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2019年8月9日号「トーク会のお知らせ」


 暑い毎日が続いていますが、お元気にお過ごしでしょうか?
トークの会「福島の声を聞こう!vol.32」のお知らせです。
 私が初めて南相馬へ行った日から、8年が過ぎました。
そして、その翌年3月から始めたトークの会です。
決して「アンダーコントロール」されていない福島の現状を、被災者の現実を、多くの人に知ってほしいです。
どうぞ、お出かけください。

●2011年3月
 2011年3月11日の午後、それまでに体験したことのなかったような大きな揺れに恐怖を感じて、夫と共に外へ出ました。
外にはやはり私と同じように、不安げに空や建物を見上げている人たちの姿がありました。
向かいのアパートから出てきた若い女性は、恐怖で泣きだしていました。
 近くには息子家族が住んでいるのですが息子は仙台に出張中で、息子の妻と3人の孫は我が家に避難してきました。
息子から連絡があり、その朝に仙台空港から次の出張地の熊本へ向かったと言うことだったので胸をなでおろしたのですが、東京でもまだ余震が続き、揺れるたびに孫たちはテーブルの下に潜り込んだのでした。
 釘付けになって見ていたテレビから原発事故が報じられ、孫たちを連れて避難を考えました。
息子たちはその2年前にサンフランシスコから帰国したばかりで、上の孫二人は米国住民のパスポートがあります。
それで最初は、家族でサンフランシスコに戻ることを考えましたが、ニューヨークに住む娘からは、原発事故によって米国人の中には日本人に対しての差別が生じていると連絡があり、アメリカへの避難は止めました。
 沖縄にいる夫の友人の勧めがあって沖縄に行くことにし、息子はまだ熊本出張から戻っていなかったので、私たち夫婦も付き添って一緒に沖縄に行きました。
沖縄について2日目に出張仕事を終えた息子と合流し、とっさの時にすぐ国外に出られるようにと、パスポートを持っていない一番下の孫の入手手続きをしました。
 私たち夫婦は3月末に帰宅したのですが、息子たち家族はもうしばらく留まって、学校や幼稚園などが始まる前に戻ってきました。
 沖縄にいる間も、戻ってからも、テレビや新聞、ネットからの情報を集めながら、私自身は居ても立ってもいられぬ思いで過ごしていました。
福島へ行きたい!と強く思っていました。
「福島の人たちはどうしているのか?みんな避難できたわけではないだろうに、どうしているだろう?」と、とにかく状況を知りたかったのです。
でも、どうすれば福島に行けるかも判らず、またたとえ行けたところで、私などが行っても、現地の人には迷惑だろうしボランティアの人たちの邪魔にもなるばかりだろうと思っていました。
●2011年7月
 たまたま7月に、岩手県の花巻市でチベットに関したイベントがあり、チベット関係の友人たちと行くことになっていました。
友人たちに「岩手に行くのだから、イベントが終わったら被災地でボランティアをしてから帰ろう」と誘って、友人たちの快諾を得て遠野まごころネットに登録をしたのです。
 遠野まごころネットからバスで向かったのは気仙町でした。
津波をかぶった家の中の瓦礫の片付けをしました。
作業をしているとこの家の主人がやってきて、お礼を言いながら清涼飲料水を置いていってくれました。
私たちも聞きませんでしたし、その方も話しませんでしたが、ご家族を津波で亡くされた方でした。
その方が名乗られた苗字に、津波犠牲者として報道されていたと私には記憶があったのです。
 私でも、被災地でできることがあった、私でも役に立てることがあるとわかって、福島に行きたい思いは募りました。
でも、広い福島のどこに行けばいいのか何も判らずに、ただ行きたいと思うだけでした。
 それから2週間ほど後に長野市でイベントがありました。
映画監督の坂田雅子さん、同じく映画監督の纐纈あやさん、そして私の3人で「女たちの3・11」と題したパネルディスカッションと、雑誌『たぁくらたぁ』編集委員の野池元基さんと環境学者の関口鉄夫さんの講演でした。
お二人のどちらの講演の時だったか、スクリーンに何枚かの画像が映され、中の1枚に「南相馬ビジネスホテル六角」と看板を立てた建物がありました。
それを見て「あ、福島に行くならここに宿を取ればいいんだ」と思った私は、看板にあった電話番号をメモしました。
 イベントを終えて帰宅してから、ビジネスホテル六角に電話して8月9〜11日の宿泊を予約して、また南相馬市社協に電話してボランティア登録をしたのでした。
それが南相馬に通うきっかけになったのです。
●初めての南相馬
 ビジネスホテル六角に着くと、オーナーの大留さんは私の頭の先からつま先までを上からじ〜っと眺め渡しながら「3泊4日ね。何しに来たの?」というのです。
「ボランティアに来ました」と答えると、まるで「こんなばあさんが、何しに来たんだか」と言った感じで「ふ〜ん」と言われました。
そして「これから行くの?」と言うので、「今日はもう受付が終っている時間なので、明日からです」と答えると、「そう。僕たちはこれから仮設住宅に物資を配りに行くから、一緒に行くかい?」と誘ってくれたのでした。
知らずに行ったのですが、そこは地元の市民ボランティアの拠点の一つだったのです。
ボランティアたちは皆地元の人たちで、自らも津波で家を失ったり20キロ圏内の自宅に住めずに、市内に借りたアパートや仮設住宅に住んでいる人たちでした。
 その日の昼過ぎに岐阜からの支援物資が届くのを待って、すでに届いて仕分けしてある物資と共に数台の車に積み込んで、数台の車に分乗して鹿島区の仮設住宅に向かいました。
岐阜から届いた支援物資は、豆腐でした。
これはウルグアイに移民で渡った日本人たちが畑で作った大豆を支援物資として岐阜に送り、それを岐阜の業者が豆腐にして送ってくれているのです。
だから豆腐のパッケージを詰めた段ボール箱には、「ウルグアイの豆腐」と印刷されてありました。
何ヶ所かの仮設住宅を回って物資を配り終えての帰り道、大留さんは津波の爪痕が生々しく残る地域を案内して回ってくれました。
 翌日から社協のボラセンに行く時には、大留さんが車で送ってくれ「帰りも電話くれたら迎えに行ってあげるよ」と言ってくれ、ボラセンに通った2日間送り迎えをしてくれました。

●ボランティアセンターで
 ボラセンで私がしたのは写真の洗浄作業でした。
男性たちは瓦礫撤去作業に関わる人たちが多く、写真洗浄は数名の女性と男性も1、2名いました。
以前からこの作業に関わっているリーダー格の女性から、汚れた写真をウェットティッシュで拭って、汚れを取るように指示されました。
擦り方を強くすると、写真そのものがダメになってしまいます。
男性の一人はキャノンを定年退職した人で、ウェットティッシュで拭うよりもそっと水で洗った方が良いと洗浄の仕方をアドバイスしたのですが、リーダーのやり方は社協からの指示のようで、その指示通りにしないとならないということでした。
でも男性と他に何人かは、こっそり男性のアドバイスに従いました。(もちろん私も)
 お仕着せの決まり通りにやることが、大きな矛盾をはらんでいる。
こんなことは他でも経験していたことです。
私は遠野まごころネットには7月以降も何度か通って、様々なボランティア作業に関わりましたが、ある時こんなことがありました。
支援物資で送られてきた蚊取りベープマットを仮設住宅に配りに行ったのです。
ボラセンを出る時に、係りの女性(日赤の看護師さんでした)が「お配りしながら、被災者のご要望やご意見を聞いてきてください」と言われました。
 86歳で一人住まいの女性に物資を渡しながら「何かお困りのことは?」と尋ねると、彼女は言いました。
「もうじきお盆だけど、私が墓の草取りや掃除をしていたのだけれど、今年はそれができません。掃除をお願いできないでしょうか」
 夕方ボラセンに戻るとそれぞれ係りの人にその日の報告をするのですが、私が86歳の老女からの要望を伝えると、係りの女性はキッとした顔で「墓掃除がボランティアの仕事ですか?」と言いました。
被災者のいうことをなんでも聞けば良いとは思いませんが、でも、その時の係りの態度に私は、「ボランティアって何様?」と反感を持ちました。
●六角支援隊
 そんなこともあって南相馬社協のボランティアには翌月も行きましたが、10月になってからは大留さんたちの「六角支援隊」の活動のみに関わるようになり、いろいろなことをしてきました。
私が関わってきたのは、冬用の下着購入や衣類集め、ビニールハウスや畑作り、試験田での田植えと稲刈り、床屋とネイルサロン、落語会、ぬいぐるみ講習会、伝統食の「べんけい」「柿餅」作りなどなどです。
 皆さんのお話を聞く中で、たくさんのことを学びました。
もともと私はボランティアがしたくて通い始めたのではなく、「知りたかった」のです。
福島の人たちはどうしているだろう?みんな避難できたわけではないだろうに、どうしているだろう?それが知りたかったのです。
大留さんたちと一緒に支援物資を配りながら、被災者の皆さんからお話を聞かせていただいてきました。
聞けば聞くほど、私はなんと、ものを知らないまま馬齢を重ねてきたのだろうと、思うばかりでした。
 お一人、お一人の来し方の中に、日本の歴史が詰まっているようでした。
知らずに過ぎてきた“東北”の、福島の歴史が詰まっているようでした。
大留さんはじめ、皆さんの生き方から学ぶことも多々ありました。
六角支援隊に関わることができて、幸いでした。
●六角支援隊の活動を閉じて、それから
 六角支援隊は、仮設住宅を撤去する人たちが増えてきた2016年に活動を閉じました。
それからもまだ仮設住宅に残っている人たちが居ましたし、私は通い続けていました。
南相馬の仮設住宅は鹿島区、原町区に20数ヶ所ありましたが、私はそれらのすべてに通ったわけではありません。
通ってきた仮設住宅から知り合いが居なくなるたびにそこには通わなくなり、仮設を出てからの移動先に訪ねたりしています。
 今年の5月の連休で、最後まで通っていた寺内塚合仮設住宅も住む人はいなくなりました。
六角支援隊の大留さんも、歳を重ねて少し元気が無くなっています。
一昨年の1月に訪ねたのは、ちょうど私の誕生日でした。
私が「今日は誕生日です」というと「幾つになったの?」と聞かれ「72歳」と答えると、「そうか。あの年(2011年)僕は一枝さんの歳だったんだよなぁ」としみじみと言いました。
 六角支援隊は、もともと南相馬に産業廃棄物処理場建設計画が明るみに出た時、それに反対する人たちが立ち上げた産廃反対運動のメンバーだった人たちです。
 反対運動の会長が大留さん、事務局長が元市長の桜井さん、宣伝部長が希望の牧場の吉澤さんでした。
 これまでよりは私の南相馬通いは間遠になるでしょうが、大留さんや他にも会いたい人たちが何人もいますから、通い続けようと思っています。
月末に、また行くつもりです。
●トークの会「福島の声を聞こう!」
 私自身が被災地に通ってみて、多くの人に現地を踏んでほしいと思うようになりました。
私自身が被災者の方達から話を聞かせてもらう中で、多くの人にこの話を聞いてほしいと思うようになりました。
でも、たまたま私は現地に通うことができる状況にあるけれど、誰もがそうではないことは、よく判っていました。
それなら、現地の方を東京にお呼びして話をしてもらおうと思ったのです。
当事者が直接自分の声と言葉で語るのを、聞いて欲しかったのです。
 懇意にしているセッションハウスの伊藤さんに相談すると、快く会場を無料で提供してくださり、主催「セッションハウス企画室」としてやっていただけることになったのです。
こうして、トークの会が始まったのでした。

 トークの会「福島の声を聞こう!vol.32」
日 時:9月27日(金)19:00〜21:00(開場は18:30)
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町158 2F)
参加費:1,500円(参加費は被災地への寄付とさせていただきます)
主催・お問い合わせはセッションハウス企画室へ 03−3266−0461
   mail:session-house.net www.session-house.net
 今回のゲストスピーカーは、原発事故後に間をおかずに福島市から東京へ母子避難した岡田めぐみさんです。
知人もいない東京へ避難してきましたから、当初は孤立無援で大変でしたが支援団体や地域のママたちに助けられて、2012年夏には被災当事者地支援者をつなぐ「むさしのスマイル」を立ち上げて、今も被災者と支援者、また福島から各地へ避難した人と福島に在留している、あるいは一旦避難して帰還した人とを結ぶ活動をしています。
避難の恊同センター世話人でもあります。
 メグちゃんの話を、多くの人に聞いていただきたいです。
皆様のご参加をお待ちしています。              

いちえ

vol32-5

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