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2018年1月31日号「1月21日トークの会報告①」

大変遅くなりました。トークの会の報告です。
◎トークの会「福島の声を聞こう!vol.26」
 21日、26回目のトークの会「福島の声を聞こう!」を開きました。
ご参加くださった皆様、ありがとうございました。
ゲストスピーカーは、いわき市から埼玉へ母子避難した鈴木直子さんでした。
直子さんは始めに、映画監督鎌仲ひとみさんの『カノンだより4』を映して見せてくれました。
●まずはじめにDVDを
 『カノンだより』は鎌仲さんが、郡山や福島市、あるいは東京などの各地から自主避難した人の元を訪ねて、なぜ避難したのか、避難後の暮らしはどうかなどをインタビューしている動画です。(ごめんなさい、この部分文字化が難しいです)
それぞれの考え方や悩みなどは様々ですが共通しているのは、みんな子供を持っている人たちで、「命を守りたい!」その一心での避難です。
 母子避難した女性は、初めの頃は避難を選んだことが良かったのかと迷いながらの避難生活だったけれど、子どもの体調が回復し元気になっていったことや、避難先での暮らしを確立していった姿もありました。
彼女は言います。
「泣くのは少しお預けにして、悔しくても何かの理由があってこうなったのかと思い、私が潰れたら子どもにやらせるわけにはいかない、闘う!」
 避難当初は納得して母子を送り出した夫も、避難が長引くにつれて夫婦間に意識のズレが生じたりもしたけれど、避難先での母子の元気な様子が夫の意識も変えていったことも映し出されていました。
 事故直後から危険性を訴えていた人の言葉が情報として拡散された時に、彼は多数のバッシングを受け「殺す」とまでを言われもしたのですが、甲状腺癌が多発などが知られていく中で、放射能の危険性を理解し「あなたが言ってたことは本当だったね」という人が増えていったことも映されていました。
 「被災した時に、その地でどれだけの情報が得られたかが、避難に関わる。
津波が来たら逃げるように、原発事故が起きたら安全圏に逃げるのが当たり前では」
 この日に直子さんが見せてくれたのは『カノンだより4』でしたが、『カノンだより』は現在no.1〜5まで出ています。
ご注文は右記まで。「ぶんぶんフィルムズ」moyie@kamanaka.com
●直子さんの話(「です。ます調」で話されましたが「だ。である調」で記します)
☆避難までの概略
 いわき市で生まれ育った。
いわき市は四季折々の自然が豊かで、海の幸・山の幸に恵まれた素晴らしい地だが、地震、津波、原発事故と複合的な被災地になった。
原発が爆発して大混乱となり、爆発直後は死を覚悟した人も多数いる。
ガソリンがない、断水、停電の混乱の中、津波で流された車からガソリンを抜き取って避難した人もいる。
 市の広報車が「屋内退避」を呼びかけて回ったのは、3月15日になってからのことだった。
私は新婚当時に建てた一軒家に家族4人(夫と2人の娘)で暮らしていたが、すぐ近くに実家があり、両親と祖母が住んでいた。
両親や祖母に避難しようと誘ったが、祖母は「この家を離れたくない死ぬならここで死ぬ」と言って決して動こうとせず、母は「バァちゃんがそう言うなら仕方ない。私たちも残るけど、直子は子どもたちを第一に考えて避難しなさい。そうすればもしも何かあったときに、後悔しないはずだから」と言ってくれ、涙、涙の別れをして、3月15日夜中に八王子のいとこの家に避難した。
 人口35万人のいわき市は警戒区域ではなかったから、そこに30キロ圏内警戒区域から2万人が避難してきて、また原発作業員が1万人入った。
そうしたことから交通渋滞が起き、交通事故は倍増した。
各種施設の混雑も生じ、特に病院は異常な混雑だった。
治安悪化により犯罪も増加し、殺人事件も起きた。
震災バブルで繁華街は人口増によってとても儲かったようだが、治安は悪化したと言われている。
 私自身は2年間の母子避難を経て、現在は家族4人で暮らしている。
避難当時、上の娘は小学1年の終わり、下は2歳でまだ授乳中だったが、現在は中2と小3になった。
夫は、25年勤続した会社から奇跡的に、同業種の会社に正社員として転職できた。
築10年の家は売り、今は川越で自主避難に特化したお母さんたちの思いを載せた「ぽろろん」という冊子を発行したり、他にも色々と活動をしている。

☆避難の理由
 私がなぜ、自主避難をしたかについては、2つの理由がある。
一つは放射能から子どもを守るため、もう一つは差別や偏見を避けるためだった。
次々に原発が爆発して、ここを避難したほうがいいのか、でもガソリンがなかった。
ガソリンがなかったし、11日、12日に一旦避難した友人たちからは、渋滞で30キロくらい先からはもう進めず動けなかったと聞いていた。
緊急車輌以外は通してもらえなかったりで、もう逃げられないと思った。
田舎なので、どこに誰が住んでいるかはよく知っているので、お年寄りの家に食料や、給水所まで水を取りに行ってその水を配って回っていた。
余震がひどくて、揺れていなくても揺れを感じたりで、地震酔いにもなった。
 私は放射能の怖さを知っていた。
広島の原爆ドームで、被曝手帳を貰って差別を受けていた人や被曝手帳を貰えなかった人たちからも話を聞いていたので、これから起こるであろう福島差別を、予想できた。
また富岡にある東電のエネルギー館は1階は子どもの遊ぶスペースもあり、すごく綺麗なところだったのでしょっちゅう行っていた。
その2階は原発の様々なシステムの展示場だったので、そこをじっくり見ていたので、「これが爆発したら大変なことになる」とおぼろげながら感じていた。
 だから爆発事故を知って、これは大変なことが起きた!と思った。
だがテレビを見れば御用学者が「格納容器が破壊するなどあり得ない」と言っていたので、誰を何を信じて良いかわからない状態だった。

☆川越を避難先に
 転機は3月15日夕方、常磐道が開通し高速が通れると聞いた時で、これは避難するべきだと思った。
そして、両親や祖母、近所の人たちと涙、涙のお別れで「申し訳ない。ごめんね」と言いながら避難した。
 2人の娘たちが将来結婚する年頃になった時に、福島出身というだけで結婚できないのではないかと案じたのだ。
その頃ママ友へのメールで、差別や偏見があるかもしれないから避難したいと伝えると、何人ものママ友から、「そんなことあり得ない」「そんな大変なことじゃないよ」と言われたが、現実には結婚式場のキャンセルはあるし、7年経つ今でも、「福島出身者同士でなければ結婚できない」などという話も聞く。
それらは「それだけの縁でしかなかった」と言われるが、原発事故がなければそんなことはなかったのだから、親としては被害のリスクを避けたいと思った。
当時福島にいなかったという既成事実を作ろうと、とりあえず夏休みまでの3ヶ月間のつもりで3月の末にバタバタと転校させた。
福島に居なかった、という既成事実を作りたかった。
(注:福島に残っている人がこれを聞いたらすごくショックを受けると思うので、SNSでの拡散は控えてほしい。)
当時は自分たちのことしか、子どものことしか考えられなかった。
残っている人のことよりも、我が子をどうすれば守れるかだった。
 とりあえず3ヶ月のつもりで八王子のいとこのところへ行き、そこから知人の紹介で川越の実家の一軒家が空いているからそこを使ったらいいよと言われ、そのまま今もそこにお世話になっている。
川越の奥の方で環境がいわきの家のあたりと似ていて、自然豊かな田んぼの中の一軒家で、本当にいいところだと感謝している。

☆自主避難者とは
 3月末にいわき市の教育委員会からやっと通知が出て、学校は4月から通常通り始まると連絡がきた。
それまで蜘蛛の子を散らすように避難していた人たちは、それを聞いて一斉に戻った。
だから3月末は常磐道のいわき湯本インターや中央インターは、ものすごい行列だったそうだ。
 だが私にとって決定的だったのは、ドイツのシミレーションを見た時だった。
それを見ると、広範囲に放射能をかぶっていた。
私たちは自主避難者だが、自主避難者というのは20キロ圏内ではないが放射能を懸念して、自主的に避難した人をいう。
だから東京から避難した人も、静岡から沖縄へ避難した人もみんなこの括りに入る。
だが政府はそれを認めないとしている。
 自主避難者には月6万円の住宅支援があったが、昨年3月で住宅支援打ち切りされた。
その後、月の収入が214,000円以下の場合は昨年度は3万円、今年度は2万円の補助が出たが、その後は一切ない。
 母子避難者は光熱費も2重にかかるし、子どもの教育費もかかる。
南相馬から埼玉に避難した友人は、「家の方じゃ高校は3校しかなかったのに、こっちは選択肢がたくさんあって、塾に行かせるなど教育費がかかって大変だ」と言っている。
塾に行かせなければいいと言われるが、避難先で教育環境が異なり、高校卒業したら就職するのが当たり前の福島から来て都会で暮らすと、友達と同じようにさせてやりたいと思い、塾にも行かせたいと思って頑張ってパートを掛け持ちしたりする。

☆住宅支援打ち切り
 先日は山形の雇用促進住宅にいる避難者8世帯に対しての追い出し裁判もあり、人を人と思わないような本当に酷い状況だ。
加害者は誰も裁かれず、被害者が被告として訴えられたりしている。
 自主避難者には東電からの定期的な賠償はない。
応急仮設住宅(6万円の支援がある住まい)は自主避難者にとって唯一の支援だったが、災害救助法によるみなし仮設という扱いのため、毎年の更新手続きが必要とされた。
だから先の見通しが掴めず、毎年のように「来年も貰えるかな?」と案じながら1年1年を過ごしてきた。
 震災及び原発事故直後に避難所に避難した人たちは、本人の意思に関わらず公営住宅・雇用促進住宅・国家公務員住宅などに振り分けられて入居した。
機械的に振り分けられたのに、昨年3月の住宅支援打ち切り後は、雇用促進住宅に入った人だけが住宅支援がもらえないなど、本当に酷い。
公営住宅は支援があったが、今は補助がもらえず実費となっている。
このように不公平が生じていて「あの人は貰えたのに私は貰えない」とか「払わずに居座っているから裁判起こされても当然だ」などという声も出ている。
みんな心の余裕がなくなっている。
 家賃補助については、月収214,000円以下の家庭に昨年度は月30,000円、今年度は20,000円の補助が出ると言ったが、初めは158,000円以下の家庭ということだった。これも新潟県が214,000円としたので、福島県もそれに倣った。
このように、県の対応は後手後手の愚策になっている。
家賃補助は来年3月以後は一切無しだが、なぜか帰還する人にはご褒美として100,000円が支給される。
また住宅支援に関してもう一つの問題点は、住み替えができないことだ。
子どもが生まれたりや成長したりで、手狭になったからもう少し広い住居をと思っても、補助を受けていた住居を出ると、勝手に引っ越したということで、その時点で補助がなくなる。
こうした理不尽な問題点を国に訴えれば福島県の問題だと言うし、県に訴えれば国に言えといって盥回しだ。

☆帰りたくても帰れない
 住宅支援の打ち切り後の住まいの確保は、全然できていない。
避難者数の統計を取ったというが、3444名が不明だった。
その人たちがどこでどうしているか、全く判らない。
 アンケートをとったら、80パーセント近い人が帰還しないでこのまま避難を続けると答えた。
自分たちは初期被ばくをしたから、追加被ばくをしたくないと思って避難先で生活しているのに、いま戻ったら元も子もないということだと。
廃炉作業もどうなるか判らない、いつ爆発するか判らない、地下に潜っていま再臨界しているという話もある、そんな怖いところに帰れないと思う。
だからどんなに生活が苦しくても、78,2パーセントは帰りたくないとアンケートで答えているのに、帰還政策を進めるための無理な追い出しをしている。
ドアに張り紙をして、それを破かないと中に入れないようにしたり、意向調査と言って訪問して来て、ドアをちょっと開けると足を挟んでドアを閉められないようにして、強引に帰還を勧めたりする。
こうして得られた実態把握に、信憑性はない。
 3月で打ち切られて公営住宅などは、必ず一回引っ越さなければならないが、そうすると転居費用は敷金礼金などで50万円なりとかかってしまう。
そんなお金はないから、国に言っても福島県に言ってもダメなら避難先の自治体に助けてもらおうと思っても、福島県の意向があるからと、救ってもらえないことが多い。
世間の無理解や偏見で心のバランスを崩し、病んでしまう人もすごく多い。

☆苦しい二重生活
 避難の現状として、福島に残っている人からも世間からも理解されないということは、逃げた人間だというレッテルが付いていることや、帰る家があるのにどうして避難?という同調圧力がかかっている。
「復興の手伝いもしないで何が避難だ」「お前たちは歩く風評被害だ」という言葉も聞かれる。
甲状腺ガンは増えているのだが、放射能の影響はないと言われている。
「神経質だ」「(洗脳されて)頭が放射脳だ」などとも言われる。
 自主避難者は夫を福島に残し自宅の住宅ローンを返しながら、二重生活をしているなど経済的負担も大きい。
また避難生活によるすれ違い、これは距離だけの問題ではなく心のすれ違いを生む。
夫の方からすれば、周りは避難していないのに自分の妻はなぜ避難しているのか、何のために自分は働いているのか、家族のために馬車馬のようになって働いているのに数週間に1度しか会えない、夕食はカップラーメンで済ませて体もヨレヨレなのに、というような無力感。
夫の側のそういう気持ちもよく理解できるが、子どもの健康が一番大事と思っている母親からすれば、どうしてわかってくれないのかと、夫婦の心が平行線になってしまう。
 生命保険を解約したり、親に借金をしたり、いろいろしながら生活を成り立たせようとしている。
 福島にいれば子どもを見ていてくれる両親がいて自分も働けたが、避難先では育児支援がないから働けない。
保育園もなかなか入園できないとか、入園できても6時までしか預かってもらえないとか、土・日出勤が可能ならもっと収入のいい働き口があるのにということもある。
また、訛りが恥ずかしくて、ご近所ともなかなか話せないということもあって孤立感がある。
心の余裕は子育てする上でとても大事だと思うが、育児支援がないことや孤立感など避難生活をしている母親の方も、大変さを理解されない無力感を感じている。
そうした事から心を病んだり、子どもがいじめられるなどもある。

☆発生する原発事故由来のいじめ
 賠償金を貰っていないのに貰っているだろうと、子どもが苛めに遭っていた事が報道されたが、賠償金を貰っていても苛められて良い訳はなく、賠償金は当然貰って良いもので正当な収入なのだ。
 避難者への支援は、制度的になし崩しにされている。
先祖代々の土地を奪われて、コミュニティを壊されて、震災関連死もすごく多い。
子どもたちにももっと堂々と生きられるように、お母さんが笑わないと子どもも笑わないから頑張ろうねと、互いに励まし合いながら現在やっている。
横浜のあの苛め事件は、加害者の子どもは大人だったら恐喝窃盗で逮捕されるような
事だったが、「いじめに負けないぞ」と言った被害者の少年も今はフリースクールに通って前向きに生きている様子が報道されていた。
東京の裁判の時にも苛められていたという子どもさんが意見陳述したが、各地で色々と苛めの話は出ている。
名前に菌とつけられたとか、給食を配膳してたら放射能が移るから近寄るなと言われたり、部屋を暗くして「あれ?光らないね。放射能浴びてるから光るはずなのに」と言われたなどが報じられたが、私の団体に来る子どもさんは福島が原因で苛められたという話は聞かない。
幸いだと思うがこれで安心してはいけないと思う。
実際には親にも心配をかけるから言えないということもあるだろうし、これから心を紐解いていかないといけないと思う。
何年も後になってから、あの時苛められてたんだよという子どももいるというから、大人はもっと子どもの心をケアしないといけないと思っている。
今後の課題だ。
 これは実際に埼玉であった話だが、避難者の子どもで6年生の女の子が友達から「あなたとはもう遊ばない」と言われ、「どうして?」と聞くと「お父さんがあなたと一緒にいると将来子どもが産めなくなるかもしれないし、奇形児が生まれるかもしれないと言ったから」と言われたそうだ。
それを聞いたお母さんは精神的に強い人だったから、「もうその子とは遊ばなくていい。そんな事を言う親の子とは遊ばなくてもいい」と言ったそうで、娘さんも「そう。でもあの子は悪い子じゃないよ。でも、判った」と答えたそうだ。
でもこんなに強いおかあさんの話は、非常に稀だと思う。
 「7年も経つのだから、早く自立しろ!逃げた人間に、なぜ住宅支援をしなきゃいけないんだ?」「自分たちは何の支援もなく暮らしているんだから、甘えるな!」などを聞くと、それも当然かなとも思うが、実際に避難生活をしてみるとそう簡単には済まないと思う。
もっと人に優しくなれないかな、と思うが、こういう現実がある。


2018年1月28日号「1月18日集会報告。そしてお知らせ」

◎STOP!南西諸島の自衛隊配備
 18日、参議院議員会館大講堂で件名の院内集会と政府交渉がありました。
集会の様子は、下記でご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=gBrlyxH903E
主催は「てぃだぬふぁ島の子の未来をつくる会」「ミサイル基地のない平和の島を!てぃだぬふぁ応援団」「南の島を標的にさせないチーム風かたかの会」でした。
発言者は、福島瑞穂参議院議員、伊波洋一参議院議員、石嶺香織さん(てぃだぬふぁ)、楚南有香子さん(てぃだぬふぁ)、佐竹京子さん(奄美の自衛隊・ミサイル部隊配置を考える会)、小西誠さん(軍事ジャーナリスト)の皆さんでした。
 集会後の政府交渉は、FoE Japanの阪上さんの進行で始まりました。
防衛省に対しては事前に質問書が送られていて、この場で返答を求めるための政府交渉でした。
質問と返答(全く答えになっていない返答)の内容をここに記す時間的余裕がないのでお伝えできませんが、つくづく思ったことがあります。
「役人にはなりたくない!」(もちろん年齢制限でなれっこないのは承知です!)
これまでも政府交渉の場に臨んだことは何度かありましたが、この日の防衛省の役人の様子ほどの酷さを感じたことはありませんでした。
人間の言葉が喋れないロボットでした。
 強い憤りと同時に、人間性を失ったような彼らに哀れさを覚えました。
防衛計画課のMさん(男性)は、受け答えを重ねるごとに緊張で顔がこわばっていき正面を見据えることもできず、もしも彼がまともな神経の持ち主なら「死にたい!」と思うのではないかなどと思い、施設計画課のKさん(男性)はMさんのような経験を積んで鉄面皮と言うか不感症になったかと思い、施設整備菅付のSさん(女性)には、一層複雑な思いを抱きました。
質問への返答はMさん、Kさん同様に答えになっていない答えなのですが、質問を受けている時も、答えた後でも質問者に笑顔を向けたりするのです。
心からの笑顔でも、また媚びた笑顔でもなく、儀礼上の笑顔でもなく、ただただ習慣になっているような笑顔と言ったらいいでしょうか。
世間が「女」に対して求めている無言の圧力に、疑いも持たずに応えてしまっているような笑顔と言ったらいいでしょうか。
人としての感情をなくしてしまった彼らが、哀れでした。
だが決して、同情はしません。
そうではなくて「目覚めろよ‼︎人間の言葉を喋れよ‼︎」と言いたいのです。
 政府交渉は載っていませんが、集会の様子が載っている上記のyoutubeを、ぜひご覧ください。 

◎お知らせ
 チベット映画祭を企画しました。
題して「チベット今昔物語 ミニヒマラヤ映画祭」です。
上映するのは『秘境ヒマラヤ』と、『ぼくの村は天空にある』の2本です。
●『秘境ヒマラヤ』
 1957年に西北ネパール学術探検隊が、チベット人の暮らすドルポに調査に入って記録してきた映像です。
日本に住む私たちがチベット人の生活を初めて目にしたのは、この映像によってでした。
貴重な記録です。
幼い日に「チベット」とあだ名されていた私はこの映画を中学生の時に見て、チベットへの憧れは一層強くなり、学校をサボってもう一度映画を観に行ったものでした。
●『ぼくの村は天空にある』
 在日チベット人のロディ・ギャツォさんが自分の故郷の村の祭りを記録した映像で、現在チベット自治区の素顔が映し出されています。                 

ご覧頂けたら嬉しく思います。                    

いちえ

チベ映画2018-2

 


2018年1月21日号「1月12〜14日、山形・福島行②」

◎山形から飯坂へ
 12日の夜は飯坂温泉で一泊しました。
山形から昨年開通したという栗子トンネルを越えて福島県に抜けましたが、「トンネルを抜けると雪がなかった」のでした。
 飯坂まで幾つトンネルを越えたでしょう?
数えはしませんでしたが高速道路は滑らかで、幾つものトンネルを過ぎたのでした。
路肩にある看板を目にした私が声に出して「復興道路」と読むと、運転していた今野さんが「そういう名目で除染道路です」と言いました。
ああ、本当にそうなのです。
以前、環境学者の関口さん、「たぁくらたぁ」編集長の野池さんと霊山に建設中の仮設焼却施設を見に行った時も、同じ言葉が出たのでした。
復興道路と言いながらも、それは除染廃棄物を焼却施設へ運ぶための道路でした。
原発事故後に福島県内に建設された「減容化施設」と称する焼却炉は、いずれも仮設で、多額の費用をかけて建設し、多額の費用をかけて取り壊されるのです。
そしてそこへフレコンバックを運び込むための道路も作られて。
業者が儲かる仕組みが敷かれていったのです。
 飯坂に着いたのはもう夜でしたし翌日は南相馬の仮設住宅へ寄ってから郡山へ向かうので、飯坂に避難している友人には連絡を取らずに過ぎました。
小高から避難しているSさんが、今どうしているか心にかかっています。

◎13日、仮設住宅へ
●寺内塚合仮設住宅
 土曜日だったので菅野さん(社長)と山田さん、天野さん(営業部長)と3人とも揃っていました。
水曜日と金曜日はデイサービスの日なので、この談話室は留守になっています。
 なんの話からだったか、カラオケの話になりました。
集会所にボランティアが来て、カラオケ大会にでもなった時のことでしょうか。
天野さんが「私は歌なんか歌ったことなかったけど、春日八郎の♪別れの一本杉♪歌ったの。春日八郎は福島県の人だったからね。郷土の有名な人だもんね。あの歌が私は大好きだよ」
 天野さんからそれを聞いて、山田さんや社長にも好きな歌、好きな歌手を聞いてみました。
社長が「あれなんだっけ?♪恋しても恋しても人の妻♪ってあったな。誰だっけ?」
演歌に疎い私はとんと思い浮かばず、みんなでああでもない、こうでもないと考え思い巡らせ、ハッと今野さんが気付いて「さざんかの宿!」と言うと、「ああ、そうだ!」と一同頷いて、それなら私も知っていました。
法事で父の郷里の沼津へ行った時に、親戚が用意してくれていた宿で流れていた歌でした。
宿の生垣がちょうど花時の山茶花だったのです。
 3人がそれぞれに言う歌や歌手はもはや懐メロなのでしょうが、でも私が懐かしく思う歌はそれよりももっと古い歌ばかり。
「社長や山田さん、天野さんは私よりお姉さんだけど、好きな歌を言ったら私の方がお姉さんみたいだよ」と言うと、どんな歌?と聞かれ「上海リルとか、夜のプラットホームとか」と答えたのでした。
私は社長の「さざんかの宿」が意外だったけれど、みんなは私の答えも意外なようでした。
でも私には、これまで気づかずにいた社長や山田さん、天野さんの一面を見たような気がしました。
 一時懐かしのメロディの話で盛り上がって、おいとましました。
3人が元気に、この寒さを乗り切って欲しいなと思います。
●小池第3仮設住宅
 ヨシ子さんはすでに仮設を退去して、すぐ近くの新居に暮らしています。
ハルイさんも原町に新居はできていて家族もそちらに住んでいますが、仮設の方が勝手が効くからでしょうか、ここに残っています。
それに、ここにはまだ高齢な人たちが残っているので、その人たちのことをそれとなく気遣ってのことでしょう。
ハルイさんが居ると、笑いが絶えないのです。
 仮設の居室は狭いのですが、ハルイさんの部屋にはいつも誰かしら人が訪ねるのです。
みんなこの仮設住宅の人たちで、90歳になる独居のバッパ(おばあさん)も毎日のように訪ねるそうです。
玄関をノックする音が聞こえるとハルイさんは、誰が来たのか判ってはいても「ぬしゃ、何しに来た?」と怒ったような声で迎え出るのです。
するとバッパは両手を揃えてかしこまって、「はい、はい私です」と言って入ってくるのだと、その様子をヨシ子さんが身振りをつけて話してくれるのでした。
浦尻で漁をしていたハルイさんは浜の言葉で口調は荒いのですが、心根はその口調とは裏腹なのでバッパも一緒にいると心弾むのでしょう。
 7年近く同じ仮設で過ごした仲が、途切れないといいのにと切に思います。
ヨシ子さんもすでに退去しているし、ハルイさんもいずれは退去するでしょう。
私も、小池第3仮設住宅をこの先あと何度訪ねるかしら?と思いながらおいとましました。

◎天福ノ島
 はぴーあいらんど☆ネットワーク演劇プロジェクトの公演「天福ノ島」の観劇に、三春のデコ屋敷に行きました。
「はっぴーあいらんど☆ネットワーク」は、須賀川に拠点を置くNPOです。
原発事故後、ここに活動していた仲間たちが集まって2011年5月に立ち上げられました。
福島に住むことに正面から向き合いながら、多岐にわたる様々な、そして困難な問題を共有しながら、今を見つめ未来を考え活動を続けるグループです。
その活動も、健康相談会、保養プロジェクト、ワークショップ、演劇プロジェクト、ぷちゃ会(子育て中のお母さんを中心にしたお茶会)、はぴ☆フェス(日本各地から歌や踊り、アートの仲間が集って平和をテーマに催すフェスティバル)など、活動も多岐にわたっています。
「天福ノ島」は演劇プロジェクトの第2弾としての公演でした。
 第1弾は「U235の少年たち」として、戦時中の福島でウランの採掘に動員されていた少年たちを題材にした演劇でした。
今回の第2弾「天福ノ島」は、明治時代初期の頃、「西の土佐、東の福島」と言われた福島の自由民権運動に身を投じた青年たちの姿と、原発事故による被災という未曾有な経験をした福島が今抱えている問題をオーバーラプさせ、観る者に問いかけ、考えさせてくれる素晴らしい演劇でした。
 会場で配られたプログラムにあった言葉を記します。
「福島自由民権運動の発祥の地」と言われる三春の地での再演が決まり、稽古期間中は改めて当時に想いを馳せることができました。
あの時代、人々は何を求めて自由民権運動を行ったのか。
今の時代に無い新鮮な風を感じています。
私たちは東日本大震災後、福島の今を見つめ問題を共有しながら未来へつなぐための活動を続けてきました。
演劇プロジェクトは一つの手段です。
様々な活動を続けてきた中で気づいた事。
多くの困難や苦しみは「当事者」のみが理解し乗り越えていく。
「当事者」と言われ、「当事者」でなければ気づけない。
しかし多くの理不尽な出来事は、「当事者」のみに背負わさせるべき事なのか。
誰かに自分を置き換える事が出来る。私なら、として考える事が出来る。
演劇の力は、きっとそういうところにあると感じています。
明治のあの時代に生きた若者たちが掴み取ろうとしたものを、持ち帰って頂けたらと思います。         NPOはっぴーあいらんど☆ネットワーク代表 鈴木真理」
 会場のデコ屋敷大黒屋は古民家で、ここでの公演を観ることができたのもまた、とても嬉しいことでした。
脚本も演出も素晴らしく、プロの演劇集団ではないのですが演技もまた素晴らしく、私は今思い出しても涙が溢れます。
「あの時代に生きた若者たちが掴み取ろうとしたものを」、持ち帰ったと思う私でもありました。
多くの人に見て欲しい!是非東京でもやって欲しい!と心から願っています。
何とかして東京公演を実現できないかと、模索中です。

◎14日、餅つき新年会
 浪江町の人たちが入居している飯坂の公営住宅での、新年餅つき会にお邪魔しました。
福島大学のボランティアの学生さんたちも、お手伝いに参加していました。
住居棟の向かいの駐車場の前にこの団地の集会所があり、日常的に健康体操や様々な活動も行われているようです。
集会所の中では電気餅つき機2台で、外では木の臼と杵でお餅が搗きあがっていきました。
「昔取った杵柄」とはよく言ったものだと思いました。
年配の男性が杵を持てば、本当にいい音が響くのです。
学生さんが杵を下せばヘニャンという音で、口伝では伝わらない経験で積み上げるしかない体の使い方、力の入れ方なのだと思います。
 一部は食紅を溶き入れて薄っすら紅色に搗きあげて白も紅も丸餅にして、団地の人たち全員に渡るように袋詰めして、これはお土産用。
ご婦人たちが台所で大鍋で煮たお雑煮に出来たてのお餅を入れて、みんなに振舞われました。
私も杖を持った女性のお隣に座って、美味しくいただきました。
女性は浪江の幾世橋に自宅があった方で、被災よりずっと前におつれあいを亡くされて独り住まいです。
もともとは浪江の方ではなく、浪江に住んで13年目の被災だったそうです。
背中合わせに座っていた小学生に、「私は3階の部屋から時々君達が遊んでいるのを見ているよ」と声をかけていました。
子どもの姿が見えたり声が聞こえたりは、嬉しいものです。
ことに独居の高齢者にとっては、尚嬉しいことなのだろうと思います。
 お腹がくちくなった頃に、余興大会が始まりました。
まずは目出度い獅子舞です。
ダンボールで作った獅子頭はぱっくり口が開いていて、唐草模様の風呂敷で体を隠した2人が獅子頭の後ろにつき、客席の人の頭をパクッとくわえて去っていきます。
 お獅子が去ると「高校3年生」の歌が流れてきて、まぁ、女性たちが元気なこと!
私よりも少し年長の方たちばかりと思いますが、黒い服に白いテープを貼ってセーラー服のように見せ、または丸く切った金色の紙を金ボタンのように見せかけて、学生帽風のものを被ったり、おさげ髪のように黒いリボンを垂らしたりして、学生になりきり。
でも少々腰が曲がったような高齢の方もいるのです。
なりきり高校生が、曲に合わせて輪になって歌い踊るので、もうみんな大笑い!
 それからホワイトボードを使っての福笑い。
2組に分かれての対抗で、おかめとひょっとこの顔の輪郭がホワイトボードに描かれていて、そこに眉や目、鼻、口、頬などのマグネット付きのパーツを間隠しをしたままつけていくゲームです。
見ていても、楽しいゲームでした。
 同じ避難所で過ごした人達が一緒にここに入居したそうですが、そうした繋がりを生かしての避難所からの退去は、大事なことだったろうと思いました。
楽しい時のお仲間に加えていただきながら、故郷から引き剥がされた胸の内を思いました。

 裁判傍聴から餅つき新年会までの3日間、濃い思いにあふれた時間でした。
2011年夏から私が南相馬へ通い始めたのは、ただただ個人的な理由「福島で起きたことを知りたい!」という動機からでした。
たまたま宿泊した宿が、地元の市民ボランティア六角支援隊の拠点でした。
一緒に活動しながら少しずつ肌身で「福島」を知っていきました。
見を置いて風を受け空気を感じ、相対して話を聞き、知っていくほどに「そうだったのか」という納得と共に「なぜ?」という疑問も湧き、なおも知りたくなって通い続けている福島です。
 私は、人によく聞かれます。「なぜチベットに?」と。
自分でも理由はわからないまま幼い頃からそこに憧れ、あだ名がチベットでした。
いま私は自分に問うてみます。「なぜ福島?」と。
原発事故が契機だったことは確かですが、いや、それ以前から子供の頃からのことを思い返してみると、好んで読んでいた本は、この列島の北の地方に関する本が多かったと思い起こします。
故郷のない私ですが遠い昔のいつか、今の私になる前の私は、福島にいたことがあったのかもしれないなどと夢想しています。                

いちえ


2018年1月20日号「1月12〜14日、山形・福島行①」

 12日朝の新幹線で山形へ行き、山形地裁で開廷された「雇用促進住宅明け渡し訴訟」を傍聴し、報告会に参加しました。
報告会終了後は福島へ戻りその夜は飯坂温泉泊。
翌13日鹿島の仮設住宅2ヶ所を訪ねてから、三春へ行きました。
「はっぴーあいらんど★ネットワーク演劇プロジェクト」の公演『天福ノ島』をデコ屋敷大黒屋古民家で観て、その日は郡山泊。
14日は浪江町から避難している方たちが入居している飯坂の復興住宅の新年会にお邪魔して、午後の新幹線で帰宅しました。
とても実り多い3日間で、今野寿美雄さんにはすっかりお世話になりました。

◎雪景色
 12日6時50分頃東京駅に着くと、前の晩に米沢に入っていた今野さんから電話がきました。
米沢駅で待ち合わせることになっていたのですが、待ち合わせ場所を山形駅に変更の知らせでした。
郡山を過ぎると、畑や家の屋根にはうっすらと雪が被っていました。
いつもは福島までですから新幹線「やまびこ」「つばさ」が連結した車両の後ろ側「やまびこ」に乗車しますが、この日は「つばさ」ですから、前の方の車両に乗りました。他愛もないことですが、そんな「初めて」も、なんだか新鮮な体験です。
そしてもっと新鮮な驚きは、福島駅で車両の切り離しが行われた後のことでした。
 私の乗った「つばさ」は、福島駅を出ると左に大きくカーブして進んだのです。
山形は福島の西に位置していますから当たり前のことですが、その「当たり前」をはっきりと示してくれるような大きなカーブでした。
左に進んでから間もなく、外は一面の深い雪景色になりました。
こんな雪景色を見るのは何年ぶりだろうと、読みさしの本は閉じて外の景色に見入っていました。
雪の白が、こんなにも「いろとりどり」だったなんて初めて気づきました。
雪を纏った木々が、様々な白を見せてくれたのです。
 杉木立ちの雪の白、落葉樹の纏う白、落葉樹も木の種類によって枝ぶりが違いますからそれぞれが纏う白が違って見えてくるのでした。
そこにあたる光の反射が、さまざまな白を見せてくれるのでした。
こんな雪景色に久しく触れずに時を過ごしてきた、と思いました。
そして列車は、奥羽山脈を越えて山形に着きました。

◎「雇用促進住宅明け渡し」訴訟第2回口頭弁論傍聴、記者会見&報告会
 武藤類子さんや海渡雄一弁護士、神奈川訴訟原告団の村田弘さんらも同じ新幹線だったのでしょう、次々と改札口を出てきました。
私は今野さんの車に村田さん、類子さんらと共に乗車して、皆で山形市役所へ向かいました。
10:30頃に市役所に着くと他にも関係者、支援者は集まっていて、そこからプラカードのぼり旗など用意して裁判所まで行進しました。
 裁判所では11:00から傍聴券の交付が始まりますが、傍聴希望者80名ほどいたでしょうか。
抽選で27名が入廷できるのです。
私は抽選に外れたのですが、譲っていただいて法廷内に入ることができました。
傍聴席は40 席で、記者席が10席確保され特別傍聴席が3席ありました。
●裁判経緯
 この裁判は、避難者が訴えられて被告にされてしまった裁判です。
東京電力福島第一発電所事故により福島県内の避難指示区域外から米沢市内の雇用促進住宅に自主避難している8世帯に対し、「独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構」は住居明渡しと、2017年4月以降の家賃の支払い(政府は2017年3月31日住宅支援を打ち切った)を求めて昨年9月に提訴しました。
 8家族は、昨年3月に住宅の無償提供を打ち切ったのは違法であり、住居費は原発事故の責任がある東電と国に請求するよう「機構」に求め支払いを拒んできました。
これに対して機構は「8家族は居住する法的根拠が無い」「家賃を支払っている契約者との公平・公正性の観点から継続入居は容認できない」と訴訟を起こしたのです。
 この裁判は、避難者の追い出しを狙ったものです。
住居の追い出しは、「原発事故・子ども被災者支援法」で謂う「避難すること、福島に住み続けること、帰還することを被災者一人一人が自らの意思で行うことができる」に反するものです。
 第1回の口頭弁論は昨年11月21日に山形地裁(松下貴彦裁判長)でありました。
松下裁判長は原告の「機構」に対し、「請求の根拠」と「住宅の使用貸借契約の法的整理」を書面で12月22日までに提出するよう求めました。
●第2回口頭弁論
 11:30に開廷されました。
これまで私は法廷での傍聴体験を何度か重ねていますが、被告側支援者として傍聴するのは初めてです。
いつもなら傍聴席に座って右側の被告席を睨んでいるのですが、今回は視線を左に向けました。
そこに座っているのは女性1人、男性1人の原告代理人弁護士の2名でした。
 裁判長が原告代理人に準備書面の確認をし、被告代理人福田健治弁護士が準備書面について説明をしてから原告に対しての反論を陳述しました。
海渡雄一弁護士、井戸謙一弁護士も意見陳述し、続いて被告とされた武田徹さんの意見陳述がありました。
●記者会見
 法廷はわずか30分ですから、意見陳述は準備書面を確認することで詳しく語られないので、法廷で傍聴しているだけでは何がどう問題なのかをきちんと理解するのが難しいのです。
その後の報告会で詳しく話されるのを聞いて、理解することができます。
武田さんの意見陳述は短く時間制限された中でのお話で、メモしきれず後の報告会で詳しくお聞きするつもりでした。
今回は報告会の前に記者会見もあり、各社の記者さんたちと弁護士や武田さんの応答で、よりはっきりと問題の核心がつかめました。
*福田健治弁護士
 1回目の期日から今日まで、大きな枠組みの変化があった。
雇用促進住宅は炭鉱労働者の離職対策として運用されてきたが、それも既に廃止が決まっていて、東日本所在の雇用促進住宅も、「独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構(以下:「機構」)が所有していたが、一括して売却されることになった。
10月31日をもって機構の手を離れ現在は信託契約が締結されていて実質的所有者、信託契約上の受益者が「東日本民間賃貸サービス合同会社」になった。
ここが信託契約に基づいて管理を大阪の「ファースト信託株式会社」という民間企業に委託している。
 10月31日に法的な所有関係の変化があったことから、現在受益者として住宅管理をしているファースト信託株式会社が裁判に参加してきた。
12月には10月以降の家賃支払いの再訴訟という形で、原告として遂行していて、機構はその部分は裁判から脱退して、4〜9月の家賃請求として残っている。
代理人の二人はどちらも兼ねている。
 裁判の中ではファースト信託が参加申立書を陳述した。
前回の期日では機構に求釈明し、それに対しての回答が提出され陳述された。
被告側からの準備書面では、住宅供与打ち切りなど国際人権機関においても問題を指摘されているので、それらを踏まえた裁判所の公正な審議を求めるという準備書面を提出した。
 これまでに明らかになっていることは、裁判所を使って避難者の追い出しを図るという強行な対応の割には、避難者との間の法律関係がかなり杜撰で、きちんと管理がなされていなかった。
 例えば3月末までで契約が切れたから追い出すというのが機構のロジックだった。
被告と機構の間に使用貸借契約が成立していてこれが3月末で打ち切られたと主張していたにも関わらず、今回提出された第一準備書面では、これを根本から覆して、貸していたのは機構ではなく機構の子会社のようなSK協会が貸し主であった。
法律構成の、誰が貸し主であったかを根本的に変更してしまった。
 機構は3月末まで1年毎の更新をしてきたと主張しているが、だとすると機構と避難者間に更新契約書類が在って然るべきだが、それが一切作成されていない。
機構の言い分は1年間延長するという貼り紙をして、避難者はそれを見て住み続けていたから、だから1年延長の契約が成立したという黙示の契約成立を主張している。
3月末で打ち切ることも明確な証拠が出てこない。
さらに酷いのは、機構が貼り紙をしたというがそれならSKが貸し主なのでSKの名前が出ている筈だが、機構の名で1年延長の貼り紙をしていて、SKとの間に1年延長の合意があったという全く意味不明な主張をしている。
SKが貸していたというのに、SKが貼り紙をした証拠もないという非常に杜撰な状況。
 誰が貸していたのかという点で、福島県が機構から借り上げるという書面が、県と機構の間で作成されている。
借り上げた県が住宅供与したと見るのが自然で、直接的な貸し主は県だ。
すると今回の追い出し訴訟をしているのは福島県ではないか。
機構から県が借り上げて住宅供与したと見るのが自然だが、その書類には一切触れずに、機構はSKが貸していたという主張に終始している。
支離滅裂で、訴訟という強い手段に出ている割には法的な整備が全くできていない。
 裁判手続きで問題にしたのは、譲渡契約の問題だ。
雇用促進住宅が、機構という公的主体から民間の主体に譲渡された。
譲渡契約の中で、公的な性格のものを民間主体に引き継がせる為に、いろいろな約束を譲渡契約の中でしている筈だ。
 譲渡契約の特例法の中に災害救助法に基づく応急仮設住宅については譲渡の段階で有効に入居者に対してはそのまま譲り受人が引き継ぐという特約が入っている筈で、その契約書を機構が出してこなかった。
これを出すことで実際には原告となっている「ファースト信託」との関係でも、我々がこの譲渡契約に基づいてまだ住み続ける権利があると主張することを恐れて出さなかったと思う。
この点については裁判所で「出せ、出せ」と主張したところだ。
原告は2週間で提出すると言った。
出てくれば、その中に応急仮設住宅入居者についての条項も含まれている筈なので、それに基づいて避難者が住み続けられるというロジックを主張していこうと考えている。
 次回に向けては、機構に書面を出すように言っているのでそれが出たら、それに基づいて3月に向けての準備書面を用意するつもりだ。
*海渡雄一弁護士
 この訴訟は、誰がどういう根拠で起こすかという根幹に関わることで、これをまともに取り上げようとする裁判官なら、身を乗り出して「どういうことか?」と原告側に問いただす裁判だ。
1回目の期日ではそのような姿勢が見られたが、今回は武田さんの意見陳述を10分以内で終わらせることに気が入っていて裁判そのものに興味があるのかどうか判らないようで少しがっかりしたが、間も無く転勤だから4月からの新しい裁判官に期待したい。
 国連の健康問題特別報告者のアナンダ・グローバさんの勧告で、1ミリシーベルトになる前に帰還を促進してはいけないと報告書に書かれていた。
その後2013年には社会規約委員会という条約に基づいている勧告で、アナンダ・グローバ勧告を守るよう出されていた。
 2014年11月に自由規約委員会から出された勧告では、避難区域の解除によって人々を高度に汚染されている地域に戻らざるを得なくしている状況を懸念するとなっている。
 2017年11月14日の人権理事会では、106ヵ国から日本政府に様々な勧告が出されたが、帰還問題に触れた国が、ポルトガル、オーストリア、ドイツ、メキシコの4ヵ国だった。
ドイツが非常に良い勧告をしている。
県内に住む人、特に妊婦や子どもの肉体的・精神的健康に関する権利を保障し、また特に放射線の許容量を1mSv/年の限度に戻し、避難者と居住者の支援を継続すること、とあり、まさに皆さんに対する支援をちゃんとするようにとドイツ政府が日本政府に勧告した。
これを受け入れるかどうか決めるのが、今年の3月だ。
日本政府がこれを受け入れたら、この訴訟は取り下げなければならないだろう。
 さらに昨年11月24日には自由契約委員会が2019年に予定されている審査に向けた質問書を作って送られてきている。
この中でも13項目が、福島の避難者に対する帰還政策が扱われている。
2017年3月に避難区域として20mSv以下の線量が残っている全ての汚染地域の避難指示を解除したこと、避難区域外に住む避難者の無償の住宅支援を終了したことは、避難者が高度に汚染された地域に戻ることを強制するかもしれないとの懸念について答えてくださいとある。
まさにこの訴訟のようなことが起こっていることを懸念すると、ハッキリ言っている。
避難区域指定の為に放射線被ばくのより高い閾値を指定することを検討したかどうか答えてください、ともある。
また、子どもの甲状腺ガン発症率が高い報告についてコメントし、放射線被ばく者の権利を守り、被ばくに必要かつ適切な健康サービスを提供する為の措置について詳しく説明してくださいと言う質問が出ていることは、もっと厳しい勧告が人権規約委員会から出される可能性があるのではないか。
 こういうものも裁判所にとっては、自分の扱っている訴訟が国際人権問題にもなっているのだということなので、もう少し関心を持って欲しい。
4月にはもっといい裁判官が来るだろうから、もっと活発な論争ができる法廷にしていきたい。
 次は3月20日に法廷があるし、その次にはもう一度しっかり被告本人の意見陳述の機会をもらうように新しい裁判長に交渉していきたい。
*武田 徹さん(福島県原発被災者フォーラム山形・福島)
 意見陳述では次の2点について述べた。
先ず始めに、出生から米沢に至るまでの経歴を述べた。
 1941年1月に郡山で生まれ、大学卒業後英語の教師となって福島市に居住していた。便利な場所で住環境も良いところだった。
福島に住み始めて以来、毎日吾妻山を眺めて暮らしていた。
妻は家庭菜園をやっていて食材は全て福島産で、平穏な毎日を過ごしてきた。
そこには30年以上住み、自治会長もしていた。
ボランティア活動をし外国人に日本語を教えたり、週1回は高校生に英語を教えていた。
 2011年3月12日午後に自宅から避難し、4月末米沢に来た。
当時米沢には3000人くらいが避難して来ていた。
避難者は誰もが、子どもを守りたい、その一心で避難して来た。

米沢でのことは米沢に避難している人たちと共通する問題、それは帰りたくても帰れないということで、理由は放射能、仕事の関係でなど色々だが、帰りたくても帰れないということで共通している。
そして、ボランティア活動についてを述べた。
*井戸謙一弁護士
 ファースト信託がこの裁判を起こしてきたことが非常に意外で、平成28年の夏から秋頃に、雇用促進住宅の供与の関係がよく判らなかったので、県の担当に電話をかけてよく聴いた。
県の担当者は、福島県の雇用促進住宅は県が一括して借り上げていて、そして県が供与しているという説明だった。
だから雇用促進住宅の明け渡しの訴訟は県が起こしているだろうと思ったら、全然違っていた。
色々証拠も出てきているが、4月以降で県知事と機構理事長が押印をした雇用促進住宅借り上げの確認書がある。
ところが原告側はこれを全く無視している。
 この訴訟を見ていると、国も県も姿を隠して、人民同士の争いにして、それでなんとか自分たちが望むような解決を実現しようとしているように感じる。
そういう構造を感じるが、その裏にどういうカラクリがあるのかを、この訴訟を通じて解明、追求していきたい。

*記者会見には、山形新聞、共同通信、朝日新聞、毎日新聞他、多数の記者が出席し、積極的に質問していました。
上記は弁護団や武田さんへの質問とそれへの回答をまとめて記したものです。
●報告会
 小口裕之さん(山形県平和センター議長)、堀内勉さん(米沢地区平和センター議長)、高橋寛さん(さようなら原発米沢代表)、武藤類子さん(ひだんれん共同代表)、村田弘さん(ひだんれん事務局・神奈川訴訟原告団)、今野寿美雄さん(脱被ばく子ども裁判、脱被ばく実現ネット)のみなさんから連帯の挨拶。私もご挨拶させていただきました。
最後に避難の共同センターの瀬戸さんが、まとめの挨拶をされました。
*瀬戸大作さん(避難の共同センター)
 今年もよろしくお願いします。
なぜ今年もと言ったかというと昨年5月に、郡山から東京へ母子避難していたお母さんが自死した。
2人の子どもを大学へ入れるために昼夜働いていた。
今年は絶対にそんなことが起こらないようにしていきたいという思いでの挨拶だ。
 山形の住宅追い出しの件では署名を集め、昨年12月21日に11,000筆以上の署名を厚労省に提出し、その後も続々と署名は集まってきている。
12月1日に行った政府交渉では、山形の裁判について問い質した。
厚労省や復興庁が来て、この交渉の中で機構の管理監督責任がある厚労省の責任を問うた。
しかし厚労省は指導監督する立場にないと、ずっと言明した。
原発事故・子ども被災者支援法を守る責任は国にある。
省庁はどこも、今回の山形の問題に関しては関知していないというが、それは違うだろう!と僕らは思う。
 1月22日から国会が6月まで開かれる。
ぜひ、この山形の問題や住宅支援の問題や、原発事故被害者に対しての人権保障について国会で採り上げるように、僕ら自身も取り組みを加速していきたい。
 もう一つ、12月の福島県議会で何件か福島の避難者を調停にあげ、調停議案が県議会で可決されている。
これは国家公務員住宅に自主避難している人たちに対して、意向調査には答えたが契約書の問題や家賃支払いの問題について疑義があって、調停が出された。
この調停については年明けに文書が出され、15日までに解約書の締結と家賃の支払いを遡ってするという回答がない限り本調停に入ると通告されている。
ここで問題なのは県議会で調停議案にあげるときに、本人通告がされていない。
避難者は自分が調停の対象になっていることを知らないまま、調停の対象になっていて非常に追い込まれている。
今回の山形の裁判を皮切りに、いろんな裁判が起こされるだろうと思う。
だから、山形の裁判は非常に重要だ。
 12月12日に復興庁が復興加速化方針で、福島の子どもの副読本で福島の安全キャンペーンを大々的に掲げて改訂をやることが決まった。
避難の合理性について復興庁や国は全面的否定に入っている。
僕ら自身はこの裁判の中で、なぜ避難生活をしていて帰れないのかを含めて、しっかり
訴える運動として頑張っていかなければならないと思っている。
 来年4月に民間賃貸住宅家賃補助が消える。
今東京の国家公務員住宅にいる人たち、江東の東雲住宅にいる80世帯の自主避難のお母さんたちがいる。
その人たちが来年4月以降は行き場がなくなる。
僕ら自身、手をこまねいて見ているわけにはいかない。
連帯して闘っていきたいと思う。

*参加者からの発言
 訴えられている立場の家族です。
マスコミの人たちはどうか報道してほしい。
この問題がより多くの人に知らされてほしい。

12日の山形裁判の報告はこれで終わりです。
短く詰めたつもりですが長文になりました。
ぜひ多くの方に被害者が被告にされた裁判の、この不条理を知ってほしいと思います。
お読みくださって、ありがとうございました。            

いちえ

お誘い
トークの会「福島の声を聞こう!vol.26」は明日です。
どうぞ、ご参加ください。


2018年1月17日号「お知らせ」

◎お知らせ
トークの会「福島の声を聞こう!vol.26」の参加申し込みは、始まっています。
7年目を迎える福島です。
復興ばかりが喧伝されて、被災者の暮らしも声も置き去りにされています。
どうぞ、福島の声を聞いて下さい。
今回のゲストスピーカーは、いわき市の自宅から二人の娘を連れて埼玉県に母子避難したお母さんです。

日 時:1月21日(日)14:00〜16:00(開場13:30)
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158 2F)
主 催:セッションハウス企画室
参加費:1500円(参加費は被災地への寄付とさせていただきます)
お問い合わせは、セッションハウス企画室 Tel.03-3266-0461  mail@session-house.net

どうぞ、皆様のご参加をお待ちしています。

いちえ

vol.26


2018年1月3日号「2018年1月3日国会前」

 新しい年が明けました。
心から新年を寿ぐことのできない思いを抱えての、年明けです。
そんな苦々しさは、全て「アベ政治」に起因しています。
 今日は3日、国会前「アベ政治を許さない」スタンディングでした。
風は強かったのですが雲ひとつない快晴の空の下、120名ほどの仲間たちが集いました。
澤地久枝さん、落合恵子さん、松元ヒロさん、大木晴子さん他たくさんの方たちでした。
午後1時きっかりに、皆で「アベ政治を許さない」プラカードを掲げてシュプレヒコール。
「立憲主義を取り戻そう」「憲法無視するアベはいらない」「若者に銃を渡すな 未来を渡せ」「すべての原発今すぐ廃止」「辺野古・高江の新基地反対」「アベ9条改憲NO」
などなど、言いたいことは盛りだくさんのアベ政治許さない!の思いです。
 *松元ヒロさんがパントマイムでアベと綱引き。
アベも手強く苦戦するのですが参加者の「頑張れ!」の声に応援されて、「アベ政治を許さない」プラカードを掲げた人がヒロさんの引く綱に、よろよろと引きずり出されて、めでたくヒロさんの勝利。
大きな拍手がわきましたが、これは私たちの勝利です。
 *澤地さんがスピーチされました。
「今は、かつてなかったほど酷い政治状況です。
今日の毎日新聞にイギリスに原発輸出するのに、政府が債務保証するとありました。
福島原発事故からも明らかなように、原発は事故を起こしたら手のつけようがないのです。
原発はすべて廃炉にすべきなのに輸出し、その債務を保証するなんてイギリスの人たちが聞いたらなんというでしょうか。
私たちはイギリスの人たちと手を携えて、原発反対を訴えていきましょう。
アベ政治を倒すまで、声を上げていきましょう」
 *昨年から毎回参加されている在日コリアンの女性のスピーチ。
「日本で生まれて育ち70歳になりますが、これまで一度も投票箱を見たことがありません。
私たち在日には選挙権がないのです。
私は《小田実文学と市民運動を考える会》に属して、澤地さんともそのご縁でつながっていますが、私たちの会で出した『小田実没後10年 憲法発布70年目の世直し』というブックレットの裏表紙写真はベ平連のデモの写真です。
小田さんたちが掲げたプラカードに『どこへも入るところのない人いっしょに歩きましょう』と書かれていますが、それが澤地さんが提唱された、この「アベ政治を許さない」スタンディングだと思います。
私たちは、ここにそれぞれ個人として集まり意思表示しています」
 *商社9条の会の仲内さんのスピーチ。
「私のところに長野県の方から来た年賀状です。
長野県で毎月3日に、スタンディングをしている写真が載っています。
来月も3日にここでお会いしましょう」
 *西口スタンディングの大晴子さんは、沖縄の新基地反対運動の方達の掲げる「不屈」の文字がプリントされたTシャツ姿で。
「暮れに菅さんが沖縄に行ってお金をばらまきました。
私は沖縄の人たちはお金をもらっていいと思います。
あれは政府からと言いますが、そうではなくて私たちの税金ですから、私たちは自分達の税金で沖縄の人たちを支援しているのです。
だから沖縄の人たちは堂々とお金を受け取っていい。
けれども心は売らないで欲しいです。
2月4日投開票日の名護市長選、稲嶺進さんを応援しましょう」
 *落合恵子さんは「自民党の中からもアベ政治、ちょっとおかしいぞという声が出始めています。
私たちはその人たちとも共に《アベ政治を許さない》で手をつなぎ、この政治の流れを変えていきましょう。
考え方の違う点はたくさんあっても、この一点でアベ政治を倒し、その後では違う点では離れればいいのです。
《アベ政治を許さない》で、政治の状況を変えていきましょう」
 *南相馬から来た栗村さんは「東京の大学で学んで東京で就職していましたが、原発事故を契機に、2014年に故郷にUターンしました。
南相馬では市が各戸に「日本国憲法」を配布しました。
憲法を変えるなどということが政権から出されて、現行憲法をしっかりみんなに知らせたいということでの配布です。
これは、とても大事なことだと思います。
全国の各自治体が、住民に日本国憲法を知らせしっかり考えてもらうようにするべきだと思います」
 *今日は大勢の方のスピーチがあり、ここに記したよりももっと多くをみなさん話されましたがメモできず、頭に残ったことのみを記しました。
スピーチの中で小田実さんに触れた方がいました。
私は小田実さんの「ひとりでもやる。ひとりでもやらない」を、今年も座右の銘にして歩んでいこうと思います。
今日は私も「トークの会福島の声を聞こう!」のことを一言話しました。
1月21日(日)14:00〜16:00、セッションハウス・ギャラリーで催します。
どうぞ、ご参加ください。
いわき市から埼玉県へ避難している鈴木直子さんがゲストスピーカーです。

今年もまた長い通信をお送りすることになると思います。
どうぞ、飽きずにお付き合いいただけますよう、お願いいたします。   

いちえ

vol.26


2017年12月31日号「問題のリニア新幹線建設工事で起きている大問題!」

友人を通して下記のメールが届きました。
私も早速賛同しましたが、その後宗像さんからのご連絡が直接届いています。
大鹿村に方達にとって、外部からの賛同が大きな励みにおなっているようです。
ぜひ、ぜひみなさまからのご協力をお願いします。
以下が、友人を通じて届いた宗像さんからの最初のメールです。       

いちえ
=========================================
こんにちは。大鹿の宗像です

15日に起きた大鹿村での事故について困った事態になっており
工事中止の声明を上げようと思っています。
つきましては賛同団体になっていただきたく、ご連絡しました。
より多くの団体がご賛同いただければ力になると思いますので
ご協力をお願いします。拡散希望!

ご賛同いただける団体は1月3日までに
連絡先 munakatami@gmail.com TEL 0265-39-2067(宗像)まで

団体名、連絡先と担当者名をお知らせ下さい。
ネット上で公表するほか、県・村・JR東海ほか関係機関に
提出させていただきます。

呼びかけ 大鹿の十年先を変える会(担当・宗像)

村の現状は以下
http://tozansyarinia.seesaa.net/article/455845372.html
事故現場の様子は以下
http://tozansyarinia.seesaa.net/article/455628989.html

=====【以下声明案】=====

大鹿村リニア災害の徹底した原因究明とリニア関連工事の即時中止を求める共同声明

2017年12月15日、長野県大鹿村と村外とを結ぶ主要道路、県道59号線(松川インター大鹿線)の滝沢トンネル出口付近で、JR東海が崩落事故を起こしました。現場はリニア工事に伴う新トンネル(仮称・四徳渡トンネル)の入り口真上です。崩落した300立方メートルの土砂に車1台が突っ込みました。工事事業者のJR東海は、12月19日の記者会見で、トンネル掘削時の発破等による振動が繰り返し作用したことが崩落の原因であったとしています。

県道59号線は全面通行止めとなり、大鹿村民1000人、村外の通勤者、観光客など来村者、それに事業者が、代替道路として峠越えの県道22号線を急きょ利用せざるを得なくなりました。事故後に開通させた新トンネルを利用しての、片側交互通行の仮復旧(12月29日)後の、県道59号線の全面復旧の詳細はいまだ示されていません。住民生活への影響は継続します。代替道路の県道22号線は狭く曲がりくねった道で、大型車の通行時間が決まっているため、利用者は峠越えの道に連なって入るダンプとのすれ違いに緊張を強いられました。仕事での往来、通勤・通学、通院、買い物の足を妨げられ、余計な時間と燃料を費やしました。観光客のキャンセルで宿泊施設の売上は減少しました。高齢者は自家用車の運転で村外に出ることを断念し、村外の親類との往来が困難になっています。村内ではタンクローリーが入らないため燃料不足が生じました。まさに「リニア災害」です。

新トンネルを掘削しようとした道路では、落石や土砂崩壊が度々起きてきました。もともと斜面崩壊の可能性がある場所で、出口付近で発破をかけて生じた不注意による事故です。しかしながら事故の検証は事故を起こしたJRがし、その調査結果が公開されるかどうかも不明です。仮復旧案は崩壊した斜面の下での通行へと移行する予定ですが、利用者の不安はぬぐえません。

JR東海は、21日の大鹿村リニア連絡協議会で謝罪したものの、住民対象の説明会も、お詫びの文書配布もなく、翌22日には南アルプストンネル除山非常口で掘削のための発破作業を開始しています。飲酒運転の加害者が、被害者を放置して別の場所だからとそのまま車を乗り回しているようなものです。もちろん工事の続行による工事車両の通行は、狭い道での往来でいっそう住民に負担をかけます。本来すべきは免許停止です。そもそも工事によって生じた大量の残土を運ぶ工事車両の往来から、住民の安全と利便性を確保するための道路改修で、安全と利便性を損なっておきながら、工事を続ける理由がありません。

すでにリニア事業全体が談合疑惑で公益性を問われています。柘植康英JR東海社長は、疑惑の表面化後も工事の続行を表明しました。しかし、儲け至上主義、スケジュール優先の姿勢が事故を招いたことが否定できないなら、沿線各地で進むすべての工事現場で、住民はリスクと直面します。

私たちはすべてのリニア工事の即時中止を求めます。今回の事故の第三者による徹底究明と再発防止策の提示、住民への説明とその納得がないままの工事続行は容認できません。

呼びかけ 大鹿の十年先を変える会(担当・宗像)
連絡先 munakatami@gmail.com TEL 0265-39-2067


2017年12月28日号「チベットのことを」

先日来、チベットから悲しいニュースが続いていたのですが、昨夜は嬉しいニュースが届きました。

◎焼身抗議は続く
●一斉蜂起記念日
 2008年は、北京でオリンピックが開催された年です。
世界の目がオリンピックに、また開催国の中国に注がれていた年でした。
この年の3月10日、ラサの市場前で数人の僧侶が、チベット国旗を掲げて自由を求める声をあげました。
すぐに警官に捕まり殴打され、連行されました。
 3月、とりわけ3月10日は、チベット人には深く心に刻まれている月日です。
2008年以前から毎年3月には、自由を求めて、政府に対する抗議の声が上がっていました。
そしてそのいつも、レジスタンスの声をあげた者は当局が即座に連行し、その声はかき消されていました。
拘束された人たちがどこでどのような目にあったかは、国内外に報道されることは殆どありません。
 1949年10月1日、中華人民共和国が成立しましたが、その新生中国は「チベット解放」を宣言して、翌年東チベットを占領しました。
チベット人の抵抗は続きましたが圧倒的な軍事力を持つ中国は、1951年、ラサに進軍したのです。
食料の徴用、軍事力による改革に対してラサ市民の不安・不満は高まっていきました。
1959年、ダライ・ラマ法王が中国軍に拉致されるという噂が流れ、3月10日、ついに市民たちは一斉に蜂起したのです。
多くの犠牲者が出ましたが、未だにその数ははっきりしていません。
ダライ・ラマ法王は、ご自分がラサに留まっていてはより多くの犠牲者が出るだろうことも憂慮して、インドへ亡命されたのです。
 3月10日は、一斉蜂起を記念する日なのです。
●2008年3月
2008年3月10日の抗議行動はすぐに鎮圧されましたが、14日にまた数人の僧侶の抗議行動が起きました。
これには市民たちも呼応して、抗議行動は大きくなりました。
不思議なのは、いつもは即座に鎮圧にかかる当局が、そしてまたこうした抵抗運動を決して報道しないのに、なぜかこの時はすぐに鎮圧にかからず一般の市民が加わり騒ぎが大きくなるに任せて、その上で治安部隊を出動させてから、それらの様子が全て映像として国内外に流されたのです。
 毎年3月には抗議行動が起き、そのいつも、すぐに鎮圧されていたのですが、なぜかこの時は違っていたばかりでなく、いつもは国内でも報道されない抗議行動が映像で世界に流れ、「暴動」として報道されたのです。
こうしたニュースに国連や各国は調査団を申し入れましたが、中国政府は当初は受け入れを拒否していました。
 いつもと違っていたのは、こればかりではありません。
ラサでの、政府が言うところの“騒乱”の様子が報道されると、その後チベットの各地で、まるで燎原の火のごとくに抗議行動が起きたのです。
それまではどこかで起きた抗議行動(大抵はラサで、僧侶や尼僧が数人での行動)に、他の地からも呼応するということはなく、その一ヶ所で起きた行動が鎮圧されてお終いでしたが、この時は違いました。
チベット各地で、抗議行動が湧き上がってきたのです。
平和の祭典と謳われるオリンピック開催国の、人権弾圧の実相に目を向けて欲しいとチベット人たちは立ち上がったのです。
けれども全て鎮圧され、行動に加わった人たちは捕らえられて、そのまま帰らぬ人になった数も定かではありません。
●2009年、最初の焼身抗議が起きた
 チベット歴のお正月を迎えて、各地のチベット人たちは前年の抗議行動で犠牲になった同胞を悼んで、新年は祝賀行事ではなく祈りを捧げようとしていました。
これは誰かが命じてのことではなく、チベット人たちの心に湧く自然な思いからのことだったでしょう。
政府は正月を祝うように勧め、一部の地域ではわざわざ晴れ着を支給したり、爆竹を配ったりもして、“楽しく新年を祝う”ことが強要されたのです。
 アムドのキルティ僧院では、新年の祈祷祭を執り行おうとしたのですが、当局はこれを禁じました。
正月の2日後(2009年2月27日)、この僧院の僧侶タベー(20歳)は僧院の前でガソリンを被り自らに火をつけ、抗議の焼身を図りました。
当局はタベーに発砲し、怪我をした彼を連れ去りました。
 2008年以降、チベット人への弾圧は一層強まり、路上などで数人が集まっていると取り締まられ、居住区から他地区への移動には許可証が必要になるなど、嫌がらせのような締め付けが行われるようになっていました。
そうした状況下で2011年3月16日、二人目の焼身抗議が起きました。
タベーと同じ僧院のやはり20歳の僧侶のプンツォです。
当局の締め付けはなお一層きつくなり、自由のない、がんじがらめのような日々、数人の平和的デモも、抗議の声もあげられないチベットで、その後も焼身抗議は続きました。
 2016年12月アムドで2人の子どもの父であるタシ・ラプテン(31歳)が焼身し、亡くなりました。
152人目の焼身抗議でした。
●2017年
3月18日、カムのニャロンで24歳のペマ・ゲルツェン
4月15日、カム・カンゼで僧侶らしい男性
5月2日、アムドのボラで、16歳の男子学生チャドル・キャップ
5月20日、アムド・チェンツァで、22歳の僧侶ジャミヤン・ロセル
7月14日、インドのベナレスで、チベット人難民の男子大学生テンジン・チュイン
7月29日、インド・ダラムサラで、バッサン・ドゥンドップ(48歳)
11月26日、カム・カンゼで、63歳の僧侶テンガ
12月23日、アムド・ンガバでコンベ
 今年になってからも焼身抗議は続きました。
2009年のタベーから、このコンベで160人もが、自らを炎と化して抗議をしてきたのです。
中国政府は焼身したチベット人の家族を拘束し、出身の村や地域に厳戒態勢を敷いて取り締まりを強化しています。
 各地で抗議行動が続いた2008年から10年目を迎える2節目の2018年、政府は抗議行動が起きることを未然に防ぐために弾圧を一層強化するのではないかと憂えます。
焼身のニュースが入るたび、胸が抉られます。

◎家族再会が果たせた!
 以前に映画『ラモツォの亡命ノート』を、ご紹介したことがありました。
ご覧頂いた方もおいでかと思います。
ラモツォはアムド出身の女性ですが、夫のトゥンドゥップ・ワンチェンが、「国家分裂扇動罪」で囚われたため、滞在先のダラムサラから故郷へ戻れず亡命生活となりました。トゥンドゥップ・ワンチェンは北京オリンピック開催に関してのチベット人たちの心情を映像にまとめて発表したことが、政府の逆鱗に触れたのです。
 『ラモツォの亡命ノート』は、夫のワンチェンが6年の刑期を終えて釈放され故郷の村へ戻り、亡命先に居るラモツォや子どもたちと電話をかわすところで終わっていました。
ワンチェンは、釈放されても当局の監視下に置かれていたのです。
 昨日27日、映画監督の小川真利枝さんから、嬉しいニュースが届きました!
ワンチェンがラモツォや子どもたちが居る、サンフランシスコに亡命することができて、家族が再会を果たせたというのです!
アメリカ時間の12月25日のことだったそうです。
ラモツォも子どもたちも、そしてワンチェンも、どんなにこの日を待っていたでしょう。
本当に嬉しいニュースでした。
 トゥンドゥップ・ワンチェンはインタビューでこう語っていました。
「久々に自由と安全を感じることができました。
そして妻と子どもたちを再び抱きしめることができ、支援してくださった皆様に感謝しています。
けれども故郷チベットを去ったことを痛みに感じ、またチベットのことを考えると喜びに浸ってばかりではいられません」

 チベットに自由の風が吹く日を、チベットの人たちが安寧な日々を送る日が来ることを、心から祈っています。                    

いちえ

 


2017年12月27日号「12月18日南相馬」

18日南相馬へ行ってきました。
今回も福島駅からは、福島交通のバスで、終点の原町駅前で大留さんが待っていてくれました。
●「7年は長いよ」
 この秋は、帯状疱疹をこじらせて体調不調が続いていた大留さんの運転する軽トラで、仮設住宅へ向かいながらの会話です。
*一「具合はどうですか?」
*大「まぁまぁだね。だけど無理はできなくなったね。明後日誕生日がきたら80だからね。だけど調子がいい時は、80なんて全然思えないんだよね。60くらいのつもりなんだよ。でも、やっぱり無理は効かないね。前みたいな勢いはなくなった。年齢は正直だね。順調に進むよね。逆戻りはしない」
*一「そうですよね。私も、例えば歩く速度が遅くなったなぁと自分でも感じるし、自分が思っているよりも、体のほうは確実に歳を重ねてますよね」
*大「一枝さん幾つになったの?」
*一「年が明けたら73です」
*大「僕が一枝さんの歳の時、震災だったんだよ」と。
 7年の年月をしみじみ振り返りながらの、走行でした。
と言うのも、前の晩に寺内塚合の天野さんから電話があったのです。
前回訪ねた時に天野さんから頼まれた買い物があって、それを届けに18日に行くことを伝えてありました。
電話口で天野さんは「寒いから無理して来ないでね」と言いつつも、さらに言葉をつなぎます。
「こんなに長いことお世話になって、何にもお礼もできないで。たくさんの人にお世話になったのに、何にもお返しができない」と繰り返すので、私もまた、誰にもお返しやお礼は必要なく、ただ天野さんたちが元気で過ごしていてくれることが、一番嬉しいことなのだと繰り返すのですが、そのうちに天野さんの声は涙声になったのです。
 以前にも夜に電話があった時には、やはり最初は普通に話していても次第に泣き声になってしまう天野さんでした。
こんなことはこの1、2年のことで、それより前は泣いたりすることのなかった天野さんです。
また前回の訪問時は私の友人たちも一緒だったのですが、その時にもみんなで話しているうちに天野さんは泣き出したのでした。
 仮設住宅に向かう車の中で大留さんに昨夜の電話での天野さんのことを話すと、「7年は長いよ。誰もこんな風になるとは思っていなかった」という大留さんでした。
「だからね、僕も時々行って笑わせてやらなきゃと思ってるんだよ。笑ってなきゃダメだ。心配ばっかして、下向いてたんじゃダメだ」
そんなこんなを話しながら、寺内塚合仮設住宅に着きました。
●笑いが溢れた談話室
 談話室には社長こと菅野さん、山田さん、そして営業部長こと天野さん、いつもの3人が居ました。
3人の元気な姿を見るなり大留さんの一声、「ああ、香典持ってこないでよかった!」それでもう、みんな大爆笑でした。
大留さんって、つくづく素晴らしいキャラクターだと思うのはこんな時です。
大爆笑のあと、体調はどうなのかと天野さんに問われて大留さんは、だいぶ治って元気だと答え、車の中で話したと同じように20日の誕生日を迎えると80歳だけど、元気な時は60歳の気分だと言い、またみんなの笑いを誘いました。
 大留さんが歳の話をしたものだからみんなも年齢を明かして、菅野さんが86、山田さんが84、天野さんが83と言うと大留さん、「みんな80過ぎてたら、いつ行ってもおかしくないんだよ。行きたくないって言ったっていずれみんな行くんだから、先のことをくよくよ心配してちゃ損だよ。心配したって心配しなくたって同じに行くんだからね」と言うのでした。
全くこんなことを普通に話せて、言われた方も普通に受け止められるのも、大留さんだからこそだと思いました。
 私は、友人の野池さんから聞いた話をしました。
お連れ合いは沖縄の人で、そのお母さんが95歳で亡くなり野池さんは葬儀に行ってきたのです。
告別式では紅白饅頭が配られたことを、野池さんから聞いていました。
95歳まで生きた長寿を、目出度いこととしての風習でしょう。
それを話すと菅野さんも天野さんも山田さんも、口々に「私らのとこでは80過ぎて亡くなった人は、紅白の餅を配ったな。49日には紅白の手拭い」と言うのでした。
最近は見られなくなったと言いますが、少し前まではこの辺りでもそういう風習があったようです。
 紅白の餅が配られる年齢の仲間入りをした大留さんが、また言いました。
「目出度い歳まで生きてきたんだから、もう自分のことだけ考えていればいいんだよ。残った人のことは心配しなくてもいいんだ。
社長(菅野さんのこと)みたいにデンと座って、お釈迦様みたいな顔してたらいいんだよ。見てごらん、社長は本当にお釈迦さまみたいだよ」
それを聞いてまたみんな大笑いでしたが、言われてみれば本当に、太っていて柔和な顔つきの菅野さんは、お釈迦様然として見えます。
しかも菅野さん自身が言うのです。
「私、本当にお釈迦様みたいなの。動けないから座ってて、みんな人にやってもらって。誰かに何か頼まれても、私は『やんだ。できねぇ』って言うと、やってくれっからね」
太っていて足腰が不自由で立ち居振る舞いも大変な菅野さんは、談話室に来るのも娘婿さんが自宅から送ってくれて、談話室に着くと天野さんが出迎えて手を引いて椅子に座らせ、帰る時もまた娘婿さんが迎えに来ると天野さんに出口まで手を引いて送られて帰るのです。
●とりあえずの生
 6人だった仲間が3人になったけれど、ここに来れば不安な思いで過ごした日々を共にした仲間がいる。
今も一人でいれば不安は尽きないけれどここに居れば、訪ねる人がなく3人で過ごす時も話し相手が居るし、笑いも起きる。
でもいずれは、ここに集うこともできなくなるのは解っている…
入居期限は2019年3月末まで伸びたけれど、その後は。
私は、以前に取材で旧満州を訪ねていた時に、残留邦人の女性が言った言葉を思い出します。
「とりあえず、生きてます」
笑いの向こうに、「とりあえず生きている」天野さんの涙があるのです。
「来年も来ますからね。風邪をひかないように気をつけて、どうぞ良い年を!」と挨拶して、談話室を辞しました。
●追い出しの声は
 寺内塚合も他の仮設住宅と同様、残っている人はわずかになっています。
他の仮設住宅では、入居者に退去予定を問う電話が度々かかってくるらしいですが、ここにはそれはないと聞きました。
それが、せめてもの慰めでしょうか。
仮設住宅居住者ばかりでなく他の地で避難生活を続ける人たちにとっても、心置きなく今の住まいに住み続けられることが保証されて欲しいです。
原発事故を起こした国と東電の責任として、被災者に「住の安心」を保証すべきではないでしょうか。
山形の雇用促進住宅入居者に対しての追い出し裁判など、到底許すことはできません。
●「いととんぼ」で
 「いととんぼ」は2004年8月に原町区の江井(えねい)に、地域の田中京子さんたち女性4人が開いた農産物と加工品の直売場でした。
それが2011年3月の原発事故で、閉店を余儀なくされました。
江井は原発から20キロ圏内です。
南相馬市議としても活躍している京子さんですが、震災直後から「必ず再開する」と心に誓っていました。
原発事故で放射能の影響があるから無理だと言われながらも、諦めずにチャンスを待っていました。
そして被災から4年後の2015年9月に原町区の北原に、食堂と農産物及び加工品直売店「株式会社いととんぼ」が再開したのです。
従業員はみな被災当事者たちで、店で働くなど初めての人たちばかりでした。
 再開した店では安全な食べ物しか売らないと、食品の放射線量を測り生産者の名を表示して売っています。
例えば「ちよこばあちゃんの餅」や「佐藤さんの梨」などと表示して。
でもすぐ近くに大きなスーパーと併設の食堂があるので、果たして営業が成り立つだろうかと案じながら、時々いととんぼを訪ねていました。
京子さんは、「私はここに住むし、ここに住む人たちがいるのだからその人たちのためにも、少しでも復興に向けて前に進みたい。安全で安心なものを作って欲しいし、食べて欲しい。そうやって一歩でも前に進みたい」と言うのでしたが、いつ訪ねても閑散としていて、案じていたのです。
●常連客もついて
 お店で働いているのは、仮設住宅を訪問した際に何度も会っていた志賀さんや、以前には私の定宿の六角でパート勤務だった渡辺さんなど、顔見知りの人たちもいます。
最初の頃はちょくちょく訪ねていたのですが、これまではお客さんも少なかったせいか店員さんも交代勤務で、訪ねても志賀さんや渡辺さんの顔を見ることもなかなかありませんでした。
今年になってから京子さんには六角で会っていましたが、お店を訪ねることなく過ぎていたのでした。
久しぶりに訪ねた「いととんぼ」には、京子さんを始め、志賀さん、渡辺さんほか2人の店員さんが揃っていました。
軌道に乗ってきて常連客も増えたそうで、食堂のメニューも増えていました。
久しぶりに会った志賀さんや渡辺さんは、とても元気そうでした。
志賀さんなど、以前よりも若返ったようにさえ見えて嬉しいことでした。
●働く場があるということ
 志賀さんの自宅は小浜でしたが津波で流され、仮設住宅に入居していましたが、2015年夏に萱浜に新居を建てて、仮設を出ていました。
 被災前から六角で働いていた渡辺さんの自宅も津波の被害に遭い、原町のアパートを借りて夫婦と義母とで暮らしながら六角のパート勤めを続けていました。
ところがある日渡辺さんが仕事から戻ると、自ら命を絶った義母の姿があったのです。
それから間もなくして、渡辺さんは六角をやめました。
どうしているかと気になっていたのですが、いととんぼが再開した時にそこで渡辺さんに会って、ホッとしたのでした。
 京子さんは女性の雇用を増やしたい思いもあって、「いととんぼ」再開に踏み切っていたのです。
志賀さんや渡辺さんに「一緒にやろう」と声をかけた京子さんでした。
志賀さんにも渡辺さんにも、ここで働くことが生きがいになっているようです。
●多感な年齢のときに起きた原発事故
 志賀さんに「お孫さんの具合はどう?」と尋ねると「うん、だいぶ良くなって、勉強は相変わらずやっているけれど勉強だけじゃなくて、オシャレにも気が向いてきたみたいで、良かったと思ってるの。もう心配ないかなと思ってる」と返事が返ってきました。
 志賀さんのその孫娘は震災時小学4年生でした。
避難所を経た後で、お母さんと妹の3人で東京に避難しました。
お父さんは勤めていた会社の支店が須賀川にあり、単身赴任で須賀川支社に転勤になりました。
妹は学校の友人や先生にも恵まれて東京の生活に馴染みましたが、彼女はクラスに馴染めずいじめにも遭い、不登校になっていきました。
それだけではなく汚染食品や添加物などに非常に神経質になり、そうした食材を使っていないと言っても食べることを拒み拒食症になり、何かものに触れたら過度に石鹸で手を洗わねば済まなくなったりの症状も出て、それだけではなく妹にキツくあたるようにもなって、医療機関の治療を受けるようになり、症状が落ち着かない時期には入院しました。
 その頃志賀さんは小池長沼仮設住宅にいましたが、孫が入院すると付き添いに行き、しばしば数カ月に及ぶこともありました。
けれども入院先では、そうした子どもたちにはとても良い施設だったようで、院内学級もあり、食事指導などもよくしてくれて子どもたちに無理ないように、一人一人に合わせた取り組みをしてくれる施設でした。
 両親は放射能の影響を考えて、南相馬から須賀川へ転居することにして須賀川に新居を作り、お孫さんの中学入学を機に東京での避難生活を切り上げて、須賀川に転居したのでした。
環境の変化を機に症状が好転することを願い、また福島の医療機関を紹介されての転居でした。
ところが新居にも中学にも馴染めず、医療機関に入院して院内学校で学ぶ日々でした。
 小さい時から勉強はとても好きで成績も良く、考え方もしっかりしたところもある娘さんですが、例えば食品成分表を自分で調べて摂取する食物を考えるなど、もしかしたらそうした探究心が、状況に合わせにくい症状として現れているのかもしれないと思うのです。
彼女は東京にいた時の医療機関の女医さんの指導に救われたという思いがあって、将来は医者になりたいと言っているのです。
自分のような子どもの助けになれるような医者になりたいからだと。
 仮設住宅にいた間、萱浜の新居に移ってからも何度か志賀さんを訪ねて、孫娘さんの状況をお聞きしてきた私にも彼女が元気になってきた様子が志賀さんの話からだけではなく、今日の志賀さんの様子からも伺えて、本当に嬉しいことでした。
 感受性豊かな年頃の、中でも取り分け感受性豊かな少女に、原発事故がもたらした影響を思います。
幸い彼女は、苦しい時を経て立ち直ってきているようですが、そのまま折れてしまった若い芽もあるのではないかと思います。
渡辺さんの義母のように自死した人も多くいます。
東電と政府は、こうした事実にしっかり向き合って欲しいです。
●村上浜に白鳥の群れ
 いととんぼの皆さんにお暇をして、小高の海よりの地域を見て帰りました。
稼働中の焼却炉が白煙を吹き出していました。
そこに運び込まれていったのでしょうか、フレコンバックの山も片付いていたところもあり、また海岸線の防潮堤建設や道路改修工事などで辺りはすっかり様変わりしていて道に迷いもしました。
大型の工事車両が頻繁に行き来するので道路の痛みも激しく、そのための改修工事もまた必要になっているようです。
 村上浜の辺りには白鳥が100羽以上も群れていました。
冬の南相馬では白鳥を見ることも珍しくないのですが、こんなに大きな群れに出会ったのは初めてのことでした。
駅周辺は前回訪ねた時よりも幾分か活気があるように思えました。

*駆け足の南相馬行でしたが、7年の歳月を深く感じた今回でした。   

いちえ


2017年12月23日号「12月13日防衛省交渉報告&裁判結審」

◎防衛省交渉 16:30〜17:00
 北上田さん、山城さんの話の後、防衛省の職員3名を迎えての交渉がありました。
福島瑞穂参議院議員も出席して、交渉に当たりました。
当初は1時間を予定していたのですが、防衛省側から忙しいので30分と時間を切られたようです。
そのために多くの質問事項について防衛省側からの回答が得られず、持ち帰って20日までに福島瑞穂事務所に返答を出すと言うことになりました。
 短い時間内でのやりとりを記します。
質問者の名をしるしていないQは、北上田さんからです。
山城さん、福島議員、阪上さん(FoE Japan)の質問等は、それぞれのお名前を記します。
●石材の海上搬送について。
Q: 本部港、奥港からの石材を積んだ台船は、それぞれ1日に何隻、航行すると想定しているのか?
A: 現時点では、それぞれの港について1日一隻を想定。
Q:本部港、奥港の港湾使用許可申請では、それぞれ何隻の台船の岸壁使用許可を求めたのか?
A:業者が直接申請なので、防衛省は把握していない。
福島議員:防衛省の工事なのだから、防衛省が把握すべきではないか!
防衛省は福島議員の言葉に応えず。
Q:本部港、奥港へは、1日に何台のダンプトラックで石材を搬送する計画か?
A:本部は10tトラック160台相当。奥は80台程度。
Q:「環境保全図書」において『ウミガメやジュゴンが頻繁に確認されている区域内を出来る限り回避し』と、防衛省もジュゴンやウミガメの生息地は回避と言っているが、
生息海域を航行しているのではないか?
A:ジュゴンやウミガメが確認されている地域は衝突を回避するようにしている。見張りをしつつ、衝突を回避している。
福島議員:ジュゴンがいるところの航行は回避押すべきだ。
Q:本部港から大浦湾まで、衝突を回避出来るような速度で航行した場合、航行距離は何Kmほどになり、所要時間はどれほどになると想定しているのか?夜間航行も予定しているのか?
A:質問内容を精査中
Q:20日までに福島事務所に回答してほしい。
Q:奥区の区民らは区民総会において全会一致で石材の海上搬送のために奥港を使用することに反対決議をあげ、防衛局を訪れて決議文を渡し、奥港の使用中止を求めた。
こうした奥区民の総意を尊重すべきではないか?
A:決議は受け止め、引き続き丁寧な説明をする。
Q:決議文は読んだのか?
A:決議を軽く見ることはない。丁寧な説明をしていく。
福島議員:住民が求めているのは説明ではなく、止めてほしいということだ。
●K9護岸からの石材陸揚げについて
Q:翁長県知事は、「K9護岸を桟橋として使用して海上運搬を行う件について、実施設計及び環境保全図書等について県と事前協議をやり直すこと。また、協議が調うまでは海上搬送をしないこと」という行政指導の文書を出した。
実施設計の事前協議が行われていないこと、また、環境保全対策等の事前協議が行われていないとして、直ちに奥港を使用した海上搬送を停止し、留意事項に基づく変更承認の手続きを行うよう求める文書を発出したという。
こうした沖縄県知事の行政指導をなぜ、無視し続けるのか?
A:陸上搬送によって起きる環境破壊を避けるために海上搬入にした。
Q:防衛局はK9護岸について、県が「当初の目的にはない係船機能をもたせた施工をしており、実施設計協議で示された設計内容と異なっている」と指摘したことに対して、「施工途中のK9護岸を使用するものであり、ご指摘の『当初の目的にはない係船機能をもたせた施工』はおこなっていない」と反論している。
しかし、現在のK9護岸工は、本来の構造とは全く異なり、また石材陸揚げの際には、ダンプトラックの回転場、離合場として使用されている。
「施工途中のK9護岸工」を使用したものはなく、当初の計画を変更し、石材陸揚げ想定して施工されたことは明らかではないか?
A:施工途中のK9護岸を利用している。
Q:そのようなことは計画にあったか?
A:あくまでも仮設工事としてのこと。
Q:当初の本体工事と全く違うことをしているではないか。
Q:K9護岸からは1日に何台程度のダンプトラックによる石材陸揚げが可能と想定しているか?
台船1隻にダンプトラック190だいぶんの石材を積み込み、1日に2隻程度の台船を使用するというが、K9護岸から1日に380台ものダンプトラックによる陸揚げが可能か?
A:現時点で台船は1日1隻で、ダンプトラックは1日160台で700立米だ。
Q:現時点では、辺野古には1日1隻ということか?
A:そうだ。
Q:K9護岸以外からの陸揚げとして、どのような方法を検討しているのか?
A:それ以外は、具体的な方法はない。
Q:11月14日には1日かけてたった50台だった。
作業効率をあげるためと言って、なぜそんなこと(1日160台)をやるのか?
何か工法はあるのか?何の方法もないのだから、やめたら良い。
●石材の購入方法について
Q今回、防衛局は石材購入に際して、公募による手続きを行っているのか?
行わなかったとすればなぜか?
A:現時点で、石材の購入は受注者の判断でやっている。
Q:石材の購入は、「採石場渡し」「積み出し港渡し」「現場(シュワブ内)渡し」のいずれか?
A:業者の考え方なので防衛省は把握せず。(注:なんだかとても胡散臭いと思います)
●大浦湾の活断層について
Q:今までの調査で、大浦湾の活断層の存在は明確に否定されたのか?すべてのデータを公表し、具体的に説明されたい。
A:データの公表、ボーリング調査等膨大な量ですべて公表できない。
活断層の存在は認めない。ボーリング調査の分析はまとまっていない。
調査によって発見された認識はない。
Q:2014年から始まったボーリング調査は2016年3月31日で終わっている。
報告書は出て支払も済んでいるはずだ。結果が出せない筈はないだろう。
Q:2000年10月31日の「第3回普天間飛行場代替え施設に関する協議会」に提出された「推定地層断面図」には、大浦湾海底に推進50m以上の「断層によると考えられる落ち込み」が明記されている。
防衛省がこれを発表していて、地質学者が活断層と言っているのだから防衛省は自分たちの資料の中で開示すべきだ。推定地層断面図の根拠を出せ。
山城:この会議は、沖縄現地も注目している。
島々の周囲は珊瑚礁で遠浅の海だが、ここだけは水深70mである。
どういう海か回答せよ。
●外来生物侵入防止対策について
Q:外来生物(セアカゴケグモ・アルゼンチンアリ等)を飼育等の上、当該生物を死滅させるための条件を試験により明らかにし、当該侵入防止対策の研究の資とすることとしている」というが、飼育・試験等似ついて具体的に説明されたい。
A:高温処理等で業者に委託して、一定時間の高温処理を施し生死の判明を行う。
阪上:すべての土砂で、すでにやっているのか?
A:すでにやっている。(注:大量の土砂をすべてこのような処理でできるとは到底信じられない!) 

 長文になりましたが、これで12日、13日の集会と防衛省交渉の報告は終わります。
最後までお読みくださって、ありがとうございました。
防衛省交渉では以前にも感じたことですが、官僚の顔をあげてこちらを見ずに下を向いてボソボソ話す様は、その態度にも「義」の無さが表れていると思います。
 これは官僚との交渉などでなくても日頃の付き合いの中でも感じることですが、
たとえ相手の言うことが私の思うことと真逆であっても、本人がそこに彼の「義」があると思っていれば、こちらを見据えて堂々と主張すると思うのです。
つまり、嘘は態度に表れると言えばいいでしょうか。
そんなことを、今回もまた改めて感じた防衛省交渉でした。    

◎12月20日裁判結審
 山城博治さん、稲葉博さん、添田充啓さんの、裁判が結審しました。
北上田さんのブログ「チョイさんの沖縄日記」で、傍聴記が記されています。
ぜひご覧ください。
それぞれの弁護団の最終意見陳述の後で、山城さんら3人が最終意見陳述が記されています。
傍聴席から大きな拍手がわき上がり、裁判長が生死しても止まず長く続いたそうです。
その様を想い浮かべて、私も胸が熱くなりました。
那覇地方裁判所の柴田寿宏裁判長に宛てて山城さん、稲葉さん、添田さん3人の完全無罪判決を求めるハガキを書こうと思います。
 どうぞ、皆さんもご協力ください。
宛先は下記です。
〒900-0022 沖縄県那覇市樋川1−14−1那覇地方裁判所 裁判長 柴田寿宏殿

いちえ






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