HOME » 一枝通信»2018年3月18日号「警視庁機動隊沖縄への派遣は違憲 住民訴訟」

2018年3月18日号「警視庁機動隊沖縄への派遣は違憲 住民訴訟」

 3月14日、件名の訴訟第6回口頭弁論が、東京地裁第103号法廷で開かれました。
地裁前での事前の集会で原告代理人の高木一彦弁護士の挨拶が心に残りました。
「闘ってこそ明日がある」と言い、闘っても勝てるとは限らず負けることもあるが、闘うことで自分らの主張を広く訴えることができるのだと。
2日前の山城さんたち3人の裁判は不当な判決が出ましたが、山城さんや沖縄の人たちに連帯して、この裁判を闘うことを話されました。
 この日も傍聴希望者全員が入廷できました。
抽選券は配られましたが、ギリギリいっぱいで空席を出さずに済みました。
◎東京地裁第103号法廷
 裁判長から「今日は準備書面3」について陳述しますね」と確認された後で、原告代理人の弁護士が意見陳述しました。
●原告代理人弁護士意見陳述
 提出された「準備書面3」は46ページと長いものです。
ヘリパッド建設工事と、なぜ高江の住民が建設に反対するのか、反対住民らの行動の経緯を述べ、機動隊派遣の違法性を述べました。
派遣決定は手続き上からも違法であり、また派遣の目的であるヘリパッド建設工事そのものも違法であることを陳述しました。
ヘリパッド建設によって地元住民が深刻な被害を受けていること、沖縄本島北部の森林地帯「やんばる」の自然破壊についても述べました。
 警察官の権限行使の基本原則を示し、本件での警察活動がどのようなものであったかを述べ住民らに対して行われた暴行の違法性を陳述しました。
また取材の妨害や違法な道路封鎖についても陳述しました。
●原告本人:K・Mさん
 編集者として沖縄の絵本に関わったことから、住民の願いを無視した基地建設のことを知りました。
沖縄に行き地元の人と共に座り込み、機動隊員空暴力的な排除を受けて小指を骨折した体験を陳述しました。
このような自身の体験から自分が納めている都税が、違法に機動隊派遣に使われていることを看過するのは、自身が沖縄の基地建設に加担し機動隊員の暴力に加担することだと考え、原告になったことを訴えました。

*裁判長も左右の陪審も陳述する原告代理人、原告本人に顔を向け、また手元の準備書面に目をやりながら聞いていました。
 被告指定代理人、前列の3人は机上の書類に目を向けたままでしたが、後ろの席の2人は陳述する原告代理人に目を向けてしっかりと聞き入っているように見えました。
●被告指定代理人意見陳述
 訴えそのものを却下する。請求を棄却する。
原告らの求釈明(機動隊員らの超過勤務手当及び特殊勤務手当について、原告から釈明を求められている)について認否せず、金額を明らかにする必要も認めない。
●裁判長
 被告代理人に対して裁判長は、提出された準備書面に対して認否反論にとどまらず、事実関係をちゃんと書面で出すようにと言いました。
そして次回7回目の口頭弁論は5月23日、次々回は7月23日と言い渡しました。

◎閉会後の報告集会
●長尾弁護士
 話したことは、大きく分けて3つ。
一つはなぜ高江の人たちはヘリパッド建設に反対し、どうやって座り込んできたのか。
そして警視庁機動隊の派遣自体の違法性、環境破壊や住民の意思に反するなどを話し、また原則として沖縄県から要請されていくのが原則のところを、警察庁が前日に派遣を言ってそれに応じて行ったその手続きがおかしいと述べた。
基本的には自治体の警察であり、国の警察ではないのだからその原則を守るべきだと話した。
最後に高江で機動隊がやったことがおかしく、それについても主張・立証をしたいと話した。
●宮里弁護士
 今日の裁判員は最後に非常に重要な発言をしました。
機動隊派遣の必要性、相当性を明らかにしなさいと言いました。
さらに必要性、相当性があると考えた事実認識、我々は住民の正当な反対運動を抑圧するために機動隊が派遣されていると主張して、機動隊にこのような違法行為があったということを主張している。
一方で都の方は機動隊派遣に際してどのような認識を持っていたのか、現地の住民が誠に違法、不当な活動をしている不逞な輩だから抑圧するために派遣したとは、まさか言わないと思うが、それならどういう理由でわざわざ東京から機動隊を派遣したのか、都はその必要性、相当性を言わなければいけなくなった。
都は多分これは予想していなかった裁判所の反応ではないか。
我々は機動隊派遣の必要性、相当性はなかったとしているのに、都は必要性、相当性があるから派遣したと言わざるを得ない。
すると必要性、相当性とは何かという中身の論争が可能になってくるということで、この裁判にとって重要な展開があったのではないかと思います。
●青龍弁護士
 いま宮里先生の発言にあったように、この裁判の裁判長は最初から派遣の違法性について中身の事実関係を詳しく知りたい、判断したいという姿勢がうかがわれるような気がします。
 昨日、辺野古の基地差し止め訴訟では県が請求していた判決が、本案に入らずに門前払い、訴訟要件無しということで却下したという判決が出たので大変がっかりしているところだが、東京のこの裁判で基地建設の中身まで判断しようという姿勢が伺えて、あまり過度な期待はできないがこちらの主張を聞く耳を持っているので、これからもさらに主張、立証していきたいと思っています。
●高木弁護士
 もともと私たちが東京都の監査委員会に監査請求を出していたのに却下、調べる必要もない、住民監査請求に値しないから却下、これは昨日の那覇地裁と同じだ。
私たちがこの裁判を起こしているのは、「問答無用聞く必要ないとは、あんまりだ。事実調べをさせる」ということで論争を重ねた結果、基本的には前々回の裁判所の指揮で却下はしない、調べることを前提として前へ進もうとなった。
そして前回は具体的にどのような違法があるから給与の支払いが違法になるのかなど、これまでも蓄積していたことを説明しなさいとなった。
それで我々弁護士6人は総力を振り絞って、40数ページの準備書面を出した。
1週間前に出したので、それについて裁判官がなんらかのアクションをしたわけではないけれど、これについて被告に対してはちゃんと反論しなさい、木で鼻をくくったような態度ではダメです、あなたたちはなぜ派遣が違法ではないと考えるのか、その理由についてちゃんと説明しなさいと踏み込んだ。
門前払いではなく、中身について聞きましょうという裁判所の姿勢であることは間違いない。
 そこで次の課題は、いったい裁判所は何人の証人を採用するのかが次の山になる。
私たちは2人の元警視総監を含めて9人の証人を申請しています。
そういう人たちを全部調べてもらわないと、我々がなぜ今回の派遣が違法で、そういうものに給料を払うのは許されないというのか全部調べて欲しいとしている。
5月の期日に、今回私たちが出した40数ページへの反論が向こうから出て、裁判所はそれを読み比べながら、何人の証人を決めるかが7月なのかな?とすると証人調べがその次から始まるということで、9月以降に証人調べを始めるのではないかなと期待をさせる状況です。
 名護の市長選挙に続いて今回の那覇地裁の判決と、沖縄の人たちは本当に苦しい闘いを続けていらっしゃることと思い私たちは胸のつぶれるような思いでいますが、私たちは私たちの持ち場でできることを精一杯やっていくことが沖縄に対する連帯というだけでなく、日本の民主主義や平和の為に必要なことだと考えています。
ぜひまたお力添えください。
●意見陳述したK・Mさん
 短い文章でどれだけ話せるかと思いましたが、これに向き合う時、自分が加害者側にいることを忘れてはいけないと思いました。
だからこそ自分は自分なりに、自分の尊厳をかけて原告として闘っていることを伝えたくて陳述したつもりです。
聞いていただいてありがとうございました。
●前回の質疑応答について
 前回の報告会での質疑応答時に「機動隊はどういう風に機動隊になるのか」という質問が出ましたが、それについて解ったことをお知らせします。
 警視庁に就職する全員が、警察学校に入学する。
卒業後それぞれの警察署の地域課に配属され、交番勤務を1〜2年する。これはすべての警察官がここまではやることになっている。
その後、本人の希望などで配属される。
機動隊もその配属先の一つで、刑事場、訓練や総務課、鑑識などいろいろなところへ配属されるのが基本的なシステム。
いま東京都の警視庁の警察職員が43,566人で内、機動隊員が3,040人ということです。
神奈川県警は大体の規定がHPでアップされるのですが、警視庁は目的のところしかなく具体的なところは全部読めない。
神奈川の規定に沿って考えてみると、条例とか規則そのものには機動隊というのは出てこないけれど、警備部課で、警備第1課に機動隊は所属することははっきりしていて東京の場合は特殊車両機動隊というのがあるけれど、それ以外の機動隊が都内に9ヶ所ある。
神奈川県警の規定によると、「機動隊は警備実施の中核部隊として治安警備及び災害警備に当たるものとし、必要に応じて部隊活動にあたり雑踏警備、警護活動にあたるものとする。
機動隊員の成員の基準として幹部は人格識見に優れ、かつ特に指揮能力に優れた巡査部長以上の階級にある警察官、その他の隊員は勤務成績良好な巡査の内、身体強健な30歳未満の独身者で1年以上の実務経験を有し、柔道もしくは剣道に優れ又は通信・自動車の運転等に関する技能を有する者が挙げられる。原則として隊舎に合宿する」と書いてあります。
●高木弁護士
 今回具体的に警視庁の機動隊が高江で何をしたのかということを、いろいろ調べたり資料を取り寄せたりしました。
みなさんご存知かと思いますが、朝日新聞出版から出された沖縄タイムス記者の阿部岳さんが書いた『国家の暴力』は、この今回の高江における機動隊が何をしたのかということを中心に取材したことを書いた本で、これは私たちにとっても虎の巻のように大事な本です。
3人の裁判官にも提供し、被告にも提供しました。
ぜひ皆さんもお読みいただければと思います。
 さらにこれは前回の裁判の直前に、那覇地裁で三宅俊司弁護士に対して警視庁機動隊が車道を封鎖しビデオを撮りまくったことは違法であるという判決を出しました。
これも現地で機動隊がやっていることが違法であると沖縄の裁判所も判決を出しているので、これも大きな裏付けにもなりました。
いろんな形で闘い続ければいろんなところで資料も発掘できるし、いろんな材料も手に入るので、やっぱり闘い続けることが大事だろうと思います。

*次回の裁判期日は5月23日(水)11:30開廷です。
「警視庁機動隊沖縄への派遣中止を求める住民監査請求実行委員会」はサポーター募集中です。
これまでの裁判の経過はブログ、FBをご覧ください。
ブログ:https://juminkansaseikyu.wordpress.com
FB:「警視庁機動隊の沖縄への派遣は違憲 住民訴訟」
連絡先:juminkansaseikyu@gmail.com

5月23日の第7回口頭弁論も傍聴席が埋まるよう、私もまた傍聴に行こうと思っています。                           

いちえ


2018年3月16日号「7年目の3月11日」

7年目の3月11日、南相馬に行ってきました。

◎春には1年生に
 あの年に生まれたお子たちは、4月には小学校入学です。
●高田康生ちゃん
 2011年8月から南相馬に通ってきましたが、10月に訪ねた仮設住宅で出会った坊やがいます。
9月4日生まれの康生(こうせい)ちゃんです。
お母さんに抱かれた康生ちゃんの写真を撮らせてもらいました。
翌日にもう一度訪ねて、支援物資として届いていた乳児用の缶入り粉ミルクを届けました。
その後はお母さんも産休が明けて職場に復帰し、康生ちゃんも昼間は保育園でしたから会うこともなく過ぎ、やがて一家は仮設住宅を退去して、原町区の自宅へ戻ったことを聞きました。
 7年目の3月11日、あの時の写真を届けに康生ちゃんの家を訪ねました。
康生ちゃんは二人の弟のお兄ちゃんになっていました。
お父さん、お母さんからあれからの日々をお聞きしている傍で、下の弟の大誠(たいせい)ちゃんは、私が持って行った六つ切り写真の康生ちゃんを指差してまだよく回らない舌で何か言っています。
お母さんが、その赤ちゃん語を通訳して「うん、赤ちゃんいるね。かわいい?」と言うと、大誠ちゃんは頷きました。
生後1ヶ月の時のお兄ちゃんの写真は、1歳8ヶ月の大誠ちゃんから見ればかわいい赤ちゃんに思えたのでしょう。
 3歳の琉清(りゅうせい)ちゃんは、パズルを出してきて組み合わせようとするのですが、うまくいきません。
康生ちゃんが「違うよ、ここに入れるんだよ」と教えながら一緒に遊んでいました。
お子たちが、つつがなく健やかに育っていってほしい!とねがいました。

●上野倖吏生ちゃん
 雫(しどけ。原町区の行政地区名)の康生ちゃんの家から、萱浜の上野さんの家までは10分ほどの距離です。
海岸の防潮堤や道路の造成工事が進行中で、あたりの風景はすっかり変わっていました。
 上野さんのお宅では、まずお仏壇にお線香をあげさせていただきました。
上野さんは言います。
「7年目だからって、3月11日だからって、テレビでも新聞でもいろいろ言ってるけど、あの時の教訓を何も生かそうとしてないじゃない?
追悼とか、大変でしたとか、頑張ってきましたとか言っても、もう繰り返さないように避難計画をしっかり立てて周知する日にしようなんて言わないじゃない?
原発も再稼働して、輸出もするなんて、何考えてんだって!
亡くなった人が心配したり不安になったりしないで、笑っていられるようにしたいよね」
 多くの犠牲者を出した萱浜地区ですから、上野さんは両親の喜久蔵さん、順子さんや長女の永吏可(りか)ちゃん、長男の倖太郎(こうたろう)くんだけではなく地区で亡くなった友人知人たちすべてが、残された自分たちの姿を見たときに、安心して笑ってもらえるようにしたいのだと言います。
地区の田畑が荒廃しないように耕す、安全な作物を作る、もし風評被害が出るなら別の作物で挑戦する、そうすれば亡くなった人たちも「頑張っているな」と笑って見ていてくれるだろうと言います。
 土日は「福興浜団」の活動があるので、平日に土日の分まで畑仕事をするので、朝早くから夕方遅くまで畑に出ていると言います。
 そんな話をお聞きしていると、2階から倖吏生(さりい)ちゃんが下りてきました。
9月16日生まれの倖吏生ちゃんも、4月から1年生です。
康生ちゃんと同じ大甕(おおみか)小学校に通います。
大甕小学校の来年度の1年生は15人。
お母さんの貴保子さんは「15人だと先生は楽かもしれないけど、もう少し子どもが多いといいですけどね」と言いました。
 子どもたちの少なくなった南相馬です。
どの子も元気に健やかに育ってほしいと、心の底から願います。

◎12日、南相馬—浪江—川俣
●小林恵さんと
 11日夕刻に上野さんのお宅を辞してビジネスホテル六角に戻ると、友人で写真家の小林恵さんに会いました。
小林さんは2日前に先輩写真家の江成常夫さんをご案内して飯舘村や希望の牧場を回り、少し前に江成さんは山元町に向かったそうです。
そして小林さんは翌日取材をしながら帰宅されると聞き、翌朝のバスで福島へ戻るつもりだった私は、途中まで小林さんに乗せて下さるようお願いしました。
●ドーバー海峡?
 12日6時半に六角を出てコンビニに寄って朝食を買って、小浜の海を見下ろす低い崖の上で朝日を眺めながらの朝食。
小林さんがこちらの方への取材時に、いつも朝ごはんを食べる場所です。
以前ご一緒した時も同じ場所で朝ごはんでしたが、この場所は向こうへ回り込めば六角支援隊の荒川さんの家があった辺りです。
荒川さんは2014年に仙台に移住し、津波で半壊した小浜の家は解体されて今はもうありません。
 小高と浪江の境界の海岸は元の道路が波ですっかり抉れたように侵食されて、小林さん曰くところの「小高=浪江のドーバー海峡」です。
その道路は震災よりもっと以前から使われなくなっていた道路ですが、それにしても海べりのこんなところに、よくぞ道路を作ったものだと恐ろしく感じました。
私が立っていたのはアスファルトの敷かれた道路で、その先が崩れてなくなっていた場所ですが、もしかしたらオーバーハングではないかとそっと下を覗き見ると、まさにそうで、慌てて後ずさりしたのでした。
ここは東北電力の浪江・小高原発建設予定地だったところですが、原発建設計画は地域住民の反対で頓挫し、3・11後はイノベーション・コーストの一環として航空機ドローンの滑走路にするようです。
●壁にぶら下がった測定器
 浪江・小高原発建設反対運動の拠点だった棚塩地区の集会所に行ってみました。
7年前の津波の跡がそのままで、壁に取り付けてあったナノグレイの放射線量測定器が、衝撃で壁から外れてぶら下がっていました。
この測定器設置は、もしも原発が建設されたら使うつもりだったのか、それとも東電福一稼働の影響を調べるためだったのか判りませんが、自然の力の前では人の営みなど小さなものだと思わされました。
2階に上がって見れば網入りガラスが窓枠に鋭い鋭角でギザギザに残り、突き破られたガラスは小さな小豆粒状になって床一面に溢れていました。
請戸は港も整備されて津波の爪痕も見えにくくなってきていますが、ここは7年前のあの日のまま時間が止まった場所でした。
 棚塩から先の道では反対車線上にタヌキかアライグマか動物の死骸を見ましたが、車に轢かれたのでしょう。
そのもっと先では、路上でカラスがカラスの死骸を啄んでいました。
カラスが車に轢かれることなど滅多にないと思うのですが、以前に南相馬の大原で住民の谷さんから「うちの前の道路では、ちょくちょくカラスが轢かれているよ」と聞いたことがあります。
こんなことを見たり聞いたりするとつい、放射能がカラスに何らかの影響を与えているのでは?などと思ってしまう私です。
●なんと、今野さんの家の前!
 小林さんは「昨日写真を撮ったところにもう一度行きたいのでけど、どこだったか…」と言いながらハンドルを握っていましたが、私にはあたりの風景は見覚えがあるところでした。
「その先を右に入ってください」と私が言って、停車したのは今野寿美雄さんの家の前でした。
そして今野さんのお庭の柊の木を、小林さんに説明したのでした。
幹から直接出てきている下の方にある葉は柊特有の鋸歯の葉ですが、枝から出ている葉はどれも縁に鋸歯がなく丸い葉なのです。
 こんな風にひょいと今野さんの家の前にきてしまったので、そこから今野さんに電話をしてみました。
今野さんも驚いて「僕も2日前に家の写真撮りに行ってきたところです。解体申し込みの申請に必要だからね」と言いました。
さりげない口調の奥に、どれほどの悔しさを抱えているかと思います。
丸葉の柊も、崩れたウッドデッキも、地震で飛び出したままの引き出しや、棚からこぼれ落ちた食器類、床に広がった坊やのおもちゃ、家具や衣装などをそっくり抱えたこの家の佇まいが、私には原発への憤り、抗議の姿だと感じられました。
●山木屋道の駅
 114号線の大柿は、多分この道路上では放射線量が一番高い地点ではないかと思いますが、この日も設置されたモニタリングポストは4,427μを示していました。
猿の群れが走り去って行きました。
津島で長泥への道を右に見て過ぎ、山木屋の道の駅に出ました。
前回ここを通ったのは、この道の駅が開店を数日後に控えている時でした。
中を覗いてみると客は誰もいず、商品も少なく寂しい限りでした。
木造の建物は綺麗だしトイレもとても立派ですが、どれほどの人が利用するのか…。
 川俣の街中に入り役場前で福島行きのバスの時刻表を見ると、ちょうどあと5分後にバスが来ます。
そこで小林さんにお礼を言って、お別れしました。
●「ふるさと飯舘!!新かわら版」
 飯舘村二枚橋に向かう小林さんから、別れ際に「ふるさと飯館!!新かわら版」飯舘村の広報紙をいただきました。
江成さんをご案内して行った時にもらったものだそうです。
新かわら版の発行日付は2018年3月11日。
それによれば帰村者は、村内20行政区のうち帰還困難区域の長泥を除く19地区で254軒、491人だということです。
被災前には6,000人がいた村でした。
 就園・就学人数は被災がなかった場合の就園(0歳〜5歳)の児童数158名に対し、30年度の就園希望者は23名。
小学校は289名に対して31名が希望、中学校は193名に対して43名が希望しています。
この4月から就学前から小・中までの一貫校が開校し、コシノヒロコブランドの制服が無償で支給されるそうです。

◎新刊書紹介
 朝日新聞記者の青木美希さんが、被災地を丁寧に取材した本を書きました。
講談社現代新書『地図から消される街 3.11後の「言ってはいけない真実」』
私も読み始めていますが、多くの人に知ってほしい語られない真実が書かれています。
どうぞ、お手にとってお読みください。 

スキャン             

いちえ


2018年3月10日号「3月8日『のりこえねっと』記者会見」

◎8日、BPO放送人権委員会決定について、「のりこえねっと」の記者会見が行われました。
●渡独は事実上の亡命だった
 辛淑玉さんは昨年11月に渡独され、私はドイツから招聘されて研究活動のための渡独なのだろうと思っていたのです。
ところが3月2日付の沖縄タイムスの記事を読んで、衝撃を受けました。
辛さんが同紙の寄せたコメントが載っていました。
「私がドイツに逃れたのは、極右テロからの自衛であり、事実上の『亡命』です。旧大日本帝国は父祖の地を奪い、MXは私のふるさとを奪いました。帰れるところは無いのです。」
 昨年1月2日に東京MXが流した番組「ニュース女子」が、虚偽とデマに満ちた内容、差別とヘイトを煽動する内容だったことから、「のりこえネット」は抗議をし、また辛さんはBPO(放送倫理・番組向上機構)放送人権委員会への申し立てをしてきました。
昨年12月にBPO放送倫理検証委員会は、「重大な放送倫理違反があったとする」と意見書を発表し、その後の記者会見でも「放送してはならないものを放送してしまった」とまで言いました。
そして8日、BPO放送人権委員会の決定として、東京MXに対して勧告が発表され、辛さんは一時帰国されて記者会見をされたのでした。

●BPO放送人権委員会の決定の概要
 1月2日、9日の「ニュース女子」は、事実に基づかない内容を放送したことで辛さんの社会的評価を低下させ、辛さんに対する名誉毀損の人権侵害が成立すると、はっきりと言っています。
 また、「日本民間放送連盟 放送基準」では「人権・民族・国民に関することを取り扱う時は、その感情を尊重しなければならない」としているのに、そのような配慮を欠いていた、とも言っています。
 そして、「委員会は、TOKYO MXに対し、本決定を真摯に受け止めた上で、本決定の主旨を放送するとともに、人権に関する『放送倫理基本綱領』や『日本民間放送連盟 放送基準』の規定を順守し、考査を含めた放送のあり方について局内で十分に検討し、再発防止に一層の努力を重ねるよう勧告する。」としています。
◎記者会見で
●記者会見での辛さんの言葉をお伝えします。
 最初にこの決定を聞いた時に、民族差別にも触れていたので、涙が出ました。
この社会で暮らしていく在日の人権、マイノリティの人権が、こういう形でBPOで語られたことを嬉しく思っています。
 同時にBPOがこれを口にしたということは、BPOもまた私と同じように叩かれるということです。
それでもBPOの決断は、放送人の最後の良心の決断だったと思います。
どんなに政権におもねった番組を作っても、視聴率の稼げるような番組を作っても、これをやってはダメなんだ、放送人としてやってはいけないのだということを明確に示してくれたと思っています。
 私自身は、これを訴えるのはとてもきつかったです。
それを支えてくれたのは、私以上に怒り、悲しみ、声を上げてくれたカウンターの人たち、新聞記者の人たち、ネットニュースの人たち、雑誌社の人たちでした。
 私は初めは自分に起きていることがわかりませんでした。
「これはおかしい」と言って書いてくれた記事をきちんと読むことができたのは、昨年の8月です。
それまでは一つ一つを精査して読むことは、恥ずかしい話ですが、…私にはできませんでした。
読みながら、日本の良心はまだある、と思いました。
小さなメディアの人たちも含めて、その人たちの力があったので、私も壊れずにここまでこれたと、本当にお礼を申し上げます。

 MXのやったことは罪が深いです。
今までネットの中であったデマを、保険をつけ、社会に飛び立たせました。
そのデマは如何に酷いものか、少しでも近代史を学んだ人ならば、少しでも目の前の少数者のことと関わった人ならば、それは容易に想像がつくものでした。
世界中のネオコンも含めてメディアがターゲットを名指しし、それに共感した人が具体的にテロ行為に及ぶ、その繰り返しでした。
 私が今日、この記者会見に出ようと思ったのは、民族団体の本部が襲撃されたからです。
去年の段階で、テロは起きるなと思いました。
それはもちろん私に起きるかもしれないし、なんらかの象徴的な人たちに対してかもしれないと思いました。
自分の周りにあるものがどんどん変わってきて、沸点がどんどん低くなってきて、かつてテポドンの時、拉致疑惑の時、様々な時に大量の暴行事件が発生しました。
一瞬のうちに沸き上がる暴力の凄まじさを体験してきています。
 そして民族団体を襲撃した彼らは、私たちがヘイトの相手として戦ってきた人です。
つまり、ヘイトからテロへと確実に時代は移行しました。
その扉を開いたのはMXです。
やってはいけないことだった、と思います。
 いま、きっちりとしたBPOからの決定が出たからこそ、彼らはまた必死になって私やBPOを叩いてくると思います。
なぜなら言論とメディアを如何に自分たちの手に持ってくるのか、それが彼らの目的だからです。
どんな手段を使っても、これからどんな酷いことを書かれるかと思います。
でも、みなさんと一緒に止めたいんです。
みなさんと一緒に、言論で止めていきたいんです。
そのきっかけをBPOがくれたことを、心から感謝します。

 いま私たちの周りにどんな状況があるのかというのを、簡単にパワーポイントにしてみたので少しだけ流させてください。(ここで画像が映されました)
 ヘイトとの闘いは私で言えば2007年からです。
花岡事件のあの時に囲まれたのが、囲まれて罵倒されながら一緒に何10mも歩いたのが初めてでした。
 ヘイトスピーチがあり、嫌韓があり、そしてこれは最近出た雑誌です。(どぎつい色と見出しの雑誌類が映されました)
全部が惨たらしい文言で彩られて、この記者は大久保を取材したいと言ってきたそうですが、しかし出てくるものは、とても一緒に多文化共生の街を作っていくような雑誌ではありません。
そして街には嫌韓本がいっぱいあり、雑誌もそういうもので語られ、塚本幼稚園では「邪な考え方を持った在日韓国人シナ人」という内容の文章が送られ。百田さんは相変わらず妄想の世界で生きていて、「北朝鮮のミサイルで私の家族が死に私が生き残れば、私はテロ組織を作って日本国内の敵を潰していく」ということは、まさにここにきている私たちのことでした。
北朝鮮の攻撃と何の関係もない日本に住む人たちを、テロ組織を作り攻撃殺傷するなどという危険思想を持つ人たちがこんなにいるのは怖いです。
 イオ信組が放火事件を受けました。
イオ信組は、いわゆる朝鮮総連系と言われています。
だけどこの放火をした人は、朝鮮総連とか韓国とか、全くわからないんです。
韓国の戦時性暴力の被害者の問題で頭にきて、同じ朝鮮人だから、一山いくらという形で放火をしました。
 そしてその他にも出自を求め蓮舫の「国籍を見せろ、戸籍を見せろ」という声も上がりました。
この時私は、夢で蓮舫に泣きながら頼んだんです。
あんたが、あんたがそれをやったら、どれだけ多くの人がその出自を問われるかわからないからやめてくれ、と夢で泣きながら言いました。
 そしてツィッターでは「朝鮮人を皆殺しにしろ」とかいろんなことがあります。
いろいろ発言するたびに後ろにくっついてくるものを見ると、本当に辛くなります。
そして今度は『いまこそ韓国に謝ろう』と言いながら、つまり笑いながら相手を侮蔑しながら叩きます。(百田尚樹の本)
 朝鮮人慰霊碑追悼文を拒否したのは小池さんでした。
私たちは、私たちの歴史そのものが、が存在そのもの否定されている社会の中にいます。
そして「北朝鮮のスパイが入り込んでいる」といったことがワイドショーでもどこでも平気で語られる。(三浦瑠璃の北朝鮮スリーパーセル発言)
 そして今度は「在日は済州島で幸せに暮らしてね」と、まさにソフトな嫌がらせで。(江川達也、ライブドアニュース)
そして今回の襲撃事件がありました。
 毎日が皆さんにとっては、ごく多くの情報の中の一つかもしれません。
でもそれは、私や出自の異なる人たちにとっては大変重い情報として届きます。

 日本社会の中で生きていて、語れる相手もなく、自分の出自を学ぶこともできず震えている子たちが、目の前に浮かびます。
その子達に、ごめんなさいって、伝えたいです。
本当にヘタレな朝鮮人の大人で申し訳ない。
あなた達を守れなくて本当にごめんなさい。
だけど頑張るから、絶望しないで。
日本には良心のある人たちがまだたくさんいて、あなたはまだ出会っていないから、だから絶望しないでいてください。
そしてごめんなさい、もう少し頑張るからとお伝えして、お礼とさせていただきたいと思います。
●参加した記者からの質問を受けて
*インターネットって、散弾銃なんです。
打ち込まれたら八つ裂きになります。
そして世界中どこへ行っても、その画像が見られます。
ヨーロッパで仕事していても、アメリカで仕事をしていても、必ず検索があります。
消すことができない。
毎回、説明しなければいけない。
そして多くの人は、それを検証する術を持っていません。
ネットで拡散されれば、必ずその次はネットをベースにして具体的な行動に移してくる人たちが、必ずいます。
それは小さな段階でもそうだし、駅で出会う人もそうだし、その数が爆発的に増えるということです。
日常生活がなくなるというのを、どうお伝えすればいいのかなぁと思います。
*私がドイツに行って一番最初に驚いたこと。
ポストを開ける時に、安心して開けられるということです。
ドイツに行って初めて、ああ、ポストを開けて何かお便りが来るっていうのは、こんなに楽しいことなのかって思いました。
 今回私が、こう心を打ち砕かれたことに関して申し上げるなら、複雑骨折みたいな感じなんです。
私自身が、なぜここまで自分が折れたのかと言うのを自分が理解するのに、まだ整理がついていません。
 ただ確かなことは、私の出自を使って、変えることのできない出自を使って、沖縄を叩いたということです。
それは自分が叩かれるよりも、何倍もこたえました。
そういう複雑骨折があちこちで起きるんです。
 普通の生活がしたい、駅に行った時にジロジロ見られたくない、ヒソヒソ語られたくない、クリーニング屋さんに行った時にシミがついていたらこれもう一度やり直してくださいと気軽に言いたい、辛って名前を書いて病院に行ったらちゃんと見てくれるのかな、インターネットの中で歯医者さんや医師を標榜する、自称かどうかわかりませんが、
その人達のヘイトもすごいです。
 つまり、あらゆる職業の人がそれをやっている。
それを真に、目の前で見る。
そうすると直接自分に言っていることではないけれど、このお蕎麦やさんに入ったら、ちゃんとしたものをだしてくれるのかな…とか。
そういう不安を抱きながら生きる…。
 私と社会の関係をいつも考えなければいけない生き方っていうのは、人一人の人生を考えたら、ものすごい酷いことなんですよ。
でもそういうことをマジョリティの人に理解してもらう言葉を、私は持っていません。
私が感じる感性を、多くのマジョリティの人にはなかなか届かないんです。
 仕事もなくなるというのは、どういうことかわかりますか。
クライアントのところに毎回と言っていいほど、嫌がらせが入り、抗議が入ります。
そのために、クライアントを支えながら仕事をしなきゃいけない。
仕事現場にくる人たち、一回や二回ではないんです、ほぼ全てです。
 そして日本人の感情のゴミ箱として自分が使われる。
韓国のことを言われたり、北朝鮮のことを言われたり、誰も私が在日で朝鮮人で韓国籍で永住権を持ってると言っても、それがなんだか全くわからない。
いつも、いつも、自分のことを説明しなければ先に進まない。
 そして自分の存在が、自分が大切にしている人を傷つけるなり、自分の子供が窮地に落ちるなんて思ったら、私だってネトウヨに愛される右翼になると思いますよ。
何をされたのかということを語りだしたらきりがない。
ただはっきりとこの歳でわかったのは、日本の社会でモノを言う朝鮮人の女というのは、ゴキブリ以下に扱われるということです。
そして多くの人たちは、それを笑いながらやるんです。
そしてまたもっと多くの人たちは、それを止める術を知らない。
ネットで叩かれること以外に、それに付随することによって壊れていくんです。
 私は…、(涙で言葉が途切れました)

 1972年生まれの沖縄の子で、栄作という名前の子がいます。
私の知人で3人いました。
最初はわかりませんでした。
二人目の時もわかりませんでした。
去年か一昨年、初めて聞きました、どうして栄作という名前がついたのか、ひょっとして佐藤栄作のこと?って聞きました。
 沖縄復帰のあの時に、自分の子供に栄作という名前をつけた親の思いや、人生や日本社会に託した願いや希望や未来を、思うんです。
どんなにこの社会に夢を持って、子供に栄作って名前をつけたのかって思うんです。
それを思うと、日本の国っていうのは、なんて酷いことをし続けるんだろうって思うんです。
一人一人の生きてきたところからその国や政治のあり方を見ていった時に、もっと優しくできるはずだと思うんです。
 それを私の出自で、しかも全部デマで、それで沖縄を叩かないでほしい。
それは酷いことなんですよ、人間としてやっちゃいけないことなんですよ
そして、(私が思う)そういうひとつひとつが、共感されない、評価されないそのこともまた自分を打つんです。

★TOKYO-MX「ニュース女子」に対してBPO人権委からの勧告に関しての記者会見は、「のりこえねっと」の川原栄一さんの司会進行で進められました。
上に記した辛さんの発言の前に、辛さんの代理人弁護士の金竜介弁護士、神原元弁護士が、経緯について発言されました。
また辛さんの記者会見に続いて、沖縄から秦 真実(やす まこと)さん、そしてMX前で毎週抗議行動を続けてきた川名真理さんが発言しました。
この「一枝通信」では、ただただ辛さんの思いをお伝えしたく、他の方の発言は記しませんでした。                            

いちえ


2018年3月8日号「お知らせ」

原発事故から7年が過ぎました。
被災地・被災者の今は、どんなでしょうか?
4月1日、長野市で講演会が開かれます。
お近くの皆様のご参加を、お待ちしています。

いちえ

18.4.1

 


2018年3月3日号「国会前スタンディング」

 今日は3日。
「アベ政治を許さない」スタンディングの日でした。
先月20日に逝去された金子兜太さんが書かれた「アベ政治を許さない」の文字をコピーしたプラカードを掲げ、国会前には120人ほどが立ちました。
澤地久枝さんは、兜太さんが揮毫された色紙を掲げられました。
澤地さんのその色紙をコピーしてA3版に拡大し、コンビニでコピーできるようにして全国に広がったのでした。
1時少し前に澤地さんがみんなの前に立たれ、3年前に兜太さんに揮毫をお願いしたいきさつを、またそれから今日まで、全国各地で集会などあると必ず兜太さんの書かれた「アベ政治を許さない」が掲げられていること、兜太さんの思いを継いでいきましょうと話されました。
そしてご葬儀の席で最後のお別れに拝見した兜太さんのお顔は、安らかなお顔だったと話されました。
 「今日は1時になったらまた無言で、兜太さんの書かれたプラカードを掲げましょう」
澤地さんの言葉に参加者の中から「喪章をつけてもいいでしょうか」という声もあり、澤地さんは「どうぞお付けになってください。それぞれの思いで兜太さんをお送りし、私たちの思いを掲げましょう」と。
 2月24日に東京新聞に掲載された時事川柳「天上で見届けますよアベ政治 (坂巻克巳)」をプリントして掲げた方もおいででした。
晴れて暖かで穏やかな日差しの下、幼いお子たちも共に「アベ政治を許さない」を掲げました。
 「アベ政治を許さない」スタンディングの後、参加者の多くは「納税者一揆」に流れましたが、私は3時からの打ち合わせが予定に入っていたので帰宅しました。 

いちえ


2018年3月2日号「涙をチカラに!」

 友人の中原一博さんが代表を務めるルンタプロジェクトの、クラウドファンディングが始まりました。
 ルンタプロジェクトは1997年に中原さんが立ち上げ、これまでインドのダラムサラに活動拠点を置いて、中国で政治囚となったチベット人の支援を続けてきました。
 2008年、中国の監視がより一層厳しくなり国境を超えて逃れてくることも難しくなり、これまで逃れてきた人たちの支援活動も一区切りがついた頃には、人権弾圧が厳しさを増すチベットでは、焼身抗議が起きました。
報道されないその現実を、中原さんはダラムサラ通信としてブログでずっと伝え続けてくれ、それによって私たちは報道されない事実を知ることができました。
現在ブログは、1冊の本になっています。
『太陽を取り戻すために チベットの焼身抗議』(2015年、集広舎発行)
池谷薫監督の映画『ルンタ』をご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、池谷さんと中原さんが、抗議の焼身をした若者の故郷を訪ねて撮った映画です。
 その後2015年4月、ネパールでの地震が起きました。
被災地支援に入った中原さんは、地震の被害だけではなく人身売買やAIDS被害などの実態を如実に知り、ネパールに活動の拠点を移したのです。
 そしてルンタプロジェクトは今、ネパールの人身売買被害者やHIV/AIDS女性と子どものシェルター作りに取り組んでいるのです。
シェルター完成まであと一歩!
皆様のご協力をお願いします。
https://motion-gallery.net/projects/lung-ta
私もルンタプロジェクトの顧問の一人ですが、中原さんの活動を心の底から応援しています。
子どもたちに、女性たちに、笑顔が溢れますように!!     

いちえ


2018年3月1日号「2月28日福島原発刑事訴訟」

◎福島原発刑事訴訟 第4回公判
 2月28日10:00〜東京地裁第104号法廷で、福島原発刑事訴訟第4回公判が開かれました。
●入廷まで
 傍聴整理券配布は8:20〜9:00なので、遅れないように家を出ました。
整理券を手にして、抽選が発表されるまで待ちます。
いつもなら9:00に整理券配布し終えると、程なく当たり番号が張り出されるのですが、今朝は9:00過ぎても発表されず、係官はハンドマイクで「もうしばらくお待ちください」と言うばかり。
5分過ぎ、10分過ぎても状況は変わらず、待っている人たちの中から「いつまで待たせるんだ!」と、いらだちの声が上がりました。
コピー機が壊れて、それで手間取っているようでした。
ようやく発表されたのは15分も過ぎてからでしたが、幸い私は当たっていて傍聴券を手にすることができました。
 地裁の建物内に入ると、まずセキュリティチェックを受けます。
これは空港での搭乗時に受けると同様に、荷物を機械に通し、人もゲート状の機械をくぐり抜けるものです。
民事裁判の時のセキュリティチェックはこれだけですが、この福島原発刑事訴訟では、それから後のセキュリティチェックが、しつこいくらい念入りです。
 まず104号法廷の手前で当選番号の記載された整理券を係官に渡し、引き換えに傍聴券を受け取ります。
それから手持ちの荷物を預け、荷札を受け取ります。
法廷内に持ち込めるのは貴重品と筆記用具のみです。
ハンカチ・ポケットティッシュなどは持ち込めますが、水など水分や携帯電話、スマホ、録音機など電子機器類はダメです。
 法廷への廊下に通じるドアの前で係官が差し出したトレーに、手に持っている筆記用具やポケットティッシュ、荷札を入れて金属探知機を持った係官の前に進みます。
係官は両手を横にあげるように指示すると、体の前と後ろ、広げた両腕を金属探知機で“バカ”丁寧に探り、時計がシャツの下に隠れていると袖口をめくって時計が出るようにさせて探ります。
 それが済むと筆記用具などを入れたトレーを受け取り、女性は女性の係官の前に進みトレーを渡し、今度は係官が手で体を触ってのボディチェックです。
チェックが終わるとトレーにある品々のチェックです。
ペンケースを開けて中のものを全て出して見せ、ノートはパラパラとめくって何も挟んでいないことを示し、テッシュも係官が手で触って異物が挟まれていないことを確かめるのです。
 前にもお伝えしましたが、これは刑事裁判だからなのかと思っていましたが、通常は刑事裁判でもこんなに面倒ではないらしいのです。
それでこの日はここでもまた、抗議の声が上がりました。
「たった今金属探知機でチェックをしたばかりなのに、なんでまた触手でのチェックが必要なんですか!
なんでこんなことに時間を取らなきゃならないんですか!
朝早くに福島を出て来ているのは、こんなことに時間を取られるためだったんですか!
被害者の私たちを犯人扱いなんですか!」
言葉は違ったかもしれませんが、そのような抗議の声でした。
そう聞けば本当に私も、その通りだと思います。
私にはこの日が3度目の体験でしたが、最初の時にはこんなやり方に何も疑問も持たなかった私でしたが、やはり尋常ではないチェックの仕方だと思います。
この裁判は被告が東電の3人であるとはいえ、被告の後ろ盾には国があります。
そんなことが過剰なまでの警戒態勢を取らせるのでしょうか。
●104号法廷
 開廷前の撮影時にはやはり勝俣、武黒、武藤の被告3人の姿はなく、撮影が終わってから裁判長の合図で係官に誘導されて入廷しました。
入ってきた3人は被告という立場がそう見せるのか、まるで精彩を欠いていて、みすぼらしくさえありました。
でも、前回もそう思いましたが、3人はまだ罪が確定していないから撮影時は姿を出さないというのは、頭では理解できるものの、腹の底からは納得できないことです。
 この日の法廷では検察側、弁護側双方から請求の証人喚問が行われました。
●証人尋問
 証人は係官に誘導されて入廷し、宣誓書を読み上げてから証人席に座りました。
証人は東電の関連会社である東電設計(株)の久保さんです。
証人尋問は、検察官役の指定弁護士から始められ午前いっぱい続けられ、昼の休廷時間を挟んで午後の始めには指定弁護士の尋問が少し続き、その後弁護士からの尋問になりました。
 質問は省いて証人の証言のみを記します。
●証言
 証人は大学卒業後に東電設計に入社し、現在も在籍中。
東電設計は原子力発電所施設の調査、観察、設計、総合コンサルタントを行う会社で、証人は平成20年から土木本部長として管理職グループに所属し、土木関係での実質責任者。
原発は理系、工学系が関係するが、証人は土木工学なので工学系で、ただし津波は理系も関係する。
土木部門の仕事は、東電の土木が扱う建屋の設置地盤の安全性、土木建造物の安全等の調査、津波調査・解析も含む。
 平成19年の中越地震を受けて、東電からバックチェックの一環として福島第一、福島第二の津波評価を業務委託された。
試算した津波の高さは最大で15,7mの可能性があることを、東電の金戸氏ほか2名(2名の名も証人は明らかにしたが、私がメモを取れず)に報告した。
指定弁護士が示した分厚い黒いファイルを、証人はその報告書であると証言。
報告後、東電担当者から「摩擦係数を大きくすれば津波は小さくなる、そのように解析条件を変えることで、津波の高さを低くできないか」と再検討を依頼されたが、土木学会の評価に則ってやっているので、それはできないと断った。
また、解析条件を変えてやってもみたが、数値はほとんど変わりなかった。
 そしてまた、試算した15,7mという数値から20m高さの壁が必要として、敷地10m盤の上に10mの防潮堤を作るシミュレーションを作成していた。
しかしそれらの試算は実際の対策には生かされなかった。
●弁護士からの尋問と、それに対する証言
 被告弁護士は、まずこんなことを聞きました。
「証人は最初に原発には理系と工学系の人が関わると言い、証人は土木工学なので工学系だが、原発では理系と工学系とどちらにイニシアチブがあるのか?」
言葉は違ったかもしれませんが、このような内容の尋問で、証人は理系と答えました。
 弁護側は、平成26年に証人が作成した防潮堤のシミュレーション図を示した。(南、東、西の3方に20mの防潮堤を作るシミュレーション)
証人はこの図を説明し、防潮堤に津波が当たって返る波と寄せる波がぶつかり、波頭はさらに高くなるから20mの防潮堤でも津波は防げず浸水する場所はあった、また防潮堤が壊れる可能性があったことも証言した。
●裁判官からの質問
 最後に右陪審、左陪審、裁判長からそれぞれ質問があり、裁判長が「平成20年の報告書は、東電の担当者以外に知らせなかったか」と問うと、証人は「どこから耳に入ったのか東電設計の本部長と社長から、どうなっているか訊かれて答えた」と証言。
●この日の裁判で感じたこと
 検察官役指定弁護士、被告弁護士双方とも、もっと多くを質し、証人は答えましたが、
メモを取りきれず大きく印象に残ったことのみを記しました。
 弁護側の最初の質問は、なんと意地の悪い根性悪な質問だこと!と思いました。
原発業務の主導権を持つ理系でなく、土木系の証人を貶めるような質問だと思いました。
また、平成26年に作成したシミュレーションに関しての尋問は、事故後に東電が悪あがきのアリバイ作りに躍起になっていたことを示し、墓穴を掘ったのではないかと思いました。
 裁判長の発した尋問への証人の答えからは、東電担当者に伝えた15,7mが担当者のみでなく他へも伝わっていたことを示しているのではないでしょうか。
 閉廷後は参議院議員会館で記者会見が行われ、武藤類子さん、海渡弁護士、小森弁護士からの報告の後、時事通信社、NHK、朝日新聞社、毎日新聞社、福島民友社などの記者から質問があり両弁護士が答えました。
 次回第5回公判は、4月10日(火)10:00〜17:00頃です。    

いちえ


2018年2月28日号「2月21日裁判傍聴」

◎安保法制違憲訴訟・女の会 国家賠償請求事件
 2月21日は件名の裁判の第4回口頭弁論が、東京地裁第103号法廷で開かれました。
午後2時半開廷で2時には傍聴席抽選なので、1時半ころ地裁前に行きました。
抽選に並ぶ人がやや少ないようで案じながら、傍聴券を得て中に入りました。
案ずることはなく、傍聴席は埋まったので良かったと思いました。
閉廷後、参議院議員会館で報告会が持たれました。
●第4回口頭弁論
 この訴訟の裁判長は落語が好きな方だそうで、よく喋る人です。
この日も原告代理人、被告代理人から既に提出されている準備書面について、双方に一つ一つ確認をしていました。
これは他の裁判でも裁判長がするのですが、この裁判長は事務的にそっけなくではなく何か一言が加わるのです。
例えば「中野先生(この裁判の原告代理人弁護士の中野麻美さんのこと)とは、この訴訟を通じて既に何度もやりとりしていますから、きちんと書面を出していただいていますが」などと。
口調もはっきりしていて耳の悪い私にはよく聞き取れてありがたくはあるのですが、よほど話し好きな裁判官なのだなぁとは思います。
ただし裁判官のポーカーフェイスに騙されてはいけないと思うので、しっかり見届けていこうと思っています。
 裁判長は準備書面の確認後、原告代理人、被告代理人に双方に意見陳述をするかどうか確認しました。
被告代理人は「認否反論の予定はない」と答え、原告代理人は意見陳述することを伝え、裁判長の「では、原告は意見陳述をしてください」の言葉で意見陳述が始まりました。
●原告代理人:山本弁護士
*準備書面(8)=安保法制の強行採決の違法性を主張するもので、強行採決時のタイムテーブルに沿って違法性を主張。
*準備書面(9)=安保法制が女性の権利の核心にある「非暴力」と相矛盾し男性優位の家父長的社会関係を強め、女性に対する暴力を増長させる構造を増長させる構造を明らかにした。
*準備書面(10)=被爆体験を有する原告らにとって、安保法制閣議決定及び内容・審議の過程が人間としての尊厳や幸福を直接侵害するものあったことを原爆被害の実相に触れて明らかにする。
*準備書面(11)=平和的生存権、憲法制定権、女性の権利の側面から原告らが侵害された権利の内容をトータルに明らかにする。
●原告本人:K・Kさん
*はじめに
 1993年に女性の人権ネットワークを立ち上げ、暴力被害者支援の仕事が始まった。
現在も「NPO法人全国女性シェルターネット」の理事として、DV・性暴力・性虐待など、暴力被害当事者の女性や子供の回復支援に関わる現場で活動している。
 また、「女性と人権全国ネットワーク」というNGOの協同代表も務めている。
これは女性や社会的マイノリティ自身の手で、当事者が参画しやすい社会を作っていこうとする取り組みを全国規模で進めているネットワークだ。
 DV防止法制定から17年近く経過したにもかかわらず、女性・子ども・マイノリティに対する暴力はひどくなり、深刻になっている。
2011年の東日本大震災以降、被災地のみでなく日本社会全域で女性や子どもへの暴力が激しくなっているのが支援現場の実感だ。
日本社会の暴力化傾向は、安倍政権の安保関連法の強行採決により、さらにその勢いを強めている。
安保関連法は集団的自衛権の行使を認めるもので、支配の手段としての暴力が法律によって容認され続け、女性や子どもに対する暴力を増加させている。
被害者はまるで戦争前夜ともいうべき危険の中を生き延びている。
*女性から力を奪う国家
 日本という「国家」は、女性が自立できないように、ものを言わないように、抵抗しないように、性的に従順なものになるように、さまざまな政策をとっていると思われてならない。
女性から力を奪い、家に閉じ込め、男性のいいなりになるように支配する、今の日本はまさに「DV国家」だ。
 それはじわじわと支援現場に影響をもたらす。
各都道府県に必ず設置することになっているDV支援センターの受け入れ件数が減り続けていることも、保護命令が発令しにくくなっていることも、DV被害者の生活保護受給手続きが難しくなっていることも、マイナンバーカードの導入などで被害者の安全が確保されにくくなっていることも、離婚調停やDV裁判での安全が脅かされていることも、子どものケアが放置されていることも、支援機関での二次加害・三次加害が増えていることも、全てが第二次安倍政権の発足以降、顕著になってきたことだ。
*戦争への加担は差別と暴力を顕在化させる
 災害と戦争は同じ構造を抱えている。
災害時に明らかになった問題は、戦時・戦地でより明らかになる。
東日本大震災の被害が明らかにした通り、非常時には性暴力の土壌が強化され、家父長制の縛りがきつくなり、弱者に対するあらゆる暴力を防止することが不可能になる。
 私は暴力のただなかから立ち上がろうとする無数の当事者に出会い、その声を聞きながら「痛いのは私だ、つらい。苦しい、悔しいのはこの私だ」と感じてきた。
「何万回も死にたいと思った。そして何万回も生きたいと思った」ギリギリの命の瀬戸際から生還した被害当事者の叫びを思うたび、胸がつまり、動悸が激しくなり、怒りで体が震える。
 力と支配に押さえつけられてきた女性たちは、権力の代わりに言語、感情、仕草、さまざまな表現による関係調整能力を駆使して生き延びてきた。
 80年代後半から、DV・セクハラ・レイプ等々、暴力の発見からその根絶に向けて、被害当事者を中心に繋がれた女性たちの支援ネットワークは、草の根のシェルターを立ち上げ、法の制定・改正に取り組み、暴力根絶施策の推進に貢献し、さまざまな領域の制度運用改善を成し遂げ、この社会を少しずつではあるが確実に変化させてきた。
 安保法制が動き出すことにより、痛みを共にする女たちの支え合いの力でお互いの命をつないできた日本中の当事者・女たちの努力が無駄になるかもしれない状況がつくられようとしている。
 軍事力の合法化、暴力の容認と拡大で、女たちの尊厳と誇りが打ち砕かれてしまう。
戦後72年、平和憲法をよりどころに、ようやくここまでたどり着いた女性支援の実績が跡形もなく崩されてしまうのを黙って見過ごすことはできない。
 女たちの安全保障は、女たちの日常から暴力をなくすことだ。
レイプ・虐待の容認放置は軍事力の行使そのものだ。
 今ここで暴力被害にあい、命を脅かされている当事者は、声を上げることができない。
そして日々理不尽に傷つけられ、命を脅かされているのは、この私でもある。
女性に対する暴力の、その痛みを共にする者として、私は原告の一人となった。
何万回も死にたいと思い、何万回も生きたいと願った日本中の、世界中の女性たちと共に、安保関連法性が憲法違反であることを強く主張します。
●原告本人:T・Fさん
1、武力行使をしないという憲法の解釈を変えて、実質「改憲」してしまう閣議決定と安保法制に、言葉では言い尽くせない衝撃。虚しさと恐怖を覚え、今もその衝撃は消えない。
2、私は長崎で被爆し、父と兄を無惨な死に方で亡くし、残された母と幼かった3人のきょうだいで必死に生きてきた。
原爆による肉体的な苦痛と精神的な恐怖は、歳を重ねるほど強くなっている。
若い頃から強度の貧血による強烈な頭痛や若年性白内障等々の病に罹り、常に命の危機を感じてきた者にとって、核の恐怖は現実のものだ。
この度の閣議決定と安保法制は、まさに日本が核戦争に巻き込まれる危険を想起させる。
私が、被爆者ばかりでなく国内外の多くの理解者の協力を得て「平和な世界を」と38年間続けてきた活動を無にする平和憲法の破壊は、私にはあの原子爆弾が長崎の街を一瞬にして破壊し尽くしたことに匹敵する衝撃だった。
その後、私は無力感にとらわれ体調を崩し、今も気管支炎で咳に苦しめられ、今日こうして法廷で話をする日を迎えられるかどうかもわからなかった。
3、原爆は猛烈な破壊力で、すべての生き物を破滅させ、土壌まで汚しつくし、死んでいった者だけでなく、生き残った者まで徐々に死に追いやる残酷な爆弾だ。
平和憲法は、他に比べようのない残酷な死に方をさせられた大勢の犠牲者から、生き残った者への贈り物だと思っている。
彼らの命と引き換えに手にしたこの「平和憲法」をもとに、日本人は生まれ変わったのだから、それを活かし平和のために貢献するのが、多くの犠牲者に報いるものであり私の使命だと、ささやかに活動してきた。
 高校教師からRKB毎日放送に勤務し、その後タイやフランスに滞在する経験を得て私が得たのは、単に被爆者として被害を主張するだけでなく、日本という侵略国に生まれ、たくさんの人々を惨たらしい暴力によって虐げ、命も財産も何もかも奪ったという歴史を背負わなければならないということだった。
国家が行ったことは自分に関係がないとは言えず、国際社会の中で生きる以上、近隣諸国の人々が被った被害を自らのものとして責任を持って行動することが重要だと痛感した。
それが安全を確保することであり、近隣諸国の人々との友好を結ぶことになると確信した。
「東アジア安全ガイド」に、東アジア諸国の戦争記念館のコーナーを入れて出版したのも、その思いからだった。
4、『明日が来なかったこどもたち』は、そうした私の信念に基づいて、未来を生きるこどもたちに平和を考えてもらいたくて出版した絵本だ。
浦上天主堂の近くにいた子どもたちには、二度と明日を望むことができなかったこと、原爆投下直後に深い傷を負った日本人と敵国の捕虜が助け合った事実などを通して、人間として互いの違いを認めあい、手を繋ぐことの大切さを分かってもらいたい思いで書いた。
その「あとがき」に私は、アウシュビッツを訪ね犠牲になった子どもたちの山積みの靴を見た瞬間、原爆で犠牲になった子どもたちのことを思い出し、彼らは何一つ残さず初めから地球上に存在してなかったように忘れ去られていることに気づき、浦上の子どもたちの原爆投下寸前までの様子を書き、多くの人の記憶に刻んでもらおうとしたことを書いた。
 そして、この本を読んで、この本に登場する子供達を忘れずに、21世紀をあなたたちの手で、平和な時代にしてほしいと訴えた。
5、私は幼児期の悲劇的な体験をエネルギーに変え、執筆活動、朗読や平和コンサートなど続けてきた。
これから生きる若い人たちに、平和がいかに大切なものかを知ってもらい、素晴らしい日本国憲法のもとで、自分で考えて選び、行動できるようになって思い切り自由に自分の人生を切り開いて、平和をつないでもらいたい思いからだった。
6、『明日が来なかった子どもたち』を出版したのは、2000年だが、今も私の思いは変わらない。
閣議決定と安保法制は、これまでの私の活動を全部否定してしまった。
しかし、せめて司法を担う方々には、私の平和への願いと、この国に生きていく希望があること、平和憲法の基本にある諸国民相互の信頼の絆を強くすることこそ正義であることを示していただきたいと、心から願っている。
●原告代理人:山本弁護士
 今回提出した準備書面(11)は、原告らの侵害された権利〜平和的生存権、主権者としての根源的権利である憲法制定権、女性の権利について、権利の法的性格、安保法制によってその権利が直接侵害されていることについて述べたものだ。
侵害された権利のうち「平和的生存権」について、書面の内容を補充して弁論する。

 今月5日、佐賀県で訓練中の自衛隊の戦闘用ヘリコプターが墜落し住宅が炎上、11歳の女児が奇跡的に命は助かったが、隊員2名が死亡する大事故が発生した。
沖縄ではオスプレイの不時着が頻発し、昨年10月には米軍ヘリが牧草地に墜落炎上、12月には米軍ヘリの8キロもある窓が小学校の校庭に落下するなど、住民の命を脅かす事故が続いている。
あまりに多い事故の原因として指摘されているのは、安保法制だ。
国際紛争に武力を行使して米軍に加担し、米軍の核兵器を含む兵站防護のために武器使用できるようにする安保法制によって、戦時を想定した訓練の増加や、隊員の過重負担が、住民の生活と財産を脅かしている。
 家を燃やされ傷つけられた女児の家族が「許せない」とコメントしたことに、避難のツイッターが殺到し、沖縄の事故でも同様の攻撃があったことに加え、国会で「何人死んだんだ!」と副内閣相が野次を飛ばして問題になった。
生活の安全が脅かされるだけでなく、被害を受けた市民がこのような攻撃に晒されるのも、安保法制が紛争解決の手段として武力を行使すること、力の行使を法的に承認したことと無関係ではない。

 「平和」とはなにか。
 日本国憲法は前文で、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意した」と宣言し、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と謳っている。
これは、お腹がすいたら誰でもご飯が食べられること、友達と一緒に勉強できる、大好きな歌が歌える、嫌なことはイヤと一人でも意見が言える、朝までぐっすり眠れる、将来の生活が展望でき安全・安心に生きられる、そうした日常の人々の幸福を一番大切にし、それを人権として保障することを宣言したものだ。
たった一つの重たいいのちだから、そういう小さいいのちで世界が繋がっているのだから、絶対に殺し殺されることがないようにする、そして、私が生まれてよかった、あなたが生まれてよかったという繋がりを大事に、友だちを作ることができる、それが憲法で保障する人権の核心にあることを明らかにしたものだ。
これが「平和」というもので、そして、原告らが追求してきたものだ。

 憲法9条は「戦争」の放棄を定めた。
戦力の不保持、及びその法的権限としての「国の交戦権」を認めないことも定めた。
私たちの国家は、人権のための平和を守る責任があり、だからこそ「戦力を持たない」「戦争もしない」として権力の行使を制約した。
これが世界に誇る日本国憲法の平和主義だ。
 この日本国憲法は、アジア太平洋諸国に侵略して膨大な数の人々の生命や生活を根こそぎ奪い、その日本兵も捨て駒としていのちを切り捨てられ、国土も焼け野原になって、多くの人が家族も財産も、何もかも失って、その中から私たちが掴み取ったものだ。

 「平和的生存権」の「平和」は、単に「戦争がない状態に生きる権利」ではない。
「平和」は、軍事や安全保障の問題に矮小化されてはならない。
「平和」とは日常の平穏な営みであり、平和的生存権とはそうした営みが可能になるということだ。
 恐怖と欠乏から免れた生活の平穏、それは生存のための基盤だが、それを妨げるものを排除し、あるいはその基盤を求める権利というのは、平和的生存権の重要な一部だ。
また、憲法13条が保障する幸福追求権は、憲法によって制限されたはずの武力行使を可能にする法政策によって生命を脅かす危険をおこさないように請求する権利も、平和的生存権の中に含まれる。

 安保法制は、「敵国」の存在を前提とし、これら「敵国」を軍事力をもって攻撃することを想定しているところに本質がある。
日本が現実に軍事展開して、戦争できるという力を誇示することは、東アジアの情勢が緊迫する中で、相当程度に市民の生活をリスクにさらし、現実的な恐怖を体験させられる。
また安保法制は、武力の行使によって紛争を解決すること。そのために家父長制と不可分の軍事化を進めるもので、日常生活の中に今なお根強い家父長制と女性や子どもに対するあらゆる形態による暴力を増長させている。
さらに生活上のリスクが高められる中で、原告らは戦争と暴力を再体験させられたり、戦争につながる行為への加担や協力を強いられる事態に直面している。

 原告らは、差別と貧困・暴力の根絶、基地の撤廃や環境の保全を求め、平和の権利の核心にある「差別と暴力の撤廃」のために、戦争のない社会を作るために粉骨砕身努力を重ねてきた。
その原告らの国民投票権も否定してクーデターのように憲法の解釈を変えた上に、このような法案を強行採決されたことは、言葉に言い尽くせない屈辱と怒りと悲しみと苦痛を与えた。
そして平和憲法を信条に自らの人生を切り拓き、行動してきた原告らは、これまで体験したことのないような「無力感」に襲われた。
安保法制は、それ自体として原告らの「平和的生存権」を現実に侵害している。

 司法は人権救済を使命としている。
この訴訟は、司法権が人権の砦として、憲法の精神に従って行使するように求めるものだ。
裁判所には原告らの訴えを真摯に受け止め、国民の司法への信頼が確信に足るものであることを示していただくよう強く要請します。

◎報告集会
●原告代理人弁護団長:中野麻美さん
 昨年の段階で準備書面2本、それに関連する証拠を提出した。
女性の平和の核心にある暴力、差別をなくす取り組みを進めてきた人たちの観点から、この安保法制がどのような権利の否定と被害をもたらすか、それは女性の権利の核心をもたらすものなので、それについてKさんに意見陳述をしてもらった。
 2本目の準備書面で、強行採決の精査を、神奈川県における公聴会から9月19日の強行採決に至る過程が非常に暴力的で、採決としては成立し得ないものであると主張した。
これは原告の中に参議院議員の福島瑞穂さんがいるので、参議院議員としての権利を侵害されたという主張を提出した。
 それから年が明けて2本の準備書面を提出した。
一つは長崎の原爆被害者の方から、安保法制の被害を論じた。
もう一つは弁護団から山本弁護士に、どんな権利が侵害されたかを話してもらった。
「平和的生存権」は何なのか、具体的な権利であり、それが侵害されたことの意味を話してもらった。
 それから「憲法制定権」、2014年7月1日、密室で憲法解釈を変えて戦争ができるとしてしまった。
密室でクーデターのように変えてしまった。
これは本来的に言えば、憲法を変え手続きをとって、私たちに意見を聞くべきなのだ。
 3番目に女性の権利の侵害。
暴力との闘いを進めてきた女性にとって、安保法制は大きな影響をもたらすものだ。
それらの準備書面に対する証拠を提出した。
 今日の意見陳述もそうだが、この間ずっと意見陳述を可能にさせてきた。
それは主張としての準備書面を用意する中で、口頭主義・弁論主義でそれを説明させてもらうということでやってきた。
 この意見陳述こそ国会でされるべきだ。
平和に「安全」という言葉がつくと 軍事の問題に特化されてしまう。
軍事同盟とか自衛隊でどう守っていくかが議論されるのでなく、平和は日常のことなのだ。
「よく眠れる」など実感で、そういう権利の問題がこの法制でどうなるのかということを、人の生活の隅々から掘り起こして議会で議論することが行われないと、本来の民主主義的な議論のあり方ではない。
法廷がこのような意見陳述を展開することで、議会が何を考慮するべきだったのかを明らかにし、この立法の違憲性とそれによる被害を浮かび上がらせていく。
 これからどうなるかだが、裁判官は自分としては完結していると思うというようなことを言っている。
次回くらいには将来的な方向性を見通した上で、立証を提出して欲しいと言っている。
次回は緊迫した法廷になると思うが、みなさんの協力をお願いしたい。
次回は6月22日、14時から第103号法廷だ。
●原告本人:K・Kさん
 安部政権下で何がどう変わったのかという観点で、書面を準備した。
今日は法廷で話している時に裁判官の顔を睨みつけていたが、彼は目をそらさずにずっとこちらを見て聞いていた。
2001年にDV防止法の法律を作り2011年までの11年間と、その後でなぜこのように変わったのかと考える。
 最初の10年間は右肩上がりに相談が増え、自治体職員の研修も行われるなど、暴力そのものは減らなくても、女性への暴力について考える傾向が社会にあった。
2011年の震災以降、すべての行政機関に暗雲が立ち込め、DVセンターの受け入れ件数がどんどん減っている。
被害者のほとんどが今日殺されるか、明日殺されるかという、いま命の瀬戸際にあるのに追い返されて、申請が受け付けられない状況だ。
様々な支援手続きが使いにくくなっている。
DV被害に苦しみながら命を落としている人が、日に日に増えている。
 安部政権下で、どうしてこうなったか。
すべての政策の結果として公的機関の機能が劣化し、性的被害は若年層に急増している。
内閣府が調査するたびに増えている。
幼いもの、声をあげにくい人が凌辱されている。
これは安部政権に責任があると考える。
暴力で、力で解決しようとする姿勢がこうした傾向を生む。
安保法制はもちろん、安部政権のやり方は許さない。
●原告本人:T・Fさん
 東京に住んでいた時には様々なところで色々勉強させてもらい、差別撤廃条約などについても学んだ。
その後筑波に越したが、筑波は「犬も歩けば博士に当たる」と言われるような学問都市だが、差別撤廃条約を知っている人はほとんどいなかった。
私はここで男女参画条例を通した。
裁判も一般の人の意識をあげないと成り立たない。
 被爆者なのでむごい死に方をした人を多く見てきた。
私は4歳だったが幸い母が生きていてくれたが、孤児もたくさんいた。
彼らは70年以上経っても普通の生活ができていない。
話を聞かせてもらおうと尋ねたが、孤児院にいたことを知られたくないと言って、話してくれた人は少ない。
 被爆者はいつ死ぬかという恐怖と一緒に生きている。
被爆者は二度とそのような人を生みたくないと思っているが、核爆弾が通常使われていくのが安保法制だ。
 ヨーロッパやアジアの国の人々と交流して40数年になるが、彼らは日本国憲法があるから日本と仲良くやっていける。
9条があるから、受け入れてくれる国がたくさんある。
9条は友好のパスポートだ。
●原告代理人:山本弁護士
 準備書面(11)で原告の権利について、「平和的生存権」「憲法改正決定権」「女性の権利」の3つの点で話した。
これらについて被告は、「それは気持ちの問題、心情であって権利利益の侵害ではない」
と言うが、私は原告の権利利益は具体的に侵害されている、解釈で改憲されたような状態になって、それによって具体的な被害が発生していると述べた。
 佐賀の5日の自衛隊ヘリの事件や沖縄の事件など、なぜ起きているのかは、安保法制によって米軍が東アジアの緊迫した状況で訓練が過剰になっていることや整備が不備なことなどによっている。
事故そのものもだが、被害者へのツイッターでの酷い言葉も、これらも暴力によって解決するという安保法制で大手を振っている。
事故の真相が解明されない状況も安保法制が関連している。
 こうした具体的エピソードから、平和的生存権が具体的に侵害されていることを話した。
 「平和」の意味は何か。それは戦争がない状態ではない。
安全保障や軍隊がすぐに出てくるが、そうではなく、安全に安心して、明日があることを信じて生きてゆけること、平和的生存権とはそういうことだ。
原告の具体的な今までの人生で、憲法が生き方の大元にあったのが、安保法制で直接に傷つけられている。
原告がそれぞれに取り組んできたことが具体的に傷つけられている。
 裁判長は、陳述している原告をまっすぐに見るポーズをとるのは上手だと思った。
話すのが好きな人は聞くポーズも上手で、そういう意味でも原告が直接話すのは大事だと思う。
右陪席も左陪席も、同様にしっかり聞いていたと思う。
●全国の裁判状況について:杉浦ひとみ弁護士
 東京の国賠訴訟は1月26日に7人の原告尋問があり、5月11日に残り3人の原告尋問がある。
この裁判は門前払いになる危惧感があったが、裁判所の中で原告の話を一生懸命伝えていくことで、裁判所もむげにはできないということから尋問が始まったと思う。
 5月11日は原告3人の尋問だが時間が余るので証人尋問にも入って欲しいと思い裁判所に申請をしている。
元最高裁長官や学者、議員、知識人などから原告の言葉を証言してもらいたいと思っている。
 差し止め訴訟でも裁判所の方から、立証の問題を考えましょうということが出ていて尋問のことも念頭にあるのではないかと思う。
裁判所はそれぞれ独立してはいるが、最初の国賠訴訟で尋問が始まった事で、他の裁判所もでも考えていこうとしているのではないか。
●現役自衛官の裁判について:角田由紀子弁護士
 現役自衛官が一人で起こした裁判で、東京地裁は「存立危機事態はないから、防衛出動は現実性がない」と判決したが、東京高裁はそれは違うとして地裁に差し戻した。
ところが国は上告して、地裁に戻さず最高裁にかけるとした。
これから最高裁でどうなっていくか注目したい。
 これについて枝野さんが国会で質問した。
政府は存立危機事態があるとして集団的自衛権を成立させたのに、ここでは存立危機事態がないというのは二枚舌だと。
これについてマスコミは報道していない。

◎国会の状況
 報告会が始まる前に、この裁判の原告の一人でもある社民党の福島瑞穂議員から、国会の状況について話がありました。
 通常国会が始まり参議院で久しぶりに憲法審査会をやった。
結論から言う、動かしてはダメだ。
今日は憲法についての一般論議だったが、自民党が憲法9条の3項に自衛隊明記と緊急事態法開始のための憲法改正で、これは変で、まさに公職選挙法でやるべきなのに議員定数不均衡なのはもうどうでもいいのだという話で酷いのだが、それを向こうが言えばこっちもそれに反論することが必要になり、憲法改正案に向かって活発な議論が行われているという形になりかねない。
日米地位協定が憲法違反だという議論をすべきだと思い、民進党が今日はそれをいい、私は安保関連法、戦争法が憲法違反だという議論だけをやればいいと思うがそういうわけにもいかず、憲法審査会を開くとやっぱり憲法改正案をめぐる議論になるので、憲法審査会を動かさず憲法改正案作りをさせないために頑張っていきたい。
 11月30日に安部首相に、「9条3項に自衛隊を明記するということは集団的自衛権を行使する自衛隊ですね」と質問したら、安部首相は「そうです」と答えた。
9条1項、2項の解釈を変えて、勝手に変えるな!だが、部分的に集団的自衛権の行使をするようにした。
「そのままです」という答弁で。
つまり安部首相は繰り返し「変わりません、今と変わりません」と言うが、9条1項、2項の解釈を変えて集団的自衛権の行使をする自衛隊は変わらないということなので、これはやはり集団的自衛権の行使をする自衛隊の明記だ。
 今度の改憲は「戦争改憲」と言った方が伝わる。
戦争を発動する、日本の若者が海外で戦争をするための改憲だと言い切って伝えていく方が伝わる。
「そのままです」と言われれば災害救助と思うが、その論に乗らないためにも「戦争改憲」であることを伝えた方がいい。
 国会状況は、今いろんな論点で、とりわけ働き方改革の法案の中の裁量労働制の拡充を巡ってデータが全くでたらめだった、数年間全く嘘を言ってたことが明らかになった。
裁量労働制の方が一般の労働者よりも労働時間が短いなど、嘘っぱちだった。
比較が全く違うし、取り方が違う、聞き方が違う、全く違うことが明らかになった。
政府は施行1年間延期するとか言うが、そんなことではダメで、働き方改革一括法案そのものを出すな、国会に出させない方向に頑張っていきたい。
 憲法9条3項に自衛隊明記と解釈改憲で戦争法、安保関連法を作ったことが地続きだと思う。
この裁判が持っている意味が、まさにそのことだ。
力を合わせて、今年、憲法改悪の発議がされないように闘いを、一緒に広く、楽しく。愉快に、元気にやっていきたいと思う。
よろしくおい願いします!

*2月21日の報告はこれで終わりです。              

いちえ


2018年2月27日号「2月17〜19日福島行③」

 19日は鹿島区の仮設住宅2ヶ所、小池第3と寺内塚合を訪ね、午後は小高の同慶寺を訪問し久しぶりに田中徳雲さんのお話を聞きました。

◎7年目の仮設住宅
●小池第3仮設住宅
 ヨシ子さんやハルイさんが作った手芸品をトークの会「福島の声を聞こう!」の会場に並べ、参加者の皆さんに買っていただいています。
先月催したトークの会での売り上げ売代金を、ヨシ子さんに届けました。
この日はハルイさんは病院に行って留守でしたが、ヨシ子さんが自宅から集会所に来てくれたのです。
 この仮設住宅は200戸以上で、震災の年は全戸が埋まっていましたが、いま人が入居しているのは6戸です。
ヨシ子さんも昨年ここを退去して、すぐ近くの新居で長男の家族たちと生活しています。
ハルイさんは原町に新居を設け、子どもや孫はそこに居ます。
新居にはハルイさんの部屋もあるのですが、仮設に居られる間はここで過ごすつもりのようです。
もしかしたらそれは、まだ先の見通しが立てられないで残っている人たちを気遣ってのことではないかしら、と思っています。
朗らかなハルイさんがそこにいれば、笑いは絶えません。
原町の自宅では子どもや孫が大事にしてくれるし、住環境もここよりはずっと快適なのに、それに近くには知り合いや友達もいるのにハルイさんがここに残っているのは、残らざるを得ない人たちを案じてのことではないのかしらと、私は思うのです。
南相馬は、仮設の明け渡し期限はこれまで言われていたよりもう1年延長になって、2020年3月までになったそうです。
 ヨシ子さんに昼間はどうしているのですか?と尋ねると、ハルイさんのところに遊びに来ていると答えが返りました。
仮設の部屋は狭いのですが、それでもハルイさんの部屋にヨシ子さんや“学校バッパ“が集まって、賑やかにおしゃべりの花を咲かせているのでしょうか。
“学校バッパ“というのは、PTAで活躍していたことからそう呼ばれている菅野さんのことです。

●寺内塚合仮設住宅
 談話室には菅野さんと天野さん,2年前に退去した紺野さんとお連れ合いの姿がありました。
久しぶりに会った紺野さんは少し太ったようで、でも元気そうでした。
久しぶりの紺野さんの姿はあるのに、いつも居る山田さんが居ません。
「山田さんは?」と聞くと、「お母さんが亡くなってお葬式だから」というのです。
お母さんというのは母親のことではなく、息子の伴侶、お嫁さんのことです。
 山田さんはこの仮設住宅に、息子と孫とで住んでいます。
息子の嫁はもう一人の孫と、福島市のアパートに住んでいました。
 息子の家族がそんな風に別居生活をしていたのは、個人的な理由からではなく原発事故によってのことでした。
原発事故後、一家は小高から避難をしましたが仮設住宅ができた時に原町に職場があった息子は、山田さんと同じこの仮設住宅に入居しました。
お嫁さんが福島市のアパートからここに移らなかったのは、小学生の娘の健康を案じてのことでした。
男の子の孫も当初は福島市で母親と妹と一緒にいたのですが、中学を卒業して相馬高校に入学したことから、この仮設で父親と過ごすようになったのです。
福島市にも放射線量の高いところはあり、鹿島区のここの方が却って低かったりするのですが、そうした情報はしっかり伝わってはいなかったでしょう。
52歳、急性心不全だったそうです。
彼女の死も、原発事故関連死ではないでしょうか。

 紺野さんからは小高の自宅に帰ってからの暮らしを聞きました。
日常の買い物は、小高ではほとんど用が足りず原町まで出るということや、郵便物がなかなか届かず、10日以上もの遅配になっていることも聞きました。
空き家が多くなっていることや、どこに人が住んでいるのかわからないことなどで、郵便屋さんも配達業務に苦労しているようです。
しばらくして紺野さん夫婦は帰り仕度を始めましたが、紺野さんが杖を使って立ち上がるのを見て、ショックを受けました。
あんなに元気で溌剌と動いていた紺野さんだったのに。

◎徳雲さん
 久しぶりに小高の同慶寺をお訪ねし、田中徳雲さんにお会いしました。
以前に徳雲さんから、食用になる作物を耕作するのがダメならば、綿や麻を植えて綿花や麻で糸を紡ぎ布を織り、新しい地場産業にしていけたらと思っていらっしゃることをお聞きしていました。
でもその後、計画は進まず断ち消え状態だと伺っていました。
全く頓挫してしまったのか、それとも何か進展があるのかも伺いたくて、この日お訪ねしたのでした。
 この日に徳雲さんからお聞きしたことです。
 ●ガンジーさんに倣って
 4年前に檀家の農家さん3人と私で、綿と麻の畑をと考えた。
グループの中で一番熱かったのが私で、農家さんで一番情熱があった人は山形に避難し、農家のリーダーだった人は新潟に避難していた。
県も熱心ではなく、機が熟していなかったのだろう。
 県に行っても農政部ではなく、保健福祉部薬務課で、麻薬を取り締まる課が管轄窓口だった。
作物を作りたいのに畑の事など何もわからない警察が出向してきていて、「「口に入れるものは難しいので繊維を採るための作物だ」と訴えても、全く糠に釘状態で、いくら熱心に訴えても響かなかった。
最初から「あんたらが何を言っても許可は出さない。申請書を渡すつもりもない」と言うので、「では、他にどうすればいいのか?」と尋ねてもだんまりを決め込まれた。
 2、3回目には農政部の人と一緒に行ったが、農政部は「ケナフがいいのでは」などと言ってくれたが、ケナフを作った人もいるが生業を兼ねてやるには、ケナフは脆弱すぎるようだった。
管理が難しく、虫害もあった。
綿もやってみたが、三反やって9割絶滅し、1割はなんとか採れたが、それも製品には到底ならず、農家に言わせると「こんなのクズにもなんねぇ」というものだった。
ずっとここに住んでいて、朝晩畑を見回る状況にはなかった。
2年前に避難指示解除になり、やろうと思えばできる状況になったので、口に入れないもので復興を考えていきたいと思っていた。
 ところが今年になって井田川の農家の三浦さんという人が、綿と麻をやりたいと言い出し、「それなら徳雲さんが言っていたよ」ということになって、10日前に三浦さんに会った。
三浦さんに会ったとき、綿や麻をやりたいという人を待っていたのだと話した。
 三浦さんの考えを聞くと風車やメガソーラーを作り、それに綿や麻の畑をということだった。
風車はどんな風車かと聞くと、かなり大きいものだと言うので、それは時代に逆行していると思った。
「大きいものを作ろうとするから環境に負荷がかかるし、何かあったときに対処できないから、震災後の小高の本当の復興を考えるなら、なるべく送電しなくて良いように小さな発電所、水力でも風力でも、井田川なら井田川の発電所で井田川の世帯分を賄えるように、小高なら小高の行政区内の送電だけで良いように、小さな発電所にしたほうが良い。
そのほうが余計なコストもかからないし、何かあったときに強い。
大きい発電所を作って送電する事を考えるなら、メリットはないと思う」と話した。
 そのときは電力会社の人も一緒に来ていて。私がそう言ったのでみんながっかりしたようだった。
ところが三浦さんは、「将来は徳雲さんの言うようになるだろうが、段階的に考えたい。
そうなるまでの10年、20年を考えれば、何もしないわけにはいかない。
俺もあと20年くらいは元気にやっていけるから、その間にできる事をしておきたい」と言う。
 麻をやるならしっかりした壁で囲って監視カメラも何台か設置しなければならないから、設備投資に相当かかるが、麻畑と発電所を併設するなら全部を一つの事業と考えれば、ある程度の事業費は中央から下りるから、それに乗ってみるという三浦さんの考えも聞いて、風車についてはこれ以上余計な事は言わず、風車の脇で綿と麻とで一緒にやっていこうと思った。
三浦さんは私より一回り年長だが、柔軟な考え方で情熱を持っている人だ。
考え方で違う点もあるが、そこを互いに乗り越えてやっていこうと思う。
 私の今年のテーマは「調和」で、調和してやっていこうと思った。
麻もたくさんは作れなくても、自分の絡子(らくす。略式の袈裟)くらいは、自分で作りたいと思う。
ガンジーさんが言っていたように、自分の衣食住は自分で完結できるようにしていきたいというのが、お坊さんになった時からの自分の目標だった。
食に関しては震災前から7、8割はできていて、今は断念しているが、今年は土も入れ替えて畑もちゃんとやろうと思っている。
 畑はイノシシの掘り返しが酷いので、堀を作って電柵をしようと思う。
馬鈴薯など根菜類は難しいし豆もダメかなと思うが、ウアッパリ根菜類は作りたい。
線量を測りながら、やっていこうと思う。
仙台の友人も、土を入れ替えたら安心してできるようになったというので、私もそうしようと思う。
 食の次は着るもので、家を作るのはハードルが高いが、このパッチワークで作る藍染の小さな絡子派、自分で作りたい。
三浦さんとも、綿と麻の畑をぜひ一緒にやりましょうということで話し合った。
●檀家さんとともに
 徳雲さんのお話を伺っている間に、訪問客が相次いだ。
2011年の地震で、由緒あるこの古刹は少し歪みが生じている。
徳雲さんは建物はこのままでも凌げるのだからこのままでいいと思っていたが、檀家さんたちが「このままでは俺たちが死んだ後でどうなるか」と案じて修復したいと言う。
徳雲さんは「道元さんの言葉では『後のことは後の人に』とある」と伝えても、だんかさんたちには「やるだけやっぺ」という気持ちがあって、私もその思いに水を差すのはそこまでにして「じゃぁ、やりましょうか」と言ったら、みんなすごく元気な顔になった。
それで、「じゃぁ、私も頑張ります」ということになったところだという。
訪問客は寄付を持ってこられたのだった。
 徳雲さんはそんな経緯を話した後で、こんなことも話された。
●テーマは「調和」と「八分目」
 綿と麻作りも寺の修復も、ことが動き始めると予期せぬ動きもあるし、いろいろな人との関わりも出てくると、良い動きも厳しい動きもある。
でも、それもこれも私の今年のテーマである「調和」という目標で頑張っていこうと思うし、もう一つのテーマである「八分目」でやっていこうと思っている。
 今年も春と秋、マルシェを2回やろうと思う。
去年も春秋の2回やったが、年2回くらいがちょうど良いだろう。
その前は2ヶ月に1度やっていたので大変だったが、定着するまでは重ねた方が良いと思いやってきた。
それがあったお陰で、檀家さんたちも元気になってくれたと思う。
おにぎりでも豚汁でもちょっと何か作って、「あ。自分たちにも小遣い稼ぎができる」というのを判ってもらえただけでも良かったと思っている。
好評だったのが柏餅で、あっという間に売り切れた。
地元の人に出店してもらいたいと思ってやってきたが、お店を出した方が楽しいということを感じてもらえたと思う。

*久しぶりに徳雲さんにお目にかかれて、綿と麻の畑のこともお聞きできました。
いつもながら清々しい佇まいの徳雲さんでした。
寺内塚合仮設住宅をおいとまする時に「これから同慶寺に行きます」と言うと、仮設のばあちゃんたちは「徳雲さんはいい人だよねぇ」と、しみじみ言ったのでした。       

いちえ


2018年2月27日号「2月17〜19日福島行③」

 19日は鹿島区の仮設住宅2ヶ所、小池第3と寺内塚合を訪ね、午後は小高の同慶寺を訪問し久しぶりに田中徳雲さんのお話を聞きました。

◎7年目の仮設住宅
●小池第3仮設住宅
 ヨシ子さんやハルイさんが作った手芸品をトークの会「福島の声を聞こう!」の会場に並べ、参加者の皆さんに買っていただいています。
先月催したトークの会での売り上げ売代金を、ヨシ子さんに届けました。
この日はハルイさんは病院に行って留守でしたが、ヨシ子さんが自宅から集会所に来てくれたのです。
 この仮設住宅は200戸以上で、震災の年は全戸が埋まっていましたが、いま人が入居しているのは6戸です。
ヨシ子さんも昨年ここを退去して、すぐ近くの新居で長男の家族たちと生活しています。
ハルイさんは原町に新居を設け、子どもや孫はそこに居ます。
新居にはハルイさんの部屋もあるのですが、仮設に居られる間はここで過ごすつもりのようです。
もしかしたらそれは、まだ先の見通しが立てられないで残っている人たちを気遣ってのことではないかしら、と思っています。
朗らかなハルイさんがそこにいれば、笑いは絶えません。
原町の自宅では子どもや孫が大事にしてくれるし、住環境もここよりはずっと快適なのに、それに近くには知り合いや友達もいるのにハルイさんがここに残っているのは、残らざるを得ない人たちを案じてのことではないのかしらと、私は思うのです。
南相馬は、仮設の明け渡し期限はこれまで言われていたよりもう1年延長になって、2020年3月までになったそうです。
 ヨシ子さんに昼間はどうしているのですか?と尋ねると、ハルイさんのところに遊びに来ていると答えが返りました。
仮設の部屋は狭いのですが、それでもハルイさんの部屋にヨシ子さんや“学校バッパ“が集まって、賑やかにおしゃべりの花を咲かせているのでしょうか。
“学校バッパ“というのは、PTAで活躍していたことからそう呼ばれている菅野さんのことです。

●寺内塚合仮設住宅
 談話室には菅野さんと天野さん,2年前に退去した紺野さんとお連れ合いの姿がありました。
久しぶりに会った紺野さんは少し太ったようで、でも元気そうでした。
久しぶりの紺野さんの姿はあるのに、いつも居る山田さんが居ません。
「山田さんは?」と聞くと、「お母さんが亡くなってお葬式だから」というのです。
お母さんというのは母親のことではなく、息子の伴侶、お嫁さんのことです。
 山田さんはこの仮設住宅に、息子と孫とで住んでいます。
息子の嫁はもう一人の孫と、福島市のアパートに住んでいました。
 息子の家族がそんな風に別居生活をしていたのは、個人的な理由からではなく原発事故によってのことでした。
原発事故後、一家は小高から避難をしましたが仮設住宅ができた時に原町に職場があった息子は、山田さんと同じこの仮設住宅に入居しました。
お嫁さんが福島市のアパートからここに移らなかったのは、小学生の娘の健康を案じてのことでした。
男の子の孫も当初は福島市で母親と妹と一緒にいたのですが、中学を卒業して相馬高校に入学したことから、この仮設で父親と過ごすようになったのです。
福島市にも放射線量の高いところはあり、鹿島区のここの方が却って低かったりするのですが、そうした情報はしっかり伝わってはいなかったでしょう。
52歳、急性心不全だったそうです。
彼女の死も、原発事故関連死ではないでしょうか。

 紺野さんからは小高の自宅に帰ってからの暮らしを聞きました。
日常の買い物は、小高ではほとんど用が足りず原町まで出るということや、郵便物がなかなか届かず、10日以上もの遅配になっていることも聞きました。
空き家が多くなっていることや、どこに人が住んでいるのかわからないことなどで、郵便屋さんも配達業務に苦労しているようです。
しばらくして紺野さん夫婦は帰り仕度を始めましたが、紺野さんが杖を使って立ち上がるのを見て、ショックを受けました。
あんなに元気で溌剌と動いていた紺野さんだったのに。

◎徳雲さん
 久しぶりに小高の同慶寺をお訪ねし、田中徳雲さんにお会いしました。
以前に徳雲さんから、食用になる作物を耕作するのがダメならば、綿や麻を植えて綿花や麻で糸を紡ぎ布を織り、新しい地場産業にしていけたらと思っていらっしゃることをお聞きしていました。
でもその後、計画は進まず断ち消え状態だと伺っていました。
全く頓挫してしまったのか、それとも何か進展があるのかも伺いたくて、この日お訪ねしたのでした。
 この日に徳雲さんからお聞きしたことです。
 ●ガンジーさんに倣って
 4年前に檀家の農家さん3人と私で、綿と麻の畑をと考えた。
グループの中で一番熱かったのが私で、農家さんで一番情熱があった人は山形に避難し、農家のリーダーだった人は新潟に避難していた。
県も熱心ではなく、機が熟していなかったのだろう。
 県に行っても農政部ではなく、保健福祉部薬務課で、麻薬を取り締まる課が管轄窓口だった。
作物を作りたいのに畑の事など何もわからない警察が出向してきていて、「「口に入れるものは難しいので繊維を採るための作物だ」と訴えても、全く糠に釘状態で、いくら熱心に訴えても響かなかった。
最初から「あんたらが何を言っても許可は出さない。申請書を渡すつもりもない」と言うので、「では、他にどうすればいいのか?」と尋ねてもだんまりを決め込まれた。
 2、3回目には農政部の人と一緒に行ったが、農政部は「ケナフがいいのでは」などと言ってくれたが、ケナフを作った人もいるが生業を兼ねてやるには、ケナフは脆弱すぎるようだった。
管理が難しく、虫害もあった。
綿もやってみたが、三反やって9割絶滅し、1割はなんとか採れたが、それも製品には到底ならず、農家に言わせると「こんなのクズにもなんねぇ」というものだった。
ずっとここに住んでいて、朝晩畑を見回る状況にはなかった。
2年前に避難指示解除になり、やろうと思えばできる状況になったので、口に入れないもので復興を考えていきたいと思っていた。
 ところが今年になって井田川の農家の三浦さんという人が、綿と麻をやりたいと言い出し、「それなら徳雲さんが言っていたよ」ということになって、10日前に三浦さんに会った。
三浦さんに会ったとき、綿や麻をやりたいという人を待っていたのだと話した。
 三浦さんの考えを聞くと風車やメガソーラーを作り、それに綿や麻の畑をということだった。
風車はどんな風車かと聞くと、かなり大きいものだと言うので、それは時代に逆行していると思った。
「大きいものを作ろうとするから環境に負荷がかかるし、何かあったときに対処できないから、震災後の小高の本当の復興を考えるなら、なるべく送電しなくて良いように小さな発電所、水力でも風力でも、井田川なら井田川の発電所で井田川の世帯分を賄えるように、小高なら小高の行政区内の送電だけで良いように、小さな発電所にしたほうが良い。
そのほうが余計なコストもかからないし、何かあったときに強い。
大きい発電所を作って送電する事を考えるなら、メリットはないと思う」と話した。
 そのときは電力会社の人も一緒に来ていて。私がそう言ったのでみんながっかりしたようだった。
ところが三浦さんは、「将来は徳雲さんの言うようになるだろうが、段階的に考えたい。
そうなるまでの10年、20年を考えれば、何もしないわけにはいかない。
俺もあと20年くらいは元気にやっていけるから、その間にできる事をしておきたい」と言う。
 麻をやるならしっかりした壁で囲って監視カメラも何台か設置しなければならないから、設備投資に相当かかるが、麻畑と発電所を併設するなら全部を一つの事業と考えれば、ある程度の事業費は中央から下りるから、それに乗ってみるという三浦さんの考えも聞いて、風車についてはこれ以上余計な事は言わず、風車の脇で綿と麻とで一緒にやっていこうと思った。
三浦さんは私より一回り年長だが、柔軟な考え方で情熱を持っている人だ。
考え方で違う点もあるが、そこを互いに乗り越えてやっていこうと思う。
 私の今年のテーマは「調和」で、調和してやっていこうと思った。
麻もたくさんは作れなくても、自分の絡子(らくす。略式の袈裟)くらいは、自分で作りたいと思う。
ガンジーさんが言っていたように、自分の衣食住は自分で完結できるようにしていきたいというのが、お坊さんになった時からの自分の目標だった。
食に関しては震災前から7、8割はできていて、今は断念しているが、今年は土も入れ替えて畑もちゃんとやろうと思っている。
 畑はイノシシの掘り返しが酷いので、堀を作って電柵をしようと思う。
馬鈴薯など根菜類は難しいし豆もダメかなと思うが、ウアッパリ根菜類は作りたい。
線量を測りながら、やっていこうと思う。
仙台の友人も、土を入れ替えたら安心してできるようになったというので、私もそうしようと思う。
 食の次は着るもので、家を作るのはハードルが高いが、このパッチワークで作る藍染の小さな絡子派、自分で作りたい。
三浦さんとも、綿と麻の畑をぜひ一緒にやりましょうということで話し合った。
●檀家さんとともに
 徳雲さんのお話を伺っている間に、訪問客が相次いだ。
2011年の地震で、由緒あるこの古刹は少し歪みが生じている。
徳雲さんは建物はこのままでも凌げるのだからこのままでいいと思っていたが、檀家さんたちが「このままでは俺たちが死んだ後でどうなるか」と案じて修復したいと言う。
徳雲さんは「道元さんの言葉では『後のことは後の人に』とある」と伝えても、だんかさんたちには「やるだけやっぺ」という気持ちがあって、私もその思いに水を差すのはそこまでにして「じゃぁ、やりましょうか」と言ったら、みんなすごく元気な顔になった。
それで、「じゃぁ、私も頑張ります」ということになったところだという。
訪問客は寄付を持ってこられたのだった。
 徳雲さんはそんな経緯を話した後で、こんなことも話された。
●テーマは「調和」と「八分目」
 綿と麻作りも寺の修復も、ことが動き始めると予期せぬ動きもあるし、いろいろな人との関わりも出てくると、良い動きも厳しい動きもある。
でも、それもこれも私の今年のテーマである「調和」という目標で頑張っていこうと思うし、もう一つのテーマである「八分目」でやっていこうと思っている。
 今年も春と秋、マルシェを2回やろうと思う。
去年も春秋の2回やったが、年2回くらいがちょうど良いだろう。
その前は2ヶ月に1度やっていたので大変だったが、定着するまでは重ねた方が良いと思いやってきた。
それがあったお陰で、檀家さんたちも元気になってくれたと思う。
おにぎりでも豚汁でもちょっと何か作って、「あ。自分たちにも小遣い稼ぎができる」というのを判ってもらえただけでも良かったと思っている。
好評だったのが柏餅で、あっという間に売り切れた。
地元の人に出店してもらいたいと思ってやってきたが、お店を出した方が楽しいということを感じてもらえたと思う。

*久しぶりに徳雲さんにお目にかかれて、綿と麻の畑のこともお聞きできました。
いつもながら清々しい佇まいの徳雲さんでした。
寺内塚合仮設住宅をおいとまする時に「これから同慶寺に行きます」と言うと、仮設のばあちゃんたちは「徳雲さんはいい人だよねぇ」と、しみじみ言ったのでした。       

いちえ






TOPへ戻る