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2015年7月5日号「原発事故被災者のシェアハウス」

6月28日に催したトークの会「福島の声を聞こう!vol.15」で、ゲストスピーカーの藤島さんから、「南相馬市小高区にシェアハウスを作りたい」というお話がありました。
これは東日本大震災による地震・津波、それから続いて起きた東京電力福島第一発電所事故によって、住み慣れた我が家を離れての暮らしを余儀なくされた被災者のための復興共生住宅構想です。
藤島さんは小高区から避難して、鹿島区の寺内塚号第2仮設住宅に住み、そこで自治会長を務めています。
原発から20キロ圏内の小高区は、警戒区域となりましたが2012年4月16日に警戒区域解除となって、日中は入れるようになった地域(一部に帰還困難区域あり)です。

藤島さんの居る仮設住宅には、現在174世帯360人ほどが暮らしていますが、みな小高区の人たちです。
近くの他の仮設住宅も、小高区の方たちが多いです。
被災前には2世代、3世代、ときには4世代で暮らす人たちもいたのですが、原発事故の後で若い世代は他所(他市・県)へ避難した人が多く、家族が分散しての暮らしになりました。
若い世帯は避難先に生活拠点を移し、小高にはもう戻らないと決めている人も多いでのです。
福島県は応急仮設住宅の供与期限を来年3月までとしているため、仮設住宅に住むお年寄りたちは大きな決断を迫られています。
小高区にある自宅を手直ししても、若い世帯が戻らなければ年寄りだけの暮らしになりますから、来年、仮設住宅を出た後の暮らしに高齢者たちは大きな不安を抱いているのです。
そのようなことから考えられたシェアハウス構想です。
「南相馬市小高区に シェアハウスを作ろうの会」からの署名のお願いです。
趣旨と署名用紙をお送りしますので、ご協力ください。
プリントしたものが必要な方は、送付先をご連絡くださればお送りいたします。

いちえ

書名簿


2015年7月5日号「6月30日緊急集会報告②」

●開会後に参加した議員の紹介
*社民党:照屋寛徳さん
*民主党:白眞勲さん

●永田浩三さん(武蔵大学教授、元NHKディレクター・プロデューサー)発言
偏向新聞、偏向番組、偏向放送局など「偏向」という言葉が最近頓に使われますが、14年前に私はNHKの偏向プロデューサーとして烙印を押されました。
番組は「ETV2001 戦争をどう裁くか 問われる戦時性暴力」という慰安婦問題を取り上げた番組です。
この時にNHK幹部を放送前に呼びつけたと言われていますが、NHKの側は自分で出向いたと言っていますけれど、やり取りをして番組を変えてしまったのが当時の官房副長官、現在の安倍晋三総理大臣です。
メディアへの圧力や弾圧が起きるたびに、その時のことをつくづく感じてしまいます。
今日は植村隆さんがお見えですが、植村さんが去年体験されたことは私や私の仲間が体験してきたことと同じだと思っています。
3年前のことです。
慰安婦であった被害者の人たちの家を訪ねて、ずっと写真を撮り続けてきた韓国人の安世鴻さんというカメラマンがいます。
とても素晴らしい写真だということで、新宿のニコンサロンで写真展を開くことになっていて、これが在特会などの攻撃があって、わずかその翌日に写真展中止とニコンは判断をしました。
私が今住んでいる練馬の人たちや市民が立ち上がって、市民の手による写真展を開きました。
先ほど話された岩崎さんと一緒に今年の1月には「表現の不自由展」をやりました。
7,000人を超える方達が来てくださって、とても素晴らしい展覧会になりました。
一番話題を呼んだのは、ソウルの日本大使館前にある少女像の原型、実物大のものを持ってきて皆さんたちに見ていただくことをやりました。
つくづく思うのはその時に新聞の方たちはたくさん見えて、記事に取り上げてくださいました。
テレビのディレクターさんも来ましたが、それは差し障りがあるということで放送には一切出ませんでした。
今回の自民党議員たちの集まりによる不埒な発言ですが、私は油断ならないと思っています。
このように闘えることは、ある意味で織り込み済みというふうに私は邪推したりもします。
その結果何が起きるか、二つの道が考えられます。
一つは、我々が許さないということで闘って、彼らがある一定の制裁を受けて力を失うこと。
もう一つは、今は頭を下げているけれど、またむくむくと頭を上げて悪いことをする。
その結果メディアの人間があの時に「潰す」と言われたことを覚えていて自粛する、忖度するという道です。
私が身を置いていたNHKはどちらの道だったかというと、番組改編の後様々なメディアでそのことが明るみになりました。
特に朝日新聞は、しっかりと書きました。
しかし結果的には、当時の政治家は総理大臣にまで上り詰めてしまいましたし、NHKはそのことに屈するという事態になっています。
とても残念なことですが、これが日本社会の現実だと思わざるを得ません。
今回の登場人物の百田さんは、この間までNHKの経営委員でした。
安倍さんの最近の盟友の一人だと思いますが、彼は特攻隊の小説で名をあげましたが、今回はヤクザで言えば鉄砲玉のような存在としてやったことではないかと思うのです。
鉄砲玉は臭い飯を食うことを覚悟して組のために尽くして、そのうちまた処遇されるというようなことです。
そういうことがまた繰り返されては、断じてならないと思います。
今日(6月30日)の毎日新聞朝刊が書いていますが、放送アーカイブ構想と報道監視ということです。
沖縄選出の参議院議員島の尻安伊子さんが言っていることで、「沖縄のメディアは偏っていた。放送においてあの時どうだったかを調査するのは大変なことで、過去の放送を検証するためにこのアーカイブを使うのだ」と言っています。
私は番組改編の後さまざまなことがあって、アーカイブという仕事をすることになりました。
過去の番組を世の中のために生かすことはとても大事なことですが、報道に圧力をかけるためにアーカイブを使うことは断じて許してはならないと思います。
去年、自民党からのテレビ局へのさまざまな要請文もありました。
今回のことも、一連のことです。
ここで手を緩めるわけにはいきません。
これ以上のひどいことが起きないような、歯止めをかけたいと思っています。
頑張りましょう。

●島洋子さん(琉球新報東京支社報道部長)報告
自民党の勉強会の会合で沖縄の2紙を指して歪んでいると言われましたが、沖縄の新聞が歪んでいることの問題は、沖縄自体が歪んでいるからです。
0,6%の小さな島に日本の全米軍基地の73,8%があり、良き隣人といって駐留している米軍人が事件、事故を起こしても、日米地位協定の壁によって日本人被害者の権利は阻まれる。
この状況が沖縄が歪んでいるということだと思いますし、私たちはその矛盾を衝くために仕事をしていると思っています。
いま日本政府と沖縄は大きな対立をしている状況です。
圧倒的に大きな日本政府に対して、南の端っこにある小さな一県の沖縄県が、米軍基地を挟んで利害が対立している。
その時に報道は中立といって、沖縄の話と政府の言い分を平等に載せているような新聞では、沖縄では生き残れない。
沖縄県民の側に寄って報道していくことが、地元紙である私たちの仕事であると思います。
沖縄の二つの新聞が今回の勉強会の発言のように、反基地を煽っているとか偏向しているとか言われるのは、いまに始まったことではなくて復帰前から、また復帰後も永田町や霞が関の政治家や官僚から、しょっちゅう攻撃されています。
特に沖縄の基地問題で政府と沖縄側の利害が相反して沖縄側が主張すると、その場合は必ず沖縄の新聞を攻撃することで沖縄の意見というものを小さなものにしようという意図も見えると思います。
例えば1989年の国会では、軍用地の20年以上の使用が問題になっていた時には参考人として委員会に呼ばれた人が沖縄の2紙が偏向しているからと言ったり、小池百合子元防衛大臣がさまざまに沖縄の新聞の攻撃をしていますけれど、「沖縄とアラブのマスコミは似ている。反基地で超理想主義、反米で超理想主義だ」と言ったりのように、こうしたことは度々あります。
今回のことも、「ああ、またか」と既視感があったのですが、偏向しているとか煽っているとかいう攻撃は、逆に言うと、沖縄の人たちが判断能力がなくて新聞に頼っている、新聞の意見をそのまま鵜呑みにしていると言っているような気がします。
でも沖縄の人たちは、そんなアンポンタンではなく、私たち新聞にも批判や意見を言ってきます。
もし私たちの報道が県民をリードしてやろうというような上から目線の報道だったら、そして沖縄県民の意思と乖離しているものであったら、もうとっくに潰れています。
そういう意味では、私たちの報道、県民に判断能力がないように、まさにレッテル貼りしている今の政権の若手の議員たちは、沖縄の人たちにも失礼ではないかと思います。
ただし小さな一県の地元紙で、沖縄の問題、沖縄の真実がまだまだ本土に伝わらないというのは、私たちの力不足だと思います。
百田さんがおっしゃっていた沖縄に関する誤った発言については、いま琉球新報のホームページで全てに回答しています。
普天間基地は田圃だけだったとか、米兵より県民の利益の方が多いとか
どうぞ、琉球新報のホームページをご覧ください。
地元紙として、政府寄りではなく沖縄に偏向した報道をしていきたいと思っています。

●宮城栄作さん(沖縄タイムス東京支社報道部長)報告
いつも沖縄の報道は偏向しているなどと言われていますから、今日は反論します。
勉強会の発言に対して沖縄の人たちは怒りはもちろんですが、明らかに呆れている、情けないという感情に近いです。
この議員たちが安倍首相の側近であることを考えると、安倍政権の底流にある本音があけすけになったと見るべきだと考えています。
百田さんも言論の自由をもとに活動している作家なんですから、その同じベースで活動している我々2紙に対して潰せということを言うような、言論の自由を非常に間違った解釈をしてと言わざるを得ません。
紙面にも書きましたが、その百田さんは2紙を読んでおらず、ネットで読んだ印象で嫌いだということを言っています。
出席議員も沖縄の2紙は酷いということを言いますが、実際に読んで検証しているのではなくあくまでもイメージですよというわけです。
読みもしないで印象だけで嫌いと公言できるレベルに、あきれかえります。
勉強会の代表であった木原さんの、別の観点の記事を今日の紙面に載せたのですが
先日の23日、沖縄慰霊の日についての彼の論評ですが、翁長知事に対して拍手が湧いて、安倍総理に対してはヤジが飛んだという我々から見ても異例な式典でしたが、木原さんは「あれは県がそういう人を動員してヤジを浴びせた」と言うのですが、馬鹿馬鹿しいとは思いましたが一応県の担当に「動員しましたか?」と確認しました。「もちろん、動員しません」という答えでした。
彼は分析した結果「動員」だというので、ではどういう根拠があって分析したのかどうしても知りたくて、昨日はずっと議員会館に待っていたのですが全然出てこず最後にけんもほろろに答えずに出てきました。
その取材をするようになって最後に確認したのが午後2時頃でしたが、6時頃にもう一度原稿にしようとして見ようとしたら、なぜか(なぜかは推測できることではありますが)全部非公開になっていました。
去年の勉強会で、百田さんは政治家は言葉が大事だと言っていたのではないかと思いますが、言いたい放題言っておいて説明もしない、そうやって彼らにとって都合よく切り取って矮小化された沖縄感観というのが彼らの発言やインターネットによってどんどん広がっていくということが、なんとも言えない悔しい思いがあります。
もう一人の長尾議員は百田さんの発言を引き出していますが、あの人のネットを見ると
我々に対して「いびつな矛盾に満ちたマスコミに在り方、背景には突出した左翼勢力、宗教の工作員の存在がバックにあると確信している」ということを言っています。
あとは「沖縄は予算付けである」とか言いますが、予算付けでない自治体があるのかと思います。
「沖縄の選挙は公共事業中心で、お金をどれだけ引っ張ってくるかの選挙だ」など、沖縄選出の国会議員は怒って抗議したほうがいいと思います。
その長尾さんも沖縄の新聞を読んでいないと言いますが、勝手にそういうデマを広げて潰せとか、あの2紙はどうにかしないといけないとか、そういう中傷作用は表現の自由として保護される価値があるのだろうかと疑問に思います。
憲法には宣言されていると思いますが、表現の自由にも限界があって特定の個人の具体的弊害が生じた場合は、表現は規制されると考えられています。
だから名誉毀損であったり業務妨害などには、刑罰や損害賠償の対象になるわけです。
過度の罵声が浴びせられた行為には侮辱罪とか業務妨害になることも、憲法が有していることです。
安倍首相が、議員の発言も言論の自由があるという発言をしていますが、安倍首相の認識も間違っていると言わざるを得ません。
議員たちは言論の自由を封殺する方向で発言をしているのであって、自由を守るのと真逆の発言をしているので、彼らは強大な権限を持っている政権党の所属議員ですから、守るべき言論の自由の埒外にあると言わざるを得ないと思います。
憲法21条で言論の自由が規定されていますし、憲法99条で憲法の遵守義務も規定しているわけですから、その規定さえも守らない国会議員が居ていいのかという問題だと思います。
議員の中からそういう発言が出るのは、安倍首相がそういう発言を喜んでいるからだと思います。
問題の基本は安倍首相自身の言論の自由に対する考え方、あるいは、そもそも憲法観
が一番問われなければいけないことだと思います。
発言者の一人の大西議員は、今日も懲らしめないといけないとか、広告を自粛するべきだという発言をしていますし、議員の劣化という個人の問題に止まらないと思います。
それを言った彼らが所属する党の総裁は、ちゃんと謝罪しないといけないと思います。
沖縄タイムスは1948年位創刊しましたが、当時は出版許可制の元で米軍が検閲して
紙の供給も米軍が握っていたわけです。
そういうこともあって沖縄タイムスの過去の論調も遠慮がちであったし、当初から基地被害を強く告発していたのでもありません。
ただ米軍の理不尽な事件などから住民に背中を押されて、不条理を告発できるようになって、その時から変わらない現実が、厳しい論調を鍛え上げる結果になったと言えます。
報道以外でも沖縄の戦後史は、自由、自治、平等というものを求める歴史であったと思います。
憲法、言論の自由が、共に天から降ってきた本土とは決定的に違うのだと思って、住民、メディアが一歩ずつ勝ち取ってきた権利、そういう歴史だったと思います。
そんな歴史を知らないで、潰そうと思って潰せるかというところですけれど、歴史を知らないで言っていることがよく判ります。
安倍政権にとって辺野古移設、新基地建設で沖縄の民意が意のままにならないことで、沖縄タイムスや琉球新報の力を過大に評価するわけではないですが、世論形成に多少なりとも影響しているとすれば、彼らに取って我々は憎むべき存在なのでしょう。
我々は先ほども出ていましたが、我々が県民世論を突き動かしているのではなくて、世論を反映させているだけです。
政府の言うことを聞かない報道を偏向と呼ぶのであれば呼んでもいいと思いますが、どこに軸を置くかということで、沖縄に軸足を置けば安倍政権の考え方こそが偏りだと思っています。
酷い国になったと思いますが、今後とも我々の軸を大事に報道を続けいこうと思います。

●参加者の日本弁護士連合会の山口亮太さんの一言
日本弁護士連合会は基本的人権を擁護し、社会正義を実現する。これを使命にしている弁護士の集まりです。
今回の件は民主主義の根幹にかかわる問題であって、立憲主義の関係でも大変憂慮すべき問題だと考えます。
日弁連では、今日は招かれたわけではないですが、私は一人の市民として弁護士として居ても立っても居られない思いで参加しました。
いま本当に過去いくつもいろいろな問題がありましたが、平和の問題、戦争の問題こういう問題と絡めて、憲法の平和主義についての言論が弾圧される、抑圧される、こういうことは絶対に見過ごすことはできない考えで居ます。
今日、たくさんの市民の方が集まって、また全国の報道機関、メディアの方々も声を上げている状況を見て大変心強く思いました。
弁護士会も一緒に頑張っていきたいと思いますので、よろしくお願い致します。


2015年7月4日号「沖縄を感じる会」

以前にお知らせした野池道子さんの「沖縄を感じる会」の参加申し込みは、始まっています。
沖縄の問題をより一層深く感じ取り考えるために、多くの方においでいただきたい会です。
お申し込みは、このメールへの返信でも結構です。
お名前と参加人数をお知らせください。                   

いちえ

沖縄を感じるB-4


2015年7月4日号「6月30日緊急集会報告①」

30日(火)夕刻、参議院議員会館講堂で、「言論の弾圧を許すな!怒りの緊急集会」が開かれました。
遮二無二戦争法案を通そうと暴走する安倍政権と、それを支える自民党若手議員勉強会での発言に対しての「怒りの緊急集会」でした。
集会の呼びかけ人は超党派の国会議員たちで、近藤昭一(民主)、赤嶺政賢(共産)、小池晃(共産)照屋寛徳(社民)、福島みずほ(社民)、玉城デニー(生活)、山田太郎(元気)、糸数慶子(無所属)、仲里利伸(無所属)で、前日の29日に急遽開催を決めたそうです。

発言:永田浩三(武蔵大学教授)、新崎盛吾(新聞労連委員長)、樋口聡(出版労連中央執行委員)、岩崎貞明(民放労連書記次長)
報告:島洋子(琉球新報東京支社報道部長)、宮城栄作(沖縄タイムス東京支社報道部長)

司会は近藤さん、小池さん、福島さんでした。

急遽の呼びかけでしたが会場いっぱいに溢れる参加者で、座席がなく立っている方たちも多数いました。
各党から議員の参加も多く、はじめに参加した議員の方たちからの挨拶がありました。

●民主党:枝野幸男さん
短い時間に集会をセットされた呼びかけ人の皆さん、ご参加の皆さん、ほんとうにありがとうございます。
立憲主義の危機だと思っています。戦後の日本は民主主義の重要性は語られてきましたが、立憲主義の重要性はあまり語られてこなかった。その危機だと思っています。
民主主義の大前提である表現・報道の自由について、こういう状況になって、立憲主義だけではなく民主主義も共に危機にあることが明らかになったと思います。
戦後民主主義が70年経っているにもかかわらずこうした問題が公然と語られる状況を、同じ国会に議席を持つ者として、非常に情けなく思います。
ここにお集まりの皆さん、またここには来られないけれど「おかしいぞ」と思っている国民の皆さんの輪をいかに広げていくか、そのことに向けて党派を超えて頑張っていくことをお約束して民主党としてのご挨拶とします。共に頑張っていきましょう。

●日本共産党:山下芳生さん
マスコミを懲らしめるとか沖縄の2紙は潰したらいいとか、こんな発言がまさか言論の府である国会議員の中から飛び出すとは、びっくり仰天でした。
この問題は重大な問題を孕んでいます。
第一に言論の自由に対する挑戦、第二に沖縄県民に対する侮辱そのものではないでしょうか。
このことは谷垣幹事長が事実だったと確認した、だから(発言議員は)処分されたわけです。
事実だったら「ごめん」では済まされません。
私は安倍総理が、国民と沖縄県民にしっかりと謝罪しなければならないと思っています。
安倍さん自身が言論と報道の自由に対して、こうした考えを持っているからだと思っています。
こういう勢力が戦争法案を扱う資格はないと思っています。
民主主義と平和を守るために、みなさんと一緒に闘い抜きたいと思います。頑張りましょう。

●維新の党:初鹿明博さん
こんにちは。いまお騒がせしております初鹿です。
言いたいことはたくさんありますが「報道機関を懲らしめる」といった大西さんが私の相手なので、必要以上のことは言いません。
とにかく報道規制をするような、表現・言論の自由を妨げるようなことが、あってはならないのは当然のことです。
こういう政権に、このような重大な法案を審議する資格はないということをみなさんと共有して、これから徹底的に闘っていくを誓って挨拶とさせていただきます。

●日本を元気にする会:山田太郎さん
初鹿さんもよく来ていただきました。
最近国会を見ていると憲法21条がすごく危機にあり表現の自由、通信の秘密です。
私自身、漫画・アニメ・ゲームの規制等反対、それからいま盗聴法の改正法案、これも大変姑息なやり方でケース法の中に紛れ込ませて通そうとしていたり、社会秩序系の法律をいじるという国会になっています。
そうした中で正しいと思うことは主張すべきですが、力で押し通そうとするのはおかしいと思っています。
表現の自由はきちんと守る、我々が自由を作っていく、そうでなければ、放っておいたらどんどん自由でなくなるということをもって、ここに集まった方々、世論を動かして表現の自由があるからこそ、この国で素晴らしく生活ができるのだということをもう一度思い出して、表現の自由をみなさんと一緒に守っていきたい、高めていきたいと思っています。

●社会民主党:吉田忠智さん
沖縄の人たちをないがしろにする発言、許せないと思います。
皆様と共に、怒りをもって抗議したいと思います。
あの発言を聞いて、私は二つのことを感じました。
一つは、戦争法案について国民の皆さんの反対の声が広がっています。
これについての自民党内の焦りや苛立ちではないか。
もう一つは単なる失言ではなく実際にそう思っているわけで、本当に危機感を持たなければならないと思います。
途中で退席したと言っていますが加藤官房副長官、萩生田総理特別補佐、まさに総理の側近です。
そういうの方々の責任も問われない、ひいては安部総理自身の責任もあるわけです。
いずれにしても、発言した人たちへの厳重注意だけでは済まされない。
とかげのしっぽきりでは許されない、青年局長更迭や発言した人たちの厳重注意だけでは済まされない。
とにかくこれから私たちが、繰り返し巻き返し声を上げていくことが極めて大事です。
平和と民主市議が、まさに問われている局面です。
みなさんと共に、頑張りましょう。

●沖縄社会大衆党:糸数慶子さん
先ほど那覇から上京してまいりました。
地元の辺野古でも大変な状況が起こっていて、これも本当に怒りを持って抗議したいと思いますが、本日のこの「怒りの緊急集会」は、沖縄にとっても国民にとっても、安倍政権の本音が暴露されたそういう発言にかかるのだと思います。
みなさんと一緒に抗議したいと思います。
沖縄県関係の国会議員は発言の中で普段から言っていますが、「政府のいいなりにならない」。
この県民のことを、偏向報道のせいだと言っておりますが、とんでもないことです。
無批判に政府の方針を鵜呑みにするというのでは、それでは戦前戦中の大本営発表と同じだと思います。
事実誤認がいくつもありましたが、田圃の中だと言っている普天間基地が、そうではないということが昨日の沖縄タイムス、本日の琉球新報に大きく掲載されています。
宜野湾市の市役所でも、このような嘘の発言をするメンバーに対してはしっかり抗議をするという意味も込めて、もともと宜野湾がどういう状況で土地を取りあげられて今の普天間飛行場ができているかということをしっかりと報道しています。
このことを合わせて、自民党勉強会の発言を糾弾したいと思います。
そしてもう一つ、性暴力に関しても女性や沖縄の県民の人権を大変に、侮辱するような発言をしていますし、こういうことに対して怒りをもって糾弾していきたいと思います。
頑張りましょう。

●出席者紹介
*元朝日新聞記者の植村隆さん
各党から
*民主党:枝野幸男さん、福永エリさん、近藤昭一さん、小宮山泰子さん、阿部知子さん
*維新の党:初鹿明博さん
*日本共産党:赤嶺政賢さん、塩川鉄也さん、島津幸広さん、清水忠史さん、真島省三さん、藤野保史さん、井上哲士さん、仁比聡平さん、田村智子さん、高橋千鶴子さん、大平喜信さん、宮本岳志さん、畑野君枝さん、倉林明子さん、田村貴昭さん、山下芳生さん、池内さおりさん、畠山和也さん、穀田恵二さん、小池晃さん
*社民党:吉田忠智さん、福島瑞穂さん
*無所属(沖縄社会大衆党):糸数慶子さん
*日本を元気にする会:山田太郎さん

●新崎盛吾さん(新聞労連委員長)発言
今回の百田尚樹さんの発言、自民党の国会議員の方々の発言。
百田さんはその後「公人ではなく私人としての発言」であるとか、あるいは冗談だったと言っていますが、首相に大変近い人物であり、また今年の2月までNHKの経営委員を務めていて、メディアに影響力を持っていた方の発言ということで、これを許すことはできないです。
しかも自民党の約40人もの国会議員の前で、講師としてそしてその委員が百田さんにそういうことを言わせるような、同調するような形で発言を引き出したということは大問題だと思っています。
ただこのことをきっかけにして、私は世の中に二つ、プラスになることがあったと思っています。
一つは今の自民党安倍政権を支えている国会議員のレベルが、こんなに酷いものだったということを国民に知らしめたこと。
彼らは憲法を本当に読んでいるのでしょうか?
表現の自由、報道の自由ということを全く頭の隅にすら置いていないようなあのような発言が出てきた、これが安倍政権を支えているということ、報道の危機という今、このことを忘れてはならないと思います。
もう一つ、ようやくメディアが萎縮の壁を破って声を上げ始めたということです。
昨年、朝日新聞パッシングが起きましたが、その時に比べればメディアもマスコミも、かなり真っ当に反応していると思います。
朝日、毎日、東京、そして読売までもが、社説でこの問題を取り上げました。
昨日は新聞協会も声明を出しました。
沖縄の2紙が共同で抗議声明を出すということも、これも今まではなかなかなかったことです。
そしてもう一つ、今まで保守的だと言われていた新聞社も今回のことには危機の声を上げています。
東北地方の山形新聞、山形県は自民党の牙城だと言われていますが、そこが「言論の封殺 暴挙を許すな」ということを一面に社長名で緊急声明を出しました。
編集局長名で一面に抗議声明を出したところが長崎新聞、岩手日報。
朝日新聞などは議員の名前など上げながら大きく扱いましたが、今まで地方の新聞社であまりこうした問題について出していなかった新聞社が一面、二面、社会面など複数面にわたって、この問題を扱っています。
やはりメディアの危機ということが、全国の新聞社の中で共有されてきたと言えます。
これは組合とか一部の社だけではなく、新聞業界が一致団結してここに立たなければならない時代が来ていると感じています。
発言の中で沖縄に関して、いろいろと荒唐無稽な話がありました。
糸数議員からも話がありましたし、後ほど沖縄の2紙の報道部長から話があると思いますが、沖縄のメディアは左翼勢力に乗っ取られている、ゆがんだ世論を正しい方向に持っていく必要があると言った議員がいます。
新聞を潰せというような、上から目線の発言をする議員にはわからないと思いますが、ほとんどの新聞記者は世論を先導しようなどと考えて仕事をしている記者はいません。
これははっきり言っておきますが、そういうおこがましいことは決して考えていません。
私は共同通信社で記者、デスクをやっていましたが、記事を出す時に何に一番気を使うかというと、加盟社、我々の記事の配信を受ける新聞社の反応です。
その新聞社からこの記事の見出しはこれでいいのか、こういう記事は出ないのかなどといろいろな指摘を受けて、それで共同通信の記事は作られていきますし、論調も作られていきます。
そしてその加盟社の先に一人一人の読者がいます。
読者が何を求めているのか、どういう記事を読みたいのか、そういうことを考えながら、新聞社は新聞を作っているのです。
琉球新報、沖縄タイムスは、今の安倍政権の安保法制、いわゆる戦争法案の整備、そして辺野古新基地建設反対という形で論調を作っています。
これは昨年一年間に沖縄で行われた選挙、名護市長選、沖縄県知事選、そして衆議院選挙まですべて基地に反対する、そして戦争法案整備に反対する勢力が勝っていることを忘れてはならないと思います。
これが沖縄の民意です。
この民意を反映する形で沖縄タイムス、琉球新報は紙面を作り、取材をし、県民の支持を得ている。
沖縄の中でこの2紙の占有率は100%近い、98%くらいだと思います。
これほど新聞が読まれている県が他にあるかどうか考えてみれば、この2紙の位置付けがよく判ると思います。
全国の新聞からこの自体に対して、危機感を持った声が上がっています。
そして自民党の劣化がよくわかりました。
そういう人たちが戦争法案、沖縄の新基地建設を進めています。
民意を考えない視野の狭い方は大変危険だということで、我々新聞業界は幅広い視野で様々な意見を世の中にアピールしていくことで、しっかりと、そういう政権と闘っていきたいと思います。

●樋口聡さん(出版労連中央執行委員)発言
言論封殺、表現規制などが起きると、まずフリーランサーが狙われると、危機感を強めています。
出版労連では産業対策や出版事務委員会などをやっています。
6月25日の自民党若手国会議員の勉強会で、言論弾圧、暴言と沖縄県民への侮辱に対して野党を始めメディアや沖縄県民、国民から批判の声が上がっています。
私たち出版労連も満身の怒りをもって、抗議したいと考えています。
自民党は私的な勉強会だったと取り繕うつもりですが、そうであっても国家権力の座にある与党議員の学習会であることに変わりありません。
また某小説家は安倍首相と共著もあり、首相からNHK経営委員に押した人物です。
マスコミを懲らしめるには広告収入をなくせばいい、文化人、民間の方々がマスコミに広告料を払うなんてとんでもないと、経団連に訴えかけてほしいという言論統制を進めるような自民党議員の発言は、憲法21条を踏みにじる暴論で、国会議員の憲法遵守を詠った憲法99条違反であるとも考えています。
出版労連、そして出版社の活動の拠り所は、憲法21条に詠われている言論・出版・表現の自由です。
民主主義が一番感じられる、権力に対する批判の自由をないがしろにする事件が、自民党本部において起きたと考えています。
百田氏の、沖縄の新聞は潰さなきゃいけないという発言と、27日のご自身のツィッターで、潰れて欲しいのは朝日、毎日、東京という投稿も自民党議員と同様、ジャーナリズム精神に基づき政権与党に反する言論、表現の自由に対する氏の無理解と侮辱を示すものに他ならず、冗談、いや本気、冗談と、二転三転する作家の言動としては非常に言葉が軽いと言わざるを得ません。
その背景には、国会で安倍政権が成立を目指している安保関連法案他の危険性が露わになり、日増しに反対の世論が高まっていることへの焦りと苛立ちがあると考えます。
自民党は戦争法案の7月中旬までの衆院通過を目指し、一部議員の更迭で引き払おうとしていますが、事の本質は重大です。
安倍首相は自民党総裁として謝罪に応じていません。
このような政権に、戦争法案を審議する資格はありません。
「戦争で最初に犠牲になるのは真実」の言葉が示すように、戦争する事と表現の自由は相いれません。
政権与党である自民党による今回の言論弾発言を許さないで、出版労連は、出版に関わる全ての人達や新聞労連、民放労連などのメディア、関連労組と共に表現の自由を守り抜くために、あらゆる言論弾圧にひるむ事なく
活動していきたいと思っています。
皆様と共に闘っていきたいと思います。

●岩崎貞明さん(民放労連書記次長)の発言
今回の問題発言が出た自民党議員の勉強会の名前が「文化芸術懇話会」という名前です。
そして今提案されている法案の名前が「平和安全法制」というもので、およそ言ってる事とやってる事が百八十度違うのです。
そもそもあの政党が「自由民主党」という名前であるのも、悪い冗談だとしか思えません。
百田尚樹という人はベストセラー作家として世に出る前は、大阪の朝日放送の人気番組「探偵ナイトスクープ」という番組の放送作家をしていた人物です。
限られた時間ですが、少し長いスパンで今回の問題を考えてみたいと思います。
一つは、自分に都合の悪いことをマスコミのせいにするというのは自民党の長い間の体質になっているのではないかということです。
直接に本人につながっていると思われるのが1993年の椿発言事件の時も、細川連立政権ができて自民党は野党に落ちたのですが、あの時も自民党が負けたのはマスコミのせいだということで椿さんは報道局長としての発言が問題だとして国会喚問にあったわけです。
ですが選挙に負けたということは、自分の党の政策が有権者の支持を得られなかったと反省すべきだったのではないでしょうか。
それと同じことが今回も「平和安全法制」というものの中身が欠陥だらけだから問題にされているのに、それを
全てマスコミが悪いからと叩きまくるというのは、「悪く描かれたくない症候群」に陥っているのではないでしょうか。
むしろこれだけひどいメディアパッシングが自民党から行われているというのは、あの法案がそれだけ議論に値しないロクでもないものだということを自ら語るに堕ちているのではないかと考えます。
もう一点、自民党の議員の、広告を自粛すべきだという発言も、こういうやり方も新しくもなんともないです。
50年以上も前からずっと、自民党がとってきた手法です。
それはRKD毎日という福岡県のラジオテレビの福岡県県営の放送局が1962年に「一人っ子」というドラマを放送しようとしました。
このドラマは芸術祭参加作品で、歳の離れた兄を特攻隊で亡くしている高校生が軍国主義の父親と、息子を特攻隊で亡くしたことを悔やんでいる母親との間で揺れ動いて、防衛大学への進学を諦めるという非常に考えさせるドラマだったのですが、このドラマがTBS系列の東芝日曜劇場で全国放送される予定でした。
ところが11月25日放送予定でしたが、11月6日か7日頃東芝がRKD毎日に対して、理由は明らかにしないままスポンサー降板を言い、放送中止になってしまったことがありました。
その背景には右翼や自民党の国会議員が東芝に圧力をかけたのではないかと語られています。
このように自分の気に食わない放送に対してスポンサーに圧力をかけるというのは、常套手段だと言えると思います。
こういうことを許さない、放送を国民のものにする、ということを民放労連の活動の柱にしてきました。
もちろん圧力をかける自民党が問題ですが、もう一歩メディアに頑張って欲しいと思うのはこのように繰り返されている圧力を、ちゃんと報道すればいいということです。
いま安倍政権がどういうことをやろうとしているのかを、毅然として報道してもらいたいということです。


2015年6月29日号トークの会「福島の声を聞こう!vol.15」報告

6月28日(日)神楽坂セッションハウス・ギャラリーで、15回目のトークの会を催しました。
今回のゲストスピーカーは、南相馬市小高区から避難して鹿島区の仮設住宅で暮らす藤島昌治さんです。

◎藤島昌治さんプロフィール
1946年満州生まれ、1970年より福島に在住。
1992年から地域の大人と子供の体験の場としての任意団体「気まぐれ大学」の学長となる。
原発事故後の先が見えない避難生活の中で「なんじょすっぺ(どうしようか)」と思った不安な気持ちを広告紙の裏に綴り、それを目に留めた訪問者の協力で詩集『なんじょすっぺ』が編まれ、増補して詩集『仮設にて 福島はもはや「フクシマ」になった』が、昨年8月に遊行社から発行された。
同書の英語版も、今年3月に同じく遊行社から発行された。

◎藤島さんが今、一番訴えたいこと
私が今日一番お話したいのは、来年4月に仮設住宅を出なけらばならないということです。
(*県は応急仮設住宅の供与期限を来年3月までとしている)
南相馬市小高区は、原発から20キロ圏内にある地域です。
私のいる寺内塚号第2仮設住宅には、174世帯で約360名がおりますが、平均年齢は65歳です。
仮設住宅には、狭い居住空間にお年寄りばかりが暮らしています。
原発事故後、若い人たちは放射能が心配で遠くへ離れて暮らすようになり、そうして4年も経ち、もう5年目に入りました。
若い人たちはそちらで生活を始めましたので、生活の基盤はそちらへ移っています。
原発事故前は一緒に暮らしていた家族ですが、事故後は離れ離れで暮らしてきて、来年4月になって、また一緒に暮らせるかというと、大変な問題があります。
遠くで暮らしている若い人たちが、そこへ年寄りを迎えて果たしてそこで生活していくことができるだろうかというと、大変難しいです。
離れて暮らすようになってしまった若い人たちと仮設住宅に残ったお年寄りが、たまには会うこともあるのですが、お年寄りの今後の生活については、若い人たちはできるだけ触れないようにしています。
触れれば、間も無く介護が必要になってくるだろうお年寄りを自分たちが引き受けなければならなくなりますが、それは若い人たちにとっては、大変なことです。
そうすると、お年寄りだけが元の小高区の自宅へ戻るようになります。
4年以上も無人にしていた家は、非常に傷んでいます。
土も汚染されていますから、戻っても土いじりもできないのです。
そうするとお年寄りは戻っても、古い家の中で、ただ毎日ぼんやり暮らすことになるわけです。
経済的な問題もありますが、こんな風に大変な問題をたくさん抱えています。
そうした中で、行き場を失った年寄りをこれからどうするかが、大きな問題です。
みんなが個人個人が、来年の4月に向けて行き先を案じながら暮らしていますが、その受け皿をなんとかしてやりたいということで、シェアハウスのようなものを作ることができないだろうかということを模索しています。
今日は署名用紙を持ってきましたが、皆さんにご協力いただいてなんとかそうした受け皿を作っていきたいと思っています。
(※注:この日にお持ちいただいた署名用紙は、参加者の方たちにお分けして、私の手元にないので、署名については後日に用紙が届き次第、改めてまた「一枝通信」でお伝えします)

◎藤島さんの震災後から今日まで
原発から15キロほどの小高区に住んでいました。
津波の被害は受けませんでしたが原発事故を受けて、一度山形へ避難しました。
この時には特別の指示はなくて、自分で逃げられる人は逃げなさいという指示があっただけでした。
知り合いの人たち9名で、3台の車に分乗して山形へ行きました。
その中に子供が二人いて、4月になると学校が始まりますから学校をどうするかと、学校の受け皿を探したところ、新潟県の三条市で受け入れが可能だということでそちらへ移り、そこの避難所にしばらくいました。
その体育館の避難所にいた時に、やがてこの震災を思い出す時が来るだろうから何か書き留めておこうかなと思って、気持ちを書き始めました。
新潟県の避難所から借り上げ住宅などを転々として7回ほど引越しを繰り返して、ようやく、その年の11月に今の仮設住宅に入り、南相馬に戻ってきました。
戻ってきてなんの拍子かわかりませんが、たまたまその仮設住宅の自治会長になりました。
一緒に入居されている85歳のおばあさんがいて、その方がこんなことを言うのです。
「私は戦争を体験してきたけれど、その時よりも、今度の震災の方がはるかに苦しい。一番の苦しさは、家族と離れ離れになってしまったことだ。子供達と別れる時に、私はもう年だから、ここで死ぬかもしれないけれど、あんたたちは心配しないでいいよと言ったんだ」
その言葉をカレンダーの裏に「80歳のつぶやき」として書いて貼っておいたのですが、それをボランティアで訪ねてくださった「伝統食を守る会」の方が目に留めて、他にも書いてあるものがあったら本にしましょうと言ってくださって『なんじょすっぺ』(16編)ができました。
それが多くの方の好評をいただいたのですが、こういったことを繰り返していくうちに、仮設の現状や核災害の恐ろしさを、ここからもっともっと発信していかなければいけないと思うようになりました。
『なんじょすっぺ』を読んだ遊行社の本間千枝子さんという方が、この方は南相馬市出身の方ですが、その後に書いてあったものを加えて『仮設にて 福島はもはや「フクシマ」になった』(40編)を本にしてくださったのです。
核災害で苦しんでいる人の声を全国に発信していかねければいけないよと、本間さんからも促されてまた少しずつ書き始めています。
震災後東北の岩手青森の方から写真を撮り続け発表してきている写真家の菊地和子さんと、昨年の6月にお会いしました。
そして菊地さんの写真に私の詩を何編か載せた、『フクシマ漂流』という写真集ができました。(遊行社)
写真の一つ一つにも物語があって、菊地さんはいろいろなところで写真展をしながらスライドとトークショーで原発の悲惨さと仮設の暮らしを、全国各地で伝えてくださっています。
そうしたことの中で、今度は今日もお見えになっていますが、榊原利惠さんという方が『仮設にて』を英訳したいと言ってくださって、英訳版の『At Kasetsu Our Temporary Housing』が出来ました。(同じく遊行社)
これを、海外でも発信していこうというつもりでいます。

◎仮設住宅の暮らし
仮設住宅は想像以上に大変です。
85歳のおばあさんのことを話しましたが、一人暮しの人の仮設は4畳半一部屋です。
高齢者は足腰が不自由になりますから、起伏しにベットが必要ですが、4畳半にベットを置いたらそれだけで部屋がいっぱいになってしまって生活ができません。
これを解決したいと思っていろいろなところに申し入れをしますが、行政の壁は厚くて、解決できません。
行政の悪口は言わないようにしますが、本当に大変です。
高齢者が、4畳半の部屋にベットを押し込んで暮らしているのです。
学生や、昼間部屋を留守にして夜寝るためだけの人でしたら、4畳半にベットを置いてもいいでしょうが、仮設のお年寄りは一日中、24時間そこで過ごすのです。
そういう人たちを昼間は部屋に置かないで、部屋から出てみんなとお話ができるようにと思って、いろいろなことを考えてやっています。
空き地を借りて公園や花畑を作って、土をいじっていただく方法を考えたり、元来田舎の人たちですから土をいじっていると元気になるんです。
花畑の草取りなども、頼みもしないのに出てきてやってくれています。
ヤギを2頭飼っていまして、なかなか話をしなかったり、いろいろな集まりにも出てこないような方も、ヤギにえさをやりたくて出てきます。
集会所で編み物をさせたり、卓球台を置いてピンポンをさせたり、あの手この手を使ってなんとか人と交わる方法を模索しながら、また四季折々の行事をしています。
今も7月7日の七夕をやろうと準備しています。

◎仮設住宅の自治会長としての役割
特別なことは何もしていませんが、最初に400人近い方が入居していて優秀な方がたくさんいらっしゃり、たまたま私を自治会長に選んでしまったために、困ったことにならないようにと逆に私の面倒を見てくださっているのです。
私がヘラヘラ笑っていれば、だいたい用事が足りてしまうのです。
とりあえず、私はヘラヘラ笑っております。
暗い顔をしたり、嫌な顔をしていることで、みんなを困らせないようにしようと思っていることだけです。
皆さんがどんなことをすれば部屋を出て他の方と交わったりすることができるかな、とそんなことを考えてやっています。
(藤島さんは謙遜してそう話されましたが、藤島さんが自治会長を務める寺内塚号第2仮設住宅は、集会所に男性たちも頻繁に顔を出し、みんなでゲームをしたりおしゃべりをしたりしています。これは、他の仮設ではなかなか見られないことです。藤島さんの人柄と努力が、住民の和を生んでいるのだと思います)

◎核災害だけではない南相馬市
南相馬市は津波の被害も、非常に大きいところでした。
南相馬市だけで560数名が津波で亡くなっていて、これはダントツに多いです。
小高区は地震も酷くて、つぶれた家もたくさんありますし、今も誰も住んでいないので、異様な感じの街になっています。
それと核災害で1年間全く入れなかったので、津波で亡くなった方もすぐに探せば見つかったご遺体も行方不明
のままの方もあります。
それに加えて震災の関連死も非常に多いです。
南相馬市だけでも、1000人以上を超えています。
直接震災で亡くなった方よりも関連死の方が上回っていますし、これはまだ増えていくでしょう。
また自死なさった方もいらっしゃいます。
昨年も90歳超えたおじいさんが、自死なさいました。
90歳を過ぎてもなお、自らの命を断たねばならない、その苦しさを思います。

◎小高区の現状
海側はもともとゼロメートル地帯でしたが、震災の後50センチほど地盤沈下してしまいました。
今もって津波の被害にあった家や橋がそのままの姿で生々しく残っていますし、そうでないところは除染廃棄物を入れたフレコンバックが並び置かれた仮置き場になっています。
2012年4月から昼間は自宅に戻れますが、自分の家なのに泊まるには許可が要ります。
個人的な考えですが、私は20キロ圏内は石棺にすればいいと思っています。
そこへは人が住まないのがいいと思っていますが、そこで生まれ育った方の中にはどうしても帰りたい方がいるのです。
そういう方は、宿泊許可があって何日間か泊まってもいいよと言われるのです。
でも家には何にもないので、トラックでいろいろを運び込まなければ、生活できないのです。
何日間かにしろそこで暮らすには、いろいろ持ち込まなければ暮らせないのです。
実際には住んでいる人もいますが、それはちょこちょこ荷物を運び込んで暮らせるようにしてきたのです。
自分の家に泊まるのに許可証が必要だというのも、非常におかしな話だと思います。

◎来年4月以降は
避難後、無人になっていてあちこち傷んでいた自宅を、高齢になったお父さんがコツコツと直してきて再び住むことができるようにして、遠くに避難している息子に「もう戻れるようにしたから、いつ戻ってもいいよ」と言うと、息子は「うん」と言います。
でも、この「うん」はイエスの「うん」ではないのです。
息子はもう小高には戻らないつもりだけど、父親が気の毒で「戻らない」とは言えないのです。
また、仮説に暮らしていた年老いた両親のうちお父さんが癌で亡くなり、お母さんが残されました。
お父さんのお葬式で、お母さんは息子に「これから私はどうすればいいの?」と言うと、息子は「復興住宅を申し込めば」と答えたそうで、お母さんは泣いていました。
そういう方たちが、子供には迷惑をかけたくないから老人ホームに入るとか言うのです。
そういう方たちのために、最初にお話ししたシェアハウスのようなものが、どうしても必要になってきます。
来年の4月に向けて「帰る」「帰らない」の二者択一になっていて、私はいつもヘラヘラ笑っていますが、今仮設の空気は非常に重いです。

◎藤島さんの詩は
藤島さんの詩は、自分の心情を綴るばかりでなく、仮設住宅のお年寄りの思いを代弁する詩でもあります。
そしてまた、藤島さんは「現状を文字にして伝えていくのが務め」とも話されました。
藤島さんの詩を一篇、ご紹介します。

        *家を建てました
       家を建てた年よりがいます
       二階建ての一軒家です
       爺さんと婆さんが住むには
       広すぎる程の大きさです
           「孫たちと一緒に暮らしたい」
           年よりの願いが
           垣間見えます
           決して戻ることのない
           孫たちへの
           呼びかけのような
           気もします
           核災害というものは
           何とも残酷な仕打ちを
           するものです

*藤島さんの詩は、どの一編、一編にも、人災である原発事故によって避難生活を余儀なくされている被災者の思いが溢れています。
多くの方に読んでいただきたいと思います。
お近くの書店、またはアマゾンでお求めになれます。(でも、近くに書店がなかったり、買い物に出ることが難しいなどでなければ、できれば書店さんをご利用ください。街の中から書店が消えていく現状を憂います。)

『仮設にて 福島はもはや「フクシマ」になった』Ⅰ,300円+税
『フクシマ漂流 東日本大震災・福島第一原子力発電所事故から4年目の福島を行く』(詩入り写真集)
写真:菊池和子/2,000円+税

『At Kasetsu Our Temporary Housing Fukushima has become synonymous with tragedy』英訳対日本語詩集
英訳:榊原利惠/Ⅰ,800円+税

シェアハウスのような考え方は、これまでも「一枝通信」や『たぁくらたぁ』でその必要性を私自身もお伝えしてきましたが、藤島さんは、既に構想を持っていらっしゃいました。
新たに建物を作ってではなく既存の使われていない施設を再利用してできないだろうか、そしてそれをモデルケースとして、やっていけないだろうかというのです。
この件は上記しましたが、署名用紙が届き次第あらためてまたお伝えします。

いちえ

追伸:次回のトークの会は8月23日(日)13:00〜15:00、セッションハウス・ガーデンでいたします。
これもまた改めてお知らせいたします。

関連:

2015年6月22日号「澤地久枝さんの呼びかけ」

「一枝通信」前便でお伝えした、澤地久枝さんからの呼びかけです。
どうぞ、拡散してください。
多くの方に呼びかけてください。
お願いいたします。
金子兜太さんの書は、A3の大きさで掲げてください。
7月18日午後一時、全国各地で、それぞれの場で、一斉に「アベ政治許さない」を掲げましょう。

いちえ

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2015年6月22日号「6月13日集会報告②」

みなさま

集会報告②ですが、澤地久枝さんからの大切な呼びかけがあります。
長文ですがどうぞ、ぜひごお読みいただきたいのです。

「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」第16回集会報告の続きです。
*4番手の出演は、黒一点の鈴木一琥さんです。
鈴木さんは舞踏家・振付師として、伝統や歴史を超えた舞踏の根源を探求・創造し続けています。

舞台は暗転し中央にスポットライトが当たっていますが、誰の姿もありません。
会場内に、野太く低音の男性たちの歌が流れてきました。
♪エンヤ〜♪との歌声にのって、黒のTシャツとパンツの鈴木さんが客席から立って、舞いながら舞台に上がり、スポットライトの下で舞い続けます。
流れている歌声はよく聴くと女性の声も混じっていて、言葉は聞き取れませんが、懐かしいような響きの歌声です。
ライトの下で踊る鈴木さんの姿から私は、心に湧く思い、哀しみや喜びや憤りや慈しみなどなど、様々な思いを抱く“わたし”“ひと”“いのち”を感じました。
舞い終えた、鈴木さんが話しました。

◎私はこの墨田区東向島で生まれ、育ちました。
1945年3月10日の東京大空襲で、この下町一帯は焼けました。
この会場の在る地域(蔵前)もすべて焼かれ、約2時間の絨毯爆撃で火の海となって、およそ10万人のひとが亡くなりました。
それを題材にした作品「東京大空襲 10万人のことば」を、アーティストのカワチキララさんと二人で、毎年3月10日に浅草のギャラリーエフでの発表を、11年間続けてきました。
東京以外の人は東京大空襲のことをあまり知らないですが、私は墨田区で生まれ育ったので、近所の方たちから聞いていました。
学校の授業でも勉強します。
東京大空襲のことをもっと多くの人に知ってもらいたいと考えて、作品にしたのです。
作品は音楽を使っていません。
体験者にインタビューして、その方たちの語る声を流しながら踊っています。インタビューは、近所の方から聞き取りを始め、後には東京大空襲戦災資料センターの山本さんに体験者を紹介していただきながら、インタビューする方を少しずつ増やしてきました。
ギャラリーエフは江戸時代末期の蔵で、やはり空襲を受けていますが、土蔵だったので焼け落ちず、現在はギャラリーとしてやっています。
この作品を発表しながら、いつも自分に問うことがあります。
・ 戦争を知らない自分が、この作品を演じていいのか?戦争を知らない人間が、戦争を語っていいのか?ということを考えると、いつも怖いです。
・ それから、「10万人のことば」というタイトルでやっていますが、どうやったら亡くなられた10万人の方の一人でもいいから声を聞くことができるのかな、ということです。なぜなら私は、決して直接聞くことができないからです。
いろいろな方にインタビューしましたが、「本当に紙一重だったよ。私はただ運が良かっただけだ」と、家族を亡くされた方がおっしゃいました。
その時にインタビュアーのキララさんと私は、ひょっとするとこの作品は、亡くなった方の声に限りなく近いかもしれないと思いました。
その可能性を信じて語られたインタビューの声をを流しながら、その声の中で踊るという作品を作ってきました。
でも、判りません。そう思ってはいますが、判りません。
そして、ダンスってなんだろう?ということを、毎回突きつけられます。
ですから毎年公演をしていますが、作品は毎回作り変えています。
インタビューも重ねて、今年であれば2015年、あるいは2014年にも、なぜこの作品を、いま発表する意味があるのかと、スタッフたちと考えながら作っています。
やはりいま発表する必要があるのではないか、と毎年必然性を探しながら、発表しています。
作品を作る中で突きつけられる問いが、もう一つあります。
私は許されているのか?ということです。
亡くなった人を題材にしながら、その方たちを知らない。
また、この場所、作品を発表しているのは浅草の蔵ですが、空襲にあった場所に、私は許されて立っているのか?ということです。
ですから毎回、私は許しを乞うようにして、踊っています。
最後にいつもある問いかけは、戦争とは何か?ということです。
今日も加藤先生や朴さんのお話を聞いて、納得することもあるのですが、戦争って、遠くのことだったり過去のことだったり、自分の外側にあることなのかな?ということを、いつも思います。
自分の体の中にあるのではないか?と、いつも感じています。
私にとっては、外のことや過去のことや、空襲を体験した方の声や場である蔵と対話しながら、私の体の中に棲んでいる“戦争”と対話する時間でもあります。
私は、ここでみなさんに答えを提示することはできませんが、これからも私のスタンスで、自分に問い続けていこうと思います。

*藤本容子さん
佐渡を拠点にする「鼓童」の創設メンバーで、歌を担当してきた藤本さんは現在、「サンニャ・プロジェクト」として、フリーのソロ活動も展開しています。

◎鈴木さんの最後の言葉は、これから歌う歌のどこかに響いているのではないかと思います。
それは、被害者と加害者の構造というものがありますが、私達ひとりひとりの中に、被害者になりうる自分、加害者になりうる自分が居るのだということもあるのではないか、ということです。
戦争や混乱の中で被害に遭いながら、力のない人々がけなげに“生”を生ききり、“生”を繋いできた、だから今、私達はこうして地球上に居る。
だけど加害者のエネルギーも、私達ひとりひとりの中に、どこかに眠っている、いつ目を覚ますかわからない、そんな危うさを人間は持っている。
だからこそ、それを超えていく本来的な愛が、私達の中に育つことがいま必要な時だと思います。
聴いてください。

そして子守唄を2曲、歌ってくださいました。
一曲目はイタリア映画、邦題「やがて来る者へ」の主題歌で、藤本さんが日本語の歌詞をつけました。
映画は、ナチスに家族を皆殺しにされ失語症になった8歳の少女が、ともに生き残った、生後間もない弟を必死に守ろうとする姿を描いています。
映画の最後で少女は、無意識のうちに母に歌ってもらった子守唄を弟に歌います。
      マルティーナの子守唄
    おやすみ静かな風が 吹き抜ける庭で
    おやすみ小鳥の歌に 包まれる森に
    とんとんと遠く 遠ざかる音よ
    とんとんと遠く 何もかも連れて
       おやすみ崩れ漂う野の 瓦礫の陰で
       おやすみ深く傷ついた 包帯の腕に
       とんとんと遠く 思い出は霞む
       とんとんと遠く 迫り来る時よ
    おやすみ乳房の代わりに 私の指を吸って
    おやすみ母の笑顔は お空の星に
    とんとんと遠く 愛された時よ
    とんとんと遠く 無邪気な時よ
       おやすみ何もないけれど お前の命
       おやすみ必ず守る どうぞ生きてね
       とんとんと抱く 安らかな姿
       とんとんと眠る はかなき命 

二曲目の歌は、♪私たちは子どもの未来のために♪
これは7月に公演が予定されている協働劇場公演「ふるさとはポイズンの島」の劇中歌です。
美しい島々が広がるマーシャル諸島ですが、そのビキニ環礁でアメリカは67回もの原水爆実験を行いました。
「ふるさとはポイズンの島」は、ロンゲラップ島に起きた事実を元に、構成された劇2幕6場の劇です。
7月8日(水)小金井宮地楽器ホール、13日(月)座・高円寺2、17日(金)藤沢市民会館小ホールで、いずれも午後7時開演で公演されます。
この日の集会には、この劇の音楽担当で藤本さんが歌った劇中歌を作曲された作曲家の岡田京子さんもおいでくださいました。
歌う前に藤本さんが語った言葉「…本来的な愛が、私たちの中に育つことがいま必要な時だと思います」が、まっすぐに届く子守唄2曲でした。

*澤地久枝さん
澤地さんは、この会の発足以来ずっと支援してくださり、2009年に開催した第10回集会記念のメッセージには、「日本は目を覆うばかりの惨状を呈している。…事態は戦争をする国への道をガムシャラに進んでいる。…世界が話し合いによって地球市民として生きる道を探ろうとする今、私たちの声は、世界に向けて発信されるべきと思う」の言葉を寄せてくださいました。
ご自身のその言葉を体現するように、「九条の会」「さようなら原発」の呼びかけ人として現代社会に真正面から対峙し、たたかう人々とともに行動し声をあげておられます。
この日も澤地さんから、大きな提案が出されました。

◎自民党の目論む一千万人賛同署名
昨日(6月12日)のテレビ、昨日はなんという日だったか!国会はなんというザマか!と思いました。
退席をした人もいる、しかし強行採決のような形で、議員と衛視が揉み合って何を決めたかというと、労働者派遣法改正というのです。
これは非正規で仕事をしている人が、これでは一生涯、正規の社員になれないということで声をあげています。
いま私たちの周りにある政治はお金を中心にしていて、お金を儲ければいいという国になってしまっています。
朝鮮戦争の時の朝鮮特需があって、あれで金儲けができるということを考え、それ以来そういう考えを改めずにきた人たちを、私たちは自分たちの政府に持っているわけです。
私は本当に安倍さんに対して非常に怒っています。
今日も他の所でこういう会が持たれていますが、みんなそれぞれの場所で、どんなに一生懸命声をあげて「安倍は認めない」「原発を認めない」と言っても、安倍さんは全く聞く耳を持たない。
そういう感性のない人は、何も感じないのですね。
感じないだけではなく、わずかな期間の間に会期を延長してこの議会の間にアメリカのオバマ大統領に約束した戦争に関連のある法律を成立させようというのが、政府が考えていることだと思います。
安全保障関連法案というのが出ていますが、安全保障などと言って欲しくない!これは明らかに戦争への道です。それ以外の何ものでもないと、私は思います。
昨日送られてきた資料の中に「美しい日本の憲法を作る国民の会設立総会」というものがありました。
誰がこんなことをやっているのかと思って連絡先を見ると、千代田区永田町2−9−6−501とあって、これは自民党の本部です。
そこには、活動方針というのがありました。
1、 国民投票の実現を目指す。
2、 美しい日本の憲法を作る。
一千万人賛同者拡大運動を推進するというのです。
こうしたやり方は、これまでに私たちがやってきた運動のやり方ですが、そのやり方をヒョイと横からとったのです。
そこには、こう書いてありました。
「近年の国政選挙の投票総数は、約六千万票であることから、憲法改正の国民投票が実施された場合、三千万票以上の賛成投票が必要になります。
しかるべき賛成投票を行うようにするために、美しい日本の憲法を作る一千万人の賛同者拡大運動を全国で推進します」
「現在、宮城・山形・栃木・群馬・埼玉・千葉・富山・石川・兵庫・岡山・山口・愛媛・香川・高知・佐賀・大分・長崎・熊本・鹿児島の19県議会が、この意見書を採択している」
「憲法改正世論を喚起するため、次の啓発運動を推進する。憲法改正世論を巻き起こすために、全国で草の根啓発運動を推進する」
これ、私たちをバカにしていませんか?
そして、「秋頃に日本武道館で憲法改正促進のための1万人大会を開催する」というのです。
「300小選挙区において憲法改正世論喚起と、1千万人憲法改正賛同者拡大運動を推進する」というのが、この会の活動方針です。
安倍内閣は間違えている、狂っているとしか思えないような政治を、有権者、主権者に計らないばかりか、議会にも計らずに内閣だけで決めています。
昨年7月1日に内閣だけで閣議決定したように、どんどんと、どこまでいくかわからないような危うい政治です。

◎澤地久枝さんの提案
それで、私はどうするかを考えました。
私は、みんなで声を上げて拳を振り上げるやり方は、言っていることには賛成ですが、その方法は個人的にはあまり好みません。
なぜ、そうした意思表示が東京や大都会集中なのか、私たちは精一杯やっていますが、大きな声をいくらあげても、これではだめではないかと思います。
今日(6月13日)は、京都の円山公園で、瀬戸内寂聴さん、梅原猛さん、お坊さんの有馬さん、その他の人たちが呼びかけて「戦争反対 平和が大好き 声をあげよう大集会」の憲法を守ろうという集会が開かれています。
私は、一生懸命考えて、こういうものを作りました。
(と言って、澤地さんはA4の紙に書いたものを掲げました。そこにはこう書かれていました。

アベ政治の非道に、
主権者一人ひとりの
抗議の意思を
いっせいに示そう。
全国共通のスローガンを、
同時に掲げる。
言葉は「アベ政治を許さない」

これは沖縄の人たちが県民集会で、【辺野古基地NO】のスローガンをいっせいに掲げて、「決して屈しない」と意思表示をましたね。
私は、あれはとっても力があったと思いました。
私は沖縄も一緒に大和でも、もうちょっと何かやれないかと考えました。
東京などで集中して集会や、国会包囲の行動が呼びかけられていますが、それもやる。
しかし同時に、全国いっせいに、東京は国会正門前その他で、全国すべての町・村・隣近所で、同じ文体の「アベ政治を許さない」を掲げましょう。
2015年7月18日(土)午後1時。同じ日の、同じ時刻に、同じ文体の
「アベ政治を許さない」をみんなが掲げるのです。
俳人の金子兜太さんは今年9月が来ると96歳になられますが、とってもお元気で、平和のために一生懸命発言をされています。
兜太さんにこの「アベ政治を許さない」を、大きく縦書きで書いていただきます。
特に「許さない」を大きく書いていただきます。
私は発信元になって、いろんな組織にそれを送りますから、受けた側はそれを自分のところで動員できる人数分コピーをすればいいわけです。
そして時間が決まっていますから、その時刻にいっせいに外に出て、それを掲げたらどうでしょうか。(大きな拍手がわきました!!)
今のところ発起人は金子兜太さん、落合恵子さん、小山内美江子さん、鳥越俊太郎さん、小森陽一さん、瀬戸内寂聴さん、渡辺一枝さんですが、まだこれから増やそうとい電話を一人でかけているのですが、まだとてもかけきれないのです。
落合さんと電話で話していて「あなた晩御飯食べた?」と聞くと「まだこれから」との返事で、「あら私も」と言って、それが夜の10時頃なんです。
私は二日続けて晩御飯が10時とか11時で、さすがにくたびれました・
私は兜太さんと11歳違いですから、兜太さんが頑張っていらっしゃる以上、私は頑張ります。
今日(6月13日)、兜太さんからお電話いただいて、「先生、呼びかけ人になってくださいますか」とお願いしたら、「もちろん、いいよ」とお返事いただいて、ですから兜太さんが今言った中で一番新しい人で、ここに書き加えました。
あ、一番新しいのは渡辺一枝さんです。今日ここで加わりました。
この会場には「商社九条」の方も見えていますね。
どれだけの人を動員できるかわからないけれど、人数はわかりませんが全国で、同じ日の、同じ時間に、同じメッセージを一斉に、10人でも、50人でもいい、100人ならもっといいけれど、集まって一斉に掲げることをやりませんか!(会場から大きな拍手)
そういうことをしないと、バラバラにいくら熱心にみんながやっていても、政府は無視します。

◎新聞もテレビもやりません。
それは特定秘密保護法が通って、捕まるから、罰金がすごいからやらないのではないのです。
各メディアのトップは、安倍さんと夕食会を共にしているからです。
「ヤァ、こんばんは」なんて、一緒にご飯を食べたりお酒を飲んだりした次の日に、自分のところの新聞やテレビで、「安倍は、けしからん」なんてことやれますか?やりにくいのです。
みんながだんだん萎縮してきています。
萎縮が、安倍内閣にとっては、まったく願っても無いことで、萎縮して何も反対してくれなければいいのです。
けれども私たちは自分自身のためではなく、子や孫や、さらにその先の世代のため、それから日本だけではなく世界中の人たちと手を結べるような未来を作りたいのです。

◎押し付けられたものは何?
日本国憲法は、日米安保条約ができたときに、踏みにじられたのだと思います。まず朝鮮戦争が始まって、そこから2週間ばかり経った時にマッカーサー元帥から吉田茂首相に「警察予備隊を作ることを認める」と言ってきたのです。
それが自衛隊の発端です。
押し付け憲法というなら、今の自衛隊も押し付けられた軍隊です。
これは明らかに、軍隊です。今の自衛隊の装備は、すごいものです。
1986年6月に私は、ミッドウェー海戦の大勢の人、3417人が沈んで亡くなっている海へ、慰霊の船旅に行きました。
その時には、ミッドウェーは軍事基地で寄れず、ハワイへ上陸しました。
そこでは航空母艦4隻、重巡洋艦1隻が沈んでいるのですが、記録は残っていますから○時○分にどこで沈んだと、沈没した地点を一つ一つ巡って、そこで慰霊祭を営みました。
大勢の遺族の方が乗って行った船旅でしたが、どんなに声をかけても、亡くなった人たちは誰も答えてはくれません。
酷い火傷を負っていて、一口飲ませてもらったサイダーが美味しいと、もっと飲ませてくれと言ったけれど、水を飲ませたら死んでしまうからと飲ませてもらえず死んでいったという息子を持つ方が、船縁で海にサイダーを注ぎました。
船が揺れて動くから、私にしぶきがびっしょりかかりましたが、私は喜んでサイダーのしぶきに濡れようと思いました。
そしてハワイへ上陸しました。
上陸してすぐに、私は墓地へ行きました。
そこで、それまで判らずにいたアメリカ側の戦死者8名の生年月日を調べて、判りました。
私が『記録 ミッドウェー海戦』を書いたのは、人の命というものが、日本もアメリカも同じように扱われているのか、あるいは日本は軽いのか重いのか、ということを比べたかったからです。
でもそんなことではなくて、日本では戦死した人数さえもはっきりしていませんでした。
そうやって仕事をしてくる中ではっきりしてきたのは、日本という国はあれだけバカな戦争をして、酷い負け方をして、そして自分の国の民を捨ててきたのです。
樺太もそうだし、満州もそうです。棄民です。

◎私たちは歴史の中に生きている
そういうことをして戦争が終わって、そこで私たちが手にしたのが、現在の憲法です。
明らかに、軍隊は持たない。交戦権は永久に放棄すると9条にありますし、あの前文は非常に美しい言葉だと思います。
その憲法を私たちは守って、世界の国々が、「日本はあの憲法のもとに軍隊は持たないで戦後70年経った。あれから一人も戦死者を出していない。ああいう国になればいい」と言って他の国のお手本になるような、具体的な証のある国としてやっていきたい。
そのためには、いま安倍さんがやっていることは全く逆です。
この法律が通ると、アメリカはイラクに現在7,000人くらい出していますが、更に450人の増員をオバマさんは議会に出そうとしています。

◎ベトナム戦争で学ばないアメリカ
これはベトナム戦争の時と同じです。
逐次兵力投入をやって、アメリカは負けました。
あの時はドミノ理論と言って、ベトナムで負けたら共産主義がアメリカまで押し寄せてくるというのが、アメリカの理論でした。
結局アメリカは負けて、ベトナムは勝ちました。
ベトナム戦争の話で私が忘れられないのは、南ベトナムのベトコンと言われる人たちが、夜中になるとトンネルを掘って、行き来しているというのです。
夜中になると一つのトンネルから若い女の人が出てきて、予め連絡がついてあったのでしょうが、赤ちゃんを連れた人が来て若い女の人と会うのです。そして若い女の人は赤ちゃんにおっぱいを飲ませて、しばらくするとまたトンネルに潜って見えなくなったというのです。
それくらい必死にならなければ、ベトナムは勝てなかったと思います。
いまのベトナムがどうなっているか私は知らないですが、ベトナム戦争の時に勝ったベトナムの人たちのあの気持ち、長いことフランスに支配されてきて、それをやっと撥ね除けたと思ったら、アメリカが強大な武力行使をした。
そしてその爆撃をした基地は、残念ながら沖縄の米軍基地だった。
ですから沖縄は二重、三重に加害と被害の歴史を背負っています。
私たちは日本人として、そういう歴史の中で生きています。
だから今、安倍政治に反対している人は、本当に反対と意思表示をしなければ、後になってあの時何をしていたのかと言われた時に、一言もないだろうと思います。 ◎2015年7月18日午後一時
私は7月18日の午後1時に、例えば、ある家庭の家族5人が外へ出て、同じ紙を5人が掲げるという、そういう小さな単位で日本全国が安倍に対しての意思表示をする、そういうことをなんとか成功させたいと思います。
「やります」と言ってくださる方には、金子兜太さんが書いてくださる書のコピーを送りますから、どうぞご住所と連絡先を教えてください。
私は今、自分の心当たり、今まで話しに行ったことのある九条の会へ個人的に必死にやっていますが、とても私一人では間に合いません。
鳥越俊太郎さんもやってくださっていて、これから落合恵子さんもやってくださいますが、どうぞ手伝ってください。
みんなでやれば、できないことはないと思います。
こんなに個々にいろんなところでみんなが一生懸命やっているけれど、安倍はなんとも思っていないですよね。思っていない振りをしています。
この次の選挙では、あの人を引き摺り下ろしたいけれども、その前に、この法律を無理にでも通そうとすれば、日本のあっちでもこっちでも、自分に反対の声が上がっているということを、安倍さんと彼の周りで戦争を遂行しようと思っている人たち、「金、金」と考えている人たちに思い知らせてやりたいと思います。
うまく話せませんでしたが、私たちは今、非常に危ない崖っぷちのようなところに立っているのですよね。
つまりもう、内閣閣議決定なんてそんなに重いものではない筈だけれど、過去の選挙は5割を割るくらい低い投票率で、自民党が第1党になった。だから衆議院はもちろんそうですが、次の参議院選挙で私たちが負けるようなことになると、この国はもう、どうにもならないです。
戦後70なん年目かに、戦死者が出ます。
戦死者の後ろには大勢の家族がいて、その人たちは死んだ人がやらなければならなかったことを全部背負うわけです。
そういう歴史を私たちは、この前の戦争でたくさん持っているじゃないですか。
それから自衛隊の人たちだって、みんな喜んで死にに行くわけじゃないし、死ぬために自衛隊に入っているわけじゃありませんから、人が足りなくなります。
どうするかといえば、徴兵制以外にないのです。
さっき加藤陽子さんが話してくださいましたが、大学や専門学校に行っていた人たちは昭和18年、1943年までは徴集猶予、つまり徴集は許されていました。
でも徴集猶予も無くなって、戦争末期には玉音放送があった8月15日に出頭せよという召集令状を受け取った人さえあります。
それくらい、いい加減な政治をやる国です。
過去の歴史が、いい加減な国であったということを、明らかに示しています。
それ以上に悪いことが、今まさに起きようとしていますが、今はまだ、起きてしまった後ではない。
今なら間に合います。
今ならまだ、皆さんと新しいことをやって、食い止められると思います。
このほかにも方法があれば、どんどん私にも呼びかけてください。
私は、何としても安倍晋三という人の野心に対して、主権者の側の明確な反対の意思を、はっきりと判るように突きつけてやりたいと思っています。
どうぞ、いっしょにやりましょう!

●澤地さんの呼びかけと金子兜太さんの書は「澤地久枝のホームページ」をご覧ください。Http://sites.google.com/site/hisaesawachi
7月18日(土)午後1時、「アベ政治許さない」このスローガんを一斉に掲げましょう!!
6月13日集会は、このあと第2部の映画『わたしの、終わらない旅』(坂田雅子監督)上映と、上映後に監督とわたしのトークで終えました。
澤地さんからの提案は、この報告とは別にそれのみでもう一報いたします。
どうぞたくさんの人へ拡散してください.

いちえ


2015年6月20日号「6月13日集会報告①」

みなさま

大変遅くなりましたが、先週の土曜日13日に催した「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」第16回集会の報告です。
長文ですが、お読みいただけたら嬉しいです。
矢口周美さん&黒坂黒太郎さんの歌とコカリナ演奏、加藤陽子さんの講演、朴 慶南さんの講演の記録です。
集会報告②は、また後刻お伝えします。 

一枝通信 6月13日集会報告

先週土曜日、6月13日に催した「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」の第16回集会の報告です。

◎第1部 表現者はリレーする
*最初の出演者は矢口周美さんです。
矢口さんは、以前にも2度出演いただきましたが3度目になる今回は、パートナーでコカリナ奏者の黒坂黒太郎さんとお二人での出演です。
オートハープを胸に抱えた矢口さんが歌い出したのは、「渋谷区立千駄ヶ谷小学校 校歌」でした。
校歌は3番まであり。黒坂さんのコカリナ演奏と共に3番まで通して歌ってくださったのですが、歌詞を皆さんにもお伝えしたいと思います。全部を書くと長くなりますので、3番の歌詞のみです。

    千駄ヶ谷小学校校歌
 せかいのくににさきがけて せんそうすてたけんぽうの
 こころわすれずとりもって へいわにほんのたみとなる
 これがわれらのしょうらいだ これがわれらのしょうらいだ

歌い終わって、矢口さんが言いました。
「千駄ヶ谷小学校の子供達は、この校歌が大好きだと言っていました。私は、その子供達とこの校歌に、とても励まされました」
続いて、コカリナを手にした黒坂さんが言いました。
「このコカリナはケヤキで作ったコカリナです。新国立競技場建設のために切り倒された、神宮の森にあった樹齢200年のケヤキで作られたものです。
地元の千駄ヶ谷小学校でコカリナコンサートを開き、子供達に神宮の森のケヤキのコカリナをプレゼントしました。
その時に、子供達が歌ってくれた校歌です。
1964年の東京オリンピック、サッカーW杯などが開かれてきた国立競技場ですが、地元のお年寄りたちに聞くと、それらの記憶よりも強く場所の記憶として胸に残っているのは、学徒出陣壮行会、雨の中を行進していった学生達の姿だと言います。
その姿を見てきたケヤキで作ったコカリナです」
そして続いて矢口さんが歌った2曲目は、「死んだ男の残したものは」。
この歌はきっと皆さんもご存知だと思うので歌詞は記しませんが、学徒出陣で戦地に赴いた学生達の姿が歌に重なって想え、胸がいっぱいになりました。
♪これがわれらのしょうらいだ♪と歌う子供達を、決してそんな目にあわせたくはないと、強く思いました。

*加藤陽子さんは、《歴史にまなぶ、戦争の気配の感じ方》をテーマにお話くださいました。
1、歴史とはどんな学問なのか
「歴史とは、根本において、批判である」と羽仁五郎が1940年に『歴史及び歴史科学』の中で書いた文章を紹介しながら、すべての人文社会科学は対象に向けて批判を加える、厳密に物事、文章を読むということだと話されました。

羽仁五郎の言葉の含意するところは、歴史学は、第一に時の権力や政治に対して避難を加えていくものである、その時代時代の権力と距離をとって見張るというのが歴史学の負う学問的な使命です。
もう一つは、権威に対して批判を加えるということも歴史学の使命です。
近代国家以降の日本は、宗教で国をまとめず皇室(天皇)で国をまとめる道をとってきたので、宗教戦争は経験せずにきました。
権威を批判できる、宗教界を批判できるということも西欧の歴史学が背負ってきたもう一つの役割でした。
権力と権威、この二つに屈しないという使命を負ったのが歴史学です。
羽仁五郎が「歴史とは、根本において、批判である」と書いた時代背景は、日中戦争の最中のことです。
これを読む当時の学生達が抱えていた疑問や悩み、“自分たちは徴集猶予(徴兵検査はあるが徴集は猶予)されて安穏と勉強しているが、同じ年齢の仲間達は中国戦線で人を殺し、殺されている、それをどう捉えたらよいのか”に応える言葉として書いたものです。
君たちはたまたま恵まれて、戦場へ行かずに勉強をしている。
その君たちが負う使命は、例えば、キリストの生涯を歴史学として描いたために殺された先人達、もしくは為政者というものを批判したために殺されなければならなかった学者達、そういう人たちの後を、君たちは背負っている、学問としての道を背負っている、と言ったのです。
ここで羽仁は徴兵を忌避して獄に繋がれろとは言わない、けれども君たちが背負っている使命は、国家の命令で前線に立つ人たちの負うものと等価だと言ったのです。
だから勉強せよ、特に歴史は、根本において批判であると言ったので、これはとても重い言葉だったと思います。

2、それぞれの「満州」〜軍の思惑と、社会への説明の乖離
歴史は、つい数値を上げて相対化してしまうのですが、終戦・敗戦時の人口の約8,7%は、引揚げを体験してきた人たちでした。
ですからここにおいでの方は、ご自分の体験になくても、親類縁者を辿れば、その中には命からがら引き揚げてきた人がいるというのが、ほとんどではないかと思います。
敗戦時には満州には150万人くらいの民間人、軍人関係者は50万人くらいいたと言われていますが、1945年7月に現地召集され、たった数日間兵士だった人たちも敗戦後シベリアに送られています。
ソ連は記録を残していますからそれを見ると、63万人がシベリアに抑留され、そのうちの6万数千人が死亡しています。
❶それぞれの「満州」と言うのは、そうして引き揚げてきた人たちの記憶が介護施設などで、歪められた記憶、それだけは正しい記憶として、さまざまに“それぞれ”の記憶として語られてきています。
でも、その満州の語りは、憤りを持って語られなければならないと思います。
8月9日のソ連軍参戦の時点で関東軍やその家族、満鉄職員などはさっさと引き揚げて、何も知らない開拓団などは残されていったのです。
❷満州事変の計画者、石原莞爾羅関東軍参謀の意図は、非常にドライな形です。
①関東大震災から5年後の1928年に石原莞爾、板垣征四郎など関東軍参らの会議録に「ソ連が未だ軍事的に弱体の時、しかも中国(中華民国)とソ連の関係が最悪の時を狙う」とあります。
②日本とソ連が対峙する防衛ラインを短縮させる方向で東北三省地域を軍事占領する。
日本とソ連が戦うとなればソ連は、日本の東の軍事拠点である虎頭(ウラジオストックの南)、西はウランウデ(ノモンハン)を一挙に攻撃してくるだろう。
この二箇所で戦うなら、日本はその北側まで防衛線をあげておけば、北は小興安嶺山脈と黒龍江で、西は大興安嶺で守られ、ソ連は入ってくることはできないということで、そこに国を作ってしまおうというのが関東軍の考え方でした。
③実態は、対ソ戦、対米戦の根拠地とする
このような途方もない考えで、いとも簡単に「ここをとる」と考えました。中国側に対しては、関東軍は礼儀正しく軍規もしっかりしているから、中国の匪賊を撃退してやれば中国の農民は安心して自活できると説明をしました。
このように1928年に東北三省をとるという計画があるのですが、国民の前では、手の込んだ違う説明をするのです。
このようなことを私が言うのは、いま国会でホルムズ海峡がでとか国会で絵を見せていろいろ説明していますが、狙っていることと違うことを政府はするのです。
ホルムズ海峡と言って我々の目を遠くに向けさせながら、でも本当に危ないのは、フィリピンとかバシー海峡とか、中国との一触触発のなにか争えない事故で日中両国が、という事態だと思います。
想定したくない嫌なことから、国民の目を遠くへ向けさせます。
現政権が欲しているのは、国際連合の中で日本が常任理事国となりたいということだと思いますが、常任理事国になれるように、何か勇ましいことをするというのが政府の姿勢だと思います。
私は常任理事国になってもいいと思いますが、でも、そうなるためには自らが武力を放棄した稀有な国であるということで、中国や韓国が諸手を挙げて賛成するならいいと思います。
でもそうではなくて、どんどん逆の道を進んでいる中でいま常任理事国の中国や、韓国が日本の常任理事国入りを許す筈はありません。
そのあたりを見ていくために、「満州」の歴史をもう少しお話しします。
❸国民への説明
①農村部に対しては「国防思想普及運動」をします。
「諸君は五反歩の土地を持って、息子を中国にやれるか、日本は土地が狭くて人口が過剰だ。このことを左翼(農民組合)は忘れている。だから国内の土地所有制度を根本的に改革することでは、改革はできない。ここで我々は、国内から外部へ眼を転じなければならない。満蒙の沃野を見よ。(中略)諸君は五反歩ではなしに一躍十町歩の地主になれる。つまり旦那衆になれる」
②もう少しうるさいことがわかるような大学生や中小の企業家に向けては、こう言います。
「満鉄平行線禁止条項や、商租権を認めないなど、中国は条約を守らない国である」と喧伝しました。
③当時の社会の雰囲気として、農村の収入は満州事変の前頃には非常に減り
ました。
たとえば1929年の農村の年間所得は、平均して1,326円ありましたが、満州事変直前には650円、半減しました。
こうした状況で「十町歩」「中国は条約守らない」と言われれば、中国はずるい、悪い国だということが頭に浮かぶようになるのです。
当時、共産党の影響下にあるとされた全国農民組合全国会議派の機関誌『農民闘争』に所載された農民の声には「支那はニクイ、ヤッツケロ」「アメリカが支那の尻押しをしているのでニクイ」「戦争をすれば景気が良くなる」などと言っています。
これは、ヘイトスピーチをする人たちが握り締めたい根拠と、似ていますね。
つまり、誰かが自分たちとは違って、ある人たちだけがいい思いをしている。
中国は国際連盟に甘やかされて、アメリカに後押しされているというような、今で言えば生活保護とか在日特権とか、そんなものはないのですがあると思い込んで、「あ、ずるい。やっつけろ」というわけです。
私が大変尊敬している吉野作造という学者は、1932年10月3日の日記、リットン報告書が出た翌日の日記で、こう言っています。
「これは、公平に見て欧州的正義の常識のある判断で、日本の経済的権益は認めるが撤兵しなさいと言っているのだから、まともな報告書だ」と、吉野さんは書いています。
もう一つ、こうも書いています。
「今の日本の状況はとても不思議だ。自分はかつて日露戦争を見てきた。政党も大新聞も戦争開始の前には必ず、戦争を始めようとする政府に対する批判をたくさん書いていた。それがなぜ、1932年の10月になった時に、リットンは酷い、中国の肩ばかり持っていると一斉に書くようになったのかが不思議だ」と書きながら、吉野作造は1933年に亡くなりました。
現在の日本の流れと非常に近いものを感じます。

3、日本の戦略、戦術の根本に流れる発想の特質は何か
日本の特徴として、被害者、「被動のかたち」をとる時が危ないと言えます。
①日清戦争の時に外務大臣だった陸奥宗光が『蹇々録』という回想録を書いて
います。
「なるべく平和を破らずして国家の栄誉を保全し日清両国の権力平均を維持すべし、また我はなるたけ被動者たるの位置を執り、毎(つね)に清国をして主動者たらしむべし」
として日本は日清戦争を始める一ヶ月前くらいから朝鮮半島に兵を送り、戦争が始まるのを待っていながら、第一弾は相手に撃たせるという「被動のかたち」を、外務大臣が図ったわけです。嫌々ながら戦争をやるのですという。かたちをとるわけです。
②1940年8月「時局処理要綱に関する武力行使許容要件
これは象徴的な語り方で、よく「霞が関文学」とか「東大話法」などと言われますが、太平洋戦争の時は「海軍話法」と言ったらいいでしょうか「大日本帝国話法」と言えるでしょうか。
❶日中戦争中であっても帝国の存立上必ず武力行使を行う場合
イギリスの心臓であるシンガポールや香港、アメリカの心臓であるフィリピンを攻撃するのに充分な飛行場を手に入れるために、日本は北部仏印進駐を、7月にしています。
そうしながら、シンガポールを攻撃するとかフィリピンに対して武力行使をするなど日本がもっと武力行使をすると決意するのは、
 イ、米国が全面禁輸を断行して第三国もこれに応ずる場合
 ロ、米英共同もしくは単独で日本に対して圧迫を加える企図が明らかであり、
  日本の国防の安危に関わる太平洋上の現状変更があった場合
だとしています。
❷好機到来により武力行使を行う場合
 イ、米が欧州戦争に参加し、東洋の事態に対応しうる余力が小さくなった
   場合
  ロ、英の敗勢が明らかとなり東洋に対する交戦余力が小さくなり、英領土
    へ侵出しても英援助のために米国が乗り出す可能性が小さい場合
つまり❶を見れば、アメリカやイギリスが日本に意地悪をして禁輸をすれば、日中戦争中であっても、どんな場合でも必ず武力攻撃するという条件にしていますが、❷の好機到来により武力行使というのは、日本がチャンスを選んで自ら戦争を仕掛けるというイメージです。
ずいぶんイメージが違います。
「南方の植民地に石油を確保するためにアメリカと戦争になっても構わない」と言うのと「アメリカが全面禁輸をするからやむなく戦争に至った」と言うのでは、ずいぶんイメージが違います。
❷で「好機」の解釈を極めて狭く限定し、武力行使の可能性を低く設定する一方、❶で米国と第三国が対日全面禁輸を行えば武力行使に訴えるとしているのです。
事実上第一打を打っておきながら、被動者として動こうとする時が、危ないと思います。
武器輸出三原則を撤廃し、集団的自衛権の解釈で憲法を変えずに事実上の憲法改変をしていく第一打を見ずに、中国の埋め立てを言い立てるということが、かつて日本がやってきたことと似ていると、私は見ています。

4、明察の人とともに
内村鑑三は『万朝報』(1903年9月26日)の「近事雑感」の中の「殺す者は殺さる」の中で、こう言っています。
「軍人を刺激して外敵を撃たしむる者は終に躬(みず)から其軍人の撃つ所となる、軍人をして支那を撃たしめし日本人は過去十年間軍人の困(くるし)める所となり、其富の殆ど全部を捧げて軍人保有の料に奉った、今若し同じ軍人をして露西亞人を撃たしめたならば彼等が更に我らより要求する所はドレ丈であらうぞ、其時こそ今尚ほ我らの中に残る所の僅少の自由も憲法も煙となって消えて了ひ、日本国はさながら一大兵営と化し、国民は米の代りに煙硝を食ひ、麦の代りにサーベルを穫(か)るに至るであらう」
これは内村鑑三が日露戦争の前に警告として述べた言葉ですが、それでも日本人は日露戦争を選び、太平洋戦争を選びました。
私たちは選択ができるのだということで、少しずつ潮目は変わってきているのではないかと思います。
歴史学、批判ということを共に手に手を携えてやっていこうではありませんか。

*朴 慶南さん
「いま私たちがつながっていくために勇気と智慧と想像力を」
朴さんは“在日”から見た現在の日本の危うさと、それに対してどう向き合っていけば良いかを、「私が出会った人」を通して話してくださいました。

この時代に、この地で、ともに生きている一人として今日のこのひと時をご一緒できることを幸せに思います。
鳥取県で生まれて育ちました。
父は7歳、母は2歳の時に朝鮮半島から日本に来ました。
私は在日二世ですが、私のキャッチフレーズは「命さえ忘れなきゃ」です。
どんなことがあってもどんな時にでも、命さえ忘れなきゃ、なんとかなるのです。
すべての命を慈しみすべての人たちの人権を守りたい、そういう思いで日々仕事をしていますが、この「いのち」には、もちろん肉体的なこともありますが、もう一つ、誰の中にもあるいのち、精神的いのちがあります。
人権と言ってもいいし、尊厳と言ってもいいです。
この精神的いのちも同時に、決して忘れてはいけないと思います。
私がいつも若い人たちに言うことは、「何があっても死んではいけない」です。
「死んではいけない」ということの中には、「殺されてはいけない」「殺してはいけない」ということも入ります。
そしてもう一つのいのち、人権を踏みにじられてはいけない、踏みにじってはいけない。
とてもシンプルなこと、「死ぬな、殺すな、殺されるな、踏みにじられるな、踏みにじるな」と話します。
いのちの物差しは、私たちが持つべき大事なことです。
これで見れば、よく判ります。
国家でも、会社でも、学校でも、いのちが大切にされているでしょうか?
あまりにも今の日本は、酷すぎます。
いのちよりもお金に重きが置かれて、政治が進んでいます。
福島で、大変な事故がありました。
原発が本当に安全なら、東京湾に建てればよかったでしょう。
たくさんの福島の人たちが、今尚辛い思いをして暮らしを奪われ、いのちを奪われ暮らしている中で、原発再稼働、ましてや考えられないことに輸出などもしようとしています。
医療の現場、社会保障の現場、教育の現場、仕事をしている人たちも切り捨てられて保障されず、大企業が儲かるようになっています。
一番いのちが軽くされ、人権が一番踏みにじられるのが戦争です。
あらゆるいのちを奪うのが戦争です。
戦争でお金を儲ける、死の商人たちがいるのです。
一番弱い立場の人のいのち、人権を踏みにじります。
日本にも死の商人はいるのです。
トヨタの設計をしている人から聞きましたが、テレビでISが武器を運んでいるのを見たら、その車はトヨタのランドクルーザーだったそうです。
トヨタのランドクルーザーが、どうやってISに渡ったのかは判りませんが、
死の商人たちはいろいろなところで跋扈して、いのちを奪いお金を儲けているのです。
戦争で犠牲になる女性たちの中で、日本軍の慰安婦として非常に悲惨な辛い思いをされた女性たちが、朝鮮半島にも、アジアのいろいろな国にいます。
1991年に金学順さんが、初めて日本軍「慰安婦」だったことを名乗り、その後で宮城県にお住いの宋神道(ソシンド)さんという在日の女性が、声をあげました。
宋さんは16歳の時、騙されるようにして中国に連れて行かれ、殴られ続けて片耳は聞こえなくなり、背中には日本兵に切られた刀傷があり、子供を二度妊娠したそうですが連れて行かれたと、大変な思いをしてきた方が、日本政府に謝罪をして欲しいと裁判を起こしました。
最高裁までいって訴えを棄却されて、私たちは打ちひしがれました。
なぜ宋さんの話をしたかと言いますと、宋さんがこういうところでお話しした時に言われた言葉が、とても胸に残っているのです。
宋さんがご自分の体験を話し終えた時に、聞いていた若い男性が手を上げて質問しました。
「宋さん、あなたが中国に連れて行かれた時日本兵がどんなひどいことをしたか教えてください」
すると宋さんは若者を一喝して、こう言いました。
「なに言ってんだ、おめぇ。にほ院の兵隊さんだって可哀想だったんだぞ。考えてみろ、誰が好き好んで戦争に行くんだ?国には母ちゃんも父ちゃんも、妹だって弟だって居たべさ。それが紙切れ一枚で戦争さ連れて行かれて、目の前には死ぬことしかねえんだぞ。兵隊さんだって可哀想だったんだ。頭だっておかしくなっちまうだろう。だから、おめえたち若者は、戦争に行ってはならねぇ。戦争には行くな。決して行くな。戦争してはならねぇ」
その通りです。日本の兵士だって、本当に可哀想でした。
紙切れ一枚で殺し合いに行かされて。
けれども私は、宋さんの言葉に甘えてはいけないとその時に思いました。
加害の歴史を日本はしっかりと見つめて、伝えてきただろうかとおもいます。
敗戦となったドイツ、イタリア、日本と三国の中で、戦前からの戦争に責任のある人たちが戦後の政治を担ってきたのは、日本だけです。
戦犯と言われる人が首相になり、あの戦争の、そしてその前の朝鮮半島の植民地化に対しても、本当の意味での反省もなく謝罪もなく、いまに至るまできていることが再び日本が戦争をする国、しかもアメリカの戦争に加担しようとしている状況を招いたのではないかと思います。
いま6月ですが、また9月がやってきます。
1923年、関東大震災がありました。
関東大震災の時、朝鮮人が井戸に毒を入れて暴動を起こしていると流言飛語が流され、大勢の朝鮮人が虐殺されました。
警察、軍隊だけでなく一般市民が自警団を作って出刃包丁、猟銃、斧などいろいろな武器を持って朝鮮人狩りをし、朝鮮人と見れば殺して行ったのです。
私の祖父も、浅草にいて朝鮮人狩りに遭い、危うく逃げおうせて助かりました。
祖父からその話を聞いた時、私は思いました。
よかった、おじいちゃん殺されなくて。おじいちゃんが殺されていたら私はこの世に生まれていなかったと思った時、私はふと思いました。
私は生まれてきました。素晴らしいことですよね、いのちを頂きました。
たくさんの人たちの上に立って、私たちは今生きているのだと思います。
病気もある、災害もある、事件もある、戦争もあッたけれど、その中で私たちの親も、祖父母も、それより前の繋がりのあった人たちも生き続けていのちを保ってくれたから、どこも切れなかったから、いま私たちはこうして生きています。
奇跡のように私たちは、いま存在しています。
だからこそ私たちがこのいのちの大切さをしっかりと胸に刻んで、二度といのちが踏みにじられるようなことを起こしてはならないと思います。
関東大震災のとき、たくさんの朝鮮人が酷く殺されました。
千駄ヶ谷で朝鮮人狩りに遭って、危うく難を逃れた早稲田大学の学生が居ました。
もう亡くなられましたが、俳優座の劇作家、千田是也さんです。
千田さんは千駄ヶ谷で朝鮮人狩りに遭ったことを忘れないために、苗字を千田、名前を是也というペンネームにしたのです。
関東大震災が過ぎて90年以上が経ったいま、私の中でまた恐怖が蘇ってきています。
「朝鮮人を殺せ」「毒を飲ませ、首を吊るせ」そして大阪の鶴橋では女子中学生がマイクを持って「鶴橋朝鮮人大虐殺をしますよ」と、言わしめている日本社会が、今あるのです。
私が殺されるかもしれない、私の子供や孫が殺されるかもしれないという恐怖を、ひしひしと感じています。
排外主義の後に、人権侵害の後に、本当に恐ろしい状況がくると思います。
私だから感じられる被害、みなさん自覚はないかもしれませんが、あまりにも若い人たちが歴史を知らないことに恐怖を感じます。
関東大震災の朝鮮人虐殺の後に、政治のやり方がおかしいと言った人たち、労働運動をしていた人たち、権力に異を唱えた人たちが弾圧され治安維持法ができ、戦争へと突き進んでいったのです。
いま特定秘密保護法ほか恐ろしい法案が通されようとしています。
「八紘一宇」とか「日本軍」という言葉が大っぴらに言われるような、戦前のような危険な状況になっていることをひしひしと感じます。
「いのちさえ忘れなきゃ」「平和さえ忘れなきゃ」「憲法9条さえ忘れなきゃ」、その憲法9条も危うい状況になっています。
いろいろなところで話をしますが、島根県に行った時に聞いていらした70代のご夫婦が「慶南さん、是非ご案内したいところがある」と言って連れて行ってくださったところが、山の中腹に建っていた石の石碑が刻まれたところでした。連れて行ってくださった田中ハツエさんが建てられた石碑です。
ハツエさんが2歳の時、弟さんは生まれて100日目の時にお父さんは日中戦争に召集されたそうです。
お父さんは農民で、虫一匹殺すのが嫌な、心優しい方だったそうですが、その方が戦地で家族にあてた手紙の一文が、石碑に刻まれていました。
手紙には、こう書かれていたそうです。
「この鉄砲がごぼうだったらな。戦より野菜作りがずっといいよ。この鉄砲がごぼうだったらな」
ハツエさんが言いました。
「父は鉄砲を持って中国へ行き、中国の人を殺したでしょう。父は21歳でいのちを奪われましたが、同時に加害者であったと思います。二度とそんなことがないように、この碑は憲法9条の碑です」
拉致事件があって、北朝鮮は怖いということで危機感を高めました。国が国を踏みにじるのが植民地であり侵略であり、国が個人を踏みにじるのが強制連行であり拉致事件であり、人が人を踏みにじるのが人権侵害であると思うのですが、福井県の小浜に行くことがありました。
小浜は、遭難した韓国船の乗組員を、漁師さんたちが冬の海に小舟で乗り出して乗組員全員を救助してくれた歴史があるところです。
1900年1月、ロシアに働きに出ていた韓国人を乗せた船がウラジオストックから韓国に向けて出発したところ暴風で遭難し、2週間の漂流後小浜の泊地区に居たところを地区内の漁師たちが発見して、誠心誠意救助にあたり乗組員93人全員が、無事に韓国に帰ることができた、そういう歴史のあるところです。
その時にお会いしたのが、拉致事件の被害者の地村富貴恵さんのお兄さんで漁師の濱本雄幸さんです。
お会いした時に私は、私が拉致したのではないのですが「北朝鮮が本当に酷いことをしました」と言った時、こう言われました。
「北朝鮮だけではありません。日本だってアメリカだって、同じです。権力を持っている人たちは、私たちのいのちをなんとも思っていないのです。だから戦争をするし、こんなにみんな、辛い目にあうのです」と。
「でも、やっぱり妹さんは辛い思いをされました」と私が言うと、こう言われました。
「日本と朝鮮半島を考える時に、一番基にあるのは何だと思いますか?それは私の国が、あなたの国を植民地にしたことです。大変なことをしました。本当にご迷惑をおかけしました」と、頭を下げられたのです。
被害に遭われた方が歴史を遡って、その痛みを感じてくださった。
その歴史認識と、共感してくださったことに私は涙が止まりませんでした。
そして濱本さんは言われました。
「1900年に漁師たちが命がけで船を出したその場所に、〈海は人をつなぐ母の如し〉と日本語とハングル書かれた碑が建てられています。私たち庶民は海を挟んで、朝鮮半島、大陸の人たちとずっと仲良く交流してきたのです。富貴恵が言っていました。北朝鮮に連れて行かれた時優しいハルモニ(おばあさん)が居て、その優しさがあったから、自分たちは生きてこられた。子供達はまだ帰ってないけれど、あの優しい人たちがいるから、大丈夫だって言ってました。日本の私たちの優しさも、向こうに伝えてください。私たちは国や民族を超えて、ずっと手をつないであなたの国と、みんなと平和を作っていきたい。私たち庶民が、作っていきましょう」
その通りだと思います。
戦争をする国を、次の世代に決して渡してはいけないと思います。
共に手を繋ぎ、分かち合い、いろいろなところでそれぞれに、平和を作っていきましょう。


2015年6月19日号「お知らせ再び」

みなさま

◎「女の平和」6・20国会ヒューマンチェーン
明日20日(土)13:00〜15:00、国会議事堂を人間の鎖で囲みましょう!
「戦争法案の成立は、絶対に認めません」
レッド・ストッキングの戦いの史実に思いを重ねて、安倍政権にレッドカードを突きつけましょう。

6・20チラシ(表)

◎「福島の声を聞こう!vol.15」
参加申し込み受付はもう、お済みでしょうか?
皆様のおいでをお待ちしています。

福島の声を聞こう!vol15


2015年6月17日号「南相馬6月15日」

●縫いぐるみ講習会
●談話室は“工房”
寺内塚合仮設住宅で、縫いぐるみ講習会を開きました。
今日は“社長“の菅野さんは、病院に行っているので休み。
談話室に居たのは“営業部長”の天野さん、杉田さん、松本さん、井口さん、村井さんの5人でした。
最年少の村井さんが78歳、平均年齢81歳の“工房”です。
みんな小高に家が在る人たちですが、小高に居た時には住んでいる地区も違っていたので、顔も知らずに過ごしていたそうです。
仮設住宅に入居して談話室に集まるようになってから親しくなった仲間たちで、
互いにハルちゃん、ミッちゃんなどと名前をちゃん付けで呼び合っています。
日曜休日を除く毎日、朝9時にはここに集まり昼には自宅に戻ってご飯を食べて、午後から夕方まで、またここで手芸品を作っています。
それは、まるで会社に出勤するみたいです。
それでふざけて一番年長の菅野さん(84歳)を“社長”と呼び、天野さんを“営業部長”と呼んだら、いつの間にかそれが通名になってしまったのです。
これまで折紙の薬玉や、小さなフクロウ人形など作ってきましたが、今年になってからフェルトで小さな羊を作り始めました。
干支が羊だったので、1月、2月は良かったのですが、3月にも4月にも、まだ羊を作っていたのです。
5月にもまだ。
それで5月に来た時に、「もう羊は終わりにして、猿を作りましょう。来月講習会を開くから」と、縫いぐるみ講習会の約束をしていたのでした。

●型紙なしで作る縫いぐるみ
縫いぐるみ講習会は、もっと以前に小池第3や小池長沼、千倉などの仮設住宅でやった事がありました。
2012年、13年の事でした。
でも、ここで講習会をしようとは、これまでは思いませんでした。
というのは、ここのみなさんは自分で何か発想して作る事は不得手で、型紙通りの仕事なら得意な人たちだったからです。
私の縫いぐるみは、型紙なしで作るぬいぐるみです。
同じ作り方で耳としっぽの形や大きさを変えるだけで、サル、クマ、ウサギ、タヌキ、ネコなど、およそどんな動物でも作れるのです。
だからここで講習会を開くのは私にとっても、「平均年齢81歳の頭を柔らかくできるか?」と、不安でもあり楽しみでもありました。
私が作って持ってきた見本の縫いぐるみは、サルとクマ。
最近は毎日忙しくて、ウサギやネコなど他にも見本を作る余裕がありませんでした。
それに先ず第一に、来年の干支のサルを作って欲しいと思ってもいました。

●やってみたら
最初に作り方を書いた紙をみんなに渡して、見本を見せながら説明しました。
なにを作るかを決めて、それぞれ布を選びました。
見本がサルとクマしかなかったので、他のものを作ろうとする人はなく、杉田さんはクマですが他の3人はサルです。
天野さんはこれまで一度だって、何かを作った事はなく、みんなにお茶を入れたり訪問者からの注文を受けて品物を売ったりで、もっぱら営業活動に専念しているのです。
今日も同じです。
朝9時過ぎから始めて、途中でみんなで一緒に出前のラーメンを食べたお昼の休憩を挟んで、午後からも続きをやって、みんなが仕上がったのは3時でした。
他の仮設住宅でやった時よりも倍も時間はかかりましたが、みんな仕上げる事ができました。
作っている途中も仕上がってからも、互いに自分のものを見せ見られして、笑い合い批評し合ったりしながら、楽しく作る事ができました。
みんな自分が作った縫いぐるみが可愛くて、「これは貰って帰っていいの?」と言うので、「自分が生んだ子供なんだから、連れて帰って名前をつけて可愛がってあげて」と言うと、「んだなぁ。耳がでかくなっちゃったから、ミミコだな」などと言い合って、また笑ったのでした。
ラーメンの出前を頼む時にここに居る人数よりも一つ多く頼んだのは、杉田さんが家に居る“おとうさん”(お連れ合いのこと)の分も一緒に、と言ったからでした。
出前が届いて食べようという時には、“おとうさん”を呼んで、一緒に食べたのでした。
だから出来上がったクマを抱きしめている杉田さんに、天野さんは「ミッちゃんは、さっき旦那さんと仲良く並んでラーメン食べてた時に、その子ができたんじゃないの?」などと言うので、またみんなで爆笑でした。
そんなみんなに「型紙がなくて作るのも、面白いでしょう?」と訊ねると、「んだなぁ。今度は違うのを作ってみっぺし」と答えが返りました。
それを聞けば私も、次ぎに来るのがまた楽しみになりました。
サルを作った井口さんは、その後でもう早速、クマを作り始めてもいました。

●作りながらのお喋りで
「震災前には、こんなことした事なかったな」と、天野さんがいうと他の人たちも「んだなぁ。まず毎日やる事がいっぱいあって、忙しかったもんな」と。
これは他の仮設住宅でも聞いてきた言葉でした。
「毎日友達と集まってお茶飲みながら、笑ったりお喋りしたり、何か作ったりなんて、仮設に入ってからだもんなぁ」
ここに居る人たちの中で、天野さんだけが会社勤めを経験しています。
他の人たちはみんな実家が農家、嫁ぎ先も農家です。
天野さんは農家の嫁にはなりたくないと、学校を出てから紡績工場に勤めたのです。
そこを辞めてからも、役所に勤めたり看護助手をしたり魚屋で働いたり。いろいろやってきたのです。
「機織りの工場に勤める時、親は行李と布団背負って歩いて送ってくれたんだ。電車もなかったしな」
実家は田村市の農家でしたが、そこから小高の工場まで、無口な父親が、黙って娘の荷物を背負って運んでくれたそうです。
「親に送ってもらったなんて、それが初めてで、それ一回だけだけどな。親も忙しかったから私ら子供たちは、親に何かやってもら事なんかなかったもんな。だけど兄が兵隊から帰ってきた時は、父は迎えにいったよ。郡山まで迎えに行ったんだよ。よっぽど嬉しかったんだなぁ無事に帰ってきて、嬉しかったんだべなぁ」と、しみじみ言った天野さんでした。
「そうだなぁ。死なないで帰ってきて、嬉しかったんだべさ」
「んだなぁ。死んで帰ってきた人も多かったもんなぁ」
ここにいたみんなは、戦争中は学校の生徒だった人たちです。
「勉強なんか毎日1時間か2時間くらいで、後は勤労奉仕だったな。農家で兵隊に行った人が居る家なんかに勤労奉仕に行ったもんな。兵隊さんはお国のために働いているから、兵隊になれないお前たちがそこの家の手伝いにいくんだぞって言われてな」
「米や野菜の他にもお蚕さんやってるとこもあったから、そんなうちに行った時は桑の木の樹皮を剥いで、兵隊さんの服つくったりもしたな」
「朝学校に行くと、まず奉安殿だよな。整列して校長先生が奉安殿の戸を開けて、教育勅語を唱えるんだよな。その間私ら生徒はずうっと頭下げて一緒に唱えて、終わって校長先生が戸を閉めないと、顔あげらんないんだよな」
戦争中の銃後の子供の暮らしを、こんな風に話してくれたのでした。

●仮設住宅を出た後の住まいは?
縫いぐるみ講習会を終えた後、小池第3仮設、寺内塚合第2仮設に寄りました。
この辺りには、新築の家が続々と建ってきています。
仮設住宅に居た人たちが、仮設を出てからの生活のために建てている家々です。
仮設住宅があるのは鹿島区ですが、以前は原町区や小高区に家が在った人たちです。
仮設住宅のあるこの辺りの土地が集団移転先の土地となって、以前の場所には戻らないと決めた人たちが、ここに土地を入手して新居を造っているのです。
こうして新たに家が建っていくのを見ると、被災者たちが仮設住宅を出て再出発をしている喜ばしい様子と見えるのですが、なかなか複雑な事でもあります。
仮設住宅の目と鼻の先が、集団移転の土地なのです。
同じく被災した立場で自分は仮設を出る目処が立てられずに居るのに、新たな生活設計の基に建てられていく新居が嫌でも毎日目に入ると、とても気持ちが焦るし、焦ってもどうしようもなく、それで気持ちが塞いでしまう人も居るのです。
また、親は早く仮設を出たいから家を建てようと思うのに子供は、元の家を手直しして住むようにして欲しいと言う場合も少なくないようです。
親が死んだ後に新築の家を遺産相続するとなると、固定資産税が高くて払えないから建てないでくれと言う例も多いようです。
そしてまたこの日に訪ねたどの仮設住宅でも聞かれた言葉は、他所の場所に新居を建てて引っ越していった人が、毎日のように仮設の友達に電話を掛けて来たり、時には泊めて欲しいと言ってきたりするということです。
新居に馴染めず知らない土地に居るのが寂しくて、居住条件は悪かったとしても仲良くなった仮設の仲間たちと一緒に居たいと願うからです。
仮設を出た後の高齢被災者たちの暮らしという点で、住居というばかりではなく、コミュニティを含めた視点で、考えられなければならないと思います。

●宮ちゃん
高畑仮設住宅に住む宮ちゃんを訪ねました。
萱浜の家を津波で流され娘と嫁を亡くし、仮設の一人住まいです。
萱浜は80戸ほどの集落の家々がほとんど流され、亡くなった人も多く、まだ何人かは行方不明のままです。
私が南相馬に通い始めた頃、朝、海岸に散歩に行くと高台の木の根元に座っていつも海を眺めているおばあさんが居ました。
それが宮ちゃんだったと知ったのは、もっと後になってからのことです。
震災の年の11月に高畑の仮設住宅を初めて訪ね、宮ちゃんと知り合いました。
仮設の狭い独り部屋には仏壇代わりの棚が設えられて、遺影や位牌供物などが飾られていました。
きびきびと明るい口調でしたが、睡眠薬を飲まないと眠れない、安定剤を飲まないと不安で落ち着けないと言ってました。
その後、薬の量が増えているようで六角支援隊の荒川さんや鈴木さんが心配し薬を減らすようにアドバイスし、頻繁に訪ねもしていました。
昼間は訪ねる人もあったりで元気にしているのですが、夜一人になると、不安に苛まされ、昼間賑やかに過ごせば過ごすほど、その反動で一人の夜がたまらなく不安になるようでした。
一時はげっそり痩せて心配でしたが、けれども宮ちゃんは、「笑ってなけりゃぁ、死んじまう」と言って、持ち前の明るさを取り戻したのでした。
それからの宮ちゃんは、仮設の住民たちに呼びかけて新年会を開き、自作のおかしなカルタでみんなを遊ばせ笑わせ、また替え歌を作り、歌に合わせた振り付けの踊りを考えたりもして、仮設の住民たちを仲間に誘って“宮ちゃん一座”
を旗揚げしたりもしたのです。
そんな宮ちゃんは、昨日はこんな事を話してくれました。
「一昨日ひょこっと訪ねてきた人がいたの。その人がうちにきたのは初めてだよ。今までずっとこの仮設に居たのにな。なんだか、ひょこっと来たんだ。
その時に私は、不意に思いついたのよ。それで、その人に言ったの。
『あんたな、私らももうじきこの仮設を出なきゃなんないべ?んダラな、何か一つ心に残る思ひ出を作って出ねぇか?明日みんなで“団子の会”をやんべぇ』って言って、次の日、昨日だな。みんなして集会所に集まったのよ。
小麦粉だの白玉粉だのは私が家にあるのを持ってって、みんなで粉をてでこねて、丸めて、胡麻摺る人は胡麻擂りして黄な粉作る人は黄な粉作って、あんここねる人はあんここねて、それで作った団子を、みんなして頂いたのよ。
みんなで、手でこうして粉こねて、こうして丸めて」と言いながら宮ちゃんはその動作をして見せながら、言葉を続けました。
「こうやって楽しくお喋りしながら手を動かして美味しく食べて、嫌ぁ、みんな喜んだなぁ。いい思い出ができたって言ってな。んだよ。みんないい思い出になったべさ。あの人もじき仮設を出るんだって言ってたな」
これまで私も宮ちゃんから、たくさんのいい思い出を頂いています。
元気で居て欲しい宮ちゃんです。

●早苗田よ蘇れ
今年は、前の日の小高でも田植えを終えた田圃をたくさん見ましたし、杉さんの所でも、原町でも鹿島でも、南相馬全体で田植えをした田圃は昨年よりもずっと多くなっています。
作っても売れない、安く買いたたかれると言う心配を抱えながら、再生の道を歩き始めている人たちが、そこにも、ここにも居るのでした。
さ緑の早苗田に、シラサギやアオサギが餌を探して歩いていました。
安全な暮らし、安心して過ごせる毎日が、戻って欲しいです。   

いちえ






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