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更新情報4月17日号「一枝通信」

4月17日(4月16日追伸)

昨日警戒区域解除になった小高の様子を追伸いたします。

一昨日までは自分の住んでいた家や場所なのに、自由に行けなかったのです。

ですから昨日は、そこで何人もの人たちに出会いました。

海の方には、一階は柱を残してがらんどうになっていても、二階はそのまま残っているようなお宅もあります。

そうした家では、床に散乱した物を片付けている人たちがいました。

また若い世代は県外に避難し年寄り世代が仮設住宅に住み、離ればなれで避難暮しをしていた家族が、一年ぶりに元の家で顔を合わせたのでしょうか、持参してきた飲み物や食べ物を前にして語り合っている姿もありました。

家の中に残っていた食べ物も飲み物は、一切口にしないようにとお達しも出ていましたから持参してきたのです。

津波をかぶったMさんの納屋には、扉が外れてしまった保冷庫の中に30キロ入りの米袋が積み上げられたまま、崩れずにありました。ミニトラクターなど農機具も、波を被ったままの姿で。

津波にあった海側の辺りでは震災直後に自衛隊によって遺体捜索された時に瓦礫をある程度片寄せたのでしょうか。

そこここに小さな山になって瓦礫が詰まれていました。

村上浜は田んぼだったところが海になっていますから、本格的な瓦礫撤去はこれからになるでしょうが、行方不明の方がもしや底に沈んでおられるのでは……なども思いました。

ここに再び家を建てることができるようになるのだろうか、おそらくここにはもう暮らせないのではないかと思いました。

地盤がかなり沈下しているようですから、相当かさ上げしなければ無理でしょうから。

波が寄せる数百メートルも先にかつての堤防が低く見えているのです。

家はそのままに残っている山の方では、草ぼうぼうになった庭の草むしりをしている人や伸びきってしまった庭木の手入れをしている人もいました。

身の丈ほどに伸びた草ぼうぼうの畑地、草を刈っても放射能を含んだその草を置く場所はどこになるのでしょう。

刈った草が全体どれほどの量になるのかも、またその仮置き場も定かにはなっていないのです。

線量が高い場所ではなお一層、元の暮しに戻ることは難しいでしょう。

みんな自宅に戻れる日を待っていたのでしょうが、こうして戻れたと言っても住むことは出来ないのですから、どんなにか複雑な思いだったことでしょう。この日だって自宅に入れはしても、トイレも使えず水も出ないのですから。

そのために役場には仮設トイレが10基ばかり作られていました。

昨日まわった辺りには墓地も何カ所かあったのですが、それらの墓地で何組もの人たちを見かけました。

警戒区域解除になって、真っ先にお墓参りをしに来たのです。

“ふるさと”を生きる心を思います。

そこでの日々はきっと、死者たちとも共に生きてきた日々なのではないでしょうか。

過ぎた遠い日々も今に繋がって、そんな時の流れの中で生きてきた毎日だったのではないでしょうか。

いま、“ふるさと”から根こそぎ引き剥がされた人たちは、遠い日々に繋がる時間軸をも断ち折られてしまったのだと思えます。

墓参する人たちにも出会いましたが、海の方では墓地も津波に流されて墓石が散らばっていました。

畑やハウスの土地を提供して下さった小林さんは、鹿島に何代も続く旧家です。

家の裏手には樹齢数百年と言うシラカシの木があり、家の前には今は使われていない武家門があります。

小林さんが言いました。

「何でも便利になった世の中だけど、こうして原発の事故が起きてしまって……。シラカシの木は、侍が腰に刀を差していた時代から、時の流れをずっと見ていたのだなと思いますね。木が話せたら、なにを言うでしょうね」

「おとついまで四国に行ってたんですよ。友人たちと山登りです。高知では田植えをしてました。ああ、私らのところでももうじき田植えの時期なのに、去年も今年も田植えが出来ないことを深く感じ入りました」

政治家たちに福島の声を聞いて欲しいと思います。

仮設のお年寄りたちは、ビニールハウスや畑が出来て作物の生長を楽しみにしています。

そのハウスや畑のための管理費が、まだまだ必要です。

畑をするにも長靴も流されてしまって、持っていない人たちがほとんどですからそうした物も揃えていきます。

どうぞこれからもご支援をお願いいたします。

◎ゆうちょ銀行から送金する場合は

記号:18220

番号:5137881

なまえ:ゲンパツジコカライノチトカンキョウヲマモルカイ

◎他行から振り込む場合

店名:八二八(読み ハチニハチ)

店番:828

預金種目:普通預金

口座番号:0513788

どうぞ、よろしくお願いいたします。


更新情報4月16日号「一枝通信」

4月16日号(南相馬警戒区域の解除)

昨夜0時に南相馬市の小高区が警戒区域から解除されました。

私が定宿にしているビジネスホテル六角は、国道6号線に面しています。

そして6号線をほんの150mほどビジネスホテル六角から南に行くと、原発から半径20キロの検問所がありました。

その先が警戒区域だったのです。小高区は、この警戒区域内にあります。

これは昨年4月22日、原子力災害特別措置法の下に設定された「警戒区域」でした。

でも、皆さんもご存知のように同心円で描いた半径で、放射線量が出るものではなく飯舘村のように30キロ圏外でも危険な線量値を示す地もありますし、20キロ圏内でも浪江町の海寄りの地では飯舘村よりもずっと線量の低い地もありました。

けれどもこの一年、一律に20キロ圏内は警戒区域とされていて、許可証がなければ入れませんでした。

小高区の住民は、昨日までは自分の家に自由に入ることができなかったのです。

これまでに2度、一時帰宅日とされた日に2時間ずつ自宅に戻ってものを持ち出したり様子を見に行くことが出来ただけです。

さて昨夜、私の部屋からは赤いランプが点滅している検問所が見えていましたが11時過ぎから赤ランプを点滅した車両が何台かやってきて作業をしていましたが、0時10分にはすべての車両がいなくなって、あとは信号機の灯だけになりました。

そして今朝、昨日までは警戒区域内に入る許可車両だけが通る6号線を何台もの車が南に向かって行きました。

小高の人たちが、我が家の様子を見に行くのでしょう。

私も朝食後に現地ボランティアのAさん、Sさんと一緒に小高に行きました。

「昨日までの検問所って、なんだったのだろう?」と思いました。

つい数ヶ月前に希望の牧場の吉沢さんが牧場の牛たちに餌をやりに行くのに、同行させてもらったことがありました。

その時にはトラックの荷台で飼料のモヤシの搾りかすが入った大きな袋の間に潜んで、上からはブルーシートをかけられて、それこそ”密入国”のような心地で行ったのです。

今朝は全く隠れもしないで堂々と入れたのです。

その間に小高の放射線量が下がったという訳ではなく、その時も今朝も変わりない数値だったのに。

小高に入ると畑地には人の背丈以上に伸びた枯れ草の原。

役場の前でフォトジャーナリストの山本宗補さんにばったり会い、宗補さんに「液状化が凄いです」と指差されて見た辺りは路面が波打っていました。

そこから小高の駅前通りを行くと商店がことごとく傾いたように沈んだり崩れていて、この辺りの地盤の緩さが一目瞭然でした。

小高は”蔵造り”という建築方式の家が多かったそうですが、ちゃんと建ってさえいれば本当にお蔵のような質実剛健と言う感じの家や商店が、土台から崩れてへしゃげていました。

これを見てAさんもSさんも「見なければ判らなかった。原町区は地盤が堅いんだね。こんな風に崩れた家はなかった」と。

小高は液状化や地盤が沈下しているのでしょう。

山の方へ行くと放射線量は上がり、私の線量計は3.6μSvを示しました。

浪江町の方へ向かい、希望の牧場で吉沢さんに会いました。

20キロ圏内に何軒か残っている牛を飼っている人たちがいるので、今後はその人たちにも飼料を分けていきたいと言っていました。

「牛もミルクも出荷できる訳ではないが、その人たちは殺処分も餓死もさせずに牛たちと共に生きてきた。だからこれからもそうやって牛たちと共に生きていけるように、いわばこれはこれは癒しだよ」と言います。

希望の牧場は浪江町です。

牧場の入口脇の道路には、これまでにはなかった検問所が出来ていました。ここがゆうべ0時以降から新たに指定し直された警戒区域となるのです。

希望の牧場から下って村上浜など海の方へ行くと堤防よりずっと手前から、もう海。

そこらは住宅や畑、田んぼだったところだそうです。

でも私には海にしか見えませんでした。海岸線が陸地の方へ入り込んでしまっているのでした。

その海の中に乗用車や消防車、工事車両や農業用車両がゴロゴロと転がっていました。

これまで片付けられないままでいた、震災後のそのままの小高でした。

警戒区域解除にはなりましたが、水も電気もないのですから、津波の被害にあわず、たとえ家は流されずに残っていてもそこには住めません。

南相馬市は今後は「帰宅困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の3区域に移行して、今後の帰還に向けて除染やインフラ、防犯などの対応をしていくことになりますが、住民からの苦情が市役所に相次いでいるようです。

自由な出入りが出来るようにはなっても

水道も電気もなく、山の方の地区では線量も高いというのでは、自宅への宿泊も出来ません。

自由に出入りできるようになりはしても、もとの家に済めるように掃除をしたくても掃除さえも出来ないのです。

そのために住民からの苦情や怒りが、市長や市役所職員に向けられているそうです。

「警戒区域解除したって、家に住めないではないか」などと。

市長や市の職員に向けるべき憤りではなく東電に向けるべき憤りだと思うのですが、直接向けられる相手としてそうなってしまうようです。

このために市職員は、これらの苦情を受けるのに耐えきれずに辞めていく人もいると聞きました。

職員の中には自身が家族や家を失っている人もいるのですから、このような筋の違う憤りを向けられるのはどんなに辛いことかと思います。

東電の出来る限り賠償金は払わずに済ませたい腹が、この警戒区域解除→3区域移行にあるのではないでしょうか。

3区域に移行と言えばごまかされやすいですが、実際には3区域に分割ということです。住民や地域が纏まらず、将来の方向性も決めにくい状況に追いやって住民側に賠償額の妥協を迫っているように思えます。  

午後はビニールハウスや畑の土地を無償で提供して下さった、小林さんのお宅を訪ねました。

道路から家までは一面の福寿草の原!

福寿草の間にはキクザキイチゲの白い花や、ヒメオドリコソウの薄紅の花、ホトケノザの紅の花、オオイヌノフグリの青い花。

そして白梅紅梅も。眼に嬉しい光景でした。

この一面の福寿草は有名らしく、わざわざ郡山から写真を撮りにきている人もいました。

新田川の岸辺の桜はようやくポチリと咲き始めていた昨日ですが、今日の暖かさで桜も三分咲きほどになりました。


更新情報4月15日号「一枝通信」

4月15日 南相馬

昨夕、南相馬に来ました。

昨日の雨が上がって陽の射してきた今日は、午前中は畑とビニールハウスを見て回りました。

畑は以前お伝えしたところよりも更に増えて、全部で5カ所総面積9反5畝です。

ビニールハウスは当初5棟を計画していましたが、3棟で終いました。

近くにNPO団体が別に3棟のビニールハウスを建てたので、「原発事故から命と環境を守る会」も3棟で終うことにしたのです。

我が”六角支援隊”(「原発事故から命と環境を守る会」は、だれ言うともなくそう呼ばれています)のビニールハウスと畑は、数日前の春の嵐で、被害にあったようです。ビニールがはがれたところが出たそうです。

嵐が治まって後に直ぐに修理したということで、ビニールに損傷は見られませんでしたが、パイプの歪んだところがありました。

そして風よけが必要だということで、風よけネットを張るためのパイプも組まれていました。

(ネットはまだ張ってありません。これからの仕事です)

既にハウスの中にも外の露地畑にもほうれん草、水菜、豆、ピーマン、トウモロコシ、ジャガイモ、カボチャなどなどの種がまかれ芽を出しているものも多く、仮設の方達が畑仕事を待ち望んでいた様子が見て取れました。

これらの種も、皆さまからの支援で送られてきたり資金カンパで購入したものです。

仮設のお年寄りたちは朝6時頃には畑に来て水やりをしたり芽が出た様子を見たりして、それから戻って朝ご飯という方が多いようです。現地ボランティアの荒川さんも早朝に来て、そんな皆さんの姿を見ているそうです。

前回私が南相馬に来た1ヶ月前には草だらけの畑地の草取りをしていたのですが、今日はその畑はきれいに畝が作られ蒔かれた種が芽を出していました。ほんの一ヶ月前がもうずいぶん前のことのように感じられました。

小池第3仮設近くの畑にいた時に太鼓の音が聞こえてきて、仮設で何か催しがあるみたいだからと行ってみると仮設の自治会でのお花見会でした。

仮設の敷地内には桜の木はなく、それにあいにく今年は春の訪れが少し遅いのか他の場所で見ても桜はようやく一つ二つほころびだしたかという様子です。

でもその仮設の集会所の前にはテントが張られ大きな鍋が4つも並んで汁が煮え、テントの脇にはビニールシートが大きく並べられて、仮設に住むみなさんが賑々しく立ち働いて嬉しい光景でした。

会費500円で住民の親睦を図る試みだそうです。

寺内の仮設では、上原さんのおばあちゃんを訪ねました。

おばあちゃんは昨年末にご主人を亡くされて、ずいぶん気落ちしていたのですが今日訪ねたら少し元気を取り戻されたようで前回、前々回にお訪ねした時よりも話す声も話すことも、明るくなっていました。

それに第一、今日お訪ねした時には部屋の掃除をしていたのです。

掃除をするといってもこたつが置いてあるので掃くような空間もない狭さですが、それでもこんなふうに掃除をしようと気持ちが動いたことは嬉しいことでした。

けれども上原のおばあちゃんから聞いた話は、また胸の痛いこともありました。

おばあちゃんお部屋の並びの何軒か先で、独居の方が亡くなっていたというのです。

救急車が来てなんだろうと思っていたら、その部屋の人が亡くなっていたのだと言うのです。

仮設住宅はいろいろな地区から来ている人たちの寄り合い住宅なので、おばあちゃんもその人がどういう人だったか判らないと言っていました。

こんなことが起きないようなコミュニティ作りも必要でしょうし、公的な見廻りももっともっと必要だと思いました。

午後は高倉のホットスポットへ。

石川さんと荒さんのお宅を訪ねました。どちらも以前にお訪ねしたことのあるお宅です。

石川さんのところは以前は2.7〜3.5μSvとありましたが敷地を除染して今は1.2〜1.7μSvに下がっていました。

石川さんは被災以前は曾孫までの4世代7人で暮らしていましたが、昨年3月以降は80代のご夫婦と60代の息子さんの3人の暮しです。今日は玄関先だけで失礼しましたが以前お訪ねした時には、部屋の中には曾孫のおもちゃがついさっきまでそこで遊んでいたままのように置かれていました。

「いつ帰ってきても直ぐに遊べるようにと思って。でも、もうここには帰って来られねぇ。こんな線量が高いところには住ませられない」と言われて言葉が、今も私の耳に響きます。

荒さんの家は玄関前では2.7μSvですが、庭の叢は5.5μSv。

でも、荒さん夫婦と30代の独身の息子さんはそこで暮らしています。

夕方海の方へ行き、雫地区に入った時に改築して間もない家で「高田」と表札のかかった家を見ました。

もしやと思ってお訪ねすると、やはり探していた高田康成ちゃんのおじいちゃん、おばあちゃんの家でした。

康成ちゃんとお母さんの有里子さんには、昨年10月に寺内の仮設で出会ったのです。

六角支援隊と一緒に物資を配っていた時に「こんにちは。支援物資です」と声を掛けると、思いがけずに赤ちゃんを抱いたお母さんが顔を出したのです。それが有里子さんでした。

「赤ちゃんがいる!」と、思わず私は声をあげてしまいました。

その赤ちゃんが康成ちゃん。生後一ヶ月になる少し前でした。

次にいった時にも訪ね元気に育っている様子にホッとし、その後も気になるので寺内の仮設に行く度に訪ねたのですが留守で会えませんでした。

以前話を聞いた時には雫にご主人の実家があって、津波で一部壊れた家を直しているところで、改築が済んだら仮設を出て実家で暮らすと言っていたのです。

今日厚かましくも改築されて間がない家の表札を見て訪ねたら、不審げな顔つきで赤ちゃんを抱いて出た人の腕の中にいたのが康成ちゃんだったのです。事情を話すとあちらも驚いて「息子たちはまだ仮設住まいだけど、今日は有里子がインフルエンザで家で寝込んでしまっているので、康成を預かっているんです」と。

そして「有理子がいつも言ってました。『赤ちゃんがいる!』と言って物資を持ってきてくれた人がいる」とも言うのです。

康成ちゃんはもう寝返りをするようになり、抱くとしっかりと脚をつんつん突っ張って小さな小さな2本歯を見せて笑うのです。

私は嬉しくて、涙が溢れました。元気に育って欲しいと思います。心から願います。

すっかり津波をかぶってしまった辺りに、鯉のぼりが泳いでいます。

鯉のぼりの前には、一階部分は流されて筒抜けですが二階が辛うじて残った家が一軒だけ。

家の裏手の木立が、辛うじて家が流されてしまうのを防いでくれたのでしょう。

辺りには他に残った家はなく、家々があった形跡すらもない平地です。

この家は両親、お嫁さん、子供たちの5人が津波で亡くなり、仕事で外に出ていた息子さん(子供たちのお父さん)だけが助かりました。

その息子さんは仕事を辞めて今も毎日、亡くなった5人がどこかで生きていると、探し歩いているそうです。

息子さんの同級生から聞きました。「あいつと顔を会わせるのが辛い」と。                   

長々とになりました。

明日は小高が警戒区域解除になります。小高の様子を見に行こうと思います。           いちえ

 


更新情報4月13日号「一枝通信」

4月13日号

信州発、産直泥つきマガジン『たぁくらたぁ』26号が刷り上がりました。

今号も原発特集です。

●「助け合い」とは無縁の災害がれき広域処理

●フクシマ健康調査プロジェクト報告

●柏崎刈羽原発の再稼働を止めよう

など「原発ニッポンの迷走」として特集を組んでいます。

また飯舘村の菅野哲さんの「翻弄された飯舘村に復興はあるのか」や長谷川健一さんへのインタビュー第2弾、浪江町の希望の牧場、牧場主の吉沢正己さんに取材しての「警戒区域内に封じられた現実」などなど、是非たくさんの方に読んで頂きたい内容です。

『たぁくらたぁ』は季刊雑誌ですが、昨年春の23号の緊急拡大号「3・11大震災 ずっとウソだったんだよ、日本」。24号は「総特集 3・11 脱・原発社会へ」、25号拡大号「脱原発 フクシマは問い続ける」と、昨年春以来しっかりとした取材を重ねて書き起こし、毎号原発特集ですすめてきています。どうぞ、バックナンバーも、お読みいただきたいと思います。

フクシマ健康調査プロジェクトも、多くの人に知って欲しいと思います。

購読お申し込みは下記へ

「たぁくらたぁ編集室」 Tel:026−237−8100 info@o-emu.net    http://o-emu.net/

14日から、また福島へ行って来ます。

畑やビニールハウスがどんなになっているか、楽しみです。

新田川の土手の桜も満開でしょう。川岸はかなり放射線量が高いのですが。 

 


更新情報4月9日号「一枝通信」

4月9日(番外編)

みなさま

友人から送られたメッセージを転送します。(渡辺一枝)


人生の先輩・友人・ツバルの講演やトークでご縁があった大切な方々へ

 家の前のしだれ桜の老木に、濃いピンクの蕾がふくらんできました。春のおとずれの中、みなさまおひとりおひとり、いかがお過ごしでしょうか。

 もんでんは震災後の日本にツバルから帰国、そしてまた今年、かの南の島に出立します。この日本での一年、肋骨を折ったりしながらも、またこつこつ、出国費用捻出に働いております。

 この一年。自分の生まれたこの国の様子に、胸のつぶれる思いで向かっています。

 今日は「読んでくださるかたがいれば—」という思いで、いまは半分ツバルの離島の民となった(つもりの)わたしから、わたしが生まれ、たくさんのものをもらった、この日本のことを見て書きます。

 島での五感をフル稼働させた「生」から見ると、とてもおかしなことが起こっているこの国。なのに、多くの人はみんな忙しそうで、知らないでいるようなのが、奇異なのです。この国にこれからも生きる人たちの近い未来を感じると、書かずにはおれなくなりました。

 環境省がいま、新聞見開き広告・テレビCM・各地シンポジウムで、「みんなの力でがれき処理」広報キャンペーンを精力的に展開中です。

 わたしが今さっと調べただけでも、昨年2011年で、放射性がれき拡散宣伝のために博報堂あてだけで9億円を支払っています。(※1)さらに今年2012年、現在募集中のがれき拡散宣伝企画の予算は最低15億円。(※2)

 この数十年。「原子力はクリーンエネルギー」と、安全神話キャンペーンに毎年、何百億円という国民の電気料金が投入されてきました。(※3)

 大事故が起こった今、こんどは「みんなで助け合おう」を合言葉に、放射性がれきを拡散。それがどれほど人体に危険なことかは、環境省の人びともよく分かっていないままに。

 人体の内部被曝を避けるための人為的放射性物質の扱いの鉄則は、「拡散させないこと」「封鎖すること」です。

 内部被曝が専門の矢ケ崎克馬琉球大学教授はこう言っています。

「政府はバグフィルターを通すので大丈夫と言っていますが、とんでもないことです。セシウムはどんどんフィルターをくぐり抜け、住民の住む大気内に届いてしまいます。焼却処分は、きわめて危険です。焼却処理で0.5%でも洩れてしまえば、大きな二次被曝を生むことを認識しないといけません。」(※4  p.64)

 実際に静岡県島田市のがれき焼却実験では、0.5%どころか、セシウム137の40%がフィルターを通過して排ガスに混じり排出されることが分かりました。(※5) 高温で熱し、気化したセシウムを人体が吸い込む危険性は尋常ではありません。チェルノブイリの影響を研究した元ゴメリ医大学長バンダジェフスキー博士も「セシウムを高温で燃やすなどありえない」と強く警告しています。(同じく※5)

 またすでにがれきを受け入れ焼却してしまった山形市では、定時降下物に福島市の14倍のセシウムが検出されました。(※6)

 日本の主な医学者や放射線研究者が内部被曝の危険を軽視するのは、戦後のすべての安全基準がアメリカのICRP(国際放射線防護委員会)の基準をもとに作られてきたからです。ICRPはアメリカの戦後の核開発と原子力産業を擁護するためにできた機関で、「経済的利益」を人体の健康より優先することがその1990年勧告でも婉曲的に述べられています。(※4  p.40)

 実際には身体の内部被曝によって、多くの人が命を落としてきたのですが、「内部被曝」というもの自体が、ICRP下と、そしてこの日本全土では、「ないこと」にされているのです。

 小出裕章京大助教授は、放射性がれきは福島第1原発を封鎖する作業に使うべき、また福島第2原発に集めるべきと言っています。そしてその費用はすべて、国と東電の責任です。

 それを「助け合い」の精神とすり替えて、放射性物質を拡散して分かりにくくし、また国民の血税を膨大に使って国・東電の負担を軽くし、また多大な公共事業の利権を得ようというのがこのキャンペーンです。

 長崎・広島の被曝者を人体実験として扱った米政府に協力した日本政府。(※4 4章) 同じように、今度は命にかかわる危険を、大々的なキャンペーンで公共事業利権と引き換えに全国に広めようとしています。

 大江健三郎さんは、仏紙ルモンド紙インタビューで「僕たちは、そんなにだましやすい国民でしょうか」と言っています。

 「私が最も絶望させられたのは、電力会社、政府の役人、政治家、メディア関係者が結託して放射能の危険を隠すために行った「沈黙による陰謀」とも呼ぶべき行為です。(中略)少なくとも言えることは、もう本当に、こんなにだまされてばかりいてはいけないということです。『冷温停止』などと大嘘をついている政府にさらに、『ガレキをなんとかしないと東北は復興できない』と言われて、また動揺してしまう。そこを変えていかなくてはいけない。」(※7)

 わたしは15年以上前から、「椰子の木があって、年中Tシャツ一枚で暮らせる南の島への移住」が夢で、今もそれは変わっていません。日本にふるさとと呼べる場所はなく、気に入った所なら地球上どこでも住める、心は海洋民族です。

 それでも福島事故後。身を切られるような思いで、生まれたこの国のことを調べると。広島長崎原爆後、ずっと隠され続けている内部被曝による膨大な死者の実態。全国54基の原発労働者の隠され続けている現場被曝と死者。そして福島事故後、みごとに隠され続ける被害の実態。

 自分が生まれた国の人びとの、あまりにも単純な「長いものにまかれろ」体質に、悲しくなって、よく泣いてしまいます。優しい、本当に心優しい日本の人びと。けれどもだまされ続けてきた、日本の人びと。被曝して、死に続けても、それに気づかない日本の人びと。またはその横で気づきつつ、今の仕事や家族が大切なので気づかないふりをする日本の人びと。

 みんな仕事で忙しいので、知らぬまに、操作されていく—。ドイツ在住の哲学者三島憲一氏は、「日本では国民生活の『植民地化』が進行していった」と言っています。(※8)

 どうか、わたしの友人のみなさん。

 命にかかわっている放射性がれきの問題。そして、いまだに通常「放射線管理区域」とされる非常に危険な線量の地域に大勢の子ども達が住まわされていること。その子ども達を襲っている健康被害が否定され、隠されていること。年々この国に恐ろしい量で増え続けている、10万年以上管理の必要な核廃棄物—。

 知らぬ間にだまされていかないでください。本当に、仕事の合間に、少しずつでいいのです。知ろうとしてください。動物的な五感・直観を取り戻して、生きることの危険を察知してほしいのです。

● がれき問題と内部被曝の資料・ブログ ●

○「放射性がれき拡散の何が問題か」分かりやすい理由

沖縄瓦礫問題陳情書2−1.「陳情の理由」の概要

http://yushi.rederio.org/gareki

○ STOP!放射能ごみプロジェクトチームによる分析と批判(pdf)

https://docs.google.com/file/d/0B6g6piXeFJ5wOGNjOTlmZGYtMTEwOS00OWIwLTg0YWEtNmQ5YzNmZjNlMmQy/edit

(STOP!放射能ごみサイト→ http://houshanou-shomei.seesaa.net/index.html )

 ○「ガレキ広域処理6つのウソ」(pdf)

https://docs.google.com/viewer?url=http://fileman.rakurakuhp.net/UserFiles/6513/File/1332732362.pdf

○「ガレキ拡散の真の目的とその黒幕について」石川栄一

http://shugakukai.shakunage.net/gareki.html

○ がれき問題他、内部被曝などの問題を追うブログ守田敏也氏「明日に向けて」

http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011

(京都にての講演・行動呼びかけなどもこちらでアップされます。)

○ 東電OBの福島事故後時事刻々ブログ「院長の独り言」

http://onodekita.sblo.jp/

○ 分かりやすい薄い入門書『内部被曝』岩波ブックレット 矢ケ崎克馬・守田敏也

(560円+税)

(薄いですが原爆後いまだ日米両政府によって隠蔽されていることを客観的に解説。本を買うことも「行動」。)

○ よくわかる原子力 キッズページ

http://www.nuketext.org/indexkids.html

○「原発」国民投票プロジェクト 署名

http://kokumintohyo.com/

○ 京都にての講演・行動呼びかけ他 NGOe-みらい構想

http://e-miraikousou.jimdo.com/

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 上記資料を保管してくださり、お暇ができたときに少しずつ、チラチラと見てくださると、こころから嬉しいです。

 みなさん、とても深刻な話題ですが、読んでくださって、本当にありがとうございました。

ファカフェタイ・ラシラシ(どうもありがとう)。

 どうぞおひとりおひとり、よい桜の春を、おすごしください。

アロファ・アトゥ(こころから、愛をこめて)….!

もんでん 奈津代

● 『子連れ 南の島暮らし

—南太平洋のゆる〜り子育て体験記』刊行

http://monden.daa.jp/01tuvalu/022notice/022-03.html

● 写真と漫画の「ナヌマンガ島2008年の日記」

→ http://monden.daa.jp/01tuvalu/2008nanumaga/2008nanumagatop.html

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【出典】

※1=「環境省・博報堂・9億円」など検索で各種ネット記事にて。

※2=復興庁・環境庁 企画書募集公示「平成24年度東日本大震災に係る災害廃棄物の広域処理に関する広報業務」

http://www.env.go.jp/kanbo/chotatsu/kikaku1/h240305c.html

※3=「原発・放射能を正しく知ろう」 田中優2011年5月2日 世田谷講演

http://www.ustream.tv/recorded/14428383

※4=『内部被曝』岩波ブックレット

※5=「放射能防御プロジェクト」木下黄太ブログ2012年3月26日記事http://blog.goo.ne.jp/nagaikenji20070927/e/653ca9bfcb7d861f9ad0bd251af51103

※6=山形市2011年12月21日9時〜22日9 時定時降下物採取41MBq/km2

http://savechild.net/archives/14279.html

※7=守田敏也「明日に向けて」内3月21日記事

 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/e24fb7061ea294dc54ce23ee452b038c

※8=ドイツZEIT紙2011年5月7日記事「事の真相」 和訳回覧ご希望の方はもんでんまで。

 


更新情報 ビニールハウスその後(3月13日-14日号)「一枝通信」

ビニールハウスその後(3月12日-13日号)

以前の通信で「ビニールハウスを5棟(3+2)建設予定とお伝えしていましたが、今回は3棟(2+1)で一応終了と致しました。

『原発事故から命と環境を守る会』でビニールハウス建設を計画している事を知って、他のNPOなども動きだし、そちらでの計画が具体的になったというので、それならこちらは3棟で終わりにしましょうということになったのです。

実際に資金も、3棟建設にはまだ少し不足の状態ですから、無理をせずにやって行くことにしたのです。

鹿島小池に2カ所、荒畑に1カ所の建設が出来ました。

皆様のご協力のお陰です。ありがとうございました。

そして今回13日に草取りをしたのは、このどちらでもなく新たに借りる事のできた畑地でした。

ここにはビニールハウスは建てず、露地畑です。

今回は13日から雑誌『たぁくらたぁ』の編集委員の方達と合流しましたが、その方々が3カ所の畑地と3棟のビニールハウス内の線量を測って頂きました。

ハウス内も入口辺りと奥、接地と1m高の空間でと丁寧に計った結果、いずれも周辺よりもずっと低い線量でした。

ハウス前の道路や草地がR−DANで168cpm、gamma計測1.12μSvですが、ハウス内は42cpm、0.23μSvという値です。

0.25μSvのところに1年間ずっと居れば1ミリSvとなりますが、ハウス内に365日24時間ずつ留まる事は考えられません。

ですからこの値は、安心できる数値でした。嬉しい事です。

13日草刈りをした畑地も42cpm、0.24μSvで、これは草を刈ったのが図らずも”除染”となったのでした。

きっと、「線量の高いだろう場所でビニールハウスや畑を作って大丈夫だろうか?」と、心配して下さった方達もおいでだったと思います。

「仮設のお年寄りが自給自足するためではない。作物を育てる事で生き甲斐になればいい」と思って始めた事ではありましたが、この結果を見て、本当に安心できました。

今後は肥料や種などが必要になってきますので、どうぞ今後もなお、ご協力をお願いいたします。

昨日お送りした通信で、飯舘村の菅野さん、長谷川さんの話していた事が一層胸に響きます。

飯舘村では伊達市、福島市、相馬市の仮設住宅で避難生活を送る人が多いのですが、長谷川さんや菅野さんら、村で区長をしていた方が率先して、仮設住宅入居が決まるのと同時に農地を借りたそうです。

そのお陰で、狭い仮設住宅に引きこもって過ごす人もなく、村に戻る事は出来ないかもしれないという大きな不安を抱えながらも、畑の作物の実りが楽しみになっています。ここでは農作物や、それらから作った食品などが仮設内の販売所で売られてもいて、生産者に収入も入るようになっています。

南相馬の仮設住宅の皆さんにも、そうした小さな喜びが生まれたらいいなと思います。

この冬は例年になく寒く、雪も多い冬でした。

春を迎えて、緑が芽吹き、伸びてくるのがなお一層待たれます。 


更新情報3月13ー14日号『一枝通信』

3月13-14日号

今回は宿泊先でインターネットが使えなかったため、報告の日付がリアルタイムではありません。ご容赦を。

飯舘村から福島市に避難している市澤美由紀さんと岡本易さんには13日に、14日には菅野哲さんから話を聞きました。

美由紀さんには昨年12月に初めてお会いし、1月にも会って話を聞きました。その時には飯舘村のご自宅まで案内して頂きました。

今日は3度目になります。

岡本さんは美由紀さんのご紹介で、今日初めてお会いしましたが短い時間でしたが密度の濃いお話を伺いました。

飯舘村では、今年の2月の末に村民を集めての会議が開かれたそうです。

昨年3月12日、続いて14日に原発が爆発し飯舘村に高濃度の放射能が流れたのですが、ここが計画的避難区域に指定されたのは一ヶ月後の4月11日でした。

けれどもこの間にも村民からは「こんな危険なところに子供らを住ませられるのか? 村長として避難の結論を早く出せ」との声があったにもかかわらず、国や東電の発表を鵜呑みにして村としての避難指示を出しませんでした。

そしてようやく5月、ほとんどの村民が村を出ての避難生活となりました。

このように昨年の原発事故以来、村長の姿勢に対して一部村民たちからは首長として村民の健康と生活を守ろうとしたかについて批判の声が上がっていました。

その後村長は住宅地から除染をして、数年後には村民を避難先から帰村させたい考えを発表しました。

この村長の案に同調する村民も居ますが、除染の有効性に疑問を持つ村民も居ます。

20年30年経っても、本当に安心して住めるようになるのか? それよりもまずは安全な地に村を移し、本当にもとの場所に戻れるようになった時に帰村するとした方がいいのではないかという声も少なくないのです。

こうした声を無視して村長は帰村を急ぎ、莫大な予算を使ってモデル地区除染が実施されています。

先月開かれた村民会議では村民が意見を出し合う討議の場になる筈だったのが、村長からの除染と復興計画の説明会になったようです。その計画は、村の北部にスマートビレッジとして200〜300戸の一戸建て住宅を造り、スーパーや職場も作るというものです。

この計画案に大いに疑問を持つ村民たちは少なくありません。

飯舘村では多くの村民が村を離れて避難生活をしていますが、室内の線量が高くないという事で9つの事業所は避難せずに現地で営業を続けていました。

けれども現在そのうちの3事業所は既に営業を止めて撤退しています。

こうした事から考えても、村長の帰村案は現実的ではない”空しい希望”と村民は受け止めています。

東電は賠償問題に関して、各被災者に分厚い請求書を渡しました。

これに対して何人かの村民が、東電側が用意したこの請求書には書きたくない。自分たちで納得の行く請求書を提出すると準備しています。

その根拠は何か不法行為があった場合、その被害者が加害者に対して請求書を出すのがまっとうで、加害者側が書式を用意するものではないということがあります。

岡本さんがこの集団訴訟の口火を切り、現在のところ同調者は10人ほどだそうですが今後、同調者は増えていくだろうと思います。

14日は、雑誌『たぁくらたぁ』の編集委員たちと一緒に菅野さんの案内で村内を回りました。

役場はモデル除染で、自衛隊員600人が来て除染をしました。

役場の正面玄関前には接地された線量計があって、数値が示されていますし、我々持参の線量計でも計りました。

正面では0.25μSvですが、裏手は 2.6μSvありました。

村内でも地区によって(というより地形によってと言った方がいいでしょう)線量にずいぶん差があります。

長泥地区の山では16.0μSvと、路上で 4.1μSvもありました。

ここで線量を測ったりしていた時にちょうど、長泥に家がある菅野さんの知り合いが通りかかりました。

その人は避難先から飼い猫に餌をやりに戻って来たところでした。1〜2日に一度、こうして餌やりに来るそうです。

彼は言い、菅野さんは答えます。

「情けねぇな。自分の家があっても、入れねぇ」「そうだな、もう戻れねぇぞ」「我が身は守らねばなんねぇからな」

線量を測ったこの地点には展望台があり、この日は雪があって展望台には上れませんでしたが、そこからは山陰からかすかに太平洋が見えるそうです。村内で海が見えるところはここだけという事でした。

村民たちは初日の出もここから拝むならわしだったと言います。

背後の山の上の神社にお参りをして、その後ではみんなで酒盛り。

「みんなして賑やかに、よく飲んだもんだな」「ああ、そうだったな」

展望台の下の斜面にはたくさんの桜の木が植えられていて、それは皇太子の結婚記念にと村民たちが植えた桜でした。

よく手入れもされていて、桜の季節はそれは見事だった事でしょう。

そんな話をしている間にも何台もの車がこの道を通ります。

この道路はいわきと山形を結んで居て、こんなに線量が高い地域を通るのに、まったく閉鎖されていないのです。

『たぁくらたぁ』のNさんが、「驚いたなぁ!放射線街道だ」と言ったのに、みんな頷きました。

その一方で南相馬で私がいつも泊まるビジネスホテル六角前の国道6号線は、六角のすぐ先が半径20キロ地点で検問所があり、一般人は通行できません。でも検問所から浪江町の辺りまではずいぶん線量は低いのです。

一律に半径で線引きしている、その矛盾が露呈しています。

この日は酪農家の長谷川健一さんにも話を伺いました。

長谷川さんは伊達市の仮設住宅に住んでいます。菅野さんは福島市の仮設住宅住まいです。

お二人とも地区の区長をしていたのですが、仮設住宅に移った時にも直ぐに、地区の人たちのために動かれました。

仮設住宅の近くに農地を借りて村民のみなさんが、する事も無くただ家に居るという事が無いようにとはかったのです。

「みんな生き生きとして畑をやってるよ」と言います。

●昨年12月に長野市内で催された長谷川健一さんの講演録ができました。

『【証言】 奪われた故郷──あの日、飯舘村に何が起こったのか』 オフィスエム刊 700円(税込)

●今回も取材に同行させて頂いた『たぁくらたぁ』の編集委員の方達ですが、『たぁくらたぁ』次号の26号も原発特集です。

 バックナンバー23、24、25号共に、是非お読み下さい。400円

●オフィスエムのブックレット『女たちの3・11──それでも、私は命を繋いでいく』840円(税込)

上記お申し込みは Tel:026−237−8100、Fax:026−237−8103 Eメール:order@o-emu.net

長文になりました。ご容赦を。明日は南相馬、ビニールハウスの件をお伝えします。


更新情報3月12日号「一枝通信」(その2)

3月12日号(その2)

昨夜は泊めて下さったAさん夫妻に、一年目の今日どんな事を思い、どんな会話を交わされたのかを尋ねてみました。

「朝からずっと物資配りをしていて、終わってからも大留さんのところに集まって明日(12日、つまりは今日)のことを打ち合わせて忙しい一日だったの。だから、かえって良かったんだ。考える暇なんか無かったもの」とのことでした。

Aさん一家は昨年3月11日までは、息子さん一家も同じ敷地内の別棟で暮らしていたのです。

息子さん夫婦は共働きで、もうじき2年生になるお孫さんは「ジジババが育てた」と言ってました。

お嫁さんが腱鞘炎になったために赤ちゃんの世話がむずかしく、それでAさんがミルクを作ってやりA婦人がおむつを替えてやりと育て、幼稚園の送り迎えも保護者参観日にもAさんたちが行ったのだそうです。

その孫は原発事故の後、お母さんと一緒に東京の墨田区で暮らしています。

息子は家族を支えるために、Aさん夫妻と共に地元に残って役所勤めを続けています。

Aさんがぽつりと言いました。「今日は孫の写真が写メールで送られて来たんだ」

先日7日の「トークの会」で、最後にAさんが話された一言「原発が憎いです。家族が離ればなれになったのが、とても残念だ」という言葉が、蘇りました。

Aさんの家は半径20キロ圏内の警戒区域内で海岸線からすぐのところにありました。

津波で家は流され、今は市内の借り上げ住宅に息子と共に住んでいるのです。

Aさんたちご家族が、またにぎやかに暮らせる日が戻るだろうか? どうか戻って欲しいと思いました。

今朝起きると、空は晴れて真っ青、昨日までの雪まじりの雨空が嘘のようです。

天気予報でも、今日は雨か雪と言っていたのですから。

「原発事故から命と環境を守る会」の皆さんは、今日は4組に分かれての活動で朝から大わらわです。

1組は大留めさん率いる畑の草刈り隊。

東京、仙台からの青年たちボランティアを10数人引き連れて、大留さんは鹿島小池第3仮設住宅そばの畑の草刈りに出動です。

現地ボランティア、仮設住宅の有志も参加しています。

もう1組は現地ボランティアのSさんが案内して松戸からのボランティアグループの「歌声喫茶」隊です。

この3月は各仮設住宅集会所はさまざまな催しが企画されていて、ようやく確保出来た2カ所の集会所で開けた「歌声喫茶」です。

3番目の組は草刈り隊の行く畑の小池第3仮設住宅集会所を借りて、豚汁の炊き出し。A婦人が隊長です。

これは草刈り隊、「歌声喫茶」隊、全員がお昼にはここに集合して一緒にご飯を食べるので、そのための準備です。

4番目の組はホテル六角での、おにぎり作りです。

私は3番目の組に入りました。

豚汁が煮える間、この仮設に居る志賀さんと熊井さんの話を聞きました。

熊井さんの家は小浜にありました。

津波警報で避難所に逃げ、逃げた避難所もまた危ないというので別の避難所に移りました。

ご主人は震災前から入院中でしたが、入院患者たちは震災の後どこかへ移送されたのですがどこに行ったかが直ぐには判らずようやく1週間目に判ったそうです。それが判るまで、どんなに心配だった事でしょう。

その後5月にご主人は亡くなられたそうで、92歳になるお舅さんと熊井さんが残されました。

お舅さんはとてもしっかりした方だそうですが、最近物忘れがひどくなりそれを自身がとても悔しがっているのだそうです。

熊井さんは「じいちゃんが何でも覚えていたのも、ずっと同じところで同じような毎日を送ってたからなんだよ。ようやくこの仮設に入れたけど、それまで何カ所も避難所を転々としたんだから覚えらんないのも当たり前なんだよ」と諭すそうですが、お舅さんは自分が悔しくてかんしゃくを起こすと言います。

熊井さん自身もそうした毎日にストレスが溜まって、「トイレに座っている時がやっとホッとできるときなんだ。だけどホッとすると、ああ、でも死んでしまった人もたくさん居るんだから、命があっただけでも有難いと思わなくちゃって思うんだ」

熊井さんの話を聞いて一緒に聞いていた志賀さんも、こう話してくれました。

「ああ、家はあの日は義母がデイサービスに行ってたの。私は地震の前に下の孫を幼稚園に迎えに行って、上の孫を迎えに小学校に行ったんだけど、まだ教室から出て来なくて、それで一度家に帰ろうかと思ったんだけど下の孫が校庭で友達と遊んで待ってたいって言うから家に帰らないでそこで待ってたのよ。

家に帰ってたら孫と二人で津波で流されちゃってた。帰らないでよかった。

それでそのまま学校の体育館に避難でしょ。

その後そこも危ないって別の学校の体育館に避難して、今度は原発が爆発したって言うんで、市役所からのバスで筆穂(宮城県丸森)のは意向になった高校へ避難してそこで3ヶ月。

義母はあの日デイサービスに行ってたんだけど、揺れも収まって送ってきてもらった時には私たちは避難所に居て家は留守だったからそのまま連れて帰られて、ようやく連絡が取れた時には義母は山形に居た。

南相馬から横浜に送られてそれから山形に移されたという事だった。探したんだけど判らなくて、1ヶ月たった頃に私の実家から連絡があって判ったの。

筆穂では地元の人がとれたての野菜なんかを差し入れてくれて、有難かった。

避難所の高校の料理教室で自分たちで炊き出しして、食べてたの。

だけど、地元の人たちも知らずに居て私たちも後から知ったんだけど、筆穂は線量が高かったのよね。

あの3ヶ月で、私も孫たちもたっぷり放射能を浴びた。

この前健康検査で上の孫は未検出だったけど、私はセシウム137が出ていた。

下の孫は機械で計るのじゃなくて尿検査やったら、やっぱり出ていた」

短い時間の聞き取りでしたが、考えさせられる点が多々ありました。

4組が集合しての昼食の後で、草刈り隊、「歌声喫茶」隊はまたそれぞれの持ち場に移りました。

私たちは2時から同じ集会所で物資の配給をしました。

食料品と衣料品でした。

送られて来た支援物資の中には大きな段ボール1箱分の大量の生理用ナプキンがありました。

でも、ここ福島の仮設住宅に住むのは本当にお年寄りばかりです(岩手の仮設には若者も、子供たちも居ました)。

物資をもらいにきた方達数十人のなかに、こうした品が必要そうな人はたった一人でした。

他の人に判らないようにそっと私はその人に知らせましたが、「ストレスからだと思いますが、生理が来なくなってます」と。

男性たちも読むこの「一枝通信」ですが、こんな現実も是非知って欲しいと思いました。

原発の見えない恐怖がこんなかたちでも現れているという事を。  

 

追伸 

ビニールハウス建設について皆さまにご協力をお願いしていましたが、現在3棟建っています。

おかげさまで3棟建設が出来たのでした。ありがとうございました。

お礼がこんなに遅くなりました。どうぞご容赦を。

なお引き続き、肥料や種、水道代など、管理のための費用も必要になってきます。

どうぞ、今後もご協力をお願いいたします。    


更新情報3月12日号「一枝通信」(その1)

3月12日号(その1)

昨日は郡山の開成山野球場で開催された「脱原発 福島集会」に参加しました。

私も呼びかけ人になっている「脱原発をめざす女たちの会」ではバス3台を仕立てて、東京駅の鍛冶橋駐車場から出発しました。

他にも多くの団体がそれぞれバスを仕立てて、それらのバスが連なって郡山を目指しました。

私の乗ったバス1号車には、奈良や長野からなど東京近辺からばかりでなく各地からの参加者が居ました。

車中ではマイクをまわして、各自が自己紹介と原発に対する思いなどを一言ずつ発言してから、いくつかに関して意見交換をしました。

車の中では本も読めないし字も書けない私は(電車なら大丈夫ですが車だと気分が悪くなってしまうのです)メモを取れなかったので、頭に残っていることだけで、それらをお伝えします。

★東電のホームページを見るとスポンサー企業が判る。三井住友銀行などの預金は解約して、地元の信用金庫に変えたほうが良い。

★原発国民投票に関しては

・「憲法を9条を変えたいために、国民投票法案を作ろうと進めている人たちも居る。国民投票は、危険をはらんでいる。急いで集約すると、推進派に有利な結果になると思う。だから原発国民投票には賛成できない」

・「原発意見投票をそのように捉えるのは違っている。大阪や東京で行われた原発意見投票は法的な力はなく、アンケートとしての意味で我々の意見を伝えて行くものだ。国民投票法案を成立させて、国会を通らなければ実行力はない。実際に意見投票を集めるのには受任者が相手に会って、対面で説明と意見交換をして上で納得して署名をしてもらうのであって相当に時間を掛けて丁寧に集約していく。だから前者の意見は、ナンセンスだ」(拍手がたくさんおきました)

これらの意見を交わしながら、途中のサービスエリアでのトイレ休憩を2回はさんで会場に着きました。

私たちの席は1塁側の内野席でしたが、内野席はこちら側も3塁側も満席となりました。

外野席の芝生上にいる人たちも居ました。

何度も「外野席は除染が済んでいません。どうぞご承知の上気を付けてご利用下さい」とアナウンスが流れました。

そこにはまだ小さな姉妹たちが駆け回ったり、また芝生に寝転んでいる人も居て、内野席の椅子に座っている人たちの中から心配の声やため息が上がっていました。

集会の様子はきっと、報道されている事と思いますのでこの通信からは省きます。

集会後にはデモ行進があったのですが、私はここから南相馬へ行くのでデモには参加せずに郡山駅に出て東北本線で福島へ向かいました。

いつも南相馬へ行く時には東京駅から新幹線で福島駅へ、そこから急行バスで南相馬へと行くのですが、この日はバスの時間まで余裕があったので、郡山から在来線を使ったのです。

新幹線だと線路は高架で、郡山から15分で福島駅です。

東北本線では土の上に敷かれた線路を行くので、景色がより近く見えます。

各駅に止まりながら行くので、より風景を味わいながら行けます。それでこちらを選んだのです。

バスの時間まで少し余裕もありましたし。

途中の松川駅で停車した時、線路際の木造の家壁に、こんな文字看板がありました。

「日本の歴史は女の我慢で出来ている」「絶滅危惧種の種の中に絶望の種が宿る」

どんな人が、どんな思いで記したのか……。いつかこの駅で降りてこの家を訪ねてみたいと思いました。

南相馬ではいつものホテル六角は満室で、地元ボランティアの方の家に泊めて頂きました。


更新情報3月10日号「一枝通信」

3月10日号

3月は記憶を深く心に刻む月。独りの記憶も、たくさんのいのちの記憶と共に私の胸に深く刻まれる、3月です。

2012年3月10日

あれから53年が流れました。ラサ市民一斉蜂起記念日の今日、私も渋谷で行われた「チベット・ピース マーチ」に参加しました。

あいにくの冷たい雨でしたが、在日チベット人とチベット支援者が150人以上、集いました。

会場は渋谷の宮下公園です。

開会の前に、ドルマ・ツェリンの呼びかけで、53年前から今日までのチベット人犠牲者、拘束されている人たち、また日本での昨年の震災犠牲者、世界中の平和のための闘いで犠牲になった人たちのために1分間の黙祷を捧げました。

そして会が始まりました。

私たち参加者の前にこちらを向いて並び、チベット国旗を掲げて国歌を歌うチベットの友人たち。

傘もささずに、胸をはって遠く高みを見つめながら歌うその顔を見ながら、私は胸が一杯でした。

チベット本土の友人たち、いま渋谷であなた達を思いながら歌う同胞が見えますか?

心の中で私は、本土の友人たちに呼びかけていました。

数年前の事です。ラサの友人たちが日本に来た時の事です。

一行は30代の兄弟と、その知り合いのおばあさんと彼女の孫の4歳の男の子でした。

数日を東京で過ごした後で、私は一行を京都へ案内したのです。

三条河原町を歩いていた時に、学生たちのデモに出会いました。

それはほんの十数人の小さなデモでした。

沖縄基地を返せというメッセージを掲げたデモでした。

何事かと目を見張る彼らに、私がデモの意味を説明したのです。

すると、4歳のその坊やが突然、拳を高く掲げて叫んだのです。

『プゥ ギャロー!プゥ ギャロー!』と。

彼は『チベットに勝利を!』と声を限りに叫んだのでした。

30代の弟の方が、ぽつりと言いました。

「町の中には軍も居ないし、こうした事をやっても誰も捕まえられる事も無いし、道を行く人たちが拍手したりしています。それだけでも日本はとてもいい国だと思います」

宮下公園での集会後は、3〜4列横隊でシュプレヒコール、そして合間合間には先導者がマイクでチベットの現状と支援を訴えながら歩きました。

大小様々なチベット国旗が、風にはためいていました。

コースは、ハチ公前から宮益坂を上がって青山通りを抜け、表参道に出てキャットストリートから、出発点の宮下公園に戻ったのでした。

表参道、1945年3月10日。

東京が焼け野原になった日から、67年が経ちました。

その日、すり鉢状の地形のこの辺り一帯は火の海となり表参道の石灯籠だけが残りました。

石灯籠には今も、当時の犠牲者の血の跡が残っているといわれます。

石灯籠からキャットストリートの方へ曲がる時に私は、先月南相馬で聞いた被災者の言葉を思い起こしていました。

83歳の鈴木とよ子さんと言います。

原発から20キロ圏内の村上に住んでいましたが、津波でご家族も家も流された方です。

とよ子さんは、地の言葉で話して下さいました。

「67年前の東京大空襲の跡みだいだった。叔父が池袋に住んでだがら、戦争が終わって9月に、東京に行っでみたの。

わだすは中学生だった。

叔父の家から護国寺に行っだら、ほら、あすこは高台にあるでしょ?

護国寺から見だら、はぁ、なぁんにもないの。

津波の後で家あっだどこさ行っだら、67年前の東京みだいだった」

チベットの平安を、チベットの人たちが真に望む平安な日々をと、祈ります。

ただひたすらに、心から祈ります。

世界中のすべてのいのちが、すべての存在が毀損される事の無い世を、と祈ります。

被災からから一年目を迎える明日です。

被災された方達が悲しみを友としながらも、明日に向かって歩いて行かれますようにと、祈ります。

私は明日からまた、南相馬へ行って来ます。 

 






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