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2016年2月11日号「沖縄の声をアメリカに届けよう!」

ジャン・ユーカーマン監督のドキュメンタリー映画沖縄 うりずんの雨をご覧になった方も多いかと思います。
私も見ましたが、見終えた時にすぐに「これをアメリカの人たちにも見て欲しい!」と思ったものでした。
この映画配給に関わっていた友人から、嬉しい知らせが届きました。
ユンカーマン監督の希望で〈アメリカ上映版〉をあたらに作成することになったそうです。
以下は友人から送られてきたメールの一部転送です。
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アメリカ人としての責任から「沖縄 うりずんの雨」を製作したユンカーマン監督は〈アメリカ社会に沖縄のことを知らせ、その責任を問う〉という次のステージを目指しています。
昨年11月から12月にかけ米国内10ヶ所で行った試写会での反応と寄せられた意見から、沖縄について知識を持たない米国市民が見ても〈沖縄の問題の緊急性〉と〈民主主義に反した実態〉が伝わるように、沖縄での再取材・撮影、再編集を決意した次第です。
その制作費と全米上映のための資金の一部をクラウドファンディングにて、広く一般の方からも募らせていただくことといたしました。
「沖縄 うりずんの雨」〈アメリカ上映版〉製作&全米上映プロジェクト
http://motion-gallery.net/projects/OKINAWA2015/
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「これをアメリカの人たちにも見て欲しい!」と思った私も、クラウドファンディングに応募しようと思います。
皆様のご協力もお願いいたします。             

いちえ

 


2016年2月6日号「お知らせ」

◎お知らせ①
原発事故から5年が経とうとしています。
「さよなら原発1000万人アクション」のお知らせです。

 【原発のない未来へ!3.26集会 in 代々木公園】
日時:3月26日(土)
   11:00〜ブースなど開店
   11:30〜オープンライブ
   12:30〜メインステージライブ・集会
   14:40〜3コースに分かれデモ
場所:代々木公園 サッカー場・野外ステージ・ケヤキ並木

◎訂正とお詫び
先日お送りした一枝通信の「福島原発事故刑事訴訟支援団」発足の会報告で、一部に誤りがありました。
鎌田慧さんの発言の中に「3月29日に代々木公園で大規模な集会を」と書きましたが、上記のお知らせのように「3月29日」は間違いです。
正しくは「3月26日」です。
間違いをお詫びします。
どうぞ訂正してください。

◎お知らせ②
5年経っても、被災者の苦しみは癒えません。
いえ、むしろなお、辛さが増している人も少なくありません。
トークの会「福島の声を聞こう!」vol.18 は、3月8日(火)です。
小高の同慶寺のご住職、田中徳雲さんにお話しいただきます。
どうぞ、みなさまのご参加をお待ちしています。

vol18-2


インフルエンザ流行しています。
みなさま大丈夫でしょうか?
私は罹患していませんが、先月隣に住む息子がA型インフルエンザにかかり、孫たちを我が家に避難させていました。
息子が治って出社し2日ほど後で、今度は真ん中の孫がB型インフルエンザ。
それでまた、上の孫と下の孫が避難してきました。
今日から行く予定でいた南相馬行、予定変更して先延ばしし、また当分の間小1・小6の孫たちとジジババの日々になります。
(孫たちは私たちを「じいじ、いちえさん」と呼んでいます)
どうぞ、みなさまもお気をつけて過ごされますように。       

いちえ

 


2016年2月3日号「国会前で」

2月3日、「アベ政治を許さない」全国一斉行動日でした。
国会前には、赤いコート姿の澤地久枝さんはじめ、100人ほどが集まりました。
澤地さんの声かけで午後1時、一斉にみんなで「アベ政治を許さない!」プラカードを掲げました。
節分なので「アベは外!鬼は外!アベは外!」も。
参加者の中から「アベは外!9条は内!」の声も上がり、「9条は内!」もまたみんなで声をあげました。
澤地さんは、「アメリカの大統領選挙では、社会民主主義を訴えた候補者が善戦しているのに、日本ではこんなに酷い状況になっているのにアベの支持率が50%ということに大きな危機感を覚える。今度の選挙は、絶対にアベさんを勝たせるわけにはいかない」と訴え、みんな大きく共感しました。

アベ首相はいよいよ「自衛隊は違憲という憲法学者が7割もいるのだから」と、憲法9条改変にかかる本音を露骨に言い出しています。
澤地さんの言葉の通り、絶対にアベに花を持たせるわけにはいきません。
野党共闘を訴えるとともに、絶対に落としてはならない人を落とさぬよう運動していきたいと思います。                       

いちえ

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2016年2月1日号「福島原発刑事訴訟支援団」発足の会③

1月30日の「福島原発刑事訴訟支援団」発足の会の報告の続きです。
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●水戸喜世子(呼びかけ人)
福島原発事故の責任を問う告訴が受理されたことをともに喜び会えることを、嬉しく思う。
この中で関西からは私だけだと思うので、関西のことを少し話したい。
昨日は高浜原発のゲート前にいた。
集まったのは、再稼働のスィッチが入るのを黙って座視できずに三々五々集まってきた一人一人、自分の意思で集まってきた4、50人で、数は多くなかった。
本当の結集は24日に東京や各地からも集まって、400人くらいで向こうの警備も4、500人だった。
この人たちがいれば日本の原発は絶対止められると思うくらい、決死の思いで集まった人たちだった。
昨日の40人もそのような決死の思いで集まった人たちだったが、警察はその10倍もいた。
石川県警、愛知県警も総動員して、公道を私たちが移動できないようにして無言の壁になって立ちはだかった。
国家権力の壁だ。
言語同断の無言の暴力だ。
関西の若狭の原発がある限り、近畿圏は安心して暮らせない。
琵琶湖は関西一円だけでなく東海の経済圏まで含めて、私たちに恩恵をもたらしている。
若狭の原発が一旦事故を起こせば、近畿経済圏も暮らしも全てダメになってしまうから、近畿にいる者にとっては自分の問題であり当事者だ。
琵琶湖は一旦汚染されたら、100年回復はしないと言われている。
私たちにとっては死活問題の琵琶湖なので、どんなことがあってもこの原発は止めなければいけないという思いは、みんなが持っている。
そのためには自分たちができることは全部やってきた。
高浜原発差し止め訴訟の申立人にもなり、地裁で差し止め判決が出た時は本当に嬉しかった。
それが高裁でひっくり返されてしまった。
それはどういうことかと考えると、権力の言いなりになる裁判官を送り込まざるを得なかったのは彼らの弱さだと思う。
国民の6割以上が原発はダメだと思っているのだから、福井地裁の樋口裁判官だけでなく他の裁判官たちもそう思っているだろう。
権力はそうした多くの裁判官を信用していないからこそ、自分たちの言いなりになる裁判官を送り込んできた。
高裁判決も、昨日の警察の壁もそうだが向こうは論理も何も持っていず、原発が正当だという論理は何もないのだから、あとは私たちが闘って勝利の日を待つだけだ。
できることは何でもやって、闘い抜いていこう。
脱原発を成功させるのは、関電よりも九電よりももっと悪い東電を懲らしめることでしかない。
あれだけの悪いことをして東電がのさばっていることは、関電や九電をどれだけ安心させているか。
昨日の高浜原発前の行動に権力の壁が立ちふさがった、そうした暴力を許しているのは、東電を許しているからだと思う。
戦後の歴史を振り返って今日まで、こういう時代を作ってきたのは私たちが一つ一つ責任を取らせてこなかった、そうして積み重ねが”壁の政治”を導いてきた。
今度こそは、責任をはっきりと取らせたい。
共に闘っていきましょう!

●保田行雄弁護士(呼びかけ人)
一番忘れてならないのは福島の被害の現実だ。
これだけの大事故を起こし、10万を超える避難民を出しながら、昨年6月に政府は福島の復興加速に向けて改訂を出した。
2017年3月に帰還困難区域を除き避難指示解除とし、2019年3月にはすべての賠償など支払いを終わらせるとした。
避難解除、慰謝料解除が行われると、すべての避難賠償の問題が終わってしまう。
オリンピック前に、福島のすべての問題が解決したと画策したいからだ。
現に被害者がいて、現に被害が継続しているのになぜこんな問題が起きるのか。
線量は落ちていないのに満足に調査もしないまま、政策的に避難指示解除するだけで終えることがなぜ起きるのか。
広瀬さんが言ったように70年代の公害闘争は、市民の運動で粘り強く加害者の責任を明らかにして、加害の責任に基づく措置を要求してきた。
当然の措置を要求してきた。
イタイタイ病でも責任が明記されて、つい先年土壌回復が終わった。
福島でもそういうことを誰が、どうしてやらなければいけないかが、あいまいにされている。
東電は最初想定外の津波で不可抗力だったとして、責任の回避を画策した。
その後責任は認めたが、今度は国の賠償審の下に隠れて自らの責任を棚上げして「損害の範囲は国が決めたこれだけ」として、それ以上は弁償しなくていいという態度を取り続けている。
ところが今回、政府の決定は政府自身が決めたルールを無視している。
避難指示解除は損害賠償の終焉を意味するが、これについて政府が設置した原子力紛争審議会すら関与せず、政府与党と政府内で政策的に決められてきている。
政策的に被害があったり、なかったりするものか?
被害の原状回復にしろ賠償にしろ、こんなやり方が行われている。
その根本には、政府や東電が自らの責任で起こしたという”責任の自覚”がないことが、すべての原因だ。
その点で今回の刑事裁判は、とても大事だ。
被害者と加害者が主客転倒した状況を脱却して、政府と東電の責任を明らかにして、被害者本位の、被害者の望む賠償と福島の復興を勝ち取るものになると確信している。
刑事裁判は国家権力に一番近い者を処罰させるという、非常に困難なものだ。
福島の原発で東電の責任を問うのもそうだ。
国の支配層として一端を担ってきた裁判所が、東電の3人の被告人に対して有罪を被せるのは並大抵ではない。
しかしこれまでも公害事件で、刑事裁判で有罪になった例は珍しくない。
森永ヒ素ミルク、薬害エイズ、水俣、カネミ醤油でも有罪判決はあった。
それは国民の力、市民の運動、被害者の運動が権力を追い詰めて有罪を勝ち取っていった。
ぜひこの事件においても、東電の3人に対して裁判所に有罪判決を書かせるまで頑張ろうではありませんか。

●副団長、武藤類子さんのまとめの挨拶
長い時間、ありがとうございました。
本当にたくさん集まってくださったみなさんと共に、「福島原発刑事訴訟支援団」を発足できたことを心から感謝申し上げます。
呼びかけ人の皆様、力強い言葉をありがとうございました。
(呼び掛け人の石丸小四郎さんと賛同人の紹介がありました)

たくさんの皆さんと共に、支援団を育てていきたいと思います。
事故から5年が経とうとしています。
私たちがこの事故から何を学び、社会をどう変えていくことができたでしょうか。
福島の現状は佐藤団長から報告されたように、非常に厳しいものです。
そんな中で県知事は年頭の挨拶で、福島アクションプランを策定しました。
オリンピック・パラリンピックに向けて福島の魅力、県民の元気の発信、誇りの醸成、復興へと進む福島の姿の発信を基本目標にし予算を計上するという、被害者たちに復興や自立、希望や誇りなどという言葉を巧みに使いながら被害者同士の分断を作り、諦めと我慢と忘れることを強要し、真実に目を向けさせないこのやり方に、心から憤りを感じます。
私たちが行ってきたこの告訴は、私たちの生きる権利を取り戻すものだと思っています。
そしてこれから膨大な放射線のゴミという負の遺産と共に生きなければならない若者、子供たち、未来世代、そしてもの言えない人類以外の生きものたちへの一つの責任の取り方であり、大人としてできることの一つだと思っています。
若者たちが、子供たちが、原発事故後、自分たちのために大人が何をしたか、何をしなかったかをじっと見ているだろうと思います。
福島原発事故が引き起こした困難と悲しみと共に歩み続けること、それは自分自身のささやかな暮らしと楽しみを求めることと同様に、私たちにできることの一つではないでしょうか。
昨夜から福島では細かいキラキラした雪が、音もなく降り積もっています。
本当に、息を呑むような美しい光景でした。
この美しい星がこれ以上破壊に向かわぬよう、この最悪の事故を体験した大人として、一人一人が出来得ることを、今やっていきましょう。
そして皆さんで、この「福島原発刑事訴訟支援団」を担っていただけたら嬉しいです。
そして、大きな大きな世論を作っていきましょう。
皆様どうぞ、ご支援・ご協力をお願いいたします。

*最後に福島からバスで来た人たち、福島から避難している人たちも壇上に上がって、みんなで♪我ら許すまじ♪を歌って散会しました。
私も賛同人の一人になっています。
どうぞ、皆さんも是非支援団に参加してください。
そしてご一緒に、原発事故刑事裁判を支えていきましょう!
公判の日程が決まりましたら、この「一枝通信」でお伝えします。
是非、傍聴に駆けつけてください。
支援団のリーフレットを添付します。
開けない方は http://shien-dan.org/ で、ご覧ください。         

いちえ


2016年2月1日号「福島原発刑事訴訟支援団」発足の会②

1月30日の「福島原発刑事訴訟支援団」発足の会の報告を続けます。
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●鎌田慧さん(呼びかけ人)
なぜ再稼働するかといえば経営安定のためというが、社長安定のためだ。
社会不安定、人命不安定でも会社が儲かればいいと言うのが再稼働の論理だ。
これまで原発は、電力安定、価格が安い、空気を汚さないなどと言ってきたが、もう、そうは言えなくなった。
会社安定のためということが明らかになった。
この裁判は、「事故が起きたらどうするか」「これまで誰も責任を問わずにきたことをどうするか」という歴史的な転換点に立っている裁判であり、この集会はこれを支える集会だ。
1963年11月に起きた三井三池炭塵爆発事故では、1000人以上の死傷者が出たが、社長は一切責任を取っていない。
トンネル内の炭塵を掃除していなかったことから起きた事故だ。
尼崎の列車転覆事故も運転手の過酷労働が原因で、列車が遅延したら運転席から下ろし賃金も下げるという規定で、運転手は列車が遅れないようにスピードを上げたために起きた事故だが、これも社長の責任は問われていない。
日本社会は経営者がミスをして多くの人が死んでも、責任を問わない。
人間の命より、会社の利益が大事という社会だ。
この転倒した社会の中に、今まだ私たちはいるということだ。
経営者が間違ったら罪に問う市民ルールを、確立していかなければいけない。
安全重視ではなく、安全軽視して利益を重視する、「人命より金」といういびつな価値観を徹底的に直していく、そのための裁判だ。
ここから日本のモラルが変わっていく。
同じ過ちは繰り返してはいけない。
小児甲状腺がんが150人以上、また被災者の生活もますます困窮している。
「さよなら原発」は、3月26日に代々木公園で大規模な集会をします。
その前に福島に行き集会を開き、そこから東京に向かって押し出すという行進を始める。
そうした色々な運動をしながらこの裁判をその中に位置付けて、原発のない社会を1日も早く実現する。
この裁判も非常に大事だが、原発再稼働をなくす、原発そのものをなくす時期に来ている。

●河合弘之弁護士(呼びかけ人)
あれだけの犠牲者を出したこれだけの事故が、誰も責任を取らないでいいのか、こんなことでいいのかという思いで4年前にいわき市で、刑事告訴決起をした。
最終的な願いは、原発をなくすことだ。
そのために全体的な戦略を忘れず、一つ一つの闘いをしていこう。
❶再稼働を押しとどめる、❷裁判、❸集会・デモ、❹選挙・選挙では脱原発を推し、推進派を落とす、❸首長に働きかける。
再稼働を少しでも遅らせ、”粛々と”粘り強くやっていこう。
入り口は、原発を押さえ込み時間稼ぎしながら、出口は自然エネルギーをやっていくことだ。
原発をなくし自然エネルギーに変えて、CO2を減らすことだ。
自然エネルギーは儲かると国民が実感し、企業が理解すれば可能なのだ。
ドイツがなぜあのように”凛々しく”自然エネルギーに転換できたかというと、国民も経済界も、自然エネルギーを信頼しているからだ。
その戦略で、脱原発に向かおう。
刑事責任を問う、民事責任を問う、被災者の救済、そして差し止め裁判をしながら、国民の中に脱原発の確信を高めていこう。
脱原発のための一番の基礎は、東電の刑事責任を問うことだ。
この事件の位置付けをしっかりしながら、最後まで被告人を有罪とするところまで粘り強く戦い続けましょう。
そうすることによって、私たちの脱原発は正義を得る。
これを抜きに脱原発を言っても、空疎になる。
刑事責任を追及する運動を、きちんと大局的にやっていくことが大事だ。
6ヶ月以内にはだいたい公判の日程が決まるから、傍聴席の10倍くらいが詰めかけるくらい傍聴に来て欲しい。
裁判官が守衛から「大変です。もう1万人も傍聴に来ています」と耳打ちされるくらいになれば裁判官も「そんなに大変な裁判なのか」と、気持ちを引き締める。
傍聴に押しかけ、裁判所を囲んで、私たちの関心と正義感を示して欲しい。
長丁場になるが、闘い抜きましょう!

●添田孝志史さん(呼びかけ人)
2012年に国会事故調査委員会にいた。
電気事業連合会の文書を調べていたら、その中の資料に海渡弁護士が話したような福島第一発電所が日本で一番津波に弱いという証拠があった。
そういう資料がずらりと並んでいた。
当然、検察や警察が踏み込んで持ち出すだろうと思ったが、未だにそれがない。
国会の事故調も時間不足で最後まで踏見込めずにいたが、その後国会事故調も各事故調も、なんとなく中途半端に終わったままだったがようやく民事訴訟や刑事告発で、いろいろなことが明らかになってきた。
一方で保安院や原子力規制委員会は内部で持っている資料を、どんどん隠す方向へ進んでいる。
インターネットで公開されていた資料も、全部消してしまうなどを平気でやるようになっているので、資料を丁寧に集めて自己のプロセスを明らかにしていかないと忘れられてしまう。
この事件が風化されていかないように、記録に残していきたい。

●広瀬隆さん(呼びかけ人)
この裁判は絶対に勝たなければならない。
どうやって勝つか、否定的なことから考えると、一昨日甘利明が辞任した。
記者会見の記事が翌朝の新聞各紙にいっぱい出ていたが、肝心なことは何も書いていない。
甘利明がどういう人間か、2年前の朝日新聞に大きく「甘利経済再生大臣のパーティー券電力9社が覆面購入」の記事が載ったが、なぜそうしたことを今書かないのか?この記事には再稼働のことにも触れている。
あいつは原発再稼働の親分なのに、昨日の新聞の記事には、何も書いてない。
それで高浜が再稼働されてしまう。
今は司法の暗黒時代だ。
大飯原発地裁で出した差し止め判決を、高裁では国が送り込んだ似非裁判官がひっくり返してしまった。
これでどうやって我々が勝てるのか、と思う。
だが私の世代は勝った記憶があるから、皆さんに言っておく。
1970年代の公害裁判、当時ちょうど原発が始まった時代だ。
大阪万博が開かれ、高度経済成長時代などと浮かれていた時代だ。
1970年、杉並で光化学スモッグが発生し、消費者50団体が立ち上がってメーカーを追い詰めた。
’71年、イタイタイ病で、三井金属鉱業に有罪判決を出した。
翌年に、四日市ぜんそくで有罪判決が出た。
またその翌年に最大の公害、水俣病の窒素に対して有罪判決が出た。
この暗黒時代を乗り越えたのは、世論だった。
今私たちが起こしていかなければ行けない運動は、世論なのだ。

●満田夏花
怒りの日々だが、前に進んでいこう。
私は、東電の3悪人と共に、国の責任を問いたい。
福島原発事故を起こした国の責任、被害者を切り捨て、被災者を切り捨て、国民を切り捨ててきた国の責任を問いたい。
たくさんの人が抗議の声をあげている中、地元では説明会さえ開かれずに高浜原発は再稼働された。
この時に福井県知事の求めに応じて、経済大臣、安倍総理は、いとも簡単に「国が責任を取る」と言った。
福島原発事故で、国が責任を取っただろうか?
責任という言葉が、軽々しく使われすぎている。
高浜原発は再稼働されてしまったが、私たちがウォッチしている中に蒸気発生器の配管の耐震性がある。
関電は従来の手法ではなく、数値が小さきなるような手法を使って計算して通してしまったというとんでもない話がある。
それを通してしまったのは原子力規制委員会、規制庁で、その会議は密室で行われた。
福島原発事故の多くの人の痛み、苦しみをどう考えているのか。
私たちが頑張って告訴団と支援団とで、福島原発事故の責任を問い続けていくことが、次につながっていく。
彼らに対して「責任」とは何かを自覚させ、大きな悲劇を防ぐことにぜひ繋げていきましょう!
高浜原発が再稼働されてしまったが、街頭行動も一時期に比べ人が少なくなっているのは、原発だけではなくいろいろな問題があってみんな少し疲れてもいるからだろうが、こういう節目節目に集まって、思いをともにし原発のない日本を作り被災者を切り捨てない社会を作っていくよう、頑張りましょう!


2015年2月1日号「福島原発刑事訴訟支援団」発足の会①

1月30日(土)目黒区民センターホールで、「福島原発刑事訴訟支援団」発足の集いが開かれました。
会の報告ですが、非常に長いので3回に分けてお送りします。
集会は会場ホール満席で、多くの人が関心を寄せていることを示していました。

原発事故から5年が経とうとしています。
この間に2012年6月に福島県民など1324人が東電幹部らを刑事告訴しました。
同年11月に13262人が第二次告訴・告発を、12月には130人が第三次告訴・告発を行いました。
集会のオープニングには、告訴団のこの4年間の歩みが映像で流されました。

●告訴団4年間の歩み
2013年9月、福島地検が事件を東京地検に移送し、東京地検は被疑者全員を不起訴処分とする。
告訴団は同年10月、不起訴処分を不服として東京検察審査会に第一次申し立てを、11月に第二次申し立て。
2014年7月、東京第五検察審査会が、東電の勝俣元会長ら元幹部3名に起訴相当を議決し、東京地検が再捜査を開始。
2015年1月、東京地検が再度、全員に不起訴処分とし、東京第五検察審査会が二度目の審査を開始。
同年7月、東京第五検察審議会が、東電の勝俣元会長ら元幹部3名に起訴議決。強制起訴されることになり、刑事裁判が開かれることが決定した。
8月、東京地方裁判所は、検察官役の弁護士3名を指定、翌9月検察官役の弁護士2名を追加し、強制起訴事件では最多の5人体制となる。

●福島原発訴訟支援団
武藤類子さんから支援団発足の経過が話されました。
告訴団は告訴・告発の団体です。2012年に1万4716人で行った告訴・告発事件は検察庁により二度の不起訴処分を受けましたが、東京第五検察審査会は二度にわたり起訴相当の議決をしました。
これによって、被疑者、勝俣恒久、武黒一郎、武藤栄の3人は「強制起訴」となり、これからいよいよ長い法廷闘争が始まります。
東京電力福島原発事故の真実と責任の所在を明らかにするこの裁判は、原発社会に終止符を打つために非常に重要な意義を持つ裁判です。
裁判の行方を見守り支えるために「支援団」を立ち上げました。

名称:名称を「福島原発刑事訴訟支援団」といいます。
目的:津波対策を怠るなどして福島第一原発事故を発生させ、多くの死傷者を出したとして起訴されることになった被告人らの刑事裁判について、公正な裁判が行われ、真実が明らかになり、被告人らの問われるべき罪がきちんと追求されることを目的とします。
活動:上記の目的を達するために、次の活動を行います。
 ❶公判の傍聴と記録を行う
 ❷公判の内容について社会に広く発信する。
 ❸証拠の収集・分析を行う。
 ❹その他、会の活動に必要なことを行う。
構成:この団体は、上記の目的に賛同する個人で構成します。国籍・年齢は問いません。
会費:この団体の会費は年会費とし、個人一口1000円、各自一口以上とします。
(これらについてはホームページ http://shien-dan.org/ をご覧ください)

告訴団は現在2015年告訴と、汚染水告発の二つをまだ抱えています。
2015年の告訴は東京第一検察審議会で審査中、汚染水告発は福島県警から地検へ書類が送検され追加の操作が行われているところです。
そのため告訴団も今後も活動を続けていきます。
支援団と告訴団、合わせて二つの団体ができましたが、今後とも皆様のご協力をよろしくお願い致します。

●支援団団長、佐藤和良さん挨拶
事故から間もなく5年です。
福島を犠牲にし、切り捨ててゾンビのように生き返り吸血鬼のような原子力ムラは、昨日は高浜原発を再稼働しました。
原発事故はなぜ起きたのかといえば、国策として原発は安全、原発は安いということを世論として作り上げてきた、「国家総動員」体制で、原発を推進してきたことが根本の原因です。
そこを変えていくために、この国のあり方を変えていくために私たちは力をつけて進んでいく必要があります。
一義的には東京電力が津波に対する備えを怠って、対策を取っていれば回避できたにもかかわらず、対策を取らずに起きたための人災なのだということで、想定外の事故ではない。
人災としての福島原発事故の原因を究明し、責任の解明をしたい。
人々の命も暮らしも無視した再稼働路線を止めるためにも、今度の刑事訴訟を勝ち取り、ここで決着をつけていくことが非常に大切です。
一旦過酷事故を起こして5年経った今でも11万人近い人を避難させたまま、10兆円を超えるような被害(賠償や除染など)を及ぼし、しかもなおそれを私たちの税金、国税で贖っているという転倒したこの国のあり方を変えていく、過酷事故の再発を防止することの意味は、刑事訴訟の結論如何に関わってくる。
何としても有罪に持ち込んで、いきたい。
そのために訴訟の傍聴と内容の可視化、国内外への発信をしていく必要がある。
この支援団が全国に根を張って、頑張っていかないと私たち市民、国民の未来はないということです。
取り返しのつかない事故が、今回の福島原発事故です。
取り返しのつかないものを取り返すために、子供達の未来のために頑張っていきましょう。

●海渡雄一弁護士(呼びかけ人)
明らかになってきた原発事故の原因と強制起訴による刑事訴訟について、海渡弁護士から話がありました。
❶自然災害に備える必要があったか
東電元幹部らには、安全対策を第一に考えなければならない義務があった。
過去の原発訴訟の最高裁判決では、原発は大事故が万が一にも起こらないように設置されるべきであるとされ、国が定めた原発の新耐震指針では、極めて稀に発生する大津波についても対策を取らなければならないとされていた。
❷大津波を予見できたか
東電は原発の浸水事故が電源喪失を招く恐れがあることを、自身の発電所で2度経験していた。
海外の原発で津波や高波で電源喪失したれいがあることから、津波の危険性を把握していた。
国の専門機関が発表した評価に基づき試算したところ福島沖を震源とする地震で最大15,7mの津波に襲われるという結果を得ていた。
この試算が決して無視できないものだと認識していたことが、東電の内部資料にも示されていた。
❸事故を防ぐ対策ができたか
東電は15mを超える津波試算を受け対策を検討していて、敷地内に10mの防潮堤を設置すれば津波が防げることも報告されていた。
検察審査会は、防潮堤を造るか、対策が完了するまでの間は原発を停止していれば事故を防げたと指摘した。
東電が安全対策よりもコスト対策を優先していたことも指摘している。
❹検察官役の弁護士
検察審査会が強制起訴した事件では裁判所が指定した弁護士が、検察官の役目を務める。
福島原発刑事訴訟では、過去最多の5名の指定弁護士が選任された。
ロッキード事件など数々の重大事件を手がけたり、殺人事件の有罪判決から逆転再審査無罪を勝ち取った弁護士など、スペシャリストが揃った布陣となった。


2016年1月29日号「追伸」

先ほどの長い(長すぎる?)通信に、書き添えるのを忘れました。
「沖縄を感じる会」の記録DVD、ご希望があれば貸し出します。
「島唄でつなぐ沖縄の心」ですから、文字だけでは分かりにくいかと思います。
DVDで、歌をお聞きいただけたら、わかりやすいかと思います。  

いちえ


2016年1月29日号「報告」

宜野湾市の選挙結果は与党を喜ばせるような形になりましたが、でも彼らが言うような「辺野古移設を市民が望んでいる」ことでは決してないと思います。
むしろアベ政権のなりふり構わぬ姑息なやり方が、はっきりと露呈したことを示しているのではないでしょうか。
宜野湾市民は、危険と騒音にさらされる米軍基地が普天間から去って欲しいと望みはしても、同じ不安を同胞に押し付けたいと思っていた人はいないでしょう。
佐喜真氏は辺野古移設に言及せずに普天間から基地撤去し、跡地にデズニィリゾートを誘致と言いましたが、これは争点ぼかしではないでしょうか。
沖縄の民意は、「普天間にも辺野古にも、沖縄のどこにも基地はいらない」ではないのでしょうか。
岩国もまたあのような結果になりましたが、結果の分析を封じるマスメディアの言説だけを鵜呑みにせずに、現地の声、当事者の思いをしっかり聞き取り、受け止めていきたいと思います。
野党共闘への道を各党に任せるだけではなく、私たちも地元野党議員に積極的に呼びかけていかなければならないと考えます。
民主党の中にはまだまだ共産党との共闘を拒む意見があるようですから、私は地元の民主党議員に呼びかけるつもりです。

◎報告①
宜野湾市長選投票日前日にセッションハウス・ギャラリーで、野池道子さんの「沖縄を感じる会 vol.2 」を持ちました。
今回のテーマは「島唄でつなぐ沖縄の心」でした。
道子さんが厳選した曲をCDで聴き、その歌にこめられた意味や背景を道子さんが解説してくれました。

●てぃんさぐの花
大和の和歌のように沖縄には琉歌があって、短歌形式のものは8886(サンパチロク)の音で綴るものです。
その形式で伝えられる教訓歌があるそうです。
道子さんの美しい筆文字で、壁にその教訓歌が四首張り出されています。
最初の一首は「宝玉と言えど磨かなければ錆びてしまう 朝夕と心を磨きながら生きて行こう」と書かれていました。
この日は特別に友情出演で、花岡亨さんが始めに三線を弾き歌ってくれました。
何曲か歌ってくれた、その最後の曲は「てぃんさぐの花」でした。
てぃんさぐの花には、この琉歌が歌い込められていました。
 ♪ホウセンカの花は爪先に染めて 親の教えは心に染み渡る
 宝玉と言えど磨かなければ錆びてしまう 朝夕と心を磨きながら日々を生きて行
 こう♪
亨さんが三線に乗せて歌ってくれた「てぃんさぐの花」を道子さんが解説し、この歌の心は「憲法12条」と同じであると言いました。
憲法12条は、こう謳っています。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」

●島唄でつなぐ沖縄の心
「沖縄は歌の中に歴史を刻印しているのではないかと思う」と道子さんは言い、本題に入って行きました。
この一枝通信では音をお伝えできないのが残念ですが、せめて曲目とその歌の心をお伝えします。道子さんの解説には音源のCDで歌っている歌手やグループの名前もありましたが、それは省きます。
【】で囲んだところが歌の説明ですが、♪で囲んだ文章は歌の意味、心です。

1.かぎやで風節(琉球古典音楽)【守礼の邦・沖縄のもてなしの心を表す】
 ♪今日のこの誇らしき嬉しき日を 何にたとえたらよかろうか
  初々しい花の蕾 その上に光る露のようではないか♪
*この歌は琉球王朝の時代、300年〜400年前から歌い継がれているが舞踊も付いていて、人寄せの会では一番最初、幕開けにこの歌を歌う。
琉球王朝の時代は中国との関係がとても深かったが、中国からの使者を迎えたりする際などに舞踊でもてなしをした。
お招きの際には必ず歌舞音曲でもてなし、それを役人がやっていた。
沖縄は武術の「武」ではなく、舞踊の「舞」を非常に大事にするところであった。

2.国頭サバクイ(沖縄民謡)【琉球王府の森から材木を運ぶ木遣り歌】
 ♪サー 首里の王家よ、お材木でございます。
  サー 国頭の材木役人様、拝所の前から(お材木を運び出します)
  サー 名護山の堅木は、重くて引けないよ
  サー 皆々方よ、心を一つにして(引っ張っていこう)♪
*国頭は北部沖縄の北部ヤンバル地区で国頭(くにがみ)と今は言うが、昔はクンジャンと言っていた。
サバクイは森林を管理する役人のことで、クンジャンは王府の森だった。
首里城は火事で3回ほど消失しているが、再建のために王府の森から材木を運び出す時の木遣り歌。(クンジャンから首里までは60km程)
現在クンジャンのヤンバル地区は、映画「標的の村」でご覧になった方もいるように、米軍の北部訓練所になっている。
ベトナム戦争時には、ヤンバルの村人をベトナム人に見立てて、森の中に”ベトナム村”を作り、米軍はゲリラ戦に対する訓練をし、枯れ葉剤のテストもしていた。
琉球王府の森だったところが琉球処分で国の管理地になり、米軍の野戦演習場となったのがヤンバルの森。
材木を運ぶ際には木遣り歌を歌い、また、道化も同行していて笑わせながら危険な労働の緊張をほぐし、笑いながら心を合わせて運んで行った。

3.唐船どーい 七夕エイサー 【沖縄は先祖崇拝、お盆行事に舞い歌う】
*沖縄のお盆は旧暦で行い、お盆が終わりご先祖様をあの世にお送りする時の歌舞や太鼓がエイサー。村ごと、町ごとに青年男女が道ジュネー(道を練り歩く)する。当日の本番前に青年団の若者達が何日も前から練習をする。
エイサーは踊る前に自分たちの村の御嶽(うたき、神様)に礼拝してから始めるが、現在は御嶽が基地の中に入ってしまっているので、基地のフェンスの外から御嶽の方向に向かって礼拝してから始めている。
沖縄の信仰は先祖崇拝で、亡くなってあの世に行ったご先祖様は神様(ウヤファーフジ)になってこの世にいる我々を守ってくださっていると考える。

4.安里屋ユンタ 八重山民謡【士族から発展した節謡に対する口伝えの古謡.労働 歌】
サー 安里屋のくやまちゃんは まったく美しく生まれたものだ
おぉ、我らが愛しのくやまちゃん
サー 島の役人があの子を妾に欲しい どうしても欲しいと望んでいるらしい
サー でも彼女は嫌なんだって 絶対だめだと断ったのさ
サー 島の男を夫に持ちたいの ちゃんと私を知っている方に嫁ぎたい
(若い新良幸人さんの歌う安里屋ユンタは、今風の歌詞です)
*映画「標的の村」の中で抗議する女性が車の中で歌っていたのが、安里屋ユンタだったが、上の歌詞でもわかるようにこの歌は権力に対する抵抗歌。

●私は何者?
道子さんは沖縄で生まれですが、3歳から小学校卒業までは両親、姉と東京で過ごし、中学入学時に沖縄に戻りました。
そのために言葉や習慣など友人たちとの違いに戸惑い、自身のアイデンティティについてとても悩んだと言います。
高校時代に祖国復帰運動が盛んで、道子さんも級友たちとしばしばフランスデモに繰り出したそうです。
その後東京の短大に進み卒業後は、日中国交回復直後の北京に駐在する大使館職員家族のベビーシッターとして2年半を北京で過ごし、沖縄に戻ってからは児童書専門店「夢空間」を始めました。
児童書の店をやっている時期に持ち上がったのが白保の飛行場建設計画で、その反対運動に関わってきました。
道子さんの「夢空間」が、反対運動の拠点になっていました。
白保で沖縄の文化や自然の素晴らしさに触れて、ウチナンチュとしての自分を確立することができたと言います。
「私は私のままでいい」という沖縄の包容力が道子さんを解放してくれ、白保が道子さんに大きな道を示してくれたと、道子さんは言いました。
このCDで安里屋ユンタを歌っている新良幸人くんは、白保の運動の頃八重山の高校生で、道子さんの店に通ってきていたそうです。道子さんの弟分です。

5.赤田首里殿内 【沖縄わらべ歌 元歌は八重山民謡で弥勒信仰を伝える弥勒節】
赤田村の首里殿内に黄金の灯篭を下げてこれに火が灯れば 弥勒様をお迎えだ
 シーヤプー シーヤプー ミーミンメー ミーミンメー
 ヒージントー ヒージントー イーユヌミー イーユヌミー
 大国の弥勒様がわが島においでになる どうぞずっといらして下さい。島の主様
 道々歌を唄って遊びましょう 弥勒様の幸せな世がもうすぐそこですよ
 弥勒様がいらした昔が今戻ってきたよ 御万人が混じり遊ぶ嬉しさよ♪
*沖縄にはミルクさま(弥勒菩薩)を信仰する弥勒信仰がある。
弥勒を沖縄ではミルクと言い、日々礼拝し食べ物をお供えする。
沖縄の信仰は森や泉、川、島など自然を聖域として崇拝するほか、先祖崇拝、ミルク信仰がある。
沖縄では今でも日常的に「みるく」という言葉は使われていて、詩にも歌にもよく出てくる。
(この日の配布資料には、2015年6月23日、70年目の慰霊の日に与勝高校3年生の知念捷さんが詠んだ平和の詩「みるく世(ゆ)がやゆら」がありました。今は平和でしょうか、と問いかける詩です)

●「いくさ世(ゆ)」のうた
ここまでが伝統的な沖縄の行事や信仰、暮らしなどを伝える歌で、弥勒様が守ってくださる世界「みるく世(ゆ)」の歌だったが、この後はみるく世の対極にある「いくさ世(ゆ)」の歌。

6.艦砲ぬ食うぇーぬくさぁ 【沖縄戦の戦世、戦争の悲惨とその後を歌う】
*アメリカ統治の頃に作られた歌。沖縄戦では県民の4人に一人が亡くなった。何千発もの艦砲射撃で亡くなった人も多い。
この歌を作った比嘉恒敏さんも戦争で家族5人を失い、比嘉さん自身はこの歌を作った2年後に、飲酒運転の米兵の車に追突されて亡くなった。
比嘉さんの4人の娘(でいご娘)が歌い継いでいる。
「艦砲ぬ食うぇーぬくさぁ」は、艦砲射撃に食べ残された(生き残った)という意味。

7.屋嘉節 【戦後の捕虜収容所の様子を歌う】
♪なつかしい愛しい沖縄が 戦場になり 御万人の人々は涙にくれる
勝ち戦を願って 恩納山に登り 御万人と共に 戦凌んだ
無残なり石川村 茅葺の長屋 私は屋嘉村の 砂を枕に眠る
心勇む 4本入り煙草 寂しさの月日が流れてゆく♪
*沖縄各地に収容所が作られ、兵隊ばかりでなく市民(女子供)も収容所に入れられた。
屋嘉村の収容所は兵隊たちの捕虜収容所で、床もない茅葺の長屋で、砂地の上で日々を過ごした。「砂を枕に眠る」は文字通り、砂の上に寝起きしたことを歌っている。
4本入りの煙草は米軍からの支給品。
米軍基地のキャンプシュワブも元は捕虜収容所で、収容所で亡くなった人たちの遺骨もそのままあるが、その後米軍基地になってしまったために掘り出せずにいる。
戦争が終わって直ぐに人々は皆収容所に入れられ、その間に人家も畑も潰して基地が作られていった。

8.ヒヤミカチ節 【立ち上がろうのうた】
♪名に立ちゆる沖縄 宝島でむぬ 心うち合わち 御立ちみそり 御立ちみそり
ヒヤ ヒヤ ヒヤヒヤヒヤ ヒヤミカチウキリ ヒヤミカチウキリ
稲粟ぬなうり みるく世の印 心うち合わち 気張いみそり 気張いみそり
楽や鳴いしゅらさ花や咲ち美らさ 我したくぬ沖縄 世界に知らさ世界に知らさ
我んや虎でむぬ羽ちきてぃたぼり 波路パシフィック渡てぃなびら渡てぃなびら
七転び転でぃヒヤミカチ起きり 我したこの沖縄 世界に知らさ 世界に知らさ♪
*沖縄では戦争前から、ハワイや南米への海外移住が盛んだった。
ハワイへ移住していた人が戦後沖縄に戻って惨状を目にし、みんな立ち上がろうよ、これからも頑張って生きて行こうよと励まし呼びかけた歌。
一昨年の県知事選の時に翁長さんの選挙カーでは、この歌を流していた。
道子さんも翁長さんの選挙活動を共に闘いたくて沖縄に住民票を移したが、選挙期間中は町中にヒヤミカ節が鳴り響いていたそうです。

9.一坪たりとも渡すまい 【1960年代アメリカ統治(アメリカ世(ゆ)時代の歌】
♪東シナ海 前に見て わしらが生きた土地がある
この土地こそは わしらが命 祖先ゆずりの宝物
われらはもはや だまされぬ 老いた堅き手のひらは
野良の仕事の傷のあと 一坪たりとも 渡すまい
黒い殺人機が今日も ベトナムの友を撃ちに行く
世界を結ぶこの空を 再び戦で汚すまい♪
*ベトナム戦争中の1966年に米軍は、天願桟橋強化のために昆布地区の土地接収計画を立てた。
昆布地区の地主たちは闘争小屋を建てて阻止行動を続けたが、これは、その闘争小屋で作られ歌い継がれた歌。
そして米軍は、’71年に計画を断念した。
闘争小屋に男性が居ると米軍との戦いで血を流す事態も起きそうになるので、多くは女性たちが闘争小屋にいたという。
闘争小屋に張り付いていると畑も荒れてしまうが、支援の人たちが畑の手入れをしたりしながら、闘争を続けた。
’60年代のこの時期、ヤマトが高度経済成長の時代、沖縄は米軍統治で人権もなく、あんなにひどい戦でもう戦争は嫌だと思っていた沖縄の人の土地が基地にされ、ベトナムの人たちを殺しに行くB52戦闘機が、そこから発進して行った。
ベトナムの人たちは、沖縄を悪魔の島と呼んだ。
(この日は、この曲以外はすべてCDを音源にして流しましたが、これはCDが無かったので、道子さんが歌いました。若かりし日の私も、デモでよく歌った歌です。道子さんに唱和して歌っていました。「沖縄を感じる会」からもう一週間も経っていますが、今も私の頭の中では「一坪たりとも渡すまい」が、エンドレステープのように回っています)

10.黄金ぬ花【広大な土地を基地にされ、働く場のない若者逹の多くはヤマトへ】
♪コガネの花が咲くという噂で夢を描いたの 家族を故郷、故郷に
置いて泣き泣き 出てきたの 素朴で純情な人たちよ きれいな目をした人たちよ
黄金でその目を汚さないで 黄金の花は いつか散る♪
*道子さんは高校時代には友人たちと制服で復帰運動のデモに加わったそうですが、その頃の友人たちの多くも沖縄には働き場所がなくて、本土に就職口を求めて出て行った人が多くいるそうです。
そうして出て行った若者たちを案じて、歌われた歌。
道子さんは言いました。「この歌を聞くたびに、豊かな自然に育まれた沖縄の文化や、貿易で栄えた琉球王朝を返して欲しい。経済よりも大事なものがあるだろうといつも思う」

11.おしえてよ亀次郎 【不屈の政治家、瀬長亀次郎】
*戦後のアメリカ統治時代、沖縄の民衆には人権はなかった。
レイプされて殺される女性や、米兵の車に轢き殺されることなどは日常茶飯時のようにあった。小学校に米軍機が墜落して多くの児童が死んだこともあったが、その時代に瀬長亀次郎さんという政治家が、人権を守るために闘った。彼は出入国管理令違反で懲役2年の刑を受け投獄もされたが、演説の非常に巧みな人で、りんご箱の上に立って話すのを聞くために、彼の行く先々で大勢の人が集まった。
保守革新を問わず人々に愛された不屈の政治家で、現在も那覇に瀬長亀次郎を記念する「不屈館」がある。沖縄に行ったら、是非訪ねてみて欲しい。
復帰後、沖縄の西海岸は大手企業がこぞって買い、ホテルやリゾート施設などを造り、その工事によって土砂が海に流れ込んだ。
自然保護条例があっても誰もそれを守ろうとせず、沖縄の土質は粒子の非常に細かい赤土なので海の水は真っ赤になりオニヒトデが大量発生してサンゴをダメにしてしまう。
「こんな状況をどうすればいいのか、亀次郎さん、あなたならどうする?教えてください」という歌。
リゾート地は、昇る朝日ではなく夕日を眺められるところが選ばれ、そのために西海岸は今でもリゾートホテルなどが造られている。
基地ばかりかこのようにヤマトの企業によっても、沖縄の環境は破壊されている。
「亀次郎さん、あなたならどうする?」

12.我達が生まり島 【故郷の宮古島の言葉で歌う】(歌:下地勇)
*この歌を作り、歌っている下地勇さんは言います。
「この歌は永遠の僕の代表曲です。宮古島久松の、日常に転がっている情景を集めて、親父に聴いてもらおう。そして笑わせてやろうという気持ちで書いた曲です。初めて親父の前で歌ったら、笑いながら涙ぐんでいました。生まれて初めて自作の曲を録音した10分のカセットテープはA面が「サバぬにゃーん」でB面がこの曲でした。僕は歌が歌えなくなるまで、この歌を歌い続けるでしょう」
下地さんは那覇を根拠に活動しているが、この曲は故郷の宮古島の言葉だけで歌っている。
宮古島の言葉は沖縄本島と違うので、道子さんが聞いても全く判らないという。
自分の住んでいた愛しい宮古の久松の、ありふれた日常、情景を宮古の言葉で歌っている。
彼は都会で暮らしていたのだが、ある事件をきっかけに島に帰った。
1995年、11歳の少女が3人の米兵にレイプされ、10万人が抗議集会に集まったことが報道され、そのニュースを知って帰ってきた。
この事件を契機にふるさと沖縄に帰ったのは、彼だけではない。
都会に出て働いていた多くのウチナンチュウが、愛しい故郷をこれ以上いたぶらせたくないと言う思いから、沖縄へ帰ったという。
そして彼は、宮古の言葉で歌い始めた。
生まれ育った故郷、宮古の暮らしや文化をしっかり伝えたいと言う思いから宮古の言葉で歌っているのだろう。
その宮古島が今、自衛隊ミサイル部隊配備基地として狙われている。
いつまで続くのか、この際限のない苦しみ。

13.カーミヌクー DUTY FREE SHOP 【ラップ青年たちの魂の叫び】(歌:地花たつみ他)
*タイトルの「カーミヌクー」は亀甲墓という意味。
ーーリズムとイズムの狭間で歪む かき回される魂の雫
  気づくと海には夕日が沈む また一つ言葉を失う
  リズムとイズムの狭間で歪む かき回される魂の雫
  海の白砂知ってか知らずか また一つ言葉を失う
ーー失ったら元ねー戻ららん言葉 深く深く掘れボキャブラ
  はっしゃやーや誰ーやが? 晴れた日には心が暴れだす
  マイク持ちまして心を解き放つ 沖縄発!待つのじゃなく踊らす
  年がら年中ココナッツ ここは夏
  ヤマトナイズされていく うちなんちゅ「らしさ」についてもう一度問いかけ
  る
ーー沖縄、生まれ育ち愛してやまない島 やしがまた年々自然や文化が
  失われつつある今 無くしていいばー? 我した島言葉
  (中略)
ーー言葉を奪い自我を封ず同化政策 大和ナショナリズム振りかざしたような
  生活
  やしが耳を澄ませ 島の唄は鳴り止まぬ 脈々と根を張り伸びるlike a ガジュ
  マル
  始まりルーツ探しの旅 くれー自分探しの旅 踏み出す足 海ぬ風や澄み渡り
  高い思想 深い思想 深入りしそうな黄金 肝がなさオジーオバーの立ち姿
*沖縄のお墓は亀甲墓といって大きな墓で、墓の前が大きな前庭のようになっている。清明祭にはご先祖様(亀甲墓)の前に一族が集まって、近況をご先祖様や集まった親族に報告し、お供えしたご馳走を一緒に食べてご先祖様への感謝の思いを伝承している。
亀甲墓をタイトルにしたこの唄は、地花たつみ君が20歳の時に作った記念アルバムで、沖縄の現状をラップで語っている。
この唄の中にもミルク世(ゆ)という言葉が入っている。
作者は今35歳なので15年前の唄だが、15年前には普通に歌にあるようなことを言えていたが、今はネトウヨの跋扈で自由にものが言えなくなってきている。
彼のところにも、いろいろな攻撃が押し寄せているという。
現在彼は音楽活動を通して、辺野古での村おこしの活動を支援している。
辺野古は小さな漁村だが、国は住民の土地や漁業権を買い取りお金を落として、住民は辺野古移設承認というような形をとる。
しかし辺野古の人たちは、それを喜んでいるわけではない。むしろ県知事はじめ多くの同胞が沖縄の誇りのために頑張っているのに、自分たちはお金をもらってしまっていることを苦しく辛く思っている。
たつみ君は村の青年たちの音楽のお祭りなどに参加して、村の人たちの気持ちを盛り立ててあげたいと、村おこしを手伝っている。

●巡り巡って繋がる縁
8886の琉歌をラップで歌えないかと考えていた道子さんは、このラップ青年を紹介されて会いました。
会った途端に彼は、「僕の母親は地花玲子です」と言い、彼が子供の頃に読んでいた絵本はみんな、道子さんの児童書店「夢空間」で買ったと母から聞かされたと言いました。
地花玲子さんは道子さんの友人であり、道子さんに白保への導きをしてくれた人です。
それを聞いた道子さんは驚くとともに、「運命的な出会い」を感じたそうです。
那覇にあった道子さんの児童書店「夢空間」は、白保の空港建設反対運動の拠点になっていた場所です。
ウチナンチュばかりでなくヤマトや海外の支援者たちも、そこに集まりました。
もちろん、集まった人の中には、地花玲子さんもいました。
道子さんは長野県から来ていた支援者の野池さんのプロポーズを受けて、長野のリンゴ農家に嫁いだのです。
その道子さんは2年前に住民票を沖縄に移し、数ヶ月毎に沖縄と長野の往復する生活を送っています。
沖縄にいる時には辺野古や高江で座り込みや仲間づくりをし、長野では各地で「沖縄を感じる会」を開いているのです。
そして沖縄では、かつての「夢空間」のようなみんなが集まれる拠点を作ろうと、今動いているところです。
「沖縄を感じる会」の第1回のテーマは、「歴史と文化」でした。
第2回のテーマに、「島唄でつなぐ沖縄の心」を考えた時に、琉歌をラップで歌えないかと思いつきラップの歌い手を紹介されて会ったのが、道子さんがウチナンチュとしてのアイデンティティを確立するきっかけを作ってくれた友人の息子さんだったというわけです。
道子さんが「運命的な出会い」を感じたというのも、宜なるかなと思います。

★野池道子さんの「沖縄を感じる会 第2弾」は、参加者は30名に欠けましたが、半数以上の方がアンケートを書いてくださいました。
どなたの回答もとても好評で、島唄を通して沖縄の心が皆さんに通じたようで、嬉しいことでした。
参加者の中には小学2年生の女の子もいましたが、彼女もアンケートを寄せてくれました。
アンケートの問いの一つに「あなたが沖縄を考える時には、どんなことが頭に浮かびますか?」があるのですが、彼女はそれに絵入りで答えてくれました。
「ひこうきがていくうひこうでとんでくる所」と。
彼女の家は羽田空港に近く、今羽田発着便の増便で住宅地の上空近くの飛行が問題になっていますから、自分の身に寄せて沖縄を感じたのでしょう。
でも9歳の少女が道子さんの話からこんな風に感じ取っていることに、私は大きな感銘を受けました。
次回の日程は未定ですが、次は大地と海の生き物たちを通しての「沖縄を感じる会」です。
詳細が決まりましたら、またお知らせいたします。

◎報告②
沖縄の浅井さんからの現地報告が届いていました。
1月12日に届いていたのに、お伝えが遅くなりました。
添付しますが開けない方は、下記でご覧ください。
http://o-emu.net/tarkuratar/


2016年1月25日号「お詫び」

◎その⑴
前便で昨日24日午前10:45〜のNHK番組に、高橋宮子さんが出ることをお伝えしましたが、錦織さんのテニス中継になって、宮ちゃんの放送は延期になりました。
昨日、NHKから宮ちゃんに電話があって、「今日は高橋さんではなく錦織さんの番組を流すことになりました。高橋さんに出ていただいた分は、また放送日が決まったらお知らせします」という電話だったそうです。
宮ちゃんから聞いて、私は憤慨しています。
テニス愛好者には、錦織選手の活躍は見逃せないでしょう。
それは理解できます。
でもこうして福島や被災者は、どこかへ押し出されていってしまう。
きちんと決まった枠での放送ではなく、局の都合に合わせての枠外での放送にしていく姿勢は、福島を、被災者をないがしろにしていると思えてなりません。
というわけで、宮ちゃんの放送は流れませんでした。
昨日10:45にNHKにチャンネルを合わせてくださった方に、お詫びします。

◎その⑵
やはり前便で南相馬からの帰路、八木沢峠の雪道が心配なので仙台経由で帰ったことをお伝えしたのですが、「八木沢峠」を「柳沢峠」と記していました。
変換間違いです。
お詫びいたします。                         

いちえ

関連:

2016年1月19日号「南相馬1月18日」

昨夜の天気予報では、今日は大雪と出ていたので、目覚めて外を見ると雪ではなく雨でした。
地面も全く雪はなくほっとしましたが、雨脚は繁く、風も強く吹いていました。
今日は鹿島の仮設住宅を訪ね、ぶさこちゃんやストラップのお猿さんなどのカンパ金を届けてから、帰宅するつもりでした。
でも天気が心配でした。
南相馬は雨でも、八木沢峠や飯舘村は雪でしょう。
福島への道中は峠を越えますから、バスが運行するかが心配でしたし、福島へ出ずに仙台へ出るなら道は心配ないけれど、新幹線の運行状況が心配でした。
仮設住宅を訪ねても部屋に上がらずに、お金だけ渡して原町駅に引き返すつもりで出かけました。
でも、集会所を訪ねてみれば皆さんが待っていてくださって、また他の人を呼びに行ってくれたりもして、結局は上がりこんでお茶を飲み、ハルイさんのつけた白菜漬けをお茶受けに、お喋りに花が咲いたのでした。

◎白鳥の道
六角から鹿島の仮設住宅へ行くのに、トシさんに送ってもらいました。
トシさんは六角支援隊の助っ人です。
時々、萱浜のトシさんの仕事場を訪ねたり、トシさんが友達を紹介してくれたり、その友達との飲み会に誘われて混ぜてもらったりもしています。
また私の友人と一緒に、トシさんに被災地ツァーを頼んだこともありました。
前の冬に、仙台の友人と浪江の請戸まで連れて行ってもらったことがありました。
まだ、許可証がなくても浪江に入れた頃のことです。
雫から江井、小浜と海辺には白鳥の群れ、辺りの水をかぶった田んぼにも白鳥が群れていました。
トシさんにそれを言うとトシさんも「ねぇ、あれはすごい群れだったよね」と。
私は南相馬に通うようになってから見た白鳥の群れですが、トシさんはずっと子供の頃から見ていたと言いました。
その声を聞いて育ったと言いました。
でも今は、白鳥の群れは、どこにも居ません。
白鳥の群れを見た辺りはフレコンバックが積み重ねられている仮々置き場になっています。
白鳥はどこか違い地へ、冬の居場所を定めたのでしょう。
原発事故は人の暮らしばかりでなく、他のいのちのあり方も変えてしまいました。

◎ハルイさん
小高の浦尻に家がありました。
3月11日、浦尻の公民館の2階のベランダで津波から逃げてきた他の人たちと一緒に、自分たちの集落が流されていく様を見ていました。
そこでハルイさんが目にしたのは、それだけではありませんでした。
消防隊員の孫が、歩けないお年寄りを背負って逃げる途中で波に呑まれていく姿を、ただただ涙を流しながら見ているしかなかったのです。
これは、ここで私がぶさこちゃんの講習会をした時に聞かせてもらったことでした。
この仮設住宅で津波で身内を亡くした人は、ハルイさんとヨシ子さんの2人です。
家を流された人は他にもたくさんいますが、ヨシ子さんは「ハルイさんとは、何にも言わなくても気持ちは通じるんだ。やっぱり家族に死なれた人でないと、この気持ちはわからないからね。だから他の人には家族が死んだことは、話さないんだ」と、その時に言っていました。
仮設住宅での月日を重ねるうちに、悲しみは決して消えないけれど、悲しみを抱いて互いに話せるようになり、今はヨシ子さんが集会所にいればみんなが集まってくるし、ハルイさんがみんなを笑わせているのです。
この日も、ハルイさんの話にみんなお腹を抱えて笑い転げたのでした。

◎病院通い
津田さんは、いつも両手をコメカミに当てていますが、頭痛が取れないと言うのです。
以前に聞いた時には医者に行ったら肩こりからではないかと言われ、マサージに通ったら揉み返しで却って辛くなり、すると今度は精神科に行くように言われ、そこで処方された薬を飲んでいると言っていました。
今日もまた自分でコメカミを揉んでいる津田さんに、「まだ頭が痛いの?」と聞くと「この間医者に行って診てもらったら、血圧が高いからじゃないかって言われて
血圧の薬を飲んでいる。それで頭が痛いのは消えてるけど、なんかフラフラするのよ。目からも来てるらしくて、メガネを作ったんだ。だけど、私は目は悪くないんだよ。だって見えるんだもの。先生にそう言ったんだけど、検査したらメガネかけたほうがいいって言われて、作ったんだ。遠くを見るのと近くを見るのと一つのレンズになったメガネね」
遠近両用メガネを作ったという津田さんですが、遠近両用メガネは私も以前使ったことがありましたが、使い慣れるまでが大変で、私は結局使いこなせませんでした。
顔や眼球の位置を使いたいレンズ側、上のほうとか下のほうとかに合わせないと却って見えにくくなってしまうのです。
私がそう言うと津田さんは、「そう。私も慣れないし、かけなくても見えてるから使わないんだけど、メガネを首にかけてると安心するんだよね。今日は首にかけてくるのを忘れちゃったから、それでなんか頭が痛いんだ。メガネがあると安心できるからかもしれないけどね」
津田さんはまだ50代なのですが、介護が必要な父親がいます。
お父さんは胃がんの手術をしているので、食事の世話が大変です。
お母さんは亡くなっていますから津田さんがお父さんの食事を作りますが、もともと料理が得意ではなかった津田さんですから、それがきっと大きな負担になって体調に出ているのではないかと思います。

誰もが何かしら体調不良を抱えています。
今年度中は医療費が無料(入院の時の食費や個室の場合の部屋代は個人負担)になっていますからいいのですが、仮設住宅を出てからが大変です。
歳を重ねれば医者にかかる頻度は増えていくでしょうから、高齢被災者の生活はこれからもっと大変になっていくと思います。

◎作業員で増えている人口
南相馬には今、作業員が7000人も入っているそうです。
建設や除染など様々な作業です。
私の定宿のビジネスホテル六角も作業員の人たちが宿泊しているので、時には予約が取れないこともあります。
市内には新たに作業員宿舎がどんどん建ってきていますし、宿泊者の激増を見越してホテルも建てられてきています。
作業員宿舎はプレハブが多いですが、ホテルはプレハブというわけにはいきません。
他人事ながら心配なのは、大きなホテルを建てても様々な工事などが一段落すれば宿泊客は、野馬追いの時期だけになるのではないかと思うのです。
また、コンビニも増えていますが東京などと比べても給料はずっと高いのに、それでもなかなか働き手が集まらないそうです。
作業員もいろいろな人がいますから、治安も悪くなっているのは事実のようです。
とはいえ、実際にはその人たちがいなければ建設も除染も進まないし、また悪い人はほんの一部で大多数の人たちは被災地のためにとしっかり仕事をしてくれているのでしょうが、地元の人にとっては、不安も大きいようです。

◎窓外の景色
16日仙台までの新幹線から見た風景は、雪のない山林や畑でした。
2011年の夏から福島に通うようになって、この季節に雪がないことなどなかったのです。
でも、帰りには南相馬から新地を過ぎて山元町に入る頃から雨は雪になり仙台も雪道、仙台からの新幹線では雪景色でした。
「きれいだなぁ」と思い眺めていました。
こんな風に素直に「きれいだ」と思えたことは、原発事故以来初めてのことでした。
雪景色を見ても、怖かったです。あの下に放射能が積もっている、と思えていて。

福島に通う時に窓の外を眺めながら、私はいつも想っていました。
ずっとずっと昔の、そこに住むのは狩猟採集で暮らしていた人たちの頃のことを。
きっと今見えている小高い丘や川や、それらの地形はその頃も今と変わらずにあって、もしかすると樹木の種類は今とは違っていたかもしれないし、田畑は原野だっただろうけれど、地形はさほど変わっていないだろうと思うのです。
窓の外を眺めながら、私はいつも、そんな昔の姿を想うのでした。
帰りの雪景色にまたそんな想いを強くしました。
新幹線に少し遅れは出ていましたがちょうど宇都宮にかかる頃、西の空は残照で
茜色が低く帯に広がり、上空は納戸鼠の色。
私たちの暮らしは、これからどうなっていくのだろう?
そんなことを考えながら帰りました。               

いちえ






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