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2019年7月26日号「7月11日津島訴訟 第20回裁判」


 7月11日、福島地裁郡山支所で津島訴訟の第20回裁判があり、原告本人尋問が行われました。
 この日、証言台に立ったのは、今野幸四郎さんと武藤茂さんです。
まず原告代理人が原告本人に質問し、原告が答える形で進められますが、ここでは原告の答のみを記します。
次に被告側からの反対尋問については、被告代理人の質問とそれに対する原告の答えとを記します。
◎原告・今野幸四郎さん
●主尋問
*私が酪農を始めた
 私は82歳になりますが、今野家が津島で生活を始めてから私で5代目です。
山林と農業をしていましたが、昭和36年、私の代から酪農を始めました。
津島は高冷地で5年に一度は冷害があり、安定した生活のためには酪農しかないと思ったからです。
 始めの頃はタバコ栽培と林業もしていましたが、酪農は2頭の牛から始めました。
8ヶ月の子牛を北海道から買いましたが、2頭で5万円でした。
今野牧場として酪農一本に切り替えたのは、昭和46年からです。
そのきっかけは、タバコや農業だと毎月の収入が不確かなことと、昭和46年から減反政策が始まったからです。
乳は毎日の搾乳量はほぼ一定しているので、収入が安定しているので、農地も飼料作物に変えました。
 長男は高卒後に県の試験場に見習いに行き、北海道、カナダで研修をして昭和57年に戻ってきてから、今野牧場で一緒にやってきました。
*酪農家の暮らしと誇り
 双葉郡のホルスタイン共進会で、賞はかなりたくさん貰い、県知事賞も25枚貰いました。
春はホルスタイン賞、秋は県の共進会で牛の品評会がありました。
事故直前には70頭、飼育していました。
 毎朝6時には起床して、牛舎の清掃・消毒後に搾乳にかかり8時に搾乳を終えます。
搾乳は毎日、朝夕2回です。
牛舎は2棟と牧草地があり、水は山から引いているので、その水の管理があります。
 酪農家として特に辛いことは、牛の病気、難産です。
搾乳は365日、1日も休めず年中無休ですが、仕事として辛いと思ったことはなく、毎日励みになっていました。
体力的には厳しい仕事で、牛も人間も毎日忙しいです。
 牛は家族であり、社員で、働き手です。
ですから、牛を大切に愛情を持って育ててきました。
やりがいは毎日の乳量と、生まれた子牛が育っていくことです。
津島の牛乳の成分は優秀だということで、大阪からグリコが訪ねてきて、この牛乳でアイスクリームを作りたいというのです。
作ったアイスクリームは、TVコマーシャルに乗って全国デビューしました。
私も角川撮影所で、石原さとみと1日撮影にかかってコマーシャルに出ました。
そのコマーシャルは全国に流れて、「見たよ」と遠くの親戚や友人からも言われました。
グリコ津島の牛乳の成分の高さは、誇りでした。
 津島の酪農家はみな、震災当日から郡山工場がラインが閉鎖されたので出荷できなくなりました。
今は、お中元やお歳暮の付き合いは続いていますが、取引はなくなりました。
グリコのCMは2008年からでしたが、今は「最近はお前の顔を見ないな」と、遠くの親戚や友人に言われます。
*仲間との助け合いでやってきた
 牛の出産の時には仲間が駆けつけてくれたり、日常的に仲間との付き合いはありました。
共進会等の反省会や「牛魂碑の集い」など、日常的に付き合っていました。
年中無休の仕事ですが、冠婚葬祭や旅行などでは、互いに手伝いをやりくりしていました。
そしてその際にはお礼のお金のやり取りなどせず、「お互い様」の気持ちでやりくりしていました。
その後ヘルパー制度ができましたが、それ以前は互いに助け合っていたのです。
 また農家との付き合いは、耕畜連携で、農家からは寝ワラにする為にワラを頂き、こちらからは堆肥をあげていました。
この際にも、金銭のやり取りはありませんでした。
互いに不要物をあげあっての、有効活用でした。
 津島では地域での年中行事、1年に一度毎年11月10日の牛魂祭、地区内新年会、忘年会など、地域ぐるみで仲が良く、家族同士遠慮なく仲が良く、後継者育成にも力を入れてきました。
*人間が逃げるのが精一杯だった
 事故後、乳牛移動は5月いっぱいと言われ移動先が見つからず組合に探してもらって本宮の酪農家を借りて、息子と娘がメインでやっていますが、今野牧場の名前は消えました。
 津島の酪農仲間はほとんど廃業して、やっているのは私だけです。
津島全体で260頭の牛が犠牲になりました。(と、涙声で)
私の家の牛以外はみな、場所も見つからず、人間が逃げるのが精一杯でした。
私の場合は、珍しいケースです。
でも私も全ては連れて行けず、連れて行けたのは30頭のみで、40頭は連れて行けませんでした。
娘夫婦も津島で酪農をやっていましたが、娘夫婦の牛と合わせて60頭を本宮で子どもらがやっています。
 連れて行けなかった40頭は、殺処分でした。(と涙声)
親友の三瓶さんのトラックにつけようとした時に、なかなかトラックに乗らず、ようやく乗せましたが、牛には判っていたのです。
その時の牛の顔を今も覚えていて、今でも思い出せば涙が出ます。
*牛も故郷を奪われた
 本宮では最初は60頭で始めましたが、堆肥が満杯になって処分に困るからと言われて、25頭に減らしました。
本宮では耕地がないので、堆肥をあげられず、また本宮はコンバインで収穫するので稲ワラがもらえず、稲ワラは酪農組合から輸入品を購入しています。
 津島では全て自家生産でしたし、水も山からの引き水でした。
牛たちも存分に、水を飲めました。
本宮では水道水とボウリングの水なので、料金がかかるようになりました。
 今年の3月までは東電から補償されていた本宮の牧場の賃料は、4月からは補償打ち切りとなり自己負担になりました。
牛は寒さに強く暑さに弱いので、海抜450mの津島は牛にとっては良い環境でしたが、本宮は牛には生き辛いです。
食欲も落ち、乳も出にくくなりました。
津島では糞尿の匂いもなかったですが、本宮では周囲から「環境に気をつけて!」と言われ、隣近所に牛の声や匂いで気を使います。
これまで、地域社会に喜ばれる酪農をしたいと思ってやってきましたが、それは本宮では難しいです。
周囲の人との信頼関係など、中元・歳暮を贈ったりして気を使ってますが人間関係は難しい。
本宮では、助け合いや物々交換はできません。
地域の人と生活パターンが違うので、難しいです。
 息子のところも経営は、容易でありません。
孫が小学校5年生の時に「じいちゃん、おれも酪農やるわ」と言ってましたが、高校1年になった今は、酪農をしたいと思ってるかどうかわかりません。
経営は不安定で、飼料は全て購入していますし、牧場の賃料は非常に重くのしかかってます。
頭数も少なくなりました。
もし今も津島でやっていたとすれば、3代で仕事ができ、経営も楽だったろうし、牛にとってもはるかに良かったと思います。
牛も、原発事故で故郷を奪われたのです。
*牛魂碑
 ホルスタイン協会の役員だった時に県内各地の酪農家を回り、その時に、ある個人の家で牛魂碑を見たのです。
感銘を受けて津島でも地区として牛魂碑を作りたいと思い、昭和52年11月10日に建立しました。
114号線の県酪農協津島事務所の所ですが、後に津島の塩浸(シオビテ)の我が家にも建てました。
 以前は、毎年11月10日には役場や隣村からも人が来て盛大に牛魂祭をしていましたが、震災後はみんなチリジリバラバラになってできなくなりました。
津島では12世帯が酪農をしていました。
酪農を続けられない仲間の、無念を思います。
*朝に晩に我が家に向かって
 今は朝起きてすぐに、晩も寝る前の9時には必ず、祈る思いで我が家の方を見て過ごしています。
津島の風景、我が家の庭、毎日夢に見ます。
酪農を後世に残したい気持ちがあります。
避難後20数回、自宅に戻りましたが、ガードマンに柵を開けてもらい、また閉めてもらいます。
イノシシが檻に嵌ったのと同じようです。
イノシシが凄くて、道路の真ん中にいて逃げません。
国と東電に対して言いたいことは、1日も早く自由に我が家に入ることができたら良いと思っています。
*元の津島に帰りたい!
 82歳ですから、いつあの世に行くか判らないので、津島の畑をきれいにしておこうと思って、菜の花を蒔きました。
今年の春は一面の菜の花で、それは見事でした。
きれいな環境の津島に帰りたい!
今では田畑は柳が伸び放題で、同じ国民として情けないです。
一日も早く、元の津島に帰りたい!
これまで地域の安心、安全に尽くしてきました。
それが今は、帰れない故郷です。
●東電代理人から反対尋問(色々聞きましたが、全てを記録できていません)
Q:あなたは東電からの賠償金をもらいましたか?
A:貰ったが、あれほど大切に育てた庭木や盆栽などについては、一切賠償されなかった。
イチジク、ブルーベリー、柿なども植えて楽しんでいた。
Q:検査を受けたことはありますか?
A:受けたことはある。2年後に受けたが、問題ないと言われ、その後は行ってない。
Q:あなたと奥様に精神的損害としてあなたにお支払いしているものですが、財産的損害など支払いを受けているということで良いですか?
A:39人で24町歩の共有地が放牧場だったが、そこは放射線量が17あった。
2年目でも低くならず、荒れてしまった。
●国代理人から反対尋問
 代理人が官僚口調で話し始めると今野さんは大きな声ではっきりと、「標準語でなく福島の言葉で聞いてくれたら、そしたら答えられる」と言いました。
でも代理人は意に介せず、質問しました。
Q:本宮に家を建てられましたね?家を建てたりした時の資金は?」
 もちろん東電からお金を貰わなければできなかった。
毎晩外に出て、津島の方を見てから寝る。
帰れるものなら帰りたい。
もし明日ゲートが開いたら、真っ先に帰りたい。
オレは、故郷が恋しい。
 本宮から津島に帰るのに、川俣、葛尾、田村、山木屋を通って行く。
道が封鎖されているからで、これも原発事故のせいだなと自分に言い聞かせても納得できない。
天王山を通れば近道なのに、津島を通れないから1057mの天王山を、登って行けない。
 津島の土を踏まれない。
それは東電のせいだ。
こんな不平等は無くして欲しい、国は平等の扱いをして欲しい。
言いたいことは山ほどあるが、この辺で止めます。
◎原告・武藤茂さん
●主尋問
 南津島の佐藤畑に、妻と義母、娘とペットのミニチュアダックスフンドの「メル」と住んでいました。
私は犬を飼うのには反対でしたが、事故の3年前に娘が「孫だと思って可愛がってください」と言って連れてきました。
以来、孫のように可愛がって、避難先にも連れてきました。
 南津島は武藤姓が9軒あるのですが7軒が親戚で、みな屋号で呼ばれていました。
私は「佐藤畑」と呼ばれていました。
 生業は農業ですが、私は大工をしていました。
小高で生まれ、佐藤畑の長女リツコと昭和52年に結婚し、義父母と養子縁組をして南津島に住み、半農半大工で暮らしていました。
 リツコは電気部品店に勤め、私は小高の工務店でしたから、平成6年に妻の会社が閉鎖されるまで、朝の出勤時は私の車で妻を送りながら私は小高に通い、帰宅時も妻を迎えて一緒に帰っていました。
帰宅後に田の畔や道路脇、家の周囲の草刈りをし、農繁期には大工の仕事を休んで機械を操作して、田おこしや稲刈り脱穀をしていました。
農繁期には親類に来てもらって10人くらいで短時間で農作業をしたのですが、それらの人が泊まれるくらい、広い家でした。
 平成4年に老朽化していた自宅を建て直し、自分で自分の家を建てるという長年の夢を実現しました。
自宅の保有林から義父が材木を切り出して、それらを使って建てたました。
樹齢100年くらいの松や7、80年の杉、檜です。
柱には40cmほどの太い材を使い、すべて自宅の保有林から切り出した材木で建てたのです。
自分で設計し、基礎は知り合いの左官屋に頼み、大工仲間に手伝ってもらって建てたのです。
建坪78㎡の平屋建てで、薪を燃料にする風呂とトイレは母屋とは30mほど離れた別棟にしました。
 部屋は8部屋ですがどの部屋も広くして、圧迫感のない自分のイメージ通りの広々とした家でした。
特別の愛着があり、常に綺麗に心がけて、こまめに掃除をしていました。
平成4年に建てて、19年目で原発事故でした。
事故がなければ80年は手直しせずに持つ家でした。
 事故直後の3月に夫婦で自宅に戻った時に屋根瓦が落ちていたのを直したのですが、その時に怪我をしました。
立ち入り許可を取って津島の自宅に戻るたびに、毎回掃除をして家を見回り、窓を開けて風を通していました。
窓を開けて風を通さないと、家はダメになってしまうのです。
綺麗にしておきたいので、今も立ち入りのたびにそうしています。
いつ戻れるか判らないのですが、望みとして明日にでも戻りたい気持ちがあるからです。
 汚染の実感はないのですが、最初に戻った2011年9月13日には、玄関外が4,78マイクロシーベルト、玄関内が3,358、2階は6,9、茶の間は1mの空間で3,6、玄関外の地表は9,99まで測れる線量計が振り切れて測定不能でした。
恐怖を感じましたが、その後も現在まで自宅の線量測定は続けています。
 今年5月には玄関外が1,18、玄関内で0,56と、自宅内はずいぶん下がってきましたが、常に掃除をしてきたことが除染に繋がったのではないかと思っています。
ただ台所の流しは6,7あり、西側の窓辺は高いです。
毎回窓を開けて外の風を入れていますが、風とともに放射能も入ってくるからではないかと思います。
 老後は農業をしながら自給自足で暮らしたいと思っていましたが、それが叶わないことがとても残念です。
一刻も早く、除染をして欲しいです。
●被告側東電代理人反対尋問と答え
Q:津島の自宅は義父の名義ですね。
 その後、宝来町に本人名義で自宅を購入していますが、購入に際して自給自足生活を
 考えましたか?
A:考えませんでした。宝来町は自分で設計して、建築は業者に依頼しました。
Q:毎日どういうことをして過ごしていますか?
A:家族の用事をして過ごしています。
 津島に帰れれば農業をしたいが、今は仮住まいで、農業をしたい気持ちは起きない。
 少しだが庭があるので、庭いじりはしていて、きゅうり、トマト、花を育てている。
 野菜はほとんど近所にあげている。
  引っ越した翌年から、地域自治会の副会長で活動をして、その後も町内会の催し物、
 芋煮会、運動会などに参加している。
 野菜をあげる相手は、妻が地域との交流があるので、その人たちにあげている。
 話をしていないと寂しいので、日々交流はしている。
  避難者同士の集まりもあるが、2年前に浪江の人が近所に越してきたので、その人と
 は親しく付き合って、自宅に招いたりもしている。
  義母はやることがなくて、衰えが早くなった。
 デイサービスには週3回行っているが、地域との交流はない。
  津島に帰るたびに線量測定しているが、まだまだ高くて危険だと感じている。
Q:IAEAは年間20ミリシーベルトを基準にしていることを、ご存知ですか?
(*この質問には傍聴席から「え〜」と、それを言うか!というような呆れた声が上がったが、裁判長はこれに対して「傍聴席は発言を控えて」と制した)
A:知っている。
Q:甲状腺検査を受けたことはありますか?
A:避難してから、ホールボディカウンターを3回受けた。
 異常なしという結果だった。
Q:津島地区には、東電として色々な賠償をしていることはご存知ですか?
(*と言って、賠償額を記した書類を見せて確認を取る)
●被告国代理人反対尋問と答え
Q:いつ避難しましたか?
A:避難しなければいけない情報を、消防団につながりがある人から知らされて避難した。Q:度々立ち入り、帰宅していますね?
A:これまで70回以上立ち入り、被ばくを気にせずにいることはありません。
Q:高いことを気にしていますか?
A:はい。
Q:地域の交流についてお尋ねしますが、浪江・津島の人が訪ねてくることはありますか?
A:はい、あります。津島の人との交流は、年1回新年会などの時か、葬式の時です。
●原告代理人弁護士から
 話をしないと寂しすぎると武藤さんは言いましたが、佐藤畑では、毎日のように訪ねあってお喋りをしていたのです。

*第20回裁判は終わり、翌12日に第21回裁判が開かれました。
追って報告いたします。                       

いちえ

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