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2018年7月16日号「6月24日集会報告③」


●佐藤道代さん(ダンサー)
*佐藤さんプロフィール
津田塾大学卒業後、ロータリー財団奨学生として留学したNY大学より1997年修士号及び舞踊教育学科長賞「舞踊教育への特別な専心」を授与。
1999年イサドラ・ダンカン国際学校教員免許取得後、2000年より同校日本大使として国内外で講演、指導を行う。
2007年「イサドラの舞踊理論とスピチチュアリティー」を、2013年「古代ギリシャとイサドラ」の論文を出版。
作家として自作を国内外で公演、NYタイムス紙は「スタイル・内容共に洗練された作風」と書く。
2012年より福島の小学校、仮設住宅で福島の美しい自然を踊る活動も行う。
★佐藤さんのプログラム
・「復讐の女神」音楽:グルック「オルフェ」より、振付:イサドラ•ダンカン(1910)
 イサドラ•ダンカン振付のダンスを緋色の衣装で舞い、会場を魅了しました。
・福島県伊達市大石小学校の子供たちの映像
 大石小学校の子ども達が佐藤さんの指導で伸びやかに表現活動をする様がスクリーンに映し出されました。
・「狩り」音楽:リスト超絶技巧練習曲第8番、振付:佐藤道代(2015年)
 「墨虎を獲らんと欲せば白狼の足跡を進むべし」飯舘村の山津見神社の神話によせて、福島の霊山に700年伝わる「濫觴の舞」を元に、自然と文明の融合を祈念して、白装束に刀を手にして舞った佐藤さんでした。

●西尾綾子さん(伊達判決を生かす会)
*西尾さんプロフィール
 1969年新潟県生まれの会社員。
2003年のイラク戦争をきっかけに、市民運動に関わるようになる。
新宿での路上生活者支援などを経て、2015年より毎週日曜日に池袋駅前で仲間達とともに、プラカードを持ち安保法制反対などのスタンディングアピールを続けているほか、ラジオ番組「みんなの民主主義歩みの会」(FMたちかわ)作りにも参加している。
また、人権NGOのボランティアとして人権問題にも取り組む。
現在「伊達判決を生かす会」の会員として、砂川事件の元被告らと共に、砂川事件最高裁判決を無効とする再審請求を最高裁に特別抗告中。
★西尾さんのお話
・戦争は嘘と秘密から始まる
 戦争は嘘と秘密から始まると言われます。
安倍政権は特定秘密保護法に始まり、安保法制、共謀罪、原発、モリカケ、日報問題など、嘘と秘密、疑惑のオンパレードです。
ナチスの手口に学んだらどうかなどと、どなたかが仰いましたが、嘘も繰り返せば本当だと思わせると言わんばかりです。
国民が知るべき真実は秘密にされて、国会での議論は封殺されています。
2014年7月、安倍内閣は集団的自衛権の行使容認の法的根拠として、砂川事件最高裁判決を持ち出しました。
これは、明らかな間違いです。
・砂川事件とは
 ご存知のように砂川事件裁判の主な争点は、日米安保条約に基づく米軍駐留が憲法9条に違反しているか否かです。
安保法制が合憲だと主張するために、無関係な砂川事件裁判最高裁判決を持ち出し、無いものをあると言い張るような強引な嘘を堂々とついています。
これを政府がやっていることに私は、戦慄と憤りを禁じ得ません。
そのような形で思いがけずに注目を浴びましたが、砂川事件裁判は今日もなおさまざまな意味で重要です。
 1955年現在の立川市にあった旧米軍立川基地の拡張計画に反対して、多くの市民、労働者、学生達が立ち上がった砂川闘争は警官隊の暴行で多数の負傷者を出しながらも、彼らは非暴力の抵抗を貫き、米軍基地の拡張を断念させました。
しかし、デモ隊の一部が立ち入り禁止の基地内に数m入ったということで、7名が日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反で逮捕起訴されました。
これが1957年の砂川事件です。
1959年3月30日に出された第一審東京地裁判決は、画期的で非常に明快、そして至極真っ当な判決でした。
伊達秋雄裁判長の名をとって、伊達判決と呼ばれています。
・伊達判決
 日本国憲法第9条は、従来の我が国の軍国主義的、侵略主義的性格についての反省だけでなく正義と秩序を基調とする世界永遠の平和を実現するための成文たらんとする高邁な理想と悲壮な決意を示すものである。
駐留米軍は、憲法9条によって禁止されている戦力の保持に該当するもので違憲である。
駐留米軍が違憲である以上、日米安全保障条約に基づく刑事特別法は無効であり被告人は全員無罪。
今日に至るまで、駐留米軍を違憲とした判決は、伊達判決しかありません。
・司法権の放棄
 当時日米両政府は、日米安保条約改定に向けて動いていました。
駐留米軍を違憲とした第一審が安保改定の妨げになると考えた日米政府は、伊達判決が出てすぐに最高裁に異例の跳躍上告をしました。
1959年12月16日、最高裁の田中耕太郎裁判長は第一審伊達判決を破棄し、事件を東京地裁に差し戻しました。
差し戻しで被告人達は、罰金2,000円の有罪判決を言い渡されました。
 この判決は、いわゆる統治行為論に使われました。
日米安保のごとき高度の政治性を持つものは、裁判所はこれを判断しないとして、司法権を放棄したのです。
嘉手納国賠訴訟や厚木基地夜間飛行差止訴訟の判決を見ても判るように、今なお裁判所は米軍基地がらみの判断からは逃げています。
後の裁判に判例として影響を持ち続ける砂川事件最高裁判決ですが、実はこの裁判は日本の司法に大きな汚点を残した問題のある裁判でした。
・新事実の浮上
 判決から時を隔てた2008年以降、米公文書館で相次いで見つかった文書によって、田中最高裁長官が、当時のマッカーサー駐日大使と複数回にわたり秘密裡に接触して、進行中の砂川事件裁判について情報を流していたという驚くべき事実が明らかになりました。
田中裁判長は砂川事件裁判の判決方針や判決時期などを、米大使に伝えていました。
日米安保改定の障害となる第一審伊達判決を、なんとか早く潰そうという日米両政府の思惑に、日本の司法が完全におもねっていたのです。
 日本国憲法第37条に謳われた公平な裁判を受ける権利は、最高裁長官の自らの手で潰されてきたのです。
・「伊達判決を生かす会」結成
 砂川事件裁判が結審して50年後に発覚したこの驚くべき新事実に対して、元被告の土屋源太郎氏らは「伊達判決を生かす会」を立ち上げ、2014年6月、高裁の砂川事件判決は憲法違反で無効であるとして、免訴判決を求めて東京地裁に提出しました。
東京地裁は2016年3月これを棄却。
土屋氏らは東京高裁に即日抗告しましたが、昨年11月これも棄却されました。
 しかし、ここでへこたれるような土屋氏らではありません。
現在、最高裁に特別抗告しています。
この先また、ニュースなどで報道されることもあろうかと思います。
みなさんどうぞ、今後も注目をお願いします。
・伊達判決の今日的な意義
 なぜ、土屋氏はじめ「伊達判決を生かす会」は闘い続けるのか。
砂川闘争に関わった人たちは皆、先の戦争を実際に経験した人たちです。
土屋氏もそうですが、子ども時代に疎開生活や空襲にあった経験を持つ人たちです。
みな今の政治や社会を見て、あの時代の空気に似てきている、日本は再び戦争になりつつあるのではないかという、強い危機感を持っています。
そして今なお沖縄を中心に日本各地に存在する米軍基地、米軍機による事故、基地関係者による犯罪、基地の騒音公害、住民の暮らしや美しい自然を破壊し、民意を無視して強引に進められる辺野古新基地建設や高江ヘリパッド建設。
戦争の反省から生まれた憲法9条は、駐留米軍を認めないとした伊達判決が、不正な最高裁判決によって破棄された代償はあまりにも大きいです。
今こそ砂川事件最高裁判決を覆し、伊達判決を生かす必要があるのです。
 今日もみなさん仰っているように先日、米朝首脳会談が実現しました。
日本を取り巻く国際情勢は目まぐるしく変化しています。
周りの国々は平和への道を選びとって、共に手を取り合って歩み始めています。
一方アジア平和外交の蚊帳の外に置かれた日本は、軍備拡大の道をひた走っています。
莫大な軍事予算が米国からの武器輸入に当てられ、一方で福島は切り捨てられています。
安倍首相の言う安全保障というのは軍事力のもとであって、米軍との一体化を意味しています。
このような認識でいる限り、日本はアジア平和外交に与することは絶対できません。
真の安全保障は不断の努力と、開かれた対話によってもたらされます。
愛と知性が必要なのです。
・あきらめずに粘り強く声をあげ続けよう
 対話を軽視し軍事力に頼る国の指導者は国際情勢を誤った方向に導きかねず、自らが国難であることにさえ気づきません。
いま国会前や街頭など色々な場所でたくさんの市民が、政治を変えよう、社会を良くしようと、声をあげています。
デモや集会も、署名集めも行われています。
土屋源太郎氏は言います。
「あきらめずに粘り強くやっていかなければいけない」
84歳の言葉には重みがあります。
私たちは伊達判決に光を当てた憲法9条を謳う平和国家への、確かな道を歩む為に耳を澄まし、言葉を磨き、仲間と繋がりながら、あきらめずに粘り強く声をあげ続けなければならないと思います。
 7月15日(日)伊達判決59周年記念集会があります。
一人でも多くの方に来ていただけるとありがたいです。

●湯川れい子さん(音楽評論家・作詞家)
*湯川さんプロフィール
 東京都生まれ、山形県米沢で育つ。
昭和35年、ジャズ評論家としてデビューした後、早くからエルヴィス・プレスリーやビートルズを日本に広め、作詞家としても活躍。
代表的なヒット曲に『涙の太陽』『ランナウェイ』『センチメンタル•ジャーニー』『六本木心中』『恋におちて』など作品多数。
環境問題を含め、次世代の育成にも力を注いでいる。
日本音楽療法学会理事、国連世界食糧計画WFP協会顧問
★湯川さんのお話
・19歳からの反核運動
 こんなメチャクチャな政治を見る日が来るとは、私の人生の中でも思ってもいませんでした。
いま人生100歳の時代で、私も後何年生きられるか判りませんが、もう82年生きてきました。
82年間の内19歳の時からずっと、反核運動をしてきました。
運動などという意識は全然ないのです。
人間として当たり前のことでしょう。
「こんなもの、あっては困る」と思って意見を言ってきただけで、それは音楽を聴くのと同じ感覚だからです。
音楽を聴くと細胞のレベルから元気になるのです。
・ビートルズ、武道館公演
 ビートルズが1966年にやって来て、武道館を使いました。
1966年というと52年前でビートルズが来た時は、私はラジオのDJとか音楽評論とか、いろんなことでバリバリとやっていましたから、日本で一番ビートルズに詳しい人間かと思います。
その2年前にビートルズはデビューしていますから、30曲もヒット曲があるのです。
アメリカ、イギリスで1位になったような曲が、30曲もあるのです。
日本にビートルズが来ても、雨が降っても公演を振り替えることができないくらい世界的な人気者になっていましたから、だから屋根があるところで1万人近く入れるところを使いたかった。
そうでなければ、コンサートができない。
その2年前に東京オリンピックがあって、武道の殿堂として武道館を使っていました。
そこしか使えなかった。
それでしかも、ドル、外貨を持っていたのは大きな新聞社や商社くらいでしたが読売新聞が外貨を持っているということで、招聘元になりました。
読売新聞の社主は中曽根康弘さんと一緒に日本に原発を持ち込んだ正力松太郎さんでしたが、正力さんは武道館の館長でもあったのです。
そういう立場の人が喜んで貸しましょうということで武道館に決まったのですが、当時の政治評論家の小汀利得さんとか結構偉い方たちが、日曜討論会のような番組で、「あんなテートルズか何か知らないが、西洋乞食のような奴らに神聖な武道館を貸すとは何事だ」と仰ったんですよ。
嘘みたいな話ですが、本当のことです。
しかも「貴重な外貨を使うとは何事か。エレキなんか聞くと不良になる」と。
わずか52年前ですが現実にそんなことが起きていたのです。
・おっちゃんたちには判らない
 私はその頃もうビートルズが大好きでしたから、どうしてこれがいけないのだろう、このどこがいけないのだろうと思っていました。
そして3日間5回公演で合計たった35分、11曲だけ歌ったのです。
前座がずっとあって、ビートルズのたった11曲の中にポール•マッカートニーが歌った名曲「イェスタデイ」が入っていたのです。
なんでその時、あの偉いおっちゃんたちは判らなかったんでしょうねぇ。
なんであれを聞くと不良になると思ったんでしょうねぇ。
そして実際にコンサートの時には警備員の人たち、警察や消防の人たちがいっぱいいて、なぜか機動隊までいましたけれど、200人も子どもたちが補導されました。
一目ビートルズを見たいと来た子ども達が、200人補導されました。
それで学校に通知されたり、親に迎えに来てもらったり、停学処分になったり、本当に色々ありました。
それは私にとって理解できないことでした。
・耐え難かった贔屓
 話を遡ります。
私は昭和11(1936)年に生まれましたが父は海軍の大佐で、父のいとこが山本五十六です。
母方の祖父は黒井悌二郎といって、海軍大将でした。
上杉鷹山公の米沢の出身ですから、貧乏藩です。
お金がない子弟は、文武両道で海軍兵学校に行くのが米沢のエリート教育でした。
私の父を含め親戚は、そういう家系でした。
 私は父が海軍大佐、五十六さんがおじさんですから、小学校1、2年生の頃はメチャクチャに先生から贔屓されていました。
その頃クラスメートにウスイさんという女の子がいて、その子は多分お父さんが作家だったのか、いわゆる自由を主張されたお父さんだったと思います。
広い講堂での朝の教育勅語の時間に、私は寒くて寒くておしっこを漏らしちゃったんです。
酷く叱られたと思うでしょう?
ところが私の担任は男の先生でゲートルを巻いた軍国青年のような人でしたが、私をストーブのところへ連れて行って手ぬぐいで一生懸命乾布摩擦をして乾かしてくれ、濡らしたパンツをきれいに包んで、私が持って帰れるように紐で結んで帰してくれたんです。
 その頃ウスイさんが何をしたというのでしょうね。
いつもその先生の逆鱗に触れて、小学校は木の椅子ですから、そこに後ろ手に縛られて、よくポロポロ泣いていました。
贔屓にされていた私が、気持ちがいいと思いますか?
耐えられなかったです。
・兄のこと
 私の18歳上の長兄は、絵が好きで音楽が好きな人でした。(注:昭和19年フィリピンで戦死。私はずっと以前に湯川さんからこのお兄さんのことをお聞きしたことがありましたが、素晴らしい方でした。生きて戦後の日本で活躍して欲しかったと思いました。)
 次兄は父の背中を見ていて、その頃は憧れだったのでしょう。
猛勉強をして麻布中学から海軍兵学校に入りました。
海軍兵学校を出て零戦に乗りました。
その後終戦の時まで、いわゆるガリガリにエリートだったと思います。
桜花隊の分隊長になって、桜花に乗っている時ではないですが飛行機が事故で落ちたんですね。
撃ち落とされたんではないのですね。
その兄に一度聞いたことがあります。
「零戦に乗っている時とか、空中戦で何機か相手の飛行機を落としたことはあるの?」
兄は「一機も」と答えました。
そんな経験をしないまま戦争が終わり戦後3年経って、奇跡的に生き残って帰ってきました。
その兄を主人公にした本が出ております。
『特攻』(注:寺田晶著、到知出版社)というその本の中で兄が言っているのですが、終戦の時に兄は生存者名簿から消されて3日間死んだことにされて、特別な任務を持たされたそうです。
極東裁判などで天皇陛下に戦争責任が及んだ場合に、いかに天皇陛下を逃がすかという作戦があって兄はその一人で、海軍出身者が一人もいない島根県の小さな村に全くの偽名で3年間その秘密指令を待って、やがて帰ってきたという数奇な運命を持った兄です。
(注:上記の本には次兄の帰宅は昭和21年と書かれているようですが、湯川さんは次兄は3年間潜伏して後に帰宅したと話されました。)
 戦後海上警備隊などを経て海上自衛隊が発足すると即座に入隊したその兄とは、もうさんざん国防という問題、集団的自衛権についてありとあらゆる議論をしてきました。
兄は言いました。
「理想としては君の言う通りだが、今まで戦って負けた国の民族というのは、一度潰されると二度と立ち上がれないんだ。日本のようなこんな小さくて360度海に囲まれた国が生き残っていくためには、どうすればいいんだ?
少なくとも今はアメリカの核の傘の下でこうなっているが、どれほどあの頃僕がソ連からのスクランブルを受けながら緊急発進していたか知っているだろう?」
兄は、千葉と三沢の航空隊司令をやっていました。
・オスのヤキモチ
 そういう中を私は生きて、音楽が好きで、ただひたすら音楽が好きで、それで気がついたのです。
さっきのビートルズ、なんで?なにがいけないんだ?って。
ファンたちがキャーと立ち上がると、日体大の学生とか(注:日体大の体育会系学生も警備に雇われていたようです)お巡りさんが、「座って聞けぇ!」「気狂いか!」ってやられる。
だって嬉しいのよ、大好きな、素敵な男の子が来て素敵な歌を歌っているんですもの。
なんで「座って聞けぇ!」って言われるのか…。
ここにご参加の男性たち、ごめんなさいね。
私、オスのヤキモチだと思ったの、オスのヤキモチ。
よその格好いいオスが自分とこに入ってきて、自分とこのメスがキャァ〜って喜んで面白いわけないじゃない。
しかも、そのおじさんたちは聞いたことのない歌だったから、騒音にしか聞こえないわけです。
ロックなんて聞くと不良になるって。
なりましたか?
・音楽の秘密
 いま私は音楽療法学会というところで理事をしています。
音楽は何かということを、昨日も1日原稿に書いていたのです。
諏訪の陣太鼓とか西洋のドラムボーイとか、太鼓を叩く破裂音の楽器を持った人たちが、諏訪の陣太鼓は神事として『天と地と』という映画に出てきますが、御神技として安全と勝利を祈りながら、まず真っ先に太鼓が突っ込んでいくのです。
 少なくとも36,000年の音楽の歴史を調べると、戦争のために音楽が使われたことはありません。
ヒットラーはいつも演説の前にワーグナーを大音響で流して、人の心を掴みました。
オウム真理教もそうでした。
音楽が入ってくると、そこに同時にメッセージが入り込むからです。
そういう使われ方をしましたが、音楽というのは常に、「みんなで楽しくやろう」だったら今日もここに書いてあるように(注:集会のタイトル「いま、語り 描き 写し 歌い舞うとき」を指して)、語り、歌い、舞う、踊るんです。
音楽があるところは、平和なんです。
みんな、何をメッセージとして受け取るのか。
ビートルズが来たときも、そうなんです。
「サァみんな、楽しく生きようよ」って、メッセージを受けるんです。
そこが音楽のすごいところです。
 そこに何があるのか。
赤ちゃんがお腹の中にいるときに、お母さんの心臓の音に刺激されながら、お母さんの心臓の音に共振して共鳴して、その2倍の速さで赤ちゃんの心臓は動いている。
生まれてから自分の生涯の基本リズムを心臓が刻んで、そこに高等動物である人間は外からリズムを与えられて、その基本リズムの定常性、恒常性は整うという体のメカニズムを持っています。
だから外から太鼓だとかリズムを与えられると、すごく楽しく、すごく生き生きとして、細胞のレベルで元気になるのです。
それが音楽の秘密だということなのです。
・どこの国にも嫌な奴はいるけれど
およそ36,000年前の洞窟から出てきた人類で一番古い管楽器といわれる動物の骨を吹いたり、洞窟の壁画からも判っていますが、ことごとく左様にそういうところでずっと私は、お陰様でまだペレストロイカが溶け始めた頃のソビエトと言われたロシアにも行っています。
それからやっとイギリスの領土から解放されたジャマイカにも、まだ麻薬が入り込む前に行っております。
いろいろなところに行きました。
中国は80年代に万里の長城の修復ボランティアというか、環境保全で行っております。
 どこの国にも嫌な奴はいるんです、どこの国にも悪い奴はいるんです。
でも、どこの国にも私たちと同じような人たちが、必ずいるんです。
本当にこれだけはぜひ諦めないで、そういう人たちとなんとか一緒に手を携えて、同じ人間だよね。
みんな向こうだって十月十日大変な思いをして、大きなお腹を抱えて産んだ子どもがいるんです。
そしてその子ども達がやがて兵士になって、人の頭を切り落とすようなISの残酷な残虐な兵士にもなるんです。
 そうならないためには、どうしたらいいのかと言ったら、本当に昨日の(注:集会前日の行き縄慰霊の日)相良倫子さんの素晴らしいあの詩。
・地震大国に原発は要らない
 私も14歳の頃から詩を書き始めました。
でも私は、自分の毛穴から子宮から命じるままに、自分の意見を言う環境運動をしてきました。
そしたら1999年に東海村のあの事故、あの柄杓で原液を汲むというバカなことで臨海事故を起こしたとき、その頃ちょうど私は、通産省が審議会として原子力の平和利用という部会に所属して、呼ばれて参加していました。
夢中になって、この日本に原子力発電所は要らないと言いました。
少なくとも議事録だけは残して学ぶだけでもいいから、この地震大国にそんなものは要らないと言いました。
「だって原発って双子の子どもじゃないですか。
爆発すると、私たちはコントロールできないんだから。
活断層があるかもしれないじゃないですか。
活断層はないんですか?」
無いって言われました。
今でも私は、その時の委員会の25名の名簿を持っています。
その内20名が、もう既に原発の事業者か原子力の先生か、日立とか三菱とか、ああいうところの人たちでした。
私が何を言っても、笑われました。
優しい顔で、笑われました。
「湯川さん、一人しか死んでいないんですよ。毎日交通事故で何人死んでいると思いますか?」って。
 「違うだろう!バカ野郎!!」って思いませんか?
でも、それが現実なんです。
そしてここまで来ちゃったんです。
・女性議員を増やして
 私は欲しく無いって言いませんけど、これだけ今でも税金払っていて、紫綬褒章もらいませんでした。
もちろん勲章貰いませんでした。
私の子分たちはもらっています。
だからこれからお願いしたいのは、とにかくあの相良倫子さんのような人が成長して、伸びていって、自分のやりたい仕事と自由な発言ができるような国を作って欲しいのです。
どうぞ、どうぞ、どうぞもっと女性の議員を増やしてください。
なぜなら、女性が優れていると言っておりません。
どうやったってビートルズにあの男たちが反対したように、本能的にジェンダーの差はあるのです、性差というものが。
女は根回しが効きません。
自分が本能的にこれは危ないと思うことには、必死になって子どものために逆らえるんです。
私はそれが、世界にとってとっても、とっても大切なことだと言いたくて今日までやってまいりました。
とにかく、あと何年生きられるか判らないけれど華やかに楽しく生きますから、皆さんもお元気で頑張ってください。

*大変遅くなりましたが、6月24日の集会第1部の報告です。
この後第2部では笠井千晶監督の映画『Life 〜生きていく』上映とトークがありましたが、ここでは報告を割愛いたします。
 第1部の朴慶南さんのお話から始まって湯川れい子さんのお話まで、お一人お一人が発信された言葉や歌、舞はもちろんのこと、それらが連なって複合的に伝わってきたメッセージに、大きな勇気と励ましと、そして指針を受け取ることができた集会でした。
 長文お読みくださって、ありがとうございました。        

 

いちえ

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