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2018年9月10日号トークの会「福島の声を聞こう!vol.28」報告①


 大変遅くなりましたが、8月17日に催しました28回目のトークの会「福島の声を聞こう!」の報告です。
ゲストスピーカーは、熊本美彌子さんでした。
●熊本美彌子さんプロフィール
 昭和18(1943)年生まれ。
 60歳まで東京で働き、田舎暮らしがしたいと福島県田村市に夫婦で移住し、原野を夫婦で鍬で開墾し、200坪の畑にして、無農薬有機栽培を行う。
原発事故で東京に避難し、被災者として東電・国の加害責任を求めて裁判中。

◎熊本美彌子さんのお話
●退職後は田舎で暮らしたい
 60歳まで消費者センターの相談員として働いていました。
夫は定年後は田舎暮らしをしたいと言い、それより5年前に福島に移っていましたから、私も退職後に夫に合流して移住しました。
移住先は福島県の中通り地方で合併によって現在は田村市ですが、その頃は田村郡常葉(ときわ)町でした。
常葉町山根地区雨乞平というところで、常に葉がある山の麓で、時々は雨乞いなどもするという地名のところでした。
 夫は秋田、私は埼玉で、どちらも農家の出身ではありませんが、東京でのサラリーマン生活の後で田舎での暮らしを求めたのです。
会社勤めをしながら退職後の暮らしの場を求めて、あちこちを見て回りました。
方々を見て歩きましたが、その時に判ったことは、田舎の人は土地を手放すというのはとても抵抗があるということで、先祖代々伝わった土地を手放すというのは何かしら理由があってのことです。
親代々の土地を売って、そのお金で借金を清算して息子のところへ行くというような例が多く、見ているだけで気が滅入るような暗い雰囲気のところが多かったです。
●夫婦で開墾
 そうやって方々見て回っている時に、1年前に土器が出たので売ることができずにいたけれど発掘調査の結果大したものが出なかったために売却可能となった土地に、ちょうどいきあたり、そこを買いました。
原野ということでしたが、9,000平米、2,700坪という広い土地で、中に小さな川が流れていました。
サラリーマンが9,000平米の土地を買うなど都会では考えられないことですが、私たちはそこを手に入れて喜び、一生懸命開墾しました。
機械がなかったので夫婦二人で鍬での手作業でしたが、そこはもともと営林署の苗畑だったところなので、少し鍬を入れるとスポッと入ってしまうような柔らかい土地でしたから、すぐに畑ができました。
 畑ではいろいろな野菜を作りましたが、今の季節だとたくさんの茄子が採れました。
賀茂茄子や白茄子、山形では漬物にする小茄子などで、小茄子は塩漬けにするとヘタの部分がとても美味しいのです。
種類の違う茄子だけでもいっぱい採れたし、他にもキュウリや大豆、花豆、隠元豆など豆類もと、たくさんの野菜を作り収穫できました。
果物ではキウィやブルーベリーも作り、ブルーベリーは畑に25本植えた苗から、最盛期には30kgくらい収穫できました。
 畑はそんな風でしたが、林も残してあって林の中では椎茸、なめこ、舞茸などを栽培しました。
舞茸は一株がこれくらい(注:30cmほどの円を手で描く)大きくて、それを発泡スチロールの箱に入れて送ると、とても喜ばれました。
大きいだけではなく、売っているものとは香りも全然違うのです。
●一人になってからも
 そんな風にして夫婦でやっていましたが2007年に、夫が亡くなりました。
息子たちはそれぞれ東京で暮らしていましたから、私はその後も一人で田舎暮らしを続けていました。
一人になってからは春先に畑を耕すのが一番大変でしたが、それさえキチンとやれば後は普通の農作業で、ちょっと鍬を振るって苗を植えてという状態でした。
野菜はすべて種から育てていたので、ビニールハウスを作ってハウスの中で苗を育てる作業をしました。
 畑は化学肥料を全く使わず、林の落ち葉と、近所に牛を飼っている人がいたのでそこから牛糞と敷き藁をもらって、それらを合わせて積んでおくと良い堆肥になるのです。
その堆肥を畑に播いていましたから、土がとても豊かになって、買った肥料を使わずとも本当に美味しい野菜が採れる状態でした。
 夫が亡くなって一番大変だったのは、草刈りでした。
刈り払い機のエンジンをかけるには紐を引っ張るのですが、なかなか一度でかからないのです。
何度も引っ張ってようやくエンジンがかかったら、燃料がなくなるまで2時間ほど一生懸命にパァーッとやるのですが、一度は熱中症のようになって倒れたりしました。
でも刈り払い機のエンジンをかけるのもだんだん上手になって、1回でエンジンがかかるようになったのですが、コツを掴んだのですね。
夫が亡くなってからも、そんな風にして一人で暮らしていました。
●『原発事故 その時、あなたは』
 2011年3月11日は、寒い日でした。
地震が発生した時、私はちょうど犬の散歩中でした。
東京ではガタガタ揺れて「あ、地震だ」と思いますが、福島の山の中での地震は揺れる前にゴォーと地鳴りがして、「あっ、これは!」と思う内に揺れ出すのです。
立っていられないくらいの激しい揺れで、その場にへたり込んだ犬と一緒に私も座り込みました。
山裾の道でしたが、上の方にあった家の人が「屋根瓦が落ちた!」と叫びながら下りてきました。
 少し揺れが収まって家に入ってみると色々な物が散乱していて、また余震もありましたから作業場に布団を持ち込んで、そこで過ごしていました。
 夫の存命中に買って二人で読んでいた本で、『原発事故 その時、あなたは』という本があり、事故後にそれを読み返して「あ、やっぱり事故が起きると情報は隠されるのだな」と思いました。
その本には、原発事故が起きた時には情報は必ず隠されるから、よくよく注意しているようにと書いてあったのです。
1995年に出版された本で原発事故が起きてから再販されたようですが、京都大学の原子炉実験所で仕事をされていた瀬尾健さんという方が書かれたものですが、瀬尾さんは本が出版される前に亡くなっています。
亡くなった後で原子炉実験所の仕事仲間の小出裕章さんが、瀬尾さんの名前でこの本を出したのです。
どれくらいの距離を逃げれば大丈夫とか、風向きによってどういう状態になるかとか詳しく分析してある本で、コンピューターが普及する前に書かれたものですから、大変なお仕事だったと思います。
 その本には、事故が起きたらとにかく早く遠ざかりなさい、逃げる時には風向きと90度の方角に逃げなさいと書いてありました。実際に事故が起きた時にスピーディの情報は隠されていて、風の向く方へ逃げてしまった人達も多かったのですが、山の中は都会と違って四方八方に道があるわけではありません。
道がある方へ行くしかないわけで、そういう事態が起きてしまったわけですが、皆がそういう情報を知っていれば、放射能の雲がかかっているような方向へ逃げなくても済んだかもしれないと思います。(注:『原発事故 その時、あなたは』瀬尾健/風媒社)
●「よく逃げてきたね」
 地震の後電話が通じなくなっていて固定電話の回線でコンピューターを繋いでいましたから、コンピューターも使えませんでした。
14日に電話が通じるようになり、福島空港に電話をして臨時便があるか問い合わせたところ、臨時便は出ているが航空券を入手してから来るようにと言われました。
それでコンピューターの前に座り込んで、その時に初めて、コンピューターを通じて買い物をしたのですが、翌日の羽田行き臨時便のチケットを入手できました。
福島空港に行ってみて「チケットを入手してから来るように」と言われた訳がわかったのですが、空港は人でいっぱいでした。
 そうして15日に私は犬と一緒に東京に着き、息子の家に世話になりました。
その時に京都に住んでいる元警察官の叔父から、「よく逃げてきたね」と言われましたが、やっぱり逃げるというのはとても決断がいることです。
叔父に「よく逃げてきたね」と褒められて、ああ私はやっぱり良い決断をしたのだと思いました。
●都営住宅へ
 その後、東京都が避難者向けに都営住宅の入居者を募集したので応募して、今も都営住宅に住んでいます。
福島で私が住んでいたのは原発から30,5kmなので、区域外避難者ということになりますが、一時は同じ山根地区の一部が30km圏内だったので緊急時避難準備区域で、田村市が対象になっていたので応募できたのです。
ところが去年の3月で、区域外避難者の住宅提供は打ち切りになりました。
 私はそのやり方に納得がいかなかったので、今も都営住宅に住んでいます。
だって放射能は、線引きされた外側には降らないという訳ではないのですから。
 今日もまたJKK(東京都住宅供給公社)と都の都市整備局から配達証明が届きました。
その配達証明も私がいない時に届いたので、再配達の手続きをしたのです。
去年の4月から今まで、同様の配達証明が何度か届きました。
そこには「住宅から出て行きなさい。出ていかなければ使用料を請求します」と書いてあるのですが、請求書も入っていないし、振込用紙も入っていない。
請求額がいくらなのかもわからない状態で、今のところまだ明け渡せという要求はないので、住み続けています。
●「災害救助法」と現実に合わない適用
 なぜこういう事態になったかということですが、災害救助法という法律があります。
大雨などで災害が起きて皆さんが避難することになった時には避難所が開設され、被災者はその避難所に一時的に入ります。
避難所を出た時に災害救助法の適用によって、住宅が提供されることになっています。
これは当初は自然災害による災害救助法でしたが、東海村で事故が起きた時に、初めて原子力災害も災害救助法の対象にされました。
 災害救助法は昭和22(1947)年に出来た古い法律で、台風、津波など天災による災害対象だったのが、東海村の事故で、初めて原子力災害もその対象になったのです。
でも東海村の事故は、福島の事故よりも放射性質物質の飛散は狭い範囲だったし、避難した人たちも広域避難はあまりありませんでした。
災害救助法が福島の原発事故のように広範囲な事故に対して適用されるのは初めての例になりますが、私どもが災害救助法で与えられた住宅は、一番最初は16万人もが避難をし、10万人が県外に逃れた状態で、避難先の自治体が住宅を提供したという形になったのです。
 ところが去年の3月で、区域外避難者(避難指示がなく避難した人たち)に対して提供されていた住宅の提供が打ち切られましたが、それを決めたのは福島県の内堀県知事なのです。
2015年6月15日に、福島県知事が「区域外避難者への住宅提供は打ち切る」と言ったのです。
しかし私たちが入居しているのは、例えば私は都営住宅ですが、都営住宅というのは東京都が提供しているわけです。
 けれども避難先の自治体が意見をいう仕組みにはなっておらず、2013年に国が「見なし仮設の継続を決めるのは福島県知事だ」として、避難元の県知事が決めるという仕組みを作ったのです。
それによって県知事が提供を打ち切ると言ったのですが、それは県議会にも謀られずそこで決議もされたわけでもなく、国会で審議、決議されたわけでもありません。
●「子ども被災者支援法」
 原発事故による避難者に対しては「子ども被災者支援法」という法律があります。
これは国会議員が提出をして議員全員が賛成し、全会一致で成立した法律で、正式には「東京電力原子力事故により被災した子どもをはじめとする住民等の生活を支えるための被災者の生活支援に関する施策の推進に関する法律」という長い名前なので、略して「子ども被災者支援法」と呼んでいます。
 この法律は、「東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故(以下「東京電力原子力事故」という。)により放出された放射性物質が広く拡散されていること、当該放射性物質による放射線が人の健康に及ぼす危険について科学的に十分に解明されていないこと等のため、一定の基準以上の放射線量が計測される地域に居住し、また居住していた者及び政府による避難に係る指示により避難を余儀なくされている者並びにこれらの者に準ずる者(以下「被災者」という。)が、健康上の不安を抱え、生活上の負担を強いられており、その支援の必要性が生じていること及び当該支援に関し特に子どもへの配慮が求められていることに鑑み、子どもに特に配慮して行う被災者の生活支援等に関する施策(以下「被災者生活支援等施策」という。)の基本となる事項を定めることにより、被災者の生活を守り支えるための被災者生活支援等施策(以下略)」を目的にしています。
 この目的の中で一番大事な点だと私が思うのは、「人の健康に及ぼす影響について科学的に十分に解明されていないこと等のため」に、そこに留まる人、避難する人、いったん避難した後で帰った人、それらすべての人に対して、科学的に十分に解明されていないことを考えた上でそれぞれが自分で判断して行動できるように支援しなさいという法律だと思うのです。
 特にこの法律の第9条は「支援対象地域外で生活する被災者への支援」を挙げ、避難した人たちへどのような支援をするかについて、「国は」という言葉から始めて施策について語られています。
国が何をしなければいけないかということが、挙げられています。
子どもが学校や教育を受ける権利、被災者が仕事ができるように配慮することや避難先の自治体でいろいろなサービスを受けることができるようにすることや、一番大きなことは、国が避難者に対しての住宅を確保しなさいということを言っています。
 ところが民主党政権の時に、自民党、公明党、共産党などみんなが賛成して全会一致で可決したこの法律ですが、その後民主党が選挙で大敗しました。
2回の選挙で自民党が勝利を収めた状況の中で、法律の基本方針を政府が作ることになっていたのですが、自公政府はそれを無視して基本方針が全く骨抜きにされてしまったのです。
そのために私たち避難者の住宅は国の施策ではなくて「災害救助法」の適用でしか充当されなかったということです。
●「災害救助法」適用の矛盾
 去年3月で区域外避難者の住宅提供が打ち切られた理由は、「災害救助法」の応急救助の時期が過ぎたからというのが、福島県の説明です。
しかし放射性セシウム137の半減期は30年ですし、大人、子どもに限らず放射線の健康に対する影響は、「子ども被災者支援法」の目的でも「十分解明されていない」と書かれているように、その状態は今も続いているのです。
まだはっきりしたことは言えない状態の中で、たった6年や7年で放射性物質は消えるのか、放射線セシウムが消えるのか、そんなことはあり得ないです。
科学の常識の原理によっているので、人間が放射線を消すことはできないのです。
●住宅提供が打ち切られてからの状況は
 区域外避難者の住宅提供が打ち切られた時どういう事態が生じたかというと、都の場合、都が提供していたのは都営住宅と国家公務員宿舎、それと民間の借り上げ住宅があり、その他に福島県が提供していた雇用促進住宅があります。
雇用促進住宅というのは、炭鉱が閉鎖されたときに炭鉱労働者が炭住(炭鉱の社宅)を出て新たな仕事を探さなければならなくなり、そのために全国に建てたのが雇用促進住宅です。
ですからどこも建物はとても古く、年数が経っています。
でも、そこでも家賃の3倍の収入がなければ、入れないし、そのままそこに居られないのです。
 川崎の雇用促進住宅に入っていた、まだ40代ですが体が悪くて働けない状態の男性が、「出ろ、出ろ」と言われて仕方なく去年の3月に雇用促進住宅を出ました。
出たのですが行き場がなくて、「避難の協同センター(☆)」に助けを求めてきました。
避難の協同センター事務局長は、住居の確保をしなければと関係各所に連絡を取って動き、もう一度その男性に連絡をしようとしたら男性は、自分でなんとかすると言って連絡を絶ってしまいました。
避難の協同センターでは皆、その人はどうしただろうと心配していたのですが、今年の3月にまた、その人から連絡がありました。
所持金が50円しかないと言い、今度はちゃんとその人と会えましたが、着の身着のままという状態でした。
「出ろ、出ろ」言って追い出しても、その後の手当てが何も考えられていない実情です。
☆避難の恊働センター
 東京電力・福島第一発電所の事故により避難を余儀なくされた人たちの「健康に生きる権利」を共助の力で実現しつつ、国や自治体に対して、避難先での住宅補償や就労、教育等も含めた生活支援など総合的な支援の実現を求めて、2016年7月に設立された団体。ゲストスピーカーの熊本美彌子さんは世話人の一人。
●入居のための要件
 都営住宅は、一昨年7月・8月に区域外避難者に対して300戸の募集をかけたのですが、世帯要件、収入要件が合わないと応募できませんでした。
実際に入居できたのは142世帯しかありませんでした。
①世帯要件
世帯要件というのは例えば、ひとり親世帯では子どもが20歳未満でないといけない、20歳を超えていたら、世帯分離しなければいけないといいます。
 また子どもが3人以上の多子世帯も応募条件にありますが、その場合は18歳未満の子どもが3人以上であること、とされています。
子どもが小さい人も応募できますが、小学校入学前の子どもが2人以上とされています。
少子化時代で子どもが大勢いる人も少ないですが、こうした世帯要件のために結局応募できなかったら、一体どうすればいいのでしょう。
②収入要件
 緊急避難した私たちは、それまでの生業を全て捨てて、捨てざるを得ずにそうしてきたわけです。
それで避難先で就職しようとしても就職先はなかなか見つからず、非常に不安定な状態で収入が少ないです。
そういう人たちは家賃の問題で民間賃貸に入れない状況ですから、福島県は独自に、民間賃貸住宅に対して最初の年は上限で3万円、次の年は2万円の補助をしてきましたが、でも、それにも収入要件の枠があって、少しでもそれを超えると補助が受けられません。その2年目が来年3月で終わるのですが、やっとの思いで民間の賃貸住宅に移って補助を受けて生活している人たちが、来年4月以降にどういう暮らしになっていくのかとても心配です。
福島県は自立のために2年間の猶予を設けたと言いますが、今の世の中で2年間で給料が2万円、3万円と昇給するでしょうか?
 こうした状況の中でどうすればいいのか、大きな問題です。
●振り分けられた避難先の住居
 避難者の入居先は、自分で選んだのではありません。
例えば赤坂プリンスホテルが避難所だった人たちは、「国家公務員宿舎が空いているから、そこに入ってください」「都営住宅に入ったらどうですか」というような形で、入居先が振り分けられました。
自分で選んだのではないのに、入居した住宅の種類によって、様々な困難にぶつかっています。
 振り分けられて入った住宅によって、住宅提供打ち切り後の条件が変わるのです。
都内で避難者を入れている国家公務員宿舎は3ヶ所あります。
一つは東雲のタワーマンションの新しい建物と、それから九段下にもあります。
もう一つは東久留米ですが、そこは取り壊す予定になっている建物で、殆どが空室で国家公務員は、もう住んでいません。
けれどもそこに振り分けられた避難者が4世帯居るのですが、とても古い建物で殆ど手入れもされていませんから、大雨が降るとトイレの壁が濡れてきてトイレットペーパーが湿ってしまうような状態です。
今年の春にはトイレの壁が崩れてきています。
●国家公務員宿舎
 福島県は補助打ち切り後も2年間に限って国家公務員宿舎に入っていて良いが、ただし国家公務員と同額の使用料を払うようにといいます。
 国家公務員宿舎は国有財産ですから、「国有財産使用許可書」に基づいて県知事が、理財局から使用許可を受けるという形をとっています。
理財局が県知事に下した「国有財産使用許可書」には、「使用を許可する期間は平成30年4月1日から平成31年3月31日まで。ただし、使用許可の更新を受けようとするときは、使用を許可された者は、使用を許可された期間の満了2月前までに所定の様式により許可者に申請」のことと書かれています。
 県は被災者への応急仮設住宅として国家公務員宿舎を充てるに当たって「国家公務員宿舎セーフティネット使用貸付に関する要項」を作りました。
そこにも「セーフティネットの貸付期間」として、「1年以内かつ年度内とする。なおセーフティネット使用要件を満たす場合、平成31年3月末まで継続可能とする。
被災者は、前項の貸付期間の延長を希望するときは、貸付期間満了の2ヶ月前までに書面を持って知事に申請」のことと記されています。
 けれどもこの「期間延長を希望する場合は、期間満了の2ヶ月前までに申請」ということが、入居者たちには全く知らされていなかったのです。
これを、どう考えたらいいのか……。
 国家公務員宿舎への入居者たちは去年、県との間に「国家公務員宿舎セーフティネット使用貸付契約書」という契約を結びました。
「国家公務員宿舎セーフティネット使用貸付契約書」には、「貸付物件の損壊被害の補償義務」の項目に、こんなことが書かれているのです。
「第12条 乙は、貸付物件が天災その他の事由により損壊し、第三者に損害を与えた場合は、その賠償の責を負うものとし、甲が代わってその責を果たしたときは、甲は乙に求償することができるものとする。」(注:「甲」は福島県、「乙」は入居者)
どういうことかというと、先日大阪で地震によって小学校のプールの塀が倒れて小学生がなくなりましたが、もし避難者が入居している住宅の外壁が天災で倒壊して誰かに被害があった場合は、避難者が弁償しなければならないというのです。
これは、すごくおかしいと入居者たちは昨年から指摘していますが、福島県はそれを認めずにいて、やっと今年5月に訂正しました。
●騙しのテクニックではないか?
 避難の協同センターでは7月に、福島県でヒアリングを行いました。
そのときに川俣町山木屋地区の人から聞いた話です。
山木屋地区は1年前に避難指示解除になっていますが、被災前には1,200人が住んでいた地区で、帰った人は310人だそうです。
皆、75歳以上の後期高齢者で、働き手がいないそうです。
そこで除染の書類を受領しましたという書類に署名捺印を求められているのですが、その書類の下の方に「この書面の受領後(注:「除染後」ということ)は、地権者が管理をお願いします」と書いてあるのです。
つまり、そこで書面を受け取ったと署名捺印すると、「その後の除染はそれぞれが自己責任でやりなさい」ということを認めたことになってしまうのです。
 私は以前に、消費生活相談員をしていたことをはじめにお話ししましたが、このやり方は騙しのテクニックだと思います。
なぜ、こんな騙しのような手口を使うのか。
先にお話した国家公務員宿舎の件でも、どういう手続きをしなさいということも決めているのに、避難者に渡す契約書には必要な手続きを伝えていない。
来年3月までに出ていかなければ、2倍の使用料を払えなどと書く。
なぜ、そういうことをするのか!
私たちは民主主義の国に生きていると思うのですが、こうした騙しのような手口を使って物事を進めていくことが許されるのでしょうか。
 20ミリシーベルトを下回ったから「帰れ、帰れ」と言われますが、20ミリシーベルト以下なら健康に害がないと証明されたわけではありません。
これは非常に政治的な判断だと思いますが、その場合そのように決めることによって利害が生じるすべての人に対して、きちんと情報提供して、その人たちの意見を聞くということをしないで、ただ「説明しました」で済ませてしまうやり方には、非常に納得がいきません。    ​続く

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