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2018年6月6日号「5月11日、安保法制違憲訴訟 国家賠償請求裁判傍聴記①」

一ヶ月前の裁判傍聴記です。
長文を続投しますが、お読みいただけたら幸いです。

 5月11日(金)は、件名の裁判の第7回口頭弁論期日でした。
代理人意見陳述と3名の原告本人尋問が行われました。
東京地裁103号法廷傍聴席で、開廷を待ちました。
13:30に扉が開いて裁判官が入廷するのを、傍聴人は起立して迎えて着席します。
裁判長も右陪審、左陪審もこれまでの人ではありませんでした。
裁判員が3人全て替わってしまっていたのです。
4月は人事異動の月だとはいえ、裁判でこんなことがあっていいのでしょうか?
大いに疑問を抱きながら、傍聴しました。
◎代理人弁護士意見陳述
 裁判官が交代したので代理人弁護士からの弁論更新がありました。
裁判官が替わった場合の弁論更新は、多くの場合裁判長から原告・被告双方に「主張立証は従前通りでいいですか?」と問い、双方が「はい」と答えて一瞬で終わることが少なくないそうですが、きっと代理人弁護士からしっかり申し入れされていたのでしょうか、この日は4人の弁護士から丁寧な意見陳述が行われました。
意見陳述、全文を載せたいのですが長くなるので骨子のみを「だ。である。」調で記します。
●寺井一弘弁護士:「今、なぜ安保法制の違憲訴訟か」
 3年前の9月19日の夜、集団的自衛権行使容認の閣議決定の具体化として安保法制の強行採決が行われた時、国会周辺に集まった市民の一人として私も居た。この70年間以上「一人も殺されない。一人も殺さない」としてきた崇高な国柄が一夜にして崩れていくことを強く感じた。
憲法9条がなし崩し的に「改定」させられていくことへの恐怖と民主主義が最大の危機に陥っていることを憂える多くの市民の表情が脳裏に焼きつき、戦前・戦中・戦後の時代を苦労だけを背負って生き抜いた亡き母を想い出していた。
 私は「満州鉄道」の鉄道員だった父と旅館の女中をしていた母との間に生まれ、3歳の時に満州で終戦を迎えた。
8月9日のソ連軍参戦により満州にいた日本人は生命の危険にさらされ、父は私を生かすために中国人に預けようとしたが、母は父の反対を押し切り残留孤児になる寸前の私を抱きしめて、郷里の長崎に命がけで連れ帰った。
 引揚者として原爆被災地の長崎に戻った私たち家族の生活は筆舌に尽くしがたいほど貧しく、母は農家で使う筵や縄をなうため朝から晩まで寝る間を惜しんで身を削って働いたが結核になって病に臥せった。
母はいつも私に「お前は戦争を憎み平和を守る国づくりのために全力を尽くしなさい」と教え続けてくれた。
 私はこうした母の教えを受けて弁護士になり、これまで48年以上にわたり憲法と人権を守るために活動してきた。
今回の明らかな憲法違反である安保法制は母と同じような思いで戦中戦後を生きてきた多くの方々と私自身の人生を根底から否定するものだと痛感させられた。
残された人生のすべてを平和憲法と民主主義を踏みにじる政府の蛮行に抵抗するための仕事に捧げようと決意し、代理人を引き受けた。
 安保法制を違憲とする訴訟には現在、全国すべての地域から1607名の弁護士が訴訟の代理人に就任し、原告は7303名となっている。
この勢いは今後もさらに広がり、全国的に大きな流れになっていくだろう。
安保法制を違憲とする裁判は北から南まで全国各地で展開されているが、原告の方々は自分が何故に原告になったかという陳述書を次々に提出している。
 東京地裁民事一部の法廷では1月26日に7名の原告の切々たる尋問がなされ、本日も3名の尋問が予定されている。
いずれも自分の人生体験を振り返りながら、安保法制が日本を再び戦争のできる国にしてしまったこと、それによってどれほどの恐怖と不安を抱いているか、蒙った被害と損害について切々と訴えるものになっている。
 私ども法律家はこの魂からの叫びを耳にして、改めてこの違憲訴訟にさらに真剣に取り組んでいかなければならないと決意を新たにしている。
圧倒的多数の憲法学者、最高裁長官や内閣法制局長官を歴任された有識者の方々が安保法制を違憲と断じている中で、行政府と立法府がこれらに背を向け、国会での十分な審議を尽くすことなく安保法制法の制定を強行したことは、憲法の基本原理である恒久平和主義に基づく憲法秩序を根底から覆すものだと考えている。
 政府は2014年7月1日の閣議決定に引き続き2015年9月19日にはわが国歴史上に大きな汚点を残す採決の強行により、集団的自衛権行使を容認する安保法制を国会で成立させ、2016年3月29日にこれを施行した。
さらに安倍首相は東京オリンピックの2020年に新憲法を施行すると豪語し、本年3月に自衛隊を憲法9条に明記するなどの改憲原案をまとめた。
 国民世論と全く乖離したこうした思いつきの乱暴極まる策動を、決して許してはならない覚悟を決めている。
今日の事態は、わが国の平和憲法と民主主義を守り抜くに当たって、極めて深刻である。
 このような歴史的危機に当たって、司法こそが憲法81条の違憲審査権に基づき、損なわれた憲法秩序を回復し、法の支配を貫徹する役割を有しており、その機能を発揮することが今ほど強く求められている時はない。
安倍政権が集団的自衛権を容認する根拠として引用した「砂川判決事件」でも、「一見極めて明白に違憲無効と認められる場合には裁判所の司法審査権の範囲に完全に入る」と指摘している。
 東京地裁民事一部の三名の裁判官が、裁判官を志された原点に立ち戻られて、ただひたすら平和を求めている原告一人一人の思いとしっかり向き合い、本件訴訟について憲法判断を回避することなく憲法の基本原則である平和主義原理に基づく法秩序の回復と基本的人権保証の機能を遺憾なく発揮されることを切に望む。
裁判官におかれては、市民の心からの願いと期待に真摯に応えることを懇請する。
●福田 護弁護士:「原告の主張の全体像と新安保法制法の違憲性・危険性」
第1 これまでの原告の主張の概要
⒈本件における加害と被害と違法性
原告らは2014年7月1日の「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」閣議決定、2015年5月の新安保法制法の閣議決定と国会への提出、採決という各行為による新安保法制法の制定を、内閣及び国会を構成する公務員の加害行為として捉え、原告らの有する①平和的生存権、②人格権、③憲法改正・決定権が侵害されたことを主張してきた。
この加害行為は、憲法9条についてそれまでの政府解釈を明らかに逸脱する極めて重大な違法行為だと主張してきた。
⒉加害行為の違憲性とその重大性
 わが国を代表する識者(憲法学者樋口陽一、長谷部恭男、石川健治、青井未帆の各教授、山口繁元最高裁長官、濱田邦夫元最高裁判事、歴代内閣法制局長官ら)は、この違憲性と憲法破壊の重大性を、鋭く明確な見解で指摘している。
 新安保法制法の違憲性として、①存立危機事態における「自衛の措置」としての集団的自衛権の行使容認、②重要影響事態法における後方支援活動の外国軍隊との一体化、③国際平和支援法における協力支援活動の同様の一体化のほか、④国連平和維持活動協力法(PKO協力法)改正による駆けつけ警護等とその任務遂行のための武器使用、⑤改正自衛隊法95条の2に基づく米軍等の武器防護のための武器使用を、侵害行為とする。
これらの違憲性の全体像を示し、上記5つの事項の違憲性の具体的内容を詳述する。
⒊被侵害権利・利益の内容と重要性
 平和のうちに生存する権利は憲法前文に明示され、すべての基本的人権の基礎であり、憲法13条等によって具体的規範性が根拠付けられ、憲法9条によって制度的保障を与えられたものと理解される。
総じて原告らの人格権、平穏生活権は憲法9条を破壊した新安保法制法によって様々な形で深く侵害され、また、本来憲法9条を改正しなければできないことを憲法96条を潜脱して強行し、原告らの憲法改正・決定権を侵害した。
第2 新安保法制法の違憲性と危険性
⒈存立危機事態における集団的自衛権の行使について
⑴昨年8月10日、北朝鮮がガム島周辺に向けて中距離弾道ミサイル発射の計画を検討と表明したのに対して、小野寺防衛大臣は、武力行使の三要件に該当するかどうかで判断される旨の答弁をした。
⑵新三要件は①わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態(存立危機事態)であること、②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと、③必要最小限度の実力を行使することとされている。
 新安保法制法以前の自衛権発動の要件は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」日本の領域への侵害などとして認識、判断することができるものだった。
これに対し「存立危機事態」は、「密接な関係にある」他国に対する武力攻撃かどうか、国民の権利等が「根底から覆される」「明白な危険」があるかどうかといった、幾つもの抽象的な判断で構成され、「政府の総合的な判断」に委ねられる。
その判断の適否の客観的な基準は、極めて考えにくい。
 従前の政府解釈では「必要最小限度の実力行使」は、外部からの武力攻撃を我が国の領域から排除する受動的なものであり、原則として我が国の領土・領海・領空で行われ、せいぜいその周辺の公海・公空に限られるとされ、限定的な線引きが明確だった。
それに対し、存立危機事態における集団的自衛権の行使は、相手国の領域を含めて地理的限定などなく、地球の裏側にまで及ぶ。
海外を戦場とする他国の戦争に参加するのだから、どこで何をするのが「必要最小限度」かは極めて判断しにくく、一旦「存立危機事態」と判断して参戦したら、戦局の推移に応じ、なし崩し的に際限なく戦争に引きずり込まれていく危険性が極めて高い。
⑶北朝鮮がガム島周辺に向けてミサイルを発射する行為を、もし政府が存立危機事態と判断して集団的自衛権として迎撃すれば、北朝鮮に対する日本の武力行使という決定的な事実を生み、日本は直接攻撃を受け戦争に突入することになる。
 存立危機事態における武力の行使、集団的自衛権の行使は、このようにとてつもなく危険なものなのだ。
⒉後方支援活動と「非戦闘地域」について
①防衛省はイラク派兵時の陸上自衛隊の日報は、これまで存在しないと国会答弁してきたが、4月2日に派遣期間の半分近くにのぼる376日分が見つかったと発表し、しかも陸自内部は1年以上も前に、その存在を把握していたのに放置していたことも判明した。
 開示された日報には、自衛隊員が日常的に攻撃の脅威に晒されていたことを物語る記録が記されている。
イラクから帰国した自衛隊員のうち在職中に29人もが、その後自殺していることからも派遣中の精神的負担の大きさを推し量れる。
②現場からの日報が開示されないまま、イラクで「非戦闘地域」とされていたところが「戦闘」が行われていた命がけの地域であったことを前提とせず、新安保法制法の審議が行われ、「非戦闘地域」の枠さえ取り払ってしまった。
 後方支援活動も協力支援活動も、「非戦闘地域」どころか、「現に戦闘行為が行われている現場」でなければ行えるとして、その制限を大きく緩和した。
自衛隊による外国軍隊への物品・役務の提供(兵站活動)、弾薬の提供や戦闘発進準備中の航空機に対する給油・整備まで認めた。
その結果、自衛隊が戦闘に巻き込まれる危険も、敵対国・敵対勢力からの攻撃対象とされる危険も格段に高くなった。
③本件で証人として申請した半田滋氏(東京新聞論説委員兼編集委員)は、自衛隊のイラク派遣について、その初期にサマワに滞在した経験を踏まえ、またその後の継続的な取材を経て、その危険性をずっと指摘してきた。
 イラクにおける「非戦闘地域」の実態を無視し、さらに危険な活動へ自衛隊を送り込もうとする新安保法制法の無謀ともいえる危険性を理解するには、このような経験と取材によって蓄積された知見を持つ半田氏の証言を聞くことが、必要不可欠だと考える。
⒊新安保法制法の下での自衛隊の強化
 新安保法制制定前後からの自衛隊の装備等の導入や構想の拡大は、従来の「専守防衛」の域を超え、このまま進めば日本は紛れもない軍事国家へと変貌するだろう。
①「日本版海兵隊」と呼ばれる水陸機動団が、米海兵隊との共同訓練等を経て3月27日に発足し、同時に水陸機動団を最前線に運ぶオスプレイ17機の購入も決定され、2018年度から順次導入される。
②新たな弾道ミサイル防衛システムとして陸上配備型イージス・システム(イージス・アショア)2基の導入を決定し、秋田県と山口県への設置が構想されている。
導入に1基1,000億円以上の装備で、単独国での保有はアメリカ以外にない。
③航空自衛隊の戦闘機に搭載する長距離巡航ミサイル導入のための関連経費を2018年度予算案に追加要求した。
これは他国の敵基地攻撃が可能なミサイルであり、専守防衛を逸脱するものだ。
④青森県三沢基地に、航空自衛隊初のステルス戦闘機F35Aが配備された。
相手のレーダーに捉えにくく、防空網を破って侵入できる敵地攻撃的な能力を持つもので42機の導入が予定されている。
日米が同じ機体で編隊を組み、データをリンクして攻撃する共同作戦も視野に入る。
⑤昨年5月、自衛隊法95条の2の武器等防護に関する警護を初めて実施した「いずも」は日本最大の護衛艦で空母の形状をしたヘリコプター搭載機だが、これを垂直離着陸が可能なF35Bステルス戦闘機を搭載する空母とする構想が浮上し検討されている。
これまで日本は、憲法9条の制約として、相手国の壊滅的破壊のために用いられる攻撃型の兵器保有として空母は持たないとしてきたが、これも踏み越えようとしている。
⒋結語
 このように、新安保法制法の下で自衛隊は、ミサイル防衛を含めて米軍との共同・一体的運用を深化し、海外での武力行使も視野に入れて敵地攻撃能力を備えた新たな装備を次々と導入する動きが顕著になっている。
それはこれまでの、日本の領域を守るという専守防衛から離脱して、世界規模に武力の行使を含めた活動を展開しようとする動きとして、憲法9条を基本とした平和国家日本の在り方を根本的に変容させてしまう危険性を示すものと言わざるを得ない。
 行政府と立法府が暴走し、憲法の軛を破断して強行採決した新安保法制法は、今、この国とそこに住む国民・市民を、とてつもなく危険なところへ導こうとしている。
 この危険は、国民・市民の名において、どうしても食い止めなければならない。
本件訴訟はそのためのものであり、私たちはいまや司法にその役割を託すほかなく、司法は積極的にその役割を果たすべきだと考える。


2018年6月4日号「5月の南相馬で②」

前便からだいぶ間が空いてしまいましたが、5月の南相馬訪問の続きです。

◎5月22日
●次回に訪ねたい
 鹿島の仮設住宅を訪ねる前に、昨日吉沢さんに聞いた酪農家の滝沢さんの牧草地を見に行きました。
滝沢さんの家は、馬場にあります。
吉沢さんに聞いた通り、滝沢さんの牧草畑には高さが2m以上はありそうなソーラーパネルが張り巡らしてありました。
なるほどこの高さなら、牧草を刈るのも難なくできるでしょう。
吉沢さんによると滝沢さんは、「今は酪農より売電からの収入の方が多い」と言っているそうです。
それは吉沢さんからの又聞きですから、今度ゆっくり滝沢さんをお訪ねしようと思いました。
 浜通りの海岸地域はどこも津波の被害が甚大だったのですが、鹿島の右田浜から海老の辺りも集落の家々は流され犠牲者もまた多かった地域です。
その津波浸水域は、今はメガソーラーの立地地区になっています。
ところがそこでのソーラーパネルはとても丈が低く設置されていて、下草を狩ることなどできないような高さなのです。
除草剤を撒くしか方法はないような設置の仕方です。
 またビジネスホテル六角の近くの森合地区にはごく狭い畑地ですがエコファームと称して、150〜200cm高さにソーラーパネルを設置してその下で野菜栽培をするように作られていたところがあります。
でもそこは最初の年はかぼちゃを作っていましたが、今は畑は荒れ放題でソーラーパネルも稼働しているのかどうなのか…。
お隣の畑の方に尋ねてみましたが、その方にも判らないようでした。
 だから次にはぜひ、滝沢さんをお訪ねして話をお聞かせいただこうと思いました。
●かぼちゃ作り名人の羽根田さん
 滝沢さんの牧草地を見に行った時に、大留さんが言いました。
「羽根田さんの家はこの辺じゃないかなぁ。あそこの表札はたしか羽根田だったよ」
羽根田ヨシさんは鹿島の借り上げ住宅に避難していた人で、六角支援隊の畑を使っていた人です。
かぼちゃの品評会で何度も賞を取ったことがある、かぼちゃ作りの名人なのです。
 大留さんが「羽根田」の表札を見つけた家を訪ねると、そこはヨシさんの親族の家でしたが、そこでヨシさんの家を教えていただきました。
突然ではご都合もあろうかと、直前ではありましたがヨシさんに電話をしました。
ヨシさんが借り上げ住宅を退去してからは電話をすることもなく過ぎていたので、久しぶりの電話に驚かれました。
私がお宅のすぐ近くまで来ていることを伝えるとヨシさんは、デイサービスの日なので9時には鹿島に出かけるけれど、どうぞいらっしゃいと言ってくれました。
時計を見ると8時20分です。
長居はできませんが、久しぶりにお目にかかりたくてお訪ねしました。
 ヨシさんに会うのは3年ぶりです。
お孫さんが運んでくれたお茶を進めながらヨシさんは、「5月に誕生日が来て、88歳になりました」と言いました。
「今も畑や詩吟を続けていらっしゃいますか?」と尋ねると「ええ、家の前の畑にビニールハウスを作ってもらって、そこで野菜を育ててますよ。毎日ハウスに入って野菜たちに挨拶して『おはようございます。練習しますからちょっと聞いてくださいね』って言って野菜たちに聞いてもらってます」
 日々、家族が食べる野菜作りで体も使い、詩吟の練習で声も出して米寿を迎えたヨシさんは、とてもお元気でした。
 ヨシさんは、アマチュア天文家で彗星を発見した(羽根田・カンボス彗星)羽根田利夫さんの姪御さんです。
借り上げ住宅に入居されていた時に何度かお訪ねして、いろいろ話しを聞かせていただいていました。
そして、今度は泊りがけで馬場の家にいらっしゃい、と言われていましたが、叶わずに過ぎていました。
近いうちに改めてお訪ねして、またゆっくりお話を聞かせていただこうと思いました。
●なんで??
 鹿島の仮設住宅を訪ねようと、黒沢さんに電話をしました。
黒沢さんは仮設住宅を去年の秋に退去して、近くの新居に住んでいますが、それまで住んでいた小池第3仮設住宅の集会所に行けば、まだ仮設にいる他の人たちにも会えます。
だからこれまではいつも、小池第3の集会所で会っていました。
ところが仮設住宅管理の委託業者から、「退去した人は集会所を使うことはできない」と言われたそうなのです。
おかしな話です。
避難指示解除になって退去した人たちは多く、残っている人はわずかです。
けれどもそれ以前、避難指示解除の日がささやかれ始めた頃、仮設に住む多くの人たちが、ここに入居してから築いてきた関係を気持ちの拠り所とし「みんなで一緒に居たいね。どこかへ移るなら一緒のところがいいね」と言っていたのです。
それはどの仮設住宅でも聞かれた言葉です。
被災してそれまでの地域からバラバラに離れ、仮設に入居してそこで新たな人間関係を築き、大変な思いをくぐり抜けた人同士が互いに心からの結びつきを得たのです。
だからこそみんな、「離れたくないよね」と言っていたのです。
けれどもみんな一緒には叶わず、ある人は復興住宅に、ある人は移転地に新居を建てなどと、またバラバラになりました。
周りには知った人のいない新たな暮らしで、昼間は家の中で一人でテレビを見てるだけという暮らしになってしまった人も多いのです。
せめて元の仮設住宅の集会所に行って、残っている仲間たちと“お茶っこ“したいというのは人情ではないでしょうか。
高齢者の孤独感を、慮ることはできないのでしょうか?
おかしな話だと思います。
●寺内塚合の談話室で
 黒沢さんから小池第3仮設住宅の集会所は使えないと聞いて、それなら黒沢さんに寺内塚合仮設住宅の談話室に来てもらうことにしました。
今は他所から訪ねてくる人も滅多になく、手芸品も作らなくなっている談話室です。
黒沢さんの新居からもすぐ近く、談話室の窓からは黒沢さんの家の屋根が見えます。
 寺内塚合は、この日は天野さんと山田さんの2人だけで菅野さんが居ません。
いつもは月曜日が菅野さんがデイサービスに行く日なので火曜日の今日はいる筈なのですが、デイサービスでの一泊バス旅行に参加しているのだそうです。
談話室から黒沢さんに電話をすると、しばらくして黒沢さんとハルイさんがやって来ました。
 集まった4人はみんな小高の人ですから共通の知人や縁者がいたりして、それらの人たちの消息を確かめ合ったり、被災した時の状況や避難の経過などを話しあって互いに理解を深めあっていました。
そして黒沢さんが「今度からここに遊びに来ればいいね」と言い、天野さんや山田さんも「ここに来たらいいよ」と言い、なんだかお見合い成立のようで嬉しいことでした。
 ハルイさんが原町に新居があるのにまだ仮設住宅にいることを知って、天野さんと山田さんが理由を尋ねたのです。
ハルイさんが仮設の自分の部屋の隣に90歳で一人暮らしの女性がいるので、その人を置いては出られないというと、2人は「えらいねぇ」と、感に堪えないように言いました。
黒沢さんが「ハルイさんが部屋に居ると、隣のバッパが来んのな。ハルイさん、それ判っててわざと『ぬしゃ、何しに来た。呼ばってねぇぞ』って言うのな。私は初めてそれ聞いた時、いやぁハルイさんこんな怖い人だったかってびっくりしてなぁ。だけどバッパも判ってて「はい、はい、わ(自分のこと)は呼ばわってねぇけど来ました」なんて言って入ってくんのよ。ハルイさんわざとそんなに言うんだな」と、ハルイさんの人柄を説明するのでした。
ハルイさんも笑いながら「浜は言葉が荒いんだよ」と笑いながら言いました。
浦尻で、漁師さんの出のハルイさんは、浜言葉は荒いのだと言いました。
ハルイさんのような心遣いを、行政から委託された管理業者に望むのは無理なことでしょうか?
●小林さん
 久しぶりに小林さんのお宅を訪ねました。
小林さんは鹿島区の農家で、元市会議員だった方です。
六角支援隊が支援活動としてビニールハウスや畑を計画した時に、畑地を提供してくださった方です。
前回お訪ねした時にはお連れ合いが入院中で、とても憔悴したご様子だったのです。
大留さんからは、「奥さんも退院して、二人共元気だよ」と聞いてはいましたが、その言葉通り、お二人ともお元気そうで嬉しいことでした。
有機栽培で野菜を作り、グリーンツーリズム活動で農家民宿をされたり、ベトナムの留学生を受け入れて支援するなどベトナムとの交流も重ねてもきた篤農家のご夫婦です。
 小林さんが言いました。
「人口がこんなに減少して農業者も少なくなって、これからもそれは加速していくだろうから、南相馬をふくめて双葉郡はいわき市と合併する他ないのではないか」
私には事の深刻さを計り知れませんが、政府や行政がしきりに復興を喧伝していても地元にはそれとは裏腹にこうした悲観の声もあるのです。
言葉は違っても、他の人からも希望のない声を聞いています。
 ここでもまたトリチウム水を海に放水する件が話題になり、そんな事は決してしてはならない事なのだと思いを一つにしました。

*帰路の車窓には、五月晴れの下に瑞々しい早苗田と麦秋のパッチワークがありました。


2018年5月31日号「5月の南相馬で」

◎5月21日
 ●まずは、椏久里で
いつものように東京駅発7:44の「やまびこ205」に乗車して、9:39に福島駅に着きました。
急ぐ時には東口に降りて9:50発の福島交通のバスで南相馬へ向かいますが、今日は最初の約束が2時すぎなので、西口から11:30発の東北アクセスで行きます。
それで福島駅で降りると、まず椏久里珈琲店に直行しました。
トーストとコーヒーで腹ごしらえです。
 お店で素敵な本を見つけました。
『までぇな食づくり』、帯に「福島県飯舘村の母ちゃんに学ぶ遺したい食と暮らし」とあり、栄養士の籏野梨恵子さんが飯舘村の菅野榮子さん、市澤美由紀さん、菊地利江さんにレシピや村での暮らしを聞いてまとめた本です。
テーブルに置いた本の表紙を眺めながらコーヒーとトーストを頂いていると、調理場から美由紀さんがやってきました。
美由紀さんに「いい本ができましたね」と言うと、「道の駅には置いてくれないのよ」と言うのです。
それは、おかしな話です。
 昨年オープンした飯舘村の道の駅には私も何度か行ってみましたが、農産物に飯舘村産がないのは当然としても、村民が避難先で商品化している安全で優れた品もあるのですが、道の駅ではほとんど見かけません。
椏久里のコーヒーも置いてくれないと、美由紀さんは言いました。
食品以外の品も他県の人が作った商品が多く、また食堂で供するメニューも飯舘村の伝統食を思わせるものはなく、伊勢うどんのように「なぜそれがここで?」と思うようなものなのです。
安全な材料を使って、飯舘村らしい食事など供する事もできるだろうし、そうしてこそ訪れた人は飯舘村の暮らしを感じられるだろうにと思うのです。
 『までぇな食作り』は、たった94ページと薄い本ですが、食から見た飯舘村のまでぇな暮らしが伺える貴重な一冊なのです。
どんな基準でそこに置く商品を選ぶのか、この郷土食の本など一番に置いても良い品だと思うのですが、不可解です。
●八木沢トンネル初通過
 美由紀さんに送ってもらって福島駅に戻り、11:30のバスに乗りました。
市内を抜け伊達市から川俣町を通り、飯舘村に入ります。
緑が濃い5月の山です。
緑の間に桐の花、藤の花が薄紫に咲き、ニセアカシアやガマズミ、ヤマボウシの白い花が咲いていました。
「石ポロ坂トンネル」に入ってから、いつのまにか眠っていたのでしょう。
気がついたらまだトンネルの中ですが、「石ポロ坂トンネル」ではありません。
ずっと建設工事中だった八木沢トンネルでした。
3月18日に開通したそうですが、13日に南相馬を訪ねた時はまだ開通前で、31日に訪ねた時は、今野さんにお願いして霊山から相馬を抜けて行ったのでした。
八木沢トンネルの初通行を、入り口で確かめられなかったのが残念でした。
これまでは八木沢峠を越えなければなりませんでしたから、冬は雪道になると難儀なことでした。
●大留さんの車
 バスの終点、東北アクセス本社前で降りると、大留さんが迎えに来てくれていました。
前回会った時には少しむくんだ顔で体調もすぐれないようでしたが、今回は元気な様子で安心しました。
大留さんが乗ってきたのは、いつもの軽トラックではなく軽乗用車です。
淡いピンクがかったグレーの車体で、“風天の留”さんには、なんだか似合わないのですが、車を買い替えた息子さんから譲り受けたのです。
 大留さんがこれまで乗っていた軽トラは、どなたかからただで譲られた中古車で、その時点で既にだいぶ年季が入っていました。
私が南相馬に通い始めて2ヶ月目に、「これ貰ったんだよ。ありがたいね。」と、大留さんが嬉しそうに言ったのを覚えています。
あれからもう7年が経って、さすがに廃車にしたそうです。
 助手席に座った私は「乗り心地はどう?」と聞かれて、「軽トラよりも快適だけど、これだと廃品回収できませんね」と言うと、「そうなんだよ。だけどまだダンボールや鉄くず集めに来てくれって頼まれるからね、その時は伝(つたえ)さん家の軽トラ借りて、集めに行くんだ」と答えが返りました。
私の訪問時に偶々大留さんの廃品回収が重なって、何度かお手伝いした事がありました。
廃品回収で得る収益は、かつてこの地で起きた産業廃棄物処理場建設反対の裁判費用に使われるのです。
大留さんのあの軽トラは、充分働いて、天寿を全うしたという事なのでしょう。
●雫(しどけ)へ
 ビジネスホテル六角に着いて荷を置き、一休みして伝さんの家に行きました。
今回は大留さんから「伝さんのところに3人ばかり雫の人を集めておくから、みんなの話を聞いてやって」と言われていたのです。
雫も萱浜と同じく、津波の被害が大きかった地域です。
 伝さんからは以前に話をお聞きしていました。
庭木に掴まって津波にさらわれそうになるのを耐え、難を逃れたこと、そしてそれからの避難生活と、自宅を再建するまでの事をお聞きしていました。
伝さんが仮設住宅に入居中も、支援物資を届けに行った時に何度か顔を合わせていましたが、話をお聞きしたのは元の場所に建て直した新居に引っ越されてからのことでした。
●門馬美枝子さんの話
 伝さん夫妻と門馬美枝子さん(82歳)、横山ミツ子さん(87歳)が待っていてくれました。
 7年前のあの日、門馬さんは家の中にいました。
大きな揺れに驚き外に出て、少し揺れが収まった時に隣近所を回って声をかけ、互いに無事を確かめ合いました。
海の方に眼をやるとピカッと光り、そしてまっ黒い壁が見えたのです。
あ、津波だ!と、今度は「津波が来ッどぉ!」「こっちへ逃げろぉ!」とみんなにまた声をかけて走り、裏の少し小高い場所へと誘導したそうです。
「こっちからも津波がグルングルン黒い波がこんなして(注:と言いながら両手を大きく広げて巻き込むような仕草をして見せました)来るし、あっちからもグルングルンこうやって来るし、それがぶつかってドォ〜ンとでっかい壁になって、崩れて、今度は引いて行く時が凄いんだぁ!一気に早く凄い力なんだ!
家も車も巻き込んでさらって行っちまったよぉ。
引く時が凄いんだなぁ!
音も凄かったなぁ。
地震でこっちの鉄塔はグニヤァって倒れてて、あっちの鉄塔もドデ〜ンって倒れてて、『電線踏むなよぉ!踏むと感電すっどぉ‼︎』って言ってなぁ」
 現在82歳の門馬さんですから、被災時には75歳でした。
あの大地震と押し寄せる大津波を目前にして、近所の人たちの姿を確認しながら咄嗟の誘導、誰にでもできることではないと思いました。
門馬さんのお陰で、命拾いした人たちもきっと居ただろうと思います。
●産廃処理場反対運動の仲間たち
 お一人お一人の話をゆっくり聞きたいのですが、こうして集まるとなかなかそれは難しいことでした。
でもまた逆に、こうして集まっているからこそ出てくる話題や、日頃思っていても言葉にすることもなく胸に留めていることが、声に出して言葉にすることによって、確かな考えになってもいくのでしょう。
伝さんが言い出すと、みんな口々に相槌を打つのでした。
「やっと産廃が終わったと思ったら、2年して津波だ。原発事故だ。
止めるって言ったのはドイツだけだなぁ。こんな目にあっても再稼働するだなんて、とんでもねぇ話しでねぇか。命より金儲けが大事だなんて、とんでもねぇ話でねぇか」」
「んだなぁ」「んだよ。再稼働なんかとんでもねぇことだ」「汚染水海に流すなんて言わっち、とんでもねぇことだな」「んだなぁ。世界から恨まれっど」「再稼働なんかしちゃなんねぇ。孫の孫まで、バァちゃんなんで止めなかったって、言われっち」「んだよぉ」
 八十路を過ぎてこの人たちはもう、脱・反原発集会に参加することはないでしょう。
乞われれば署名はするでしょうが、自ら積極的に署名集めもしないでしょう。
でも選挙の時にはきっと、脱・反原発の立候補者に投票するでしょう。
 毎週金曜の脱・反原発集会の仲間の一人が、私にこう言ったことがありました。
「福島の人たち、なんで原発反対の声を上げないのかしら。被災当事者が反対の声をあげなきゃダメじゃない!」
でも私は逆に、そういう彼女に現地に行って生の声を聞いてほしいと思いました。
 また、こんなこともありました。
3・11後ボランティアで南相馬へ何度か入った男性で金曜官邸前デモの常連だった人ですが、2015年頃に南相馬に移住した人がいます。
介護ボランティアとして仮設住宅に通っていましたが、訪問先の「この人たちを官邸前の集会で発言させたい」という強い思いがあって、その思いがあまりにも強くてトラブルを起こしたと聞きました。
被災者の思いを逆撫でするような市民運動家の独りよがりは、困りものだと思います。
●地形のわずかな違いが明暗を分けた
 伝さんの家を辞して、門馬さんの自宅に案内してもらいました。
自宅の庭先に畑地が広がりますが、自宅の庭先は畑地よりもほんの1mほど高く位置しています。
玄関の前は道路で、敷地は道路よりも一段高くなっています。
津波は畑地を飲み込み、道路を遡ったと言いますから、本当に“奇跡的に”被害を免れたと言えるでしょう。
雫は津波被害が甚大だった地区ですが、地形のわずかな差が明暗を分けたのでした。
こうしたことも、実際のそこに行ってみてわかることです。
●小泉さんは脱原発を言うけれど
 ビジネスホテル六角に戻って夕食後に寛いでいると、映画ゴジラの主題曲を鳴り響かせて、「希望の牧場」の吉沢さんがやってきました。
駐車場に止めた吉沢さんの軽トラ荷台にはカウ・ゴジラが屹として立って、チカチカと電飾が輝いています。
伝さんの家で話に出た「産廃反対運動」の拠点がこのビジネスホテル六角ですが、反対運動の会長が大留さん、事務局長が元市長の桜井さん、宣伝部長が吉沢さんでした。
 吉沢さんは相変わらず元気いっぱいで、吉沢節が炸裂しました。
たくさんのおしゃべりの後で、吉沢さんに聞いてみたいことがありました。
元総理の小泉さんについてです。
私は小泉さんが脱原発を言い、そのために活動していることに賛意を抱いてはいます。
現役総理だった時代を含めて事故以前は原発を推進していた小泉さんが、誤りだったとはっきりと表明していることは、素晴らしいと思います。
間違いに気付いたら、自分は間違っていたと言葉にするのは当たり前のことではあっても、そうできる人はなかなか少ないですから、その点には好感を持ちます。
けれども、自衛隊をイラクに派兵したことや規制緩和を大々的に進めたことや、小泉さんがしたそれらを、私は許し難く思っています。
そんなこともあって私は小泉さんの脱原発を評価はしますが、だからと言ってとりたてて持ち上げる必要はないと思っています。
吉沢さんは、小泉さんをどう評価するのだろうと思ったのです。
「脱原発は、それはそれでいいでしょう。それだけだね、彼は策士だからね」
返事を聞いて、ああ、やっぱりと思うと同時にやっぱりモヤモヤした思いは消せません
 運動を進める時には、ワンイシューで纏まることはとても大事だとおもいます。
他の点での意見の違いによって運動を停滞させたり後退させたりは、避けるべきだと思います。
それは百も承知でありながら、それでも小泉さんを持ち上げる気にはなれない私です。
ワンイシューで纏まろうとする時に、足を引っ張ろうとする私ではないようにしたいと思いつつ、気持ちは乱れるのです。                             

いちえ


2018年5月31日号「集会へのお誘い」

 15年前、イラクに大量破壊兵器があるとしてアメリカが軍事介入し、イギリス、オーストラリアなど有志連合が加わりイラク戦争となりました。
日本では小泉政権が自衛隊をイラクへ派兵することを決め、2003年12月先遣隊出発、2004年に本隊第一陣が派兵されました。
この動きに居ても立ってもいられずに、横井久美子さん、和田隆子さん、神田香織さんと一緒に、「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」を立ち上げました。
当時、小泉首相は「自衛隊のいるところが非戦闘地域だ」などと言い立てましたが、今頃になって開示された自衛隊日報で、まさしく戦闘地域に自衛隊は派兵されていたことが明らかになっています。
 いま、安倍政権のもとで私たちの日常は安寧な暮らしとは程遠く、戦争への道を歩むような不安な思いで過ごす毎日です。
「戦争への道は歩かない!」思いを高く掲げて19回目の集会を開きます。
皆様のご参加をお待ちしています。                    

いちえ

第19回 いま、語り 描き 写し 歌い 舞うとき
日 時:6月24日(日)
場 所:江東区公会堂ティアラこうとう大会議室
入場料:1部:1000円、2部:1000円、1部+2部:1500円

*第1部 表現者はリレーする 14:00〜16:00(開場13:30)
朴慶南(作家)李政美(シンガーソングライター)杉原浩司(NAJAT)まさのあつこ(ジャーナリスト)佐藤道代(ダンサー)西尾綾子(伊達判決を生かす会)湯川れい子(音楽評論家)
*第2部 映画とトークの夕べ 17:00〜(開場16:30)
映画『Life 生きてゆく』2017年、115分
トーク 笠井千晶監督

お問い合わせ:090−9964−2616(和田)
主 催:戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会

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2018年5月24日号「2日後のご予定に」

何度ものお知らせで、済みません。
「トークの会 福島の声を聞こう!vol.27」は、2日後に迫りました。
同日に催しが重なっているせいでしょうか、参加のお申し込みが伸び悩んでいます。
ご参加いただけたら、とても嬉しいです。
今回のゲストスピーカーは、浪江町から福島市に避難した三瓶春江さんです。
浪江町も避難指示解除になりましたが、三瓶さんの自宅は指示解除されない帰還困難区域の津島です。
脱・反原発を掲げての講演会では、研究者や著名人のお話をお聞きすることができます。
すると私たちは、放射能の危険性を頭で理解できます。
一方で原発事故被災当事者から聞くお話から私たちは、放射能の危険性を自分の足元からお腹に響かせて「わたくし事」として感じられます。
三瓶さんのお話を、ぜひ多くの方にお聞きいただきたいと思います。
2日後のご予定に組んでいただけたらと、願っています。            

いちえ

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2018年5月20日号「お知らせ」

◎トークの会「福島の声を聞こう!vol.27」
いよいよ今週の土曜日です。
皆様のご参加をお待ちしています。
ゲストスピーカーは、浪江町から福島市に避難した三瓶春江さんです。
   日 時:5月26日(土)
   場 所:セッションハウス・ギャラリー(新宿区矢来町158 2F)
   参加費:1,500円(被災地への寄付といたします) 

三瓶さんプロフィール
 被災前は浪江町津島地区の自宅で、家族10人で暮らしていました。
2011年3月14日の福島原発3号機爆発をテレビで知り、15日午前0時頃、家族10人で東京の親戚を頼り避難。
長期的な避難になると判断し福島に戻るが、6ヶ所に分かれての借り上げ住宅入居となり、家族は離散しました。
2016年に福島市内に中古住宅を入手、改装して以前のように家族が一緒に暮らせるようになりました。

 春江さんは言います。
「故郷を喪失したのではないのです。
故郷はそこにあるのに、そこには住めないのです!」
そしてその思いを、「ふるさとをかえせ・津島原発訴訟」の原告となって闘っています。
トークの会の前日も、この津島訴訟の13回目の口頭弁論があり、春江さんはその裁判に出て翌日のトークの会ご出演です。
春江さんの言葉を、思いを、ぜひ皆様にお聞きいただきたいと願います。

 私は明日から、また南相馬へ行ってきます。
後日また「一枝通信」でご報告いたします。               

いちえ

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2018年5月15日号「裁判傍聴5月8・9日福島原発刑事訴訟②」

◎9日の第11回目の審理では、地震学の第一人者で原子力規制委員会の元委員、島崎邦彦氏が証言しました
島崎氏は地震調査研究推進本部(推本)の部会長を務め、地震の発生率などを推計して「長期評価」として取りまとめていました。
 2002年の「長期評価」は福島県沖を含む三陸沖から房総沖にかけての領域で、30年以内に20%の確率でマグニチュード8クラスの巨大地震が発生する事を予測する内容でした。 

●検察官役の久保内浩嗣弁護士の質問に対して島崎氏が答えた内容
 地震調査研究推進本部で長期評価をまとめるには、地震の観測地震波の解析、古文書から歴史地震を読み解くこと、地質学、津波など様々な研究分野の研究者が議論してまとめたが、研究者たちは自分の専門分野は詳しくても他の分野については判らない事が多い。
また独自性を尊ぶ研究者は、本来みな考え方が違う。
だから知らない事でも恥ずかしがらずに耳を傾け、互いにオープンに話し合う雰囲気を大事にして議論した。
そしてその意見を最大公約数的に取りまとめて、最も起きやすそうな地震を評価した。部会の専門家の間で、長期評価の信頼性を否定するような議論はなかった。
 大地震は基本的にほぼ同じ場所で同じような地震が繰り返し起こるもので、三陸沖から房総沖までの日本海溝の太平洋プレートが陸側のプレートの下に潜り込む構造である事から、この領域ではどこでも同じような地震が発生する環境にある。
 長期間地震が起きていないという事も重要な情報だ。
400年の間福島県沖では津波が起きていないが、地震が起きていないという事は、全く起きないか、繰り返す間隔が長いかのどちらかだが、福島県沖だけが都合よく「全く起きない」という事はない。
 東日本大震災では大津波を発生させた地震の一部は福島沖でも発生していた。
地震が起きるべきところで400年間起きていないのは次に起きるという事で、地震が起きていないというのも重要な情報だ。
まだ起きていないところに断層があると仮定して被害を想定し、防災対策をとるべきだった。
 推本の部会のメンバーは地震に詳しい専門家ばかりで、自分自身も「長期評価」の考え方は正しいと思っていた。
2002年7月31日に「長期評価」を公表する6日前に、内閣府の担当者からメールが届き、「長期評価は非常に問題が大きいので公表すべきではない。もし公表するなら信頼度の低い部分もある事を記載すべき」と圧力がかかった。
内閣府が求める説明を加えるなら公表しないほうが良いと考え、最後まで反対した。
 内閣府に設置された中央防災会議の対応にも疑問がある。
島崎氏も中央防災会議の専門委員として「長期評価」を生かして対策を進めるよう主張したが、その意見は受け入れられなかった。
意見が受け入れられなかった事について、これは想像だが、その理由は、中央防災会議の中には原子力設置の審査に関わっていた人もいて、10mを超える津波が来る可能性を指摘した「長期評価」は取り入れない事にしたのではないかと想像している。
 「長期評価」公表の9年後に東日本大震災が起き、東北や関東沿岸部に10mを超える津波が押し寄せ、福島原発では3基の原子炉でメルトダウンが起きた。
長期評価に基づいて対策を採っていれば、何人もの命は救われ原発事故も起きなかった。
 震災の2日前、2011年3月9日に公表される予定だった新たな「長期評価」について公表の延期を自分が了承しなければ、多くの人の命が失われる事はなかったと自分を責めた。
新たな「長期評価」は平安時代に東北地方を襲った「貞観津波」などの研究をもとに、東北地方では内陸まで津波が押し寄せる可能性がある事を指摘する内容だった。
公表が延期されたのは、事前に電力会社などに説明する必要があるという理由だった。
公表を延期した事で、何人の命が救われなかったのかと自分を責めた。
私に責任の一端があると思った。

◎院内集会
 この日も昼休みを挟んで10時から5時まで開廷されましたが、私が傍聴したのは午前中だけで、午後は参議院議員会館での院内集会に参加しました。
院内集会では支援者の立場から私が30分ほどお話しし、その後「原子力市民委員会」「FoE Japan」の満田夏花さんの講演「ばら撒かれる放射性物質と不可視化される被害」がありました。

●講演「ばらまかれる放射性物質と不可視化される被害」:満田夏花さん
 空間線量は下がっていても土壌汚染は事故直後と現在ではほとんど変わらず、逆により数値が高くなっている場所もある事を「みんなのデータサイト土壌プロジェクト」の地図で示しました。
放射線管理区域・保全区域・周辺管理区域の別を示し、周辺管理区域は一般の人の立ち入りが制限される区域です。
一般の公衆の被ばく線量は年間1mSvを超えないように、法律で定めています。
でも福島では、それよりもずっと線量が高い地域が避難解除になって帰還が進められています。
 避難者数について、福島県総合計画では「2020年までに避難者ゼロ」を目標に掲げて、避難者数を把握し発表していますが、その数字は実態を表していず、自主避難者が含まれていないなど、避難者数や避難の実態の全体像が見えていません。
また、避難者への住宅提供打ち切り後の生活は経済的な不安が大きくなっている事や、連絡や相談をする相手がいないなど「つながり」の貧困も生じています。
これらは「避難の協同センター」など民間の支援団体だけでは対応できず、本来は国が支援を継続すべきことです。
 健康への被害も大きく、公的な調査は福島県内の18歳以下の子どもたちを対象にした甲状腺がんの検査のみで、県外については行われていず、甲状腺がん以外の病気について、体系的に把握されていません。
県民健康調査では甲状腺がんの子どもの数は197名とされていますが、診断されていても数字に含まれない子どもたちもいます。
この数字について「わが国の地域がん登録で把握されている甲状腺がんの統計などから推定される有病数に比べて数十倍のオーダーで多い」とする中間取りまとめを発表しましたが、その一方でスクリーニング効果だとか、過剰診断によるなどと言い「放射線の影響が考えにくい」としています。
 こうした中で2016年7月に民間の基金として「3・11甲状腺がん子ども基金」が立ち上げられ、甲状腺がんと診断された子どもたちへの療養費を給付しています。
「原子力市民委員会」は、健康調査の拡充及び新たな立法が必要である、正確な患者数の把握及び公表が必要である、学校での甲状腺検査を継続すべきである、甲状腺がんの症例の検討が必要であるとの意見書を出しています。
 大量の除染廃棄物は2,200万m3にも上がり、これらの処理のために「放射性物質汚染対処特措法」を定め、1Kg当たり8,000ベクレルを超え占有者の申請に基づき環境大臣が指定したものは指定廃棄物とし、それ以下のものは国の責任のもとで適切な方法で処理するとしています。
これは8,000ベクレル以下の汚染物質を放射性物質として扱わなくて良いという基準で、それらは焼却処理や埋め立て処理をしても構わないとされ、とんでもない事です
が、さらに公共事業で再利用できる方針を決定しています。
焼却で放射性物質を含む粉塵が空気中に放出したり、除染土を路床など盛土材に利用するなど、汚染物質の拡散を法的に可としているのです。
全体のまとめ
⒈「復興」のかげで、個々の被害者の救済が進んでいない。
→「復興」とは何か?被害者参加のもとで政策の見直しが必要。
⒉「復興」圧力のもとで、被ばく影響について議論できない状況。
→公的な議論をする空間を
⒊進む「見えない」化。
→現状把握が急務
⒋東電は責任を取っていない。国も責任を取っていない。
⒌「想定外」の放射性物質の拡散←「規制」のための法律を
●支援者として:渡辺一枝
 2011年夏から毎月福島に通っています。
3月11日の津波とそれに続いて原発事故のニュースをテレビで見て、居ても立っても居られない思いにかられ、福島へ行きたい、現地へ行きたいと思いました。
行って何ができるかなどは思いもよらず、ただ「知りたい」という思いからでした。
 7月に友人たちと花巻でチベット関係のイベントを主催し、花巻に行くのだからイベント終了後に被災地でボランティアをしようと友人にも呼びかけて、岩手の津波被災地へ行きました。
一面の瓦礫の原が目に入った途端に私は、「ここに私の“くに”が在った。これが私の“くに”だった」と思いました。
なぜか判りませんが、そう思ってしまったのです。
そして、そこで瓦礫を片付ける作業をしました。
やってみて「私でもできるじゃない。それなら福島でも何かできることがあるかもしれない」と思いました。
 岩手から帰ってその月の末に、長野で「女たちの3・11」というシンポジウムが開かれ、映画監督の纐纈あやさん、同じく映画監督の坂田雅子さん、そして私の3人が発言者でした。
シンポジウムではそのパネルディスカッションの他に『たぁくらたぁ』編集長の野池元基さん、環境学者の関口鉄夫さんの講演もありました。
野池さんはスライドを映しながら話しましたが、映し出された中に「南相馬ビジネスホテル六角」という看板のかかった建物の写真がありました。
それを見て咄嗟に、「ここに宿を取れば福島に行ける」と思って電話番号をメモし、家に帰って電話をかけて予約を取り、南相馬ボランティアセンターの登録をして8月に初めて南相馬へ行きました。
 行ってから初めて知ったのですが、ビジネスホテル六角は現地の民間ボランティア「六角支援隊」の拠点でした。
ボランティアセンターに通って作業をするのと合わせて、その前後の時間には「六角支援隊」と一緒に仮設住宅へ支援物資を届けたりしました。
 それから毎月南相馬に通い六角支援隊と一緒に活動しながら、被災された方たちの話を聞いてきました。
一人一人の話を聞き、その人が子どもだった頃、結婚してから、被災前までの暮らしを聞き、原発事故によって奪われてしまったその地の暮らしを知ってきたのです。
 この日私は「支援者としての話」をと言われたのですが、私は支援をしているというというよりも「被災地のこと、被災者の身に起きたことを知りたい」という気持ちで通い、南相馬に通うだけではなく。福島で起きたことを知りたくて他所へ避難した人たちの話も聞いています。
自分が知ったことを、多くの人にも知ってほしいと思い「トークの会 福島の声を聞こう!」も続けています。
 「知りたい」という思いからこの裁判の傍聴も重ね、他にも原発事故関連の裁判を傍聴していますが、正直に言って法廷でのやりとりは聞いていても理解できないことが多いです。
でも閉廷後の報告会で弁護士の先生の解説を聞いて、理解していきます。
 この裁判でも、告訴団支援団の結成集会で海渡弁護士のお話で「スイホン」という言葉が出てきても最初は「スイホン」がなんだか判りませんでした。
「地震調査研究推進本部」の事であると知ったのは、後のことです。
家に帰ってから、グーグル先生に尋ねて知ることも多いです。
 東北地方には所縁も縁者もなく、福島も中学生の時の修学旅行で裏磐梯を訪ねたことがあっただけで、知らないところでした。
通うようになって東北の歴史を知り、そこから教科書では習わなかった日本の近代史を知ってきました。
 2011年7月岩手県沿岸部に広がる一面の瓦礫の原を目にした時、「ここに私の“くに”が在る。ここが私の“くに”だった」と思った私です。
福島に通いながら、被災された方たちの話を聞きながら、あの時なぜそう思ったのかを、ずっと自分に問い続けています。
後知恵かもしれませんが、その訳について少しずつ自分で納得してきたこともあり、いつかその事を書いてみたいと思っています。

いちえ


2018年5月13日号「裁判傍聴5月8・9日 福島原発刑事訴訟①」

 8日(火)と9日(水)の両日、福島原発刑事訴訟の公判がありました。
 入廷前の手続きが、8日から大きく変わりました。
◎8日、第10回公判
●ボディチェックがなくなった!
 これまでの報告で異常なまでの安全検査の様子をお伝えしてきましたが、この日は当選番号の記された抽選券を傍聴券に引き換え荷物を預ける際に、「今回からはボディチェックは行いません」と告げられ、係官によって手で触られるボディチェックはなくなりました!
金属探知機でのチェックのみとなりましたが、少し奇妙なこともありました。
法廷に持ち込めるのは、筆記用具とちり紙ハンカチ、貴重品ですが、私は貴重品は預ける荷物に入れて筆記用具とちり紙を小さな布袋に入れて持ち込みます。
それらはすべて係官の差し出すトレーに入れて、ペンケースなどは開けて中身を見せて通るのです。
ここまでは従来通りで、これまではノートはパラパラとめくって見せればよかったのですが、今回はノートに金属探知機を当てるのでした。
カミソリの歯でも隠してないかと疑ってのことなのでしょうか?
係官に「ボディチェックがなくなったのはどういうことからですか?」と尋ねると、「裁判長の意向です」と答えが返りました。
以前に「なぜこんなボディチェックをするのですか?」と聞いたときにも、「裁判長の意向です」の答えでした。
 「裁判官はポーカーフェイス」と言われ、判決が出るまで私たちには裁判官の考えは判らないのですが、ボディチェックの有無にも裁判官の考えていることについて、思い巡らせます。
これまでボディチェックを受けるたびに私たちが、「これはまるで罪人扱いではないか」と抗議してきたことや、後でわかったことですが、前回の入廷の際に、大手メディアの方が所属の社名と氏名を名乗って「こんなやり方をしていると書きますよ」と抗議したことなどが功を奏したのではないかと思います。
司法を動かすのも世論であると、こんなことからも感じたのでした。
●証人は「気象庁の地震のプロ」
 この日の証人は、気象庁の前田憲二さんでした。
前田さんは2002〜2004年まで、文部科学省に出向し推本(地震調査研究推進本部)事務局で地震調査管理官として長期評価の取りまとめにあたり、2004〜2017年までは推本の長期評価部会の委員を務めていました。
地震の確率に関する研究で京大の博士号を持ち、気象庁気象研究所地震津波研究部長などを歴任した人です。
●証人尋問
 検察官役の神山啓史弁護士の質問に、前田さんが答えていきました。
「地震調査研究推進本部とは何か。どんなプロセスで長期評価をまとめるか」などを明らかにしていきました。
神山弁護士からの質問の後に、弁護人の岸秀光弁護士からの反対尋問がありました。
これらについて前田さんは、次のように話しました。
●前田さんの話(神山弁護士との応答で双方とも「です。ます。」調で話されましたが、前田さんの答えのみを「だ。である。」調で記します)
 「1995年の阪神・淡路大震災で6,000人を超える多数の死者があった。
学者の間では関西でもいつ大地震が起きてもおかしくないということは常識だったのに、一般市民にはそれが伝わっていず、認識のギャップがあった。
その解決策として、地震調査研究本部とそこでの長期評価作成の仕組みが作られた。
長期評価の目的は、研究者が個々に明らかにしていた研究成果を一つにまとめ、地震防災対策を政府や民間にしてもらうためで、2008年に東電が計算した15.7mの津波予測も、長期評価がもとになっている。
 2002年7月にまとめた三陸沖から房総沖にかけての長期評価は、地震調査研究推進本部(推本)の海溝型分科会でたたき台を作り、推本の長期評価部会に上げて、そこでもう一度練られ、さらに推本上部組織の地震調査委員会で検討される。
 この時の検討では、三陸沖北部から房総沖の海溝寄りの領域では、そのどこでもマグニチュード8.2前後の地震が、今後30年以内に20%程度の割合で発生する可能性があると予測した。
この領域では、1896年の明治三陸沖地震、1611年の慶長三陸沖地震、1677年の延宝房総沖地震と、過去400年の間に3つの津波地震が起きていて、同じ領域の福島沖でも発生する可能性があると考えられたからだ。
過去400年の間に3回というのは、今は次の400年に入っていると考えられる。
 2002年に長期評価を公表する直前に内閣府の担当者から、この内容について信頼度の高い部分と低い部分があることを判るように記載する必要があると言われ、直前だったので面食らったが、説明を加えて公表した。
防災のための対策費用は考慮せず、地震の専門家としての学術的な立場から長期評価を出した。
長期評価をまとめる際に、地震本部内で意見が紛糾することはなく、全員一致での評価だった
2002年の長期評価は、2011年の東日本大震災直前に改訂作業が進められていた。
3・11後に改訂された長期評価第2版でも、揺るがずにこれを踏襲している。」
●反対尋問
 神山弁護士からの主尋問の後、元東電会長で被告人の勝俣恒久の弁護士、岸秀光さんが反対尋問をしました。
岸弁護士は1677年の地震は海溝寄りで発生したものではないことや、1611年の地震の発生場所は定かではないこと、海溝寄りの領域でも北部と南部では微小地震の起き方が異なるなどを挙げて、長期評価は不確実で信頼度が低いのではないかと問いましたが、前田さんは、「それらも推本の議論で取り上げたが、結論を覆すだけの根拠になっていない」と証言しました。
●閉廷後の報告会
 反対尋問の際の岸弁護士の態度が、私はとても不愉快でした。
証人が座っている後ろ側に左手をポケットに突っ込んで立ち、右手に資料の紙を持って「…ではないですかぁ?」などという口ぶりも、証人を蔑むような口調だったのです。
法廷という場でなくても人との会話の場で、ポケットに手を入れて話すのは礼を失しています。
人の後ろに立って問いただす態度は、相手を見下し萎縮させようとする態度で、これも礼を失しています。
だから私は、岸弁護士に対して「イヤな奴!」という印象を受けたのです。
でも閉廷後の報告会で、小森弁護士から「慶長三陸沖地震や延宝房総沖地震などについて、検察側が聞かないようなやり方で岸弁護士が聞いたのに対して、キッパリと前田さんが答えたので、論点がハッキリとして良かったです」と話されたのを聞いて、私の見方を反省しました。
外側ばかり見てそれに反応していると、事の本質を見誤ったり見落としたりするのだと思いました。
心していこうと思いました。
裁判は翌9日も開かれ、その様子は「一枝通信」②でお伝えします。  

いちえ


2018年5月3日号「5月3日国会前」

 今日は3日。
「アベ政治を許さない」一斉行動日でした。
地下鉄丸の内線「国会前駅」で降りたのは、12時を15分ほど過ぎた時でした。
道路に出ると、何やら忙しく警官たちが走って国会正門前の方に向かって行くのが見えました。
今日は有明で大きな憲法集会が開かれるので国会前のスタンディングは、いつもより参加者は少ないだろうに何故だろうと思いながら、急いで国会正門前に向かいました。
スピーカーを通してがなり声が聞こえ、それは右翼の街宣車でした。
 国会前には右翼の街宣車が3台、「アメリカに押し付けられた憲法だ。その屈辱の日だ。憲法を守れなんて言ってる国会議員、お前たちはバカか!」などと言っています。
通りの国会側にはいつもよりもずっと大勢の警官が立って、右翼街宣車の動向を牽制するでもなくただ警戒していました。
私も急いで横断歩道を渡りみんなに合流した時には、ちょうどその3台が過ぎ去って行く時でした。
私たちの定位置にはすでに澤地さんも見えていて、他に仲間たちが何人か来ていました。
 澤地さんや仲間たちに挨拶をしていると、またさっきとは別の右翼の街宣車が3台がなりながらやってきました。
私は急いで彼らに向かって「アベ政治を許さない」プラカードを掲げ、そして片手の上げて中指を立てて立ちました。
大きなワゴン車の中で男は、「お前らそんなこと言ってアメリカのいいなりになって、アメリカの言うこと聞いているうちはまだいい。そのうちに中国がアメリカに替わったら、どうなると思ってるんだ!」などと理屈にならないことをがなっています。
なんて哀れな人たちだろうと思いました。
仲間と連んで、車の中といういわば”保護区”に座って、マイクを通して理論にもならないことをがなるしか、意思表示ができない人たち。
その哀れな男たちを乗せた3台も、やがて去って行きました。
 「アベ政治を許さない」の意思表示は、毎月3日午後1時きっかりに「私の意思表示」として、それぞれ個人として立っているのです。
今日ここに集まった私たちは、互いに連帯の思いを抱きながら、それぞれが個人の意思で個人としてここに立っているのです。
 今日は有明の集会に参加する人たちが多いだろうから、こちらはいつもより少ないだろうかと思っていたのですが、80人ほどが立ちました。
私は5月26日の「トークの会福島の声を聞こう!」と、6月24日の「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」集会のチラシを70枚づつ持って行って配りましたが、途中でそれが足りなくなったのです。
今日の国会前の写真を添付します。
写真はいつも参加されている大橋 新さんが撮られたものです。
今日は銀座でヘイトデモがあったので、あの街宣車はヘイト街宣車であったかもしれないと後で気づきました。

いちえ

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2018年5月2日号「裁判傍聴&お知らせ」

 4月は「福島原発刑事訴訟」の第7回、第8回、第9回公判がありました。
また「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」第11回公判もありました。

◎福島原発刑事訴訟
●第7回公判
 4月17日に開廷されましたが、この日、私は沖縄にいたので傍聴できませんでした。
前回に続いて東電の土木グループの高尾誠さんの証人尋問でした。

●第8回公判:4月24日(火)10:00〜17:00
 この日は、第5回〜第7回までの公判で証言した高尾誠氏の上司だった酒井俊朗氏の証人尋問で、検察官役の渋村晴子弁護士の質問に答えた。
酒井氏は1983年に東電に入社し1986年本店原子力建設部土木建築課に配属された。2006年7月土木グループを統括するグループマネージャーになり、2010年6月まで務めた。
現在は電力中央研究所に所属している。
 推本(地震調査研究推進本部)の「長期評価」での15.7mの津波を想定する必要があると考えていたが、対策工事に着手するには想定する津波の高さを公表しなければならない。
東電は運転を停止せずに工事をしたいが、従来の想定高さより3倍も大きな想定値を公表すれば、住民は運転停止して工事すべきだと思うだろう。
運転しながら工事しても安全だと、住民を説得する理由が見つからなかった。
数値の公表と対策措置は取られないまま、2010年に担当から外れるまで何の対策も取られなかった。
 酒井氏は津波対策の工事が必要になることは120パーセント確実だと思っていたと証言し、浸水で壊れた場合に冷却再開するための予備ポンプモーターの用意など暫定策を社内で挙げたが、それは実行されなかった。
 酒井氏は15.7mの想定を避けられない理由に東北大の今村文彦教授の意向を挙げた。
今村教授は原子力安全・保安院で、古い原発の安全性を確かめる耐震バックチェック審査に加わっていた。
2008年2月高尾氏が今村教授に面談した際、今村教授は福島沖海溝沿いで大地震が発生することは否定できないから、波源として考慮すべきと指摘した。
酒井氏はこれを聞くまでは、社内の意思決定に基づいて津波対応に臨めばいいと考えていたが、審査する側が入れろと言うのだから入れなければ審査に通らないと言った。
 この15.7m予測とは別に2008年夏には、869年の貞観地震の再来も懸念されるようになっていて、酒井氏は部下に「869年の再評価は、津波堆積物調査結果に基づく確実度の高い新知見ではないか。これについて電共研(「電力共通研究」の略で、電力会社が資金を出し合いシンクタンクなどに資料集めや解析作業を依頼し、それをもとに土木学会で専門家に審議してもらう仕組みのこと)で時間を稼ぐのは厳しいのではないか」とメールを送っていた。
2008年7月31日酒井氏の上司で被告人の武藤氏は、115.7m予測を対策に取り入れず、電共研で3年くらいかけて審議してもらう方針を決めていた。
 渋村弁護士の「7月31日の決定も感覚的に『時間稼ぎ』と思っていたか」という質問に、酒井氏は「そうかもしれない」と言った。
土木グループの津波想定担当者である酒井氏や高尾氏は、2008年6月10日に、武藤氏に15.7m想定を取り入れるべき理由や対策工事の検討内容を説明したが、武藤氏からは技術的な点に対しての質問がかなりあり、説明には1時間半ほどかかった。
 2回目の説明が7月31日だったが、武藤氏は今度は質問も挟まず30分くらいの説明を聞いてすぐに、対策着手は先送りということを酒井氏らに伝えた。
酒井氏は「6月10日から一ヶ月以上経っていたから、こういう方向性で物事を考えられていたんだなと思いました」と証言した。
それは酒井氏らが考えていた、対策を進めるという方向とは違っていたと述べた。
●第9回公判:4月27日(金)10:00〜16:00
 前回と同じく酒井俊朗氏の証人尋問だった。
 今回も推本(政府の地震調査研究推進本部)の「長期評価」の扱いが争点となった。
「長期評価」は福島沖でも巨大津波地震の可能性があるとの見解を示していて、東電の土木グループはこの見解を取り入れて、最大で15.7mの津波が押し寄せる可能性の想定を2008年夏にはまとめていて、経営陣に説明していた。
当時電力各社は、原発の安全性を確認するバックチェックで、最新の研究の成果をもとに津波の想定を行うよう国から求められていた。
 酒井氏は、津波対策を進めるには「長期評価」の見解を取り入れるべきだと考えていた理由として、「原発の安全性の審査に関わる津波の専門家」から、対策に取り入れるべきだと言われていたと説明した。
その一方で酒井氏は「長期評価」に対する個人的見解を問われると「科学的な根拠を示していなかったので、最新の知見とは思わなかった」と述べ、「2枚舌と思うかもしれないが、実態を伴う津波として議論していなかった。原発については非常に細かいことも想定していたため、その全てが実際に起きるとは思っていなかった」と証言した。
 東日本大震災が起きた時の思いを尋ねられ「やっぱり起きたという感じはなく、実際に来た時はびっくりした」と述べた。
酒井氏は「長期評価」の見解を取り入れる必要があることは認めていたが、その理由は国の審査を通るために必要という実務的理由からだったと証言し、「長期評価」の信頼性については低いと考えていたことを証言した。
 裁判官とのやりとりでは、裁判官の「早急に対策を取らなければならない雰囲気ではなかったのか」という質問に「東海、東南海、南海地震のように切迫感のある公表内容ではなかったので、切迫感を持って考えてはいなかった」と答えた。
また、「15.7mは、現実的な数字と考えていたわけではなかったのか」と問われると「原子力の場合、普通は起こり得ないと思うような、あまりに保守的なことも考えさせられている。本当は起きても15mもないのではないかとも考えていた」と証言した。

◎「南相馬・避難20ミリシーベルト基準撤回訴訟」第11回口頭弁論
 4月26日(木)14:00〜 報告集会@参議院議員会館で15:20〜
 この4月に裁判官の交代があり3人の裁判官のうち裁判長と右陪審がこれまでとは別の裁判官になった。
そのためにこの日の弁論では、これまで行ってきた主張立証を新しい裁判官が把握するための「弁論の更新」手続きが行われた。
原告側はこの訴訟の意義と原告の主張を改めて裁判所に理解してもらうべく、これまでの主張を取りまとめた弁護団からの説明と、原告本人が意見陳述をした。
●原告代理人:福田健治弁護士
 ICRPなど国際的な勧告では、公衆の被曝限度は年1ミリシーベルトとされ、日本の法令もこれを取り入れてきた。
訓練された職業人しか立ち入りのできない放射線管理区域でも3ヶ月で1.3ミリシーベルトで、年に換算すると5ミリシーベルトだ。
これらを考えると、年20ミリシーベルトでの解除は違法である。
 住民たちが何度も反対を表明したのに、政府は一方的に解除を決定した。
解除されてから3ヶ月後に、賠償も打ち切られてしまうため、避難の継続を希望する住民の中には、経済的な理由から帰還せざるを得ない人も出てくる。
 また、南相馬においては広範囲にわたって、放射性物質による土壌汚染が見られ、埃の吸い込みによる内部被ばくが心配される。
●原告本人:S・Tさん
 福田弁護士の後で原告のSさんが意見陳述をしました。
●報告会
 福田弁護士から、裁判官の構成が替わったことによる「弁論の更新」について説明された。
裁判は裁判官本人が自身で見聞きしたことで判断をする原則なので、途中で裁判官が替わると、それまでの裁判記録は紙の上では残っていて参考になるだけ。
日本の裁判制度では、裁判官自身がその裁判で直接見聞したことで判決を出す直接主義を採っている。
一人の裁判官が裁判の最初から最後まで関わって判決を書くのが望ましいが、そうなってはいない。
 この裁判も新しい2人の裁判官はこの事件について何も知らない。
これまで広範に現地の汚染状況を報告してきたことや、原告の方たちの真摯に訴えてきたことは、紙切れとしては残っているが耳や頭に残る記録としては消えてしまった。
だからもう一度、この裁判はどんな意義があるか、原告が何を訴えているのかわかってもらうために、今日の意見陳述があった。
通常は、弁論の更新は一瞬にして終わる。
裁判長が『両者に弁論の更新を行います。主張立証は従前の通りとお聞きしてよろしいですか』と原告、被告に問い『はい』と答えるとそれで終わりで、極めて簡略化した形で行われる。
 今回我々は事前に申し入れて、非常に重要な裁判なので是非時間をとってこの裁判の全体についてお聞きいただき、原告の意見を聞いていただきたいと、今日の意見陳述になった。
 新しい裁判長はどういう人かを紹介する。
朝倉佳秀さんという裁判長で、これまでの経歴を見ると平成19年に司法研修所(弁護士や裁判官養成の学校のようなところ)の教官になり、次に最高裁民事局第2課長、最高裁民事局第1課長、最高裁民事局第3課長、最高裁人事局給与課長というように7年間裁判をやっていない。
裁判をやっていない裁判官が一番出世をするというのが今のシステムで、最高裁事務総局で課長をやるのは相当のエリートコースで、まぁそんな愚痴を言っても仕方がないので、そんな彼でも共感してもらえる、そんな彼でも説得できる弁論活動をしていくしかないから、またみなさん頑張りましょう。
●特別報告「原告の皆さんの尿検査結果」:青木一政(ちくりん舎)
 事故後5月20日から子供達の尿検査を始めた。
なぜ尿検査かというと、ホールボディカウンターは検出限界値が高くて250ベクレルとか、良くても100ベクレルだが、尿検査はその50倍から100倍くらい感度が高い。
 南相馬20ミリ基準撤回訴訟原告と他地域居住者の尿中セシウムを比較すると、明らかに原告の尿中セシウム濃度は高い。
チェルノブイリでは事故から15年経過した頃、膀胱ガンが事故前よりも増えており、「チェルノブイリ膀胱炎」と名付けられた特異的膀胱炎が広がっていることが明らかになった。
慢性的な活性酸素などの効果を伴って、炎症からガンに移行していると考えられる。
 長期保養前後の尿中セシウム量の変化を見るとセシウム量の変化が大きく、保養中は尿中のセシウム量は明らかに少ない。
日常の食品からのセシウム取り込みをどんなに注意していても、原告が居住する20ミリシーベルト基準地域の生活では空気中の粉塵などによる呼吸器からのセシウム取り込みや、あるいは、たとえどんなに食生活に注意していても食品などからの追加的なセシウム摂取が避けられず、結果として排尿スピードが遅くなる可能性が考えられる。
 慢性的な被曝を避けることは汚染地区の生活の中では全く容易でなく、極めて難しいことである。

●お知らせ!
 原発事故に関する裁判は、ここで報告した2件だけでなく数多く起こされていることは、みなさんもご存知だと思います。
どうぞ、被災者の声をお聞きください。
トークの会「福島の声を聞こう!vol.27」のお知らせです。
日 時:5月26日(土)14:00〜16:00(開場13:30)
場 所:セッションハウス・ガーデン 新宿区矢来町158 2F
     (東京メトロ東西線「神楽坂」下車徒歩3分/JR「飯田橋」西口下車15分)
参加費:1,500円(被災地への寄付とさせていただきます)
 *ゲストスピーカー
27回目のゲストスピーカーは、浪江町津島から福島市へ避難している三瓶春江さんで、
三瓶さんは「ふるさとを返せ・津島原発訴訟」の原告です。
前日の25日に開廷される第13回公判の様子も、話して下さると思います。
皆様のご参加をお待ちしています。
また当日、受付・物販などお手伝いいただける方がおいででしたらご連絡ください。

いちえ  

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