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2019年7月29日号「7月12日 津島訴訟第21回裁判①」


 11日に続いて12日にも、原告本人尋問が行われました。
午前中に、石井絹枝さんと今野千代さん、そして午後には須藤カノさんと3人の原告がが証言しました。
午後は須藤さんの後で専門家証人尋問があり、関礼子さんが証言しました。

◎原告・石井絹枝さん
●主尋問に答えて
 昭和45年から浪江町の公務員として住民戸籍等の窓口で勤め、平成11年に産業振興課に配属を望んで、そちらで働いていました。
 18歳で公務員になったのは、津島のみんなのために働きたかったからです。
戸籍係のような職種のことを一般業務と呼んでいましたが、平成11年に移った先は事業課と呼んでいました。
一般業務から産業振興課に移りたかったのは、直接住民の役に立つ仕事をしたかったからです。
 津島は山が多いので、自然相手に少しでも自然の恵みを活かして、春は山菜、秋にはキノコを現金収入に繋げたいと思ってやってきました。
働き方の提案などもしてきました。
津島は宝の山で、自然環境が良く、水も澄んでいました。
春の山菜・秋のキノコなど地元の年寄りは良く知っていて、加工技術なども持っていました。
 地元の人はなかなか気づかないことでしたが、津島は標高350〜450mの高地なので昼夜の温度差が大きいので植物の色が鮮やかに出ますから、色の出るブルーベリー、りんごなどの果実やリンドウなどの花卉栽培を作物としてどうかと提案して、町に助成を交渉しました。
そしてブルーベリーを50本以上栽培する人を8部落対象に募集して、36世帯が作るようになりました。
 またシソ科のエゴマは種まきから収穫までが短期間で現金収入につながるので、推奨しました。
平成11年前には油を絞ることは考えていませんでしたが、みんなでエゴマを作って油を絞ろうと提案して、搾油機を予算300万円で購入して貰い、搾油するようになりました。
搾油するようになる前は、擂り潰して“じゅうねん餅“などにして食べていました。
エゴマを食べていると10年長生きするということから“じゅうねん”と呼ばれる健康食品で、それまでは各家庭で自由に消費していましたが、大規模に現金収入につながるようにしたのです。
 平成12年には、「信用組合津島」という法人を作り、組合活動として「ほのぼの市」を始めました。
活性化センターに機械を設置して、専任オペレーターを2人採用しました。
浪江町だけではなく近隣からも搾油を依頼され、エゴマ油生産化に県・町・農家が一体となって頑張り、大成功でした。
直売場の「ほのぼの市」では、エゴマ油を始めとして浪江町の物産の販売をしましたが、朝早くから開店し、みな自分の商品に自信を持って販売していました。
組合には73人が集まり、一人一口10,000円の出資金を当初の資金として始めました。
売り子は会員内で交代であたりました。
「ほのぼの市」は公務員活動ではなく私的な取り組みでしたが、「100円の商品を作ろう」を合言葉にしましたが、それでは人件費まで出すのは難しかったです。
出品者が自分で値段を決め、同じ商品なら値段は一律にしました。
エゴマ油、かぼちゃまんじゅう、餅、また餅にキムチを入れたキムチ餅など各自自慢の商品が並び、山菜やキノコ、松茸も並び、お客さんの中にはクーラーボックスを持って買い付けに来る業者もいたりで、春秋は大混乱でした。
山菜やキノコを出品した人の中には、50万円の収入になった人もいました。
売り上げの15パーセントは組合へ、85パーセントは出品者の口座へ送りました。
朝7時に開店し、夏場は17時まで冬場は16時まで開店していました。
業者や料理人が買い付けに来るのは、出品者のやりがいとなり、自慢の加工品を持ち寄り、横のつながりもできて、みなで「良いものを作ろう」と、それぞれ頑張りました。
 「ほのぼの市」の他にも東北物産展や東京のアンテナショップ、郡山のデパートにも出品していて、もっともっと発展していく筈でしたが、2011年の原発事故が起きて、無に帰してしまいました。
 夫は酪農をしていましたが、避難時に「おれは牛を守るから、お前は自分の命は自分で守れ」と言い、二本松へ避難しました。
35頭の牛は殺処分しました。
夫は「殺処分したことはお前に言いたくない」と語ろうとしませんでしたが、牛を失い酪農を再開できなかったことを夫の証言から22ページの紙芝居にして、その読み聞かせ活動をしています。
牛の目線で作った紙芝居で、牛になった気持ちで読んでいます。
 「ほのぼの市」は解散し、もう再開は出来ません。
 家族は4ヶ所にバラバラになり、夫は最後まで5頭の牛を守っていましたが、仮設住宅に入居してからうつ病になりました。
 夫と話し合って新たに土地を用意して、「石井農園」を始めました。
津島に帰れる日まで、福島で農園をやろうと思っています。
 津島に戻りたい!帰りたいです。
浪江町の公務員だった時からいつも、町民に恩返しをしたいと思ってやってきました。
浪江町の自然豊かな暮らしが断ち切られたことが、苦しくて悲しいです。
きちんと措置をしておけば、原発事故は防げたのではないかと思っています。
 裁判官の皆様には、浪江町に、津島に帰りたいのにそれができない悔しさを、どうか理解していただきたいです。
●東電代理人から反対尋問
Q:事故当時、赤宇木の自宅は敷地内に2棟の建物があり、1棟に石井さん夫婦が、別棟に両親と長男家族が住んでいましたね?
A:はい。
Q:2棟の建物の名義は夫のタカヒロさんと、あなたでしたね?
東電の賠償金は、このお二人に払われていましたね?
A:はい。
Q:平成25年3月に浪江町職員を退職されましたが、それ以降は何をしていましたか?
A:平成25年4月以降は、「かあちゃんの力プロジェクト」で弁当を作って仮設住宅に配っていましたが、浪江町からは3人が加わって1年9ヶ月続けました。
(*注:「かあちゃんの力プロジェクト」は、東日本大震災と原発事故で農地も加工所も失ったあぶくま地域の女性農業者たちが、“福興”に願いをかけたプロジェクト)
 平成25年6月に福島市に自宅を購入し夫と住んでいますが、家族みんなで住みたくてそこを購入しました。
購入費用は私の貯金と夫への賠償金からで、8人で暮らせるような家にしました。
 三浦さんと私とでエゴマ油を中心に加工品を作って、福島観光物産展やコラッセなどで販売しています。
私が有機農法で作付け、収穫をし、飯坂に加工所を作って、三浦さんが搾油所を作りエゴマ油を、私は加工品をやっています。
 石井農園として、平成27年から農地を4ヶ所買い求めました。
エゴマを中心に、ブルーベリー、桑、柿などを栽培しています。
Q:ご長男は原町区のエンジニアでしたね?
平成23年3月に原町区の仕事が再開されましたが、平成23年4月20日に退職されましたね。そして二本松に転居後、郡山に勤めていますね?(などと問うのですが、その眼差しのの冷たいこと!)
A:はい。
Q:これは東電からの賠償金を記したものですが、間違いないですね、ご確認ください。
A:はい、間違いないです。
●国代理人から反対尋問
Q:紙芝居活動はどのようにしているのですか?
A:4人で、依頼を受けて全国を回っています。
●原告代理人から
 津島にいた時の物産販売では、自分たちで作付けして加工したものを販売していたので、仲間との繋がりは広く強いものだった。

◎原告・今野千代さん
(*今野千代さんも沢山のことを話されたのですが、耳の悪い私にはよく聞き取れず、メモ書きできなかったのですが、聞き取れたことのみを記します。)
 今野さんは、看護師として津島診療所に勤務していました。
所長の関根医師は、津島診療所に赴任して20年以上になりますが、専門が外科医なので緊急の時には手術にも対応してくれました。
診療所隣の宿舎に寝泊まりして、時間外でも対応してくれました。
津島診療所と関根医師は地域の人たちにとって、なくてはならない大切なところでした。
津島の人たちは診療所を支えるために「診療所を守る会」を作って懇親会などを開き親睦を図っていましたが、その中心になっていたのが今野さんでした。
関根医師に移動の話が持ち上がった時には反対署名を集め、移動を防げました。
 診療所の待合室にはこたつも置き、地域の親睦の場でもありました。
半分以上が高齢者なので、今野さんは歩き方などもよく観察して体調を察していました。
 今野さんは2011年3月11日には、診療所に残って仕事をしていました。
事故前は日に35〜40人ほどの受診者でしたが、震災後は一気に、350人ほどに膨れ上がりました。
浪江町中心部から、避難者が殺到してきたのです。
普段の何倍もの患者が押し寄せて、みるみるうちに在庫の薬がなくなっていきました。
 15日、突然に役場職員から津島から避難するようにと告げられ、東和町に避難しました。
避難所になった東和町の体育館では、寒いところに避難者がゴロゴロ寝ていました。
その様子を見て今野さんは、「大変なことになった、このままでは死んでしまう」と、診療所に残してきた薬があることを思い出して関根医師と上司に相談しました。
その結果、浪江町は仮設の診療所を立ち上げました。
 2013年3月に、今野さんは定年を迎えて退職しました。
(*以上が、原告代理人尋問への今野さんの答えの要旨です。最後に原告代理人が「裁判官に伝えたいことがあったら、お話しください」と促すと、今野さんは応えました)
●今野千代さんが裁判官に伝えたこと
 裁判官の皆様が現地に来てくださることを聞いて(*注:昨年9月27、28の両日、現地調査が行われました)、とても嬉しく思いました。
もし皆様が具合が悪くなったら、私が診なければいけないと思い血圧計を持って行きました。
悪天候の中を来てくださって、本当にありがとうございました。
 何よりも現状を見てくださって、ありがとうございました。
●東電代理人から反対尋問に答えて、今野さんが話したこと
 私自身の体調が悪くて月に一度診療所に通うが、行くと関根先生や以前の患者さんに会うことがある。
兄、母が亡くなり、守る者が亡くなってから入眠剤がないと眠れなくなった。
津島の行事には年に5、6回参加している。
Q:これは東電からの賠償金支払いの明細です。
精神的損害その他の賠償金額ですが、間違いないですね?受け取っていますね?
Q:土地・建物の購入代金は、東電の賠償金からですか?
A:はい。

◎原告・須藤カノさん
 生まれは飯舘村だが、北海道の酪農の様子を見て酪農の仕事に惹かれて、20歳で津島の酪農家に嫁いだ。
結婚してみたら朝から晩まで牛の世話で、楽しいことは一つもなかった。
子どもは3人生まれたが夫は暴力をふるう人だったから、子どもらが4歳、6歳、小学1年の時に離婚して子どもを引取り育ててきたが、夫からの援助はなかった。
生活のために仕事を掛け持ちして、1日15時間くらい働き、毎日夜10時か11時頃まで働いた。
近所の人から、米、味噌、野菜など頂き、助けられてきた。
また、子どもらは「暗くなったから家に入りなさい」とか「これ(おにぎり)食べて、お母さんが帰るまで待ってなさい」などと近所の人が世話もしてくれた。
 長女のエリは結婚後も、津島で一緒に暮らしていた。
カノさんが勤めていた会社の社長の家族が倒れ、会社で米など食材を出すのでカノさんに給食を作ることが依頼されて引き受けるようになった。
 職場でクラッシャーのベルトコンベアーに挟まれて怪我をして、手が使えずにいた3ヶ月間、山崎さん(同僚?近所の人?)に助けられた。
 原発事故後3月25日までは、津島の自宅にいた。
なぜかというと、会社の社長には大変世話になって恩義を感じていたが、社長の母が倒れて避難できずにいるのを見てカノさんは世話をしたいと思ったし、家の中にいれば安全だと言われていたからだった。
だが、3月25日に警察と消防が来て「ここにいては危ないから避難するように」と言われて避難した。
孫は4歳、小1、小2と小さかったが、「ばあちゃんが出ないから孫が出ないんだ」と役場や警察、消防に言われて、「オレ(*方言で女性もオレと自称する)が一番悪かった」と思って孫たちを連れて避難した。
避難する前に社長が線量を測ったら、線量計はピーピー鳴ったが、匂いもしないし危険だなんて判らなかった。
 東和体育館へ行ったら、川俣公民館で線量を測って来いと言われて行ったらそこではなく川俣高校へ行けと言われ、川俣高校で測った。
避難所の体育館に着いたのは遅い時間で、夕食にパンとカップラーメンをもらったが、夜だったし封を開けるときにとガサガサ音がするので、みんなを起こしてしまうと思い、食べなかった。
体育館にダンボールと毛布を敷いて、毛布を被って寝た。
 4月5日に、避難場所は移って土湯温泉に避難した。
その後仮設住宅に入居し、息子たちは3DKに、オレは4畳半一間の仮設に入居した。
息子夫婦は避難のストレスから離婚し、孫の世話をオレがするようになったので、オレの部屋では狭くて大変だった。
仮設住宅では(請戸の人に)、「請戸の人は家が無くなったが、山の者は家があるだろう!」と言われた。
 孫の世話は大変だった。
学用品をどう用意すれば良いのかわからなかったし、仮設住宅での生活は辛かった。
孫から「体育着で雑巾がけされた」「ばい菌が付いてると言われた」と聞いて、オレは学校に行き先生に言ったら、校長と教頭から「いじめはない」と言われた。
また孫はレイと言う名前だが、クラスでは「キン」と呼ばれていると聞いたとき、オレはまさか「菌」だとは思わず「金」のことかと思い、「いい名前つけてもらって良かったね」と言ったら、孫は「ばあちゃんもオレのこといじめる」と泣き出し、話もしなくなり、ご飯も食べなくなり「死にたい、死にたい」と言うようになってしまった。
それで、ばい菌扱いされて、いじめられてることがわかった。
この子に死なれたら一番困るのはオレだから、「ばあちゃん悪かった。ごめんよ。金のことかと思ったんだよ。お前が大好きなかぼちゃ饅頭作ってやっからな。泣くな」と言って、かぼちゃ饅頭を作ってやったが、孫はトイレに篭って出てこなかった。
校長先生に相談すると、津島小学校に転校させるようにとアドバイスを受け、平成26年に津島小に転校させたら、もう「死にたい」と言わなくなった。
中学校に入った時には、「浪江から来たと言うのは良いが、津島からとは絶対言わないように」と言い聞かせた。
 孫は、避難前から祭りなど地域の伝統行事などに積極的に参加していて、三匹踊り(三匹獅子舞)が好きだった。
孫は「津島に帰りたい」と言っているし、三匹踊りを踊りたいと言っています。
●反対尋問・東電代理人
Q:昭和26年に飯舘で生まれて北海道で酪農をして、20歳で酪農家の津島の人と結婚し3人の子どもが生まれ、30歳で離婚しましたね?
A:はい。
Q:長男は浪江高校津島分校を卒業し、長女は津島分校卒業後東京に就職。次女は高卒後地元で就職した後、東京へ行ったのですね?
A:はい。
Q:長男は平成16年に結婚し、津島の町営住宅に住んでいましたね?
A:はい。町営住宅の3DKに7名で生活していましたが、狭くなったので家を建てようと計画していたところでした。
Q:避難するまで2週間津島にいて、それから二本松の体育館に避難し、4月6日に土湯温泉に避難したのですね?
A:はい、息子の妻の両親もここにいました。孫は4人でしたが、嫁の両親が孫を叩いたりするようになり、息子夫婦は離婚しました。孫はパパと一緒に行くと言って、息子が孫たちを引き取りました。
Q:その後、仮設住宅に入居してから須藤さんが引きこもるようになりましたね?
A:はい。1ヶ月くらい引きこもっていました。仮設には、津島の人もいました。でも仮設の人の中には、酔っ払ってドアをドンドン叩いたり「孫の世話もできないのか」と嫌がらせを言う人もいて、外に出るのが怖くて引き篭もっていたら、隣に住んでいた自治会長さんが「談話室に集まって嫌なことを話し合おう」と誘ってくれて、毎日談話室に行くようになりました。
Q:津島では家庭菜園をしていましたが、仮設住宅では?
A:畑を借りて、野菜を作っていました。
Q:今はどうですか?
A:自宅を購入した今も家庭菜園をして、家族で食べたり人にあげたりしています。
家は5DKで、駐車場は軽が10台入ります。
畑は駐車場くらいの広さがあります。
津島の人とは月に2、3回電話で連絡を取りあっています。
 孫2人は、二本松の津島の高校に通うようになりました。
Q:東電からこれだけの賠償を受けていますね?(と、言って書類を見せる)
A:はい。
●反対尋問・国側代理人
Q:仮設を出て福島市に自宅を購入しましたが、福島市を選んだ理由は?
A:世話をしてくれる人がいて、佐々木さんの家も近かったので。
Q:甲状腺検査はしましたか?
A:孫は、再検査の連絡を受けたので心配しています。
Q:近所とのトラブルは?
A:ないです。
Q:現在の住居は、あなたと息子さん、お孫さん4人で6人ですが、狭いと感じますか?
A:いいえ。

*12日は石井さんと今野さんの原告本人が午前中、須藤さんは午後でした。
そして午後は須藤さんの後で、証人(関礼子さん)尋問がありました。
関礼子さんの証人尋問の様子は、別稿で続けます。        

いちえ

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