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更新情報 8月6日号「核戦争の脅威、北朝鮮かアメリカ合衆国か?」

みなさま

改憲を目論む安倍政権は集団的自衛権論を打ち出していますが、知人からのメールを転送します。いつも貴重な情報を送ってくれる方からです。                

いちえ


核戦争の脅威、北朝鮮かアメリカ合衆国か?

みなさまへ
私たちの耳も長いあいだ、「戦争の脅威」はイランだ、北朝鮮だと、慣らされてきました。
60年目になる朝鮮戦争休戦協定発効の7月27日の直前に、グローバル・リサーチ・センターの設立者、ミシェル・チョスドフスキィ氏が、「だれが核戦争の脅威なのか?」ときびしく問う論考を発表しましたので、拙訳ですが紹介させていただきます。
7月27日の記念日に、オバマ大統領は、休戦協定の 一方の当事者であることも忘れて「韓国が勝利した」などと、朝鮮民主主義人民共和国と休戦協定そのものを無視した発言をしていました。
一方、日本は朝鮮戦争「特需」を土台にその後の経済発展を遂げたことも忘れ、米ソ冷戦下の状況のみならず、この戦争には、あらゆる資産を収奪した36年に及ぶ日本の植民地支配が深くかかわっていたことも忘れ、さらにその後の「戦争・戦後責任」も忘れて、「他人事」 のような有様です。まさに、「歴史を忘れた民族に未来は無い」(日韓戦で韓国サポーターが掲げた横断幕)。
フクシマを経て、原爆投下68年目を迎えるとき、「原爆神話」を利用したアメリカの核脅迫政策が東アジアと世界をどのように管理、演出してきたの か、考える材料にしていただきたいと思います。

The Threat of Nuclear War, North Korea or the United States?
Url of this article:
http://www.globalresearch.ca/the-threat-of-nuclear-war-north-korea-or-the-united-states/5343793

核戦争の脅威、北朝鮮かアメリカ合衆国か?
ミシェル・チョスドフスキィ教授(松元保昭訳)
2013年7月25日
グローバル・リサーチ誌

西側メディアが北朝鮮の核兵器準備を全世界の安全保障の脅威として描いているのに、半世紀以上ものあいだ核攻撃(戦略)で米国が北朝鮮を脅迫していることを認めようとはしない。
2013年7月27日 の休戦記念日では、北と南の朝鮮が朝鮮戦争(1950~53)の終結を記念するだろう。1950年の朝鮮戦争の初期に、米国が北朝鮮に対する核兵器の使用を考えていたことは、広範な大衆には知られていなかった。戦争の直後に米国は、1953年の休戦協定に違反して、朝鮮民主主義人民共和国 (DPRK)に対して先制攻撃を基本とした核兵器を韓国に配備した。

●「ヒロシマ・ドクトリン」を北朝鮮に適応
韓国に関連する米国の核ドクトリンは、大規模に民間人に向けられた1945年8月のヒロシマとナガサキへの原爆投下 に引き続き創案された。
「ヒロシマ・ドクトリ ン」のもとでは、核攻撃の戦略目標は何万もの死者をもたらすことになる「大規模な犠牲者を生み出す出来事」を誘発することであった。その目的は、軍事的征服の期待値として全国民を脅えさせることであった。軍事目標は、主要な目的ではなかった:「副次的被害」の観念は、ヒロシマは「軍事基地」だっ た、したがって民間人は軍事目標ではなかったという公式の見せかけに従って、民間人の大量殺害の正当化として利用された。
ハリー・トルーマンの言葉では:
「われわれは、世界史上もっとも恐ろしい爆弾を発見した。 この兵器は、日本に対して使われるべきである。…[われわれは]女性や子どもたちではなく、軍事目標および兵士や船員が標的であり、 そのように使いたい。たとえジャップが、凶暴で冷酷で残酷で狂信的であっても、公共の福利のため世界のリーダーとして古い都市、あるいは新しい都市にその恐ろしい爆弾を落とすことは出来ない…目標は完全に軍事的なものであろう…これまで発見されたもっとも恐ろしいものだが、それは最大限利用されるだろう。」(ハリー・S・トルーマン大統領の日記、1945年7月25日)
「世界は、最初の原子爆弾が軍事基地広島に落とされたことに注目するだ ろう。というのは、われわれがこの最初の攻撃で民間人の殺害を可能な限り避けることを望んだからであった。」(ハリー・S・トルーマン大統領の国民へのラジオ・スピーチ、1945年8月9日)
[原注:最初の原子爆弾は1945年8月6日にヒロシマに落とされた。二回目は8月9日 ナガサキで、同じ日に国民に向けてトルーマンのラジオ・スピーチがあった。]
米国政府と軍隊上層部の中では、ヒロシマが軍事基地であったとは誰一人考えていなかったのであって、トルーマンは自身とアメリカ国民に嘘をついていたことになる。今日まで、 戦争終結をもたらし最終的には「人命救助」のための避けがたい犠牲として、日本に対する核兵器の使用が正当化されているのだ。

●米国核兵器の韓国における備蓄と配備
朝鮮戦争が終わったわずか2,3年後に、米国は韓国における核弾頭の 配備に着手した。ウィジョンブ(議政府市)とアニャン=ニ(安養市)におけるこの配備は、1956年の早い時期に考えられていた。
韓国へ核弾頭を持ち込む米国の決定 が、相争っている両者に朝鮮(両国)への新兵器の導入を禁止した休戦協定第13項(d)に対する露骨な違反であったことは注目に値する。
(訳者注:休戦協定第13項(d)の冒頭には、「戦闘機、装甲車輛、兵器類、および(核兵器などの)攻撃手段を増強するような朝鮮への導入を中止すること:」とある。TEXT OF THE KOREAN WAR ARMISTICE AGREEMENT
July 27, 1953
http://news.findlaw.com/cnn/docs/korea/kwarmagr072753.html

実際の核弾頭配備は、朝鮮戦争が終 わった4年半後の1958年1月に始まった。「オーネスト・ジョ ン地対地ミサイル、マタドール巡航ミサイル、原子爆破弾(ADM)核地雷、および280ミリ核砲弾と8インチ(203ミリ)榴弾砲:これら5つの核兵器システムの導入によっ て。」(The nuclear information project: US Nuclear Weapons in Korea参照)
デーヴィ・クロケット発射体(初期の 戦術核兵器=訳者注)は、1962年7月と1968年6月の間に韓国に配備された。その弾頭は、選り抜きの効果を発揮 する0,25キロトンであり、発射体はたった34,5キログラムの重さであった。戦闘爆撃 機の核爆弾は、1958年3月に到着した。1960年7月と1963年9月の間に、三基の地対地ミサイル・シ ステム(ラクロース、デーヴィ・クロケット、およびサージェント)が続いた。対空・地対地の二重任務を持つナイキ・ヘラクレス・ミサイル は1961年1月に着いた。最後に、155ミリ核砲弾・ホイッツアーが1964年10月 に到着した。この増強のピークで、ほぼ950の核弾頭が韓国に配備された。
他のものでは何十年も持ちこたえる一 方で、残る4つの武器タイプだけが、わずかな期間配備された。韓国に対する米国の核兵器配備の全33年間を通じて、8インチ核砲弾・ホイッツアー、唯一その兵器だ けが、1991年後半まで持ちこたえた。最後まで持ちこたえたその他の兵器 は、空中攻撃爆弾(数種の異なる爆弾タイプがB61でその時期が終わるまで配備された)および155ミリ・ホイッツアー核発射装置であった。
公式には、韓国における米国の核兵器 配備は、33年間続いた。その配備は、中国とソ連ならびに北朝鮮を標的にし ていた。

●韓国の核兵器計画
米国の韓国における核弾頭配備と協調 しつつ共存していた大韓民国(ROK)自身が、1970年代初期には核兵器計画に着手していた。公式の説明は、米国が 韓国の核兵器計画を断念させるためソウルに圧力をかけたということである。「1975年4月、いかなる核分裂物質を生産するより以前に核兵器不拡散条約(NPT)に調印せよ」と。(ダニエル・A・ピンクストン「韓国 の核実験」CNSリサーチ・ストーリー、2004年11月9日、http://cns.miis.edu.)
北朝鮮を脅迫する目的とした大韓民国 の核開発は、米国の管理下で1970年代の早い段階からであり、米国の核兵器配備の構成部分として 開発されていた。
その上、1978年、公式にはこの計画が終わったので、米国は、核兵器の使用に 関する大韓民国軍隊の訓練はもちろん科学的に高度な技能を奨励し促進した。そして、心に留めておくことは:大韓民国=米国の合同軍司令部(CFC)合意に従って、大韓民国のすべて の作戦部隊は、統合指令のもとで米軍司令官によって率いられる。これは、韓国軍によって設置されたすべての軍事施設および軍事基地は、事 実上、合同施設であることを意味する。大韓民国には、合計27の米国軍事施設がある。(List of United States Army installations in South Korea – Wikipedia参照)

●米国本土および米戦略潜水艦からの対北朝鮮核攻撃計画
軍事情報によれば、韓国からの米国核 兵器の移転は、1970年代半ばに始められ、1991年には完了した。
オサン(烏山)空軍基地にある核兵器 貯蔵サイトは、1977年後半には任務が解かれた。この縮小は以下の数年にわたって続 いたが、韓国における核兵器数は、1976年の約540から、1985年には核砲弾および核爆弾など約150の発射装置に減少した。1991年 の大統領核構想のときには、およそ100の核弾頭が残っていたが、1991年12月 にそのすべてが撤収された。(The nuclear information project: withdrawal of US nuclear weapons from South Korea)
公式声明によれば、米国は1991年12月には韓国から核兵器を撤退した。
しかし韓国からのこの撤退は、朝鮮民 主主義人民共和国(DPRK)に直接向けられる核戦争という米国の脅迫のいかなる変更でもなかった。それどころか:それは、核弾頭配備に 関する米国の軍事戦略の変更に拘束されていた。主要な北朝鮮の都市は、韓国の軍事施設よりむしろ米国の戦略ミサイル原子力潜水艦 (SSBN)から、および米国本土の核設置場所から、それぞれ核弾頭による目標とされていた:
1991年12月の韓国からの[米国]核兵器の撤退の後、シーモア・ジョンソン空軍基地の第4戦闘航空団は、北朝鮮に対する核攻撃計画を任務として課されていた。それ以来、非戦略核兵器による北 朝鮮に対する攻撃計画は、アメリカ合衆国本土にある戦闘爆撃基地の任務となっていた。これらのひとつが、ノースカロライナ州にあるシーモ ア・ジョンソン空軍基地の第4戦闘航空団である…。
「われわれは、韓国のシナリオを 使って、韓国での交戦をシミュレーションしてみた。…そのシナリオは…核兵器を使用した条件を考慮に入れた(米国の)国家最高指令部 の決定をシミュレートした。…われわれは、航空機に戦術核兵器を積載するため[兵器]積み込み機、および乗員、航空機を確認し た…。」
15分 以内に目標を攻撃する能力があるので、トライデントD5水中発射型弾道ミサイルは米韓軍の「基幹系システム」で ある。弾道ミサイル潜水艦および長距離爆撃機…
非戦略空輸核爆弾に加えて、水中発射型弾道ミサイルがオハイオ・クラスの戦略ミサイル原子力潜水艦 (SSBNs)に搭載されて太平洋上で偵察することは、また北朝鮮に対する任務をもっていると考えられる。1998年の国防総省(DOD)総括監察官報告は、米国太平洋軍および米韓合同軍によって認定された「基幹系システム」を「彼らにとってきわめて 重要な存在」としてトライデント・システムをリストに載せた。
トライデント・システムの主要な任務 がロシアおよび中国の目標に向けられているにもかかわらず、低い弾道飛行で発射されるD5ミサイルは、北朝鮮における緊急時間を要する目 標に対して非常に特異な短時間通告(12~13分)の攻撃能力を備えている。他のい かなる米国の核兵器システムも、そんなに速く狙い通り弾頭を目標に当てることはできない。太平洋にある2~3の戦略ミサイル原子力潜水艦 (SSBNs)は、ロシア、中国、および北朝鮮の指定された警戒地域の恐れ ある目標に向けて、いついかなる時にも「厳重警戒態勢」にある。
また北朝鮮に対しては、ほとんど特性 が知られていないが、長距離戦略爆撃機が核攻撃の役割として配備されているかもしれない。空軍地図(以下参照)は、北朝鮮に対するB-2(ステルス戦略爆撃機)の攻撃役割を示唆している。B61-11地中貫通核爆弾の指定された運搬手段として、B-2(ステルス戦略爆撃機)は、北朝鮮の 深く埋設されている地下軍事施設に対する核攻撃任務可能な有力な資格がある。
B61-11地 中貫通核爆弾[ヒロシマ原爆の3~6倍の爆発能力をもつ]および次世代の より強力な地中貫通核爆弾の指定された運搬手段として、B-2 ステルス核爆撃機は、北朝鮮の標的に対して重要な役割をもって いると考えられる。最新の改良兵器は、8時間以内で新B-2核攻撃任務の計画を可能にしている。
「当時、韓国政府は撤退を確認してい たが、米国の主張は明確なものではなかった。その結果として、核兵器が韓国に残されているという―とりわけ南北朝鮮では―うわさが長いあ いだ残された。しかし、その撤退は、1991年の太平洋軍司令部(CINCPAC)小史の機密情報から一部 はずされて、1998年、太平洋軍司令部によって確認された。」(The nuclear information project: withdrawal of US nuclear weapons from South Korea, emphasis added)

●ブッシュ政権の2001年核態勢展望:先制核戦争
ブッシュ政権は、その2001年核態勢展望で、新しいポスト9・11の「先制攻撃」核 戦争ドクトリン、すなわち、核兵器は非核諸国に対する「自己防衛」の手段として使用されうるとする輪郭を打ち立てた。
北朝鮮に向けられた「米国核攻撃能力の必要条件」は、オマハ・ネブラスカの米国戦略司令本部の指揮に従う地球規 模攻撃―中国、ロシア、ならびに北朝鮮を含む若干の「ならずもの国家」に向けられた、いわゆるCONPLAN 8022―の一部として確立された。
2005年11月18日 には、必然的に北朝鮮を含む核戦争演習の検証を経た後、STRATCOM(米戦略軍)で宇宙および地球規模攻撃司令の戦闘準備が整った。
最新の北朝鮮に対する米国核攻撃計画 は、三つの機能を受け持つようだ。第一は、武力衝突以前に北朝鮮の行動に影響を与えることを目的とした漠然と定義された伝統的抑止力機能 である。
2001年 の核態勢展望で、この機能は、たんに抑止するだけでなく大量破壊兵器に関わることを北朝鮮に思いとどまらせるよういくぶん広げられた。
50年 も核兵器で北朝鮮に立ちはだかっているというのに、さらなる核保有能力を考えているブッシュ政権が、なんとかして北朝鮮に大量破壊兵器 [核兵器計画]の追求を思いとどまらせたいという理由は、まったく不可解なことである。

●だれが脅威か?北朝鮮かアメリカ合衆国か?
米国と朝鮮民主主義人民共和国(DPRK) との核兵器能力の非対称は、強調されなければならない。アメリカ合衆国のArmsControl.org(2013年4月)によれば:
「戦術核・戦略核、および非配備 の核兵器を含めて、5113の核弾頭を保有している。」
新STARTの最新の公式発表によれば、5113以上の核兵器からさらに、
「米国は、戦略爆撃機および792の ICBMs, SLBMs,に配備によって、1654の戦略核弾頭を配備している。…」ArmsControl.org (2013年4月).
その上、米国科学者連盟によれば、米 国は500の戦術核弾頭を保有している。(ArmsControl.org 2013年4月)
同じ情報によるDPRK(朝鮮民主主義人民共和国)との対比では:
「およそ4~8の核弾頭に必要なプルトニウムを 分離した。北朝鮮は2010年に遠心分離器の能力を公にしたが、高度なウラン濃縮をす るには疑わしい能力で、兵器としてははっきりしないままである。」
専門家の意見によれば:
「北朝鮮がアメリカ合衆国その他どこかに核武装されたミサ イルを命中させる手段をもっている証拠はどこにもない。今のところ、いくつかの原爆を製造し実験したが、核爆弾を小型化しそれをミサ イルに設置する技術および燃料を欠いている。」( North Korea: What’s really happening – Salon.com 2013年4月5日)
アメリカの著名な核科学者のひとり、 シーグフリード・ヘッカーによれば:
「その最近の脅威にもかかわらず、核実験の経験を制限され たうえ核分裂物質の材料に不足して、北朝鮮はまだ核兵器保有量の多くをもってはいない。」

核戦争の脅威は、DPRK(朝鮮民主主義人民共和国)から発するのでなく、米国とその同盟国から始まる。
暗黙のうちに米国の軍事攻撃の犠牲者 となった朝鮮民主主義人民共和国は、戦争を仕掛ける国民、アメリカ本国の脅威の種、そして「世界平和の脅威」として絶え間なく描かれてき た。これらの固定化された難癖が、メディアの一致した見解となった。
一方で、ワシントンは、2002年の上院決議によれば「周囲の民間住民には無 害である」な どとい う、その戦術核兵器の改良ならびに戦略核兵器の刷新に320億ドルを、現在提供している。
DPRK(朝鮮民主主義人民共和国)に向けられた、これらの継続する潜在的攻撃という行動および脅威は、また、 中国およびロシアに向けた東アジアにおけるより広範な米国の軍事アジェンダの一部として理解されるべきである。
米国あるいは(日本を含む)西側諸国 にいる国中の人々が、北朝鮮やイランより、むしろアメリカ合衆国が世界の安全に対する脅威であると明瞭に理解するようになることが重要な のだ。

(以上、翻訳終り)
Copyright © 2013 Global Research


更新情報 7月25日号「お知らせ②」

みなさま

第7回目となるトークの会、「福島の声を聞こう」のお知らせです。
8月最後の土曜日、みなさまのご参加をお待ちしています。

日 時:8月31日(土)午後2時(開場午後1時半)
開 場:セッションハウス・ガーデン
参加費:1500円
主催・お問い合わせ:セッションハウス企画室 03-3266-0461

mail@session-house.net
http://www.session-house.net

いちえ


更新情報 7月24日号「お知らせ」

みなさま

参議院選は予測された通りに、自民党が過半数を占める結果となりました。
けれども一方で、東京選挙区では吉良よし子さん、山本太郎さんが当選したことは、希望を捨てずに歩む勇気を奮い起こさせてくれるものでもありました。
すべての原発停止と再稼働反対、TPP参加反対、憲法改悪反対の声を、なお一層強くあげ続けていきます。

さて、小林 恵(こばやしけい)さんの写真展のお知らせです。

☆『フクシマ』小林 恵写真展
会期:8月19日(月)~8月31日(土)11:00~18:00 日・木曜日は休館
19日の開場時間は13:00
場所:いのちのことば社 tギャラリー 東京都千代田区神田駿河台2-1
お茶の水クリスチャンセンター5階
Tel 03-5341-6911
http://wlpm.or.jp/tgallery
JR中央線、総武線「お茶の水」駅より徒歩2~3分
東京メトロ丸ノ内線・千代田線「新御茶ノ水」駅より徒歩~3分

野党勢力の一本化がならず、原発再稼働と共に輸出を進めようとする自民党が圧勝しました。けれども未だに事故は収束しておらず、先の見通しも不明なままです。
福島とその周辺に住む多くの人々が、避難を余儀なくされ、見えない放射能に不安を覚えています。
3・11以後の福島の自然や、外で遊べない子どもたちの保養キャンプの様子をカメラに収めてきた小林 恵さんの写真展です。
昨年銀座のギャラリーで開催された写真展で、私も小林さんの捉えた『フクシマ』を拝見しました。
静かなモノクロームの写真には、そこに“あった筈の暮し”や“居た筈の人たち”もが写し出されているようでした。
小林さんの写真からは、消えてしまった人や暮し”の悲しみと苦しみ、憤りが伝わってくるようでした。
多くの方に見て頂きたい写真です。
写真展開催記念として、初日の19日には小林さんと私のトークと対談があります。

☆トーク&対談
小林 恵(フォトグラファー)×渡辺一枝
『あたりまえのものが失われた世界を生きる』
日時:8月19日(月)14時30分(開場14時)*写真展開場は13:00です。
会場:いのちのことば社 t ギャラリー(お茶の水クリスチャン・センター5階)
定員:70名(事前予約制)*入場無料
参加希望の方は事前に下記までお申し込み下さい。
お申し込み用ダイアル 03-5341-6920(いのちのことば社)

いちえ


更新情報 7月16日号「南相馬で」

みなさま

今朝は9時から小池第3仮設住宅と、寺内塚合仮設住宅の2カ所で、ヘアーサロンを開設しました。
小池第3には理容師さんが一人。寺内塚合には理容師さんと美容師さんが一人ずつ。
長野県から来て下さった藤沢守さん、美代子さんご夫婦と娘さんの茜さんのファミリーです。
今日は同時に別のグループによるチャンチャンコ作り講習会もあって、六角支援隊の鈴木さんと荒川さんと私の3人で手分けしての活動でした。
チャンチャンコ作りの会場は、小池第3仮設住宅と小池長沼仮設住宅にしたので、小池第3では同時に二つの催しが重なったのでした。
私は寺内塚合のヘアーサロンを担当しました。

9時からヘアーサロン開設と告知してあったのですが、やっぱり9時前から待っている人が居ました。
この仮設住宅は小高区の人たちが多いのですが、高齢者ばかりです。
集会所の床にブルーシートを敷いて、椅子を2脚並べ、それぞれの椅子の前には姿見を立て、ブルーシートの端にはスリッパを並べました。
“お客さん”の座る椅子のもっと後方にも、それぞれ椅子を用意して、ヘアードライアーや消毒用のウェットティッシュの箱、タオル、それから肩に掛けて上半身を覆う大きなケープなどを用意しました。
美容師の美代子さんも、理容師の茜さんも、腰に仕事用の七つ道具の入ったバッグを付けて、スタンバイしています。
ブルーシートが敷かれていない部分に並べた椅子が、“待合室”です。
一番乗りの男性は美代子さんが担当、二番目に来た男性は茜さんの椅子に座って。
美代子さんは気さくに話しかけながら、年若い茜さんは年長者が相手なので丁寧に言葉を選びながら、リズミカルに手を動かしてカットしていきます。
カットの済んだおじいちゃんもおばあちゃんも、さっぱりして気持ち良さそうです。
「ありがとうございました」とお礼を言って椅子を立つ”お客さん”を、美代子さんも茜さんもまた「ありがとうございました」と、言ってお送りするのでした。

82歳のTさんは、「頭洗ってないから…」と遠慮するのを誘って、仮設の集会所にお連れしたのです。
Tさんの髪は、肩までかかっていました。
椅子に座ってからもまだ「髪洗ってないんだ」と恥ずかしそうに言うTさんに茜さんは、「大丈夫ですよ。髪が長いと、頭洗うのも大変ですよね」とTさんの気持ちをほぐすように応えます。
「短くしていいですか?」と聞く茜さんにTさんは、「うんと短くして。2年以上伸ばしっぱなしだった」と言います。
ということは、3・11以来初めてのヘアーカットです。
Tさんもまた他の被災者と同じように、3月11日に避難所に避難し、それから避難所を転々とした後で仮設住宅に入りました。
仮設住宅に入居後、髪を切るにはどこに行けばいいのかが判らずに、伸びるままになっていたのだそうです。
小高区に住んでいた時のTさんは、鹿島区に来ることもありませんでしたから、どこに床屋さん、美容院があるのかが判らなかったと言います。
茜さんは「仮設のお風呂は狭いから、頭洗うのも大変でしょう?短くしたらシャワーでも簡単に洗えますからね」と、Tさんの話を聞きながら応対していました。
Tさんの髪は丁寧にカットされていき、セシールカット(古いですか?)のようになって、ちょっとボーイッシュで素敵です。
こころなしか、表情も明るくなったように見えました。
隣の椅子で美代子さんにカットして貰っていたSさんも、“待合室”に座っていたMさんも、すっかり変身したTさんの姿に「あれぇ!似合うよぉ!」と歓声を上げていました。
Mさんのカットが済むまでTさんもSさんも待っていて、その後も3人は外のベンチでお喋りをしていました。
小高に居た時は、どこで髪を切ったりパーマをかけたりしていたかなどで、話が弾んでいたようでした。

髪を短くすると、頭が軽くなります。
きっと、今日カットしたみなさんは、気持ちも軽くなったことと思います。
藤沢ファミリーは、また11月にもヘアーサロンを開いてくれることになっています。
今日の“お客さん”たちの中には「お盆前に、カットしてもらって良かった。きれいな頭で墓参りに行ける」と言った人や、「野馬追が近いからな。さっぱりしておかなくちゃ」という人も居ました。
仮設住宅に暮らしていても、そうした行事が生きているここでの暮しです。

いちえ


更新情報 7月15日号「南相馬で③」

みなさま

まだ会ったことはないのですが、飯坂に避難しているCさんのことを。

Cさんから初めてお手紙を頂いたのは、昨年の春のことでした。
児童書の出版社が出しているPR誌に書いたエッセーを読んだCさんから、出版社を経由してその手紙が届いたのでした。
Cさんの実家は南相馬市で、結婚して小高区に住んでいました。
二人の娘さんと、息子さんが一人います。
Cさんもご主人も小高区にある学校で、先生をしていました。
3・11後、Cさんは子どもたちと飯坂に避難し、特別学級の先生の職を得て働いています。
ご主人は南相馬の学校に移ったので、南相馬にアパートを借りてそこから通勤しています。
子どもたちは避難先の学校に転校したのですが、小学生の次女が小高の学校に戻りたいと言って、毎朝酷くごねて暴れるのだそうです。
Cさんからの始めの頃のお手紙は、そんなことが淡々と綴られていました。
返事を書き、また手紙を頂きと重ねて来たのです。
Cさんの実家は農家で、お父さんは毎朝早く米作りも野菜作りも出来なくなった畑に行っては、草取りをしていると書かれていた手紙は、何通目のことだったでしょう。
そこには、「農家は土と離れては暮らせないのです」と書かれていました。
六角支援隊で試験田をすることをお知らせしてから、ふつりと手紙が届かなくなりました。
案じていたら、昨日電話を頂きました。
長い無沙汰を詫びるCさんの言葉に、胸が痛くなりました。
3度目の3・11を迎える頃から、字を書いたり、本を読むことができなくなっていたと言うのです。
読書が好き、手紙や文を書くのが好きで、読んだり書いたりが自分を支えてきたと思っていたのに、手紙を書こうとすると字が乱れて文が続かなくなっていたと言うのです。
避難生活で家族は分断、環境に適応できずに苦しむ次女への対応も大変なことでしょうが、Cさん自身だって、いや家族の誰もがこんな理不尽な変化に戸惑っているのです。
そんな戸惑いになんとか折り合いをつけながら毎日をどうにか過ごしていても、あの日を周年する時期には、そうと意識してはいなくても増大する不安が、体の症状や行動に現れてしまうこともあるのではないかと思いました。

電話口のCさんは言いました。
この連休中に小高の家の掃除に、通っているのだそうです。
戸締まりはしっかりして出たので大型野生動物の侵入は免れているけれど、鼠の害が酷いそうです。
「風呂にはタップリ水をはったまま避難したけれど、2年数ヶ月の間に水はすっかり抜けてしまって、その排水溝から侵入したらしいです。
風呂場にその痕跡が一番大きいですから。
家の中じゅう、鼠が荒し回って酷いことになってます。
明日は大型ゴミを回収してくれる日なので、冷蔵庫や大きな物を外に出したところです。
だけどこんな状態では、放射能より鼠のために、もうこの家には住めないんじゃないかと思ってます」

小高区は去年の4月の警戒区域解除で区域再編成されて、帰還困難区域以外は昼間は自由に帰れるようになりました。
厨房用品を作っているタニコーは、小高の工場での操業を再開しましたし、掃除等で帰宅する人も居て、昼間は人の気配のある小高です。
夜は、鼠が駆けまわっているのでしょうか。
小高に行くと、冷蔵庫や大きな家具類、衣類や食品等の生活ゴミを詰めたフレコンバッグが幾つも庭先や道路際に積まれているのが目につきます。
フレコンバッグに詰めた生活ゴミは、ようやく先月から市内のゴミ処理場に順に運び込まれるようになりました。
冷蔵庫など家電類も仮置き場が決まり、各家庭から運び出されることになりました。
目に見えるゴミは片付けられていきますが、匂いも色もないゴミが残ります。
Cさん一家が、小高に戻れる日は来るのだろうか?
Cさんの娘さんがまた懐かしい級友たちと、共に学べる日が戻ってくるのだろうか?
Cさんからの電話を切って、それを思いました。

いちえ


更新情報 7月15日号「南相馬で②」

みなさま

朝の仮設住宅に、参議院選挙立候補者の宣伝カーが来ていました。
元双葉町長の井戸川克隆さんでした。
運動員の他に聞いている人は数人でした。
他の候補者の宣伝カーが来た時との比較が出来ないのですが、これは、選挙に対する関心の薄さからだけではないのではないかと私には思われます。
南相馬の人たちの、原発立地の町の元町長に対する思いは複雑です。
それはそれとして、来る21日の参議院選挙、本当に悩ましいです。
これからの日本がどうなるかという大事な大事な選挙ですが、候補者、あるいは党の姿勢だけを考えては、一票を投じられない思いです。
思わぬ方へ票が集まることがないようにするためには、自分の思っている候補者に入れるのが必ずしも良い結果を生むとは限らないのではないかと思えるからです。
投票日まであと5日。
悩み抜くことになりそうです。

午後の歌の会の前に、小池第3仮設住宅のSさんを訪ねました。
Sさんに会うのは、本当に久しぶりでした。
Sさんは集会所での催しには、まず顔を出さない人なので、それでお訪ねしたのです。
2ヶ月ほど前に、Sさんから苺やぶどう、スイカを模したアクリル毛糸で編んだタワシが、たくさん送られてきたので、その御礼を届けたかったのです。
久しぶりの挨拶のあとで、Sさんは話し始めました。
以前にも聞いたことのあった話でしたが、それはこうです。
原発事故の後で、息子さんがいる東京に避難していた時のことです。
風邪を引いたSさんは、息子の家の近くのお医者さんに行きました。
お医者さんはSさんよりも高齢の先生だったそうですが、看護師の奥さんと二人で診療に当てって居る医院でした。
初めての患者さんであるSさんに、先生はいろいろ訊ねました。
そしてSさんが南相馬の小高区からの避難者であることを知ると、「私たち東京に住んでる者のために福島の方達には、大変なご苦労をかけさせてしまい、本当に申し訳ない」と言って、深く頭を下げられたそうです。
Sさんは、仮設住宅に移ってから先生に御礼の手紙を書いたそうです。
「字は下手ですし、文章もよくないですが心を込めて書きました」というSさんからの手紙に先生は、返事と共にペットボトル入りの水を送って下さったそうです。
そしてその後も、季節の変わり目にはいつも、水やお茶、お菓子を送って下さるそうです。
足腰が弱っていて、手押し車がないと外を歩けないSさんは言います。
「車押してると珍しいんだべね。
東京に居たときは、いろんな人に声かけられた。
みんなに親切だったよ。
よく声かけてくれて仲良くなった人からは、手紙も来るし、返事も書くの。
文章も駄目だけど、気持ちだけはこめてんだ。
子供の時から辛いこといっぺいあったけど、そんなこと思いだし思いだしして、書いてたんだ。
ほれ、ここがこんなでしょ?(Sさんは言いながら前髪をあげて脇額を見せてくれました。やけどの跡がありました)
ちっちぇえ時、家に囲炉裏があったべ?
ずりずり這って、頭突っ込んじまったんだな。
おっきくなってかかさんが書いた手紙を、仏壇で見つけたのよ。
『後生大事に育ててきた子です。
どうか、この子をお守り下さい。
誠心誠意お祈り申し上げます』っち書いてあった。
そのことが私の頭にはずっと残ってる。
そんなことも書いて、書いて、これくらいになってたんだ。(と言ってSさんは右手の親指と人差し指で、厚みを示して見せてくれました)
みんな、流されちまった。
みんな」
Sさんは、自分史を書き出していたのでしょう。
津波で何もかも流されたSさんですが、なによりも綴ってきた自分の歴史が流されてしまったことは、どんなに淋しく悔しいことでしょう。
Sさんが再び自分史を書き始めてくれることを、祈ります。

いちえ


更新情報 7月15日号「南相馬で」

みなさま

今日は「東葛はるかぜ合唱団」の方たちが、午前中は小池長沼仮設住宅を、午後が小池第3仮設住宅を訪問して、仮設住宅のみなさんと共に歌う会を催しました。
私も六角支援隊のお手伝いとして、そこに参加しました。
合唱団のみなさんは歌詞をプリントした物を用意されてきていて、参加者のリクエストに応えてみんなで一緒に歌う会でした。
合唱団にはアコーディオン奏者もいて、その伴奏で歌ったのです。
♪ミカンの花咲く丘♪♪四季の歌♪♪高原列車は行く♪等等、懐かしのメロディーが次々に歌われました。
みなさん楽しげに歌っていましたが、参加者は両会場併せても男性は3人だけで、圧倒的に女性ばかり。
おばあちゃんたちは、しばし青春時代に戻ったようでした。
高齢の男性たちが参加できる催しは、「飲み会」のようなものだといいのでしょうが、仮設住宅の集会所では、アルコールは御法度です。
自室で飲むぶんにはそんな規則はないのですが、集会所ではそれが出来ません。
何か良い工夫はないものかと、思います。

小池第3仮設では、またたくさんの縫いぐるみが私を待っていてくれました。
作ってくれた黒沢さんは、「作っている時の気持ちは一つ一つ違って、夜は部屋でひとりで居るから、作ってるのが楽しいんだ。気持ちが紛れるんだ」と言っています。
小高区にあった自宅は津波で流され、ご主人と娘さんを亡くされて、ひとりぼっちになった黒沢さんです。

いちえ


更新情報 7月14日号「南相馬で③」

みなさま

六角支援隊のトシさんから聞いた話です。
トシさんの友人に、小さなお店をやっている人がいるそうです。
そこでは煙草や酒類も売っているので、どちらも大好きなトシさんは、たびたびその店に寄っています。
トシさんが、先日友人の店の前を通りかかったときに、珍しく友人の方が店から出てきてトシさんを呼び止め「ちょっと聞いてくれ」と話し出したそうです。
友人には弟が一人いるのですが、その弟が震災以降すっかり変わってしまったと言うのです。
部屋に閉じこもって外に出ようとせず、お兄さんともあまり話さなくなってしまったと言うのです。
トシさんは震災以降、何度もその友人には会っていたのに、それまで一度もそんな話は聞かなかったそうです。
トシさんの友人は思いあまって、トシさんに打ち明けたのでしょう。
友人の弟の年齢や趣味を知っていたトシさんは、友人に「六角支援隊の草刈りには、東京からボランティアも来て,彼らはバンドを組んで音楽やってる連中だから、弟もそこに顔出したらいいんじゃないか」と、伝えたそうです。
友人もトシさんの言葉に喜んでいたそうですが、昨日の草刈り隊には彼は出てきませんでした。
引きこもってしまった人がその苦しみから抜け出す助けを、他者がどんな風にできるのか私にはまだよく判りません。
でも彼のお兄さん、トシさんの友人は、もしかしたらあの日から2年数ヶ月経った今だから、ようやく弟のことを友人のトシさんに話せるようになったのかもしれないと思いました。

またこれも、トシさんから聞いた話です。
トシさんの知人で、それまでそんな性癖はまったくなかった人なのに、あの日以来“泥棒になっちゃった”人が居ると言うのです。
新聞に窃盗の記事が出て、読んでみるとその知人だったそうです。
その後もまた同じように記事になって、知人がまた事件を起こしたことを知ったそうです。
そればかりかその人は、一度はトシさんの実家からも物を盗み出したと言います。
その時は警察から連絡があって、「泥棒に入られたと言う被害届があったお宅の品物ではないかと思うので、見て欲しい」と言われ、行ってみると盗まれてなくなった品がそこに在ったそうです。
ところが、“泥棒”さんの盗み出した品はどの家から盗った物でもすべて、金銭的な価値は何もないような物ばかりで「なんでこんな物を盗むのか?」と、頭をかしげるような品ばかりだったそうです。
それで警察でも、窃盗犯で捉えても重い罪にも出来ず、すぐに釈放されて繰り返していたのでしょうか?
こんなことも、現地で起きている“あの日から”の出来事です。

昨日は夕方、次回のトークの会「福島の声を聞こう!vol.7」で話して下さる上野敬幸さんを訪ねました。
トークの会は8月31日(土)2時から、いつものセッションハウス・ガーデンで行います。
たくさんの方に上野さんの話を、ぜひお聞き頂きたいと思っています。
上野敬幸さんのことは『たぁくらたぁ』28号に書きました。
お読み頂けたら、嬉しく思います。
また、『たぁくらたぁ』30号(2013年夏号)も、既に発刊されています。
いつもながらに、ぜひたくさんの方に読んで頂きたい記事が満載です。
こちらもお読み頂けたらと、願っています。
購読申し込みは下記へ。
●「たぁくらたぁ」編集室(オフィスエム内)
〒380-0821 長野市上千歳町1137-2 アイビーハウス
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いちえ


更新情報 7月14日号「南相馬で②」

みなさま

南相馬に来た時はいつも、早朝に周辺を散歩します。
昨日の朝はいつも行く海辺の方ではなく、裏山の道を行きました。
その道は、産業廃棄物処理場建設予定地の裏を行く道です。
六角支援隊の大留さんと市長の桜井勝延さんは、この「産廃処理場から命と環境を守る会」の会長と事務局長ですし、六角支援隊のみなさんはこの会の仲間たちでもあったのです。
そうした経緯があったので原発事故後に、今「六角支援隊」と呼ばれている「原発事故から命と環境を守る会」が現地ボランティアとしての活動を始めることができたのです。

前日の雨も止んで、気持ちのいい朝でした。
舗装路ではありましたが車も人も通らず、道の脇には草が茂り放題でした。
3・11後に避難したままなのか途中の数軒の民家にも人の気配はなく、あの日からここは人が通わなくなった道のようでした。
民家の庭も雑草で荒れ放題でしたが、梅の木にはすっかり熟して黄色くなった実がたくさんなっていました。
ドクダミ、オカトラノオ、ヒヨドリソウ、サラシナショウマ、ノイバラ、アザミ、ウツボグサなどなど、野の花たちが咲く道は、途中で道の片側が崩れて「片側通行」の表示が立てられていました。
これもまた、あの日の地震で崩れ時のままのようでした。
なお行くとようやく道は下りになり、下ったその先にはオレンジ色のカンゾウの花が一面に咲く原がありました。
その向こうに太平洋が、朝の陽を返していたのです。
ここにに来る度に何人かの方達の口から聞いた言葉が、頭の中でグルグルとまわります。
「海があって、山があって、川があって、本当にいいところなんだよ」と。
そして彼らの口からはきっとまた、次の言葉が出てくるのでした。
「原発さえなければ…」と。
そんな彼らの言葉を反芻するように思いながら歩いていたのですが、何か刺激的な匂いがして
きたのです。
どこからの何の匂いなのかは判りませんでしたが、空気中が臭っていました。
時間を見て道を引き返し、また木立の中の道を戻りました。
後で会ったこの近くに実家があるAさんに朝の散歩のことを話すと、Aさんは言いました。
近くの化学工場で先日事故があって、それがまだ漏れ出しているための匂いなのだそうです。
死傷者もなく住民に避難指示も出されなかったそうですが、避難を考えた人たちもいたようでした。
「だからあの道は、しばらく歩かない方がいいよ」とも言いました。
化学工場が建設されたのは、もう数十年も前のことだそうです。
Aさんのお父さんは漁師だったそうですが、工場からの水が海に流れ込むようになってから船泊まりも砂で浅くもなり、また川の水も臭うようになったので船は引き揚げて漁に出るのは止めたそうです。
Aさんのお父さんたちが化学工場建設反対をしたのかどうかは聞き漏らしましたが、同じ道を私たちは歩いているのだと思えました。

いちえ


更新情報 7月14日号「南相馬で①」

みなさま

昨日から南相馬に来ています。
5月に試験田の田植えにボランティアで参加して下さった、八王子や国分寺の方たちもまた昨夜南相馬入りをしました。
彼らは市民放射線測定室や、有機農法生産者と消費者を繋ぐ活動や、二本松や郡山、川俣町の子どもたちの保養プログラムにも取り組んできた人たちです。
試験田の田植えに参加するにあたっては、「南相馬 田んぼ測定!プロジェクト」を組んで、やって来てくれたのでした。

そして今日午前中は、彼らと一緒に試験田のお世話をして下さった鹿島区の農家の小林さんのお宅を訪ねました。
小林さんは、試験田に水を引いたり、ゼオライトやカリ肥料を蒔き、代掻きなど田植えの準備をすべてして下さった方です。
「南相馬 田んぼ測定!プロジェクト」のみなさんから、試験田の線量測定結果を伝えるために訪問したのでした。
彼らのプロジェクトは、安全なお米が出来るまでの放射線測定や、交換性カリや土壌鉱物の濃度についても科学的に測定し、放射能低減対策のアドバイスにも取り組んでいこうと考えての活動です。

5月5日の田植え時に、取水口、田んぼや畔の際の土、畦道の土とそこに生えていたスギナとヨメナ等を採取して持ち帰り測定してくれたのでした。
測定値からは今すぐ稲作の可否が言えるものではなく、収穫後の結果を見て考えましょうということでした。
取水口や田んぼの中、畔際よりも畦道の土の方が線量は高く、それは田植えの前段階で側溝に水を流したり田んぼにはゼオライトやカリを蒔いて代掻きをししたりして、表土を鋤き返したりしていますが、畦道はそこを歩いて踏み固めていただけなので、そうした結果が出るのでしょうということです。
また、畦道に生えていたスギナやヨメナから検出された数値は、この畦道よりも土中の数値がずっと低い地域で採取したスギナやヨメナも同程度の数値のこともあるので、上に記した「収穫後の結果を見て」というのは、そうしたことからも言えるのでした。

また彼らの説明を聞いて、私にも頷けることが多々ありました。
現在はどんな食品も一律に1品で100ベクレルを基準値にしていますが、例えば毎日食べる米と一年に数度しか食べない食品との基準値を変える必要があるのではないか、また、それと共に消費者も毎日の食生活を考える時に各食品の基準値を知って、摂取する食品と量で、自分で自分の安全管理をしていくこと、これはちょうどカロリー計算をするように考えれば出来るのではないかとの提言には、深く納得しました。
土壌の性質によっても放射能低減対策は工夫の余地がまだまだあることなど、農に疎い私も、役人が机上でいろいろ決めていることから起きている矛盾を、彼らの説明から気付きました。
小林さんも、深く頷いていらっしゃいました。
「南相馬 田んぼ測定!プロジェクト」では、今後も南相馬の農業者に関わっていって下さるとのことですから、六角支援隊が試験田に取り組んだことは、大きな意味があったと思いました。

また、今日は私の年若い友人のボランティアグループ「百足団」が、畑の草取りをしたのですが、彼らは生活の糧になる仕事の他に、バンド活動をしている仲間たちです。
彼らもまた、何度も南相馬に来てビニールハウス建設や畑、また田植えの時にも支援活動をしています。
今回はその「百足団」のメンバーに看護師さんの女性がいて、彼女は草取りではなく、六角支援隊の荒川さんの案内で仮設住宅で一人住まいのお年寄りたちを訪ねて、血圧を測ってあげたり健康に関してのアドバイスをしてあげていたのでした。
小林さんのお宅を辞してから、私も彼女と行動を共にしました。

この連休中は、さまざまなボランティアグループが南相馬にやってきます。
明日は松戸からの「歌のおばさん」たち、明後日は伊那から「あったかねこ(袖無しの綿入れチャンチャンコ)の会」と、長野の鬼無里からの理容師&美容師さんによるヘアーサロンです。     
みなさん、何らかの形で私も繋がりを持った人たちで、六角支援隊の輪は大きく広がっています。                               
明日からのことは、またご報告します。

いちえ






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