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2018年4月9日号「4月1日長野」


◎「福島第一原発事故から7年 被災地・避難者・元原発労働者の今」
 長野市のふれあい福祉センターで、件名の講演会が開かれました。
主催は「フクシマを忘れない!市民集会実行委員会」で、ここに「たぁくらたぁ」も関わっています。
講師は今野寿美雄さんで、私はゲストでした。
●今野寿美雄さん講演
*避難者支援
 2011年3月11日は、出張で女川原発に居た。
地震が起きたのは仕事が終わって構内から引き上げ準備中で、その時に津波が来るのを見た。
ようやく宿舎に戻り、地震と津波の惨状の中で被災者の支援に当たった。
東北電力は被災者を発電所の体育館施設に避難させた。
女川原発は非常用電源が損傷を受けなかったので軽油で稼働させ、電気はあるし水もある、食料の備蓄もあるので、東北電力はそれらを避難者へ支給した。
ヘリで支援物資が運ばれて来ると、帰りのヘリには病人を乗せた。
その頃、余震はしょっちゅう起きていた。
米空母ロナルド・レーガンからも、トモダチ作戦での支援物資が届いた。
携帯もつながらず家族の安否も確かめられないまま、14日まで女川で支援活動を続けていた。
また道路も復旧していなかったので、浪江町の自宅に戻ることもできなかった。
*ようやく女川脱出
 15日朝に、仮設の道路が復旧したので帰宅の希望を所長に伝えると、原発事故で女川の線量もかなり高く危険だから外へ出るなと言われたが、家族が心配だからと言って、ようやく女川を脱出できた。
同僚たちと会社の車で出たが、途中で家族は茨城の古河の親戚の家に避難していて無事だということが判った。
浪江の自宅によって自分の車に乗り換えたかったのだが、4号機の爆発で浪江に入ることはできず、そのまま同僚と郡山まで行き、そこでみんなと別れた。
この朝から、新幹線は那須塩原までは通じるようになっていたのだが、郡山から那須塩原までどうやって行こうかと案じたが幸い郡山の駅前にタクシーがあり、それで那須塩原まで行った。
那須塩原について発車寸前の新幹線に飛び乗って、途中で在来線に乗換えて古河に着いた。
*「パパ生きてる。足がついてる」
 古河の駅には家族が迎えに来ていて、息子は顔を見るなり「パパ生きてる。パパ足がついてる」と言った。(この話を聞くと、私はいつも胸が詰まります。この日もまた)
そのときの格好は作業服のままで、ヒゲも伸び放題、復員兵みたいな姿だった。
家族たちは親戚宅で世話になっていたが、その家も一度に大勢が居候で大変だった。
こちらも気を使って居づらかった。
そこにいては浪江の情報もわからないので、役場が避難している二本松の東和に毎日通って友人知人の安否確認をしたり、避難所の情報を得たりした。
*男たちは親戚宅を出て
 古河から東和には4日間通い、その間に一度浪江の自宅に自家用車を取りに行った。
妻子と義母は親戚宅に4月初旬まで居させてくれるよう頼み、男たちは二本松に行き避難所の炊き出しと、避難者支援に携わった。
支援物資で支給されたのはカレーヌードルとピーナツバターパン、メロンクリームパンで、カレーヌードルは始めのうちは熱いお湯が注がれるから良いが、後の方になるとお湯も温くなっているし、パンも飽きて今でもそれらは見るのも嫌なくらいだ。
 二本松にいる間、夜は自分の車でシートをリクライニングにして、車内泊をしていた。
これが後になって体調の異変を生んだ。
 半年後、飯坂温泉に避難してからのことだが、鼻血が出るようになった。
目覚めて顔を洗おうと洗面所に行くと、突然ドバッと鼻血が出ることが1ヶ月に二回くらいあって、それが2年ほども続いた。
二本松の避難所で車中泊をしていたとき、朝起きると車のフロントが杉の花粉で真っ黄色になっている日が続いていたが、その時期の杉花粉には放射性物質がたっぷり付着していたわけだから、車で寝ている間にその放射性物質を吸い込んでいたのだろう。
*猪苗代町へ避難
 県内各地の温泉が避難所になったので、1ヶ月で二本松の避難所を出て古河の親戚にいた家族も共に、猪苗代町の旅館に避難した。
そこで出された白飯と味噌汁の美味しかったこと!!
8月いっぱい猪苗代町に居た後で、飯坂温泉に移った。
旅館の従業員宿舎を借り上げ住宅として、そこに入った。
 鼻血が出るようになったのは飯坂温泉に避難してからだが、その頃から息子の体調にも変化が起きていた。
しょっちゅう風邪をひくようになった。
毎月2回も風邪をひくような状況が2年も続いた。
3月12日原発事故後、浪江の人たちは山間部の津島地区へ避難し息子も皆と一緒にそこへ避難していたが、そこでは外で遊んだり降り積もった雪を食べたりしたと言う。
甲状腺に異常はなかったが、免疫力が低下していたのだろう。
*全てが隠される
 避難した子どもはまだ良い。
避難しなかった中通りの子どもたちに、甲状腺ガンが多く出ている。
県が公表したのは194人という数だが、実際には大人も子どもも合わせて3,000人以上の甲状腺ガンが出ている。
この194人という数もカラクリがあって、県は2年に一度しか検査をしないが、はじめの検査で経過観察となった子どもは、カウントの対象にならずその後の結果が公表されない。
7割くらいが転移して、1割くらいが再発をしているのに。
 国も東電も県も、情報はすべて隠す。
県民健康調査課、避難支援課などあるが、浪江町の役場には県職員が出向してきている。
県が県民を守ろうとしない。
元厚生省の医療官僚が県民健康調査をしている。
*低線量被ばくの影響
 成長期にあるので、子どもの甲状腺ガンは転移しやすい。
チェルノブイリでは、あれからもう32年経つが、現在もまだ健康への影響が出ている。
 福島でも脳疾患、心疾患、糖尿病、白内障などが増えているし、突然死が増えている。私の同級生も3人が、突然死した。
3人ともまだ50代だ。
 また原発で働いていた会社の先輩3人も、一人は脳疾患、もう一人はガン、もう一人は原因不明だが、3人とも定年前に亡くなった。
 そしてまた友人の一人は60歳でガンで亡くなり、奥さんは52歳か53歳だったが、夫が亡くなってすぐ白血病で亡くなり、中学生の女の子が一人残された。
その子は親戚に引き取られた。
 本当に亡くなっていく人が増えている。
被ばくの影響で病気になったと証明できないのが現状だが、低線量被ばくはジワジワと体を蝕んでいく。
 政府は年間被ばく許容量を1ミリシーベルトとしているが、福島だけは20ミリシーベルトにしている。
原発労働者は手帳を持っていて年間の被ばく量を管理されているが、私は最大で年間12ミリシーベルトの被ばくをしたことがあった。
各メーカーや事業者は年間15ミリシーベルトを基準にしているのに、国はそれより高い20ミリシーベルトにしている。
原発で働く労働者よりも高い数値を基準にして、そこに子どもたちを帰還させている。
とんでもないことですよ!
*被ばくの恐ろしさ
 崎山比早子さんというDNA研究の第一人者に教わったが、被ばくがなぜ危険かというと、DNAを損傷するからだ。(今野さんは白板に図を描きながら説明しました)
細胞内で遺伝子情報を持つDNAは螺旋状に連なっていて、そこにはG=C、T=Aと4つの塩基がそれぞれ互いの相手と結びついて突起になっている。
細胞内を放射線が通過するときに、この塩基の鎖が一つ切れたら塩基はまた繋がるべき相手の塩基と結びついて修復されやすいが、鎖が二つ切断されたら繋がるべき相手の塩基を誤ってしまい、それがDNAに異変を起こしガンを発症する。
*子ども脱被ばく裁判
 崎山さんは「子ども脱被ばく裁判」の闘争を支えてくれている、良心的な研究者だ。
この裁判の原告は200人以上、60世帯以上で、私の息子も原告で、私は原告団長になっている。
子どもが原告席にずらっと座る、こんな裁判は他にないですよ!
子どもたちが意見陳述するんですよ!
これは「子ども人権裁判」と「親子裁判」の二つを合わせた裁判で、懲罰的裁判だ。
被告は、東電ではなく行政で、10万円の賠償をせよと争っている。
*真逆の研究者
 現在福島大学農学部は、汚染地でどういう作物ができるかを研究している。
県立医大では献体バンクで、研究のためという名目で献体の売買をしている。
甲状腺切除すると、患者が求めても切除した甲状腺を戻そうとしない。
医大はデータが欲しいからだ。
出産期医療では妊娠何周目かで、染色体に以上があると言われ、堕胎させられている。
あの“ダマシタ(山下俊一のこと)”は、「福島は世界最大の実験地だ」と言っている。
県内の道路はドンドン直し、新しい道路も作っているが、それは汚染土を搬出するためだ。

 今野さんの講演の後で休憩を挟んで、今野寿美雄さん×渡辺一枝のトークと質疑応答で集会を終えました。
会場には70人を超える方が参加して、今野さんの話に熱心に聞き入っていました。
また、信濃毎日新聞社が取材に来ていて、翌朝の紙面に今野さんの講演の様子が掲載されました。
新聞記事を添付します。                   

いちえ

信濃毎日新聞18.4

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