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2018年6月30日号「6月24日集会報告①」


◎「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」主催第19回集会
 6月24日(日)、第19回「いま、語り 描き 写し 歌い 舞うとき」を催しました。
15年前の3月、アメリカ軍がイラクの首都バグダードへ空爆を開始し宣戦布告ないままイラク戦争が始まりました。
「イラクが大量破壊兵器を保有している」というのが、侵攻の理由でした。
米英軍の陸上部隊侵攻や各所への空爆が行われ、4月9日バグダード陥落。
5月1日当時のアメリカ大統領ブッシュが勝利宣言をし、12月にフセインは捕捉されました。
 日本では当時の小泉首相がアメリカを支持し、2003年にイラク特措法が強行採決され2004年1月、陸上自衛隊がイラクへ派兵されました。
アメリカを中心とした有志連合軍によるイラク戦争には、連日多くの市民が反対の声をあげて集会やデモを行っていました。
国会にイラク特措法が案件として上がり強行採決によって成立した過程でも、多くの市民が国会に馳せ参じて反対の声をあげました。
 そんな中で出会った女性たちと立ち上げたのが、この集会主催団体の「戦争への道は歩かない!声をあげよう女の会」です。
歌で、カメラを通して、絵画やアートの力で、など「表現者はリレーする」として様々な手段で、戦争への道は歩かない!思いを訴えようと立ち上げたのでした。
 イラク戦争から15年、日本は今、ますます戦争への道へ進もうとしているように思えてなりません。
そんな今ですからキャッチフレーズを、「武器ではなく対話を 威嚇ではなく笑顔を」として開催した第19回集会でした。
集会は例年どおり、第1部「表現者はリレーする」、第2部「映画とトークの夕べ」の2部構成で行いました。

◎第1部「表現者はリレーする」
●朴慶南(ぱく きょんなむ)さん
*プロフィール
 作家・エッセイスト。
1950年、鳥取県生まれの在日韓国人二世。
命の大切さと人間の尊厳を軸に、誰もがその人らしく生きられる平和で平等な共生社会を目指して執筆すると共に、全国各地で広く講演活動を行っています。
★朴慶南さんのトーク
・素敵な挨拶
 ご存知の方も多いと思いますが朝鮮語で「こんいちは」を「アンニョンハセヨ」、丁寧に言う時には「アンニョンハシムニカ」と言います。
漢字で書けば「アンニョン」は「安寧」で、「安寧でいらっしゃいますか」という挨拶言葉です。
 北海道に行った時に、アイヌの人たちの挨拶言葉を覚えました。
「イランカラプテ」というのですが、「あなたの心に触れさせていただけますか」という意味だそうです。
「あなたの心に触れさせていただけますか」、素敵な言葉ですね。
互いの心に触れ合えば、争いや戦争はなくなると思います。
 昨日6月23日は沖縄慰霊の日でした。
酷い地上戦が行われた沖縄で、そして日本軍が武装解除した日が昨日でした。
昨日の慰霊式で中学生の女子生徒、相良倫子さんがとても素敵な平和の詩を朗読されました。
生きることがどれほど大切かが伝わってくる、素晴らしい詩でした。
沖縄では今も大変な基地の負担が押し付けられ、そして辺野古ではあれだけ沖縄の人たちが反対しているにもかかわらず、基地建設が進められています。
 沖縄には米軍基地がたくさんあり海兵隊が駐留していますが、いま東アジアでは平和の方に向かおうとしています。
・6月という月は
 4月27日、南北首脳会談が板門店で行われました。
あの映像を見ながら、私は涙がこぼれました。
きっと日本人の皆さんとは感じ方が違うかもしれませんが、「こんな日が来たんだ!こんな時が来たんだ!」
 思い起こせば2000年の6月13日、平壌空港に韓国大統領キム・デジュン(金大中)氏が降りて、当時の北朝鮮の最高指導者キム・ジョンイル(金正日)氏と握手したのでした。
その時も胸がいっぱいになって、鳥取に住む父にすぐに電話をしました。
父は7年前に亡くなりましたが、私は日本で生まれた在日二世ですが、父は7歳で日本に来ました。
父の故郷は朝鮮半島ですが、弟一家、妹一家は北朝鮮で暮らしています。
南北分断の狭間で、父は長い間、70数年も故郷に戻ることができず、北にいる弟や妹を思いながら、ひたすら平和を祈って、半島が一つになって会える日を願って生き続けていました。
その父に、「お父さん、見ていますか?」と電話をしたのです。
無口な父は一言、「見てる。泣いてる」と言いました。
いま父が生きていたら、あの板門店の光景を、どんな思いで見ながら泣いただろうと思います。
 明日の6月25日は、朝鮮戦争が休戦になった日です。
6月はいろんな思いが深い月ですが、朝鮮戦争は1950年に始まり1953年に休戦協定が結ばれました。
38度線を挟んで同じ民族が戦いあって、大変な悲劇で、離散家族は1,000万人とも言われています。
・38度線
 38度線がどうして引かれたか、みなさんご存知でしょうか?
それは、日本と大きな関係があります。
日本の植民地支配が36年間続き1945年8月15日、日本の敗戦と同時に私の国、朝鮮半島は独立を果たしたと言われていますが、しかし、独立は果たされていなかったのです。
まだそこは、日本の領土だったからです。
敗戦後の日本は米軍が占領していて、朝鮮半島は被占領国の日本のままだったのです。
 1952年サンフランシスコ平和条約が締結されて、占領のくびきから放たれました。
1945年の朝鮮半島は日本の領土のままでしたが、日本軍の武装解除という名目でアメリカとソ連がそこに入って引かれたのが、38度線でした。
そう思うと38度線は、歴史のつながりの中でいまに至っている事をわかっていただきたいです。(そう言って朴慶南さんは、大きくため息をつきました)
 明日6月25日は休戦協定が結ばれた日ですが、それを平和協定にする事が悲願です。
まだ、朝鮮では戦争は終わっていないのです。
まだ唯一戦争が終わっていない地なのです。
それが日本とは全く関係がない事ではないのです。
日本の植民地支配の流れの中で、朝鮮半島はいまも戦争で分断されているのです。
 実は、日本が北海道で分断されるという話もあったようです。
敗戦国ドイツは、戦争責任として東西冷戦の中で分断されました。
日本も同じように北海道で分断されそうになったのを、日本の身代わりのようにして朝鮮半島が冷戦の中で分断されたのです。
 そういう中で両首脳が、「これから朝鮮半島は平和の道へ向かっていくのだ。和解の道を進むのだ」という熱い思いの宣言を、板門店で出したのです。
・南北会談そして米朝会談実現
 その流れの中で6月12日、本当に行われるのかハラハラしながら見ていましたが、米朝首脳会談が行われました。
去年は、もう戦争が起きるのではないかと、一触即発のような空気が漂っていました。
それを一番歓迎して煽っていたのが、アベ政権です。
それ以前の自民党政権もそうでしたが、一貫して北朝鮮の非道さと脅威を挙げて、自分たちの延命と今の状況を作り出しています。
アベさんにとっては、朝鮮半島が平和になることを望んでいない。
トランプが米朝会談をやめると言った時に、唯一賛成したのがアベさんです。
 本来なら東アジアの安定が、日本の平和にとって一番大切なはずです。
それなのに東アジアに不安があるから、アメリカの核の傘の下にいなきゃいけない。
米軍基地がいっぱい必要だという状況を作っています。
 ムン・ジェイン(文在寅)大統領でなかったら、今日の南北首脳会談も米朝首脳会談も実現しませんでした。
ムン・ジェイン政権になって、「何があっても絶対に朝鮮半島で戦争を起こさせない」という思いが貫かれて、南北会談、米朝会談が行われたのです。
その前のパク・クネ(朴槿恵)政権、その前のイ・ミョンパク(李明博)政権だったら、南北関係は緊張したままだったでしょう。
・長い暗黒の時代があった
 ムン・ジェイン政権がどうして誕生したか、皆さん思い起こしてください。
テレビでよく報道されていましたね。
朝鮮半島は北も南も、本当に辛い時代を生きてきました。
38度線に分断され、イ・スンマン(李承晩)政権ができたあと1960年4月19日、学生たちが起ち上り李政権を倒しましたが、パク・チョンヒ(朴正煕)氏がクーデターを起こして軍事独裁政権ができました。
本当に辛い、長い暗黒の時代が続きました。
それは在日の私たちにも、無関係ではありませんでした。
私のいとこはソウル大に留学し、スパイ罪ということで捕まりました。
その時代、韓国に渡った学生たち、仕事に行った人たちがたくさん逮捕され、国家保安法で無実の罪で牢獄に繋がれ、いとこも6年間繋がれていました。
酷い拷問もありました。
 でも、裁判がやり直されて無実になった今、全て冤罪であった無実であったということで、いとこも数10年ぶりに法廷で裁判官が謝ったそうです。
若者に本当に酷い罪を着せて青春を奪ったことを心から謝罪しますと言って、国家が正式に謝罪しました。
 「タクシー運転手」という映画が上映されていますが、それは、そういう長い苦しい時代の中での1980年5月18日、光州事件を描いています。
パク・チョンヒ氏が腹心に銃で撃たれた後、チョン・ドゥファン(全斗煥)という軍人がまたクーデターを起こしました。
そして光州の人々が民主化を求めて、起ち上がったのですが、その市民に向けて空挺部隊を送り銃を向けて、市民を虐殺したのです。
それは一切外に漏らさないように、報道は全て逆のことを流し、外部を遮断して情報が漏れないようにしたのです。
映画「タクシー運転手」は実話です。
タクシー運転手がドイツの記者に「光州まで行って欲しい」と頼まれて乗せ、入れない光州に本当に頑張って光州に入り、ドイツ人の記者がその模様を撮って世界に発信したのです。
 光州事件が起きたのが1980年で、そういう中でやはり6月ですが、1987年に民主化が成し遂げられたのです。
そしてノ・テウ(盧泰愚)大統領が誕生しましたが、それも6月でした。
それも6月の忘れられない記憶の一つです。
 そういう中でキム・デジュン政権、ノ・ムヒョン(盧武鉉)政権と続きましたが、その後で揺り戻しがあって、イ・ミョンパク政権、パク・クネ政権と、保守政権になりました。
・初めて手にした選挙権
 日本で生まれ育った私は日本で選挙権がなくて、地方選挙でも国政選挙でも投票できません。
選挙権がないまま、60歳まで生きてきました。
在日の私たちが日本で選挙権がないことを言うと、自民党の議員は「韓国だってやっていないから同じじゃないか」と言いますが、韓国では定住外国人は地方選挙権が所与されて、私たちもパク・クネ氏とムン・イジュン氏の大統領選の時に初めて選挙に参加できました。
60になって初めて選挙投票したのです。
幽霊のような存在だった自分が、人間として認められたような気がしました。
そしてムン・イジュン氏に投票したのですが、わずかな差で破れてパク・クネ政権になりました。
 そして誕生したパク・クネ政権の時にはみなさんご存知でしょうが、本当に色々な事件がありました。
何よりもセウル号事件の時には、たくさんの若い学生が犠牲になったのに、それに対してしっかりと対応しなかったのです。
しかもメディアは、全く虚偽の情報を流し続けました。
・ろうそく革命
 そうした中で、韓国の民衆は「ろうそく革命」をしたのです。
市民革命です。
平和的なデモに延べ1,700万人が参加したと言われます。
人口5,000万人の国で、1,700万人がろうそくの火を灯して、自分たちの意思を表したのです。
その「ろうそく革命」が、ムン・イジュン政権を誕生させたのです。
 これまで韓国の民衆は、本当に血を流してきました。
私の知り合いのお兄さんは、4月19日の学生革命で銃で撃たれて命を奪われました。
たくさんの人が血を流して闘い、自らの手で民主主義を守り抜いて今の政権を作り上げたのです。
セウル号事件はパク•クネ政権の時でしたが、全く虚偽の情報が流されました。
その前のイ・ミョンパク政権時から、ひどい言論封殺が行われてきました。
韓国の代表的テレビ局はKBC(公営放送)とMBC(文化放送)とありますが、2008年に米国産牛肉輸入問題について放送されると、市民たちの大規模なデモが起きました。
するとイ・ミョンパク政権はKBC社長を突然解雇し、KBCだけでなくMBCのアナウンサー、プロデューサーなどを解雇したり番組を降ろしたり、閑職に回したりしました。
MBCで調査報道番組の責任プロデューサーだったチェ・スンホ(崔承浩)さんも、解雇されました。
KBCもMBCも大規模なストライキを敢行し、市民も起ち上がったのです。
市民たちが出資して市民メディア「ニュースタパ(打破)」を立ち上げてチェ・スンホ氏が社長になりました。
真実の情報を流し、そしてろうそく革命が起きました。
映画「共犯者たち」はニュースタパが製作したドキュメンタリー映画で、チェ・スンホさんがKBCやMBC関係者に鋭くインタビューを重ねています。
 政府による言論操作はパク・クネ政権にも引き継がれましたが、市民革命が起きて民主政権が誕生すると、旧政権時の人事は一掃され、チェ•スンホさんはMBCに社長として復帰しました。
・私たちは、沈黙してはいけない
 チェ・スンホさんは映画の中で言っています。
「私たちは沈黙しなかった。沈黙しなかったことを子どもたちに伝えられる」
今の日本もメディアは自主規制して伝えて欲しいことを伝えずどうでもいいことばかりを流していますが、これもメディアに裏から手が回っているのかと思います。
私たちは沈黙してはいけないと思います。
戦争に向かおうとするアベ政権に、沈黙してはいけないと思います。
ご一緒に声を上げていきましょう。
●李政美(い ぢょんみ)さん
*プロフィール
 韓国済州島生まれの両親のもと、6人兄弟の末っ子として東京・葛飾で生まれる。
幼い頃はアボジ(父)が歌う韓国歌謡曲を聴いて育つ。
オペラ歌手を夢見て、民族学校から国立音大声楽科に進む。
音大入学前から、在日韓国人政治犯救援運動の集会などで歌い始める。
肉体労働、定時制高校教師などを経て、30歳半ば頃からオリジナル曲を作り始め、以来、自作曲を中心にジャンルを超えた幅広いレパートリーで、ライブ、コンサートを展開。
2003年には、韓国・ソウルでの初ソロコンサートを実現。
現在は、日韓両国で年間役100回のコンサートを行っている。
今夏、3年ぶりとなる待望のニューアルバム「おとと ことばと こころで」を発表。
★李政美さんの歌
「こんにちは。キョンナムの妹のイ・ジョンミです。キョンナムが色々話してくださったので、私は歌に専念します」と言って、3曲歌ってくださいました。
 一曲目は与謝野晶子の♪君死にたまうことなかれ♪
次は韓国映画『キヒャン(鬼郷)』のテーマ曲♪パシリ♪
『鬼郷』は、従軍慰安婦とされた14歳の韓国人少女の過酷な運命を描いた映画だそうですが、主題歌の「パシリ」は、古い高麗時代の伝承歌謡だそうです。
最後の曲は♪奪われた野にも春は来るか♪、これは私の大好きな李相和(イ・サンファ)の詩に、ジョンミさんが曲をつけたものです。
韓国の太鼓を叩きながら歌ってくれました。
 日本統治時代の1926年に書かれた詩です。
   奪われた野にも春は来るか   作・李相和
私はいま全身に陽射しを浴びながら
青い空 緑の野の交わるところを目指して
髪の分け目のような畔を 夢の中を行くように ひたすら歩く

唇を閉ざした空よ 野よ
私一人で来たような気がしないが
おまえが誘ったのか 誰かが呼んだのか もどかしい 言っておくれ

風は私の耳もとにささやき
しばしも立ち止まらせまいと裾をはためかし
雲雀は垣根越しの少女のように 雲に隠れて楽しげにさえずる

実り豊かに波打つ麦畑よ
夕べ夜半過ぎに降ったやさしい雨で
おまえは麻の束のような美しい髪を洗ったのだね 私の頭まで軽くなった

ひとりでも 足取り軽く行こう
乾いた田を抱いてめぐる小川は
乳飲み子をあやす歌をうたい ひとり肩を踊らせて流れてゆく

蝶々よ 燕よ せかさないで
鶏頭や昼顔の花にも挨拶をしなければ
ヒマの髪油を塗った人が草取りをした あの畑も見てみたい

私の手に鍬を握らせておくれ
豊かな乳房のような 柔らかなこの土地を
くるぶしが痛くなるほど踏み 心地良い汗を流してみたいのだ

川辺に遊ぶ子どものように
休みなく駆けまわる私の魂よ
なにを求め どこへ行くのか おかしいじゃないか 答えてみろ

私はからだ中 草いきれに包まれ
緑の笑い 緑の悲しみの入り混じる中を
足を引き引き 一日 歩く まるで春の精に憑かれたようだ

しかし、いまは野は奪われ 春さえも奪われようとしているのだ
                    (訳・徐京植 ソ・キョンシク)

*集会第1部「表現者はリレーする」はこの後、杉原浩司さん(NAJAT)と、まさのあつこさん(ジャーナリスト)のトーク、佐藤道代さん(ダンサー)のダンス、西尾綾子さん(伊達判決を生かす会)と湯川れい子さん(音楽評論家)のトークがありました。
後の方のお話の報告は、次号に続きます。                 いちえ

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