Karlův most カレル橋(プラハ:チェコ共和国)
ヨーロッパの街は、路地と広場、そして川と橋で成り立っている。
ヨーロッパを旅する楽しみは、猫のようにしなやかに路地を巡り、鳥のようにたおやかに広場を見渡し、ロバのごとく泰然として橋を渡ることにある、といっても過言ではない。因みに映画『アマデウス』(ミロス・フォアマン監督、1984年)の屋外ロケは、そんな中世の面影を色濃く残しているプラハで行われたのだそうだ。
はじめて百塔の街プラハを訪れたのは、1997年。季節は冬の気配がただよい始めたばかりの晩秋。
プラハもまた路地と広場、そして川と橋の街であった。
チェコを代表する作曲家スメタナの『わが祖国』第2曲「ヴルタバァ」(ドイツ語名モルダウ)は、日本人にも馴染みが深い交響詩である。街角のレコード店で『わが祖国』のCDを求める。たちまちにして10枚ほどの『わが祖国』が目の前に並べられたのには驚いた。その前に立ち寄った本屋のショウウィンドウがカフカの全集で飾り付けられていたことにも、ある種の感動を覚えたのであるが、日本の書店のウィンドウが夏目漱石の全集で覆い尽くされている光景など、ついぞ眼にしたこともない。
さて、気さくな店主に「君のお薦めは?」と促すと、即座に1枚のCDを指さした。迷うことなく、私はそれを買い求めた。
ヴルタバァ川に架かるカレル橋(全長516メートル)は、16連のアーチから構成されているヨーロッパで最も古い石橋(1400年完成)であり、プラハの街を象徴している。

ローマカトリック教会を批判して1415年に火あぶりにされたヤンフス像と聖ニコラス教会のある旧市街広場
ヨーロッパの路地では骨董屋をよく眼にする。フィレンツェの雑然とした額装屋で見つけた古い木組の額、イスタンブールの骨董屋の棚の中にホコリに隠れるようにまみれていた木製手鏡、パリの蚤の市で偶然眼にした真鍮のブレスレット……、それぞれのモノにはそれぞれの物語が宿っているように思えた。
プラハで老婦人が経営する骨董屋で見つけたのが、銀製の懐中時計。時計蒐集という高踏趣味など元より持ち合わせてはいないのだが、この懐中時計だけは一目惚れだった。

曰く言い難い淡いブルーの文字盤に、黒のローマ数字と繊細な装飾を極めた長短の針。一瞬にしてその気品に魅せられた。
裏蓋を開けると中蓋に刻印された「ANCRE 15Rubis」の文字。後日知ったところによると、15個のルビーの石で創られたスイスのアンクル社製のものだとわかった。さらに中蓋を開けると、幾つもの歯車がかみ合い起動している様は、まさに匠の美そのものである。
この懐中時計は、男には決して似合わない。仮に男が持っていたら気障なことこの上ない。無論、私自身がこれを身につけることもない。この懐中時計の持主が、わけありの貴婦人であったと想像してしまうのは、男の身勝手な思い込みにすぎないのであろうが……。
あれから12年。いまでは忘れ去られたかのように書棚の片隅に置かれたままになっている懐中時計だが、時折、思い出しては竜頭を巻いてみる。文字どおり時を刻む歯車の音が耳に心地良い。
その音に誘われるようにして、朝靄が暗く立ちこめたヴルタバァ川に架かるカレル橋が、記憶の底から立ち昇ってくるのである。 (写真と文:村石 保)

相生橋(広島市)
「……ギラギラと炎天の下に横わっている銀色の虚無のひろがりの中に、路があり、川があり、橋があった」
「原子爆弾」とは、人類が造ったものには相違ないが、「グラウンド・ゼロ(爆心地)」とは、その人類の想像力をも及ばない不条理にほかならない。
アインシュタインの相対性理論による原子力エネルギーの公式(E=MC2)を刻んだ箱を抱えた少女のレリーフ(広島市立高女原爆慰霊碑)に、ヒトは何を見るのであろうか。
その慰霊碑に頭を垂れるご老人を目撃したが、シャッターを押すことにためらいがあった……。
相生橋……。この橋について、ひとりの観光客に過ぎぬ私に、何が書けるというのであろう。また、これらの写真は、しょせん観光スナップに過ぎないのである。
原民喜は、そんな観光客の感傷などには、およびもつかない自らの被爆体験を、小説『夏の花』に著した。
「……そして、赤むけの膨れ上った屍体がところどころに配置されていた。これは精密巧緻な方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置き換えられているのであった」(原民喜『夏の花』新潮文庫より)

ヒトが模型的な機械的なものに置き換えられるという、新地獄=不条理がそこに存在する。その不条理に真っ向から対峙した詩人・原民喜は「賛歌」に記す。
賛歌
濠端の歩道に散りこぼれる槐の花
都に夏の花は満ちあふれ心はうづくばかり憧れる
まだ邂合したばかりなのに既に別離の悲歌をおもはねばならぬ私
「時」が私に悲しみを刻みつけてしまってゐるから
おんみへの賛歌はもの静につづられる
おんみ最も美しい幻
きはみなき天をくぐりぬける一すぢの光
破滅に瀕せる地上に奇蹟のやうに存在する
おんみの存在は私にとって最も痛い
死が死をまねき罪が罪を深めてゆく今
一すぢの光はいづこへ突抜けてゆくか
(「青空文庫」http://www.aozora.gr.jp/ より)
1951年、原民喜は自らの命を、鉄路に絶った。享年46。同年、私はこの世に生を受けた。橋の上ですれ違うことは遂におとずれることなく、私は原民喜の享年をはるかに超えた。そして一冊の『夏の花』が残った。
奇しくも新潮文庫版『夏の花・心願の国』(1973年刊)の大江健三郎による解説のタイトルは「原民喜と若い人々の橋のために」とある。
「……人間的な闘いをよく闘ったうえで、なおかつ自殺しなければならなかったこのような死者は、むしろわれわれを、狂気と絶望に対して闘うべく、全身をあげて励ますところの自殺者である」と大江健三郎は書いている。
累々たる不条理の死を励ましとして、われわれもまた、この橋を渡らなければならない、この世を生きねばならない。 (写真と文:村石 保)
Ponte degli Scalzi スカルツィ橋(ベネチア)
ベネチア(英語名: ベニス)は、「水の都」として、つとに名高いのだが、実際に歩いてみると、やはり路地の街、いわば迷宮の都という風情が色濃い。光と影が交錯する石畳の細い路地をあてどもなく経巡り迷っていると、突如として目の前に群青の空が開け、そこが小さな広場だったりするのである。
広場には、1本の樹と2つのベンチが極当たり前のように配置されていて、一心に読書をしている青年を目撃することになるのであるが、まさに、こんな魅惑的なシーンに出くわすから路地から広場に至る散歩は、至福に満ちているのであろう。
凡庸人にしてこうであるのだから、ベネチアが小説や映画の恰好の舞台にもなっているのも当然。
キャサリン・ヘップバーンの『旅情』(デビッド・リーン監督)は、メロドラマの神髄を極めていたし、最近では『007 カジノロワイヤル』が記憶に新しいところ。海中に崩れ落ちていくビルという途方もないシーンも水の都ベネチアならではなのだが、やはり沙翁の『ヴェニスの商人』とトーマス・マンの『ヴェニスに死す』が他の追随を許さないであろう。

何れも映画にもなっていて、とりわけヴィスコンティの『ヴェニスに死す』は映画史にその名を残している。
主人公アッシェンバッハを演じたダーク・ボガードの、いわば倒錯的な眼差しの演技と冒頭のアドリア海を客船が、マーラーの「交響曲第5番」に併せて、まさにアダージョで航行する奇跡のような美しいシーンを思い出すだけで、目頭が熱くなってくる。
映画『ヴェニスに死す』は、トーマス・マンとルキノ・ヴィスコンティとグスタフ・マーラーという3人の天才が為し得た美の極致にほかならない。
……と、本来ならば橋のことを書くべきところ、映画に話が及んでしまった。つまり、迷宮は我が脳裏に及びということであろうか……。 (写真と文:粗忽堂)
LE PONT DES ARTS ボンデザール(芸術橋)
クリスマスイヴの昼下がり、モンマルトル墓地を訪れた。
映画監督フランソワ・トリュフォーのお墓参りは、この旅の目的であった。
故人に手向けるための花束をたずさえた墓参の人たちとすれ違った。
スタンダールやデュマ、ユトリロやハイネ、ニジンスキーといった、きら星のごとく芸術家たちが眠る公園のように大きな墓地ではあったが、目的のトリュフォーのお墓を探すには、さほどの時間も要しなかった。

「FRANÇOIS TRUFFAUT 1932-1984」と刻印されただけのシンプルで大きな墓石。
すっかり葉を落とした樹影が、黒い御影石のスクリーンに映し出され、赤いバラの花束が手向けられていたのが、いかにも「ロウソクの3部作」の監督らしくもあった。
この花束を手向けたのは、トリュフォーのファンであろうか、それとも恋人か……。『大人は判ってくれない』をはじめとする、彼の映画のシーンが走馬燈のように去来した。
帰途、ポンヌフ駅で下車して左岸を歩いた。目の前にセーヌを象徴するかのような美しい鉄橋・ボンデザール(芸術橋)が冬の曇空に架かっていた。その名のとおり、この橋には多くの芸術家たちが、夜となく昼となく行き交ったのであろう。
橋はまた、もうひとつの「芸術」のための舞台である。(写真と文:粗忽堂)
LE PONT-NEUF ポン・ヌフ橋(巴里)
おそらくはセーヌ河に架かるポン・ヌフ橋だと思うのだが、15年以上も昔に撮った写真なので記憶が定かでない。LE PONT-NEUFは、「新しい橋」という意味だそうだから、さしずめ巴里の新橋といったところだが、400年以上も昔に架けられたセーヌで一番古い橋だとも聞く。たぶんシテ島(セーヌの中州)から撮ったものだろう。だからセーヌという大河にしては、河幅が狭いのかもしれない。果たしてこれがポン・ヌフ橋だとするなら、対岸の大きな建物はルーブル美術館に相違ないのだが……。自分が押したシャッターの記憶と焼き上がった写真との乖離をこれほどに感じたこともない。此岸から彼岸へいたる橋には、渡った人の数だけの記憶が行き交っている。にも関わらず、私の記憶だけが、いまもシテ島に取り残されているような気がしてならないのである。(写真と文:粗忽堂)