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2015年11月7日号「10月24日集会報告①」


10月24日(土)、白馬村の「深山の雪」で催された集会の報告です。
発言をそのまま文字起こししましたので、とても長くなりました。

いちえ

大留隆雄さんの話

10月24日(土)、信州白馬村の「深山の雪」で、【原発事故の時代を生き抜く〜深山の雪で、膝を交えて話そう〜】が開かれました。
主催は「深山の雪」と『たぁくらたぁ』編集室、司会は『たぁくらたぁ』編集長の野池元基さんでした。

メインゲストは、南相馬で私がいつもお世話になっているビジネスホテル六角の大留隆雄さんでした。
会は3部構成で1部「大留さんの話を聞こう」、2部関口鉄男さん(環境科学者)と私も加わって、3人でのトーク、夕食を挟んで3部は、のんびり話をする交流会でした。
この日に大留さんが大学生たちに話したことをより多くの方たちにも知っていただきたくて、当日の大留さんの話をそのままここに記します。

︎司会の野池さんからの、大留隆雄さんの紹介
大留さんは南相馬のビジネスホテル六角をやっていますが、原発事故の後20キロ圏内は警戒区域ということで、大留さんも一時は避難しましたがすぐに戻って、現地ボランティア「六角支援隊」として被災者への支援活動を続けてきました。
現在まだ福島がこうした状況下ですから、本来なら福島をテーマに六角支援隊がどんな活動をしてきたかを話していただくのですが、今日はそのことも話していただきますが、それより以前の暮らしや活動、生地の北海道から出てきてから六角支援隊の活動に繋がるまでを話していただきます。
現在の場所でそば屋からビジネスホテルを始めて、産業廃棄物処理場建設反対運動に関わり、そういうネットワークがあって原発事故後の支援活動になっていきました。

◎大留隆雄さんの話
*冬は毎晩オーロラが見えた
僕は昭和13年(1938年)北海道の帯広、大雪山の麓の糠平温泉の近くで生まれ、23歳までそこに居ました。
いま77歳ですが、生まれた頃というか子どもの頃のことを話すと、その頃の冬は雪が2〜3mも積もったし、気温も零下30度近くになります。
雪が凍って、外の五右衛門風呂から出て家の中に入る時にたった10mばかり歩く間に、手ぬぐいがカチンカチンに凍ってしまうほどでした。
家も粗末で、窓なんか見なくても星が見えました。
木の板の壁でしたから、木の節が取れちゃってその節穴から、夜は星が見えました。
節穴から雪が吹き込んでくるので、冬はその節穴を棒とかボロ布で塞いで、そうやって暮らしていました。
11月頃になると、夜の11時頃には北の空にはふわぁ〜っと綺麗にオーロラも出てね、天気が良ければほとんど毎晩見えましたよ。
今はあんまり見えないみたいですね。
どこか北欧の方に行かないとオーロラは見えないなんて言われていますが、僕は毎晩のように見ていました。

*トウモロコシの皮で編んだ靴で通学
その頃、子供の頃は学校に行くにも、靴はなかったです。
ゴム靴なんか買ってもらえるのはある程度お金がある家で、僕らは親がトウモロコシの皮で編んでくれた草履みたいな靴を履いて行ったものです。
4月は足の下は雪が固まって堅い道だけど、その下は雪解けでゴォっと水が流れている音がするような道です。
そういうところを学校まで歩いて行くのですけど、だいたい片道2キロぐらいです。
2キロも歩いていくと、トウモロコシの靴を履いていくと、帰りに履けなくなっちゃうのです。
学校に着くと、足はベシャベシャで冷たいからストーブにかざして温まって、靴はそっちの方に置いておくんです。
そうすると靴っていうか草履は、カチンカチンに硬くなってしまって、帰りには履けないのです。
帰りはもっと雪が溶けてグシャグシャの道になっているから、帰りにそれを履いて帰りたいから、行きは草履を履かないで裸足で行くのです。
そうして、帰りにそれを履いて帰ってくるのです。
1年生からそういう状態でしたが、それを苦しいとも辛いともあんまり思わなかったです。
そんなものだと思っていましたから。
我々が生まれた頃の状況は、そういうところから始まっているのです。

*「おしん」より辛かった?
だから小学校の1年生に上がる頃には既に、牛とか馬とか綿羊とか山羊などに餌や水をやって、それから学校へ行きました。
僕は、きょうだい8人の上から2番目で上は姉で長男だったですから、家の仕事はほんとによくやりました。
だいたい上から3番目くらいまでは、よく働くのです。
すぐそばに、そうですね20メートルくらいのところに小川があって、そこからバケツに水を汲んで、動物に与える。
子どもの頃だから天秤棒かついで川から坂道上ってくると、チャポチャポ水がこぼれるじゃない。
こぼれた水がだんだん凍って滑って歩けなくなるから、凍った道を鉞でカチャカチャやって傷つけて、滑らないようにして、川から水を運びました。
馬の場合は水をやらなくても、そこら辺の雪をバケツに突っ込んでおけば、雪を舐めるから大丈夫です。
ところが牛は乳を絞るから、ある程度の水をやらないと乳が出ないんですよ。
牛乳が出なくなると、親はまた水をやらなかったんじゃないかって判って、怒られるんですよ。
だから一生懸命水を汲んでやったんですけどね。
だけど牛の顔って、こんなに大きいでしょう?
バケツに顔突っ込んで、ズズズ〜ッてやったら、せっかく汲んできた水が一回で空っぽになっちゃうのです。
だから何回も川まで往復して水を汲んでね、飲ませるのです。
牛は3頭か4頭しかいなかったけれど、ずっとそんなふうにして生活してきました。
「おしん」ってドラマがあったでしょう?(参加者の大学生たちはキョトンとした顔で、誰もこのドラマを知りませんでした)
え?「おしん」知らない?
ああ、「おしん」のドラマみんな知らないのか。
「おしん」を見た人は判るんですけど、(おしんは)人に預けられたり、苦労して大変だったっていうドラマが世界中に流行って、いま東南アジアなんかどこ行っても誰でも「おしん」を知っています。
日本のドラマっていうと、「おしん」って有名です。
「おしん」と「貞子」は、みんな知っていますよ。(参加者から笑いが漏れました)
あ、「貞子」って判りますか?(大学生たち、みんな知っていて頷きました)
(注:大留さんはちょくちょく、家族にも言わずにふらっと東南アジアへの旅に出かけています。この旅話がまた、とても興味ぶかいのですが、この日も後でほんの少しだけ旅の話が出ました)
そんな子供時代でしたから「おしん」の辛さなんて、ぜんぜんたいしたことじゃない、僕らの方がずっと辛かったと思っています。
だけど今考えると、確かに辛かっただろうなと思うだけで、その頃は辛いなんて思ったことなかったです。
ですから今の世代に生まれて、なんでもある、美味いものでもなんでもあって、どれが美味いんだか判らないくらい美味いものがあるわけだから、そういうところに生まれてきたら、それが土台になっているわけね、その時代に生まれた人のネ。
我々はずっとその下で、木で言ったら根っこの下の方の状態から這い上がってきているわけです。
ですから辛さっていうと、何が辛いんだかっていうと、自分の家族が流されたとか、死んだとかいう、そういう辛さは辛いと思うけれど、仕事が辛いとかは思ったことがないですね。
精神的な辛さっていうのは誰でも同じだと思うけれど、肉体的な辛さっていうのは今まで思ったことがないです。
鈍感なのかもしれないけど。

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