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2019年2月22日号「お知らせ」

『たぁくらたぁ』47号が発刊されました。
B5版で76ページという小雑誌ですが、読み応えある記事満載です。
ぜひお手に取ってみてください。
特集「福島第一原発事故から8年 新たな『安全神話』づくりの現実」
他の記事も読んで欲しい記事ばかり。
我が友、ゲニェン・テンジンの「チベット難民の長い旅はつづく」新たな連載も始まりました。
私も裁判傍聴記、書いてます。
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いちえ

9784866230276


2019年2月20日号「1月27~29日福島行③」

◎南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟原告H・Y子さん
1月18日に第14回口頭弁論が行われましたが、私はこの裁判は2、3回傍聴できなかったことがありますが、可能な限りは傍聴してきました。
開廷前の集会や閉廷後の報告集会、また裁判中の原告の方たちの意見陳述を聞いてきて、ぜひ一度ゆっくりお話をお聞きしたいと思っていた人がいます。
1月28日に、そのH・Y子さんをお訪ねしてきました。
●「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」とは
年20ミリシーベルトを基準とした特定避難勧奨地点の解除は違法だとして、南相馬の住民206世帯808人が国を相手取り、解除の取り消しを求めて2015年に東京地裁に提訴した裁判です。
特定避難勧奨地点というのは警戒区域や計画的避難区域外(つまり20キロ圏外)で、事故発生後の1年間の積算線量が20ミリシーベルトを超えると推定される世帯を、原子力災害対策本部が指定しました。
一律的な避難指示や産業活動の規制はせず、放射線の影響を受けやすい妊婦や子どものいる家庭に対して特に避難を促す対応が取られたのです。
南相馬市・伊達市・川内村の一部世帯が対象になり、毎時3,0〜3,2マイクロシーベルトが基準になりました。
南相馬市では2011年7月、8月、11月に指定され152世帯が対象になり、そのほとんどが妊婦や子どものいる世帯でした。
2014年12月28日、年間20ミリシーベルト以下になったということで、国は指定を解除したのです。
解除の3ヶ月後には賠償も打ち切られ、また医療保険の一部免除、介護保険・障害福祉サービスの優遇など様々な支援も打ち切られました。
けれども、そもそも年20ミリシーベルトは高すぎる値です。
ICRP(国際放射線防護委員会)の勧告や日本の国内法令である原子炉等規制法による公衆の年間線量限度は1ミリシーベルトなのです。
避難指示・勧奨の解除にあたっては住民から多くの疑問や反対の声が上がりましたが、
国はそれを押し切りました。
それに対して南相馬では、指定されていた152世帯と、その近隣の住民も合わせて206世帯808人が提訴したのです。
そして2015年9月28日、第1回口頭弁論が開かれたのでした。

●Y子さんに会いたかったわけ
 Y子さんは裁判原告団のお一人ですが、集会ではことさら饒舌なわけではありません。
けれども彼女の発する言葉を聞く私たちに、原発による被害をありありと晒します。
第3回口頭弁論でY子さんの意見陳述を聞いたとき私は、あたかも私自身が汚染されたその場に立っているように感じたのでした。
 他の原告たちは、若者や子どもの姿が消えたこと、病院や介護施設は医師や看護師・介護士が不足して機能せず、バスも通らないので交通の手段が無く、地域のコミュニティーも崩壊したことを切々と訴えました。
その訴えを聞いたとき私は、人の姿のない、声も聞こえない街が脳裏に浮かび、そこに戻って暮らすようにと進める政策に憤りを覚え、またそこに戻らざるを得ない暮らしを思うと涙がこぼれましたが、怖さを感じることはありませんでした。
 2016年3月28日の第3回口頭弁論の日に、東京地裁103号法廷でY子さんは訴えました。
「私は、原発事故の当初から地表面の放射線量の高さに不安を持っていたのですが、国は空間線量しか発表してこなかったのです。
本当のことを知るためには自分で動くしかないという思いから、『ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト』(注:南相馬市を中心に空間線量及び土壌汚染を測定し、数値を地図上にメッシュで可視化するボランティアグループの活動。汚染地帯での活動のためメンバーは60歳以上を原則とする)に参加しました。
私たちが住んでいるところの正確な状況を伝えるため、そのときのデータをしっかりと残さないといけないと考えて、モニタリングを継続しています」
 そう話し始めたY子さんは、国は家の中の空間線量率について家の外の空間線量率に0,4の遮蔽係数をかけて計算しているのは不当であると、次のように言いました。
「私の家は、平均屋外線量が1時間当たり0,19マイクロシーベルト、平均屋内線量が1時間当たり0,18マイクロシーベルトになります。
家の中と外の空間線量率はほとんど変わりません。
そのため家の中でも、被ばくが少ないとは言えないのです」と具体例を挙げ、原告の中にはY子さんの家のように家の内外で線量がほとんど変わらない世帯や逆に内の方が高い世帯があることを訴えました。
そして屋内と屋外の両方を測定した120世帯の遮蔽係数を平均すると、0,81になることを示しました。
 Y子さんの家のように屋内と屋外の空間線量率が変わらなくなっているのは、事故からの時間の経過を考えれば当然で、窓を開けたり家への出入りで空気中に漂う放射性微粒子がチリや埃と共に家の中に入り込み、洗濯物や布団を外に干せば、それに付着して放射性微粒子は持ち込まれること、裏山やイグネ(屋敷林)、屋根などに付着した放射性微粒子が屋内の空間線量率を高くしていると考えられると言いました。
こうした実情を無視して0,4の遮蔽係数を用いている、国の誤りを指摘したのです。
 またY子さんは、南相馬市の各行政区の空間線量率を色別に塗り分けたメッシュ地図にして、地域の空間線量率が高いことを目に見える形で示しました。
 Y子さんの言葉に私は、じわりじわりと身の内に放射性物質が入り込んでくるような怖さを覚えました。
 その後も口頭弁論は重ねられ、昨年10月3日には第13回口頭弁論が開かれました。
原告らの内部被ばく検査のために、「ちくりん舎(市民放射能監視センター)」が原告らの尿検査を続けてきていますが、第13回口頭弁論ではY子さんの尿検査結果が準備書面として提出され、Y子さんが法廷で発言しました。
Y子さんは長期保養として2ヶ月間、南相馬を離れて島根県で過ごしてきたのですが、
保養の前後の尿中セシウムを比較することで、そこから保養期間中は内部被ばくが低減することが明らかにされました。
 今年1月18日の第14回口頭弁論の報告集会で、原告団の団長や副団長たち何人か男性たちが、医療機関や介護施設、スーパーなどが無くて日常生活が非常に不便であることや若者や子どもが戻らないことなどを発言した後で、Y子さんが言いました。
「あのね、うちの主人がね、庭に青じその芽がたくさん出たのを丁寧に、畑に植え替えたんです。どうせ食べられないのは判っていながら、何もせずにはいられなくて植えていました」
 Y子さんの言葉からはまた、男性たちの言葉以上にありありと現状が伝わってきたのでした。
Y子さんの言葉はいつも、大きな主語ではなく小さな主語で語られます。
小さな主語で、核心に迫る大事なことを言葉にします。
こんな風に語るY子さんのことをもっと知りたく、また、もっとY子さんの話を聞きたく、お宅をお訪ねしたのでした。
●Y子さんの家で
 Y子さんの家は、以前に私が六角支援隊(注:南相馬市大甕のビジネスホテル六角を拠点に活動していたボランティア)で何度か訪ねたことのある酪農家の杉さんの家の近くでした。
 この日私は、Y子さんに読んでいただこうと『たぁくらたぁ』を持って行きました。
そこに私は福島原発刑事裁判の傍聴記を寄稿しています。
Y子さんは刑事裁判で罪を問われている東電元幹部の3被告について、こう言いました。
「可哀想な人達だと思う。言いたくても言えない立場で死んでいかなきゃいけない。
一人の人間として見たとき、言いたくても言えないことを持って死んでいく罪深さ、罪の重さを、どうとらえているのかな?
責任逃れなんか絶対できないのに、それを喋らせないようにしているのは政府。
 みんな嘘をついてる。
嘘がばれたとき、この人達はどうするんだろう?
 早野論文(注:東大名誉教授の早野龍五氏による論文で個人データを不正に使用し、被ばくを過小評価している)を政府が鵜呑みにしていて、この状態でしょう。私らは、どうすればいいの?」
 そして言葉を続けました。
「自民党議員から20ミリシーベルト撤回を降ろせと、圧力がかかっている。
でもこの裁判もこの年末か来年1月に結審と聞いている。
除染して1ミリシーベルトに近づけますなんて曖昧なこと言って、その間に私らは被ばくする。
20ミリなんてとんでもない。
原告団の仲間も、もっと勉強してほしい。
『あれが無い、これが無い、あれが欲しい、これも欲しい』ではなくて、自分がいま置かれている環境の現状を話し、7年も8年も経っているのに被災者はまだこんな状態でいることを伝えなければ。
当事者が学ばないで、誰が守ってくれますか?」
そう言ってY子さんは1枚の表を見せてくれたのです。
それは、12月にOさんのお宅で見せて頂いたのと同じ表でした。
●原告団の尿検査結果表
 これについては年末にお送りした「一枝通信 12月20・21日福島行」に記しましたが、原告団の方たちの尿中セシウムの検査結果を表にしたものです。
Oさんのお宅で表を見た時に、その中で飛び抜けて数値の高いご夫婦はきっとキノコを食べたのだろうと想像していました。
この日Y子さんが示した表を仔細に見ると、他にも数値の高い人達が散見できました。
Y子さんは言います。
「Eさんがキノコ採って、みんなに配ったんだって。
Kさんね、『俺、一ヶ月食った』って言うの。
Kさんの奥さんの数値は低いから聞いたら、『俺の母ちゃんは食べなかった』って」
 数値が高い他の人達もEさんに貰ったキノコを食べていた人達でした。
それを聞いて私が「切ないですね」と言うと、Y子さんは答えました。
「切ないでしょう?
私がこんなに頑張ってやってたって、みんな危機を感じているのだろうか?って思う。
『塩水で茹でれば半分になる』なんて言ってキノコを塩漬けにして、茹でて半分になるなんて言って、食べてる。
イノシシも食べてるって。
 私この表見ながら、水俣の胎児性水俣病を想い起こしてた。
結局いまの人達は、見えるものしか信じないからね。
でも自分の子孫に影響が出たら、自分が何をしてきたか、自分が恨まれるような立場になるって。
自分たちでできることは、やらなきゃならないんじゃないかなって思う。
周りはそれをやらなくても、見過ごすわけにはいかないから、データを取り、それを記録にして残しておけば、後の人達は昔こんなことがあったって解るでしょう」
●被ばくを顧みず
 Y子さんは「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」のメンバーと共に、線量の高いところを測定に歩きます。
ある時、足の指が痛くて痛くて、くるぶしから下が鉛色になったことがあったそうです。
その頃は顔も鉛色で艶もなく、病人そのもののようだったと言います。
米国の原子力研究家アーニー・ガンダーセン氏が来日しての調査時、南相馬に来た時にはY子さんも同行したそうです。
Y子さんの足は「ベータ線焼け」だったそうです。
その後Y子さんは、ふと気がついたら足の痛みも消えていて、鉛色だった足先も肌色に戻っていたそうです。
Y子さんは、「被ばくだったね。本当に放射能は怖い。
ここにこうして居るだけで、内部被ばくと外部被ばくの両方やられるんだよ」と。
●応援する人達がいて
 モニタリングポストで計測しているのは空間線量ですが、Y子さんは空間と土壌と、どちらも検査しています。
なぜ両方やるかといえば、そこには放射性物質があるからです。
放射性物質があるところで暮らしていれば、内部被ばくの危険性があります。
内部被ばくは、そこに住んでいる自分たちでしかできないことだから、尿検査をするのです。
「ちくりん舎」に依頼して、検査してもらうのです。
前回の検査の時(第13回口頭弁論でY子さんが意見陳述した時)は、原告5人が検体を提出しただけでしたが、今度は他の原告らも参加して、ペットボトルに検体を入れて名前を書いて送ります。
ペットボトルが必要ですが、水を買わないと検体を入れる容器のペットボトルがないので大変です。
そうやって集めても原告となった8行政区の住民のデータだけでは、比較対象できないので証拠となりえません。
九州のグリーンコーポさんが応援と協力を申し出てくれて、九州からも検体が送られてくるそうです。
裁判で闘うには、こうした客観的事実を示していくことがとても大事なことでしょう。
●20ミリシーベルト裁判の意味
 この裁判では、賠償金を要求していません。
ある時Y子さんは、弁護士に聞いたそうです。
「20ミリシーベルト裁判って、何なの?」
弁護士は答えました。
「みなさんは、法律のない裁判をやっているんです。
普通は法律があって、その法律に対する裁判なんですが、みなさんは法律のない裁判をやって法律を作ろうとしているのです。
だから、すごい裁判なんですよ」
 福島原発事故後の日本は、現在まだ「緊急事態発令中」なのです。
それなのに福島県だけ20ミリシーベルトで、避難指示解除をしたのです。
しかも1ミリシーベルトに近づけると言いながら、全く近づいていません。事故は継続中なのです。
事故前にはチェルノブイリ事故で5ミリシーベルトとなっても、それでも5ミリシーベルトは高すぎると、ICRPが0,5〜1と決め、それが基準になって日本もそれに則っているのです。
●ぶれずに、あきらめずに
 Y子さんは、「私が初めからぶれずに言っていることは、『元に戻してほしい。戻せないなら移住の権利と補償。そのために必要なデータは、どんなことをしても集める』ということで、モニタリングプロジェクトのメンバーとは、それがきっかけで繋がったし、今も繋がってやっている。
『ちくりん舎』との繋がりも。
 Y子さんは被災の少し前から傾聴ボランティアの講習を受けていて、その時の仲間で被災後のY子さんを励まし支えてくれた人がいます。
今もその人との交流は続き、Y子さんは時にはその友人に気持ちを吐露します。
「知れば知るほど怖い放射能にもかかわらず、地元の人は何もなかったかのように元の暮らしに戻っています。
食べてはダメなイノシシの肉やキノコ、山菜など、なんでも食べています。
なんのために私たちが命がけでモニタリングや裁判、国に危険を訴えたり声を上げて頑張ってきたのか、私も限界を感じます。
被災者も喉元過ぎれば、なのかな。
家の周りの田を大きくする工事のため(注:圃場整備、基盤整備。耕地区画や用排水路、農道を整備し、生産性向上を図るためとして耕地の集団化を実施する。農水省や都道府県の公共事業)、朝から数台の重機が我が物顔で土を削り景色が変わる様子に心が痛み、涙が止まりませんでした。
これも復興事業です。
復興の名を借り、必要のない事業に税金を湯水のごとく使う政府、出来上がればあとは野となれ山となれなのか、世も末ですね。
8年関わっての感想です。
しかし、未来に残すべきデータは諦めずに頑張ります。
放射能は怖いです。
じわりじわりと体を蝕んで、辛いのは年のせいと自分に言い訳をして、何もなかったことにする自分が怖いです。
先ほどもニュースで初期のデータのデタラメ(早野龍五論文)が暴かれていました。
知らぬが仏と現状を受け入れ暮らすしかないのか。
国は国民を、福島県を無視していますね」
 Y子さんから話をお聞きし孤高の人のご苦労を思いながら、目の前にキノコや山菜の山を見て暮らす「特定避難勧奨地点」の生活を想いました。
そしてY子さんが身を賭して集め、記録しているデータを無にするような判決にさせ
ては決してならないとも思いました。
●作られる分断
 Y子さんのお宅からそろそろお暇しようと思った時でした。
隣接する地域に大規模の酪農場の建設計画があがっていると、Y子さんが言いました。
Y子さんは建設計画の地図を出して、説明してくれました。
1000頭もの乳牛を飼う施設だというのです。
それだけの頭数だと相当量の水が消費されるでしょうし、屎尿の処理はどうなるのでしょう。
地元では反対の声をあげているそうです。
 これは前日に小高区大富の梅田さんから聞いた話だと、すぐに合致しました。
梅田さんから聞いた時には、大富の人たちが飼料作物を作ることで生計を立てていけるようになると思ったのでした。(注:前便「一枝通信 1月27〜29日福島行②」)
Y子さんから、大規模酪農場建設が予定されている現地の状況を聞いて、これはとんでもない話だったと思い返したのでした。
Y子さんの家を出て夕暮れの道を行くと、路肩のそこここに「酪農場建設反対」の旗がはためいていました。
 ここにはいない誰かの利益のために地元の人たちが、こうして分断させられていくのだと、心の底から怒りが湧きました。
原発立地もそうだった、事故後に沸き起こった大規模再生エネルギー建設も、沖縄の基地問題も…。
 国家や大資本などの大きな力に向き合わされている私たちですが、言い古された言葉かもしれませんが「無力であっても非力ではない」と、改めて心奮い立たせたのでした。

いちえ

 


2019年2月12日号「2月27日〜29日福島行②」

◎サルの群れ
 雪の飯舘村でした。
佐須への道ではサルの群れに会いました。
人が消えた地域ではサルやイノシシなど野生の生き物に出会うことは珍しくないのですが、この日に見たのは30匹ほどの大きな群れでした。
これまでも数匹の群れは何度も目にしてきましたが、こんなに大きな群れでいるのは餌を探す行動と関係しているのかしら?などと思いました。
この雪の中で、彼らはどんなものを食べて冬を越すのでしょう?
何日か前の新聞に電線を伝って移動するサルの群れの記事が載っていましたが、この日見たサルの何匹かは、電線を伝って移動していました。
雪山の斜面を登る時に滑り落ちて、登り直している子ザルもいましたから、雪上を歩くよりはその方が効率が良いのかもしれません。
電線を伝っていたのは、体も大きな大人のサルたちでした。

◎梅田照雄さんを訪ねて
●居住制限区域だった大富
 27日は飯舘村の榮子さんの家を失礼した後、大富の梅田照雄さんを訪ねました。
梅田さんには昨年11月に長谷川健一さんのお宅で、初めてお会いしたのです。
その日梅田さんは長谷川さんの蕎麦工房で蕎麦の脱穀と製粉を頼みに来られていたのですが、その時に月末に長野県の支援者が大富に来て蕎麦打ちを一緒にして交流会をすると聞いていたのです。
交流会がどんな様子だったかを知りたくて、この日お訪ねしたのでした。
 大富の梅田さんの地区は被災前には70軒ほどが住んでいたそうですが、現在戻っているのは13軒だそうです。
その内の10軒ほどの人たちで、蕎麦、菜種、陸稲の栽培、ミツバチ飼育に取り組んでいるそうです。
大富は小高区の山側の地域で、原発事故後は居住制限区域に指定されていましたが、2016年7月12日に避難指示解除になりました。
避難指示解除になったとはいえ決して安全とは言えない居住域で、若い人たちは戻っていません。
●なぜ蕎麦作りを?
 被災前は土木業の会社に勤めていた梅田さんですが、避難先から戻って、地区の仲間たちと蕎麦を栽培するようになった経緯を伺いました。
2016年に長野県の御代田町から南相馬市に、蕎麦の種が10kg送られてきました。
市が栽培したい人を募り、大富行政区では区長さんが「やってみよう」と住民に呼びかけ、そこから始まったそうです。
種を蒔く時には御代田町からも指導に来てくれ、その時から御代田町との交流が始まりました。
昨年もばら撒きで2反5畝の種を蒔きましたが、収穫前に溢れてしまった種もあり、予想よりも少なかったですが30kgの収穫がありました。
昨年長谷川さんのところでお会いした時、梅田さんはその玄蕎麦を持ってこられ、長谷川さんの工房で脱穀製粉をして帰られたのでした。
●2011年春のこと
 3月11日、梅田さんが海岸でブロックを積む作業をしていた時に地震が起きた。
津波が来ることは判らなかったが自宅にいる高齢の母親が心配で、家に戻った。
道路は段差や亀裂が入り、途中の村上(注:海岸に沿った地域で津波で壊滅した)の浜街道で、いわきナンバーの車が橋の段差で動けず「どうしたらいいべ」と往生していたのに会い、梅田さんは迂回して山の方へ行けと指示した。
一緒に会社を出た運転手は置いてきたクレーンが心配だからと会社に戻り、津波に流されてしまった
 家に戻ると母親は無事で、家の被害もなかったが灯油のタンクが倒れていた。
その日は寒かったので灯油を買いに小高迄行ったが店は閉まっていて、浪江に行ったら店は開いていたが売ってもらえなかった。
防災無線で布団の寄付を募っていたので、津波被災者のためだと思い、家に在った布団を10組ほど提出した。
 翌12日、会社は休みだったので様子を見に外を散歩していたらパトカーが来て、「原発が危ないからすぐ北へ逃げろ」と言われ、またその日の夕方3時頃、区長さんが来て避難するように言われて、妻と母と3人で原町の石神小学校体育館に避難した。
15日の夕、体育館に避難している人を集めて、この避難所は閉鎖するので自分で避難できる人は各自で、そうでない人は明朝7時過ぎのバスで避難すると言われ、行き場のない人は残ってと言われた。
年寄りを抱えたりで動けず、残っている人は大勢いた。
 梅田さんは「ばあちゃんのオムツも売ってないし、寒くてしょうがないから」飯坂の奥の親戚に避難したが、3日くらいそこに居て原町の妹の家に戻った。
自分の娘の家なので母は落ち着かせられたが、梅田さんはバリケードをくぐって度々家に戻った。
そうこうしているうちに原町に借り上げ住宅が見つかり、3人でそこに移った。
●避難先で母は死んだ
 避難してからの母の口からは、「いつ家に帰れる?」とばかり聞かれたが先の見通しも判らず答えられなかった。
母は体は弱っていても頭はしっかりしていたから、「いつ帰れる?」と聞かれても嘘はつけなかった。
食事が喉を通らなくなった母を入院させたが、入院した翌日に医師から「いつ退院しますか?」と退院日の相談をされ、昨日入院したばかりなのに医者も看護師も少なく手がないのだと思った。
入院して1ヶ月で、家に帰ることがないまま母は亡くなった。
 当初はすぐに戻れると思って何も持たずに避難して、こんなに長くなるとは思わなかった。
避難指示解除になってこれからの生活を家族みなで相談して、今がある。
子どもは2人いるが、息子は小高に中古の家を買って、孫は郡山の専門学校にいる。
娘は原町だが娘婿は市立病院の看護師をしている。
 小さい子どもがいる人はみな避難して行った。
早く行った人は正解だったと思うが、でも誰かが残ってここを守っていかなければ申し訳がないと思う。
●親が開拓した土地を守りたい
 梅田さんは、1943年に東京の蒲田で生まれた。
大工だった父親は仕事の関係で韓国の済州島で暮らしていた時に、同じく親の仕事の関係で済州島にいた母親と知り合い結婚した。
二人は関東大震災の後に、東京に行けば仕事があるからと東京に出た。
やがて東京も空襲が激しくなり1945年の東京大空襲の少し前に、父親の本家のある福島県相馬郡小高に疎開した。
だが小高でも空襲があり、梅田さんは竹やぶに逃げ込んだことを覚えている。
恐ろしかったその体験は、2歳の照雄少年に強烈な印象を残したのだろう。
その時の機銃掃射の爆音は、夕焼けの空の色と共に忘れられない。
 戦争が終わり、農地改革で本家の土地が分けられ両親は開拓を始めた。
両親は東京からこっちへ来て随分苦労しただろうが、本家があったから助けてもらえた。
梅田さんが子どもの頃は学校の給食はなかったから、弁当を持ってこられない子どももクラスの半分くらい居た。
親たちのそんな苦労を知っているから、ここを守りたいと思う。
 あの頃は生活の苦しみはあったが、今回の原発事故被害の苦しみは、それとは全く違う苦しみだ。
戦後の貧しさや飢えの苦しみを知っているからそれなら我慢できるが、この空気が汚されてしまい、いつ帰れるか、入れるのかどうか判らない、先が見えない今は、とても苦しく不安だ。
 一番かわいそうなのは子どもだ、孫たちだ。
震災の時に6年生だった孫は仮設住宅に入り、中学校はプレハブ校舎だった。
子どもは文句を言わないが、大人には責任があると思う。
●大富の仲間たち
 8,000ベクレル以下の汚染土を常磐道の復旧工事に使うという話題から、梅田さんの言葉はこの地域の暮らしや仲間へと繋がっていった。
ここで梅田さんと一緒に蕎麦栽培をしている仲間は、以前は酪農家だった人が多い。
前述したように梅田さんの両親のように戦後の農地改革で自分の田畠を持ち、農家として生活してきたが、その後の減反政策で稲作から酪農に切り替えていった人たちだ。
 2011年3月12日、原発から20キロ圏内のこの地区は、避難指示区域に指定され、住民たちは取るものもとりあえず避難したため、家畜を置き去りにせざるを得なかった人も居る。
「汚染土を高速道路の下に埋めるって言うけど、死んだ牛を埋めてたのをこの前掘り返しただけんど、あれは燃すのかな?燃してから灰を埋めんだべか。
あん時、殺処分だ何て言われたけど、誰も殺処分する人なんかいなかった。
できねぇよ。
でも避難しなきゃなんねかったから、牛舎でミイラになった牛もいた。
逃げた牛もいたけど捕まったりして、殺された。
あの頃の牛は、線量ある牛は捕まってどっか持ってってみんな処分されたんだべな。
それ見てっから、もうみんな、牛はもう飼いたくねぇって。
可哀想でって。
酪農家がグループ立ち上げてたが、事故後はみんなやめたよ」
 私も2012年に、ミイラになった牛たちが倒れている牛舎をこの目にしていた。
その光景と、その時に牛舎の主はどんな思いでいるだろうかと胸が痛くなったことを、ありありと思い起こした。
その時案内してくれた希望の牧場の吉沢正巳さんの、「僕は残って牛を飼い続けているけれど、それだけが正解じゃない。逃げた人も正しかった。牛を逃した人もいるけど、その人たちも正しかった。みんなそれぞれ考え抜いた末の判断だった。誰が正しくて誰が間違ってるなんて言えない」の言葉も思い起こした。
 そうした地区の仲間たちとで、2017年から蕎麦、菜種、陸稲の栽培と、ミツバチ飼育に取り組んでいるのだ。
「蕎麦は難しいな。育てんのには手がかからなくて楽なんだけど、蕎麦打ちが難しい。
御代田の人たちは来らんなくなって俺たちだけでやったんだけど、いやぁむずかしいわ。
原町に教えてくれる人がいて、そこで習ってやったけどな。
つなぎ入れねぇで10割蕎麦っちゃ、難しいわ。
繋がらんのよ、だけど風味はあって美味かったよ!
 昔はこの地区にもバンカリ(注:ししおどしの原理で水力を利用して穀物をこなに挽く作業場)があったのよ。
今はバンカリ無ぇけど、石臼持ってる家があっから、今度はそれで撞いてみっかなんて言ってんの。
 田んぼはやらねぇ。田んぼ作る意力はねぇ。
イノシシ、サルでダメだ。
電柵してもダメだ。
イノシシは下に転がってぬた場(注:ぬかるんだ場所)で転げんのな。
体の虫取りすんだな。
 野菜も作って、線量はいつも測ってて、ちゃんと低い数値まで計測できる機械のあるとこへ持ってって測ってもらって、2年くらいやって今はようやく大丈夫になった。
ゼオライトとカリ入れたが、入れすぎたらダメなんだな。
 山菜はダメだ。
たらの芽はまだ少しいいが、コシアブラはダメだな。
●これから
 この先どうするか、高齢者ばかりになった大富地区だ。
76歳の梅田さんが中間くらいで、80代、90代の人も居る。
若い人でも、既に70代だ。
地区の住民は少なくなったが厳しい現実を前にして、以前よりも住民の気持ちはまとまってきたという。
蕎麦や陸稲、菜種の栽培や養蜂などと、今までにないことをまとまって始めたことが住民の気持ちを結束させていったのではないだろうか。
ミツバチは伝染病などがあって難しいし、菜の花は天候に左右されるが、つい先日もボランティアの大学生や原町の他の地区の人も招いて、収穫した陸稲で餅を撞いてみんなで食べたり、その前には蕎麦打ちをして食べたりしたという。
地区の仲間が同じ顔ぶれで集まって一緒に食べることで、また気持ちがまとまるのではないかと梅田さん夫婦は言う。
「何と言っても食べることは基本なのだから」と。
 また、ここより少し北の馬事公苑の方に大規模酪農場の建設計画があるので、それができればこの辺りでは飼料作物を作ることになるだろうというのを聞いた時に私は、「ああ、それでこの地区の人たちが生計を立てていけるようになればいいな」と思った。
(*:ところが、この点に関しては後日深く考えさせられる事実を知りました。この件に関しては次の「一枝通信」に記したいと思います。)

 梅田さんのお宅を出て、薄暮れの小高区を抜けて原町に戻りました。

追伸

 先ほど送信した「一枝通信 1月27日〜29日福島行②」で、​大切なことを書き落としていました。
小高区大富の梅田さんのお宅で、聞いたことです。この地区の半径2キロ範囲ほどのところで、自死した人が3人と聞きました。それは遺族の方たちばかりか、地区の人たちにとってもどれほど辛く無念なことだったでしょう。
 今度は雪のない時に、大富を訪ねようと思います。
 そしてその地域を歩いて、かつての暮らしに想いを馳せようと思います。    

いちえ


2019年2月8日号「1月27日〜29日福島行」

1月25日にトークの会「福島の声を聞こう!vol.30」を終え、27日から29日まで福島に行ってきました。
トークの会の報告と後先になってしまいますが、福島行の報告です。
今回もまた今野寿美雄さんにお世話になって、飯舘村、南相馬を回りました。
出かける前日に鹿島区のヨシ子さんに電話すると、「雪が降ったよ。20センチくらい積もってるから気をつけて」と言われました。
寒い日々でもありましたから、普段は着ない防寒用の下着を着込んでコートはダウンに毛糸の帽子、防寒ブーツで出かけました。
◎飯舘村
 昨年12月27日に帰村した菅野榮子さん、芳子さんに会いに行きました。
仮設住宅に隣同士で住んでいた芳子さんの自宅の建て直しが済んで、芳子さんが自宅へ引っ越すときに合わせて、榮子さんも仮設住宅を退去したのです。
事故前に飯舘村で暮らしていたときから、お隣同志の仲良しの二人でした。
 雪の道を飯舘村に向かいました。
榮子さんの家は以前の家屋は取り壊されて、平屋建ての瀟洒な造りに生まれ変わっていました。
お訪ねした時にはちょうど、娘婿さんの馬場隆一さんと馬場さんのお母さんがみえていました。
初対面のお二人にご挨拶をすると、馬場さんは浪江町の「なみえ創成小学校」の校長と判り、浪江町出身の今野さんとお二人は、共通の知人のことや町内にあった店の話題でひとしきり盛り上がりました。
●緊急時の避難
 なみえ創成小・中学校の在校生は昨年12月までは10人いたのですが、工事関係者のお子さんが3人、保護者の仕事先が変わって楢葉に転校して、現在は7人だそうです。
でも今春には隣接する「子ども園」から上がってくる子どもや、避難していたけれど戻ってくる人もいて、16、7人になる予定だそうです。
馬場さんは、昨年度は請戸小学校の校長だったそうです。
津波の被害を受けた請戸小学校は休校中ですが、現存する建物の管理などのために校長職を置いていました。
そこで馬場さんは、請戸小の避難記録を後世に残して伝えていこうと、丹念に調べたそうです。
あの日、海べりに建つ請戸小学校の生徒は全員無事に避難したことは語り継がれていますが、そこには幾つかの偶然(それは幸運と言っていいかもしれませんが)が積み重なってのことだったと言います。
例えば生徒を引率しての避難途中で迎えに来た保護者に出会ったそうですが、保護者には「今は、まず避難」と言って児童を引き渡しせずに避難行を続けたそうです。
もしその時に保護者に引き渡し、1人返し、2人返しして彼らが自宅に戻っていたら、みな津波の犠牲になっていたでしょう。
一人も犠牲者を出さなかったことはとても喜ばしいことですが、それを言えば犠牲者が出てしまった他校への批判を生むことになると案じ、今は公言せずに文書で残して申し送り事項で伝え、語り継ごうとされています。
 津波でも原発事故でも、何にせよ緊急事態が生じた時に避難をどうするか、避難経路だけではなく状況に応じての対応についても十二分に検討し、共通の理解にしておかなければならないことでしょう。
それなのに避難経路や方法の検討も蔑ろにして、原発再稼働を進めようとしている政府と電力会社、経済界に強い憤りを覚えます。
 話している間に芳子さんが来て、馬場さんのお母さんと「ヤァ、しばらく」と互いに挨拶を交わしていました。
このあと小高に行く用事がある馬場さんはお母さんに「かか様、行くぞ」と声をかけ、お二人は帰って行きました。
●榮子さんと芳子さん
 榮子さんがおにぎりと味噌汁、漬物などお昼を用意してくれて、芳子さんがそれを見て「わぁ、こんなに大きいの食わんねぇよ」と悲鳴をあげて言いました。
「いや、ほんとに一人だとご飯も食べねぇことなぁ。
1合に炊いてもなぁ、こんでは(身体動かして)働かねぇとなぁ。
米の減らねぇの。
やっぱりご飯はある程度いっぱい炊かねぇと、美味しくないねぇ。
ちょびっと炊いたんでは、うまくねぇ。
たいした鍋買ってもらったんだけんど、やっぱり2合、3合ぐらい炊かねぇと美味しくねぇんだな。
米の減らねぇの見ると、たまげっちゃ」
 芳子さんがいうのを聞きながら榮子さんは「かぼちゃも食べて」と言ってかぼちゃを出しながら言いました。
「うちも、よっちゃんが近くに居っから来てくんろって言って来てもらったり行ったりしてな。
 かぼちゃ小さく切って冷凍しとくの。
1回食う分、小分けしておくの、緑黄色野菜だからな。
私ら健康管理しないと、戦になんねぇよ。これから戦だから」
 そう言って榮子さんは言葉を続けました。
●榮子さん語録
*榮子さんは仮説住宅にいるときから、帰村したらそこが自分の戦場になると言っていました。
帰村してからが本当の闘いになるのだ、と。
緑黄色野菜のかぼちゃで健康管理から、また話がそこへ繋がりました。
榮子さん語録その①
「私らここさ帰ってきたって、これから戦争だから。
どこに行っても戦争だけんじょ、これからが本戦だから戦場だ。
今までは予備隊でいたけど、今度は本当の戦場だ。
 でも、おかげさまで色々勉強させていただいた。
買っておいた本引っ張り出して今読むと、前に一回読んだんだけどな、またここさ来たなら来たで、違う感じで奥の深さが判った。
 字、読めるようにして貰ったんだから、ありがてぇ。親に感謝してる」

*デンマークなどヨーロッパに研修に行った人の講演を聞いた感想から、こんな風に言いました。
語録その②
「ここで生まれて、故郷がこんな村いやだって思ったって出てみれば、ここが一番良くて、生活の目処が何も立たなくたって、ここの土になるんだって帰ってくるわけだから、その人たちが帰ってきて良かったなぁって思って死んでいける環境を整えるのが村の役割だ。
 私らも努力はするよ。
自分で自立するうちはできることは自立して、何でもかんでもやってくれろっては言わねぇ。
自分でやることやりもしねぇで、相手が悪い、何があったから悪いってばっか言ってたんではな。
やっぱり自分もやることやって、ちゃんとその土地で安心して死んで行かれる場所が必要だって、私は思う。
これからは、そういう社会でないとちゃんとした人生送らんねぇって、私は思った。
 そういう社会を目指してヨーロッパあたりの福祉国家は、働くときはじゃんじゃん税金いっぱい出さなきゃなんねぇけど、老後は安心して死んでいかれる体制がちゃんとできてんだわ。
日本でだって、出来ねぇ筈はあんめぇ。
だから、そういうことは言ってかなきゃなんめぇ。
 デンマークは昔、大きな戦争したのな。
そん時に負けてドイツや隣の国に良い土地取られて残されたのは草も生えねえようなとこを残さっちゃったみたいだな。
そこんとこで食うもの作らなきゃなんねぇから、そこんとこで這い上がった国だから、社会主義の国とも資本主義の国ともまた違うんだな。
だから河合先生の『日本と原発』の映画見ると、デンマークなんか凄いべしさ、規模が違うし風力発電なんかわぁっと作らって、そこの下で牛がのびのびと草喰ってたべし。
そういう国なんだな。
 そんだから働いて赤ちゃんできて、子ども育てんには金がかからない国なんだな。
義務教育までは国費で行けんだってな。
義務教育終わったら、その人その人で大工さんに向く人は大工さん、看護婦に向く人は看護婦って、自分で分けて専門学校さ行くんだってな。
専門学校は職業訓練所だから、出たら職種によって国に配属されるんだべ。
そこで適齢期が来て結婚して子どもが生まれれば、また子どもは国費で育てて、だから働いてお金いっぱい取れっ時は、税金がうんと高いんだって。
だけど、今度死ぬ時はお金かかんないんだって。
施設さ入って、自分が生活してたとこでここの土地で一生終わりたいって意志の人は24時間体制で在宅介護が充実されてんだって。
 この間、社協の人が来たから言ったのな。
『私らここさ帰ってきたら、後は行くとこ決まってんだから、辿り着いて行くとこは決まってんだから、上手に殺してくんろ』っち。
笑ってたよ。
『また来てもいいですか』っていうから『来らっし』って言ったの。
上手に殺してもらわねば、こんなに無理して長生きして植物人間になってっことないからな。
上手に殺してもらいてぇなって思ってる。
できるだけ迷惑かけねぇように最大努力して生きっから。
その努力、一生懸命よっちゃんと一緒にしなきゃなんねぇなって話してる」
*榮子さんがそう言うと芳子さんは「榮子さん居っから」と言い、榮子さんもまた「よっちゃん居っから私は良いよ」と言い、ここでは白菜やネギなど野菜などの作物は作らないで今度は花を植えようというのでした。

語録その③
 今度は花の苗でも作って、どこさでもただ植えんでなくて、綺麗に植えてくかなって思ってる。
綺麗に川の流れが活きるように、山の緑が映えるように、そう言う作り方してって、花の命がちゃんと守れるようにして生きたいなぁって思ってる。
そういう自然があっから出来るんだよ。
色も考えて、同系色でやったり反対色を次々に咲かせたりってな」
*榮子さんがそう言うと、芳子さんも「楽しみだな」と相槌を打ちました。
「今度、雑木山がな、立ち枯れんなってる。
放射性物質か病気か判んねぇども、山津見神社の大木あったべしさ、あれなんかも立ち枯れって言ってたよ。
飯館では家の周りばかり除染したって山の雑木林がな。
植林したとこは植えて70年くらいだからな、今んとこは立ち枯れにはなんねぇよ。
だけんじょもナラの木だの雑木林が立ち枯れになったとこを、いま除染すっか手入れしないとな。
 20年とか30年だったらナラの木も切って、またそうしたのが芽を出して山の木を作るっていう循環なんだよな。
大木になったとこからは五葉は出ねぇもん。
だから私ら子どもの頃は、営林署なんかが払い下げして地域の人たちに炭焼きさせたんだよな。
五葉が出てきて、こん位に五葉が育った時ゴンボッパが出てきて、ゴンボッパだのセンブリだのクマイチゴ出てきて、山さ行って私らそういうの採って喰ったんだよな。
そうして大木になったら日陰になっから、そういうのは出ねくなっちゃうんだよ。
自然はうまくできてんだよなぁ」

*話しながら、思いは避難したばかりの頃に返っていきました。
語録その④
「(伊達の仮設住宅に)7月31日に行ったのな。
あそこさ移って、あの夏は畑さ何にもしねえで、後ろさ向いて、北の方さ向いて、裁ち板1枚並べて毎日着物縫ってた。
いつ着っか判んねぇ着物ぶっこして、縫ってた。(注:この頃、松川の仮設住宅では着物をほどいて作務衣のような上っ張りに縫い直して、販売するようにしていました。榮子さんはそのグループと一緒ではなかったでしょうが、針を持って手を動かすことでやりきれない気持ちをかろうじて沈めていたのではないでしょうか)
『ああ、おらいつ死んだらいいかなぁ』って思ったったど。
『こんな村いやだ』って踊り踊ったけど、『こんな国いやだ』ってなっちゃったの。
原発のいろいろ知ったらな、こういう形で原発が作らっちきたんだ、こういう形でエネルギーが使われっちきたんだ、なんのためにこうだったんだといろいろ判ってきたら、おら、こんな国いやんなっちゃったの。
いつ死ぬべぇって思ってたよ。
そうやってるうち、よっちゃんが来ることになって、11月によっちゃんが来たから。
 よっちゃんいたからやってこれたなぁ。
そうして7年も8年も過ぎて帰ってきてみたら、山だの庭の木は変わんねぇ、置いてった石だのは変わんねぇけんじょも、もう全てが様変わりしたよなぁ」

芳子さんも「んだなぁ。変わってるなぁ。新しい家さ入っても変わってなぁ。なんだか、ハァ、夜んなっと違うんだなぁ」と相槌を打ちました。
語録その⑤
「夜は悪いな。
夏は夜が短いけど、今は夜が長くて持て余す。
目覚めたら、眠らんなくなる。
認知症がいつ入ったっておかしくねぇ歳だから。
私らの年代の人たちが、次から次みんな認知症だからな。
よっちゃんと近いから、毎日1回はどっちか行くかして喋ってっけど、夜は一緒じゃないからな。
武田さんって人が言ってたけど、飯舘では集合住宅建てるべきだって言ってたけど、せめて冬だけでも集合住宅は必要だって思ったな。
 これからは避難でなくても、いずれ夫婦だって子ども育ててるうちはいいけど、いずれどっちか片一方は一人になるんだから、共に生きていく人は作っておかなきゃな。
7人も8人も要らねぇ、1人でいい、なんでも言える人な。
 佐須は帰ってきてる人何人かいるけど、誰でもいいわけではねぇからな。
子どもさ言わんねぇことだって、よっちゃんには言ってるの。
よっちゃん居っから、いいけどなぁ。
 でも帰ってきたから、仏さんも喜んでんべぇ。
ばあちゃんは1月19日が命日だったから、雪だべしさ。
んだからいつも、命日には来らんなかったのな。
お墓参りに来らんなかったの。
でも今度は雪降ったけどちょうど溶け出して、御墓参り行ったら、自分の心がせいせいした。
せいせいしたけんじょも、もんもん、もんもんって勝手が違うし、家新しくなったのは良いけんじょも、やっぱり違うよ」
芳子さん「落ち着かないよ」
*榮子さんの思いを即座に掬って、思い遣る芳子さんの言葉でした。

*以前に美術大学の学生たちが来て、アートでここら辺の地域を活性化するということで聞き取り調査をしていったそうです。
彼らは田んぼで稲を育てて、稲で絵を描くということを考えているようです。
榮子さんや芳子さんの家の前方に伊達の仮設住宅を移設して、宿泊施設にする計画もあるようなので、榮子さんは1年間みっちりと四季折々の山の変化や地域の自然や色々を見て、それに対応するアートを考えて欲しいと言ったそうです。
語録その⑥
「ほしたらやっぱり、観光に見に来る人もいるだろうし、ここに来て心を癒してまた都会に行って頑張るということもできるでしょ。
これからは、そういう時代でないの。
企業の戦士で優等生で頑張ってる組だって、精一杯働いてんだから、あの人たちだって寿命縮めるくらい働いてんだ。
企業戦士は企業戦士で、企業で生きてく人は私らと違ってるけど『まぁ』と思って見てる、『かわいそうだ』なんて言わねぇけど、そうでなきゃ生きてけねぇんだから、しょうがねぇって思って『頑張れ』って言ってっけど。
まぁ、そういう中でがんじがらめになって生きていく、そういう人生もあんだから。
そういう人たちがこういう所さ入ってきて、ここの空気吸って、美術大学の人たちがちょっと手を加えた自然の中に来ればな。
 群馬か長野に、星空が綺麗で村起こししたとこがあんだな」
(注:長野県の阿智村のことでしょう。2006年に環境省は、星空が綺麗な村と認定しました。飯田・下伊那地方からは戦争中に多数の満蒙開拓団が送出されたのですが、その史実を伝えていこうと、阿智村には2013年に「満蒙開拓平和記念館」が開館されました)

*榮子さんが「一枝さんに聴きたいことがあんだけど」と言って、話題は原発事故の刑事裁判のことになりました。
榮子さん「あの裁判の記事は、新聞全部くまなく読んでるよ。
原発はどういう状況から事故起こしたかって、今度は勉強してるから知ってるよ。
どうなったから事故になったかって知ってるよ。
だけんじょ、法廷で3人とも『聞いてません』『知りません』『判りません』で通すんだからね。
それで給料もらってんだもんね。
国策でやってきたことにだって、大きな問題があるんじゃないの。」
今野さん「一番は国なんだよ。国は東電のせいにしてるけどさ、原発を民営でなんて、アメリカは別だけど他の国は国営でやってるのよ。要はそれだけ危ないものを、国が管理しなきゃいけないものなのに民間に任せてることに問題があるんですよ。民間がやればコストが優先だから」
榮子さん語録その⑦
「家さ帰ったら、読まんなんめぇって本が、あんまり見つからないんだわ。
事故起きたばっかりの頃など『読まんなんめぇ』『こいつ読みてぇ』って本、書いた人が誰であろうがタイトルで読んでみっかって、本を漁って読んだよ。
ほいでまぁ、ここにきたら読みてぇって本が、あんまり無えんだな。
百姓すっぺったって、はぁ、ただのような所さ帰って、百姓もできねぇわけだべぇ。
ほんでもって体も追いついていかねぇ。
ほいでもって前に買っておいた本引っ張り出して、これも読んだな、この本も読んだなぁって引っ張り出して見てんの。
読み返してみて『ああ、こういうものに手ぇ出したんだから大変なことだなって。
そういうことを真剣に考えねぇんだか、日本人は。
つくづく、そう思うね。
 あの人たち、東電の人たちだって、金、金、金って金にさえなりゃいいのかな。
アレクシェービチさんが福島のこと言った時、日本はものが言える自由な国だけど抵抗の文化が無えって言ったのな。
私もあの人の本読んだけど、あの人の文章は鋭いから。
表現がすごいな、心に残るもの。
あの本読んだ時は、毎日泣いてたよ。
 こういう大きな事故起こしたって『知りませんでした』って、鮒の口揃えるみてえによ、大の男がだよ。
そこら辺のオタマジャクシみてえの、おらみてえのが言うのとは違うよ。
オタマジャクシは腹ばっかりでかくして口揃えて『あっぱっぱ』って、存じませんでしたって言うのとは違うと思うよ。
私、つくづくそう思うよ。
一枝さん傍聴してっから聞いてみようと思ったけどな、傍聴席さ入ってから野次言えねえしな。
なんぼ腹の中にぶったぎれること思ったって、黙ってなきゃなんねえもんな。
 日本の国は民主主義だって、三権分立だって、おらは学校で習ったよ。
三権分立はこういうことだって覚えてきたけんじょも、疑うことはいっぱいあるな。
いろいろな裁判の判決見てな、今ちっと三権分立でしっかり分立してたら、もうちっと司法の覇があっぺ。
だけんじょも、権力には勝てないんだかな。
 朝日新聞社の『プロメテウスの罠』って、原発を作るっていう時から取材してきた記事を集めて、その経緯をずっと書いてきた本があんのよ。
メディアは常に中立で、報道の自由は自由だけど、ちゃんとしたものを出さねばなんねえ役割があっぺしな。
その流れの中でいろいろ変わってきたことを書いてんの。
そういうのを読んでくると、始めは反対だってちゃんと線持ってたって、いつの間にか賛成さいってんだな。
絶対ダメだって頑張ってたって、いつの間にか賛成にいってんだって。
 日本人は根性悪いってか、そんな遺伝子持ってんだべぇ。
こういう中で生きてかなきゃなんねえから、大変だ。
死んだほうが楽だって思う時あるけど、ここまで生きてきたんだから、自分の生き様の足跡残さなきゃいらんねえって、私は思ってる。
 日本のこういう仕組みの中で生きるっつうのは大変なことだよなぁ。
ハイハイって言って生きてりゃ波風立てないでお金もらって生きられっけども、だけんじょも、ほんでは本当の人間の幸せはねえべ。
だから私は貧しくとも自分の好きなことして、お金無えだって、したいことして、言いたいこと言いてえって、つくづく思った。
 東電のあのお偉いさんたちの裁判に、なんで検察はこれだけの事故起こしたあの人たちを、自分の仕事として起訴できなかったんだべ。
三権分立でいるんだよ。
ほんで弁護士さんたちが、いろいろ資料集めて強制起訴に持ってたんだべ。
ほしたら2回も起訴を却下した裁判官だっているんだからな。
そこで今度は弁護士が一生懸命苦労して諸々の現実を調べていって書類作って強制起訴にもっていったら、今度は起訴を引き受けた裁判長だっているわけだ。
だってみんな、裁判官の資格は持ってんだべ。
 人の心は一番ありがたくて、一番おっかねえな。
私はそう思った。
金一つで、どっちにでも転ぶんだもんな。
なぁ、おっかねえな。

語録その⑧
「やっぱり、こうでなきゃなんねえんだって仲間をいっぱい作っていかねえとダメなんだな。
ほいでなきゃ世の中、変わんねえ。
世の中変えるっていうのは、やっぱり本当の人間の幸せを探求しながら、それに近い人たちをいっぱい作っていかねえと、世の中変わんないとね。
人間は一番最後に死ぬ時、どうやって死んでいくかって。
働いて足腰きかなくなったら、余計思うな。
足腰きかねくたって、口ばっか喋るようになったんだから、今ちっと違う生き方もあったのかなって思う。
けど、精一杯そん時はそん時で、お金無くたって、何無くたって、自分でしたいことして生きてきたから今があんだなぁって半分感謝もしてっけど、結構楽しみながらこんな山ん中に居る。
雪降った時だって、外でてこそ働かねんけじょ、やっぱり考えてっと生きてんもんな。
して春んなれば、考える余裕も無くて、もう働いたもんな。
 ほうやってみんな先祖代々、冬雪に埋もれてる時は『ああ、春がきたら』っていう考えで、生きてきたんだよな。
春んなったらこういう仕事から始まって、こうやってこうやってって、その繰り返しで来たんだ。
 だから私らつくづく思ったけど、ビニールの普及が無くて、お天道さま本当に自然の中でしか百姓ができなかった時代があったべ。
そん時は、雨降ったら家さ入って休んでる他ねえわな。
そういう生活してきた。
このビニールが普及してきて、ビニールハウス作るようになったべ。
雨降ったって、働かれるようになったべ。
そうしたら暇ねくなったな。
雨降ったってハウスの中で働かれるわけだから、考えてる暇ねくなったな。
 いやぁ、百姓ってのはこういうものだって、そん時思ったもの。
子どもの頃で働いてる時は、『あー雨降ったから、今日はゆっくりできるな』って、ホッとした気持ちがあったもの。
 今度は仕事の段取りだって、雨降ったらハウスの中のこの仕事、降んねえ時は外の仕事するって、仕事進めていかねえと仕事がはかどらねえってなったもの。
 ほういう時代だもの、都会の人なんて24時間体制で目開いて働いてんだもの。
企業戦士でよ、大企業の課長だなんだって、大きな会社のなんだかっていうけんじょもな、反面『ああ、大変だべな』って思うよ。
会社なんか24時間体制で年中動いてんだもの。
日本の国だけじゃ足りなくていろんなとこ行って、日産の会社なんかあんな大きな騒動してるべ。
はぁ?って思う。
今ちっと、怠けねえでのんびりして生きる方法はねえもんだかなぁって、一人になると考える」

 大変長文になってしまいました。
お読みくださって、ありがとうございます。
昨年末に飯舘村に帰った榮子さんと芳子さんですが、老後を安心して暮らすと言うにはあまりにも状況がと整えられないままの帰村政策であったと、改めて思います。
榮子さんは、もっとたくさんを話してくださいました。
例えば小泉進次郎氏が「第一次産業を大事にしたい」と言ったことに対しても、自民党の政策はその言葉と真逆ではないかと、鋭く批判していました。
「こんな国嫌んなっちゃった」は、榮子さんの心の底からの叫びでしょう。 

いちえ


2019年1月21日号「1月18日裁判傍聴」

 1月18日は東京地裁での「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」、福島地裁郡山支部での「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の2件の裁判が開かれました。
私は東京地裁で裁判を傍聴しました。
◎「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」第14回口頭弁論
●この裁判は
 この裁判は、国が用いた年間20ミリシーベルトという基準による避難解除の是非を問う裁判です。
2014年12月に政府は、南相馬の特定避難勧奨地点について、年間積算被ばく量が20ミリシーベルトを下回ることが確実になったとして避難解除し、その後支援策や賠償を打ち切りました。
これに対して地点に指定されていた世帯や近隣の世帯合計808名が、解除の取り消しを求めて国(原子力災害対策現地本部長)を相手取って提訴したものです。
 原告は、次の3点から違法性を主張し、撤回を求めています。
①公衆の被ばく限度が年間1ミリシーベルトを超えないことを確保すべき国の義務に反する。
②政府が放射線防護の基準として採用している国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に反する。(ICRPは、平常時は1ミリシーベルト以下、緊急時は20〜100ミリシーベルト、原発事故後の復旧時に住民が住み続ける場合には1〜20ミリシーベルトで長期的には1ミリシーベルト以下を目指すことと、政府に勧告している)
③政府は、新たな防護措置の実施計画の策定や住民の意思決定への関与体勢の確保など、事前に定めた解除の手続きを経ないまま解除を強行した。
●これまでの経過
 私は途中の2回ほど傍聴できない日がありましたが、傍聴を続けています。
このは裁判当初、被告・国は特定避難勧奨地点指定及び解除は法的根拠も効果もない事実の通知に過ぎず、指定及び解除の違法性を争う「処分性」は認められないと主張し、裁判で争うべきかどうかが論争され、裁判所は第2回口頭弁論以降の原告の意見陳述を認めないと通告してきました。
これに対して原告団はもちろんですが支援者も抗議の声をあげ、署名を集め裁判所に提出しました。
そして第2回口頭弁論期日では裁判長が、「この裁判は重要。原告の意見に耳を傾けていきたい。それなしには判断しない」と言い、裁判は続いています。
 原告は放射能汚染に対して不安を抱えていること、解除により帰還を強要されていること、意思決定における過程で住民が参加する機会がなくその声を無視して解除が強行されたことなど意見陳述してきました。
併せて「ふくいちモニタリングプロジェクト」が行った当該地域の土壌汚染についての報告と主張、本件地域に居住する住民の保養前後の尿中セシウム量を示して現地に居住することによる内部被曝の危険を訴えてきました。
 途中の第11回口頭弁論から裁判官が変更しましたが、弁論更新で再度原告らは意見陳述をしてきました。
●第14回口頭弁論
 今回の第14回口頭弁論では原告代理人弁護団長の福田弁護士から、解除の違法性についての国の反論に対しての再反論と、本件解除とこれに引き続く住宅支援打ち切りにより、多くの避難者は放射能汚染が続く本件地域へ帰還か、あるいは経済的苦境の中での避難生活の継続が強いられていることを主張しました。
 この日の口頭弁論では福田弁護士の意見陳述は10分弱でしたが、裁判長から「次回は原告に対して被告が反論しますね」と確認があり、被告は「はい」と答えて終わり、ごく短時間に終わりました。
●次回
 次回の口頭弁論は4月10日(水)午後2時から、東京地裁103号法廷です。
原告の健康影響に関する主張及び意見に対して、被告が反論を行う予定です。
現実や事実に目を向けず、書類しか見ていない国の代理人が何を言うのか、聞いてみたいものです。
どうぞ、皆さんも傍聴に駆けつけてください。

◎もう一つの裁判
 この日は福島地裁郡山支部で「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の第16回口頭弁論が行われました。
この日の法廷の様子を「民の声新聞」の鈴木博喜さんが伝えています。
それを読んで、被告代理人のなんと酷い言葉かと憤りに震え、法廷でそれを聞いていた原告の胸の内を想い涙がこぼれました。
 以下抜粋です。
**********************************
 被告東電の代理人である棚村友博弁護士による反対尋問も終盤に差し掛かった頃、ついに“加害企業”である東電の本音が飛び出した。
「現在の状況としては、下津島のご自宅で生活ができない。それと、それに伴って原発事故前に行っていたような地域での、下津島での活動もできない。ということだと思うんですが、この点を除けば、あなたの行動や活動自体には特に制約はありません。例えば『ふるさとを失う』と言う場合、村が丸ごとダムの底に沈んでしまうという『公用収用』がある。この場合は、物理的に水面の下になってしまう。立ち入りすら出来ない。
こういうケースが世の中では現実に起こっています。物理的に村がなくなってしまうという事。仮にこういうケースと比較した場合、津島地区は帰還や居住は制限されているわけですが、立ち入りは出来ている。接点が全く無くなってしまったわけでは無い…」
*****引用ここまで********************
 まさに盗人猛々しいとは、こんな人を言うのではないでしょうか。
 鈴木さんの記事を抜粋しましたが、ぜひ「民の声新聞」をお読み下さるよう願っています。(https://wwwfaceook.com/taminokoe/)

◎お知らせ
 トークの会「福島の声を聞こう!vol.30」は、今週の金曜日25日です。
ゲストスピーカーは、村田弘さんです。
元朝日新聞記者で、定年退職後、帰郷して南相馬市小高区で暮らしていましたが、原発事故後3月末に横浜市に避難しました。
「福島原発かながわ訴訟原告団」団長を務めていらっしゃいます。
 村田さんの声を、多くの方にお聞きいただきたいと願っています。
どうぞ、ご参集ください。
日 時:1月25日(金)午後7時〜9時(開場は6時半)
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区神楽坂158 2F)
参加費:1,500円(被災地へのカンパとします)
お申し込みは03−3266−0461 または mail@session-house.net     

いちえ

vol30new-(7)


2019年1月13日号「お知らせ」

新しい年が明けました。
昨年中は、お送りしたたくさんの長文をお読み下さってありがとうございました。
どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。
今年もなお、抗いの声を上げていかねばならない年のようですが、へこたれずにやっていくつもりです。
まずは、トークの会「福島の声を聞こう!vol.30」のお知らせです。
************************************
日 時:1月25日(金)19:00〜21:00(開場18:30)
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158 2F)
参加費:1,500円(被災地への寄付とさせていただきます)
主 催:セッションハウス企画室(03−3266−0461 mail@session-house.net
お申し込みは、上記セッションハウス企画室まで。
  お名前と人数、お電話番号をお知らせください。
*************************************
 8年目を迎えようとする福島です。
道路が開通したり新たな施設や庁舎が建ったりして、外観はさも復興しているように見せかけています。
実際には住民の多くは戻れず、政府の帰還政策でやむなく戻った人も生活の不便や不安を抱えています。
大きな声で復興が喧伝されていますが、小さな声で語られる被災者の声はなかなか私達に届いてきません。
この会は、そうした届きにくい福島の声を聞く会です。
どうぞ、皆様のご参加をお待ちしています。              

いちえ

vol30new-(7)


2018年12月27日号「12月20・21日福島行」

◎福島駅で今野さんに迎えていただき、南相馬へ
 先月は出かける2日前に、大留さんから同行できなくなったと電話が入りました。
歩けなくなって入院したというのです。
膝に水が溜まって、当分の間加療のため入院となったのでした。
そして20日に退院、都合40日間の入院でした。
それで今回もまた、今野さんに同行をお願いしたのでした。
●大留さんをピックアップして
 福島から南相馬へ向かう途中で、寺内塚合の天野さんに電話をしました。
それより数日前に東京にいる私に、天野さんから電話があったのです。
「イチエ先生、大留さんから電話があって『もうじき退院するから、イチエさんと行くよ』って言ってたけど、いつ来るの?」と言うので、「20日に行きますよ」と答えたのでした。
 この日福島から南相馬へ向かう途中で天野さんに電話をし、これから行くことを伝えたのですが、なんだか天野さんの返事がチグハグで要領を得ないのです。
これから行くと言っているのに、「いつ来るの?」と答えが返ってくるような…。
それでもまずはビジネスホテル六角へ行き、大留さんをピックアップして、鹿島の仮設住宅へ向かいました。
この日の朝に退院したばかりの大留さんは歩行がやや不安定でしたが、元気そうでした。
大留さんには元気でいて欲しいです。
●寺内塚合仮設住宅談話室で
 談話室には菅野さんの姿もあって、それを見てホッとしました。
菅野さんはデイサービスが休みの日だったのです。
菅野さんはせっせと手を動かして、小さなフクロウ人形を作っています。
88歳になるのですが、メガネもかけずに針に糸を通し縫い上げていくのです。
天野さんは私たちが「お茶はいいから、座っていて。座っておしゃべりしようよ」というのですが、皆にお茶を注いだりで、なかなか落ち着きません。
きっと性分もあるのでしょうが、私はこのところの天野さんの様子が気がかりでなりません。
天野さんの首にピンクの紐がかかっているのを見つけて「その紐は何?」と問うと、着ているセーターの内から紐の先を弄り出して「鍵。こうするのに早く気がつけば良かったって思ってるの。いっつも鍵がどっかへいっちゃって探してたから」というのでした。
以前からそうするように皆にアドバイスを受けていたのですが、ようやく自分から気付いたようでした。
 この日はデイサービスのことや懐かしい歌のことなどを話題に、おしゃべりに花が咲きました。
週明けには菅野さんは、お泊まりデイサービスに行くので1週間談話室には来られないと言います。
この仮設住宅に今も残っているのは天野さんの他に数人です。
菅野さんが談話室に来ないと、天野さんはおしゃべりの相手がいないのです。
話す相手がいないと、認知症は進むと聞いたことがあります。
一日のほんのひと時でもいいから誰かを訪ねたり訪ねられたりして、話し相手が居て欲しいと思います。
 大留さんも「天野さんは面と向かって話しているときは普通なんだけどなぁ。喋らないと呆けるよ」と、心配していました。
●21日、Oさんに聞いた話
 Oさんは、「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」原告のお一人で、原告団では尿中セシウムの計測もして被爆影響を調べています。
検査結果によれば同一家族内で、両親よりも小学生の子どもが高い数値を示している例がありました。
この家は、食材にも気を使っている家庭です。
それなのにこの結果は、多分学校給食が原因ではないかと思われます。
福島では学校給食には、県産品を使っています。
 今はもう自宅で過ごしているOさんですが、一時は体調不全で市内の病院に入院していました。
Oさんも退院直後の検査結果と自宅で過ごしている時期の結果では、退院直後が高かったそうです。
病院も食材は県産品を用いているのでしょうか。
●円明院
 ビジネスホテル六角の近くに「世界一のパワースポット」と銘打った天台宗寺院の円明院が在ります。
「運気を上げる」などと宣伝されて、訪ねる人も少なくないのです。
私はいつもその前を通るだけで訪ねたことはありませんでしたが、定宿のビジネスホテル六角には、円明院を訪ねるために地方からきた宿泊客と居合わせたことが何度かありました。
今野さんも以前に行ったことがあるそうで、磁場の関係でそこで撮った写真がハレーションを起こすのだと言います。
磁場によって場の発するエネルギーが強い場所が存在することは頷けます。
そして、それによって写真がハレーションを起こすことがあることも、納得できます。
しかし、そこへ行けば運気が上がって宝くじが当たったり、病気が治ったり、選挙に当選したりということには、首を傾げてしまうのです。
でも「今野さんが一緒なら怖くはないぞ」という気分になって、訪ねてみました。
 訪ねると若いお坊さんが即、姿を現して本堂に招き入れ不動明王と薬師如来の仏像の前に置かれている封筒を指し示しながら「ここに書かれた願い事のどれを願いたいのか、そこに丸印をつけて願い事一つにつき2,000円を封筒に入れ、住所氏名を書いてこの台に置いてください」と言いました。
言われた通りにすると正座してこうべを垂れ合掌している背後でお坊さんが経を唱え、唱え終えて私たちの肩を警策のような棒で軽く叩き、「はい、あなた方の願いは仏様にお届けしました」と言って、境内を案内してくれました。
 その先に奥の院があるのですが初心者は奥の院へは入れず、2回目以降の人でないと入れないのです。
今野さんは震災前に何度か来ていると告げ、それで一緒に奥の院への山道を行くことができました。
いろいろな看板「撮影スポット」とか、「未来坂」「過去坂」「宝木」などが無ければ、本当に心落ち着ける静かな山道でした。
奥の院へたどり着くと、その北側であおむけに横たわっていた人がむっくり起き上がり、またその先でも多分ご夫婦と思われる老齢の2人が仰向けに寝ていました。
磁場のエネルギーを体で受けようというのでしょうか。
 私には何も感じられなかったのですが、霊感が強いなど感じやすい人には何かがあるのかもしれません。
私たちの気配に起き上がったご婦人に、「どちらからいらしたのですか?」と尋ねました。
川俣町からきたと答えた人に、「それでは避難なさったりで大変でしたね」と言うと、問わず語りにまた答えてくれました。
「若い頃に友達にここのことを紹介されていたのだけど気にも止めていなかった。震災後、友人に言われていたのを思い出して来てみました。ここにきて救われました。震災でたくさんの経験をさせてもらって、勉強になりました。病気も治って有難いです。だから時々来ています」と言う人の病気は、話を聞いているとどうやら身体的なものではなく鬱状態が治ったということのようでした。
 不信心の私にはお寺ビジネスとしか考えられなかった円明院体験でしたが、上記したご婦人のようにここへの外出が気持ちを開けさせる効果があったのだろうとは思いますが、拝観料と言われたなら、もっと感じ方が違ったかもしれませんが願い事一つに2,000円としてそれで願い事を叶えてやるなどというので、胡散臭さを感じてしまうのでした。
奥の院への山道は本当に清々しく気持ちの良い自然環境で、何度でも歩きたい道だったので残念でした。
●飯舘村通過
 道の駅は年間3,500万円の赤字だとか。
飯舘村道の駅がオープンした時のことを書いた「一枝通信」を読んだフランス在住の友人から、以前にこんな言葉が届いたことがあります。
「あなたは一方の意見しか聞いていない。私は前に村長さんがインタビューに答えている番組を見、また読んだことがある。村のことを一生懸命考えている立派な人だと感じた。村長に話を聞くべきではないか。反対の立場からばかりでは一方的ではないか」
その言葉に、私は次のように答えました。
「私は村長に直接話を聞いてはいませんが、インタビュー記事を読んだり動画を見たりはしています。また実際に飯舘村の様子を自分の目で見たり、村民の方達の声を一人だけではなく何人もから聞いています。ぜひあなたもご自分の目で、実際に飯舘村がどのような状況にあるかご覧下さるよう願っています」
年に1、2度帰国するという友人からは「行ってみます」と返事をいただきました。
 豪奢な建築の道の駅ですが、赤字が年間3,500万円、帰還した村民もわずかです。
こんなことがまかり通ってしまうのが、果たして復興なのでしょうか。
憤りを覚えます。
●信夫山
 2011年8月から毎月福島に通っているのに、福島市内の観光名所の花見山も信夫山も訪ねたことがありませんでした。
今回初めて信夫山を訪ねました。
行ってみてびっくり、やはり「百聞は一見に如かず」でした。
 信夫山は福島市の中心部に在って、近隣の小学校が遠足に行く場所であったり、信仰の山としても親しまれてきた名所だそうです。
信夫三山として、湯殿神社のある熊野山、羽黒神社の羽黒山、月山神社の羽山の三つの峰があります。
出羽三山が勧請されて祀られているのです。
新幹線で福島駅に降りると、駅構内に大きなわらじが飾られていて「福島わらじまつり」として宣伝されているのをいつも、興味深く眺めていました。
この日本一の大わらじが奉納されるのが、信夫山の羽黒神社なのです。
 この日、初めて訪ねた信夫山で最初のびっくりは「土嚢の積み込みをしています」の看板がありましたが、「土嚢」は「汚染土」のことなのです。
次のびっくりは、鈴なりの柚子の木がいっぱいの山だったことです。
北限の柚子だそうで、柚子味噌や柚餅子など名物には柚子を使ったものも多く、でも原発事故後は山にあふれんばかりの柚子の実も、使われることはありません。
小さな黄金色の実が、悲しかったです。
そこから「冒険の森」と標識のある方へ行った時に、三度目のびっくりに出会いました。
一角がフェンスで囲われていて入り口にやはり「土嚢の積み込みをしています」の表示があり、中を覗くと黒いシートが敷かれた上に「土嚢」が2段に積み上げられていて、もしかするとさらに上に積み上げられるのでしょうか。
でも、この黒いシートの下にも土嚢が積まれているそうです。
だからここには土嚢が7段、いやもっとそれ以上?に積み上げられているのです。
さらにびっくりしたことには、このすぐ側、100mも離れているかいないかの場所に、民家があったのです。
清浄な山岳信仰の山に、こんなまやかしが通っているなんて、まっとうなことだとはとても思えない。
山から下りた道路脇には、極め付きびっくりが構えていたのです。
「福島サンパイ株式会社」と社名のある囲いの内側には、謂うところの「土嚢」が積まれていて、これは大熊町の中間貯蔵施設に運ばれるのだそうです。
「サンパイ」って‼︎?、これはブラックジョークなどというよりも、悪どい言い換えではないでしょうか。
信仰の山に参拝すること、産業廃棄物の略の産廃、それを踏まえての社名でしょう。
得意満面の創業者の悪人面が見えるようです。
●県立美術館
 今野さんが美術館の前庭の芝生を指して言いました。
「ほら、オブジエみたいに煙突が出ているでしょう?」
言われて見ればTの字の両端を曲げて下に向けた様な高さは50cmほどのパイプが、芝生の上に何本か立っています。
芝生の下には除染廃棄物を詰めたフレコンバックが埋められていて、発生するガスを抜くための煙突パイプだったのです。
 幾重にも幾重にも汚され、蹂躙されている「うつくしま福島」です。
この国に生きることが、心を重くします。

※21日に帰宅し、23日は新宿まで買い物に出かけ、翌24日は友人たちと外つ国の友を囲んで昼食会でした。
話が弾み楽しい時が過ぎていたのですが、なんだか頭痛がしてきて惜しみながら散会しました。
帰宅して熱を測ると平熱5度6分の私が7度4分、体の節々も痛く、インフルエンザを診断され、自宅蟄居で過ごしました。
25日の辛淑玉さんが石井孝明氏を損害賠償で提訴した裁判傍聴も、26日の東電刑事裁判傍聴も行けませんでした。
 25日の裁判は辛淑玉さん勝訴、石井氏に損害賠償命令が下されました。
26日は指定弁護士から、勝俣恒久、武黒一郎、武藤栄の被告3名に対し5年の論告求刑が出されました。
 滞在中の外つ国の友が食事を作ってくれたりしているので、ゆっくり休めて今日はずっと楽になっています。
今日1日ゆっくり過ごせば、明日の坂田雅子さんの映画「モルゲン、明日」へは行けるでしょう。
 本年も、毎度長文にお付き合いくださってありがとうございました。
どうぞみなさま、良いお年をお迎えください。            

いちえ


2018年12月19日号「お知らせ」

来年のことを言うと鬼に笑われるそうですが、来年のお知らせです。
トークの会「福島の声を聞こう! vol.30」は、1月25日(金)です。
ゲストスピーカーは、南相馬小高区から神奈川県に避難している村田弘さんです。
国・東電の責任と完全賠償を求めて横浜地裁に集団提訴した民事訴訟「ふくしま原発かながわ訴訟原告団」団長です。
皆様に新春のセッションハウスでお目にかかれますよう、願っています。

日 時:2019年1月25日(金)午後7時〜9時(開場は午後6:30)
場 所:セッションハウス・ガーデン(東京都新宿区矢来町158 2F)
参加費:1500円(参加費は被災地への寄付とさせていただきます)
申込受付は、これも来年のことですが1月12日(月)午前11時〜03−3266−0461へお願いいたします。

明日、南相馬へ行ってきます。              

一枝

vol30new-(7)


2018年12月17日号「12月14日 安保法制違憲差止訴訟」 

 12月14日は、安保法制違憲差止訴訟の第9回口頭弁論期日でした。
この日は原告本人の証人尋問が行われました。
証人尋問に入る前に原告代理人弁護士から提出されていた「弁論更新」について審議されました。
裁判員が3名とも替ったので、弁論更新願いを提出していたのです。
審議途中で裁判官が交替した場合、新たに担当となった裁判官は前任者の記録に目を通すだけで審議を進めることが多いのです。
原告の訴えなど、書面を読むだけでは心情が伝わらないことも多いでしょう。
そこで原告代理人の弁護士は、裁判官に「弁論更新」を訴えます。
それが通ると以前に意見陳述した原告は、新たな担当裁判官に再度陳述するのです。
これによって原告の思いを、字面からだけではなく五感を通して裁判官に受け止めてもらうのです。
 裁判長は弁論更新を認め、被告・国側代理人も了承しました。弁論更新期日をどう設けるかは閉廷後の進行協議によって裁判官、原告代理人、被告代理人の3者によって話し合われます。
 この日の法廷では、原告本人尋問が行われました。
◎原告本人尋問
●T・Tさん(被爆者)
 1932年に満州で出生し、1938年に軍人だった父親が死亡したため母子5人で長崎に帰国した。
1945年8月9日、原告は13歳で旧制中学1年生の時だった。
かつて人類が経験したことのないことが、突然起こった。
一発の原爆で一つの街を爆心地から同心円で破壊し、被害に遭った人たちの姿は百人百様で悲惨だった。
3日後の爆心地の様子は火傷被害者の滲出液に蝿や蛆が群がり、街のあちこちで火葬の煙が上がるなど地獄絵のようだった。
 自身には被爆によると思われる健康被害は明らかではないが、息子たちにはでている。
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の事務局長としての活動を通じて、核兵器廃絶の目標と日本国憲法の平和主義について考えてきた。
戦後は米国ABCCが被爆者をモルモットのように調査したが、これが戦争の行き着くところだ。
新安保法制法により被爆後の地獄絵がフラッシュバックして震えが止まらなくなる。
 70余年前の被爆の苦しみが解決されていないのに、再びその危険に踏み出すことになった新安保法制法は、原告の平和的な生存も、被爆者の人間としての尊厳も省みないことだ。
●H・Kさん(障がい者)
 父母もまた本人も障がいを持っている家族全員が障害者だ。
「障がい者はお荷物」という意識が今なお強い社会で自立し、学習塾講師を経て現在は静岡県職員でいる。
障がい者が生きられるのは平和であればこそ。
現在でさえ福祉の切り捨てにより生活が困難な障がい者が増えているのに、新安保法制の成立によって、国に役立つ人間のみが選別され、障害者はナチスドイツや戦時中の日本のように厳しく迫害されることになるであろう恐怖におののき、生存権への具体的な危険を感じている。
戦時中の障がい者抹殺や学童疎開の排除等を見れば明らかだ。
 戦後、平和憲法の下、障がい者も個人として尊重される世の中になったが、新安保法制法により、戦争がまた引き起こされ、両親共々その存在自体が社会から疎まれ、生命さえも脅かされる不安と恐怖が現実のものとなっている。
●H・Tさん(鉄道貨物運転士)
 貨物列車運転士として貨物輸送に従事しているが、貨物列車は燃料などの危険物を積載することもあり、貨物列車や広大なヤード(注:貨車操車場)はテロの格好の標的となる。
 過去には幌をかけ砲筒を外した大砲が運ばれたこともあった。
今は全てコンテナに入れて輸送なので中に何が積載されているかは、運転士にはわからない。
コンテナを積載した貨物列車が発車前のヤードにはたくさん停められており、また石油タンクを運ぶ時には市街地を通るので狙われれば大惨事だ。
運転士は、時間を守って安全に運ぶことだけを徹底して指導されるが、わずかな攻撃で大惨事を起こす危険を強く感じている。
 新安保法制法の下で、鉄道労働者は有事の場合に戦争協力を求められることになる。
●M・Kさん(厚木基地周辺住民)
 厚木基地付近に住み、頭の真上を軍用機が飛び交う。
小学校4年生の授業中、ジェット機が近くの鉄工場に落ちて、机のそろばんが衝撃で落ちた。
黒煙が上がるのが見え、5人が亡くなったと聞いた。
戦争と背中合わせの地で、その後小学校の教師となり、子どもたちと「あたらしい憲法の話」を繰り返し読んだ。
 今は退職し、腎臓病のために定期的に人工透析を受けている。
透析患者は平和でなければ生きられない。
新安保法制法の成立により日本が戦争に加担すれば、軍用機が厚木基地に発着する回数が増えることで騒音被害が増大する恐れを感じている。
新安保法制法の下、基地を狙ったテロが発生する蓋然性に大きな危惧と身体への危険を感じている。
 軍用機の離発着するときの騒音は、会話はできずテレビ、ラジオの音は聞こえず電話通話も難しい。
イラク戦争の時など、米軍機の離発着は増えて騒音は激しくなった。
●O・Kさん(ママの会)
 福島原発事故の後、黙っていたら我が子が死んでしまうかもしれないということを、身にしみて感じた。
安保関連法の通過の過程を見て、母親としての直感から、この国はすでに戦前に突入していることを知った。
3・11後は自分が子供たちを守る責任を感じ、「安保関連法に反対するママの会」のメンバーとして「誰の子も殺させない」を合言葉に活動している。
新安保法制法が成立し、若者が格差社会の中で戦場に送られる危険性が現実に生じていることを感じている。
 ルール無視の強行採決、民主主義の崩壊、立憲主義の崩壊。
テロリストは国会の中にいるのではないか?
 裁判官には平和憲法の理念をしっかり守る判決を下してほしい。
当たり前の平和を、子どもたちにも、さらに次の子どもたちにも渡していきたい。
●I・Sさん(学者)
 憲法研究者として平和の問題に取り組む原告の原体験には、父の戦争体験や子どもの頃に見た傷痍軍人の記憶がある。
虐殺に加担してはならないという憲法の平和主義は、原告の人格を形成する信念でもあったが、新安保法制法は、その信念を根底から蹂躙した。
 憲法学者になり現場を歩いて、初めて9条の意義を知った。
安保法制も現場の自衛官に会ってみて、その問題生を知った。
原告が教えた学生にも自衛官がいるが、自ら教えた学生が派兵されることは耐えられない。
自衛隊が海外の戦争で人を殺し、殺される自体は何としても阻止しなければならない。
 裁判所は、安保法制の違憲を判断すべきだ。
*原告側弁護士が、丁寧に原告本人に質問をして原告が答えていきましたが、ここでは原告の答えをごく簡略に記しました。
閉廷後に報告集会が持たれましたが、私はそちらには参加せずに帰宅しました。
 私自身が原告になっている国賠訴訟は、前回の期日で裁判官忌避の申し立てをしましたので、次回の期日はまだ未定になっています。
これは原告側が申請した証人尋問の証人採用を、裁判所が「必要なし」として拒否したので、裁判官忌避の申し立てをしたのです。
 今沖縄で起きていることも、この安保法制が強行採決されて成立したことも、全てひとつながりのことだと思います。
沖縄に心添わせながら、裁判に関わっていこうと思います。              

いちえ


2018年12月13日号 トークの会「福島の声を聞こう!vol.29」報告

 11月27日に催したトークの会「福島の声を聞こう!vol.29」のゲストスピーカーは、浪江町津島から茨城県日立市に避難した関場健治さんでした。
報告がかなり長文になってしまいましたが、関場さんの語り口をできるだけ生かしたく、またこの日の様子をできるだけそのままお伝えしたく思いました。
最後までお読み頂けたら嬉しく思います。

●一枝
 私が初めて関場健治さん・和代さん夫妻に会ったのは、大熊町から信州白馬に避難している木村紀夫さんの「深山の雪」のイベントの時でした。
木村さんは津波で家族を亡くされ、次女の汐凪ちゃんがまだ見つかっていません。
木村さんの所でお会いした時に和代さんの顔を見て、映画『遺言』の最初の場面に出ていた方だと気がつきました。
 今日はその映画を監督された豊田直巳さんも参加されています。
関場さん夫妻は、木村さんが手作りのポスターをスーパーや避難所などに貼って行方不明の家族を探している姿を取材したTV番組を見て、この人のために何かできることがないだろうかと、イベントに参加されたのでした。
 その関場さんに、お話しいただきます。

●関場健治さん
 私のところは福島県浜通りでも山間で、何もない自然だけが取り柄の場所でした。
私で3代目ですが、祖父母たちが山を切り拓いて畑や田んぼを作って生計を立てていました。
私は会社員で、原発から3kmもないところの運送会社に勤めていました。
 子どもの頃は豊かな自然の中で、川で魚獲りをしたり、山に行けば秋にはアケビや栗を採って食べたり、山菜やキノコがすごく豊富なところでした。
松茸、シメジなど高級なキノコも取れるし、塩漬けにして年間通して食べられるキノコもありました。
目の前が川で、小さい時から釣り糸を垂らして魚を獲って食べたり、経済的には豊かではなかったけれど、小さい時から自然のものを相手に楽しく暮らしていました。
 定年後にはそこで自然のものを栽培したりキノコを採ったりして生計を立てて行くことを、老後の楽しみにしたいと思っていました。
ワラビやフキがとても豊富に採れて、それらも栽培していこうかと考えていましたが、放射能がすごく高くて、せっかく田畑を拓いた所が今では原生林のような場所になってしまいました。
間もなく8年になりますが、ヤナギなど幹の太さが8〜10cmになるほどで、ここが田んぼや畑だったなんて、誰も想像できないほどになってしまいました。
 いま隣の街では除染して住民を戻すようにしていますが、帰還困難区域の津島はまだまだで、除染の計画はありますがはっきりしたことはまだ決まっていません。
昔のような林や原生林に戻ってしまっているのを見ると、時々帰って見ても、虚しくて見るのも辛くなります。
だから、できるなら行きたくないですが、いかないとメディアの人に報道してもらえず現状を全国の人に判ってもらえないと思って案内して見てもらっています。

●一枝
 関場さんは定年後にはキノコの栽培もされようとして、準備していたのですよね?

●関場健治さん
 仙台出身の姉の夫が近くに移住してきてキノコの人工栽培をしていて、やっと軌道に乗りかけていたところだったので、私もそれに倣って教えてもらって、ヒラタケ、舞茸、タモギ茸と、いろんなキノコを栽培して、定年後はそれで生計を立てようと思って、ある程度作っていました。
 3月11日に地震があり、海側の人は大津波で家が全滅してそこに居られなくなり、親戚など津島にいる人を頼ってきました。
12日に原発の爆発があって、3キロ圏内の人は避難、それが10kmになり、20kmになって、津島の方へ人がどんどん避難してきて、我が家には40人くらいが避難してきました。
 避難所までは大渋滞で、朝から何も食べていないという人もいて、自宅にあったコメなどを炊き出してカレーライスを作ったりしていました。
避難してきた人の中にたまたま息子さんが東電に勤めているという人がいて、その人から、原発が危なくなっているからここには居ない方が良いと聞いて、みんなそこから避難しました。
私たちは娘や息子の家族たち総勢18人で、長男の嫁の親戚を頼って会津へ避難しました。
 その中には小さい子どももいました。
娘2人と息子、それぞれ結婚して家族もあり孫は5人いました。
あの時東電関係者に会わなかったら、孫たちも被爆していたかもしれない。
それだけは、良かった、救われたと思います。
12日に会津の親戚宅へ避難しましたが18人もが行ったので、いつまでもそこには居られなくて、14日の午前中にはまたみんな別の所に避難しました。
私ら夫婦は、自宅に残してきた猫たちも心配だったので津島に戻りました。
すると警察が来て、理由は何も言わずに「ただちにここから出ろ!」と強い口調で言われ、役場に行って「こう言われたけど」と話すと、「いや、そんな話は聞いていない」と言われました。
14日には浪江町にはまだ避難指示も出てなかったようで、町から津島に避難してきた人たちは、その高線量のところで子どもたちを遊ばせていた人もいて、やはり甲状腺にかかった子どももいるようです。
でもそれは、公表していないみたいです。
 私らは12日に避難していたので救われましたが、14日に戻ってもそこに居られず、会津の東山温泉が避難者を受け入れているというので、東山温泉へ避難しました。
でもそこに居たのも1週間くらいで、そこは大熊町民の避難所になって、私ら浪江町民は居ずらくなって、また親戚を頼って5、6日親戚の家に居ました。
 4月になって女房は、家に置いてきた3匹の猫が心配で自宅に一人で戻りましたが、その時にたまたま豊田さんと会ったのです。
豊田さんが「なぜここに人がいるのか?」と不審になって訪ねてこられ、その時に線量を測って貰ったら雨樋の下で500マイクロありました。
500マイクロと言われても我々は線量なんて判らなかったからなんとも思わなかったですが、「ここに居てはまずい」と言われて、豊田さんたちに見送られて会津の雇用促進住宅に避難しました。
 そこは取り壊す予定の雇用促進住宅でしたが、そこを避難所にして受け入れてもらって1年くらい生活した後、奥会津の柳津に中古住宅を手に入れて連れてきていた猫も一緒に2年くらい住みました。
その後、仕事の関係もあって3人とも茨城県日立に移住していた子どもたちから、親も近くに住んだ方が良いと言われて日立市に移り住んで4年になりました。
 息子も娘たちも、それぞれ互いに近いところに別々に住んでいます。
私はじっとしていられない性格もあって日立に移り住んでから近くに畑を25アールくらい借りて、子どもや孫に食べさせるために野菜を作っています。
それでも家族だけでは食べきれないので、近くの直売所に参加するようになりました。
また浪江町に帰町した人たちは町には店がなくて南相馬まで買い物に行っているので、
第2土・日に浪江町の役場前で野菜販売しています。
今は、それが生きがいのようになっています。

●一枝
 今日はここに来る前にも、午前中に畑で玉ねぎを植えてきたと仰っています。
津島は満蒙開拓で出て行った人たちが日本に戻ってから、生きるためにまた開拓していった地域です。
津島の中で満蒙開拓団関係者は津島の人口の7割にもなるそうで、津島には記念碑もあります。
そういう地域柄か、地域の結束力が強いところで子どもさんたちは津島の学校に行っていたのですね?
自転車で?

●関場さん
 小学校はスクールバスがあったのですが、中学からは自転車で8kmくらいの道程を通っていました。
家族だけではなく地域の人たち全体が子どもたちを見守っているようなところでした。都会では考えられないと思いますが、絆がとても強くて悪いことをすればどこの子どもでも叱ったり、良いことをすれば褒める、そういうところでした。
 そういう地域でしたが今は避難してバラバラで、浪江町の人は避難して和歌山県と鳥取県か島根県だかに居ないだけで、あとは全国に散って、海外に出た人もいます。
津島地区だけでもバラバラで、東京に来ている人も居ますし、私のように茨城もいて、茨城が一番多いようです。
何か不幸があるとお悔やみに行くのも時間をかけて行くようになります。
 私のところの行政区は赤宇木ですが戸数は82、3戸あったですが、震災後亡くなった方が30人以上います。
ストレスもあるかどうか判らないですが、元の故郷にいればもうちょっと長生きできたのではないかとつくづく思います。
やることがなくなって何もしないで散歩したりですが、散歩する姿が「あの人は避難者だな」と、肩を落としているからすぐ判るんです。
でも、「あの人たちはお金貰っているから何もしないで歩いていられるんだ」と言われたりもするのですが、好き好んで歩いているのではないのに。
体を動かさないでいると弱ってしまうから、歩いている人は多かったです。

●一枝
 津島の記録を残しておきたいと区長の今野さんが丁寧に調べていらっしゃるのですが、なぜこういう暮らしが無くなっていったかということを後の人たちに伝えていく貴重なお仕事をされています。
津島はテレビ番組の「ダッシュ村」の舞台だったところですよね?

●関場さん
 はい、日曜日に日テレで放送していました。
あの風景を思い描いていただけば判ると思いますが、山の中にポツリポツリと家があるひっそりとしたところでした。
自然だけが取り柄のようなところでしたが、私はそこから出ようなんて一度も思ったことはなかった。
生まれ育ったここで最後は眠るんだと思っていたので、好き好んで避難したのではなく今は日立に住んでいますが、できることならまたあそこの場所で一生を閉じたいなと強く思っています。
今でも帰れるものなら帰りたいですが、現況を見ると絶望感でいっぱいになって、見れば見るほど苦しくなって、ならば行きたくないですが、やっぱり現状を見て知ってもらうことが大事だと思って、いろんな方を案内しています。

●一枝
 そういう津島から避難所を転々として日立に移られました。
日立の旧市街地には古い立派な門構えの家もあったりですが、関場さんのところは新たに開発された新市街地のようですね?
そこで住民の方たちとのつながりはできそうですか?
●関場さん
 はい、あそこはバブルの頃にできたのか新興住宅地で、700戸くらいあるのかな。
そこに通学する子どもが300人位いて、若い世帯が多く平均年齢が若いです。
隣に大熊町から避難した人たちが住んでいて、富岡町とか南相馬など10何世帯かは避難してきた人たちがいます。
あそこに住んで4年になりますが、自分の家という思いはないです。
どこへ行っても浮き草暮らしという感じです。
やっぱり津島が、自分の家という感じです。
津島は自分が建てた家ではないですが、子供もそこで育て思い出いっぱい詰まっていて、そういうのが滅びていく姿を見るのは、本当に辛くなります。

●一枝
 以前はイベントなどでお会いする時はいつも健治さんと和代さんお二人で見えていたのが、ある時期から健治さんだけで和代さんの姿が見られなくなりました。
健治さんにお聞きすると元気ですと仰るし、和代さんに電話をしても「元気です」と仰るのですが、和代さんには会えないでいました。
 先日、日立の関場さんのお宅へ伺った時に和代さんの元気な姿に会えてホッとしたのです。
その時にお聞きしたのですが、和代さんは昨年、嫌な夢ばかり見て眠れなくなり食事ものどを通らなくなって、3ヶ月で10数キロ痩せてしまったそうです。
友人にそれを話すと「鬱病ね」と言われてストンと納得し、お医者さんの治療を受けるようになり、今は元に戻って元気でいます。
 その頃の和代さんに取材したTV番組(原発事故 命を脅かす心の傷)の録画を、関場さんの家で見せてもらいました。
番組の中で精神科のお医者さんが言っていたのが、「フラッシュフォワード」という言葉です。
過酷な体験をしてそれがトラウマになる「フラッシュバック」はよく知られていますが、原発事故の場合には「フラッシュフォワード」があり、それは前を見ても、前を見ても絶望しか見えてこないということから起きることです。
和代さんの場合がそのフラッシュフォワードだったのですが、私自身南相馬に通っていて、それを思い当たる人がいます。
原発事故はほんとうに罪深く、事故そのものもですがそれを何も責任を感じず痛みを感じずにいる人がいることに、許しがたい憤りを感じています。
関場さんや津島の人たちは「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」という裁判を起こしています。
原発事故に関する裁判は津島だけではなく、全国各地で40数件の集団提訴がありますが、そのほかに個人で訴訟を起こしている人もいますから、もっとたくさんの裁判が闘われていると思います。
 関場さんは津島訴訟の原告として、なぜ原告になろうと思ったのか、どんな風に裁判闘争を進めてきているのか、お話いただけますか。

●関場さん
 はい、このまま泣き寝入りするのは嫌だと思ったのです。
このまま何もなかったようにオリンピックだ、また今度は大阪万博もやるみたいですが、何も解決していないのに、損害賠償だって昨年の5月で打ち切りになりましたが、お金が目的ではなく「ふるさとを返せ!国・東電は謝れ!」ということで訴訟を起こしたのです。
誰も責任を取っていないんですよね。
戦争もそうだったでしょうけど、国策でやって誰も責任を取っていないし、賠償だって納得のいくような賠償ではないし「ふるさと喪失」でも闘っていますが、ふるさと喪失を証明するのは難しいようですが、津島にも歴史があって伝統芸能やらもあったのに、そういうものを保存もできなくなったし、地域の絆もみんなバラバラになってしまって、元の線量の毎時0、23マイクロシーベルトまで落とさなければならないのに、未だに除染も何もやっていない。
やるとは言っていますがはっきりしていません。
今でも空間線量が10マイクロあります。
子どもや孫がいけるような場所ではないですが、その脇は国道114号線ですが、そこも道路だけ除染して周りは本当に線量が高いですが、みんな平気で通っています。
そういうところは通行しないほうがいいと思いますが、復興、復興で除染の車とかダンプカーがいっぱい通っていますが、少し離れると非常に線量が高いところです。
そんなところを除染すると言っていますがいつになるかも判らず、また至難の技だと思います。

●一枝
 今週の金曜日、また津島訴訟の第15回口頭弁論があります。
健治さんもこれまでの裁判期日の中で意見陳述されましたね。
どんなことを話されたのですか?

●関場さん
 その時は4名が意見陳述しましたが、私は「美しい津島を返せ」ということで話しました。
本当に自然が豊かで、お風呂も外に薪風呂で夏など夕涼みに橋の上に出ると天の川が横たわって、橋の下は請戸川でそこにホタルが乱舞している様子が見られました。
あとは野鳥も豊富で、オオルリ、ヒガラ、コガラ、ウグイスなどいろんな野鳥がいて、モリアオガエルもいました。
山から引き水をしていましたが、そこにはサンショウウオや沢ガニも生息していました。
本当に自然が豊かで飲料水などいくら使ってもただなんですが、今は水道代や下水代を取られていますが、それを東京電力に請求したら却下されました。
自然もそうですが、昔の絆を取り戻すために誰かが言わなければ、裁判を起こさなければ、国や東電にわかってもらえないと思って何人かで裁判を起こしました。
今は原告団が670数名います。
なんとか勝ち取って、元の姿に戻してもらいたいと思います。

●一枝
 津島訴訟は9月に裁判官の現地調査があったのですね?
その話もしてください。

●関場さん
 原告団も一生懸命ですが、弁護団の方も本当に熱心に頑張ってくださっていて、裁判官の方達を是非とも現地検証に連れて行きたいということで頑張ってくれて、それが裁判官に気持ちが届いたようで、最初は1日だけということだったですが津島も広範囲なので、それを1日だけでは無理ということで2日間にわたって、裁判官3名と原告団、原告側弁護士、国・東電とその弁護士の方達で7、80人いたでしょうか、その準備や予行演習など、どこで何分とって通行にどれくらいかかってとか、何回もリハーサルをして2日間無事に成功しました。
裁判官に来てもらったことは裁判に大きなプラスになると思うので、なんとかそれを勝利に導きたいと、また頑張っていきたいと思います。

●一枝
 そうですね、現地を見てもらうのが一番なんです。
話を聞く、書かれたものを読むだけではなく現地の空気に触れるのが一番だと思います。
 先にお話ししたように原発事故に関しての裁判はたくさん開かれていますが、津島訴訟もそうですが多くは民事裁判です。
東電の元幹部3名、勝俣恒久、武黒一郎、武藤栄を被告とした刑事裁判もあって、私はそれをずっと傍聴しています。
裁判所の法廷は法廷権を裁判長が持っているのですが、この裁判では法廷内に入る時にボディチェックをされていました。
傍聴の私たちは毎回それに対して抗議をしてきましたが、ようやく8回目の公判から接触してのボディチェックはなくなりました。
傍聴人の服装もTシャツに吉永小百合さんのサインで「忘れない いつまでも」とプリントされていたら、上着を着て隠すように言われます。
よっぽど、原発事故を忘れてほしいのです。
 この裁判でも検察官役の指定弁護士が現地調査を申し入れてきましたが、それも一度でなく何度か、また文書だけではなく口頭でも申し入れてきました。
ところが裁判長は「必要を認めない」でした。
検察官役弁護士がそれに対して異議を申し立てたのですが、被告側弁護士からそれに対して却下の申し立てがされて、裁判長は被告側に立って現地調査の申し入れを却下しました。
津島訴訟で現地調査が行われたことは素晴らしいことで、40数件の裁判が闘われている中で、希望の星のような裁判だと思います。

●一枝
 ここでもう少し遡ってお聞きしたいのです。
関場さんの子供時代は、津島でどんな暮らしだったのでしょう?

●関場さん
 1955年(昭和30年)に生まれましたが、魚獲りしたり、山の木の実やキノコを採ったり、チャンバラごっこや、山に行けば蔓にぶら下がってターザンごっこしたり、やんちゃでした。
両親は、生活が貧しかったので父親は出稼ぎに行ったり、お袋は畑仕事やったりしていました。
その頃はおじいちゃん、おばあちゃんは引退して近くの隠居所にいて別々に暮らしていました。
おじいちゃんは若い頃に津島に入植した頃は、炭焼きや木材で生計を立てていました。
津島には「津島マツ」という献上品になるような松があって、杉や松を切って出していました。
私が生まれた頃はもう炭焼きはしていませんでしたが、そんな話を聞いていました。
私はきょうだい3人で、姉は祖父母のところに一緒にいて、私のところは父親は出稼ぎでお袋と私と妹と3人で下がお袋は病気がちで、経済的には貧しい暮らしでした。
それでも金がなくたって心は豊かで、毎日毎日外で楽しく遊んでいました。

●一枝
 健治さんも自転車で学校に通ったのですね?
学校を出てからは、お父さんのように出稼ぎに行くことはなかったのですね?

●健治さん
 その頃は親父も近くの建設会社に勤めるようになっていて、お袋もそこではないですが別のところに働きに行ってました。
私は大熊町にある運送会社に勤めて、震災までの35年勤めていました。
定年まで勤めるつもりでしたが、会社は閉じてしまったのでやむ無く仕事を辞めましたが避難していても毎日やることがなくて、柳津に移ってからは畑があったので畑をやるようになって楽しくなり、日立に移ってからも畑で野菜を作って子どもや孫に野菜を食べさせるようになったのが面白くなって今は少しは前向きになりました。
 家内もそうですが寝ていても今のことではなく昔のことばかり夢に見るようになって、やっぱりふるさとの暮らしが恋しいのか、先祖が築いてきた暮らしが荒れ果てていくのが忍び難くて、できることなら家の周りだけではなく山も水も除染してほしいですがそれができないから、やっぱり裁判で勝ち取って元の姿に戻して欲しいです。

●質問者
 南相馬小高出身の者で実家は米屋をやっていました。
祖祖父は裸一貫から商売を始めました。
耕作地がなかったのでまず馬を借りて津島に行って炭を買い、それを浜の方に持って行って売って米を買って、それをまた津島に持って行って炭と替えてというようにして少しずつ蓄えて行って米屋を開いたのです。
 自分は高校が双葉高校でしたから同級生には津島の友人もいて、泊りがけで彼の家に遊びに行くこともありました。
請戸川でヤスでヤマメなど突いて、それが沢山獲れるので晩御飯に食べたのが蘇ってきて、原発事故に対する怒りや悔しさが改めて湧き上がってきました。
 質問ですが避難先で心を病んだ友人がいますが、そのことで損害賠償を請求したら心理的な病は避難が原因と特定することはできないと、けんもほろろに扱われたと聞きました。
損害賠償はないのですか?

●関場さん
 精神的慰謝料は平成29年5月で打ち切られました。
帰還困難区域に関しては一括して+700万円までは出ました。
元に帰れるまでは払わせたいと裁判では訴えていますが、それが通るかどうかは判りません。
お金で替えられるものではないですが、好きで出たわけでも悪いことをして出たわけでもないのにふるさとに帰れないというのは悔しいですから、裁判に訴えるしかないです。
ヤマメなんかちょっと晩御飯のおかず獲ってくるって行けば、いくらでも釣れたし秋にはサンダル履きで山の方に行けばキノコなんかすぐ採って来れたしワラビやフキなんか目の前にいくらでもあったし、そういうものを食べられなくなりました。
津島では当たり前に食べていたものが食べられなくなって、みんなにそういうものを食べさせたいなと思って、運送の仕事で行ったことのある福井などに行って採ってきて配ると喜ばれています。

●質問者
 被爆者の体験談で、低線量被曝でも体がだるくなって仕事ができなくなってしまうと聞いたことがありますが、実際に津島の人でそのような症状は出ていますか?

●関場さん
 それが原因かどうかはわからないですが、そのような話は聞いたことがあります。
因果関係はわからないですが、やっぱり何か気力が薄れたという話はよく聞きます。

●質問者
 お子さんやお孫さんは避難して日立にいらっしゃるのですが、故郷に対する思いはどうなのでしょうか?

●関場さん
 長女の孫はいま6年生ですが、浪江に帰って役に立つことをしたいと言ってますが下の孫は小学校2年ですから、津島の記憶は全くなくて故郷というのは最初に避難した会津で、そっちの思い出はあります。
震災前から子どもたちはそれぞれ家庭を持って別に住んでいましたが、息子も娘たちも、もう戻れる状況ではないし全く戻る気はなく、若い人は切り替えが早いですね。
だから、お墓は向こうにあって先祖は眠っているのですが日立の方に墓地を購入して、来年は父と母の17回忌に当たるのでその時はお墓も移転しようと思っています。
長女は家を見に行ってみたいとは言いますが戻りたいとは言わないし、他の子も戻りたいとは言いません。

●一枝
 じゃぁ津島の家に戻ったことがあるのは健治さんと和代さんだけで、お子さんたちは誰も事故後は行ってないのですか?

●関場さん
 長女は家には行かなかったですが、国道は通ったと言ってます。
息子は、私ら12日に会津に避難した後で2人で戻って、カーテン閉めて見つからないようにしてたんですが、息子が探しに来て見つかって、「やっぱり戻ってたのか」と連れ戻されました。
 やっぱり今でも戻れるものなら戻りたいという思いが心の片隅にあるから、踏ん切りがつかないですね。
若い人のように気持ちを切り替えて、あそこはもう無理だから新しい場所で生きていかなければという気持ちになればいいのでしょうが、それがなかなかできなくて四苦八苦してます。
裁判も何年かかるか判らないので、やっぱり新しい場所で何か楽しみを見つけていった方がプラスになるかなと、半信半疑ですがだんだんそんなふうに思い始めています。

●参加者
 前々回の三瓶春江さんのお話で、津島は満蒙開拓団の人たちが開拓した土地だとお聞きして、すごいショックを受けました。
戦争時代に棄民策として国に捨てられ、また原発事故で同じ目に遭っている人たちが居るということが本当に許せなくて、もっと知りたくて訴訟のDVDを購入しました。
前半が事故前の津島の様子が流れていて後半は事故後の津島ですが、事故後の様子は報道などもされていますが、事故前の暮らしの様子、例えばお祭りだったり運動会や地域の集まりなどちゃんと誰かが撮っていて残していける、そんな繋がり強い地域だということが伺えました。
 この悔しい気持ち、許せない気持ちをどうするかというと、東電にきっちり謝らせたいという人と、あとはもう放射能のことなんか忘れて、そんなこと言うなよと言うような人といますが、私はぜひ最後まで頑張っていただきたいし、できる限り応援していきたいと思います。

●一枝
 ありがとうございました。
ご発言のように、現地の様子を知り当事者の声を聞いて、できる限り共に闘っていきたいと思います。
このトークの会もこれからも続けていきますので、またここで皆さんとお会いしたいと思います。
次回は来年1月25日、金曜日ですが今日と同じ午後7時から9時まで、ここで開催します。
ゲストスピーカーは南相馬市小高区から神奈川に避難している村田弘さんです。
 今日はご参加くださって、ありがとうございました。

長い報告を、最後までお読みくださってありがとうございました。   

いちえ






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