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2015年12月25日号「12月20日小海町で⑤」


飯舘村の方達からお聞きした話、続けます。

◎菅野栄子さん 80歳
飯舘村佐須地区で農業をしていました。
私は栄子さんにお会いするのはこの時が初めてでしたが、以前から是非お会いしたいと願ってきた人です。

◎菅野栄子さんの話
●貧しくても夫婦で子育てできる幸せ
どんなものでもそうだが、ものを作るということは、作る人その人その人の個性と心が映る。
視点がどこにあって完成したか、ということだ。
完璧などということはないだろうし、自然を相手にしていくのは難しい。
農業は、神様が授けてくれた職業かなと思う時がある。
一年一年、50年も60年も一筋に生きてきたが、「良かったな」と思う年もあれば「また来年にかけよう」と思ったことの方が多く、それが人生なのだろう。
そう思って生きてきたのだが、ここに来て放射能に出会ってしまった。
あれは、まるで戦争と同じだ。
終戦は小学校の3年生の時だったから、戦争中の体験もしていて広島に原爆が落ちた記事も新聞で読んだのを覚えている。
父親が兵隊に行ってたから、家は母と慶応生まれのばあちゃんと3人暮らし、子供ながらに父の安否が心配だった。
あんな不安な思いは、誰にもさせたくないという経験だ。
そんな経験してきて戦争は絶対ダメだと思っていたから、憲法9条で日本が戦争をしない国になったって知った時は、子供心に嬉しかったよ。
私たちの時代は、貧しくても夫婦揃って子供を育ててくることができたのは、幸せだったと思う。

●葛藤が始まってる
仮設閉鎖後はどうするか…これからの大きな課題で、自分の心と自分の生き方と諸々を含めて、葛藤が始まっている。
原発事故の後、「避難は2年くらいの間になんとかするから出てください」と言われて飯舘から出たが2年が3年になり、4年になり、もう5年になる。
その月日のうちに心も揺れ動くし…もう帰れないって思ったよ。
放射能が飛んできて飯舘村は放射線量が高いから、もう住めないと思い、ホットスポットという言葉を知らなかったけれど避難している間にいろいろな情報が入ったりいろんな人に出会ったりして、ああ、もうこれはダメだ帰れないんだと判った。

●被災前の暮らし
被災前の家族構成は私ら夫婦と息子、介護が必要な姑の4人だった。
夫は、体も弱く丈夫ではない息子には百姓は無理だろうと思っていたし、息子自身も”風来坊”だった。
夫が病気になって平成22年の田植えは誰かに頼もうとしたのだけれど、父親が倒れたのを契機に、息子は「俺も百姓やる」って言い、それで「知り合いに教えてもらってやるからやってみろ」と言って、息子は百姓やることになった。
そして近所の仲間に教えられて、種籾播いて苗を作ってなんとかかんとかやって、けれどもその年の7月に夫が亡くなった。
そして秋になって、近所の仲間に教えられながら収穫も息子がやった。
息子は収穫の喜びも、農業の厳しさも初めて自分で経験しただろうと思う。
息子には何も言わなかったが、それは息子にとってこれからの人生の試練だと思って23年を迎えた。
年が明けて1月に、10年間介護をしてきた姑も亡くなり「みんな終わった。ああ、これからどうしよう」と自分に気がついた時には39歳の息子と二人残されていた。
原発事故が起きたのは、その年の3月だ。

●酪農に切り替えて生きたが
私ら夫婦は土に生きて飯舘の農業を背負って、どういう生き方をしていこうかいう中で、冷害常襲地の飯舘で米とタバコを主幹作物としてやってきたが、夏場の作物に頼っていたのでは冷害常襲地では立ち上がれないし決まった収入を得られないと、結婚して間もなく酪農に切り替えてみようと、夫と二人で畜産を始めた。
それから46年と6ヶ月は酪農人生だったが、70歳を契機にもう体力の限界だと思って廃業した。
いろいろ経験したり、いろいろな人に出会ったが、そんな中で農政の移り変わりもあったし国の指導に基づいて設備投資もしてきて、負債も抱えた借金ダルマの人生だった。
乳価が高い時期に計画をたてて規模拡大もしてきたものが、貿易の自由化で乳価がどんどん下がり、そうした中での酪農は並大抵ではない、動物を相手に生きるなんていうのは本当に大変なことだ。
生き物との生活は楽しみもあるが、牛と共に生きるなんていうのは5年や8年で成果を見ることなんかできない。
牛の改良に取り組まなければならないし、もしいま酪農を始めると言ったら億の金がないとできないだろう。
品種改良・育種改良といったら何代もかからないとできない。
北海道の大酪農家などは幾代もかかってビクともしない世界的な酪農家が出来上がったという歴史があるが、私はそういう中で一つの自分の足跡を残しただけだが、土地があったからなんとか切り替えて、それなりに食べていくだけの収入を得る工夫はできた。

●原発事故が起きて
そこに、この原発事故だ。
幸い「百姓やる」と言った息子と二人残ったが、事故が起きた3月は、田植えができるかできないか、ギリギリの線で農協も役場も農家も苦しんだ。
通常なら4月20日頃水稲の種まきをしなければならないが、4月17日18日に「米はダメだろう」となって、準備していた種籾は、農協が全部引き取った。
そういう経緯だが、それからいろんな人がやって来た。
メディアや学者の先生方、自然環境を研究している人や、村作りに協力してきた人や、来て下さいと私らが頼まなくても、いろんな人がいっぱい来た。
なんで来るのかな?と思っていたけれど、日が経つうちに話を聞いたり自分でも勉強するうちに、正体は判らないけれど放射能のことやホットスポットなど危険性が判ってきた。

●息子の結婚
原発事故が起きる少し前のことだが、ちょっとしたイベントがあった。
以前から村には「余計なお世話の会」というのがあって、役場と農業委員会や有志が、農村の良さをPRしながら農家の後継者と都会の若者との出会いの場を作ってカップルの誕生を促す取り組みをしていた。
農業委員会長が息子に、そこに参加するように言ってきた。
会長は親戚でもあるし、百姓面でも世話になっている人だったので断りきれずに、息子は参加した。
その後息子は何も言わないし私も何も聞かなかったが、東京にいる娘からも聞かされ、また私自身も付き合っている人がいるらしいことを薄々気付いていた。
二人が付き合っているうちに、原発事故で飯舘村が騒がれるようになった。
だから私はもうこの話はダメだと思っていたが、相手の女性は場所ではなく人で判断してくれて、事故の年の12月4日に結婚式を挙げた。
相手の人は埼玉の人だ。
風来坊で婚期も遅かった息子は福島でインターネット関連の仕事に就職し、結婚してアパートを借りて嫁さんを迎えた。
旅館で避難生活をしていた私は、会津の友人から「栄子さん一人ならこっちで暮らせるからおいで」と言われたが、息子も結婚してこれからは一人だから、自立して生きていこうと思った。
行政の情報が入らないと判らなくなるから行政の指示に従って避難しようと思い、一時避難の旅館から、今の仮設住宅に入った。
2年が過ぎ、放射能のことも勉強し、ホットスポットという言葉も判った頃には、ああ、もうダメだと思った。これではもう、飯舘村での農業はダメだと思った。

●家族制度を考える
月日が経ち、その間ずっと考えてきて来年・再来年と避難解除の時期が近づいてきたらますます不安は募るし、人間の一生のあり方、生き方が問われる時代だと思うようになった。
日本の家族制度の中で大家族で住んで、じいちゃん、ばあちゃんが居て三世代・四世代も同居しているのが当たり前の幸せな家庭で、農家はそれを継続していくことが格のある立派な家系・家庭だと思ってきたが、この放射能でそういう思いが一変した。
放射能の受け止め方は千差万別で、一人一人考え方が違う。
「放射能はこういう正体で、こんな影響があって、最終的にはこうなる」などと、統一した見解を正確に私たちに示しているものは何もない。
政府が言うことも、学者が言うこともみんなバラバラだ。
その中で私たちは生きていくのだから、そういう中でみんな一緒に同じ考えで行こうということはできないと思う。
仮設住宅の仲間たちにそんなことを言ったことはないが、放射能の被害が長引くことで学者も科学者も本音を言わなくなった。
判らないから、言えないのだろう。

●飯舘の家に関して思うこと
飯舘の家は終戦後、昭和23年頃に建てられたらしいが、飯舘の佐須の山で育まれた木材で建てられている。
新建材の今時の家とは違って、木造総二階の農村造りの家で、十畳間が2部屋も3部屋もあり、大きな梁で土台は六寸角の木でまわしてあり、柱も六寸角の木で通し柱も何本もある昔造りの家で、戸障子も木で造られている。
そういう家だからすぐに建て替えるような家ではなく、100年も150年も持つような家で、二代も三代もで住み続けられるように造った家だ。
長屋という屋号持ちの家で、今の村長の菅野家の分家になる。
本家は山持ちで、遠くから来る林業の出稼ぎ人たちの泊まるところとして長屋を建てたが、出稼ぎ職人の泊まる文字通りの長屋だった。
じいちゃんが嫁を貰って本家を出、その長屋を分家とした。
子供(のちに栄子さんの夫になる人)が生まれたが、その頃の家は風が吹くと他所の家に泊まらせてもらいに行くような普請だったが、本家から、木は家の山にあるからそれを使って家を建てるように言われ、木をもらって建てた家だ。
娘たちも息子も、家を壊して更地にした方が税金がかからないし、土地だけの方が売りやすいと言うが、私が建てた家ではなく先祖が建ててくれた家だ。
放射能で避難することになったからといって、その家を壊して新天地を求めていくなんてことはできない。
家ができて70年も経ってるが、材木にした木はそれよりももっと長く、100年もそれ以上もかけて育てられてきた木だ。
それをぶっこす(壊す)ことなんてできない。

●侮辱されている飯舘村民
でも、飯舘に住むということは、この原発事故を起こしたことをウヤムヤにして帰村させられるということは、それを容認することになる。
原発は廃炉にする、脱原発にするという政治の指針、目標があるなら別だが、私たちに被災させて被害を加えておきながら、「飯舘は5ミリシーベルトで我慢しましょう、10ミリシーベルトでも死にません、100ミリシーベルトでも直ちに影響はありません」なんて言う中で、帰村宣言したから帰っていらっしゃい、帰ってきたらこうしてあげます、ああしてあげますなんて言ったところで、そんな所に私が帰って住むなら、その諸々の条件を認めたこと、容認したことになるじゃないか!と私は考える。
説明会に行くと環境省の職員と対面する席を作っておいて、向こう側に座った職員は、正々堂々とそう言うんだよ。
昔の言葉で言えば、環境省の職員は役人でしょう?
それが平民の私たちに正々堂々と言うんだよ。「5ミリなら大丈夫、10ミリでも死にません」って。
公的な立場の役人が堂々とそんなことを言えるっていうのは、全く私たちを侮辱してる!
私は、そう思う。
そんな中に帰っていくということは、私には3人の子供と6人の孫がいるが、孫たちが大人になった時に「うちのばあちゃん、その時どんな判断したんだろう?」って言われるんでないかと思う。
原子力の平和利用といって原発に手をかけて日本の経済大国を作ってきた企業と政治家、まぁ国民にも責任はあると思うが、私たちもそれを容認して作ってきたから責任がないとは言えないが、世界に類のない大きな事故を起こしたことに対しての終結の言葉が、「100ミリシーベルト以内なら直接影響はない」なんて言えると思う?
環境省の職員の言葉には、飯舘村民はみんな、苛立ちを感じているよ。
IAEAも、全世界の人類、動植物は1ミリシーベルト以内で生きましょうと方針を出しているのに、飯舘村はなんぼ頑張って除染しても1ミリシーベルトになりません、5ミリシーベルトで我慢しましょう、20ミリシーベルトでもいいですよって。
その言葉にはみんなカッカ、カッカしているよ。
今になってみれば、だいぶ言葉を選んで言うようになったけれど、どんなに言葉を選んでも私は前に言った言葉を聞いてしまっているからね、言葉を選んで言ったって逃げ道を作っているだけにしか思えないよ。

●凛として生きる
科学者も平和利用のためにと、政治家も国民の貧しさを見ていて、両者とも世界の大国と肩を並べていかなければという望みがあったからエネルギー源を放射能に求めることに目を向けたのだろう。
でもその時には、原発を動かす科学者を抱えているのなら、原発から放射能が出た時に完璧に除染できる科学者を育ててから手を出すべきだったと思う。
除染する方法は、絶対にないって、世界中の科学者はみんなそう言っている。
世界が掌だったらその小指の先ほどの日本で、自然がある過疎地だからいい、海があるからいいと言って54基もの原発を作って、事故を起こして今になって20ミリシーベルトだとか、500ミリシーベルトで我慢しろなんて、よくそんなことが言えると思う。

まぁ、子どもには子どもの生活のリズムがあり、それぞれに自分の本当の一生を自分らしく生きていくだろう。
自分らしく生きるってどういうことかと考えるが、私はできるところまで自然の中に身を置いて、自立して生きていこうと思います。
凛として生きていこうと思います。

★私が栄子さんに会いたいと願っていたのは、パレスチナの女性や子どもたちに密着して映像に記録してきた古居みずえさんが新たに取り組んでいる映画『飯舘村の母ちゃんたち』のダイジェスト版を2年前に見た時からです。
そこに菅野栄子さんが出ていたのです。
私は、古居さんのこれまでの作品『ガーダ パレスチナの詩』や『ぼくたちは見た ガザ・サムニ家の子どもたち』などで古居さんの視点に共鳴していました。
『飯舘村の母ちゃんたち』のダイジェスト版を見たすぐ後から、ガザでの空爆が始まったりして、新作の完成は遅れていましたが、この春公開されるようです。
公開情報が届きましたら、またお知らせします。
ぜひご覧いただきたいです。

小海での飯舘村の方からの話、もう1通追ってお送りします。 

いちえ

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