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2017年9月13日号「9月7〜9日福島行③」

●前便追記
谷さんのお宅でお聞きした話で、伝え残していたことがあります。
*生き物の変化
Mさんが所属していた森林組合は現存していて、汚染された樹木の伐採などを請け負っているそうですが、Mさん自身は、もう仕事には出ていないようです
Mさんが言いました。
「見ろ、この山。なんのせいだか放射能なんだか、うんと葉っぱ赤くなってんだぞ。
ナラの木だけ真っ黄色だわ、紅葉したみたく。
一番先爆発した時は、この先に七曲ってあんだけどな(注:道は八木沢峠へ向かいカーブが続く)、そこの手前の木は葉っぱ出ねぇんだ。
全滅、木ぃ枯れたと思ってたの、俺見てて。ほうしたら出てきたけど。
竹が一番(影響が)判るな、出るな。
ここ行くと、八木沢峠ずっと行くと、竹が緑の色が全然違う。
長野県の方行くと竹が青々してるけど、ここらはなんか、くすんでるな。
だから枯れるのも早い。
なんだ、(放射能の)影響はないなんていうけどな。
蛇は見なくなった。
爆発した時冬眠してたべし、だから蛇は居なくなったな。
ガマガエルな、山さいたんだよ、大きいのな。
いっぺぇ居たんだ。
けどガマガエルも1匹も見なくなった。
 ここ大原街道って言うんだけど、サルは轢かれる、カラスも轢かれるんだ。
カラスなんかパァッと飛ぶんだから、轢かれることなんかねぇべ。
そいつが轢かれんだ。
イノシシ増えたな、この辺で田ぁ作んないから、イノシシ6号線越えて浜の方まで出てるっていうぞ。
昔はイノシシなんて夜しか見なかったのが、昼間ものこのこ出てるよ」
事故後の自然界の変化は、フリーのジャーナリストなどから報告されています。
現存している生物の変化は目に見えますが、事故前には居たのに事故後は姿を消した生物についての、記録はあるでしょうか?
そうした記録は、事故前からそこで暮らしてきた地元の人でないと残せない記録なのかと思います。
記録を残していってほしいと思いました

●長谷川健一さん
5月にも長谷川さんをお訪ねしていましたが、今回は種まき後の蕎麦畑を見せていただきたかったのです。
飯舘村の自宅はリフォーム中で、大工さんが何人も入って作業中でしたから、離れで話しをお聞きしました。
大原での谷さん夫妻の心配事が北朝鮮のミサイルだったことを話すと、長谷川さんはこんな風に言いました。
(野池さんと長谷川さんの会話で話は進みましたが、長谷川さんの語りとして記します)
「電磁パルスも電子機器への影響とか停電とかは言っても、原発に対してどうなのか、原発に与える影響や被害については載ってないんだな。
意図的に載せないんでないか?
加計学園なんかも傍に置いてしまって、国が嫌がることや都合が悪いことは伏せられるんだな」
*この後も、野池さんと長谷川さんとの会話で話は進みましたが、長谷川さんの語りとして記します。
「特養が一番心配だな。
140床あって、入っているのが33床。
100床以上空いてて、近隣の市町村にお願いしてる。
逆だろう?って。
自分とこいっぱいにして、それでも足りないから「お願いします」ってなら判るけどな。
待機が40人。
オレのお袋も申し込んでんだが介護5だから優先的に入れっかと思うけど、それでも10番目以降だって。
《道の駅》が復興の旗印になって現実を報道しないで、ああいうとこだけ報道して特養なんてとこに目いかないで、ハコモノ、ハード面の部分が目につくからな。
そういうものだけを先行してんだから、おかしいゾって。
戻った村民の数だって、そういう数字だって何とかして多い数字を出そうとしてるわけだから。
引越し費用として戻った世帯に20万円出るから、それを目当てに一応戻った人もかなりいる。
特養の33人もその人数に入ってる。
いかにしても、多くの人が戻っているかのようにして見せている。
日中は戻ってる人かなり居るよ。
日中は仮設の駐車場なんかガラガラだ。
アンケートとったら来年50人くらい子どもが戻るって、村長ホクホクしてるけど、その発表も本当にその数字なのか判んねぇな。
行政がやってるアンケートだから、質問の仕方や解答の書き方など、アンケートの取り方もあるからな。
50人の数も、幼稚園から中学までの数だからな。
来年、開校になったらどうなるかな。

県が発表して仮設(貸与期間)が1年延長したけど、オレはそんなに延ばす必要ねぇって思うんだよ。
みんなこれからの道筋は立ててんのよ。
いつまでも仮設に居られるわけねぇから。
長泥地区の除染もするようだな。
しかし、あんなとこ除染したってなぁ、山だもんなぁ。
町みたいなとこならまだしも、あんな山ん中なぁ。
集落の人そのものが諦めて、ほとんどの人が他所に(住居を)求めてるわけだから。
それと相反して再稼働がどんどん進んでいく。
(被災地は)除染も進んで、復興も進んでるって示したい方策なんだな。
原発心配するより、北朝鮮を心配しろということだ。
だけど原発にミサイル落ちたらどうすんだって?
そういう話の流れには、絶対触れないからな。
俺は農家だから村の農地をどうするかが心にかかる。
本当にこれからどうなるかって思うよ。
今は草ボウボウになってるけど、今年の長雨で草刈りできなかったからしょうがねぇんだけども、これから晴れれば草刈りしてくけどな。
前にも言ったけども、それは国や県の10アール3万5千円の復興対策事業でやる。
だけど、その事業も30年度までってなってる。
その後、どうすんだって。
10アール3万5千円貰えっからって、みんなやる。
それがなくなったら、誰もタダじゃやんないよ。
オレはそれからが問題だって思う。
まして今、それからの計画立ててやる人なんか、あんまりないからな。
前田地区はオレ含めて4人が農地再生に取り組んでるけど、30年度でこの事業が
なくなれば、みんな厳しいな。
県の事業として、いかに継続を要望していくかだな。
それぞれが自分のところを自分でやるというまではな。
オレだって自分のとこは自分でできるから。
いかに事業を継続するかだが、逆に言うと継続することによって営農再開目的の気持ちが薄れるな。
どっちかって言ったら、3万5千円の事業の方が便利だから。
営農再開を目的にしていろいろ作っても、果たしてそれが売れるかどうか判んない。
そういう不安より、間違いない方へみんないく。
オレだって、あくまでも荒れないようにしましょうの事業だから。営業再開に向けてやるとなると、その事業に該当しなくなるわけだ。
農地をどうすんだってことで、本当にこれから大変だよ。
ホントにオレは、もう判んない。
できる限りオレは蕎麦作ってやっていこうと思ってるけど、牛舎の跡に蕎麦関連の施設作れってオレは言ってんだけど、国はなかなかウンって言わねぇんだよ。
最近になってオレは「ダメならダメでいいから、ハッキリしろ!」って言ってる。
ダメな時は、オレは自分とこは自分で管理できんだから
ただそれじゃぁ、まずいだろう?こういう風に筋道作って、蕎麦作って村の農地の復活をやろうとしたんだから。
国がそんな態度なら、オレはもういいゾって、頭きたから言ったんだ。
国の方針に従って目立つことをやるにはお金を出すけど、国に反抗して目立たないようなことをやってんのには金を出さない。
だから、流れ的には国の方針に寄り添っていくことになるんだな。
農業も個人として完全に自立できるのはなかなか難しいから、どこかで助成のお金が入ってやっていくのは仕方がない。
それに反抗して、助成金頼りじゃダメだって言ってそのままでおいたら、「ああ、そうですか」って国は言うだけだから。
お金で脅してコントロールしていく。
どうしようもねぇんだ、荒れないようにキチンとやっていこうとすると国とぶつかる」
野池「酷すぎる話だな。一番の被害を受けた住民が何を望んでどうしていくかについてサポートしていくのが行政の仕事でしょう。
国が勧めて従わせていくわけじゃないでしょう。
結果的に国の仕組みが、そういう風にできちゃってる。
それで全部補助金でコントロールする。
コントロールされて補助金のつく仕事って、必要のない仕事までみんなやりだして、国の思うままにされちゃうんじゃ、順序が逆だ」
「どうしようもねぇんだな、これは。
復興、復興ってマスメディアで騒いでるけど、とんでもねぇ話だよ。
ハコモノ作りが復興なのか?
一番ソフトな部分が置き去りになってんだから。
だから今、とんでもないことになってるよ。
業者が入ってハコモノ作りバンバンやってるから。
運動公園含めて学校改築だって、あんなの既存のやつで十分なのに63億円かけてやってんだもの。話になんねぇ。
ああいうことを平気でやんだから。
まぁ、それを認める議会が悪い。
村会議員選挙、14日から始まっけど、その議会守るために村長必死だ。
議員の賛同なければ、なんにもできないから。
その議員がみんな辞めちまって、現役で残るの3人だけ、内2人は議員1年生でもう1人は補選で入った人。
その3人残してみんな辞めた。
村長走り回って体が悪い議長をなんとか口説いて、それで4人。
反対派がズラっと立候補してきたから、青くなってる。
若いのが出るって、オレのとこに挨拶にきたから「八方美人じゃダメだぞ」って言ってやったんだ。
八方美人のとこある奴だからな。
自分の意思を持って、それを貫いていく気持ちがないとダメだと思う。
そうすると敵もドンドン多くなるし、オレみたいに取り残されていくこともあっけどな」
長谷川さんのその言葉が気にかかって、「取り残され感ってありますか?」と、私はお聞きしたのです。
「あるな。
オレも百姓だから、そういう関係の会議なんかから外されるわけだ。
そうすっと、オレの考えなんか潰されていく。
村の役職って名前だけの名誉職じゃなくて、実質的なものなんだが、そうしたとこから外されていく。
本当にオレはもう、大声出したくないんだ。
議会選挙だって、オレは黙っていようかと思うんだ。
75歳の人が口説かれて出るなんてなぁ、まったくなぁ。
議員もずるいんだ。
選挙にならずに無投票なら議員やっててもいいって言うんだから。
選挙することになったら、やらないって言うんだから。
ただ名誉職みたいな考え方なんだ。
だから若い人が、村を背負って立つものを言う人がでないとダメだ。
事故後に村長がやってきた方策変えていくには、一期だけじゃダメで長い年月かけてやっていかなきゃダメだ。
後始末だ。
あんなハコモノ作った後始末だ。
医療関係、福祉関係を充実していかなきゃ」
野池さんが、「長谷川さんが言い続けなきゃダメですね」と言うと、
「でも、オレも疲れたよ。
オレは今、非国民になってるんだから。
オレは農家だから、村の農地をどうすんだってことを考える。
だいたい計画が上がってんのが、松塚地区とオレのとこの前田地区、あと八和木前田地区の3行政区だな。
田んぼだと飼料米やろうというところはあるが、あとの地区は何やったらいいんだべって。
ソーラーやったとこはタイミングが良かったからな。
今はFIT(再生可能エネルギーの固定価格買取制度)の値段下がったから、あんまりない。
20年後がどうなるか、だ。
契約20年だから、契約時に全部撤去してくださいよとしておかなきゃダメだから。
その前に事業者が計画倒産なんかしたら、それで終わりだ。
 ビニールハウスも立ってるし、水田放牧もやろうという話も出てるが、畦畔は除染しないんだ。
そこは草生えてこねぇのか? そこの草、牛は食わねぇのか?
他所では会社とかが入ってきてるが、飯舘は1社も入ってない。
(若い者が帰ってこないのを)よく見てるんだよ。
飯舘は働く人が確保できる、となれば企業も入ってくるけどな。
(今は)入ってくるのは産廃業社だけ、サンポールって産廃業社が入るけど、給料いくらだと思う?
月給40〜60万ってチラシが入ってた。

午後は予定が入っている長谷川さんに、お礼を言っておいとましました。
子どもたちのこれからをどうするのか、また高齢者がどうやって生きていくか、長谷川さんの予想では帰村するのは1000人くらいでほとんど高齢者ばかりだろうということですが、税収をどうやってあげていくのか、立派なハコモノを作ったけれど維持していけるのか…。
村を思えばこそ大きな大きな不安に苛まされて、長谷川さんは声が届かないことに“取り残され感”を抱き、「オレ、もう疲れてしまったよ」の弱音を、思わず漏らしたのでしょうか。
マスメディアが伝えない現実を知るために、これからも継続して長谷川さんにお話を伺いに通おうと思いました。
ご自宅の隣の蕎麦畑は、被災前はイノシシ牧場にしていた場所です。
そこは水はけがあまり良くない土地なので、今年の長雨で蕎麦の育ちは悪く、ヒョロヒョロでした。
道路の向かいの畑の蕎麦は赤い茎もしっかり立って、一面に白い花が広がっていました。
そこにはイノシシ除けの電柵が張り巡らせてありました。
蕎麦畑の白い花に蜂が群れ、子どもたちの笑い声がそこかしこから響き、お年寄りがそんな子どもたちを見守るような、遠い遠い日がいつかきっと来ることを祈ります。

この後、運動公園建設地や幼・小・中一貫校への改築現場や、道の駅を見てから南相馬へ向かいました。
道の駅の様子もぜひお伝えしたので、どうぞ続きもお読みいただけたら嬉しいです。

いちえ


2017年9月12日号「9月7〜9日福島行②」

◎7日の続き
榮子さんの話を聞いた後で集会所に行き、管理人の長谷川花子さん(健一さんのお連れ合い)からも話を聞きました。
●花子さんから聞いたこと
*仮設退去期限、また1年延長
仮設退去期限が2018年3月から2019年3月と、また1年延長したそうです。
でもそんな風にズルズル延長したのでは、退去の生活をどうするかの決断もつかず、また決めかかっていた気持ちも折れてしまう。
ただ、まだ寒い3月31日ではなく暖かい時期に出たいから、3〜4ヶ月の猶予期間をもらって、ここはみんなで一緒に出ましょうと言っている。
*高速無料化延長よりも、医療費無料化延長を
高速道路の無料化もオリンピックまで延長と言ってるが、それより医療費の無料化の方を延長して欲しい。
高速道路を使って商売している人は儲かっていいだろうが、村に帰る人で高速道路使う人など滅多に居ない。
みんな長引く避難生活と高齢化、もしや初期被ばくの影響ではないかということなどで健康や体調に影響が出ている人が多い。
*住民の足の確保としてのサポートを
村内の診療所は週2回の午前中だけの診療なので、その施設の中を社協が使って、「つながっぺ」というふれあいの場にすることになったが、それも私たちが「帰った人のサポートはないのかい?」と、騒いで騒いで、やっと作ったのだ。
社協はもう仮設に来なくていいから、村に帰った人のサポートをして欲しいと言って、
そこでお茶会が始まったが、参加するのは村に帰った人ばかりではない。
借り上げ住宅や自分の家を作った人も、車を運転できる人は皆利用している。
「おれ、福島に家買ったから、これから帰るよ」という人たちが利用しているが、村に帰っても車の運転ができずに参加できない人の送迎をするのがサポートだろう。
診療所も始まっても、運転できずに、行きたくても行けない人もいるのだ。
*一人暮らしのサポートが大事
仮設から出た人は復興住宅に入居、村の自宅に帰る、他所に自宅を作ったなどだが、現在、村に帰った人で一人暮らしの人は少ない。
一人で帰った人は、寂しくていられないと言ってる。
この伊達の仮設住宅では、退去者はまだ少なくあまり人は減っていないが、延長になっても自治会は来年3月31日で解散し、出るときは皆一緒に出る。
だらだらと1年延長はできない。
これからは一人暮らしのサポートが大事だ。
復興住宅に入ればいいが、やはり自分の家がいいと言う。
そうすると今度は離れて一人になってしまう、孤立してしまう。
*既存の特養ホームを活用せよ
村の特養施設は職員を増やさないから、入居待機者が40人待ちで、介護2からの申し込みもある。
今回も時給800円で職員の求人を出したが、セブンイレブンが1250円だから、それでは人は集まらない。
ちゃんとした給料を出して資格がある人が2、3人でも来てくれれば、あとは私たち村民もいるのだから手伝える。
毎日働いてと言わずとも、週1日でもといえばみなさんアルバイト的に手伝えるだろう。
それが何故できないのか?あるものを利用してできないのか?
*道の駅がオープン
8月15日オープンの日の入場者は7,500人、オープンしてから今までの入場者が5万人突破したという。
オープンまでにテレビでコマーシャルも流し、PRには何千万円もかけた。
村民には、自分が食べるつもりで作った野菜も届け出て、ちゃんと線量を測って、自己責任で食べるようにと言い、人にあげるのもダメだと言っているのに、道の駅では飯舘村の野菜を売っているのは、信じられないことだ。
*村議会議員
14日告知で村議員選挙が始まる。
10人定員だが現職で辞める人が続出し、立候補したのは村長に反対の人がズラッと出てきたから、村長は慌てている。
帰村登録している人は現在400人というが、実質的には100人位だろう、村議定員10人は要らないと思う。
また他所に家を建てて議会の時だけ村に通う人では、困る。
村に住んで、ここはダメだ、あそこを直さなければということを自分で味わって、やってもらいたい。

●一澤美由紀さんの話
7日は、長野から来る野池さんとは、福島市の椏久里珈琲店で待ち合わせました。
野池さんより一足先に着いていた私は、美由紀さんからも少し話を聞きました。
美由紀さんのところもお連れ合いの秀耕さんは村の自宅に帰りたい意向で、自宅の手直しを考えているようです。
美由紀さん自身は帰る気持ちは無いようですが、友人や知人達も、大抵男の人の気持ちは帰りたい、女の人の気持ちは帰らないというのですが、帰るとなると自宅のリフォームに何百万、何千万と掛かるでしょう。
いくら賠償金が出るからと言っても、そのお金を老後の生活資金にした方が良いのにというのが、女性達の気持ちのようです。
つい先日も友人達が集まってそんなことが話題になったそうですが、その時にある人が言ったそうです。
「まったくトウチャンたちは、しょうがないねぇ。まぁ、他所に女を一人囲ったとでも思って諦めるしかないね」
みんなで大笑いしたと言いますが、つくづく女性は強い!と思いました。

◎8日
●南相馬市大原
私が南相馬に通いだしたのは、2011年8月からです。
9月か10月のことだったと思いますが、南相馬から福島への帰路にタクシーを使いました。
放射線量が高いという地域で、実際にどれほどの値なのか自分の目で確かめたかったからです。
タクシーの運転手さんに事情を話して、南相馬の大原地区、川俣の山木屋、飯舘村の役場で止めてもらい、計測しました。
それらの場所で停車して私が車から降りようとする時には毎回、運転手さんは長袖の上着を着て帽子をかぶるように、マスクも外さないようにと、注意をしてくれました。
3ヶ所のうち人の姿がなかったのは飯舘村だけ、大原も計測した場所のすぐ上手には民家があって人が住んでいましたし、山木屋では路肩の草刈りをする住民の姿や、軒に洗濯物が揺れているのを見ました。
*30キロ圏外の家
年が明けて『たぁくらたぁ』の編集部の人たちと同行した時に、大原で私が計測した所の上手のお宅を訪ねたのでした。
その家の谷君子さんから、話を聞きました。
お連れ合いは留守でしたが、森林組合に勤めているそうで、原発事故でまったく仕事がなくなったと言っていました。
君子さんは、これまでは山からの清水を引いて飲料水にしていたのが、原発事故によって危険で飲めなくなり、ペットボトルの水を買っていると言いました。
そこは原発から30kmより少し外側に位置しています。
すぐ近くの30キロ圏内の人たちは避難所に入り、そこでは食べ物が支給されていたし、今は借り上げ住宅に入居しているので住居費は払わずに飲み水の心配もなく暮らしている、こんな不公平があるかと、憤懣やるかたない谷さんは憤っていました。
これまでは仲良くお付き合いをしてきたが、30キロ圏内で支援物資をもらっている人たちの顔は、もう見たくないとも言いました。
その時に聞かせていただいたことを『たぁくらたぁ』25号(2012年冬号)に書き、5月にまた『たぁくらたぁ』編集部と一緒に行った時に、谷さんに掲載誌を渡しました。
記事には、計画的避難区域に入らず、また特定避難勧奨地点(ホットスポット)にも指定されず、けれども放射線量は相当高い地域なのに、国は30キロで線引きした理不尽を書いたのでした。 

それからも私は南相馬へ行く度ごとに、谷さんの家をバスの窓から眺めながら過ぎていました。
いつの頃からか人が住まなくなっていて、谷さん夫婦はどうしているかしらと気になっていました。
ある時にまた『たぁくらたぁ』の編集部と一緒に行くことがあり、その時に谷さんの家に寄ってみました。
家の前には猿が群れていて、私たちの姿を見て裏へ逃げて行きました。
庭はイノシシが荒らし放題で、家屋も荒んだようでした。
それからまた時が経って、今年7月に福島からのバスで谷さんの家の脇を通った時に、軒先に洗濯物が見えたのです。
気のせいか、私の見間違いかと、南相馬から帰る時のバスでまた目を凝らすと、やはり洗濯物が干してあり、庭には車があるのも見えたのです。
*谷さんの家を再訪
今回は野池さんと車で移動なので、谷さんの家を再訪することができました。
君子さんはすぐには私たちを思い出せずにいましたが、「以前この雑誌に書かせていただきました」と言って『たぁくらたぁ』の最新号を渡すと「ああ」と言って思い出してくれました。
「サァどうぞ」と以前通されたと同じ部屋に通され、また「どうぞ」と言って出されたのは以前と同じく瓶入りのリポビタンDでした。
谷さん夫婦はあれから仮設住宅に入り、今年3月31日で避難指示解除になったので5月に自宅に戻ったそうです。
あれからを語った谷さんは、次にこんなことを言いました。
「仮設に6年、イヤァもうこりごりだね。
でもそんなこと言ってられない、北朝鮮が明日ミサイル撃つって言ってるから。
また避難っていったら、どこ行ったらいいの?
北朝鮮がミサイル撃ったりして、もう原発どころじゃないわ。
この前の時は北朝鮮のミサイルが日本海に落ちたっていうから、私は実家が新潟だから電話したのよ。
実家の方では避難命令が出て、実家の息子たちは結婚して孫もいて近くに住んでるけど
みんなバラバラになるといけないからって実家に集まってみんなで避難したって。
一斉に避難命令出て、避難したって。
だから今度またそれやられて避難しろって言われたって、「お前んとこ避難するったってお前んとこは放射能あっから、孫いるからお前んとこは放射能があるしなぁ、どこ行きゃいいんだ」って、兄が言うのよ。
またミサイル飛んできたら、どうすればいいんだろう。
だけど北朝鮮もどこの国からも非難されて、ひがみもあるんだよね。
自分のお兄さん殺して、おじさん殺してどこに骨埋められたかわからないんでしょう。
逃げるとこないでしょう?」
*お連れ合いが戻って、二人での話
野池さんが、5年前にもお邪魔して話を聞かせてもらったけれどまた戻ってこられたようなので、話をお聞きしたく訪ねたと説明しました。
お連れ合いの名前をお聞きするのをうっかりしましたが、仮にMさんとして記します。
Mさんは野池さんの言葉を聞いて、こう言いました。
「いや、今度は北朝鮮のミサイルきたら、放射能どころじゃねぇぞ。
逃げっとこ無いぞ。
朝鮮が撃ってよこしたら原発狙ったら、福島狙わなくたって宮城は女川、青森は五所、新潟は柏崎、まずそういうとこ狙ったら、おしまいだぞ。
北海道越えて、グァムまで届くんだぞ」

谷さんのお宅では、もっと他のことも聞いたのですが、ご夫婦ともに話の大半は北朝鮮のミサイルの話でした。
お二人とも、「ミサイル発射は攻撃ではなく脅しだ、実際にアメリカや日本を攻撃したら、北朝鮮は世界中から袋叩きにあう、だからあれは脅しだ」ということは口に出していましたが、目下のところ、これからの暮らしを確実に脅かすであろうろう政府や東電の対策・対応に対する不安や憤りは、北朝鮮への不安と憤りに転嫁されていました。
政府の目論見は、見事に功を奏しているのでした。

★谷さんにお暇してから、飯舘村の長谷川さんの家に向かいました。
その報告は、また後ほどお送りします。                 

いちえ


2017年9月11日号「9月7〜9日福島行①」

今回の福島行は、『たぁくらたぁ』編集長の野池さんと回りました。
ノートパソコンを持って行ったのですが、パソコンに〝謀反〟を起こされてうまく打ち込めず、帰宅してから机上のパソコンに向かっています。
3日間の見聞があまりにも濃くて、頭がクラクラしながらため息をついています。

◎7日、伊達市の仮設住宅で
飯舘村の菅野榮子さんを訪ねました。
「こんにちは」と挨拶して部屋に入ると、そこにはヨッちゃん(菅野芳子さん)の姿もありました。
古居みずえ監督の映画『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』をご覧になった方はご存知と思いますが、榮子さんと芳子さんは飯舘村でもお隣同士でしたが、この仮設住宅でもお隣同士の仲良しです。
榮子さんに仮設住宅退去後の身の振り方を改めてお聞きしたいというのが、この日の訪問目的でした。
今年3月に帰村宣言される以前にお聞きしていたのは、「ヨッちゃんが帰るって言うから、一緒に帰ろうかと思う」ということでしたが、まだ確とは決めかねているような印象を、私はなんとなく受けていたのです。
この日の榮子さんの言葉です。
榮子さんが発した言葉をできるだけそのままお伝えしたく、大変長文になりました。
「帰村宣言されたってな、帰った人も大変だ。
帰ってない人も大変だけど、帰った人は大変だ。
この仮設にいる人たちも夫婦でいる人たちは『帰る』って言って帰ったのな。
だけど旦那さんが血糖値高かったり、認知症が入ったからって帰ってくのな。
元の住処に帰れば落ち着くからって感じで帰ったんだ。
私の同級生なんかもそうして帰ったから、気になるからちょくちょく見に行くんだけど、イヤァ、ここにいるより大変だな。
村の受け入れ態勢が整備されてないもんな。
診療所も週に2回だけ午前中やってるけど、認知症入れば車運転できなくなるんだから、足が困る、2キロのとこだって3キロのとこだって。
帰ってくのは年寄りばっかりでしょ。
だったらこの人たちが行くとこは決まってんだから。
みんな年寄りは、あの世に行くには誰だって認知症の壁を乗り越えないとあの世に行かれないんだもの。
この認知症になったときどうすんだって、言わないだって判ってんだべ。
アンケート調査があるたびに、私らは要望を書いて出してんのな。
役場の前に特養ホームが在るのに、「ヘルパーさん居ないからやれません。従来通りのみなさんの助け合いでやってください」なんてコメント返してくんだから。
「お帰りなさい」なんちゃって帰村宣言したって、そういうこと自体おかしいべ。
原発事故だけじゃねぇ。なんでもそうだなって考えさせられた。
世の中、どんな仕組みになって回っているんだか、判らない!
私らはその中で生かされて、生きていかなきゃなんねぇんだから、これは大変だなって。
そうやってどこかで辻褄を合わせなきゃなんねぇから、いろいろなこと閉まんなくなるわけだ。
避難する前は働くことに精一杯で、自分が生きることに精一杯で、世の中の仕組みがどうなってるかなんて薄らボンヤリとした中で生かされてきたよ。
疑問なんて抱く暇も余裕もねかった。
だけど避難していろいろ考えさせらって、だから今の時代、ニートになる人の気持ちも判るし結婚しない人の気持ちも判る。
今ちっと、緩やかなピリピリしねぇ世の中作ってもらいてぇなって思うな。
どこに間違いがあったんだか、どこが正しいんだか、判んねぇな。

この間、前から支援してくれてた前橋の【悠々くらぶ】にヨッちゃんと二人で泊まりに行ったのな。
そこで二人で話してたのが認知症の話で、したら悠々くらぶの人たちが「榮子さんとヨッちゃんの話題が変わった。今日は認知症の話ばっかりしてる」って、笑うんだな。
前は帰村宣言出たら、どうする?帰る、帰らないなんてことばっかし話してたからな。
だって認知症が出たら大変だから。
二人でなんとかかんとか居るからこうしてやってけるけど、どっちか認知症になって病院行くようになったら、どっちも一人ではどうにもならない。
自分ではならないつもりでいたって認知症は飛び込んで来んだから、そんときに周りも行政も国も、どういう対応すっかな、そういうものが充実してないとやっぱり幸せな一生を送るってことにならないんでないの。
今回の避難までは、経営が安定していれば誰かがやってくれるって思ってたから、農業の基盤作るのに一生懸命、無我夢中だったよな。
避難して人間の社会も、家族制度のあり方なんかも過渡期にきているって経験した」

野池さんが「帰る用意はしているんですか?」と尋ねると、榮子さんは家は全部解体して更地にしたと言いました。
息子さんがいろいろ算段して、榮子さんが住む家を新築し、家の前の牛舎だったところや家の後ろはソーラーパネルを設置するようです。
お墓があるので榮子さんの住まいと、家族がお墓参りに来たときに泊まれるように新たに小さな家を作るようです。
芳子さんが、「離れや物置は壊して母屋だけは残して、そこに一応は帰ろうかなって思う」と言うと、榮子さんは言いました。
「ヨッちゃんが帰れるって言わなければ、私は帰らない。
私は【悠々くらぶ】からお誘いがあったの。
『榮子さん、いっしょに自立と共生を求めて生きましょう』って。
そこは畑も作ってるし、病院もすぐそばにある前橋のケアハウスだけど、海外に行って活動してた人たちが、定年退職になって日本に帰ってきて、もう家を建てるまでもないからってお金出し合って、土地を取得して作ったところなの。
そうして作った施設だから、ちょっと変わったところなんだな。
外交官だとか、知的財産持ってる人たちがいるとこなんだな」
榮子さんはそこへの入所を考えて芳子さんを誘いましたが、芳子さんが「そこは、立派な偉い人ばっかりだから、私みたいなのは」と考えて、入居は拒みました。
入居費も高くはないようですが、芳子さんには人間関係で躊躇する思いがあったのでしょう。
また榮子さんは、息子さんにそこへ入居するつもりであることを伝えたところ、「なんでそんなとこへ行くんだ」と反対もされたそうです。
【悠々くらぶ】の人たちは、自家菜園で野菜を作ったりしているそうですが、種をまいても芽が出てこないなどもあり、榮子さんが来てくれるなら野菜作りの指導もしてもらいトラクターも買ってあげようなどと言うし、榮子さんの方もそこで生活指導を受けられることで、認知症の予防にもなるのではないかと思い、入居を考えたのです。
 でも結局、芳子さんは行かないと言うし、息子の反対にもあって、飯舘村の佐須へ帰ることにしたようです。
「そんな良いとこあるからって言ったって、ヨッちゃん置いて行かんねぇべ。
だから村さ帰って、あとはヨッちゃんと二人で「今晩はオラ家サ寝っぺ。明日の晩はヨッちゃん家サ寝っぺ」ってやっていって、村さ声かけながらやる気がなけりゃ自分たちでデイサービス立ち上げてやっていけば、飯舘村には仲間もいるし、私らで騒がねければ誰も騒ぐ人居ねぇんだから、空き家でもどこか借りて、みんなして入ってデイサービスやってくべって。
そういうとこさ社協の職員なんか巻き込んで、佐須には26年の6月から入ってる研究班の「再生の会」って人たちが、今度は飯舘に住民票持ってきて佐須に事務所抱えて宿泊施設も作ったの。
そういう人たちが持ってる知識を利用させてもらって、支援もしてもらって。
だけど村が前向きでねぇんだ。
だから、年寄りは早く死ねって言うんだべ。
私らが、なんぼ役に立たないったって、私らが頑張ってこの厳しい中で頑張ってきたから飯舘村ができたんでないの。
この年寄りを大事にしないで、学校、学校って、子供の教育も大事だけど、目の前に帰ってきているその命をどうすんだって、村に行って言うの。
そうすっと、役場の若い人みんな寄ってきて聞いてんの。
そういうわけでヨッちゃんは帰るって言うし家も壊さねぇって言うから、まぁヨッちゃんの家で一緒に住んでもいいわって、帰ることにしたの。
二人だから生きてこれたんだから、あとはどっちか認知症になったら、その時に考える。
帰って行ってみて、飯舘村の土になる。
やるわ。
原発でいろいろ経験したけど、この中で厳しさに耐えて生きるって経験させてもらった。そんことに感謝して生きねばと思ってる」

菅野典雄村長と榮子さんは親戚です。
野池さんが、「村長に会うことあるんでしょう。何か言ってこないですか?」と問うと、
「あんまり体大きい人でないが、一回りも二回りも小さくなって年取って、頭禿げてきてな。
そうして村民の前に出るとな、「長い避難生活を強いて、本当に申し訳ありません」ってこうして頭下げっと、ハゲ頭が見えるのよ。
何も典雄ちゃん悪くてこうなったんじゃねぇ、そんなに頭下げっことないって、私、心の中で思うのよ。
酷くて何も言えない。
選挙の時は命がけで出してやった村長だから、直に向き合って典雄ちゃんと腹割って喋ってみたいって思う時あっけど、涙出て喋られねぇ。
一生懸命やってんだもの。
国と村民の間に入って一生懸命やってる姿、やつれてっから直ぐに判るよ。
小っちぇうちから見てきたんだから。
ランドセル背負って歩っているうちから見てきたんだから、何も言えねぇ。
原発事故は…、除染の仕方もこういう風になるってわかっていながら手ェ出したんだから。
そのことに、事業者も悪いかもしれないけど、推進した国のあり方が一番問われるよ。
今日、新聞で柏崎の再稼働の記事読んでたんだけど、誰が悪いか判んない」
本当に、榮子さんの言う通りだと思います。
菅野村長の選択の仕方、村政の進め方には大きな大きな疑問がありますが、そして採った政策は村民の意思に沿わず誤っていると断じて思いますが、悪意ではなく良かれと思ってしているのだとは思います。
村長もまた、原発事故によって狂わされてしまった犠牲者の一人でしょう。

榮子さんが、アルバムを見せてくれました。
菅野家の初代のじいちゃんばあちゃんの写真がありました。
榮子さんはじいちゃんのバッチ(未子)孫の嫁だったので、じいちゃんばあちゃんに可愛がられたそうです。
じいちゃん、ばあちゃんの仲人は馬喰だったことや、ばあちゃんが鹿島から嫁入りする時には馬の背にタンスなど振り分けに載せ、ばあちゃんも浅葱色の手甲脚絆をつけて馬に揺られてきた話を聞かされたそうです。
そのばあちゃんは年取って寝込んだ時に、自分が死んだら死装束には嫁入りの時の手甲脚絆をつけてくれと孫嫁の榮子さんに頼んだそうです。
タンスの何番目に入れてあると言い残したばあちゃんの願い通り、榮子さんはばあちゃんの亡骸に浅葱色の手甲脚絆をつけて送り出してあげたそうです。
「あったかい鹿島から飯舘村に嫁に来てな、この家で子ども産んで育てて、冷たい水で洗濯もしてご飯も作ってな、そうやって築いてきた100年以上も経つ家をな…。
棟折れる時、バケレ〜ンって音したよって業者さんに聞いた。
先祖泣いてっぺ。放射能恨んで。高いとこから見てるからな」
この時に見せてもらった写真集には、原発事故後に佐須地区で作られた記念誌もありました。
表紙には『東京電力福島第一発電所事故による被難記憶誌』とありました。
難を被った飯舘村佐須地区村民の、記憶を伝える写真集です。
榮子さんは、家を解体する前に中にあった物の整理をしました。
すると、いろいろな物が出てきました。
天秤棒と里芋を洗う時に使った棒、物置から見つけたそれらを両手に持って感慨にふけっていると、息子さんに「何すんだ!そんな物。放射能出るべ」と声を荒げて取り上げられましたが、後で見るとその2本はまた、そっとそこに置かれてあったそうです。
息子さんにも榮子さんの気持ちが伝わったのでしょう。
天秤棒は、水や人糞を担ぐのに使ったそうですが、「川俣に嫁に行ったお舅さんの妹が、水を担ぐ時に使ってた物だなぁと思うと、うんと懐かしくなってな」と言います。
一本の木で弓なりにしない、両端には鈎の手の鎖がついた天秤棒でした。
 もう一本の棒は樅の木ですが、樅の木の枝先は主幹の先に5本の指を広げたように枝が出ているのです。
榮子さんの連れ合いが、山に行ってちょうどいい具合の枝ぶりの木を探して切ってきた物だそうです。
「70歳で体力の限界感じて酪農やめたから牛との悲しい別れはなかったけど、牛やめてから里芋だのなんだの作ったのを売りに出してたからな。
桶に里芋いっぺぇ入れて、それでお父さんが切ってきた樅の棒で、こうやってゴロンコ、ゴロンコ転がして土を落として洗うのに使った棒だ」
他人にとってはガラクタにしか見えない物であっても、そこでそれを使って暮らしてきた人にとっては、それは思い出の品というよりも自分の歴史そのものを刻んできた自身の体の一部とも言える物でしょう。
原発事故は、そうした暮らし一切を、被災者の体から引き剥がしてしまったのです。
息子さんがそこに置いた2本の棒を、その後榮子さんは大事に隠したそうです。

「酪農やめてから里芋作って売ったり、きゅうりの漬物作って売ったりしてたからな、ここで生きてこれた。
そうして売り上げだの何だの全部記録に取っておいたからな、賠償請求だって、伝票にして失くさないでとっておいたから、東電ではそれ見て何にも言えないで出してくれた。
味噌だってなんだって、全部ノートにとって記録してたからな。
一番嫌だなと思ったのは、戦争と原発だな。
戦争も嫌だし、この原発も嫌だ。
この原発ではつくづく先の見えない毎日だが、我慢して生き抜く力をこの原発事故は与えてくれたんだなぁと思ってる。
反面、考えてみればものすごい収穫だったんだなって思う。
自分に、こんな試練が与えられるとは思っていなかった。
仕事しててもなんでもない時に、涙ぼろぼろ出る時あるんだよな。
誰もいない時は、余計にそうだ。
でもこうして色々な人に会えて、いろいろ勉強になりました。
小海の凍み餅だって、今はちゃんと立派にできてる。
私の父親は戦争中、兵隊に行ってたことあるのな。
行く時に食う物ないだろうからって、一斗缶に凍み餅いっぱい入れて背負ってったの。
ほうしてそれ焼いて食ってっと、みんなは「あんな黒いもん食って」と思ってたらしいけど長野の人が「なんだ親父、何食ってんだ。俺にも食わせろ」って言ったから、食わせたんだと。
ほしたら「うめぇなぁ」って言って、それからみんな食うようになったんだと。
原発事故の後、小海町の人たちのところで凍み餅作るって初めて行った時な、役所の前に「非核宣言の町」って看板見て、あらぁここでも核反対ってやってんだと、なんか救われた気持ちだったよ。
それから毎年行って、よく出来なかった年もあったけど今は立派なもんだよ。
経験重ねていくことによって、どういうのがいいのか判っていくんだ。
餅もふわっとしてて飯舘の餅とは違うんだけど、今は立派な小海の凍み餅だ。
その土地、その土地で味があるんだな」
小海町での凍み餅作りも榮子さんたちが伝えることはもう何もなく、「小海町の凍み餅」として小海の特産品になっていくでしょう。
けれどもそして、ゴンボッパ(オヤマボクチの葉)を搗き込んだ凍み餅の文化は残り、伝えられていくのでしょう。
「今度は村に帰って、村がやらなかったら私らで騒いでやるわ。
帰った人たちと手をつないで、私らでやるわ。
認知症にならないように、お互いに鞭打ちあいながらやっていくわ。
飯舘さ戻って、ぎゃあぎゃあ騒いでやってくわ」

榮子さんの話は尽きません。
私たちももっと聞いていたいと思いながら、次の約束があるので失礼しました。
一度はケアハウス悠々くらぶへの入居を考えたけれど、ヨッちゃんと一緒に帰村することにしたという榮子さんです。
これからもお元気にいて欲しいです。
そしてまた、たくさんの話を聞かせて欲しいと思います。         

いちえ


2017年9月7日号「9月2日報告②」

9月2日13:30〜16:40、田町交通ビル6Fホールで開かれた、「避難の現状と今後の支援について考える交流集会」の報告です。

●司会者の満田夏花さん(避難の協同センター事務局)から
集会の主催は「避難の協同センター」です。
原発事故の避難者をめぐる状況は厳しさを増しており、特に今年3月に区域外避難者の住宅提供が打ち切られてしまいました。
そういう状況について避難者の相談に乗って政策提言をしていくという団体を目指して、昨年7月12日に発足した団体です。
区域外避難者の住宅提供が打ち切られて、既に5ヶ月が経っています。
そうした中で避難の協同センターには、毎日のように大変困窮した追い詰められた避難者からのSOSの声が届いています。
このような現場の状況を、省庁・自治体の皆さんにわかってもらうために、現場と政策をつなぐという役割を目指して活動しています。
 今日のプログラムは大変長丁場ですが、北海道、岡山、山形、東京など各地の避難者の置かれている状況について情報共有をして、最後に今後私たちとしてどう取り組んでいくのか、自治体のみなさんも交えてディスカッションをしていきたいと考えています。
ぜひ最後までお付き合いください。

◎避難の協同センター報告
●開会挨拶:松本徳子さん(避難の協同センター共同代表)
2016年に2017年3月で自主的避難者の住宅提供打ち切りが出されて、母子避難者がこれによって貧困に陥り、SOSが寄せられるようになりました。
私たち避難当事者と支援してくださる方たちと一緒に、昨年7月12日に避難の協同センターを発足させました。
そして1年2ヶ月が経ち、先程無事に総会を終えました。
避難者たちがこの理不尽な状況に置かれている原因ははっきりしているのに、いま、更に避難者・被害者にはさまざまな意味での困難が起きています。
3月過ぎてから、多くの人からSOSが寄せられています。
住宅提供を打ち切られた後、避難者がどうやって自立していけるか、そのために多くの方たちからの支援をいただき、感謝しています。
原発事故と東日本大震災によって、これからも様々な問題を抱えていく避難者ですが、
これからもたくさんの方の支援をお願いしたく、また私たちも当事者として支援者とともに頑張っていきたいと思っています。

●基調報告:瀬戸大作さん(避難の協同センター事務局長)
今日は11時から総会を開いて年間の活動報告と次年度の活動方針が決まったので、それを踏まえて報告したい。
原発再稼働を含めて福島原発事故は終わったかのように言われるが、被害者は今も苦しんでいることをしっかり認識したい。
2015年5月に政府の閣議決定で住宅無償提供打ち切りの方針を決定し、その1年後に避難者たちに対して「来年3月いっぱいで退去するように」と一斉に忠告がいった。
戸別訪問という形で、それも避難者1名に対して県職員が3名、4名という割合で行われた。
「あなたはここに住めなくなる。サァ、どうする」というやり方だった。
そうした中、ある避難者は非常に悩み心を病んで、子供を連れて中央線の駅で路頭に迷っていると電話を受け、緊急的にフードバンクのメンバーを含めて対応し救護した。
その時にこの住宅支援打ち切りは母子避難のお母さんたちにとって、本当に厳しい状況に置かれていることを認識した。
そういう状況を受けて「一人で悩まないで、電話を」というポスターを作って新宿百人町団地を回った。
その時に本当に驚いたが、「避難して4年経っているが、こうして長い話ができたのは初めてだ」と言われた。家を出る時にネックレスをしていると「そのネックレスは賠償金で買ったのか」「いつまでこの住宅にいるのか」などと言われるのだと、切々と訴えられた。
僕自身、官邸前で脱原発運動をやっていたが、地域における避難者の苦悩を本当に認識していたか、と非常に反省した。
これはとても衝撃的だった。
よく言われたが「なんで当事者が声を上げて戦わないのか」という声がいっぱいあったが、当事者が顔を出して運動することの大変さ、それだけで本当に辛いことになるということを、僕自身がしっかりと考えていかないといけないと思った。
住宅無償提供打ち切りによって、避難者、特に母子避難者は経済的に大変な状況に追い込まれたが、避難者の貧困には、経済的な問題だけではなく複合的な要素がある。
「経済性の貧困」の他に「関係性の貧困」「知識の貧困」だ。
関係性の貧困は、とても大きい。
避難者が地域の中で孤立している。
孤立しなければ原発事故のいじめの問題など起きない。
そして知識の貧困は、例えば二重住民票のようなものがあればいいのだが、そうでないとどちらの状況が自分にとって良いのかが判らない。
いろいろな支援制度が来ていても判らず、自治体によってこうした公共料金については助成が受けられるなども判らない。
そうしたことを含めて避難は構造的な問題を抱えている。
 こうしたことがあって、避難の協同センターを昨年7月12日に作った。
貧困の3要素ということがあったので、脱原発運動の中ではなく様々な地域の中で貧困問題や居場所作りに関わっている皆さんに協力いただいて作っていくのが当初からの団体の役割だった。
様々な活動をしてきた。
福島県は区域外避難者への支援策は、非常に弱い。
誤解されがちだが自主避難者には東京電力からの定期的な賠償は無く、自主避難者が置かれた状況は、大変に厳しい。
震災・原発事故直後、避難所に避難した後、都道府県の振り分けで「公営住宅」や「雇用促進住宅」「国家公務員住宅」などに避難先を決めた経緯があり、その際の振り分けによって、その後の対応に差、不公平が生じている。
国、復興庁は、一切支援策を講じていず、全て県か避難先自治体に政策は丸投げしている。
原発災害の賠償責任が曖昧なまま、避難者の立場は脆弱になって生活困窮者の住宅支援にすり替わってしまっている。
支援される避難者と、支援されない避難者に分断されたままの状態が続いている。
避難の協同センターの主な任務は、基本的に個別支援だ。
電話相談を受けて避難者に会って、その人なりの困ったことについてオーダーメイドで具体的支援に入る。
「避難の協同センター」をサポートする自治体議員の会が2017年1月に結成され、東京、神奈川、千葉、埼玉、山梨、茨城、新潟、静岡、兵庫、福島などから現在62人の自治体議員が参加している。
次年度の活動計画として、
1、避難者の相談(電話相談、個別出張相談)を受け付け、必要な生活支援をすすめる。
2、避難当事者と支援者が協同して、地域で支え合いと、助け合いで、避難者が孤立することなく生活できる支援を行う。
3、国に対しては、「原発事故・子ども被災者支援法」で定められた避難先での住宅保障や就労、教育等も含めた生活支援など総合的な支援を求めていく。
4、避難先自治体に対しては、人道的観点から、避難者の困窮・孤立を防ぐための施策を求めていく。

*瀬戸さんの報告はここに記したよりもずっと丁寧で、避難者の置かれている状況と原因となる問題点を詳細に報告し、そうした事例に避難の協同センターがどのように対処し、避難者、支援者とともに解決を探っていったかを話されました。
 この後は、各地からの報告が続きました。
◎各地からの報告
●北海道から:宍戸隆子さん(こだまプロジェクト)
北海道自主避難者自組織「桜会」と「こだまプロジェクト」の事例。
桜台宿舎は申し込みが一番多い時で230戸以上、2012年12月の避難者新規受け入れが停止されるまで入れ替わりがあるものの170〜180戸が居住する。
避難者はほぼ自主避難者で、母子避難が多い。
大事なことは、桜台から絶対に自殺者を出さないこと!としてやってきた。
住宅の無償提供打ち切りに向けて、こだまプロジェクト名で北海道議会へ請願、札幌市に要望書提出、福島県にも抗議とともに要望書を提出した、
北海道議会では全会一致で採択され、北海道が独自予算で4000万円組み、県営住宅在住者は1年間の無料延長、道営住宅の避難者優先入居枠の設定などが採択された。
札幌市でも市営住宅への自主避難者への優先枠を設定した。
福島県は、雇用促進住宅も激変緩和策の対象となった。これは当初、雇用促進住宅の避難者は、家賃が公営住宅に準ずるとして激変緩和策の対象外とされていたが、後に雇用促進住宅に住み続ける場合でも、家賃補助及び引越し費用の対象となった。
なんとか経済的な自立を果たし支援を必要としなくなった家庭も多いが、一方離婚や精神的不安定な状態が続き、生活保護を受けている世帯も少し増加した。
地域への移住者として意識がシフトしていく一方で、避難者間の連携は途切れていくことが考えられる。
避難したお母さんたちが始めた「カフェ森のすみか」は、避難者が気楽に集うことができる新たな受け入れ先になりつつある。
厚別通内科での桜台にいた子どもたちの年1回の甲状腺エコー検査をこれからも続け、また保養に来た子どもたちのエコー検査をしてくれる病院が新たにできた。
 結果として、住宅無償提供の打ち切りが、移住者として札幌で生きていく覚悟を決める後押しになった避難者は多い。
一方で、経済的に苦しい状況が続く避難者も確実に存在する。
子どもたちが大きくなり、働きに出るお母さんたちが増えてきているが、生活困窮一歩手前でなんとか踏みとどまっているような状況もある。
福島県には、迅速な手続きと支給を求めていきたい。 

●岡山から:はっとりいくよさん(一般社団法人 ほっと岡山)
避難者受け入れネットワークは、2012年秋「シェアハウスネット」からスタートし、2016年4月から「岡山ネット」、6月から「一般社団法人 ほっと岡山」として活動している。
構成団体は12団体から成り、地域性によって支援も多様で、避難者支援だけではなく移住定住支援や保養活動に力を入れる団体もある。
ほっと岡山の役割として、広報・啓蒙活動、相談支援、調査・研究・政策提言、相談支援、関係機関との連携、当事者・支援団体の支え、情報収集・情報提供、説明会・交流会の開催を考えて、実行してきている。

●千葉から:古宮保子さん(東日本大震災 松戸・東北交流プロジェクト)
被災当初の3月は松戸市内297人の避難者が居たが、現在は200人くらいかと思う。
受け入れ支援のためのサロンとして「松戸黄色いハンカチ」を作り、当初は避難者が今すぐ必要としている品、ストーブなどを届ける活動から始まった。
避難者たちの声を聞きながら相談に乗り、サロンで健康講座を毎月開き、そのほか園芸や手芸、囲碁など趣味の講座を開いていった。
 2016年8月には自主避難者交流会&行政説明会をもち、また市内の空き家情報を寄せてもらうためのチラシを撒いて被災者へ情報提供するようにした。
松戸市にも交渉し、市営住宅申し込みは住民票が福島のままでも応募できるようにした。(入居後は移転手続きを)
嬉しかったのは1人の避難者と「ありさんマーク引越社」の社員と店長の交流から配慮を受けて、引越料金の割引がされ、ありさんマーク引越社の支援は他地域にも広がった。
これからは地域、また避難先の行政・社協の支援につなげていく役目をしていきたい。
働ける力のある避難者には、ぜひ働いてもらいたいので、その際の子育てとの両立を支えていける支援や、子どもの貧困の連鎖にならないよう、将来自立して働けるような子育てに力を貸す必要がある。

●山形から:佐藤洋さん(チーム毎週末みんなで山形)
震災当初から3年くらいは避難者自主サポートグループ設立の活動をしていたが、その後保養の活動に取り組んでいる。
こうした活動に取り組むきっかけは、原発事故後の3月15日に福島の友人に「家に避難してきていいよ」と伝えたら、大勢がやってきた。
その時に山形は福島のすぐ隣だが吾妻連峰に遮られて放射線量は低いので、保養もいいのではないかと考えた。
山形県は2011年6月15日に避難者への住宅無償提供を言い、すると13,000人位が避難してきた。
その後だいぶ戻っていき、現在は2,000人位かと思う。
避難先の山形から福島に戻った子どもたちが、県内では放射能について語れずにいる。
2013年秋からはパルシステムの保養の企画と共に、春から秋まで毎週末保養を実施している。
保養の意味としては、次のように考える。
・チェルノブイリの療養をなぞらえている
・3日でも1週間でも、小さな移住・避難と捉える。
 この決断が移住の決断につながることもある。
・被災地の仲間に寄り添って共に生きる仲間がいるということを感じてもらう。
怖いのは被災者が、「誰もわかってくれない。自分で抱えていくしかない」と孤独感に陥ってしまうことだ。
福島県に戻っても、意見の違う人同士で暮らしていく葛藤を抱えている。
保養も最初はみんなが好意的に受け止められていたが、最近は過小評価が加速して、風評被害呼ばわりされ、批判される風潮が起きている。
メディアの報道でも、「(ありもしない)放射能被害を怖がる無知無能の人」のように「放射脳」などとの表現もある。
こうしたことが、放射能に対して距離を取ることの難しさを生んでいる。
保養団体はどこも自腹でやってきているが、資金不足になってきている。
国の支援もなく、復興庁はインフラのみに予算を使い、対応は過去最低だ。
避難は、避難した人の人格そのものが奪われ、無視されている。
何が福島で起きたのか、日本全体でとらえられていない。
これはまた同時に、防災対策が全くできていないことに結びつく。
次にもしどこかで原発事故が起きても、何の対策もできていない。

●山形から:武田徹さん(福島原発被災者フォーラム 山形・福島)
被災前は福島市に住んでいたが2011年3月12日に福島を出て、最終的に米沢に落ち着き7年目になる。
米沢には当初3,000人位避難していたが、現在は400〜500人くらいだ。
原発事故は国家犯罪で、東電に全責任があると思っている。
3月で住宅支援が打ち切られたが、なぜ避難者が家賃を払わなければならないのか?
全国にいる避難者の声を全く聞かずに、一方的に「出て行け」という話はない。
2012年から「避難者の会」を作ってやってきている。
雇用促進住宅入居者の内8世帯がお金を払わずに住んでいるが、これに対し「機構」は立ち退きを求め「4月には追い出す」「訴訟を起こす」と脅しをかけている。
弁護士4名が応援してくれているので、国が訴訟を起こせば受けて立つ。
避難者の問題は、国・県の決定を拒否した人をどう支援するか、また止むを得ず出て行った人をどう支援するか、その2点を明確に追及すべきだ。
山形では県知事交渉を重ねた結果、避難者全世帯(800世帯)を家庭訪問することを決めた。
福島と山形、日本全国をつなぐものはなにかとずっと考えながら福島でも活動をしてきた。
それは健康問題だろうと思う。市町村議会、県議会、国会議員に動いてもらって健康手帳を要望している。
戻った子どもたちが、戻った後どうなっているか実態を明らかにしたい。
市町村、県各地区で議員を動かす運動が非常に大事だと考えている。
非自民の議員をいかに増やすかが大事で、非自民が増えれば原発問題、住宅問題も変わってくると思っている。

*各地からの報告を終えた後休憩を挟んで、葛西リサさん(立教大学コミュニティ福祉学部 日本学術振興会RPD研究員、『母子世帯の居住貧困』著者)の講演「居住福祉に向けた提言」があり、続いて避難当事者を交えての討論がありました。
葛西さんのお話の報告は避難者に特定された内容ではありませんでしたが、母子避難者にも当てはまるお話は多く、居住が保証されることが尊厳を持って生きることに繋がることをお話くださいました。

◎討論:避難当事者を交えて
司会は小金井市議会議員の片山かおるさん、発言者は下記に。
・松本徳子さん(郡山市から川崎へ母子避難)
・岡田めぐみさん(福島市から武蔵野市へ母子避難)
・長谷川克己さん(郡山市から富士宮市へ避難)
・熊本美弥子さん(東京に住んでいたが福島県田村市に移住、移住直後に原発事故が
 起きて、また東京に戻った)
・宍戸隆子さん(伊達市から札幌市に避難)
・はっとりいくこさん(岡山県の支援者)
片山:時間があまりないが、皆さんから今後のことを提言してほしい。
岡田:避難した時は3歳、1歳の子どもがいて私は妊娠2ヶ月だった。
   あれから6年経って来年は、その子が小学生になる。
   子どもに原発事故をどう伝えるかを考えている。
   それは今年3月に、事故当時中学生だった女の子が大学入学で東京に来たのだが、彼女が、「原発事故のことを誰も教えてくれなかった」というのを聞いてからだ。
   あの当時子どもだった人たちが何も伝えられずに大きくなった時、自分がどうい
   う状況で、現在が在るか判らなくなっている。
   実情を目にした大人たちには、伝えていく責任がある。
   きちんと伝えることが原発を止めることであり、被害を可視化させることだ。
   歴史的に伝えていく、事故、被曝を伝えていく。
長谷川:避難時は妻が妊娠中で、上の子どもは5歳だった。
   岡田さんと同じように、下の子どもは原発事故を知らない。
   被災者は3回パッシングに会っている。
   1回目、最初は事故そのものによって。
   2回目は故郷を離れる時に、親戚や友人から。
   3回目は、先ほど瀬戸さんも言っていたし私自身も何度も言われたが、なぜ原発
   に反対する声を上げないのかというパッシング。
   1回目、2回目のパッシングは、同じ被災者である立場の仲間からの言葉なので
   なおきつい。
   私自身は、原発事故のせいで人生終わったと言いたくない、健やかに生きていき
   たい。
   息子たちには、原発世代だからこれだけ強くなったと彼ら自身が言えるように育
   てたい。
   避難の協同センターに望むことは、避難者をまとめる接着剤担って欲しい。
熊本:東京へ戻ってみなし仮設住宅として都営住宅に入居したが、3月で住宅支援
   打ち切りになり、まだ都営住宅にいるが、裁判を起こそうと思っている。
   日本の住宅政策はターゲット選別型で、世帯要件や収入要件が厳しい。
   裁判を起こそうと思ったのは、避難の正当性をわかって欲しいからだ。
   私は、頭を上げて顔を上げて生きていきたい。
   避難者として声を上げていきたい。
   これまで運動にも未経験、まして裁判闘争などしたこともない私だが、裁判
   には意味があると思う。
   皆さんの支援でやっていきたい。
宍戸:住宅支援打ち切り後、いろいろなところへ移っていった人たちも多く、移った先で
   落ち着き、地域のつながりに移行していくのは良いが、そこでは苦しみを分かち
   あえない。
   避難者が集まっている場が無くなった時に、苦悩を分かち合える場をどう残して
   いくかが課題だ。
   避難者が声をあげるのが難しく、裁判に踏み切れる人は少ない。
   私は大学の先生からの依頼を受けて、毎年3ヶ所で話をしてきているが、大学生
   が、原発事故を知らない。
   初めの頃の大学生は知っていたが、今の大学生は知らない。
   当事者の子どもに話すのも大事だが、あの時を知らない子どもたちにも伝えてい
   きたい。
   私が脚本を書いて、原発事故にあった家族の物語を演劇にしている。
   演劇やいろいろな方法で、あの時のことを伝えていきたい。
はっとり:避難当事者たち自らが動いているが、本音を安心して出せる場を長く継続
   させたい。
   避難者支援は行政も含め地域に共感してもらいながら、地域の問題を解決してい
   くヒントもそこにあるだろうから、根気強くやっていきたい。
松本:物が言えない避難者をすくい上げていくことと、県内避難者の問題もある。
   県内で、子どもを守りたいと頑張っている母親とつながり、保養をしながら力
   を合わせていきたい。
   原発事故は終わっていない。
   福島にいる人も苦しんでいる。
   私も支援者に支えられて7年目を迎えたが、これは私に与えられた試練だと思う。
   子どもを守り、住宅を確保し、自立して前に進みたい。
   避難の協同センターの役目は、ますます重要になっていくと思う。
   原発事故は過小評価されて、被災者は棄民扱いされているが、この現状を
   皆さんと繋がりあって打破していきたい。

*9月2日の集会報告は、これで終わります。
集会に参加して心に強く残ったことがありました。
避難者の方たちがこの会場で再会しあえた時の、弾けるような笑顔。
きっと、同じ苦しみを味わい、乗り越えながら必死に過ごしてきた者同士の魂のふれあいが、あの笑顔だったのだと思います。
心に残った言葉もあります。
その一つ、「伝え続けたい」。
私も、私の目で見、耳で聞いた福島を伝え続けたいと思います。
明日から、(いいえ、もう今日ですね)また、福島へ行ってきます。 

いちえ     


2017年9月5日号「9月2日報告①」

 報告が2件ありますので、①②に分けてお伝えします。
 9月2日10:30〜12:30「東電元幹部刑事裁判が始まった 9.2 東京集会」が、田町交通ビルホールで開かれました。
同日午後(13:30〜16:40)に「避難の現状と今後の支援について考える交流集会」が開かれました。
2つの集会の報告です。

◎報告①「東電元幹部刑事裁判が始まった 9.2 東京集会」
 福島原発刑事訴訟支援団の呼びかけによる集会で、6月30日の第1回公判の報告集会です。
第1回公判後の7月17日にいわき市で報告集会が開かれましたが、今回は東京での報告集会でした。
●佐藤和良さん(福島原発事故刑事裁判支援団団長)挨拶
 一人一人が大変な思いを抱えて、あれ以来のこの7年を生き抜いてきました。
それぞれのドラマが重ねられてきたでしょう。
そんな中で福島原発告訴団が2012年3月に立ち上がって、6月に福島地裁に告訴・告発をしたことで、あの様な人類史上最大の原発事故を起こした責任は誰にあり、事故の真相はどの様なものなのかを解明するために、責任を問うということで起訴に踏み切ったのです。
 多くの関係者、東京電力をはじめ保安院や安全委員という方たちを告訴しましたが、現実的には6月30日の第1回公判に見られる様に、勝俣東電元会長と、武黒と武藤の元副社長の3名の刑事訴訟となりました。
これまで多くの方たちが告訴団支援団で闘ってきながら、無念の涙を飲み込んで亡くなったり、自死した人がおられます。
この方たちの無念を抱いて、私たち自身がこの裁判を最後の最後まで見届けて、全世界に発信して責任を明らかにしていければと思います。
 裁判は地裁から高裁、最高裁までと長期になると思うので、どうか皆さんも健康に留意されてこの裁判を最後まで見届けて、広く国民の皆さんに訴えていって頂ければと思います。
今日の東京での集会は、先日福島で開かれた集会に続き2回目の報告集会となります。
今後も全国でこの様な公判報告会を開いて、いったい何が公判廷で問題になっているかということを、全国の皆さんにお知らせしていきたいと思います。
今日は弁護団の先生方も揃っておいでで、後ほど海渡先生はじめ先生方からご報告があると思います。
今後とも皆様と協力して、この裁判闘争を全国に広めていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

 そして海渡雄一弁護士の報告になりました。
パワーポイントを使って、強制起訴に至るまでの告訴団の長い道のりから、東電の勝俣恒久元会長・武藤栄元副社長・武黒一郎元副社長に対して検察審査会が強制起訴の議決をしたこと、そしてついに3名が起訴され、第1回公判が開かれるまでを、そしてまた公判の様子を丁寧に説明してくれました。
また、A4 で24ページにわたる詳細な報告書も配られました。
 海渡弁護士は1時間という時間制約の中で報告されましたが、ここではそのほんの一部のみをお伝えします。(「青字」は検察官の冒頭陳述です)
●海渡雄一弁護士
 6月30日の第1回公判はとても大切な期日でした。
検察官による冒頭陳述と証拠の要旨が告知されましたが、これに対して被告人とその弁護士は事故の予見はできないとして無罪を主張しました。
しかし、示された証拠を見る限り、被告人らの主張は通らないと考えます。
 東京電力は、2009(平成21)年6月に予定されていた、耐震バックチェックの最終報告で2007(平成19)年11,12月に、推本の長期計画に基づいて津波評価を行い,この津波に対する工事を実施する方針を決め、2008(平成20)年1月に、そのための基準地震を定める目的で、東電設計に最大津波高の計算を依頼しました。
東電設計が実施した津波高の計算は試算ではなく、東電が行う津波対策の内容を定めるための基礎資料であり、2008年3月に予定されていた耐震バックチェックの中間報告、2009年6月に予定されていた耐震バックチェックの最終報告のためのものでした。
この計算結果は分厚い黒表紙、金文字の付された計算結果として東電に納品されています。
 これを受けて、東電の実務レベルの土木グループの担当者らは東電設計とも協力して、福島第一原発の10メートル盤の上に10メートルの津波防潮堤を、敷地の南北に築く計画を始めとして具体的な計画を煮詰め、2008年6月10日に武藤被告人に提案しました。
しかし、この計画は採用されず、津波の想定は旧来の土木学会に検討依頼することとされ、バックチェックの終了時期は何年も遅らせることとなったのです。
 冒頭陳述は長大なもので、その始めに、「問われているもの」という部分があります。これは検察官役の方が裁判のテーマというか、何が問われているかということを市民に問いかけた非常に短いですが、重要な文書だと思うので、読ませていただきます。

「1、問われているもの
人間は自然を支配できません。
私たちは、地震や津波が、いつ、どこで、どれくらいの大きさで起こるのかを、事前に
正確に予知することは適いません。
だから、しかたがなかったのか。
被告人らは、原子力発電所を設置・運転する事業者を統轄するものとして、その注意義務を尽くしたのか。
被告人らが、注意義務を尽くしていれば、今回の原子力事故は回避できたのではないか。
それが、この裁判で問われています。」

 本件の争点は、「10m盤を超える津波の襲来から、本件原子力発電所を守る対策としては、
①10m盤上に想定水位を超える防潮堤を設置するなど、津波が敷地へ遡上するのを未
 然に防止する対策、
②建屋の開口部に防潮壁、水密扉、防潮板を設置するなど、防潮堤を越えて津波の遡上
 があったとしても、建屋内への浸入を防止する対策、
③部屋の開口部に水密扉を設置する、配管などの貫通部に止水処理を行うなど建屋内に
 津波が浸入しても、重要機器が設置されている部屋への浸入を防ぐ対策、
④原子炉への注水や冷却のための代替機器を津波による浸水のおそれがない高台に準
 備する対策、
があり、これらの全ての措置をあらかじめ講じておけば、本件事故の結果は未然に回避することができました。
東京電力は、本件事故後、事故調査報告書において、これらのことを明らかにしています。
 そして津波はいつ来るかわからないのですから、津波の襲来を予測したなら、これらの安全対策が完了するまでは、本件原子力発電所の運転を停止すべきだったのです。」
 検察は事故後、2011年夏の段階まで、起訴前提での厳しい操作をしていました。
其れが、2011年9月菅直人政権の崩壊と野田政権似寄る原発再稼働政策への展開という状況下で急展開し、検察庁上層部は不起訴への流れと変わっていった。
政府事故調の中間報告は、いったん真相を解明した上で、この一部を隠し、あえてピントをぼかす意図で念入りに作成され、国民を欺いた歴史的な虚偽文書です。

 海渡弁護士の報告に続いて河合弁護士が、「刑事裁判の意味と今後の活動」について
話されました。
●河合弘之弁護士
刑事告訴とそれに対する不起訴、不起訴に対して検察審査会の起訴相当の議決、強制起訴。そして第1回公判というこの流れが、それ自体が歴史的意義を持つんです。
 非常に大きな被害が出て、原因を作った人が無罪放免は、絶対に許されない。
それを社会的に追及する、それが建前だけれど、それだけではない。
刑事責任追及は原発の維持・再稼働と刑事責任の隠蔽とは結びついている。
再稼働する、原発を維持するという悪い意思が政府を支配した時に、今までの起訴の方針が不起訴という方針に変わった。
原発を再稼働し、原発を維持するためには、事故の責任追及をしてはならないことを意味しているのです。
逆に言うと、再稼働阻止のためには刑事責任を厳しく追及しなければいけない。
刑事責任を追及することが・再稼働阻止に役立つ。
刑事責任を追及していき、真実が判れば判るほど、「原発は必要、原発は安心・安全」と偉そうに言ってた連中がこんな手抜きをしていたのかということが判る。
こんな連中に原発をやらせられないということに、論理的につながっていく。
 刑事裁判は正義の追及のためだけではない。
原発再稼働阻止のための闘いだと捉えないと、一面的になる。
原発の問題で一番大事なのは、再稼働阻止と廃炉に追い込むことです。
日本から原発をなくしていくためにこの闘いをしている。

●莆守一樹弁護士
 今後の見通しですが、確実な予測はできません。
第1回公判が終わっても、誰を承認に呼ぶかが決まらず審議計画が立てられないので第2回公判期日が決められないというのが、6月30日の状況で、今もまだ第2回期日は指定されていません。
しかし、これまで起訴されてから1年以上にわたって指定弁護士と弁護人は協議を続けて、それなりに煮詰まっているだろうから、第2回が1年後とか2年後は考えにくい。
3ヶ月から6ヶ月先になるだろうかと思っていたが、9月に入って第2回の話は聞いていないので、10月以降になるだろうが、年内に第2回があるだろうかと思う。
 今後どうなるかだが、基本的に調書の取り調べは終わったので、これからは証人尋問、被告人お三方の被告人質問となり、その後指定弁護人が「この人たちはこんなに悪いことをしたから懲役10年」などのように論告求刑し、その後弁護人が「この人たちは無罪」と主張し、判決に至る。
 第2回公判から証人尋問が始まるか、あるいは証人尋問を見据えた手続きが行われるだろう。
誰が証人として呼ばれるかもわからないが朝日新聞によると、指定弁護士が20数人を証人として請求する予定があるかの報道がある。
訴状を見ると、この事件の重要な証人になりそうな人の名前が出てきていない。
重要人物の調書は一部は出てきているが、最重要人物の2名は出てきていないし、他も出ていない。
20数名の中には学者も入っているだろうと予測される。
 最近は裁判もスピードアップしてきているので、1期日に2人、3人呼ぶこともあるだろうし、1週間に2回の期日を設けることもあるかもしれないので、来年はみっちり期日が入ってくる可能性があるかとは思う。
早くても来年いっぱいは続くだろうが、おそらく被告人は、あるいは裁判所も、皆さんから事故の記憶を薄れさせようと、さらに長引かせるかもしれない。
先ほど支援団団長の佐藤さんも話されたが、地裁で結審しても高裁、最高裁とあり、山に例えれば最初の小さいピークを登り始めた1合目だ。
まだまだ難所はあるだろうし指定弁護士も苦労するだろうが、長丁場になるし1回の期日も、朝10時から夕方4時半までのようになるだろう。
皆さんも健康に留意して、これから訪れるだろう難所への準備をしていただきたい。
また3人の被告にも健康に留意して、最高裁まで元気でいてもらわないと困る。
死人に刑罰は課せられないので、ぜひ彼らも元気で公判に臨めるよう、普段から節制してほしいと思う。

若手の甫守弁護士から今後の見通しについてお話があった後で薬害エイズ裁判での経験をお持ちの保田弁護士が、刑事裁判のこれからを話されました。
●保田行雄弁護士
 刑事裁判の運動は普通は、無罪に向けて検察官や裁判官に要請をしていくが、今回の刑事裁判は市民が告訴をして裁判をしている。
これと似た経過をたどったのが、薬害エイズ裁判だ。
 薬害エイズは1980年代初期〜1985年くらいまで、血友病患者4000人位のうち1600人位が感染した事件だ。
現在も500人ほどの患者がいる。
血液製剤の中にエイズウィルスが混入していたことによる。
 事件は民事裁判が先行していて、その当初から被害者は刑事裁判を起したい意向が強くあったが、訴訟に踏みきる材料がなかなかなかった。
民事裁判が終わる頃に、たまたま材料が判った。
薬害事件においては、医師、国、製薬会社が、いつ頃混入が予見できたかということと、実際に被害者が、予見された時期以降に感染して被害を受けたという証明が必要だった。
そういう資料がなかなかなかったのだが、たまたま血友病学会権威のアベ先生が、帝京大学アメリカで論文発表していた。
それには1983〜84年にかけて陰性だった人が85年に感染して陽性になったことが、年次を追って報告されていた。
そのことが民事裁判の後半にわかり、民事裁判終結後に被害者100数十名で検察庁に告訴した。
 検察庁は起訴して公害医療機関であるアベ教授、規制機関の厚生省薬務局生物製剤課長以下を起訴した。
製剤製造販売会社のミドリ十字の当時会長だった人、最高経営者3人を起訴した。
 20年前から始まった裁判はすべて終結して、アベは公判中亡くなって無罪、厚労省の松崎は有罪、ミドリ十字の3名は有罪。
被害者からどういう運動をしていくか大変難しいが、被害者としてきちっと監視して公正な裁判が進行されていくかを監視していくことが大事だ。
毎回の傍聴運動、集会を開いたり著名人の力を借りて裁判の意義を広く社会的にアピールすること、一般の国民にもぜひ関心を持ってもらおうと署名活動をして、公判のたびに集まった署名を届けた。
常に、被害者も国民も裁判を監視していることを示した。
 今回の裁判で言えば、さらに検察官役が弁護士であり被害者の救済をやっていこうとする立場であることと、被害者参加制度によってある程度裁判の記録についても知ることができる。
薬害エイズの時よりさらに内容について国民に広く明らかにして広めていけるので、なお有利だろうと思う。
 これから何ができるかは大事な問題だが、長期になるので強い関心を持っていることを示していくことと、広く公正な裁判を求める署名活動、さらに加えて裁判の内容を伝えて東電関係者がどんな過ちを犯したかを具体的に知らせていくことで裁判が揺るぎないものになっていくことが大事だ。
裁判内容をみなさんと一緒に学習しながら、裁判を見守っていきたいと思う。

●蛇石郁子さん(告訴人)
 事故を起こした原発から60km離れた郡山市に住んでいます。
事故前から原発の安全性に疑問を持ち、仲間たちと市や県との交渉を重ねている中で、恐ろしい事故に遭い、その後の大混乱の生活になりました。
 第1回公判の6月30日は、早朝のバスに乗り遅れないようにと前夜は早く寝ようとしましたが寝付かれず、これまでの日々を思いながら、また裁判を待たずこの日に参加できなかった多くの仲間たちの悔しさに涙しながら朝を迎えました。
 事故から6年余り、告訴・告発から5年間は大きな力に何度も潰されそうになりながらも、たくさんの仲間と繋いだ手を離さずに、非力でも無力ではない、なんとか加害者に刑事責任を取らせたいと、励ましあいながらあきらめずに進んできました。
とても感慨深い道のりでした。
このような思いで、公判の傍聴ができたこと、みなさんのおかげです。
ありがとうございました。
 厳重なボディチェックを受け、ようやく入ることのできた104号法廷内に、勝俣、武黒、武藤の3被告が、それぞれの弁護士と入廷した時に、私は「責任を取れ!」という言葉が喉元まで出かかっており、声を出すのを我慢するのに苦労しました。
そして、被告人弁護士たちの、お詫びを言いつつ地震による大津波は予測できなかった無罪であると主張するふてぶてしい態度に、彼らは被害者の苦悩や痛みを少しも解っていない異次元の人たちなのだと、怒りでいっぱいでした。
被告人勝俣の弁護士は、自分は会長でも技術専門家ではないので判断は下せない、予見可能性、注意喚起の義務はないので無罪であるなど代弁しました。
“御前会議”(注:東電では勝俣が出席する会議は、このように呼ばれていた)の主として権力を行使していたにもかかわらず、今更知らぬ存ぜぬをこの場で言うことに恥ずかしくはないのか。
なんという無責任なトップであり会社なのかと、改めて愕然としました。
酷い会社はどこまでも腐っている、このような会社は存在すら、原発を運転することすら許されないとつくづく思います。
 先ほど弁護士の先生方から、裁判の内容を詳細に紹介していただきました。
素人でも判断がつく地震・津波への基本的な対策をなぜ早急にしなかったのか、とても悔やまれます。
電力事業者として適切な対策を取っていたなら爆発事故は起きず、私たちは苦悩の日々を重ねることはなかった筈です。
 東電は何年も会議を重ねていました。
しかし、問題を指摘されながらもグズグズと先延ばしして、なんら実効性のある対策を取りませんでした。
その多くの資料が突きつけられている被告人たちの罪が重いのは、すでに明らかで、事故の結果責任に対し相応の罪を償うのは当然です。
それにひきかえ被告人たちが示した証拠は責任を転嫁するものばかりで、全く説得力もなく呆れてしまいました。
 被告人たちは広く世間に迷惑をかけたお詫びしますと、本当に心の底から思っているなら無罪を主張することはできないと思います。
やれることをやらなかった自らの過失、最高責任者として刑事責任を潔く認めるべきでしょう。
被告人たちの残された人生は、人間として良心を取り戻すことです。
そして不都合なことを隠すことなく真実を話し、責任を認め、罪を償う道を選びとって欲しいと思います。
 原子力緊急事態宣言も解除されず、故郷を離れ避難生活を余儀なくされた人、人権侵害や甲状腺ガン・白血病などの健康被害、格差と貧困の生活は拡大しています。
命の尊厳と人権が守られ、核に頼らない時代を作っていくことが私たちの責任ではないでしょうか。
 検察は東電への家宅捜査をしないで不起訴にしました。
重要な内部資料はすでに隠されたのかもしれません。
検察が情報の隠蔽の放置を画策していたなら、それこそ忌まわしい犯罪です。
 裁判は始まったばかりです。
私たちは学び合い、この国の主権者として、これからもみなさんと一緒にこの裁判を傍聴し、公正な判決を求め、力を合わせていきたいと思います。
この国から見捨てられ、痛めつけられ、それでもめげずに絶望から立ち上がった者同士、一人一人の再生のため、さらに繋がっていきましょう。

●閉会挨拶:武藤類子さん(支援団副団長)
 今日は朝早くから、小雨の降る中、ありがとうございました。
弁護士のそれぞれのお話を聞きながら私は、どうしてここに対策が立てられなかったのだろう、どうしてここで原発は止められなかったのか、どうして検察は起訴しなかったのか、たくさんの疑問がさらに湧いてきました。
 これからの裁判は本当に長い時間がかかるでしょうが、一つ一つ、その疑問が明らかにされていくことを、私たちは期待したいと思います。
期待するだけでなく、この裁判がどれほど重要なのか、それによって何が判ってくるのかということを、みなさんの家族や友人、近くの人に知らせていただくことから始まっていくと思います。
 今日みなさんにお配りしたこの資料を持って、日本中に広げるために出かけて行きたいと思っています。
そして私たちが語っていくことで、日本中の人たちが原発事故の責任について関心を持ち、そして責任を追及していくことをあきらめない。
時間と風化に抗うことが大事です。
そういうことを、これからしていきたいと思います。
体調には気をつけて、長い長い裁判をこれから闘っていきたいと思っています。
どうかみなさんも健康に留意して、自分がこの裁判を闘っていくのだという立場に立っていただけたらと思います。
今日は本当に長い時間、朝早くから、ありがとうございました。

★武藤類子さんの挨拶で、この集会は幕を閉じました。
弁護士の方たちや武藤さんも言いましたが、第1回公判報告集会を全国各地で開いて行くそうですし、第1回公判のみならず、裁判の経過報告集会はその後も続けられると思います。
どうぞお近くで開かれる時にはぜひご参加ください。
また、保田弁護士も話されましたが、傍聴席がいっぱいになること国民の関心が非常に高いということを裁判所に示していくことはとても重要だと思います。
ぜひ裁判傍聴にもご参集ください。                 

いちえ


2017年8月22日号「8月19日信州白馬村」

19日(土)、白馬村の「深山の雪」に行ってきました。
大熊町から避難した木村紀夫さんが、長女の舞雪(まゆ)さんと暮らすところです。
木村さんは元ペンションだったこの住居に移り住んだ当初は、原発の電力に頼らない「持続可能な宿」として、ここを運営していこうかと考えていましたが、木村さんの「持続可能な」という思いに賛同する支援者たちが集まるようになり、その後は「持続可能な生活」を模索する場として「深山の雪」を主宰しています。
木村さんは行方不明になった二女の汐凪(ゆうな)さんを、あの日からずっと探し続けてきました。そして支援者たちと「team 汐笑(ゆうしょう)」を立ち上げて捜索活動とともに、大熊町の自宅周辺を菜の花畠にし、また桜の苗木を植えています。
汐凪さんの遺骨の一部が見つかったのは、あの日から5年9ヶ月過ぎた昨年末のことでした。

また、2014年からは「忘れないから始まる未来」として、持続可能な暮らしに向けてのイベントを催してきています。
この日に私が「深山の雪」を訪ねたのも、そのイベントに参加するためでした。

●「忘れないから始まる未来」
2014、2015年はトーク&ライブでしたが、昨年(2016年)は「原点回帰探検隊 はじめての火おこし編」として、自分たちで火を起こし、その火で料理をして食べ、語り歌いという会でした。
今年は【原点回帰探検隊 はじめての小屋づくり編 〜「火」から「灯」がともるまで】でした。
これまでのことを下に記します。
*大熊町で
 大熊町の菜の花畠は、「汐凪の花園」です。
昨年も汐凪の花園は、菜の花で一面の黄色になりました。
今年は一面の菜の花畠に汐凪さんの後ろ姿を、地上絵で描きました。
そして花が終わってからは菜種油を手作業で搾油したのです。
*白馬村で
「深山の雪」は持続可能な生活の場として、これまでも様々な活動をしてきました。
ロケットストーブ作り、鹿肉の解体、畑作り、薪割りなどなどです。
また、みんなが集まって催しをする際の舞台になるようなテラスも作りました。
もともとはボイラーで風呂を焚くようなペンションでしたが、ボイラーは木村さんの「持続可能な生活」の趣旨に合いません。
今年は五右衛門風呂を作ったのでした。
木村さんは以前からここに、汐笑庵(じゃくしょうあん)という小屋を作りたいと思っていました。
汐凪ちゃんを思う人たちみんなで、ここで笑っていられるようにとの願いを込めた命名です。

●原点回帰探検隊 はじめての小屋づくり編 〜「火」から「灯」がともるまで〜
今年のイベントは、「火おこし」が成功しないと始まらないイベントです。
汐笑庵の基礎石は大熊町の実家で使われていた、津波にも流されずに残っていた基礎石を使います。
この日は柱や梁を組み立てて棟木を上げるまでをやり、棟上げ後には餅投げです。
2017年の「忘れないから始まる未来」のテーマは「住」で、棒を擦って火をおこし、薪をたいてお風呂に入り、小屋を作って灯りを灯すまでという流れのイベントでした。
大熊町の汐凪の花園の菜種油に灯した火が、汐笑庵の灯りになるのです。
福島県大熊町と信州白馬村が、一繋がりに結ばれるのです。
私は予定していたバスに乗り遅れてしまい、深山の雪に着いたのは19日の1時すぎでした。
参加者は思い思いの持ち場で作業をしたり語らったり。
いつもここで会う懐かしい人や、はじめて会う人たち、子どもたちも大勢参加していました。
森の中には子どもたちが遊べるような滑り台も設置されていました。
小屋づくりの材木は、近くの真木共働学舎の村内廃屋の使える材木を譲り受けて使っていました。
棟梁は美術家の小池雅久さんです。
他に男衆が何人もで、鋸を引き、のみでほぞ穴を開け、汗を流しています。
こちらでは、棒を擦って火をおこし、薪で湯を沸かしもち米を蒸しす人がいます。
少し大きな子どもたちはビニールシートの上で、石臼を回しコーヒー豆を挽いていました。
つまり、何もかも動力を使わず手作業で、それも楽しみながらやっているのです。
もち米が蒸しあがって、木臼が用意されて餅つきが始まりました。
あらかたつき上がったところで、子どもたちの出番です。
誰もが「やりたい。やりたい」というので、順番にペッタンペッタンついて、みんなとても楽しそうで、得意そうでもありました。
つき上がった餅は、きな粉餅、エゴマ餅でふるまわれました。
エゴマは浪江町の関場さんが、避難先の日立市の畑で栽培したエゴマです。
ここでの大工仕事は動力を使わず手作業でしたから、当初考えていたよりも作業に手間取ったようです。
棟梁の小池さんは、「自分の中には電気の時間が流れていることを感じました」と言っていました。
どういうことかと言うと、4本の柱を立て、梁を渡しという一連の作業にかかる時間を見積もるのに、日頃の作業では電動ノコなど動力を利用することも多いですから、それから換算しての手作業での進行表を想定したのに、手作業がこんなにも時間を必要とするのだということに、あらためて気が付き、体の中には電気の時間が染み付いていると思ったというのです。
小池さんだけではなく大人たちの誰もが、ここでは日頃の暮らしを見つめ直し「持続可能な生活」に想いを至らせたのでした。
無事に棟上げができて、棟の上からあらかじめ用意されていた袋入りの餅や菓子が投げられ、子どもたちは目を輝かせて拾っていました。
「原点回帰探検隊」隊長の木村さんが、大熊町の現状や捜索の進捗、現在の生活について話されました。
最後に棟上げが済んだ汐笑庵をバックに全員で集合写真を撮影して、この日のイベントを終えました。
そのあと残れる人たちは後夜祭アフターイベントで、歌い語らい一夜を共にしたようですが、私は5時過ぎのバスで白馬をあとにしました。

●次回のトークの会「福島の声を聞こう!vol.25」
 次回は10月20日(金)19:00〜21:00です。
ゲストスピーカーは木村紀夫さんです。
木村さんには2012年12月の「トークの会福島の声を聞こう!vol.4」でお話いただきましたが、あれからのこと、汐凪さんが発見されてからのこと、これからの生活、持続可能な生活について思うことなどをお聞かせいただこうと思っています。
どうぞ、ご予定に組んでおいてくださいますよう、お願いいたします。   

いちえ


2017年8月17日号「8月5日トークの会②」

●避難の協同センター
病院勤務だったから治療しながらもしばらく勤めは続けたが、2015年に避難の協働センター立ち上げの話が持ち上がってきて、退職して共同代表世話人になった。
私は災害救助法で住宅提供を受けていたが、2015年に、2016年3月で災害救助法を打ち切るという話が政府から出てきた。
原発災害から避難して子育てしながら避難先でやっと地域との繋がりもできてきた時期に住宅提供を打ち切られたら困るということで、政府交渉や福島県と交渉するうちに、1年延びた。
その後、県は1年先の2017年3月で打ち切るとした。
私自身は夫の理解もあっての避難で、避難が原因で離婚などということもないが、若い人たちの中には「戻らなければ離婚」と言われて離婚した人がかなり多い。
夫からの援助もなく母子で避難している人たちが、高い家賃のために生活が困窮し貧困となっていくことを恐れて、支援者とともに方策を考えて構想を練っていた。
支援者の瀬戸さんに「今日、食べるものがない」とSOSの電話が入るようにもなっていた。
そして昨年7月12日に、避難者と支援者とで「避難の恊同センター」を立ち上げた。
今年3月31日に住宅提供が打ち切られてからは、思っている以上にたくさんのSOSの電話が来るようになった。
だが残念なことに救援が間に合わず、命を絶ってしまった人がいる。
娘と同年齢の子供を持つ母子避難の人で、2つの仕事を掛け持ちして働きながら頑張っていた人だった。
私が避難した神奈川県は民間賃貸住宅提供だったが、東京都は都営住宅・雇用促進住宅・国家公務員宿舎のどれかに割り振られた。
この場合、どこに入るかは自分で選べず、この人は雇用促進住宅に割り振られていた。
住宅提供打ち切り後の家賃は自己負担になるが、雇用促進住宅は他よりも自己負担金が高い。
彼女からのSOS連絡があって、世話人たちは彼女がそのまま雇用促進住宅に居られるようにと動いていたのだが、ゴールデンウィークに自らを絶ってしまった。
防ぎたいことが防げなかったことが、とても残念だ。
こういう問題が、今後も起きてくるだろうと案じている。
区域外避難者だけではなく避難指示区域内避難者も、避難指示が解除された今は自主避難者となったから、避難先の住宅費用は自己負担となる。
避難の協同センターには、これからもっと相談が多く寄せられるようになるだろう。

避難の恊同センター
原発事故避難者の相談を受け付け、必要な支援につないでいきます。
避難当事者と支援者が協同して、地域で支え合い・助け合い、
避難者が地域で孤立することなく生活出来る支援を行います。
避難された方のための相談電話→ 070-3185-0311

●機能していない「子ども・被災者支援法」
2012年民主党政権時に「子ども・被災者支援法」ができて、画期的な法ができた事が、とても嬉しかった。
避難した人も、留まった人も、避難して戻った人も、同じく原発事故で被害にあった人がいろいろな提供を受けられるのがすごくいいなぁと思い、これがきちんと機能すれば私も戻れると希望を持ったのだが、自公政権になってから法は骨抜きにされ、法があっても機能していない。
甲状腺ガンが中通りに増えているが、避難せずに留まっていた子に甲状腺ガンが増えている事を考えると、せっかく出来たあの法令がもう少し肉付けしてきちんと機能できていたら、避難の協同センターはなくても済んだのではないかと思う。
「子ども・被災者支援法」
「住居」「避難」「帰還」の選択を被災者が自らの意思で行うことができるよう、医療、移動、移動先の住宅確保、就業、保養を国が支援するという法。
国は、福島はもう復興に向かっているから2020年のオリンピックまでには避難者は居ないようにする事を掲げている。
避難者が居てくれては困るのだ。
避難の恊同センターでの私の活動について、私からは娘にあまり話さないが、娘はTVなどの報道で見て知っていて、あまり目立たないで欲しいと思っているようだ。
ただ私は、メディアが情報を出さなくてもネットでいろいろ情報が出ているのを見ると、当事者が自分たちで声を発していかなければいけないと思う。
声を出せずに、ひっそりと黙っている人たちもいる。
だから自分の経験した事を言わないと何も変わらないと思って動いているが、娘は呆れているかもしれない。

●声を出せば、支えてくれる人がいる
*イチエから問いかけ
徳子さんは、「私が」「私が」としゃしゃり出るのではなく、ただ止むに止まれずこうして活動しているが、その中で思いがけない繋がりも生まれ広がっているのでは?
*徳子さん答えて
人前で話すのは若い時から苦手だったが、去年「世界社会フォーラム」で日本からは原発事故の事を世界に訴えるのに、たまたま私に白羽の矢が当たり、モントリオールへ行った。
それがもっと私の目を開かせ、また背中を押してくれたように感じている。
そこにはアフリカや世界各地からの人たち、土地を奪われた先住民の人たちなど私よりもっと大変な状況の人たちが集まった。
そうした集まりの中で、私が今置かれている状況、住宅提供を奪われることも同じ問題、人権の問題ではないかと話した時に、外国の人たちは自分たちが大変な状況にありながら、福島の問題は自分の問題だと思ってくれた。
そこで私が学んだのは、まずは自分が前に立って言わなければダメなんだということ、「支援を受けると言うだけではなく当事者の君が立ち上がって声をあげれば、僕たちが後ろに居てあげるよ」と言われた時に、「あ、そうなんだ!」とストンと心に落ちた。
自分から言いたくなくても、伝えていかなければ、支援者も動けないことを学んだ。
去年カナダに行ったことが、今の私の行動を支えている。

●それでも迷いはある
避難している私がこういう話をすると、それが復興の妨げになると思われる。
県外に避難している私が福島はまだ危険だと言うと、福島に留まっている人は責められているように感じてしまうことがある。
私はそんなつもりで言っているのではなく、子どもたちのために国や行政がもっとやって欲しいことがあるから言うのだが、福島の人にそれが伝わらないことがある。
私は、自分がしゃべることが自分の故郷を非難することになるので、それが福島にとって良いことなのかと迷うことがある。
外国の人を含めいろいろな人から、「なぜ福島の人はもっと声を上げないのか」と、よく言われる。
実際に自分たちが置かれた立場、例えば農業者は土壌を汚され農業での暮らしが成り立たなくなるなど、失ったものはとても大きい。
「先祖代々やってきたものが全て失われ、着の身着のまま逃げなければならなかった人たちがたくさんいるのに、福島の人はもっと騒いでもいいのではないか」と言われる。
でも汚染は目に見えないから、自分で線量計を持って測ってみないと判らないし、判りたくない気持ちもあるかもしれない。
いま私が住んでいる川崎は郡山に比べたら便利な所だが、郡山の方が風は涼しくて日中は暑くても朝晩は過ごしやすい。
生活するには、福島は過ごしやすい所だ。
けれども線量を測ると、現実に戻される。
「そんなこと考えていたら福島では生活できないよ」という意見もある。
確かに言われる通りだし、先祖代々の墓もあるし福島の家はとても大きい家が多いから、都会の便利ではあっても暮らしにくい家よりも、住み慣れた故郷で暮らしたい人は多い。
だからいくら汚染されていると言っても、住み慣れた地に帰りたい人は多い。
矛盾しているかもしれないが、その思いはよく判る。
 けれども子どもや孫のことを考えると、被爆のリスクを避けたいので帰れない。

●子どもたちに、被爆をさせたくない!
福島の子どもだけではなく、子どもたちには被爆をさせたくない。
医療被爆も避けさせたいと思っている。
外国では、子どもたちの医療被爆も極力避けるようにさせているから、X線照射は使う限度がとても低いが、日本ではすぐにCTやレントゲンを撮ることが多い。
放射線被爆も少なければ少ない方が良いと思っている。
福島では農家さんたちが農作物になるべく吸着しないようにと、いろいろ勉強して栽培し、線量を測って100ベクレル以下のものを出していて、それで県では給食の食材には福島産のものを使っているが、私はそれには疑問を抱いている。
育ち盛りの子どもたちは私たち大人よりも食べる量も多いから、たとえ100ベクレル以下でも積算すれば心配だ。
給食では福島産の牛乳も毎日出るが、福島の牛乳からは今もセシウムが出ている。
これはNPOがやっている測定ページにデータが出ている。
福島の子どもだけでなく他の子どもたちにも、1ベクレルでも少ないものを与えたいと思うし、現在では0という数値はあり得ないかもしれないが、できるだけ低いものを飲ませ、食べさせなければいけないと思うのだが、現実にはそれができていない。
*イチエ
私は福島に通って現地の生産者さんに会い話を聞いてもいるが、国は100ベクレル以下なら出荷しても良いとしていても、話を聞かせてもらった生産者たちはみな、20以下なら出すが、20ではもう出せないと言っていた。
店頭に並んでいる福島産は、すべて測定して100ベクレルの基準値を超えないものだ。
けれども隣に別の産地のものがあれば消費者はそちらを買い、福島産は売れ残る。
線量を測らず出荷されている他県産の方が、実際には線量が高い場合もあるのに。
それなら福島産はすべて安全かと言うと、同じ生産者の作物でも畑の場所によっては数値が違ってくる場合がある。
政府は隠さずに誤魔化さずに情報を公表すべきだし、数値を表示することも必要だ。
また消費者は、その情報を自分で見極める責任があるのではないか。
*徳子さん
いま海外では福島産は輸入しない国もある。
農家は本当にいろいろ模索して、どうやったら汚染を吸着させないようにできるか努力している。
農業者も生活していかなければならないなかで、悩みながら努力をしている。
一枝さんが言うように行政は情報をきちんと公表して欲しいし、ホットスポットが各地にあるのだ。
福島のすべてが危険なのではなく、だが絶対に危険な地域があり、安全と言われている地域にもホットスポットがあるのだ。
そしてこれは福島だけの問題ではない。
フクイチは収束していないし、放射能は漏れ続けている。
東電は汚染水を海に流し、毎日すごい量の汚染水が流され続けている。

●これからの生活の見通し
フクイチは収束していないが、どうやってこれからの生活を見極めるか…
ある程度は、自分で自分に納得させないといけない時期かと思っている。
長女の子どもが生まれて、彼女らが東京に移住したので良かったと思っている。
東京の方が青果類などいろいろある中から選べるが、郡山ではすべて郡山や福島産のものばかりだ。
去年までは、これからどうしたら良いか足踏み状態だった。
自宅の庭には除染廃棄物を入れたフレコンバックが、置かれたままだったが、7月末に行政が引き取りに来た。
中間貯蔵施設が決まらないから、避難指示区域だった浪江や富岡ではフレコンバックが
野積みにされたまま放置されていて、まして区域外の郡山はいつまで放って置かれるかわからない状態だったが、福島市、郡山市の除染物は業者が浪江町に持っていくと言っていたという。
だが、そんな状態の郡山に孫が来ることは考えられないので、私たちもこちらでみんなで暮らそうかと考えている。
夫も、家族がバラバラではなく一緒に暮らすのが一番だと考えていて、みんなでこっちで暮らすことを考えている。
何がなくても家族がバラバラではなく一緒に居られることが一番だということを、この7年で強く感じた。

●いま一番言いたいこと!
恥ずかしい話だが事故が起きるまで日本に54基も原発があることを知らず、原発の危険性についても認識がなかった。
あれだけの事故を起こして、今はみんなが原発ではなく自然エネルギーにと思い始めている。
核のゴミの処理法もないのにまた再稼働と動き出し、日本は一体これからどう進んでいくのか?
政治家や議員に言いたい。
原発を止めて欲しい!
この島国にこれだけ原発を作り廃炉の見通しもデブリを取り出せるのかどうかもわからず、石棺も無理という状況で、これ以上原発を続けていたら福島以上の被害が出ると思う、そのことをよく考えてもらいたい。
六ヶ所村にも、核のゴミはもうかなりあると聞いている。
3・11後のあの頃、原発はすべて止まった。
あの頃東京ではエレベーターも4階以上しか使えなかったり2基あれば1基しか動かさなかったり、照明も落として暗くした。
計画停電ということも言われ、あれでみんな逆バージョンで精神コントロールされてしまったのではないか。
「原子力発電所が使えないと、こんなに暗くなる。やっぱり原発は必要だ」という具合に。
原発立地の人はよくわかると思うが、2キロ圏内は10分以内に逃げろと言われても、逃げるなど不可能だ。
福島から郡山に帰るさえもできなかった。
自然災害以上の被害をもたらす人災が起きないよう、原発は止めて欲しい!
もう一つ言いたい。
9条を守り抜いて欲しい!
義父から戦争中の話、満州に行き、引き揚げてきた話をよく聞かせてもらった。
戦争が終わって72年。
たった70年でまた同じことを繰り返すのかと思うと政治家にはもっとよく考えて欲しい。
戦争への道を繰り返さないで欲しい!

*トークの会「福島の声を聞こう!vol.24」の報告はこれで終わります。
長文をお読みくださって、ありがとうございました。
避難の恊同センターでは、賛助会員を募集しています。

個人・非営利団体:一口1,000円(2口以上)/生協・企業:一口10,000円(1口以上)

振込先①ゆうちょ銀行 記号10180 番号89294741 名義:ヒナンノキョウドウセンター
*他銀行より 店名:〇一八(ゼロイチハチ) 店番:(018) 種目:普通預金
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  *他銀行より 019支店 当座:0634892 名義:ヒナンノキョウドウセンター

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いちえ


2017年8月17日号「8月5日トークの会①」

8月5日(土)14:00〜16:00、セッションハウス・ギャラリーで「トークの会 福島の声を聞こう!vol.24」を催しました。
ゲストスピーカーは、松本徳子さんでした。
長文になりますので、報告を2回に分けてお送りします。

●松本徳子さんプロフィール
2011年3月11日の東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所事故後、当時12歳の次女を連れて、郡山市(福一から60キロ)から神奈川県に母子避難。
現在「避難の協同センター共同代表世話人」をしている。

◎松本徳子さんの話(「です。ます」調で話されましたが、「だ。である」調で記します。
また今回は私から質問をしてそれに応えていただくという形で進めましたが、「一枝通信」の報告ではごく一部を除いて質問を省き、順も入れ替えて松本さんのお話としてまとめました。
●2011年3月11日、被災時のこと
原発から60キロ離れた郡山市で、夫と次女(当時12歳)と私の3人で暮らしていた。
当時私は福島市の百貨店に勤め、アパレルの仕事をしていた。
7階の休憩室で休んでいた14:46、突然の大きな揺れで、これまでに体験したことのない地震が起きた。
お客さんも従業員も一旦みな外に出たが店内にいた時のままの服装だったので、シャッターが閉まる前に再度店内に入ってコートと私物を持ち出した。
電車も止まっていて郡山に帰れず、市内の小学校体育館に避難した。
余震が酷く、その避難所も危険だとされて、高校の体育館に移動した。
 移動先の高校体育館は300人ほどの避難者でいっぱいで、私は家族の安否を確認しようとしたのだが携帯も通じず、公衆電話もなく、携帯の充電もできずに不安な時を過ごしていた。
その日の夜中に次女からのメールが入り、「友達のところにいる。とても怖くて不安だ」とあった。
また結婚して所帯を別に持っている長女からも夜中に、「郡山の自宅に戻っていて父親も妹も一緒にいる」とメールが入り、ようやく家族の安否が確認できた。
次女からのメールは、もっと前に送信したのだろうが遅れて届いたのだろう。
携帯を持っていたから安否確認できたが、携帯があるからといっても、すぐに連絡が取れなかったり充電できなかったりすることもある。
 なんとかして家に戻らねばと思い、翌日やっと帰宅できた。
家に戻ってみると建物の被害はなかったようだが室内は大変だったようで、でもそれも娘たちが片付けてくれてあり、大事なものは壊れてしまったが家族が無事なのでそれが何よりだった。

●原発事故後〜4月
小学6年生だった次女は卒業式を控えていたが、あの年の卒業式は3月31日となった。
当時は原発から2km、3km、5km、10km、20kmという具合に少しずつ警戒区域指示が広がっていったが、郡山は60kmなので避難指示は出ていなかった。
電気は通じていたが水が出なかったので、夫と私が交代で給水に並んだり食料を買いに出たりした。
娘はできるだけ家の中に置きたかったが、余震がひどい状況だったので家の中に一人で留守をさせるのも心配で、時々は私と一緒に外に出たこともある。
12日に1号機が爆発、14日に3号機が爆発した後でも行政は郡山に避難指示を出していなかったが、東京にいる私の妹が、「郡山は60km離れてはいるが下の娘だけでも避難させて方が良い」と連絡をよこした。
私自身当初は、水や食べ物を得ることなど日々をどう過ごすかに頭がいっぱいで、被曝のことに思いが回らずにいたが、妹からの連絡を受けて、“放射線初期被曝”に思いが至った。
私は、当時はアパレル関係の仕事で百貨店に勤務だったが、それ以前は看護師だったので、初期被曝を恐れたが、だが、避難させたくても新幹線は動いていずガソリンもないし高速道路も通れない状況だった。
ようやく3月23日に那須塩原と東京間を高速バスが通じるようになり、娘とそれに乗って大田区に住む妹に娘を託し、私は郡山へ戻った。
私の職場は震災直後は営業を閉じていて、従業員は業務再開するまで自宅待機だったが、24日から営業再開の連絡があって、24日から私はまた職場に通った。
その頃は一ヶ月以上東北本線は運休していたため、高速バスでの通勤だった。
3月31日は娘の卒業式だったが本人は東京にいて出られず、私が代わりに卒業証書を預かり受けた。
卒業式に出られなかった生徒は娘の他にも何人もいて、当時の子どもには“小学校卒業式“に対しての思い入れは大きいだろうと思う。
今考えても、当時妹から連絡が来なければ60キロ圏内は避難指示出さずの行政の言葉を信じて、危険性には思い至らなかっただろう。
電気は通じていても水は手に入らず、食料を得るにも大変だった時期だが、メディアも3月中の報道ではメルトダウンを起こしたら大変だがそれには至っていないと報道していた。
だから妹よりも私の方が危機感は薄かったかもしれない。
夫は私よりもチェルノブイリ事故の頃のことをよく覚えていて、当時は雨に濡れないようにとか、色々と注意が出されていたことを思い出して、なるべく遠くに避難させた方が良いという意見だったことも背中を押した。

●2011年4月〜8月
4月になって、郡山の中学校から11日に入学式を行うと連絡が入った。
行政の避難指示は結局出なかったし、中学校の制服は被災前にすでに注文してできていたし、入学式の連絡を受け取って、娘を東京から呼び戻した。
それは私の一番の判断ミスだったと、悔やんでいる。
娘は戻って11日の入学式に出たが、その日も余震が大きくて、入学式も途中で取りやめになった。
だから娘は小学校の卒業式も、中学入学式もちゃんと受けることができないままだ。
4月はそのまま中学校へ通っていたが、5月頃から周囲の状況が変わってきた。
郡山からも避難している人がたくさんいることが、ネットの情報でわかってきたし、自宅近くの娘が通っていた小学校とは別の小学校では120人の生徒が避難したことも知った。
そうした情報を知って、おかしいな?と思っているうちに職場のスタッフから子どもが鼻血を出すということを聞くようになり、ネットで調べているうちに今度は、娘が鼻血を出すようになった。
忘れもしない6月23日のことだ。
娘はそれまで健康優良児で病院にかかったこともなかったのだが、その日の朝登校しようとした時に大量の鼻血を出した。
それを見て「もしかしたら初期被曝か?」と思った。
ネットで情報を色々調べているうちに、災害救助法によって福島の被災者は罹災証明書を持っていれば民間賃貸借り上げ住宅を、神奈川県では貸し出すという情報を得た。
8月に申し込んで借りることができて、今に至っている。

●2011年夏に母子避難するも、娘とは離れての日々
娘の健康が心配で川崎の住宅に申し込んだが、借りられるようになるまでに3ヶ月かかってしまった。
娘の学校は入る先が決まっていないと転校手続きできないということだったので、妹の家の近くの中学校に転校させることにした。
私はアパレル会社の上司に避難することを告げて退職届を出そうとしたら、上司は辞める必要はない渋谷の支店への転勤の形をとってあげようと言ってくれた。
8月に川崎の借り上げ住宅に入居でき、私はそこから渋谷の店へ通うようになった。
娘は学校があるので、妹の家にそのまま世話になっていた。
アパレルの仕事は終業が遅いし、土日は休めないので娘と過ごす時間がなかなか取れなかった。
避難はしたがそんな生活になったので、これは正しい判断だったのかと、とても悩んだ。
行政は避難指示を出していないのに、こうして避難したことで家族がバラバラになっている、思春期の娘のそばにいられないということで、本当に悩んだ。

●娘と2人で暮らすようになって
娘と共に過ごせるためにと転職先を探していたが、ようやく2年目に、常勤で夜勤のない医療機関に就職先が見つかって転職した。
大田区の中学校に学区域外の川崎からの通学を認めてもらい、やっと娘と一緒に暮らせるようになったのは娘が中学3年生の夏休みからだった。
ちょうどもうその頃は、妹も娘も互いに世話をし、されることに気持ちはいっぱい、いっぱいになっていた頃で、娘は妹には話せないこともあっただろうし、妹もそんな娘を少し持て余して疲れてもいただろう。
娘は学校でいじめには合っていなかっただろうが、親しい友達もできず郡山の学校とは教育内容も違ったりしていたので成績も落ちたし、娘は娘で悩んでいたと思う。
だがそんな悩みを、妹にも打ち明けることもできずにいたのだろう。
私にもあまり話さない。
話すと私が悩むと思うからだろう。
娘も私も悩んだが、ただ私の場合は、夫も同じ考えで娘の健康を守ろうと母子避難を後押しくれたことことが幸いだった。
*イチエから質問
 避難したことについて娘さんと、お互いに気持ちを話し合うことは?
*徳子さん答えて
 話すことはある。
娘は自分が鼻血を出したので、避難は自分を守るためだったと判っている。
彼女は自分を守るために避難したことがよくわかっているので、友達とのトラブルや勉強のことなど悩んでいても、それを言うと私がなお苦しむだろうと思って一切言わない。
私も彼女のそんな気持ちが解るので、成績が酷く落ちた時に「慣れない生活で勉強にも苦労しているようだから、体のことは心配だけど郡山に戻ろうか?」と、一度聞いたことがある。
すると彼女は「そうじゃないんだ(戻ったほうが良いんじゃない。避難していたほうが良い)」と答えた時に、理解してくれているのがわかった。

●鼻血は風評ではない、事実だ
娘が鼻血を出さなければ避難していなかったかもしれない。
娘の学校の母親達との間では、鼻血の話題はなかった。
あの頃は余震も続いていたし、原発事故よりも日々の生活をどうしていくかに追われていた。
娘と小学校から一緒だった友達の親も中学校にはあまりいなかったし、原発は話題にはならなかった。
また、行政が言っていないことは、話題にしにくいのが現実だった。
鼻血問題も風評被害にされ、自分の子供が鼻血を出していないと信じられない人も多いようだった。
娘に聞くと、当時娘のクラスでも6、7人は鼻血を出したと言っていた。
だから子どもたち全員が鼻血を出さなくても、パーセンテージにしたら相当数が出していた。
*イチエから質問
湿疹はどうでした?
私が通っている南相馬の仮設住宅の高齢者は湿疹に悩まされていたし、また伊達市の大波地区の子どもさんは鼻血と湿疹で親御さんがとても心配をしていた。
皮膚科を受診したら、いずれも「アレルギーだろう」と診断されたが、80歳過ぎたお年寄りがアレルギーと言うのも頷けないが。
*徳子さん答えて
 湿疹もあった。
成長期だからニキビも考えられるが、背中に湿疹が出た李、下痢もした。
中学が始まって精神的なことも影響したかもしれないが、原発事故の影響も考えた。
放射能は目に見えないが、ガイガーカウンターで測ったら自宅の玄関先で2,7マイクロシーベルト、1階は0,4、寝室にしている2階では1,2マイクロシーベルトあった。
外の地表面は、高いところは20あった。
年間被曝量の上限は1ミリシーベルトだ。
測ってみて、ここはホットスポットで汚染地帯だと判った。
だから、これは被曝だと思う。
今も鼻血を出している子どもはいるし、漫画が話題になった時に風評と言われてが、決して風評ではなく実際に起きたことだ。
*イチエから質問
 徳子さんはアパレルの仕事に就く以前は看護師さんだったが、看護師としての経験や知識から、鼻血も湿疹も原発事故と関連して考えたのではないか?
*徳子さん答えて
 それはあるだろう。
被曝はよくないことは、看護師として十分知っていた。
たとえばレントゲン撮影が必要な被験者が子どもの場合など、看護師が助手としてレントゲン室に入ることがあるが、その場合には被曝を避けるためにプロテクターをつけて入る。
妊娠の可能性がある人は、レントゲンやCTは撮らないし、子どもの場合もレントゲンを撮ってそれを見て判断、処置しなければ命の危険性があるような場合でなければ、子どももレントゲンは撮らない。
みんなが鼻血を出しているのは被曝と関係があるのでは?と思うのも、医療に従事していたからだと思う。
湿疹はアレルギー体質の人は、空気の汚染などに敏感だから湿疹が出るだろう。
放射能は見えず臭わず、計測して数値が出て判るが、敏感な場合は体がキャッチして反応するのだろう。

●膠原病を発病
私は、夫からは精神的にもサポートを受け、また避難しても仕事を失わずに続けることができたのも、非常にラッキーだった。
ただ今よりもあの当時は、地に足が着いていない状態だった。
住む場所も仕事もあったのに、なんだかふわふわした感じだった。
そんなことも影響したのか、避難して2年目に膠原病を発症してしまった。
膠原病は自己免疫疾患の一種だが、原因も判らず病状もいろいろある。
2011年3月24日から福島市の百貨店の仕事が再開して通っていたが、中通りの郡山、福島市とも放射線量が低くなかったから、私も被曝はしているだろう。
発症は医療機関に転職してからのことだったが、自分の体調から膠原病ではないかと思って勤務先の医師に話し受診すると、やはり膠原病と診断された。
その時は、精神的にかなり落ち込んだ。
だがその先生から専門医を紹介してもらえたのはラッキーなことで、そこで薬の処方を受けたが、薬は一生飲み続けなければならないだろう。


2017年8月16日号「私の8月15日」

8月15日朝、いつものように朝食の支度を済ませ、購読紙の東京新聞を開きました。
一面の「平和の俳句」が目に入った途端、涙が溢れました。
“満州”が胸に満ち、溢れ出たように思いました。
「八月は母國という語を抱きしめる」
その句は、英文学者の小田島雄志さんが投稿された句でした。
小田島さんは敗戦の1年後、15歳の時に満州から引き揚げて来た方です。
私は小田島さんより15歳年下で、母の背に負われて引き揚げてきたのは1歳半の時でした。
ですから小田島さんが体験した“満州”も引き揚げ時の光景も、私の記憶には全くありません。
それなのになぜでしょう。
「母國という語を抱きしめる」と読んだ時に、“私の中の満州”が一気に胸にせりあげてきたのでした。

子供の時から私は、自分のことで泣いたことがありません。
4つの時に、倒れた墓石の上に転んで大腿骨を骨折したその時も、骨折院に入院して痛い治療をされた時も、「先生のバカァ!」と喚いても泣かなかったそうです。
引揚者で母子家庭は、差別か同情の対象でした。
差別的な言動に遇えば、言い返すか手足で相手を攻撃しました。
同情に遇えば、ふくれっ面をしてそっぽを向きました。
差別や同情に晒されるのは我慢ができないことでした。
涙は差別する相手や憐れむ相手の思い通りの私になってしまうということは、幼い私が直感的に感じていたことでした。
だからそんな時には、怒りを相手にぶつけたのでした。
母や叔母達には「強情っぱりな子だ」と言われていました。

母が死んだ後で幾度となく訪ねたハルピン、そこから通った旧満州各地で会った残留邦人の方たち。
母國を恋ながら、かの地で亡くなった方たち。
「落葉帰根」の思いを抱き続け、戦後数十年経ってようやく帰国したものの十分な生活保障もないまま、母國に抱きしめられぬまま故人となった方たち。
お一人お一人の顔が浮かんできたのでした。
哈尓濱外僑養老院で亡くなった亀井さん、林さん、玉田さん、鳥越さん、上田さん。
朝鮮人の伊さん、白さん、安さん、アメリカ人のマグリー・フラー、ロシア人のコーリャン、ポポフ、マリナ…
黒河や斉斉哈尓、牡丹江、長春、海拉尓で会った残留孤児の劉さん、王さん、李さん、丹さん、楊さん、張さん…
哈尓濱や孫呉で幾度となく会い、帰国されてからも埼玉の帰国者定着促進センターで、また故郷の山梨に帰郷されてからも会い、そこで亡くなった岩間典夫さん。
方正で会った松田ちゑさん、大友愛子さん篠田君子さん、方正は何度か訪ねたのに皆さんが帰国されてからは、とうとう会えずじまいのまま鬼籍に入られた。
そして方正に稲作指導に通っていらした藤原長作さん。
長春で、そして哈尓濱でも会った松永緑さんは故郷の佐賀県に帰国されてから、何度も遊びにいらっしゃいと誘ってくれましたが、とうとう再会できぬまま旅立たれました。

「八月は母國という語を抱きしめる」小田島さんの句に“満州”で会った人たちのお顔が走馬灯のように思い浮かび、だのに、そこには父の顔はありませんでした。
2017年8月15日、私が自分に涙を流した朝でした。          

いちえ


2017年8月2日号「お知らせ」

◎お知らせ①
早いものでもう8月。
今日はしのぎやすい一日で、ホッと一息つけました。
さて、明日は3日。
「アベ政治を許さない!」一斉行動日です。
明日の国会前は、澤地さんはご都合があっておいでになれませんが、「アベ政治を許さない!」声を緩めず上げていきましょう。
アベ政権支持率ガタ落ちで、「あ」の人も態度だけは下手に出ているように見せていますが、本質は全く変わらず下手に出た態度で、市民を欺こうとしていると思えます。
どうぞ、ご自分の場所で、メッセージを掲げましょう。

◎お知らせ②
トークの会「福島の声を聞こう!vol.24」は、今週末の5日です。
郡山から川崎へ母子避難の、松本徳子さんのお話をぜひお聞きください。
皆様のご参加をお待ちしています。                    

いちえ

vol24-2






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