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2017年12月28日号「チベットのことを」


先日来、チベットから悲しいニュースが続いていたのですが、昨夜は嬉しいニュースが届きました。

◎焼身抗議は続く
●一斉蜂起記念日
 2008年は、北京でオリンピックが開催された年です。
世界の目がオリンピックに、また開催国の中国に注がれていた年でした。
この年の3月10日、ラサの市場前で数人の僧侶が、チベット国旗を掲げて自由を求める声をあげました。
すぐに警官に捕まり殴打され、連行されました。
 3月、とりわけ3月10日は、チベット人には深く心に刻まれている月日です。
2008年以前から毎年3月には、自由を求めて、政府に対する抗議の声が上がっていました。
そしてそのいつも、レジスタンスの声をあげた者は当局が即座に連行し、その声はかき消されていました。
拘束された人たちがどこでどのような目にあったかは、国内外に報道されることは殆どありません。
 1949年10月1日、中華人民共和国が成立しましたが、その新生中国は「チベット解放」を宣言して、翌年東チベットを占領しました。
チベット人の抵抗は続きましたが圧倒的な軍事力を持つ中国は、1951年、ラサに進軍したのです。
食料の徴用、軍事力による改革に対してラサ市民の不安・不満は高まっていきました。
1959年、ダライ・ラマ法王が中国軍に拉致されるという噂が流れ、3月10日、ついに市民たちは一斉に蜂起したのです。
多くの犠牲者が出ましたが、未だにその数ははっきりしていません。
ダライ・ラマ法王は、ご自分がラサに留まっていてはより多くの犠牲者が出るだろうことも憂慮して、インドへ亡命されたのです。
 3月10日は、一斉蜂起を記念する日なのです。
●2008年3月
2008年3月10日の抗議行動はすぐに鎮圧されましたが、14日にまた数人の僧侶の抗議行動が起きました。
これには市民たちも呼応して、抗議行動は大きくなりました。
不思議なのは、いつもは即座に鎮圧にかかる当局が、そしてまたこうした抵抗運動を決して報道しないのに、なぜかこの時はすぐに鎮圧にかからず一般の市民が加わり騒ぎが大きくなるに任せて、その上で治安部隊を出動させてから、それらの様子が全て映像として国内外に流されたのです。
 毎年3月には抗議行動が起き、そのいつも、すぐに鎮圧されていたのですが、なぜかこの時は違っていたばかりでなく、いつもは国内でも報道されない抗議行動が映像で世界に流れ、「暴動」として報道されたのです。
こうしたニュースに国連や各国は調査団を申し入れましたが、中国政府は当初は受け入れを拒否していました。
 いつもと違っていたのは、こればかりではありません。
ラサでの、政府が言うところの“騒乱”の様子が報道されると、その後チベットの各地で、まるで燎原の火のごとくに抗議行動が起きたのです。
それまではどこかで起きた抗議行動(大抵はラサで、僧侶や尼僧が数人での行動)に、他の地からも呼応するということはなく、その一ヶ所で起きた行動が鎮圧されてお終いでしたが、この時は違いました。
チベット各地で、抗議行動が湧き上がってきたのです。
平和の祭典と謳われるオリンピック開催国の、人権弾圧の実相に目を向けて欲しいとチベット人たちは立ち上がったのです。
けれども全て鎮圧され、行動に加わった人たちは捕らえられて、そのまま帰らぬ人になった数も定かではありません。
●2009年、最初の焼身抗議が起きた
 チベット歴のお正月を迎えて、各地のチベット人たちは前年の抗議行動で犠牲になった同胞を悼んで、新年は祝賀行事ではなく祈りを捧げようとしていました。
これは誰かが命じてのことではなく、チベット人たちの心に湧く自然な思いからのことだったでしょう。
政府は正月を祝うように勧め、一部の地域ではわざわざ晴れ着を支給したり、爆竹を配ったりもして、“楽しく新年を祝う”ことが強要されたのです。
 アムドのキルティ僧院では、新年の祈祷祭を執り行おうとしたのですが、当局はこれを禁じました。
正月の2日後(2009年2月27日)、この僧院の僧侶タベー(20歳)は僧院の前でガソリンを被り自らに火をつけ、抗議の焼身を図りました。
当局はタベーに発砲し、怪我をした彼を連れ去りました。
 2008年以降、チベット人への弾圧は一層強まり、路上などで数人が集まっていると取り締まられ、居住区から他地区への移動には許可証が必要になるなど、嫌がらせのような締め付けが行われるようになっていました。
そうした状況下で2011年3月16日、二人目の焼身抗議が起きました。
タベーと同じ僧院のやはり20歳の僧侶のプンツォです。
当局の締め付けはなお一層きつくなり、自由のない、がんじがらめのような日々、数人の平和的デモも、抗議の声もあげられないチベットで、その後も焼身抗議は続きました。
 2016年12月アムドで2人の子どもの父であるタシ・ラプテン(31歳)が焼身し、亡くなりました。
152人目の焼身抗議でした。
●2017年
3月18日、カムのニャロンで24歳のペマ・ゲルツェン
4月15日、カム・カンゼで僧侶らしい男性
5月2日、アムドのボラで、16歳の男子学生チャドル・キャップ
5月20日、アムド・チェンツァで、22歳の僧侶ジャミヤン・ロセル
7月14日、インドのベナレスで、チベット人難民の男子大学生テンジン・チュイン
7月29日、インド・ダラムサラで、バッサン・ドゥンドップ(48歳)
11月26日、カム・カンゼで、63歳の僧侶テンガ
12月23日、アムド・ンガバでコンベ
 今年になってからも焼身抗議は続きました。
2009年のタベーから、このコンベで160人もが、自らを炎と化して抗議をしてきたのです。
中国政府は焼身したチベット人の家族を拘束し、出身の村や地域に厳戒態勢を敷いて取り締まりを強化しています。
 各地で抗議行動が続いた2008年から10年目を迎える2節目の2018年、政府は抗議行動が起きることを未然に防ぐために弾圧を一層強化するのではないかと憂えます。
焼身のニュースが入るたび、胸が抉られます。

◎家族再会が果たせた!
 以前に映画『ラモツォの亡命ノート』を、ご紹介したことがありました。
ご覧頂いた方もおいでかと思います。
ラモツォはアムド出身の女性ですが、夫のトゥンドゥップ・ワンチェンが、「国家分裂扇動罪」で囚われたため、滞在先のダラムサラから故郷へ戻れず亡命生活となりました。トゥンドゥップ・ワンチェンは北京オリンピック開催に関してのチベット人たちの心情を映像にまとめて発表したことが、政府の逆鱗に触れたのです。
 『ラモツォの亡命ノート』は、夫のワンチェンが6年の刑期を終えて釈放され故郷の村へ戻り、亡命先に居るラモツォや子どもたちと電話をかわすところで終わっていました。
ワンチェンは、釈放されても当局の監視下に置かれていたのです。
 昨日27日、映画監督の小川真利枝さんから、嬉しいニュースが届きました!
ワンチェンがラモツォや子どもたちが居る、サンフランシスコに亡命することができて、家族が再会を果たせたというのです!
アメリカ時間の12月25日のことだったそうです。
ラモツォも子どもたちも、そしてワンチェンも、どんなにこの日を待っていたでしょう。
本当に嬉しいニュースでした。
 トゥンドゥップ・ワンチェンはインタビューでこう語っていました。
「久々に自由と安全を感じることができました。
そして妻と子どもたちを再び抱きしめることができ、支援してくださった皆様に感謝しています。
けれども故郷チベットを去ったことを痛みに感じ、またチベットのことを考えると喜びに浸ってばかりではいられません」

 チベットに自由の風が吹く日を、チベットの人たちが安寧な日々を送る日が来ることを、心から祈っています。                    

いちえ

 

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