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2018年5月1日号「沖縄行④4月18日」

 前日の雨はすっかり上がって、爽やかに晴れた空でした。
小鳥の声も聞こえて、心地よく風が吹いていました。
宿の備品の鍋で道子さんが持ってきた“おやき”を蒸し、私が持参したパンと椏久里のコーヒーでの朝ごはんは、ウッドデッキで食べました。
 外気に身を置いての朝ごはん、ずいぶん久しぶりのことでした。
庭の栴檀の葉が、朝の風にそよいでいました。
保育士だった頃に子どもたちに歌った歌が、口をついて出ました。
 ♪うちのせんだんのき セミがきてなくよ
  どんどんしゃんしゃん どんしゃんしゃん
     セミがきてなかんときゃ ビッキ(蛙)がきてなくよ
     どんどんしゃんしゃん どんしゃんしゃん♪
長野で暮らしていた時には地元の仲間たちと〈わらべ歌の会〉をやっていた道子さんが、「あ、わらべ歌?」と言い、「そう」と答えながら過ぎた日を思い出していました。
 さぁ、感傷を捨てて出発の時間です。
最後の目的地は伊江島です。
●フェリーで
 本部港でフェリーの往復乗船券を買いました。
チケットは、往路720円・復路650円の2枚綴りです。
行きと帰りで値段が違うわけが知りたくて、窓口の女性に尋ねました。
「お帰りの乗船料は割引価格にしています」答えを聞いて、思わず「あら、ありがとうございます」と言ったのでした。
 乗船時のアナウンスで、風で帽子が飛ばされることがあるからと注意を促されましたが、強い風もなく凪いだ海でした。
対岸の本部から白い塔のようなものが2本見えていたのですが、船が伊江島に近ずいていくとそれは風車で、全部で4基建っているのがわかりました。
 沖縄滞在最終日のこの日は伊江島に行ってから那覇に戻り、その日のうちに帰京の予定です。
本部港を9時に出るフェリーに乗って、反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」のある「わびあいの里」を訪ねるだけで時間はいっぱいですから、1時のフェリーで戻ります。
伊江港から「わびあいの里」まではタクシーで行くつもりですが、乗船してから売店の人に聞くと、島にタクシーは1台だけだから予約しておいたほうがいいと言われました。
タクシーの電話番号を教えてもらい、9時半に港に迎えに来てくれるよう予約をしました。
 伊江島は東部にポコンと岩山が突起している他は、平坦な島です。
「伊江島に行ったら、タッチュウ(城山・グスク山)に登ってくると良いですよ。島全体が一望です」と教えてくれた人もいましたが、残念ながら今回はその余裕はありません。
●タバコの花
 伊江港に迎えに出てくれたタクシーはワゴン型で、ドアが開くとステップが降りてくるので足が弱った高齢者でも利用しやすい車体でした。
この1台が、自分で運転できない島人の足になっているのでしょうか。
伊江島で生まれ育ったという運転手の野原さんに、おじいさんやおばあさん、両親から戦争中や戦後のことをお聞きになって育ったのですかと尋ねると、「ええ、たくさん聞きましたよ」と答えが返りました。
 窓の外にはタバコ畑が広がり、花を咲かせた株も多くありました。
子どもの頃のいっとき暮らしていた場所は、東京でもまだ畑が広がる地域でした。
家業が農家の級友もいました。
「公社が来て、タバコの葉っぱを一枚一枚数えていくんだよ」と、彼女から聞いたことがありました。
専売公社はJT(日本たばこ産業株式会社)になりましたが、公社時代同様に製造独占権を持っています。
すると今でも、生産者の畑に行って葉の枚数を数えているのでしょうか?
花が咲いてしまうと本質が落ちるので、花芽を摘み採る作物も多いですがタバコはどうなのでしょう?
●大地は誰のものなのか?
 野原さんは、伊江島の土地有効利用率は100パーセントで、タバコの栽培面積が最大で次は電照菊だと教えてくれました。
それを聞いて、では風力発電での電力も使われるのか尋ねると、風力発電はまだ稼働しておらず来年4月から稼働だということと、電照菊は深夜電力を使うので風力が稼働してもそれは関係ないと教えてくれました。
作物はこの他に小麦やピーナツの栽培、黒毛和牛の飼育など牧畜も盛んだそうです。
島の西部の基地内は牧草地で、土・日のみ農民は申請して牧草刈りに入ることができるといいます。
牧草地の農民とその縁者も入域を許可されますが、外部のものは入れないそうです。
牧草刈り以外の目的での入域は許されず、また土・日でも射撃演習があるときは入れず、そこに入る時には、みな作業着でないといけないそうです。
野原さんの家は農家ではなく、お父さんは大工さんだったそうですが、親戚に畜産農家がいて、野原さんも一度だけ親戚の人と一緒に作業着を着て牧草刈りに基地内に入ったことがあると言いました。
 そんな話を聞けば、チベットを思います。
自分の住む行政区内から別の行政区に行くには、申請して通行許可証を得なければ移動できないチベットの現状、自分たちの土地を自由に行き来できないチベットの今を思います。
●「わびあいの里」
 沖縄戦終結から39年目の1984年に開設された「わびあいの里」は家庭も社会も国も、平和で豊かな暮らしにはわびあいの心によってしか実現しないという阿波根昌鴻さんの信念から名付けられた施設です。
沖縄の人たちから、阿波根昌鴻さんの名前はよく聞いています。
徹底的に非暴力で闘った先人として語り継がれている人の施設を訪ねたいと、予てから願っていました。
本で読み、話で聞いていた阿波根昌鴻さんの作ったその「わびあいの里」を、ようやく訪ねることができました。
 「わびあいの里」には、「やすらぎの家」と「ヌチドゥタカラの家」の二つの施設があります。
入館の手続きをして、「ヌチドゥタカラの家」に入りました。
建物正面の白壁には、黒々と文字が浮かんでいました。
入口の左側には「反戦平和資料館」の看板があり、壁には次の言葉が書かれていました。
「すべて剣をとる者は
  剣にてほろぶ(聖書)
 基地を持つ国は
   基地で滅び
 核を持つ国は
   核で滅ぶ(歴史)」
右側には「ヌチドゥタカラの家」の看板と、壁には次の言葉がありました。
「平和とは人間の生命を
尊ぶことです。この家には
人間の生命を虫けらのように
粗末にした戦争の数々の
遺品と二度と再び人間の
生命が粗末にされない為に
生命を大切にした人々
また生命の尊さを求めて
やまない人々の願いを
展示してあります。
  戦さ世(ゆ)んしまち
  みるく世(ゆ)ややがて
  嘆(なじ)くな臣下命(ぬち)ど(ぅ)宝」
 中に入るとそこは文字通り、反戦平和資料の様々が詰まった博物館です。
戦争中の兵器の残骸や兵士の服、戦時下の生活用品や遺品が展示され、それらは戦時中の生活を物語る資料でした。
また米軍統治下の土地闘争の資料や、復帰後の平和運動の連帯の寄せ書き幟などが展示されていました。
展示物は全て、手にとったり触ってみたりもできるように、ケースの中での展示ではなく無造作にむき出しのまま置かれていました。
米軍による土地の収奪に対して「伊江島土地を守る会」を組織し、徹底した非暴力で闘い、“沖縄のガンジー”と呼ばれた阿波根さんの思いが展示品や展示法にも溢れているようでした。
 資料館を出て、隣の「やすらぎの家」に行きました。
障害のある人もない人も、お年寄りも子どもも、互いに助け合い交流を持ち、障害を持つ人に仕事が提供されるような福祉平和村づくりを目指していた阿波根さんは、交流と平和への学習の場として「やすらぎの家」をつくったのです。
そこで「わびあいの里」館長の、謝花(じゃはな)悦子さんにお話をお聞きしました。
謝花さんは阿波根さんの秘書を務めていた方です。
●謝花悦子さんの話
 謝花さんは1937年に伊江島で生まれました。
兵隊で中国大陸に行っていた父親は1944年に帰国すると、この島も危ないからと悦子さんたち家族を本島の今帰仁に疎開させましたが、3日間だけの疎開で伊江島に戻りました。
1945年米軍が上陸し父は戦死しましたが、その頃の謝花さんは発病していて死ぬしかないような状態で入院先の病院から戻されていました。
8歳の少女が瀕死の状態でいるのを見た阿波根さんが、本島の病院に連れて行き入院させてくれたおかげで、謝花さんは命を取り留めたのでした。
 1963年米軍による土地の収奪に抗して、「伊江島土地を守る会」が組織され阿波根さんが会長になり謝花さんは、阿波根さんの秘書になりました。
そして1984年に阿波根さんと共にヌチドゥタカラの家を建設し、2002年に阿波根さんが逝去された後は館長を務めています。
謝花さんが聞かせてくれた、阿波根昌鴻さんです。
「阿波根は1901年に本部町で生まれ、17才の時にキリスト教徒となり、成人後に伊江島へ渡って、そこで結婚しました。
1925年にキューバへ移民しますがその後ペルーヘ移り、1934年に帰国しました。
帰国後京都の一燈園や沼津で学んだ後に伊江島へ戻って、デンマーク式農民学校建設を
目指して伊江島の西北の土地を買いましたが、そこは草も木も無い植物が育たない砂漠みたいな土地でした。
 阿波根はそこに様々な草の種を蒔きましたが、どれも育たずみんな枯れました。
けれど一種類だけ育った草があったのでその草の種を蒔き、それが育って一面の草原になりました。
すると阿波根は、今度はそこにいろんな木を植えました。
どれもほとんど枯れて育たなかったですが、根付いて育った木もありました。
今度はその木を海風が吹いてくる側に風除けに植えて、草地を畑に変えていきました。
 阿波根がその土地を買って草の種を蒔いたり木を植えたりしていた頃、人々は『阿波根は気狂いだ。頭がおかしいんじゃないか』などと言いましたが、阿波根はそこを植物が育つ土地に変えて、そこに農民学校を建設しようとしたのです。
 阿波根が目指した学校は年齢制限がない、試験もない、お金もいらない、その3つが無い学校でした。
息子が校長になってオープンに目処をつけたのですが、米軍が上陸した沖縄戦で建設中の学校は消失して、一人息子も戦死したのです。
 戦争が終わって沖縄は米軍統治下になり、完全武装の米兵が土地接収に伊江島に上陸しブルドーザーで家屋を壊し住民は強制収容されました。
伊江島の窮状を訴えようと“乞食行進”をし、“伊江島土地を守る会”を設立しました。
 ベトナム戦争が始まると、土地闘争だけでなくベトナム戦争反対運動もやっていくようになりました。
1966年に米軍は2基のホークミサイルを陸揚げして、住民は反対したのに村長が許可をしてホーク基地が作られようとしました。
けれども建設予定地域には村長の土地は一坪も無いので、一坪の地主でも無い村長が許可をしても無効だと言って闘争し、ミサイルを撤去させました。
 阿波根の思想の根っこには、土地が無ければ生きられない、戦争は二度とやってはいけない、戦争の演習ために土地を取り上げるのには反対するという思いがありました。
自分が得をすることではなく、相手の得になるかどうかを大事に考えました。
戦争は相手の得にもならない、誰の得にもならないと反対しました。
●さすがの道子さん
 もっともっと話を伺いたかったのですが、帰りの時間に急かされて謝花さんにお礼を言って失礼しました。
でも帰りしなに道子さん、「ゆかるひ」でのWomenn’s Voiceで謝花さんにお話ししていただきたいと交渉していました。
さすがの道子さんです。
 来るときに乗った野原さんのタクシーを呼んで伊江港に行き、1時のフェリーで本部港へ戻りました。
●はまうり
 そこからはまた道子さんの車で那覇へ戻りますが、この日は旧暦の3月3日でした。
沖縄の人たちは旧暦で日々の行事を過ごします。
旧暦3月3日はひな祭り、女の子の節句で浜下り(はまうり)の日です。
大潮のこの日にお弁当を持って浜に出て、貝や海藻を採ったり海水に足を浸して身を清めたりするのです。
 私たちも途中で車を止めて浜に下り、道子さんは素足になって海に歩み入り、私は浜辺で孫たちのお土産にする貝殻を拾いました。
私たちの他にも、海辺で貝を採っている人たちの姿がありました。
 こうした風習を大事にし、それが今も生きている沖縄の暮らしにも触れた今回の沖縄行でした。
独特のチベット暦での年中行事を大事に守ろうとするチベットの人々、津波・原発の災害で住民が戻らなくなっても地元の伝統行事を伝えていこうとしている福島人たち。
「ゆかるひ」でチベットと福島を語ることで始まった3泊4日の沖縄行は、“はまうり”でまたチベットと福島へ思いを重ねる旅でした。             

いちえ


2018年4月29日号「沖縄行③4月17日」

「ゆかるひ」は、火曜日と水曜日が休業です。
予め道子さんに「その二日間は、行きたいところがあったら案内します」と言われていたので、高江と伊江島をリクエストしておいたのです。

◎高江へ
●雨のドライブ
 17日(火)は、朝から雨が降っていました。
それも時々は風も伴う激しい吹き降りになって、こんな天気の日の運転は気疲れすることと思いますが、運転のできない私は運転席の道子さんと交代することができません。
申し訳なく思いながら、助手席にいました。
南北に長い沖縄本島の地図を頭に描きながら、通り過ぎる道路標識を眺めて行きました。
「うるま市石川」と目にして、2年前の暴行殺人事件を思い起こしました。
私はこうして旅行に来てその地に立って“思い起こす”のですが、沖縄で暮らす人たちにとっては“思い起こす”のではなく、それが日常にある感覚なのだと考えると、改めて沖縄の状況に思い至ります。
 途中、海辺の小さな駐車場に車を止めて、お昼にしました。
雨降りなので車中で、道子さんお手製のお弁当をいただきました。
沖縄料理のじゅうしい(炊き込み御飯)のおにぎりと、長野の伝統食、おやきです。
おやきは「ゆかるひ」メニューにもあり、道子さんは食の分野でも沖縄と長野を結んでいるのです。
どちらも美味しく食べている私に、道子さんは言いました。
「長野だと売っているおやきは蒸しているだけだけど、私は最初に焼いてから蒸すの。“おやき”だから、焼き目がないとおやきにならないでしょう?」
●『標的の村』
 ポレポレ東中野で三上智恵さんの映画『標的の村』を見たのは、2013年9月のことでした。
強く心揺さぶられ、以来「高江に行きたい」と思っていた私でした。
行けぬままにネットの情報で現地の様子を知るだけで、時が過ぎて行きました。
道子さんが家族と暮らす長野を単身で離れて、故郷の沖縄へ戻ろうと決意したのも、この映画が引き金になってのことだと言います。
 そして2016年7月22日。
前日の21日が参議院選挙投票日で、沖縄の民意がはっきりと示された日の翌日です。
政府は選りに選って、用意周到にこの日を定めて、2年間停止していた北部訓練場ヘリパッド工事を再開したのです。
現地に思い馳せながら、支援物資やカンパを送るしかできずにいました。
 沖縄の人たちや支援に駆けつけた人たちを暴力的に強制排除しながら工事は進められ、山城さんらが逮捕され負傷者も多数出ました。
キャロライン・ケネディ駐日大使が離任する12月に間に合わせる為に、突貫工事でヘリパッド建設は進められたのです。
12月16日工事完了、そして22日北訓練場の部分返還式が執り行われましたが、式典への抗議集会も行われ、翁長県知事は式典を欠席しました。
 2017年になっても抗議行動は続き、違法工事も明らかにされてきましたが、7月に入ると連日のように米軍ヘリの深夜訓練が続きオスプレイも離着陸するようになりました。
騒音で体調を崩し、離村して避難する人たちも出てきました。
そうした情報を新聞やネットで読み、また東京で催される集会に参加して思いを馳せながらも、高江に行くことはできずにいました。
ようやく、今回行くことができたのでした。
●テントで
 朝から本降りの雨でしたから誰もいないかと思っていたら、テントの中に人影が見えました。
中に入って、お話をお聞きしました。
平日には毎日9時から5時まで、お当番が交代でテントに詰めていて、火曜日のこの日は清水暁さんがお当番でした。
早速訪問者名簿を差し出されて名前を記入しましたが、前日の欄には10名ほどの名前が書かれていました。
 清水さんは高江に住み始めて11年ですが、沖縄が好きで本を読んだりエイサーをやったりしていた時に高江の安次嶺さん家族と知り合い、子どもの子守をしないかという誘いを受けて、移り住んだそうです。
私は安次嶺さんに会ったことはありませんが『標的の村』で一家の暮らしぶりを見ていたので、清水さんが安次嶺さんの誘いにすぐに乗った気持ちは判るように思いました。
 安次嶺さん夫婦も以前は嘉手納に住んでいたのですが、やんばるの森の中で暮らしながら子どもたちを育てたいと思い3年ほどかけて場所を探し、高江の土地と出会い移住したそうです。
それが映画に出てきたあの場所でした。
清水さんが高江に住み始めたのは、安次嶺さん一家が移住してから4年後だったそうです。
 清水さんは高江での座り込みのこれまでを、地図を示しながら話してくれました。
このテントに詰めるお当番は曜日によって係りを決めているそうですが、平啓子さんがお当番の月曜日、儀保昇さんの水曜日は訪問者が多いそうです。
平さんの名前は疎開船対馬丸の生き証人として記憶にありましたし、儀保さんは雑誌「暮らしの手帖」で読んだ記憶がありました。
儀保さんは農薬を使わない不耕起栽培、ヤギや鶏をゲージに入れずに飼うなど、農業と反基地活動の平和運動とを一体のものとして暮らしている人です。
 道子さんが「お当番の交代要員に時々私も来ようかしら。あ、でも私は清水さんみたいに上手に説明できないから、ダメか」と言うと、清水さんは「道子さんがわかることを話してくれたらいいのです。詳しく知りたい人には、ここにある本を読んで貰えたらいいのです」と言い、どうやら道子さんが臨時のお当番になるのも実現しそうです。
道子さんは高江の座り込みにこれまで何度か来ているし、祖母が高江にいたので子どもの頃には度々高江に遊びに来ていたと言います。
テントのお当番も少ない人数で交代で当たっているようですから、たまにこうして臨時に受け持ってくれる人がいれば、いつもの人たちも休むことができるでしょう。
こんなことを咄嗟に思いついて、即座に申し入れて実現させようとする道子さんの行動力に、感心しました。
●不動の警備員
 オスプレイ離発着訓練用のヘリパッドが建設された北部訓練場は、このテントがある場所の他にも幾つかゲートがあります。
ゲートの内と外に派警備員が立っています。
ここに来るまでに通って来た道にも2ヶ所のゲートがあり、どちらも内に2人、外に2人と4人ずつの警備員が立っていました。
このゲートはどちらも現在は使われていないようですが、それでもこうして警備員が監視に立っています。
 テントの先にはもっと大きなゲートがあり、そちらはまだ工事車両が出入りする場所らしく、より厳重な警備で柵の内に2人、外には5人の要員です。
どこのゲートの警備員もビニールの上下の雨具を着て、両足を開いて後手に立ち、微動だにせずに前方を向いています。
激しい吹き降りで顔にも容赦なくかかる雨を、まるで物ともせずに木偶のように立っている様は真に不気味でした。
 ゲートが何ヶ所あるのか清水さんからは聞かずじまいでしたが、この日私が見た3ヶ所よりももっと多いことは確かです。
警備員は30分で交代するそうですが、一人が1日に何度立つのかも聞き漏らしました。けれどもはっきりと聞いたことは、1日の警備費用は1,800万円に上るのだそうです。
これを聞いて帰郷してから数日後、警備会社が費用を実際よりも上乗せして不正に請求していたとニュースが報じていました。
●「ちっちゃなお宿 風の丘」
 雨だったのであたりを歩いてみることはできずにテントを訪ねただけでしたが、高江に行くことができて良かったです。
車窓から森の木々を見て、ゲートの警備員の姿からヘリパッド建設のために伐採されコンクリートで固められた大地を思い浮かべました。
ここに来たことで、しっかりと思い浮かべることができました。
 そして、道子さんがこの日の宿を取ってくれていた本部(もとぶ)に向かいました。
朝から一日中降っていた雨も夕方には上がり、本部の「ちっちゃなお宿 風の丘」に着いた時には、明るい夕方の空でした。
そこは木造のコテージ風の宿で、広いウッドデッキの向こうに手が届くほど間近に、明日行く予定の伊江島が見えました。                   

いちえ  


2018年4月27日号「沖縄行②4月16日」

 政府が辺野古埋め立ての護岸工事に着手して1年、移設工事阻止の「奇跡の大行動」が23日から始まっています。
28日までの6日間、毎日500人で座り込もうと呼びかけられての、抗議行動です。
海上でもカヌー隊が多く出て抗議を続けています。
増員された機動隊や海保による排除の仕方も手荒で、けが人や逮捕者も出ているようです。
現地の様子はFBやツィッターなどでご覧になっているかと思います。
私も、いたたまれない思いで情報を見ています。
500分の1にもなれずに、東京で歯噛みしています。
 これはその1週間前の16日の辺野古でのことです。

◎辺野古へ
●辺野古バス
 16日(月)は、辺野古バスで、辺野古へ行きました。
9時の辺野古バス出発地点の県庁前けんみん広場は、「ゆかるひ」から徒歩数分です。
このバスは「平和市民連絡会」「オール沖縄那覇の会」「島ぐるみ会議」が運営していて、乗車賃は定額ではなく「参加費カンパ制」です。
2年前には長野の友人達と一緒に乗りましたが、この日は一人で乗車です。
8時半にけんみん広場に行って受付を済ませ、乗車しました。
9時に出発したバスは途中の那覇インター前バス停で、そこから乗車の参加者を拾い、伊芸サービスエリアで一度トイレ休憩をして、キャンプシュワブゲート前につきました。
 到着した時には、1度目の土砂搬入阻止座り込みは既に終わっている時刻だったので、座り込みテントに掲示されている掲示物を読んでいたのです。
するとバス乗車の手続きしてくださった平和市民連絡会の佐藤さんが、「次の座り込みまで時間がありますから、船に乗ってみますか?」と誘ってくださったのです。
佐藤さんと埼玉県から参加の男性と3人で、ボランティアスタッフの方が運転する車で浜のテント場へ行きました。
座り込みのキャンプシュワブゲート前はトイレがありませんから、トイレや昼食の買い出しなどの際にはボランティアスタッフが車を出してくれています。
私たちはその車で、浜へ行ったのでした。
●大浦湾はひときわ深いブルーの海水だった
 2年前に来た時には名護の友人の案内で瀬嵩の小高い丘から大浦湾を見下ろし、それから浜のテント場へ行ったのでした。
それは2016年5月、まだ埋め立て工事は着工されていない時でした。
その時に瀬崇から見下ろした大浦湾は、水の色がひときわ深いブルーで、その美しい湾をオレンジ色のフロートが囲んでいました。
フロートの内側を埋め立てるという計画です。
フロートの外に長島、平島と二つの島が浮かび、そのあたりの海水は淡いブルー。
そんなことからも、湾が深いことが知れました。
この海を基地建設のために埋め立てることなど、決して許せないと思ったのでした。
●海底には活断層があり地盤は軟弱
 瀬嵩の丘から大浦湾を見た1年後の2017年4月、政府は沖縄の民意を無視して辺野古埋め立ての護岸工事に着手しました。
それからの私は、工事の進捗の様子を現地で抗議行動を続けている目取真俊さんの「海鳴りの島から」や、北上田毅さんの「チョイさんの沖縄日記」、お二人のブログで読んでいました。
大浦湾の海底活断層や地盤が軟弱であることなどが書かれていて、埋め立て工事は予定通り進まず、工事変更手続きも経ずに予定を変更しての違法工事が進められていることも読んでいました。
そうまでしても政府が強引に工事を進めるのは、「工事は進んでいるから、今更止めることはできない」と、県民の阻止行動をあきらめさせるためだという声もありました。
 そうした報道を読んで私は、活断層があり地盤が軟弱なら、埋め立てはできないだろうから、いずれ諦めるのは政府の方ではないかと思い、県民が阻止行動を諦めることはないだろうと思っていたのです。
●海上から見た大浦湾
 瀬嵩から大浦湾を見下ろしてから2年後のこの日、私は海上から大浦湾を見たのです。
浜のテント場の前から乗ったのは、5人乗りの小さな船でした。
船を操縦するのはコンちゃんと名乗る若い男性で、もう一人年配の男性がコンちゃんの師匠株のようでした。
出発してすぐに、海保のエンジン付きのゴムボートが、カヌーを3艘引いて向こうから来るのにすれ違いました。
ゴムボートの上には海上保安官ではない人、抗議行動のカヌー隊メンバーの姿もありました。
すっかりうなだれているウェットスーツのカヌー隊の姿に向かって、コンちゃんは「がんばれ!」と声をかけて過ぎました。
 船から陸の方を見れば、護岸はコンクリートブロックが壁のように並べられ工事のために作られた道路を、ダンプカーが行き来する様が見えました。
護岸の先端では、砕石が積み上げられていく様が見えました。
この様を見て私は、「県民の阻止行動を諦めさせるため」という政府の思惑に心から憤りを覚えました。
民意を踏みにじって強行に工事が進められていく様に、「心が折れる」と言った現地の人の言葉が、深く深く胸に刺さりました。
 大潮の時期でしょうか、海水はかなり浅く海保はボートから降りて腰まで海水に浸り、立ち姿で見張っていました。
果敢にフロートを越えようとするカヌーも多勢に無勢で捕らえられ、私たちはそれを助けることもできませんでした。
「オイルフェンスから離れてください。立ち入り禁止区域です。強制排除でなければ直ちに逮捕します」
海上に響くアナウンスは、海保から発せられるものではなく警備会社の船からでした。
 コンちゃんにお礼を行って船を降り、浜の第2テントに寄って話を聞きました。
この日は13艘のカヌーが出たそうですが毎日20艘は欲しいと、そこにいたウェットスーツの男性が言いました。
日に焼けているので年よりも老けて見えるのかもしれませんが、60代後半と見受けられるその人は、海保の乱暴な妨害行動で骨折入院し、少し前に退院して再びカヌーに乗っていると言いました。
●座り込み
 この日は500人態勢で座り込みが呼びかけられている23日(月)からの抗議行動の、ちょうど一週間前の月曜日でした。
海から戻った私たち3人は、テントで待機していた人たちと共にキャンプシュワブゲート前での、この日2回目の座り込みに参加しました。
月曜日は県外の参加者が多いということですが、過半数が地元の方でした。
 座り込みは総勢30人ほどだったでしょうか、対して機動隊はその倍は居たでしょう。
「辺野古に基地は要らない」プラカードを持って、私もそこに座りました。
座った私達を端から、機動隊員は4人がかりでごぼう抜きにしていきました。
私もごぼう抜きされて、通称(?)檻と呼ばれるフェンスの内に運ばれました。
すぐに私はプラカードを掲げてフェンスの内側に立ち、目の前の機動隊員と向かい合いました。
向きあって立つのは、ニキビが目立つ若い隊員でした。
こちらを見た彼に、「こんなの、悲しいね」と問いかけると、彼は一瞬目を瞬かせたと思うと、そぐにその目を逸らせました。
彼はどんな気持ちでここに立っているのだろうと、その胸の内を覗きたい思いで私は彼の顔を見つめていました。
逸らせた目が時折戻って、また目が合います。
“こんな若者がこんなことをさせられて”と思うと、悔しくて悲しくて私はつい涙が滲み「悲しいよね」と、また言いました。
また目を逸らせた彼に私は、「悲しいよね」と問いかけ続けました。
 国道を向こうから工事車両がやってくるのが見えて、私達は檻の後方から出て道路脇に立ち並び、機動隊もまた道路を挟んで対峙して立ちました。
●工事車両の列
 ダンプカーの列が続いて、ゲートの内に吸い込まれていきます。
その後から今度は、コンクリートミキサー車の車列が続きます。
道路の右側からも左側からも来る工事車両は、警備会社の職員に誘導されてゲートの内に入って行きました。
その数、ダンプカーとミキサー車合わせて数10台。
つい先ほど海上から見た工事の光景を思い浮かべながら、運転席から見えるようにプラカードを掲げましたが、運転する人は誰一人としてプラカードに目を向けることはありませんでした。
 この日に見たコンクリートミキサー車は全て白ナンバーでしたが、ダンプカーは緑がほとんどでしたが、中には白ナンバーもありました。
車のナンバープレートの色は、緑色は営業用車で白は自家用車、商用車の筈です。
ダンプカーが工事会社から請け負った下請け会社のものなら緑ナンバーの筈ですが、白ナンバーということは自社の車両なのでしょうか?
 これは大きな疑問です。
下請け会社が、潜りに孫請けの個人営業を雇ってのことではないのでしょうか。
プラカードを掲げながら私は、若い機動隊員に聞きました。
「白ナンバーのダンプカーが行きましたが、あれは違反車ではないのですか?」彼は一瞬驚いた顔を見せて「危ないですから車道に出ないでください」と答えただけでした。
突然私が話しかけたから驚いたのかもしれませんが、もし言葉が耳に届いたのなら、工事が違法に行われていないかと、自身で調べて欲しいと思いました。
工事を急ぐあまり下請け会社の車両だけでは足りずに、申請許可を受けないまま下請け会社が個人を孫請けに雇っているのではないでしょうか。
 この日2回目の土砂搬入を終えて、車列はまたゲートから出て行きました。
出て行く車列にもプラカードを掲げて抗議の意を示しましたが、運転席からプラカードに目を向ける人はいませんでした。
●座り込みテントで
 次の車両搬入時刻まで私たちはテントに戻り、お昼を食べました。
テントの正面には、島袋文子さんが椅子に座っていました。
お元気そうで、嬉しいことでした。
みんなが食べ終わった頃に、佐藤さんがマイクを持って前に立つと「県外から参加された方、いかがでしたか?」と一緒に海に行った埼玉の男性にマイクを向けました。
彼は、「ニュースなどで読んだり映像を見たりしていたが、実際にその場に立ってリアルに現場を感じた」と、感想を述べました。
 次にマイクを持ったのは40代くらいの女性でした。
「沖縄で生まれ育ったが、高校卒業後に沖縄を出て内地にしばらく居た後でアメリカに渡り、現在アメリカの大学で教えている。教え子の中にキャンプシュワブにいたことがあるという女子学生がいるが、彼女はシングルマザーだ。
彼女は米軍基地があるから日本が守られていると言う。
私は沖縄出身であることを告げ、『あなたを責めるわけでは決してないけれど、沖縄に基地はいらないというのが沖縄人の気持ちだ』と伝えた。
在米日本人の中にも、オスプレイに反対するなとか、米軍基地に反対するなという人たちがいる」と話しました。
 現地の女性が言いました。
「戦争が終わった年に生まれた私は、戦争を知らない。
だが私は、フェンスの無い沖縄も知らない。
フェンスの無い沖縄を作りたい。
フェンスがある限り、自由は無い。
阿波根昌鴻さんは『対する相手には会話を。暴言を吐くと暴力が返ってくる』と言った。
だから私は、機動隊のちょっと偉そうな人に話しかける。
手を取って、肩を抱いて『基地が無い方がいいよね』と話しかける。
本当かどうか判らないけれど、『定年退職したら、僕もこっちに立つよ』と言った人もいる。
 これまでの基地は米軍の強制接収だったが、今の基地は日本政府の強制接収だ。
出来上がったら日米共同使用になる。
米軍だけなら基地は無くなる可能性もあるが、これでは米軍が居なくなっても基地は無くならない。
戦争体験者の抱いている思いは、今起きていることは戦争につながるという実感をもっている」と、現実に那覇空港が半分以上が自衛隊が使用していることや先島諸島への自衛隊基地建設にも触れ、それらの基地が出来上がったら自衛隊の出撃基地になる恐れを話しました。
 私にマイクがきて「ゆかるひ」でチベットと福島を話したこと、2年前にここにきた時に見た大浦湾とこの日に海上から見た大浦湾のことを話しました。
 前に辺野古にきた時にも歌を歌った伊集さんが前に出て、カラオケの伴奏で《沖縄よどこへ行く》を歌いました。
    島をたがやすように 艦砲射撃の雨が降り
    本当の敵は誰なのか 尊い命は帰らない
    …
歌に乗せて、沖縄戦から現代までの沖縄の歴史を語る歌でした。
「もう一曲歌いましょうか」という伊集さんに、私は《喜瀬武原(きせんばる)》をリクエストしました。
 喜瀬武原闘争について私が知ったのは、参議院議員の糸数慶子さんのお話からでした。
復帰直後に始まった米軍の実弾砲撃演習阻止の闘いの様子を想い浮かべ、喜瀬武原(きせんばる)という響きが強く胸に残りました。
2年前に来た辺野古で伊集さんがこの歌を歌うのを聞いて、その旋律がまた胸に残りました。
     喜瀬武原  作詞/作曲:海勢頭豊
   喜瀬武原 陽は落ちて 月が昇る頃
   君は どこにいるのか 姿も見せず
   風が 泣いている 山が泣いている
   皆が 泣いている 母が泣いている
      喜瀬武原 水清き 花のふるさとに
      嵐がやってくる 夜明けにやってくる
      風が呼んでいる 山が呼んでいる
      皆が呼んでいる 母が呼んでいる
        闘い疲れて ふるさとの山に
        君はどこにいるのか 姿も見せず
    喜瀬武原 空高く のろしよ燃え上がれ
    平和の祈りこめて のろしよ燃え上がれ
    歌が聞こえるよ はるかな喜瀬武原
    皆の歌声は はるかな喜瀬武原
        闘い疲れて 家路をたどりゃ
        友の歌声が 心に残る
●再び座り込み
 3時から、また土砂搬入阻止に座り込みました。
ごぼう抜きされて、またプラカードを掲げて道路脇に立ちました。
来る日も、来る日も、こうして抗議行動を続けている思いを踏みにじり、工事は進められている…。
「心が折れる」、それでも諦めず座り込み、歌い、抗議の意思を示し続ける。
「不屈」沖縄の人たちから学び、私も抗い続けようと思います。

 帰りも辺野古バスで那覇に戻りました。
県庁前けんみん広場で降りると、外は雨でした。          

いちえ


2018年4月23日号「沖縄行①」

 4月15日〜18日の3泊4日で沖縄に行ってきました。
今回の沖縄訪問のきっかけは、那覇でブックカフェ&ホール「ゆかるひ」を運営している友人の道子さんからのお誘いでした。
道子さんは「ゆかるひ」のホールで「Women’s Voice リレートーク」を主催していますが、そこでチベットと福島のことを話して欲しいと声をかけて下さったのです。
私はチベットに通いながら、沖縄に想いを馳せることがしばしばありました。
チベットと沖縄が抱えている問題は、通底していると思えてならないのです。
そして3.11後に福島に通いだしてからは、福島と沖縄もまた、問題は同根だと思えるのです。
私の中では、チベット、福島、沖縄はひと繋がりに感じられてなりません。
だから道子さんからの声かけに、嬉しく乗っての今回の沖縄行でした。

◎15日「ゆかるひ」でチベットと福島を語る
●「ゆかるひ」のこと
 道子さんが嫁ぎ先の長野から、生まれ故郷の那覇へ戻ったのは3年前。
沖縄の民意を踏みにじって新基地建設が強引に進められていく状況にいたたまれなくなった道子さんは、かつて自身が営んでいた児童書店「夢空間」の跡地にみんなが繋がれる場所を作りたいと考えてのことでした。
道子さんの思いを家族も受け止め、道子さんはいわば単身赴任のような形で那覇へ戻ったのです。
そして作ったのが「ゆかるひ」です。
 私は2年前の5月に長野の友人たちと沖縄に行き、道子さんを訪ねました。
その時はまだそこはがらんどうの空間で、道子さんがその空間をどのようにブックカフェとホールに作っていくのか、構想を聞かせてもらったのでした。
その時の道子さんが言った「名前は『ゆかるひ』。沖縄の言葉で良き日という意味なの」に、私たちは皆「ああ、いい名前ね」と頷いたのでした。
それからの道子さんのFBには、「ゆかるひ」がブックカフェ&ホールとして出来上がっていく様子が折々に投稿されていきました。
そして空間としての「ゆかるひ」が出来上がると、そこでの活動の様子がFBに乗るようになりました。
定期的に持たれている芭蕉布の糸紡ぎから高機で布を織る講習会、ホールでの様々な催しは目白押しにあります。
それは例えば、ベージックインカムの勉強会、ライブ、映画上映会、型染め作家の展示会、ファシリテーションの腕と心をあげるワークショップ、講演会などなどです。
カフェで出す食べ物のメニューには沖縄と長野の伝統食などもあり、FBを読みながら「ゆかるひ」が近くにあったら足繁く通いたいと思う私でした。
 道子さんから「ゆかるひ」で話して欲しいと依頼を受けたのは、今年のお正月のことでした。
年末年始を長野の家族たちと過ごした道子さんが、また沖縄へ戻っていく日でした。
道子さんから電話を受けて東京駅構内のカフェで会い、話が決まったのでした。
 そして4月15日、日曜日。
那覇空港からリニアに乗り県庁前で降りて、ほんの数分の那覇市久茂地3−4−10YAKAビルの3階が「ゆかるひ」です。
エレベーターを降りると左がブックカフェの入り口、右がホールの入り口です。
ちょうどこの日はブックカフェでは芭蕉布織りの講習会と、その奥では数学教室が開かれていました。
カフェの壁際には白木で組んだ書棚があり片側の壁は絵本や児童書が、反対側の壁には小説やノンフィクションなどの本が並べてありました。
 トークの開始時間にはまだ少し早く、私は奥のテーブルでランチをいただきながら
店内の雰囲気に浸っていました。
テーブルや椅子などの調度品や天井の照明も、また随所にさりげなく飾られたインテリアの小物なども、決して贅を凝らしていないのですがとても心地良かったのです。
 ホールは広くはありませんが30〜40人ほどがゆっくりと座れるスペースがあり、背もたれのある椅子や丸いスツールが置かれていて、温かみのある雰囲気です。
舞台は木製で床より少し高く後ろは白壁ですから、そのままスクリーンにもなります。
 道子さんの思いを込めた「ゆかるひ」は、そういう空間でした。
●チベット、そして福島の話を
 チベットのことを話しだせば、3日3晩話続けてもまだまだ語り尽くせない私です。
でもこの日は沖縄の置かれている状況に絡めて、チベットと福島を話さなければなりません。
まず「なぜチベットか」私の生い立ちから話し、初めてのチベット行から30年通い続けていること、半年かけての騎馬行のこと、チベット人の暮らしと彼らの思いなどを駆け足で話しました。
 3.11後の7月、岩手県の花巻で催したチベット関係のイベントを終えた後で被災地でのボランティア活動に参加し、大槌町で瓦礫の片付けをしたことで、これなら私も福島でも何かできることがあると思え、8月に南相馬へ行き、それから毎月南相馬へ通い現地の市民ボランティア「六角支援隊」と共に活動を続け、2015年の六角支援隊解散後も、毎月福島へ通っていることを話しました。
 そうした前段の話からチベットの現状、牧畜を生業にしていた人たちが定住化や生態移民などの政策によって、牧畜業が続けられなくなっていることや、チベット語ではなく漢語での教育が推し進められている教育政策、少数民族として人権をないがしろにされている実情と、そうした現状の中で暮らすチベット人の姿を話しました。
 福島については、避難指示解除されてからの飯舘村や浪江町、南相馬小高区のことを話しました。
帰還した人たちはほとんど高齢者ばかりで帰還率も低いこと、そこで生活していくにはさまざまな問題点があることを話しました。
例えば飯舘村では病院は週に2日、午前中のみの診療で、薬はそこでは処方されないので隣の町や市まで取りに行かねばならないことや、就学前から小中一貫校が新設されたけれど、通学する子供たちは損害で避難生活をしているので通学バスで片道1時間もかけて通うことを話すと、会場からは、ため息が聞こえてきました。
●アフター「ゆかるひ」
 トークの後のサイン会では、初めての著書『自転車いっぱい花かごにして』の読者だったという方や、保育士時代のことを書いた『時計のない保育園』を愛読していたという方もおいでになり、嬉しいことでした。
私の沖縄訪問はこの日が4回目ですが、初めて会う方達にも何か懐かしい思いを感じたのでした。
 終会後、「ゆかるひ」のカフェで何人かの方たちと歓談し、それでもまだ話が尽きなかった5人で、夕食を共にしようと近くの雑穀料理のお店へ繰り出しました。
メンバーは道子さん、受付や記録を担当してくださったユウコさん、絵本作家のホンワカさん、屋久島から参加してくださったメイビーさん、そして私で、期せずしての女子会です。
初対面でも本音で語り合えて意気投合の、心豊かな時間を持ちました。
私はきっとまたどこかで彼女たちに会いたいと思い、そして会いに行くだろうと思いました。
こんなつながりを生み出してくれる場が「ゆかるひ」なのだと、思いを新たにしたのでした。
 みなさん、もし沖縄に行かれることがありましたら、ぜひ「ゆかるひ」をお訪ねください。(火・水は定休日です)
*ブックカフェ&ホール「ゆかるひ」
 那覇市久地3−4−10 久茂地YAKAビル3階 電話098−860−3270
フェイスブックは「BOOK Café&hall ゆかるひ」です。
次回のWomen’s Voice リレートークは5月19日(土)に三上智恵さんがお話しします。
他にも企画されているイベント、いろいろです。            

いちえ


2018年4月21日「お知らせ」

トークの会「福島の声を聞こう!vol.27」のお知らせです。
日 時:5月26日(土)14:00〜16:00(開場13:30)
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158 2F)
参加費:1,500円(参加費は被災者への寄付とさせていただきます)
主 催:セッションハウス企画室(03−3266−0461 mail@session-house.net)

*申込受付は、5月14日(月)午前11時〜上記のセッションハウス企画室へ。

27回目を迎えるトークの会「ふくしまのこえをきこう!」です。
ゲストスピーカーは、浪江町津島から福島市に避難している三瓶春江さんです。
三瓶さんは津島訴訟の原告として活動中ですが、トークの会の前日の25日はこの裁判の公判日です。
家族分散しての避難生活から、福島市で暮らすようになった今、そして裁判闘争のことをお話くださるでしょう。
多くの方に、春江さんの話をぜひお聞きいただきたいと思います。

*お願い
この日、受付、物販などスタッフが足りません。
お手伝いいただける方、おいででしたらご連絡ください。
お願いいたします。                       

渡辺一枝

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2018年4月14日号「裁判傍聴」

◎福島原発刑事訴訟 第5回・第6回公判
 4月10日と11日、東京地裁で福島原発刑事訴訟の第5回、第6回公判が連日で開かれました。
この裁判は、東京電力福島第一発電所の元会長の勝俣恒久、元副社長の武黒一郎、元副社長の武藤栄の3人の被告に対して、事故の責任を問う裁判です。
2日間、傍聴しました。
●入廷まで
 この裁判の前回の傍聴記でもお伝えしましたが、傍聴人に対する入廷前の安全検査は、やはり異常なほどの入念さで行われました。
その有様を、もう一度記します。
 傍聴は希望者が多数なので抽選が行われ当たった人が、当たり番号が記された抽選券を持って、裁判所に入館します。
手荷物をX線探知機に通し、本人も金属探知機のゲートを潜ります。
これは空港での搭乗時の安全検査と同じです。
 手荷物を受け取って、104号法廷に向かいます。
法廷入口手前の廊下で待機している係官に当選番号の記載された抽選券を渡し、傍聴券を受け取ります。
 今度はそこで傍聴券を見せて手荷物を預け、預かり証の札を受け取ります。
入廷の際に持ち込めるのは筆記用具、財布、ちり紙、ハンカチだけですから、手荷物を預ける際には、それらを鞄から出して手に持ちます。
そして安全検査を受けるのです。
 さてこの安全検査が酷いのです。
手に持った筆記用具などを係官が差し出したトレーに入れると、別の係官が金属探知機で体の前面と背面を検査し、腕時計は文字盤の側と留め具の側と両面を確かめます。
金属探知機での検査は通り一遍ではなく、頭上から足元まで、開いた両手の肩から指先まで、“バカ”丁寧にあたります。
次に女性は女性係官の、男性は男性係官の前に進み係官が両手の平で体に触って(もちろん衣服の上からではありますが)チェックするのです。
首筋に触られ首から胸腹部、背中側も触り胴回りも手でぐるりと触り腕も肩から手首まで、両足も腿から足首までを手で触れての検査です。
 こうした検査を受けるのもこの裁判を傍聴するようになってからのことで、もうこれまで何度か受けていますが、最初の時よりも更に時間をかけて念入りな検査になっているように思えます。
一言で言えば非常に心地悪い、不愉快な検査です。
最初の時に係官に「いつもこうですか?」と尋ねたら、「裁判官からのお達しです」と返事がありました。
女性係官の制服は紺色で、同じ紺色のケピ帽(円筒形の胴に平らな天辺、水平の庇がついた帽子)をかぶっています。
男性係官は帽子は被らず、制服は国防色(古い言葉ですが、なぜかここではカーキ色とか濃緑色と呼ぶよりも、こういう呼び名が思い浮かびます)で、それもとても気持ちが悪いです。
こんな色の制服を着た、がたいの大きな男たちが10人ほど立っているところで入廷まで待つだけでも、気持ちが悪いのです。
彼らは裁判所の職員なのでしょうか?
女性と男性では制服の色も形も違うので、所属も違うのかもしれません。
 国防色の制服の一人に「ずいぶん念入りな検査ですが、やり方にマニュアルがあるのですか?」と問うと、「はい、あります。その通りに実行しています」と得意満面で答えました。
 この日はこうした検査法に、抗議の声もずいぶん上がっていました。
弁護士や検事経験のある議員に、この様子を見てもらったらいいのではないかという声も上がりました。
民主主義国家とは思えない、異常な安全検査です。

●10日、第5回公判
 第5回公判の証人尋問では、東電の現役社員の高尾誠さんが証言台に立ちました。
高尾さんは東京電力本店の土木部門で、津波や活断層の調査を担当していた人です。
検察官役の指定弁護士、神山啓史弁護士の質問に高尾さんが答えていきました。
*高尾さんの話
 推本(地震調査研究推進本部)が2002年7月に発表した長期評価では、福島沖の日本海溝沿いでマグニチュード8級の津波地震が起きうると予測し、津波高は15,7mと計算していたが、高尾さんたち東電本社の土木調査グループは2007年11月以降、津波対策(福島沖M8級地震への対策)をとろうと考えていた。
2007年7月の中越沖地震で東電柏崎刈羽原発で火災が発生し、東電が批判にさらされたが、この時の記者会見に高尾さんも臨んでいた。
 推本の長期評価は地震学者のアンケートでも過半数が支持をしていたことなどから、東電土木グループも長期評価を取り入れて、確率論で研究を進めていた。
推本の長期評価を他の電力会社も検討しており、東通原発の設置許可申請でも長期評価を取り入れていた。
 2008年2月の社内「御前会議」で、津波対策について長期評価の報告をした。
(注:神山弁護士の「なぜ御前会議と呼ぶのですか?」の質問に高尾さんは「勝俣社長が出席する会議だからです」と答えた)
その場で決まらずに、15,7m津波高について土木部会に4つの宿題が出された。
そのことから、上層部も対策を前提に進めていると高尾さんは考えていた。
ところが2008年7月に開かれた前回出されていた宿題について話す会議は、僅か50分という短さで、そこでは質問もせずにただ聞いていただけだった武藤副社長が、最後の数分で「研究を実施しよう」と、津波対策の先送りを告げた。
それまでの状況から当然津波対策を進めると予想していたのに、このような結論になって、頭が真っ白になり力が抜けた。
 上司の酒井俊朗さんは他の電力会社に。推本の長期評価を取り入れるには時期尚早と考えると伝えた。

☆10時から5時まで、途中昼休みと午後に1回の休憩を挟んで長帳場の法廷でしたが、
東電の土木グループ技術者は、津波対策を検討しその旨上層部に報告したにも関わらず、それが反故にされたことが明らかになった法廷でした。
 昼休みや午後の休憩を終えて再度入廷する際には、上記したような安全検査を再度受けるのです。

●11日、第6回公判
 11日もまた高尾誠さんの証人尋問でした。
午前中、そして午後の前半は検事役の神山弁護士が質問しました。
午後の後半は、被告弁護側の宮村啓太弁護士が質問しました。
*神山弁護士の質問への高尾さんの話
 2010年8月に東電社内に「福島地点津波対策ワーキング」という組織が作られた。
これは本店の吉田昌郎部長(原子力設備管理部)のもとに、土木調査グループ(高尾さん所属)、機械耐震技術グループ、建築耐震グループなど津波対策に関わる部署が参加して立ち上げられた組織だ。
 これは高尾さんが2009年に一度提案したが上層部の拒否にあい断念していたが、改めて立ち上げた組織だ。
2008年から検討されていた津波対策は、各部署がバラバラにそれぞれ自分の部署に関わる仕事内容で検討していたのを、高尾さんは全体が判る人がキャップになって有機的に結びつけて検討する必要があると考えて上司に進言したのだが、それは不要だと拒否されて甘受するしかなかった。
 2010年に高尾さんはグループマネージャーになり、直属の上司らも交代していたので、再び高尾さんはワーキングを提案し、受け入れられて発足した。
 平安時代に起きた貞観地震(マグニチュード8,4)の津波堆積物を解析した佐竹論文は、貞観地震は福島県沖で起きたと推定していた。
この論文を入手した東電は、この地震による福島第一への津波高は9m前後になると計算した。
高さ10mの敷地にある原子炉建屋までは津波は遡上しないが、海岸沿いにある非常用海水ポンプは水没して機能しなくなることが判った。
 東電は「まだ研究途上で、どこで地震が起きたか確定していない」として、津波想定に取り入れないことを決め、東北電力など近くに原発がある電力会社に伝えた。
女川原発の津波想定に、佐竹論文を取り入れることを決めていた東北電力は、報告書にこれを取り入れるのは不都合だろうかと東電に問い合わせた。
東電は「同一歩調が望ましい。女川では貞観津波を想定するというのなら『参考』として提示できないか」と東北電力に伝えた。
 東北電力は東電の言う通り、貞観津波については「参考」とした。
東電は他社の津波想定を自分たちの水準まで引き下げようとし、他社もまたそれに従ってしまった。
*宮村弁護士による反対尋問
 2002年の推本による長期評価での津波地震の津波よりも東日本大震災時の津波の方が大きいから、長期評価に備えた対策では事故は防げなかったと言う被告の主張に沿った尋問で、また津波も南側からしか寄せないと主張するもので、これらの質問からは新たな事実は示されなかった。

●次回第7回公判は4月17日です。
第7回の証人尋問も、高尾誠さんが証人台に立ちます。
次回の公判で、更に明らかにされていくと思います。
 私は15〜18日と沖縄に行くので17日の傍聴はできないのですが、福島原発刑事訴訟支援団FBで、公判の様子を理解しようと思います。
 沖縄行は那覇のブックカフェ「ゆかるひ」オーナーの友人に、チベットと福島のことを話しての依頼を受けて行くのですが、チベットと福島そして沖縄は、私の中ではその根は分かち難く一つのものと思えてなりません。
トークの会に参加した方たちと、また思いを一つにできたらと願っています。
●明日14日は国会前へ!
 *14時から「総がかり行動実行委員会」集会
 *その後「未来のための公共・元SEALDS」による集会
 *18時から「アベ政治を許さない」キャンドル・デモ
国会前でお会いしましょう!!                

いちえ

 


2018年4月9日号「4月6日・7日のこと」

 前便で31日に飯坂温泉で会った青年、樹(イツキ)君のことを書きました。
多くの方から、お返事をいただきました。
私自身が、“今時の若者”の考え方と言うか、在り方あるいは生き方にとても衝撃を受けたのですが、先週末に参加した催しで、また新たに感じることがありました。
そのことを記したいと思います。
◎「アラヤシキに水車をまわすプロジェクト」報告会
 6日(金)の夕、ポレポレ坐で件名の催しが開かれ、参加しました。
●このプロジェクトについて
 本橋成一監督の映画『アラヤシキの住人たち』を、ご覧になりましたか?
その映画は、長野県小谷(オタリ)村の真木共働学舎の暮らしを描いたドキュメンタリーです。
 住民が離村して茅葺屋根の民家が点在した真木の集落に、故宮嶋真一郎さんが「競争社会よりも協力社会を」と始めた共働学舎では、障害がある人も社会に適合しにくい人も共に助け合って自給自足の暮らしをしています。
彼らの生活拠点は茅葺屋根の古民家ですが、そのうちの1棟が2014年の地震と翌年の大雪で倒壊し、調べると他の古民家も修繕が必要なことがわかりました。
 周囲には植林された杉など木はありますが、丸太のままでは使えないので製材する必要があります。
真木は車では行けず、峠を二つ越え1時間半かけて徒歩でしか行けない地域です。
製材機は高価なうえに運搬も不可能で、そこで思いついたのが沢水で水車を回して行う製材法でした。
それがこのプロジェクトの始まりです。
 伝統的な木造建築に携わる大工さん、左官屋さんなどの助けや指導を仰ぎながら、真木の住民たちは自分たちの手で水車を完成させました。
そしてこの日にポレポレ坐で、その報告会が開かれたのです。
●報告会で
 真木には若い家族もいて子どももいますが、そこには学校はありません。
学校教育は子どもの成長にとって絶対的に必要なことだろうか、それよりも真木の暮らしの中でこそ大切なことをたくさん学べるのではないかという発言を、もうじき就学年齢を迎える子どものいるアラヤシキの住人に、このプロジェクトで棟梁として関わってきた人が投げかけたのです。
 アラヤシキの人たち、水車づくりに関わった人たちの報告を聞いた後で、参加者から感想や質問が出ました。
私の胸に深く残った発言がありました。
 参加者は50人ほどいたでしょうか、始めに進行役のアラヤシキの伊藤さんが「共働学舎を知らない方は?」と参加者に問いかけた時に、一人だけ手を挙げた人がいましたが、私の胸に残ったのは、その人の発言です。
「共働学舎を知らないとたった一人手を挙げた僕ですが、今日はアラヤシキに行ったことがある友人に誘われて来ました。
僕は学校に行ったことがありません。
いま39歳ですが、学校に行かなくてもちゃんと大人になれます。
ちゃんと働いているし、普通に生活しています。
 僕の親は団塊世代で、僕は団塊ジュニアです。
団塊世代が日本の経済発展を担ってきたけれど、僕たちジュニア世代は違う形でこれからを担っていくだろうと思っているし、実際にいま各地で起きている再生可能な暮らしなどの取り組みも、その世代が先駆けているのではないだろうか」
言葉は違ったかもしれませんが、彼はそのような発言をしたのでした。

◎「OKINAWA1965」上映&トーク
 7日(土)、平和と労働センター・全労連会館で、件名の催しがあり参加しました。
●ドキュメンタリー映画「OKINAWA1965」上映
 この映画は、1982年生まれの双子の兄弟、都鳥(トドリ)拓也・伸也さんが、企画・製作・撮影・監督した作品で、「米軍占領下で、戦争も基地もない沖縄を目指した人々の想いをいま、見つめなおすー」映画です。
 映画の冒頭に1965年4月20日に写真家の嬉野京子さんが撮影した1枚の写真が出てきます。
小さな女の子が米軍のトラックに轢き殺されたときに撮影された写真です。
嬉野さんは、祖国復帰行進団と共に本島最北端の辺戸岬を目指している時に事件に遭遇し、米兵に隠れて撮影したのですが、後にこの写真が沖縄の現状を日本全土に広く伝えるようになりました。
 “沖縄のガンジー”として知られる阿波根昌鴻さん、元海兵隊員のアレン・ネルソンさんをはじめとして、沖縄の人々の想いを記録しています。
沖縄の戦後はまだ終わっていない。
求めるものは辺野古新基地建設断念、すべての基地の廃止。
そして平和な未来—。
 声高に叫ばないけれど、静かに深く訴えてくる映画でした。
6月末から渋谷のアップリンクで公開上映されるそうですから、ぜひご覧いただきたいと思います。
自主上映も進めているようですから、ぜひ上映会も企画なさってください。
公式サイトは http://lonngrun.main.jp/okinawa1965/ です。
●上映後のトーク
 嬉野京子さん、都鳥拓也さん、伸也さんの3人が、この映画について、沖縄について語り、また参加者からの質問に答えました。
嬉野さんの発言も胸に刻みたいことばかりでしたが、ここでは若いお二人の言葉の中からお伝えします。
 都鳥兄弟が沖縄に関心を持ったきっかけは、ウルトラマンだったそうです。
子どもの頃に大好きだったウルトラマンの企画者の金城哲夫が沖縄出身だったこと、修学旅行で沖縄に行ったことから沖縄に関心はありましたが、復帰運動や反基地闘争などについてはほとんど予備知識はなかったそうです。
映画の製作を通して、人と出会い、言葉を記録していきながら沖縄の未来やこれからの日本を深く考えていくようになったと言います。
 参加者からの「問題に無関心な若者に、どう関心を向けさせたら良いのか」という質問に、彼らは答えました。
「自論を振りかざさず、相手の興味があることや好きなことなど、間口を広くして伝えていけるのではないか。
音楽が好きなら音楽の話からなどのように。
この映画もナレーターは小林タカ鹿さんがやっているが、彼のファンはたくさんいて、岩手で上映会をやった時(都鳥兄弟は岩手出身)、関西から来たタカ鹿ファンが居た。
平和運動の裾野を広げるには、基地問題を知らなかったり何が問題か判らないでいるフラットな立場の人たちも関心を持ってくれるような働きかけが大事ではないか」

*ポレポレ坐での39歳の男性の言葉、都鳥兄弟の言葉、これらは先日の美しい瞳の青年との会話を思いおこす時に、示唆に富む言葉だと思えました。
なおこれからも私は、若者たちへ語りかける言葉について考え続けていきたいと思います。           

いちえ  


2018年4月9日号「4月1日長野」

◎「福島第一原発事故から7年 被災地・避難者・元原発労働者の今」
 長野市のふれあい福祉センターで、件名の講演会が開かれました。
主催は「フクシマを忘れない!市民集会実行委員会」で、ここに「たぁくらたぁ」も関わっています。
講師は今野寿美雄さんで、私はゲストでした。
●今野寿美雄さん講演
*避難者支援
 2011年3月11日は、出張で女川原発に居た。
地震が起きたのは仕事が終わって構内から引き上げ準備中で、その時に津波が来るのを見た。
ようやく宿舎に戻り、地震と津波の惨状の中で被災者の支援に当たった。
東北電力は被災者を発電所の体育館施設に避難させた。
女川原発は非常用電源が損傷を受けなかったので軽油で稼働させ、電気はあるし水もある、食料の備蓄もあるので、東北電力はそれらを避難者へ支給した。
ヘリで支援物資が運ばれて来ると、帰りのヘリには病人を乗せた。
その頃、余震はしょっちゅう起きていた。
米空母ロナルド・レーガンからも、トモダチ作戦での支援物資が届いた。
携帯もつながらず家族の安否も確かめられないまま、14日まで女川で支援活動を続けていた。
また道路も復旧していなかったので、浪江町の自宅に戻ることもできなかった。
*ようやく女川脱出
 15日朝に、仮設の道路が復旧したので帰宅の希望を所長に伝えると、原発事故で女川の線量もかなり高く危険だから外へ出るなと言われたが、家族が心配だからと言って、ようやく女川を脱出できた。
同僚たちと会社の車で出たが、途中で家族は茨城の古河の親戚の家に避難していて無事だということが判った。
浪江の自宅によって自分の車に乗り換えたかったのだが、4号機の爆発で浪江に入ることはできず、そのまま同僚と郡山まで行き、そこでみんなと別れた。
この朝から、新幹線は那須塩原までは通じるようになっていたのだが、郡山から那須塩原までどうやって行こうかと案じたが幸い郡山の駅前にタクシーがあり、それで那須塩原まで行った。
那須塩原について発車寸前の新幹線に飛び乗って、途中で在来線に乗換えて古河に着いた。
*「パパ生きてる。足がついてる」
 古河の駅には家族が迎えに来ていて、息子は顔を見るなり「パパ生きてる。パパ足がついてる」と言った。(この話を聞くと、私はいつも胸が詰まります。この日もまた)
そのときの格好は作業服のままで、ヒゲも伸び放題、復員兵みたいな姿だった。
家族たちは親戚宅で世話になっていたが、その家も一度に大勢が居候で大変だった。
こちらも気を使って居づらかった。
そこにいては浪江の情報もわからないので、役場が避難している二本松の東和に毎日通って友人知人の安否確認をしたり、避難所の情報を得たりした。
*男たちは親戚宅を出て
 古河から東和には4日間通い、その間に一度浪江の自宅に自家用車を取りに行った。
妻子と義母は親戚宅に4月初旬まで居させてくれるよう頼み、男たちは二本松に行き避難所の炊き出しと、避難者支援に携わった。
支援物資で支給されたのはカレーヌードルとピーナツバターパン、メロンクリームパンで、カレーヌードルは始めのうちは熱いお湯が注がれるから良いが、後の方になるとお湯も温くなっているし、パンも飽きて今でもそれらは見るのも嫌なくらいだ。
 二本松にいる間、夜は自分の車でシートをリクライニングにして、車内泊をしていた。
これが後になって体調の異変を生んだ。
 半年後、飯坂温泉に避難してからのことだが、鼻血が出るようになった。
目覚めて顔を洗おうと洗面所に行くと、突然ドバッと鼻血が出ることが1ヶ月に二回くらいあって、それが2年ほども続いた。
二本松の避難所で車中泊をしていたとき、朝起きると車のフロントが杉の花粉で真っ黄色になっている日が続いていたが、その時期の杉花粉には放射性物質がたっぷり付着していたわけだから、車で寝ている間にその放射性物質を吸い込んでいたのだろう。
*猪苗代町へ避難
 県内各地の温泉が避難所になったので、1ヶ月で二本松の避難所を出て古河の親戚にいた家族も共に、猪苗代町の旅館に避難した。
そこで出された白飯と味噌汁の美味しかったこと!!
8月いっぱい猪苗代町に居た後で、飯坂温泉に移った。
旅館の従業員宿舎を借り上げ住宅として、そこに入った。
 鼻血が出るようになったのは飯坂温泉に避難してからだが、その頃から息子の体調にも変化が起きていた。
しょっちゅう風邪をひくようになった。
毎月2回も風邪をひくような状況が2年も続いた。
3月12日原発事故後、浪江の人たちは山間部の津島地区へ避難し息子も皆と一緒にそこへ避難していたが、そこでは外で遊んだり降り積もった雪を食べたりしたと言う。
甲状腺に異常はなかったが、免疫力が低下していたのだろう。
*全てが隠される
 避難した子どもはまだ良い。
避難しなかった中通りの子どもたちに、甲状腺ガンが多く出ている。
県が公表したのは194人という数だが、実際には大人も子どもも合わせて3,000人以上の甲状腺ガンが出ている。
この194人という数もカラクリがあって、県は2年に一度しか検査をしないが、はじめの検査で経過観察となった子どもは、カウントの対象にならずその後の結果が公表されない。
7割くらいが転移して、1割くらいが再発をしているのに。
 国も東電も県も、情報はすべて隠す。
県民健康調査課、避難支援課などあるが、浪江町の役場には県職員が出向してきている。
県が県民を守ろうとしない。
元厚生省の医療官僚が県民健康調査をしている。
*低線量被ばくの影響
 成長期にあるので、子どもの甲状腺ガンは転移しやすい。
チェルノブイリでは、あれからもう32年経つが、現在もまだ健康への影響が出ている。
 福島でも脳疾患、心疾患、糖尿病、白内障などが増えているし、突然死が増えている。私の同級生も3人が、突然死した。
3人ともまだ50代だ。
 また原発で働いていた会社の先輩3人も、一人は脳疾患、もう一人はガン、もう一人は原因不明だが、3人とも定年前に亡くなった。
 そしてまた友人の一人は60歳でガンで亡くなり、奥さんは52歳か53歳だったが、夫が亡くなってすぐ白血病で亡くなり、中学生の女の子が一人残された。
その子は親戚に引き取られた。
 本当に亡くなっていく人が増えている。
被ばくの影響で病気になったと証明できないのが現状だが、低線量被ばくはジワジワと体を蝕んでいく。
 政府は年間被ばく許容量を1ミリシーベルトとしているが、福島だけは20ミリシーベルトにしている。
原発労働者は手帳を持っていて年間の被ばく量を管理されているが、私は最大で年間12ミリシーベルトの被ばくをしたことがあった。
各メーカーや事業者は年間15ミリシーベルトを基準にしているのに、国はそれより高い20ミリシーベルトにしている。
原発で働く労働者よりも高い数値を基準にして、そこに子どもたちを帰還させている。
とんでもないことですよ!
*被ばくの恐ろしさ
 崎山比早子さんというDNA研究の第一人者に教わったが、被ばくがなぜ危険かというと、DNAを損傷するからだ。(今野さんは白板に図を描きながら説明しました)
細胞内で遺伝子情報を持つDNAは螺旋状に連なっていて、そこにはG=C、T=Aと4つの塩基がそれぞれ互いの相手と結びついて突起になっている。
細胞内を放射線が通過するときに、この塩基の鎖が一つ切れたら塩基はまた繋がるべき相手の塩基と結びついて修復されやすいが、鎖が二つ切断されたら繋がるべき相手の塩基を誤ってしまい、それがDNAに異変を起こしガンを発症する。
*子ども脱被ばく裁判
 崎山さんは「子ども脱被ばく裁判」の闘争を支えてくれている、良心的な研究者だ。
この裁判の原告は200人以上、60世帯以上で、私の息子も原告で、私は原告団長になっている。
子どもが原告席にずらっと座る、こんな裁判は他にないですよ!
子どもたちが意見陳述するんですよ!
これは「子ども人権裁判」と「親子裁判」の二つを合わせた裁判で、懲罰的裁判だ。
被告は、東電ではなく行政で、10万円の賠償をせよと争っている。
*真逆の研究者
 現在福島大学農学部は、汚染地でどういう作物ができるかを研究している。
県立医大では献体バンクで、研究のためという名目で献体の売買をしている。
甲状腺切除すると、患者が求めても切除した甲状腺を戻そうとしない。
医大はデータが欲しいからだ。
出産期医療では妊娠何周目かで、染色体に以上があると言われ、堕胎させられている。
あの“ダマシタ(山下俊一のこと)”は、「福島は世界最大の実験地だ」と言っている。
県内の道路はドンドン直し、新しい道路も作っているが、それは汚染土を搬出するためだ。

 今野さんの講演の後で休憩を挟んで、今野寿美雄さん×渡辺一枝のトークと質疑応答で集会を終えました。
会場には70人を超える方が参加して、今野さんの話に熱心に聞き入っていました。
また、信濃毎日新聞社が取材に来ていて、翌朝の紙面に今野さんの講演の様子が掲載されました。
新聞記事を添付します。                   

いちえ

信濃毎日新聞18.4


2018年4月8日号「14日は国会前へ」

 4月3日は「アベ政治を許さない」スタンディングの日でした。
この日は汗ばむほどの陽気でした。
集まった仲間たちは、あまりに酷いアベ政治に心に怒りを燃やして立ちました。
この日、澤地さんから14日のキャンドル・デモが提案されました。
14日は午後2時からは「総がかり行動実行委員会」による集会、その後に「未来のための公共・元SEALDS」による集会が予定されています。
私たち「アベ政治を許さない」キャンドル・デモは、それに続く集会です。
どうぞご参集ください。                    

いちえ

 アベ政治の暴走を止めるのは私たちの義務であり、権利でもあります。
国会議事堂前、そして各地の「アベ政治を許さない」キャンドル・デモにご参加ください。         

澤地久枝

キャンドルデモ 8日 ちいさな ちらし  docx

 


2018年4月8日号「美しい瞳の青年に会いました」

 31日の晩のことでした。
夕食のために入ったのは、「寿司・居酒屋」と看板に掲げた店でした。
カウンターの隣席に一人の青年が座りました。
青年はメニューを見て、ビールといく品かのつまみを注文し、「お寿司屋さんだけど、白いご飯を頼めますか?」と主人に尋ねていました。
「ご飯が食べたいの?いいよ」と答えを聞いて青年は、チゲ鍋とご飯を追加しました。
主人が青年に「どこから来たの?おと酔いで来たの?」と尋ねると、目を輝かせて「はい」と答える青年でした。
 この日は飯坂温泉では、「ミュージックフェスティバル おと酔いウォーク2018」という催しが開かれていたのでした。
青年は、贔屓にしているバンドがこのイベントに出演するので、東京から来たそうです。そのバンドを追いかけているそうですが、バンドが飯坂の「おと酔い」に出演するのは初めてで、だから青年も飯坂に来たのは初めてだと言いました。
 注文の品と共に、大きな丼に盛られたホカホカの白飯が青年の前に置かれました。
美味しそうに食べながら青年は、今野さんと私が明日の長野での講演のことや、東電や政治のことなどを話しているのを興味深げに聞き入っていました。
ご飯を食べ終えて、ビールを飲む青年を交えての会話になりました。
 彼は静岡の出身で学芸大学の3年生、卒業後は郷里の静岡に帰って、特別支援学級の先生になりたいのだと言います。
なぜ特別支援学級の先生になりたいのか尋ねると、小学生の時にクラスにそういう友達がいたことや、その時の担任の接し方に感銘を受けて自分もそんな先生になりたいと思ったのだと言います。
キラキラと輝く瞳で、夢を語る青年でした。
 彼の名前は樹(いつき)君、「いい名前ね」と言うと「ありがとうございます。母がつけてくれました」と、輝く瞳で答えるのでした。
けれども、あまりにも彼は世の中のことを知らないのです。
元文科省の事務次官前川さんのことも知らず、連日報道されている森友問題のことも、まるで知らないようなのです。
原発事故は彼が中学生の時で、事故が起きたことは知ってはいても、それは一過性の出来事で、もう「終わった」と思っているのです。
 話しているうちにお腹が空いたのか彼はまたメニューを見て、ちらし寿司を注文しました。
店の主人も今野さんも私も、ひょろりと痩せている彼がそんなに食べられるかと驚きましたが、でも彼は注文のちらし寿司をおいしそうに気持ち良く平らげたのでした。
主人も今野さんも私も、その食べっぷりの良さに感心し、「美味しそうに食べるねぇ」と今野さんは言い、主人は「さっきご飯も食べたよねぇ」と言い、私は「育ち盛りなのね」と言い、樹君は悪びれずに「僕、ご飯が大好きなんです」と答えたのでした。
でも彼があまりにも世間知らずというか、世の中の動きに疎すぎることに、私は不安を覚えました。

 数年前に白馬村の木村紀夫さんの「深山の雪」のイベントで、信州大学の学生たちと話した時のことを思い出しました。
数人の男女学生は、ボランティアで木村さんの活動に関わっていたのです。
夕食の後でなんの話からだったか、「たぁくらたぁ」の野池さんが彼らに聞きました。
「どんな本を読んでいるの?」
彼らが異口同音のように言ったのは、本は読まないということでした。
「暇つぶしは他にたくさんあるので、本は読みません」と言う言葉を聞いて、「たぁくらたぁ」関係のおじさん、おばさんは驚いてのけぞりました。
「たぁくらたぁ」の村石さんが「ガールフレンドやボーイフレンドとは、どんなところでデートするの?」と聞くと、「映画に行くことが多いです」と答えが返りました。
でもその理由に、おじさん、おばさんたちはまたビックリです。
「映画館に行けば2時間なり1時間半なり、一緒にいても話をしないで済みますから」
今時の若者たち、これで大丈夫なのか?と、本当に驚きました。

 好きなバンドを追っかけて、交通費がかからないように在来線を乗り継いで東京から飯坂まで来て、一人で居酒屋の暖簾をくぐった樹(いつき)君の心意気や良し!
でも彼には、数年前の信州大学の学生たちに感じたような不安を覚えます。
ガールフレンドはいるの?と聞くと居ない答え、「両親を見ていて一緒に暮らせる人がいるのはいいなと思うからガールフレンドがいたらいいかなとは思うけど、気が合う人がいるかどうかわからないし…一人でも別にどうということないし…」と言う樹くんでした。
 今野さんは原発事故がもたらした被害や、被災者たちが起こしている裁判のことなどを話し聞かせ「新聞をよんで、世の中のことを知ろうとしなきゃだめだよ」と言い、私は「イツキ。お母さんがつけてくれたいい名前ね。大木にならなくてもいいから折れない木になって欲しいな」と言って、別れました。
 今時の若者たち、と一言で言ってはいけないかもしれません。
けれども樹君のような、素直だけれど、外の世界に関わろうとせず、従って世の中に対して怒りも憂いもなく、自分の趣味の世界だけに心を向けている若者が多いことが気がかりです。                            

いちえ






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