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2017年9月11日号「9月7〜9日福島行①」


今回の福島行は、『たぁくらたぁ』編集長の野池さんと回りました。
ノートパソコンを持って行ったのですが、パソコンに〝謀反〟を起こされてうまく打ち込めず、帰宅してから机上のパソコンに向かっています。
3日間の見聞があまりにも濃くて、頭がクラクラしながらため息をついています。

◎7日、伊達市の仮設住宅で
飯舘村の菅野榮子さんを訪ねました。
「こんにちは」と挨拶して部屋に入ると、そこにはヨッちゃん(菅野芳子さん)の姿もありました。
古居みずえ監督の映画『飯舘村の母ちゃんたち 土とともに』をご覧になった方はご存知と思いますが、榮子さんと芳子さんは飯舘村でもお隣同士でしたが、この仮設住宅でもお隣同士の仲良しです。
榮子さんに仮設住宅退去後の身の振り方を改めてお聞きしたいというのが、この日の訪問目的でした。
今年3月に帰村宣言される以前にお聞きしていたのは、「ヨッちゃんが帰るって言うから、一緒に帰ろうかと思う」ということでしたが、まだ確とは決めかねているような印象を、私はなんとなく受けていたのです。
この日の榮子さんの言葉です。
榮子さんが発した言葉をできるだけそのままお伝えしたく、大変長文になりました。
「帰村宣言されたってな、帰った人も大変だ。
帰ってない人も大変だけど、帰った人は大変だ。
この仮設にいる人たちも夫婦でいる人たちは『帰る』って言って帰ったのな。
だけど旦那さんが血糖値高かったり、認知症が入ったからって帰ってくのな。
元の住処に帰れば落ち着くからって感じで帰ったんだ。
私の同級生なんかもそうして帰ったから、気になるからちょくちょく見に行くんだけど、イヤァ、ここにいるより大変だな。
村の受け入れ態勢が整備されてないもんな。
診療所も週に2回だけ午前中やってるけど、認知症入れば車運転できなくなるんだから、足が困る、2キロのとこだって3キロのとこだって。
帰ってくのは年寄りばっかりでしょ。
だったらこの人たちが行くとこは決まってんだから。
みんな年寄りは、あの世に行くには誰だって認知症の壁を乗り越えないとあの世に行かれないんだもの。
この認知症になったときどうすんだって、言わないだって判ってんだべ。
アンケート調査があるたびに、私らは要望を書いて出してんのな。
役場の前に特養ホームが在るのに、「ヘルパーさん居ないからやれません。従来通りのみなさんの助け合いでやってください」なんてコメント返してくんだから。
「お帰りなさい」なんちゃって帰村宣言したって、そういうこと自体おかしいべ。
原発事故だけじゃねぇ。なんでもそうだなって考えさせられた。
世の中、どんな仕組みになって回っているんだか、判らない!
私らはその中で生かされて、生きていかなきゃなんねぇんだから、これは大変だなって。
そうやってどこかで辻褄を合わせなきゃなんねぇから、いろいろなこと閉まんなくなるわけだ。
避難する前は働くことに精一杯で、自分が生きることに精一杯で、世の中の仕組みがどうなってるかなんて薄らボンヤリとした中で生かされてきたよ。
疑問なんて抱く暇も余裕もねかった。
だけど避難していろいろ考えさせらって、だから今の時代、ニートになる人の気持ちも判るし結婚しない人の気持ちも判る。
今ちっと、緩やかなピリピリしねぇ世の中作ってもらいてぇなって思うな。
どこに間違いがあったんだか、どこが正しいんだか、判んねぇな。

この間、前から支援してくれてた前橋の【悠々くらぶ】にヨッちゃんと二人で泊まりに行ったのな。
そこで二人で話してたのが認知症の話で、したら悠々くらぶの人たちが「榮子さんとヨッちゃんの話題が変わった。今日は認知症の話ばっかりしてる」って、笑うんだな。
前は帰村宣言出たら、どうする?帰る、帰らないなんてことばっかし話してたからな。
だって認知症が出たら大変だから。
二人でなんとかかんとか居るからこうしてやってけるけど、どっちか認知症になって病院行くようになったら、どっちも一人ではどうにもならない。
自分ではならないつもりでいたって認知症は飛び込んで来んだから、そんときに周りも行政も国も、どういう対応すっかな、そういうものが充実してないとやっぱり幸せな一生を送るってことにならないんでないの。
今回の避難までは、経営が安定していれば誰かがやってくれるって思ってたから、農業の基盤作るのに一生懸命、無我夢中だったよな。
避難して人間の社会も、家族制度のあり方なんかも過渡期にきているって経験した」

野池さんが「帰る用意はしているんですか?」と尋ねると、榮子さんは家は全部解体して更地にしたと言いました。
息子さんがいろいろ算段して、榮子さんが住む家を新築し、家の前の牛舎だったところや家の後ろはソーラーパネルを設置するようです。
お墓があるので榮子さんの住まいと、家族がお墓参りに来たときに泊まれるように新たに小さな家を作るようです。
芳子さんが、「離れや物置は壊して母屋だけは残して、そこに一応は帰ろうかなって思う」と言うと、榮子さんは言いました。
「ヨッちゃんが帰れるって言わなければ、私は帰らない。
私は【悠々くらぶ】からお誘いがあったの。
『榮子さん、いっしょに自立と共生を求めて生きましょう』って。
そこは畑も作ってるし、病院もすぐそばにある前橋のケアハウスだけど、海外に行って活動してた人たちが、定年退職になって日本に帰ってきて、もう家を建てるまでもないからってお金出し合って、土地を取得して作ったところなの。
そうして作った施設だから、ちょっと変わったところなんだな。
外交官だとか、知的財産持ってる人たちがいるとこなんだな」
榮子さんはそこへの入所を考えて芳子さんを誘いましたが、芳子さんが「そこは、立派な偉い人ばっかりだから、私みたいなのは」と考えて、入居は拒みました。
入居費も高くはないようですが、芳子さんには人間関係で躊躇する思いがあったのでしょう。
また榮子さんは、息子さんにそこへ入居するつもりであることを伝えたところ、「なんでそんなとこへ行くんだ」と反対もされたそうです。
【悠々くらぶ】の人たちは、自家菜園で野菜を作ったりしているそうですが、種をまいても芽が出てこないなどもあり、榮子さんが来てくれるなら野菜作りの指導もしてもらいトラクターも買ってあげようなどと言うし、榮子さんの方もそこで生活指導を受けられることで、認知症の予防にもなるのではないかと思い、入居を考えたのです。
 でも結局、芳子さんは行かないと言うし、息子の反対にもあって、飯舘村の佐須へ帰ることにしたようです。
「そんな良いとこあるからって言ったって、ヨッちゃん置いて行かんねぇべ。
だから村さ帰って、あとはヨッちゃんと二人で「今晩はオラ家サ寝っぺ。明日の晩はヨッちゃん家サ寝っぺ」ってやっていって、村さ声かけながらやる気がなけりゃ自分たちでデイサービス立ち上げてやっていけば、飯舘村には仲間もいるし、私らで騒がねければ誰も騒ぐ人居ねぇんだから、空き家でもどこか借りて、みんなして入ってデイサービスやってくべって。
そういうとこさ社協の職員なんか巻き込んで、佐須には26年の6月から入ってる研究班の「再生の会」って人たちが、今度は飯舘に住民票持ってきて佐須に事務所抱えて宿泊施設も作ったの。
そういう人たちが持ってる知識を利用させてもらって、支援もしてもらって。
だけど村が前向きでねぇんだ。
だから、年寄りは早く死ねって言うんだべ。
私らが、なんぼ役に立たないったって、私らが頑張ってこの厳しい中で頑張ってきたから飯舘村ができたんでないの。
この年寄りを大事にしないで、学校、学校って、子供の教育も大事だけど、目の前に帰ってきているその命をどうすんだって、村に行って言うの。
そうすっと、役場の若い人みんな寄ってきて聞いてんの。
そういうわけでヨッちゃんは帰るって言うし家も壊さねぇって言うから、まぁヨッちゃんの家で一緒に住んでもいいわって、帰ることにしたの。
二人だから生きてこれたんだから、あとはどっちか認知症になったら、その時に考える。
帰って行ってみて、飯舘村の土になる。
やるわ。
原発でいろいろ経験したけど、この中で厳しさに耐えて生きるって経験させてもらった。そんことに感謝して生きねばと思ってる」

菅野典雄村長と榮子さんは親戚です。
野池さんが、「村長に会うことあるんでしょう。何か言ってこないですか?」と問うと、
「あんまり体大きい人でないが、一回りも二回りも小さくなって年取って、頭禿げてきてな。
そうして村民の前に出るとな、「長い避難生活を強いて、本当に申し訳ありません」ってこうして頭下げっと、ハゲ頭が見えるのよ。
何も典雄ちゃん悪くてこうなったんじゃねぇ、そんなに頭下げっことないって、私、心の中で思うのよ。
酷くて何も言えない。
選挙の時は命がけで出してやった村長だから、直に向き合って典雄ちゃんと腹割って喋ってみたいって思う時あっけど、涙出て喋られねぇ。
一生懸命やってんだもの。
国と村民の間に入って一生懸命やってる姿、やつれてっから直ぐに判るよ。
小っちぇうちから見てきたんだから。
ランドセル背負って歩っているうちから見てきたんだから、何も言えねぇ。
原発事故は…、除染の仕方もこういう風になるってわかっていながら手ェ出したんだから。
そのことに、事業者も悪いかもしれないけど、推進した国のあり方が一番問われるよ。
今日、新聞で柏崎の再稼働の記事読んでたんだけど、誰が悪いか判んない」
本当に、榮子さんの言う通りだと思います。
菅野村長の選択の仕方、村政の進め方には大きな大きな疑問がありますが、そして採った政策は村民の意思に沿わず誤っていると断じて思いますが、悪意ではなく良かれと思ってしているのだとは思います。
村長もまた、原発事故によって狂わされてしまった犠牲者の一人でしょう。

榮子さんが、アルバムを見せてくれました。
菅野家の初代のじいちゃんばあちゃんの写真がありました。
榮子さんはじいちゃんのバッチ(未子)孫の嫁だったので、じいちゃんばあちゃんに可愛がられたそうです。
じいちゃん、ばあちゃんの仲人は馬喰だったことや、ばあちゃんが鹿島から嫁入りする時には馬の背にタンスなど振り分けに載せ、ばあちゃんも浅葱色の手甲脚絆をつけて馬に揺られてきた話を聞かされたそうです。
そのばあちゃんは年取って寝込んだ時に、自分が死んだら死装束には嫁入りの時の手甲脚絆をつけてくれと孫嫁の榮子さんに頼んだそうです。
タンスの何番目に入れてあると言い残したばあちゃんの願い通り、榮子さんはばあちゃんの亡骸に浅葱色の手甲脚絆をつけて送り出してあげたそうです。
「あったかい鹿島から飯舘村に嫁に来てな、この家で子ども産んで育てて、冷たい水で洗濯もしてご飯も作ってな、そうやって築いてきた100年以上も経つ家をな…。
棟折れる時、バケレ〜ンって音したよって業者さんに聞いた。
先祖泣いてっぺ。放射能恨んで。高いとこから見てるからな」
この時に見せてもらった写真集には、原発事故後に佐須地区で作られた記念誌もありました。
表紙には『東京電力福島第一発電所事故による被難記憶誌』とありました。
難を被った飯舘村佐須地区村民の、記憶を伝える写真集です。
榮子さんは、家を解体する前に中にあった物の整理をしました。
すると、いろいろな物が出てきました。
天秤棒と里芋を洗う時に使った棒、物置から見つけたそれらを両手に持って感慨にふけっていると、息子さんに「何すんだ!そんな物。放射能出るべ」と声を荒げて取り上げられましたが、後で見るとその2本はまた、そっとそこに置かれてあったそうです。
息子さんにも榮子さんの気持ちが伝わったのでしょう。
天秤棒は、水や人糞を担ぐのに使ったそうですが、「川俣に嫁に行ったお舅さんの妹が、水を担ぐ時に使ってた物だなぁと思うと、うんと懐かしくなってな」と言います。
一本の木で弓なりにしない、両端には鈎の手の鎖がついた天秤棒でした。
 もう一本の棒は樅の木ですが、樅の木の枝先は主幹の先に5本の指を広げたように枝が出ているのです。
榮子さんの連れ合いが、山に行ってちょうどいい具合の枝ぶりの木を探して切ってきた物だそうです。
「70歳で体力の限界感じて酪農やめたから牛との悲しい別れはなかったけど、牛やめてから里芋だのなんだの作ったのを売りに出してたからな。
桶に里芋いっぺぇ入れて、それでお父さんが切ってきた樅の棒で、こうやってゴロンコ、ゴロンコ転がして土を落として洗うのに使った棒だ」
他人にとってはガラクタにしか見えない物であっても、そこでそれを使って暮らしてきた人にとっては、それは思い出の品というよりも自分の歴史そのものを刻んできた自身の体の一部とも言える物でしょう。
原発事故は、そうした暮らし一切を、被災者の体から引き剥がしてしまったのです。
息子さんがそこに置いた2本の棒を、その後榮子さんは大事に隠したそうです。

「酪農やめてから里芋作って売ったり、きゅうりの漬物作って売ったりしてたからな、ここで生きてこれた。
そうして売り上げだの何だの全部記録に取っておいたからな、賠償請求だって、伝票にして失くさないでとっておいたから、東電ではそれ見て何にも言えないで出してくれた。
味噌だってなんだって、全部ノートにとって記録してたからな。
一番嫌だなと思ったのは、戦争と原発だな。
戦争も嫌だし、この原発も嫌だ。
この原発ではつくづく先の見えない毎日だが、我慢して生き抜く力をこの原発事故は与えてくれたんだなぁと思ってる。
反面、考えてみればものすごい収穫だったんだなって思う。
自分に、こんな試練が与えられるとは思っていなかった。
仕事しててもなんでもない時に、涙ぼろぼろ出る時あるんだよな。
誰もいない時は、余計にそうだ。
でもこうして色々な人に会えて、いろいろ勉強になりました。
小海の凍み餅だって、今はちゃんと立派にできてる。
私の父親は戦争中、兵隊に行ってたことあるのな。
行く時に食う物ないだろうからって、一斗缶に凍み餅いっぱい入れて背負ってったの。
ほうしてそれ焼いて食ってっと、みんなは「あんな黒いもん食って」と思ってたらしいけど長野の人が「なんだ親父、何食ってんだ。俺にも食わせろ」って言ったから、食わせたんだと。
ほしたら「うめぇなぁ」って言って、それからみんな食うようになったんだと。
原発事故の後、小海町の人たちのところで凍み餅作るって初めて行った時な、役所の前に「非核宣言の町」って看板見て、あらぁここでも核反対ってやってんだと、なんか救われた気持ちだったよ。
それから毎年行って、よく出来なかった年もあったけど今は立派なもんだよ。
経験重ねていくことによって、どういうのがいいのか判っていくんだ。
餅もふわっとしてて飯舘の餅とは違うんだけど、今は立派な小海の凍み餅だ。
その土地、その土地で味があるんだな」
小海町での凍み餅作りも榮子さんたちが伝えることはもう何もなく、「小海町の凍み餅」として小海の特産品になっていくでしょう。
けれどもそして、ゴンボッパ(オヤマボクチの葉)を搗き込んだ凍み餅の文化は残り、伝えられていくのでしょう。
「今度は村に帰って、村がやらなかったら私らで騒いでやるわ。
帰った人たちと手をつないで、私らでやるわ。
認知症にならないように、お互いに鞭打ちあいながらやっていくわ。
飯舘さ戻って、ぎゃあぎゃあ騒いでやってくわ」

榮子さんの話は尽きません。
私たちももっと聞いていたいと思いながら、次の約束があるので失礼しました。
一度はケアハウス悠々くらぶへの入居を考えたけれど、ヨッちゃんと一緒に帰村することにしたという榮子さんです。
これからもお元気にいて欲しいです。
そしてまた、たくさんの話を聞かせて欲しいと思います。         

いちえ

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