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更新情報 一枝通信〈友人からの情報〉

<友人からの情報です>

 すでに先月末コリン・コバヤシさんが、「日本版エートス目指して」活動をはじめた<ETHOS IN FUKUSHIMA>(http://ethos-fukushima.blogspot.fr/)に以下のように警告を発していました。世界の原子力ムラは、巨大な財力で執拗に良心的な市民の動きをつぶしていきます。

 「ジャック・ロシャールというひとは、一体なにものなのでしょうか。彼が会長を務めるCEPNは、EDF(フランス電力公社)、CEA(フランス原子力庁)、AREVA(アレヴァ社)によって創設されたNPOです。

 こうしてフランスの原子力ロビーによって作られた組織が、欧州連合と結託して行なった<エートス・プロジェクト>は、ベラルーシ現地では、ストリンにせよ、オルマニーにせよ、<エートス・プロジェクト>は、現地でベルラド研究所が行ないつつあった測定所を崩壊させ、ペクチンによる治療計画をことごとく台無しにし、子供たちの病状は悪化する一方で、この計画によって改善されたことは一つもなかったのです。そこで語られるのは、楽しそうな文化的催しで、汚染地帯でも楽しく生きていけるというものです」

 あらためてコリンさんのリンク紹介にあわせて、<エートス・プロジェクト>に対するミッシェル・フェルネックスさんの告発文(2002 年)を紹介させていただきます。

現在、福島県で動き始めている<エートス・プロジェクト>が原子力ロビーを背景にして動いている計画であるにもかかわらず、あたかも、住民が必要な、住民と対話し、住民が参加する優れた国際的な復興支援計画のように語られている事態に対して、看過しているわけにはいかないので、以下に、画像、テキストなどをアップしました。

<エートス>計画の主体を担っているのは、仏原子力ロビーの仏電力公社、仏原子力庁、アレヴァ社、IRSNが創設し、運営にかかわっている、いわばロビーの民間向け窓口のNPO<CEPN>(原子力分野における防護評価センター)です。この CEPNの代表ジャック・ロシャール氏は、ICRPの委員も兼任していて、ICRPの主催の会議に彼が出て来る背景が分かります。こうしたプロジェクトによって、<善意の>大学人、研究者はことごとく利用され、原子力ロビーの目的遂行に、結局は協力していることになってしまうのです。<エートス>などという倫理的な言葉や美辞麗句と多額の助成金がちらつくとき、また住民が帰郷の願望と再建の念に燃えているとき、人々はそれらをつい受入れてしまうのです。

ここで、事実をもう一度確認しておくことが必要です。

@ベラルーシでの<エートス・プロジェクト>を見て来たミッシェル・フェルネックス/バーゼル大学医学部名誉教授の取材インタビュー日本語字幕付き画像

http://youtu.be/2_oKtjnh52c

@同氏が10年前にクリラッドの機関紙22号に掲載した<エートス・プロジェクト>糾弾論考和訳

http://echoechanges-echoechanges.blogspot.fr/2012/07/blog-post_16.html

@私の<エートス>問題に関する簡単な解説コメント

http://echoechanges-echoechanges.blogspot.fr/2012/07/blog-post_409.html

@また、国際原子力ロビーのひどさは、ウラディミール・チェルトコフ監督<真実はどこに?>を御覧頂ければ、一目瞭然です。

http://www.youtube.com/watch?v=oryOrsOy6LI

=====以下、Echoechanges より転載=====

<エートス・プロジェクト>の 実態/フェルネックスの証言

 今、フランスの原子力ロビーの 民間窓口ともいえるCEPNが福島で<エートス・プロジェクト>に本番を展開しようとしている。

実際にベラルーシで行なわれた この計画の実態を10年前に、フェルネックスが糾弾している。

______________________

(クリラッド機関紙トレ・デュ ニオン22号からの抜粋)

原子力ロビーが犠牲者に襲いか かる時

<鍵となる嘘>

あるいは、如何にチェルノブイリに刻まれた記憶を消し去ること

 ミッシェル・フェルネックス (バーゼル大学医学部名誉教授)

2002年2月22日

保健衛生の分野で、誤った結論を導き出す科学的作業をアングロ・サクソン系の著者は<キー・ライズ>という。つまり<鍵となる嘘>である。こうした研究は、当局、とりわけ世界保健機関のタバコ喫煙への闘いに対して、この種の研究作業にたっぷり資金を与えているタバコ産業のロビーが数十年の間、 抵抗することを可能にした。

 2001年経験した出来事は、もう一つのロビー、タバコ産業ロビーより相当強力で、チェルノブイリの痕跡を消し去ろうとする原子力ロビーのやり方を再考させずにはおかない。国の介入、あるいは保健衛生部局(米国ならFDA)から原子力産業を陰に保護する刊行物を実現するために、このロビーは、健康問題にストップをかけなければならないのだ。

 原子力ロビーは、とりわけ、専門家に言わせると避けることができないであろう来たる原子力事故に備えるために、ガイドラインを作ることを目指している。事故が起こった時に、まず優先してすることは、経費の節約である。これは、不可侵と考えられている放射線の低線被曝の不毒性のドグマを適用する。

 2001年以来のいくつかのベラルーシの例は、この目的のためにロビーが行なおうとしていることを明らかにする。それは、NGOの形体を持った組織によって、表現され、大学などの学際的グループの仲介(エートス・プロジェクト、チェル ノブイリの交差点)を経て、現場で介入することになる:

●事故が起こると、まず優先されるのは、経費削減である

農学、社会学、技術、物理学などのエートス・プロジェクトにまとめられた教員や博士課程の学生たちは、汚染地域で働いた。ロビーが彼らに課した役割は、そしてそれ について彼らは恐らく無意識だったことは、住民の放射線防護の存在していた機構の排除である。実際、この国の放射能汚染の重大性について、また住民の健康に対する影響について注意を喚起する対策は、原子力ロビーにとって、許容できないことなのだ。

 ●チェルノブイリの真実をねじ 曲げること、あるいは、故意の言い落としによるウソエートス・プロジェクトによって成された研究は、ストリン地区のいくつかの村々に限定される。原子力事故と長期に放射性核種で汚染された地方の管理について、得られたデータで、本を書くことは可能だろう。この本は、欧州連合から資金を出して出版されるほど、特権的なものとなるだろう。

 かような出版物において、読者は子供たちの健康や、早期の死亡率や、それらを説明する最も汚染の高い地域と同じほどの人口増加の崩壊について、のほほんとしていることはできないだろう。

 二つの行事がエートス・クラブ のメンバーを知る機会になった。一つはパリ第七大学が催したもので、2001年4月26日(チェルノブイリ記念日)、もう一つは、同年、11月15-16日、ベラルーシ南西部のストリンで、CEPNによって、雇用された大学人たちが、政府と行政責任者たち、また国際組織や国、とりわけ欧州連合の代表者たちに対して、行って来た作業の成果 を発表した。

 パリ第七大学が4月26日、プレス資料がCEPNを紹介した。この組織は、正式名 原子力分野における保護の評価の研究センターという名で、1901年の法律に基づいた非政府組織であり、NPO(非営利市 民団体=アソシアシオン)である。フランス電力公社(EDF)、原子力庁(CEA)、それにラ・アーグの再処理工場を管理しているコジェマ社(Cogema社。訳注:現在は発展再編された原子力産 業複合企業体Areva社となっている)によって、創設された団体だ。原子力ロ ビーのこの組織は、チェルノブイリによって汚染された地域に派遣されている研究グループ、とりわけエートスのグループを調整している。

 <エートス>の創始者の一人 は、現場へのチームの介入を示唆しつつ、学際的なチームが介入した地域での継続的調査がないことを嘆いいていた。これらのプログラムの医学的構成要素が弱いという説明しがたい欠点を嘆いてみせた。

 ●放射線防護チームの作業に終 止符を打つのを<援助する>こと

2001年に完了することが予定されていた 計画で、ストリン地区に介入しながら、<エートス>の責任者たちが、ベラルーシのチェルノブイリ問題省に、ワシーリ・B・ネステレンコ教授に率いられたベルラド放射線防護独立研究所に取って代わるよう依頼したのである。彼らはこの研究所の測定データを、数年前から使っていたのだ。

2001年1月25日にヴァレリー・シュヴチュークが署名したチェルノブイリ問題省のベルラド研究所所長に当てた手紙は、ストリン地区の一連の村々の管理は<エートス2>のために、彼らの依頼によってベルラド研究所から取り上げる故の内容であった。

ベルラド研究所が食糧や牛乳の放射能を測定するために養成した人材を使った<エートス>は、時折、仕事が倍になってもこれらの技術者達に、残業手当を支払うべきだとは考えなかった。<エートス>が放射能防護センターに、測定データを記録さるために導入されたコンピュータは、今、国の行政に移管されている。こうして、ネステレンコが設置した組織は、次第に、消滅しつつある。発展のための技術援助の全くの反対である。

 事実、数年前から、国と民間の 財団の援助を受けていたこれらの放射線防護の小さな組織のおかげで、ベルラド研究所は、住民に食糧と牛乳の放射能を無料で測定してあげていたのだ。ベルラドが養成したこの仕事をしていた職員達は、放射線防護について、住民家族にアドヴァイスを与えていたのである。

 その他、ホール・ボディーカウ ンターを設置してあるベルラドの移動式研究所は、年に二回、人口放射性核種、とりわけ学校の子どもに蓄積していたセシウム(Cs137)の量を計っていた。子供たちの中で最も汚染のひどい子供たちに対しては、間欠的に施されるペクチン剤の療養を受けていた。ペクチン剤はりんごをベースにした補完剤で、臓器にある セシウムの排除を促進させる。

 1991年に創設されて以来、政府からの財政援助を受け、ベルラド研究所に管理された370の地域放射線防護センター(CLCR)がベラルーシの最も汚染のひどい町や村に設置され、関係官庁は、ネステレンコの公表する装丁結果を定期的に 受け取っていた。1996年から、これらの報告は、季刊の報告書となった。

 しかし、同じ年から、CEPNの様々な刊行物の共同著者チェルノブイリの政府委員会 の副会長I.V. ロルヴィッチは、現在ある83のCLCRに数を減らし、そのうち、56だけが政府の財政支援を受け ている。他の27はドイツのNGOの支援を受けている。ベルラドの測定報告21号は現在、印 刷中だ。これが最後になるだろう。というのもアメリカの財団からの6000ドル は刊行物を出すことを可能にしてきたのだが、それが打ち切られたのだ。

 ●開発援助の逆

 貧しい国を援助しようとするとき、基本原則の一つは、一時的であっても、現存する構造を他のものにおき替えることなしに、むしろ、それを強化することである。こうして、外国チームが帰った後、現場には、よく教育され、設備も得て意欲のある人材が、必要な継続作業をすることになる。

 パリ第七大学で、それに続く日 に電話があり、<エートス>の責任者たちは、彼らがやろうとしたことは、ネステレンコのチームを排除することではなかったと私に表明した。そして、将来、ベルラド研究所は、すでに立案されていた未来のヨーロッパ・プロジェクト<エートス3>に包括されるのだという のである。ネステレンコは、<エートス2>のプログラムの成果が発表されるストリンの国際セミナーに招待されるだろう、という。

 この時期、ネステレンコを <エートス3>プロジェクトに組み入れるという<エートス>の責任者たちの約束は誠実なものに見えた。フランスの大学人にしてみれば、ベラルーシのNGOを、2002年1月26日 に企画書提出予定の彼らのプロジェクトの中に組み込むことは、欧州連合から大きな予算を獲得するためにも、有効だと思えたのだ。ネステレンコは、このプロジェクトのなかにベルラドが場を得ることが公式に通告されることになっていた。口頭によるこの励ましで、放射性降下物によって非常に汚染された村々の子供たちを支援するための具体的なプロジェクトを提出した。

 しかしながら、秋になると、2001年11月 にストリンで予定されているセミナーの予告プログ ラムには、約束されていたようには、ネステレンコの名前は掲載されなかった。

 私が介入した後、この<忘却> は修繕された。しかし、セミナーに続く11月20日 にミンスクで行われた会合にも、またそれに続く2002年3月6日の会合にも招待されなかった。

●ベルラド研究所を現場から追い出すこと?

 2002年1月13日、2001年に告示された欧州プロジェクトの計画書の申 請日(2002年1月26日)の数日前、ネステレンコはエートスから連絡を受 け、今から5日以内、1月18日前に返事をするように要請された。それは、ベルラドの移動式放射線測定チームの欧州プロジェクトへの編入ではまったくなく、放射能防護のマニュエルのひとつの章の執筆参加への要請だった。課題だったベラルーシ南部の子供たちの放射線 防護への援助計画には一言もなく、エートスへネステレンコ教授がこの問題について提出した議定書にも触れられていなかった。彼の失望にも関わらず、ネステレンコは、この依頼について、期限内に前向きな返事をしたのである。

 2002年1月25日、エートスのために仕事をしている<ムタディス・ コンサルタント>事務所は、今後来る計画についてヴァンサン・ヴァレールの署名付き手紙を送付し、4月11日にパリで、宛先人達を<エートス>クラブの会合を召集した。ネステレンコ教授は、ここでもまたもや、2001年ストリンのセミ ナーに言及しているこの手紙の宛先人とはならなかった。私が驚いたので、ネステレンコは、パリの4月11日の会合に招待されるだろうと、返答して来た。そして、それは、確かに、後になって招待状は送られたのだった。

 ●原子力ロビーの執拗さ

 ここでは、仏電力公社、原子力 庁、アレヴァの代表であるCEPNは、チェルノブイリの記憶を何としてでも消去したい国 際原子力ロビーの確固不動たる論理に協力している。食品の汚染の日々の測定、年に二度の放射性セシウムの体全体の測定はこの惨事 の警告である。年を追って、ネステレンコ教授は、これらのデータを公表し、政府に提出する。だが、食料品と住民への放射能状況、 とりわけ、子どもの状況は、改善されるには遠く、悪化していることを認めざるを得ない。

 食品のセシウム137の汚染の増加は、農業者が肥料をより少なく使用し、とりわけ、植物によるセシウムの吸収を減退させる役割の あるカリウムをあまり使わないからだ。

 そのうえ、非常に汚染された土地を以前に増して開墾しているからである。農作物が全国に流通されるので、人工放射性核種の負荷は順民全体に増加しているのである。ネステレンコは、首都ミンスクにおいても、現在、体重との関係で、キロあたりのセシウム137が50Bq以上の数値が測定され、10年前にはなかったことだと警告を発する。

 この事実を覆い隠そうとする原 子力の推進者たちは、<温度計を壊さなければならない>のであり、解熱させるためではなく、誰もがこの事実を知らないようにするため なのである。高熱、あるいは子供たちの臓器に蓄積された放射能、それを測定することはもはやできない。ネステレンコは、彼が行っている事業を中断しなければならないのだ。

 ●健康に対するセシウム137の放射毒性の効果を無視すること

 9年間、ユーリ・バンダジェフスキーとゴメリ医学大学の協力者達は、セシウム137の放射性毒性について研究し、他の組織体に比べ、多いときには50倍までも、内分泌線や心臓のようなある特定の臓器に 濃縮することを発見したのである。セシウム137の平米あたり5キュリー以上で汚染された地域において、健康に対する否定的な衝撃は、ほとんど全ての子供たちの健康を害しているのである。

 放射性セシウムの蓄積による病 気に関する彼の研究活動は、バンダジェフスキー教授をその後取り下げられた癒着の告発によって、8年間、強制収容所に送られる(アムネスティはサイレンシン グ・アカデミアという)。バンダジェフスキーによって創設された若い医学部の医者や、昔の協力者達は、職を失った。彼らは、彼と の共同著者として、これらの刊行物に名前を連ねるべきではなかったのだ。

 ストリンのセミナーでは、 <エートス>は上質光沢紙にカラー印刷された図表を配り、ほとんど全ての発表者のプレゼンテーションはデジタルデータで上映された。57ページに、反論を受けたセシウム137の臓器の均質的な分布の仮説をベースにして、体内線量が計算されてある。

 それにひきかえ、ひとりの小児 科の女医が説明するために手に持った手書きで書いた図表は、上映されなかった。他の人たちの報告に反し、彼女のその図は、情報化されていなかったのである。それらの図表は、入院の数が増加しており、1986年-87年に1000人の子どもに対し、約150件、年に増加しており、1990年では1000人につき500件、2000年では1000人の子どもに対し、1200件の増加を示しており、上昇カーブは、下降する気配は全くない。

 厳しく慢性化する疾病は増加し ており、おおよそ健康だと言える子どもの数は80%以上から20%以下に落ち込んだ。しかしながら、これらの子供たちは、欲求不満状態ではなく、家族は移住しておらず、彼らは相対的に食糧の摂取はよかった。すなわち、幼稚園から全ての学校教育の期間中、教育に当たられた予算のうち、50%は、一日2-3食、週4-5日の食材に当てられている。

 したがって、子供たちの健康は 悪化していくように見える。この悪化の原因は、環境中の放射能汚染と関係がある。子供たちは、一平米に対してのセシウム量が5から15キュリの汚染地域では、正常に暮らす、生き延びることができるように見えない。

この小児科責任者の女医の説明 された医学報告も、図表も、<エートス2>の報告書に掲載されていない。たぶん、<ポリティカル・コレクト>ではないのではなかった ろうか。

 フランスの専門家の発表では、 ストロンチウムに僅かしか関心が表明されていないのに驚いた。しかし、大地にも、水の中にも発見されているので、当然、食物連鎖のなかにあるのである。ストロンチウム90は、セシウム137のように、半減期が約30年である。ストロンチウムとセシ ウムの放射性毒性における相乗作用を研究することは本質的なことだ(この主題は、ある時期、ゴメリの医学部で研究されていた)。 <エートス>の他の専門家の中で、だれも、チェルノブイリによって撒かれた他の放射性核種を取り上げるものはいなかった。

 <エートス>のフランスの大学 人による限定された農場への関与は、提供された質のいい種子や完璧に分配された肥料や、必要な時期に与えられた徐虫剤により、農作物の生産の向上に貢献した。ジャガイモの生産は以前より豊富になった。この農作物はセシウムが少ないので、販売することもできた。2002年以降、農業に対する投資は、10家族ほどの農家に限らず、数千人の子供たちが暮らす関連する地域に拡大されるべきである。

 不幸にも、これらが住民、とりわけ子供たちの健康状態を向上させることを示すことができなかった。すでに、パリ第七大学で、<エートス>の農学責任者アンリ・オラ ニョン氏は、私に言った。「私たちはいい仕事をした。しかし、子供たちはますます病気になった!」と。この意味で、<エートス2>の 経験は、失敗と言えるのである。

 <エートス>報告書のなかに、 セシウム137の体内線量の継続調査と子供たちの健康状態の悪化を示す曲線を全面的に、統合しない限り、プロジェクトの結果の提出は、本質的な部分を欠いた不完全なものと裁定せざるを得ない。つまり、健康に対する基本的なデータの不在と、放射性核種の体内の線量負荷に対するデータの不在は、<故意の言い落としによる嘘>、あるいは原子力ロビーが欲しがって止まない<鍵>としての嘘に私たちを関連づけさせてしまうであろう。

 チェルノブイリの影響評価において、<故意の言い落としによる嘘>は、実際、タバコ産業ロビーが、世界保健機関が反タバコ・キャンペーンを行うのを避けるために、 何十年もの間、大々的に使って来た<鍵>となるウソに似ている。同じ動機によって一部を排除された資料(まず優先的にロビーを守る 事)、は、原子力産業に対して、原子力管理当局や市民に情報を遮断するのを継続させてしまうことなのである。

 この文脈で、2002年2月12日 に『フィガロ』紙に掲載されたファブリス・ノデ=ラングロワの記事は、イスプラの欧州連合研究センターによって刊行されたヨー ロッパのセシウム汚染地図は35万数点の測定に依拠したものだが、フランスから35点のデータしか受け取っていない。この作業を行った責任者ド・コール氏は、フランスの貢献があまりにも中途 半端なものであることを嘆いている。『フィガロ』紙によると、IPSN[ 訳 注:原子力防護と安全研究所は1990年以来、 原子力庁の研究機関であったが,今日OPRIと合体して、2001年、IRSN仏国立放射線防護と原子力安全研究所となった。産経省、防衛省、厚労省に従属した機関]の代表者アニー・シュギエ女史は、 欧州地図は不完全であるゆえに、間違いと表明した。「このウソの告白は、厚生省から独立した責任者によって行われた」とOPRI(ペルラン教授のSCPRIの後継ぎ組織。訳注:仏国立放 射線防護局で1994年に設立された組織で厚生労働省に従属していた)会長ジャ ン=フランソワ・ラクロニックは、上司である大臣ベルナール・クシュネールへのノートで強調した。国家が嘘を言ったかどうか尋ねた補佐によって押されて、これは<故意の言い落としによる嘘>だと、彼自ら言い放ってしまったことを明確に言うことを怠った。

 2001年年末まで、<エートス>の責任者 たちは善意であると思って来た。このクラブの大多数の大学人たちは、そうだと私は確信する。それにしても、健康に対する体内に取り込まれた放射性核種の影響をみせる研究、あるいは子どもの放射性セシウムの体内の負荷を測定するベルラド研究所の測定班を支援 すること、あるいは環境の放射能汚染度によって子供たちの健康に関するデータを発表することを意味するとき、それはロビー、ここ ではCEPNが最後の言葉を握っているのだ。

 大学人たちが帰国して、住民は 振り出し点に戻った。しかし、放射線防護のための援助は<エートス>介入前より少なくなった。すなわち、地域放射線防護センターは、 それらの設備の一部を失い、全てのデータを取り込んだコンピュータはなくなり、測定技師達はやる気をなくし、彼らの仕事に対する実給 は支払われなかった。

 CEPNは、科学的厳格さを大事にする大学 人たちに満足できる枠組みを与えるのだろうか。

 ●ベラルーシにおける原子力ロビーのその他のプロジェクト

 仲介者達のおかげで、その時々 の必要性に応じて、名前(チェルノブイリの交差点)が変わるのだが、原子力庁の専門家に2001-2年の冬の間支援されたロビーは、ストリン地区より もっと汚染されたチェルノブイリにもっと近い地方を今こそ復興させねばいけないと、ベラルーシの行政といくつかの官庁の代表者たちを説得しようとした。目標は、平米40キュリーまで、あるいはそれ以上の汚染 のあるところでも、生活し、仕事し、耕作することは可能なことを見せるためである。また忠告や教育的ランドセルを提供することによって、これらの土地は、子供たちの健康に何の危険もないのだと示すことである。

 この間、ネステレンコ教授は、 彼に約束されていた住民保護のための彼の作業の支援を貪られ、2001年春にそのための方法を確立したのだが、心臓専門医と 眼下専門医が増強されたベルラド研究所の45人の技術士、放射能測定技師、科学 者に対する援助を受ける可能性は少ない。CEPNの住民に有用な、チェルノブイ リの降下物によって高度に汚染された地域に生活せざるを得ない子供たちの健康改善に当てられた一つの作業に対する支援は、ユート ピアに過ぎないことが証明された。

 もし、原子力ロビーの指令に従う専門家たちが、今から短期間に、平米あたりセシウム137が5-40キュリー、あるいはそれ以上で汚染された地域の放射能の状況は、ジャガイモを栽培できるし、観光業のために 保全された自然保護地域として、もうじきチェルノブイリ原発の30キロ以内を含む避難させられた全ての土地を再占有するという目的のために、労働者とその家族が定住も可能だというなら、彼らの報告書は、子供 たちの惨劇的な状態に関する全てのことを故意に言い落とさなければなるまい。

 結果として、能力があり、独立 した小児科医、眼科医、内分泌腺医、免疫医、そして充分設備を持った測定技師たちを排除しなければならないのである。健康の専門家の不在は、<故意の言い落としによる嘘>に基づいた<鍵の嘘>に行き着く。ここにおいては、ひとつの根本的な資料のことであり、原子力 ロビーが16年間、何といっても必要だったものなのである。

 この規模の<故意の言い落とし>を含んだプロジェクトを前にして、諮問され、また同時に共同出資者でもあった大学人たちは、<ノン>(否)と言うことを知るべきではないだろうか。

ミッシェル・フェルネックス

(スイス、バーゼル大学医学部 名誉教授)

5キュリー/km2= 185 000 Bq/m2

15キュリー/km2= 555 000 Bq/m2

40キュリー/km2= 1480 000 Bq/m2

 (訳:コリン・コバヤシ)


更新情報 6月11日号『一枝通信』

6月11日号

6月9日に、第13回「戦争への道は歩かない 声を上げよう女の会」の集会を持ちました。

今回は、第1回目の会場だったカタログハウスセミナーホールをお借りしての会でした。

この会は2004年に自衛隊イラク派兵に反対をしようと、友人たちと共に立ち上げた会です。

「表現者はリレーする いま、語り描き写し 歌い舞うとき」として自衛隊イラク派兵のみならず平和な毎日を生きたいと言う願いを込めて、米英軍が撤兵しイラク戦争が終結し自衛隊が戻った後も、集会を続けてきました。

「平和を願う人、この指とまれ!」のようにして賛同者が増えてきています。

たとえ職業としての表現手段を持たなくても、子育ても毎日の食事作りや家事も「私は私らしく生きたい」という思いを伝えて日々を生きている。そんな女たちの集いです。そしてその声に賛同する男たちも仲間に入れながらの会です。

これまでは毎回12〜13名の出演者でリレーしてきましたが、今回は下記の方達の出演で行いました。

第1部

●落合恵子さん(作家、クレヨンハウス/ミズ・クレヨンハウス主宰)

チェルノブイリ原発事故後の当初、反原発の勉強会立ち上げて続けてきていたが、その後さまざまな他の問題へ力が注がれるようになり原発問題に関しては少し力が抜けてきていた。

福島原発の事故を受けて、そんな自分を強く反省しながら新たにまた「クレヨンハウス朝の教室」として原発関連の勉強会を主催している。また『さようなら原発1000万人署名』の呼びかけ人として、活動をしている。

日本に住む8割以上の人が「原発はいらない」と言っているのに、政府は再稼働を目論んでいる。このあこぎな力に私たちは勝てないかもしれない。けれども希望は捨てない。

と話された後で、東京新聞のこちら特報部デスクの田原牧さんの書いた6月9日記事を引いて発言を終えました。

「略……使用済み核燃料は処理できず、再稼働してもあふれるのは時間の問題。道はこうある。希望のある挑戦か。絶望しかない安寧か。敗北感に浸るにはまだ早い」

福島原発の事故の後で、落合さんは非常にお忙しく各地での講演活動をされています。

落合さんの悔しさ、無念さに強く共感しながら話を伺いました。

落合さんはこの会での発言を終えられて直ぐにまた、次の講演会場へ向かわれました。

同じ年同士として、エールを送っている私です。

落合さんには、2007年の第8回集会にもご出演頂きました。

その年は「美しい国」発言をした安倍さんが首相で、「国民投票法」「共謀罪法」が成立し米軍再編が謂われ、女の会成立時よりも一層、戦争への道を開く憲法九条改悪への不安が強く感じられる年でした。

●たなかまゆさん(シンガーソングライター)と2人の仲間(キーボード、ドラム)

普段は7人編成の【jario】として都内のカフェやライブハウスで活動していますが、今回はボーカルの田中真由さんとキーボードの藤井健介さん、パーカッションの城ヒロさんの3人での出演でした。

カバー曲とこの日のために作って下さった自作曲の2曲、柔らかな歌声が心にしみました。

●森沢典子さん(『パレスチナが見たい』著者、私塾教師、「シロツメクサの会」代表)

森沢さんには第1回集会にも出演して頂きました。

自衛隊海外派兵反対で立ち上げた会でしたから、パレスチナ問題についてももっと知りたいし、参加者にもそれを知って欲しいと『パレスチナが見たい』に感銘を受けていた私は面識も何もなかったのですが、ご出演をお願いしたのでした。

今回は、3・11以降「シロツメクサの会」で、放射能が小さな子供たちへ及ぼす影響について具体的な対策を考え、冷静に学びあう場を設けて活動している、その立場からも発言頂きたくお願いしたのです。

若松丈太郎さんの詩に加藤登紀子さんが曲を付けた『神隠しされた街』を朗読と歌で語り、ご自身が10年前にパレスチナで過ごしたときの体験を映像と共に話して下さいました。

パレスチナの1000年以上続くイラクブリン村は、夕方5時から11時まで自家発電での電気が通じるが、それ以外の時間は電気がなかった。イスラエルによる軍事封鎖、占領下と非常に厳しい状況下にありながら、電気がなくても毎日笑って暮らしていた。心豊かに暮らしていた。そんなお話が心にしみました。

●水野みさをさん(古代フラダンサー、クム、アフロヘイシャダンサー;アフリカがルーツのハイチの精霊崇拝の踊り:も踊る)

踊り=祈りとして社会参加にのぞむみさをさんは、私の愚息がサンフランシスコで過ごしていたときに知り合った方です。

昨年の出演者、えびはらよしえさんのお友達でもあります。

今回はみさをさんのソロで古代フラダンス、ダンスのお弟子さんたちと5人で、特別出演のえびはらよしえさんのギター弾き語り、ジョンレノンの♪イマジン♪で、創作ダンスを踊って下さいました。

「踊り=祈り」というみさをさんの思いが、まっすぐに伝わるダンスでした。

●田中優子さん(法政大学教授、江戸文化研究者、エッセイスト、TBSサンデーモーニング・コメンテーター、『週刊金曜日』編集委員)

4月から学部長になられて、大学での急用が起きたらそちらを優先と言う事で(出演予定)でしたが、嬉しい事に何事も起きずにご出演頂けました。

「私は江戸から来ました」と開口一番ユーモラスな言葉で話を始められましたが、江戸時代には電気はなかったが何の障りもなく却って豊かな文化が花開いた、戦争のない時代だった。原発再稼働は、とんでもない負の遺産を子孫に残すばかりでなく、却ってさまざまな産業が生まれる芽を摘んでしまうということを、短時間のなかで判り易く説いて下さいました。

間もなく刊行されるご著書『グローバリゼーションの中の江戸』を、読むのが楽しみです。

●Joy!Joy!さん(調布の音楽教室に通うメンバーで結成したゴスペルシンガーグループ)

メンバーの中のお一人、渡辺ゆきさんには、第2回集会に出演して頂きましたが、今回は音楽仲間でグループを結成してのグループとしての初ライブでした。

♪アメージンググレイス♪ともう一曲、最後は客席の手拍子も加わって、会場が一体となって『原発いらない」の思いを共にしたような心地でした。

●渡辺一枝

この会のこれまでをお話しし、それぞれの会で取り上げてきた問題、自衛隊海外派兵、憲法九条、反貧困、日韓併合百年、沖縄密約、そして原発、どれもみな根っこは同じところにあるということ、そして福島の被災者の現状をはなしました。

 

第2部

映画『祝の島」上映と監督の纐纈綾さんのトーク

私は映画『祝の島』は2010年に映画が完成直後からこれまでも何度か見ていますが、見る度になお深く感じ取れるようになってきました。祝島のおばあちゃん、おじいちゃんたちが大切にしてきた暮しを、私もまた愛おしく思い、大事にしたいと強く強く思います。

原発事故後、代替えエネルギー問題が大きく取り上げられてきています。

けれどもその前に一呼吸置いて、「大切な物は何か」を、しっかりと考えていきたいと思います。

もっと、もっとたくさんの人に見て欲しい映画です。

第13回の集会は今までよりもずっと、男性参加者が多かったように思います。

とても嬉しい事でした。願いは女も男も一緒です。

“原子力ムラ”に象徴される男社会を切り崩し、経済優先でない、いのち大事の社会を目指していきたいと思います。

自画自賛のようですが、実りある良い集会が持てたと思います。

参加して下さった方達、ありがとうございました。


更新情報6月7日号「一枝通信」

6月7日号

 5日夜、セッションハウスガーデンでの「トークの会 福島の声を聞こう」においで下さったみなさま、ありがとうございました。

会場いっぱいで、ご体調悪くされた方がおいでではなかったかと案じました。

ゲストスピーカー市澤美由紀さんの飯舘村からの声、きっと皆さまの心に届いた事と思います。

当日の参加費および支援金は福島からの交通費は美由紀さんへお渡し残りはすべて、美由紀さんを通して福島市内私立保育園の子どもたちの保養費としてカンパいたしました。

ありがとうございました。

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市澤美由紀さんのお話から

結婚前の職場は福島県職員だったが農村への生活普及員として飯舘村へ派遣され、受け入れ先家庭が市澤家だった。

飯舘村でのその仕事は極短期間だったが、その後の出会いもあって市澤家の長男と結婚し飯舘村での暮しが始まった。

当時も今も農村では若夫婦は外に働きにでて、その親夫婦が農業をしながら日中は孫の世話をするという生活形態が多く、市澤家もそうだった。

3人目の子供が生まれたときに美由紀さんは職場を辞め、両親と共に畑の仕事をするようになった。

ところが農家の嫁という立場では自分で自由に使える小遣いがなく、畑仕事と家事労働とを思えば給料が支給されるべきだと考えた。

結婚前に生活普及員として飯舘村の農家を回り、先々でそう説いていたのに我が身をみればそうならなかった。

毎年3月が各種税金の納期だが、農家ではいつも、督促状が来てから払うのが当たり前だった。

これではだめだ、家計も計画的に収支できなければ駄目だし、このままでは自分の生きる意味が見出せない、何か始めようと考えた。

そしてコーヒー店を始めた。カフェではなく自家焙煎でコーヒーを入れる店だ。

夫は「君の人生だ、僕が反対したから思うような生き方が出来ないというのではいやだから、好きにしたらいいよ」と言ってくれた。

山の中で、周りは畑と田圃ばかりのところでコーヒー店などと、村では市澤の嫁は頭がおかしくなったなどと噂する人もいた。

コーヒーはインスタントコーヒーしか知られていない、当時の村の状況だった。

開店当時は一日に一人しか客が来ない日もあった。

村外からの客ばかりだったが次第に評判を呼んで、大変流行るようになり雑誌などにもしばしば取り上げられるような店になった。

コーヒーだけでなく自家製のケーキやパンも出したく、大阪の辻料理教室に通ってケーキ、パンの作り方を習った。

それらも出すようになり、また人気がでて、いつも駐車場は満杯で空席を待つお客さんが外に並ぶようにもなった。

夫はブルーベリーの栽培を始め、店の裏手にはジャム工場も作った。

これからはブルーベリーやジャムなども販売していくつもりだった。

家の前はブルーベリーの畑、その前の道路の向こうは我が家の田んぼ、店はブルーベリー畑の脇で家の裏手は山。

山では春には山菜、秋には茸が採れ、3人の子どもたちは豊かな自然の中で育った。

原発事故が起き、放射能汚染を心配して避難を考えた時に夫は直ぐには同意しなかった。

3人の子どもたちは村外で暮らし、姑と美由紀さん夫婦の3人暮しだったが、村外にいる身内や子供からの説得で、15日に避難した。

政府の発表は正確な情報を出さなかったので、避難した後もまた戻りもしたが自分たちで実際の状況を知っていき、4月に本格的に福島市へ避難した。

ところが福島市へ避難してみたらその福島市からも、他所へ避難している人たちが多数いる事を知った。

避難先の福島市も決して安全なところではない。

飯舘村からの避難者は県内に逃げた人が一番多く、県外や海外避難も居るがそれは15%ほど。

避難先の人たちの話を聞けば、本当に胸が痛い。

仮設住宅で暮らす若夫婦たちは、一年以上夫婦生活もなく過ごしている。

アコーデオンカーテンの隣に親たちが寝ていては、愛情を確かめあう事も出来ない。

6畳の部屋に親子5人で寝ている家庭もある。

村にいた時には、家を出た家族やお客さんがあれば泊まっていっても貰えたが、避難生活ではそれもできない。

借り上げ住宅に避難している我が家でも、子どもたちが来た時には台所に布団を敷いて寝かせるような状況だ。

一番残念なのは、自分の子どもたちや身内を含めて村外にでた人たちが、帰るところがないことだ。

原発事故は故郷を奪った。

原発は動かしてはいけない。

2月には大阪の橋下市長に手紙を出した。

大飯原発再稼働には反対して欲しいと原発避難民としての自分の心情を、手紙に書いて投函した。

これからも自分に出来る事で、その思いを行動に現していきたい。

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私がこんな風に文字で伝える事よりも、当日会場にいらした方にはもっともっと深く胸に響く美由紀さんの言葉だったと思います。

おいでになれなかった方たちには、せめて私の言葉で飯舘村からの声をお伝えしました。

以前にもお知らせしましたが、再度お伝えします。

週末9日(土)は、新宿のカタログハウスホールで「戦争への道は歩かない 声をあげよう女の会」の第13回集会が開かれます。

今回は第1部で落合恵子さん、田中優子さん、森沢典子さんのトーク、水野みさをさんのダンス、たなかまゆさん、joy!joy!さんの歌、そして私も話します。

第2部では映画『祝の島』上映と監督の纐纈あやさんのトークです。

大勢の方のご参加を、お待ちしています。

◎第13回「いま、語り 描き 写し 歌い 舞うとき」

〜とどけメッセージ キッチンの窓から ガレキの“戦場”から〜

日 時:6月9日(土)

第1部:14:00〜16:00(開場13:30)

第2部 17:00〜19:30(開場16:30)

場 所:カタログハウス セミナーホール

入場料:1部1000円、2部500円、1部+2部1500円

協 賛:カタログハウス

主 催:戦争への道は歩かない!声を上げよう女の会

お問い合わせ:090−9964−2616(和田)

第1部 表現者はリレーする

 落合恵子さん(作家)、たなかまゆさん(シンガーソングライター)、田中優子さん(法政大学教授)、水野みさをさん(古代フラダンサー)、森沢典子さん(「シロツメクサの会」代表)、Joy!Joy!さん(ゴスペルシンガー グループ)、渡辺一枝

第2部 映画とトークの夕べ

 『祝の島』上映、監督の纐纈あやさんトーク

PDFデータはこちら→チラシオモテチラシウラ

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私は来週から海外へ出かけます。

入域許可証は取得できていて出かけるのですが、現在正常がとても不安定になっている現地。

ちゃんと入れるかどうか不明ですが、とにかく行ってみます。

入れなければそこで、方策を考えようと思います。7月中旬に帰国予定です。 

梅雨に入りますから、どうぞみなさまお体に気をつけてお過ごし下さい。  


更新情報 5月22日号「一枝通信」

5月22日号

南相馬に来ています。

昨日の朝、登校&登園前の孫たちと日蝕観察をしてから家を出ました。

福島では来月5日に「渡辺一枝トークの会 福島の声を聞こう」のゲストスピーカーをお願いしている飯舘村から福島市に避難している市澤美由紀さんにお会いしました。

トークの会では、どうやって私が美由紀さんと知り合うことになったかという話から始めたいと思っています。

美由紀さんと別れて、福島駅発15:30のバスで南相馬に向かいました。

以前にも書いたと思いますが昨年12月15日まではこのバスは、福島を出ると相馬、鹿島農協前を経由して南相馬の原町駅前に通じていました。福島から東に向かって海沿いに南相馬へ向かっていたのです。

12月16日からは福島を出発して川俣、飯舘村を通って原町駅前に通じるようになりました。以前よりは30分ばかり時間が短縮されるようになりました。

福島市内を抜けて渡利を過ぎると、だんだんと山道に入ります。

5月の山々は緑に溢れ、川俣から飯舘村、そして南相馬の大原までの車窓には紫の桐の花、藤の花。朴、ヤマボウシ、ガマズミ、栃、ウワミズザクラの白い花。山吹の黄色、山ツツジの赤と、私は目を凝らして見入って過ぎました。

時折行き交う車はあっても、路上にも家々にも、人の姿の無い光景。

緑溢れ、花々が咲く不気味に美しい光景でした。

飯舘村では途中に美由紀さん夫婦がやっていたお店と畑を、また村役場の向かいの菅野さんの家を目にしながら、私もまた、悔しさが心に満ちました。

6月5日には、放射能に追われて村を離れた美由紀さんの思いを、皆さんに聴いて頂きたいと思います。

お時間ありましたら、是非お出かけ下さい。

 

◎渡辺一枝トークの会【福島の声を聞こうvol.2】

日 時:6月5日(火)19:00〜(開場は18:30)

場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158 二階、東京メトロ東西線神楽坂駅1番出口徒歩2分)

参加費:1500円(参加費は被災地への寄金とさせて頂きます)

主催・お問い合わせ:セッションハウス企画室

      TEL  03−3266−0461

   E-mail mail@session-house.net

   http://www.session-house.net

PDFデータはこちら→トークの会チラシ


更新情報5月8日号「一枝通信」

5月8日号

6月上旬に催される、私が関係している集会のお知らせです。

ご都合つきましたら、是非お出かけ下さい。


◎『脱原発をめざす女たちの会』

日 時:6月2日 午後1:30〜4:00(開場1:00)

場 所:日本教育会館(千代田区一ツ橋2−6−2、地下鉄神保町駅から徒歩3分)

参加費:1000円

主催・お問い合わせ;脱原発をめざす女たちの会

TEL 080−3174−3584

E-mail info@nnpfem.com

申し込みフォーム:http://www.nnpfem.com/

プログラム (総合司会:橋本美香さん〈制服向上委員会〉)

●お話 「脱原発と福島の現状」満田夏花さん(国際環境NGO FoE Japan)

●発信する女たち パート1

 田中優子さん(法政大学教授)、神田香織さん(講談師)、坂田雅子さん(映画監督)、上野千鶴子さん(NPO法人ウィメンズアクションネットワーク理事長)、渡辺一枝

●発信する女たち パート2 コーディネーター:古今亭菊千代さん(落語家)

 若い世代から「福島に生きる選択・離れる選択」、会場から


◎渡辺一枝トークの会【福島の声を聞こうvol.2】

日 時:6月5日(火)19:00〜(開場は18:30)

場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158 二階、東京メトロ東西線神楽坂駅1番出口徒歩2分)

参加費:1500円(参加費は被災地への寄金とさせて頂きます)

主催・お問い合わせ:セッションハウス企画室

      TEL  03−3266−0461

   E-mail mail@session-house.net

   http://www.session-house.net

PDFデータはこちら→トークの会チラシ

前回の3月7日には南相馬ビジネスホテル六角の大留隆雄さん、浪江町「希望の牧場」の吉沢正己さんにお話して頂きました。

2回目の今回は、飯舘村から避難先の福島市で自家焙煎のコーヒー、自家製ケーキとパンの店「椏久里」を再開している市澤美由紀さんをお迎えして、話して頂きます。美由紀さんの声を、ぜひお聞き下さい。


◎第13回「いま、語り 描き 写し 歌い 舞うとき」

〜とどけメッセージ キッチンの窓から ガレキの“戦場”から〜

日 時:6月9日(土)

第1部:14:00〜16:00(開場13:30)

第2部 17:00〜19:30(開場16:30)

場 所:カタログハウス セミナーホール

入場料:1部1000円、2部500円、1部+2部1500円

協 賛:カタログハウス

主 催:戦争への道は歩かない!声を上げよう女の会

お問い合わせ:090−9964−2616(和田)

第1部 表現者はリレーする

 落合恵子さん(作家)、たなかまゆさん(シンガーソングライター)、田中優子さん(法政大学教授)、水野みさをさん(古代フラダンサー)、森沢典子さん(「シロツメクサの会」代表)、Joy!Joy!さん(ゴスペルシンガー グループ)、渡辺一枝

第2部 映画とトークの夕べ

 『祝の島』上映、監督の纐纈あやさんトーク

PDFデータはこちら→チラシオモテチラシウラ


更新情報 5月6日号「一枝通信」

5月6日号

5月2〜4日、仙台に住む友人の案内で南三陸と石巻に行ってきました。
一言で「被災地」と言っても、各地で大きく状況が異なっていることを実感しました。
入り組んだリアス式海岸は海辺のすぐ背後は山で、平坦なところはわずかですから逃げ切れなかった人が多かったことも察しられました。
瓦礫は車両、立木は仕分けられていますが、あとはあまり仕分けられずに小山になっていました。
細かく仕分けようにも、分別して置くには、海岸線が狭いのでやりようがないということもあるのでしょう。
何度か行った南相馬で本当に細やかに瓦礫が仕分けられていたのは、平坦な場所があるからこそだったのだと、ここに来て思い至りました。
細かく仕分けられていれば、資源としての再利用も可能です。
「瓦礫の広域処理」については意見はさまざまですが、瓦礫の撤去が済まなければ復興、あるいは復旧、または再建が進まないのは事実ですし、でも仕分けができないままで焼却をしてはならないだろうと思います。

2日は仮設商店街で昼食を済ませてから、南三陸町の防災庁舎、公立志津川病院、戸倉小学校など津波の爪痕も生々しい状況を見た後で、友人の親戚で、仮設住宅に暮らす方を訪ねました。たまたま自宅を離れていたために助かった方です。
狭い仮設暮らしで、日常の買い物や通院などさまざまな不便を耐えながらの暮しです。
やはり夜は睡眠薬が無いと眠れないと言っていました。一年以上経ってもまだ非日常が続く、仮設での暮しです。
その夜の宿は、民宿「下道荘」でした。
ここは津波で元の所は流されてしまったけれど、高台の竹薮を切り開いて再建した民宿です。
宿のご家族も気持ちの良い方達で3歳から小3までの3姉妹、カナちゃん、セラちゃん、モカちゃんと我らがツァーのワンパク坊主2人(小6と小2の男児兄弟)はすっかり仲良くなって、翌朝の別れを惜しんでいました。

3日は朝から雨足が繁く、歌津の丸七水産さんを訪ねてそのまま夕方まで入り浸ってしまいました。
丸七水産の高橋七男さん一家も自宅と作業場が津波で流されましたが、高台に仮設住宅&作業場を作りそこで生活を再開しています。
仮設住宅と言っても公的なものではなく、家族全員で暮らせる住居と作業場を自力で作ってしまったのです。
ワカメ漁はもう終わった時期だったのですが、他所からワカメを用意して下さっていて、私たちは根元近くの葉と上部、茎の部分を手作業で仕分ける作業を教えてもらいながら体験しました。
そしてその場で奥さんの和子さんがタマネギとワカメの酢の物や、ワカメのしゃぶしゃぶを作って下さり、美味しく頂きました。
そればかりか「この雨ではどこも行かれないね」と作業場から移動して、自宅にみんなでお邪魔してお昼ご飯まで頂きました。
たらの芽やコシアブラの天ぷら、フキウドの酢みそあえ、ミツバとほうれん草のおひたしなどなど地の物で手際よく作られた美味しいご馳走でしたが、和子さんは「想定外」のお昼の用意まで全く嫌な顔もなさらず気持ちよくもてなして下さったのでした。
ワカメ、ホタテ、カキなど水産物を育てる仕事は、陸の畑仕事と何とよく似ていること、とお話を聞きながら思いました。
また被災直後の避難や、救援物資が届くまでの避難生活、物資が届くようになってからの様子などたくさんを聞かせて頂きました。
この日は一日雨。その夜は丸七水産のすぐ近くの民宿でした。

4日。前夜から冠水で通行止めになったいる箇所があるという情報が入っていましたが、この日も朝から激しい雨で心配しながらの出発でした。
冠水して通行止めになった箇所を迂回しながら行きましたが、それでも何度かは水に隠れた道路を水しぶきを上げながら進みました。
南三陸町、旧北上町、旧雄勝町、女川町を通り74名の児童が亡くなった大川小学校に寄って、石巻に出ました。
一日風雨が激しく、この雨で道路も冠水していましたが、庭にも水が流れ込んで床下浸水している家が何軒もありました。
泥の色をした海は壁のようになって寄せ、白い波をけたてて俄仕立ての土嚢の堤防に当たって砕けていました。
津波はずっとずっと巨大な壁のような波だったことでしょうが、この荒れた海と道路を越えて宅地まで入る波に、あの日の様子を思い描きました。地盤が沈下していたせいもあったでしょうが、たった2日間の雨で床下まで水が入ってしまうのです。それらの家の方達は、どんなに切なかろうと思いました。
大川小学校は海からはかなり離れた北上川の川岸にありました。背後の山は勾配が急で、地震の後で小学生が登るのは無理だろうと思われました。海からはかなり内に入っていますから、建設時にはまさかここまで津波が来るとはそれこそ「想定外」だったでしょうが、杉木立の山にせめて避難路の階段が刻まれていたら…と思いました。
この日の昼食も被災後に仮店舗を建てて営業を始めた食堂で食べ、また途中の仮設商店街に寄ってお土産を買ったりトイレを借りたりしながら仙台に戻りました。

今回の被災地巡りで一番印象に残ったのは、途中何カ所でも見た仮設商店街や最初の晩に泊まった民宿下道荘、自主仮設住宅と作業場を作って仕事を再開していた丸七水産など、前に向かって歩き出している被災者の姿でした。
どこも活気が感じられましたが、ただこれらを見て「復興に向かっている」と言い切ってはならないでしょう。
これらは専ら被災者の努力によっていることですから、行政には被災者の意見を汲み上げての援助を求めたいと思います。
漁が再開できる港が出来ることや、水産市場が開かれることなどなど課題は山積みです。
瓦礫の処理と併せて考えなければならないことだと思います。
また考えさせられたことは、ボランティアの在り方です。
被災直後には物資配達や瓦礫撤去などさまざまなボランティアが、大きな力になりました。
でも一年経て、それらは不要になってもいるし、逆にマイナス面も大きくなってきているようです。
ボランティアが作業に入ることで地元の雇用が奪われていることや、地元の商店の売り上げが抑えられてしまうなども出てきています。
裏返してボランティアを受け入れる側からすると、人を雇えば給料を払わなければならないが、ボランティアなら賃金を払わなくてすむなども.問題になってきているようです。

また機会を作って訪ねたいと思いました。皆さんもどうぞ被災地を訪ね、被災者の話に耳を傾けて下さい。メディアが伝えないことを感じとられることと思います。


お礼とお知らせ

みなさま

「原発事故から命と環境を守る会」へ、みなさまからのご支援が届いています。
ありがとうございます。
「守る会」からお礼状をお出ししていますが、ご住所が判らずにお出しできずにいる方達もいます。
また「一枝通信」をご自分のブログやメールなど再発信して下さっている方もおいででしょう。
そしてそれを受けた方からもお送りいただいているようです。
ありがとうございます。
「守る会」からご連絡先が判らずにお礼状をお出しできずにいる方にも感謝の気持ちを伝えたいと、再々連絡がありました。
この場をお借りして、お礼を申し上げます。本当にありがとうございます。

現地の様子を「一枝通信」に写真を貼付してお送りしたい…と、実は前回南相馬へ行く前に写真をパソコンへ取り込んで送る方法を教えて頂いて行ったのです。
「今回は写真を貼付して送れる』と、意気込んで行ったのですがカメラの調子が悪く(事前にチェックもして行ったのに!)写真をお送りすることが出来ませんでした。
ビニールハウスや露地畑の様子を、是非ご覧頂きたく次にいった時には写真をお送りしたいと思っています。

渡辺一枝トークの会『福島の声を聞こう!vol.2』
日時:6月5日(火)19;00〜(開場は18;30)
場所:セッションハウス・ガーデン
参加費:1000円(参加費は被災地への寄金とさせて頂きます)
申し込み受付:5月21日(月)10;00〜(下記電話にてお名前・電話番号をお伝え下さい)
主催・お問い合わせ;03−3266−0461 セッションハウス企画室 
e-mail:mail@session-house.net

PDFデータはこちら→トークの会チラシ

*第2回のトークの会はゲストに飯舘村から福島市に避難し、自家焙煎のコーヒーと自家製ケーキとパンの店「椏久里」を避難先で再開している市澤美由紀さんをお迎えします。
飯舘村からの声を、ぜひお聞き下さい。

いちえ          


更新情報4月17日号「一枝通信」

4月17日(4月16日追伸)

昨日警戒区域解除になった小高の様子を追伸いたします。

一昨日までは自分の住んでいた家や場所なのに、自由に行けなかったのです。

ですから昨日は、そこで何人もの人たちに出会いました。

海の方には、一階は柱を残してがらんどうになっていても、二階はそのまま残っているようなお宅もあります。

そうした家では、床に散乱した物を片付けている人たちがいました。

また若い世代は県外に避難し年寄り世代が仮設住宅に住み、離ればなれで避難暮しをしていた家族が、一年ぶりに元の家で顔を合わせたのでしょうか、持参してきた飲み物や食べ物を前にして語り合っている姿もありました。

家の中に残っていた食べ物も飲み物は、一切口にしないようにとお達しも出ていましたから持参してきたのです。

津波をかぶったMさんの納屋には、扉が外れてしまった保冷庫の中に30キロ入りの米袋が積み上げられたまま、崩れずにありました。ミニトラクターなど農機具も、波を被ったままの姿で。

津波にあった海側の辺りでは震災直後に自衛隊によって遺体捜索された時に瓦礫をある程度片寄せたのでしょうか。

そこここに小さな山になって瓦礫が詰まれていました。

村上浜は田んぼだったところが海になっていますから、本格的な瓦礫撤去はこれからになるでしょうが、行方不明の方がもしや底に沈んでおられるのでは……なども思いました。

ここに再び家を建てることができるようになるのだろうか、おそらくここにはもう暮らせないのではないかと思いました。

地盤がかなり沈下しているようですから、相当かさ上げしなければ無理でしょうから。

波が寄せる数百メートルも先にかつての堤防が低く見えているのです。

家はそのままに残っている山の方では、草ぼうぼうになった庭の草むしりをしている人や伸びきってしまった庭木の手入れをしている人もいました。

身の丈ほどに伸びた草ぼうぼうの畑地、草を刈っても放射能を含んだその草を置く場所はどこになるのでしょう。

刈った草が全体どれほどの量になるのかも、またその仮置き場も定かにはなっていないのです。

線量が高い場所ではなお一層、元の暮しに戻ることは難しいでしょう。

みんな自宅に戻れる日を待っていたのでしょうが、こうして戻れたと言っても住むことは出来ないのですから、どんなにか複雑な思いだったことでしょう。この日だって自宅に入れはしても、トイレも使えず水も出ないのですから。

そのために役場には仮設トイレが10基ばかり作られていました。

昨日まわった辺りには墓地も何カ所かあったのですが、それらの墓地で何組もの人たちを見かけました。

警戒区域解除になって、真っ先にお墓参りをしに来たのです。

“ふるさと”を生きる心を思います。

そこでの日々はきっと、死者たちとも共に生きてきた日々なのではないでしょうか。

過ぎた遠い日々も今に繋がって、そんな時の流れの中で生きてきた毎日だったのではないでしょうか。

いま、“ふるさと”から根こそぎ引き剥がされた人たちは、遠い日々に繋がる時間軸をも断ち折られてしまったのだと思えます。

墓参する人たちにも出会いましたが、海の方では墓地も津波に流されて墓石が散らばっていました。

畑やハウスの土地を提供して下さった小林さんは、鹿島に何代も続く旧家です。

家の裏手には樹齢数百年と言うシラカシの木があり、家の前には今は使われていない武家門があります。

小林さんが言いました。

「何でも便利になった世の中だけど、こうして原発の事故が起きてしまって……。シラカシの木は、侍が腰に刀を差していた時代から、時の流れをずっと見ていたのだなと思いますね。木が話せたら、なにを言うでしょうね」

「おとついまで四国に行ってたんですよ。友人たちと山登りです。高知では田植えをしてました。ああ、私らのところでももうじき田植えの時期なのに、去年も今年も田植えが出来ないことを深く感じ入りました」

政治家たちに福島の声を聞いて欲しいと思います。

仮設のお年寄りたちは、ビニールハウスや畑が出来て作物の生長を楽しみにしています。

そのハウスや畑のための管理費が、まだまだ必要です。

畑をするにも長靴も流されてしまって、持っていない人たちがほとんどですからそうした物も揃えていきます。

どうぞこれからもご支援をお願いいたします。

◎ゆうちょ銀行から送金する場合は

記号:18220

番号:5137881

なまえ:ゲンパツジコカライノチトカンキョウヲマモルカイ

◎他行から振り込む場合

店名:八二八(読み ハチニハチ)

店番:828

預金種目:普通預金

口座番号:0513788

どうぞ、よろしくお願いいたします。


更新情報4月16日号「一枝通信」

4月16日号(南相馬警戒区域の解除)

昨夜0時に南相馬市の小高区が警戒区域から解除されました。

私が定宿にしているビジネスホテル六角は、国道6号線に面しています。

そして6号線をほんの150mほどビジネスホテル六角から南に行くと、原発から半径20キロの検問所がありました。

その先が警戒区域だったのです。小高区は、この警戒区域内にあります。

これは昨年4月22日、原子力災害特別措置法の下に設定された「警戒区域」でした。

でも、皆さんもご存知のように同心円で描いた半径で、放射線量が出るものではなく飯舘村のように30キロ圏外でも危険な線量値を示す地もありますし、20キロ圏内でも浪江町の海寄りの地では飯舘村よりもずっと線量の低い地もありました。

けれどもこの一年、一律に20キロ圏内は警戒区域とされていて、許可証がなければ入れませんでした。

小高区の住民は、昨日までは自分の家に自由に入ることができなかったのです。

これまでに2度、一時帰宅日とされた日に2時間ずつ自宅に戻ってものを持ち出したり様子を見に行くことが出来ただけです。

さて昨夜、私の部屋からは赤いランプが点滅している検問所が見えていましたが11時過ぎから赤ランプを点滅した車両が何台かやってきて作業をしていましたが、0時10分にはすべての車両がいなくなって、あとは信号機の灯だけになりました。

そして今朝、昨日までは警戒区域内に入る許可車両だけが通る6号線を何台もの車が南に向かって行きました。

小高の人たちが、我が家の様子を見に行くのでしょう。

私も朝食後に現地ボランティアのAさん、Sさんと一緒に小高に行きました。

「昨日までの検問所って、なんだったのだろう?」と思いました。

つい数ヶ月前に希望の牧場の吉沢さんが牧場の牛たちに餌をやりに行くのに、同行させてもらったことがありました。

その時にはトラックの荷台で飼料のモヤシの搾りかすが入った大きな袋の間に潜んで、上からはブルーシートをかけられて、それこそ”密入国”のような心地で行ったのです。

今朝は全く隠れもしないで堂々と入れたのです。

その間に小高の放射線量が下がったという訳ではなく、その時も今朝も変わりない数値だったのに。

小高に入ると畑地には人の背丈以上に伸びた枯れ草の原。

役場の前でフォトジャーナリストの山本宗補さんにばったり会い、宗補さんに「液状化が凄いです」と指差されて見た辺りは路面が波打っていました。

そこから小高の駅前通りを行くと商店がことごとく傾いたように沈んだり崩れていて、この辺りの地盤の緩さが一目瞭然でした。

小高は”蔵造り”という建築方式の家が多かったそうですが、ちゃんと建ってさえいれば本当にお蔵のような質実剛健と言う感じの家や商店が、土台から崩れてへしゃげていました。

これを見てAさんもSさんも「見なければ判らなかった。原町区は地盤が堅いんだね。こんな風に崩れた家はなかった」と。

小高は液状化や地盤が沈下しているのでしょう。

山の方へ行くと放射線量は上がり、私の線量計は3.6μSvを示しました。

浪江町の方へ向かい、希望の牧場で吉沢さんに会いました。

20キロ圏内に何軒か残っている牛を飼っている人たちがいるので、今後はその人たちにも飼料を分けていきたいと言っていました。

「牛もミルクも出荷できる訳ではないが、その人たちは殺処分も餓死もさせずに牛たちと共に生きてきた。だからこれからもそうやって牛たちと共に生きていけるように、いわばこれはこれは癒しだよ」と言います。

希望の牧場は浪江町です。

牧場の入口脇の道路には、これまでにはなかった検問所が出来ていました。ここがゆうべ0時以降から新たに指定し直された警戒区域となるのです。

希望の牧場から下って村上浜など海の方へ行くと堤防よりずっと手前から、もう海。

そこらは住宅や畑、田んぼだったところだそうです。

でも私には海にしか見えませんでした。海岸線が陸地の方へ入り込んでしまっているのでした。

その海の中に乗用車や消防車、工事車両や農業用車両がゴロゴロと転がっていました。

これまで片付けられないままでいた、震災後のそのままの小高でした。

警戒区域解除にはなりましたが、水も電気もないのですから、津波の被害にあわず、たとえ家は流されずに残っていてもそこには住めません。

南相馬市は今後は「帰宅困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の3区域に移行して、今後の帰還に向けて除染やインフラ、防犯などの対応をしていくことになりますが、住民からの苦情が市役所に相次いでいるようです。

自由な出入りが出来るようにはなっても

水道も電気もなく、山の方の地区では線量も高いというのでは、自宅への宿泊も出来ません。

自由に出入りできるようになりはしても、もとの家に済めるように掃除をしたくても掃除さえも出来ないのです。

そのために住民からの苦情や怒りが、市長や市役所職員に向けられているそうです。

「警戒区域解除したって、家に住めないではないか」などと。

市長や市の職員に向けるべき憤りではなく東電に向けるべき憤りだと思うのですが、直接向けられる相手としてそうなってしまうようです。

このために市職員は、これらの苦情を受けるのに耐えきれずに辞めていく人もいると聞きました。

職員の中には自身が家族や家を失っている人もいるのですから、このような筋の違う憤りを向けられるのはどんなに辛いことかと思います。

東電の出来る限り賠償金は払わずに済ませたい腹が、この警戒区域解除→3区域移行にあるのではないでしょうか。

3区域に移行と言えばごまかされやすいですが、実際には3区域に分割ということです。住民や地域が纏まらず、将来の方向性も決めにくい状況に追いやって住民側に賠償額の妥協を迫っているように思えます。  

午後はビニールハウスや畑の土地を無償で提供して下さった、小林さんのお宅を訪ねました。

道路から家までは一面の福寿草の原!

福寿草の間にはキクザキイチゲの白い花や、ヒメオドリコソウの薄紅の花、ホトケノザの紅の花、オオイヌノフグリの青い花。

そして白梅紅梅も。眼に嬉しい光景でした。

この一面の福寿草は有名らしく、わざわざ郡山から写真を撮りにきている人もいました。

新田川の岸辺の桜はようやくポチリと咲き始めていた昨日ですが、今日の暖かさで桜も三分咲きほどになりました。


更新情報4月15日号「一枝通信」

4月15日 南相馬

昨夕、南相馬に来ました。

昨日の雨が上がって陽の射してきた今日は、午前中は畑とビニールハウスを見て回りました。

畑は以前お伝えしたところよりも更に増えて、全部で5カ所総面積9反5畝です。

ビニールハウスは当初5棟を計画していましたが、3棟で終いました。

近くにNPO団体が別に3棟のビニールハウスを建てたので、「原発事故から命と環境を守る会」も3棟で終うことにしたのです。

我が”六角支援隊”(「原発事故から命と環境を守る会」は、だれ言うともなくそう呼ばれています)のビニールハウスと畑は、数日前の春の嵐で、被害にあったようです。ビニールがはがれたところが出たそうです。

嵐が治まって後に直ぐに修理したということで、ビニールに損傷は見られませんでしたが、パイプの歪んだところがありました。

そして風よけが必要だということで、風よけネットを張るためのパイプも組まれていました。

(ネットはまだ張ってありません。これからの仕事です)

既にハウスの中にも外の露地畑にもほうれん草、水菜、豆、ピーマン、トウモロコシ、ジャガイモ、カボチャなどなどの種がまかれ芽を出しているものも多く、仮設の方達が畑仕事を待ち望んでいた様子が見て取れました。

これらの種も、皆さまからの支援で送られてきたり資金カンパで購入したものです。

仮設のお年寄りたちは朝6時頃には畑に来て水やりをしたり芽が出た様子を見たりして、それから戻って朝ご飯という方が多いようです。現地ボランティアの荒川さんも早朝に来て、そんな皆さんの姿を見ているそうです。

前回私が南相馬に来た1ヶ月前には草だらけの畑地の草取りをしていたのですが、今日はその畑はきれいに畝が作られ蒔かれた種が芽を出していました。ほんの一ヶ月前がもうずいぶん前のことのように感じられました。

小池第3仮設近くの畑にいた時に太鼓の音が聞こえてきて、仮設で何か催しがあるみたいだからと行ってみると仮設の自治会でのお花見会でした。

仮設の敷地内には桜の木はなく、それにあいにく今年は春の訪れが少し遅いのか他の場所で見ても桜はようやく一つ二つほころびだしたかという様子です。

でもその仮設の集会所の前にはテントが張られ大きな鍋が4つも並んで汁が煮え、テントの脇にはビニールシートが大きく並べられて、仮設に住むみなさんが賑々しく立ち働いて嬉しい光景でした。

会費500円で住民の親睦を図る試みだそうです。

寺内の仮設では、上原さんのおばあちゃんを訪ねました。

おばあちゃんは昨年末にご主人を亡くされて、ずいぶん気落ちしていたのですが今日訪ねたら少し元気を取り戻されたようで前回、前々回にお訪ねした時よりも話す声も話すことも、明るくなっていました。

それに第一、今日お訪ねした時には部屋の掃除をしていたのです。

掃除をするといってもこたつが置いてあるので掃くような空間もない狭さですが、それでもこんなふうに掃除をしようと気持ちが動いたことは嬉しいことでした。

けれども上原のおばあちゃんから聞いた話は、また胸の痛いこともありました。

おばあちゃんお部屋の並びの何軒か先で、独居の方が亡くなっていたというのです。

救急車が来てなんだろうと思っていたら、その部屋の人が亡くなっていたのだと言うのです。

仮設住宅はいろいろな地区から来ている人たちの寄り合い住宅なので、おばあちゃんもその人がどういう人だったか判らないと言っていました。

こんなことが起きないようなコミュニティ作りも必要でしょうし、公的な見廻りももっともっと必要だと思いました。

午後は高倉のホットスポットへ。

石川さんと荒さんのお宅を訪ねました。どちらも以前にお訪ねしたことのあるお宅です。

石川さんのところは以前は2.7〜3.5μSvとありましたが敷地を除染して今は1.2〜1.7μSvに下がっていました。

石川さんは被災以前は曾孫までの4世代7人で暮らしていましたが、昨年3月以降は80代のご夫婦と60代の息子さんの3人の暮しです。今日は玄関先だけで失礼しましたが以前お訪ねした時には、部屋の中には曾孫のおもちゃがついさっきまでそこで遊んでいたままのように置かれていました。

「いつ帰ってきても直ぐに遊べるようにと思って。でも、もうここには帰って来られねぇ。こんな線量が高いところには住ませられない」と言われて言葉が、今も私の耳に響きます。

荒さんの家は玄関前では2.7μSvですが、庭の叢は5.5μSv。

でも、荒さん夫婦と30代の独身の息子さんはそこで暮らしています。

夕方海の方へ行き、雫地区に入った時に改築して間もない家で「高田」と表札のかかった家を見ました。

もしやと思ってお訪ねすると、やはり探していた高田康成ちゃんのおじいちゃん、おばあちゃんの家でした。

康成ちゃんとお母さんの有里子さんには、昨年10月に寺内の仮設で出会ったのです。

六角支援隊と一緒に物資を配っていた時に「こんにちは。支援物資です」と声を掛けると、思いがけずに赤ちゃんを抱いたお母さんが顔を出したのです。それが有里子さんでした。

「赤ちゃんがいる!」と、思わず私は声をあげてしまいました。

その赤ちゃんが康成ちゃん。生後一ヶ月になる少し前でした。

次にいった時にも訪ね元気に育っている様子にホッとし、その後も気になるので寺内の仮設に行く度に訪ねたのですが留守で会えませんでした。

以前話を聞いた時には雫にご主人の実家があって、津波で一部壊れた家を直しているところで、改築が済んだら仮設を出て実家で暮らすと言っていたのです。

今日厚かましくも改築されて間がない家の表札を見て訪ねたら、不審げな顔つきで赤ちゃんを抱いて出た人の腕の中にいたのが康成ちゃんだったのです。事情を話すとあちらも驚いて「息子たちはまだ仮設住まいだけど、今日は有里子がインフルエンザで家で寝込んでしまっているので、康成を預かっているんです」と。

そして「有理子がいつも言ってました。『赤ちゃんがいる!』と言って物資を持ってきてくれた人がいる」とも言うのです。

康成ちゃんはもう寝返りをするようになり、抱くとしっかりと脚をつんつん突っ張って小さな小さな2本歯を見せて笑うのです。

私は嬉しくて、涙が溢れました。元気に育って欲しいと思います。心から願います。

すっかり津波をかぶってしまった辺りに、鯉のぼりが泳いでいます。

鯉のぼりの前には、一階部分は流されて筒抜けですが二階が辛うじて残った家が一軒だけ。

家の裏手の木立が、辛うじて家が流されてしまうのを防いでくれたのでしょう。

辺りには他に残った家はなく、家々があった形跡すらもない平地です。

この家は両親、お嫁さん、子供たちの5人が津波で亡くなり、仕事で外に出ていた息子さん(子供たちのお父さん)だけが助かりました。

その息子さんは仕事を辞めて今も毎日、亡くなった5人がどこかで生きていると、探し歩いているそうです。

息子さんの同級生から聞きました。「あいつと顔を会わせるのが辛い」と。                   

長々とになりました。

明日は小高が警戒区域解除になります。小高の様子を見に行こうと思います。           いちえ

 






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