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更新情報 言葉の礫『一枝通信』

昨日は八王子の労政会館で開かれた、林洋子さんの朗読会『ふくしまー懐かしい いのちの声』に行ってきました。
「福島の子供支援公演」と銘打たれての朗読会でした。
福島県伊達市霊山町で暮らす詩人、久間カズコさんの詩を女優の林洋子さんが朗読するというこの公演のことを知ったのは、8月末の東京新聞紙上でのことでした。
直ぐに前売りチケットを購入して、この日を待ったのでした。
林洋子さんは「ひとり語り 宮沢賢治」の出前公演を続けている方です。
公演を知らせる新聞記事には久間カズコさんの詩の一節が載っていて、それを読んでその詩に触れたいと思ったのです。

昨日の会は第1部で経産省前のテント村で〝とつきとおかの座り込み〟を呼びかけ、先頭に立って行動してきた「原発いらない福島の女たち」の世話人、椎名千恵子さんの報告「福島の子供たちは いま」で始まりました。
第2部が、林洋子さんによる久間カズコさんの詩の朗読でした。
久間さんは霊山町の曹洞宗成林寺ご住職の奥様で72歳。平成23年度、第64回福島県文学賞の詩部門で受賞されました。
11月で82歳になるという林さんの張りのある艶やかな声で、久間さんの詩の言葉が立ち上がってくるようでした。
この日朗読された久間さんの詩から、3編だけですがご紹介します。詩集『山百合』から。

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    『写真』

 無言
撮影日
 平成二十三年 三月十三日
場所
 福島県伊達市
撮影者コメント
 玄関先に出しておいた巣箱です

箱の中の蜜蜂の死骸は
巣の真下に集まっていて
逃げ惑った様子もない

撮影日の三月十二日は
福島第一原発一号機の水素爆発で
この地区に恐ろしいものが
流れてきたのだ

一瞬のうちに
黒い目を見開いたまま
巣から落ちてしまった大量の蜜蜂

それらの悲鳴が聞こえてきそうな
一枚の写真

     『孫のはなし』

霊山にホウシャノウがなかったとき…
盛岡に避難をしている五歳の愛弓の口ぐせ

霊山にホウシャノウがなかったとき
おばあちゃんと外でいっぱい花をつんだよね

霊山にホウシャノウがなかったとき
いとこの大ちゃんと楽しく砂あそびをしたよね

霊山にホウシャノウがなかったとき
おいしいももやりんごをたくさん食べたよね

霊山にホウシャノウがなかったとき
特定避難勧奨地点ということばもなかったよね

ふくしまにホウシャノウがなかったとき
人の心は
この秋空のように青く澄んでいたよね

地球上にホウシャノウがなかったとき
人の心は
とてもきれいだったよね

  *平成二十三年六月三十日
   福島県伊達市霊山町の小国地区の一部が特定避難勧奨地点に指定された

     『視線』

赤ちゃんを抱いた若い夫婦が店に入って来た
プクプクと太った三ヶ月ぐらいの女の子
母親の顔を見てニコニコと笑っている
盆を迎える準備で混雑しているスーパーマーケット内

  よく太って元気そうね
  アラ、可愛いわね 何ヶ月?

放射能が降ってくる以前の店内なら
知らない人がこのように
気軽に声をかけることができたのに…
今は それができないのだ

人々は冷たい視線を向けるだけ
  この非常時にマスクもさせないで外出させて…

それでも
赤ちゃんはニコニコと笑っている

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第一部での椎名千恵子さんの言葉「悔しい!」が胸に鳴り響いています。
こんな日々を私たちは作ってしまったと、久間さんの詩に胸が張り裂けそうです。
いちえ


更新情報 9月7日号「一枝通信」

今日は昨日の天気が嘘のような、雲一つない空。

朝のうちに、4月16日に警戒解除になった小高区の海側の方に行ってみました。

この辺りもこれまで何度か来ていた所ですが、津波をかぶった家々はまだそのままで、傾きかけていた家はいっそう傾いてきています。

津波をかぶらなかった家も、上下水道が通じていないのでまだ人は住めません。

それになにより、除染が全く出来ていないのです。

どの家も身の丈よりも高く、草が生い茂っていました。

畑だった所も草ぼうぼう。

ここに生活が戻るのは、まだまだ先のことに思えます。

いったん六角に戻ってから鹿島区の小池第3仮設住宅に行きました。

今日行った小池第3仮設住宅は自治会長はいませんが、その仮設に住んでいる蒔田さん(53歳、男性)が社恊から委託されて集会所に毎日午前中に詰めています(仮設によっては自治会長を置いている所もあります)。

以前そこで蒔田さんのおばあちゃん、佐藤さんのおばあちゃん、鈴木さんのおばあちゃんと3人のお年寄りから話を聞いたことがあります。今日はその蒔田さんの息子さんからの話を聞きたくて行ったのです。

集会所に詰めていながら、仮設の皆さんの様子に心を配ってお世話をしたり相談役になっている人です。

この仮設住宅は今朝私が行ってきた小高区からの人が多く、殆どが高齢者です。

最高齢が98歳で90歳以上の方がかなり居ます。

老夫婦二人で入居しながら、ここに来てから連れ合いが亡くなって独居になった方も居ます。

集会所で蒔田さんと話していると、住人の板倉さん(78歳、男性)が顔をのぞかせました。

板倉さんの家は小高の村上浜で、80戸ほどの家があった所ですがほとんど流されたと言います。

村上浜には請戸港から舟を出している人も4軒、あったと言います。

小高の家では息子夫婦と一緒に暮らしていた板倉さんですが、息子さんの家族は別の仮設に居ます。

板倉さんはここで奥さんと二人で住んでいますが、奥さんは今日はめまいがするからと家で休んでいるそうです。

私が「めまいは今日だけのことですか? 前からですか?」と尋ねると「どうかなぁ。仮設病ってのもあるからな」と。

そしてまた、「小高はな、警戒区域解除になったって今片付け始まったけっど、ガレキ置き場もないからな。除染するったって、できっかなぁ」と、板倉さんは言います。

78歳の板倉さん、この仮設にはもっともっと高齢の方達が居ますが、生きている間に元の場所に戻れるかどうか、仮設にいつまで居るのか、先を考えれば具合が悪くもなるだろうと思います。

板倉さんは睡眠薬、精神安定剤は飲んでいないし、お酒もやめたと言います。タバコとパチンコはやめられないと。

もともとお酒が好きで仮設に入ってからもいつも飲んでいたそうですが、2ヶ月ほど前にきっぱりとやめたそうです。

板倉さんがお酒をやめたのは、蒔田さんの口から聞きました。

板倉さんは嬉しそうに、少し照れていました。

この生活でそれまで好きで毎日飲んでいたお酒を断つのは、大変な努力だったことでしょう。

それをきちんと見ていた蒔田さんのような人が、この仮設に居ることはお年寄りたちにどんなに心強いことかと思います。

板倉さんの奥さんは睡眠薬と安定剤が、欠かせないそうです。

「仮設は狭いからなぁ。音だって筒抜けだよ。隣のイビキが聞こえんだからなぁ」と蒔田さん。板倉さんも頷いていました。

昨日の雨の影響はなかったかを蒔田さんに尋ねると、床上には来なかったけど床下に水がタッポタッポした所があって、役所に行ってすぐ来てもらったそうです。

水はけが悪くて、床下にジャッキを入れて上げている所もあるそうです。

またこれから寒さに向かって行くと、さまざまな問題が出てくることでしょう。 

仮設から戻る時に原町区の海岸の方に行ってみると、以前は丁寧に仕分けされた瓦礫の山があった所に土の山がいくつか出来ていました。既に草が生えてきている山もあります。

この小さな山々に木を植えて、防潮林に変えて行く計画です。

南相馬は、他の被災地に比べて本当に細やかに瓦礫の仕分けをしていました。

そしてこうした小山を造って木々を植える計画ですが、土が足りず、それをどうするかがこれからの課題になっているようです。

もっとご報告したいことはたくさんありますが、長くなるので失礼します。

今日も長文で失礼しました。

いちえ 

関連:

9月6日号「一枝通信」追加・ボランティア募集のお知らせ

みなさま

昨日発信の「お力拝借したく…」に、さっそく何人かの方から返信を頂いています。
ありがとうございます。
もう少し具体的にとのご指摘も頂きました。
以下の要領で実施できれば、と考えています。

喜多方ラーメン炊き出しは、800食(最大で1000食)分用意されます。
小池第3仮設住宅で炊き出しをしますが、他の仮設住宅にも当日の案内を配ってあるので、そちらから来る人も多いでしょう。
前回もそのようなやり方で炊き出しをしたそうです。前回は600食用意して、すべて完食だったと言います。
小池第3仮設の世話役の方が協力してくださるので、大変やり易いということです。
(鹿島区には23カ所の仮設住宅があります)

炊き出しの順番を待つ間に、希望者にヘアーカットと爪の手入れをということで行いたいのです。
髪の毛をカットするだけ、シャンプーなどは行いません。
ネイルは必要な人には爪切りも考えていますが、衛生上や安全面で、これはむずかしいかもしれませんね。
マニキュアは何色か用意して、希望の色を選んで頂いて塗って差し上げるようにしたいと思います。
これらを13日に行います。
炊き出しは10時頃から16時頃までとなるようですから、床屋&ネイルサロンもそれに合わせます。
また床屋&ネイルサロンの作業だけではなく、せっかくなので仮設住宅および畑、被災跡などの見学もして頂きたいのです。

大変言いにくいのですが、交通費、宿泊費とも自己負担、ボランティアでお願いいたします。
ただいまのところ理容師さんが一人、手を挙げてくださっていますのであと2人どなたかお願いしたいのです。
ネイルサロン3~4人、お願いしたいのです。

東京から行く場合、南相馬までは福島からバスになります。
バスの本数が少ないので、前日12日に発って頂いてその夜はビジネスホテル六角に宿泊。
翌朝、六角から仮設住宅へ一緒に移動します。
もちろん私も行きますが、下記の二通りのスケジュール案があり、参加してくださる方達のご都合でどちらかに決めたいと思います。

①東京駅発 7:36ー福島駅着9:14(やまびこ125) 福島駅東口発9:50ー原町駅前着11:40
②東京駅発 13:40-福島駅着15:11(やまびこ63)  福島駅東口発15:30-原町駅前着17:20

①の場合は12日に仮設住宅や畑、被災地の見学をして、翌日作業および片付け終了後帰京できます。
原町駅前発の最終バスが18:10で、これに乗ると福島駅着20:00、福島発20:27(やまびこ66)で東京着22:00です。
②の場合は13日終了後では日暮れて、見学は難しいかと思えます。その日もう一泊して翌日見学になります。
出来れば①案で行きたいと思います。また現地見学をせず、②案で現地入りして作業終了後帰京ということも可能です。
もしも自家用車で行ってくださる方があれば、大歓迎です。

どうぞ、ご検討の上ご協力をお願いいたします。 

(追伸)

交通費、宿泊費自己負担はきついとのご指摘があり、もっともだと思いました。
それで、「当日参加は出来ないけれどカンパはできるよ」という方にもご協力願いたいと郵便貯金口座を開いて来ました。
今郵便局から帰って来た所です。
団体名での登録だと会の規約やらなにやらが必要なので、渡辺一枝の個人名で口座を開きました。
これは、全く六角支援隊のためだけの口座です。
床屋&ネイルサロンボランティア派遣カンパを募ります。ご協力お願いいたします。
振込先は下記です。

●ゆうちょ銀行から振り込む場合
記号:10090
番号37331561
名前ワタナベイチエ

●他の金融機関から振り込む場合
店名〇〇八(読み ゼロゼロハチ)
店番008
預金種目普通預金
口座番号3733156

これまでの様に物資や資金の支援ではなく床屋&ネイルサロンは私には初めての試みなので、不行き届きもたくさんあると思いますが、皆さんに教えて頂きながらやって行きたいと思います。


更新情報 9月6日号「一枝通信」

昨日、南相馬に来ました。

今回はいつもの東京─福島(新幹線)、福島─南相馬(バス)のルートではなく、仙台回りで来てみました。

東京─仙台(新幹線)、仙台─亘理(常磐線)、亘理─相馬(常磐線代行バス)、相馬─原ノ町(常磐線)のルートです。

亘理─相馬間は津波で線路が全くなくなってしまっていて、それで代行バスなのです。

バスは「各駅に止まって行きます」とアナウンスしていましたが、JRの駅や駅が在った場所近辺を経由しながら行きました。

駅が在った場所の近辺というのは、駅も津波で流されてしまってそのあたりにバスの停留所と待合室ができていました。

代行バスに乗って、最初の駅「浜吉田」は駅舎が残っていました。

そしてその入口に大きな立て看板で「祝浜吉田駅開通 平成25年5月」と書かれ看板には制服姿の女子高校生が万歳をしている絵も描かれていました。

でもその先の「山下」「坂元」「新地」「駒ヵ嶺」には、そうした告知は在りませんでした。

復旧工事が進められてきて、たった一駅区間でも来年5月には開通できる——そんな歓びの立て看板だったのだと知りました。

原ノ町─相馬間が運転再開した日を思い出しました。

それまで原ノ町駅前は〝死んだ街〟のような雰囲気でした。

初めて南相馬を訪ねたとき、福島から相馬回りのバスで来て終点の「原町駅前」で降りたとき、私は途方にくれてしまったのです。

タクシーもなく訊ねる人も開いている店もなく、「ここから大甕の六角までどうやって行けばいいのだろう?」と。

昨年12月21日の運転再開した日、駅前には自転車が行き交い高校生たちが各校の制服姿で駅舎に吸い込まれて行くのを見ました。

人気が戻った駅前でした。

鹿島の仮設に行くのに途中踏切をわたりますが、たまたま2両編成の電車に行き会った時には、六角の現地ボランティアの人も私も、思わず「ばんざい!」と言っていました。

浜吉田駅の開通を待つ地元の人の思いが、看板から伝わりました。

亘理─相馬間が一日も早く運転再開できるよう祈ります。

でも、「原ノ町」より先の「浪江」「双葉」「大野」「夜ノ森」は警戒区域です。

それらの駅はこの先何年も、いえこの先ずっと復旧工事をされることもないでしょう。

上野─仙台間を走っていた常磐線ですが、津波で消えた線路や駅舎の復旧は出来ても放射能で汚染されてしまった地域の復旧には手がつけられません。

道路も同様です。高速道路も工事が済んでいたのに通ることができないのです。

昨日仙台から常磐線に乗ってすぐの頃から雨になり、雨脚はどんどん激しくなって雷も鳴っていました。

原ノ町に着いた時もまだ雨は激しく降っていて、大甕の六角に着いた時も土砂降りの雨と雷はまだ止みません。

六角の食堂カウンターの上にはポツリポツリと雨漏りが……。

今日はこれから仮設住宅を回りますが、昨日の雨で仮設はどんなだったろうと案じています。

またご報告します。                             

(追加文・10月13日に仮設住宅でのボランティア募集のお知らせ)

先日行って来た南相馬から、宿題を持ち帰りました。
来月10月13日に小池第3仮設で、喜多方ラーメン坂内の炊き出しがあります。
この時に集まった仮設のお年寄りたちへの、ヘアーカットと爪切りおよびネイル(マニキュア)をと提案されました。
床屋はそれなりの技術を持った人と道具が必要ですし、爪切りは丁寧に慎重にすればいいでしょうがネイルとなると私には全く未経験でどうしていいのか判りません。
ラーメンの方は、すべて喜多方ラーメン坂内の中原 明会長が仕切ってやりますからノータッチでいいのですが、床屋とネイルサロンに関して助けてくださる方がおいででしたら、ご連絡下さい。
出来ることなら、宿題に応えたいのです。
ご協力願えるようでしたら、床屋、ネイルサロンそれぞれ2~3人で、仮設を訪問できたらと思っています。
できれば前日に南相馬入りしたいと思います。

喜多方ラーメン坂内の中原さんには、以前に六角でお会いしましたが私心のない気持ちの良い方でした。
これまで何度か被災地での炊き出しをやっておられて、南相馬でも2回、最初はパエリア、次はラーメンとやってこられています。
前回のラーメンが大好評だったそうで、それで10月13日に再度ラーメン炊き出しをということです。
皆さまのお知恵とお力、拝借したくお願いいたします。


更新情報 8月28日号「一枝通信」

昨日(28日)は信州の白馬へ行ってきました。

ちょうど一週間前に行った丸森ヒッポで見た田圃では、穂は葉の間に隠れて一面の緑でした。

昨日の安曇野は稲穂が重く垂れて、もう黄色く色付いていました。

そして白いそばの花がちょうど盛りで、実りの秋を迎えていました。

長野県にも福島から避難している方達は多く、大熊町の木村紀夫さんもそのお一人です。

白馬で長女の舞雪(まゆ)さんと二人で住む、木村さんをお訪ねしたのです。

木村さんの家は原発から7キロ地点の大熊町で、すぐ目の前が海だったところにありましたが、津波で家は流され、お父さんと奥さんを亡くされました。

次女の汐凪(ゆうな)さんは、行方不明です。

3月11日地震が発生したときは、木村さんは職場の養豚所にいました。

3メートルの津波の報は聞きましたが木村さんも同僚たちも「この古い建物が潰れてないから地震でも我が家は大丈夫だろう。高台に建ててある家だから津波も免れるだろう」と、養豚所の床が落ちて糞尿にまみれた豚を救い上げることに夢中で、体を洗ってやるのは明日にしようと全頭を引っ張り上げて家路をたどったのは夕方だったそうです。

家の前50メートルあたりから瓦礫の原で、木村さんの家は土台を残して流されていました。

避難所に行くと舞雪さんとお母さんの巴さんがいて、お父さんの王太郎(わたろう)さんと妻の深雪さん、次女の汐凪ちゃんの姿が見えず、他の避難所を探しましたが3人は居ませんでした。

木村さんは翌朝すぐに3人を捜しに出たのですが10キロ圏内避難指示が出て、留まって探すことが許されず、13日には捜索活動は中断され、再開されたのは4月24日でした。

この間に捜索されていたら、助かった命も少なからずあったことでしょう。

お父さんが見つかったのは4月29日、自宅からわずか100メートル離れた田圃だったそうです。

「親父は、原発に息の根を止められた」と、木村さんは言います。

深雪さんは4月10日、いわき市の沖合5キロの海に浮かんでいたのを警視庁の捜索ヘリコプターに発見されました。

木村さんは深雪さんの遺体が安置されていた場所を二度訪ねていたのですが、深雪さんとは判らなかったのだそうです。

遺体は荼毘に付され遺骨のDNA鑑定によって、木村さんは6月2日に深雪さんの死を確認したのです。

ただ一人、汐凪さんだけが見つかっていません。

先週の土曜日8月25日は汐凪さんの9回目の誕生日だったそうですが、この汐凪さんの仲良しだったお友達に声をかけて集まってもらったと言います。

木村さんは海の見えた土地から白馬の木立の中に移り住み、長女の舞雪さんと暮らしています。

若い頃に旅を重ねた体験を活かして、ここでペンションを開くつもりで準備しています。

〝汐凪と共に生きていく〟と、瓦礫の中から見つかったり友人や先生が寄せてくれた写真で写真集『汐凪』を自費出版しました。

印税と売り上げの一部を「あしなが育英会」に寄せ「汐凪基金」にするそうです。

写真集の中の汐凪ちゃんの明るい笑顔や描いた絵に、7歳で消えてしまった少女が今も生き生きとそこにいるようです。

舞雪さんは学校に行っている時間で会えませんでしたが、知った人のいない土地で学校に通う6年生の少女が私は気にかかります。

舞雪さんは昨年3月15日から1年間は深雪さんの実家の岡山で過ごし、小学校も5年生の1年間は岡山の学校に通っていました。

この4月から白馬南小学校に通っています。

岡山にいた時におじいちゃんやおばあちゃんに「震災のことで泣くのはもう止めよう」と、自分から言ったというのです。

だから木村さんも舞雪さんが泣くのを見たことがないと言うのです。

さすがに深雪さんが発見された時には「大変だった」(木村さんの弁)そうですが、10歳の少女がどんな思いで「もう泣くのは止めよう」といったのかを考えると、とても胸が痛いです。

原発さえなければ、津波被災者の捜索は夜を徹しても行われたかもしれない。翌日も翌々日も行われていたでしょう。

あるいは深雪さんも汐凪さんも、王太郎さんも、助かっていたかも知れません。

いつか木村さんの話を皆さんにも聞いて頂きたいと思っています。        

次回のトークの会『福島の声を聞こう』は宮城県丸森ヒッポの太田茂樹さんにお話し頂きます。

9月28日(金)19:00~です。ご案内添付しました。     

皆さまのおいでをお待ちしています。 

 


更新情報 8月11日号 「一枝通信」

今日も官邸包囲デモに行ってきました。
今日の立ち位置は、国会議事堂の正面左側。
ファミリーブースが近かったせいか、前を通る人に子供連れが多かったです。
原発反対デモは、本当にいろいろな年齢層、さまざまな立場の人たちが集まり、また家族連れやカップルも多いことが、これまでのどんなデモとも違っていますね。
命と直結する問題ですから、問題点を頭で考えるよりも、理屈ではなくお腹の底からの「NO!」が行動に現れるのだと思います。

いちえ

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お知らせ 

◎信州発産直泥つきマガジン『たぁくらたぁ』27号
  最新号が発売されました。今号の特集は「原発再稼働を許すな!デモに行こう」です。
  いつもながら、読み応えのある小雑誌です。
  グラビアに報道写真家、石川文洋さんの「ベトナム・オキナワ・フクシマ」
  特集記事は東京、長野、大飯原発前の各地のデモと参加者の声
  「福島健康調査プロジェクト」からの報告記事も、じっくりと読んで欲しい内容です。
  お求めは下記へ。定価は400円です。
  「たぁくらたぁ編集室」(オフィスエム内)Tel;026−237−8100
                      info@o-emu.net    http://o-emu.net/

◎渡辺一枝トークの会「福島の声を聞こう!vol.3
 日  時:9月28日(金)19:00〜(開場は18:30)
 場  所:セッションハウスガーデン(東京都新宿区矢来町158 二階)
 参加費:1500円(被災地への寄金とさせて頂きます)
 申し込み:セッションハウス企画室03−3266−0461
 受付開始:9月10日から
「福島の声を聞こう!」のタイトルで始めたトークの会ですが、今回は宮城県南の丸森町からゲストスピーカーを迎えます。
丸森町も福島に準じて放射線量の高い地域です。東京からIターンで当地に住んで17年になる太田茂樹さんにお話し頂きます。
チラシを添付しましたので、ご覧下さい。  


更新情報 8月7日号

8月7日
日帰りで南相馬へ行ってきました。
先日の「相馬野馬追」の騎馬武者、村上和雄さんにお話を伺いにいったのです。
野馬追の時にはゆっくり伺うことができず、それで今日(6日)あらためて伺ったのでした。
野馬追のことも伺いましたが、原発事故後のことで伺ってきたことをご報告します。
以前は一家8人で暮らしていました。
村上さんのお母さん、村上さん夫婦、息子さん夫婦と3人の孫です。
「孫と『川』の字になって寝てたんだよ」。
今は3カ所に別れて、離ればなれの生活です。
村上さんと奥さんは原町区の借り上げ住宅、息子さん一家は山形県へ、お母さんは介護施設に入られたそうです。
「家族がバラバラになってしまったというのが、一番悔しいな。あのうちにはもう戻れないだろう。息子たちには住ませられない。自分たちが戻ったとしても、それで終わりだ。おふくろを最後まで自分らが看てやることもできない。借り上げ住宅は狭いからね」。
「春は山菜採り、秋は茸狩り、そんな楽しみや、夏は孫たちと打ち上げ花火をしたり、野馬追の時には近所の〝野馬追仲間〟と盛り上がったし、そんなこともみんなできなくなってしまった」。
原発に奪われた土地、原発に奪われた家族の温もり、原発に奪われたささやかな楽しみ数々。たとえ賠償金が支払われても、それらかけがえのないものはもう二度と戻らない。そんな悔しさを、東電の幹部や政府はわかるだろうか?
村上さんの話を伺った後で、現地ボランティアの荒川さんと一緒にビジネスホテル六角へ行きました。
六角には現地ボランティアの野本内さんも来ていました。
野本内さんが言います。
「この間、栃木の方へいく用事があって行ったんだけど、田圃の稲がだいぶ伸びててね。カエルの声が聞こえたんだよ。しみじみ聞いたよ。あ〜、今はカエルの声が聞こえてくる季節だったんだってね。南相馬では、季節感を感じられなくなってしまった。田圃がないんだから。それで家に帰ってから、東電に電話したんだ。季節が無くなってしまうという感覚を、あなた方は判りますか? ってね。答なんかないよ。申し訳ありませんって言われたって、それだけのことだもんね。むなしいよね。セミの声も聞こえないよ」。
すると荒川さんが言いました。荒川さんは小高区で農業をしていましたが、家も畑も流されました。
「私もいつも思うんだ。あ〜今頃だったら苗を植えていたなとか、今は草むしりしていたなとか。そう、今年はセミの声は全然聞かれない。だって除染で木の表皮を剥いだでしょ。土の表面をけずったでしょ。セミの声は、今年は全然聞いてないよ。いつもだったらここでもうるさいくらい聞こえるのに」。
大留さんも
「そうだよ。今頃は夜になると、ここのガラス戸にアマガエルが何匹もピタッと張り付いてたの。虫を食べに来るんだよね。それが今年は一匹も見ない。アマガエルもいないんだよ」。
みんなの話を聞きながら私は、去年の秋にスズメを全く見なかったことを思い出していました。
スズメはそれからだいぶ経って晩秋に何度か見かけましたが、冬が過ぎて今年はまたほとんど見なくなりました。
カエルもセミもスズメも放射能に被曝していなくなったわけではないでしょう。
でも、原発事故で撒き散らされた放射能が、彼らを南相馬から消してしまったのではないでしょうか?
帰りのバスの発車時刻までまだ時間があったので、六角支援隊の畑を見に行ってきました。
ちょうど夕立が上がった後で、どの畑にも何人かの人が出てきていました。
押し車で来ていたおばあさんは、よく実のいった枝豆を一本根ごと抜いて「ほら、いいのができたでしょ」と嬉しそうに見せてくれました。
また別のおばあさんは、頭の尖った三角のキャベツを「ほら、これは美味いよ」と根元から
切って私に「お土産に」と持たせてくれました。
ビニールハウスではトマトが赤くおいしそうに熟れていて、そのトマトもお土産に頂きました。
畑で会った皆さんは、どなたも本当に良いお顔をしていました。
朝起きて、行く場所がある。今日、する仕事がある。それがこんな良い表情を作るのでしょう。
皆さまの支援で畑は5カ所、そこにビニールハウスは全部で4棟建ちました。
一カ所の畑にはビニールハウスがないので、秋までにそこにも一棟建てたいと思っています。
どうぞ、引き続きのご支援をお願いいたします。
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◎ゆうちょ銀行から振り込む場合
 記号:18220
 番号:5137881
 名前:ゲンパツジコカライノチトカンキョウヲマモルカイ
◎他の金融機関から振り込む場合
 店名:八二八(読み ハチニハチ)
 店番:828
 預金種目:普通預金
 口座番号:0513788
 名前:ゲンパツジコカライノチトカンキョウヲマモルカイ
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原町駅前から福島行きのバスは、夕方6時10分定刻通りに発車しました。
南相馬市内を抜ける時に途中で荒川さんの生まれ育った家の前を通り、大原で村上さんの家の前を通ります。
飯舘村に入ると、菅野さんの家の前を通り、市澤さんの店の前を通ります。
知った人の家を見ながら、するとそこはもう私に関わりのない土地ではなく、私にも大切な場所であったと思うのです。
暮れなずんだ空の下で、灯の点かない家々がただ沈として建つ飯舘村。
ヤマユリの白、ムクゲの白だけが浮かんでいました。
南相馬や飯舘村、他にも福島や宮城で話を聞かせてくださった方達の声、フクシマの声を、私は今週の金曜日にも官邸前で叫ぼうと思います。


更新情報 7月31日号「相馬野馬追3」

30日は「相馬野馬追」最終日で、野馬懸(のまがけ)の神事が行われました。
本来はこの神事、野馬懸が野馬追の始まりでした。
千数百年昔、相馬家の始祖の平小次郎将門が御厨の官職にあった頃、野馬を敵兵に見立てて追い、捕える軍事訓練として始まったといいます。
捕らえた馬を神前に奉じ、妙見神社の祭礼としたのが始まりです。
この野馬懸は旧警戒区域内の小高神社で行われますが、昨年の小規模で行われた野馬追では小高区が警戒区域で立ち入り禁止になっていたため、別の場所で行われたそうです。
今年4月16日に小高区は警戒区域解除になり、境内や参道の除染、地震で倒れた鳥居の復旧をして、二年ぶりに本来の場所で行われたのです。

まず始めに、宮司が境内や関係者を清める儀式を執り行いました。
それが済むと騎馬武者が、境内に設けられた竹矢来の中に裸馬を追い込み、その中の一頭に印が付けられます。
すると白装束に白鉢巻きの御小人(おこびと)と呼ばれる者たちが、素手でその一頭を捕え神前に奉納するのです。
御小人というのは、殿様のすぐ側に仕えている武士たちのことだったそうです。さしずめボディガードでしょうか。
昔は野馬も多くいたのでしょうか、往事は昨日の斎場、雲雀が原から海に出て海岸を走り、小高神社まで裸馬を追いこんだといわれます。
これは直線距離にして6㎞ほどですが、往事の道筋を辿れば12㎞ほどでしょうか。
途中で小高川にかかる野馬橋で休んでから、小高神社へ向かったそうです。
馬はそこで水を飲み、騎馬武者たちも一息ついたことでしょう。
昨年3月11日の津波で野馬橋は流されて半分なくなり、辺りは地盤が沈下して田圃だったところは塩をかぶって白く乾涸びていますが、4月16日の警戒区域解除の日に行った時には、海水が広がっていました。
現在の野馬懸は雲雀が原からではなく、神社のすぐ裏手の下の方から境内に追い込みます。
距離は100mばかり。でもこれは震災前から、既にそうなっていたようです。
昨日は放たれた野馬(と言ってもそう見立てた調教馬ですが)は3頭、追い込む騎馬武者は数騎、御小人も8人でそれを聞いた時にはあっけないような気がしましたが、実際に始まってみると裸馬を素手で捕える様子は迫力に満ちていました。
前日までの騎馬武者の行列や甲冑競馬のように色とりどりの祭事ではなく、白装束というのも、いかにも神事であると思わせました。
神前に奉納する馬を捕らえると、この時のために綯われた縄で作った頭絡や手綱をかけて神前に引いていきます。
その後、同じようにして、他の2頭も捕えられました。
その2頭は奉納が済んでからの「おせり」で、競り市にかけられるのです。
この神事の関係者がぐるりと輪になっているところへ、1頭ずつ引いて来られ「サラブレット、雄、馬齢8歳」などと読み上げると取り囲んだ人たちから声が掛かり、一番高い値段を言った人に買われます。
昨日のこの「おせり」が本当の競り市であったのか、あるいは祭りのための演出であったのかは判りませんが、元は実際にこのようにして競りが行われていたようです。
この「おせり」がいつ頃から行われていたのか、今回は確かめることはできませんでしたが、いつかまたこの祭事の歴史なども詳しく聞いてみたいと思っています。
こうして競り落とした馬は、農耕馬として大事にされたそうです。
お行列や甲冑競馬の野馬追の祭事に出ていた馬は殆どがサラブレットでしたが、何頭かは在来種で体も足も太く、がっしりとした体躯の道産子系の馬たちがいました。
馬や牛と共にあった、東北地方の暮しを思いました。
仮設のお年寄りや、現地ボランティアの六角支援隊の方の話でも、子供の頃に冬になると藁で馬のわらじを作ったことなどを聞きました。
それを聞いた時には深くは気付きませんでしたが、相馬野馬追の祭事を通して見学すると、この地方のかつての暮しをもっともっと知りたくなりました。

相馬野馬追の祭事がすべて終わって、南相馬から昨日戻りました。
今回は仮設住宅を訪問することはできませんでしたが、ビニールハウス、畑の様子を見て、思うことがありました。
昨年中に皆さまにもたくさんの支援物資をお願いして、その後ビニールハウスへのご協力もお願いしました。
仮設住宅や借り上げ住宅で暮らす被災者たちの、日常生活は物質的には何かが足りなくて困るという状況は逸してきています。
けれども多くの方達が、睡眠薬や精神安定剤がないと日々を送れない状態です。
被災された人たちにとって、いま何が一番必要なことだろうかと考えます。
何が一番欲しいのだろうか、と。
少し思うところがあるので、秋になったらグループを組んでいこうと思います。
日程などの計画ができ次第お知らせします。
今日もまた、長文になりました。最後までおつきあいを、ありがとうございました。

いちえ


更新情報 7月29日号「相馬野馬追2」

「相馬野馬追」2日目の今日です。
今日も昨日お邪魔した村上さんのお宅に、朝6時に伺いました。
今日は甲冑をつけるので、身支度になお時間がかかるからです。
2頭の馬への衣装付けは、私が伺った時にはもう既に終えていました。
昨日と同じ方達がお手伝いに見えてのことです。
伺った時には皆さんで朝ご飯を頂いているときでした。
私もお相伴にあずかりました。
朝食が済むと、武者の村上さん父子の衣装付けです。
光一さんにも和雄さんにもそれぞれ二人掛かりです。
昨日の紋付袴姿ではなく、今日は筒袖に野袴です。
脚絆をつけて脛当て、腕当て(と言うのでしょうか? 肩から手首までの防具です)鎧、肩当て、それから真新しいわらじをつけて、手甲。
鎧の腰に真白い晒を巻いて、晒のはちまきを締めます。
言葉で順序を書いていくとあっけなく支度ができたようですが、この支度に一時間ほどかかったのでした。
鎧だけでもほぼ20㎏あるそうですから、武者は暑さと重さで大変なことでしょう。
避難生活をしている村上さんは、甲冑を狭い避難場所に運ぶことはできず、いつもは奥さんの実家に預けてあるそうです。
また以前は馬を飼っていたけれど、原発事故後避難地に移るために手放したそうです。
今回の野馬追で乗る馬は、栃木県の所有者から借りたそうです。
騎馬での出発地点までは車で行くので、兜はかぶらずに車に乗せました。
馬を運ぶ車は一台なので、まず光一さんの馬を運びました。
出発地点で光一さんは兜をかぶり、馬上の人になりました。
鎧の背には、下り駒の絵が描かれた幟旗をさして副軍師の前に進みでます。
昨日同様に「某、中の郷大原中頭、村上光一。出陣の折なれば馬上からのご挨拶失礼つかまつります。本日は副軍師佐藤公信さまのご出陣に最後までお伴いたす所存で参りました」と口上を述べ、副軍師は「ご苦労!」と答えます。
中頭の光一さんは、お使い番の武者から差出されたお神酒を飲み干し、全員が揃うまで馬上で待機しています。
次々に武者が挨拶し、お父さんの和雄さんも馬上で口上を述べました。
挨拶は一人一人違います。台本があるのではなく役柄に合わせて、自分で考えての口上です。
そしてこの副軍師率いる隊は出発しました。
こんなふうにして相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の各妙見神社から出発して集結した騎馬武者は総勢404騎、徒の者504名は雲雀が原の斎場まで進みました。
騎馬武者の中には、鎧の胸に自分よりも年若い武者の写真を飾り付けていた方がいました。
近寄ってお聞きすることはできませんでしたが、もしかすると津波で亡くされた息子さんの遺影ではなかったかしらと思いました。

斎場に続く沿道は見物人がいっぱい。私もそのひとりです。
係の人がマイクで、歩道から路上に出ると危険だからでないように。行列の前を横切らないように。高いところから見下ろす見物はしないように、などの注意を繰り返しています。
また野馬追の歴史などを説明もしています。そうしたアナウンスを聞きながら騎馬武者たちがやってくるのを待っていました。
沿道の向こう側にもこちら側にも黄色い地に黒い文字で「神は永遠です」とか「神を信じなさい」とか「悔い改めよ」などと書いてマイクでもそのようなことを言う集団が居るのです。年末などに街角によく居るキリスト教(ホントにそうなのでしょうか?)です。
何とも場違いな光景ですが、聞けば毎年のことだそうです。
変な宗教団体だと思います。

騎馬武者たちがすべて斎場に集結し、いよいよ甲冑競馬です。
一周1050mのトラックを、騎馬武者は数騎ずつ疾走して速さを競うのです。
軍師が旗を振り下ろすと、スタート地点に並んだ騎馬たちは一斉に駆け出します。
それはそれは、〝血湧き肉踊る〟光景でした。
兜を脱いで白鉢巻きを締めた若武者たちが、先祖伝来の旗指物をなびかせて人馬一体となって疾走するのです。
目の前を馬たちが疾駆していくと、地響きがするのでした。
数騎ずつ、10レース終えて休憩の後では、神旗争奪戦です。
山頂の本陣から法螺貝が鳴り響くと、騎馬武者たちは雲雀が原一面に広がりました。
軍師の合図で空高く打ち上げられた花火が炸裂し、二本の神旗がゆっくりと舞い降りてくるのを目指して数百騎の騎馬武者が駆け出し、鞭を振りかざして、旗を奪い合うのです。さながら戦場です。
旗を奪い取り手にした武者は、山上の本陣に駆け上がり、総大将から褒美を授かり戻るのです。

真夏の暑い日差しをもろに浴びて観戦していながら、つい最近行ってきたばかりのチベットを思いました。
6月中旬から3週間、チベットに行ってきました。
政府による監視、締め付けが一層きつくなっていたチベットでした。
ラサでは、辻々に交番ができていてそこには武警が常駐していました。
たった800mばかりの環状路、バルコルには7カ所の交番と10カ所の警備所が設置され、バルコルに至る8本の小道の入口にはどこも、空港のセキュリティ検査と同様の機械が置かれ、通るには身分証明書の提示が必要なのでした。
チベットにも競馬の祭りはあるのですが、競馬だけでなくさまざまな祭事が政府によって禁じられたり、あるいは見せかけの観光用の祭事にされたりしているのです。
野馬追を観戦しながら、どうかこの祭事がこれからもつつがなく執り行われていきますようにと祈りました。
チベットを思いつつ祈りました。

今日も長文になってしまいました。最後までおつきあい、ありがとうございました。

いちえ


更新情報「一枝通信」7月28日号「相馬野馬追」

ゆうべから南相馬に来ています。
昨日はここに来る前に、福島市のコーヒー店「椏久里(あぐり)」に寄りました。
前回のトークの会『福島の声を聞こう』のゲストスピーカー、市澤美由紀さんに会いに行ったのです。
あの会の時に最後の質問コーナーで、質問ではなく個人的な意見を行った女性が居たのでした。
講演会などで質問ではなく意見をいうことは私は的外れな行為だと思いますが、美由紀さんは「あの後かなり落ち込みました」と言ってました。そして「一枝さん、第2弾をやりましょう。私はまた行きますよ」と言ってくれました。飯舘村の声を聞く会を、またいつか計画しようと思います。
そして次回のトークの会『福島の声を聞こう』、9月28日(金)19:00~神楽坂のセッションハウスギャラリで行います。
ゲストスピーカーは福島の方ではなく宮城県丸森町からお迎えします。
たくさんの方に、ぜひお聞き頂きたいと思っています。
チラシができましたら、改めてご通知します。

さて、今回の南相馬は、「相馬野馬追」の開催に合わせて来たのです。
被災された方達にとって〝ふるさと〟とはなんだろうか? 数百年も続く祭事から、そのことを伺い知ることができないかと思ったのです。
線量が高く居住困難地区になっている大原の方で、騎馬武者になって出陣する人が居ると聞いて、その方に会いに来たのです。
それは村上和雄さん、光一さん父子です。
和雄さんも光一さんも、野馬追出陣のために避難先から駆けつけたのです。
村上さんだけでなく、野馬追に出陣する人の中には避難先からの方達も多いと聞きました。
衣装も馬も津波で流されて、新たに作ったり借りたりという方も少なくないそうです。
今日は私も朝早くに村上さんのお宅へ伺いました。
2頭の馬に衣装を着けるところから見学させて頂きました。中之郷、大原の方たち何人かが来て手伝いながらのことでした。
「一年抜けたから忘れちゃったな」などの声も漏らしながら、甲冑を作る方が〝先生〟になって若い光一さんに教えながら2頭の馬に晴れの衣装を着けていきました。
けれども皆さん、衣装付けの順序や紐の結び方(種類や場所によってそれぞれ変わります)など、体に染み込んでいるのでしょう。
頭で思い出すよりも手が覚えていたというふうでした。
こういうことを言葉で表すのは難しいですが、その皆さんのふとした仕草や息づかいに、また示し合わせてではない呼吸の合い方に、こんな中にも彼らにとっての故郷がある、と私には思えたことでした。
馬に衣装を着せて部屋に戻ると村上さんの奥さんが「暑いですね。窓開けられないからね、線量が高いもの」と言って、お茶をいれてくれました。「測ってみましたか?」と訊ねると「測りません。測ると気になってしまうから」と。
外に出た時に私はそっと測ってみました。玄関先で3.6μSvありました。
馬に衣装を着せていた厩舎の辺りは、きっともっと高かっただろうと思います。

昨年は東日本大震災・福島第一原発事故で開催が危ぶまれたのですが、震災で亡くなった方々への鎮魂と相馬地方の復興を願って規模を縮小して80騎での開催だったそうですが、今年はほぼ例年に準ずる500騎での開催だそうです。
第一日目の今日は出陣式。
村上さん父子や他の中之郷(南相馬市原町区)の騎馬武者たちは太田神社に集結して参拝と祝杯を済ませました。
12時、炎天下の暑い盛り武者も馬も、神主さんや神輿の担ぎ手、旗持ち、陣太鼓、それから見物人の私たちも汗いっぱいです。
軍者が旗を振り螺役が法螺貝を吹くと、いざ出陣です。
騎馬武者たちは馬上から「某◯◯役◯◯◯◯はこれにて出陣いたす」一人一人名乗りを上げて列をなして雲雀ヶ原斎場に向かいました。

この日は朝から路上にはそこここに馬糞が落ちていて、これは数日前からのことだったそうです。
馬も武者も練習のために歩いたりしたのでしょうか。
今日は武者たちは紋付袴、あるいは野袴姿でしたが、明日は甲冑をつけてのお行列と甲冑競馬、神旗争奪戦です。
さぞや暑かろうと思います。
私はこの祭事は、戦国合戦を模す祭事かと思っていました。〝戦い〟ということが主眼の祭事かと思っていたのです。
そうではありませんでした。
元は、名前の通り武者たちが野馬を追って追い込み、その内の一頭を捉えて神馬として奉納するもので、相馬の地が平安で繁栄するように願っての祭事だったそうです。
現在の様に合戦の意味合いが濃くなったのは、明治時代以降のことだそうです。
それを知ってまた改めて「明治維新」の光と陰を思いました。
明治維新から原発事故に繋がる系譜を思うなどは、私の思い過ごしでしょうか?
このことをもっともっと考えていきたいと思った今日でした。

ビニールハウスや畑も全箇所見て来ました。
どこの畑もハウスも、トマトやナス、キュウリ、カボチャ、インゲン、枝豆、トウモロコシ、などなどが見事に実って、一部の畑はもうジャガイモを掘り終えた跡に次に植えたサツマイモの苗が伸びていたり、でした。
こんなに暑い時期ですから仮設の方達は、いつも朝5時頃畑に行っているようです。4時半頃に行く人もいるとのことでした。
私が今日行ったのは昼過ぎでしたからもちろん誰もいなくて、でも真っ赤に売れたトマトを一つもいで畑の水道で洗って食べてみました。
美味しかったこと!
暑い盛りにハウス内でもいだトマトでしたが、トマトって冷やさなくてもこんなに美味しかったんだ!と感激でした。
畑のお陰で、お年寄りたちが生き生きとしていることなども聞きました。
口の悪い大留さんは「だってね、前はしなびたジャガイモみたいだった人が畑をやり出したら新ジャガみたいになってるんだよ」と。
でもまた一方では、まだまだ睡眠薬がないと眠れず、その量も増えていってる人も居ることも聞きました。
それからまた、毎日一組と限らずにお葬式があることも。
これは既に亡くなっていた人のお葬式を出せずにいた遺族が、ようやく気持ちの整理がついてという場合も多いですがこの時期になってなくなる人もまた、増えてきているようです。

被災地は、まだまだ皆さんの支えを必要としています。
どうぞ、お気持ち添わせてください。お願いいたします。

いちえ






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