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2017年12月27日号「12月18日南相馬」


18日南相馬へ行ってきました。
今回も福島駅からは、福島交通のバスで、終点の原町駅前で大留さんが待っていてくれました。
●「7年は長いよ」
 この秋は、帯状疱疹をこじらせて体調不調が続いていた大留さんの運転する軽トラで、仮設住宅へ向かいながらの会話です。
*一「具合はどうですか?」
*大「まぁまぁだね。だけど無理はできなくなったね。明後日誕生日がきたら80だからね。だけど調子がいい時は、80なんて全然思えないんだよね。60くらいのつもりなんだよ。でも、やっぱり無理は効かないね。前みたいな勢いはなくなった。年齢は正直だね。順調に進むよね。逆戻りはしない」
*一「そうですよね。私も、例えば歩く速度が遅くなったなぁと自分でも感じるし、自分が思っているよりも、体のほうは確実に歳を重ねてますよね」
*大「一枝さん幾つになったの?」
*一「年が明けたら73です」
*大「僕が一枝さんの歳の時、震災だったんだよ」と。
 7年の年月をしみじみ振り返りながらの、走行でした。
と言うのも、前の晩に寺内塚合の天野さんから電話があったのです。
前回訪ねた時に天野さんから頼まれた買い物があって、それを届けに18日に行くことを伝えてありました。
電話口で天野さんは「寒いから無理して来ないでね」と言いつつも、さらに言葉をつなぎます。
「こんなに長いことお世話になって、何にもお礼もできないで。たくさんの人にお世話になったのに、何にもお返しができない」と繰り返すので、私もまた、誰にもお返しやお礼は必要なく、ただ天野さんたちが元気で過ごしていてくれることが、一番嬉しいことなのだと繰り返すのですが、そのうちに天野さんの声は涙声になったのです。
 以前にも夜に電話があった時には、やはり最初は普通に話していても次第に泣き声になってしまう天野さんでした。
こんなことはこの1、2年のことで、それより前は泣いたりすることのなかった天野さんです。
また前回の訪問時は私の友人たちも一緒だったのですが、その時にもみんなで話しているうちに天野さんは泣き出したのでした。
 仮設住宅に向かう車の中で大留さんに昨夜の電話での天野さんのことを話すと、「7年は長いよ。誰もこんな風になるとは思っていなかった」という大留さんでした。
「だからね、僕も時々行って笑わせてやらなきゃと思ってるんだよ。笑ってなきゃダメだ。心配ばっかして、下向いてたんじゃダメだ」
そんなこんなを話しながら、寺内塚合仮設住宅に着きました。
●笑いが溢れた談話室
 談話室には社長こと菅野さん、山田さん、そして営業部長こと天野さん、いつもの3人が居ました。
3人の元気な姿を見るなり大留さんの一声、「ああ、香典持ってこないでよかった!」それでもう、みんな大爆笑でした。
大留さんって、つくづく素晴らしいキャラクターだと思うのはこんな時です。
大爆笑のあと、体調はどうなのかと天野さんに問われて大留さんは、だいぶ治って元気だと答え、車の中で話したと同じように20日の誕生日を迎えると80歳だけど、元気な時は60歳の気分だと言い、またみんなの笑いを誘いました。
 大留さんが歳の話をしたものだからみんなも年齢を明かして、菅野さんが86、山田さんが84、天野さんが83と言うと大留さん、「みんな80過ぎてたら、いつ行ってもおかしくないんだよ。行きたくないって言ったっていずれみんな行くんだから、先のことをくよくよ心配してちゃ損だよ。心配したって心配しなくたって同じに行くんだからね」と言うのでした。
全くこんなことを普通に話せて、言われた方も普通に受け止められるのも、大留さんだからこそだと思いました。
 私は、友人の野池さんから聞いた話をしました。
お連れ合いは沖縄の人で、そのお母さんが95歳で亡くなり野池さんは葬儀に行ってきたのです。
告別式では紅白饅頭が配られたことを、野池さんから聞いていました。
95歳まで生きた長寿を、目出度いこととしての風習でしょう。
それを話すと菅野さんも天野さんも山田さんも、口々に「私らのとこでは80過ぎて亡くなった人は、紅白の餅を配ったな。49日には紅白の手拭い」と言うのでした。
最近は見られなくなったと言いますが、少し前まではこの辺りでもそういう風習があったようです。
 紅白の餅が配られる年齢の仲間入りをした大留さんが、また言いました。
「目出度い歳まで生きてきたんだから、もう自分のことだけ考えていればいいんだよ。残った人のことは心配しなくてもいいんだ。
社長(菅野さんのこと)みたいにデンと座って、お釈迦様みたいな顔してたらいいんだよ。見てごらん、社長は本当にお釈迦さまみたいだよ」
それを聞いてまたみんな大笑いでしたが、言われてみれば本当に、太っていて柔和な顔つきの菅野さんは、お釈迦様然として見えます。
しかも菅野さん自身が言うのです。
「私、本当にお釈迦様みたいなの。動けないから座ってて、みんな人にやってもらって。誰かに何か頼まれても、私は『やんだ。できねぇ』って言うと、やってくれっからね」
太っていて足腰が不自由で立ち居振る舞いも大変な菅野さんは、談話室に来るのも娘婿さんが自宅から送ってくれて、談話室に着くと天野さんが出迎えて手を引いて椅子に座らせ、帰る時もまた娘婿さんが迎えに来ると天野さんに出口まで手を引いて送られて帰るのです。
●とりあえずの生
 6人だった仲間が3人になったけれど、ここに来れば不安な思いで過ごした日々を共にした仲間がいる。
今も一人でいれば不安は尽きないけれどここに居れば、訪ねる人がなく3人で過ごす時も話し相手が居るし、笑いも起きる。
でもいずれは、ここに集うこともできなくなるのは解っている…
入居期限は2019年3月末まで伸びたけれど、その後は。
私は、以前に取材で旧満州を訪ねていた時に、残留邦人の女性が言った言葉を思い出します。
「とりあえず、生きてます」
笑いの向こうに、「とりあえず生きている」天野さんの涙があるのです。
「来年も来ますからね。風邪をひかないように気をつけて、どうぞ良い年を!」と挨拶して、談話室を辞しました。
●追い出しの声は
 寺内塚合も他の仮設住宅と同様、残っている人はわずかになっています。
他の仮設住宅では、入居者に退去予定を問う電話が度々かかってくるらしいですが、ここにはそれはないと聞きました。
それが、せめてもの慰めでしょうか。
仮設住宅居住者ばかりでなく他の地で避難生活を続ける人たちにとっても、心置きなく今の住まいに住み続けられることが保証されて欲しいです。
原発事故を起こした国と東電の責任として、被災者に「住の安心」を保証すべきではないでしょうか。
山形の雇用促進住宅入居者に対しての追い出し裁判など、到底許すことはできません。
●「いととんぼ」で
 「いととんぼ」は2004年8月に原町区の江井(えねい)に、地域の田中京子さんたち女性4人が開いた農産物と加工品の直売場でした。
それが2011年3月の原発事故で、閉店を余儀なくされました。
江井は原発から20キロ圏内です。
南相馬市議としても活躍している京子さんですが、震災直後から「必ず再開する」と心に誓っていました。
原発事故で放射能の影響があるから無理だと言われながらも、諦めずにチャンスを待っていました。
そして被災から4年後の2015年9月に原町区の北原に、食堂と農産物及び加工品直売店「株式会社いととんぼ」が再開したのです。
従業員はみな被災当事者たちで、店で働くなど初めての人たちばかりでした。
 再開した店では安全な食べ物しか売らないと、食品の放射線量を測り生産者の名を表示して売っています。
例えば「ちよこばあちゃんの餅」や「佐藤さんの梨」などと表示して。
でもすぐ近くに大きなスーパーと併設の食堂があるので、果たして営業が成り立つだろうかと案じながら、時々いととんぼを訪ねていました。
京子さんは、「私はここに住むし、ここに住む人たちがいるのだからその人たちのためにも、少しでも復興に向けて前に進みたい。安全で安心なものを作って欲しいし、食べて欲しい。そうやって一歩でも前に進みたい」と言うのでしたが、いつ訪ねても閑散としていて、案じていたのです。
●常連客もついて
 お店で働いているのは、仮設住宅を訪問した際に何度も会っていた志賀さんや、以前には私の定宿の六角でパート勤務だった渡辺さんなど、顔見知りの人たちもいます。
最初の頃はちょくちょく訪ねていたのですが、これまではお客さんも少なかったせいか店員さんも交代勤務で、訪ねても志賀さんや渡辺さんの顔を見ることもなかなかありませんでした。
今年になってから京子さんには六角で会っていましたが、お店を訪ねることなく過ぎていたのでした。
久しぶりに訪ねた「いととんぼ」には、京子さんを始め、志賀さん、渡辺さんほか2人の店員さんが揃っていました。
軌道に乗ってきて常連客も増えたそうで、食堂のメニューも増えていました。
久しぶりに会った志賀さんや渡辺さんは、とても元気そうでした。
志賀さんなど、以前よりも若返ったようにさえ見えて嬉しいことでした。
●働く場があるということ
 志賀さんの自宅は小浜でしたが津波で流され、仮設住宅に入居していましたが、2015年夏に萱浜に新居を建てて、仮設を出ていました。
 被災前から六角で働いていた渡辺さんの自宅も津波の被害に遭い、原町のアパートを借りて夫婦と義母とで暮らしながら六角のパート勤めを続けていました。
ところがある日渡辺さんが仕事から戻ると、自ら命を絶った義母の姿があったのです。
それから間もなくして、渡辺さんは六角をやめました。
どうしているかと気になっていたのですが、いととんぼが再開した時にそこで渡辺さんに会って、ホッとしたのでした。
 京子さんは女性の雇用を増やしたい思いもあって、「いととんぼ」再開に踏み切っていたのです。
志賀さんや渡辺さんに「一緒にやろう」と声をかけた京子さんでした。
志賀さんにも渡辺さんにも、ここで働くことが生きがいになっているようです。
●多感な年齢のときに起きた原発事故
 志賀さんに「お孫さんの具合はどう?」と尋ねると「うん、だいぶ良くなって、勉強は相変わらずやっているけれど勉強だけじゃなくて、オシャレにも気が向いてきたみたいで、良かったと思ってるの。もう心配ないかなと思ってる」と返事が返ってきました。
 志賀さんのその孫娘は震災時小学4年生でした。
避難所を経た後で、お母さんと妹の3人で東京に避難しました。
お父さんは勤めていた会社の支店が須賀川にあり、単身赴任で須賀川支社に転勤になりました。
妹は学校の友人や先生にも恵まれて東京の生活に馴染みましたが、彼女はクラスに馴染めずいじめにも遭い、不登校になっていきました。
それだけではなく汚染食品や添加物などに非常に神経質になり、そうした食材を使っていないと言っても食べることを拒み拒食症になり、何かものに触れたら過度に石鹸で手を洗わねば済まなくなったりの症状も出て、それだけではなく妹にキツくあたるようにもなって、医療機関の治療を受けるようになり、症状が落ち着かない時期には入院しました。
 その頃志賀さんは小池長沼仮設住宅にいましたが、孫が入院すると付き添いに行き、しばしば数カ月に及ぶこともありました。
けれども入院先では、そうした子どもたちにはとても良い施設だったようで、院内学級もあり、食事指導などもよくしてくれて子どもたちに無理ないように、一人一人に合わせた取り組みをしてくれる施設でした。
 両親は放射能の影響を考えて、南相馬から須賀川へ転居することにして須賀川に新居を作り、お孫さんの中学入学を機に東京での避難生活を切り上げて、須賀川に転居したのでした。
環境の変化を機に症状が好転することを願い、また福島の医療機関を紹介されての転居でした。
ところが新居にも中学にも馴染めず、医療機関に入院して院内学校で学ぶ日々でした。
 小さい時から勉強はとても好きで成績も良く、考え方もしっかりしたところもある娘さんですが、例えば食品成分表を自分で調べて摂取する食物を考えるなど、もしかしたらそうした探究心が、状況に合わせにくい症状として現れているのかもしれないと思うのです。
彼女は東京にいた時の医療機関の女医さんの指導に救われたという思いがあって、将来は医者になりたいと言っているのです。
自分のような子どもの助けになれるような医者になりたいからだと。
 仮設住宅にいた間、萱浜の新居に移ってからも何度か志賀さんを訪ねて、孫娘さんの状況をお聞きしてきた私にも彼女が元気になってきた様子が志賀さんの話からだけではなく、今日の志賀さんの様子からも伺えて、本当に嬉しいことでした。
 感受性豊かな年頃の、中でも取り分け感受性豊かな少女に、原発事故がもたらした影響を思います。
幸い彼女は、苦しい時を経て立ち直ってきているようですが、そのまま折れてしまった若い芽もあるのではないかと思います。
渡辺さんの義母のように自死した人も多くいます。
東電と政府は、こうした事実にしっかり向き合って欲しいです。
●村上浜に白鳥の群れ
 いととんぼの皆さんにお暇をして、小高の海よりの地域を見て帰りました。
稼働中の焼却炉が白煙を吹き出していました。
そこに運び込まれていったのでしょうか、フレコンバックの山も片付いていたところもあり、また海岸線の防潮堤建設や道路改修工事などで辺りはすっかり様変わりしていて道に迷いもしました。
大型の工事車両が頻繁に行き来するので道路の痛みも激しく、そのための改修工事もまた必要になっているようです。
 村上浜の辺りには白鳥が100羽以上も群れていました。
冬の南相馬では白鳥を見ることも珍しくないのですが、こんなに大きな群れに出会ったのは初めてのことでした。
駅周辺は前回訪ねた時よりも幾分か活気があるように思えました。

*駆け足の南相馬行でしたが、7年の歳月を深く感じた今回でした。   

いちえ

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