被災者の為にもっと別の使い方をするべきだと思っています。
福島に来ると、本当に考えさせられることが多々あります。

*萱浜へ
浪江から原町に戻り、萱浜で豊田さんと別れました。
豊田さんはそこから別の取材地へ向かい、私は萱浜の追悼式に参加しました。
この報告はまた後刻いたします。                   

いちえ


2016年3月11日号「3月10日、南相馬②」

◎寺内塚合第2仮設住宅
●自治会長あってこそ
この仮設住宅には、原発から20キロ圏内の小高区の人たちが住んでいます。
津波で家を流され家族を亡くした人も居ますし、家は無傷でも、そこは放射線量が高い地域という人も居ます。
海辺の人は3月11日の地震・津波で避難所へ。
12日には海から離れた地域の人も原発事故で避難所へ。
最初に入った避難所も危ないと、更にまた別の避難所へ移動。
というように皆さんそれぞれに何ヶ所もの避難所を経て、この仮設住宅へ入居した時には「これで明日の心配はしないで済む」と、ようやく落ち着けると思ったのです。
住んでみると、狭いし壁は薄く隣に住む人のクシャミやオナラも筒抜け。
冬は寒く夏は暑いし、お隣は知らない人で、「仮設住宅」という住環境に慣れるまでに少し時間がかかりました。
たぶん入居した時点では誰もが、”2年か3年の辛抱”と思っていたのではないでしょうか。
3ヶ月経ち半年経つうちにお隣の人とも話ができるようになり、集会所でお茶を飲んだりゲームやカラオケ、女性たちは手芸を一緒にしたりで、気心も知れてきて仲良くなっていきました。
この仮設住宅は、皆さんとても仲がいいのです。
これには、この仮設住宅自治会長の藤島昌治さんのお人柄が、とても大きな力になっていたと、私は思います。
いつもニコニコ笑顔(ご本人はヘラヘラと謙遜されますが)で、住民の皆さんの健康や生活などに細やかな気遣いをされていました。
藤島さんが居るからこそ、住民同士の繋がりが深まっていったのだと思えます。

●シェアハウス構想
仮設入居の直後は同じ仮設に居る人たちとも言葉を交わす事も少なかったけれど、日が経つうちに気心知れて仲良くなり、今ではこの先もずっとこの仲間たちと一緒に居たいという事は他の仮設住宅でも皆さんが言っていました。
せっかく仲良くなった仲間たちと、避難解除後にはまたバラバラな暮らしになるのが寂しいと、みんなが言っています。
前便の小池第3仮設住宅のヨシ子さんの言葉も、まったくそのことを言っています。
仮設暮らしの人たちのそうした心情を慮って藤島さんは、シェアハウスを構想しました。
一人暮らしの高齢者の仮設住宅後の暮らしを考えると、シェハウスという住まい方は利点が多々あるように思えます。
それで私は以前に「一枝通信」で、皆さんにもシェアハウスに関しての署名に、ご協力をお願いした事がありました。

●悩みは深し
避難解除後の住まいとして、みんながシェアハウスを望んでいる訳ではなく、家族が居る人は、ふるさとを離れることになっても子どもや孫と一緒に暮らしたい人も居るでしょう。
でも、4、5階建ての集合住宅形式の、あるいは平屋や二階建ての復興住宅ばかりでなく、シェアハウスという型式での住居も、モデルケースとして在ってもいいのではないかと思うのです。
公設民営でモデルケースとして作ってみる価値は、あるのではないかと思うのです。
けれども実際には、シェアハウス構想の説明会を開いても当の仮設に住む人たちの反応があまりよくないようなのです。
そのためもあってか、先月藤島さんにお会いした時にはとても疲れたように見受けられました。
「元気ですよ」と仰るのですが、元気がないようにみえました。
シェハウス構想が、皆さんに十分理解されていないのかとも思えました。

●避難指示解除
4月で避難指示解除になりますから、小高でも帰還困難区域外の人たちは4月以降の住まいを考えなければなりません。
解除になっても、すぐに仮設を出なければならないのではないですが、みんな気持ちは追い立てられています。
「南相馬市は平成28年4月に避難指示解除」は、3年前に出されていた方針ですから、
じっくり考えて仮設を出た後の生活設計を立てて準備してきた人も居ますが、考えてはいても思うように新たな住まいが見つけられない人も居ます。
復興住宅を申し込んだ人も、そこへの入居を望んでではなく仮設を出なければならないから「とりあえず」、という人が多いのです。
そこが終の住処になるだろう仮設退去後の住まいが、「とりあえず」なのです。
藤島さんは「漂流生活」だと言いますが、聞いていて切なくなってきます。

◎詩集『長き不在 フクシマを生きる』から
藤島昌治さんは詩人です。
これまでも藤島さんの詩集をご紹介してきましたが、新たな詩集が発売されました。
『長き不在 フクシマを生きる』から、二篇ご紹介します。

●「シェアハウス」
親孝行の息子がさ
優しかった娘がさ
可愛がった孫がさ

復興住宅さに行けど

どこさ行けばいいんだ
なじょすたらいい?
こんな婆(ばばあ)

置き去りにして

この先
何さ 掴まって
行けばいいのか
いっそ 死んでしまった方がいいのかも

行き場を失った年寄りの嘆き

誰が そんなことを赦すか
誰が そんなことをさせてなるものか

婆ちゃんも
爺ちゃんも
待ってろ
シェアハウスを造ってやる

●「祈り」
祈ります
決断を迫られた今
どうしたらいいのか
ボクには成す術がありません
いたずらに
なぐさめの言葉をかけても
空しさだけが残ります
離れ離れになってしまった
家族をつなぎとめる事も
置き去りにされてしまった年よりを
はげますことも
とてもボクにはできそうもなく
震災から四年が過ぎて
「避難解除」の予定は四月
未だ行き先も定まらず
漂流を続ける「フクシマ」の人々
その数 十三万人を超える
原発事故の恐ろしさを
核災害の怖さを
伝えずにはいられない
原子力発電を「ヤメロ!」
再稼働を「ヤメロ!」
訴えずにはいられない

何を考えているんだ
生命を守れ
生活(くらし)を返せ
仮設住宅の呻きが
悲痛な叫びが
嘆きや苦しみが
悲しみや思いが

ぜひ、皆さんにもお読みいただきたい原発被災者の叫びが載っている詩集です。
発売元は遊行社、定価は1500円+税です。                 

いちえ


2016年3月11日号「3月10日、南相馬①」

南相馬に来ています。
8日にセッションハウスで催したトークの会「福島の声を聞こう! vol.18 」の報告は、帰宅してからお伝えいたします。
ゲストスピーカー、同慶寺ご住職の田中徳雲さんのお話は、ぜひみなさんに知って頂きたいと思っています。

◎小池第3仮設住宅
●インフルエンザ流行
小池第3仮設住宅を訪ねました。
ちょうどお昼時で、集会所ではお世話役の菅野さんと近所に住んでいるエイ子さんの2人がが、お弁当を食べていました。
エイ子さんも震災・原発被災者ですがこの仮設に住んでいるのではなく、借り上げアパートに住んでいます。
ここに来れば友達に会えるし、編み物や手芸品作りなど教えてもらって一緒に作ったりできるので、時々訪ねて来るのです。
訪ねた時間が時間でしたから私も途中で買ったパンを持っていったのですが、エイ子さんがお稲荷さんをたくさん作って持ってきていたので、お相伴にあずかりました。
エイ子さんは、みんなと一緒に食べようとたくさん作ってきたのでした。
ところが今日は、集会所にいつもいる人たちはインフルエンザで出て来られずにいるのでした。
数日前にこの仮設の住人の一人が高熱で救急車で運ばれ、インフルエンザだったのですが、具合が悪くなっていたその人の看病をしていたハルイさんに移り、もう一人のお世話役の星見さんにも移り、次々にインフルエンザに罹る人が出てきているようです。
高齢者が多い仮設住宅ですし、連れ合いを亡くされて一人暮らしの人も多いですから、流行が早く収まって欲しいです。

●「5月には、うんと寂しくなるよ〜」
食べ終わった頃に、ヨシ子さんがやってきました。
ヨシ子さんもお昼を食べに部屋に戻り、ご飯を済ませて来たのでした。
ヨシ子さんは言います。
「4月5月になると、出て行く人もだいぶ増えてホント寂しくなるんだ。
数ちゃんもこの間引っ越したし、津田さんも出て行くし、ハルイさんも居なくなるのかな。
私が最後くらいかな。
仮設住宅ができてやっと避難所から出て仮設に落ち着いたけど、最初は慣れなくて、他の人ともあんまり喋らなくて、2年目位から話ができるようになって、そのうち何でも喋れるようになって毎日笑って過ごしてきたけど、せっかく仲良くなれたのにまたみんなバラバラになるんだよね」
「最初は慣れなくて他の人と喋らなかった」と言ったヨシ子さんの言葉に、私は大きく頷けます。
私はその頃のヨシ子さんに会っていますから、そんなヨシ子さんの姿を覚えています。
でもこの1、2年は、ヨシ子さんは他の用事がない日の昼間は、いつも集会所に居るようにしてきました。
そして外を通る住人たちに「お茶飲みに、おいで」と呼びかけて、引きこもりがちな人たち
がひとりぼっちになってしまわぬよう心配りをしてきたのです。
その積み上げでできてきた小池第3仮設住宅のコミュニティが、5年かけてできてきたコミュニティが、砂山が波で洗われて崩れていくように消えていこうとしています。

●フラッシュバック
3月11日を控えて、テレビでは被災地報道番組が増えています。
菅野さんもヨシ子さんも、後から来た津田さんも、みんな津波の映像は見たくないと言います。
ヨシ子さん、菅野さんは家が流され、家族や身内を亡くしています。
エイ子さんの家は海から離れていたので津波を見ていないし、身内で被害にあった人も居ないのですが、でもエイ子さんは眠っている時にまざまざと津波を「見て」目が覚めると言います。
「白い服来た人がフワ〜ッと流されて来るんだけど、私は手を伸ばして助けてやらないんだよね。冷たい人だね、私は。家なんかが流れて来るにも見るんだよ。
実際には見ていないのに、はっきりと、そんな夢をよく見るんだよ」
菅野さんは「避難所に居た時、ばあちゃんが夜寝てる時にワァ〜ってうなされて両手で必死に何か掴もうとしたりしてたね。そんなことが幾晩も、幾晩も続いた」と言いました。
ヨシ子さんも「私もそうだったよ。寝てて夢見るんだよね。うなされたりして。そうすっとみんな目が覚めて「誰だ?」って。それで私だって判っても「しょうがないよね」って言ってくれた」と。
ヨシ子さんご主人と娘さんを亡くしています。
5年の節目の報道番組は、被災者にまたさまざまな思いを抱かせます。

●晴子さん
久しぶりに、本当に久しぶりに晴子さんに会いました。
3年半ぶりくらいでしょうか。
小高の海から離れた場所に自宅があり、夫婦二人で暮らしていました。
子どもは居ません、
原発事故後、避難所を経て仮設住宅に夫婦で入居しましたが、その年の暮れに夫は病死し、一人になってしまいました。
読書と絵を描く事が好きな晴子さんです。
晴子さんに初めて会ったのは、ヘヤーサロンを催した時でした。
カットの順番を待っている晴子さんに話しかけ、話をお聞きしたのでした。
「私は人と話をするのが苦手だし、本を読むのが好きだから集会所に来る事もあんまりないです。一日誰とも話さない時もある」と言う晴子さんでした。
そんな晴子さんが気になって、本を届けた事もありましたし、この仮設住宅を訪ねる度にお世話役の星見さんや菅野さんに、晴子さんの様子を尋ねていました。
やはり集会所には出て来ないけれど、元気にしていると聞いていましたがそれでも気になっていたのです。
初めて会った時の言葉が、気になっていたのです。
それは、昼間は小高に入れるようになってからのことでした。
「主人が死んで、私一人になっちゃったんです。どうやって生きていくかなぁって考えます。この間家に帰ったら、水仙がきれいに咲いていました。それを見て、ああ、私が世話しなくてもこうして咲くんだって思いました」
私は晴子さんに、「きれいに咲いた水仙を、絵に描いてあげて下さい。誰もいない庭に咲いた水仙を、絵に描いてください」と言ったのでした。
今日会った時に晴子さんは「本をくれた方ですね。あの時はありがとうございました。」と覚えていてくれ、「おかげさまで元気にしています」と、以前よりも声に張りがあり、それは嬉しい事でした。
晴子さんは足腰は弱ってきていて杖がないと歩けませんが車の運転はできるので、今も時々家に帰って庭の手入れをしていると言いました。
避難解除後の事を今日はお聞きできませんでしたが、また本を届ける約束をしたので、次に来た時にお聞きしようと思いました。

*3月10日の報告まだ続きますが、睡魔に襲われています。
今日はこの辺で失礼します。                   

いちえ


2015年3月8日号「昨日銀座で」

◎ヘイトスピーチ、許さない。
昨日(3月6日)銀座で、ヘイトスピーチデモがありました。
これに対してサイレント・カウンターデモが呼びかけられ、私も参加してきました。
ヘイトデモの主催は「朝鮮総連・朝鮮学校解体委員会」となっていますが、会のメンバーは「在特会」です。
ヘイト側の口汚い罵詈雑言に対して、カウンター側は無言でプラカードを掲げるなどのサイレント・デモでした。
サイレント・カウンターを呼びかけたのは、国会前デモなどで給水活動を行っている「給水クルー」です。
レイシストたちは銀座1丁目の水谷橋公園を3時に出発し、3時半頃には数寄屋橋交差点を通るということでしたから、カウンターたちは数寄屋橋交差点周辺に集まりました。
私は2時半頃に数寄屋橋に行きましたが、もうその頃には数寄屋橋交番、東急プラザ、ソニービル前、不二家前、交差点のいずれの側にもカウンターたちが集まってきていました。
香山リカさん、池田香代子さん、有田芳生さんの顔も見えました。
脱・反原発デモや、国会前・官邸前のデモでよく会うデモ仲間や友人たちも来ていました。

●チラシの配布
ヘイトデモがやってくるまでの間、道行く人たちに「法務省人権擁護局・全国人権擁護委員連合会」のチラシ【ヘイトスピーチ、許さない】や、葉書大のチラシ【差別反対アクション】を配りました。
葉書大のチラシはこの日の行動について記したもので、日本語、英語、ハングル、中国語でこう書かれていました。
「在日外国人に対して『死ね、殺せ』などと言ったヘイトスピーチ(差別扇動発言)を叫ぶデモを開催し、ありもしないデマを拡散する人種差別団体が街に出ています。私たちはそれを許さないための活動をしております。
 立ち止まって彼らを注視するだけでも構いません。どうか皆様のご協力をお願い致します。」
差し出したチラシを見もせずに拒む人もいましたが、多くはただ受け取って通り過ぎていきました。
でも中には、チラシを受け取ってそこに立つ人もいました。

●ヘイトデモ隊
私はソニービルの前に「銀座の街は ヘイトスピーチを許さない」のプラカードを持って立ちました。
警察車両に先導されて、奴らがやってきました。
先頭の街宣車から若い女性のがなり声が、流れます。
「こちらは平和を愛する日本人のデモ隊です。
日本政府が在日朝鮮人を甘やかしてきたから、舐められています。
ミサイル発射の報復措置として、朝鮮総連をぶっ潰すべきです。
シュプレヒコール!朝鮮総連をぶっ潰せ!朝鮮学校をぶっ潰せ!」
50人ほどのデモ隊で、在特会の桜井誠もマイクを持って街宣車のすぐ脇を歩いていました。
デモ隊はハンドマイクを持って口汚ない罵詈雑言をがなりたてたり、日の丸や日章旗を手にしていたり、プラカードを持ったりでしたが、若い女性も何人かいました。
中には何か陶酔しきったような表情の若い男性や、得意満面といった感じの初老の男性などもいて、彼らは政治的な意見や確信から行動しているようには思えませんでした。
自己肯定感を求めているようにも思えたのでした。
こんな風に観察できたのも無言で立っていたおかげかしら?などと思いました。

●憎悪の応酬
以前にもカウンターデモに参加したことがありますが、ヘイトデモ隊の人数もこの時よりもずっと多く、カウンターはそれよりもずっと大勢で、歩道を埋め尽くしていました。
互いに罵声が飛び交って、初めのうちは彼らに向かって「帰れ!帰れ!」のコールで応酬していたのですが、そのうちに「ゴキブリは死ね!」などと言う相手の口汚い言葉に、私も「お前らこそ死ね!」などと怒鳴り返してしまったのでした。
興奮してそんな罵倒を繰り返してしまっていたのですが、後でとても不愉快でした。
相手に対してではなく自分自身に対して、とても不愉快な気持ちを抱きました。
憎悪の応酬は、自分を惨めにさせました。
ですから今回のサイレント・カウンターデモへの参加は、「ヘイトスピーチを許さない!」という思いからだけではなく、サイレントデモという方法にも強い関心があって、ぜひ参加しようと思ったのでした。
相手は50人ばかりとごく少数で周囲を警官に囲まれて、対する私たちは数百人はいたと思います。
私が立っていたソニービルの前だけでも100人以上は居ましたし、他の場所も同じ位か、より多く居たように見えましたから無言であってもかなりの圧力だったのではないかと思えます。
彼らが檻の中で吠えている哀れな生き物に思えました。

●最終地点の日比谷公園では
私はヘイトデモ隊の後ろ姿を見送って、地下鉄で帰りましたが、カウンターたちの中には日比谷公園まで歩道を並行して追った人たちも多くいたようです。
そこではもうサイレントではなく「レイシストは帰れ」などのコールが湧き上がり、ヘイトデモ隊と激しい言葉の応酬があったそうです。
街宣車でスピーチをしていた若い女性はヘイトの仲間たちに、「正しい日本の皆さん、こっちです。集まってください。あいつらはゴキブリです。ゴキブリは一匹叩いて潰すと一億個の卵が飛び散るから、生け捕りにして海へ叩き落とせ!」などと叫んだそうです。
この日数寄屋橋交差点で、私は黙ってプラカードを掲げました。
正直に言えば私は、黙って立つことで彼らの優位に立てたと、心のどこかで感じていたのではないかと思います。
そしてそれは私がヘイトされる当事者ではなかったからなのではないかと、疑っています。
もし私がマイノリティの立場で「ゴキブリは死ね!」と言われる立場だったら、彼らのヘイトスピーチに対して黙して対することができただろうか?と思うのです。

◎「抗うこと」と「闘い」と
●レイリスさんのように
昨年9月30日に交付された安保法制は、今月末には施行されようとしています。
アベ首相は、在任中に憲法改変を言及しています。
私は憲法9条を何としても守りたいと思っていますし、自衛隊は災害救助隊としてこそ活躍すべきだと思っています。
集団的自衛権の行使によって、自衛隊が武器を使うことになるかもしれないということを恐れます。
「殺すな!」「殺されるな!「殺させるな!」と、強く強く思います。
けれどもその一方で、これは私が戦場ではない日本に暮らしているから思えることなのか?と自問しています。
例えばパレスチナで、あるいはシリアで、そうした紛争地で私が暮らしていたら、そう思えるだろうか?と自問しています。
目の前で家族が殺されたら、そこに武器があったら、私は武器を取らずにいられるだろうか?と自問します。
フランスで起きたテロ事件で妻を殺された男性、レイリスさんの言葉が、いつも胸に響いています。
「あなたたちは私に、憎しみを抱かせることはできません」
彼のように在りたいと、私は強く願います。
けれどもいつかのカウンターデモで、「お前らこそ死ね!」と叫んでしまった私です。

●抗いの炎が
銀座でサイレント・カウンターデモに参加した6日、渋谷ではチベット・ピースマーチが行われました。
ラサでチベット人たちが一斉に蜂起した1959年3月10日を心に刻もうと、毎年世界各地でチベット人や支援者たちで行われている行動です。
中国政府の政治弾圧,同化政策、少数民族差別は近年ますます酷く、チベット人は移動の自由も宗教活動の自由も言論の自由も奪われています。
母語であるチベット語も奪われようとしています。
2009年に一人の青年僧が、弾圧に対して焼身抗議をしましたが、その後も焼身は続いていました。
そして2月29日、また2人の若者が焼身して命を落としました。
3月10日の一斉蜂起記念日、また全国人民代表大会(全人代)開催を前に、一層締め付けが厳しくなっているのでしょう。
そうした状況下で自由を希求する、抗議の焼身でした。
チベット人亡命地の北インドで16歳の少年ドルジェ・ツェリンが、東チベットのカム・カンゼで18歳の青年僧ケルサン・クンドゥが、自らに火を放ち亡くなったのです。
2009年、初めての焼身抗議から150人が焼身抗議をしています。
死なないでほしい、焼身しないでほしいと、心の底から祈ります。
けれどもまた、中国政府による弾圧という原因をなくさない限り、焼身は続くのだろうと思います。
これはチベット人に起きている問題ではなく、人間の尊厳が蹂躙されている人権の問題、私たちの問題なのだと思っています。

●闘う姿勢を
人間の尊厳が蹂躙されることに対して、私は闘いたいと思っています。
3月末に安保法制が施行されたら…。
その後を思います。
戦争への足音が聞こえるような気がします。
人間の尊厳が蹂躙されることに対する闘いの姿勢を、身のうちに確固として育てようと思います。
思いが回る3月6日でした。                  

いちえ


2016年3月5日号「報告」

◎報告① 「ー原発事故から5年ー被害者を切り捨てるな!全国集会」
3月2日(水)、日比谷野外音楽堂で「ひだんれん(原発事故被害者団体連絡会)」主催の集会がもたれました。

●「ひだんれん」の活動
「ひだんれん」は、東京電力福島第一発電所の事故による損害賠償や責任の明確化を求めて、訴訟などの行動を起こしている被害者団体が結成した組織です。
参加団体は「飯館・川俣・浪江原発訴訟原告団」や「福島原発告訴団」、「南相馬・避難勧奨地域の会」、「蕨平地区集団申立の会」など17団体と、オブザーバー参加の「原発さえなければ裁判原告団」「『生業を返せ、地域を返せ!』福島原発訴訟原告団など4団体の、合わせて21団体で組織されています。
東京電力と国による被害者への謝罪、被害の完全賠償、暮らしと生業の回復、被害者への詳細な健康診断と医療保障、被曝低減かの実施、事故の責任追及などを活動の目的としています。
国と福島県は帰還困難区域を除く避難指示区域に就て放射線量が十分に下がりきっていないにもかかわらず解除を決め賠償を打ち切ると決め、区域外からの避難者への住宅無償支援も打ち切ることを決定したことに対しても、打ち切りを撤回するように交渉を行っています。

●集会前の政府交渉
「ひだんれん」代表の長谷川健一さんが、開会の挨拶をしました。
集会に先立って行われた政府交渉は、政府は被災者・被災地の状況を振り向こうともしないようなものだったそうです。
丸川環境相の発言などからもわかるとおり、政府は被災地・被災者の現実を知らないばかりか、知ろうともしないのですから、まさにこれは棄民です。
長谷川さんの挨拶に続き「福島原発かながわ訴訟原告団」代表が【ひだんれん 統一要求】を読み上げました。

●ひだんれん 統一要求
❶責任の明確化と謝罪、日本政府に対して、東京電力に対して❷賠償、原発事故発生時に生じた被害への賠償、事故後に生じた被害への賠償、今後発生する被害への賠償❸保障、被ばく防止、健康調査・健康手帳、事故収束作業の確実名促進と作業員の安全確保など基本項目として細目32項目にわたりました。
更にこの基本要求を踏まえて、政府と県の政策によって生じている当面の問題に対しての緊急要求として7項目がありました。
緊急要求は、本当に急を要する内容ばかりです。
昨年6月に福島県が発表した来年3月に、「避難指示区域外避難者に対する住宅無償提供を打ち切り」の撤回や、同じく昨年6月に政府が閣議決定した「2017年3月までの避難指示解除と1年後の賠償打ち切りの方針」の撤回や、「子ども・被災者支援法」に定める避難・帰還・居住の選択の自由を認め、〈被ばくを避けて生きる権利〉を保障する施策の早急な確立など、国はすぐにでも取り組むべきだと思います。

●参加団体挨拶
野外音楽堂の舞台上には各参加団体代表たちが、その幟旗を掲げてずらりと並んでいました。
「福島原発事故被災者フォーラム 山形・福島」「原発被害糾弾 飯館村民救済申立て団」「福島原発かながわ訴訟原告団」「南相馬・避難勧奨地域の会」「子ども脱被ばくの会」「キビタキの会」「福島原発被害東京訴訟原告団」ほか参加団体代表たちの挨拶、アピールが続きました。
どなたの挨拶も、みなすべて心に響きましたが、わけても肝に命じたいと思った訴えがありました。
「原発損害賠償京都訴訟原告団」からは2人が挨拶されましたが、そのお一人の訴えです。
福島から京都に避難している方のようでした
「春にはフキノトウやタラノメ、秋にはキノコを採り、秋には鮭が遡上する川があり、山の幸も海の幸も豊かなところでした。
山も川も海も放射能で汚され、故郷も生業もなくしての避難生活になりました。
”被災前の3月10日の暮らしに戻せ”という人もいますが、たとえ事故前の日に戻ったとしても、原発がある限り同じことは繰り返されるのです。
そして福島に起こったことは、あなたの上に起こることかもしれないのです」
メモを取らなかったので残念なのですが、聞いていて被災前の福島での豊かな暮らしの風景が目に浮かびました。
原発事故によってその暮らしは根底から奪われてしまったのですが、たとえあの日に事故が起きなかったとしても、そこに原発がある限り、私たちの暮らしは根こぎにされ得るのだと、静かな口調で訴えられたのです。
その訴えを、心に刻みました。

●集会宣言
参加団体の挨拶の後「福島原発事故から5年 被害者を切り捨てるな!全国集会」集会宣言が読み上げられ、参加者一同の拍手を受けました。
最後に武藤類子さんが閉会の挨拶を述べました。

閉会挨拶後、スタッフの先導でシュプレヒコールの声をあげました。
「原発事故被害者の声を聞け!」「原発事故被害者を切り捨てるな!」
そしてデモに移りましたが、私は用事があったのでデモには参加せず帰宅しました。
集会参加者は780名でした。
半数以上は福島からバスで来た人たちや、避難している人たちなど被災当事者たちのようでした。
私の前に座っていた方たちも、南相馬からバスで来た人たちでした。
平日の昼間だったためでしょうか、会場の野音は空席が多かったです。

ご承知のように福島原発告訴団が行った告訴・告発事件は検察庁により二度にわたり不起訴処分を受けましたが東京第五検察審査会は二度にわたり起訴相当の議決をしました。
そして先日、被疑者、勝俣恒久・武黒一郎、武藤栄の3人は強制起訴となりました。
これから長い法廷闘争が始まります。
この日の集会で京都に避難している方の話にあったように、福島原発事故を「私のこと」と受け止めて、この刑事訴訟支援団に加わって下さるよう、お誘いします。
支援団申込書を添付します。

◎報告② 「アベ政治を許さない」全国一斉行動
3月3日午後1時、「アベ政治を許さない」全国一斉行動がありました。
国会前には約100人が集まりました。
暖かな陽気で、国会議事堂の向かい憲政記念館の公園(?緑地)内には桜が咲いていました。
呼びかけ人の澤地久枝さんは「風邪をひいて一昨日まで10日間寝込んでいましたが、3日はどうしてもここに立とうと思って来ました。男の人も戦争は嫌だろうけれど、女の人は自分が生み育てた子供が戦争に駆り出されるなどとても許せることではないと思います。女の人はもっと声を上げなければいけないと思います。
生活保護受給者が増えているといいます。
子供の貧困や、親の介護で仕事を辞めざるを得ないなどで、暮らしが大変になっている人が増えているからです。
生活保護を受けることを恥のように思わされていますが、真面目に慎ましく暮らしていてもなお私たちの暮らしは苦しくなってきています。
恥ではなく堂々と受けていい権利なのです。
アベさんのやっていることは本当に酷い。
今日も東京だけでなく全国で、みんなが一斉に声を上げていると思います。
一人でも、仲間と一緒でも立ち、立つことが難しければメッセージを窓に貼るなどいろいろなやり方で、声を上げていると思います。
主権者として、これからも声を上げ続けましょう」

「全国スタンディング」の集計(3月4日現在)によれば、全国55ヶ所で920名が立って意思表示をしたそうです。
東京はポカポカ陽気でしたが、旭川では雪の中でのスタンディングだったようです。
次回は4月3日、日曜日です。                   

いちえ


2016年2月23日号「お知らせ」

◎お知らせ①
トークの会「福島の声を聞こう!vol.18 」、申し込み受け付けは始まっています。
あれから5年が経とうとしていますが、福島の声は届いていますか?
どうぞ、お聞きください。
昨日の毎日新聞に、今回のトークの会ゲストスピーカーの田中徳雲さんの記事が載っていました。
お読みいただけたらと思います。

スキャンvol18

◎お知らせ②
相馬高校放送局の生徒さんたちが製作した作品の上映会があります。
昨年8月の「トークの会 福島の声を聞こう!」では、放送局顧問だった渡部義弘さんが上映とお話をしてくださいました。
あの日に上映されなかった作品も含め、2015年に制作された作品を中心にした上映会です。
高校生たちの感性が捉えた 〝震災と原発事故、そして福島、福島に生きるということ〟を、ぜひご覧いただきたいと思います。
日 時:3月13日(日)13:00〜15:30
場 所:笹塚ファクトリー 渋谷区笹塚1−56−7笹塚京王ビルB2
参加費:1000円
定 員:60名(先着順)
申し込み、詳細は下記をご覧ください。
http://kokucheese.com/event/index/378226/

◎お知らせ③
「福島原発事故から5年 被害者を切り捨てるな!全国集会」
日時:3月2日(水)
場所:日比谷野外音楽堂
13:30 開場
14:00 集会
15:30 デモ出発
16:30 終了予定
*10:00 政府交渉
主催:原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)

◎お知らせ④
「原発のない未来へ! つながろう福島!守ろういのち!」
【NO NUKES DAY】3.26全国大集会
日時:3月26日(土)
場所:代々木公園 メインステージ・野外ステージ・ケヤキ並木ステージ
タイムテーブル 11:00〜 ブースオープン
        11:30〜13:00 オープニングライブ・トーク・アピール
                  (野外ステージ・ケヤキ並木ステージ)
        12:30〜14:30 オープニングライブ・大集会(メインステージ)
        14:40〜 大行進(デモ)
主催:さようなら原発1000万人アクション/原発をなくす全国連絡会/首都圏反原発連合/反原発運動全国連絡会
詳細は www.nonukesday.org をご覧ください。

◎お知らせ⑤
講演会「さようなら原発ー世界から」
日時:3月27日(日)14:00〜16:30(13:30開場)
場所:星陵会館
プログラム
主催者あいさつ:鎌田慧(ルポライター)
講演:海渡雄一(弁護士)「福島原発事故をめぐる裁判の現状と見通し」
報告:ジャンナ・フィロメンコ(ベラルーシ)[チェルノブイリ原発事故の被災者から]
講演:振津かつみ(医師・チェルノブイリ救援関西)
          「フクシマとチェルノブイリを結んでー被曝問題を考える」
報告:シユウ・グァンロン(台湾・環境保護連盟)
主催:さようなら原発1000万人アクション実行委員会

*3月3日は「アベ政治を許さない」一斉行動日です。
「政治の暴走を止めるのは、私たちの義務であり、権利でもあります」  

いちえ


2016年2月20日号「南相馬2月15日④」

もう5日も過ぎていますが、15日の南相馬行の報告を続けます。

◎上野敬幸さん
長八さんのお宅を辞す時「これからどこに行くの?」と聞かれて「敬幸さんのところへ行こうと思ってます」と答えると、「それじゃぁ送っていくよ」と言われ乗せて行っていただきました。
菅野長八さんと上野敬幸さんは親戚で、長八さんの奥さんは、敬幸さんのお父さんの妹なのです。
兄妹共に、津波で亡くなりました。

「敬幸も家を壊し始めたっていうけど、敬幸も貴保(敬幸さんの妻のキホさん)も辛いだろうなぁ」運転席で、長八さんが言いました。
この日私が上野さんを訪ねたかったのも、元の家を壊し始めたと聞いてお二人はどうしているだろう?と案じたからでした。
上野さんの家は原町区萱浜北才の上ですが、ここもまた津波の被害が甚大だった地域です。
70戸ほどの家が流され、上野さんの家だけが残りました。
上野さんの家は背後に屋敷林があったおかげで辛うじて残りましたが、1階は波が通り抜けて骨組みだけとなり、2階は床上まで波を被っただけで済んだのでした。
集落の77人が亡くなり、上野さんも両親(喜久蔵さん・順子さん)、長女の永吏可(えりか)ちゃん、長男の倖太郎(こうたろう)くんの4人を喪いました。
喜久蔵さんと倖太郎くんは、まだ見つかっていません。

上野さんのこともこれまで何度か「一枝通信」でお伝えしてきましたが、今もずっと〈福興浜団〉の活動は続いています。
捜索活動だけではなく今年もまた、菜の花迷路も花火大会もするつもりです。
震災の年の秋に生まれた次女の倖吏生(さりい)ちゃんは、4月には大甕幼稚園のラッコ組(年中)に進級します。

●思い出が詰まった家
私が初めて萱浜に行ったのは被災の年の8月でした。
そこここに家の残骸や車が転がっていました。
ここにも、そこにも、向こうにも、家は流されて土台だけが残った家屋跡がありました。
そうした住居跡には小さな祭壇が作られ、花や飲み物、菓子などが供えられてありました。
一件だけ残った上野さんの家は津波で骨組みだけになった一階の上がり框に祭壇が設けられ、写真とおもちゃやお菓子が供えてありました。
上野さんに会って話をお聞きしたのは、倖吏生ちゃんが生まれて半年ほど経った頃のことでした。
亡くなった長女と長男の名から一文字づつ貰って名付けましたが、「お姉ちゃんとお兄ちゃんの生まれ変わりだねっていう人もいるけれど、僕にはそう思えない。
永吏可は永吏可だし、倖太郎は倖太郎だと思っている」と言う上野さんでした。
床上まで波を被ったけれど中のものはそっくり無事だった2階には、4月からは大甕幼稚園の年少組に入園するはずだった倖太郎くんの園服が、一度も袖を通さずに真新しいままで残してあると言いました。
その頃上野さんは仮設住宅に入居していましたが、毎日自宅に戻り自宅を拠点に福興浜団の活動を続けていました。
話をお聞きしながら私は、この家は上野さんには思い出が詰まった家、いやそうではなく子供たちと暮らした思い出そのものなのだと感じました。

●思い出が増えていく幸せを大事にしてほしい
思い出の詰まった家の隣に新居を建てたのは被災から3年目です。
辺りは瓦礫やゴミなどはすっかり片付いて、ただただ広い空間が広がっているだけでした。
その後家を新しく建て直して戻って来た人もいますが、元の場所に新たに家を建てたのは、上野さんが一番早かったのではないかと思います。
家の前には夜には電飾で、「笑いあえるところにします」の文字と子供の笑顔が灯りを灯します。
土日や休日などはいつも、家の前には各地からのボランティアの車が停まっています。
〈福興浜団〉として捜索活動や、菜の花迷路作り、花火大会、地元の子供たちのための行事などに取り組んでいるのです。
新しい家のお仏壇には4人の遺影と生花、供物が供えられていますが、思い出の詰まった家の祭壇もまた、折々に季節らしく飾られて、そこは敬幸さんと貴保さんにとって大切な場所であることを窺わせていました。
その大切な家の解体が進んでいました。
「子供たちとの思い出は、津波が来た日から増えません。
それどころか、その思い出を壊さなければならないのは、本当に辛いです。
いつか壊さなければならないとわかってはいたけれど、辛いです」
そして上野さんは言います。
「家族がいる幸せを大事にしてほしい。
思い出が増えていく幸せを大事にしてほしい」

●百姓として生きる
今の上野さんの気持ちをお聞きしたくて訪ねたのでしたが、叔父の長八さんに敬幸さんは、圃場の基盤整理に関して親族から引き継ぐ畑地のことなどで報告や相談があったようで、二人は書面を見ながら話しこみ始めました。
邪魔をしないようにその場で会話を聞きながら、基盤整備や農業政策について考させられました。
親や祖父たちが苦労して高いお金を払って手に入れてきた耕作地ですが、農業を続けられなくなって手放したい人も出てきています。
何千万も出した土地を、数十万でしか売れなくなっている現実。
手放さずに人に頼んで耕作してもらうにも、その耕作地から得られる収入よりも働いてくれた人への支払いの方が高くなる現実。
米作は会津では収益を上げられるが、この浜通りでは全く収益にならない現実。
二人の会話からこのようなことが窺われてきたのでした。
基盤整備して一区画が2町歩になるという長八さんの言葉に、敬幸さんは「2町歩!」と驚きの声を上げました。
「2町歩の田圃なんて、絶対無理だよ!間に畔を作るならともかく、それはできないんでしょう?無理だよ。米は作れないよ」
そして栽培作物として何がいいのか、ケナフかナタネかなどなどの話も出ました。
この基盤整備のことは以前にも「一枝通信」でお伝えしましたが、本当に農業者の実情に合わない政策だと思います。
ただ私自身、もっとよく知らなければならないので勉強していこうと思います。
長八さんが敬幸さんに聞きました。
「敬幸は百姓をするのか?」
敬幸さんは「うん、やるよ。被災前は百姓なんか絶対やらないと思ってたけどね」
農業者だった両親の姿を見てきてそう思っていた敬幸さんですが、今は考えが変わりました。

今度またいつか、ゆっくり上野さんから話を聞かせていただこうと思いました。

◎宿が取れなくて
南相馬に来るときにはいつも2泊3日のスケジュールで、ビジネスホテル六角に泊まります。
六角が満室だったりすると、南相馬の別の宿泊施設に泊まることもあります。
今回は六角も他の宿泊施設もどこも満室で、仕方なく最終バスで福島に戻り福島で1泊して帰京しました。
南相馬で宿が取れなかったのは、作業員の人たちで埋まっていたからですが、福島で私が泊まったホテルもまた、作業員の人たちがいっぱいでした。
寺内塚合第2の藤島さんの言葉を思い起こします。
「復興、復興と言いますが、経済的な復興ばかりで被災者の復興ではないのです」

帰宅してから用事が重なっていて、すいぶん間の空いた報告になりました。
どうぞ、ご容赦を。                       

いちえ






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