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2018年4月9日号「4月6日・7日のこと」


 前便で31日に飯坂温泉で会った青年、樹(イツキ)君のことを書きました。
多くの方から、お返事をいただきました。
私自身が、“今時の若者”の考え方と言うか、在り方あるいは生き方にとても衝撃を受けたのですが、先週末に参加した催しで、また新たに感じることがありました。
そのことを記したいと思います。
◎「アラヤシキに水車をまわすプロジェクト」報告会
 6日(金)の夕、ポレポレ坐で件名の催しが開かれ、参加しました。
●このプロジェクトについて
 本橋成一監督の映画『アラヤシキの住人たち』を、ご覧になりましたか?
その映画は、長野県小谷(オタリ)村の真木共働学舎の暮らしを描いたドキュメンタリーです。
 住民が離村して茅葺屋根の民家が点在した真木の集落に、故宮嶋真一郎さんが「競争社会よりも協力社会を」と始めた共働学舎では、障害がある人も社会に適合しにくい人も共に助け合って自給自足の暮らしをしています。
彼らの生活拠点は茅葺屋根の古民家ですが、そのうちの1棟が2014年の地震と翌年の大雪で倒壊し、調べると他の古民家も修繕が必要なことがわかりました。
 周囲には植林された杉など木はありますが、丸太のままでは使えないので製材する必要があります。
真木は車では行けず、峠を二つ越え1時間半かけて徒歩でしか行けない地域です。
製材機は高価なうえに運搬も不可能で、そこで思いついたのが沢水で水車を回して行う製材法でした。
それがこのプロジェクトの始まりです。
 伝統的な木造建築に携わる大工さん、左官屋さんなどの助けや指導を仰ぎながら、真木の住民たちは自分たちの手で水車を完成させました。
そしてこの日にポレポレ坐で、その報告会が開かれたのです。
●報告会で
 真木には若い家族もいて子どももいますが、そこには学校はありません。
学校教育は子どもの成長にとって絶対的に必要なことだろうか、それよりも真木の暮らしの中でこそ大切なことをたくさん学べるのではないかという発言を、もうじき就学年齢を迎える子どものいるアラヤシキの住人に、このプロジェクトで棟梁として関わってきた人が投げかけたのです。
 アラヤシキの人たち、水車づくりに関わった人たちの報告を聞いた後で、参加者から感想や質問が出ました。
私の胸に深く残った発言がありました。
 参加者は50人ほどいたでしょうか、始めに進行役のアラヤシキの伊藤さんが「共働学舎を知らない方は?」と参加者に問いかけた時に、一人だけ手を挙げた人がいましたが、私の胸に残ったのは、その人の発言です。
「共働学舎を知らないとたった一人手を挙げた僕ですが、今日はアラヤシキに行ったことがある友人に誘われて来ました。
僕は学校に行ったことがありません。
いま39歳ですが、学校に行かなくてもちゃんと大人になれます。
ちゃんと働いているし、普通に生活しています。
 僕の親は団塊世代で、僕は団塊ジュニアです。
団塊世代が日本の経済発展を担ってきたけれど、僕たちジュニア世代は違う形でこれからを担っていくだろうと思っているし、実際にいま各地で起きている再生可能な暮らしなどの取り組みも、その世代が先駆けているのではないだろうか」
言葉は違ったかもしれませんが、彼はそのような発言をしたのでした。

◎「OKINAWA1965」上映&トーク
 7日(土)、平和と労働センター・全労連会館で、件名の催しがあり参加しました。
●ドキュメンタリー映画「OKINAWA1965」上映
 この映画は、1982年生まれの双子の兄弟、都鳥(トドリ)拓也・伸也さんが、企画・製作・撮影・監督した作品で、「米軍占領下で、戦争も基地もない沖縄を目指した人々の想いをいま、見つめなおすー」映画です。
 映画の冒頭に1965年4月20日に写真家の嬉野京子さんが撮影した1枚の写真が出てきます。
小さな女の子が米軍のトラックに轢き殺されたときに撮影された写真です。
嬉野さんは、祖国復帰行進団と共に本島最北端の辺戸岬を目指している時に事件に遭遇し、米兵に隠れて撮影したのですが、後にこの写真が沖縄の現状を日本全土に広く伝えるようになりました。
 “沖縄のガンジー”として知られる阿波根昌鴻さん、元海兵隊員のアレン・ネルソンさんをはじめとして、沖縄の人々の想いを記録しています。
沖縄の戦後はまだ終わっていない。
求めるものは辺野古新基地建設断念、すべての基地の廃止。
そして平和な未来—。
 声高に叫ばないけれど、静かに深く訴えてくる映画でした。
6月末から渋谷のアップリンクで公開上映されるそうですから、ぜひご覧いただきたいと思います。
自主上映も進めているようですから、ぜひ上映会も企画なさってください。
公式サイトは http://lonngrun.main.jp/okinawa1965/ です。
●上映後のトーク
 嬉野京子さん、都鳥拓也さん、伸也さんの3人が、この映画について、沖縄について語り、また参加者からの質問に答えました。
嬉野さんの発言も胸に刻みたいことばかりでしたが、ここでは若いお二人の言葉の中からお伝えします。
 都鳥兄弟が沖縄に関心を持ったきっかけは、ウルトラマンだったそうです。
子どもの頃に大好きだったウルトラマンの企画者の金城哲夫が沖縄出身だったこと、修学旅行で沖縄に行ったことから沖縄に関心はありましたが、復帰運動や反基地闘争などについてはほとんど予備知識はなかったそうです。
映画の製作を通して、人と出会い、言葉を記録していきながら沖縄の未来やこれからの日本を深く考えていくようになったと言います。
 参加者からの「問題に無関心な若者に、どう関心を向けさせたら良いのか」という質問に、彼らは答えました。
「自論を振りかざさず、相手の興味があることや好きなことなど、間口を広くして伝えていけるのではないか。
音楽が好きなら音楽の話からなどのように。
この映画もナレーターは小林タカ鹿さんがやっているが、彼のファンはたくさんいて、岩手で上映会をやった時(都鳥兄弟は岩手出身)、関西から来たタカ鹿ファンが居た。
平和運動の裾野を広げるには、基地問題を知らなかったり何が問題か判らないでいるフラットな立場の人たちも関心を持ってくれるような働きかけが大事ではないか」

*ポレポレ坐での39歳の男性の言葉、都鳥兄弟の言葉、これらは先日の美しい瞳の青年との会話を思いおこす時に、示唆に富む言葉だと思えました。
なおこれからも私は、若者たちへ語りかける言葉について考え続けていきたいと思います。           

いちえ  

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