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2016年1月29日号「報告」

宜野湾市の選挙結果は与党を喜ばせるような形になりましたが、でも彼らが言うような「辺野古移設を市民が望んでいる」ことでは決してないと思います。
むしろアベ政権のなりふり構わぬ姑息なやり方が、はっきりと露呈したことを示しているのではないでしょうか。
宜野湾市民は、危険と騒音にさらされる米軍基地が普天間から去って欲しいと望みはしても、同じ不安を同胞に押し付けたいと思っていた人はいないでしょう。
佐喜真氏は辺野古移設に言及せずに普天間から基地撤去し、跡地にデズニィリゾートを誘致と言いましたが、これは争点ぼかしではないでしょうか。
沖縄の民意は、「普天間にも辺野古にも、沖縄のどこにも基地はいらない」ではないのでしょうか。
岩国もまたあのような結果になりましたが、結果の分析を封じるマスメディアの言説だけを鵜呑みにせずに、現地の声、当事者の思いをしっかり聞き取り、受け止めていきたいと思います。
野党共闘への道を各党に任せるだけではなく、私たちも地元野党議員に積極的に呼びかけていかなければならないと考えます。
民主党の中にはまだまだ共産党との共闘を拒む意見があるようですから、私は地元の民主党議員に呼びかけるつもりです。

◎報告①
宜野湾市長選投票日前日にセッションハウス・ギャラリーで、野池道子さんの「沖縄を感じる会 vol.2 」を持ちました。
今回のテーマは「島唄でつなぐ沖縄の心」でした。
道子さんが厳選した曲をCDで聴き、その歌にこめられた意味や背景を道子さんが解説してくれました。

●てぃんさぐの花
大和の和歌のように沖縄には琉歌があって、短歌形式のものは8886(サンパチロク)の音で綴るものです。
その形式で伝えられる教訓歌があるそうです。
道子さんの美しい筆文字で、壁にその教訓歌が四首張り出されています。
最初の一首は「宝玉と言えど磨かなければ錆びてしまう 朝夕と心を磨きながら生きて行こう」と書かれていました。
この日は特別に友情出演で、花岡亨さんが始めに三線を弾き歌ってくれました。
何曲か歌ってくれた、その最後の曲は「てぃんさぐの花」でした。
てぃんさぐの花には、この琉歌が歌い込められていました。
 ♪ホウセンカの花は爪先に染めて 親の教えは心に染み渡る
 宝玉と言えど磨かなければ錆びてしまう 朝夕と心を磨きながら日々を生きて行
 こう♪
亨さんが三線に乗せて歌ってくれた「てぃんさぐの花」を道子さんが解説し、この歌の心は「憲法12条」と同じであると言いました。
憲法12条は、こう謳っています。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」

●島唄でつなぐ沖縄の心
「沖縄は歌の中に歴史を刻印しているのではないかと思う」と道子さんは言い、本題に入って行きました。
この一枝通信では音をお伝えできないのが残念ですが、せめて曲目とその歌の心をお伝えします。道子さんの解説には音源のCDで歌っている歌手やグループの名前もありましたが、それは省きます。
【】で囲んだところが歌の説明ですが、♪で囲んだ文章は歌の意味、心です。

1.かぎやで風節(琉球古典音楽)【守礼の邦・沖縄のもてなしの心を表す】
 ♪今日のこの誇らしき嬉しき日を 何にたとえたらよかろうか
  初々しい花の蕾 その上に光る露のようではないか♪
*この歌は琉球王朝の時代、300年〜400年前から歌い継がれているが舞踊も付いていて、人寄せの会では一番最初、幕開けにこの歌を歌う。
琉球王朝の時代は中国との関係がとても深かったが、中国からの使者を迎えたりする際などに舞踊でもてなしをした。
お招きの際には必ず歌舞音曲でもてなし、それを役人がやっていた。
沖縄は武術の「武」ではなく、舞踊の「舞」を非常に大事にするところであった。

2.国頭サバクイ(沖縄民謡)【琉球王府の森から材木を運ぶ木遣り歌】
 ♪サー 首里の王家よ、お材木でございます。
  サー 国頭の材木役人様、拝所の前から(お材木を運び出します)
  サー 名護山の堅木は、重くて引けないよ
  サー 皆々方よ、心を一つにして(引っ張っていこう)♪
*国頭は北部沖縄の北部ヤンバル地区で国頭(くにがみ)と今は言うが、昔はクンジャンと言っていた。
サバクイは森林を管理する役人のことで、クンジャンは王府の森だった。
首里城は火事で3回ほど消失しているが、再建のために王府の森から材木を運び出す時の木遣り歌。(クンジャンから首里までは60km程)
現在クンジャンのヤンバル地区は、映画「標的の村」でご覧になった方もいるように、米軍の北部訓練所になっている。
ベトナム戦争時には、ヤンバルの村人をベトナム人に見立てて、森の中に”ベトナム村”を作り、米軍はゲリラ戦に対する訓練をし、枯れ葉剤のテストもしていた。
琉球王府の森だったところが琉球処分で国の管理地になり、米軍の野戦演習場となったのがヤンバルの森。
材木を運ぶ際には木遣り歌を歌い、また、道化も同行していて笑わせながら危険な労働の緊張をほぐし、笑いながら心を合わせて運んで行った。

3.唐船どーい 七夕エイサー 【沖縄は先祖崇拝、お盆行事に舞い歌う】
*沖縄のお盆は旧暦で行い、お盆が終わりご先祖様をあの世にお送りする時の歌舞や太鼓がエイサー。村ごと、町ごとに青年男女が道ジュネー(道を練り歩く)する。当日の本番前に青年団の若者達が何日も前から練習をする。
エイサーは踊る前に自分たちの村の御嶽(うたき、神様)に礼拝してから始めるが、現在は御嶽が基地の中に入ってしまっているので、基地のフェンスの外から御嶽の方向に向かって礼拝してから始めている。
沖縄の信仰は先祖崇拝で、亡くなってあの世に行ったご先祖様は神様(ウヤファーフジ)になってこの世にいる我々を守ってくださっていると考える。

4.安里屋ユンタ 八重山民謡【士族から発展した節謡に対する口伝えの古謡.労働 歌】
サー 安里屋のくやまちゃんは まったく美しく生まれたものだ
おぉ、我らが愛しのくやまちゃん
サー 島の役人があの子を妾に欲しい どうしても欲しいと望んでいるらしい
サー でも彼女は嫌なんだって 絶対だめだと断ったのさ
サー 島の男を夫に持ちたいの ちゃんと私を知っている方に嫁ぎたい
(若い新良幸人さんの歌う安里屋ユンタは、今風の歌詞です)
*映画「標的の村」の中で抗議する女性が車の中で歌っていたのが、安里屋ユンタだったが、上の歌詞でもわかるようにこの歌は権力に対する抵抗歌。

●私は何者?
道子さんは沖縄で生まれですが、3歳から小学校卒業までは両親、姉と東京で過ごし、中学入学時に沖縄に戻りました。
そのために言葉や習慣など友人たちとの違いに戸惑い、自身のアイデンティティについてとても悩んだと言います。
高校時代に祖国復帰運動が盛んで、道子さんも級友たちとしばしばフランスデモに繰り出したそうです。
その後東京の短大に進み卒業後は、日中国交回復直後の北京に駐在する大使館職員家族のベビーシッターとして2年半を北京で過ごし、沖縄に戻ってからは児童書専門店「夢空間」を始めました。
児童書の店をやっている時期に持ち上がったのが白保の飛行場建設計画で、その反対運動に関わってきました。
道子さんの「夢空間」が、反対運動の拠点になっていました。
白保で沖縄の文化や自然の素晴らしさに触れて、ウチナンチュとしての自分を確立することができたと言います。
「私は私のままでいい」という沖縄の包容力が道子さんを解放してくれ、白保が道子さんに大きな道を示してくれたと、道子さんは言いました。
このCDで安里屋ユンタを歌っている新良幸人くんは、白保の運動の頃八重山の高校生で、道子さんの店に通ってきていたそうです。道子さんの弟分です。

5.赤田首里殿内 【沖縄わらべ歌 元歌は八重山民謡で弥勒信仰を伝える弥勒節】
赤田村の首里殿内に黄金の灯篭を下げてこれに火が灯れば 弥勒様をお迎えだ
 シーヤプー シーヤプー ミーミンメー ミーミンメー
 ヒージントー ヒージントー イーユヌミー イーユヌミー
 大国の弥勒様がわが島においでになる どうぞずっといらして下さい。島の主様
 道々歌を唄って遊びましょう 弥勒様の幸せな世がもうすぐそこですよ
 弥勒様がいらした昔が今戻ってきたよ 御万人が混じり遊ぶ嬉しさよ♪
*沖縄にはミルクさま(弥勒菩薩)を信仰する弥勒信仰がある。
弥勒を沖縄ではミルクと言い、日々礼拝し食べ物をお供えする。
沖縄の信仰は森や泉、川、島など自然を聖域として崇拝するほか、先祖崇拝、ミルク信仰がある。
沖縄では今でも日常的に「みるく」という言葉は使われていて、詩にも歌にもよく出てくる。
(この日の配布資料には、2015年6月23日、70年目の慰霊の日に与勝高校3年生の知念捷さんが詠んだ平和の詩「みるく世(ゆ)がやゆら」がありました。今は平和でしょうか、と問いかける詩です)

●「いくさ世(ゆ)」のうた
ここまでが伝統的な沖縄の行事や信仰、暮らしなどを伝える歌で、弥勒様が守ってくださる世界「みるく世(ゆ)」の歌だったが、この後はみるく世の対極にある「いくさ世(ゆ)」の歌。

6.艦砲ぬ食うぇーぬくさぁ 【沖縄戦の戦世、戦争の悲惨とその後を歌う】
*アメリカ統治の頃に作られた歌。沖縄戦では県民の4人に一人が亡くなった。何千発もの艦砲射撃で亡くなった人も多い。
この歌を作った比嘉恒敏さんも戦争で家族5人を失い、比嘉さん自身はこの歌を作った2年後に、飲酒運転の米兵の車に追突されて亡くなった。
比嘉さんの4人の娘(でいご娘)が歌い継いでいる。
「艦砲ぬ食うぇーぬくさぁ」は、艦砲射撃に食べ残された(生き残った)という意味。

7.屋嘉節 【戦後の捕虜収容所の様子を歌う】
♪なつかしい愛しい沖縄が 戦場になり 御万人の人々は涙にくれる
勝ち戦を願って 恩納山に登り 御万人と共に 戦凌んだ
無残なり石川村 茅葺の長屋 私は屋嘉村の 砂を枕に眠る
心勇む 4本入り煙草 寂しさの月日が流れてゆく♪
*沖縄各地に収容所が作られ、兵隊ばかりでなく市民(女子供)も収容所に入れられた。
屋嘉村の収容所は兵隊たちの捕虜収容所で、床もない茅葺の長屋で、砂地の上で日々を過ごした。「砂を枕に眠る」は文字通り、砂の上に寝起きしたことを歌っている。
4本入りの煙草は米軍からの支給品。
米軍基地のキャンプシュワブも元は捕虜収容所で、収容所で亡くなった人たちの遺骨もそのままあるが、その後米軍基地になってしまったために掘り出せずにいる。
戦争が終わって直ぐに人々は皆収容所に入れられ、その間に人家も畑も潰して基地が作られていった。

8.ヒヤミカチ節 【立ち上がろうのうた】
♪名に立ちゆる沖縄 宝島でむぬ 心うち合わち 御立ちみそり 御立ちみそり
ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチウキリ ヒヤミカチウキリ
稲粟ぬなうり みるく世の印 心うち合わち 気張いみそり 気張いみそり
楽や鳴いしゅらさ花や咲ち美らさ 我したくぬ沖縄 世界に知らさ世界に知らさ
我んや虎でむぬ羽ちきてぃたぼり 波路パシフィック渡てぃなびら渡てぃなびら
七転び転でぃヒヤミカチ起きり 我したこの沖縄 世界に知らさ 世界に知らさ♪
*沖縄では戦争前から、ハワイや南米への海外移住が盛んだった。
ハワイへ移住していた人が戦後沖縄に戻って惨状を目にし、みんな立ち上がろうよ、これからも頑張って生きて行こうよと励まし呼びかけた歌。
一昨年の県知事選の時に翁長さんの選挙カーでは、この歌を流していた。
道子さんも翁長さんの選挙活動を共に闘いたくて沖縄に住民票を移したが、選挙期間中は町中にヒヤミカ節が鳴り響いていたそうです。

9.一坪たりとも渡すまい 【1960年代アメリカ統治(アメリカ世(ゆ)時代の歌】
♪東シナ海 前に見て わしらが生きた土地がある
この土地こそは わしらが命 祖先ゆずりの宝物
われらはもはや だまされぬ 老いた堅き手のひらは
野良の仕事の傷のあと 一坪たりとも 渡すまい
黒い殺人機が今日も ベトナムの友を撃ちに行く
世界を結ぶこの空を 再び戦で汚すまい♪
*ベトナム戦争中の1966年に米軍は、天願桟橋強化のために昆布地区の土地接収計画を立てた。
昆布地区の地主たちは闘争小屋を建てて阻止行動を続けたが、これは、その闘争小屋で作られ歌い継がれた歌。
そして米軍は、’71年に計画を断念した。
闘争小屋に男性が居ると米軍との戦いで血を流す事態も起きそうになるので、多くは女性たちが闘争小屋にいたという。
闘争小屋に張り付いていると畑も荒れてしまうが、支援の人たちが畑の手入れをしたりしながら、闘争を続けた。
’60年代のこの時期、ヤマトが高度経済成長の時代、沖縄は米軍統治で人権もなく、あんなにひどい戦でもう戦争は嫌だと思っていた沖縄の人の土地が基地にされ、ベトナムの人たちを殺しに行くB52戦闘機が、そこから発進して行った。
ベトナムの人たちは、沖縄を悪魔の島と呼んだ。
(この日は、この曲以外はすべてCDを音源にして流しましたが、これはCDが無かったので、道子さんが歌いました。若かりし日の私も、デモでよく歌った歌です。道子さんに唱和して歌っていました。「沖縄を感じる会」からもう一週間も経っていますが、今も私の頭の中では「一坪たりとも渡すまい」が、エンドレステープのように回っています)

10.黄金ぬ花【広大な土地を基地にされ、働く場のない若者逹の多くはヤマトへ】
♪コガネの花が咲くという噂で夢を描いたの 家族を故郷、故郷に
置いて泣き泣き 出てきたの 素朴で純情な人たちよ きれいな目をした人たちよ
黄金でその目を汚さないで 黄金の花は いつか散る♪
*道子さんは高校時代には友人たちと制服で復帰運動のデモに加わったそうですが、その頃の友人たちの多くも沖縄には働き場所がなくて、本土に就職口を求めて出て行った人が多くいるそうです。
そうして出て行った若者たちを案じて、歌われた歌。
道子さんは言いました。「この歌を聞くたびに、豊かな自然に育まれた沖縄の文化や、貿易で栄えた琉球王朝を返して欲しい。経済よりも大事なものがあるだろうといつも思う」

11.おしえてよ亀次郎 【不屈の政治家、瀬長亀次郎】
*戦後のアメリカ統治時代、沖縄の民衆には人権はなかった。
レイプされて殺される女性や、米兵の車に轢き殺されることなどは日常茶飯時のようにあった。小学校に米軍機が墜落して多くの児童が死んだこともあったが、その時代に瀬長亀次郎さんという政治家が、人権を守るために闘った。彼は出入国管理令違反で懲役2年の刑を受け投獄もされたが、演説の非常に巧みな人で、りんご箱の上に立って話すのを聞くために、彼の行く先々で大勢の人が集まった。
保守革新を問わず人々に愛された不屈の政治家で、現在も那覇に瀬長亀次郎を記念する「不屈館」がある。沖縄に行ったら、是非訪ねてみて欲しい。
復帰後、沖縄の西海岸は大手企業がこぞって買い、ホテルやリゾート施設などを造り、その工事によって土砂が海に流れ込んだ。
自然保護条例があっても誰もそれを守ろうとせず、沖縄の土質は粒子の非常に細かい赤土なので海の水は真っ赤になりオニヒトデが大量発生してサンゴをダメにしてしまう。
「こんな状況をどうすればいいのか、亀次郎さん、あなたならどうする?教えてください」という歌。
リゾート地は、昇る朝日ではなく夕日を眺められるところが選ばれ、そのために西海岸は今でもリゾートホテルなどが造られている。
基地ばかりかこのようにヤマトの企業によっても、沖縄の環境は破壊されている。
「亀次郎さん、あなたならどうする?」

12.我達が生まり島 【故郷の宮古島の言葉で歌う】(歌:下地勇)
*この歌を作り、歌っている下地勇さんは言います。
「この歌は永遠の僕の代表曲です。宮古島久松の、日常に転がっている情景を集めて、親父に聴いてもらおう。そして笑わせてやろうという気持ちで書いた曲です。初めて親父の前で歌ったら、笑いながら涙ぐんでいました。生まれて初めて自作の曲を録音した10分のカセットテープはA面が「サバぬにゃーん」でB面がこの曲でした。僕は歌が歌えなくなるまで、この歌を歌い続けるでしょう」
下地さんは那覇を根拠に活動しているが、この曲は故郷の宮古島の言葉だけで歌っている。
宮古島の言葉は沖縄本島と違うので、道子さんが聞いても全く判らないという。
自分の住んでいた愛しい宮古の久松の、ありふれた日常、情景を宮古の言葉で歌っている。
彼は都会で暮らしていたのだが、ある事件をきっかけに島に帰った。
1995年、11歳の少女が3人の米兵にレイプされ、10万人が抗議集会に集まったことが報道され、そのニュースを知って帰ってきた。
この事件を契機にふるさと沖縄に帰ったのは、彼だけではない。
都会に出て働いていた多くのウチナンチュウが、愛しい故郷をこれ以上いたぶらせたくないと言う思いから、沖縄へ帰ったという。
そして彼は、宮古の言葉で歌い始めた。
生まれ育った故郷、宮古の暮らしや文化をしっかり伝えたいと言う思いから宮古の言葉で歌っているのだろう。
その宮古島が今、自衛隊ミサイル部隊配備基地として狙われている。
いつまで続くのか、この際限のない苦しみ。

13.カーミヌクー DUTY FREE SHOP 【ラップ青年たちの魂の叫び】(歌:地花たつみ他)
*タイトルの「カーミヌクー」は亀甲墓という意味。
ーーリズムとイズムの狭間で歪む かき回される魂の雫
  気づくと海には夕日が沈む また一つ言葉を失う
  リズムとイズムの狭間で歪む かき回される魂の雫
  海の白砂知ってか知らずか また一つ言葉を失う
ーー失ったら元ねー戻ららん言葉 深く深く掘れボキャブラ
  はっしゃやーや誰ーやが? 晴れた日には心が暴れだす
  マイク持ちまして心を解き放つ 沖縄発!待つのじゃなく踊らす
  年がら年中ココナッツ ここは夏
  ヤマトナイズされていく うちなんちゅ「らしさ」についてもう一度問いかけ
  る
ーー沖縄、生まれ育ち愛してやまない島 やしがまた年々自然や文化が
  失われつつある今 無くしていいばー? 我した島言葉
  (中略)
ーー言葉を奪い自我を封ず同化政策 大和ナショナリズム振りかざしたような
  生活
  やしが耳を澄ませ 島の唄は鳴り止まぬ 脈々と根を張り伸びるlike a ガジュ
  マル
  始まりルーツ探しの旅 くれー自分探しの旅 踏み出す足 海ぬ風や澄み渡り
  高い思想 深い思想 深入りしそうな黄金 肝がなさオジーオバーの立ち姿
*沖縄のお墓は亀甲墓といって大きな墓で、墓の前が大きな前庭のようになっている。清明祭にはご先祖様(亀甲墓)の前に一族が集まって、近況をご先祖様や集まった親族に報告し、お供えしたご馳走を一緒に食べてご先祖様への感謝の思いを伝承している。
亀甲墓をタイトルにしたこの唄は、地花たつみ君が20歳の時に作った記念アルバムで、沖縄の現状をラップで語っている。
この唄の中にもミルク世(ゆ)という言葉が入っている。
作者は今35歳なので15年前の唄だが、15年前には普通に歌にあるようなことを言えていたが、今はネトウヨの跋扈で自由にものが言えなくなってきている。
彼のところにも、いろいろな攻撃が押し寄せているという。
現在彼は音楽活動を通して、辺野古での村おこしの活動を支援している。
辺野古は小さな漁村だが、国は住民の土地や漁業権を買い取りお金を落として、住民は辺野古移設承認というような形をとる。
しかし辺野古の人たちは、それを喜んでいるわけではない。むしろ県知事はじめ多くの同胞が沖縄の誇りのために頑張っているのに、自分たちはお金をもらってしまっていることを苦しく辛く思っている。
たつみ君は村の青年たちの音楽のお祭りなどに参加して、村の人たちの気持ちを盛り立ててあげたいと、村おこしを手伝っている。

●巡り巡って繋がる縁
8886の琉歌をラップで歌えないかと考えていた道子さんは、このラップ青年を紹介されて会いました。
会った途端に彼は、「僕の母親は地花玲子です」と言い、彼が子供の頃に読んでいた絵本はみんな、道子さんの児童書店「夢空間」で買ったと母から聞かされたと言いました。
地花玲子さんは道子さんの友人であり、道子さんに白保への導きをしてくれた人です。
それを聞いた道子さんは驚くとともに、「運命的な出会い」を感じたそうです。
那覇にあった道子さんの児童書店「夢空間」は、白保の空港建設反対運動の拠点になっていた場所です。
ウチナンチュばかりでなくヤマトや海外の支援者たちも、そこに集まりました。
もちろん、集まった人の中には、地花玲子さんもいました。
道子さんは長野県から来ていた支援者の野池さんのプロポーズを受けて、長野のリンゴ農家に嫁いだのです。
その道子さんは2年前に住民票を沖縄に移し、数ヶ月毎に沖縄と長野の往復する生活を送っています。
沖縄にいる時には辺野古や高江で座り込みや仲間づくりをし、長野では各地で「沖縄を感じる会」を開いているのです。
そして沖縄では、かつての「夢空間」のようなみんなが集まれる拠点を作ろうと、今動いているところです。
「沖縄を感じる会」の第1回のテーマは、「歴史と文化」でした。
第2回のテーマに、「島唄でつなぐ沖縄の心」を考えた時に、琉歌をラップで歌えないかと思いつきラップの歌い手を紹介されて会ったのが、道子さんがウチナンチュとしてのアイデンティティを確立するきっかけを作ってくれた友人の息子さんだったというわけです。
道子さんが「運命的な出会い」を感じたというのも、宜なるかなと思います。

★野池道子さんの「沖縄を感じる会 第2弾」は、参加者は30名に欠けましたが、半数以上の方がアンケートを書いてくださいました。
どなたの回答もとても好評で、島唄を通して沖縄の心が皆さんに通じたようで、嬉しいことでした。
参加者の中には小学2年生の女の子もいましたが、彼女もアンケートを寄せてくれました。
アンケートの問いの一つに「あなたが沖縄を考える時には、どんなことが頭に浮かびますか?」があるのですが、彼女はそれに絵入りで答えてくれました。
「ひこうきがていくうひこうでとんでくる所」と。
彼女の家は羽田空港に近く、今羽田発着便の増便で住宅地の上空近くの飛行が問題になっていますから、自分の身に寄せて沖縄を感じたのでしょう。
でも9歳の少女が道子さんの話からこんな風に感じ取っていることに、私は大きな感銘を受けました。
次回の日程は未定ですが、次は大地と海の生き物たちを通しての「沖縄を感じる会」です。
詳細が決まりましたら、またお知らせいたします。

◎報告②
沖縄の浅井さんからの現地報告が届いていました。
1月12日に届いていたのに、お伝えが遅くなりました。
添付しますが開けない方は、下記でご覧ください。
http://o-emu.net/tarkuratar/


2016年1月25日号「お詫び」

◎その⑴
前便で昨日24日午前10:45〜のNHK番組に、高橋宮子さんが出ることをお伝えしましたが、錦織さんのテニス中継になって、宮ちゃんの放送は延期になりました。
昨日、NHKから宮ちゃんに電話があって、「今日は高橋さんではなく錦織さんの番組を流すことになりました。高橋さんに出ていただいた分は、また放送日が決まったらお知らせします」という電話だったそうです。
宮ちゃんから聞いて、私は憤慨しています。
テニス愛好者には、錦織選手の活躍は見逃せないでしょう。
それは理解できます。
でもこうして福島や被災者は、どこかへ押し出されていってしまう。
きちんと決まった枠での放送ではなく、局の都合に合わせての枠外での放送にしていく姿勢は、福島を、被災者をないがしろにしていると思えてなりません。
というわけで、宮ちゃんの放送は流れませんでした。
昨日10:45にNHKにチャンネルを合わせてくださった方に、お詫びします。

◎その⑵
やはり前便で南相馬からの帰路、八木沢峠の雪道が心配なので仙台経由で帰ったことをお伝えしたのですが、「八木沢峠」を「柳沢峠」と記していました。
変換間違いです。
お詫びいたします。                         

いちえ

関連:

2016年1月19日号「南相馬1月18日」

昨夜の天気予報では、今日は大雪と出ていたので、目覚めて外を見ると雪ではなく雨でした。
地面も全く雪はなくほっとしましたが、雨脚は繁く、風も強く吹いていました。
今日は鹿島の仮設住宅を訪ね、ぶさこちゃんやストラップのお猿さんなどのカンパ金を届けてから、帰宅するつもりでした。
でも天気が心配でした。
南相馬は雨でも、八木沢峠や飯舘村は雪でしょう。
福島への道中は峠を越えますから、バスが運行するかが心配でしたし、福島へ出ずに仙台へ出るなら道は心配ないけれど、新幹線の運行状況が心配でした。
仮設住宅を訪ねても部屋に上がらずに、お金だけ渡して原町駅に引き返すつもりで出かけました。
でも、集会所を訪ねてみれば皆さんが待っていてくださって、また他の人を呼びに行ってくれたりもして、結局は上がりこんでお茶を飲み、ハルイさんのつけた白菜漬けをお茶受けに、お喋りに花が咲いたのでした。

◎白鳥の道
六角から鹿島の仮設住宅へ行くのに、トシさんに送ってもらいました。
トシさんは六角支援隊の助っ人です。
時々、萱浜のトシさんの仕事場を訪ねたり、トシさんが友達を紹介してくれたり、その友達との飲み会に誘われて混ぜてもらったりもしています。
また私の友人と一緒に、トシさんに被災地ツァーを頼んだこともありました。
前の冬に、仙台の友人と浪江の請戸まで連れて行ってもらったことがありました。
まだ、許可証がなくても浪江に入れた頃のことです。
雫から江井、小浜と海辺には白鳥の群れ、辺りの水をかぶった田んぼにも白鳥が群れていました。
トシさんにそれを言うとトシさんも「ねぇ、あれはすごい群れだったよね」と。
私は南相馬に通うようになってから見た白鳥の群れですが、トシさんはずっと子供の頃から見ていたと言いました。
その声を聞いて育ったと言いました。
でも今は、白鳥の群れは、どこにも居ません。
白鳥の群れを見た辺りはフレコンバックが積み重ねられている仮々置き場になっています。
白鳥はどこか違い地へ、冬の居場所を定めたのでしょう。
原発事故は人の暮らしばかりでなく、他のいのちのあり方も変えてしまいました。

◎ハルイさん
小高の浦尻に家がありました。
3月11日、浦尻の公民館の2階のベランダで津波から逃げてきた他の人たちと一緒に、自分たちの集落が流されていく様を見ていました。
そこでハルイさんが目にしたのは、それだけではありませんでした。
消防隊員の孫が、歩けないお年寄りを背負って逃げる途中で波に呑まれていく姿を、ただただ涙を流しながら見ているしかなかったのです。
これは、ここで私がぶさこちゃんの講習会をした時に聞かせてもらったことでした。
この仮設住宅で津波で身内を亡くした人は、ハルイさんとヨシ子さんの2人です。
家を流された人は他にもたくさんいますが、ヨシ子さんは「ハルイさんとは、何にも言わなくても気持ちは通じるんだ。やっぱり家族に死なれた人でないと、この気持ちはわからないからね。だから他の人には家族が死んだことは、話さないんだ」と、その時に言っていました。
仮設住宅での月日を重ねるうちに、悲しみは決して消えないけれど、悲しみを抱いて互いに話せるようになり、今はヨシ子さんが集会所にいればみんなが集まってくるし、ハルイさんがみんなを笑わせているのです。
この日も、ハルイさんの話にみんなお腹を抱えて笑い転げたのでした。

◎病院通い
津田さんは、いつも両手をコメカミに当てていますが、頭痛が取れないと言うのです。
以前に聞いた時には医者に行ったら肩こりからではないかと言われ、マサージに通ったら揉み返しで却って辛くなり、すると今度は精神科に行くように言われ、そこで処方された薬を飲んでいると言っていました。
今日もまた自分でコメカミを揉んでいる津田さんに、「まだ頭が痛いの?」と聞くと「この間医者に行って診てもらったら、血圧が高いからじゃないかって言われて
血圧の薬を飲んでいる。それで頭が痛いのは消えてるけど、なんかフラフラするのよ。目からも来てるらしくて、メガネを作ったんだ。だけど、私は目は悪くないんだよ。だって見えるんだもの。先生にそう言ったんだけど、検査したらメガネかけたほうがいいって言われて、作ったんだ。遠くを見るのと近くを見るのと一つのレンズになったメガネね」
遠近両用メガネを作ったという津田さんですが、遠近両用メガネは私も以前使ったことがありましたが、使い慣れるまでが大変で、私は結局使いこなせませんでした。
顔や眼球の位置を使いたいレンズ側、上のほうとか下のほうとかに合わせないと却って見えにくくなってしまうのです。
私がそう言うと津田さんは、「そう。私も慣れないし、かけなくても見えてるから使わないんだけど、メガネを首にかけてると安心するんだよね。今日は首にかけてくるのを忘れちゃったから、それでなんか頭が痛いんだ。メガネがあると安心できるからかもしれないけどね」
津田さんはまだ50代なのですが、介護が必要な父親がいます。
お父さんは胃がんの手術をしているので、食事の世話が大変です。
お母さんは亡くなっていますから津田さんがお父さんの食事を作りますが、もともと料理が得意ではなかった津田さんですから、それがきっと大きな負担になって体調に出ているのではないかと思います。

誰もが何かしら体調不良を抱えています。
今年度中は医療費が無料(入院の時の食費や個室の場合の部屋代は個人負担)になっていますからいいのですが、仮設住宅を出てからが大変です。
歳を重ねれば医者にかかる頻度は増えていくでしょうから、高齢被災者の生活はこれからもっと大変になっていくと思います。

◎作業員で増えている人口
南相馬には今、作業員が7000人も入っているそうです。
建設や除染など様々な作業です。
私の定宿のビジネスホテル六角も作業員の人たちが宿泊しているので、時には予約が取れないこともあります。
市内には新たに作業員宿舎がどんどん建ってきていますし、宿泊者の激増を見越してホテルも建てられてきています。
作業員宿舎はプレハブが多いですが、ホテルはプレハブというわけにはいきません。
他人事ながら心配なのは、大きなホテルを建てても様々な工事などが一段落すれば宿泊客は、野馬追いの時期だけになるのではないかと思うのです。
また、コンビニも増えていますが東京などと比べても給料はずっと高いのに、それでもなかなか働き手が集まらないそうです。
作業員もいろいろな人がいますから、治安も悪くなっているのは事実のようです。
とはいえ、実際にはその人たちがいなければ建設も除染も進まないし、また悪い人はほんの一部で大多数の人たちは被災地のためにとしっかり仕事をしてくれているのでしょうが、地元の人にとっては、不安も大きいようです。

◎窓外の景色
16日仙台までの新幹線から見た風景は、雪のない山林や畑でした。
2011年の夏から福島に通うようになって、この季節に雪がないことなどなかったのです。
でも、帰りには南相馬から新地を過ぎて山元町に入る頃から雨は雪になり仙台も雪道、仙台からの新幹線では雪景色でした。
「きれいだなぁ」と思い眺めていました。
こんな風に素直に「きれいだ」と思えたことは、原発事故以来初めてのことでした。
雪景色を見ても、怖かったです。あの下に放射能が積もっている、と思えていて。

福島に通う時に窓の外を眺めながら、私はいつも想っていました。
ずっとずっと昔の、そこに住むのは狩猟採集で暮らしていた人たちの頃のことを。
きっと今見えている小高い丘や川や、それらの地形はその頃も今と変わらずにあって、もしかすると樹木の種類は今とは違っていたかもしれないし、田畑は原野だっただろうけれど、地形はさほど変わっていないだろうと思うのです。
窓の外を眺めながら、私はいつも、そんな昔の姿を想うのでした。
帰りの雪景色にまたそんな想いを強くしました。
新幹線に少し遅れは出ていましたがちょうど宇都宮にかかる頃、西の空は残照で
茜色が低く帯に広がり、上空は納戸鼠の色。
私たちの暮らしは、これからどうなっていくのだろう?
そんなことを考えながら帰りました。               

いちえ


2016年1月18日号「南相馬1月17日」

午前中に訪ねる予定だった方から、出かけなければいけない用事ができたと連絡があったので時間が空いて、博物館に行ってきました。
以前にも訪ねたことはあったのですが、人と一緒で限られた時間での見学でした。
せっかくの空き時間なので、ゆっくりと見学しようと思ったのです。

◎南相馬市博物館
博物館の常設展示は○相馬野馬追、○自然、○歴史(原始〜現代)、○民俗で、相馬野馬追の展示がかなりスペースを取っています。
やはり野馬追は、この地で暮らす人にとって書かせない大事な行(祭事・神事)である事が判ります。
歴史や民俗の展示物からは、被災した方達から聞かせてもらっていたこの地の暮らしぶりが目にみえて窺えました。
話を聞いている時には「ふ〜ん」とか「へぇ〜、そうだったのか」などと、驚いたり感心して聞いていただけだった事柄が、もっと実感を持って感じられてくるのでした。
Aさんからは、子どもの頃に家畜に履かせる藁靴を編んだ話を聞いていました。
その藁靴の実物や、牛や馬と共にある暮らしぶりが展示されているのを見て、Aさんの子どもの頃のこの地の様子が、目に見えるように思い浮かべられてくるのでした。
またTさんからは新田川をサケが遡上する話を聞きましたが、展示されているサケ漁の網からも、同じように感じました。
耳で聞いていた事を眼で見て具体的な像に結べると、聞いていた話が生きてくるように思えます。
ゆっくり見学できてよかったと思いました。
特別展は「被災地からの考古学 1—福島県浜通地方の原始・古代ー」でした。
古くからの歴史があった地域ですが、東日本大震災、原発事故、その後の復旧作業や復興のさまざまな工事などの影響をどのように受けるのか、歴史を語る貴重な遺跡類はどう保存されていくのか、関心を強く持ちました。
帰還困難区域内に在る遺跡の保全など、気になる事も多々あります。

◎「子どもの声が聞こえない」
博物館からほど近い鈴木さんのお宅を訪ねました。
ちょうどご夫婦とも在宅で、久しぶりにゆっくり話ができました。
お二人は原発事故後、一時は東京へ避難しましたが、東京での生活は却ってストレスが多く、1週間ほどで自宅に戻りました。
戻ってからは大留さんと共に、「六角支援隊」のボランティア活動を続けてきました。
だから私も南相馬に通うようになってからずっと、鈴木さんと一緒に動いてきていました。
六角支援隊が一昨年の3月で活動を閉じてからは、あまり会う機会もなく過ぎていました。
つもる話をたくさん交わしましたが、考えさせられる話もありました。
鈴木さんの家の近くには小学校があります。
原発事故以前は、学校への行き帰りに家の前を通る子どもの声が聞こえたのに、今は聞こえないというのです。
子どもの居る家族が他の地へ避難しているので、子どもの数が減っているからという理由からだけではなさそうです。
登校下校時に、親が車で送り迎えをしていると言うのです。
通学路は一応除染はした事と思いますが、それでもその脇の草むらなど除染しても線量が十分に下がらない、あるいはいったんは下がってもまた戻ってしまった地点もあるかもしれません。
そういう場所に子どもを近寄らせたくないという、親の気持ちは痛いほど判ります。
その一方で、毎日の通学時に子ども同士の触れ合いがない事は、どうなんだろう?とも思います。
もし子育て中の私がここに住んでいたらどうしただろうかと、考えます。
「避難させるべきだ」「除染して、そこで暮らしたい」「除染は意味がない」「安全と言われても安心できない」「安全が疑わしいのにそこに戻る事は、”安全”を言い立てる側に与することだ」
などなどいろいろ聞こえてくる中で、いま現実にここで暮らしている親たちは思い悩みながら居る人が多いだろうと思います。
自信を持って「これでよし」と持って過ごしている人は、きっと少ないでしょう。
鈴木さんは言います。
子どもの声は老人たちを元気にしてくれるけれど、子ども自体が少なくなっている南相馬で、こうして子どもの声が聞こえない事はとても寂しい、と。

◎お知らせ
高橋宮子さんを訪ね、昔の話を聞かせてもらいました。
子ども時代、娘時代の事、結婚した頃のことなどなど、いつか「一枝通信」で宮ちゃんの昔語りを、お伝えしたいと思いますが、今日はお知らせを一つ。
1月24日(日)午前10:45〜NHKテレビ全国放送で、宮ちゃんが出ます。
ぜひごらん下さい。
この日に私が宮ちゃんから聞かせてもらった「宮ちゃん一代記」は、いつかまとめてお伝えしたいと思います。
その前に、どうぞ24日のNHKを、ごらん下さい。              

いちえ


2016年1月17日号「南相馬1月16日」

南相馬に来ています。
今回は南相馬に入る前に、浪江から避難して相馬に転居した知人を訪ねました。
かつて商船の船長さんをしていた渡部幸一さんです。

◎船で行きたかった中国
私は保育園を退職した1987年からの10数年間、幾度となく旧〝満州〟各地を訪ねました。私は1945年1月に、満州国濱江省の省都哈尓濱(ハルビン)で生まれました。
父はその年の7月20日に現地召集(根こそぎ動員)で招集され、それきり帰ってきませんでした。
ハルビンに行ってみようと私が思ったのは、母を亡くした後でした。
初めてのハルビン行は1987年5月でした。
2度目のハルビン行で思いがけずに哈尓濱外僑養老院を訪問して、残留夫人たちに会いました。
その人たちに会いに通い、また旧〝満州〟の中国各地に残留婦人・孤児を訪ねるようになりました。
成田から北京へ、そして空路ハルビンへ行く事もありましたし北京から列車で行く事もありました。
また成田から大連へ、そこから空路または陸路で行く事もありました。
でも戦時中に私の両親や開拓団の人たちが行った時は、飛行機ではなく船で行った筈なのです。
私も船で行きたいと思いました。
中国にしろ朝鮮半島にしろ船で行った時に、出航して何日間か後にその陸地がみえた時、どんな思いが胸をよぎるのだろう、それを体で感じたかったのです。
でも日本と中国を結ぶ客船は、神戸=上海間を航行する鑑真号だけでした。
当時の人たちの体験により近い船旅をしたくて鑑真号ではなく他の方法はないかと、いろいろと訊ねてみたのでした。
2年目にようやく横浜から大連に行く貨物船が、乗船させてくれると言ってくれたのでした。
船籍はギリシャの三井商船で、船長と機関長は日本人、他の乗組員はフィリピン人でした。
その時の船長が渡部幸一さんです。
何度も通った旧〝満州〟とそこで出会った人たちや、またこの時の船旅のことなどは拙著『ハルビン回帰行』(朝日新聞社)に書きました。

◎渡部幸一さんとの再会
3・11後の夏から南相馬に通い始めた私ですが、仮設住宅で渡部姓の人に会った時にはもしかすると船長さんの親戚ではないかと訊ねましたが、いつもハズレでした。
ところが昨年3月1日に南相馬で、催された「 team 汐笑」主催の講演会[福島から考える未来]に、渡部船長が来て下さったのでした。
申し訳ない事に私はお顔も忘れていて、最初は気がつかなかったのです。
「一枝さん、渡部です」と声を掛けられてようやく気づいて驚いている私に、新聞にこの催しの告知記事があったのを見て来て下さったと言うのでした。
その時にご自宅が浪江町だったので避難して相馬に家を建て、今は相馬に住んでいるとお聞きしたのでした。
いつかゆっくりお話を聞かせて下さいとお願いをして、そしての今日でした。

◎渡部幸一さんの話
もうだいぶ以前、私が乗船させてもらってから数年後に定年で船から降りて「日本船舶職員養成協会」の海技専門学院で教鞭をとっていましたが、昨年の3月末で退職したそうです。
自宅は浪江町の海からは離れた地域だったので、津波の被害はなく家はそっくり残っているそうです。
ご実家は請戸の漁港のすぐ側で、きょうだいたちの家も海に近くお姉さんの家は漁港から100mほどだったそうです。
実家もきょうだいたちの家もみんな流されたが、誰も犠牲者は出なかったと言いますから何よりだと思いました。
●3月11日
大きく揺れた地震で庭に出て、揺れが収まるとすぐに車を出してお姉さんの家に向かったそうです。
お姉さんは3年前に連れ合いを亡くされて一人住まいになっていたので、何かの時にはすぐに助けに行かなければと、常々心がけていたそうです。
お姉さんの家に着くと、お姉さんは近所の人たちと外にいたそうです。
避難するからすぐ車に乗るように言ったところお姉さんは、仏壇にしまってあるお金を持ち出さなければと言うのですが渡部さんは「そんな事してないですぐに乗れ」とお姉さんを乗せて、自宅へ戻ったと言います。
その時はまだ道路には避難の車はまったくなく、渋滞もなく戻れたと言いますがその5分後にはもう渋滞で動きが取れないような状態になって、そこで多くの人が亡くなったのでした。
その夜は渡部さん夫婦と同居の息子夫婦、孫、助けてきたお姉さんは「いま考えると電気が来てないんだから掘りごたつなんかに入ってないで布団にもぐってれば暖かかったんだけど
みんなで掘りごたつに足突っ込んで、寒いから石油ストーブ付けてたんだよな」と、夜を明かしました。
あまりにも大きな出来事が起きた後では、きっと普段なら当たり前に気づくこんな事にも気づけなくなるのかもしれません。
●3月12日
朝8時、10キロ圏内は避難の指示が出て、6人は車2台に分乗して家を出て逃げましたが途中でカーナビを見た息子が、家は10キロより500mほど外側にある事に気がつき、またみんなで自宅に戻り片付けをしていたそうです。
●3月13日
その朝、20キロ圏内避難指示が出て、車にテントや毛布ストーブ、灯油などを積んで津島の親類の家に避難しました。
「わしは船に乗ってたから車はいつもガソリン満タンにしておく癖がついてたから、よかった」と渡部さんは言います。
また、11日の地震の揺れが収まるとすぐに海辺のお姉さんを迎えに行ったのも、周囲の人に言わせると「あんたは商船に乗ってたからすぐ津波から逃げること考えたんだろう。漁船に乗ってると、まず船を確認しなければと海に見に行こうとする」ということで、これもまた職業柄身に付いていた危機管理法なのかもしれません。
避難の時にテントや毛布、ストーブなど持ち出したのもこの日頃の危機管理意識からだったのではないでしょうか。
実際には渡部さん家族ははこれらを使わず、津島の避難所に居たきょうだいや親類たちに渡して、彼らは多いに助かったそうです。
原発の爆発音は聞きましたか?と訊ねると、「船に乗ってたから周波数によっては聞こえない音があるんだよ。職業病の一種だな。爆発音は聞かなかった。希望の牧場の吉沢さんも聞いたって言うのにな」
●3月16日〜4月11日
津島の親類宅で3日間過ごし、長女の夫の実家の新潟へ移動して、そこでも3日間過ごし、次に妻の兄がいる川越に避難しますが、川越でも3日間過ごした後で、千葉にいる甥(助けた姉の息子)が雇用促進住宅を用意するから千葉に来いと言ってくれ、千葉に行きました。
千葉で雇用促進住宅に入るまで10日間は市内のホテルに居て、その後雇用促進住宅へ入りました。
ところがそこに居ては町の情報がまったく判らないので、渡部さんは4月11日にまず一人で町の役場が在る二本松に行きます。
二本松に行って浪江町の避難所を教えられ行くと、そこは東和の体育館でした。
もうその頃はそこを出て他の避難場所に移った人たちも多かったので、体育館には毛布も畳もかなり残っていたので上下に毛布を何枚も重ねて寝たそうですが、体育館は床の近くに掃き出し口(空気孔?)が開いているのでそれでも寒く、車に積んであった海上での実技指導の際に使用する防寒着を着て寝たと言います。
●岳温泉へ避難
その避難所の上の階に役場があり、係にどこへ避難できるのかを確かめると、岳温泉の避難所に入れる事が判って、家族も千葉から岳温泉の避難所に移ってきました。
岳温泉の何ヶ所かの旅館が避難所になっていたようですが、渡部さんの入ったところは比較的小さな旅館で旅館の対応もとても親切だったそうですが、旅館によってはいろいろと難しいところもあったそうです。
一度に大勢の避難者を受け入れると、受け入れる側もまた対応に苦慮するという事なのかもしれません。
●2013年
いつまでも避難所で過ごす訳にもいかないからという事で、相馬に土地を求めて渡部さん夫婦と息子家族の家を同じ敷地内に建てたのが2013年だったそうです。
相馬はまったく縁もない地でしたが、息子の嫁の勤務先に近い場所をという事でここを選んだそうです。
浪江町は20キロ圏内ですから集団移転地はない訳で、だとすると渡部さんは個人移転という事になりますかと訊ねると、そうだと答えが返りました。
南相馬では津波で家が流された人が集団移転地(市内です)に新居を建てる場合は、土地購入代金の借入金の利子については補助があったり引っ越し費用負担がされたりするけれど個人移転ではそうした補助がない事を話し、浪江ではどうなのでしょう?と訊ねると、やはり全部自己負担だったと言います。
けれども、渡部さんは言います。
「浪江は災害復興住宅を原町にも造ったりしているから、そこに入る人も多いだろうね。だけどわしの時は何にも補助はなくて全部自分持ちだったけど、今はいろいろ賠償や補償が出るようになったみたいだから、わしは早くやり過ぎて損したかもしれないと思う。
けど、わしは家が残ってるから賠償が出たけど流された人は気の毒だ。賠償が何にもないからね」
20キロ圏内で津波で家を流された人には、家屋に対する東電の賠償金はありません。
原発事故以前に家屋は喪失していたので、賠償責任はないという訳です。

◎他にもたくさんの話を聞きましたが
渡部さんからは避難生活について家族や身内の方達に起きた事、また支援物資支給の際のさまざまな問題点など、もっともっとたくさんお聞きしましたが、それらの中からぜひお伝えしたい事が一つあります。
長女が子ども(渡部さんの孫)と共に、夫の実家が在る新潟に避難していた時の事です。
孫息子はちょうどその春から小学生でしたから、新潟の小学校に入学しました。
学校ではクラスで友達や先生と話もできず、親に対して先生からは問題がある事を指摘されたそうです。
家に帰ると母親の側を離れず一人で居られなかったそうなのです。
あるとき二女が新潟に姉を訪ねて行き、帰ろうとすると、一緒に連れて行ってくれとしがみついて離れず、二女が車に乗ってからもその車のドアにしがみついて泣いたというのです。
それまで陽気な口調で話していた渡部さんでしたが、「わしはそれを聞いた時は、悔しくてな、悔しくて…」と涙を浮かべていました。
長女の自宅は大熊町でした。
どれほど多くの子どもたちが、放射能から避難するためにこんな目にあったでしょうか。
今その孫息子は、母親と一緒に会津に居ます。
大熊町の仲間たちと一緒になれて、以前の元気な坊やに戻ったと言います。

再稼働は許せないという渡部さんですが、私はもっと他にもお聞きしたい事がありました。
大連まで私を乗船させてくれたその少し後で、中国の錦州との間に航路が開かれた時に最初に錦州に入港したのが渡部さんの船だったそうです。
それは中国の新聞やテレビでも大きく報道されて、その後行く先々で「あのキャプテンか?
」と大歓迎を受けたと言います。
その渡部さんに私は聞きました。
「商船の船長として何度も中国に行き、あちらの人たちとも深い繋がりができていたと思いますが、今の日中間の関係をどう思っていますか?」
渡部さんは言いました。
「人と人はみんな仲良くやってたんだよ。政府がおかしいんだ。中国も習近平になってから、本当おかしくなった。なんだか世の中がおかしくなった」
中国だけではなくアフリカ航路も何度も行き来してきた船長は、きっと私たちのようにメディアの情報からだけではなく肌で感じてきたこれまでとの違いを、世界のさまざまなニュースから感じ取っているのでしょう。
またいつかゆっくりと話を聞かせて欲しいと思いました。           

いちえ


2016年1月14日号「報告とお知らせ」

◎報告 裁判傍聴と報告会
●南相馬・避難20ミリシーベルト撤回訴訟
昨日東京地裁で、「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」第2回口頭弁論が開かれました。
この裁判は特定避難勧奨地点に指定された南相馬地の住民206世帯、808人が、国を相手取り20ミリシーベルトを基準とした避難解除は違法だとして、解除の取り消しを求めて2015年4月・6月に東京地裁に提訴した裁判です。
裁判の争点は2点あります。
❶ ICRP など国際的な勧告では公衆の被曝限度は1ミリシーベルトとされ、日本の法令もこれを取り入れてきました。訓練された職業人しか立ち入ることができない放射線管理区域も 、3ヶ月で1,3ミリシーベルト(年間5ミリシーベルト)です。
これから考えても、年間20ミリシーベルトで避難指示解除は違法です。
❷住民たちは何度も反対を表明してきたのに政府は一方的に解除を決定し、解除から3ヶ月後には賠償も打ち切られます。このために避難継続を希望しながらも、経済的な理由から帰還せざるを得ない人が出てきます。

●昨年9月28日の第1回口頭弁論
この裁判は昨年9月28日に第1回口頭弁論が行われ、原告の訴状と被告の答弁書の陳述が行われました。
ところがこの被告の答弁書には、特定避難勧奨地点設置も、またその解除も、行政処分ではないので訴訟要件を満たしていないので裁判はできないという回答で、避難によって生じた個々の問題点について1件ずつ個別に提訴するべきで、総合的な訴訟はできないというものでした。
その後12月に被告からの反論(原告の訴えている解除の違法性に対して)の準備書面が提出され、原告からは訴訟要件を満たしていることを主張する準備書面が提出されて、ようやく本論が始まるところです。

●被告の主張
被告の反論は、「年間20ミリシーベルト基準による解除の是非について以下なる基準で実施するかは行政庁の広範な裁量に委ねられていて、特定避難勧奨地点の解除は合理的基準に基づき十分な手続きを経て実施された合理的なもの」だと主張しています。
そして❶年間20ミリシーベルト基準は国のワーキンググループの報告でも他の発がん要因によるリスクと比べても十分低いと報告されている。
また、❷同基準は政府が ICRP が勧告する参考レベル(20〜100ミリシーベルト)の範囲の内の最も厳しい値を採用した値であることを、挙げています。
●原告弁護団は
上記の被告の言い分に対して弁護団は年間20ミリシーベルトの被曝は決して低いとは言えず、これは ICRP が定める現存被曝状況に於ける参考レベルの最大値であることなど、被告の反論への反駁と、現地の汚染状況や住民が置かれている苦境になどについて主張立証を行なっていく予定です。

●1月13日第2回口頭弁論
昨年末に裁判所から、第1回口頭弁論で認められた原告の意見陳述について今後は実施しない方針である旨、通知がありました。
このために裁判所に対して、弁護団による意見陳述の継続を求める意見書、原告の署名367筆、支援者の署名1109筆を提出し、この日の口頭弁論では弁護団・原告から意見陳述継続の要請が出されました。
原告が提出した準備書面の内容の説明と、被告の準備書面の問題点を指摘し回答を求める点に関しては引き続き次回の口頭弁論に引き継がれます。
意見陳述継続に関して弁護団と原告からの要請に対して裁判長は、次のように言いました。

●裁判長
極めて重要な訴訟だと認識をしていて、深い関心を持っている。
原告の状況をじゅうぶん把握したいと考えているし、その上で良心に従って判断していきたい。
訴訟の審理には段階があることを理解してほしい。
前回の第1回公判では、この訴訟についておおまかに把握するために意見陳述を聞いた。
次の段階として、双方の争点がどこかを見ていくので、その段階では法的にどういう主張をするのかになっていく。
原告は代理人(弁護士)に意見をよく伝え、相談し、代理人を通してそれを伝えて貰いたい。
その上で争点の内容について調査していく。
審理が進んでいく中では、また原告の意見陳述をしていただくことが出てくるかもしれないが、その場合には証拠調べなども必要になってくる。
十分に意見をいただけなかったことは理解しているが、そのような段階を経て結審していく。

裁判長がこうした話をしている間に傍聴席からは、原告の話を聞けなどのヤジが出たりブーイングの声が上がり、裁判長からは傍聴席は静かにするようにと注意がありました。
また、裁判長が話した後で原告が発言を求め、「裁判が継続している間にも、我々は被曝をしていることを理解してほしい」と訴えました。

次回の公判は3月28日(月)14:00〜です。

◎報告会
主催者(支援の会)挨拶、連帯挨拶(ひだんれん団長の武藤類子さん)に続いて、弁護団からの報告がありました。
●弁護団からの報告
避難指示解除が住民の声を聞かずに出されたことをしっかりと理解してほしいと考え、意見陳述を継続の要請をしたが、裁判長はその必要はないとの考えだった。
ただしそれは、理由もなく耳を貸さないということではないと感じた。
「重大な問題で深い関心を持っている」と言い、「意見陳述については原告の声をしっかり把握して判決したい」と言っている。
ただそうは言っても、今後はどちらに転ぶかまだ全くわからないが、単なるリップサービスだとは思えない。
裁判所にここまで言わせたことは、ごく短期間のうちに書面を集め届けたことが大きい。
毎回意見陳述するから勝つとは限らないが、裁判は原告だけではなく書面を書いた皆の思いが伝わる機会だ。
裁判所が「重大な問題だと考え深い関心を持っている」と引き出したことは、多くの人に知ってほしい。
今後の政策を大きく変える闘いなので、裁判所がきちんと向き合っていることを伝える意義は大きい。
どうすれば勝てるかは、これからみんなで考えていきたい。
★弁護団が提出した準備書面は、「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟支援の会」のHPにアップされています。
弁護団は、次回公判までに現地の汚染状況を提出するそうです。

報告会はこの後、原告団からの発言があり、その後の特別報告は飯舘村蕨平に建設された「資材化」施設の危険性について「市民放射能監視センター(ちくりん舎)の青木一政さん、「たまあじさいの会」の中西四七生さんからの報告がありました。
私もこれまで環境科学者の関口鉄夫さんから放射性廃棄物の焼却がどんなに危険かに教えられてきて、この日の報告を聞けば改めて憤りが湧いてきます。
「一枝通信」でも福島県内各地の放射性廃棄物焼却施設について何度か報告してきましたが、それらは「減容化」施設と称されていました。
でも蕨平は「資源化」施設だと!
こんな物言いが、堂々とされてしまうことに激しく憤ります。

◎お知らせ①
野池道子さんの「沖縄を感じる会」受付が始まっています。
沖縄について知っている人は、きっと改めて沖縄を発見することと思います。
沖縄について知らなかった人は、きっともっと知りたくなることと思います。
道子さんはこれまで「沖縄を感じる会」を各地で開いてきています。
第1弾は、歴史・文化編として「わらべうた、ご先祖様の話、琉球王国、食べ物、沖縄戦、沖縄の今〝高江〟と〝辺野古〟」でした。
第2弾の今回は、「島唄でつなぐ沖縄の心」です。
つい先日小布施で催された会では、複数の参加者から「音楽とともに沖縄の歴史がよく伝わった」と好評だったそうです。
長野で催された「沖縄を感じる会」を見て、ぜひセッションハウスでも催したいと、私が言い出しっぺの会です。
皆様のご参加をお待ちしています。

沖縄を感じるVol.2-6

◎お知らせ②
3月の催しなのでまだ先ですが、「福島の声を聞こう!vol.18」詳細が決まりました。
ご予定に入れておいていただけたら幸いです。
5年目を迎える被災地です。現状を知っていただきたく思います。

vol18-2   

いちえ


2016年1月4日号「国会初詣」

◎国会初詣は「アベ政治を許さない」スタンディング
3日は「アベ政治を許さない」一斉行動の日でした。
澤地久枝さんの提案で、全国で同じ日の同じ時刻に、私たち主権者の意思表示をしようと始められた行動です。
毎月3日午後一時きっかりに「アベ政治を許さない」のポスターを掲げるのです。
このスローガンは、昨年の流行語大賞トップテンに入るほど、私たちの心情を捉え言い表していた言葉だと思います。
昨日、国会前に向かって歩いていると途中で右翼の街宣車の声が聞こえました。
ガサツな物言いで「おめえらヨォ、いつまで9条守れなんてバカなこと言ってんだ。
9条で平和が守れると思ってんのか、バカが」などとがなっていましたが、その声もすぐに聞こえなくなり、国会前の集合場所が見えてきました。

◎「9条への生還」
すでに集まっていた人たちの前で、一人の男性が何やら大きな声で話しながら動いていました。
でも少し前に聞こえていた右翼の喋り方とは違います。
集会の場に行ってみたら、それは男性の一人芝居で、どうやらベトナム帰還兵の独白を演じているようでした。
集まっているみんな、固唾を飲んで演技に見入っていました。
そして私も、また。
ベトナム戦争から帰還後に心的外傷ストレス障害で苦しんだ元海兵隊の黒人兵が、戦争中の自分の行為を小学校の生徒たちに話したことから自分の心を取り戻し、1995年に沖縄で起きた米兵による少女暴行事件をきっかけに来日し、日本国憲法を知り、9条の大切さを語り続けるようになるまでを一人芝居で演じていたのです。
演じていた男性の名前は右田隆さん、youtube に「9条への生還」としてアップされています。
アップされているのは別の日の夜に国会前で演じた時のものですが、検索してぜひご覧ください。
多くの人に見て欲しいと思いました。
昨日現場にいた「戦争への道は歩かない!声を挙げよう女の会」の仲間と相談して、早速私たちの6月の集会に出演をお願いしました。

◎「アベ政治を許さない」
国会前スタンディングは200名以上、300名はいたでしょうか。
松元ヒロさんも芸人のお仲間と一緒に、参加されました。
午後1時きっかりにみんなで一斉に、国会に向かって「アベ政治を許さない」を掲げ、シュプレヒコールし、また国会を背に「アベ政治を許さない」と繰り返しました。
松元ヒロさんが「芸人9条の会を立ち上げました」と挨拶すると、みんなから大きな拍手がわきましたが、続けてヒロさんが「芸人はなかなか生活が大変なので芸人窮状の会なんです」と言ったので、今度はみんな大爆笑。
アベ総理の「友達の麻生君が学校の帰りにいじめられているのを見たら助ける」と例えに言ったことをネタに、またみんなを笑わせ、頷かせてくれました。
3日の各地のスタンディングの様子が、早速「毎月3日 13時 全国で」の掲示板に載っていますし、また「全国スタンディング」にも載っています。
日本の各地の他に、パリのルーブル前やニューヨークでも、意思表示してくれた仲間たちがいます。
今日から通常国会が開会されましたが、夏の参議院選挙が「アベ政治を許さない」闘いの”決戦”になります。
声を上げ続け、行動していきましょう。

◎「勇気が試されます」
7月18日の一斉行動直後はこれ一度きりの行動としていましたが、その後の状況のあまりの酷さ、9月19日「安全保障関連法」強行採決(採決とも言えないような有り様で)、30日に公布、翌日10月1日には防衛装備庁発足と急テンポで戦争への道を押し開こうとする「アベ政治」に対して、行動の再開継続を決めました。
そのお知らせを、この「一枝通信」でもお伝えしました。
するとある方からは、「毎日が3日です」の言葉と共に「アベ政治を許さない」ポスターをご自宅の玄関に貼った写真が送られてきました。
最初の呼びかけの時からずっと、会社の玄関にポスターを掲げていらっしゃる方もおいでです。
でもまた、こんなお便りもいただきました。
「11月3日、最寄駅の駅頭で友人たちと立ちました。でもまだ、自宅の門前に貼ることに躊躇しています」
その気持ちは、とてもよく判ります。
駅頭に立つよりも自宅の門前に貼り出すという行為は、個人が特定されますから、なお一層勇気がいることです。
無理をせずに、けれどもしっかりと”主権者の一人”として、意思表示をしていきましょう。
澤地さんの言葉を、もう一度繰り返します。
「このスローガンを一人ひとりが道行く人に見えるように掲げるのです。示すのは勇気のいる世の中かもしれません。『許さない』勇気が試されます。政治の暴走を止めるのは、私たちの義務であり、権利でもあります」
澤地さんは、昨日ご用があって出かけた東陽町駅で立たれました。
お一人だったそうです。
次は2月3日、水曜日です。                     

◎受け付けが始まりました
「道子さんの沖縄を感じる会 vol.2 」今日から参加受け付けが始まりました。
皆様のおいでをお待ちしています。
そして、どうぞ今年も「一枝通信」にお付き合いいただけますよう、よろしくおい願いいたします。                         

いちえ

沖縄を感じるVol.2-6


2015年12月31日号「12月21日小海町で⑦」

師走もどん詰まりになって、まだ10日前の報告で失礼します。
ぜひ、多くの人に知って欲しいことばかりなのです。
お時間があるときに、ゆっくりお読み頂けたら嬉しく思います。
小海小学校へ移動するバスの中で、皆さんから出た話です。

◎二重課税に
今は飯舘に住民票を置いたまま避難先に住まいを移して生活しているが、避難解除になればいずれは住民票を移さなければならない。
飯舘村に固定資産があれば固定資産税がかかるので、二重課税されることになる。
除染が終わらないうちは固定資産税ゼロで課税されないが、帰村ということになれば課税される。
除染廃棄物が入ったフレコンバックが山積みのところへ戻れないが、村では戻す考えで、帰村となれば課税される。
村の自治会議で二重課税は困るから、安心して避難生活ができるように二重課税にならないようにと村長に言っても、「税金を村の単独で決めるわけにはいかない」と言う。
それならば、浪江、双葉、大熊、楢葉と一緒に、地方交付税などを割り振る際に税の減収分は国で補填して二重課税にならないよう働きかけるように言っても、それに対して回答がない。「ヤロメらは、村長も村会議員も職員も、自分の懐は痛まないからだ。ヤロメら給料もらって働いているだけだから。自分さえよければいいと考えている」
収入もないところから、畑も作れないところから税金取るわけにはいかないだろうが、減額にはなってもゼロではない。

住民票を移して県北や福島市になると、相双地区で受けられていた支援は無くなる。
今までのような支援は全くなくなり、蚊帳の外になってしまう。
会議があるたびに税務課や村に対して何度も言っているが、なんの回答もない。
27年春の自治会の会議のときにまた、「なんで村は双葉町ほど税に関して、同じ土俵に乗って国に働きかけないのか。自分たちの村さえ残ればいいんだとバラバラにやっているから我々村民や町民が苦しむのが目に見えて判っているのに、なぜ対応しないんだ」と言ったんだ。
避難も大変だったが、これからが大変だ。本当に大変だ。
避難区域や避難者は協力して、統一戦線を持って要求しないといけないだろう。
飯舘村独自の独走ばかりでは、不利な点も出るだろう。
私らは蚊帳の外で、マスコミやテレビで報道されてから「えっ?」という感じのことが多い。

◎4年の月日が流れました
政治家も政治家だ。
私らのこと、なんだと思ってんだべ。
検査が通れば原発の再稼動だなんて、原発のそのものに手をかけたのが間違いだったんだから。
私ら国策で原発の被害にあって避難させられて、4年の月日が流れました。

◎こんなはずじゃなかったという人が出てくるだろう
帰って2年3年経ったときに、こんなはずじゃなかったという人が出てくるのではないか。
チェルノブイリなどがそうだが、早く帰った人が不幸な目にあった。
それが判ってれば、「俺一番先に帰る」っていう人は少なくなると思う。
高齢者は子どものところに行かれないから帰る人はいるだろうが、体力の限界はあるし、ストレスの限界もあるだろう。隣の人のところに行くにも自分でビッコ引いて歩いて何千歩も歩いていかなければならない。
回覧板はどうするんだろう?回覧板は回さないだろう。
村が個人個人回って歩くだろうか?

◎村に帰るのが帰村ではない
帰村宣言して1年で補償はなくなるので、これからが本当に大変になる。
帰村宣言出した後、村民がバラバラになって生活を始めた後の支援策として自治会では、バラバラになった住民が集合する集会所の設置を希望している。
村民は福島市とか伊達市とか南相馬市原町に避難しているから、一ヶ所の飯舘村に集まるのは大変だから、各方部ごとに小さな集会所を設けて、何かの折にはそこを利用して集まれる施設を作ってくれという要望を出している。
だが村では具体的な案はない。
我々は、福島に一つ、伊達に一つ、原町に一つと強く要望を出している。村民の絆を絶やさないようにする場所が欲しいのだと言っても、村では対応をしない。
そういう先を見据えた行政をしていない。
帰ってくる村民には手厚く補助して、補助事業も含めて行政で応援するとしているが、村外に移った人に対しては何の手当てもしないということだから、だからみんな不満なのだ。
それを声を大にして言わないと、バラバラになったままで終わりになってしまう。
バラバラになった村民が集まる場所、会議を開く場所、コミュニティをつなぐ場所が一番必要なのに、それが欠けている。
帰村は、村に帰ることが帰村ではない。離れて暮らすのもその人の選択だが、そこを村として応援してもらわなければならないのだが、何十億という予算を組みながらそういう施設を作ろうとしない。

◎栄子さんに聞きました
味噌の里親プロジェクトについて、再度栄子さんに聞きました。
●味噌の里親プロジェクト
2012年の3月に始めてから、先日4回目の味噌作りワークショップに行ってきた。
2015年の総定員が、1000人近い参加者があって、みんなで1トン以上の味噌をついた。
これからの取り組みをどうするかだが、1トンの味噌作りを首都圏でやるというのは大変なことだ。
機械でやるのではなくて、参加者たちはみんな、セットになった材料を買ってやるのだし、事務局の里親さんもくたびれたと思う。疲れが出ているだろう。
また今は有機農法で無農薬の豆を作るのはむずかしい。
農業をしている人も契約栽培でやっているが、味噌の里親の仲間が増えていくのは結構なのだが、原材料の自然農法の豆の確保が難しい。
どうしようということになって、そのことを相談している。
原点は飯舘の放射能で避難している人との交流と支援、それと飯舘の食文化を守るということからだった。
5年目に入ろうとしているが、参加している人たちから、飯舘に行って現状を知りながら、飯舘で飯舘流にやりたいという希望が出た。
それで去年は菅野晢さんのところで晢さんの栽培したアオバト大豆で試験的に作り、また栄子さんの所でも、佐須の加工グループのやり方で作ったものが栄子さんの蔵で100キロ以上熟成した。
栄子さんは味噌が親元に帰ってきたのだから、これからは避難していてもできる自信もついたし自立してやっていきますと話したが、里親たちは飯舘と絆が切れるというのが寂しい、福島に行きたい、お手伝いに行きますと言ってくれる。
●自然と共生して生きる
栄子さんは都会の人が原発事故を機に、味噌も作れるんだということを体験できたし、自分自身も味噌が作れなくなったことによって「原発事故は、こういうことなんだよ。今までできていたことができなくなるんだよ。既存していた大切なものも失われてしまうのだよ」ということを伝えることが、脱原発への第一歩のスタートラインだという思いがあった。
味噌があったから、味噌に生かされていると、栄子さんは言う。
原発に反対だ、脱原発だと騒いでみても現況は原発再稼働が当たり前のような国政だから、声を上げる割には、効果がないとは言えないが変えていくには至難の道だと思う。
だが、だからと言って声を上げるのをやめるわけにはいかない。
だから味噌を通したり、凍み餅を通したりして、大人から子供まで、原発に依存するということはこういう現況になるのだということを語っていかないと、なかなか世の中を変えていく力にはならないのだろうと思う。
現に福島の小学校で味噌作りに取り組んで、その味噌で甘味噌を作って凍み餅にかけて食べたというが、そういう形をとることによって、自然と共生することが楽しいんだ、美味しいんだという体験を教えないと、と思っている。
原発が動いてきた、事故を起こしたということには感謝しないが、その経験を通して、子どもたちを含むみんなに大きな課題を投げかけられたその一つ一つの絆に対して感謝しているが、これからは、また違った闘いと不安がある感じがしている。

★何通にも渡って長い報告になりましたが、小海町で聞かせていただいた飯舘村の方の話は、これで終わりです。
長文で読みにくかったと思いますが、飯舘村の声をぜひお伝えしたかったのです。
国の向かっていく方向に対して、大きな不安を抱えたまま年を越します。
年明けの3日は、「アベ政治を許さない!」行動日です。
1月4日からの通常国会開会前日です。
私たち主権者の声を、届けましょう。「アベ政治を許さない!」
皆様どうぞ、良い年をお迎えください。               

いちえ


2015年12月30日号「12月21日小海町で⑥」

信州佐久の小海町で、飯舘村の方たちから聞いた話を続けます。
この項は朝食前の1時間の間に6人の方からお聞きしたので、それぞれごく短時間のお話でした。
もっとお聞きしたいことはたくさんありましたが、また機会を作って聞かせていただきたいと思っています。

◎渡邊とみ子さん 61歳
とみ子さんは福島市に避難してから、原発災害によって居住が制限されてしまった阿武隈地域の女性農業者たちに呼びかけて、福島大学小規模自治体研究所と共に「かーちゃんの力・プロジェクト協議会」を立ち上げ、会長として加工食品や弁当を作り販売するなどの活動を続けています。
2013年6月に催したトークの会「福島の声を聞こう!vol.6」では、ゲストスピーカーとして話していただきました。

”平成の市町村大合併”の話が持ち上がり、飯舘村は合併派と反対派に二分された時に、
村での基本的な暮らしを考える計画農村部会の活動に関わっていたとみ子さんは、住民代表として合併協議会の委員に選ばれ、飯舘村は合併せずに村独自の道を行くことを発言し、飯舘村は合併せずに”までいな村”として残ったのです。
飯舘村でのとみ子さんは「イータテベイク研究会」として、飯舘特産作物として”イータテベイク”というジャガイモと、”いいたて雪っ娘”というカボチャの育種に取り組み、また個人的には「までい工房美彩恋人」を立ち上げて軌道に乗っていたところでした。
そんな時に原発事故が起きたのでした。

●とみ子さんの話
食に関する仕事だから、戻って再開することはできない。
福島に避難して借り上げ住宅に住んでいたが、避難先の福島で畑を借り、家と加工場を作り、新拠点地をつくった。
飯舘の家は壊す方針でいるが、家族の中で私が一番飯舘へのこだわりは強く、家を壊すといっても思い切れず、一部を残したいと思っている。
住居も加工場も福島の荒井に拠点を移したので、いずれ飯舘から住所を移さねばならないだろうが、私にとっては、それが一番大変なことだ。
その時に自分がどうなってしまうか、気が狂わないでいられるだろうか? と思う時がある。
私の中では、これからが一番大変だと思っている。

村民にとって、心のふるさとは飯舘だ。
行政は、そういう思いをどれだけ汲み取っているか…
そこで育ってきた人たちも、そこで暮らそうと嫁に来た人も、I ターンで来た人もそこが好きで来たわけだし、心の基準軸は絶対的に飯舘村にある。
あの場所に帰ることが飯舘村の存続なのではなく、どこで暮らそうと、仲間と一緒の集合住宅なり新しい村なり、そういう視点で心のふるさとをどこかに作るのが行政の仕事ではないか。
住民も行政を突き上げて意見を言うのも大事だが、住民同士でも一緒にやっていくのが一つの姿かというのが私の夢だし、家族の中で飯舘に執着が一番ある私は、そう思う。
80歳の姑は避難する時に「オラのいるところが無いじゃないか」と言ったが、仕方なく新しい生活に馴染もうとしているが、畑ができないところに自分の居場所はないと思っていると思う。
土のない借り上げ住宅に暮らしながら、その姑の姿を見ると、仮設住宅に入れなくて近所に友達もいないし、可哀想だったなと思う。
村にいなけりゃ村民ではないということではなく、また外にいても村民の誇りを持って、そういう心の居場所を作っていかないといけないと思う。
再来年の3月で戻るか戻らないかとスパッとどちらかに選択肢を切ってしまうのではなく、長い戦いだと思うから、そういう居場所作りをきちんとやっていかないと、本物の軸の村がなくなっていくのではないか。
心が折れちゃったら終わりだと思う。

◎高宮清子さん
夫の定年退職を機に、仙台から I ターンで飯舘で暮らし始めた。
不耕起農法で半自給自足で暮らしたい、静かな暮らしがしたいという希望があった。
飯舘には、そういう暮らしがあった。
まわりの人たちもそう暮らしてしていたし、それが「までいな暮らし」だった。
できた野菜は無駄にしない、米は大切に最後まで使うとか味噌にするとかどぶろくを作るとか、大事に循環させていく暮らしをしていた。
私はそれらの全部は習得できなかったが、そういう暮らしがとても良かった。
移り住んで10年弱で原発事故になり、飯舘でそういう暮らしを続けたかったが農業に土は大事なので、あそこでもう一度暮らすのは無理だと思う。
事故後は、仙台に戻って団地生活をしている。
飯舘村がこれからどうなるかは本当に心配で、帰ってもいい区域にするということだけが決まっていて、その後のことは、あまりにも策がない。
実際に帰って生活できるか、とても怪しいと思う。
そのことへの憤りがある。あまりにも酷い。

◎菅野文子さん(塾長の晢さん夫人)
福島に新しく農地を求めて、家も作っている。
飯舘の家は解体を申し込んでいるが、福島に家を作っても、飯舘に行った時にちょっと休める場所を作りたいと思っている。
まだしばらくは車の運転もできるから、行ったり来たりして、あっちに行けば畑もできないし山菜もダメだと思っているから、ちょこっと行くだけだと思うが、やっぱり行ってみたい。
また、戻る人も何人かいるので、そういう人との付き合いもあるし、子供達も何年に一度かは戻るだろうし、飯舘にも場所を作っておけたらいいなと思うが、いろいろ考えると悩みは大きい。
はっきりと「こうだ」という結論が出せない。
TVや新聞で見ても情報ははっきり出ないし、学者の言うこともまちまちだし、自分で考えて判断して結論出さなければならないけれど、悩みは大きい。

◎細杉今朝代さん
飯舘にいる時は8人家族で生活していたが、今は公務員宿舎に避難していて福島に家を作っているところだ。
夫は体が弱くて、飯舘では家の周りの仕事、植木を植えるとかハウスの管理は全部私がやっていた。
全て私がやってきたのでやはり未練があり、私は飯舘に帰る。
土と共に生きてきたから一時帰宅で飯舘に行った時など、なんぼ放射能があるといっても花が咲いていれば可愛いと思うし、花が草に埋まってれば可哀想で除草したりしてきたから、やっぱり帰りたい。
若い人には「福島に家作ったんだから、そこに住め。私らはお前たちが帰りたくなったら戻ってこられるように、飯舘の家を守ってるから」と言っている。
私は帰れるようになったら、迷わず帰る。
息子たちには「帰って何するんだ?」と言われるが、行ってただ(周囲を)眺めている…今まで何十年もワサワサと落ち着かない切羽詰まった生活してきたから、今度はのんびりと好きなことして、穏やかな、せめて15年でもそんな風にして暮らそうと思ってる。

今は公務員宿舎の2階と4階で、若い人らは4階で暮らしている。
孫二人は毎晩2階の私らのところに泊まりに来て、朝ごはんも家で食べさせて学校へ送り出している。
避難してここに入居した最初の頃は、みんなで一緒にご飯食べていたが、台所も別にあることだし、若い世代とは別にすることにした。
最初に入居した時には下の孫が幼稚園だったので、優先的に公務員宿舎に入れた。
その孫は、今度の春にはもう小学5年生になる。
孫は飯舘の学校に(川俣町に作られた仮設の校舎)に通っている。
29年の3月に村が帰村すれば、学校も村に戻る。
中学を卒業して高校に入る上の孫はいいが(高校は別の地)、小5の孫のことで親はとても迷い悩んでいる。
区切りがいい学年ならいいが中途半端な学年の子どもを持つ親は、戻るか転校かの二者択一しかないから、みんな悩んでいる。
友達との関係もあるから転校は躊躇するし、でも福島から毎日、飯舘に通学するのも送り迎えが大変だし、親たちはみんな悩んでいる。

◎高橋トシ子さん 79歳
孫と娘夫婦と私と4人暮らしだった。
原発事故の後も4月5月は大丈夫だ、大丈夫だと言われていたから、飯舘村佐須地区の家に住んでいた。
5月末に避難するように言われて、6月5日に梁川のアパートに移転した。
自分の家にいられないというのは、なんと言っていいか判らないが、2ヶ月もの間ご飯も食べられないで、力も抜けてしまい何もできないで過ごしていた。
娘に生きていかなきゃならないんだからと言われ、ご飯も作ってもらって少しずつ回復して、今はこうしてみんなと凍み餅作りに出る機会をもらって、今は幸せな気分だ。
飯舘だとゆっくり寝られるが、アパートだと眠れない。
夜は眠られなくてもみんなと一緒ならアパートでなんとか暮らしていけるが、一人で居ろなんて言われたら、絶対に居られない。
子どもは「ばあちゃんは飯舘で過ごしてきたから、ばあちゃんこと飯舘で暮らせるようにしてやっからな」と言われて、安心している。
孫は、飯舘ではない所で住まわせるようにするつもりだ。

飯舘に行くと青々とした空気を吸って、鳥の声が聞こえるし、カラスが寄ってくる。
いつも生ゴミ食わせてたから、私が帰るとカラスがカァカァと鳴いて寄ってくる。
いつでも生ゴミなどを「いっぱい食べろな」と言ってやってたから、どこに住んでるのかわからないけど、私が帰ると寄ってくる。
誰もが驚くけど、除染の人らもそんなの嘘だべというけど「じゃぁ、オレ呼ばってみっからな」と言って「かぁちゃん、来たよ」って言うと、カァカァって”二人で”来るんだ。(トシ子さんは二羽のカラスが寄ってくるのを、そう言いました)
除染の人らは「イヤァ、ばあちゃん、カラスとそれまで仲良くしてたんだなぁ」って言う。
だから「飯舘には死ぬまで置いてください」と、子どもらには言った。
「私が死んだら、あんたらは孫たちの家で一緒に暮らしてください」と言った。
無理だけれども今は、ばあちゃんの願いを聞いてもらえる予定だ。

◎菅野芳子さん 79歳
●仲良し”3人娘”
上記の高橋トシ子さんと菅野芳子さん、菅野栄子さんの3人は仲良し3人組です。
栄子さんの言葉を借りれば「トシ子さんとよっちゃんの二人でもダメだし、私とよっちゃん、私とトシ子さんの二人でもダメなんだ。3人でいると一番力が出るんだ」
3人は同じ佐須地区で日頃から仲良くお付き合いをしてきたのでしょう。

●息子の家に避難
夫は被災前の1年前に亡くなり、父と母と芳子さんの3人で暮らしていた。
3人は原発事故の後で、埼玉にいる息子の家に行った。

直後は電話が通じず、息子は栄子さんに電話をして迎えに行くことを言付け、芳子さんは栄子さんからそれを知らされ、その時に栄子さんは貴重品をまとめておくようにと芳子さんに伝えた。
3月17日「こんな吹雪で、よく来たもんだ」という中を一番上と二番目の孫二人が迎えに来た。
「迎えに来たって、こんな年寄りをなじょして連れて行くの?」
ばあちゃんは頭はボケてないが、体が不自由で寝たきりだった。
じいちゃんは「米と味噌あっちど、俺は行かねぇ。(ここで)生きていけっから、俺は行かねぇ」と言い、支度をしない。
「なんだってみんな逃げろって言われてっから、行がねばしょうがないんだよ」と支度させて、孫たちが車に乗せて3人で埼玉へ行った。
埼玉は息子夫婦と孫たち5人家族で、そこへ3人で行ったので8人になった。

●川の字で寝る避難生活
「んだから寝っとこが、孫の勉強部屋さ在って、そこさ川の字に寝ろっちゃ言われて、イヤァ、これも酷いもんだなぁって。ばぁちゃん中にして私とじいちゃんで川の字になったって眠られねぇ、眠られねぇ。この生活いつまで続くんだべか。すぐに帰れんだべなぁ」と思った芳子さんだが、凍み餅をたくさん作ってあったのでそれがどうなっているか気が揉めて心配でいられず、息子に「何心配してるんだ」と聞かれて「凍み餅心配で困ったど、はぁ」と言うと息子が、じいちゃんも一緒に家に連れて行ってくれた。
「じいちゃんは、俺はもう行がねど。俺ははぁ、避難はしねぇ。米と味噌あっから生きられっから」
そんなことは言っていられない、避難しなければと言ったが、その時は飯舘に一晩泊まり、ゆっくり休めた。
そしてまたじいちゃんも一緒に埼玉に戻った。
「じいちゃんは92だけどバイクが好きで、バイク乗って草野まで行ってゲートボールするのが好きだったの。酸素してたんだけど、酸素外してバイクでブ〜ッと歩くと酸素うんと吸うから、それがいいってバイクで歩ってたんだよ」

●じいちゃんが亡くなり、ばあちゃんも
そのじいちゃんは6月に風邪をひき入院したが、3日目に病院から急変したと連絡が入り、行ったら亡くなっていた。
「いやぁ、びっくりしたなぁ。なんだ、なんじょすっぺ。どうしたらいいんだ、この気持ち」
ここで火葬するようにと言われたが、原町の互助会にたくさん積立していたのでそこへ連絡し、霊柩車を寄越してもらったが埼玉の病院に到着するまではとても時間がかかった。
遺体を原町に運ぶのに若い人たちは勤めがあって一緒に行けないので、霊柩車には芳子さんが一人で付き添った。
「いんやぁ、長いこと、長いこと。ああいう思いはしたくない。
で、ばあちゃんが一人でいるんだからな。ばあちゃんことはショートステイさ頼んで、一週間ショートステイさ頼んで、お葬式終わって帰ったべ。ばあちゃんが『じいちゃんはどこさ行ったんだ?』って言うんだよ。んだから『遠いとこさ行ったんだわ』って言ったの。『ああ、じゃぁ福島の病院さ行ったのか?』って、こういうんだ。『ああ』って言ったけんど、いつまで過ぎても来ねぇから、イヤァこれは言っておかなきゃなんねぇなと思って『亡ぐなったんだよ』って。
そんで、このばあちゃんもオムツかけてあったから、もう夜になっと騒ぐんだなぁ。
で、ちょっと施設さ入れて、10月に亡くなりました」

●友達のいる仮設へ
一人になった芳子さんは馴染みのない埼玉で息子の家に居られず、栄子さんはどこにいるかと尋ねたら仮設に居ると知って、仮設に行きたくなった。
仮設に行くと言うと息子には、「そんなこと言わねぇで、ここさ居ろ」と怒られたが、「んでもなぁ、友達んとこさいいんで行ぐんだ」と言って、11月に仮設住宅の栄子さんの隣の家に入居した。
避難した時には自宅に味噌を300キロも400キロもたくさん作ってあったが、栄子さんとトシ子さんの二人が自分たちが避難するまで、手を入れてくれたり売ってくれていて、とても助かった。
それからは栄子さんとトシ子さんに世話になりながら、避難生活を続けている。

●みんなで暮らせたらいいな
今は、飯舘に戻れるのか戻れないのか、もう一人になったので一人で飯舘の家に戻っていられるのか、いろいろ心配が絶えない。
息子には「来たらいいべ」と言われるが、一緒に暮らしたことがない息子と嫁にはあまり迷惑かけたくないと思っている。
(飯舘の)みんなで暮らせる仮設のようなものを造ってもらえたらいいなぁと考えているが、いろいろ気持ちは複雑で困っている。
毎日どうしたらいいだろうと思い暮らし、早くピンピンコロリで死ねたらいいなと思う芳子さんだが、ストレスから去年体調を崩し、胃癌になった。
胃の三分の二を切除して、今も少し体がフラフラとしているという。

●芳子さんを驚かせた栄子さんの姿
栄子さんが背中にリュックを背負い両手に荷物を下げているのを見て、「どこさ行ぐだ?」と聞くと「東京さ行ぐだ」と栄子さんが答え、「なんで東京さ行ぐの?んだら、ほれごと持って行ぐの?」と聞くと、栄子さんは「んだ。行がねったらねぇべ」と答えたが、それが”味噌の里親プロジェクト”を立ち上げる時のことだった。
何キロも味噌が入ったリュックを背負い、両手に凍み餅がたくさん入った荷物を下げた栄子さんの後ろ姿を見て「なんとしたことだべ」と思い、その後ろ姿を見て芳子さんは泣いたという。

★味噌の里親プロジェクト
栄子さんが、2010年に飯舘村佐須の自分の畑で収穫した大豆で仕込んだ味噌は、土蔵の中の栗木の樽で三重に外気から遮断されていて、線量検査の結果に問題はなかった。
奇跡的に安全が保たれていたこの味噌を「種味噌」にして、佐須の味と伝統を引き継ぎ、増やし、支援する活動。

◎菅野栄子さん
栄子さんには前日もゆっくりお話を聞かせていただいたのですが、この朝も皆さんのお話を聞くときに、もう一度聞かせていただきました。

●栄子さんの話❷
飯舘村を背負って村おこししてきた年寄りが後期高齢者になって、1000歩も2000歩も歩かなければ隣の家に行けないような村に、現況のままで帰村させるのは無理だ。
仮設住宅のようなもので良いから集合住宅を作って、隣の人が年取ったら見回りながら、お互いに助け合いながら共生と自立ができる場所を造るべきだ。
私らは自立する気持ちでいる。
いつまでも避難民だからと、人の手助けを仰いで喜んでいるつもりはない。
だが自立といっても、衣食住が満たされて最低限の費用で健康管理していける条件がなければ、あの村に帰っても自立は出来ない。
私らは自分でも努力するが、そういうサポートをしてくれて、まわりもそういう環境を整備してくれるのが大事だ。
原発事故でここまできた在り方や線量のリスクに対してどう対応していくかを考えたときに、帰村は、それを是認することだから、もう帰らない、あそこには住めないと思う。
曾孫や玄孫の時代になって、畑も利用でき山菜も食べられるようになったときには、誰かが帰るだろうが、現在は住めない。
それを、20ミリシーベルトで大丈夫だなんて、私らをどう思ってるんだ!
私らお金なんかもらっていないけれど、お金なんかいらないから元どおりにして「まやえ!」(「まやえ」は償えの意)
黙ってはいられないから言うべきことは言って、できなければできないで、それなりの自立の道を選ぶ。
そうしなければ孫たちが大人になったときに「ばあちゃん、何考えてたんだ」と言われるだろう。
世の中を変えていく、住み良い社会にしていくには村長にでも県知事にでも言うべきことは言う。
みんなも口があって、考えているのだから一人一人言ったらいい。
みんなで暮らせる集合住宅を作って、私らが死んだら壊せばいいのだ。
一緒に住んでいた子どものところなら行けても、一緒に住んでいなかった子どものところには行きにくい。
日本の家族制度も見直す時期だ。
親も子ども自立していくのが、本当の人として生きる姿ではないのか。

★こうしてお話を聞いて、本当に多くのことを考えさせられました。
栄子さんの言う「帰るのは5ミリシーベルトでも安全、20ミリシーベルトでも大丈夫を是認することだから、帰らない」という言葉に、大きく頷きます。
けれども細杉さんの、「どんなに放射能があっても、花が咲いていれば可愛いし花が草に埋もれていればかわいそうで除草する。(馴染んだ自然の中で)のんびりと好きなことをして余生を送りたい」気持ちも痛いほど伝わってきます。
また、カラスとも心を通じあわせて暮らしてきたトシ子さんのこれまでを、”自然の中で自身も自然の中の一つの命として生きてきた暮らし”を思います。
”環境”などという言葉で人間と、人間を取り巻く周囲とを隔てる考え方ではなく、それは本当に、”自然の一部”としてのトシ子さんの毎日だったことでしょう。
芳子さんが始めから終わりまで地の言葉で語ってくれた話は、悲惨で深刻なことを語りながら、そこにいたみんなを笑わせ、嘆かせ同感させてくれました。
じいちゃんばあちゃんも高齢だったとはいえ、二人の死は、関連死だったと私は思います。
とみ子さんや栄子さんの言うように、帰村してその場所に帰るだけが村の存続ではないと、私も強く思います。

暮らしを奪い、つながりを奪い、命を奪い、故郷を奪い、これまで築いてきた全てを奪い、今もなお「まやう」ことをしない加害者が、罪も問われずにいることに激しく憤りを覚えます。
原発は絶対に暮らしと共存できません。              

いちえ


2015年12月25日号「12月20日小海町で⑤」

飯舘村の方達からお聞きした話、続けます。

◎菅野栄子さん 80歳
飯舘村佐須地区で農業をしていました。
私は栄子さんにお会いするのはこの時が初めてでしたが、以前から是非お会いしたいと願ってきた人です。

◎菅野栄子さんの話
●貧しくても夫婦で子育てできる幸せ
どんなものでもそうだが、ものを作るということは、作る人その人その人の個性と心が映る。
視点がどこにあって完成したか、ということだ。
完璧などということはないだろうし、自然を相手にしていくのは難しい。
農業は、神様が授けてくれた職業かなと思う時がある。
一年一年、50年も60年も一筋に生きてきたが、「良かったな」と思う年もあれば「また来年にかけよう」と思ったことの方が多く、それが人生なのだろう。
そう思って生きてきたのだが、ここに来て放射能に出会ってしまった。
あれは、まるで戦争と同じだ。
終戦は小学校の3年生の時だったから、戦争中の体験もしていて広島に原爆が落ちた記事も新聞で読んだのを覚えている。
父親が兵隊に行ってたから、家は母と慶応生まれのばあちゃんと3人暮らし、子供ながらに父の安否が心配だった。
あんな不安な思いは、誰にもさせたくないという経験だ。
そんな経験してきて戦争は絶対ダメだと思っていたから、憲法9条で日本が戦争をしない国になったって知った時は、子供心に嬉しかったよ。
私たちの時代は、貧しくても夫婦揃って子供を育ててくることができたのは、幸せだったと思う。

●葛藤が始まってる
仮設閉鎖後はどうするか…これからの大きな課題で、自分の心と自分の生き方と諸々を含めて、葛藤が始まっている。
原発事故の後、「避難は2年くらいの間になんとかするから出てください」と言われて飯舘から出たが2年が3年になり、4年になり、もう5年になる。
その月日のうちに心も揺れ動くし…もう帰れないって思ったよ。
放射能が飛んできて飯舘村は放射線量が高いから、もう住めないと思い、ホットスポットという言葉を知らなかったけれど避難している間にいろいろな情報が入ったりいろんな人に出会ったりして、ああ、もうこれはダメだ帰れないんだと判った。

●被災前の暮らし
被災前の家族構成は私ら夫婦と息子、介護が必要な姑の4人だった。
夫は、体も弱く丈夫ではない息子には百姓は無理だろうと思っていたし、息子自身も”風来坊”だった。
夫が病気になって平成22年の田植えは誰かに頼もうとしたのだけれど、父親が倒れたのを契機に、息子は「俺も百姓やる」って言い、それで「知り合いに教えてもらってやるからやってみろ」と言って、息子は百姓やることになった。
そして近所の仲間に教えられて、種籾播いて苗を作ってなんとかかんとかやって、けれどもその年の7月に夫が亡くなった。
そして秋になって、近所の仲間に教えられながら収穫も息子がやった。
息子は収穫の喜びも、農業の厳しさも初めて自分で経験しただろうと思う。
息子には何も言わなかったが、それは息子にとってこれからの人生の試練だと思って23年を迎えた。
年が明けて1月に、10年間介護をしてきた姑も亡くなり「みんな終わった。ああ、これからどうしよう」と自分に気がついた時には39歳の息子と二人残されていた。
原発事故が起きたのは、その年の3月だ。

●酪農に切り替えて生きたが
私ら夫婦は土に生きて飯舘の農業を背負って、どういう生き方をしていこうかいう中で、冷害常襲地の飯舘で米とタバコを主幹作物としてやってきたが、夏場の作物に頼っていたのでは冷害常襲地では立ち上がれないし決まった収入を得られないと、結婚して間もなく酪農に切り替えてみようと、夫と二人で畜産を始めた。
それから46年と6ヶ月は酪農人生だったが、70歳を契機にもう体力の限界だと思って廃業した。
いろいろ経験したり、いろいろな人に出会ったが、そんな中で農政の移り変わりもあったし国の指導に基づいて設備投資もしてきて、負債も抱えた借金ダルマの人生だった。
乳価が高い時期に計画をたてて規模拡大もしてきたものが、貿易の自由化で乳価がどんどん下がり、そうした中での酪農は並大抵ではない、動物を相手に生きるなんていうのは本当に大変なことだ。
生き物との生活は楽しみもあるが、牛と共に生きるなんていうのは5年や8年で成果を見ることなんかできない。
牛の改良に取り組まなければならないし、もしいま酪農を始めると言ったら億の金がないとできないだろう。
品種改良・育種改良といったら何代もかからないとできない。
北海道の大酪農家などは幾代もかかってビクともしない世界的な酪農家が出来上がったという歴史があるが、私はそういう中で一つの自分の足跡を残しただけだが、土地があったからなんとか切り替えて、それなりに食べていくだけの収入を得る工夫はできた。

●原発事故が起きて
そこに、この原発事故だ。
幸い「百姓やる」と言った息子と二人残ったが、事故が起きた3月は、田植えができるかできないか、ギリギリの線で農協も役場も農家も苦しんだ。
通常なら4月20日頃水稲の種まきをしなければならないが、4月17日18日に「米はダメだろう」となって、準備していた種籾は、農協が全部引き取った。
そういう経緯だが、それからいろんな人がやって来た。
メディアや学者の先生方、自然環境を研究している人や、村作りに協力してきた人や、来て下さいと私らが頼まなくても、いろんな人がいっぱい来た。
なんで来るのかな?と思っていたけれど、日が経つうちに話を聞いたり自分でも勉強するうちに、正体は判らないけれど放射能のことやホットスポットなど危険性が判ってきた。

●息子の結婚
原発事故が起きる少し前のことだが、ちょっとしたイベントがあった。
以前から村には「余計なお世話の会」というのがあって、役場と農業委員会や有志が、農村の良さをPRしながら農家の後継者と都会の若者との出会いの場を作ってカップルの誕生を促す取り組みをしていた。
農業委員会長が息子に、そこに参加するように言ってきた。
会長は親戚でもあるし、百姓面でも世話になっている人だったので断りきれずに、息子は参加した。
その後息子は何も言わないし私も何も聞かなかったが、東京にいる娘からも聞かされ、また私自身も付き合っている人がいるらしいことを薄々気付いていた。
二人が付き合っているうちに、原発事故で飯舘村が騒がれるようになった。
だから私はもうこの話はダメだと思っていたが、相手の女性は場所ではなく人で判断してくれて、事故の年の12月4日に結婚式を挙げた。
相手の人は埼玉の人だ。
風来坊で婚期も遅かった息子は福島でインターネット関連の仕事に就職し、結婚してアパートを借りて嫁さんを迎えた。
旅館で避難生活をしていた私は、会津の友人から「栄子さん一人ならこっちで暮らせるからおいで」と言われたが、息子も結婚してこれからは一人だから、自立して生きていこうと思った。
行政の情報が入らないと判らなくなるから行政の指示に従って避難しようと思い、一時避難の旅館から、今の仮設住宅に入った。
2年が過ぎ、放射能のことも勉強し、ホットスポットという言葉も判った頃には、ああ、もうダメだと思った。これではもう、飯舘村での農業はダメだと思った。

●家族制度を考える
月日が経ち、その間ずっと考えてきて来年・再来年と避難解除の時期が近づいてきたらますます不安は募るし、人間の一生のあり方、生き方が問われる時代だと思うようになった。
日本の家族制度の中で大家族で住んで、じいちゃん、ばあちゃんが居て三世代・四世代も同居しているのが当たり前の幸せな家庭で、農家はそれを継続していくことが格のある立派な家系・家庭だと思ってきたが、この放射能でそういう思いが一変した。
放射能の受け止め方は千差万別で、一人一人考え方が違う。
「放射能はこういう正体で、こんな影響があって、最終的にはこうなる」などと、統一した見解を正確に私たちに示しているものは何もない。
政府が言うことも、学者が言うこともみんなバラバラだ。
その中で私たちは生きていくのだから、そういう中でみんな一緒に同じ考えで行こうということはできないと思う。
仮設住宅の仲間たちにそんなことを言ったことはないが、放射能の被害が長引くことで学者も科学者も本音を言わなくなった。
判らないから、言えないのだろう。

●飯舘の家に関して思うこと
飯舘の家は終戦後、昭和23年頃に建てられたらしいが、飯舘の佐須の山で育まれた木材で建てられている。
新建材の今時の家とは違って、木造総二階の農村造りの家で、十畳間が2部屋も3部屋もあり、大きな梁で土台は六寸角の木でまわしてあり、柱も六寸角の木で通し柱も何本もある昔造りの家で、戸障子も木で造られている。
そういう家だからすぐに建て替えるような家ではなく、100年も150年も持つような家で、二代も三代もで住み続けられるように造った家だ。
長屋という屋号持ちの家で、今の村長の菅野家の分家になる。
本家は山持ちで、遠くから来る林業の出稼ぎ人たちの泊まるところとして長屋を建てたが、出稼ぎ職人の泊まる文字通りの長屋だった。
じいちゃんが嫁を貰って本家を出、その長屋を分家とした。
子供(のちに栄子さんの夫になる人)が生まれたが、その頃の家は風が吹くと他所の家に泊まらせてもらいに行くような普請だったが、本家から、木は家の山にあるからそれを使って家を建てるように言われ、木をもらって建てた家だ。
娘たちも息子も、家を壊して更地にした方が税金がかからないし、土地だけの方が売りやすいと言うが、私が建てた家ではなく先祖が建ててくれた家だ。
放射能で避難することになったからといって、その家を壊して新天地を求めていくなんてことはできない。
家ができて70年も経ってるが、材木にした木はそれよりももっと長く、100年もそれ以上もかけて育てられてきた木だ。
それをぶっこす(壊す)ことなんてできない。

●侮辱されている飯舘村民
でも、飯舘に住むということは、この原発事故を起こしたことをウヤムヤにして帰村させられるということは、それを容認することになる。
原発は廃炉にする、脱原発にするという政治の指針、目標があるなら別だが、私たちに被災させて被害を加えておきながら、「飯舘は5ミリシーベルトで我慢しましょう、10ミリシーベルトでも死にません、100ミリシーベルトでも直ちに影響はありません」なんて言う中で、帰村宣言したから帰っていらっしゃい、帰ってきたらこうしてあげます、ああしてあげますなんて言ったところで、そんな所に私が帰って住むなら、その諸々の条件を認めたこと、容認したことになるじゃないか!と私は考える。
説明会に行くと環境省の職員と対面する席を作っておいて、向こう側に座った職員は、正々堂々とそう言うんだよ。
昔の言葉で言えば、環境省の職員は役人でしょう?
それが平民の私たちに正々堂々と言うんだよ。「5ミリなら大丈夫、10ミリでも死にません」って。
公的な立場の役人が堂々とそんなことを言えるっていうのは、全く私たちを侮辱してる!
私は、そう思う。
そんな中に帰っていくということは、私には3人の子供と6人の孫がいるが、孫たちが大人になった時に「うちのばあちゃん、その時どんな判断したんだろう?」って言われるんでないかと思う。
原子力の平和利用といって原発に手をかけて日本の経済大国を作ってきた企業と政治家、まぁ国民にも責任はあると思うが、私たちもそれを容認して作ってきたから責任がないとは言えないが、世界に類のない大きな事故を起こしたことに対しての終結の言葉が、「100ミリシーベルト以内なら直接影響はない」なんて言えると思う?
環境省の職員の言葉には、飯舘村民はみんな、苛立ちを感じているよ。
IAEAも、全世界の人類、動植物は1ミリシーベルト以内で生きましょうと方針を出しているのに、飯舘村はなんぼ頑張って除染しても1ミリシーベルトになりません、5ミリシーベルトで我慢しましょう、20ミリシーベルトでもいいですよって。
その言葉にはみんなカッカ、カッカしているよ。
今になってみれば、だいぶ言葉を選んで言うようになったけれど、どんなに言葉を選んでも私は前に言った言葉を聞いてしまっているからね、言葉を選んで言ったって逃げ道を作っているだけにしか思えないよ。

●凛として生きる
科学者も平和利用のためにと、政治家も国民の貧しさを見ていて、両者とも世界の大国と肩を並べていかなければという望みがあったからエネルギー源を放射能に求めることに目を向けたのだろう。
でもその時には、原発を動かす科学者を抱えているのなら、原発から放射能が出た時に完璧に除染できる科学者を育ててから手を出すべきだったと思う。
除染する方法は、絶対にないって、世界中の科学者はみんなそう言っている。
世界が掌だったらその小指の先ほどの日本で、自然がある過疎地だからいい、海があるからいいと言って54基もの原発を作って、事故を起こして今になって20ミリシーベルトだとか、500ミリシーベルトで我慢しろなんて、よくそんなことが言えると思う。

まぁ、子どもには子どもの生活のリズムがあり、それぞれに自分の本当の一生を自分らしく生きていくだろう。
自分らしく生きるってどういうことかと考えるが、私はできるところまで自然の中に身を置いて、自立して生きていこうと思います。
凛として生きていこうと思います。

★私が栄子さんに会いたいと願っていたのは、パレスチナの女性や子どもたちに密着して映像に記録してきた古居みずえさんが新たに取り組んでいる映画『飯舘村の母ちゃんたち』のダイジェスト版を2年前に見た時からです。
そこに菅野栄子さんが出ていたのです。
私は、古居さんのこれまでの作品『ガーダ パレスチナの詩』や『ぼくたちは見た ガザ・サムニ家の子どもたち』などで古居さんの視点に共鳴していました。
『飯舘村の母ちゃんたち』のダイジェスト版を見たすぐ後から、ガザでの空爆が始まったりして、新作の完成は遅れていましたが、この春公開されるようです。
公開情報が届きましたら、またお知らせします。
ぜひご覧いただきたいです。

小海での飯舘村の方からの話、もう1通追ってお送りします。 

いちえ






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