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2018年6月4日号「5月の南相馬で②」


前便からだいぶ間が空いてしまいましたが、5月の南相馬訪問の続きです。

◎5月22日
●次回に訪ねたい
 鹿島の仮設住宅を訪ねる前に、昨日吉沢さんに聞いた酪農家の滝沢さんの牧草地を見に行きました。
滝沢さんの家は、馬場にあります。
吉沢さんに聞いた通り、滝沢さんの牧草畑には高さが2m以上はありそうなソーラーパネルが張り巡らしてありました。
なるほどこの高さなら、牧草を刈るのも難なくできるでしょう。
吉沢さんによると滝沢さんは、「今は酪農より売電からの収入の方が多い」と言っているそうです。
それは吉沢さんからの又聞きですから、今度ゆっくり滝沢さんをお訪ねしようと思いました。
 浜通りの海岸地域はどこも津波の被害が甚大だったのですが、鹿島の右田浜から海老の辺りも集落の家々は流され犠牲者もまた多かった地域です。
その津波浸水域は、今はメガソーラーの立地地区になっています。
ところがそこでのソーラーパネルはとても丈が低く設置されていて、下草を狩ることなどできないような高さなのです。
除草剤を撒くしか方法はないような設置の仕方です。
 またビジネスホテル六角の近くの森合地区にはごく狭い畑地ですがエコファームと称して、150〜200cm高さにソーラーパネルを設置してその下で野菜栽培をするように作られていたところがあります。
でもそこは最初の年はかぼちゃを作っていましたが、今は畑は荒れ放題でソーラーパネルも稼働しているのかどうなのか…。
お隣の畑の方に尋ねてみましたが、その方にも判らないようでした。
 だから次にはぜひ、滝沢さんをお訪ねして話をお聞かせいただこうと思いました。
●かぼちゃ作り名人の羽根田さん
 滝沢さんの牧草地を見に行った時に、大留さんが言いました。
「羽根田さんの家はこの辺じゃないかなぁ。あそこの表札はたしか羽根田だったよ」
羽根田ヨシさんは鹿島の借り上げ住宅に避難していた人で、六角支援隊の畑を使っていた人です。
かぼちゃの品評会で何度も賞を取ったことがある、かぼちゃ作りの名人なのです。
 大留さんが「羽根田」の表札を見つけた家を訪ねると、そこはヨシさんの親族の家でしたが、そこでヨシさんの家を教えていただきました。
突然ではご都合もあろうかと、直前ではありましたがヨシさんに電話をしました。
ヨシさんが借り上げ住宅を退去してからは電話をすることもなく過ぎていたので、久しぶりの電話に驚かれました。
私がお宅のすぐ近くまで来ていることを伝えるとヨシさんは、デイサービスの日なので9時には鹿島に出かけるけれど、どうぞいらっしゃいと言ってくれました。
時計を見ると8時20分です。
長居はできませんが、久しぶりにお目にかかりたくてお訪ねしました。
 ヨシさんに会うのは3年ぶりです。
お孫さんが運んでくれたお茶を進めながらヨシさんは、「5月に誕生日が来て、88歳になりました」と言いました。
「今も畑や詩吟を続けていらっしゃいますか?」と尋ねると「ええ、家の前の畑にビニールハウスを作ってもらって、そこで野菜を育ててますよ。毎日ハウスに入って野菜たちに挨拶して『おはようございます。練習しますからちょっと聞いてくださいね』って言って野菜たちに聞いてもらってます」
 日々、家族が食べる野菜作りで体も使い、詩吟の練習で声も出して米寿を迎えたヨシさんは、とてもお元気でした。
 ヨシさんは、アマチュア天文家で彗星を発見した(羽根田・カンボス彗星)羽根田利夫さんの姪御さんです。
借り上げ住宅に入居されていた時に何度かお訪ねして、いろいろ話しを聞かせていただいていました。
そして、今度は泊りがけで馬場の家にいらっしゃい、と言われていましたが、叶わずに過ぎていました。
近いうちに改めてお訪ねして、またゆっくりお話を聞かせていただこうと思いました。
●なんで??
 鹿島の仮設住宅を訪ねようと、黒沢さんに電話をしました。
黒沢さんは仮設住宅を去年の秋に退去して、近くの新居に住んでいますが、それまで住んでいた小池第3仮設住宅の集会所に行けば、まだ仮設にいる他の人たちにも会えます。
だからこれまではいつも、小池第3の集会所で会っていました。
ところが仮設住宅管理の委託業者から、「退去した人は集会所を使うことはできない」と言われたそうなのです。
おかしな話です。
避難指示解除になって退去した人たちは多く、残っている人はわずかです。
けれどもそれ以前、避難指示解除の日がささやかれ始めた頃、仮設に住む多くの人たちが、ここに入居してから築いてきた関係を気持ちの拠り所とし「みんなで一緒に居たいね。どこかへ移るなら一緒のところがいいね」と言っていたのです。
それはどの仮設住宅でも聞かれた言葉です。
被災してそれまでの地域からバラバラに離れ、仮設に入居してそこで新たな人間関係を築き、大変な思いをくぐり抜けた人同士が互いに心からの結びつきを得たのです。
だからこそみんな、「離れたくないよね」と言っていたのです。
けれどもみんな一緒には叶わず、ある人は復興住宅に、ある人は移転地に新居を建てなどと、またバラバラになりました。
周りには知った人のいない新たな暮らしで、昼間は家の中で一人でテレビを見てるだけという暮らしになってしまった人も多いのです。
せめて元の仮設住宅の集会所に行って、残っている仲間たちと“お茶っこ“したいというのは人情ではないでしょうか。
高齢者の孤独感を、慮ることはできないのでしょうか?
おかしな話だと思います。
●寺内塚合の談話室で
 黒沢さんから小池第3仮設住宅の集会所は使えないと聞いて、それなら黒沢さんに寺内塚合仮設住宅の談話室に来てもらうことにしました。
今は他所から訪ねてくる人も滅多になく、手芸品も作らなくなっている談話室です。
黒沢さんの新居からもすぐ近く、談話室の窓からは黒沢さんの家の屋根が見えます。
 寺内塚合は、この日は天野さんと山田さんの2人だけで菅野さんが居ません。
いつもは月曜日が菅野さんがデイサービスに行く日なので火曜日の今日はいる筈なのですが、デイサービスでの一泊バス旅行に参加しているのだそうです。
談話室から黒沢さんに電話をすると、しばらくして黒沢さんとハルイさんがやって来ました。
 集まった4人はみんな小高の人ですから共通の知人や縁者がいたりして、それらの人たちの消息を確かめ合ったり、被災した時の状況や避難の経過などを話しあって互いに理解を深めあっていました。
そして黒沢さんが「今度からここに遊びに来ればいいね」と言い、天野さんや山田さんも「ここに来たらいいよ」と言い、なんだかお見合い成立のようで嬉しいことでした。
 ハルイさんが原町に新居があるのにまだ仮設住宅にいることを知って、天野さんと山田さんが理由を尋ねたのです。
ハルイさんが仮設の自分の部屋の隣に90歳で一人暮らしの女性がいるので、その人を置いては出られないというと、2人は「えらいねぇ」と、感に堪えないように言いました。
黒沢さんが「ハルイさんが部屋に居ると、隣のバッパが来んのな。ハルイさん、それ判っててわざと『ぬしゃ、何しに来た。呼ばってねぇぞ』って言うのな。私は初めてそれ聞いた時、いやぁハルイさんこんな怖い人だったかってびっくりしてなぁ。だけどバッパも判ってて「はい、はい、わ(自分のこと)は呼ばわってねぇけど来ました」なんて言って入ってくんのよ。ハルイさんわざとそんなに言うんだな」と、ハルイさんの人柄を説明するのでした。
ハルイさんも笑いながら「浜は言葉が荒いんだよ」と笑いながら言いました。
浦尻で、漁師さんの出のハルイさんは、浜言葉は荒いのだと言いました。
ハルイさんのような心遣いを、行政から委託された管理業者に望むのは無理なことでしょうか?
●小林さん
 久しぶりに小林さんのお宅を訪ねました。
小林さんは鹿島区の農家で、元市会議員だった方です。
六角支援隊が支援活動としてビニールハウスや畑を計画した時に、畑地を提供してくださった方です。
前回お訪ねした時にはお連れ合いが入院中で、とても憔悴したご様子だったのです。
大留さんからは、「奥さんも退院して、二人共元気だよ」と聞いてはいましたが、その言葉通り、お二人ともお元気そうで嬉しいことでした。
有機栽培で野菜を作り、グリーンツーリズム活動で農家民宿をされたり、ベトナムの留学生を受け入れて支援するなどベトナムとの交流も重ねてもきた篤農家のご夫婦です。
 小林さんが言いました。
「人口がこんなに減少して農業者も少なくなって、これからもそれは加速していくだろうから、南相馬をふくめて双葉郡はいわき市と合併する他ないのではないか」
私には事の深刻さを計り知れませんが、政府や行政がしきりに復興を喧伝していても地元にはそれとは裏腹にこうした悲観の声もあるのです。
言葉は違っても、他の人からも希望のない声を聞いています。
 ここでもまたトリチウム水を海に放水する件が話題になり、そんな事は決してしてはならない事なのだと思いを一つにしました。

*帰路の車窓には、五月晴れの下に瑞々しい早苗田と麦秋のパッチワークがありました。

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