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2018年4月7日号「3月31日南相馬」


 南相馬鹿島区の寺内塚合仮設住宅に行きました。
今野寿美雄さんに、同行をお願いしました。
●天気晴朗なれども…
 前もって天野さんと相談をして、天気が良ければお花見に行きましょうと話し合っていたのです。
天気は上々、絶好の花見日和です。
小高神社や飯崎の垂れ桜、小高川土手の桜も咲いたことでしょうと心は弾んで欲しいのですが、なんだかこのところ頭の回転が“超”鈍くて、この朝は“超”の前に“ど”がつくほどのボンヤリといった状態でした。
新幹線の車中で天野さんから「いまどこ?お昼食べないで来るでしょ?ここでみんなで食べていこうね。おにぎり買って待ってるからね」と電話が入りました。
その声に気合を入れて、仮設住宅に向かったのでした。
●通り一遍の記事の掲載
 土曜日はデイサービスがない日なので、“社長“の菅野さん”営業部長“の天野さん、それに山田さんと、いつもの3人が揃っていました。
12日の新聞に菅野さんの写真入りでインタビュー記事が載っていたので、菅野さんにそれを伝えると「え〜、新聞でたの?」と言うのです。
そう聞いて私の方が「えっ?新聞送ってこなかったの?」と驚き、聞き返したのでした。
取材を受けた時の写真は送られてきたそうですが、掲載紙は送られてこなかったというのです。
11日は東日本大震災から7年目ということで各紙が被災地に取材に入り、翌朝の紙面には、それらの記事が載っていました。
菅野さんの写真が載ったのは、そうした記事の一つでした。
私はそれを読んで、11日は日曜日だから談話室には誰も居ない筈なのにと、少し違和感を感じたのですが掲載紙が送られてこないことを聞いて、この取材者の態度に疑問を抱きました。
 土曜日にはみんな談話室に集いますから、前日10日にはみんなここに居ました。
そこへ若い女性記者が来たそうです。
「初めて来たのですがどこにも誰もいなくて困っていたのですが、ここに人がいるのが見えたので」と言い、7年目となる翌11日に改めて取材をさせて欲しいと頼まれたのだそうです。
それで11日の日曜日午後に、わざわざみんな、ここに来たのです。
あの日地震が起きた時刻、2時46分にはサイレンが鳴ります。
みんなはサイレンが聞こえると合掌しましたが、記者はそこを写真に撮って記事に載せたのでした。
菅野さんが合掌した写真には「この日が来るといつも思い出して悲しくなると言って涙を流した」とキャプションが付けられていました。
 私はあの年の夏からここに通い、天野さんが涙を流す場面はしばしば見ていましたが、菅野さんが泣くのは見たことがありません。
それも記事を見て私が違和感を覚えたことの一つでした。
私が「新聞には菅野さんが泣いたと書いてあったよ」と言うと、菅野さんは「泣かないよ。サイレン鳴ってこうやって手合わせたから、泣いてると思ったかな」と言い、天野さんも山田さんも「菅野さんは泣かないわよ」「んだな、泣かない人だわ」と。
 2日続けて取材したのなら、7年経ってもまだ仮設住宅に人がいることや、菅野さんのように新居で暮らしていても友人たちのいる仮設住宅へ通ってくる理由など、被災者が抱える“今”を記事にして欲しかったです。
そうした視点を忘れて、7年前のあの日を振り返るだけの通り一遍の記事では、被災地・被災者の今は伝わらないと思いました。
●見頃の桜
 お昼ご飯を済ませて、出かけました。
飯崎のしだれ桜も、小高神社の桜も、ちょうど見頃でした。
4年前にも天野さんたちを、こうしてお花見に誘ったことがありました。
友人たちを案内して仮設住宅を訪ね、レンタカーを2台で動いていたので座席が十分でしたから、急遽お花見に行こうと出かけたのでした。
まだみんな今よりも元気で、仮設住宅を出てからすぐの所にある石屋さんの前を通ったときには、菅野さんや天野さん、山田さんもそれぞれ自分の家の墓石のことを話し始めて「これからお花見に行くのにお墓の話なんかして」と言って大いに笑ったのでした。
 でも今日は菅野さんは花見行の車に乗らず、談話室に残りました。
ちょっと動いても腰が痛くて辛いというのです。
数日からのことだそうですが、痛み止めの内服薬・湿布薬を処方してもらい、それでも辛くて痛み止めの注射をしてもらっているそうですがそれも効き目は2時間ほどだそうです。
行って帰ってくるまで効き目がもたないだろうと、途中で痛みが出たら困るからと、一緒に出かけられませんでした。
4年の歳月は、確実に体調に現れています。
飯崎の見事なしだれ桜も、山田さんも天野さんも車の中から眺めるだけで降りようとはしませんでした。
小高神社では車から降りましたが、山田さんは少し高い石に腰掛けたまま桜を眺めていました。
天野さんは神殿の周囲の小さなお社の一つ一つに、二礼二拍手でお祈りをして回りました。
小高川の土手の桜は冷たい川風が当たるからでしょうか、まだ開花していませんでした。
●ミッちゃんの家
 天野さんが「昨日ミッちゃんから電話が来たから、明日は一枝さんと小高に行くよって言ったら、それじゃぁ一緒に家に来てって言ったから、ミッちゃんの家に寄りたい」と言いました。
ミッちゃんというのは、4年前まで談話室で一緒に過ごしてきた仲間の紺野光子さんのことです。
ミッちゃんが仮設を退去してから、私はずっと会っていなかったのですが、2月に来た時に、たまたまミッちゃんも夫婦で談話室を訪ねていて、久しぶりに顔を合わせたのでした。
談話室の6人衆の中で一番若く私と2歳しか違わないミッちゃんですが、久しぶりに会った彼女は杖にすがって歩いていたので驚きました。
その時に自宅での暮らしを少し聞いていたので、家を訪ねるのを嬉しく思いました。
 小高神社を出てから天野さんは、今野さんにミッちゃんの家がある場所を教えました。
「この橋を過ぎるともう一つ橋があるから、そこを右に曲がって左に行ったとこ」という教え方でも、土地勘のある今野さんなら迷わずその方向へ進んだのです。
ところがもう一つの橋のところを右に曲がった道で、どこを左に行けばいいのかが判らなくなりました。
天野さんが言います。
「あれ、どこだったかなぁ?ここじゃないし、全然様子が変わっちゃったから、わかんなくなっちゃった」
何度か同じ道を行き来しても判りません。
諦めて帰りかけた時でした。
ミッちゃんから電話があって、それで場所がわかって無事に辿り着けたのでした。
 天野さんに限らず誰もが自分の地元の様子がすっかり変わってしまっているのに戸惑い、よく知っていた筈の地で迷子になったりしている被災地の“復興“した姿です。
この前も大留さんが、以前何度も入っていた場所なのにしばらくぶりで行った時には迷子になっていました。
“復興”はもちろん復元ではありませんが、それにしても辺りの様子をすっかり変えててしまうのが復興なんだろうか?と思います。
 辿り着いたミッちゃんの家では、ミッちゃんと連れ合いの安重さんが門口から道路まで出て、手招きしてくれていました。
●手入れの行き届いた庭
 被災後、門扉を外して納屋は作り直したそうですが、自宅は建具や壁紙を変えただけで他は被災前のままだそうです。
庭石を配した前庭はたくさんのイワヒバの間に福寿草が咲きツツジなどの小潅木が植えられ、斜面になっている裏庭には何十株もの水仙が花を咲かせ、ツツジ、紫陽花がそこかしこに植えられていました。
よく手入れされたお庭です。
原発事故後、小高区が立ち入り禁止の警戒区域になり、2012年4月16日から一時帰宅が認められるようになりました。
安重さんはその頃から、ちょくちょく帰宅して庭の手入れをしてきたそうです。
避難指示解除後にいち早く自宅に戻ったミッちゃん夫婦ですから、私はこの庭を見て安重さんが帰宅を急いたのかと思いましたが、そうではありませんでした。
●「おまかね、やってんの?」
 安重さんの話を聞いていた時に、食卓の向かいでは天野さんや山田さんがミッちゃんと話し、今野さんも女性たちの話を聞いていました。
安重さんが話す声に被さって、天野さんの声がふと、私の耳に入ってきました。
「“おまかね”やってくれんの?」
私の耳がピンと立って「“おまかね”ってなんですか?」と尋ねると、すかさず今野さんが「“まかない”のこと。食事の支度をまかないって言うでしょう。丁寧に“お”をつけて“おまかない”が方言に鈍って“おまかね”」と教えてくれました。
ミッちゃんは天野さんの問いかけに、「やんねぇ。1週間に2回くらい朝だけはやっけど、他はやんねぇ。私がやってる」と答えました。
 そしてこの時に私は初めて、ミッちゃん夫婦がいち早く仮設を退去して自宅に戻ったわけを知ったのでした。
 ミッちゃん夫婦には息子が二人います。
ミッちゃんたちが自宅に戻ったのは、次男が強く望んだからだったのです。
長男は結婚していて、もう成人している息子が2人います。
次男は脳性麻痺で体が不自由ですが知的な障害はなく、コンピューターを使っての仕事に従事しています。
彼が就学年齢に達した頃に小高には適切な学校がなく、親元を離れて福島市の施設に入所してそこで学校教育を受け、卒業後もコンピューター技術を習い身につけてきました。
その彼が望んだのは「お兄ちゃんはずっと両親の元で暮らしてきたけど、僕はお父さんやお母さんと離れて福島で過ごしてきた。」と言って両親と共に暮らすことを強く願ったからでした。
 長男家族と次男、そしてミッちゃん夫婦と7人家族で女手は長男の嫁とミッちゃんの二人、後の5人は男ばかりです。
天野さんがミッちゃんに「おまかねやってくれんの?」と聞いたのは、お嫁さんが食事の支度をしてくれているかと尋ねたのでした。
 この日はそれ以上の話は出ませんでしたし、家族の間にはいろいろ事情があることだろうと思います。
でも私にとってショックだったのは、談話室からミッちゃんの姿が消えてから4年も経ってから、早々の帰宅の理由を初めて知ったことでした。
狭い仮設住宅に居るよりも住み慣れた自宅に戻れば、体も元気で車の運転もできるから買い物や通院にも困らないし、昼間は畑の仕事もできるし、だから早く帰りたかったのだろうと思いこんでいたのです。
知ろうとしなかった自分を、恥じました。
●小高の一休さん
 私はこの日初めて、安重さんとゆっくり話をしたのでした。
お二人が仮設にいた時には、ミッちゃんとは仮設を訪ねる度に会っていましたが安重さが集会所や談話室に顔を出すのは何かイベントの時だけでしたから、話をする機会もありませんでした。
 地震でお隣との境の石垣が崩れたのを片付けるようにと市役所から言われたそうですが、安重さんは「石は確かに我が家のものだが土は市のものだから、土を市役所が片付けてくれ」と言って片付けさせたそうです。
そう聞いて私は、頓知の一休さんの問答を思い起こしました。
安重さんは他にもまだまだ話したいことが山ほどあって、私もまた今度ゆっくりお話を聞かせてくださいとお願いして、紺野家を辞しました。

 菅野さんは脚・腰がだいぶ弱っている、山田さんも歩くのはだいぶ大儀そう、ミッちゃんは杖が必要になった……、七年の間に、みんな確実に歳を取っています。
当たり前のことではあるのですが、そのことを強く感じた今回の訪問でした。

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