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2019年8月8日安保法制違憲訴訟・国家賠償請求事件 傍聴記③


 第11回口頭弁論傍聴記、③で終わりです。
7月25日、この日で結審しました。
判決は11月7日(木)東京地裁103号法廷で、15:00です。

●第5章 本件と司法判断のあり方:伊藤 真弁護士
①立法不作為の違法性
 原告らの主張は、判例の違法性判断枠組みに従ったものである。
これまでの判例は、公権力の主体がその行為に際して遵守すべき規範または職務義務に違反したかどうかが判断の基準になる。
この基準を前提にすれば、国会議員による新安保法制法の立法行為が遵守すべき規範または原告らに対して負う職務義務に対して違反したかどうかによる。
 この点、一見明白に憲法に違反する制定行為であったと考えざるを得ない。
元最高裁長官をはじめとし歴代内閣法制局長官、元裁判官、日弁連、憲法関係者のほとんどが、新安保法制制定過程の政府、国会の行為が違憲であり立憲主義に反すると指摘していた。
国民が納得するような十分な審議もなされず、新安保法制法を強引に成立させた行為は、明らかに国会議員として遵守すべき行為規範に違反し、憲法尊重擁護義務を負う国会議員の職務義務違反である。
各国会議員の安保法制法の立法過程における行為の違法性は顕著であり、明白である。
②国賠法上保護される権利・利益
 被告は、「原告らが主張する権利は国賠法上保護された権利ないし法的利益と認められない」、「原告らが『人格権』侵害の内容として述べるところは、……漠然とした不安感を抱いたという域を超えるものではない」などと、特に根拠、説明を示すこともなく断じ、原告らの主張自体失当であるとして、請求の棄却を求めている。
 しかし、何らの基準や根拠もなく、これまで第3章、第4章で論証してきたような原告らの主張する権利・利益を法的保護から安易に除外することは到底認められない。
 本件原告らの受けている新安保法制法による前述のような個別具体的な不安・恐怖、平穏な生活の喪失、生涯をかけた活動・使命に対する妨害等は、個人の尊厳としての人格権の侵害そのものであり、これに対する賠償請求は、まさに個人の尊厳を求めるための訴えに他ならない。
 特に人格権に基づく損害賠償請求に対し、安易に「法律上保護されるべき利益」を否定することは、不法行為法が果たすべき機能に照らし、許されない。
 被告は、「原告らが『人格権』の侵害と述べるのは、我が国が戦争やテロ行為の当事者になれば、国民は何らかの犠牲を強いられ危険にさらされるのではないかといった漠然としたものに過ぎず、かかる程度の内容では具体的権利性が認められない」と主張するが、では、具体的にどこまで切迫した段階で「漠然とした不安感」が「具体的権利性の認められる不安感」に転ずるというのか。
 新安保法制法が施行されている現在、原告らの不安感は十分に現実味のある不安感であり、すでに平穏な生活利益が侵害されているのである。
原告らは専門家証人により立証を企図したが、裁判所は証人申請を却下した。
証人の供述を踏まえなくても裁判所が判断できるというなら、裁判所には、現在及び将来の危険性を緻密かつ的確に判断することが求められている。
 原告らは、新安保法制法の制定による法的体制の変容、そこでの自衛隊による武力行使の機会及び危険の大幅な拡大、自衛隊・米軍の存在・活動を含む客観的な国際情勢・軍事勢力の下で、それぞれの戦争体験その他の経験や各人が置かれた社会的立場等に応じて、日本が戦争やテロに関与し巻き込まれていく危険、その場合に自分自身に生ずる生命・身体、日常生活、精神面での被害や危険を実感している。
これらは被告の主張するように、なんの根拠も基準もなく、法的に保護される権利ないし利益ではないとして切り捨てられるようなものではない。
③本件における裁判所の職責
 安全保障政策に関する国民の意思は、多様である。
その国民意思を統合して国家意思決定を行うことが、国会には期待されている。
安全保障政策の実現や外交交渉の内容などは政治部門の判断に委ねられているが、その際に内閣、国会が最低限遵守すべき大きな枠組みは憲法で規定されている。
こうした憲法による統制が立憲主義である。
政策の当不当の判断ではなく、こうした大きな枠組みを逸脱する立法か否かの判断こそが、司法に期待されている本来的な役割である。
本件訴訟は、新安保法制法の安全政策上の当否の判断を、裁判所に求めているのではなく、あくまでも、新安保法制法が、憲法が許容している枠組みを逸脱しているか否かの判断を求めているのである。
 そして、国賠法上の違法性の判断ないし原告らの損害の有無の判断に先行して憲法判断をすることは、問題がないどころか必要な場合があるのである。
裁判所には、憲法判断を避けることが許されない場合があるというに留まらず、憲法判断に踏み込まなければならない場合があることも明らかで、本件訴訟がそのような場合であることを原告らは主張している。
 アメリカ、フランス、ドイツにおける各違憲審査性を概観してみると、違憲審査権の行使を躊躇することをせず、それは民主主義と整合するのであり、人権保障と憲法保障に積極的であるがゆえに国民の信頼を得ていることがわかる。
どの国も過去において暗い歴史を持ち、司法もそれと無縁ではなかったが、今日ではそうした過去を克服し政治部門から独立した裁判所として、あるべき姿を確立し、権力分立が実質的に機能するようにその職責を果たしている。
これらの近代立憲主義国家と価値観を共有する日本の裁判所だけが、ひとり政治部門に追随し、実質的な独立性を失い、国民から信頼を失って良いわけがない。
 日本においても、大日本帝国憲法下の裁判所は司法省の監督下にあり真の独立はなく、違憲審査権も認められていなかった。
しかし日本国憲法の下では司法権の独立が認められ、違憲審査権が規定されている。
 いうまでもなく、戦争は最大かつ最悪の人権侵害であり、国家が戦争に近づくのを阻止することは、最大の人権侵害を未然に防ぐことを意味する。
だからこそ、人権保障のためには、憲法9条や前文の平和主義が要請する平和国家としての憲法秩序の維持が必要であり、そのために裁判所が「憲法保障機関」としての役割を果たすことが期待されているのである。
 これまで憲法秩序は、内閣法制局による事前審査によって相当程度確保されてきた。
しかし、内閣法制局長官が首相の配下となり、その意思を忖度し追随するだけの機関に堕落してしまった今、内閣法制局に期待できない。
こうした事態に陥ってしまっている以上、政治部門の外にある裁判所が、内閣の意向に忖度することなく立憲主義の擁護者とし、その役割を積極的に果たす以外に、日本における立憲主義を維持貫徹する方途はないのである。
 特定秘密保護法、新安保法制法、組織的犯罪処罰法等十分な議論と検討が必要な法律が、数の力で押し切られて成立してしまった。
昨今の官僚、政治家の不祥事、不適切な発言、公文書の廃棄、隠蔽、改ざんをあげるまでもなく、議会制民主主義の根幹が揺らいでいる。
これまでにないほど立憲主義、平和主義、民主主義といった憲法価値観が危機に直面している。
こうした時だからこそ、果たさなければならない司法の役割、裁判官の使命があるはずである。
 今日のような憲法の危機に際して、裁判所がその役割を果たさずして、日本の未来はあるのであろうか。
政治的な問題には司法が口を挟まないという態度が、国の方向を誤らせるのではないか。
後世から見れば、あの時が重要な分岐点だったと言われる時に、今私達はいる。
 6月13日に前橋地裁における安保法制違憲訴訟の証人として、宮崎礼壹元内閣法制局長官が、集団的自衛権の行使は違憲であるというのは、この国の憲法実践、国家実践であったと毅然と証言された。
まさに国家権力の中枢で憲法価値を堅持してきた法務官僚としての誇りが感じられる証言であった。
 当裁判所の裁判官にも、法律家としての誇り、プライドを見せて欲しいと思う。
④最後に
 裁判官は特別な権限と地位を与えられた職業である。
「憲法の番人」「人権保障の最後の砦」と言われる任務を担っている。
憲法76条3項は「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定する。
裁判官としての良心に基づく自らの意思で憲法を蘇らせることが出来るし、目の前で苦しんでいる原告に希望の光を与えることもできる。
これは裁判官にしかできないことである。
そして、裁判官には何も畏れるものがない。
仮にあるとすれば自らの良心だけである。
従うべきものも自らの良心と憲法だけである。
 本件訴訟の原告ら及び代理人も、つい裁判所に「勇気と決断」を求めてしまう。
しかし、「勇気と決断」がなければ憲法に従った判断はできないと決めてかかるのは、裁判所に対して礼を失するだろう。
裁判官が事故の良心に従って法律のプロフェッショナルとして、憲法と法律に則って淡々と職責を果たすのは、むしろ当然のことである。
原告と代理人は、裁判所に良心を持って本件訴訟の事案の本質を洞察し、司法に負託された当然の職責を果たしてもらいたいと期待するだけである。
司法に課せられた憲法保障機能と人権保障機能を全うし、法の支配の実効性を高め、立憲主義の崩壊を防ぐため、政治部門に対し強く気高く聳え立っていてほしい。
このことを弁論を終えるに際して改めて切に願う。

終章 日本はどこへ行くのか:杉浦ひとみ弁護士
 2014年7月1日の安保法制についての閣議決定から5年、「平和国家」日本は大きく変わった。
1、この歴史の変節は、政権が集団的自衛権容認への道程の第一歩として、内閣法制局の人事に手を付けたことから始まった。
 2013年8月8日、安倍首相は、山本庸幸内閣法制局長官を退任させ、集団的自衛権容認論者の小松一郎氏を、従来の慣例を覆して外部から長官に任命した。
 内閣法制局は、内閣における「法の番人」として権威を持ち、憲法の解釈、とりわけ戦後70年にわたり絶えず論争となった憲法9条について政府の解釈を確定する大きな役割を果たしてきた。
内閣法制局の憲法解釈があることで、事後の司法判断を待つことなく法の意味を確定し、これを尊重する事実上の力を持ってきた。
 ところが安倍首相のこの小松長官人事は、政治家による恣意的な法解釈が統制されない構造になったことを意味し、内閣法制局の権威は地に堕ちた。
このあと、国民は行政府の憲法解釈・法解釈を信頼し、尊重することができなくなってしまった。
これまで国を支えてきた内閣法制局の存在価値を、大きく棄損してしまった。
2、安保法制懇報告を受けた安倍首相の記者会見
 翌2014年5月15日首相の私的諮問機関である「安保法制懇」が、「必要最小限度の自衛のための措置」として、集団的自衛権の行使も認められるべきとの報告書を提出し、安倍首相はこれを受けて記者会見を行い、この安保法制懇の趣旨を、政府の「基本的方向性」とする旨発表した。
子供を抱いた母親が紛争地域から待避するために乗船する公海上の米軍艦隊を描いたパネルを掲げ、安倍首相が熱弁を振るったのはこのときだ。
しかし、このような事態が起こり得ないことは間もなく明らかになった。
3、新ガイドライン締結と安倍首相の米議会演説
 2015年4月27日、日米安全保障協議委員会で新安保法制法を先取りして新ガイドラインに合意し、その2日後、安倍首相は米議会上下院合同会議において、新安保法制法が法案として国会に提出もされていないうちに、アメリカに対して「夏までに法案を成立させる」と、公言してしまった。
国内のすべての手続きを完全に無視した、国外でのフライングだった。
4、5,14閣議決定と安倍首相の記者会見
 私的諮問機関からの報告を受けて2015年5月14日、新安保法制法が閣議決定され、同日安倍首相は記者会見で、
「日本が攻撃を受ければ、米軍は日本のために力を尽くしてくれます。(中略)私たちのためその任務に当たる米軍が攻撃を受けても、私たちは何もしない。これがこれまでの立場でした。日本近海において米軍が攻撃される、そういった状況では、私たちにも危険が及びかねない。人ごとではなく、まさに私たち自身の危機であります。」「戦争法案などといった無責任なレッテル貼りは全くの誤りであります。あくまで日本人の命と平和な暮らしを守るため、そのためにあらゆる事態を想定し、切れ目のない備えを行うのが今回の法案です。海外派兵が一般に許されないという従来からの原則も変わりません。自衛隊がかつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、今後とも決してない。そのことも明確にしておきたいと思います」と発言した。
集団的自衛権を認めて海外で武力を行使できるようにするという法案を提出しながら、従来通り海外派兵はしないという矛盾した答弁は、この後、国会審議を通しても貫かれた。
5、最高裁砂川判決による集団的自衛権の正当化
 新安保法制法審議中の2015年6月4日衆議院憲法審査会において与野党推薦の参考人の3人の憲法学者が全員、集団的自衛権の行使容認は憲法違反であると述べたことは国民に大きな衝撃を与え、学問的・理論的正義には逆らえないのではないかと、議論の正常化が期待された。
ところがここで持ち出されたのが、「砂川事件判決は集団的自衛権も認めている」という詭弁だった。
砂川判決が集団的自衛権について何も触れていない、判断していないのは、ここにいる裁判官、弁護士らも含め法曹界にとって当たり前のことだった。
6、参議院保安委員会での暴力的な強行採決
 参議院の保安委員会では、同年9月17日、委員長不信任案が否決され、委員長が席に戻るや、他の委員会の与党議員がなだれ込んで委員長を取り囲み、「人間カマクラ」を作って防護し、強行採決させまいとする野党議員を暴力で跳ね返した光景は、今なおありありと浮かぶ。
速記には「議場騒然、聴取不能」と記録されるような状況の中で、「採決」が行われた。
なんら報告もされていない横浜地方公聴会の速記録も議事録には添付されていた。
 どれほどの議会軽視、民主主義軽視でこの重要な法案が扱われたのか、これを正規に成立した法律と考えてよいのか。
7、南スーダンPKOと無謀な新任務付与
 このようにして成立したとされる新安保法制法の最初の適用は、2016年11月の南スーダンでの「駆け付け警護の新任務付与」だった。
 南スーダンでは戦闘が繰り返され、同年7月8日から11日の首都ジュバにおける戦闘では、300人以上が死亡し、自衛隊の宿営地の頭越しに両派の銃撃戦・砲撃戦が展開され、そこには停戦合意など存在せず、PKO5原則など到底満たされる状況ではなかった。
 自衛隊作成の日報に「戦闘」「銃撃戦」等の言葉があるほか国連などの報告書でも戦闘であったことは明らかだった。
にもかかわらず、防衛大臣は「戦闘」ではなく「衝突」とごまかし、同年11月15日、現地に向かう第11次隊に対して駆けつけ警護の新任務を付与した。
これは、自衛隊員をまさに戦闘の危険にさらすことにほかならず、また自他の殺傷に及ぶ危険にさらすことにほかならない。
 加えて後日、日報隠蔽問題が発覚した。
自衛隊の生命と安全を軽視したものであったことは明らかで、原告らが、この法制に多大の危惧や不安を覚えたことは、根拠のあるものだった。
8 武器等防護とミサイル防衛による北朝鮮との軍事的対立における当事者化
 この法制の適用第2弾は、2017年5月の武器等防護の実施だった。
 当時極度の緊張関係にあった米朝の対立関係の中で、アメリカ側の軍事的対立当事者として、同月1日、日本最大のヘリ空母型護衛艦「いずも」がアメリカの貨物弾薬補給艦を房総沖から警護を始め、翌日には途中から護衛艦「さざなみ」も加わって、北朝鮮に圧力を加えるために日本海に展開しているカールビンソン空母艦隊の補給に向かうとみられる同補給艦を、奄美大島付近まで警護し、なんらかの侵害行為が米艦になされた時には、自衛隊(形式的には自衛官)が武器等を用いて防護するというものだった。
 この武器等防護の実施に対し、北朝鮮は、「日本が真っ先に放射能の雲で覆われる」などと反応した。が、米朝の緊張関係は、外交努力で緩和されうるものであることも知れた。
9 日米同盟の下で戦う自衛隊への変貌の危険
 新安保法制の下で自衛隊は、地理的限界なく、自らの海外での武力行使や、武力行使をする外国軍隊に近接した場所での後方支援を行うなど、危険性の高い任務、行動、権限を大きく拡大し、それに対応できる編成、装備等を拡充し。かつ、攻撃的な機能を具備してきた。
2018年12月の新防衛大綱及び新中期防に置いて、これらが集大成されてオスプレイ17機の購入、長距離巡航ミサイルの導入、ステルス機F35戦闘機の大量導入(合計147機)、ヘリ空母型の護衛艦「いずも」や「かが」の改修など、配備が進められてきた。
 これらは中国に対する大綱措置としての性格が中心に据えられ、アメリカと一体になって戦える自衛隊の体制が構築されつつある。
実際には自衛隊は限りなく米軍のシステムの中に呑み混まれるが、そのとき、憲法9条の歯止めも失った日本が、日米関係の中でいかなる危険な立場に置かれることになるのか、私たちは冷静に見極めなければならないところに来ている。
10 不穏なイラン情勢
 まさに今、アメリカはイランとの関係でホルムズ海峡での航行の自由を確保するための有志連合の結成を目指す方針を明らかにし、日本に対しても参加を呼びかけている。
 しかし、安保法制により、アメリカの要請を法的に断る根拠を失っている。
11 宮崎礼壹元内閣法制局長官の証言〜歴史の岐路に立つ司法の役割
 6月13日、前橋地裁における安保法制違憲訴訟の証人尋問で、2006年9月から2010年1月の退官まで内閣法制局長官を勤めた宮崎氏は、その経験を基に、1972年(昭和47年)10月14日政府から参議院決算委員会に提出された「集団的自衛権と憲法との関係」という書面の作成経過を説明した。
政府は昭和47年見解以前からも一貫して憲法9条の下で集団的自衛権の行使は許されないとの解釈をとり、国会の中で繰り返し答弁され、積み重ねられてきたものであり、それを改めようとするのであれば憲法改正の手続きを踏むべきだと明らかにした。
 そして、「集団的自衛権の行使は違憲だというのは、単にある解釈にとどまるものではなく、国会もそれに従い予算を承認し、法律を制定してきた。政府も国会も一緒になって、日本として、憲法9条の下では集団的自衛権の行使はできないという道を実践してきた。憲法実践、国会実践として集団的自衛権の否定ということをしてきた」と証言した。
 この国は戦後70年間、日本国憲法の下、自らの国の歴史、国の姿を作ってきた。
集団的自衛権を巡る都度の議論と政府の回答は、単に回答が何回も出されたというに留まらず、その論争・回答の積み重ねによって国の方向性が明示され、それは政治の世界にとどまらず、これらを通じてこの国の人々は、「戦争に子どもをやらなくてもいいという安心」や「人殺しをしない国に所属すること」などの意識を形成し、それが日本社会の土壌を形成し、世界からの信頼を獲得し、そういった目に見えないものが地層のように積み重なってこの国の歴史を作ってきた。
集団的自衛権の禁止とそれによる平和の保障というのも、こうした歴史の積み重ねによって形成されてきた。
 この政権の独自の考えで、これまで作ってきたこの国の歴史を作り変えることは許されないことであり、裁判所がそれを見過ごしたり、あるいは積極的に追認することは憲法への違背であるだけでなく、歴史に対する冒涜である。
 今日の状態を招いている行政と国会に対し、その責任と権限において、これを改めさせるべく毅然とした判断をされることを期待してやみません。

★第11回口頭弁論は、裁判長の「これで結審とします。判決は11月7日午後3時、この103号法廷で行います」の言い渡しで閉廷しました。
 裁判官はポーカーフェイスが得意だと言われますが、今回は傍聴していて「おや?」と思うことがありました。
開廷してすぐの頃に、まず初めに裁判長が進行についてなどを原告側、被告側両代理人に確認するのですが、その時に裁判長の声が傍聴席まで届きませんでした。
傍聴席から「マイクを使ってください」の声が上がったのですが、これまでだと「傍聴席は発言しないように」などと言われたのですが、この日は違いました。
裁判長はマイクを使っていなかったことに気づいて「あ、済みません」とすぐに謝り、それからマイク越しによく通るように発言するようになったのでした。
 また原告代理人弁護士の方たちの意見陳述に、しっかり耳傾けて聴き入っているように見受けられました。
 古川弁護士は、原告らの陳述書からを読み上げたのですが、その声が時折詰まってしまうほどに原告の体験は胸に痛く響くものでした。
3人の裁判官はじっと聴き入りながら、特に右陪審は思いが溢れたように目を伏せることもしばしばでした。
 とはいえ、原告から提出されていた証人尋問申請を棄却したのは、この裁判官たちですから、楽観はできません。
原告代理人弁護士の方たちみなが言っていたように、膨大な準備書面を真摯に読み込んで、政権に忖度しない司法の良心に従った判決を導くことを、心から願います。
 またこの日は司法修習生が4人、被告側代理人の斜め後方にいて傍聴していましたが、伊藤弁護士は意見陳述の途中でそのことに触れ、「今日は4人の司法修習生が眠い目をこらえながら聞いていたようですが、あなたたちは難関を超えて今ここにいていずれは検察官あるいは裁判官になるのでしょうが、法律家として憲法を遵守する立場にあることを、この裁判傍聴を通して、しっかりと肝に銘じて進んでいってほしい」と、彼らに語りかけました。
 いよいよ11月7日が判決です。
全国25ヶ所で提訴されている安保法制違憲訴訟ですが、この東京地裁の国家賠償請求裁判が一番初めに判決を迎えます。
その結果は他の裁判に大きく影響しますから、判決のその日、多くの傍聴希望者で地裁を取り囲みたいです。
 どうぞ、傍聴に詰め掛けてください。                

いちえ

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