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一枝通信 11月6日号 南相馬報告

みなさま

★「放射能」についてのお話会&移動喫茶
3日(日)午前中は、2日の寺内第2仮設に続いて小池第3仮設住宅で、関口鉄夫さんの「わかりやすい〝放射能〟のお話」がありました。前日よりも更に多くの方が集まって、また前日は女性ばかりでしたが、この日は男性達も数人参加されました。

関口さんのお話
「放射能の事を考える時に、まず日本がどんな国かを知って欲しい」そう言って関口さんは簡単に日本の地図を描き、「ここに宮古島という小さな島があります」と語り出した関口さんは、宮古島の住民に呼ばれて調査した時の事を話しました。
188人のお年寄りが住む小さな集落での事です。

●公害に対しての自治体や国の姿勢
集落の外れにゴミを溜めてある場所があって、そのゴミタメ場で火事が起き住民は逃げたが、煙は集落の方へ流れた。
火は消えたが3ヶ月後に住民達は、皮膚から薄紫色の出血が出たり水泡ができて破れたりした。
また、煙が流れた方角にあるサトウキビ畑で働いていた3人が死んだ。
住民達はみんな、どこかしら具合が悪くなった。(火事から3ヶ月後のこうした状況の時に、関口さんは呼ばれて調査に行ったのです)
調べてみると、ゴミタメ場からはもう火も煙も出ていないように見えたが、下ではまだ燃えていてアクロベイムとベンゼンという有害物質を出していた。
その後も2年ほど燃え続けていた。
住民(平均年齢87歳)はお金を出し合って、裁判を起こした。
沖縄県も環境省も、火は消えているから問題ないと言い続けた。
宮古島のこの例を話したあとで、茨城県の竜ヶ崎の井戸水が原因で癌になった住民の話もしました。
これは竜ヶ崎市のゴミ捨て場から有害物質が地下水に滲み、汚染水が井戸に入っていた事が原因でした。
住民は裁判を起こして最終的には勝訴しましたが、市も国も無視だったそうです。
「こういう仕事をしていると、日本はこんな国なんだという事がよく判ります」と、環境科学者の関口さんは、自身が関わった中からの宮古島と竜ヶ崎を例に挙げて、こう言いました。
●福島第一原発事故
「事故の後で米原という学者が福島に来て講演をしましたが、皆さん覚えていますか?」
〜1年間に100ミリシーベルトの放射線を浴びても、200人のうちのたった一人が癌で死ぬだけです。
 1年間に200ミリシーベルトを浴びると、200人のうちの2人が死にます。〜
「米原さんは、こんな絵を描いて、そう言ったのです。たった一人という言い方をしたのです。
それでは、他の人はなんでもないのでしょうか?
国も御用学者達も、放射能=ガン=死としか考えられないのでしょうか?
チェルノブイリでは8年後に循環器系の障害が、10万人中98,000人に出ました。ほぼ全員ですね。
その他免疫障害や目の症状等々、さまざまな問題が現れています」
福島第1原発事故の影響は、人によっても出方が異なるので、自分はどんな汚染を受けているのかを知るようにすること。
そのためには、どんなに小さな事でもいいから、記録をとっていく事や、また昨年の3月以降の事もできる限り思いだして記録しておく事。
南相馬は海岸より2〜5キロの地域(20キロ圏内も含めて)は、長野市並みの放射線量なので、安心して住んで大丈夫。
(これは前日も話されたのですが、海岸から2〜5キロの地域は、日中に太陽に照らされて地表が温まっているいる為に空気が上昇している。その上昇する空気の層が、ちょうどヘルメットのようになって、原発から吐き出された汚染物質を含む空気を跳ね返す。そのために汚染された空気は、海岸から2〜5キロの地表を通り越して向こう側へ流れ落ちる。それが、阿武隈山系と奥羽山系の間を通り抜けて伊達市や飯舘村に流れた)
ただし、南青馬でも山に向かって汚染が進んでいるし、場所によって汚染された度合いは異なっている。
海岸から2〜5キロでは、作物を作っても大丈夫だし、作物によって放射線の吸い方が違うので、そうした事もよく知って作っていくとよい。
●二次汚染
汚染された瓦礫と、汚染されていないものを混ぜて無雑作に燃やしたりする事が危険。(これにより放射能が出る)
政府はフィルターをかけて汚染物質を吸着させるから燃やしても大丈夫などと言っているが、それは嘘。
海に近い数キロの瓦礫はきれいだが、平野(川が流れてできた扇状地)の頭の部分の瓦礫や、山の方の瓦礫は放射線量が高い。だから、これらを一緒に燃やしてはいけない。

関口さんは、もっとたくさんのことをわかりやすく話して下さいました。
そして最後に「国を頼っているといつまでも嘘をつかれます。国を信用しないで、丁寧に自分たちで自分たちの村作りをしている地域は、日本全国にたくさんあります」と言って、前日も話して下さった長野県の下條村などの例を話して下さいました。
参加された方からの質問にも丁寧に答えられて、きっと皆さんにはこれからの見通しを立てる指針になった事と思います。
仮設住宅に住む方達も、いろいろです。
海岸から2〜5キロに家があって、津波で家が流された人。
地盤沈下や液状化している地域に家があった人。
津波の影響は受けなかった山の方に家があり、家はそのまま残っているけれど放射線量の高い地域の人。
仮設住宅に住むお年寄りの子どもや孫世代は、南相馬を離れて避難生活を送っている人も少なくありません。
家族が分断された生活の中で、先の見通しが持てない事がなによりも辛い事だと思いますが、関口さんの話がそれぞれの家族が今後の暮らしを考えていく上での参考になったと思います。
また、今ここで暮らしているお年寄り達にとっての安心感にも繫がった事と思います。
この日も、移動喫茶をいたしました。

報告がこんなに遅れて、また冗長な報告になりました。
この日の午後は鹿島区の浄土真宗本願寺派のお寺をお訪ねし、ご住職からのお話をお聞きして帰りました。
その報告はまた改めていたします。
最後までお読み下さって、ありがとうございました。                

いちえ


更新情報 11月2日号「仮設住宅で『放射能』についてのお話会&移動喫茶」

みなさま

昨夜から南相馬に来ています。
★昨日福島で
昨日は昼頃に福島に着いて、珈琲店「椏久里」で美味しいコーヒーを頂き、今日の移動喫茶用のコーヒーを仕入れました。
その時に、最近の飯舘村に関する情報を聞きました。
ご承知のように菅野村長は、〝帰村〟という方針です。(当初の「2年で」が今は「5年で」となったようですが)
そのために来年は、一日に4000人の作業員を入れての除染に取り組むそうです。(そのための歳出額は膨大です!!)
今は飯舘村から隣の川俣町に避難して、仮校舎の小中学校も戻すという事だそうです。
除染後の汚染土、汚染物の仮々置き場に関しても村民の分断が起きているようです。
この件に関してはもう少し情報を集めてからご報告します。
福島駅東口からのバスで飯舘村に入ると、暮れなずむ薄桃色の空に薄鼠に浮かび、紅葉した木々がきれいでした。
群れ飛ぶ鳥が、うっすら白い雲にシルエットのように見えて、美しい光景でした。
見えない放射能を被ったままで、山も木も、〝美しく〟在りました。
バスは臼石小学校を見て過ぎます。ここには、誰もいません。
子どもたちは川俣町のプレハブの仮設校舎で、勉強しています。
道路から見える小学校の外壁には、「今日で欠席◯◯日」と、大きく看板が掲げられています。
私が初めてここを通った去年の夏の日から、いやそれ以前の全村避難になったあの日から、◯◯に数字が入った事はありません。
現在仮校舎のある場所は飯舘村から川俣町に入ってすぐの地、そこさえもかなり放射線量は高いのではないかと思いますが、帰村が実施されれば、子どもたちは村内の元の校舎に戻って◯◯を数字で埋めるようになるのでしょうか?
そんな事があっていいものか!と思います。

★関口鉄夫さんのお話
今日は寺内第2仮設住宅集会所で、環境科学者の関口鉄夫さんのお話の会でした。
関口さんは机上の学者のように数字や資料を見せて説明するだけではなく、野に出て自分で調査し、それを元にごく身近な例を挙げて判り易く話してくれる人です。
今日も私は、その話し振りと内容に聞き入ってしまいました。
関口さんは皆さんの前で話し始めるとき、なんとその手に、短い茎を付けた色違いの3本のコスモスの花を持って現れたのです。
「皆さんも、これで遊んだ事があるでしょう?」と言って。
一番前のおばあさんに一本渡して「どうぞやってみて」と言うとおばあさんは「好き」と言いながら花びら一枚つまみ採って、隣の人に渡しました。今度は「嫌い」と言って、その人がまた一枚。
最後の一枚になった花を、関口さんははみんなの頭を通り越して、大留さんに渡しました。
大留さんは、「だいっ嫌い」とつまみ採りました。
関口さんは、「これは『嫌い』から始めれば、必ず最後は『好き』で終わるのです。でも僕がここに来る前に飯舘村で摘んだコスモスは、『嫌い』から初めても『嫌い』で終わったのです。コスモスの花びらは8枚ですから『好き』で始めれば『嫌い』で、『嫌い』で始めれば『好き』で終わるのです。飯舘村では、花びらが9枚だったり11枚だったりもあったのです。全部がそうではありませんが、何本かはそんなでした。これが、放射能の影響なのです」
と、話し始めたのです。
今日は午前中は関口さん、大留さん、現地ボランティアの荒川さんと4月に警戒区域解除になった小高区を見て回り、午後からのお話会でした。
関口さんはどこへ行く時もいつも線量計を持って、測りながら歩いています。
今日のお話会もその時の事を話し、「南相馬の海沿いは、僕の住んでる長野県と同じくらい。若い人も安心して住んでいい状態です。
だから海沿いの所は、畑も使えるから、そこをどんどん使って暮らしていったらいいです。まだ大きな希望があります」と。
そして長野県の下條村という、子どもがどんどん増えている村のことを話し「なぜだと思いますか?」と問いかけ、子どもの医療費が無料である事を伝え、なぜそんなことができるかを具体的に話しました。
例えば村道の修理などは業者に任せるのでなく、材料費は村が出し、村民が作業をする事で無駄な歳出が無いことで、村としての借金が無いからできるのだと話し、そんな自治体にしていくように市民が動いたらどうかと提案もしたのです。

★移動喫茶
関口さんのお話、ぜひ皆さんにも聞いて頂きたい話でした。
お茶の接待の私は茶菓子やお茶、珈琲などを六角支援隊の人たちと用意しました。
会場の寺内第2仮設に来る前に、南相馬道の駅近くの仮設にいる高橋宮子さんを誘って、宮ちゃんも一緒に参加してもらったのです。
寺内第2仮設には萱浜の人が多くいます。
宮ちゃんも萱浜の人でしたから、久しぶりにみんなと会えたらいいのではないかと思ったからです。
宮ちゃんは、家を流され娘二人を津波で亡くし、孫達は埼玉に住んでいて無事だったのですが、今は仮設に一人です。
以前私は宮ちゃんの事を『青春と読書』に書きましたが、毎朝仮設から小一時間押し車を押して歩いて海を見に行っているのです。
睡眠薬と精神安定剤が無いと眠れない毎日を過ごしています。
「寺内第2で先生のお話があるし、私が移動喫茶やるから一緒に行こう」と誘うと、最初は「別の仮設だから」と遠慮していたのですが、萱浜で仲良しだった友達達にも会えると、一緒に行ってくれたのです。
関口さんの話が終わってから、萱浜で暮らしていた人たちが車座になってまたひとしきりお喋りをしました。
みんな子どもが小さかった時の事や、津波当時の話も出て、互いに「大変だったなぁ」と労いあい、涙を流し、「元気でいような」と別れました。
同じ集落にいた人たちが、こんなふうにお喋りしあえる時を持てた事もよかったと思いました。
宮ちゃんを送って、わたしも六角に戻りました。

明日は小池第3仮設で、今日と同じように、関口さんの話と移動喫茶です。
今回も長文、おつきあいをありがとうございました。                
いちえ


更新情報 10月23日号「お知らせ」

みなさま

★情けなくて……。
昨日と今日と2日間、早朝のNHKラジオ深夜便「あすへの言葉」に出演しました。
一番言いたかったことを言っていなかったと、放送を聞いて気付き、我が身が情けないです。
チベットと被災地に繫がる思いということで、「自然よりも経済、いのちよりもお金、欲を優先する社会とその犠牲となっている現地』ということを言いたかったのに……。
文章は外に出る前に何度か読み返して訂正や加筆、削除も出来ますが、話はそうはいきません。
つくづく私は、話すのに向いていないと、自分が情けなくなりました。
せめて、「一枝通信」読んでくださる方には、一番言いたかった事をお伝えしたいです。

チベットが中国に組み込まれてしまった事、そして2000年以降の〝西部大開発〟は、一部の利益のために自然破壊や、少数民族の暮しや文化をないがしろに、ローラーで押しつぶすように壊しながら、つきすすんできた道程です。
原子力発電も、まったく同じ図式だと思います。
その事にしっかり言及していなかった事が、我ながら情けないです。
番組で話したように、私自身はチベットや、被災地の方達から教えられる事、気付かされる事が多々あります。
でも、それは私個人の事。
公的な場で発言する時には、事の本質だと私自身が思う事を発言すべきでした。
大きな反省です。

★お知らせ
映画『シェーナウの想い』上映&広瀬隆さん講演会
日時:12月1日(土)13:30〜16:30(開場は13:00)
場所:カタログハウス講座室ホール
参加費:1000円(当日受付にて支払い)
主催:戦争への道は歩かない!声を上げよう女の会

2008年にドイツで制作された映画『シェーナウの想い』の上映と併せて、広瀬隆さんの講演会を開きます。
26年前のチェルノブイリ原発事故の後、現場から遠く離れたドイツのシェーナウ市にも放射能は飛びました。
シェーナウの人々は原発事故から子どもたちを守るために原発の電気を使わない生活を選び、「シェーナウ電力会社」を作って、エコ電力をドイツ国内に提供しています。その映像記録です。
広瀬さんは、医療・技術関係の翻訳を通して、日本の公害、原発問題に関心を持つようになりました。
そして原発に対して警鐘を鳴らし続けてきましたが、福島第一原発事故後は以前にも増して活発に発言しています。
2010年に発刊された『原子炉時限爆弾 大地震におびえる日本列島』は、まるで一年後の2011年3月を予告したようでさえもあります。著者は多数ありますが、近著は下記です。
『福島原発メルトダウン』(朝日新書)『原発の闇を暴く』(集英社新書)

友人たちと立ち上げた〝戦争への道は歩かない!声を上げよう女の会〟で主催します。
たくさんの方に見て頂きたい、聞いて頂きたい、映画と講演です。
どうぞ、お誘い合わせてご参加下さい。


いちえ

 

 

 


更新情報 10月15日号「床屋&ネイルサロン報告」

ご報告が遅れました。
パソコン持参で現地入りしているのですが、「パスワードを入れてください」の表示が出て、以前使っていたパスワードを入れてしまったら「不審な誰かがアクセスしようとしています」となり、なかなかリセットできずにようやく4時間ほど前にリセットできました。
アカウントとパスワードって、銀行の通帳と印鑑のような関係なのだと思い知りました。あるいはカードと暗証番号のような。
そんなわけで、報告が大変遅くなりました。

13日、天気は上々。
鹿島区にある長沼仮設住宅の駐車場で、喜多方ラーメンの炊き出し隊は朝8時から準備にかかっていました。
彼らは前夜に六角の台所でチャーシューを煮込んでいたそうです。
床屋&ネイルサロンも9時には仮設の集会所で準備を始めました。
炊き出しも床屋&ネイルサロンも11時開始としていたのですが、10時過ぎには駐車場には早くも行列ができ、集会所の床屋&ネイルサロンにも予約したい人が名前を書いて行きました。

集会所の畳の小部屋にブルーシートを敷き、椅子を用意して床屋の準備。
大部屋の方には長テーブルを2台並べ、テーブル場にはバスタオルを肘乗せマットのように用意しました。
今回は床屋さんは長野県から来てくださった理容師の吉田廣子さん、そしてアシスタント役の大塚美智子さんの2人が担当しました。
ネイルサロンは5人です。
東京から林恵子さん、吉井みいさん、清水まゆみさんの3人がハンドマッサージと胡粉ネイル(ホタテ貝の粉を原料にしたマニキュア)。仙台からの佐藤典さんと登米からの横岡史さんのネイリストのお二人がマニキュア。
私は、ネイルサロンの受付係をしました。
ヘアーカットもネイルサロンも次から次へと希望者が続いて、11時から4時まで、担当してくださった方達は休憩もなくずっと手を動かし続けでした。
ヘアーカットは37人。
バリカン無しのハサミによるカットで、襟足を刷るのもすべてを吉田さんが一人でされたのです。
ネイルサロンはハンドマッサージとネイリストによるマニキュアを両方を希望された方も多かったのですが、延べ人数にすると150人にもなりました。
4時を過ぎてもまだ希望する方がいらっしゃいましたが、申し訳ないですがとお断りをしました。
集会所を借りてのイベントなので、片付けや掃除の時間も必要な事でしたから、時間通りに終えました。

「見て!この頭。今カットしてもらってきたの」と、わざわざ帽子を脱いで、ラーメンの順を待って並ぶ人たちに自慢げに話していたおばあさんの、嬉しそうな顔!
本当に皆さんさっぱりして気持ち良さそうでした。
「髪切ってもらったら、肩まで軽くなりました」の声もありました。

ネイルサロンでは、ボランティアに腕を預けてハンドマッサージを受けながら、問わず語りに被災した時の状況や今の暮しや気持ちを話してくださる姿からは、「手当」という言葉を思いました。
被災前には複数世帯で暮らしていた方達も、仮設住宅では老夫婦のみとか独居の方もいます。
ハンドマッサージは、肌で感じる癒しでもあったことでしょう。

マニキュアは、大人気でした。
介助無しでは一人で歩けない白髪の80代後半のおばあさんも、ハンドマッサージよりもマニキュアをと希望されて丁寧にヤスリで爪の形を整えた後で、極々薄い透明に近いマニキュアを塗ってもらって、嬉しそうでした。
マニキュアの色もたくさん用意されて、希望する色を自分で選べます。
生まれて初めてマニキュアを塗ったという人も何人もいましたが、その方達は薄い色や透明を選ぶ事が多かったですが、艶やかにきれいになった爪を、かざして乾かしながら晴れやかな笑顔でした。
マニキュアに慣れている人も、ここでの暮しではきっとそんな余裕もなかったのでしょう。
この日は久しぶりにおしゃれを楽しんで、爪の先と根元の方とを二色に塗り分けてもらったり、先の方にはきらきらと刷るラメを塗ってもらったり、本当に嬉しそうでした。
私も、とても興味深く横岡さんや佐藤さんの手から、爪の芸術が生まれるのを見物していました。
もしも時間があったら、私もやってもらいたいと思った事でした。
「どんなにお化粧しても自分の顔は鏡を見なければ、見えません。でも、マニキュアは自分でいつでもみることが出来ますから、爪をきれいにしていると、それだけで心が晴れるんですよ」
佐藤さんだったでしょうか、横岡さんだったでしょうか、その言葉がとても胸に響きました。
胡粉ネイルをした人にも、マニキュアをした人にも、コットンに湿した除光液を小さなジップロックに入れてお渡ししました。

炊き出しはなんと用意した1000食分が、すべて出たようです!
一時間で300食も出したそうで、代表の中原さんは「これまでは頑張っても一時間に200食でした。今回は記録を作りました!」と言ってました。
駐車場に臨時の厨房を仕立てての事でしたから、普段とはまったく条件の異なるところでのお仕事だったのに門外漢の私でも、それは金メダル並みの記録だと思いました。
喜多方ラーメン各店舗からの皆さんで、息を合わせてのラーメン炊き出しでした。
床屋&ネイルサロンボランティアの方達も私も、交代で炊き出しの喜多方ラーメンをお昼に頂きました。
おいしかったです。

床屋&ネイルサロンをやって、本当によかったと思いました。
これも、皆様のご協力のお陰です。
また現地ボランティアグループの六角支援隊がなければ、実現不可能な事でした。
ありがとうございました。
また第2弾をやりたいと思います。
その時には改めてお知らせいたします。ありがとうございました。               

いちえ


更新情報 10月12日号 「ラジオ深夜便収録」

今日は、NHKのスタジオへ行ってきました。
ラジオ深夜便の、「明日へのことば」という番組の収録でした。
担当の方が何かに目を留めて下さったのでしょうか、出演のお声かけをして下さったのです。
「チベットと、被災地の事を話して」というご依頼が、9月の初旬にありました。
私の中では、チベットと被災地は別々の事柄ではなく、根っこに通底している問題があると思えています。
それで、喜んでお受けしました。
その後一度打ち合せがあって、先日のトークの会「福島の声を聞こう」にも担当の方がおいで下さいました。
そして今日の収録でした。

現在チベットは、本当に酷い状況に置かれています。
6月から7月にかけて行ってきましたが、〝格子なき牢獄〟でした。
ラサでは、たった800mほどの環状路のバルコルには、7カ所の交番と10カ所の監視所が設けられ、武警や特警が待機していました。
バルコルに通じる8本の小道では、入口で空港並みのセキュリティチェックを受けないとバルコルに入れません。
チベット人は居住証明書のある地から他所へは行けず、巡礼に出る事も遠くの友人を訪ねる事も出来ません。
移動の自由が無いのです。
監視社会の中で思うことを言う自由もなく、宗教行事も禁じられ(あるいは逆に観光客集めのために強制され)て、言葉も文化も否定される中で、‘09年から、抗議行動としての焼身が続いています。
収録では、そんなチベットの現在を話すことが出来ました。
番組の中でチベットの音楽を一曲流せるという事でしたから、チベットでは発禁歌になっている曲をと思ったのですが、これは叶いませんでした。
シェルテンの♪手をつなごう(団結しよう)♪か、♪ニダカルスム(月よ、星よ、太陽よ)♪を、と思ったのですが叶いませんでした。
それで、ちょっと古い曲ですが、ダドゥンの♪リュォ・チョモランマ♪を流してもらいました。
文革が終わって’80年代後半になってようやく、チベット語で歌う流行歌が生まれましたが、ダドゥンはそうしたチベッタンポップスを歌う先駆けだった女性です。
彼女の歌も禁じられ、そして彼女は亡命しました。
数年前に公開された映画『風の馬』で、主役を演じていたのもダドゥンです。
その後、特に’08年以降はいっそう多くの歌手がチベット人の願いと祈りを歌に託し、歌による抵抗と抗議を続けています。
いくつもの歌が発禁処分になり、何人もの歌手が拘束されました。

番組の放送は10月22日(月)23日(火)、いずれも早朝の4:05〜4:45です。
NHKラジオ深夜便「明日へのことば」です。
もしも、早起きが苦手でなければ、聞いて頂けたら嬉しいです。

収録を済ませて、新幹線で福島に来ています。
明日朝のバス(6:30発)で、南相馬へ向かいます。
明日はみなさまからご協力を頂いた、〝床屋&ネイルサロン〟です。
その様子をご報告できる事を楽しみにしています。

いちえ


更新情報「福島の声を聞こうvol.3」報告(追伸も含む)

みなさま

昨夜はセッションハウス・ガーデンでのトークの会『福島の声を聞こう』、第3回目を催しました。
トークの会のタイトルは福島ですが、今回は福島に準じて放射線量の高い、宮城県南の丸森町筆甫(ひっぽ)からの声でした。
ゲストスピーカーは東京からIターンで丸森に暮し、17年になる太田茂樹さんです。
太田さん夫妻は、そこで4人の子供たちを育てながら、「山の農場&みそ工房SOYA」を営んできました。

始めに太田さんは、東京で生まれ育ち農業との縁もなかったのに、宮城県丸森に居を固め、今の暮しを選んで生きようと思った軌跡を話されました。
大学で環境社会学を学び研究者の道を歩み始めたのですが、それよりも〝自然が豊かな場所で実践者として生きたい〟と方向転換して、丸森に移住しました。
移住先に丸森を選んだ理由は、もともと西よりも北の地方を志向していたことと、福島原発からも女川原発からも距離が離れていることもありました。
無農薬で米、大豆を育て、自家栽培した米や大豆で味噌を造り「一貫造り」と名付けて販売し、町内外に顧客を増やしネットワークを築く中で、東京から来訪した未弧さんと結婚しました。
地域活動にも積極的に参加して地域に溶け込み、丸森への移住希望者と現地の橋渡し役も担って来ました。
無農薬で除草剤も使わずに造る米は、列をなして植えた稲の間の縦、横の隙間を除草機で草を鋤きこんで取り除き、機械では採りきれない根元の周囲の草は手で抜き、造って来た米です。
そのようにして築いてきた農の暮しに、放射能が降り注いでしまったのです。
原発事故直後には丸森の状況が掴めなかったので、子供たちをすぐに避難させようと考えなかったが、その後ネットや友人たちから情報を得て、学校が春休みになるのを待って妻子を東京に避難させました。
茂樹さん自身はここを選んで住み、地域の人たちと共に生き、味噌を造ってきた思いからこの地を離れることは考えにくく、けれどもそうした自分の思いに妻子を付き合わせていいのかと、深く悩み自問しました。子供たちを連れて東京に避難した未弧さんもまた、このまま避難生活をするのか丸森へ戻るか考え悩みましたが、夫婦で話し合った末に出した結論は、「家族で丸森で暮らしていこう」でした。
そして二人は「筆甫に残ると決めたからには、子供たちのために出来る限りのことをして行こう。我が子のためばかりでなく地域の子供のため、地域のために出来る限りのことをして行こう」と決めたのでした。
茂樹さんは宮城県南部の仲間たちと「子どもたちを放射能から守るみやぎネットワーク」を立ち上げその代表になりました。
ネットワークでは、国や県、市町村などの行政、議会に対しての「要望」活動、講演会や上映会を通して放射能の不安について気軽に話し合える場の提供といった「知る」「つながる」活動、食品測定会や空間線量測定協力、尿検査への協力などの「測る」活動、除染の指導や実践など放射線量を「減らす」活動、メディアへの働きかけやサイト、メーリングリストの運用などの「情報発信」活動に取り組んでいます。
また、高齢化している丸森筆甫の今後を考えて、廃校になった中学校を利用しての福祉施設立ち上げを考えても居ます。
それは今後の活動になっていきますが、プロジェクトは、もう始動しようとしています。

こうした報告を話して下さった茂樹さんですが、こんなことも言っていました。
「一番心にぐさっときたのは〝自分の子供を避難もさせないで線量の高い地に置いて、『子どもたちを守るネットワーク』なんかやっていいのか〟と、ネットで言われたことです」と。
茂樹さんのその言葉は、また逆に私たちの心に刺さります。
ともすれば〝部外者〟であると思い込んでいる私たちは、〝気の毒な当事者〟のことを、考えていると思い込みがちです。
そこに生きる人たちの思いを知って、その思いに寄り添いながら共に生きていくことを考えていきたいと、茂樹さんの言葉から改めて私は、強くそう思いました。
国や行政に対して声を大にして言いたいこともきっとあるでしょうに、静かに穏やかに話される茂樹さんに参加された皆さんは心揺さぶられた昨夜でした。
そして「山の農場&みそ工房SOYA」で造られた長熟味噌をお土産に頂いて、散会しました。
参加してくださった60人のみなさま、ありがとうございました。
また「丸森支援」カンパをお寄せ下さってありがとうございました。カンパ総額は43,900円となりました。その中には言叢社さんからの書籍(『フクシマ』)売り上げからのカンパもありました。ありがとうございました。
太田さんや同じくIターンで丸森で暮らす太田さんの仲間のことを、『たぁくらたぁ』27号に私は書きました。お読み頂けたら嬉しく思います。

追伸

昨日お送りした中で、大事なことをお伝え漏らしてしまいました。
太田さんが持って来てくださった配付資料の中に、「原発事故子ども・被災者支援法」のチラシがありました。
これは今年の6月21日に成立した法律ですが、長引く放射能汚染に苦しむ原発事故の被害者が置かれている状況を踏まえて、その支援・救済を目的とした法律です。
●被災者が留まることも避難することも、どちらを選択しても支援する。在留者、避難者双方に国の責任として支援を行うこと
●特に子ども(胎児を含む)の健康影響の未然防止、影響健康診断および医療費減免などが盛り込まれています。
広島・長崎の被爆問題や水俣病の被害者が長年苦しんできた点を踏まえて、被曝と疾病の因果関係の立証責任は、被災者が負わないこととされています。
その疾病が、「放射線による被曝に起因しない」ということであれば、国側がその立証責任を負うのです。
万一病気にかかっても、被害者が「この病気は放射線の影響によるものです」と立証責任を負わずに、原則として医療費の減免が受けられるのです。
この法律はすべての党を含む超党派の議員により提案され可決されました。
原子力政策を推進してきた国の社会的責任も明示した画期的な法律ですが、理念法であるため、今後、対象地域の提議づけ、基本方針、政省令の策定、予算措置なが鍵になってきます。
この法律を絵に描いた餅にしないために、この法律をもっと多くの人が知り、広めていくことが大事になります。
また、地元選出の国会議員に、支援対象地域を年1ミリシーベルト以上の地域にすべきだとか、避難先で保育所を確保して欲しいとか、遺伝的影響も加味して欲しいなどの具体的な要請を届けることも必要です。

どうぞ、「原発事故子ども・被災者支援法」を、多くの人に知らせてください。

いちえ


更新情報 9月26日「一枝通信」

床屋&ネイルサロンへの、ご協力をありがとうございます。
おかげさまでヘアーカットを担当してくださる方が3名、ネイル担当してくださる方が5名、名乗り出てくださいました。
東京から、長野から、登米と仙台から、皆さん駆けつけてくださいます。
マニキュアと除光液、コットンなどのご提供もありました。
また、ボランティアの方達への交通費も、みなさまからお寄せ頂いた支援金でまかなえることになりました。
本当にありがとうございます。
明日、現地の保健所と利用組合にもご挨拶に行ってきます。
当日は、みなさまのお心を、仮設のお年寄りたちに届けて参ります。
ありがとうございました。
この試みは今後も続けていくつもりです。

さきほど、友人から田中優さんの講演の案内が届きました。
お近くの方は、ぜひお出かけ下さい。
チラシを添付いたします。

28日(金)トークの会『福島の声を聞こう』、まだ席が空いています。
お時間ありましたらどうぞお出かけ下さい。
今回のゲストスピーカーは宮城県丸森の、太田茂樹さんです。
9月17日の朝日新聞社会面「語る・つなぐ」に太田さんの記事が載っていました。

 


更新情報 9月19日「一枝通信」

みなさま

★10月13日床屋&ネイルサロン追伸(詳しくは9月6日号「一枝通信」をご覧下さい)
 前便でお願いを落としてしまいましたが、理容師さん、美容師さんなどへアーカットをしてくださる方、またネイルを担当してくださる方(こちらは資格がなくても結構です。ご自分で日頃マニキュアなどでお手入れしている経験がある方ならどなたでも)は、まだ募集中です。どなたかおいででしたら、どうぞお願いいたします。


昨日は南相馬へ行って来ました。
昨年の冬のことでしたが、鹿島寺内仮設住宅の浜野さんから、浜野さんの家があった萱浜の津波被害のことを聞いていました。
集落の家の多くは流され、87人が亡くなり22人が行方不明と、その時に聞いていました。
萱浜は太平洋から松林を隔てて、こちらの平地に田畑と家々がありました。
畑中を貫いて幅5メートルほどの堀が、海に流れ込んでいました。
同じく萱浜に家があった池田のおばあちゃんは、浜野さんの言葉に繋げてこんな風に言っていました。
「地震の後で津波が来っからって防災無線が言って、オレははぁ、避難所へ逃げてったべ。
なんも、持ってなんか出られねえんだわ。着の身着のままでさ。
ほいでもって次の日(3月12日)に行ってみたのよ。家さ、どうなってんだべってな。
はぁ、瓦礫がいっぺえだったけどな、いやぁ、なんもねえ!
家なんかなんもねぇ。
堀ん中にゃ、流された人がドジョウみてえに泥ん中に重なって、ごちゃごちゃに重なってな…酷いもんだな…みんな死んでな…」
その萱浜に一軒、屋根も崩れずしっかりと残った家があるのです。
海岸線からはだいぶ離れているのですが、松林も何もかも流されてしまった被災後では、海はすぐ目の先に見えます。
海に背を向けて建っている家で、海側の壁は残っていましたから、引き波が内部をさらっていったのでしょう。
一階部分は波が突き抜けてガランドウなのですが、二階は窓のガラスも壊れずにあるのです。
初めて南相馬へ行ったとき、大留さんに案内されて海よりの被災跡をずっと見て歩きました。
その頃はまだ畑地には自動車や電車などがゴロゴロと転がっていて、電柱や農機具、墓石などもそこらに散らばっていました。
一軒残っているその家の前を通る時に大留さんから「この家は若い夫婦だけが仕事に出てて無事だった。おじいさん、おばあさんと子供二人は流されてしまった。おばあさんと小学生の女の子の遺体は見つかったけど、おじいさんと下の息子はまだ見つかっていない」と聞いていました。
秋の彼岸の頃に行くと、家の前に花が手向けられていました。
そこを通る度に私も、家の前に置かれた線香を焚き、手を合わせて過ぎていました。
冬が去り、春彼岸も過ぎ、4月になると家の前に立てられたポールに鯉のぼりが泳いでいました。
彼岸の頃の祭壇や鯉のぼりを見て私は、若い父親の〝生きる意志〟を思っていたのです。
ところがこんなことを聞いたのです。
彼は、息子はまだ生きていると思い込んでいて、仕事も辞めて毎日幼い息子を捜し続けているというのです。
風呂にも入らず、着の身着のままで浮浪者のような姿で彷徨っているというのです。
それを聞いたのは4月16日、警戒区域だった小高区が警戒解除になった日のことでしたが、消えた人を捜し続けることが異常なのではなく、探し出せない現実が異常ではないかと、聞きながら私は思ったのです。
警戒解除になった小高区に入ってみると、被災から一年以上も経っているのに被災の時のままの状態で車も農機具も何もかもが流された折れたままの姿で、そこに在りました。
20キロ圏内立ち入り禁止とされたその日からずっと、被災のままに手をつけられずにそこに在ったのです。こんなことこそが異常で、そこにはきっと、直ぐに探せば助かった筈のいのちも、埋もれているのではないかと思えたのです。

★9月6~8日と南相馬へ行ったのですが、帰りしなにまた、萱浜のあの家に行きお線香を手向けて帰ろうとした時でした。
車が止まって降りてきた人がいたのです。
「こんにちは」とあいさつをすると「こんにちは。ありがとうございます」と挨拶が返りました。
その人が〝幼い息子を捜し続けている父親〟の、上野敬幸さんでした。
噂で聞いていた感じとは違って、日に焼けた笑顔からは穏やかさを感じました。
前便で書いたように我が子は生きている筈と思い込んで、着の身着のままで探しまわっている(暗に精神に異常をきたしている…)と聞いていましたし、また、お線香を上げようと思って家の前に立ったら、殴り掛からんばかりの形相で怒鳴られたと言った人もいたのです。
でも挨拶を交わしたばかりのご当人に「話を聞かせて頂けますか」と伺うと快諾され、19日に上野さんに会いに行ってきたのです。
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3月11日上野さんは地震の後で職場から家に戻ってみると、お母さんが長女の永吏可(えりか、当時8歳)ちゃんを学校に迎えに行って帰って来たところに出会ったのでした。長男の倖太郎(こうたろう、当時3歳)くんは、家の中にお父さんと居て無事でした。奥さんは職場から戻っては居ませんでしたが、両親と二人の子供の無事を確かめて上野さんは職場に戻って行きました。
会社に戻る途中で津波に遭い、もう家にも戻れず、流されてくる人たちを助けながら津波から逃げて進みました。
津波が収まって避難所に行きましたが、そこには家族の姿はありませんでした。
家の方に行ってみると辛うじて自宅は流されずに残っていましたが、辺りは瓦礫の原でした。もう辺りは暗くなっていました。
一階は津波が通り抜けて家財道具が流されたり散乱していましたが、二階は残っていました。
家の中には家族の姿はありませんでした。
裏手の瓦礫が溜まったところを懐中電灯で照らして「誰か居るか?」と声をかけると、上野さんの家から浜よりの方の家に住む男性の声がしましたが、怪我をしていて動けず、上野さんも一人では救い出すことができず、持っていた携帯で警察に電話をして救助を頼み避難所に戻りました。
翌朝行ってみると、男性は救助されずにそのままそこに居たそうです。
上野さんの友人たちで近所の消防団の人たちが捜索に出ていたので、その仲間たちと一緒に男性を救助したそうです。
敷地内で見つけた永吏可ちゃんの遺体を、上野さんは自分の手で抱いて安置所に運びました。
「ごめんね.ごめんね」と、変わり果てた我が子の姿に謝りながら運んだと言います。
「自分は、津波の時に何人かを助けたけれど、我が子を助けることができなかった。複雑です。助けた人が後からお礼を言いに来られたけれど、お礼言われても嬉しくなんかない。複雑です」
お母さんの遺体も見つかり、永吏可ちゃんとお母さんの遺骨は、近所のお寺さんに預かってもらっています。

あの日から毎日、一日も欠かさず上野さんは倖太郎くんとお父さんを捜し続けています。
家族ばかりではなく、行政区の萱浜の行方不明者たちを一人でも見つけて家族の元に戻してあげたいと捜索を続けています。
始めの頃は上野さんと近所の消防団の友人たちだけでの捜索隊でしたが、東京や神奈川、千葉などからボランティアに来てくれる人たちが加わるようになって、上野さんの家を拠点に〝復興浜団〟として捜索と瓦礫撤去、小高区の除染にも取り組んでいます。
昨年9月16日、次女の倖吏生(さりい)ちゃんが生まれ、家族3人で仮設住宅に住んでいますが、上野さんは今も毎朝5時頃には自宅に通っているそうです。
そして捜索と、ボランティア〝復興浜団〟の拠点としての活動を続けています。
この5月にも、小高の水門のところで胸から上の遺体を見つけて届けたそうですが、それは新聞にも載ったそうですが「地元の青年が散策中に見つけた」と記事にはあったそうです。
上野さんは言います。
「4月20日(’11年)にやっと自衛隊が捜索に入って、その時に自分は〝ああ、これで終わった〟って思ったんですよ。終わったって言うのはみんなが見つかるって思ったんですよ。でも自衛隊がいたのは10日ばかりで、その間に2人が見つかっただけでした。
自衛隊の人は〝どこか気になる場所はありませんか?〟なんて聞いて来たけど、僕はどこもが全部気になるとこですって言ったんだよ。
またこんなふうにも言うんだよ。〝人は埋まらないので土の中に居ることはありません〟って。
自分は何人も土に埋まった人を見つけてるんだよ。だから言ってやったんだ。〝お宅はこれまでに、津波で行方不明者の捜索に関わったことがありますか?〟って。自衛隊は、自分の方が上だと思ってそんな風に偉そうに言ったんだろうね」
「自衛隊が捜索に入ったのはその10日ばかりだったし、僕は国に見捨てられたと、そのとき思ったね。
警察も僕が見つけて連絡した怪我人をきゅうじょにきてくれなかったでしょう?僕らは見捨てられてるって思ったね。
30キロ圏内は見捨てられてると思ってるよ」

また、上野さんは言います。
「僕は感情の起伏が激しいからきついこと言うんだけど、時々東電のコールセンターに電話するんです。
〝10キロ圏内がいつから入れなくなったか知ってますか?〟とか〝20キロ圏内がいつから入れなくなったか知ってますか?〟って聞くんだよね。東電の社員はそれに誰も答えられないんだよ。
JALの社員が御巣鷹山に行くように、東電の社員は全員一度はこの被災地に来て欲しい。  
東電の社長は家族を亡くした20キロ圏内の人一人一人に、謝って欲しい。
補償金とか賠償金とか、お金じゃない。誠意を見せて欲しい。
それは常識でしょう?
社長の謝罪、社員全員の理解、それが第一の順番でしょう? お金の話はその後でしょう?」
「僕は幸せだと思ってます。10キロ圏内で、行方不明の家族を自分で捜すことができない人たちが居るけど、僕は自分で永吏可を抱いて安置所に運んであげることが出来た。倖太郎を、自分で捜し続けている。自分で捜すことも出来ない人たちに比べたら、僕は幸せだと思います」

生きることへの執着はない。自死しようと思わないが、生きたいとは思っていない。
寿命が来るのを待っている。
子供を助けられなかった親として、自分を責めて生きていく。
上野さんはそう言います。
ご自分でも言っておられたように、悔しさの激しい思いに突き動かされるような日々もあって、それが前便でお伝えしたような誤解をも生んでいるのでしょう。
私は、上野さんの悔しさを共有したいと思います。
そして、倖太郎ちゃんが一日も早く見つかりますようにと祈ります。
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今回も長文になりました。長くなると部分的に文字化けする方もあると、ご指摘を頂いています。
なお努力いたしますが、ご容赦下さい。
28日(金)トークの会『福島の声を聞こう』まだ席が空いています。
ご都合つきましたら、どうぞお出かけ下さい。                    いちえ



更新情報 9月18日「一枝通信」

みなさま

★10月13日の南相馬仮設住宅での床屋&ネイルサロンへのご協力を、ありがとうございます。
 理容師さんが一人、ネイルを担当してくださる方が一人、他よろずお手伝いしてくださる方が一人、声を上げてくださっています。 
 また、マニュキアや除光液などを提供してくださった方もいます。
 資金カンパもたくさん頂いています。
 ありがとうございます。お礼を言うのが遅くなって失礼をしていますが、どうぞお許し下さい。
 この試みは、今回はラーメンの炊き出しに合わせて日程を組みましたが、次からは理容師さん、美容師さんが休める平日に継続してやって行こうと思っています。
 どうぞ、今後ともご支援をお願いいたします。

以前に「一枝通信」でお伝えしたことのある木村紀夫さんを訪ねて、18日は信州白馬へ『たぁくらたぁ』の編集部の方達と共に行って来ました。
連休後の火曜日でしたが、舞雪ちゃんにも会うことが出来ました。
運動会の代休だったのです。
舞雪ちゃんの運動会のために来ていたのでしょうか、紀夫さんのお母さんの巴さんと叔母さんも見えていました。
『たぁくらたぁ』の編集部は5人、そして私と訪問者は総勢6人。
きっといつもは木立の中の家で父娘の二人が静かに過ごしているのでしょうが、この日は賑やかな時間が流れました。
木村さん家族の愛犬ベルも、賑やかな声につられてゲージの中で吠えていました。
この日の訪問は、木村さんの「省エネでゲストハウス経営を」という願いを具体化するために、少しでもお手伝いが出来たらとのことで『たぁくらたぁ』のアイディアマンたちが集まったのでした。
提案される幾つかの案に木村さんも資料に見入って頷いたり、質問したりして同席していた私も「あ、それできたらいいな」と思うことしきりでした。
『たぁくらたぁ』の人たちはこの先も、他の仲間たちも巻き込んで木村さんを助けて行くと思います。
木村さんのところはきっと、皆さんにも興味深いワークショップが展開される「体験型宿泊施設」となることでしょう。
具体化して行ったら、またお知らせします。どうぞ参加してください。

前回訪ねた時からずっと気になっていた舞雪ちゃんも、大人たちと一緒にテーブルを囲んで話を聞いていました。
お菓子造りが好きだと言う舞雪ちゃんの作ったクッキーを私たちはご馳走になり、私は舞雪ちゃんと一緒にクッキーとケーキの作り方が書かれた本を見ながら話をしました。
亡くなったお母さんの深雪さんに教えてもらったことや、もっと教えてもらっておけばよかったことなどを話す舞雪ちゃんの様子に、そうした話題がタブーにはなっていないことを知って、私は少しホッとしました。
けれども何の話からだったでしょうか、「おとうさんの宝ものは汐凪だよね」と舞雪ちゃんが言ったのにはドキッとしました。
舞雪ちゃんの言い方にも表情にも負の感情は感じられませんでしたが、心に刺さる言葉でした。

これからも機会あるごとに、舞雪ちゃんを訪ねようと思いました。

いちえ

関連:

更新情報 言葉の礫『一枝通信』

昨日は八王子の労政会館で開かれた、林洋子さんの朗読会『ふくしまー懐かしい いのちの声』に行ってきました。
「福島の子供支援公演」と銘打たれての朗読会でした。
福島県伊達市霊山町で暮らす詩人、久間カズコさんの詩を女優の林洋子さんが朗読するというこの公演のことを知ったのは、8月末の東京新聞紙上でのことでした。
直ぐに前売りチケットを購入して、この日を待ったのでした。
林洋子さんは「ひとり語り 宮沢賢治」の出前公演を続けている方です。
公演を知らせる新聞記事には久間カズコさんの詩の一節が載っていて、それを読んでその詩に触れたいと思ったのです。

昨日の会は第1部で経産省前のテント村で〝とつきとおかの座り込み〟を呼びかけ、先頭に立って行動してきた「原発いらない福島の女たち」の世話人、椎名千恵子さんの報告「福島の子供たちは いま」で始まりました。
第2部が、林洋子さんによる久間カズコさんの詩の朗読でした。
久間さんは霊山町の曹洞宗成林寺ご住職の奥様で72歳。平成23年度、第64回福島県文学賞の詩部門で受賞されました。
11月で82歳になるという林さんの張りのある艶やかな声で、久間さんの詩の言葉が立ち上がってくるようでした。
この日朗読された久間さんの詩から、3編だけですがご紹介します。詩集『山百合』から。

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    『写真』

 無言
撮影日
 平成二十三年 三月十三日
場所
 福島県伊達市
撮影者コメント
 玄関先に出しておいた巣箱です

箱の中の蜜蜂の死骸は
巣の真下に集まっていて
逃げ惑った様子もない

撮影日の三月十二日は
福島第一原発一号機の水素爆発で
この地区に恐ろしいものが
流れてきたのだ

一瞬のうちに
黒い目を見開いたまま
巣から落ちてしまった大量の蜜蜂

それらの悲鳴が聞こえてきそうな
一枚の写真

     『孫のはなし』

霊山にホウシャノウがなかったとき…
盛岡に避難をしている五歳の愛弓の口ぐせ

霊山にホウシャノウがなかったとき
おばあちゃんと外でいっぱい花をつんだよね

霊山にホウシャノウがなかったとき
いとこの大ちゃんと楽しく砂あそびをしたよね

霊山にホウシャノウがなかったとき
おいしいももやりんごをたくさん食べたよね

霊山にホウシャノウがなかったとき
特定避難勧奨地点ということばもなかったよね

ふくしまにホウシャノウがなかったとき
人の心は
この秋空のように青く澄んでいたよね

地球上にホウシャノウがなかったとき
人の心は
とてもきれいだったよね

  *平成二十三年六月三十日
   福島県伊達市霊山町の小国地区の一部が特定避難勧奨地点に指定された

     『視線』

赤ちゃんを抱いた若い夫婦が店に入って来た
プクプクと太った三ヶ月ぐらいの女の子
母親の顔を見てニコニコと笑っている
盆を迎える準備で混雑しているスーパーマーケット内

  よく太って元気そうね
  アラ、可愛いわね 何ヶ月?

放射能が降ってくる以前の店内なら
知らない人がこのように
気軽に声をかけることができたのに…
今は それができないのだ

人々は冷たい視線を向けるだけ
  この非常時にマスクもさせないで外出させて…

それでも
赤ちゃんはニコニコと笑っている

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第一部での椎名千恵子さんの言葉「悔しい!」が胸に鳴り響いています。
こんな日々を私たちは作ってしまったと、久間さんの詩に胸が張り裂けそうです。
いちえ






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