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更新情報 一枝通信 10月25日号「帰国しました」


19日に、チベット南東部の旅から帰国しました。

◉計画変更
今回行ったのは、雲南省です。
当初の計画ではチベット西部の聖山、カイラス(チベット名:カン・リンポチェ)の巡礼を予定していたのですが、チベット自治区への入域許可証が下りず、雲南省の迪慶チベット族自治州の聖地カワ・カブ(梅里雪山)内院巡礼に変更したのです。
カワ・カブ外周の巡礼路は一部がチベット自治区内を通るため、これもまた許可証が取れず、雲南省内のみが行動できる範囲でした。
当初の目的がカン・リンポチェ行でしたから、10月8日の満月の月蝕を聖山北面で迎えるようにと、9月28日出発で日程を組んでいたのです。
目的地を雲南省のカワ・カブに変更した時には、現地の雨期が明けているかどうかが心配でした。
日本を出発してからも、そればかりが気掛かりでした。
でも3週間の旅行期間中、一日も雨に合わず毎日よく晴れて、しっかり日焼けして戻ってきました。

◉聖山カワ・カブ
カワ・カブ内院巡礼の日々も、青空の下にくっきりとカワ・カブの連山が白く浮かんでいました。
カワ・カブは7つのピークを持つ連山です。
主峰のカワ・カブは雲南省の最高峰(6,740m)で、主峰の妃で女神とされるメツォモ(6,054m)、また5本指のように天を突く岩山のギャルワ・リンガ(5,470m)など、現地に滞在中は雪の聖山を毎日仰ぎ見ていました。
内院巡礼の一日目は、海抜2,000m足らずの西当村から3,900mの峠を越えて、レクバム(下雨崩村)のゲストハウスで一泊。
翌日はそこから森林帯を抜け、メツォモの姿を仰ぎながら牧草地帯を行き、ギャルワ・リンガ直下の聖なる滝へ行き、冷たい滝水に打たれて、宿に戻りました。
ゲストハウスで一緒になったラサからの巡礼者も、徳欽のチベット僧に案内されて来ていました。
レクバムからメロン(明永村)へは、車で移動。
メロンはカワ・カブの氷河の下にある村です。
1991年1月、梅里雪山初登頂を目指していた日中合同登山隊が雪崩に遭い、隊員17名全員が命を落としたことで知られるようになった地です。
メロンの知人宅に泊めていただき、翌日は氷河近くのメロン・ゴンパを訪ねました。
そしてもう一泊知人宅でお世話になり、シャングリラ(香格里拉)へ戻りました。

◉シャングリラ?
私は12年前にも昆明から陸路でラサに行き、そこからカン・リンポチェへ行ったことがありました。
今回通った香格里拉、徳欽、飛来寺は、その時にも通っていた地です。
香格里拉はギェルタン(チベット名、中国名は中甸:チュンディエン)、徳欽(デチェン)はジョル(チベット名)で通じていましたが、今は誰もがギェルタンをシャングリラと、ジョルをデチェンと呼んでいました。
観光政策に力を入れる政府によって、ジェームス・ヒルトンの小説の舞台になった理想郷はここであると、ギェルタンはシャングリラに改名されたのです。
以前に私が行ったのは、改名直前の頃でした。

道中の風景も、またシャングリラの町も、大きく様変わりしていました。
変わったのは、風景ばかりではありません。
今回の旅行期間の前半は、中国のゴールデンウィーク(10月1日の国慶節からの1週間)と重なったため、どこも中国人旅行者で溢れていました。
格差は大きいとはいえ、経済的に豊かに伸びている人々の暮しぶり、衣食住の変化など目を見張るようなことも多々ありました。
ただ、これは中国だけでなく日本でもよく感じることですが、経済的に豊かになって物が溢れることが、果たして幸せなのか? とも思うのです。
香格里拉が、本当にシャングリラになり得るのかどうか?余所事では無く私自身の問題として考えていきたいと思います。
干支の一巡り前に泊まったギェルタンの宿の主人は、チベット人でした。
まだ草も萌えない4月のことでしたが、彼は言いました。
「もうじき草原は緑になり、野にも山にも花が咲く。
 本当にきれいなところなんだ。
 今度は、そんな時期においでよ。
 政府はシャングリラと名前を変えるそうだけど、まったくここはシャングリラだよ」
香格里拉は町が大きく広がり、車の往来が繁く、今年の1月に大火で消失した旧市街地はまだ復旧していませんでしたが、やがては静けさとは無縁な麗江の旧市街やあるいは日本の京都清水寺のような一大観光地とされるようです。

◉少数民族
中国は大多数を占める漢族の他に多くの民族が住んでいますが、雲南省にはチベット・ビルマ語系やミャオ・ヤオ語系、カム・タイ語系の諸民族が住んでいます。
今回も独特の大きな黒い帽子のイ族のおばあさんや、独特のターバンを巻いたミャオのおばさんたちに会いましたし、途中で昼食を食べた食堂の女主人はリス族でした。
ナシ族の居住域の麗江では民家の屋根瓦の上に、沖縄のシーサーに似た焼物の動物が飾り載せられていました。
表を向いた正面の顔は大きく口を開け、門内に向けたお尻には穴が開いていて、福を呼び込む招福の「ワァマ」と呼ばれるものです。
残念なことに以前よりもさらに、独特のトンパ文字を解読できる人は少なくなっているようで、トンパ文字を見かけることも少なかったです。
大理はペー族の居住域ですが、彼らに伝わる藍の絞り染めは技法がさまざまに増えていました。
藍染めは世界各地にありますが、場所によって染料にする植物は異なります。
日本では沖縄を除いてはタデ科のタデアイですが、沖縄の藍染めはキツネノマゴ科のリュウキュウアイを使います。
大理の藍染めもキツネノマゴ科の藍草を使っています。
中国の大躍進や文化大革命の時代、藍草の畑は穀物畑に変えさせられたのですが、一人の老人がこっそりとわずかな土地で藍を育てつづけていたそうです。
その後の時代の変化によって、老人が守り育ててきた藍草はこの地で広く栽培されて、再びペー族の伝統を伝える力になっていったようです。
同じような話を私は四国歩き遍路の折りに、徳島で聞いた事があります。
どこの国も権力がその強権を振るう時に、同じようなことをすると思いながら大理の藍畑の話を聞きました。
濾沽湖(ルークーフ)では、モソの人たちに会いました。
ここは9年前に訪ねたことがある地です。
前に訪ねた時にも、また今回もモソの人たちに言われましたが「私たちをモソ族と言わないで欲しい。私たちはモソ人だ。モソ族というのは政府がそう言っているだけで、私たちはチベット族のモソ人だ」と。
モソはナシ族の1グループで、公認の少数民族ではないとされていますが、モソの人たちは、自らをチベット族だと言います。
ナシ族もチベット系の民族ですから、モソの人たちはそれを言っているのかもしれません。
モソは母系社会で、男が娶ることをせず、女が嫁ぐことをしない通い婚社会でしたが、そうした風習も政府の指導で変化しているようです。

◉鶏足山ほか
今回はチベットの聖山巡礼といっても雲南省内だけでしたから、”チベット度”はいささか薄い旅でした。
それでも麗江ではチベット僧院を訪ねリンポチェにお会いし、また大理では中国五大仏山の一つである鶏足山も訪ねました。
そして、そこでもアムド(青海省)からのチベット人巡礼やセタ(四川省)のラルン・ガル・ゴンパの僧に会い、山中のチベット仏教に縁の場所を訪ねました。
濾沽湖でもチベット寺院を訪ね、行く先々でチベットに触れることができました。
そう考えると”チベット度が薄い”というよりも、奥深く隠れているチベットに出会う旅であったかと思います。

日本から同行の友人二人と、昆明から同行のチベット人友人二人、誰も病気も怪我もせず元気に帰宅できたことが嬉しいことでした。
この通信には書けませんが、また思うことも多い旅でした。

◉帰国早々、ぶさこちゃんが!
南相馬から、新たなぶさこちゃんが届きました!
みなさまにご覧頂けるのを、楽しみにしています。            

いちえ

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