HOME » 一枝通信»2018年6月7日号「5月11日、安保法制違憲訴訟 国家賠償請求裁判傍聴記②」

2018年6月7日号「5月11日、安保法制違憲訴訟 国家賠償請求裁判傍聴記②」


裁判傍聴記の続きです。

●伊藤 真弁護士:「裁判所の違憲審査のあり方と役割」
⒈組織のガバナンスと裁判所への信頼
どんな組織でも、完璧であることは不可能である。
人間が組織を作り運営する以上は、会社であれ国家であれ、組織を担う人間が不適切な行動をとることがある。
そこで、そのような不正をチェックする機関の存在が不可欠となる。
企業でいえば社外取締役であり、第三者機関による検証である。
国家においても同様で、国家組織のガバナンスの基本が権力分立で立法、行政、司法が相互に抑制・均衡を保つことで、国民の人権保障を図ろうとしている。
その構造を真似て、株主総会、取締役会、監査役という株式会社組織の基本は作られた。
国家組織のガバナンスは、企業にとっても手本となるべきもののはずである。
その国家のガバナンスが現在、底が抜けたように機能しなくなってしまっている。
国会による行政統制のために不可欠な情報が、公文書の隠蔽、廃棄、改竄等により信頼できなくなってしまった。
仮に司法による政治統制が、司法自らの自制と称する姿勢によって機能せず「ダメなものはダメ」と言えないのであれば、この国の国家組織のガバナンスは、とても企業や個人の手本になるものとは言えなくなる。
それは、裁判所に対する国民の信頼を失うことを意味する。
原告らばかりか多くの国民は、政治に絶望しても司法への信頼を完全には失っていない。
だからこそ、本訴訟を提訴し、支援している。
司法への信頼が、国民の国家への信頼の糸をかろうじて繋ぎ止めているのである。
このことは、裁判所にとっても極めて重要なことと思われる。
財布も武器も持たない裁判所にとって最も重要なことは、国民からの信頼である。
国民の信頼こそが、司法権という国家権力行使の正統性の源泉である。
裁判所が憲法判断を下しても、国会がそれに従わなければ裁判所の威信に傷がつくという考えがあることは承知している。
しかし、それ以上に、裁判所が国民から判断を期待された争点についての判断を避けることによって失う信頼の方が大きいことを忘れてはならない。
本件訴訟で原告らが提起している争点は、原告らには法的保護が必要な被害が生じていること、そして新安保法制法の内容及び制定手続きが違憲であることである。
どちらも重要な争点であり、裁判所が判断する必要のある事項である。
原告の請求を棄却する場合であっても、憲法判断を行っている例は少なくない。
それは合憲違憲の判断を明示的に示す必要性が、当該憲法問題の重要性、社会的影響等を考慮した個々の事案として認められたからに他ならない。
そうした裁量を委ねられている裁判所として、それを適切に行使する責務があるからに他ならない。
準備書面で引用した首相の靖国神社公式参拝を違憲判断した九州靖国訴訟(福岡地裁平成16年4月7日)は、以下の通り、違憲判断をすることが自らの責務であると判示している。
「本件参拝は、靖国神社参拝の合憲性について十分な議論も経ないままなされ、その後も靖国神社への参拝は繰り返されてきたものである。こうした事情に鑑みるとき、裁判所が違憲性についての判断を回避すれば、今後も同様の行為が繰り返される可能性が高いというべきであり、当裁判所は、本件参拝の違憲性を判断することを自らの責務と考え、前記のとおり判示するものである」
しかし、本件は、裁判所から見てその程度のものなのだろうか。
現在の日本の政治状況は、とても議会制民主主義が十分に機能していると胸を張れるものでないことは、裁判所もよくわかっていると思う。
秘密保護法、新安保法制、共謀罪など十分な議論と検討が必要な法律が、数の力によって押し切られるように成立してしまった。
昨今の官僚、政治家の不祥事、不適切な発言をあげるまでもなく、議会制民主主義の根幹が揺らいでしまっている。
こうしたときに裁判所がその役割を果たさずして、果たして日本に未来はあるだろうか。
政治的な問題だから司法は口を差し挟まないという態度が、国の方向を誤らせるのではないか。
後世から見れば、あのときが重要な分岐点だったといわれる時に、今私たちはいるのではないか。
⒉憲法判断と政治性
憲法とは国家権力を拘束し抑制するための法である。
権力の暴走や乱用に歯止めをかけ、国民の権利、自由、平和を守ることが憲法の存在意義である。
よって、憲法判断とは必然的に時の政治に対抗する色彩を帯びる。
憲法判断をすること自体が、本来極めて政治的なものなのだ。
戦前の大日本帝国憲法は、裁判所に違憲審査権を認めず、司法権の独立を認めず、行政訴訟すら司法権に含まれず、裁判所の権限から除外されていた。
それが、日本国憲法の下で、行政訴訟を含め全てが司法権に含まれ、司法権の独立が認められ、裁判所に違憲審査権が認められた。
これは司法が極めて政治的な判断をすることを憲法自体が認めたことを意味する。
こうした政治的な判断権限を裁判所に与えたからこそ、政治部門から不当な影響を受けないように、裁判官の身分も憲法上、最大限保障されることになったのである。
司法権が独立し、身分が保障された現行憲法の下の裁判官が恐れるものは、何もないはずである。
裁判所が憲法判断することは時の政権に異論を唱えることになるが、それは健全な政治部門を回復するためにむしろ、政治部門の機能不全の改善に資するのである。
最高裁の最終的な憲法判断をより充実したものにするために、地裁段階であらゆる資料を確保し記録化しておかなければならない。
判断基礎資料確保は地裁段階における極めて重要な責任であるから、証人尋問を実施し上級審における基礎資料を充実させておくべきである。
⒊これまでの憲法9条裁判との違い
本件訴訟は、これまでの憲法9条が問題となった裁判とは全く異なるものである。
長沼事件、恵庭事件とは異なり、自衛隊の存在そのものの合憲性を争うものではない。また、砂川事件のように安保条約の合憲性を争うものでもない。
これらとは、政治部門への配慮の必要性が全く異なる。
国民の多くが認め、長期間存在してきた組織や条約に対する憲法判断に躊躇を覚える裁判官がいることは理解できるが、本訴訟はそのようなものではない。
これから違憲の既成事実が積み重ねられようとしている時に、裁判所が人権と憲法価値の擁護者として判断するだけである。
イラク訴訟等とも異なり、法律制定手続き自体の瑕疵をも問題にしている訴訟である。
法律制定手続きの異常さ、十分な議論も国民への説明もなされないままに、これまでとは全く違う国柄になってしまうような前代未聞の事態が起こった。
民主主義というプロセスそのものを傷つけたことが、国家行為の違法性の根拠となる。
政治的に意見が分かれる問題について、政治的敗者が不満を述べるようなものでは全くない。
圧倒的多数の有識者や法律専門家が違憲とする法律が、十分な議論を経たと国民の半数以上が認めない中で、単なる数の力で成立させてしまったという法的にはクーデターと評される事態を問題にしているのである。
もちろん安全保障政策に関する国民の意見は多様である。
具体的な安全保障政策の実現や外交交渉の内容などは、政治部門の判断に委ねられる。
しかし、内閣、国会が最低限遵守しなければならない枠組みは、憲法によって規定されている。
政策の当不当の判断ではなく、こうした憲法の枠組みを逸脱した立法か否かの判断こそは、司法の役割に他ならない。
本件訴訟は、新安保法制法の安全保障政策上の当否の判断を裁判所に求めているのではない。
あくまでも、新安保法制法が、憲法が許容している枠組みを逸脱しているか否かの判断を求めているだけである。
この問題を政治の場で解決すべきであるとして裁判所が憲法判断を避け、政治部門の行為が憲法の枠組みを逸脱しているか否かの判断を放棄してしまうことがあれば、それこそ司法による政治部門への追随であり、極めて政治的な判断をしたと評価されることになろう。
今回の事件は憲法判断を避けること事態が、極めて政治的な判断であることを意味する事案なのである。
仮に、憲法判断を避けるとしたら、司法は時の政権与党に逆らわない法がいいというだけの話となり、人はそれを保身という。
政治的判断に踏み込みたくないという裁判所の意図とは全く逆に、裁判所が極めて政治的な判断をしたと国民は評価するだろう。
その結果、裁判所に対する国民の信頼は失墜するだろう。
⒋最後に
私事で恐縮だが、私は37年間司法試験の受験指導に関わってきた。
裁判官諸氏は、何のために憲法を学んだのであろうか。
単なる試験科目ではなかったはずである。憲法には人類の叡智、日本の先人たちの叡智が詰まっていることに気づいたはずである。
また憲法9条には、戦争の惨禍を二度と繰り返してはならないという先人たちの強い思いが込められていることも知ったはずである。
それに感動したこともあったのではないだろうか。
私は、国民に憲法価値を知ってもらうため、全国で講演を続けている。
立憲主義が蹂躙された時に国民として何ができるかを考え、実践しているつもりである。
しかし、隔靴掻痒の感を否めず、素直に言って、同じ憲法を学んだ者として、裁判官をとても羨ましく思う。
裁判官は素晴らしい職業である。
憲法価値を守る権限が与えられ、それを仕事として実践できる唯一の職業である。
自らの意思で憲法を蘇らせることができ、目の前で苦しんでいる原告に希望の光を与えることができるのは裁判官だけである。
そして、裁判官には何も畏れるものはない。
仮にあるとすれば、自らの良心と憲法だけである。
従うべきものも自らの良心と憲法だけである。
代理人は、裁判所にあえて「勇気と英断」などは求めない。
この歴史に残る裁判において、裁判官としての、法律家としての職責を淡々と果たしていただきたいだけである。
憲法を学んだ同じ法律家として、司法には、政治部門に対して強く気高く聳え立っていてほしい。
このことを弁論更新に際して切に願う。
●古川健三弁護士:「原告らが受けた被害について」
⒈恐怖および欠乏からの自由としての平和的生存権
日本国憲法前文2段は、次のように宣言している。
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
平和的生存権とは、決して抽象的な「平和」を求める趣旨でなく、一人一人の市民に、具体的に恐怖からの自由、欠乏からの自由を保障するものである。
恐怖からの自由、欠乏からの自由はルーズベルトが1941年に提唱した4つの自由のうちの二つである。(注:他の2つは「信仰の自由」「表現の自由」)
この「4つの自由」を普遍的原理とする考え方は世界人権宣言にも取り入れられ、「平和の権利」を保障しようとする動きは今や全世界に広がっている。
ところが今日、「恐怖」と「欠乏」は極めて具体的なものとして私たちに襲いかかってきている。
「平和安全法制」という美名とは裏腹な「戦争法」ともいうべき新安保法制法の実態は、私たちが幾多の犠牲の上に築き上げてきたこの国の姿を根底から覆した。
原告らが歩んできた人生は、日本が他国の戦争に協力し戦争当事国となる法的仕組みを持ったことによって毀損され、具体的な恐怖として立ち現れた。
⒉原告らの個別の被害
先に行われた原告本人尋問に現れた原告らの被害について述べる。
⑴原告横湯
原告横湯は沼津大空襲で亡くなった女学生の肉片が木に張り付いている様子や焼死体が累々と並べられた様子、治安維持法で弾圧された父の死後、母と工場の屋根裏に隠れた記憶を生々しく語っている。
それらの記憶は、新安保法制法の制定によってフラッシュバックして横湯を苦しめる。
⑵原告清水
原告清水の息子は先天性の心臓疾患があり、手術を受けた当時は成人まで生きた前例がないと言われていた。
息子は成人した今も300m歩くごとに休憩しなければならず、A4コピー用紙2冊を持つのがせい一杯だ。
新安保法制法の制定は、ナチスドイツで障がい者が惨殺された歴史を清水に想起させ、2016年に相模原の福祉施設で起きた事件は、新安保法施理法制定後の社会で、障がい者は「生きる価値がない」と見なされるようになったことを象徴する事件として原告清水を震撼させた。
⑶原告平原
原告平原は、長崎の被曝体験者だ。
担架で運ばれてくる犠牲者の火傷で皮膚がずるずると向けている様子は、平原の心に深い傷を残した。
平原は、日本には憲法9条があって、もう戦争はしない、してはいけないということに大きな安心感を持って生きてきた。
ところが新安保法制法によって再び日本が戦争に巻き込まれる時が来るかもしれないと大きな不安を感じ、またそれが国民に十分に語られないまま決められたことに憤りを感じている。
それは原告平原の被爆体験と、それを原点としたその後の人生の否定という極めて重大な被害をもたらしている。
⑷原告新倉
原告新倉は基地の町横須賀で平和運動を続け、基地に配属されている自衛官やその家族は憲法9条によって守られ、実際の戦闘への派遣が食い止められていることを実感している。
原告新倉にとって憲法9条は、自衛官や米軍兵士との間でも共有できる普遍的な価値だ。
新倉は、ある時現役自衛官から「命令があれば行かざるを得ないから、そんなひどい命令を出す政府を絶対に作らないでほしい」と言われたことがある。
ところが新安保法制法は、基地の町横須賀の危険度を著しく高めた。
新安保法制法による武器等防護は、横須賀基地所属の「いずも」によって実施された。
横須賀基地は米原子力空母の母港で、原子炉がメルトダウンした場合は基地から8Km
内は全数致死と言われている。
新安保法制法の制定は、具体的な戦闘を想定せざるを得ない状況を作り出し、横須賀基地周辺の危険性は、新たなステージに持ち上げられてしまった。
⑸原告渡辺
原告渡辺は原発の設計に長く関わってきた技師であり、誰よりも原発の恐ろしさを知っている。
原発は原子炉が破壊されなくても冷却材の喪失で、容易に重大事故を引き起こす。
使用済み燃料も、極めて危険な放射性物質を多く含んでいる。
新安保法制法の制定は、日本が戦争当事国となり攻撃を受ける可能性をもたらした。
原発は、運転を停止して使用済み燃料を放置して冷やすことで安全を保てるが、新安保法制法は、日本への攻撃の可能性をもたらした。
このような形で安全管理を困難なものとし、原発の危険性を技術的に低減させる方法を新安保法制法が奪った。
新安保法制法は技術者としての渡辺が、原発をフェイズ・アウトしようとする試みを粉々に砕いた。
⑹原告菱山
原告菱山は、祖母から八王子大空襲の体験を聞き、戦争の恐ろしさと戦争を放棄した憲法9条の素晴らしさ、大切さを知った。
2001年9月11日アメリカでの同時多発テロとその後の動きで、戦争でテロに立ち向かってもテロは無くならないとの思いから、反戦平和運動に参加するようになった。
2015年9月19日未明の強行採決で、これからどうなるのかと地獄の蓋が開いたような恐ろしさを感じた。
新安保法制法制定後は、原告菱山のアイデンティティの中心にあった憲法が蹂躙され、戦前戦中のような時代が始まったことに対して恐怖を感じている。
⑺原告安海
原告安海はインドネシアで生まれ育ち、かつて日本軍がインドネシア人を虐殺した歴史を間近に感じてきた。
また2001年9月11日当時はアメリカに留学しており、愛国心が煽り立てられて悪に対する武力の行使はやむなしという空気が巻き起こり、戦争に突入する姿を目の当たりにした。
その経験から、新安保法制法を強行採決した日本がまさに、911テロ当時のアメリカにそっくりであり、日本が戦争へ突入することへの恐怖を感じている。
またキリスト者として、神道が上位に置かれて他の宗教が弾圧され戦争に加担させられた苦い歴史の繰り返しを危惧している。
原告安海は、新安保法制法制定により、信仰と信念に基づいた行動と言論すらも監視され、排除されるのではないかと、極めて切迫した危機感を持っている。
3、まとめ
以上の通り、新安保法制法の制定は、原告らの人生そのものを否定し、生命と人格に対する重大な脅威を現実化させている。
これらの恐怖から私たち市民を守るのが憲法、そして裁判所の本来の責務だ。
本日もこの後3名の原告本人尋問が行われるが、裁判所においては、原告らの体験と感性に寄り添ってその証言に真摯に耳を傾け、原告らの訴えの重大さ、深刻さに想いを致していただきたくお願い申し上げる。
●棚橋桂介弁護士:証人の採用について
5月9日付証拠申出書を裁判所に提出し、従前立証計画で示していた19名のうち特に8人について、尋問すべき必要性が高く、証人として採用すべきと主張する。
その8名とは、元内閣法制局長官の宮崎礼壹さん、元最高裁判事の濱田邦夫さん、参議院議員の福山哲郎さん、ジャーナリストの半田滋さん、軍事評論家の前田哲男さん、ジャーナリスト・NGO職員の西谷文和さん、小説家・歴史家の半藤一利さん、学習院大学教授(憲法学)の青井未帆さんだ。
私たちが8名の証人尋問で立証しようとしているのは大きく分けると、次の3点だ。①新安保法制法の違憲性、②その他の加害行為 (国会での参考人質疑で、新安保法制法が違憲である疑いが強いことが明確にされたにも拘わらず、その点についての議論が十分なされないまま、決議の有無さえも分からないような異常な状況で強行採決が行われたこと等)、③原告らの訴える精神的被害に客観的根拠が存在することを基礎付ける事実、以上の3点だ。
証人尋問が必要だとする私たちの主張に対し被告は、「原告らが予定している証人による立証は、本件の争点である国賠法救済を得られる具体的な權利ないし法的利益の有無を離れて、実質は原告らの意見ないし評価が中心であり、法的に意味ある事実についての証人尋問とならないから」不要であると言う。
また、原告らが主張する權利ないし法的利益の侵害(損害)は、国賠法上の保護に値しないからこれを前提に証人尋問が不要だと述べている。
しかし、明確な基準ないし根拠を示さずに私たちの主張する權利ないし法的利益の侵害は国賠法上の保護に値しないと切り捨てることは許されない。
私たちは原告らの訴える精神的被害に客観的根拠が存在することを基礎付ける事実についても証人尋問で明らかにしようとしているのだから、仮に裁判所がこの事実に関する証人を採用せずに私たちの請求を棄却するなら、私たちの立証を不当に制限するとの誹りを免れない。
この裁判で私たちが主張している原告らの損害は精神的損害であり、目に見えにくいものだ。
だからこそ、その存否の判断は慎重にしなければならず、目に見えにくいからというだけで安易に否定してはならない。
新安保法制法に関連して生じつつある現実社会の変化が、原告らの訴える精神的被害とどのような対応関係にあるのかを専門家の知見を踏まえて探る必要があり、また目に見えにくい損害の実態を知るには加害行為について分析することが不可欠だ。
被告の主張は、違憲審査について最高裁が採用している枠組みを全く無視するものであり、この点でも適切ではない。
もちろん私たちは、原告らに生じた法的利益の侵害(損害)に国賠法上の救済が与えられなければならないと主張しているが、仮に結果としてそうならない場合でも、本件で問題となっている新安保法制法の重大性・違憲状態の深刻性・社会的影響の大きさ等を考慮すれば、本件において裁判所が憲法判断を明示的に示す必要があることは火を見るより明らかであり、そのためには証人尋問は欠かせない。
違憲性についての判断を最終的に下すのは最高裁判所だが、憲法81条に関する現行の支配的解釈は、違憲審査を最高裁に集中させず下級裁判所にもその行使を認めており、これは一定の拘束を受けつつも各審級が独自の憲法解釈を提示することで違憲審査権行使の活性化を促進するものであると評価されている。
下級審段階で違憲性について十分な審理が尽くされることで、最高裁による終局的な憲法判断がより充実したものになることが期待できる。
従って、最高裁が憲法判断を行うにあたって少しでも有益な証拠は採用すべきであり、このような観点からも、証人尋問を行う必要があると言える。
以上述べてきた理由により、私たちは少なくとも今回証拠申出をしている8名の証人を採用すべきと考える。
本件が政治的立場を超えた多くの国民の耳目を集める重大事件であること、深刻な違憲状態が存在するにも拘わらず裁判所がそれを座視することは、違憲状態を社会に定着・固定化させ、憲法規範が書き換えられる“壊憲”に、司法が積極的に手を貸すことにほかならず、司法の役割を放棄するものであることに思いをいたし、あるべき判断をしていただきたく強く訴える次第だ。

0件の読者の声 »

コメントはまだありません。

この投稿へのコメントの RSS フィード。

本の感想をお寄せください。

編集部で掲載の可否を判断させていただきます。
あらかじめご了承ください。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)




TOPへ戻る