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2015年11月7日号「10月24日集会報告①」

10月24日(土)、白馬村の「深山の雪」で催された集会の報告です。
発言をそのまま文字起こししましたので、とても長くなりました。

いちえ

大留隆雄さんの話

10月24日(土)、信州白馬村の「深山の雪」で、【原発事故の時代を生き抜く〜深山の雪で、膝を交えて話そう〜】が開かれました。
主催は「深山の雪」と『たぁくらたぁ』編集室、司会は『たぁくらたぁ』編集長の野池元基さんでした。

メインゲストは、南相馬で私がいつもお世話になっているビジネスホテル六角の大留隆雄さんでした。
会は3部構成で1部「大留さんの話を聞こう」、2部関口鉄男さん(環境科学者)と私も加わって、3人でのトーク、夕食を挟んで3部は、のんびり話をする交流会でした。
この日に大留さんが大学生たちに話したことをより多くの方たちにも知っていただきたくて、当日の大留さんの話をそのままここに記します。

︎司会の野池さんからの、大留隆雄さんの紹介
大留さんは南相馬のビジネスホテル六角をやっていますが、原発事故の後20キロ圏内は警戒区域ということで、大留さんも一時は避難しましたがすぐに戻って、現地ボランティア「六角支援隊」として被災者への支援活動を続けてきました。
現在まだ福島がこうした状況下ですから、本来なら福島をテーマに六角支援隊がどんな活動をしてきたかを話していただくのですが、今日はそのことも話していただきますが、それより以前の暮らしや活動、生地の北海道から出てきてから六角支援隊の活動に繋がるまでを話していただきます。
現在の場所でそば屋からビジネスホテルを始めて、産業廃棄物処理場建設反対運動に関わり、そういうネットワークがあって原発事故後の支援活動になっていきました。

◎大留隆雄さんの話
*冬は毎晩オーロラが見えた
僕は昭和13年(1938年)北海道の帯広、大雪山の麓の糠平温泉の近くで生まれ、23歳までそこに居ました。
いま77歳ですが、生まれた頃というか子どもの頃のことを話すと、その頃の冬は雪が2〜3mも積もったし、気温も零下30度近くになります。
雪が凍って、外の五右衛門風呂から出て家の中に入る時にたった10mばかり歩く間に、手ぬぐいがカチンカチンに凍ってしまうほどでした。
家も粗末で、窓なんか見なくても星が見えました。
木の板の壁でしたから、木の節が取れちゃってその節穴から、夜は星が見えました。
節穴から雪が吹き込んでくるので、冬はその節穴を棒とかボロ布で塞いで、そうやって暮らしていました。
11月頃になると、夜の11時頃には北の空にはふわぁ〜っと綺麗にオーロラも出てね、天気が良ければほとんど毎晩見えましたよ。
今はあんまり見えないみたいですね。
どこか北欧の方に行かないとオーロラは見えないなんて言われていますが、僕は毎晩のように見ていました。

*トウモロコシの皮で編んだ靴で通学
その頃、子供の頃は学校に行くにも、靴はなかったです。
ゴム靴なんか買ってもらえるのはある程度お金がある家で、僕らは親がトウモロコシの皮で編んでくれた草履みたいな靴を履いて行ったものです。
4月は足の下は雪が固まって堅い道だけど、その下は雪解けでゴォっと水が流れている音がするような道です。
そういうところを学校まで歩いて行くのですけど、だいたい片道2キロぐらいです。
2キロも歩いていくと、トウモロコシの靴を履いていくと、帰りに履けなくなっちゃうのです。
学校に着くと、足はベシャベシャで冷たいからストーブにかざして温まって、靴はそっちの方に置いておくんです。
そうすると靴っていうか草履は、カチンカチンに硬くなってしまって、帰りには履けないのです。
帰りはもっと雪が溶けてグシャグシャの道になっているから、帰りにそれを履いて帰りたいから、行きは草履を履かないで裸足で行くのです。
そうして、帰りにそれを履いて帰ってくるのです。
1年生からそういう状態でしたが、それを苦しいとも辛いともあんまり思わなかったです。
そんなものだと思っていましたから。
我々が生まれた頃の状況は、そういうところから始まっているのです。

*「おしん」より辛かった?
だから小学校の1年生に上がる頃には既に、牛とか馬とか綿羊とか山羊などに餌や水をやって、それから学校へ行きました。
僕は、きょうだい8人の上から2番目で上は姉で長男だったですから、家の仕事はほんとによくやりました。
だいたい上から3番目くらいまでは、よく働くのです。
すぐそばに、そうですね20メートルくらいのところに小川があって、そこからバケツに水を汲んで、動物に与える。
子どもの頃だから天秤棒かついで川から坂道上ってくると、チャポチャポ水がこぼれるじゃない。
こぼれた水がだんだん凍って滑って歩けなくなるから、凍った道を鉞でカチャカチャやって傷つけて、滑らないようにして、川から水を運びました。
馬の場合は水をやらなくても、そこら辺の雪をバケツに突っ込んでおけば、雪を舐めるから大丈夫です。
ところが牛は乳を絞るから、ある程度の水をやらないと乳が出ないんですよ。
牛乳が出なくなると、親はまた水をやらなかったんじゃないかって判って、怒られるんですよ。
だから一生懸命水を汲んでやったんですけどね。
だけど牛の顔って、こんなに大きいでしょう?
バケツに顔突っ込んで、ズズズ〜ッてやったら、せっかく汲んできた水が一回で空っぽになっちゃうのです。
だから何回も川まで往復して水を汲んでね、飲ませるのです。
牛は3頭か4頭しかいなかったけれど、ずっとそんなふうにして生活してきました。
「おしん」ってドラマがあったでしょう?(参加者の大学生たちはキョトンとした顔で、誰もこのドラマを知りませんでした)
え?「おしん」知らない?
ああ、「おしん」のドラマみんな知らないのか。
「おしん」を見た人は判るんですけど、(おしんは)人に預けられたり、苦労して大変だったっていうドラマが世界中に流行って、いま東南アジアなんかどこ行っても誰でも「おしん」を知っています。
日本のドラマっていうと、「おしん」って有名です。
「おしん」と「貞子」は、みんな知っていますよ。(参加者から笑いが漏れました)
あ、「貞子」って判りますか?(大学生たち、みんな知っていて頷きました)
(注:大留さんはちょくちょく、家族にも言わずにふらっと東南アジアへの旅に出かけています。この旅話がまた、とても興味ぶかいのですが、この日も後でほんの少しだけ旅の話が出ました)
そんな子供時代でしたから「おしん」の辛さなんて、ぜんぜんたいしたことじゃない、僕らの方がずっと辛かったと思っています。
だけど今考えると、確かに辛かっただろうなと思うだけで、その頃は辛いなんて思ったことなかったです。
ですから今の世代に生まれて、なんでもある、美味いものでもなんでもあって、どれが美味いんだか判らないくらい美味いものがあるわけだから、そういうところに生まれてきたら、それが土台になっているわけね、その時代に生まれた人のネ。
我々はずっとその下で、木で言ったら根っこの下の方の状態から這い上がってきているわけです。
ですから辛さっていうと、何が辛いんだかっていうと、自分の家族が流されたとか、死んだとかいう、そういう辛さは辛いと思うけれど、仕事が辛いとかは思ったことがないですね。
精神的な辛さっていうのは誰でも同じだと思うけれど、肉体的な辛さっていうのは今まで思ったことがないです。
鈍感なのかもしれないけど。


2015年11月5日号「戦争への道は歩かない!」

◎11月3日
前日の氷雨に震えた天気が嘘のように、よく晴れて風もなく穏やかな3日でした。
この日は全国で、「アベ政治を許さない」抗議行動が行われました。
みなさんもきっとそれぞれの場で、金子兜太さんの書を掲げられたことと思います。

提案者の澤地久枝さんは長野県の阿智村で、講演会参加者達と共に立たれました。
この日、阿智村の「満蒙開拓平和記念館」と「飯田日中友好協会」主催で、澤地さんの講演会が行われたのでした。
500人収容の会場は参加者で埋まり、椅子の補充もされたそうです。
私はこの日は国会前に居て行けませんでしたが、長野の友人が教えてくれました。
澤地さんは手に「たぁくらたぁ」最新号を持って壇上に立たれ、この雑誌を参加者の皆さんに紹介されたそうです。
「たぁくらたぁ」に外から関わる一人として、嬉しいことでした。

国会前にも多くの人が集まりましたが、途中で桜田門方面から右翼のがなり声が大音響で響いてきました。
私は確認できませんでしたが、右翼の街宣車はなんと17台もいたそうです。
澤地さんの提案は、全国で同じ日の同じ時刻に、一斉に「アベ政治を許さない」のスローガンを掲げようという提案ですが、その心は「主権者の私たち一人ひとりが起つ」ということだと思います。
畑の真ん中でも、あるいは自宅の門前でも、自身の足で立てなくても窓にプラカードを掲げるなどで意思表示をするなど、それぞれのやり方で起つことを提案されたのだと思います。
だからこそ、思っていても行動できずにいた人たちが、起ち上がったのでしょう。
澤地さんは、「私は軍国少女だった」と戦争中のご自身を振り返り、その体験から戦後、一貫して「昭和」という時代を問うてきました。
たくさんのご著書がありますが、その中の一冊に『私のかかげる小さな旗』というエッセイがあります。
北海道の家に置いてあるのですが、もう一度読み返そうと思います。

◎あの頃と今、なんと似ていることだろう!
先月末に IZU PHOTO MUSEUM (静岡県長泉町東野)で開催中の『戦争と平和 伝えたかった日本』という展覧会を見てきました。
これは日本の戦中・戦後の〈報道写真〉をテーマに企画されたものです。
ドイツの「ルポルタージュ・フォト」を移入して始まった日本の〈報道写真〉は、モダニズムの先鋭として発展し、日本文化を紹介するために用いられました。
戦争の激化に伴ってプロパガンダに変容し、戦後の占領期・冷戦期にも一定の役割を果たしてきました。
展示では「日本文化の紹介」として、後発の帝国主義国として国際舞台に登場した日本が独自の文化と近代性を持つ国であることを対外的にアピールしていった写真集やグラフ雑誌が紹介されていました。
満州事変と満州国制定、国際連盟脱退などで国際的に孤立していった日本は、国威掲揚の「プロパガンダ」に邁進し、報道写真の担い手たちもその国策に乗っていた様子が、当時のグラフ雑誌やポスターなどで展示されていました。
「敗戦と占領期」の展示では、敗戦を迎えて、それまで国から仕事を請け負っていたカメラマンたちは仕事を失い焼け残った機材を手に、占領下日本の民主制を謳い復興日本への観光誘致を図る写真を製作しました。
「冷戦期の宣伝戦」では、報道写真も一定の役割を果たしています。

私が驚いたのは、戦中の「プロパガンダ」の展示で見た「写真週報」の表紙です。
このグラフ雑誌は1938年2月〜1945年7月まで発行されていた雑誌です。
表紙には写真とともに、時流にあった短い文章が載っています。
●1944年6月14日 田植え風景の写真とともに載った文章
「戦の基だ この早苗
 そだて みのれと
 念じて植える
 秋に見せるぞ 大戦果」
この年8月には学校単位での学童疎開が始まっています。
戦況はそれだけ悪化してきているのに、こうやって煽り立てているのです。
●1944年8月9日 人々が笑顔で並んで写っている写真とともに載った文章
「戦況の取り越し苦労や 口先だけの心配
 これも傍観だ
 やらう、勝つために何でもやらう
 勝機は自分の手で作るのだ」
福島の原発事故は「アンダー コントロール」と言った口調となんと似ていることでしょう!
●1944年10月29日 零戦飛行機と隊員の写真とともに載った文章
「神州の正気
 レイテに炸裂す
 ああ 陸軍特別攻撃隊
 皇国 断じて揺るがず」
10月17日、満17歳以上を兵役に編入。同じく20日、神風特別攻撃隊の出動が始まる。そしてレイテ沖海戦で連合艦隊の主力を失ったのが24日です。
この月の29日に発行された雑誌の表紙の文言を読んで、背筋が寒くなりました。

今の日本のマスメディアの状況は、なんとこの頃と似ていることでしょう!
アベ政治を許さない!断じて許さない!
そして、この政治に迎合するメディアに騙されまい!断じて騙されまい!と思ったのでした。
IZU PHOTO MUSEUM のこの展覧会は、来年の1月31日までやっています。
10:00〜16:30が開館時間で、入館は閉館の30分前まで、休館日は水曜日(休日の場合は翌日の木曜日)と年末年始。12月24日は開館しています。
JR東海道線「三島駅」下車、北口から無料シャトルバスが1時間に1本出ています。

◎この本をお勧めします
●『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』澤地久枝:著/集英社新書
●『なぜ戦争は伝わりやすく平和は伝わりにくいのか ピース・コミュニケーションという試み』 伊藤剛:著/光文社新書
●『日本占領史 1945−1952 東京・ワシントン・沖縄』福永文夫:著/中公新書
●『平和憲法の深層』古関彰一:著/ちくま新書
●『「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて』大沼保昭:著/聞き手:江川紹子/中公新書
●『私の「戦後70年談話」』岩波書店編集部:編/岩波書店
●『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』深谷敏雄:著/集英社    

いちえ

関連:

2015年10月31日号「先週は『深山の雪』へ」

◎信州、中条の伝統食「おぶっこ」
10月24日、白馬へ行きました。
前夜から長野入りしていた南相馬ビジネスホテル六角の大留隆雄さんと「たぁくらたぁ」の大塚さんに長野駅で待ち合わせ、大塚さんの車で、道の駅「中条」へ向かいました。
そこで、「たぁくらたぁ」の野池さん、戸崎さんと待ち合わせていたのです。
この日は白馬村の「深山の雪」で、【原発事故の時代を生き抜く〜深山の雪で膝を交えて話そう〜】という催しがあるからです。
みんなが揃って、ここで昼食。
中条の伝統食「おぶっこ」に心惹かれましたが、熱そうで食べると汗が出そうなので、私は蕎麦を食べました。
「おぶっこ」は、この辺りで産する小麦のユメセイキで作った平たく伸した麺を地元さんの野菜と一緒に味噌味で煮込んだものです。
ひもかわうどんよりももっと幅広く伸してあります。
南蛮のしょうゆ漬けが薬味についてきて、それを入れて食べるのです。
おぶっこを注文した野池さんと戸崎さんは、ふうふう言って食べていました。
山梨では「ほうとう」、盛岡は「ひっつみ」高松や所沢は「うどん」、それぞれの地の伝統食って、とても興味深いです。
大塚さんはそこから長野へ引き返しました。
この日長野で別の催しがあって、彼女はそちらへ参加するのです。
大留さんと私はここで野池さんの車に乗り換え、戸崎さんと4人で白馬へ向かいました。

◎集会の報告は次号から
上記したように10月24日(土)、信州白馬村の「深山の雪」で、【原発事故の時代を生き抜く〜深山の雪で、膝を交えて話そう〜】が開かれました。
メインゲストは、南相馬で私がいつもお世話になっているビジネスホテル六角の大留隆雄さんでした。
会は3部構成で1部「大留さんの話を聞こう」、2部関口鉄男さん(環境科学者)と私も加わって、3人でのトーク、夕食を挟んで3部は、のんびり話をする交流会でした。
主催は、「深山の雪」、「たぁくらたぁ」編集室です。
この催しの言い出しっぺは、私です。
南相馬へ行った時には、ほとんどいつもビジネスホテル六角に宿を取っています。
大留さんとは、原発事故後の暮らしのことだけではなくいろいろな話をしてきました。
大留さんの話を多くの人に、特に若い人達に聞いて欲しいと、思ってきました。
産業廃棄物処理場反対運動のことや原発事故後の支援活動のこともですが、大留さんのこれまでの人生での体験談など、お腹を抱えて笑いながら聞いていても、なおそこには心に留めておきたい大事なことがあるのを感じてきました。
私はときどきフラッと旅に出てしまう大留さんのことを、「寅さん」をもじって「ふうてんの留さん」などと呼ぶこともあるのですが、その「留さん」の話を車座で聞く会をやりたいと、「たぁくらたぁ」の野池さんに話したところ、この日の企画になったのでした。
さて、この日のことを「一枝通信」でお伝えしたいのですが、どのようにお伝えしようかと思いあぐねたまま、時間が経ちました。
大留さんの語り口をそのまま伝えたいという思いと、それでは長くなりすぎるので話の内容をまとめた形でお伝えしようかという思いとで、迷っていたのです。
冗長になりますが、やはりできるだけ語り口をそのままでお伝えしようと思います。
大熊町から避難した木村紀夫さんと大留さんが、こうしてここで出会うのも「一期一会」という思いがしてなりません。
そんなことから、私の言葉でではなく大留さんの語り口のままに残しておきたいと思うのです。
次号からの「一枝通信」に、大留さんの話、関口さんの話を載せていこうと思います。
少しお待ちください。

◎お知らせ①
11月3日午後1時きっかりに、「アベ政治を許さない」ポスターを掲げよう!
澤地久枝さんが提案して7月18日午後1時きっかりに、全国で一斉に金子兜太さん揮毫のポスターを掲げましたが、その再開です。
呼びかけチラシを添付します。
11月3日、澤地さんは阿智村「満蒙開拓平和記念館」で、ポスターを掲げます。
白馬からの帰路、長野のまいまい堂で小出裕章さんにお会いしました。
小出さんは松本でポスターを掲げられるそうです。
私は国会前に行きます。
どうぞ、皆さんもそれぞれの場で意思表示をお願いいたします。

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◎お知らせ②
「福島の声を聞こう!vol.17」は、11月11日(水)です。
お申し込みの受け付けは、始まっています。
ゲストスピーカーは、南相馬市議会議員の田中京子さんです。
皆様のご参加をお待ちしています。
vol17

いちえ


2015年10月23日号「南相馬10月21日」

21日昼過ぎのバスで福島駅に戻り、新幹線で帰京しました。
福島駅ホームで新幹線を待っていた時(17:00頃)、足元が揺れて「おや?地震?」と思う間に足元は大きくグラグラ揺れ、掲示板などがガタガタ揺れ始めました。
幸い数分で収まったのですが、送電が止まった影響で上下線とも運転見合わせのアナウンスが流れました。
でも30分ほどで送電も復旧し、無事帰り着きました。
ホームの上は構造上、揺れを激しく感じるのでしょうか、少し怖かったです。
また、いつも長距離移動には持ち歩く非常袋を持たずに出ていたので、油断せずに持って出るようにしなければと、思いました。

◎豪雨で流れたフレコンバック
先月の豪雨で、飯舘村の仮々置き場に積んであった除染廃棄物の入ったフレコンバッグが流れてしまったニュースは、ご記憶にあると思います。
それらの回収に関して聞いたことです。
作業員の方達が回収にあたりましたが、急な斜面の下の方に落ちていたものもあり、それらの回収に向かいはしたものの、斜面を自力で上るには身の危険があって、結局は自衛隊の救援を頼んだこともあったと言います。
また、回収したけれど袋が破れて中身はほとんど流出してしまったとか、流れたものは草木が入っていて軽かったために流されたとかも聞きました。
袋が破れて中身が流出したものは、それによって川の水が再度汚染されてだろうとも言われています。
一度除染しても風雨や降雪で樹木についていた汚染物が降り注いで、除染した場所をまた除染する必要が生じるなどから、「やっても無駄」と言う作業員もいるとも聞きました。
除染作業自体が被曝の影響を受ける危険な作業ですが、その上「甲斐のある仕事」と思えない…、改めて、”原発は決して在ってはならないもの”との思いを深くしました。

◎「その後は、どうするの?」
小池第3仮設住宅に入居していた人の中には、既に集団移転地に家を建てて移って行った人たちもいます。
移転順位は、津波で家が流された人たちが優先されていますから、小高に自宅が残っている人はまだ先になるようです。
寺内塚合の談話室で手芸に勤しむ、”社長”の菅野さんも”営業部長”の天野さんも、他の人たちも、6人全員が小高に自宅が残っている人たちです。
仮設住宅入居期限は29年まで伸びたような話も伝わってきていますが、「その後はどうするの?」と聞くと、「その時になったら考える」との答えが返ってきました。
「ケセラセラ」の意味合いよりも、諦めのため息交じりの答えです。
私が、宮ちゃんが入居している復興住宅の大町東団地は、六畳二間の他に、六畳のダイニングキッチン、風呂は体を伸ばして入れるバスタブで、トイレと洗面所は風呂場とは別になっていることや、収納場所がたくさんあって、部屋の中はバリアフリーであること、病院(大町病院)がすぐ隣だし、買い物にも便利な場所にあることを話しました。
そして、「みんなでそういうところを見学させて欲しいと、要望を出したらいい。あちこち見て回って、どんなところに住みたいか、要求を出して言ったらいいと思う」と伝えました。
息子たちは他所に避難し、避難先に家を建てた人もいますが、そこで一緒に暮らすことには躊躇しています。
やはり、住み慣れた小高に戻りたい気持ちは強いのです。
以前「一枝通信」で皆さんに、「シェアハウスを作ってください」の署名をお願いしたことがありましたが、実現はなかなか難しそうです。

◎「小高では、人に頼らず生きていた」
松本さんが言いました。
「小高はいいとこなんだよ。小高にいた時は私は、なんでも自分でできていた。病院に行くのも買い物や用事も、どこへ行くにもオートバイに乗って自分で行っていた。
小高では人に頼らないで、なんでもやっていたよ。今は何するにも、人に頼らなけりゃできなくなっちまった。病院に行くのも、息子に連れてってもらわなけりゃならなくなった」
小高の松本さんの家のあたりを、私は思い浮かべます。
松本さんがあそこから、街中の商店や病院、役場までオートバイに乗って自分で行けたという言葉に、私も頷けます。
「ここ(仮設住宅)から、病院に行く巡回バスがあるんじゃないの?」と尋ねると、井口さんが言いました。
「バスはあるけど、決まったとこしか行かないから、他の病院にかかってると、止まったところから自分で行かなきゃならない。元気に歩ければいいけれど、私ら押し車で行くのは怖くてねぇ。タクシーに乗ると千九百円くらいかかっちゃうからねぇ」
ここにいる人たちは天野さんを除けば、みんな農家だった人たちで、2ヶ月で7万円の国民年金での暮らしです。
仮設暮らしも、もう5年になりました。

◎毛布1枚、おにぎり1個を奪い合って
前の日にも一度行きましたが、この日ももう一度小池第3に行きました。
集会所にヨシ子さんがいるのを見て、他の人たちもやってきました。
ヨシ子さんが入院していた間は、ここは火が消えたようでした。
それまではいつもヨシ子さんがここに居て、何か手芸をしていました。
ヨシ子さんが居るのでみんなも寄ってきて、一緒に何か作ったり、お茶を飲みながらおしゃべりに花が咲いたりしていたのです。
外を通った時に中に人がいるのに気付き、ガラス越しに覗いてから入ってきたのは北原さんのおばあちゃん。
「アレェ、ヨシ子さんじゃないの。帰ってたの?まぁ、久しぶりに会えたねぇ。もうすっかりいいの?」
そんな挨拶をしていると、また一人「あらぁ、ヨシ子さん!」と、福田さんが入ってきました。
久しぶりに顔を合わせて、3人でいつしか避難当初の話になりました。
福田さんはこの仮設に入居するまで福浦小、石神小、ゆめはっとなど避難所を5ヶ所転々として、ここに入居したのです。
六角支援隊が支援物資の毛布を持ってきて集会所の前に敷いたブルーシートにそれらを広げると、みんな我先に奪い合うようにして手を伸ばしてきたのでした。
「何にもなかったから、みんな取り合ってねぇ。私が引っ張ればあっちからも引っ張る人がいて、大変だった。男にはかなわないと思った。なんたって、力があるから私なんか叶わない。避難所ではおにぎり1個だって、奪い合いだったですよ。後ろからこうして押されて前につんのめった拍子に、後ろの人がおにぎり持って行っちゃったりしてねぇ」
ヨシ子さんも避難所になった小学校で、率先して炊き出しをしていた時のことを話します。
そんな体験を、笑いながら話せるようになった5年目です。

◎ここではみんな気持ちは一緒
北原のおばあちゃんは、小浜の家は津波で流されました。
家族は無事でしたが、仮設住宅に入居してから娘さんを亡くしました。
ある晩、トイレに行った娘がなかなか布団に戻らず、ばあちゃんもトイレに行きたかったので、娘はもう出たかと思って起きてみると玄関の前で娘がうずくまって、ウンウン唸っていたそうです。
「こんなとこで何してんの」と声をかけて起こすと、「頭が痛い、痛くてたまらない」というので、救急車を呼ぶか?と言うと、みんな(仮設の住民)が驚くから嫌だ」と言い、息子が車で病院に連れて行ったそうです。
病院の医師がここでは専門の科がないからと救急車を手配して、脳外科のある病院へ
運ばれました。
くも膜下出血で、三日後に亡くなったそうです。
享年54歳、若すぎる死でした。
ヨシ子さんは、「ここにいる人は、親を亡くした人もいれば、夫や奥さんを亡くしたり、子供を亡くしたり、家族を亡くした人たちで、だからみんな気持ちが通じんだ。
みんな気持ちは一緒なんだ」と、言いました。

◎圃場整備
仮設住宅のある鹿島区に行くのに、海岸の方の道を行きました。
萱浜のあたり、圃場整備が進んでいて1区画1町歩もの広さに区画されていました。
こんなに広い田畑では、大型機械を導入しなければやっていけないでしょう。
個人営農では、とてもやっていけません。
圃場整備は食料自給率を高めるためと謳って、高生産性農業を目指す経営体を育成することが目的らしいのですが、結局は農家殺しの政策ではないかと思えてなりません。
「食料の自給率を高める」、これをもっと別の言葉で言えば、「自分の食べるものは自分で作る」ということでしょう。
とはいえ、国民総農家は無理でしょうが、けれども大規模経営農業を目指すのではなく、農業者が大事にされる政策こそがずっと必要なことではないかと思うのです。
津波で壊滅状態になり、その上、原発事故の影響を被った地で、こんな風に圃場整備が進められているのを見ると、そうしたことが起きる以前から計画されていた圃場整備なのかもしれませんが、人の弱みに付け込んだあこぎな計画に思えてなりません。

*また長文をお読みくださって、ありがとうございました。
次回トークの会では、南相馬市議会議員の田中京子さんに話していただきます。
どうぞ、皆様のご参加をお待ちしています。             

いちえ

vol17


2015年10月20日号「10月20日南相馬」

今回の鄭さんの取材目的は、南相馬の特に20キロ圏内の被災者の方達の家族の写真を撮りたいとの御希望ですが、私が南相馬でお会いする方達の殆どは、津波で家族を亡くされたり家族が無事でも若い世代は他所へ避難して家族分断の生活になった人ばかりです。
ですから、鄭さんの取材にご協力できる自信はなかったし、鄭さんにはそのようにお伝えしていました。
その上で鄭さんに、私がいつも訪ねる仮設住宅の方達をお引き合わせする事にしたのです。
午前中は、鄭さんと岩崎さんは、浪江町、小高町での撮影に行かれました。
ですから私は、西内さんをご案内して小池第3仮設住宅、寺内塚合仮設住宅を訪ねました。
西内さんを各仮設の方にお引き合わせして、後は西内さんが鄭さんをご案内して各仮設をお訪ねして下さるようにと思ったのです。

◎小池第3仮設住宅
集会所に行くと、お世話役の星見さんと紺野さんがいました。
お二人に韓国人写真家の鄭さんという方が、家族の集合写真を撮りたくて取材に来ている事を話し、被写体になって下さる方を紹介して下さるよう、お願いをしました。
星見さんも紺野さんもやはり私が言ったのと同じように、家族で仮設に居る人は少ないし、家族の集合写真は難しいだろうと言いました。
それでも明日の午後に、何人か仮設に暮らす方達に集会所に集まって貰いますと言ってくれました。
そこで鄭さんが直接みなさんに、家族の集合写真をとりたいという希望を話してはどうかという事にしました。
私は明日午前中に小池第3を訪ねる事にしていますが、それは鄭さんの取材とは別の用件なので一緒に訪ねる事は難しいのです。
そして午後は、もう福島へ戻る予定にしています。
鄭さんの撮影意図は私も理解できるのですが、そしてそんな写真が撮れたらいいなと思いはしますが、家族集合写真は、今南相馬ではとても難しい事だと思います。

◎寺内塚合
それから西内さんをご案内して、寺内塚合に行きました。
“営業部長”の天野さんが留守なのは予め判っていたのですが、西内さんをお引き合わせする事の他に、みなさんが作ったものがカンパで売れたその代金を届けたかったのです。
9月に来た時に、来年の干支のサルのストラップを50個預かって帰り、そのカンパ金が20,000円集まっていたのです。
「こんにちは」と言って談話室に入ると、みなさんから挨拶が返り、”社長”の菅野さんはすぐに壁際に並んでいる縫いぐるみを指差しました。
「わぁ!すごいねぇ!」
その私の言葉も、なんと貧弱かと思いますが、思わず口から出たのがその言葉でした。
縫いぐるみ講習会でやった手の長いおサルさんとクマさんの縫いぐるみがずらりと並んでいたのです。
布はモンベルから支援して頂いたフリースの布で、首に巻いたリボンは「一枝通信」で呼びかけてみなさんから送って頂いたリボンです。
これまで型紙のあるものばかり作ってきた平均年齢80歳のみなさんが一体一体違った出来具合になる、型紙のない人形作りを楽しんで作った作品ばかりです。
次回のトークの会11月11日(水)に、会場のセッションハウスに並べようと思います。
私は西内さんに、「鄭さんが家族の集合写真を撮りたい気持ちは理解できますが、私としては、家族分断生活になってしまったここにいるみなさんにとっては、家族の集合写真は無理だと思いますし、むしろ被災前には針を持つ事もなかったみなさんが、また同じく小高の出身であっても被災前には住む地域も違ってそれぞれ知り合いではなかった人たちが、この仮設で出会って仲良くなりこうして毎日この談話室に集まって、手芸している、その今の姿をこそ、撮って欲しい」と話しました。
ちょうどそんな時に、西内さんに岩崎さんから連絡が入り、鄭さんの午前中の撮影が終わったと告げてきました。
西内さんが鄭さん、岩崎さんを迎えに行き、やがて3人は戻ってきました。
私は、さっき西内さんに話した事をもう一度鄭さんに話しました。
すると鄭さんは「判ります。ここに今集まっているみなさんも、もう一つの家族ですね」と言いました。
病院に行っていた天野さんも戻って、鄭さんは”談話室工房”の6人の集合写真を撮ったのでした。

◎宮ちゃん
午後は私は鄭さんたちとは別れて、大町東団地(復興住宅)に高橋宮子さんを訪ねました。
宮ちゃんは、「ちょうど今帰ってきてお昼を食べたところだ」と、迎えてくれました。
そしてすぐに「この人はな、」と言って自分を指差して、「こうしてパッチを作ったのよ」と言って、丸く切り抜いたボール紙で作ったメンコをたくさん見せてくれました。
このボール紙も「一枝通信」で呼びかけてみなさんから送って頂いたボール紙です。
見せてくれたパッチ(メンコ)の図柄は5種類。
仮面ライダー2種類、アンパンマン、メロンパン(と言うのでしょうか?)、富士山の図柄で「日本一」と書いたもの、でした。
見せてくれながら、「鉛筆で下絵を描いたら色鉛筆で塗るのよ。マジックは駄目だな、滲んじまうからな。色鉛筆が一番いいな」と言います。
でも縁取りの黒い線は、マジックインクです。
これもまた次回のトークの会で、みなさんにカンパでお買い求めいただこうと思っています。
そして宮ちゃんにお願いして“門外不出”の宮ちゃんお手製のカルタと花札を、借り受けました。
これは絶対に売る事はできず後で宮ちゃんに返しますが、トークの会でみなさんにご披露しようと思います。
みなさんに、ぜひ見て頂きたいと願っています。
娘と孫娘を津波で亡くし、一時期は精神的にすっかり落ち込んでいた宮ちゃんですが、「笑ってなけりゃぁ死んじまう」と自らを奮い立たせ、仮設住宅にいる仲間たちを勇気づけようと、こうしてカルタを作ったり双六を作ったり、自ら替え歌を考え、衣装を作り、振り付けた踊りを仲間たちと歌い踊り、集会所でみんなを笑わせ元気にさせてきたのです。

今は仮設住宅を出て復興住宅に移りましたが、そこでもまた宮ちゃんはこんな事を考えています。
被災前の宮ちゃんの住まいは、原町区の萱浜でした。
萱浜は津波の被害がとても大きかった地区で、80名ほどの方が亡くなっています。
「あのな、いちえさん。この人はな(と、また自分を指差して)萱浜ぼたもち会をやろうと考えてんのよ。この間芳枝ちゃんが来てな、またみんなしてなんか集まりたいなって話になってな、それで考えたのよ」
芳枝ちゃんと言うのは同じく萱浜で津波で家が流され家族は無事でしたが、宮ちゃんとは別の仮設で暮らしていた浜野芳枝さんで、今は相馬市に建てた家に老夫婦で住んでいます。
私も浜野さんが仮設住宅にいた時から何度か訪ねていましたし、相馬に行ってからも
親しい人たちと離ればなれになって寂しいと言う浜野さんに時々電話を掛けて話をしています。
宮ちゃんの言う「萱浜ぼたもち会」は、萱浜の仲間たちで集まって、小さなまん丸いぼたもちをみんなで一緒に作って、食べて一日楽しくお喋りの日を過ごそうと言うのです。
「ぼた餅はな、餅米一合で4つくらいに作る大きさでいいけど丸く握ってな、一つは粒餡、一つはずんだ餡で、だから一つは赤くもう一つは緑でな。二つ一組でな。いいべ?」
宮ちゃんの話を聞いて「いいねぇ、宮ちゃん。とってもいいよ。萱浜ぼた餅会、私も参加したいよ。粒あんの赤、ずんだ餡の緑を作ったら、もう一つ黄な粉の黄色で三色にしたら?」と言うと宮ちゃんは「いんや、だめだ。三つはな、身を切るって言って縁起が悪いから駄目なんだ。四つは世の中渡るには世間渡るって言っていい事なんだ。二色で二つまとめて四つはな、二つ二つで夫婦って言うの。いいことなんだ」
「ぼた餅会はな、全国で見たって、他の会はあってもぼた餅会なんてないべ?」
宮ちゃんと話していると、ホント、私も元気になってきます。
残念ながら「萱浜ぼた餅会」開催予定日には、私は国会前で「アベ政治を許さない」スタンディングで南相馬に来る事はできません。
国会前で宮ちゃんにエールを送ろうと思います。

◎アキイさん
宮ちゃんのところから、アキイさんの家に回りました。
アキイさんは原町区雫の自宅で、独り住まいのおばあちゃんです。
私はこれまでもアキイさんを何度か訪ねていますが、この人もまたとても元気なおばあちゃんです。
「このあいだ変な電話があってね、税務署ですが税金を納めてないので払うようにって言ってきたのよ。そんな事今までになかったから、詐欺じゃないかと思ってな。家の電話は番号が出るからそれをメモして、警察に届けたんだ。だけど警察は被害がなけりゃぁ、何にもできないって言うんだな」
どうやら一人暮らしの老人を狙った詐欺のようです。
アキイさんは「なんで家の電話番号や私の名前知ってんのかなぁと思ったけど、なんかそういう情報を売る人がいるらしいね」と言いました。
アキイさんの方がよっぽど今の世情を良く知っている、しっかり者のおばあちゃんです。
80歳を超えて今も畑を作り、自分で料理して食べ、たった今皮をむいて食べている柿の皮も捨てずに干して大根漬けに入れたり、畑のエゴマを収穫して実を取ったり、暮らしの知恵袋のようなおばあちゃんです。
そのアキイさんの本棚に、今日、私は発見しました。
『小学生図鑑 昆虫の暮らし』がありました。
「アキイさん、こんな本読んでるの?勉強家なんだねぇ」と感心すると、「判んない事があると知りたくなるもんねぇ」と、答えが返りました。
「きょうは何でしょう?トンボがね、すごいんだよ」とアキイさんが言うので外を見ると、本当になんと空いっぱいにトンボが、ものすごい数のトンボが飛んで行くのでした。
後から後からトンボの群れは、向こうへ飛んで行くのでした。

◎上野敬幸さん
昨夜上野さんに電話をして、鄭さんの事を話しました。
上野さんは快く、倖吏生(さりい)ちゃんが幼稚園から帰っている4時半過ぎなら、家族が揃っているから来てもいいですよと言ってくれました。
それで鄭さん、西内さん、岩崎さんにまた会って、4人で上野さんのお宅を訪ねました。
鄭さんは上野さん家族3人の撮影をする事ができました。

上野さんも今日のトンボの数に気がついていて、こんなことを言いました。
「いやぁ、すごかったね。今日のトンボ。あんなにたくさんのトンボがみんな南に向かって飛んでいて、なんだか怖かったね。また地震でも来るんじゃないかと思って、気持ち悪かった」
そんな異変の前触れでなければいいなと思いました。

◎「いととんぼ」
次回トークの会のゲストスピーカーをしてくれる田中京子さんが仲間たちと再会した「いととんぼ」を、宮ちゃんの家からアキイさんの家に行く前に訪ねました。
被災前にやっていた「いととんぼ」では、地元の農家で取れた野菜の産直店としてやってきましたが、今は地元産の野菜はほとんど入手できず(営農者が少なくなってしまって)、他所から仕入れたものなども並べています。
また近くにスーパーもあるので、なかなか集客は大変だと思いますが、がんばって欲しいし応援して行こうと思います。

関連:

2015年10月16日号「前便追伸とお知らせ」

*追伸
◎農耕地域の秋
大麦(ハダカムギの青裸麦)の収穫は終わっていて、既に脱穀も終えた畑地や脱穀の最中だった畑を見て過ぎました。
脱穀も風選も電動の機械を使うところが多くなっていましたが、トラクターの後ろにローラーをつけて、それで脱穀している畑もありました。
以前にも電動の風選機は見ましたが、それよりもずっと効率の良さそうなものに変わっていました。
電動の脱穀機は穂のついた茎ごと、筒型の機械に突っ込むと茎を除いて更に麦粒と菜種粒を選り分けて下に落とすのです。
チベットの畑は、しばしばハダカムギと菜種を混植するのです。
脱穀のためのこんな機械の出現は、農家の収穫作業をずっと簡便にしたと思いました。
電動の農機具がいろいろと普及してくると同時に、鋤などは以前はほとんど木製のものでしたが、今回見たところではほとんどが鉄製のものに変わっていました。
以前は農具も自分たちで作ることが多かったのですが、鉄製のものは既製品を買うのでしょう。

嬉しかったのは、蕎麦の脱穀風景に出会えたことでした。
これまでピンクの花が咲く蕎麦の畑は見ていましたし、刈入れも見てきました。
シガツェは、蕎麦の畑も多いのです。
でも脱穀の様子を見るのは、今回が初めてのことでした。
道路際に並んだ家々で、ちょうど脱穀作業中だったのです。
電動の脱穀機を使っている家もありましたが、殻竿でやっている家族もありました。
蕎麦の脱穀風景に心弾んで写真を撮っていたら、「お正月においでよ。そば粉のパンをご馳走するよ」と言われました。
そば粉で作る薄焼パンのギャプラが大好きな私は、その言葉に心動きました。
面白いことに、この辺りのお正月はチベット暦の12月1日なのです。
ここではラサや他の地域よりも一ヶ月早く、お正月がやってくるのです。

*お知らせ4件
◎「アベ政治を許さない」行動再開します!
去る7月18日午後1時きっかりに全国で一斉に声を上げた「アベ政治を許さない」のポスターを掲げる意思表示、引き続き行動を継続していきます。
最初に行動を提起された澤地久枝さんが、再度の呼びかけを決意されました。
今後は、毎月3日の午後一時に、また全国で一斉にポスターを掲げましょう。
参議院選挙まで心繋いでいけますよう、願っています。
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◎『たぁくらたぁ』37号発売
〔信州発〕産直泥つきマガジン『たぁくらたぁ』37号が発売されています。
37号は特集は⑴「一人ひとりが止める戦争への道」、⑵「女たちのアラヤシキ」で、「アベ政治を許さないから増ページ号」で76ページ、読みでのある雑誌です。
ぜひご購読いただきたいと願っています。
ご注文はTEL:026-219-2470 FAX:026-219-2472 Eメール:order@o-emu.net
1冊514円です。
年4回発行ですが、定期購読(送料込みで2,800円)をお勧めします。
毎号、力が入った編集で、読みで満載の雑誌です。

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◎映画『ルンタ』続映
以前にも何度かお伝えした池谷薫監督の映画『ルンタ』が、好評につき11月13日までポレポレ東中野で続映されています。
10月23日までは10:30〜、24日以降11月13日までは18:00〜の1回上映です。
10月24日(土)は、上映後SEALDsの林田光弘さんと池谷監督のトークがあります。
また、ポレポレでの最後の3週は、SEALDsの他のメンバーとのトークがあるかもしれません。

◎トークの会「福島の声を聞こう!vol.17」
トークの会「福島の声を聞こう!」17回目は、11月11日(水)です。
今回のゲストスピーカーは、南相馬市議会議員の田中京子さんです。
お知らせが大変遅くなりましたが、どうぞ皆様のご参加をお待ちしています。

いちえ

vol17
                      

 


2015年10月15日号「帰国しました③」

◎シシャパンマ
カン・リンポチェからの帰路は、幾つかルートがあります。
今回はシシャパンマのベースキャンプを通る道で、戻りました。
ティルタプリからタルチェン、サガまでは行きに通ったルートを逆戻りですが、サガから南にルートをとるのです。
このコースも何度か通った道ですが、気候が安定していてとびきり空が綺麗なこの季節は、この道は目に嬉しい光景が広がります。
ヒマラヤの雪峰を、間近に望めるのです。
サガからシシャパンマベースキャンプへの道は未舗装で、ここではスパイダーテントを幾つか見ました。
ヤクの群れ、羊の群れ、凍った川、テントの暮らし。
チベットの生活の残る道です。
シシャパンマの雪の峰を仰ぎながら、家畜を追う暮らしです。
もう亡くなりましたが、ベルギーの絵本作家にガブリエル・バンサンという人がいました。
かつて私は、彼女の画集『砂漠』の翻訳をしました。
そこに、こんな言葉がありました。
「 彼らよりもずっと先の代の人たちが、この地に住みついた時から繰り返されてきたこの漂泊の生活も、今はもう終わりを遂げる日を迎えようとしている。”現代(いま)”という時代の波が、彼らを此岸へ打ち寄せる。私たちと同じように閉ざされた世界へと、それら囲われたものの中へと、彼らを追い立てる。
 テントをたたみ、立ち去らなければならない。
 何処へ?
 彼らは何処へ行くことができるだろう。そして、テントを失くした彼らは、何をすることができるだろう。」
出版社から翻訳の依頼を受けて、バンサンさんの見た光景を見たくて、バンサンさんが浴びた風や日差しを私も浴びたくて、サハラに行きました。
それまで紙の上で読んでいた言葉が、胸の内に立ち上がってきたのでした。
シシャパンマを仰ぐ人たちの暮らしを目にして、またバンサンさんの言葉が胸に迫りました。
キーロンへの分岐点から道は舗装道路になり、ネパールへ通じる国道318号線に繋がります。
国道318号線は、中国ネパール友好道路などと呼ばれもします。
でもここからネパールに向かう方向に行く車は、いまは一台もありません。
4月に起きた地震で、国境の町は壊滅し、道も閉ざされているのです。

◎ヒマラヤの雪峰
国道318号線をラサに向かい、ティンリを過ぎると紺碧の空にくっきりと真白い雪の峰々が浮かびます。
エベレスト、チョ・オユー、マカルーの、ヒマラヤの3座です。
雲ひとつない空の下に、8,000メートルを超える雪の峰です。
道中、仰々しい建物が作られつつありましたが、それはこれら3座を眺め写真を撮るための観光施設でした。
一箇所だけではなく何箇所かに、そうした施設が作られようとしていました。
施主は個人なのか、あるいは地元なのか判りませんが、有料施設になることでしょう。
こうした施設を作ることが、景観を壊すことに思い至らないのです。
政府は、チベットを観光資源と考えてもいて、観光客誘致に力を入れています。
以前は外国人旅行者の誘致に熱心でしたが、いまはもう外国人などあてにせずとも国内旅行者がワンサと押しかけています。
だからどの町も、中国式の門で飾り立て旅行者をそうした門が出迎えているのです。
シガツェなど、醜悪なばかりに門だらけです。
観光を資源とするなら、その地の自然景観をそのまま大事にすればいいのにと思います。

◎トゥンドゥプさんのお線香
シガツェを出てラサに向かう道中で、お線香を作っているトゥンドゥプさんの家に寄りました。
ラサ市、ニェモ県、トンミ村です。
チベットの文字を考案したトンミ・サンボタの生地です。
チベットでも幾つかの地でお線香を作っていますが、トゥンドゥプさんのお線香に勝るものはないと私は思っています。
原料をヤクの角に詰めて絞り出す、ごく細いお線香です。
他で作っているものはもっと太く、またトゥンドゥプさんの作る細いお線香はとても香りがいいのです。
トゥンドゥプさんは、「やぁ、久しぶりだね。3年ぶりだね」と笑顔で迎えてくれました。
昨年は自治区に入れなかったし、その前は東チベットを回ってラサには来たけれど、ニェモにまでは足を伸ばせなかったのです。
細さはそのままで、これまでとは色の違うお線香も作るようになっていました。
またコーン型のお香を作っていて、私が「あれ、こんなのも作るようになったんだ」と言うとトゥンドゥプさんは、私のアドバイスで作るようにしたのだと言うのです。
以前に私が日本のお香をお土産にした事がありましたが、その時にコーン型のものも見せ、こんな形も作ったらいいと思うと言ったことがあったのです。
それをこうして活かしてくれたのは、とても嬉しいことでした。
家で使う分、友人にお土産にする分、お線香を買って帰りました。

◎ヂョカン寺で
ラサに戻ってからのことです。
ラサは、今やまるで「チベットテーマパーク」のようで、早朝のバルコル、セコルの他は行きたい場所もなく、見たいものもないのですが、ヂョカン寺には行きました。
知り合いの僧侶が、2時半にご本尊の釈迦牟尼仏の参拝が出来ると教えてくれて、それに合わせて行きました。
釈迦牟尼仏の部屋に入るのに順番を待って並んでいると、鍵を開けに来たお坊さんに前に出て先に入るように促されました。
参拝を終えると先のお坊さんにちょっと待つように言われ、待っていると小坊主さんがカタ(シルクのスカーフ状の布で、お祝いや歓待、別れの挨拶などの時に「タシデレ」と幸があるようにと祈りながら、首にかけてくれる)を持ってきてお坊さんに渡し、お坊さんは「タシデレ」と私の首にかけてくれました。
どうやら、インドから来たチベット人に間違えられたようでした。
有難く頂きました。

◎ラサの夜
その夜、友人に夜の散歩に誘われました。
行ってみてびっくり!
ラサ川をせき止めて貯水池にして、その周囲を公園にしてあるのです。
木々や橋、公園内の建物などがライトアップされ、対岸の山にはライトで文字が浮かび上がります。
チベット文字と漢字が交互に浮かんでくるのです。
昼間は遊覧船も出るようで、乗船場には料金と船出の時刻が記された表がありました。
友人は「テレビでここが映ったとき、中国のどこかの町かと思いました。そうしたらそれがラサだったんです。驚きました」と言いますし、また実際この散歩で行き会ったチベット人のおばあさんは「まるで中国のどこかの町に来たようですね」と言いました。
先月8日の「西蔵自治区成立熱烈慶祝記念」式典に合わせて、開業した公園です。
友人は「ラサは乾燥しているから、こうして水辺で憩えるのは健康にいいでしょう」と言います。
私が、「チベット人はこういう公園ができた事を、喜んでいるの?」と尋ねると、「さぁ、どうでしょう。街の中には色々な木が植えられて緑も増えましたが、もともとラサにあった木ではなくて、中国の木が植えられたりしています。それでアレルギーみたいな変調をきたしている人もいるし、お年寄りの中には、別の土地の木を植えると土地の力がなくなっていくという人もいます」と、答えが返りました。
空港からラサ市内に入る時に新しい橋が何本かできていたのを見ましたが、それはこの公園にかかる橋だったのでした。
ラサは、チベットテーマパークどころか、まるでデズニーランドのようでした。

◎便利は欲を道ずれに
チベットは、中でもラサは、変化が激しいです。
初めてラサに来たのは28年前ですが、まるっきり変わってしまいました。
24時間電気が通じるようになり、商店にはなんでも揃っていて何も持たずに来てもなんでもここで整えられます。
ホテルでは一日中お湯が出るし、美味しいコーヒーが飲める店もあります。
何もかも、便利になりました。
けれども私は思います。
便利は、欲を道連れにしてやってくる、と。
そしてまた、ガブリエル・バンサンさんの言葉を思い起こします。
チベット問題を語る時、政治問題や少数民族問題が大きな話題になります。
私もそれに異論はありません。
けれどもまた、政治問題、少数民族問題としてだけ語ってはいけないのではないかと思います。
私たちの持つ欲望が、大きな問題ではないかと思うのです。
”現代(いま)”を生きる私たちが、「チベットという思想」を我が事として生き、その思想をどうすれば消さずに守っていけるかが問われているのではないかと思うのです。

◎余波に感じた事どもも
帰りのラサ・コンガ空港でのことです。
チェックイン後にセキュリティチェックに並んでいた時、先の便の乗客で遅れてきた人が、列に並んでは間に合わないらしく、並んでいた他の人に「済みません」と言ってチケットを見せ事情を話し、すると並んでいた人たちも快く前に入らせてあげていました。
こんな事はこれまで見なかった光景です。
先を急がなければならない事情などなくても、列に割り込んで先を争うのが多くの場合でした。
そしてまた、飛行機に乗り込むためのバスに乗車した時の事です。
先に乗って座っていた中国人旅行者が、私が乗り込んだら即座に席を立って、譲ってくれたのです。
こんな事もまた初めての事でした。
中国の人たちにも、こんなマナーが根付いてきているのを感じました。
もちろんこれまでだって、個人的には慎み深く良識を持った人たちには多く会ってきました。
でもこうした公共の場でこのようなマナーを見る事は、皆無と言っていいほどでした。
今回の旅の終わりにこうした光景に出会えた事は、嬉しい事でした。   

長々と報告を、お読みくださってありがとうございました。
旅の報告も言葉足らずで、分かりにくい事だったかもしれません。
拙著『チベットを馬で行く』『消され行くチベット』をお読みいただけたら、嬉しく思います。                             

いちえ


2015年10月14日号「帰国しました②」

◎国慶節の連休中で
今回の旅行は当初の予定では1週間早い20日出発のつもりでしたが、事情があって変更したのでした。
ちょうど中国の国慶節の連休にかかるので、交通機関やホテルも込み合うだろうし、現地も中国人がいっぱいだろうなぁと、想像はしていました。
想像通りでした。
成都から空路ラサのコンガ空港に降り立った彼らは、空港にずらりと待機しているミグ戦闘機、軍のヘリコプターや車両に気がついただろうか?
私は、これまでこの空港でこれらを目にしたことはなかったが、もし彼らがこれを見ていたとしたら、これが当たり前の光景だと思っただろうか?
ラサの街中では、’08年以降目立っていた監視に立つ武警の姿は今回は見なかったが、バルコルの入り口、セコルの入り口のセキュリティチェックの様を、どう思っただろうか?
持ち物をセキュティチェックのベルトの上に置き、傍の入り口から入るのは空港での搭乗時と同様なのだが、洋装の者はそのまま難なく通過できるが、伝統的なチベット服チュバを着ていると、そこにいる公安官に身体中触られてチェックされる。
中国人旅行者は、その様をどう感じただろうか?
ラサの街中の商店やホテル、民家などすべて、五星紅旗が翻っていたラサ。
そこから西へ向かった道筋でも、どの家々にも屋上に五星紅旗がはためいていた。
旅行者たちが住む街、例えば北京で、上海で、鄭州で、武漢で、その他中国の各街で、これは普通のことなのだろうか?
もし彼らがこれを当たり前のことと思っていたら、西のある田舎の村で、他の家々は門にまたは母屋の屋上に五星紅旗が翻っていたが、ある一軒は、傍の家畜小屋に掲げていたのを、どう感じただろうか?
だが彼らは、そんなことにも気付かなかったかもしれないが。

滑らかな舗装道路を、中国各地のナンバープレートをつけた自家用車が引きも切らず
に西へ向かっていく。
以前の道路事情であればここを行く乗用車は、車高の高いランドクルーザーなどのオフロード車ばかりだったが、すっかり舗装され、また川には橋が架かった今では、普通の乗用車が多い。
旅行者を乗せた大型バスも通るが、たとえ定員50人というようなバスであっても、そこに乗っているのは20人で、座席はスカスカだ。
20人のうち一人は運転手、一人はガイド、もう一人は公安官で、乗客は17人。
これが昨年からの決まりとなった。
この数年中国国内旅行者が激増し、旅行会社や運送会社も無許可を含めて増えていた。
そうした中で昨年、観光バスの事故が相次ぎ多数の死傷者が出た。
それで、こうした規則になったのだ。
私のようにバスではなく旅行会社の車を利用する場合もあるが、車内には録音機能つきの監視カメラが設置されている。
これは’08年以降ずっとそうだったが、これまでは設置されてはいてもスィッチを切ってしまうことができたので、車内での会話も比較的自由にできた。
だが、今回はそれも不可能なことだった。
中国人旅行者は、そんなことをどう感じただろうか?

◎牧民の暮らし
ラサを離れてタルチェンまでの道筋では、途中のラツェあたりまでは、車窓に刈り入れの済んだ農耕地の風景を見て過ぎました。
そして高度も上がって牧畜地帯に入って行きましたが、以前普通に見たヤクの黒い毛織布のスパイダーテント(テントの曳き綱と支柱の関係で、まるで蜘蛛のように見えるので、そう呼ばれます)は、全く見られなくなっていました。
テントは白い木綿布(帆布)か、軍のテントと同じようなカーキ色の帆布のテントでした。
ヤクの毛織布のテントは自分たちで布を織り、仕立てますが、帆布のテントは市販されていて手軽に入手出来るようになったからでしょう。
そしてまた黒いスパイダーテントでは夏の日差しの下では、暑いからなのかとも思いました。
でも、ヤクの毛織布のテントは、実は非常に優れたものだと私は思っています。
布目が帆布ほど詰んでいないので外気の流通が良く(これが逆に寒い時には堪えるかもしれませんが)、雨などの日には布目が詰んで閉まるし、また細く編んだヤクの毛織紐をトイの役目をするように使っていたりもするのです。
また、テントがあるところには大抵、トラックかトラクターが停車していて、中にはトラックもトラクターも、モーターバイクも止まっていたりしていました。
これらは皆彼らの財産で、以前のように人の移動は馬で、荷物の移動はヤクを使ってするのではなく、”ガソリンを食べる鉄の馬”による暮らしになっています。
草地は有刺鉄線や柵で囲われて、家畜の自由な移動はできなくなっています。
冬にはテントではなく、風を避ける山裾の土の家で暮らしてきた彼らですが、今その家々は道路際に並んで建てられています。
屋上に五星紅旗をはためかせて。

◎タルチェンで
ラサを発って3日目に、カン・リンポチェ巡礼の起点となるタルチェンに着きました。
翌日からの聖山巡礼、私にとっては12周目の巡礼行です。
起点のタルチェンが海抜4,675m、途中のドルマ峠5,668mを越えて一周約52kmを一泊二日で周るつもりです。
予定では二泊三日で周るつもりでいたのですが、タルチェンまでの行程を二日で組んでいたのが、検問所通過などで時間がかかり1日余計にかかったしまったので、巡礼行の日数を一泊二日にすることにしたのです。
旅行者は大体二泊三日で周りますが、地元のチベット人たちは朝タルチェンを発って夕方戻ってくる人が少なくありません。
私も前の午年には1日で一周を2回繰り返しましたから、それに以前と違って途中にゲストハウスもできているのでテントや寝袋を持つ必要もなく、荷物もさほどありません。
8年ぶりの巡礼行に心弾んで荷物を用意し、その晩はぐっすり休みました。

翌朝歩き始めましたが、何だか調子がおかしいのです。
足は快調だし、息切れもなくおしゃべりしながら歩いていくのですが、なんだかちょっと気が弾まないのです。
聖山巡礼に、心が弾まないのです。
セルシュ(カン・リンポチェの祭礼を行うタルボチェの下のキャンプ地)に着いた時に、気になったのでふとパルスオキシメーターで血中の酸素濃度を測ってみました。
なんと!数値は63で心拍数が78です!
チベット滞在中、いつもだとどんなに低くても80を切ることはなかったし、大体88〜96くらいの値でした。
そして心拍数は多くて68(私の通常値は57)でした。
その数値を見て私は、今回の聖山巡礼は取りやめてタルチェンに戻りました。
同行のチベット人たちはそのまま歩を進め、その日の夜にタルチェンに戻ってきました。

セルシュで同行者たちと分かれてタルチェンに戻った私ですが、無理せずに良かったと思いました。
自覚症状は全く何もなく、ただなんとなく「いつもと違う」と感じて行くのをやめたのでしたが、もしあのまま進んで行ったら、ドルマ・ラ(峠)で突然倒れていたかもしれないと思います。
高度順応が上手くいってなかったとは思えません。
ラサで、バルコルやセコルのコルラでも全く平常で、血中酸素濃度も92以上あったのです。
セルシュから戻ったその午後から鼻水と咳が出て、風邪の初期症状が現れましたから、たぶんそんな事が「なんとなくいつもと違う。心が弾まない」感じを覚えさせたのでしょう。
確かではないけれど感じた違和感に、素直に従って良かったと思いました。
12周目の巡礼行は今回叶いませんでしたが、残念ではありません。
聖山カン・リンポチェが、「出直していらっしゃい」と言っているのだと思えます。

◎読みたかった本
セルシュからタルチェンに戻り、ホテルの部屋にこもってから、持ってきた本を読み始めました。
3年前に出た本で読みたくて買ってあったのですが、なかなか読み出せずにいた本です。
文庫本で680ページと厚く、日本にいる時の時間が細切れになる日々では、読みだすのに躊躇していたのです。
アンドレ・ルロワ=グーラン著、荒木亨訳、『身ぶりと言葉』です。
先史学者であり社会文化人類学者であるルロワ=グーランが、動物学や考古学から人類の発生を述べ、記憶と技術がどのように人類を変化させていったかを考証し、民族の持つ世界観を語り、未来の人類像を描き出していきます。
旅行を終えてもまだ読み終えられず、読み続けているところですが、とても興味深く読み進めています。
読み始めて良かった!これもセルシュから戻ったおかげ、と思いました。

◎ティルタプリ
同行者たちがカン・リンポチェ巡礼を済ませてタルチェンに戻りましたから、翌朝ティルタプリへ向かいました。
ティルタプリはカン・リンポチェを巡礼した後でここを訪ねないと巡礼は完結しないと言われている聖地で、温泉が湧いています。
20年前の馬旅でも訪ねた地ですが、ここへの道も舗装道路になっていました。
”50歳記念”と銘打っての馬の旅は、もうはるかに遠い、時代の違う時であったように思えます。
今はもう、決して出来なくなってしまった旅の形態です。
草地が有刺鉄線や柵で囲われ、キャンプで旅を続けることなど不可能になりました。
カン・リンポチェの南に広がる聖湖マパム・ユムツォ(マナサロワール湖)を右遶する巡礼者を今回も見ましたが、私がそれをした時は湖岸を歩き、時には歩きにくい砂地を向かい風に苦しめられながら行ったものでした。
でも今は草地が囲われてしまったために、湖岸から大きく離れて随分大回りにでないと一周出来なくなっています。
歩く距離は、かつてよりもずっと長くなっていることでしょう。
馬旅を終えてから私は、『チベットを馬で行く』を書きました。
あの本を書いておいて良かったと思います。
まだまだチベットのことを深くは知らなかった頃でしたが、それでもあの中に書いたことは、今は消えてしまったチベットの風景やチベットの暮らしなど、記録としての意味も大きかろうと思います。


2015年10月14日号「帰国しました①」

11日夜遅く、チベットから戻りました。
昨年はチベット自治区への入域許可が下りなかったために、雲南省のチベット自治州へ行ったので、チベット自治区へ行くのは2年ぶりのことでした。

◎西の聖山を目指して
ご存知の方には「何を今更」と思われそうですが、「チベット自治区」だけがチベットなのではありません。
地図上には中国の西に「西蔵(チベット)自治区」とあり、そこがチベットだと思われる方が多いのですが、甘粛省、青海省、四川省、雲南省を含む広大な地がチベットです。
甘粛省、青海省、四川省、雲南省のチベットエリアに行くには中国ビザのみで行けるのですが(2週間以内でしたらビザも不要)、チベット自治区へ行くには「チベット入域許可証」の取得が必要です。
そしてチベット自治区内の旅は、行きたい場所すべてを記した「通行許可証」が必要です。
これらはあらかじめ現地の公安、軍に申請をして取得するのです。
’08年以降はそれまでよりもずっと、自治区への旅行は難しくなりました。
西のアリ地区への通行許可証は下りなくなっていましたし、昨年は入域許可証さえ出ませんでした。
ですから昨年は雲南省のチベット族自治州へ行き、’08〜’13年のチベット行は、東チベットやアムド(青海省)のチベット人居住域への旅でした。
それでも毎年ラサには入っていましたが、昨年はラサへも入ることができず、今回は2年ぶりのラサ訪問でした。
9月27日成田を発って、その晩は四川省の成都泊。
翌28日ラサに着き、30日にラサを発って西の聖山カイラス(チベット名:カン・リンポチェ)を目指しました。
チベットは人に生年による干支があるばかりではなく、聖山、聖湖にも干支があり、カイラス巡礼は午年がいいのです。
雲南省の聖山カワ・カブ巡礼は、未年がいいのです。
それで昨年をカイラス、今年はカワ・カブの巡礼行を予定していたのですが、昨年はチベット入域許可が下りなかったために午年のカイラス行は叶わず、西の聖山と東の聖山行の順序を逆にして、昨年はカワ・カブへ行きました。
それで、今年はカイラス巡礼を計画したのでした。
前回のカイラス巡礼は、’07年の10月末でした。
8年ぶりのカイラスです。
8年ぶりにアリ地区への通行許可証が、下りるようになったのでした。

◎2年ぶりのラサ
ラサ、コンガ空港からラサ市内への高速道路は複線になっていて、トンネルも橋も、上り車線、下り車線用に複数になっていて驚きました。
9月8日に「西蔵自治区成立熱烈慶祝50周年」記念行事が行われ、それに合わせて立てられたのでしょうプロパガンダ広告が林立していました。
曰く。
「自由 平等 公平 法治」「衷心感謝習近平同志為総書記的党中央的親切関杯」「開放的西蔵歓迎称」「民族団結建設美麗西蔵」「世界重要旅遊的地歓迎称」などなどと。
市街地はさらに大きく広がっていて、夜間は通りに面した各店舗、ホテルなどなどライトを煌々と照らし、これも50周年記念行事以降にライトアップするように決められたとのことで、昼のように明るい夜空に鳥が飛び交っていました。
翌朝7時、ここではまだ日が昇らず薄明の時刻ですが、バルコル(チベット仏教の総本山ともいえるヂョカン寺の外周路)をコルラ(聖地の外周路を右遶して巡ること)しました。
この時刻にそこをへ巡るのは、チベット人ばかり。
右手に祈祷具のマニコルを持ち、左手で数珠を繰り、御経を唱えながら歩く人たち、
五体投地で巡る人たち。
彼らと共にコルラしながら、「ラサのこの時間が一番好きだ」と思う私でした。
凌辱された街、ラサ。
心まで明け渡さず、まつろわぬ人たちが静かに祈る街、ラサ。
バルコルを3周巡ってから、セコル(ポタラ宮殿の外周路)をコルラしました。
セコルの外れでギャプラ(そば粉をヨーグルトで解いて薄く焼いたもの)を売っているのを見かけて買い、ホテルに戻ってコーヒーとヨーグルト、買ってきたギャプラで朝ごはんです。
ギャプラは私の大好物です。

◎お父さんになったタシ
亡くなった友人ダワの家を訪ねました。
妻のドマラと息子のタシに会いに行ったのです。
ダワが亡くなった時、タシは中学1年生でした。
ダワを知る日本の友人たちに呼びかけて、タシが高校卒業するまでの学費を奨学金として支援してきたのです。
ところがタシは、あと1年で高校卒業という年に学校を辞めてしまったのでした。
その後のタシが心配で、ラサの友人に見守ってやってほしいと頼んでおいたのです。
世話をする人がいて、タシは軍の森林消防隊に入ったことは聞いていました。
その後ドマラには時々会って、タシがどうしているか聞いてはいました。
ちゃらんぽらんなところがあったタシですが、給料は自分の小遣いをわずかだけとって、あとは母親のドマラにすべて渡していたと言いますし、たまの休暇で帰宅すると、ドマラの料理を「母さんの作ってくれたものが一番美味しい」と言うなど、しっかりとしてきた様子を聞いてはいました。(ドマラは料理が得意ではなく、ダワが生きていた時は、私はいつもダワの手料理をご馳走になっていました)
タシに会いたいと思っていましたが、なかなか会えずに過ぎてきていました。

この日、ドマラの家を訪ねると、タシと妻のハトゥン、二人の娘のテンジン・ゲツェ(1歳3ヶ月)が、迎えてくれました。
ああ、タシは本当にしっかりとした、いいお父さんになっていました。
嬉しいことでした。

◎西へ
30日にラサを発って、3日目に聖山巡礼の起点の地タルチェンに着きました。
以前は、ここまで通常で6日かかったのです。
ひどい時など9日かかった時もありました。
途中道路が崩れたり、大きな岩が道路を塞いだりして、1日に10キロしか進めない時もありました。
道路がすっかり舗装されて、時間が短縮されたのでした。
でも道中で見る風景はまたすっかり変わって、数件しか家のなかった地に中国人の食堂や自動車修理の店、商店などができて街になっていたり、大好きだった場所がすっかり汚い街になってしまっていました。
ノジンカンサの氷河はずいぶん小さくなっていましたし、パヤンのあたりの砂丘はずっと広がっていて、気候の変動を如実に見るようでした。
タルチェンの様変わりも、全く驚くようなものでした。
ど〜んと大きなホテルができていましたし、他にもゲストハウスはたくさんできていて、商店や食堂もまた建ち並んでいました。

◎通行許可証
ラサからタルチェンまで3日で来ましたが、途中で10数カ所の検問所があるのでした。
外国人旅行者である私の通行許可証のチェックだけではなく、同行のチベット人もまた自分の居住地から他所へ行くには、通行許可証(移動許可証)が必要で、それをチェックされるのです。
これは例えば、私が富士山に行こうと思ったら神奈川県、静岡県の途中通過する各所を書いた申請書を中野区の区長と東京都知事に出して許可の印を貰い、その許可証と自分の身分証明書を必ず携帯して旅行に出て、途中のチェックポイントでいちいちそれらを見せて承諾の印を受けて進むということなのです。
自分のくにを旅行するのに、こんな手続きが必要なのです。
他にも車のスピードチェックがあります。
スピードチェックには二通りのやり方があって、どちらも??と思えるやり方です。
その①
あるチェックポイントで、地名と時刻を記入した紙を受け取ります。
次のチェックポイントに至るべき時刻よりも早く着いてしまったら、スピード違反になりますから、紙を受け取ったら次の場所に早く着きすぎないように、その手前で車を止めて時間稼ぎをすればいいのです。
その②
道路の右に、「30キロ」と書いた標識が立てられています。
するとどの車も皆その区間は、時速30キロのノロノロ運転になって、そこを過ぎるとまたスピードを上げて平常通りの運転になります。
「30キロ」と表示された区間にはカメラがあって、30キロオーバーした車は見つかるので、この区間はみんなノロノロ運転なのです。
バカバカしいほど、おかしな「30キロ」スピード制限です。


2015年9月26日号「お知らせ」

19日未明に強行採決され、「法案」は「法」になりました。
それ以前の連日の反対行動は、日を追うごとに参加者は増えていました。
14日のデモでは、何年も会えずにいた人たちにもバッタリ出会い、たがいに「やぁやぁ」と挨拶したもののゆっくり話すこともできずに人波に押されて別れたのでした。
数年ぶりに友人に、10数年で従弟に、20年ぶりに以前住んでいた地でのご近所さんに会いました。
採決後も連日抗議行動は続けられていますが、私は先約があったり都合がつかずに参加できずにきています。
この強行採決は議事録に記録も残さないままですから、「採決不存在の確認と法案審議の再開を求める申し入れ」がされ、私も早速この呼びかけに賛同しました。
政府は30日に公布、半年以内に施行と言っていますが、こんな暴政を許すわけにはいきません。
そして次なる戦い、落選運動はもう始まっています。
この「法案」に賛成した各党議員を、次の選挙では落とそうという運動です。
共産党は「戦争法廃止国民連合政府を」と、呼びかけています。
私たちの戦いの武器は、銃ではなく選挙権。
アベ的な政治を許さず、主権者の声を聞く政治に変えていきましょう。

◎お知らせ①
10月8日(木)は、文京シビック大ホールで、「戦争させない・9条壊すな!総掛かり行動」の講演集会が持たれます。

私は、明日からまたチベットへ行ってきます。
パソコン持たずにいきますので、いただいたメールへの返信はできません。
どうぞ、ご寛容にお願いいたします。
11日に帰国予定です。
チベットの置かれている状況は、本当に酷いです。
先週土曜日(19日)からポレポレ東中野で公開されている映画『ルンタ』を、ぜひ多くの方に見ていただきたいと願っています。
映画チラシを添付いたします。
また併せて、9月30日発売の下記図書を、多くの方に読んでいただきたいと願っています。

ルンタŠî–{ CMYK

◎お知らせ②
チベットの焼身抗議 太陽を取り戻すために
中原一博:/集広舎:刊/2200円+税

◎お知らせ③
次回のトークの会「福島の声を聞こう!vol.17」は、11月11日(水)に催します。
私の不手際で、出かける前にチラシ作成ができず帰国後に改めてチラシをお送りしますが、添付の要領で催します。
皆様のご参加をお待ちしています。 

いちえ


渡辺一枝トークの会「福島の声を聞こう!vol.17」

4年と8ヶ月が経ちました。
南相馬の風景も人の暮らしも、ずいぶん変化が見られます。
国道6号線は車の往来が繁く、そのほとんどが復旧や建設工事のための車両です。
作業員のための宿舎や、ホテルなども多く建ちました。
避難先から戻ってきた人、逆に避難先で暮らす子供達の所へ移っていった人、仮設住宅を出て復興住宅や集団移転地へ転居した人など、人も動いています。
今回のゲストスピーカーは、現地で生まれ育ち、市会議員としてこうした変化をつぶさに見てきた田中京子さんです。

田中京子さんプロフィール
1953年、旧原町市(現南相馬市)で生まれる。
相馬農業高校卒業後、横川エレクトロニクスに勤務。退職後、地域婦人会の役員を努めながら婦人部の仲間たちと農産物直売場「いととんぼ」を立ち上げる。
産業廃棄物処理場建設反対運動に取り組み、反対運動の事務局長で当時市議だった桜井勝延氏が市長選に出ることになったのを受け、‘10年市議会議員に立候補し、当選。現在2期目を勤めている。
「いととんぼ」は、3・11後営業できずに閉じていたが、今年9月に再開した。

 






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